すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

聖書でなくて;京大SF幻想研『伊藤計劃トリビュート』感想

 11年の京都大学SF・幻想文学研究会のかたがたが出した、『伊藤計劃トリビュート』の感想です。1万8千2万字くらい。

 同人配信販売サイト『パブー』にて、電子書籍(改訂済み第二版)を入手することができますそして『パブー』は9月30日閉店予定、いそぎましょう。(1003追記 この感想をアップした翌月、9月3日のお知らせにある通り別運営会社に移管され、サービス自体は継続されているみたいです! デマ言ってすみませんでした)

 

※以下、『伊藤計劃トリビュート』と伊藤計劃作品のネタバレした感想が続きます。ご注意ください※

 

約言

  凄かったし面白かったし好きですね。

内容;伊藤計劃氏へのトリビュート作品集です、一次創作。

記述;悲劇に喜劇、学園に会社、社会に家庭。一人称二人称三人称、伝記調、講演調なんでもござれ。

ここ好き;『死者の時制』のすごい芸術のすごさを比喩に逃げず記述する態度、『量子の海のカルペディエム』の文体とガジェットの転がしかた、『TPoH』のガジェットや社会の書き込みと転がしかた、『感情の楽譜』の死のわからなさ具合、『美亜羽』の全て、とくに「聖書」のあつかい。

 

 ざっと感想

 感想を検索かけてみると読んだ人それぞれ好きな作品がバラバラなのですが、ぼくが好きな作品もそのかたがたとは違う作品で、つまり読めばどれかしら刺さる作品がある、幅広い球のそろった作品集と言えましょう。

 

 どれも面白いと前置きしたうえで、未読作のなかでいちばん惹かれたのは『量子の海のカルペディエム』でした。

 いうなれば量子『ファイト・クラブ』。劇中独自のSFガジェットについて初手から裏技的使い道を紹介して劇中世界でどれだけ馴染んだ技術か描くところや、ガジェットの必然からくる文体のトーン切替が気持ちよかったです。

 けれど、トリビュート・オムニバスとしての楽しみを感じたのは、むしろそれ以外の作品たちなのでした。たとえば子どもたちと同調圧力の息苦しさのあつかった作品が複数あって、それぞれの料理のちがいを味わうだとか、そういった集団制作の面白さを感じます。

 続きものではないからどこから読んでも大丈夫。ですが、この作品の次があの作品、というような配置の妙による面白さもあったので、順繰りに作品を読んでいくのもおすすめです。

 

 発行時点ですでに作家デビューをしていたひとも複数いた(!)し、その後ほかのかたがたも実績を上げているようです。趣味趣向や志をある程度おなじくした人々が出会い集まり語り合い、じぶんひとりでは目を向けなさそうなことにも他人と接したことで関心をもって、じぶん自身の言葉を築き上げていっただろう光景を想像して、『A.G.C.T. 』など新間大悟氏の同人作品を読んで、そこから後の伊藤計劃氏の作品(同人・商業両方)を思い浮かべたときのような気持ちになりました。平成元年1989年早生れのぼくは『トリビュート』執筆した彼らと同学年か少し上でしょうか(OPもいるから年下だったりもしますかね)、平成がおわった現在に読めて良かったです。もし当時入手していたとしても自意識が邪魔して読めなかった。まぶしすぎる。

 

 料理の仕方という点では、ブログなどを読ませてもらってるclementia氏(刊行後の記事ですが、この感想で話題にでた作品から選ぶとマイケル・マン評とか『ロボコップ』評とか楽しく読みました。)の『感情の楽譜』もまた興味深かったです。なにが入力されていたかやそれにどんなリアクションをされていたかある程度知っているひとが、実作としてどのような出力をしたのかを読む楽しみ。

 これは別に作り手が想定した楽しみかたとは違うと思いますけど、プロになると過去のサイトなどを消しがちなので、作家論的な楽しみかたはむしろインディーズのほうがやりやすいのかも(。でもこの楽しみはストーカーと紙一重だな……)。伊藤氏をまず小島秀夫監督ゲームのファンサイト管理人として・映画レビュアーとして・はてなブロガーとして知っていた方が『虐殺器官』を読んだときの気持ちは、もしかするとこういうものだったのかなぁなんて思います。

 うん、そうですね、伊藤氏ですね。タイトルがタイトルなので、かれやかれの作品のことを思いうかべながらの読書となりました。

 

 円城塔氏が書き継いだ『屍者の帝国』を読んだときも、フジテレビのアニメ映画化やそこから動いたコミカライズを観たり読んだりしたときも、麺処まるわさんによるコラボラーメン店主へのインタビューはこちらを通販して食べたときもそうでしたが、ほかの人の伊藤氏(作品)のとらえかたを見ることによって、自分が伊藤氏をどうとらえていたのか輪郭をはっきりさせたり、自分が伊藤氏のどこが見えてなかったか・自分の視界外にどんな魅力があったのかを覗けるのは楽しいですね。

 

 伊藤氏の魅力を再発見して終わり? 楽しいだけ?

 いやいや、そんなことはないのです。そんなだけでは済まない読書となりました。

 

各作について

 巻頭言

  あついスローガンです。いま読むとあついだけではないとわかる。

 そしてこの中の一人、二人、あるいは何人かが、十年後のSF界の中核にいると、私は確信している。

   伊藤計劃トリビュート』p.7「巻頭言」より

 これが若気の至りの大言壮語じゃないことはその後の活躍が示しつつある通りですし、他人まかせの放言でもないことも『なめらかな世界と、その敵』で曽根氏*1に贈られた謝辞を読めばわかる通りですね。本を編みつづけること、手を動かしつづけることのえらさ。

 

 

 こわい/かわいい汗;『echo』

 道徳や協調がたっとばれ(学校の授業でも取り上げられ)、ハード面としても脳内ミラーニューロンを刺激して人々を共感の糸で結びつける微小機械<エコー>*2を高校生卒業までに入れる世界。そこで優という名前の優しくない子が、転校生の噂を耳にして……という話。

 大人になったら体に入れられるナノマシン。いっしょに自殺をするも失敗し大人に告げ口した人とそうでない人が分かれること。人々を傷つけないよう築かれた劇中独自のSFガジェットが、思いもよらないかたちで悪用されてしまうこと。そして落下の魅惑……『ハーモニー』のオマージュ要素がつよい作品でした。

 『echo』は幕開けにぴったりの作品です。伊藤計劃読者にとって耳なじみある音を出してくれるので、取っつきやすい。ぺらぺらとページを進めてしまえる。勝手知ったスーパーマーケットを歩くように。でもそうしていくうちに、これは輪唱ではないぞと、独自のテーマを持ったまったく別の作品なのだと読者からへらへらニヤケ面を奪い、用心して歩くよう身構えさせる。そういう入り口としてぴったりの作品です。

「でも、自分の想像力の外に子供が出て行ってしまったら、親はどうすることができるんでしょう」

    早川書房刊(ハヤカワ文庫JA)、伊藤計劃著『ハーモニー』kindle換算39%(位置No.3981中1517)、<part:number=02:A Warm Place/>

 『ハーモニー』で集団自殺をはかった高校生のひとりミァハの母はそう言って、セッションなどを通じて道徳を育むことだけによる人心のコントロールの難しさを嘆きました。

 他人がどんなことを考え、感じているかを想像するところから道徳は始まります。

   伊藤計劃トリビュート』p.15、「echo」より

  『echo』で教師はこのように生徒へ説きます。

 『ハーモニー』の少女らは思いやりの欺瞞を突いた。じゃあ、ミラーニューロンの人為的な強化が行えるようになり、ひとびとが他人の行いにたいして同調能力を増した世界であればどうなるか? ……それが『ハーモニー』を出発点とした『echo』の疑問ではないでしょうか。

 

 <エコー>や<ホーム>といった劇中独自のSFガジェットについて説明も大人の出番も最小限に、主役ふたりの関係性を描いていきます。それぞれ語調がちがったりして、キャラに個性があります。

 

 物語の中盤に川面にうつる鏡像に焦がれるナルキッソスの舞台劇があり、終盤には黒目にうつりこんだ鏡像のじぶんを見ながら落ちる現実の主人公の姿がある。その落下に至るまえ、周囲の人々が人形に見えてしまった主人公が恐怖し自室へ逃げ走る場面があるのですが、そこが複線的ですごいなあと思いました。

無我夢中で走ったせいか髪も制服もひどく乱れている。流れ出る汗が一滴、顎の先からシーツの上に滴り落ちた。

   『伊藤計劃トリビュート』p.25、「echo」より

  一読して、ファムファタルによる主人公の憔悴をえがくホラーなシーンですが、読了後に振り返ると、この汗はナルキッソスの陶酔した水面に向かう一滴のように思えてきます。

 

 『死者の時制』

 脳内の電気信号、人の文章や会話の深層に潜む概念を読み取って、人びとの理解している概念を表す言銘(リテラル)というテクノロジーにより、価値観の相違を理解することができるようになった世界で、リテラルを楽器にしはじめた二人の音楽家の軌跡を追った作品。

 三人称的・疑似歴史書的な文体です。贅肉がそげ落された文章で、たまに出てくるセリフのひとつひとつがパンチライン、印象的に響きます。

 奇抜な音楽の奇抜さ・すごさについて、比喩や聞き手の反応によって表すのではなく、(楽曲や演奏や楽器のアイデアや内容や技術など)具体的にどんなものか描くことでそれを伝えるタイプの作品です。

 劇中音楽家・木取による『反響する静寂』は、ソランジュ・マリオ著『とどのつまりは何も無し』の音楽版といったような、突き詰めれば「どう実作するんだ?」というような作品ですが、しかし反響定位を利用して7つ*3の音響がそれぞれ打ち消しあって無音となる/すこしずれただけで全く異なる音楽が響く……というメカニズム(本編の記述はもっと詳細です。)を聞くと、「実在しそうだ」と思えます。

 こうした奇抜な劇中音楽の具体的な描写が、もうひとりの音楽家の意味不明で奇抜な生活や、やはり音楽家であった母が聞かせてくれた子守唄などと響きあっていく物語構成が見事です。

 

ネットワークから切り離された不自由さをしばらくは楽しんだようだが、すぐに自らの仕事の邪魔になると感じたのか、家事の一切をディアに任せている。初日に設定された行動――洗濯機の稼働タイミングや食事内容のバランス設定は以後六年間、一切の変更のないまま放置された。

   『伊藤計劃トリビュート』p.32、「死者の時制」より

 好きな場面はここですね。「あるあるだわ。いろいろ出来ても面倒なので触らないきりになるよね……」と共感していると、読み進めるにつれそうではなくて、劇中人物の必然のようにも思えてきます。生きることへの無関心のようにも。 日常の強固さ、身体のかたくなさのようにも。

 

 

 歯車の隙間から漏れ落ちる;『量子の海のカルペディエム

 前述のとおり量子力学版『ファイト・クラブ』。(バスター・)キートンのドタバタ喜劇をおもわせるピタゴラ装置的な起床に始まって、次第に主人公が頭が一文字キちがいのエドワード・)ノートンに見えてくる、物語や文体のトーンのきりかえが気持ちよかったです。

 冒頭からしてすごい。失敗を未然に防ぐスゴい技術が民間人もつかえる保険として普及している世界で(劇中では実在する保険企業名をあげてます)中産階級の主人公は、大規模な失敗はやり直しがきくけど日常のささいなできごとはそうもいかない程度の契約プランで保険に加入しています。そこで、ささいな失敗も大惨事へエスカレートするようなDIY装備を整えることで契約の裏をかいて、寝過ごしを水に流し完璧な起床をしたり電車の乗り過ごしを水に流し完璧な通勤をする完璧な郊外生活を送ります。

 劇中独自のSFガジェットの使用について、その初手から応用技・裏技を披露することで、その技術が劇中世界にどれだけ馴染んでいるのかを描いてしまう。

 そういう引き出しをもってることがまずすごいですし、実作として形にできるのもなおのこと。たとえ「そういうことをやろう」と思いついたり手管として知識があったとしても、そうした演出のためにはいくつかのネタを前座としてさらっと踏み倒せるくらいガジェット(やその使い道など)についてさまざま考えなければ、そしてふかく突き詰めなければ、達成できないわけで……。

 

 劇中SFガジェットによる必然として、このガジェットに慣れ親しみ使いこなす劇中人物の当然として、文体が繰り返しも多く硬く安定したものとして築かれていて(時刻や秒針の刻みなどもその印象をつよめますし、前半だけに登場する「▼」から始まるニュース報道など公的な時空間描写もまた、ぼくがそう感じた要因でしょう)、そこから不意に訪れる「あはははははは」p.54のような裂け目がおそろしかったです。

 伊藤氏も読んでいたと云う佐藤亜紀氏の『小説のストラテジー』で取り上げられたようなディエーゲーシスとミメーシスのコントラスト、そんな用語や技法を知るまえに『ハーモニー』をひらいて、序盤の一言や終盤の異様な擬音の連発に驚いた初読時の感覚が思い出されました。

 

  とにかくモチーフ選択がうまくって、目覚まし時計、トラムが来ない、そして個人の寿命……と、時間を巻き戻す動機は、時間をめぐるトピックが多い。そしてそれぞれの原因をならべてみると、屋内の自分の意思に起因するもの、家の外の誰かの意思に起因するもの、海の外の交換不可能な存在の意思とは無関係のもの……と、距離が徐々に遠く、すくいようがない問題となってきます。

 失敗については落下がともなう。水槽の水がこぼれ、キーボードの残骸を窓にぶん投げ血管破裂で崩れ落ち、パソコン類カフェオレを床にぶちまけ窓を割って投身自殺する。

 天井の水槽はやり直しのトリガーとして冒頭で登場して以後、前半p.47と後半p.55とでまったくちがう風に部屋を彩り、物語のトーンをきめる照明・舞台装置として主人公の頭の上にたたずみます。

 幕引きに現れる情景p.59は、繰り返しやり直し最適解をすすみつづけるなかで、水に流されてきたさまざまな不正解の一つ*4でした。

 頬の触覚・匂い。なんてことない日常のなんてことない感覚がじんわり胸に沁みます。

 

 

 私と貴方とその間の間の間の間の;『The Pile of Hope』

 亡くなった双子の姉に代わって、臨時教諭をつとめるお話です。

 巻頭作『echo』と同様に『ハーモニー』オマージュの色がつよい。

 主役級の女子生徒の二人のうち一人がこちらもハスミ(蓮見。『echo』は蓮実)さんで、なおさら並べたくなるのかもしれません。

 『echo』とちがうのは、主役の女性たちは生徒ではなく、教師など大人であるという点です。

 『TPoH』はまず、劇中世界独自のSFガジェットにより、私の自意識についてを描きます。 

 生徒を"監督"するコンタクト型のSIM(学徒情報モニター)による"まなざされることの窮屈さ"を。あるいは、記憶の鮮烈な想起を可能とするMRD(強制記憶惹起装置)で、亡くなった姉との思い出を反芻する"私"の弱さを、「この姿を姉が見たらどう思うだろうか」と気にする自意識を。

 学生"監督"装置SIMの、『ハーモニー』の体内監視装置WatchMeの至近未来社会版といったはたらきは、とても説得力があります。劇中での若年層のテロを受けて発案・可決された、子どもを律する特別カリキュラム。そのハード面における成果がSIMで、この機械は生徒の言動を記録したりするものの、「もし”いま・ここ”にそういったガジェットが導入されたなら?」という仮定への当然の結論として、親御からの理解などとの兼ね合いから逐一監視するわけではなく、記録の仔細を教師が閲覧することも(危急のさい以外は)できず、生徒にとって"誰かに見られている"ことを意識させる程度の役割しかもたない――ハイテク版パノプティコン以上の役割のない装置です*5

 その一方で、このSIMは、生徒が教師を見ている限りすべて記録されるし、その記録を閲覧したり記録を反映した助言をすることも教師へはできる(『TPoH』劇中では、主人公が授業を脱線させるや否や、カリキュラム逸脱に対する警告が自分にだけ響く場面が登場します)――つまり教師にとってこそ”監視”装置に他ならない……そんな、額面の設計と運用してみての実態とにギャップの設けられた面白いガジェットです。

 『The Pile of Hope』のすごいところは、そうしたディテールを後半のためのレッド・ヘリングにできるところで、額面の設計と運用してみての実態という二面性からさらに、第三の顔が描かれていきます。(2020/01/15追記。現在も流通中ですし、申し訳程度ではありますがボカすこととします)

 『TPoH』は、伊藤計劃作品でこそ登場しなかったーーしかし、作家業がつづけば扱われたかもしれない*6)実在する科学的知見を補助線として一気に視点を高く視野を広げていきます。

 そうして顕わになる、単なる一生物としての人間のありよう、そしてそんな生態に対する身もふたもない関わりかた。これはゾクゾクする展開でした。

 

 かつて伊藤氏は「私のオールタイム・ベスト10の一本」映画『ファイト・クラブ』をこう評しました。

この映画が扱う題材は、いま、ぼくらが生きるこの消費社会での肉体と自我/狂気と去勢/はては「一瞬」と「人生」などに繋がる、外界と「私」の関係性です。その意味では、この映画は塚本晋也の一連の作品、特に「東京フィスト」に直結します。都市に住まう、肉体をひっくるめた「私」の存在、それがこの映画や「東京フィスト」が扱う「私」

   伊藤計劃個人サイト『SPOOKTALE』内「CINEMATORIX」内33「ファイト・クラブ」より

  その後も何度か、伊藤氏は社会を扱いたいということを言ってましたが、この作品からもそういった意気が感じられました。『TPoH』は、為政者・学校・生徒の保護者・生徒、さまざまな意向を汲み製作導入されたSIMのありようを語ります。舞台となる学校も、実在こそしませんが書き割りとしての学校ではなく、SIMを導入するような経営方針の起源――戦前の前身から振り返って語ります。

 そうした背景を語ることで、いかにここまでの出来事が個人ではどうにも動かしがたいものだったのかを、そしていかに「わたし」が内に籠り過去へ耽溺したかを、せざるをえなかったかを、語ります。

 

 蓮見さんはこちらに背中を向けていて、その前に綿守さんが跨がり、腕を、柔肌を、腰を、胸を、汗を、唾液を、髪を、涙を、そしておそらくは心をも絡ませる。二人の姿が、鏡に反射した夕暮れの暖色に紛れて、おそらくは官能的であるはずの二つの肢体を、ひどく非現実的な交わりに変えている。

   『伊藤計劃トリビュート』p.74、「The Pile of Hope」より

  主人公がすこしのあいだだけ関わりをもった、生徒ふたり。彼女らの逢瀬を見て、主人公は上記のとおり綴りました。これは後に語られる、幼き日の主人公と姉との抱擁と重なり合います。

 空は、夕陽の明るみを徐々に失わせていき、夜との境目で非現実的なグラデーションを生み出していく。なのに、こんなに繊細な色彩の暖色も、この家の冷たさをどうすることもできない。そのことが、わたしのうちから涙を無理矢理引きずり出そうとしてくる。

(略)

 そんなわたしを、姉は後ろからそっと抱き締めた。

(略)

 『わたしも泣き出したくなった。希、あなたの悲しみが何も理解できなかったから』

(略)

 二人だけでもいい、姉だけでもいい、それだけで、わたしは生きていけると、一体感を覚えながら、すっかり暗くなった家の中で、電気もつけずにじっと二人で寄り添っていた。

(略)

 『肌を重ね合わせて、そこに手を触れても、ただ熱を持った体以上の何かをわたしが理解できるはずもなくて。(略)』

 それはわたしの幻想だったのか。

   『伊藤計劃トリビュート』p.79、「The Pile of Hope」より

 手記(=『』内文章)によって語られた姉側の述懐は、主人公の記憶を裏切るもので主人公はショックをうけます。ただ、姉の言葉も、自身のショックも、MRDにより強く(=太字で)刻まれた記述によって後景に退きます。

 『TPoH』ラストまで読むと、本編といえる臨時教諭時代のことも現在進行形のできごとではなく、じつは10年近くまえを振り返っているようだということが分かりますけど、それゆえに、なおさらに、このふたつの夕暮れの抱擁シーンの差分がじんわりきます。

 主人公は社会が認めなくてもなお、自身の思いが裏切られてもなお、肯定しつづけるのです。「そしておそらくは心をも絡ませる」

 

 

 夢の感触;『猿に始まり、狐に終わるーーあるアカデミーでの講演から』

 ファンタジックでスラップスティックな味わいの一作です。

 ぼくには歯がたちませんでした。世の中にはわからないことがまだまだいっぱいあるものです。精進します。

  無理くり自分のなかの伊藤作品と繋げるのであれば『セカイ、蛮族、ぼく。』みたいなコミカルな作品と言えるんでしょうか。いやよく分からない。

 文体は講演調、インタビュー調、批評、第三者視点とさまざまな語りを横断し、劇中劇を積み重ねるような複雑さがあります。そうして語られるお話といったら正直なんだかよく分からない。

 分からない分からないと連呼しましたが、なんだかよく分からないなりにスラスラ読めてしまい、細部はびっくりするほど身近だったり気持ち悪かったりし、なんだかよく分からないなりに感動してしまうのが不思議なところです。僕にとっての夢というのは、こういう感触にとても近い。

 母がコーヒーに砂糖を何杯入れたか、洗濯物に複数の毛玉がついていた時いかなる対処をしたかなど些細なことに関してなら事細かに語ることはできます。しかし、彼女の学問上の業績については、ジョージⅣ教授をはじめ私などより詳しい方がたくさんおられます。

   『伊藤計劃トリビュート』p.87「猿に始まり、狐に終わるーーあるアカデミーでの講演から」より

 

 

 奇な夢、現の妙;『もしオクラホマ州の中年の電気技師が伊藤計劃の『ハーモニー』を読んだら あるいは、忘れた翼』

 ファンタジックでスラップスティックな味わいの一作です。

 その意味で『猿に始まり狐に終わる』に近い作品で、つまりぼくには歯が立たない系の作品であります。

 奇妙で夢みたいな展開が次々と出てくるのですが、ふって湧いたように出るのではなく、奇妙な現実を汲んだものであったり、起源へと遡って空白を見つけたうえで「ここに空白がありますから、このような奇妙が紛れ込んでもおかしくないのです」というような段取り。

 詳しくないのでアレですが、たとえば「一」で描かれる、後ろ歩きできるよう調教した鶏をニュース映画スタッフが取材するという少女の夢は、フラナリー・オコナーの幼き日の実話(実際のニュース映画もyoutubeで公式配信されているみたい。)から採られているようですし。

 大科学者たちの会食の席にとつぜん現れる孔雀についても、「"一"で描かれた夢のなかで孔雀が登場したからだ」やら「天井の雨漏りの染みから鳥を想像した描写があったからだ」やらで済ませずに、歴史を振り返って孔雀という存在自体の空白まで語ります。

 意識をもたない人間についてだって、「原作に出てくるから」「原作で説明されているから」で済まさずに、今作ではジュリアン・ジェインズ氏『神々の沈黙』をふまえた歴史の話をします。{『ハーモニー』が取ったような、「いくらみんなが手話で話したマーサス・ヴィンヤード島という例示があるとはいえ、"アマゾンの奥でわれわれは見た!"と『水曜スペシャル』で川口浩探検隊が言ってるのとどのくらい違いがあるんだろう?」と疑問がよぎる、ふって湧いたような民族を出すのではありません}

 円城塔が書き継いだ『屍者の帝国』もまた奇妙な、噓みたいなものを出すために起源へと遡り聖書の矛盾をついたり(遺稿草稿にあったわけではないでしょうけど、 スダリウムについての言及などからうかがえた伊藤氏の趣味を汲んだものではないかと思われます)、19世紀ロシアを思想面で支えた(けれど今みると知の巨人というより狂人の発想としか思えない)フョードロフのような嘘みたいな現実を掘り返していました。『虐殺器官』のジョン・ポールが述べること、そしてエピグラフの出どころであるパスカル・キニャール氏の著作もまた、起源をさかのぼり語源をあさり、異様なところを掘り起こしていました。

 

 『もしオクラホマ~』後半で描かれる、無意識の降りおろし。これは『ハーモニー』のそれとちがって天変地異となって世界を壊します。ヘンテコもヘンテコなのですが、人々の何気ない反応といった、小さくてそしてもっともらしい地に足のついたところから出発していって、読み応えがあります。

 山のうえから無意識が降りおりてきた。ガブリエル・エーディンは視線をあげ、はじめて御冷ミァハの顔を真正面から見つめた。いぶかしげに瞬きをして口を開きかけたが、舌先に載った言葉がなんなのか分からず、ますます怪訝な顔になった。

   『伊藤計劃トリビュート』p.112「もしオクラホマ州の中年の電気技師が伊藤計劃の『ハーモニー』を読んだら あるいは、忘れた翼」四より

 

 「五」で夢からさめた「わたし」は、そこに至るまでに描かれたいくつかの夢を見た理由について、二十年まえにニュース映画で見た少女が作家となってひらいた講演を聞いたからだと答えをだします。そして、「我が身の浅薄さを感じ」p.116させる彼女とも違えば、夢の中の世界の大科学者とも違う、「毎晩の深酒に酔いつぶれた四十すぎの一人者、学歴はなく教養は虫食いだらけ」p.116である自身を振り返り、 それでも「書く」と語ります。

 そんな姿を読んでぼくは、『舌の先まで出かかった名前』でキニャールが、舌の先まで出かかった言葉について、夢について、そして書くことについてこう語ったことを思い出しました。

 舌の先まで出かかった名前、それはノスタルジーでは抱きかかえられないものに対するノスタルジーだ。ノスタルジーが最初にある、なぜならば人間にとっては言語の欠如が最初にあるから。それは失われた対象に先立つ。それは世界に先立つ。このノスタルジーは、いつも遅れてやってくるその言葉たちとともに、自分よりも先に存在していたらしい一体感の幻想あるいは連続のイメージをでっち上げ、それらがでっち上げられたとたん、対象はくっきりと浮かび上がり、自分の出どころとしての身体の全体の形が魅惑しはじめる。夜は言葉の源だ。そこには存在しないものの幻覚をもたらす夢が言葉を生じさせる。こうして、その源にある恐るべき夜、近づきがたい夜は言葉の宿命となる。目に見える肉体を求めていると思っている欲望でさえも、この夜に帰依している。自分が今抱いている肉体のなかに欲望が求めているのは、みずからの欠損なのだ。舌の先まで出かかった名前をかかえている人のまなざしが注がれているのはこの夜なのだ。彼は自分の夢を待ち伏せしている。そもそも非現実的な充足を夢見ているのだ。小説(ロマン)は論説(ディスクール)よりも本当のことを語っている。論考(エッセ)はいつも舌足らずで、その沈黙の夜を逃れて一目散に言語と恐怖のなかに駆けこんでしまう。それは酩酊のなかに沈むことのできる苦痛であり、著作のなかに沈むことのできる苦痛だ。

   青土社刊、パスカル・キニャール著『舌の先まで出かかった名前』p.74-5、「メドゥーサについての小論」

 スフィンクスの前では、答えられなければ死ななければならない。精神の現前(プレザンス・デスプリ)〔当意即妙〕の反対が階段の精神(エスプリ・ド・レスカリエ)〔後知恵〕だ。いかにして謎に答えるか、ありていに言えば、いかにして自分に鏡を向けるか? 舌の先ならぬ、紙の先まででかかったひとつひとつの言葉に対して回帰する時間を持つこと、それが書くことだ。書くこと、それは失われた時間を工面すること、回帰の時間を工面すること、失われたものの回帰と連携することだ。そのとき感動は記憶をよみがえらせる時間を得る。記憶は戻ってくる時間を得る。言葉は見つけられる時間を得る。起源はふたたび茫然とさせる時間を得る。面は顔を取り戻す。

   パスカル・キニャール著『舌の先まで出かかった名前』p.104、「メドゥーサについての小論」第四部より 

 

 

 白黒のなかに爆ぜる赤;『感情の楽譜』

 身体に入れたSympatyScoreという微小機械によって身体の生理的作用をことごとく監視され、周囲の人間と共有・比較し、大多数並みとなるよう正しく調整していくことが当たり前になった世界で、友人を亡くしたぼくのお話。

 劇中世界ではそのほか網膜上に映像を映す技術も誕生しており、それと結びついて体感型の芸術が表れつつある。

 SympathyScoreと網膜映像が芸術と結びつくのは、『死者の時制』の言銘(リテラル)とそれを楽器にしたニュー・アンビエントの流れにも似てますが、退廃的な性的・暴力ポルノとしての色がつよい。また、どれだけSympathyScoreに耽溺しようと『echo』の終盤とはちがって、実体的な死への引き金とはならないみたいで、日常の強固さ(異常さえもがその枠内におさまるゆるがなさ)が閉塞感を強めます。

 ぼくは著者のclementia氏のブログなり何なりの読者で、関心事がすこしはわかっていたので、実作との関係に意識が向かいました。

 事件はすでに起こったあとで、べつにそれが誰かの差し金による巨大な陰謀があったとか明かされるというわけでもなければ、事件がおきた理由だとかが判じられるというわけではない。一見すると内省的で静的な作品に思えますが、活劇の魅力があります。

  (脱線)

 雨が降ったら傘を差す、そんなしごく当然のふるまいが映画館の大画面で映されるたびに罵声を浴びせつづけたかたがいます。雨が雨として降り、傘が傘として使われることで雨水に濡れるのを避ける……そんなカメラを回さずとも分かってる当然をわざわざ映してどうするんだと。

 いまはなきジオシティーズの、すごい批評眼の持ち主であった藤村隆史氏による個人サイト『映画研究塾』。そこで藤村氏は、因果にとらわれない・むしろ逆転したような展開(たとえば鮮烈な結果のために、因が無理くりなかたちで準備されたり。)を活劇のひとつとして、その面白さを語っていました。その具体例が古典的ハリウッド映画の雨の使いかたで、傘をささず雨に濡れるに任せるヒーローたちの肌や服のかがやきがフィルムに焼き付けられていること、それを彼は讃えました。

 「上映n分で席を立つ」といったようなかれの映画への態度は、蓮實重彦氏へ私淑した結果で、『映画研究塾』に立ち寄ったひとのなかで蓮實氏を知る人は「蓮實のマネかよ」とそのままブラウザバックしました。蓮實氏を知らない人は「なにこの人こわい」「何様なの」とやっぱりブラウザバックしました。けれど『映画研究塾』を読むひと、雑に切り捨てず長文を読んだ人の見解はちがいました。「藤村隆史はここからが強い」かれが蓮實氏ばりに映画へ熱心で、それでいて蓮實氏とはまた違った方向へ進んだ一人立ちした批評家であることがわかったはずでした。

 clementia氏はそんな『映画研究塾』を読みつづけた一人です。

  (脱線終わり)

 さて『感情の楽譜』の序盤を読んでみると、傘を傘として扱わない光景をみとめることができます。

 『映画研究塾』が蓮實氏と違う独自の道を歩んでいったように、今作も『映画研究塾』の集積とはまた違った独自の文脈を築いています。

 『感情の楽譜』の傘は、雨もふらず同窓会のように騒がしい通夜の席で、陰をまとったヒロインを際立たせる小道具でした。

 そしてこの作品のベースカラーを築きます。喪服に黒い傘、葬儀のハレの日をモノトーンで始めた『感情の楽譜』は、ケの日常もまた「パリッとしたスーツ、白いシャツ」p.131などモノトーンで染め、白黒の主観映像で締めくくります。「色白の美少年」p.120、亡くなった彼の外見描写さえもがそうした雰囲気醸成の絵具です。

 そんなモノトーンの世界のなかで時おり激情が挿し込まれます。

 死んだように見える絵澄の目は真っ赤で、熱が迸っていたのだ。

   『伊藤計劃トリビュート』p.125「感情の楽譜」より

  ちらついた赤は、やがて紙面いっぱいにぶちまけられます。

 「情熱の焔」p.130を宿し「自分の血でできた口紅を塗りたく」p.130った語り手が、爆弾を次々と爆発させて、逃げ惑う人々の顔を「紅潮」p.131させ、血の「赤い顔拓」p.131や「内臓を見せつける建物」p.131を次々つくる……赤や赤を連想させる比喩の怒涛の連打。

  青い闇さすイスラム教の幾何学模様にポロックめいた赤が走り、白い百塔の町の石畳の下から人工筋肉がうごめくさまを幻視する『虐殺器官』、パステルカラーでぼんやりとした近未来建築に鮮血が走る『ハーモニー』。伊藤氏に惹かれたのは、そのイメージ喚起力のたかい描写力にもありました。*7

 語り手自身も劇中人物の仮装をしたり更には既存フィクションの登場人物のセリフをなぞると明示したりするとおり、そのシチュエーションは丸きりのオリジナルというわけではないけれど、しかし、たしかにかれ自身のかれだけの声だとぼくには思えました。

 

 

 聖書としてでなく;『美亜羽へ贈る拳銃』

 科学が発展し、体内のインプラントによって個人の性格まで操作できるようになった世界。古参の医療コンプレックス神冴の末っ子・士郎*8は、かれの兄で神冴から出奔した天才・光希*9の結婚式で決定的な出会いを果たす。社会を一変させることなる、兄とその新婦が銃を向けあう光景ーー互いが互いを愛するよう医学的・化学的処置をおこなう銃ウェディングナイフのお披露目――と。そして、じぶんにナイフを向ける兄の義娘・美亜羽と。

 

 『虐殺器官』の痛覚マスキングや子ども兵の殺人を可能とする戦闘時適応調整、『ハーモニー』のナノマシンによる脳の報酬系の操作。そういった感情を意思を操作する技術が発達・普及した世界であれば、社会のありようや愛の形も全く変わってしまうんではないか? そんなエクストラポーレーションの光る作品です。

 

 お話も語り口も二転三転する展開がすごくって、独り立ちした作品群のなかでもひときわ一本の作品として面白い、伊藤氏関係なしに。ですが、多岐に渡った伊藤計劃作品からの引用・参照・発展から、『トリビュート』のなかでもいちばん伊藤氏に拠って立っているようにも思える。長編作品だけでなく、『MGS』ノベライズまで、それどころか短編も、とうれしい驚きでした。

 

 

   (余談)劇中「聖書」の扱いと自分語り

 とにもかくにも凄い作品ですし、そのSF上文学上の業績については、ぼくなどより詳しい方がたくさんおられます。その辺は誰かが語ってくれていることでしょう。各自おググりいただきたい。(現在発売中の『S-Fマガジン2019年10月号』には「伴名練総解説」という、名だたる作家・訳者・批評家さんによる解説記事が載っているらしいです)

 

 なのでぼくが書くのは自分のことです。

 個人的に刺さりまくった「聖書」のあつかいについて書きます。

 伊藤計劃作品は、グレッグ・イーガンテッド・チャンの著作とおなじく)『美亜羽』劇中世界の「聖書」となっていて、それを伊藤計劃にかんする当時の風潮の単なる茶化しとしてではなく、そこに含まれていた狂信的な部分もふくめて拾ったうえで、劇中世界の社会にとって劇中人物のドラマにとって必要不可欠なガジェットとして転がし機能させきっています。その腕力が刺さりました。

 伊藤氏は当時、死後「伊藤計劃以後」やらなにやらと印象的なキャッチフレーズの特集が組まれたりして、売れに売れた作家でした。自サイトに書き溜めた伊藤氏の映画評を熱心なファンがリスト化しまとめられたり、それを出版社がそのまま利用して、雑な体裁のコラム集として発行されたりもしました。

(彼の自身運営のサイトの文章のほうが、章立てがしっかりして読みやすかった。なので雑な体裁だと言っています。すでにリンクを張った『ファイト・クラブ』評の、『伊藤計劃記録 はてな版』をご覧いただければその意味がおわかりいただけるでしょうか。「Introduction」や「Cast & Crew」といった章題がことごとく除かれているのです)

 『ハーモニー』が伊藤氏の死後各賞を受賞していくなかで、その死と作品とをからめた選評者のコメントがでたりして、僕は脊髄反射的に叩いたり、これは『トリビュート』発刊後のできごとですが『屍者の帝国』刊行にさいした円城氏のコメント「伊藤計劃が闘病生活を送った故に、『虐殺器官』や『ハーモニー』を書くことができたという見解にわたしは与していません。当然、経験は小説の内容を変化させたはずですが、それが決定的で本質的なものであったとは、わたしにはどうしても信じることができません。彼が闘病生活を送っていなかったなら、作品はより素晴らしいものになったはずだと信じています。」にそうだそうだと留飲を下げたりしました。

 彼が亡くなって10年が経ちました。その間にたくさんの作家も亡くなり生まれましたし、無数の本が書店で入れ替わりました。書店自体もがほかの店舗と入れ替わったところもあるでしょう。それでもなお彼の本が書店の棚にささっているのは、出版社などのそうした戦略が功を奏したおかげでしょうし、いつ消えてしまうかわからない個人サイトのデジタルデータとしてでなく紙の本として国会図書館に所蔵できるかたちで残すべきです。今となってはそうした理由もわかる。

 でもあの頃はただ腹を立てただけでした。死者を出汁にするなと。でもそれってとてもずるい怒りかたでした。このムーブメントによって自分が、流通わずかな伊藤氏の同人寄稿などを読めた恩恵を得ていたことを、ぼくは棚上げしてました。動こうと思えば動けたのに金も労力も惜しんで何も動かなかった自堕落さを無視してました。

 その後も伊藤氏作品の多メディア展開を、コラボパンツを、面白味のまったくないお役所仕事的LINEスタンプを茶化しに茶化して雑に消費しました。甘い汁をすった。伊藤計劃を出汁にしたラーメンをずるずるすすった(と書くとアレですが、まるわさんのラーメン自体は原作オマージュも味も素敵な料理でした)。SNSで大喜利される「伊藤計劃以後将棋部」に同調して笑いつつも、一方でことあるごとに著作をブログを読み返し引用してかれを内心で神格化しているじぶんを無視してきました。

 『美亜羽』の「聖書」みたいに、冷笑とも、意地汚さとも、公言も自覚もしたくないマジに崇めちゃってる部分とも向き合って、すべてひっくるめたうえで劇中必要不可欠な要素にしてしまう……そんな、おおまじめにふまじめな昇華はできなかった。ぼくは自分が恥ずかしい。

 

   聖書としてでなく

 そうした自分と比べてみたとき、『美亜羽へ贈る拳銃』のいちばん凄いところは、その世界観なのかも、と思いました。

 『美亜羽』で描かれるのは、言ってしまえば世界有数の医療関係企業のお家騒動ですが、ふたを開けてみるとおどろくほど生臭く、まるでヤクザ映画マフィア映画のように手足が首が飛んでいきます。(縮小された敵対企業の要人は、主人公側企業の要人と親子の盃を交わしたりすることでようやくその身を保証されたりして、その印象をさらに強めます)

 ともすれば粗っぽいととらえられかねません。実際、今作が収録された商業書籍『拡張幻想』の感想をあさってみると、展開の早さについての声が聞こえなくもない。

 けれどぼくには、この荒々しさは、今作が『ハーモニー』劇中世界では寸でのところで踏みとどまっていた領域から歩みを進めてしまった世界であるための必然のように思えてなりません。

 冒頭で鮮烈なお披露目をされたウェディングナイフ。それで撃たれた者の感覚を、『美亜羽』は下のようにあらわします。

 こうして、神冴士郎と、北条美亜羽は――もともと互いのことを微塵も愛したことなどなかったにもかかわらず、相思相愛となり、幸福に二人で暮らした。

 僕たちは、いま、とても幸せだ――とても。

    伊藤計劃トリビュート』p.163「美亜羽へ贈る拳銃」より

 『美亜羽』のこの文章は、もちろん『ハーモニー』結末の参照です。(さらに『From  the Nothing, With Love.』の語りの技巧もからめた、複雑な語りとなっていますが、そこはこの感想の重点でないので、その面白さはここでは語りません)

 いま人類は、とても幸福だ。

 

 とても。

 

 

 とても。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫JA)、伊藤計劃著『ハーモニー』kindle換算100%(位置NO.3981中3964)、<part:number=epilogue:title=In This Twilight/>より

 『美亜羽へ贈る拳銃』でこうした文章があるのは、ほかの先行作への言及とおなじく宣言でしょう。この作品はあの幕引き後の世界ですよと。その先はなにかを探しに行きますよと。

 『虐殺器官』劇中世界が、すでに核を通常兵器として使用することが常態化されてしまったあとの、手遅れの季節を描いた作品であったのと同じように。性格を意識を弄ること、<わたし>というアイデンディティを弄ることが常態化された世界では――それこそ、三大欲求以上に別の欲望の優先順位をつよくするというような大規模な脳への操作が、「インプラント」なんていう、"いま・ここ”では歯医者でいちばん聞くんじゃないかという何の変哲もない語であらわされてしまう世界では*10――、たやすく人命自体に手がのばされてしまう。あるいは医療が進歩したからこそ、物事を動かすためにはちょっとのケガではびくともしないから、人命自体を飛ばすほどの荒事を行わざるを得ない。……そういうことなのではないか。

 

 世の中にはさまざまな敬意の表しかたがあるかと思います。

 対象を構成した要素をコラージュするとか、その精神性をオマージュするとか。コレクションやアルバムのようにまとめ、大事に大事に懐かしむという方法もあるでしょう。それこそ聖書のように、そらで暗誦してみせるとか。

 そうじゃなくて、原典をなぞるのではなく、原典にはえがかれなかった空白のページを自身で書き進めるという方法もまたあるでしょう。

 そうした作品たちがこの『トリビュート』で、そしてこの『美亜羽』の世界観なのかなと思いました。

 

 さて『トリビュート』を購入した動機のひとつは、ツイッターを眺めていたら「もともとは結末がちがったらしい」というような噂を聞いて、それを確かめてみたかったというのもありました。

 購入した電子版『トリビュート』は、改稿もなされた第2版とのことで、だからなのでしょうか、『美亜羽へ贈る拳銃』は短編集で読んだのと同じオチのように思えました(。初版はどんなものだったのやら……後追いの悲しさよな~)。

 ただ、中盤の分子ガストロノミー料理ハイテク版は、同人版の時点では未登場だったみたい。ここについては、19年刊短編集版を読み、巻末の初出時期をみて、「『noma』日本支店ができたのこそ数年経っているけれど、(そこでも修業した)橋本氏が自身の店舗『セララバアド』ができるのは4年以上もまえの時分に、劇中へその料理を取り入れていたのなら、現実にかんするアンテナのはりかたとそれをウンチクに終わらせない作劇の反射神経・手管がすごすぎるだろ……」とふるえていた箇所です。(『拡張幻想』掲載時などの異同は未確認) まあどこで書き換えられたにせよ「出して終わりにしない作劇力」がすごいことには変わりありません。

 また、結末部といった大きなところだけでなく、こまかな部分でも改稿がなされているのを確認できたことで、伴名氏のひたむきさを知ることができもしました。

 伊藤氏もまた、『虐殺器官』で、小松左京賞投稿時から商業出版にあたって1エピソードくわえたというお話が有名ですが、『Heavenscape』(死者の国の風景)や『フォックスの葬送』(密林での潜入模様)から一シーンを自己転用した部分も、ただコピペするのでなく作品にあわせた調整が加えられていたりと、ひたむきに改善する姿が見受けられました。

 

 2019年短編集掲載版とのちがいをザッと見ていくなかでとりわけ面白いなと思ったのは、神冴で実現間近だったテクノロジーに関する一文です。

 幾つかの技術は、神冴で進んでいた研究をもとにしたものであり(先天性自閉症治療の実用化は、ほとんど完成間近だった)

    『伊藤計劃トリビュート』p.137-8「美亜羽へ贈る拳銃」より

 東亜が発表した幾つかの技術は、神冴で彼中心に進んでいたものであり──たとえばミラーニューロン同期による心情追体験システムは、ほとんど完成間近だった──

   早川書房刊、伴名練著『なめらかな世界と、その敵』kindle換算22%(位置No.4781中1039)、「美亜羽へ贈る拳銃」より

  改変された理由は、第一はのちの展開をより面白くするためなのだろうとも思います。ここで人間のとある性質について欠点・治療みたいなイメージがついてしまうと、終盤の天才次男の性質に予想がついてしまうだろうと。それを防ぐための改変なのだろうと。あるいは、いまよりも未来の世界において、それを「治療」する「症状」と言い表わしてよいのか? と見直しが入ったのかもしれません。

 その辺だろうと思うのですが、こうかなとも思ってしまう。

 こだまかなと。

 『伊藤計劃トリビュート』の先鋒をかざった『echo』はミラーニューロンを操作し他者に共感・同調するシステムが誕生した世界のお話でした。ぼくはそこからの影響を見いだしてしまいます。『A.G.C.T. 』など新間大悟氏の同人作品を読んで、そこから後の伊藤計劃氏の作品(同人・商業両方)を思い浮かべたように。

 

集団制作を読む楽しみ

 集団というか共同というか競作あたりがただしい表現なんでしょうか。たぶん示し合わせとかをして書いたりなどはしてないと思いますが、似たようなトピックをあつかった作品があって、それぞれの料理の仕方、作品の配置が楽しかったです。

 トップバッターとしての『echo』の良さについては「こわい/かわいい汗;『echo』」で書いた通りです。

 不特定多数に絶命の音を響かせる『echo』のつぎに、特定個人が聞こうと動いた結果として生の短音を聞く『死者の時制』が来る面白さ。

 『死者の時制』の贅肉のすくない文章で語られた感覚を切り詰めた実存から、『量子の海のカルペディエム』で日常がいかに余剰にあふれ強固であるかと、切り捨てられていく実存を詳細に見る楽しみ。

 『量子の海のカルペディエム』でサラリーマンの日常が、『The Pile of Hope』でも堅い社会の強固さが扱われアカデミックな研究も劇中要素となったのを読んできたうえで、『猿に始まり狐に終わる――あるアカデミーでの講演から』で「こっちもアカデミックな内容なのか」と思ってフタをあけてみたときの驚き。

 『猿に始まり狐に終わる』で「おれには早すぎた……」となったあと『もしオクラホマ』と書き連ねていくのも面倒なタイトルのあれを見て、「これもおれには早すぎた案件じゃん」と思いきや、フタをあけてみたときの驚き。

 ごくごく少数しか集まらない葬式が起点となる、移ろいゆく夕陽の美しい『The Pile of Hope』がある一方で、百人を超える通夜が起点となり、赤が爆ぜる『感情の楽譜』がある面白さ。

 そして『感情の楽譜』でナノマシン技術とカップルの礼儀が取り上げられたと思ったら、幕開けでまさしくそれによって世界がかわる『美亜羽へ贈る拳銃』が来る面白さ。

 

 『echo』『TPoH』『感情の楽譜』『美亜羽』で、集団(だいたい学校)からつまはじき者にされた(≒疎外された)個人と、それをどうするかについてが大なり小なり問題になって、それぞれがさまざまな料理される楽しみ。

 

 各作の死のあつかいについて

 なかでも多く出るのは、自死(だろう)者の存在ですね。「自死合同」とか、「わたしという実存合同」といったようなおもむきもあります。

 『伊藤計劃トリビュート』に登場する各作の、死の感触や死者との関係性についてまとめてみましょう。

 『echo』は、飛び降り自殺をこころみる二人の激情によって奏でられた独特の絶命の一音が、無関係の周囲にまで伝播する・していくという結末でした。

 次に載せられた『死者の時制』は、その反対に、部外者にちかい個人が他者について黙々と渉猟していくうちに突発的に思われた自然死に謎を見出し理を解いて、生の音、音楽ならぬ音楽をつきとめるという結末でした。

 『量子の海のカルペディエム』だと主人公の飛び降り自殺は寸でのところで達成されない領域で、それやそれにむかう衝動こそが生の実感となりますが、それさえもが水に流されてしまい、効率化された日常のなかでは異物の狂気として扱われ、存在を認められません。

 『The Pile of Hope』では、姉の死は彼女の意思というよりも彼女の役職や人間関係など複雑な変数のからんだ結果で、死者の言葉によって主人公との断絶が明かされます。

 『感情の楽譜』で飛び降りた死者は、身内ではありません。死もその理由も明かされることなく関知もかなわない領域として置かれ続けます。

 『美亜羽へ贈る拳銃』では、劇中でも悪趣味な口寄せと称される主人公の機転によって、いなくなった想い人――本人曰く悪霊――との会話が果たされますが、かれにとって都合のよいことを言ってくれる訳でもなく、すでに知られていたとおりの事実を繰り返し、彼の想いを拒み、銃をつきつけ倒れます。「ばぁん」とひとつの銃声を残して。それはひとがこと切れる音であるとともに、新たなスタートを切る号砲でもありました。物語の主役は逝きます、傾き落ちゆく体がそれを伝えます。物語の主役は生きます、落ちゆく体を抱き止めた手がそれを伝えます。

 

 ひとが地に落ちて生じる絶望の音をこだまさせる作品で幕を開けたトリビュートが、ひとが地に落ちきるまえに抱き止められそして祝砲をひびかせる作品で幕をとじる。きれいにまとめられたものだなあと思います。

 

 

 ぼくらの見たかった景色はすぐそこだ。一緒に来るなら、期待してくれてかまわない。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫JA)、伊藤計劃The Indifference Enginekindle版26%(位置No.3634中930)、「The Indifference Engine」より

   『伊藤計劃トリビュート』p.185より

 『伊藤計劃トリビュート』は本の末尾を、伊藤氏の著作『The Indifference Engine』から引用してしめくくります。この短編は、内戦終戦後の元子ども兵たちのために劇中外国NGOがSF的な処置をほどこすも、それが彼らに意図せざる影響をあたえ、子どもたちは大人たちの思惑に縛られず自分たちの進路を歩きだしていく……という話でした。

 あちらの行進は背筋が凍りもしましたが、こちらの行進はどうでしょう、まったくちがって聞こえます。現地からAKを拾い上げての行進も、身の内から『美亜羽へ贈る拳銃』などを掬い上げての行進も、どちらもその進むさきに幸あらんことを祈りたくなるような切実さを感じることだけは同様ですが。

 『伊藤計劃トリビュート』の号砲から、かれらは14年に新しい面子を加えて 『艦隊これくしょんトリビュート』(紙版のみ。入手難)を、うち4人で18年に『改変歴史SFアンソロジー』(電子版流通アリ。また一部作品は『なめらかな世界と、その敵』『おうむの夢と操り人形 (年刊日本SF傑作選)』といった商業書籍に再録)など、個人では19年に『美亜羽』著者伴名練氏が早川書房から個人短編集を出したり、『TPoH』著者谷林守氏が19年第10回創元SF短編賞日下三蔵賞を受賞したりと、インディーメジャー問わずさまざま歩んでいるようです。また、この感想を投稿したのと同日8月28日から、京大SF幻想研の現役生さんたちによる『note』でのレビュー企画もはじまりました

 悼むことと縛られ留まることはちがうことだと、今も進みつづける彼らの背を見て思うのでした。

 

 

*1:この巻頭言を書いたかた

*2:p.24あたり参照

*3:読み返して「うわ!」となる数ですね

*4:p.48との反復変奏。オフィス内での狂気の沙汰p.54もまた、主人公の境を渡り外への移動→聴覚描写→頬に当たる風の触覚描写→地面について……と展開していきました。そうして展開していく描写のいくつかは、保険適用後の反復変奏p.49から省略された部分です。

*5:今作が発表された2011年から3年後、映画『ロボコップ』がバーホーベン監督版から2014年パヂーリャ監督版にアップデートされた際、人間をロボコップにする流れが、バーホーベン監督版だと家族に「かれは死んだ」と告げたうえで本人の記憶もなくして別人として生まれ変わらせたのに対して、パヂーリャ版は家族の承諾サインを得たうえで行なう生命維持手術へと変更されたことをぼくは思い起こしました。

*6:実作としては『虐殺器官』で、ある集団のなかでいったい誰が影響力を有しているのか、大統領や教皇など額面の階級にとらわれずグラフ解析にかけ割り出す場面が登場しました。ブログを見ると神山版『攻殻2ndGIG』から現代日本の「気分」について触れた記事なんて、そのものズバリな内容です。

*7:伊藤氏は贔屓目ぬきに世界随一のイメージの持ち主でした。孤高のアクション映画監督マイケル・マンの作品のなかでそんな表現がでてきたのは『虐殺器官』刊行後のことでした。

「ここに来た奴が言う 見まわして"すごいね どハデな壁紙だ" "ポロックの抽象画か?"」

「"違うね イエロが 壁に飛び散ってる"と」

   マイケル・マン監督『マイアミ・バイス』0:31:54~、0:32:08~

*8:2019年短編集収録版における実継

*9:2019年短編集収録版における志恩

*10:もっともこの「インプラント」という語彙自体は、イーガンなど既存の脳いじりSFでも使われているようですが。