すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

聖書でなくて;京大SF幻想研『伊藤計劃トリビュート』感想

 11年の京都大学SF・幻想文学研究会のかたがたが出した、『伊藤計劃トリビュート』の感想です。1万8千2万字くらい。+別作にかんする追記7万字。

 同人配信販売サイト『パブー』にて、電子書籍(改訂済み第二版)を入手することができますそして『パブー』は9月30日閉店予定、いそぎましょう。(1003追記 この感想をアップした翌月、9月3日のお知らせにある通り別運営会社に移管され、サービス自体は継続されているみたいです! デマ言ってすみませんでした)

 

※以下、『伊藤計劃トリビュート』と伊藤計劃作品などのネタバレした感想が続きます。ご注意ください※

 

約言

  凄かったし面白かったし好きですね。

内容;伊藤計劃氏へのトリビュート作品集です、一次創作。

記述;悲劇に喜劇、学園に会社、社会に家庭。一人称二人称三人称、伝記調、講演調なんでもござれ。

ここ好き;『死者の時制』のすごい芸術のすごさを比喩に逃げず記述する態度、『量子の海のカルペディエム』の文体とガジェットの転がしかた、『TPoH』のガジェットや社会の書き込みと転がしかた、『感情の楽譜』の死のわからなさ具合、『美亜羽』の全て、とくに「聖書」のあつかい。

 

 ざっと感想

 感想を検索かけてみると読んだ人それぞれ好きな作品がバラバラなのですが、ぼくが好きな作品もそのかたがたとは違う作品で、つまり読めばどれかしら刺さる作品がある、幅広い球のそろった作品集と言えましょう。

 

 どれも面白いと前置きしたうえで、未読作のなかでいちばん惹かれたのは『量子の海のカルペディエム』でした。

 いうなれば量子『ファイト・クラブ』。劇中独自のSFガジェットについて初手から裏技的使い道を紹介して劇中世界でどれだけ馴染んだ技術か描くところや、ガジェットの必然からくる文体のトーン切替が気持ちよかったです。

 けれど、トリビュート・オムニバスとしての楽しみを感じたのは、むしろそれ以外の作品たちなのでした。たとえば子どもたちと同調圧力の息苦しさのあつかった作品が複数あって、それぞれの料理のちがいを味わうだとか、そういった集団制作の面白さを感じます。

 続きものではないからどこから読んでも大丈夫。ですが、この作品の次があの作品、というような配置の妙による面白さもあったので、順繰りに作品を読んでいくのもおすすめです。

 

 発行時点ですでに作家デビューをしていたひとも複数いた(!)し、その後ほかのかたがたも実績を上げているようです。趣味趣向や志をある程度おなじくした人々が出会い集まり語り合い、じぶんひとりでは目を向けなさそうなことにも他人と接したことで関心をもって、じぶん自身の言葉を築き上げていっただろう光景を想像して、『A.G.C.T. 』など新間大悟氏の同人作品を読んで、そこから後の伊藤計劃氏の作品(同人・商業両方)を思い浮かべたときのような気持ちになりました。平成元年1989年早生れのぼくは『トリビュート』執筆した彼らと同学年か少し上でしょうか(OPもいるから年下だったりもしますかね)、平成がおわった現在に読めて良かったです。もし当時入手していたとしても自意識が邪魔して読めなかった。まぶしすぎる。

 

 料理の仕方という点では、ブログなどを読ませてもらってるclementia氏(刊行後の記事ですが、この感想で話題にでた作品から選ぶとマイケル・マン評とか『ロボコップ』評とか楽しく読みました。)の『感情の楽譜』もまた興味深かったです。なにが入力されていたかやそれにどんなリアクションをされていたかある程度知っているひとが、実作としてどのような出力をしたのかを読む楽しみ。

 これは別に作り手が想定した楽しみかたとは違うと思いますけど、プロになると過去のサイトなどを消しがちなので、作家論的な楽しみかたはむしろインディーズのほうがやりやすいのかも(。でもこの楽しみはストーカーと紙一重だな……)。伊藤氏をまず小島秀夫監督ゲームのファンサイト管理人として・映画レビュアーとして・はてなブロガーとして知っていた方が『虐殺器官』を読んだときの気持ちは、もしかするとこういうものだったのかなぁなんて思います。

 うん、そうですね、伊藤氏ですね。タイトルがタイトルなので、かれやかれの作品のことを思いうかべながらの読書となりました。

 

 円城塔氏が書き継いだ『屍者の帝国』を読んだときも、フジテレビのアニメ映画化やそこから動いたコミカライズを観たり読んだりしたときも、麺処まるわさんによるコラボラーメン店主へのインタビューはこちらを通販して食べたときもそうでしたが、ほかの人の伊藤氏(作品)のとらえかたを見ることによって、自分が伊藤氏をどうとらえていたのか輪郭をはっきりさせたり、自分が伊藤氏のどこが見えてなかったか・自分の視界外にどんな魅力があったのかを覗けるのは楽しいですね。

 

 伊藤氏の魅力を再発見して終わり? 楽しいだけ?

 いやいや、そんなことはないのです。そんなだけでは済まない読書となりました。

 

各作について

 巻頭言

  あついスローガンです。いま読むとあついだけではないとわかる。

 そしてこの中の一人、二人、あるいは何人かが、十年後のSF界の中核にいると、私は確信している。

   伊藤計劃トリビュート』p.7「巻頭言」より

 これが若気の至りの大言壮語じゃないことはその後の活躍が示しつつある通りですし、他人まかせの放言でもないことも『なめらかな世界と、その敵』で曽根氏*1に贈られた謝辞を読めばわかる通りですね。本を編みつづけること、手を動かしつづけることのえらさ。

 

 

 こわい/かわいい汗;『echo』

 道徳や協調がたっとばれ(学校の授業でも取り上げられ)、ハード面としても脳内ミラーニューロンを刺激して人々を共感の糸で結びつける微小機械<エコー>*2を高校生卒業までに入れる世界。そこで優という名前の優しくない子が、転校生の噂を耳にして……という話です。

 大人になったら体に入れられるナノマシン。いっしょに自殺をするも失敗し大人に告げ口した人とそうでない人が分かれること。人々を傷つけないよう築かれた劇中独自のSFガジェットが、思いもよらないかたちで悪用されてしまうこと。そして落下の魅惑……『ハーモニー』のオマージュ要素がつよい作品でした。

 『echo』は幕開けにぴったりの作品です。伊藤計劃読者にとって耳なじみある音を出してくれるので、取っつきやすい。ぺらぺらとページを進めてしまえる。勝手知ったスーパーマーケットを歩くように。でもそうしていくうちに、これは輪唱ではないぞと、独自のテーマを持ったまったく別の作品なのだと読者からへらへらニヤケ面を奪い、用心して歩くよう身構えさせる。そういう入り口としてぴったりの作品です。

「でも、自分の想像力の外に子供が出て行ってしまったら、親はどうすることができるんでしょう」

    早川書房刊(ハヤカワ文庫JA)、伊藤計劃著『ハーモニー』kindle換算39%(位置No.3981中1517)、<part:number=02:A Warm Place/>

 『ハーモニー』で集団自殺をはかった高校生のひとりミァハの母はそう言って、セッションなどを通じて道徳を育むことだけによる人心のコントロールの難しさを嘆きました。

 他人がどんなことを考え、感じているかを想像するところから道徳は始まります。

   伊藤計劃トリビュート』p.15、「echo」より

  『echo』で教師はこのように生徒へ説きます。

 『ハーモニー』の少女らは思いやりの欺瞞を突いた。じゃあ、ミラーニューロンの人為的な強化が行えるようになり、ひとびとが他人の行いにたいして同調能力を増した世界であればどうなるか? ……それが『ハーモニー』を出発点とした『echo』の疑問ではないでしょうか。

 

 <エコー>や<ホーム>といった劇中独自のSFガジェットについて説明も大人の出番も最小限に、主役ふたりの関係性を描いていきます。それぞれ語調のちがうふたりのひととなりを読んでいくキャラ小説的な楽しみがあります。

 

 物語の中盤には川面にうつる鏡像に焦がれるナルキッソスの舞台劇があり、終盤には黒目にうつりこんだ鏡像のじぶんを見ながら落ちる現実の主人公の姿がある。その落下に至るまえ、周囲の人々が人形に見えてしまった主人公が恐怖し自室へ逃げ走る場面があるのですが、そこが複線的ですごいなあと思いました。

無我夢中で走ったせいか髪も制服もひどく乱れている。流れ出る汗が一滴、顎の先からシーツの上に滴り落ちた。

   『伊藤計劃トリビュート』p.25、「echo」より

  一読して、ファムファタルによる主人公の憔悴をえがくホラーなシーンですが、読了後に振り返ると、こうした滴が降り重なって川をつくるのかもしれないなと思いもします。

 

 『死者の時制』

 二人の音楽家が時を超えて協同する。時間が経つうちに、二人は多くの背景を持つに至った。その部分を解説するのが本稿の役割である。必要性から個人的な話も入らざるをえないが、ご容赦いただきたい。

   伊藤計劃トリビュート』p.30、「死者の時制」より

 脳内の電気信号、人の文章や会話の深層に潜む概念を読み取って、人びとの理解している概念を表す言銘(リテラルというテクノロジーにより、価値観の相違を理解することができるようになった世界。リテラルを楽器にしはじめた二人の音楽家の軌跡を、劇中世界のライターが追った作品です。

 三人称的・疑似歴史書的な文体です。贅肉がそげ落された文章で、たまに出てくるセリフのひとつひとつがパンチライン、印象的に響きました。

 奇抜な音楽の奇抜さ・すごさについて、比喩や聞き手の反応によって表すのではなく、(楽曲や演奏や楽器のアイデアや内容や技術など)具体的にどんなものか描くことでそれを伝えるタイプの作品です。

 劇中音楽家・木取による『反響する静寂』は、ソランジュ・マリオ著『とどのつまりは何も無し』の音楽版といったような、突き詰めれば「どう実作するんだ?」というような作品ですが、しかし反響定位を利用して7つ*3の音響がそれぞれ打ち消しあって無音となる/すこしずれただけで全く異なる音楽が響く……というメカニズム(ざっくり説明。本編の記述はもっと詳細で楽しいです)を聞くと、「実在しそうだ」と思えます。

 こうした奇抜な劇中音楽の具体的な描写が、もうひとりの音楽家の意味不明で奇抜な生活や、語り手の母が聞かせてくれた子守唄などと響きあっていく物語構成が見事です。

 

ネットワークから切り離された不自由さをしばらくは楽しんだようだが、すぐに自らの仕事の邪魔になると感じたのか、家事の一切をディアに任せている。初日に設定された行動――洗濯機の稼働タイミングや食事内容のバランス設定は以後六年間、一切の変更のないまま放置された。

   『伊藤計劃トリビュート』p.32、「死者の時制」より

 好きな場面はここですね。アフォーダンス*4という語を工学や一般の世界に広めたドナルド・A・ノーマン氏も取り上げるような、高度に発達したテクノロジーにたいする使用者の細部です。

そこで、我々はまごつかされる操作部とディスプレイに出くわすと、やりたいことに近い一つか二つの設定だけを使うことにして、それを覚えるようにするのだ。

 イギリスである家庭を訪問したときのことである。そこにはイタリア製の素敵な新型の洗濯乾燥機があり、きらびやかな、たくさんのボタンのある操作部がついていた。これを使えば、服の洗濯と乾燥に関して考えつくことなら何でもできるというものだった。ところが、産業心理学者である夫君は、それには近寄らないと言っていたし、医者である夫人は、一つの設定だけを記憶してあとは無視することにしていると言っていた。

   新曜社刊、D.A.ノーマン著『誰のためのデザイン? 増補・改訂版』p.5、「第1章 毎日使う道具の精神病理学

 初版をたしかめずに迂闊な発言をしますが(さすがに1988年の段階でこういう機械はなさそうな気がするので、2013年の増補・改訂版で追加された部分でしょう)、第一線の研究者を先取りするアンテナ感度!

 ずぼらなぼくが「あるあるだわ。いろいろ出来ても面倒なので触らないきりになるよね……」と共感していると、読み進めるにつれそうではなくて、この劇中人物ならではの必然であったようにも思えてきます。

 生きることへの無関心のようにも。 日常の強固さ、身体のかたくなさのようにも。

 

 

 歯車の隙間から漏れ落ちる;『量子の海のカルペディエム

 前述のとおり量子力学版『ファイト・クラブ』。キートン*5のドタバタ喜劇をおもわせるピタゴラ装置的な起床に始まって、次第に主人公が頭が一文字キちがいのノートン*6に見えてくる、物語や文体のトーンのきりかえが気持ちよかったです。

 冒頭からしてすごい。失敗を未然に防ぐスゴい技術が民間人もつかえる保険として普及している世界で(劇中では――パラニュークやブレット・イーストン・エリスらが描くように――実在する保険企業名をあげていますが、後述の通りそれが看板負けせずスルッと呑み込めるもっともらしさがあります)中産階級の主人公は、大規模な失敗はやり直しがきくけど日常のささいなできごとはそうもいかない程度の契約プランで保険に加入しています。そこで、ささいな失敗も大惨事へエスカレートするようなDIY装備を整えることで契約の裏をかいて、寝過ごしを水に流し完璧な起床をしたり電車の乗り過ごしを水に流し完璧な通勤をする完璧な郊外生活を送ります。

 劇中独自のSFガジェットの使用について、その初手から応用技・裏技を披露することで、その技術が劇中世界にどれだけ馴染んでいるのかを描いてしまう。

 そういう引き出しをもってることがまずすごいですし、実作として形にできるのもなおのこと。たとえ「そういうことをやろう」と思いついたり手管として知識があったとしても、そうした演出のためにはいくつかのネタを前座としてさらっと踏み倒せるくらいガジェット(やその使い道など)についてさまざま考えなければ、そしてふかく突き詰めなければ、達成できないわけで……。

 

 劇中SFガジェットによる必然として、このガジェットに慣れ親しみ使いこなす劇中人物の当然として、文体が繰り返しも多く硬く安定したものとして築かれていて(時刻や秒針の刻みなどもその印象をつよめますし、前半だけに登場する「▼」から始まるニュース報道など公的な時空間描写もまた、ぼくがそう感じた要因でしょう)、そこから不意に訪れる「あはははははは」p.54のような裂け目がおそろしかったです。

 伊藤氏も読んでいたと云う佐藤亜紀氏の『小説のストラテジー』で取り上げられたようなディエーゲーシスとミメーシスのコントラスト、そんな用語や技法を知るまえに『ハーモニー』をひらいて、序盤の一言や終盤の異様な擬音の連発に驚いた初読時の感覚が思い出されました。

 

  とにかくモチーフ選択がうまくって、目覚まし時計、トラムが来ない、そして個人の寿命……と、時間を巻き戻す動機は、時間をめぐるトピックが多い。そしてそれぞれの原因をならべてみると、屋内の・自分の意思に起因するもの、家の外の・誰かの意思に起因するもの、海の外の交換不可能な存在の・だれの意思とも無関係のもの……と、距離が徐々に遠く、すくいようがない問題となってきます。

 失敗については落下がともなう。水槽の水がこぼれ、キーボードの残骸を窓にぶん投げ血管破裂で崩れ落ち、パソコン類カフェオレを床にぶちまけ窓を割って投身自殺する。

 天井の水槽はやり直しのトリガーとして冒頭で登場して以後、前半p.47と後半p.55とでまったくちがう風に部屋を彩り、物語のトーンをきめる照明・舞台装置として主人公の頭の上にたたずみます。

 幕引きに現れる情景p.59は、繰り返しやり直し最適解をすすみつづけるなかで、水に流されてきたさまざまな不正解の一つ*7でした。

 頬の触覚・匂い。なんてことない日常のなんてことない感覚がじんわり胸に沁みます。

 

 

 私と貴方とその間の間の間の間の;『The Pile of Hope』

 亡くなった双子の姉に代わって、臨時教諭をつとめるお話です。

 巻頭作『echo』と同様に『ハーモニー』オマージュの色がつよい。

 主役級の女子生徒の二人のうち一人がこちらもハスミ(蓮見。『echo』は蓮実)さんで、なおさら並べたくなるのかもしれません。

 『echo』とちがうのは、主役の女性たちは生徒ではなく、教師など大人であるという点です。

 『TPoH』はまず、劇中世界独自のSFガジェットにより、私の自意識についてを描きます。 

 生徒を"監督"するコンタクト型のSIM(学徒情報モニター)による"まなざされることの窮屈さ"を。あるいは、記憶の鮮烈な想起を可能とするMRD(強制記憶惹起装置)で、亡くなった姉との思い出を反芻する"私"の弱さを、「この姿を姉が見たらどう思うだろうか」と気にする自意識を。

 学生"監督"装置SIMの、『ハーモニー』の体内監視装置WatchMeの至近未来社会版といったはたらきは、とても説得力があります。劇中での若年層のテロを受けて発案・可決された、子どもを律する特別カリキュラム。そのハード面における成果がSIMで、この機械は生徒の言動を記録したりするものの、「もし”いま・ここ”にそういったガジェットが導入されたなら?」という仮定への当然の結論として、親御からの理解などとの兼ね合いから逐一監視するわけではなく、記録の仔細を教師が閲覧することも(危急のさい以外は)できず、生徒にとって"誰かに見られている"ことを意識させる程度の役割しかもたない――ハイテク版パノプティコン以上の役割のない装置です*8

 その一方で、このSIMは、生徒が教師を見ている限りすべて記録されるし、その記録を閲覧したり記録を反映した助言をすることも教師へはできる(『TPoH』劇中では、主人公が授業を脱線させるや否や、カリキュラム逸脱に対する警告が自分にだけ響く場面が登場します)――つまり教師にとってこそ”監視”装置に他ならない……そんな、額面の設計と運用してみての実態とにギャップの設けられた面白いガジェットです。

 しかも、見る人が見ればさらに違った顔も見えるようで……と転がっていくのが『The Pile of Hope』の物語としての面白さ。

 『TPoH』は、伊藤計劃作品でこそ登場しなかったーーしかし、作家業がつづけば扱われたかもしれない*9実在する科学的知見を補助線として一気に視点を高く視野を広げていきます。

 そうして顕わになる、単なる一生物としての人間のありよう、そしてそんな生態に対する身もふたもない関わりかた。これはゾクゾクする展開でした。

 

 かつて伊藤氏は「私のオールタイム・ベスト10の一本」映画『ファイト・クラブ』をこう評しました。

この映画が扱う題材は、いま、ぼくらが生きるこの消費社会での肉体と自我/狂気と去勢/はては「一瞬」と「人生」などに繋がる、外界と「私」の関係性です。その意味では、この映画は塚本晋也の一連の作品、特に「東京フィスト」に直結します。都市に住まう、肉体をひっくるめた「私」の存在、それがこの映画や「東京フィスト」が扱う「私」

   伊藤計劃個人サイト『SPOOKTALE』内「CINEMATORIX」内33「ファイト・クラブ」より

  その後も何度か、伊藤氏は「社会(等々をひっくるめた「わたし」)を扱いたい」というようなことを言ってましたが、この作品からもそういった意気が感じられました。『TPoH』は、為政者・学校・生徒の保護者・生徒、さまざまな意向を汲み製作導入されたSIMのありようを語ります。舞台となる学校も、実在こそしませんが書き割りとしての学校ではなく、SIMを導入するような経営方針の起源――戦前の前身から振り返って語ります。

 そうした背景を語ることで、いかにここまでの出来事が個人ではどうにも動かしがたいものだったのかを、そしていかに「わたし」が内に籠り過去へ耽溺したかを、せざるをえなかったかをあきらかにしていくのです。

 

 蓮見さんはこちらに背中を向けていて、その前に綿守さんが跨がり、腕を、柔肌を、腰を、胸を、汗を、唾液を、髪を、涙を、そしておそらくは心をも絡ませる。二人の姿が、鏡に反射した夕暮れの暖色に紛れて、おそらくは官能的であるはずの二つの肢体を、ひどく非現実的な交わりに変えている。

   『伊藤計劃トリビュート』p.74、「The Pile of Hope」より

  主人公がすこしのあいだだけ関わりをもった、生徒ふたり。彼女らの逢瀬を見て、主人公は上記のとおり綴りました。これは後に語られる、幼き日の主人公と姉との抱擁と重なり合います。

 空は、夕陽の明るみを徐々に失わせていき、夜との境目で非現実的なグラデーションを生み出していく。なのに、こんなに繊細な色彩の暖色も、この家の冷たさをどうすることもできない。そのことが、わたしのうちから涙を無理矢理引きずり出そうとしてくる。

(略)

 そんなわたしを、姉は後ろからそっと抱き締めた。

(略)

 『わたしも泣き出したくなった。希、あなたの悲しみが何も理解できなかったから』

(略)

 二人だけでもいい、姉だけでもいい、それだけで、わたしは生きていけると、一体感を覚えながら、すっかり暗くなった家の中で、電気もつけずにじっと二人で寄り添っていた。

(略)

 『肌を重ね合わせて、そこに手を触れても、ただ熱を持った体以上の何かをわたしが理解できるはずもなくて。(略)』

 それはわたしの幻想だったのか。

   『伊藤計劃トリビュート』p.79、「The Pile of Hope」より

 手記(=『』内文章)によって語られた姉側の述懐は、主人公の記憶を裏切るもので主人公はショックをうけます。ただ、姉の言葉も、自身のショックも、MRDにより強く(=太字で)刻まれた記述によって後景に退きます。

 『TPoH』ラストまで読むと、劇中のものごとや人物関係について読者もある程度見取り図をえがけるようになり、そうして分かった主筋とそれを語る主人公のパースペクティブにちょっと驚かされますが、それゆえに、なおさらに、このふたつの夕暮れの抱擁シーンの差分がじんわりきます。

 主人公は社会が認めなくてもなお、自身の思いが裏切られてもなお、肯定しつづけるのです。「そしておそらくは心をも絡ませる」

 

 

 夢の感触;『猿に始まり狐に終わるーーあるアカデミーでの講演から』

 ファンタジックでスラップスティックな味わいの一作です。

 ぼくには歯がたちませんでした。世の中にはわからないことがまだまだいっぱいあるものです。精進します。

  無理くり自分のなかの伊藤作品と繋げるのであれば『セカイ、蛮族、ぼく。』みたいなコミカルな作品と言えるんでしょうか。いやよく分からない。

 文体はタイトルのとおり講演調、そしてインタビュー調、批評、第三者視点とさまざまな語りを横断し、劇中劇を積み重ねるような複雑さがあります。

 そうして語られるお話といったら正直なんだかよく分からない。タイトルのとおり猿に始まり狐に終わるお話です。タイトルの時点でよくわからない。

 分からない分からないと連呼しましたが、なんだかよく分からないなりにスラスラ読めてしまい、細部はびっくりするほど身近だったり気持ち悪かったりし、なんだかよく分からないなりに感動してしまうのが不思議なところです。僕にとっての夢というのは、こういう感触にとても近い。

 母がコーヒーに砂糖を何杯入れたか、洗濯物に複数の毛玉がついていた時いかなる対処をしたかなど些細なことに関してなら事細かに語ることはできます。しかし、彼女の学問上の業績については、ジョージⅣ教授をはじめ私などより詳しい方がたくさんおられます。

   『伊藤計劃トリビュート』p.87「猿に始まり、狐に終わるーーあるアカデミーでの講演から」より

 

 

 奇な夢、現の妙;『もしオクラホマ州の中年の電気技師が伊藤計劃の『ハーモニー』を読んだら あるいは、忘れた翼』

 ファンタジックでスラップスティックな味わいの一作です。

 その意味で『猿に始まり狐に終わる』に近い作品で、つまりぼくには歯が立たない系の作品であります。

 

 そしてまた同じ夢を見る。

 夢のなかのわたしは太陽にこんがりと焼かれた小さな農場の一人娘で、鶏に芸を仕込むことを趣味にしている。ある日、とっておきの一羽、前にも後ろにも歩ける器用な一羽のことを聞きつけて映画会社のカメラマンがはるばる我が家へやってくる。

「それでは、ええと、前にも後ろにも歩く雄鶏はどこです?」

「ああ、そいつの支度はすんでるよ。とっくに準備万端で待ちくたびれちまってる。ほらそこに」

 父が冷めかかったローストを指さしてカメラマンを呆れさせていると、母が声をかける。

「お待たせ! メアリの支度がすんだわよ」

 わたしは居間に現れる。五歳の少女である夢のなかのわたし、それでいて同時にあまたの太陽のようにきらびやかな尾羽根を持つ大きな孔雀であるわたし、晩餐会の特別な主役として、見事な料理に生まれ変わったわたし。

「たすけてえ! たすけてえ!」

 調理された私は絶叫とともに目を覚ます。

 

 ……とまぁ、そんな具合に、奇妙で夢みたいな展開が次々と出てくるのですが、ふって湧いたように出るのではなく、奇妙な現実を汲んだものであったり、起源へと遡って空白を見つけたうえで「ここに空白がありますから、このような奇妙が紛れ込んでもおかしくないのです」というような段取りをふんでいます。

 詳しくないのでアレですが、たとえば「一」で描かれる、後ろ歩きできるよう調教した鶏をニュース映画スタッフが取材するという少女の夢は、フラナリー・オコナーの幼き日の実話(実際のニュース映画もyoutubeで公式配信されているみたい。)から採られているようですし。

 大科学者たちの会食の席にとつぜん現れる孔雀についても、「"一"で描かれた夢のなかで孔雀が登場したからだ」やら「天井の雨漏りの染みから鳥を想像した描写があったからだ」やらで済ませずに、歴史を振り返って孔雀という存在自体の空白まで語ります。

 意識をもたない人間についてだって、「原作に出てくるから」「原作で説明されているから」で済まさずに、今作ではジュリアン・ジェインズ氏『神々の沈黙』をふまえた歴史の話をします。{『ハーモニー』が取ったような、「いくらみんなが手話で話したマーサス・ヴィンヤード島という例示があるとはいえ、"アマゾンの奥でわれわれは見た!"と『水曜スペシャル』で川口浩探検隊が言ってるのとどのくらい違いがあるんだろう?」と疑問がよぎる、ふって湧いたような民族を出すのではありません}

 円城塔が書き継いだ『屍者の帝国』もまた奇妙な、噓みたいなものを出すために起源へと遡り聖書の矛盾をついたり(遺稿草稿にあったわけではないでしょうけど、 スダリウムについての言及などからうかがえた伊藤氏の趣味を汲んだものではないかと思われます)、19世紀ロシアを思想面で支えた(けれど今みると知の巨人というより狂人の発想としか思えない)フョードロフのような嘘みたいな現実を掘り返していました。『虐殺器官』のジョン・ポールが述べること、そしてエピグラフの出どころであるパスカル・キニャール氏の著作もまた、起源をさかのぼり語源をあさり、異様なところを掘り起こしていました。

 

 『もしオクラホマ~』後半で描かれる、無意識の降りおろし。これは『ハーモニー』のそれとちがって天変地異となって世界を壊します。ヘンテコもヘンテコなのですが、人々の何気ない反応といった、小さくてそしてもっともらしい地に足のついたところから出発していって、読み応えがあります。

 山のうえから無意識が降りおりてきた。ガブリエル・エーディンは視線をあげ、はじめて御冷ミァハの顔を真正面から見つめた。いぶかしげに瞬きをして口を開きかけたが、舌先に載った言葉がなんなのか分からず、ますます怪訝な顔になった。

   『伊藤計劃トリビュート』p.112「もしオクラホマ州の中年の電気技師が伊藤計劃の『ハーモニー』を読んだら あるいは、忘れた翼」四より

 

 「五」で夢からさめた「わたし」は、そこに至るまでに描かれたいくつかの夢を見た理由について、二十年まえにニュース映画で見た少女が作家となってひらいた講演を聞いたからだと答えをだします。そして、「我が身の浅薄さを感じ」p.116させる彼女とも違えば、夢の中の世界の大科学者とも違う、「毎晩の深酒に酔いつぶれた四十すぎの一人者、学歴はなく教養は虫食いだらけ」p.116である自身を振り返り、 それでも「書く」と語ります。

 そんな姿を読んでぼくは、『舌の先まで出かかった名前』でキニャールが、舌の先まで出かかった言葉について、夢について、そして書くことについてこう語ったことを思い出しました。

 舌の先まで出かかった名前、それはノスタルジーでは抱きかかえられないものに対するノスタルジーだ。ノスタルジーが最初にある、なぜならば人間にとっては言語の欠如が最初にあるから。それは失われた対象に先立つ。それは世界に先立つ。このノスタルジーは、いつも遅れてやってくるその言葉たちとともに、自分よりも先に存在していたらしい一体感の幻想あるいは連続のイメージをでっち上げ、それらがでっち上げられたとたん、対象はくっきりと浮かび上がり、自分の出どころとしての身体の全体の形が魅惑しはじめる。夜は言葉の源だ。そこには存在しないものの幻覚をもたらす夢が言葉を生じさせる。こうして、その源にある恐るべき夜、近づきがたい夜は言葉の宿命となる。目に見える肉体を求めていると思っている欲望でさえも、この夜に帰依している。自分が今抱いている肉体のなかに欲望が求めているのは、みずからの欠損なのだ。舌の先まで出かかった名前をかかえている人のまなざしが注がれているのはこの夜なのだ。彼は自分の夢を待ち伏せしている。そもそも非現実的な充足を夢見ているのだ。小説(ロマン)は論説(ディスクール)よりも本当のことを語っている。論考(エッセ)はいつも舌足らずで、その沈黙の夜を逃れて一目散に言語と恐怖のなかに駆けこんでしまう。それは酩酊のなかに沈むことのできる苦痛であり、著作のなかに沈むことのできる苦痛だ。

   青土社刊、パスカル・キニャール著『舌の先まで出かかった名前』p.74-5、「メドゥーサについての小論」

 スフィンクスの前では、答えられなければ死ななければならない。精神の現前(プレザンス・デスプリ)〔当意即妙〕の反対が階段の精神(エスプリ・ド・レスカリエ)〔後知恵〕だ。いかにして謎に答えるか、ありていに言えば、いかにして自分に鏡を向けるか? 舌の先ならぬ、紙の先まででかかったひとつひとつの言葉に対して回帰する時間を持つこと、それが書くことだ。書くこと、それは失われた時間を工面すること、回帰の時間を工面すること、失われたものの回帰と連携することだ。そのとき感動は記憶をよみがえらせる時間を得る。記憶は戻ってくる時間を得る。言葉は見つけられる時間を得る。起源はふたたび茫然とさせる時間を得る。面は顔を取り戻す。

   パスカル・キニャール著『舌の先まで出かかった名前』p.104、「メドゥーサについての小論」第四部より 

 

 

 白黒のなかに爆ぜる赤;『感情の楽譜』

 身体に入れたSympatyScoreという微小機械によって身体の生理的作用をことごとく監視され、周囲の人間と共有・比較し、大多数並みとなるよう正しく調整していくことが当たり前になった世界で、友人を亡くした「ぼく」のお話です。

 劇中世界ではそのほか網膜上に映像を映す技術も誕生しており、それと結びついて体感型の芸術が表れつつある。

 SympathyScoreと網膜映像が芸術と結びつくのは、『死者の時制』の"言銘リテラル)"とそれを楽器にした新音楽ニュー・アンビエントの流れにも似てますが、退廃的な性的・暴力ポルノとしての色がつよい。また、どれだけSympathyScoreに耽溺しようと『echo』の終盤とはちがって実体的な死への引き金とはならないみたいで、日常の強固さ(異常さえもがその枠内におさまるゆるがなさ)が閉塞感を強めます。

 ぼくは著者のclementia氏のブログなり何なりの読者で、関心事がすこしはわかっていたので、実作との関係に意識が向かいました。

 事件はすでに起こったあとで、べつにそれが誰かの差し金による巨大な陰謀があったとか明かされるというわけでもなければ、事件がおきた理由だとかが判じられるというわけではない。一見すると内省的で静的な作品に思えますが、活劇の魅力があります。

  (脱線)

 雨が降ったら傘を差す、そんなしごく当然のふるまいが映画館の大画面で映されるたびに罵声を浴びせつづけたかたがいます。雨が雨として降り、傘が傘として使われることで雨水に濡れるのを避ける……そんなカメラを回さずとも分かってる当然をわざわざ映してどうするんだと。

 いまはなきジオシティーズの、すごい批評眼の持ち主であった藤村隆史氏による個人サイト『映画研究塾』。そこで藤村氏は、因果にとらわれない・むしろ逆転したような展開(たとえば鮮烈な結果のために、因が無理くりなかたちで準備されたり。)を活劇のひとつとして、その面白さを語っていました。その具体例が古典的ハリウッド映画の雨の使いかたで、傘をささず雨に濡れるに任せるヒーローたちの肌や服のかがやきがフィルムに焼き付けられていること、それを彼は讃えました。

 「上映n分で席を立つ」といったようなかれの映画への態度は、蓮實重彦氏へ私淑した結果で、『映画研究塾』に立ち寄ったひとのなかで蓮實氏を知る人は「蓮實のマネかよ」とそのままブラウザバックしました。蓮實氏を知らない人は「なにこの人こわい」「何様なの」とやっぱりブラウザバックしました。けれど『映画研究塾』を読むひと、雑に切り捨てず長文を読んだ人の見解はちがいました。「藤村隆史はここからが強い」かれが蓮實氏ばりに映画へ熱心で、それでいて蓮實氏とはまた違った方向へ進んだ一人立ちした批評家であることがわかったはずでした。

 clementia氏はそんな『映画研究塾』を読みつづけた一人です。

  (脱線終わり)

 さて『感情の楽譜』の序盤を読んでみると、傘を傘として扱わない光景をみとめることができます。

 『映画研究塾』が蓮實氏と違う独自の道を歩んでいったように、今作も『映画研究塾』の集積とはまた違った独自の文脈を築いています。

 『感情の楽譜』の傘は、雨もふらず同窓会のように騒がしい通夜の席で、陰をまとったヒロインを際立たせる小道具でした。

 そしてこの作品のベースカラーを築きます。喪服に黒い傘、葬儀のハレの日をモノトーンで始めた『感情の楽譜』は、ケの日常もまた「パリッとしたスーツ、白いシャツ」p.131などモノトーンで染め、白黒の主観映像で締めくくります。「色白の美少年」p.120、亡くなった彼の外見描写さえもがそうした雰囲気醸成の絵具です。

 そんなモノトーンの世界のなかで時おり激情が挿し込まれます。

 死んだように見える絵澄の目は真っ赤で、熱が迸っていたのだ。

   『伊藤計劃トリビュート』p.125「感情の楽譜」より

  ちらついた赤は、やがて紙面いっぱいにぶちまけられます。

 「情熱の焔」p.130を宿し「自分の血でできた口紅を塗りたく」p.130った語り手が、爆弾を次々と爆発させて、逃げ惑う人々の顔を「紅潮」p.131させ、血の「赤い顔拓」p.131や「内臓を見せつける建物」p.131を次々つくる……赤や赤を連想させる比喩の怒涛の連打。

  青い闇さすイスラム教の幾何学模様にポロックめいた赤が走り、白い百塔の町の石畳の下から人工筋肉がうごめくさまを幻視する『虐殺器官』、パステルカラーでぼんやりとした近未来建築に鮮血が走る『ハーモニー』。伊藤氏に惹かれたのは、そのイメージ喚起力のたかい描写力にもありました。*10

 語り手自身も劇中人物の仮装をしたり更には既存フィクションの登場人物のセリフをなぞると明示したりするとおり、そのシチュエーションは丸きりのオリジナルというわけではないけれど、しかし、たしかにかれ自身のかれだけの声だとぼくには思えました。

 

 

 聖書としてでなく;『美亜羽へ贈る拳銃』

 科学が発展し、体内のインプラントによって個人の性格まで操作できるようになった世界。古参の医療コンプレックス神冴の末っ子・士郎*11は、かれの兄で神冴から出奔した天才・光希*12の結婚式で決定的な出会いを果たす。社会を一変させることなる、兄とその新婦が銃を向けあう光景ーー互いが互いを愛するよう医学的・化学的処置をおこなう銃ウェディングナイフのお披露目――と。そして、じぶんにナイフを向ける兄の義娘・美亜羽と。

 

 『虐殺器官』の痛覚マスキングや子ども兵の殺人を可能とする戦闘時適応調整、『ハーモニー』のナノマシンによる脳の報酬系の操作。そういった感情を意思を操作する技術が発達・普及した世界であれば、社会のありようや愛の形も全く変わってしまうんではないか? そんなエクストラポレーションの光る作品です。

 

 お話も語り口も二転三転する展開がすごくって、独り立ちした作品群のなかでもひときわ一本の作品として面白い、伊藤氏関係なしに。ですが、多岐に渡った伊藤計劃作品からの引用・参照・発展から、『トリビュート』のなかでもいちばん伊藤氏に拠って立っているようにも思える。長編作品だけでなく、『MGS』ノベライズまで、それどころか短編も、とうれしい驚きでした。

 

 

   (余談)劇中「聖書」の扱いと自分語り

 とにもかくにも凄い作品ですし、そのSF上文学上の業績については、ぼくなどより詳しい方がたくさんおられます。その辺は誰かが語ってくれていることでしょう。各自おググりいただきたい。(現在発売中の『S-Fマガジン2019年10月号』には「伴名練総解説」という、名だたる作家・訳者・批評家さんによる解説記事が載っているらしいです)

 

 なのでぼくが書くのは自分のことです。

 個人的に刺さりまくった「聖書」のあつかいについて書きます。

 伊藤計劃作品は、グレッグ・イーガンテッド・チャンの著作とおなじく)『美亜羽』劇中世界の「聖書」となっていて、それを伊藤計劃にかんする当時の風潮の単なる茶化しとしてではなく、そこに含まれていた狂信的な部分もふくめて拾ったうえで、劇中世界の社会にとって劇中人物のドラマにとって必要不可欠なガジェットとして転がし機能させきっています。その腕力が刺さりました。

 伊藤氏は当時、死後「伊藤計劃以後」やらなにやらと印象的なキャッチフレーズの特集が組まれたりして、売れに売れた作家でした。自サイトに書き溜めた伊藤氏の映画評を熱心なファンがリスト化しまとめられたり、それを出版社がそのまま利用して、雑な体裁のコラム集として発行されたりもしました。

(彼の自身運営のサイトの文章のほうが、章立てがしっかりして読みやすかった。なので雑な体裁だと言っています。すでにリンクを張った『ファイト・クラブ』評の、『伊藤計劃記録 はてな版』をご覧いただければその意味がおわかりいただけるでしょうか。「Introduction」や「Cast & Crew」といった章題がことごとく除かれているのです)

 『ハーモニー』が伊藤氏の死後各賞を受賞していくなかで、その死と作品とをからめた選評者のコメントがでたりして、僕は脊髄反射的に叩いたり、これは『トリビュート』発刊後のできごとですが『屍者の帝国』刊行にさいした円城氏のコメント「伊藤計劃が闘病生活を送った故に、『虐殺器官』や『ハーモニー』を書くことができたという見解にわたしは与していません。当然、経験は小説の内容を変化させたはずですが、それが決定的で本質的なものであったとは、わたしにはどうしても信じることができません。彼が闘病生活を送っていなかったなら、作品はより素晴らしいものになったはずだと信じています。」にそうだそうだと留飲を下げたりしました。

 彼が亡くなって10年が経ちました。その間にたくさんの作家も亡くなり生まれましたし、無数の本が書店で入れ替わりました。書店自体もがほかの店舗と入れ替わったところもあるでしょう。それでもなお彼の本が書店の棚にささっているのは、出版社などのそうした戦略が功を奏したおかげでしょうし、いつ消えてしまうかわからない個人サイトのデジタルデータとしてでなく紙の本として国会図書館に所蔵できるかたちで残すべきです。今となってはそうした理由もわかる。

 でもあの頃はただ腹を立てただけでした。死者を出汁にするなと。でもそれってとてもずるい怒りかたでした。このムーブメントによって自分が、流通わずかな伊藤氏の同人寄稿などを読めた恩恵を得ていたことを、ぼくは棚上げしてました。動こうと思えば動けたのに金も労力も惜しんで何も動かなかった自堕落さを無視してました。

 その後も伊藤氏作品の多メディア展開を、コラボパンツを、面白味のまったくないお役所仕事的LINEスタンプを茶化しに茶化して雑に消費しました。甘い汁をすった。伊藤計劃を出汁にしたラーメンをずるずるすすった(と書くとアレですが、まるわさんのラーメン自体は原作オマージュも味も素敵な料理でした)。SNSで大喜利される「伊藤計劃以後将棋部」に同調して笑いつつも、一方でことあるごとに著作をブログを読み返し引用してかれを内心で神格化しているじぶんを無視してきました。

 『美亜羽』の「聖書」みたいに、冷笑とも、意地汚さとも、公言も自覚もしたくないマジに崇めちゃってる部分とも向き合って、すべてひっくるめたうえで劇中必要不可欠な要素にしてしまう……そんな、おおまじめにふまじめな昇華はできなかった。ぼくは自分が恥ずかしい。

 

   聖書としてでなく

 そうした自分と比べてみたとき、『美亜羽へ贈る拳銃』のいちばん凄いところは、その世界観なのかも、と思いました。

 『美亜羽』で描かれるのは、言ってしまえば世界有数の医療関係企業のお家騒動ですが、ふたを開けてみるとおどろくほど生臭く、まるでヤクザ映画マフィア映画のように手足が首が飛んでいきます。(縮小された敵対企業の要人は、主人公側企業の要人と親子の盃を交わしたりすることでようやくその身を保証されたりして、その印象をさらに強めます)

 ともすれば粗っぽいととらえられかねません。実際、今作が収録された商業書籍『拡張幻想』の感想をあさってみると、展開の早さについての声が聞こえなくもない。

 けれどぼくには、この荒々しさは、今作が『ハーモニー』劇中世界では寸でのところで踏みとどまっていた領域から歩みを進めてしまった世界であるための必然のように思えてなりません。

 冒頭で鮮烈なお披露目をされたウェディングナイフ。それで撃たれた者の感覚を、『美亜羽』は下のようにあらわします。

 こうして、神冴士郎と、北条美亜羽は――もともと互いのことを微塵も愛したことなどなかったにもかかわらず、相思相愛となり、幸福に二人で暮らした。

 僕たちは、いま、とても幸せだ――とても。

    伊藤計劃トリビュート』p.163「美亜羽へ贈る拳銃」より

 『美亜羽』のこの文章は、もちろん『ハーモニー』結末の参照です。(さらに『From  the Nothing, With Love.』の語りの技巧もからめた、複雑な語りとなっていますが、そこはこの感想の重点でないので、その面白さはここでは語りません)

 いま人類は、とても幸福だ。

 

 とても。

 

 

 とても。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫JA)、伊藤計劃著『ハーモニー』kindle換算100%(位置NO.3981中3964)、<part:number=epilogue:title=In This Twilight/>より

 『美亜羽へ贈る拳銃』でこうした文章があるのは、ほかの先行作への言及とおなじく宣言でしょう。この作品はあの幕引き後の世界ですよと。その先はなにかを探しに行きますよと。

 『虐殺器官』劇中世界が、すでに核を通常兵器として使用することが常態化されてしまったあとの、手遅れの季節を描いた作品であったのと同じように。性格を意識を弄ること、<わたし>というアイデンディティを弄ることが常態化された世界では――それこそ、三大欲求以上に別の欲望の優先順位をつよくするというような大規模な脳への操作が、「インプラント」なんていう、"いま・ここ”では歯医者でいちばん聞くんじゃないかという何の変哲もない語であらわされてしまう世界では*13――、たやすく人命自体に手がのばされてしまう。あるいは医療が進歩したからこそ、物事を動かすためにはちょっとのケガではびくともしないから、人命自体を飛ばすほどの荒事を行わざるを得ない。……そういうことなのではないか。

 

 世の中にはさまざまな敬意の表しかたがあるかと思います。

 対象を構成した要素をコラージュするとか、その精神性をオマージュするとか。コレクションやアルバムのようにまとめ、大事に大事に懐かしむという方法もあるでしょう。それこそ聖書のように、そらで暗誦してみせるとか。

 そうじゃなくて、原典をなぞるのではなく、原典にはえがかれなかった空白のページを自身で書き進めるという方法もまたあるでしょう。

 そうした作品たちがこの『トリビュート』で、そしてこの『美亜羽』の世界観なのかなと思いました。

 

 さて『トリビュート』を購入した動機のひとつは、ツイッターを眺めていたら「もともとは結末がちがったらしい」というような噂を聞いて、それを確かめてみたかったというのもありました。

 購入した電子版『トリビュート』は、改稿もなされた第2版とのことで、だからなのでしょうか、『美亜羽へ贈る拳銃』は短編集で読んだのと同じオチのように思えました(。初版はどんなものだったのやら……後追いの悲しさよな~)。

 ただ、中盤の分子ガストロノミー料理ハイテク版は、同人版の時点では未登場だったみたい。ここについては、19年刊短編集版を読み、巻末の初出時期をみて、「『noma』日本支店ができたのこそ数年経っているけれど、(そこでも修業した)橋本氏が自身の店舗『セララバアド』ができるのは4年以上もまえの時分に、劇中へその料理を取り入れていたのなら、現実にかんするアンテナのはりかたとそれをウンチクに終わらせない作劇の反射神経・手管がすごすぎるだろ……」とふるえていた箇所です。(『拡張幻想』掲載時などの異同は未確認) まあどこで書き換えられたにせよ「出して終わりにしない作劇力」がすごいことには変わりありません。

 また、結末部といった大きなところだけでなく、こまかな部分でも改稿がなされているのを確認できたことで、伴名氏のひたむきさを知ることができもしました。

 伊藤氏もまた、『虐殺器官』で、小松左京賞投稿時から商業出版にあたって1エピソードくわえたというお話が有名ですが、『Heavenscape』(死者の国の風景)や『フォックスの葬送』(密林での潜入模様)から一シーンを自己転用した部分も、ただコピペするのでなく作品にあわせた調整が加えられていたりと、ひたむきに改善する姿が見受けられました。

 

 2019年短編集掲載版とのちがいをザッと見ていくなかでとりわけ面白いなと思ったのは、神冴で実現間近だったテクノロジーに関する一文です。

 幾つかの技術は、神冴で進んでいた研究をもとにしたものであり(先天性自閉症治療の実用化は、ほとんど完成間近だった)

    『伊藤計劃トリビュート』p.137-8「美亜羽へ贈る拳銃」より

 東亜が発表した幾つかの技術は、神冴で彼中心に進んでいたものであり──たとえばミラーニューロン同期による心情追体験システムは、ほとんど完成間近だった──

   早川書房刊、伴名練著『なめらかな世界と、その敵』kindle換算22%(位置No.4781中1039)、「美亜羽へ贈る拳銃」より

  改変された理由は、第一はのちの展開をより面白くするためなのだろうとも思います。ここで人間のとある性質について欠点・治療みたいなイメージがついてしまうと、終盤の天才次男の性質に予想がついてしまうだろうと。それを防ぐための改変なのだろうと。あるいは、いまよりも未来の世界において、それを「治療」する「症状」と言い表わしてよいのか? と見直しが入ったのかもしれません。

 その辺だろうと思うのですが、こうかなとも思ってしまう。

 こだまかなと。

 『伊藤計劃トリビュート』の先鋒をかざった『echo』はミラーニューロンを操作し他者に共感・同調するシステムが誕生した世界のお話でした。ぼくはそこからの影響を見いだしてしまいます。『A.G.C.T. 』など新間大悟氏の同人作品を読んで、そこから後の伊藤計劃氏の作品(同人・商業両方)を思い浮かべたように。

 

集団制作を読む楽しみ

 集団というか共同というか競作あたりがただしい表現なんでしょうか。たぶん示し合わせとかをして書いたりなどはしてないと思いますが、似たようなトピックをあつかった作品があって、それぞれの料理の仕方、作品の配置が楽しかったです。

 トップバッターとしての『echo』の良さについては「こわい/かわいい汗;『echo』」で書いた通りです。

 不特定多数に絶命の音を響かせる『echo』のつぎに、特定個人が聞こうと動いた結果として生の短音を聞く『死者の時制』が来る面白さ。

 『死者の時制』の贅肉のすくない文章で語られた感覚を切り詰めた実存から、『量子の海のカルペディエム』で日常がいかに余剰にあふれ強固であるかと、切り捨てられていく実存を詳細に見る楽しみ。

 『量子の海のカルペディエム』でサラリーマンの日常が、『The Pile of Hope』でも堅い社会の強固さが扱われアカデミックな研究も劇中要素となったのを読んできたうえで、『猿に始まり狐に終わる――あるアカデミーでの講演から』で「こっちもアカデミックな内容なのか」と思ってフタをあけてみたときの驚き。

 『猿に始まり狐に終わる』で「おれには早すぎた……」となったあと『もしオクラホマ』と書き連ねていくのも面倒なタイトルのあれを見て、「これもおれには早すぎた案件じゃん」と思いきや、フタをあけてみたときの驚き。

 ごくごく少数しか集まらない葬式が起点となる、移ろいゆく夕陽の美しい『The Pile of Hope』がある一方で、百人を超える通夜が起点となり、赤が爆ぜる『感情の楽譜』がある面白さ。

 そして『感情の楽譜』でナノマシン技術とカップルの礼儀が取り上げられたと思ったら、幕開けでまさしくそれによって世界がかわる『美亜羽へ贈る拳銃』が来る面白さ。

 

 『echo』『TPoH』『感情の楽譜』『美亜羽』で、集団(だいたい学校)からつまはじき者にされた(≒疎外された)個人と、それをどうするかについてが大なり小なり問題になって、それぞれがさまざまな料理される楽しみ。

 

 各作の死のあつかいについて

 なかでも多く出るのは、自死(だろう)者の存在ですね。「自死合同」とか、「わたしという実存合同」といったようなおもむきもあります。

 『伊藤計劃トリビュート』に登場する各作の、死の感触や死者との関係性についてまとめてみましょう。

 『echo』は、飛び降り自殺をこころみる二人の激情によって奏でられた独特の絶命の一音が、無関係の周囲にまで伝播する・していくという結末でした。

 次に載せられた『死者の時制』は、その反対に、部外者にちかい個人が他者について黙々と渉猟していくうちに突発的に思われた自然死に謎を見出し理を解いて、生の音、音楽ならぬ音楽をつきとめるという結末でした。

 『量子の海のカルペディエム』だと主人公の飛び降り自殺は寸でのところで達成されない領域で、それやそれにむかう衝動こそが生の実感となりますが、それさえもが水に流されてしまい、効率化された日常のなかでは異物の狂気として扱われ、存在を認められません。

 『The Pile of Hope』では、姉の死は彼女の意思というよりも彼女の役職や人間関係など複雑な変数のからんだ結果で、死者の言葉によって主人公との断絶が明かされます。

 『感情の楽譜』で飛び降りた死者は、身内ではありません。死もその理由も明かされることなく関知もかなわない領域として置かれ続けます。

 『美亜羽へ贈る拳銃』では、劇中でも悪趣味な口寄せと称される主人公の機転によって、いなくなった想い人――本人曰く悪霊――との会話が果たされますが、かれにとって都合のよいことを言ってくれる訳でもなく、すでに知られていたとおりの事実を繰り返し、彼の想いを拒み、銃をつきつけ倒れます。「ばぁん」とひとつの銃声を残して。それはひとがこと切れる音であるとともに、新たなスタートを切る号砲でもありました。物語の主役は逝きます、傾き落ちゆく体がそれを伝えます。物語の主役は生きます、落ちゆく体を抱き止めた手がそれを伝えます。

 

 ひとが地に落ちて生じる絶望の音をこだまさせる作品で幕を開けたトリビュートが、ひとが地に落ちきるまえに抱き止められそして祝砲をひびかせる作品で幕をとじる。きれいにまとめられたものだなあと思います。

 

 

 ぼくらの見たかった景色はすぐそこだ。一緒に来るなら、期待してくれてかまわない。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫JA)、伊藤計劃The Indifference Enginekindle版26%(位置No.3634中930)、「The Indifference Engine」より

   『伊藤計劃トリビュート』p.185より

 『伊藤計劃トリビュート』は本の末尾を、伊藤氏の著作『The Indifference Engine』から引用してしめくくります。この短編は、内戦終戦後の元子ども兵たちのために劇中外国NGOがSF的な処置をほどこすも、それが彼らに意図せざる影響をあたえ、子どもたちは大人たちの思惑に縛られず自分たちの進路を歩きだしていく……という話でした。

 あちらの行進は背筋が凍りもしましたが、こちらの行進はどうでしょう、まったくちがって聞こえます。現地からAKを拾い上げての行進も、身の内から『美亜羽へ贈る拳銃』などを掬い上げての行進も、どちらもその進むさきに幸あらんことを祈りたくなるような切実さを感じることだけは同様ですが。

 『伊藤計劃トリビュート』の号砲から、かれらは14年に新しい面子を加えて 『艦隊これくしょんトリビュート』(紙版のみ。入手難)を、うち4人で18年に『改変歴史SFアンソロジー』(電子版流通アリ。また一部作品は『なめらかな世界と、その敵』『おうむの夢と操り人形 (年刊日本SF傑作選)』といった商業書籍に再録)など、個人では19年に『美亜羽』著者伴名練氏が早川書房から個人短編集を出したり、『TPoH』著者谷林守氏が19年第10回創元SF短編賞日下三蔵賞を受賞したりと、インディーメジャー問わずさまざま歩んでいるようです。また、この感想を投稿したのと同日8月28日から、京大SF幻想研の現役生さんたちによる『note』でのレビュー企画もはじまりました

 悼むことと縛られ留まることはちがうことだと、今も進みつづける彼らの背を見て思うのでした。

 

 

追記;ついてってみた、たしかに大丈夫

「一緒に来るなら、期待してくれてかまわない」

 本当にそうかな? 気になるところですよね。

 また、ぼくのこのblog記事にしたってスッゴく怪しいですよね。「最近のネットの感想にありがちな、やたらとエモエモな耳当たりのよいおべっかがならぶアレですか?」みたいなにおいが否めません。「マジに良いと思ったらほかの作品もちゃんと追うじゃないですか! 追ってないってことは実際はさ、」みたいな。……そう思われるのも仕方ない!

 続報がないのはzzz_zzzzがぐうたらなせいで、作品・作家に非はなにひとつありません。遅ればせながら『トリビュート』読了以降、いくらか作品を後追いできたので追記です。

{もちろんこの追記は、作家が多く重複する『艦隊これくしょんトリビュート』『ラファティトリビュート つぎの岩』などは未入手で、片手落ち感は否めませんし、それらを読めたらまた印象は変わるんでしょうが、上がりこそすれ悪くなるということはないんじゃないかという気がします。手に入る日まで更新を止めていたらいつまで経っても動けませんし、『トリビュート』発表から10年の節目ということで、とりあえず年がかわらないうちに一旦ひとくぎり付けます}

 

 執筆者の伊トリ以前以降の活動について(書誌情報関連)

 単著のある伴名氏の活躍はわかりやすいですし(いやでも氏も後述のとおり活躍しすぎてよくわからない領域に入っていますが)、メジャー出版社での掲載が継続的にある坂永氏はともかく、そのほかの方々の活躍はいまいちわかりにくい。

(『伊藤計劃トリビュート』のでたのが10年まえです。家庭をもったり、社会の荒波にもまれたり、得た職を変えたり、それなりのポストについたりする長い歳月だ。創作に注げる時間的精神的体力的余裕はどうしたってすくなくなります。読む側としては気楽に楽しめる作品でも、作る側にとって片手間で生み出せるものとは到底思えず、寡作になってしまうのも仕方ない)

 また、ひとによってウィキペディアが充実しているけれど、媒体の性質上、そちらでも「じゃあ具体的にどんな作品・文筆を記したの?」とかって部分はわからなかったりします。ぼくが追えたところだけでもこの記事内で記しましょう。

 

 巻頭言の曽根卓氏はいくつかの同人誌を編集・出版しているほか、『稀刊 奇想マガジン殺戮奇想』に収録されているというベルの図書館で発生した殺人もしくは非殺人の報告書」が『年刊日本SF傑作選 行き先は特異点』の2016日本SF短編推薦作リストに*14茶が阿片である世界」(同人・鴨川書房刊『改変歴史SFアンソロジー』収録)が『年刊日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形』の2018日本SF短編推薦作リストにノミネート*15されています。

 

 「echo」の里野佐堵氏は、が愛しき艦娘たちよ」(『艦隊これくしょんトリビュート』収録)が『年刊日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』掲載の2014年日本SF短編主要作リストに挙げられています*16。また、第3回創元SF短編賞一次選考通過作として「葬鳴」があるようです。(同人やネットで公開されているかはちょっとググった程度じゃわかりませんでした)

 

 「死者の時制」の船戸一人氏は、ハヤカワ・ロボットSFショートショート・コンテストにて次席入選。投稿時の『共に歩くもう一人』から改題された重写し」が『SFマガジン 2008年1月号』p.60~69に掲載され、『NOVA 6 書き下ろし日本SFコレクション』(’11)でビング・オブ・ザ・デッド」が掲載。後者は『SFマガジン』2019年2月号の一コーナー「百合SFガイド2018」で林哲矢氏から紹介・書評されてもいます。

www.kawade.co.jp

 そのほか、クスト・センチュリー・モダン」(『R・A・ラファティ生誕百周年記念トリビュート小説集 つぎの岩』収録。「スロー・チューズデイ・ナイト」オマージュとの噂の魂に安らぎあれ」(『艦隊これくしょんトリビュート』収録)が『年刊日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』掲載の2014年日本SF短編主要作リストに挙げられています*17。第一回かぐやSFコンテスト投稿作がネットで読めますが(「掌編だというのに、よくぞまぁ……」と独自の世界や語り口の作品でした)、公開アカウントが作家と紐づけられてはいないのでここでは省きます。気になったかたは探ってみてください。

 また、京大SF幻想研の創作同人誌ステリズムピリオド 円城編 円環編 円楽編』どれかを執筆したらしいのですが、詳細はちょっとググった程度ではわかりませんでした。

{さてこの本、企画と紹介記事だけ窺う感じだと……

 ……春にこんなツイートをみかけましたが、まさしくそんな若さがありますな。いま御本人たちがどう思っているのか存じませんが、サークルBOXで駄弁っているうちに生まれたであろうアホなネタを具体化してしまえているところがなんだか眩しい。*18

 後述のとおり最近でも皆月氏が落語を参照した改変歴史SFを発表されたり、谷林氏clementia氏がタイムリーな時事ネタを早期に作品へ仕上げて瞬発力を見せてくれたりしているとおり、この『円城 円環 円楽編』だってアホな企画から出発しつつも、作品自体はきっとしっかりした出来になっているんじゃないかという気がします。気になりますね

 

 「量子の海のカルペディエム」の皆月蒼葉氏は、ラの水槽』で第三回創元SF短編賞・大森望賞を受賞。同賞選評には……

なお惜しくも受賞を逸した最終候補作の中から、前回・前々回と同様に《原色の想像力》シリーズの新刊として、優秀賞と選考委員特別賞を含む九作品をアンソロジーに編み、創元SF文庫の一冊として年内に刊行いたします。

   東京創元社刊、理山貞二著『〈すべての夢|果てる地で〉 -Sogen SF Short Story Prize Edition- 創元SF短編賞受賞作』kindle版85%(位置No.1210中 1019)、「第三回創元SF短編賞選考経過および選評」より

 ……とありましたが、『原色の想像力』の刊行は2巻どまりで以降の刊行は現状なされておらず、商業書籍への収録はないようです*19

 同人活動を継続的にされており、江戸っ子・落語調で語られる世にもめずらしい朝顔パンクな改変歴史SF戸の花」『改変歴史SFアンソロジー』収録)が前述2018日本SF短編推薦作リストにノミネート*20、劇中世界の法令雑誌採録テクスト(風小説)という独特の語り口である労委令36.10.16三光インテック事件(判レビ1357.82)」(『紙魚はまだ死なない』収録)竹書房刊・大森望編『ベストSF2021』「2020年度短編SF推薦作リスト」にノミネートされた上に法学の専門家からも高評を得ました。

 そのほか、『艦隊これくしょん』二次創作で改変歴史SF要素のつよいわりの花』、おなじく『艦これ』二次創作かつ改変歴史SFだけど語り口はまったく別物・劇中世界に当然存在しているであろう学術書の体裁をとった(「中労委令~三光インテック事件~」の前身的試みと言える)小説本史の中の深海棲艦』はどれも流通があり、アクセスしやすいです。

 他には、完売してるけど入手はしやすそうなフリースタイルラップmeets百合小説でサイバーパンクsky’s the limit」{夏ノ廃道(皆月蒼葉と中野史子)『ユリリリックE.P.』収録}だとか……

youtu.be

 ……いまをときめく日記マンガ作家ハンバーガー氏(作画)との共作変だ! はやてちゃんの学び場に守護騎士たちがやってきた!略してタイバニ』なんてものもあったらしい(未入手・未読)

 『艦隊これくしょん』二次創作は、前述二作のほか、『艦娘ゲーム』(紙は完売。電子書籍の取扱いはないものの、以前PixivFanboxの1000円コースでDL可能でした。後継のCi-enではどうなるか?)、『終わりの花』の5年後を舞台にしたスピンオフ的続編『ランドスケエプ』『楽章a』、『ラムネの空、ガラスの瞳』などがあり、さらにもう一作構想があると云います。

 「The Pile of Hope」の谷林守氏は、「『ハリン社会主義共和国近代宗教史料』(二〇九九)抜粋、およびその他雑記」で第十回創元SF短編賞・日下三蔵賞を受賞。これと受賞後一作月の荼毘」二作は、kindleで流通のある第三象限さんの同人誌たらしいサハリンの静止点』で読むことができます。「あたらしい~」は千葉集氏の第十回創元SF短編賞・宮内悠介賞(ならびに竹書房刊・大森望編『ベストSF2020』の2019年度短編SF推薦作リストにノミネート。*21の「回転する動物の静止点」や第九回創元SF短編賞大森望賞受賞者の織戸久貴氏の第十回最終選考作なども読めてお得です。

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 目下の最新作は、千葉・織戸氏含めたさまざまな人の参加したストレンジ・フィクションズさんの同人誌になっても遊びつづけろ 夜ふかし百合アンソロジー収録の女の身体はとても冷たい」こちらもkindleで流通があります

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 そのほか、れられた船」(『艦隊これくしょんトリビュート』収録)が前述14年日本SF短編主要作リストに挙げられています*22

 

 「猿に始まり狐に終わる~」の春眠蛙氏は、り返ったガラテア」(『R・A・ラファティ生誕百周年記念トリビュート小説集 つぎの岩』収録。「豊かで不思議なもの」オマージュと噂される)わりの海」「天女縁起」(『艦隊これくしょんトリビュート』収録)が前述2014年日本SF短編主要作リストに挙げられています*23

そして、春眠さんの書いた「戦天女縁起」を読まなければ、私は「ホーリーアイアンメイデン」以降の幾つかの作品を書くことはできませんでした。

   早川書房刊、伴名練著『なめらかな世界と、その敵』kindle版100%(位置No.4781中4736)、「謝辞」より

 「戦天女縁起」については伴名練氏が短編集『なめらかな世界と、その敵』にて自作への影響に触れ献辞をのべ、『年刊日本SF傑作選 プロジェクト:シャーロック』では影響についてもう少し詳しく語っています。

 

 「もしオクラホマ州の~」の坂永雄一氏は、えずりの宇宙」で第一回創元SF短編賞・大森望賞を受賞(東京創元『原色の想像力 創元SF短編賞アンソロジー』へ収録)。『年刊日本SF傑作選 結晶銀河』の2010日本SF短編推薦作リストの一作にも上りました*24。その後もプロダムで短編を発表しており、ャングルの物語、その他の物語」(河出『NOVA+ 屍者たちの帝国 書き下ろし日本SFコレクション』へ収録。kindle電子書籍流通あり人の船で発見された手記」 (東京創元『アステロイド・ツリーの彼方へ 年刊日本SF傑作選』へ収録)熊座」 (東京創元『おうむの夢と操り人形 年刊日本SF傑作選』へ加筆再録)脊椎動物の想像力と創造性について」 (河出『NOVA 2021年夏号』へ収録)が在庫さえあれば書店に並んでいるはずです。目下の最新作は装箪笥(ワードローブ)の果てへの短い旅」で、掲載本である同人誌『カモガワGブックスVol.3 〈未来の文学〉完結記念号』はBOOTHやCAVA BooKSでげんざい取り扱いがあります。(いつまであるかは不明ですが)

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 そのほかぎの岩」(『R・A・ラファティ生誕百周年記念トリビュート小説集 つぎの岩』収録。題名とおり主に「つぎの岩へつづく」オマージュとの噂載・ブラウザゲームのエコシステム第8回『呪われた戦艦』の真実~ドイツ軍戦艦シャルンホルスト秘話~」(『艦隊これくしょんトリビュート』収録)が前述2014年日本SF短編主要作リストに挙げられています*25

 

 「感情の楽譜」のclementia氏は、百兆の孫娘」(『R・A・ラファティ生誕百周年記念トリビュート小説集 つぎの岩』収録)21センチュリー・ニュー・プロジェクト・フィラデルフィア(『艦隊これくしょんトリビュート』収録)が前述2014年日本SF短編主要作リストにノミネート*26。別名義で某長編SFコンテスト某回の一次選考通過した気配があります(ネットや紙で読める手段はなさそう)。

 自身のblogでピーター・ワッツ氏の小説『ZeroS』を全文邦訳掲載などをされてもいます。

 ウェブで公開された一次創作として、長編スティック・アメリカ』(たぶん未完)れど婚礼は続く』スフェラトゥ』西部劇』(前述長編の一部)があり、何らかのかたちで読めたり読めなかったり。

 映画的な光景・技巧を小説でやる意味について模索されているような印象があります。

 『ミスティック・アメリカ』は、アメリカンドリームやハリウッド、"映画的"なるものやあるいは紋切り型の"物語"、テクノロジーもそれを扱う人々のノウハウも進歩し効率化していって大量消費も大量死も可能となって、人体の神秘が明らかとなりつつあり「個人」の立身出世が素朴に信じられなくなっていく社会的諸相と、そこからはみ出るような散文/小説/個の生……といったところを眺めているだろう作品。

 いわゆる能力バトル物なのですが、異能の奇天烈さは現実の奇天烈さでもあって、たとえば原克氏の都市・テクノロジー本にワクワクする人ならたまらない内容でした。そして原氏の知見にとどまらない個別の研究をも取材するような力の入りようでもあった。調べるものは無数にあって、考えても考えきれない問題を考えなきゃいけない……そんな作品を個人が生活のなかで書き進めていくには人生はあまりに短い。未完もやむなし。

 序盤だけ読み、「これは読むのに骨が折れる作品なので、ひとくぎりついたところで一気読みしよう」と思っていたら、蔵にしまわれてしまっていた。(絶版になっても本屋や古本屋さんを漁ればなんとかなるかもしれない紙の商業出版とちがい、デジタルかつ同人の世界の物語は消えてしまうとサルベージするのが難しい。気になったらその時にさっさと読むのが吉ですなぁ)

 最新作ルカと老人」(今作を収録した『カモガワGブックスVol.3 〈未来の文学〉完結記念号』は第3刷が12月21,22日発送予定でBOOTHCAVA BooKSにて予約受付中。4刷や電子出版があるかは不明)は、COVID-19下で出番の増えた新興事物について、その視聴覚的特徴を的確にすくって物語上のモチーフとして活かしていて素晴らしい。

 『カモガワGブックスVol.3』が世に出たことで、登場人物の学生の一人称語りによりクラスメイト2人との関係をえがいた内省的で静的な「感情の楽譜」と、劇中独自現象の影響をもろに受ける立場のバックボーンをそなえた社会人である主人公の動きを"心の声"は極力ひかえた距離感の三人称視点から描きだす動的な「イルカと老人」

 両極端な二作がアクセスしやすい形で発表されている状況となり、たとえ前者がだめだったかたでも後者を読んでみたら別種の感想をいだくかもしれませんし、逆もまたしかり。

hanfpen.booth.pm

 

 「美亜羽へ贈る拳銃」の伴名練氏は、2019年に単著2冊目となる短編集めらかな世界と、その敵』早川書房より刊行、『SFが読みたい!』の「2019年SFベスト国内篇」1位に。これは感想本文にも書きましたが、再録された「美亜羽」から伊藤計劃作品をdigる~という、あたらしい読者を生んだりもしたそうな。すごいことです。短編集については当blogでも感想文を書きましたから、内容紹介ははぶきます。

 『2010年代SF傑作選』『日本SFの臨界点』などアンソロジストとして複数冊を編み、随筆や小説を『文學界』や『小説すばる』で発表したり(しかも代の小説2021 短篇ベストコレクション』に収録されるような作品を『SFマガジン』に寄せたり、逆にストSF2021』に収録されるような作品を『小説すばる』に寄せたり……)『幻想と怪奇』読者寄稿ページにご自分から投稿したり、ミック百合姫の表紙(!)で小説を連載したり、刊少年ジャンプ』巻末にスッと現われてUSBを渡してスッと去っていったり(!?)と、よくわからない領域に活動を広げています。{(前例はあるようですが)漫画雑誌の表紙が小説の生息圏だとは思いもしませんでした……}

 

 

 入手済作感想

  おおまかなまとめ

"イチオシは坂永雄一氏の「ジャングルの物語、その他の物語」と谷林守氏の「八月の荼毘」。現実と接点が見えやすく、キャッチーでとっつきやすい面白いドラマにぼくはヨワい。二作とも電子書籍があって手に取りやすいのも嬉しいところ。

 二次創作が大丈夫であれば皆月蒼葉氏の『終わりの花』も面白かった。

 十代の少女たちが「鎮守府」の「提督」たちの指図によって最前線で戦わなきゃならないグロテスクな世界で、たったひとり異を唱えるつまはじき者の主人公が秘密裏に同志を募り昔馴染みもつどっていく青空のさわやかな序,一章から、交戦に陰謀にと暗雲をちらつかせながら「事件当日」に向かう……ブライアン・シンガー監督『ワルキューレ』などクーデター物がお好きなかたなら是非是非おすすめの立派な長編です。

(劇中で不足なく補足がなされるので、原作はキャライラストさえググる必要もない気もします。ただ、「ゲームのシステム的な大前提にこう肉付けしたのか!」と作家の創意に気づけやすくなるという点で、ぼんやり設定とかゲームの流れとか頭に入ってると面白い部分があるかもしれません)”

 と書いたのは坂永氏の無脊椎動物の想像力と創造性について」を読むまえのこと。そうしたドラマの面白さとリサーチの利いた堅い地平からどこまでも広がり飛んでいく入念で奔放なイマジネーションとが継ぎ目の見えないレベルで微に入り細に入り絡まった大傑作です。紙の書籍しか流通はないけれど、日本の狭い家屋を圧迫する価値のある一作。

 

 とっつきやすいかはともかく、えらい方向に進んでいるのが月氏の実験的な小説群。「そういう世界があるのであれば、当然こういう言論はあるはずだ」というような意味で、「量子の海の~」と同様、現実の地平に立ち続けているかたなのではないでしょうか。

 皆月氏の作品を読んでいて面白いのは、毎作毎作その媒体やコミュニティなどで流通することばの独特の質感をすくっていることで、普通小説的な作品も、偽書的な作品も、その意味では共通した味わいがあります。

 へんてこな、でもその世界ならではのことばの連なりが読みたいなら、どれを手に取っても得られるものがあるんじゃないかしら……

 ……とかナントカ、ついそんな感じに言っちゃうし見た目にイカツいので、未読のかたからすると難物に思えてしまいますよね。『日本史の中の深海棲艦』は正直ながくて休憩をはさみながら読みました(笑)

 でも、語り口としてはもっとイカツい「中労委令~」は、読者のアテンションスパンと作品サイズが噛み合ってよい塩梅。案外スラスラいけちゃう面白い読み物です。これまたオススメの一作。

(でも「読みやすくて面白い作品だけが良いものか? いや読みにくくてつまらないからこそ凄味がでる作品もある」と思い知らせてくれた『日本史の中の深海棲艦』のほうがぼくにとっては重要なのですが……むずかしいっすね……)

 「量子の海のカルペディエム」にしてもこの後に感想を述べる「sky's the limit」にしても「江戸の花」にしても――さらには『終わりの花』も、はたまた『日本史の中の深海棲艦』「三光インテック事件」さえ含めたってよいかもしれませんが――月氏の小説を読むと、「よくもまあ世界にはとめどなく大量に消費されていってしまう無常がこれだけ無数にあるものだ」と気が重くなりますし、それと同時に「それでもなおそこで生きていくわたしの実存というものもまた、よくもまあこれだけ多様にあるものだ」としみじみとした感慨もわきます。

 

 曽根氏の「緑茶が阿片である世界」も語り口の目の付け所がとてもよい。えらいかどうかはともかく面白いです。

 

 『伊藤計劃トリビュート』以外にも歩みをすすめてよかった収穫が、「もしオクラホマ~」についてはうまくノレなかった坂永氏の商業書籍掲載作がやたらと肌に合うこと。

 夢であったり特定の生き物であったりはたまた無数に存在するようになってしまったらしい世界自体であったり……対象は毎度ことなりますが、今回よめた坂永氏の作品はどれも、実体のある存在も与太話も等価というか同一平面上に並んで綱引きしているような様相をていしていて。そして、絶対的なものに思えたけれどその実そんなことはないもの、取り留めもなくてたやすく消え去りかねないものがつよい印象をのこします。

 そうした足元のおぼつかなさは、うすら寒くなる不安となる場合もあれば、明るい可能性も全否定できない応援となる場合もある。この多義性は「もしオクラホマ~」と通じていて、あちらを楽しめたかたは、他作も大いに満足できることでしょう。

 「大熊座」は『改変歴史SFアンソロジー』初出作ですけど奇想度がたかめ。虚実の細かな噛み合わせが面白いタイプの改変歴史SFがお好きなかたは「ジャングルの物語~」をおすすめします。

 

 船戸氏の作品は、トリビュート収録作と商業掲載作はどれも芸術家・作中作が題材となっています。

 3作ともテクノロジーが発達して人体や脳から神秘がはぎ取られつつある転換期の世界を舞台にしていて、そうした世界で大きく影響が表れる存在として(小説や音楽、演劇といった)個々人の思考や感性が表出される向きのある芸術が題材となっているのでしょうか? モチーフは似通いつつも、それぞれ語り口も物語もまったく異なるので底知れません。

 『艦トリ』や『ラファトリ』の収録作を読めないのが歯がゆい部門第一位。

 

 

   個別の感想
   ▽曽根卓著「茶が阿片である世界」

(同人・鴨川書房刊『改変歴史SFアンソロジー』収録。BOOTHにて電子流通中

 訳者あとがき

 『緑の神――世界を変えたドラッグ』(ジェフリー・ベイカー著、佐々木智之訳)より抜粋

 本書は、二〇一四年にアメリカのアグロー社より刊行された Green Devil ; Drug Raped the World の全訳である。

 ちなみに、本書に頻出する「アヘンの二百倍の依存性」という表現は、彼が傾倒していた米国の大麻解禁運動グループにおいて広く流布されている数値であり、正確なものではない。実際には、ここ三十年の米国保健学会の数値でも、日本茶の精神依存性はアヘンの百五十から百八十倍の数値におさまっている。彼自身が正統科学界からやや離れた位置にいた理由が、この一点からも見てとれるだろう。

 欧米史における茶の影響については本文に譲るとして、本稿では、補足と訂正の意味も込めて、日本国内における茶の浸透と拡散の歴史について簡単に纏めていきたい。

 茶は飛鳥時代、仏教伝来の前後に中国大陸よりもたらされたと推定されている。奈良・飛鳥時代の仏教説話を集めた『日本霊異記』には「茶を食んで猿を生んだ女の話」という一話が収録されており……というお話です。

 世の小説の語り口には論文や解説やルポやエッセイを擬したものなどさまざまありますが、今作が採った「訳書の訳者あとがき」という体裁は発明ではないでしょうか(ぼくが先行作を知らないだけだったらゴメンなさい)

 

 良い「あとがき」のご多聞にもれず、原著『Green Devil』の補足・訂正として、他国で生活する『緑の神』訳者・佐々木は、(原著であつかわれるトピックが訳者の母国にとってどんなものであるかなど)自身にとっての正史をつづって、この小説の読者に劇中世界にかんする一定のパースペクティブを提供します。

 そんな劇中歴史解説で(ある程度)淡々と刻まれた時間によって「緑茶が阿片である世界」読者からクスクス笑いを定期的に取っていった今作は、やがて――これまたやっぱり「訳者あとがき」のご多聞にもれず――末尾で少々、原著者ベイカーとの個人的な交流・思い出をつづります。

 つまり「訳者あとがき」という形式を採ることで今作は、文体をきわめて自然にディエーゲーシス*27からミメーシス*28へと移行してみせているんですよ。そしてさらにはこの減速増速自在のアクセルさばきで、半笑いの読者の口をアングリ大きく開けさせるゴールを切ってみせます。

〔巻末「作者コメント」で曽根氏自身が言っているとおり「酒の余興みたいなバカ話」、イデアを面白がる"かるい読み物"として接するのが楽しそうとも思いますが。

 でも「頭空っぽにして楽しめる」って難度の高い達成ですよね。感想をあさると天正壬午の乱のアナクロなどが指摘されていたり、歴史に詳しいかたからすると気になる点はいくつかあるみたい。(リンク先のそれ以外の指摘は、ツイートにもあるとおりむしろその転倒を楽しむ意図的な細部だと思いますが)読書をさまたげるほどの引っかかりポイントかどうかは歴史に疎いぼくにはわかりません。

{『日本政治思想史』など原武史氏の著作をさいきん読んだぼくとしても、戦後GHQによる抑圧へ緑茶をからめたところで、新茶道やそれを広めた実在人物・小林一三がでてこないあたりに、「大雑把な"歴史"や有名なトピックへ"茶"を当てはめたお遊び的作品だ」という印象はいだきました。(「名作の頭に『クトゥルフTRPG』をつけると不穏になるタグがかなり不穏で想像が膨らむ」とか「#タイトルを100倍にすると盛り上がる」とかの有名タイトルの一部をいじるツイッター大喜利みたいな) 詳しい人ならもっと色々思うところもあるんでしょう。

 ただ、カチコチ歯車を噛み合わせようとしたら文量はかさみ印刷費は高くついてしまうし、そもそもぼくなどが素朴に楽しめる粒度は今作くらい分かりやすいモノではないかと思うので、難しいところでもあります……}〕

 

 

   ▽船戸一人著「重写し」

早川書房刊『SFマガジン 2008年1月号』p.60~69掲載)

 両足を破損して、一ヶ月ほど入院していた。満足に歩けるようになったころ、編集長から呼び出しを受けた。なんでも、取材を頼みたいらしい。

「それで取材相手は誰なんです?」

 編集長はディスプレイをこちらへ回してその名を見せた。

シーモアシーモア・ルゲーラだ」

 シーモア・ルゲーラ、あの機械脳(デーモン)派の寵児!

 脳の働きをエミュレートできる回路が実用化した未来。機械脳を活かして創作をする謎の天才シーモア・ルゲーラから「ミシャ・ダムトを」と名指しで指名された編集者の「ぼく」がかれへインタビューを行なうお話です。

 

 『死者の時制』とおなじく、劇中テクノロジーをもちいた創作をする作家の来歴と作中作を追うような作品で。そしてさらには、作中作の独特の味と作中現実とがからみあう構成であるのも、『死者の時制』と通じるところですね。

 作中作が小説ということもあってか、機械脳派天才作家シーモアの独特の文章技法「合成法(クォーマライズ)」が十全に発揮された大傑作であると云う作中作二重写しの、具体的なあらすじや読み解きに今ショートショート二重写し」は大部がさかれています。そしてさらには、語り手ダムトが足を破損した1ヶ月まえについてなどの過去回想、シーモアの語る自身の半生などが折り重なっていきます。

  1. 劇中現実・現在時制でおこなわれるダムトによるシーモアへのインタビュー
  2. 劇中現実ダムトの1ヶ月まえの事故の顛末
  3. 劇中現実シーモアの半生
  4. 劇中劇二重写しの顛末

 1万字前後のなかに主筋を含めた4つのお話がオチ付きで盛り込まれ、そしてさらには機械脳の作家シーモア義体の編集者ダムトそれぞれの体験や体感したテクノロジーの機微が大きな像を結ぶ……という、なんとも器用な作品。

 

 作中作二重写しにもちいられる合成法(クォーマライズ)の白眉は「濁点の消失、唐突な段落替え、言葉のシームレスな並びなど」*29がもちいられた表現だと説明されます。

 既存の印刷物を切り張りしたカットアップで有名なウィリアム・バロウズ氏らの作品とか、文章にeを用いないジョルジュ・ペレック著『煙滅』などウリポの作品群とか、小説で使える文字が徐々に減っていく筒井康隆著『残像に口紅を』とかあるいは(今作の後年に発表された作品ですけど)1行すすむごとに文章が1文字短くなったり何だりする円城塔著『Φ』などの諸作を思わせる技巧で。

 さらには、バロウズカットアップを成立させた大量の素材群や、小説の進行に合わせて打鍵に×をつけられていった筒井氏のタイプライター、「文字数を数えて長い順に並べるプログラム」やら「順番をかき混ぜて、8回で元の文章に戻るというプログラム」やらが組まれた円城氏のパソコン……みたいな、作品と作品をつくる環境との相互影響関係などをうかがわせる技法です。

 ある意味では、円城氏の実作などがあれこれ出てきたり、ジョディ・アーチャー&マシュー・ジョッカーズ著『ベストセラーコード』などによってテキスト・マイニングをもちいた計量文献学の研究などがよりなじみ深くなっている現在のほうが、「機械脳だと創作にどう役立つの?」という部分について飲み込みやすいかもしれません(作者が想定していたものかどうかは存じませんが)

「それだけ詰め込まれているとさ、プロットを追うのに手いっぱいで味気ない作品になったりしてない?」心配ご無用、それがそんなことまったくありません。義体で生活するダムトのこんな感覚にぼくはせつなくなりました。

 ただ肌がふれあう感覚は覚えている。皮膚感覚が曖昧となった今の身体では望むべくもない、あの幸せな感覚。いっそ覚えていなければよかったとも思う。それならば、こんなにはがゆい思いをしなくてすんだのに。

   早川書房刊、『SFマガジン 2008年1月号』p.62下段12~15行目、船戸一人著「二重写し」より

  限られた文量のなかで「面白いお話」を構築しつつ、そのテクノロジーをゆうした社会で生きる人ならではの感触を端的に掬いだす……「死者の時制」へとつづく足跡はここでもしっかり拝めます。

 さて「死者の時制」は作中作の細部が、劇中現実と意外なところまで密接にからんでいるような印象がありました。「二重写し」はどうなんだろう? 気になるところです。なんか裏読みがあったりするのかなと自分なりに探ってみましたが、どうにもよくわかりませんでした。

 「若書きだし掌編だしそんなん無い」、そう言いきれてしまえばお話は簡単なのですが、なんかありそうな気もする。*30

 そういう底知れない魅力がある作品で、なんかの拍子で読み手がふえて「これ!」という読み解きがあらわれてくれたらなぁ~なんて思います。

 

 

   ▽〃『ビング・オブ・ザ・デッド』

(河出『書き下ろし日本SFコレクション NOVA6』収録)

〈天国とは、と時々考える。

 死者の国とはどんなところだろうか、と。

 二人のいる場所はあまりに遠く、感情以外に届くものがない。

 端末が自動的に立ち上がった。わたしの気持ちを読み取って、二人にまつわる動画を読み込み始める。

 立ちあがる映像。名前は〈死者の舞踏〉。

 中心で踊る二人、一方はかしづき、一方は傲然とふるまう。そこにある断絶を、私だけが理解している。

 演劇はひとりではできないと、そんなあたり前のことを忘れないでいたのは、二人のうちどちらだったのか。

 人は人としか生きられない。

 そう言ったのは、三人のうち誰だったのか。

 だから、彼女が死んだのは当然の帰結だった。

 誰とも寄り添うことのできない彼女は死ななければならなかったのだ。

〈どこからこの話をはじめるべきだろう。やはり園生(そのう)と出会ったときから語るべきなんだろう。それは夏の大会でのことだった。園生は舞台の上にいて、私はただの観客だった。私は篠美(ささみ)と並んで舞台を眺めていた。――負け犬として。

〈うなじなどから特殊な装置SSによって感情を読み取れるようになり、部活で負けた高校生が大会終わりにみんなでサプリを飲んで負感情をさっぱり解消したりするようにできる世界。演劇部の部長をつとめる紗綯(さなえ)は他校の生徒である園生の演技に圧倒され、結果を見て衝撃をうける。観客のSSの情報を統合したステージの計器に表示された数字は0――今まさに心奪われた彼女の演技は、だれの心にも響かなかったのだ。

「あの子を転校させて、君の後輩にする。悪い話じゃないだろ」

 衝撃はそれだけで終わらなかった。演劇部のプロデューサー的な生徒・篠美は、あの天才を招き入れたのだ。

〈八外野園生です。よろしくお願いします〉

 園生は舞台から降りても独特で、対人恐怖症のため会話を携帯端末のエージェントに代行させていた。でもとまどいを生んだのも最初だけ。

〈サナっ〉

 園生は学園に馴染んでいくが……というお話です。

 「二重写し」「死者の時制」そして今作と、船戸氏の作品のなかで比較的入手しやすい3作はどれも、劇中独自テクノロジーとそれに絡んだ芸術・芸術家をめぐるお話です。3作ともテクノロジーの発達によって人体や脳から神秘がはぎ取られつつある転換期の世界を舞台としており、そうした世界で大きく影響が表れる存在として小説や音楽、演劇といった個人の(思考や感性が表出される向きのある)芸術が題材となっているのかなぁ?

 前述二作の語り手は実作者に取材するライターでしたが、今作では語り手自身も創作者であり、天才に対してや部活内での力関係の変化など、いま・ここの状況の揺れ動きに対しての喜怒哀楽が記されていくことになります。

 高校演劇の舞台は{毎年『青春舞台』を観る程度の素人のざつな把握ですが(汗)}プロの脚本を借りることもあれば、顧問がオリジナルの脚本を手がけるところもあり、さらには生徒がみずから執筆するところもあります。役割はその場その時によって流動的で、ステージに立つ演者が衣装や小道具、セットなどを用意することもあり、大会の評価だって、プロや委員会の審査員がいるだけでなく、各高校が席につき意見を交換したりする……

 ……『リビング・オブ・ザ・デッド』の主役たちが立つのはまさしくそんな闇鍋。そのなかでひとびとは掻き回されて乱れている? はたまた? 詳細は実作をひらいてみてのお楽しみということで。

 

『NOVA6』に掲載していただいた「リビング・オブ・ザ・デッド」がハーモニーオマージュだったので、

   京都大学 SF・幻想文学研究会 特殊検索群i分遣隊刊『伊藤計劃トリビュート』(第二版電子書籍)p.182、「作者コメント」より

 さて船戸氏は『伊藤計劃トリビュート』でそう言っていましたが、『NOVA6』p.214責任編集・大森望氏の前説によれば、直接のヒントは海外の別作家の作から得たのだそう。

 作者のコメントが上記のようにあったり、本屋さんになおも並んでいるのが伊藤計劃作品のみだろう現在から振り返ったりする関係上、zzz_zzzzは今作や『伊藤計劃トリビュート』を読むと、つい早合点して伊藤作品で描かれたこととなんでもかんでも結びつけて考えてしまいそうになります。

 でも、そもそも伊藤作品はかれの頭のなかから全てゼロから生みだされたものではなく、当時起きていたできごとや「いまここよりちょっと先で起きるだろう」と考えられていたことを多分に反映した作品であったわけで。

 もし伊藤氏とおなじように当時の現実をよく取材した人物が、それを土台になにか作品をえがいたのなら、それぞれの作品が収斂進化みたく重なってきてしまう部分だって出てきてしまうのではないか? ……とも思いました。

 さて「リビング・オブ・ザ・デッド」は前項でも言ったとおり『SFマガジン』百合SF特集でも紹介された作品でもあります。よそさまの感想をあさると百合以外にも……

 ……こんなお話をされているかたがいて、船戸氏の某サイトの読書歴をさかのぼってみると、石黒浩氏も執筆・登壇した境知能のすすめ』の読了が確認できます。

 三年前、私たちは未来に向けた技術開発のビジョンをつくろうと、あるべき未来の情景を映像で表現しようとした。しかし、機能に溢れ、便利を絵に描いたようなテクノな情景は今やしっくりこなかった。なぜなら、私たちが本当に求めているのは心の豊かさにつながる技術なのだ、と今さらながら気づいたからである。(略)

 コンピュータによって人間の知能に匹敵、あるいは凌駕するものをつくろうという試みが人工知能であった。しかし、世の中の諸要素が互いに深く、複雑につながっている昨今、もはや個々のコンピュータの賢さを問うのではなく「環境」という総体のなかでの賢さを目指すべきであろう。(略)私たちは、それを人工知能ならぬ「環境知能」と呼ぼう、そう考えた。こう考えると、議論は単に技術論で閉じるものではなく、自然、人間、社会、文化の視点からも未来を考えることが必然となる。言い換えれば、環境知能とは、私たちをとりまく環境の未来を考えるためのパースペクティブなのだ。

   リミックスポイント刊、外村佳伸&前田英作編著『環境知能のすすめ 情報化社会の新しいパラダイム』p.5~6、外村佳伸「プロローグ」(略は引用者による)

 「環境知能シンポジウム2006」とその後の討論、関係するエッセイなどを収めたNTTコミュニケーション科学基礎研究所監修による本で、くだんの研究所では当時まっしゅるーむなどを研究していました。

www.youtube.com

 上のプレゼン動画では「さりげなく」1:16~「見まもる」3:06~の2種のまっしゅるーむが出てきましたが、他にもたとえば「つながっている」種なんてのもいたんだとか。「リビング~」劇中で使用者の気持ちを読み取って最適なデータを引っ張ってくるアルゴリズムは、こうした発想を汲んだものように思えてきます。

[ビデオ]

 これは環境知能の記録映像。ある家族の孫とおじいちゃんとまっしゅるーむの関係について調べた。

 この少女は今日はじめてこの曲を聴いている。「良い曲だね」「これはおじいちゃんがいちばん好きだった曲だよね」。このまっしゅるーむは曲を認識して家族データベースを繙き、おじいちゃんがこの曲を好きだったことを見つけて少女に伝えた。少女は海外で暮らすおじいちゃんと久し振りに連絡をとった。

 家族の記憶が五〇年、一〇〇年と記録されていく。ふとした日常に、歴史のなかに位置づけられた自分の存在に気がつく。環境知能は時と場所を超えて人と人を結びつける。

   リミックスポイント刊、外村佳伸&前田英作編著『環境知能のすすめ 情報化社会の新しいパラダイム』p.60、前田英作「新しい環境における新しい知へ」

 ようするにsiriやアレクサとか、先クール21年春アニメ『ゴジラSP』のナラタケとかみたいなもので、船戸氏の別作二重写しともども案外いま読むほうが世界観をつかめやすい部分もあるかもしれません。

 『環境知能のすすめ』の話題はさまざまな方面におよびます。

石黒――前田さんたちのまっしゅるーむのポイントは、人としゃべっているのか機械としゃべっているのか、わけがわからないところにあるような気がしているんですね。技術の発展においては、ある情報処理活動の単位が人間の単位なのか機械の単位なのか、その境界が今までは比較的はっきりしていたんですけれど、それがだんだんわからなくなっていくんだと思うんです。日常生活でも、今は身体性というようなことがよく言われますけど、その身体性の境界線がはっきりしなくなって、その時々に応じていろいろなツールが自分の身体感覚あるいは情報処理系のなかに入ってきて、環境と一体化していく方向に行くような気がしているんです。例えば今でも、車の運転でカーナビの地図がないとまるっきりダメだとか、そういう例はたくさんあると思うんですね。

 そうなると、道路の選択を意識しないで車を運転するという感覚が進むと、今ではカーナビという機械を使っているという感じだったのが、そのうち車というのはボタンを押したら目的地に行くものだという感覚になってしまうかもしれない。それこそ、車を運転する本人は、すべて自由意思でやっていると思っていても、じつは機械にコントロールされているという状況ですね。

   リミックスポイント刊、外村佳伸&前田英作編著『環境知能のすすめ 情報化社会の新しいパラダイム』p.74、石黒浩氏の言

――(略)下條先生は『<意識>とは何だろうか』講談社現代新書の最後で、プロザックの話をされています。プロザックを飲んで元気になって実力を発揮できて成功した人がいたとき、その成功はプロザックのせいなのか、あるいは本人の実力だったのか。ここで薬物を機械や環境に置き換えても、話の本質は変わりません。たえず周囲の環境が自分をサポートしてくれて、それで成功した場合に、それは本当の実力なのかどうか。

   リミックスポイント刊、外村佳伸&前田英作編著『環境知能のすすめ 情報化社会の新しいパラダイム』p.76~77、東浩紀氏の言(略は引用者による)

 氏がどう読んだのか特にコメントは確認できませんでしたが、そうした切り口から再読するのもたのしそうです。

 

 

   ▽(皆月蒼葉著「ラの水槽」)

{商業書籍未収録。同人・京大SF幻想研『ワークブック』(巻数わからず)、作家の個人サイトに掲載された過去があるらしい}

 『〈すべての夢|果てる地で〉 -Sogen SF Short Story Prize Edition- 創元SF短編賞受賞作』掲載の「第三回創元SF短編賞選考経過および選評」によれば、謎の依頼人から三者が受注する「ゼロ年代サイバーパンクの可能性を追求した」「ギブスンのパスティーシュとしてはものすごくよくできている」大森望氏)お話で、「場面ごとのイメージの面白さを描写することに全力が注がれ」そして「SF的な新しさを追求しようという若い意欲にあふれて」いる日下三蔵氏)、「切れのある才気が楽しい」飛浩隆氏)作品だと云います。飛氏からは別の機会に、『江戸の花』ともども劇中テクノロジーをもっともらしい地平に立たせる筆力を褒められてもいました。

 一方、「この主題はもっと広く深く耕されることを待っているのに、作者が入り口のあたりで遊んでいると見える」(飛氏)とも。

 

 

   ▽〃『わりの花』

(同人・びびび文庫刊。増補改稿電子書籍版がDLsiteにて流通アリ

「それでつまり、その……」

 言葉に詰まる。夕張の心拍は早まり、顔や背中からは冷や汗が出てくる。沼坂はそんな夕張の様子に気づくと、表情からはさきほどまでの邪気がすっと抜け、

「悪い悪い、いじめるつもりはなかったんだ。ついおもしろくなっちまってな」

 と子供のようにけたけた笑いながら、グラスをやおら飲み干した。

「そう、夕張の思ってる通りだ。丹那要港部は横鎮からは完全にノーマークだ。俺はその死角を突き、横須賀鎮守府を――」

 とんでもない人間がやってきたものだ。夕張は引きつった笑みを浮かべながらも、内心の昂揚をはっきりと感じ取っていた。

横須賀鎮守府を、襲撃する」

 背負った艤装で水上を浮いて進んで皇国の沿岸を守る海軍の少女部隊"艦娘"と謎の勢力"深海棲艦"とがいままさに戦争中の時代。

 皇都を300キロ南下した丹那島に左遷された提督・平沼は軍服に裾すらとおさない変わり者で、着任した要港部もまた、艦娘がひとりいるだけの変わり種だった。じぶんの上官を侵入者とまちがえた島の艦娘・夕張から箒で啖呵を切られたり、ぎゃくに誤解がとけたあとは懇意にしている料理屋でカブトビールで乾杯したりハイビスカスのてんぷらをふるまわれたりとドタバタほのぼのした時間を過ごしていたのも束の間、平沼は対深海棲艦のデータを紐解き意外な真実をつきつけると、さらなる衝撃の提案をする。皇国にクーデターを起こすのだと……というお話です。

 一世を風靡した人気美少女海戦ゲーム隊これくしょん』の二次創作である今作は、ゲームの大前提について想像力をはたらかせていきます。

 十代の少女たちが「鎮守府」の「提督」たちの指図によって最前線で戦わされる世界とはどんなものか?

 戦績がおもに敵撃沈数で決まり、味方の艦娘が轟沈さえしなければ被害状況がどうであろうが変わらない世界とはどんなものか?

 ダメージ率で衣服だけがやぶけエロティックになっていき、その差分が「提督」たちの間でまとめられたりする。そんな世界とはどんなものか?

 真面目にかんがえればグロテスクである皇国のありようを、真面目すぎるくらいに真面目に考えた男・沼坂を主人公に据えた、立派なクーデター小説となっています。

 あれこれ考えた世界や人物について、皆月氏有機的に一枚一枚「ここだ!」というタイミングでめくっていきます。

 序章の前半、主人公が目標を裡に秘めた時分では、のどかな離島で美少女と一対一ののほほんとしたスローライフを楽しみました。そうしてゆるんだ頭は劇中深海棲艦との戦績をふりかえるパートで「おっ」と覚め、序章の末部で「おおっ!?」と喝が入ります。

 沼坂が目標をかかげた後の1章では、秘密裏に同志を募り昔馴染みもつどっていくという青空のさわやかなビルドゥングス・ロマンが味わえ、かと思ったら次の章からは交戦に陰謀に諜報に……とたちこめる暗雲に不安を募らせた状態で「事件当日」へ向かうこととなりました。

 伴名氏もふくめ発表作が短編のおおいなか、今回紹介したなかではほぼ唯一の長編小説。多くの文字数をかけて語るにふさわしい山あり谷ありの展開で、長編を読む醍醐味をあじわえました。

 

 

   ▽〃本史の中の深海棲艦」

(同人・びびび文庫(びびび学術文庫)から同名の書籍刊行。DLsiteの個人ショップびびび文庫にてにて電子流通アリ

 深海棲艦史研究の金字塔、早くも重版出来!

大化の改新」は、深海棲艦から人類が権力を奪う「革命」だった

3世紀日本に誕生した深海棲艦国家「河内王朝」の興亡を軸に、深海棲艦を日本史の中に位置づける。深海棲艦史研究の第一人者による「通史」が登場!

 さて、過去作『テラの水槽』は第三回創元SF短編賞選評で「作者が入り口のあたりで遊んでいると見える」との難点も挙げられていましたが、もしかすると今作はそうした批判をバネにした作品なのかもしれません。

 人気ゲーム『艦隊これくしょん』の敵キャラクター深海棲艦。もしかれらがヒトと古くからつながりがあったとしたら? そんな一言で表される「もし」から想像つかないほどの世界が、とにかく文量的にも題材的にも長く広いスパンで展開されていきます。

 今作だって入り口のあたりで遊んだ作品と言えなくもありませんが、その入り口はホモ・サピエンス大陸移動の考察など人類史の入り口であり、人類史はまだ終わりの見えない事象であります。

 太古の昔から深海棲艦がいたのなら、古文書に記述だってあるはずだし、考古学的な証拠だって出てくるはずだ……

 ……ということで今作では、この世界に実在する古文書の文章の読み解き/読み替えといったところはもちろん、この世界の博物館に現存するモノ(写真)から深海棲艦の痕跡を確認する絵解きなども行われていくこととなります。

 虚実の歯車をカチコチ噛み合わせていくタイプの改変歴史モノですが、いわゆる人間ドラマのなかでそうした考証・空想を展開させていくタイプじゃない、この作品自体が改変歴史世界のなかに当然あるだろう一冊の研究書という佇まいなので、読み進めるのにけっこう体力が必要です。

 論文形式の作品のなかには、論じられる対象が一個人であるとか、論じられる内容もその生涯や人間関係の推移を追いかけていくような伝記にちかいものであるとかさまざまありますが――つまり、語り口が対象と距離のある第三者的立場のだれかというだけの一風変わったドラマとして楽しめるものもありますが――、今作はそういう方向性ではありません。

 長編小説を読まなくなり、短編小説も月にぽつぽつ。だからといってノンフィクションも論文も読めるわけではないぬるい読者であるぼくにはなかなかきびしい作品でした(笑)

 

 ただ今作は、ぼくと同じく眠たくなったり掴みどころがわからなくなったりするかたにこそむしろ響く部分があるんではないかと思います。

 終章で、冒頭の劇中近現代の事象にかんするニヤニヤしてしまうパロディ(リンク先は当該項が読めるpixivの投稿)(と読めるトピック)が再度議論の俎上にのせられたことでジャンルSF的な面白味を味わうとき、さらには筆者が「いささか場違いな論点のようにも思えるが、」と現代の話題で〆るとき。ここまで大部を占めた「通史」パートの圧倒的な"遠さ"は――というか、微に入り細に入り語る筆者とそれを読む読者とのあいだに生じる温度感は――『日本史の中の深海棲艦』という小説の読後感におおきな影響をおよぼすこととなるでしょう。

 ぼくは暗澹たる心地で本を閉じましたが、はたしてそれは何にたいして抱いたものか? よくわからない。

 はじめに

 応仁の乱を知らない人はまずいないだろう。小学校の社会科教科書にも登場する応仁の乱は、日本史上、最も有名な戦乱の一つである。

 しかし、応仁の乱とはどのような戦乱か、と問われたら、かなりの人は答えに窮するのではないか。「人(1)の世(4)(6)(7)応仁の乱」といった語呂合わせは覚えているかもしれない。また「東軍の総大将が細川勝元で、西軍の総大将が山名宗全で……」ぐらいの説明はできるかもしれない。だが、それ以上となると、なかなか難しい。

   中央公論新社中公新書)、呉座勇一著『応仁の乱』kindle版n17%(位置No.4253中 8、308ページ中2)、「はじめに」より

 二〇一四年は第一次世界大戦開戦から一〇〇年ということで、同大戦に関する書籍・雑誌特集などが散見された。そういったものにパラパラと目を通していると、応仁の乱第一次世界大戦と似た構図を持つのではないか、と思い至った。

   『応仁の乱』kindle版97%(位置No.4253中 4101、308ページ中275)、「あとがき」より

 本のマクラや終わりを読者にとって身近な話題でサンドイッチするのは、現実の(歴史)研究書でもわりあい見かけることで、たとえば『応仁の乱』で呉座勇一氏は「はじめに」で授業で習った(けど覚えていない)ことを振り返ったり、「あとがき」で第一次世界大戦との関連を見出したりしてみせます。

 『日本史の中の深海棲艦』が、序盤で「深海棲艦認知調査」――劇中世界における国立教育政策研究所がおこなった、中高までで学習する内容にかんして社会人の認知度を問うテスト――によって劇中世界のひとびとがどれほど深海棲艦に無知であるかをおさらいしたりなんだりしたのとおなじように。パロディとして笑えてしまえばいいのですが、ではパロディされたのは何なのか。

 

 十分に発達した本のなかの代替的歴史(オルタナティブ・ヒストリー)は、本の外の現実と見分けがつかない。そんな本と自分との関係は、つまるところ自分じしんが現実にたいしてどう関わっているかの鏡に他ならないんではないか? そんなことを思いながらの読書でした。

 

   ▽〃Sky's the limit」

(同人。夏ノ廃道(皆月蒼葉と中野史子)による『ユリリリックE.P. 』に収録。完売)

 安物のプロジェクターから放たれる、目の粗い立体映像(フッテージ)。共有サイトからダウンロードしたブート版だ。タイムスタンプは17ヶ月前、ライブハウス"ゼン"での19時37分からの23秒間。流れる音声は粗雑な量子化で高音が削り取られ、ひどくくぐもって聞こえる。

 後攻のファーストヴァース、少女は怒りのこもった表情でマイクを持ち、画面外にいる対戦相手に、まくし立てるように大声で吠えた。

  ふざけんな! 何がSAKI the MIKROFONだ! レジェンドは

  テメエのアクセサリーじゃねえんだ! ネームドロップしてえだけの

  ガキならばやめちまえ! 首吊って死んじまえ! クソ半人前!

 スクラッチ音とともに映像は暗転し、闇が広がる。その継ぎ目のない黒の中で、光源があれば頬を伝う涙は白く光っただろうか。

 テラヘルツ通信が地表のほとんどを包みデータベースが際限なく膨張する時代に煽られヒップホップは思考を止めた。いかに技巧的な踏韻を生み出せるコーパスを外部記憶に作り出せるか? フレーズの引用やファイナルの探索、変質的なまでの蓄積文化が外部記憶技術と出会ったことで、データ配列や語彙収集法にばかり血道を上げる現在にあって、ラッダイトと罵られながらも外部記憶一切禁止のオールドスタイルラップバトルもまた静かに燃えていた。

 そんな"陰陽"バトルの熱気もどこ吹く風、会場の片隅でマティーニを楽しんでいた彩月がめずらしくメインステージをじっと見つめる。「やってらんねえ こんなガキンチョじゃアレも勃たねえ」先攻による侮蔑が終わり、後攻のターンがはじまったがトラックだけが響く。無言の対戦者へ注がれるオーディエンスの声は茶化しからブーイングに変わるも沈黙は続き、と、後攻の少女シエルは突然マイクを上げて……というお話です。

 

 日本に(フリースタイル)ラップ(バトル)を一躍ひろめたTV番組『フリースタイルダンジョン』が放送開始したのが2015年半ばのこと。翌年2016年にはもうこんな本が出ていたレスポンスのはやさに驚かされます。ある語句について検索をかけると母音が重なる別の語を紹介するワード検索サイト『韻ノート』が2017年開設と知ると、先見性にまた驚かされます。円城塔氏が連作短編『文字渦』の一作「かな」のなかで、

「藤の花 あだに散りなば 常盤なる 松にたぐへる かひやなからむ」

 という既存の和歌をアナグラムして、

「カムブリア 爆発の時 散る習ひ 何にか学べ 八千畳なはる」

 とまったく別種の和歌を「アプリも使って辞書で調べて、コードを書きながら」二次創作したのが2018年のこと。21年のいま読むほうが、「いま・ここ」よりちょっと先の劇中世界設定にかんして想像がつきやすいかもしれません。

 

 くだんの番組のバトルのなかでDOTAMAがACEへ放ったヴァース。皆月氏の著者紹介にはこちらがサンプリングされていましたが、『フリースタイルダンジョン』を見ていて面白かったのが、とにかくさまざまな文脈がのっかってくることで。たとえば満員電車に揺られている会社員のなかに紛れていそうな風貌から想像のつかない口撃をかますDOTAMAは、ブラジル出身であるACEと面と向かえば……

あっち向いてホイ 下見ねぇ 俺は常に上を向いているMC

戦い慣れてるはずなのに戦法が変わらねぇ

最初 韻でまとめてって 残り4小節 早口でダダダダッ あ~~でごまかす

決まりきった 1パターン 簡単だ

ブラジルじゃ そのやり方が流行ってるんですか?

俺 日本人レペゼン最強 栃木と東京 股にかけて

こいつwack MC

 ……とdisり、逆にACEは……

wack MCはお前だから

何でもいい このビートに合わせる ならばしっとり

解るか?お前がベットの上で[コンプラ]してるならフェイク

俺がペース乱さずにスケールの違う付け入る隙 与えないACE

 ……DOTAMAを口だけ野郎だとdisる。(音の並びもおもしろく、[コンプラ]として規制が入った語はおそらくレイプで、レイプ⇒フェイク⇒ペース⇒スケール⇒ACE……と、eiuないしeeuが母音の語で踏んでいってるかたちとなります)

ベッドの上で[コンプラ]して何が悪りぃんだ

君なに?チ×ポないの?俺は男だから女の子と[コンプラ]のが好きなの

 DOTAMAはさらに過激に反論するけど、

おい[コンプラ]ってのはな ベッドの上ではなくてな

外とか車の中とかで[コンプラ]もんなんだわ 分かってねぇな お前

これは危なすぎた ブラジルではこれが流行っている訳ではないけど

俺もカマしてる SEXが好きな人種だから

 ACEのさらなる返しの前にはさすがになまくらと言わざるをえない。disの対象だったブラジル出身であることは、ここでは強みとして逆利用されているのがすさまじい。バチバチに火花を散らしながら創発的にひとつの物語ができあがっていくところにカルチャーショックを受けました。

 ぼくなんかは当時DOTAMA対ACEのような、その場その時の爆発力がすごいものに惹かれたわけですが、聞いていくにつれ面白くなっていったのが、トラック(背景音楽)も対戦者もそのバトル一回こっきりではなく過去に未来に繋がっていく大きな物語性があるところです。

蜂と蝶の上でお前に勝った後 優勝のフリースタイルしたから

去年の再現ここでやる ナイトメア 俺に負けて泣いとけや 体温計はゼロ

 いまをときめくヒップホップアーティストR指定がDOTAMAへ言ったこんな罵倒も、ただ単に固有名詞や事実をそのまま言っただけのはずなのに、なんだか妙に幻想味を帯びたり、彼ら(対戦者や「去年」を知るヒップホップファン)だけに通じる含みがその外にいる者にとって独特の雰囲気をまとったりして見える。

 「sky's the limit」はそんな独特の質感と百合性とに共通の匂いを嗅ぎとったような作品で、しかし上に引用した通り、ヒップホップ界はホモソーシャルミソジニー、男尊女卑の異性愛社会の色がつよい。そこも加味した物語となっていました。

 

 劇中のラップは韻踏みがゆるめ。皆月氏は『艦これ』のキャラが火花を散らすラップバトル・ショートストーリーをいくつか書いていた覚えがあり、そちらはラップらしいリズムや言い回しのなかで(ここは「sky's the limit」も同様ですが。「ならば」とか実際のフリースタイルラップバトルでよく聞く聞く~)キッチリ韻を踏んでいた記憶があります。なので意図的なものでしょう。

 今となってはラップを題材とした漫画や小説は今作に限らずあれこれありますし、般若&R指定さん(背川昇『キャッチャー・イン・ザ・ライム』)や晋平太さん曽田正人『Change!』)などその道のトップがラップ観衆として関わっている作品さえあります。そんななかで今作を読む意味はあるのか?

 「そもそも」と、さらにもっと根源的な疑問を抱いている人もいるでしょう。

 そもそも音のない小説という媒体でラップをやる意味はあるのか? 口ロロの楽曲を宇宙規模まで拡大したり縮小したりしたラップ演劇・柴幸男『わが星』(2015年。第54回岸田國士戯曲賞受賞)、今作後のシリーズとなるが『ヒプノシスマイク』(2017年)みたいな音楽作品として土俵に立つ道だってあるはずだ。

www.youtube.com

(上は『わが星』の全編の、2022年10月まで無料公開動画。ぼくが好きなだけで、皆月氏が『わが星』をご覧かは知りません。とくに「s'stl」とも関係がない)

 そうした疑問は皆月氏じしんにも浮かんでいたことでしょう。「sky's the limit」はそんなビーフへのひとつのアンサーとしてぼくのなかで響きました。

 

 

   ▽〃戸の花」

(同人・鴨川書房刊『改変歴史SFアンソロジー』収録。BOOTHにて電子流通アリ

 嘉永四年、夏。江戸の町は花に覆われていた。

 青や朱の鮮やかな花弁は絹の反物のように滑らかで、瑞々しげに表から裏まで路地という路地を賑わわせる。文化三年、車町大火の焼け跡から始まった朝顔の掛け合わせ。この五十年で生み出された異花奇葉の数は一万以上、江戸八百八町、どこに立ったとて変化朝顔が目に入らぬ場所などひとつとしてありはしない。

 地には「可ら久り油」の行灯を配した店で朝顔油と蜜蝋の混合燃料を給油した絡繰力車(からくりりきしゃ)が、天を見やれば蜜蜂が無数に行き交う江戸の町でも、一等盛況なのが秦屋であった。秦屋の十八番、変化朝顔の美人図「花絵」が今日もまた一枚二枚と飛ぶように売れ、小僧の手回し算盤ががちゃりがちゃりと奏で、特定の朝顔の種を入れらえた絡繰から蜂が飛んでいき、蜜を抱えてもどってきて更新された根付に「いかがいたしましょう」「ん、返しで頼まァ」と会話が交う。

「若旦那は今日も金牛子(きんごし)かい」

「ええ、ええ。まあ大門に通い詰めるよか、ちィとはましでさァ」

「そうは言っても、近頃目に余るんじゃないのかい。ああまでいったらもう博打だよ」

「そりゃァそうかもしれやせんけども……うちがここまでになったのも、こりゃあっしの器量じゃない、すべてあいつのおかげですからねぇ」

 根渡蜂(ねわたしばち)が蜜を求めて飛んでいった大元、江戸銀座勘定会所。絡繰仕掛けの反転板が忙しなくめくられては最新の値付けを知らせ玄人が逐一即応するこの場で、おろおろうろうろと場違いな者がふたりだけいた。

「おーい、若旦那、四代目ー!」

 ひとりは秦屋の四代目。市場の動向を報じる薄紅色の瓦版を、みなが頭に叩き込んで入場するところひとり小脇にかかえて素人丸出し、きょうも頭をかかえている。

「お初にお目にかかります。手前、神田新石町の瓦版書きで名を晴馬と申す若輩者でございます」

 もうひとりは月代(さかやき)もまだ青みがかった若者だ。

「おう、そうかい。……ったく、うまくいかねえもんだなあ、相場ってェのはよ。で? 瓦版屋が俺なんかに一体何の用だい。俺だって周りから素人同然だって笑われてることくらい知ってんだよ。そんな奴ひっ捕まえて瓦版だァ?」

「その……瓦版といっても、あたしが扱ってるのは錦絵でして」

 

www.youtube.com

「……できたときに20分くらい試し蒔きしてみて、んで、双葉に変化があるようだったらその株の種は取っとくと。変化がなかったら捨てちゃう。変化のなかで"変化の出物"――という、その~、たとえば1/64の確率のものと、1/256の確率のもの――これェを探すという方法があるんですよ」

   Youtube、SankeiNews『江戸から続く伝統の朝顔「変化朝顔」 東京・文京区』1:08~

 変化朝顔とミツバチとからくりが発達してアナログコンピュータや通信網を築き、朝顔の種によるビットコイン的な仕組みも活用されている江戸で、日がな相場へ破滅的にいどむ変化朝顔の立役者。そこへ時代錯誤の錦絵にかんする瓦版屋があらわれて……というお話です。

 『量子の海のカルペディエム』同様にSFガジェットの書き込みが楽しいし、そしてそれは物語が楽しくなるモチーフとしてまずあって、設定厨的に書きすぎていないのもまた良いところです。後述のライナーノートでお話しされた一つに、それを書いたところで物語から浮いてしまって単なる設定開陳にしかならない部分はカットした~という旨のお話があります)

 目まぐるしいテクノロジーや商取引のなかで、判を押したように同じような愚行をする若旦那に、そんなかれを能面のように毎度見つめる瓦版屋……というコントラストがおもしろい。

 なお、著者のpixivFANBOX(撤去済)や移行先のCi-enの100円以上課金メンバー限定有料記事『今書いてる小説の話』(Ci-en版の記事はざっと眺めた感じ、無いような? 見つけたらリンク張り直します)で今作の着想元が、『「江戸の花」についてのセルフ解説とか』でストーリーからこぼれた設定の細部や、設定の初期構想(5年前)から現行となるまでの変化、プロットの変遷などが明かされています。

 

 

   ▽〃「労委令36.10.16三光インテック事件(判レビ1357.82)」

(掲載された同人『紙魚はまだ死なない』はAmazonダイレクトパブリッシングで紙の書籍として、DLsiteの個人ショップびびび文庫にて電子書籍版が「印刷推奨」のうえ流通アリ 

https://img.dlsite.jp/modpub/images2/work/doujin/RJ341000/RJ340296_img_main.webp

 判例雑誌の判例掲載記事の体裁をとった小説です。

 まずは読み味の通じる部分がある皆月氏の過去作本史の中の深海棲艦』の話からしましょう。

 あの歴史書を模した小説の序章も序章、世界そして日本の歴史のなかで深海棲艦(ゲーム『艦隊これくしょん』の敵陣営)がどんな役割を果たしてきたかを考察する本題に入るまえのくだり。第二次世界大戦へ踏み切った、こちらの日本の歴史と噛み合うような)第一次人艦戦争にかんするあちらの日本の現代史をかるく振り返っていくくだりのなかで、深海棲艦が「開戦に関する条約」にのっとった段取りを経なかったことへ国内外から起きたリアクションが記述されておりまして。pixivでも読める『日本史の中の深海棲艦』のこのくだりをぼくは大枠は日米開戦に関するパロディとして受け取ってニヤニヤしたんですけど、でも――くだんの書の終章に記された掘り下げでもうかがえたとおり――「中労委令36.10.16三光インテック事件(判レビ1357.82)」を読んで「そうではなかったんだな」と襟元を正しました。

 『艦これ』は鎮守府に着任した提督が、途方もない人的物的資源を投入して艦むす等を建造し、謎の深海棲艦と戦うゲームである。戦っていくうちに新米少佐は昇級していき、ゆくゆくは元帥になる。ゲーム世界には軍がありインフラがありそれを運営する国があり、ということはゲームのなかの戦いも、現実の戦争がそうであるような世界的な取り決めに則っているものであると考えるのが自然で、その取り決めはゲームの独自要素に適用できるよう拡張しながら運用されているはずだろう……『日本史の中の深海棲艦』で記述された、開戦まえに電報がとどかなかったことを非難するスウェーデンのすがたなどは、そういう意味でなんら笑えるところのない、当然かつまじめな想像力と思索でもある。

 「三光インテック事件(判レビ1357.82)」は、「こういう設定があるのであれば、その世界でこういう衝突や議論は当然あるだろう」という意味でのハードSFとして読めました。

 その確かさは、なんとその道のエキスパート、一橋大学法学部准教授(行政法)の土井翼さんが判を押すほど!

 

 同時に「法学や労働法の知識なくても楽しめる作りになってるはず」と皆月氏が言っているとおり、そういった知識のないぼくでも素朴に楽しめるエンタメでもあります。

 判例雑誌/判例という耳なじみがないうえに堅くるしくて、指示対象が甲乙丙みたいな(この作品ではXやらYやら、2号主体など)具合に言い表される(個の見えない)語り口を読み進めていくうちに、なんだか見えるはずのない顔や息遣いが見えてきてしまうコントラストやダイナミズムの妙が面白かった。

 またむしろ判例雑誌という体裁だからこそ、自然に出せうるディテールもあるかもしれません。

 いわゆる普通小説や手記でさえも丸められたり出せなかったり唐突に思えてしまうような肌理(キメ)というものはありそうで、たとえば作家の佐藤哲也氏はゼーバルトの小説『アウステルリッツ』の文章の合間に写真や図版がいささか唐突に挿入される独特の語り口を絶賛しつつも「写真や図版に関して言えば、これはやはり一種の禁じ手であろう」と一言のべますし、あるいはこの記事で話題にする別作品の参考文献として挙げられた学生の戦争体験記』を読むと、大阪のとある女学校の創立云周年を記念して戦時中の在校生に当時をふりかえってもらったこの寄稿集に関西の方言がまったくうかがえないことに驚かされます。

 証拠物件というていで自然に提示・収録されたさまざまな内容・口調・体裁の文書がたのしい。

https://img.dlsite.jp/modpub/images2/work/doujin/RJ341000/RJ340296_img_smp5.webphttps://img.dlsite.jp/modpub/images2/work/doujin/RJ341000/RJ340296_img_smp4.webp

 以前このblogでも感想を書いた、ドイツ近代刑法学の父(オタクにはカスパー・ハウザーの保護・養育者と言ったほうがわかりやすい)アンゼルム・フォイエルバッハ氏による19世紀初頭当時の事件を裁判記録に基づきまとめた抄訳本イエルン犯科帳』について、とある事件の犯人の持つクズ紙入れのなかに「天書(ヒンメルス・ブリーフ)」とよばれる神を冒涜するイカサマ特許状(免罪符)があったり、殺害方法の選択理由が、犯人が青年時代にオーストリア軍に徴兵されたりバイエルン軍としてロシア遠征したりして搬送され病んださきで とある野戦病院の医師から「絞殺は流血もなくて良い」と聞いたからだったり……といった、一見なんてことないことにも土地性や歴史性がにじんでしまうところを興味ぶかく読んだぼくにはたまらない細部。

 

 そうなんですよ、『三光インテック事件』で浮かびあがってくるのは顔だけではありません。次第にドラマもまた立ち現れてくるんですよ。「江戸の花」で物語から浮きすぎる設定描写を削った旨のライナーノートを述べた皆月氏です、今作もまた、読み物としての面白さをキッチリカッチリ確保してくれていました。

 判例雑誌として正しい語りの順序のなかで、読者はどのような事件像を思い浮かべていくか? 皆月氏はエミュレートしながら情報を置いていったと云います。

 自作解説が「江戸の花」以上に紙幅をさいて別場でなされており、そこでその細かな詳細が明かされている……というとなんかハードルが高そうに思えてしまいますよね。zzz_zzzzの説明がわるい。

 この作品だけをふつうにだらーっと読んでも、詳細はわからずとも「えっ!?」と引っかかるし「てことはつまり?」と大枠は想像できる程度にフェアに楽しい読み物です。

 ぼくは見ての通りぐうたら者なので、詳細について深く検討せず課金して(100円の魔力よ……)確かめてしまいましたが、作家が詰めた細部をきちんと読み解けるかたもいらっしゃるのではないでしょうか。

 

 作家のCi-enにてライナーノートがいくつかアップされており、「そもそもこのよくわからんタイトルってなに?」といったような基礎的なことがらについては無料公開(解説各論①)、作品のオチにふれるような内容{解説総論(リフロー不可型書籍である独自性をどう設定するか/どんな構造を仕込むか。そこを物語とどう絡めるか。ただ「判例雑誌パロディやってみました」ではない企みについて)解説各論②(皆月氏のハードSFへのあこがれと限界、じしんの知見からどうハードな領域を構築できるか?)おまけ(創作ノート。プロットの変遷など)}は最低100円/月の有料プランで読むことができるそう。{入会して即退会できる気軽なプランだ。ただ、過去の月の記事は別個に課金しないと……みたいな話もあるらしい(?)}

 

 

   ▽谷林守著「『ハリン社会主義共和国近代宗教史料』(二〇九九)抜粋、およびその他雑記」

{第三象限「あたらしいサハリンの静止点」収録。電子書籍流通アリ(kindle unlimited読み放題対象)

note.com

 樺太/サハリンに建国されて以降2030年には世界有数の経済大国となったサハリン社会主義共和国について、その礎となった<ラスティ教>や立役者である<先生>の来歴をめぐる、論文形式(というか擬史料コラージュ的な)小説です。

 肩肘はった地元出版社の史書や、語気のあらい党大会演説採録……かたい史料や劇中史実の端で断片的にちらついていた情報が、だんだんと実をむすんでいき、ある個人の顔がたちあらわれていく。そんな作品として読みました。

 いくつも並べられた参考文献を読んでない時点でのうかつな感想ですけど、おそらくぼくが好きなタイプの史実(現実)との取っ組み合いがなされているんじゃないでしょうか。

 『サハリン社会主義共和国~』では、あれやこれやとへんてこな世界や価値観がさまざま提示されるのですが、そのへんてこさはどうにもべつに谷林氏のまるきり独自の発想じゃなさそうで、なんだか参照した人物事物のへんてこさ自体による・現実のへんてこさを汲んだ結果のように思えてなりません。

「記載してくれた参考文献をあれこれ読んでみたい!」

 そんな意欲がモリモリわく、世界(の面白さ)を面白がるまなざし・史料を渉猟していく楽しげな――楽しそうなだけでなく、なにかをつかもうとする切実な――手つきみたいなものが感じられる筆致でした。

「体裁としては論文、フィールドワークにおける語りの聴取、政治演説などをつらねたものなのだが、このすべてが活き活きしていて、教養と自由さの共存が心地よかった」*31と「第十回創元SF短編賞選考経過および選評」で作家の宮内悠介氏が言うのも納得の描写です。

 今作については、同人サークルねじれ双角錐群のかたがたによる読書会ログがネットにアップされていて、読書の手助けとなりました(※ただし完全ネタバレなので注意!)。谷林氏のblogには1日目2日目3日目4日目最終日と5エントリにおよぶ樺太旅行記が豊富な写真とともに掲載されており、また別記事には参考文献にかんする感想ものこされていて、読了されたかたはこちらをのぞいてみるのも楽しいでしょう。

 どれだけ歩いたのか、道らしきものがなくなったあたりで、私は海岸に出ました。浜辺には、少し透明な赤いような茶色いような石がたくさん転がっています。波が寄せては返し、浜辺に打ちあがった魚を転がしています。その死骸をかもめがよってたかってつついていました。

   第三象限、『あたらしいサハリンの静止点』 kindle版3%(位置No.3929中 100)、谷林守著「『サハリン社会主義共和国近代宗教史料』(二〇九九)抜粋、およびその他雑記」

 「TPoH」で具体的な社会の結構をえがいた作家が筆をすすめた当然として、実在する人物や土地の資料をもとにした具体的な社会の襞(ひだ)がえがかれることとなり、「TPoH」のあの夕日をえがいた作家がものごとを見ていった当然として、この海辺のさびしさがこの琥珀の温かな光が描かれてあるのでしょう。

 その人は時々、きれいなものを見つけるとそれを空にかざします。ほとんどはすぐ残念そうに砂浜に放り投げますが、時々そのまま外套の中にしまいこみました。半透明の石を探しているのでした。その様子が、どことなく楽しそうに見えたので、私も同じように砂浜を物色しはじめました。二〇分ほど経つと、わたしの手の中に、小指の爪ほどの石が三つ集まりました。それらを、かれのところまで行って見せました。

 男性はそれをみて『きれいな……だ』と言いました。

 彼の口にした言葉が分からず、わたしは耳に入ったその音を繰り返しました。

 コハク。

 そう言うと、その人は黙って頷き、手に持っていたコハクを私に手渡しました。

   第三象限、『あたらしいサハリンの静止点』 kindle版4%(位置No.3929中 113)、谷林守著「『サハリン社会主義共和国近代宗教史料』(二〇九九)抜粋、およびその他雑記」

 

 

   ▽〃月の荼毘」

{第三象限「あたらしいサハリンの静止点」収録。電子書籍流通アリ(kindle unlimited読み放題対象)

 大本営発表(昭和二十年四月八日)

 沖縄本土決戦始まる

 空母等十五隻撃沈 撃破十九隻

 沖縄本島を巡る決戦は日に劇化の一途を辿り、敵は本島周辺に数百隻の艦艇、輸送艇群を輪集せしめ、わが防衛陣の破壊を企図してゐるが、わが軍は敵来襲の三月二十三日以来二週間にわたり反撃の機会を練り、遂に帝国陸軍第十一特務隊三千名の特攻精神を炸裂せしめて四月五日夜一斉に決起し……

 にわか雨のようにB二九の大規模爆撃が大阪の街を訪れた夜は、警報のサイレンで目が覚めた。昏くも鮮やかな遠くの空は、学校で見た北野の浮世絵を思い出させた。昨年末の短歌会で今中先生が持ってきたもので、敵国様式の洋館、瀬戸内の海とが描かれた鳥瞰図だった。その浮世絵も空が真っ赤に彩られていて、私は、

「これは夕焼けですか、朝焼けですか」

 と尋ねたところ、先生から「素直な疑問で宜しい」と嬉しそうに大笑いされ、八重乃さんに浮世絵は結構雑に彩色されることを教わった。

 防空壕のなかで、八重乃さんの顔がよぎった。そしてあの浮世絵は無事だろうか、とも思った。

 突然、爆音がひびいた。恐怖が闇の中を包むには十分だった。

 明日、新しい<十一兵>が造霊廠に運ばれてくるのを考えて、頭の片隅が憂鬱だと叫んだ。そして、その後に罪悪感を覚えた。その考えはきっと不敬だったから。サイレンの響きわたる夜のなかに私の意識は溶けた。

 翌朝、機銃掃射の一閃した一軒を横目に、しだれ桜の花弁がちらちら落ちた帰路を歩いて二時間かけて閨町の地元に戻ると、工場は空襲を受けて操業停止、勤労は一日お休みで校舎待機だとわかった。

「現金な子ね、女学校のことになると」

 疎開やお姉様(せんぱい)方の勤労奉仕、負傷に伴う<徴霊>が重なって、全校生徒が半分近くになったとはいえ、河野高等女学校の赤土色の西洋建築は田んぼだけの場所に悠然と佇んでいる。

「お久しぶりです」八重乃さんの絵に書いた見本のようなはにかみを見、「それ、新しい子の?」裁縫をする洋美さんに声をかける。まえの登校日以来ひさびさの再会だ。

「彼女だけ制服がないのもなと。間に合ってよかった」

 去っていくだけでなく、新しく転入生だって現れるのだ。 

「実は、転校生が一日早く学校に来ている。それで、その……」

「……玖条久那です」

 窓の外からは陸軍の人々の号令が聞こえてきて、私たち三人が絶句していたから、教室の中によく響いた。

 そそくさと去っていった先生が眉間に皺を寄せていた理由がわかった。おそらく彼女もまた自分がそういう存在だということは百も承知だったのだろう。こちらが質問する前から聞きたかった答えが返ってきた。

「……米国から、日本に戻ってきました。父が米国人です。よろしくお願いします」

 ただ、私が言葉に窮した理由は八重乃さんや洋美さんとはちがっていた。

 私たちの用意した白い制服を送ればこの子が毎日来てくれるのではないかという的外れな印象で頭が染まって、つまりは思考が凍りついてしまっていた。 

 

 <十一兵>第十一特務隊が前線で奮戦し内地を防衛する第二次世界大戦末期の大阪、桜の舞う女学校で勉学と火花の散る工場で勤労奉仕を往復する櫻子は、転入生・久那に心惹かれる。久那はB29を差し向けるアメリカから戻ってきた、日本人の母と米国人の父をもつ金髪碧眼の同級生だった……というお話です。

 閨(ねや)川など劇中の地名やらは作品独自のものですが、参考文献として大阪府立寝屋川高等女学校学生の戦争体験記』など第二次世界大戦にかんする史料が挙げられているとおり、現実に大なり小なりならったものも結構あります。

 どこまでがリサーチで、どこからが創作なのか? 『八月の荼毘』だけから判別するのはむずかしいくらい虚実が溶け合ってます。

 先輩お姉さま方から手縫いの制服を贈られる……なんて「それなんて百合?」な語彙もエピソードも、大枠は寝屋川の女学校で言われたりおこなわれたりした単なる現実*32でしかありません。

 悲鳴はプロペラ音にかき消された。あまりに低い高度を、米国の戦闘機が奔った。篝火の明かりに、操舵手の顔が闇に一瞬浮き出た

   第三象限『あたらしいサハリンの静止点』kindle版76%(位置No.3929中 2947)、谷林守「八月の荼毘」(太字強調は引用者による)

 とりわけ感じ入ったのはこの描写。

 もしにわかオタクのぼくが戦時生活を絵なり物語なりに描こうと思ったら、こういう描写はぜったいに避けちゃうんです。

 これは前にも書いたことだと思うのだが、空襲体験についてずっと思っていたことがあった。
 というのは、実際に自分の頭上を敵機が飛び過ぎてゆくのを見た人の実にたくさんが、「操縦している人の姿を見た」と記憶していることについてだ。そうした談話、回想記事が多く存在していることついては、1990年頃『うしろの正面だあれ』という映画に携わった頃から意識するようになった。当時はまだ作画の現場にも空襲体験のある人もいたし、レイアウトマンとして描くべき状況を明確にするためにある程度積極的に本を読んだりもした上でのことだった。
 機銃掃射をするために超低空に入ってきた飛行機だったら、あるいはそういうこともあり得るかも知れない。だが、夜間空襲のB-29についても「操縦している人の姿を見た」という話がたくさんある。中には「首に巻いていたマフラーの色」についての記憶もあれば、「女が操縦していた」というようなものも多々あった。
 今回の『この世界の片隅に』でのレイアウトマンでもある浦谷さんと飛行機が低空で飛ぶ現場に行っては、見ている自分たちからの距離だとか飛行高度を勘案しながらも「やっぱり見えるわけないよねえ」といっていたのだった。

   WEBアニメスタイル片渕須直『1300日の記録』、「第112回 操縦席の人の顔」(太字強調は引用者による)

 戦時下の広島・呉へと嫁ぐ女性"すず"を主人公にしたこうの史代氏の漫画の世界の片隅に』。このアニメ映画版を監督した片渕須直氏と監督補・画面構成の浦谷千恵氏は、WW2の空襲での体験談について「見えるわけないよねえ」と考察します。

 こういうのをハンパに読んでるんでぼくは書けない。でも谷林氏はそういう半可通の受け手が半笑いで読むのをおそれない。語り手である(ねや)川の学生・櫻子は操舵手の顔をしっかり目撃する……

艦載機のすばしこい動きは、直接自分の生死につながる怖さを感じさせられたことがあります。艦載機と呼ばれた小さな飛行機が、突然頭上すれすれに飛び廻って、搭乗員の顔まではっきり見える所まで近づき、機銃掃射といわれる射撃をくり返すことがありました。

   宣成社刊、大阪府立寝屋川高等女学校『女学生の戦争体験記』p.8、「第31期生」朝の光の中に家を見つけた より(太字強調は引用者による)

中西先生が、「逃げろ」といわれ、東の門(甲斐田門)の方へ走られた。私たちもばらばらとその後を追った。ところが、上から艦載機が追ってくる。つんのめるような感じで走って、えんどう豆畑へ入った。飛行機はぐーんと機首を下げ、機関銃でうっている若い男の顔が見えた。もう半泣きで、友達と手を固くつないで走った。

   宣成社刊、大阪府立寝屋川高等女学校『女学生の戦争体験記』p.46、「第31期生」畑の白い豆の花が脳裏にやきつく より(太字強調は引用者による)

高射砲の発火装置の真管作りの流れ作業で、休みなく働いてはサイレンの音で、近くの山の粗末な壕穴に逃げこんだある日、長時間の退避でのどが乾くので、オッチョコチョイの私はヤカン置場に立ち寄り、一人遅れて壕への道を水をこぼすまいと走っていた。戦闘機が走る人影を狙って低空に飛来しようとは思いもよらずに。私の一メートル位横を弾がパッパッと走った。当らない時は当らないものだなあと、妙に不敵な思いで、見上げたら、ドアから黒い服の機銃士が見えた。恐怖であるべきはずのものが、戦乱の巷にマヒしてしまったのだろうか。

    宣成社刊、大阪府立寝屋川高等女学校『女学生の戦争体験記』p.181、「第33期生」傷跡だけ多くて より(太字強調は引用者による)(「真管」は原文ママ

 何と言っても強烈に瞼に焼きついているのは、枚方工廠が機銃掃射を受けた時のことです。空襲警報が鳴るや否や、聞こえてきた爆音に防空壕へ転がるように避難したのですが、最後に飛び込んで振り向くと、低空飛行の米軍の艦載機に乗り込んでいる飛行めがねをしたアメリカ兵が一瞬目に入り何ともいえない恐怖を感じました。そしてこの異様な体験は永く私をとらえて離しませんでした。

   宣成社刊、大阪府立寝屋川高等女学校『女学生の戦争体験記』p.211~212、「第33期生」大切なものを燃やしたくない思い より(太字強調は引用者による)

  ……寝屋川の女学生の目にはっきりそう見えたように。「私」が感じ得た現実を『八月の荼毘』はありありと展開してみせる。

 空襲を「にわか雨」*33みたく感じるようになってしまったり、金髪碧眼の余所者を排他しそしてそれに違和感をいだきつつも従ってしまったり、「敵国」だとして大多数から排除される文化について一部のひとが理由をつけて戦前同様学ばせる体制をいくらか維持したり*34……他国との長期的な戦争であるとか、散華や英霊をたたえる大日本帝国であるとかというさまざまな異様に身をおいたひとびとの「異なる感覚」を、細やかなグラデーションと色相でもってえがいています。

 

 劇中世界にある複数の文献を渉猟する擬論文小説・擬史料コラージュ小説/第10回創元SF短編賞日下三蔵賞受賞『『サハリン社会主義共和国近代宗教史料』(二〇九九)抜粋、およびその他雑記』で発揮された媒体ごとに異なることばの肌理(キメ)は、『八月の荼毘』でも健在で。

 櫻子の一人称の物語の前後には、大本営発表や、劇中プロパガンダ映画の宣伝、戦後の研究書などがインサートされ、戦時下日本の異様な空気を充満させていきます。

zzz-zzzz.hatenablog.com

 このblogで感想エントリを書いたなかで言えば、ジョン・ブアマン監督の映画ン・マイ・カントリー』アンキー・クロッホ氏による原作ルポントリー・オブ・マイ・スカル――南アフリカ真実和解委員会<虹の国>の苦悩』。これについて『第三帝国の言語<LTI>』や『普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』を思い起こしながら見たり読んだりしたかたなら、オススメの一作です。

 たとえば『八月の荼毘』後半の戦況についてシビアな軍部のインテリがこちらが攻撃をしかけた)真珠湾を起点に戦争をかたる一方で、冒頭の大本営発表の主語が沖縄戦の記事だというのももちろんあるんでしょうけど)「敵来襲の3月23日」を起点にした「防衛陣」であるギャップ。

 これなんて、第二次大戦下の大ドイツの新聞やラジオ放送で発せられた*35coventrieren(コヴェントリーのようにする)という動詞や、自国ドイツと敵国イギリスの空爆との表現にちがいについて(ドイツ系ユダヤ人である著者がその建前ぶりを揶揄しながら)書いた『第三帝国の言語』の一節と重なるような視差でしょう。

コヴェントリーはイギリスの「軍需生産中心地」であった――まさにそのものずばりで、ここに住んでいたのは軍関係の人々だけであった。というのはわれわれは、どの報告書にもあるように、原則的にはただ「軍事上の目的地」のみを攻撃したし、「報復」しかしなかったし、イギリス人とは違ってよこしまなことは断じてなかったのである。イギリス人というのは、空襲を始めるとなると、さらに「空の海賊」として主として教会や病院を爆撃したのである。

   法政大学出版局刊、ヴィクトール・クレムペラー『第三帝国の言語<LTI>』p183(太字強調は引用者による)

 あるいは、『普通の人びと』のこんな事例とか。

トラップ少佐はあの早朝の演説で、ユダヤ人を敵の一部だとする、流布されていた観念に訴えたのである。彼は、ユダヤ人の女性や子供を射殺するときは、敵がドイツを空爆し、ドイツの女性や子供を殺してることを思い出すべきだ、と述べたのであった。

   筑摩書房刊(ちくま学芸文庫)、クリストファー・R・ブラウニング著『増補 普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』p.130(97年刊旧版p.116)、8「大虐殺の考察」(太字強調は引用者による)

ホフマン大尉――彼は一六歳でギムナジウムのナチ組織に、一八歳でヒトラー・ユーゲントに、一九歳で党と親衛隊に加入した――は、政治的、イデオロギー的要因を常套的な手法で否定しようとした。「私の一般親衛隊への加入は、当時親衛隊が純粋に防衛的団体とみなされていたという事実によって説明できます。

   『増補 普通の人びと』p.244(97年刊旧版p.222)、17「ドイツ人、ポーランド人、ユダヤ人」(太字強調は引用者による)

 そもそも日本の寝屋川の現実の女学生の意識のなかとか。

本十八日午後、敵機が、わが本土に對し、大東亜戰争開始以來、はじめて來襲した。京浜、名古屋、神戸の軍事施設をほとんど爆撃する事なく、無辜の民衆に對する爆撃を行ひ、その暴挙はまことに憎むべきものである。我が空・地兩防空部隊は、遲滯なくこれを反撃し、九機を撃墜してゐる。

   宣成社刊、大阪府立寝屋川高等女学校『女学生の戦争体験記』p.62~63、「第31期生」高女時代の三冊の日記 より

 こうした言い換えと実体のギャップの極致が<十一兵>で、『TPoH』の学徒情報モニターや『『サハリン~』の<先生>などがそうであったように、あるものがまったく別種のなにかのように読み替えられたり書き換えられたりしてしまう社会の仕組みや、そうして生まれたギャップと接する個人の心性を谷林氏は今作でも巧みに描き出してみせます。

 <十一兵>の影はうすい。

 <十一兵>はまず巻頭の劇中「大本営発表」の記述のなかに登場しますが、(フォントサイズ的に)こまごまとした文章のなかで、さまざまな部隊や兵器と並んでカッコなしの第十一特務隊として描かれ(そしてその描写は、ならんだほかの事物もまたそうであるように、個々の具体的な詳述は避けられており)、注意力散漫なぼくのようなやからからすればサラッと読み飛ばされる存在です。

 櫻子を語り手にした本編がはじまって早々に、<十一兵>は防空壕に入らないこと、そして<十一兵>が空襲後に数を増やすだろうことが記されていて、それがどんな存在であるか明示的にほのめかされていて。さらには中盤までにインサートされる劇中史料を読めば、予想どおりの社会的な仕組みさえもが明かされてしまいます。「ははぁ~、いわゆる大日本帝国的なあれやそれが、劇中独自テクノロジーで比喩じゃなく実体を持っちゃったということね」とサラッと呑み込めてしまう存在です。

 <十一兵>は影がうすい。空気のように。

 櫻子の物語でまず大きな存在感を見せるのはむしろ、転校生・久那と、彼女との交流をつうじて、敵国アメリカの血が入っているというだけで「違うもの」として遠ざけ排斥する戦中のひとびとの集団心理のギャップです。

 久那に興味をもち交流していく櫻子の一人称視点による物語と、幕間的に挟まれ並置される劇中史料の抜粋的文章とのあいだには距離感があり、この読み味のちがいが面白い。

 お国の空気を遠巻きに見るような櫻子の視点は、はじめ、読者のぼくにとって――物心ついたときには第二次世界大戦から半世紀以上へだたりがある自分にとって――、劇中世界へスッと入っていけるための広い門戸のように機能します。

 櫻子の物語と幕間の記述のギャップは、そして、国の空気から外れていく櫻子たちの歩みをティーンエイジャーらしいほわほわとした足取りとして活き活きと見せたりします。

 さらにふたりが「私たち」と一語で言い表せるくらい距離を充分ちぢめたところまで読みすすめていくと、これまた読み味がかわって、それぞれ独立して読んでいた櫻子の物語と幕間の公的な記述とが一続きの空間として立ち現れてきたりもします。

 

 ぼくたちの身の回りの、空気のように馴染んでしまってふだんは顧みない「当然」。ふとしたきっかけで立ち止まって「それ」を注視してしまい、そうして立ち現れてしまった血肉あるディテールに頭がくらくらしてしまう感覚。

 それに通じる感触を『八月の荼毘』は見事に浮き彫りにしてみせてくれます。

 上の「通じる」という言い回しは、「達成度が微妙に足りない」というのをやんわり濁したみたいなお話ではありません。「そのひとの感覚は究極的にはそのひとだけのものだ」というお話でして、上のような感触を味わったころにはぼくの目はもう櫻子は、読者の分身なんていう風に見てなくて、その世界にしっかり立って己が人生を生きる一個人として、ハッキリ輪郭が映っています。

 終盤はもう、すこしでもしあわせだとよいなぁなんて思いながら読んでいくことになる。現実のだれかにそう思うみたいに。そういう「通じる」です。

 

  今作について、同人サークルねじれ双角錐群のかたがたによる読書会ログがネットにアップされていて、土地勘がないぼくなどは読書の手助けとなりました(※ただし完全ネタバレなので注意!)。また、『あたらしいサハリンの静止点』を一緒に出版した織戸久貴氏の京都SFフェスティバル2019アフターノートによれば、「『あたらしいサハリンの静止点』収録作「八月の荼毘」を書くさいに谷林さんは『終わりのセラフ 一瀬グレン、16歳の破滅』を参考にしたとのこと」とのこと。

 「八月の荼毘」から『16歳の破滅』へ、あるいは『16歳の破滅』から「八月の荼毘」へ向かわれるのも楽しそうです。

 

 

   ▽〃女の身体はとても冷たい」

{同人・ストレンジ・フィクションズ『夜になっても遊びつづけろ 夜ふかし百合アンソロジー』収録。kindle流通中21年末までkindle unlimited読み放題対象)}

 夜に溶けそうな部屋の中で、布団から起き上がり、隣の縫張先輩を見おろしている。

 先輩は布団の中で吐いている。

 激しくえずく声が私の部屋に響き、さっき一緒に食べたスープが布団の上からカーペットに広がっていく。吐き出した中に黒く濁った赤色が混じっているのは血だろうか。

「……喉、大丈夫?」

「――何を入れたの」

「身に覚えあるんじゃないですか?」

 私の返事に、彼女の身体がびくりと固まる。

「縫張先輩、いつからだったんですか?」

 ……女子高にかよう「わたし」朔乃と、朔乃にかまう生徒会の縫張先輩、朔乃のほかに縫張先輩へかまわれた同級生の学園/放課後生活ドラマと並行して、都会の爬虫類マニア怪事件白いワニの都市伝説、類によりことなる生物の睡眠の様相についての知見などなどが挿入されていきます。多様かつうろんな現代の諸相のモザイクとして楽しく読めました。

 

 谷林氏の各作が校了するまでどれくらいのリサーチや執筆時間を必要とするのかわかりませんけど、「サハリン~」「八月の荼毘」といった資料集めや取材からして大変そうな作品にたいして、今作は取り扱われた題材からカレンダーを見るとけっこう短期間で書けてしまったもののように思え、「これだけ瞬発力のあるひとだったのか」と驚かされました。

{あと、ここ3作の語り口は"ドラマ+劇中世界に存在する文献のコラージュ的挿入"という大枠こそ似通っていますが、読んでみるとそれぞれの手つきはだいぶ異なっていて、ここも嬉しい驚きです。過去作「サハリン~」について(面白がりつつも)むかしの日記の読書メモに書いたとおり「なんだろうなぁ、よくわからんなぁ」と気になりモヤモヤした部分があったのですが、そのへん今作はクリアになっているように思います}

 

 この調子でどんどん作品を発表していただきたいところですが、ぼくも気づけば32歳、「●●」などと黒い帳がおりたFANZAの卑猥データ集を後払いPaidyであさる日陰者のオッサンです。

togetter.com

「外野がそう無責任に言っていいものかね? 背中を押したさきは崖だったりしないか?」

 という自問やためらいはどうしたって湧いてしまいますね。そしてそれと同時に、

「いやでもそうした感覚はむしろ、ティーンエイジャーの頃こそ鋭敏だったんじゃないか?」

 なんてことも「彼女の身体はとても冷たい」を読んで思い起こしたりもしました。

 

 いまここより少し先のガジェットが投入された「TPoH」や、劇中独自国家が建国してしまった「サハリン」、戦時下でかつ劇中独自ガジェットが投入された「八月の荼毘」といった谷林氏の他作とちがって、「彼女の身体はとても冷たい」の舞台はべつに、大それた劇中独自事物が投入された世界ではありません。でもだからって、大きな物語が展開されないということを意味するわけではない。

 たとえば賛否両論まきおこった新海誠監督気の子』がそうだったように。

帆高の前に立ち塞がるのは、異星からの侵略者でも、北海道を占領する敵国でも、地底文明に攻め入ろうとする謎の組織でも、空から振ってくる隕石でもない。(略)ただの社会である。ありふれた日々を魅力的に描くために、この映画は徹頭徹尾技巧と工夫を凝らしていく。

   WATCH YOUR STEP刊『新海誠作品全レビュー』本番_電子版改訂_見開き.pdf版p.8(書面の印字でp.14)、「天気の子」レビューより(略は引用者による。「振ってくる」は原文ママ

 同人WATCH YOUR STEP刊海誠作品全レビュー』(リンク先BOOTHの電子版販売ページ)のなかで谷林氏は『天気の子』をそう評します。

 『天気の子』はときとして「RAD WIMPSのミュージックビデオ」と揶揄されるような演出でもってダイジェスト的に登場人物の送る日々を点描しつつも、映画という視聴覚芸術のつよみである(そしてロケハンを十二分にこなし、さらには公開規模の拡大・『君の名は。』の大ヒットを経て、さまざまな実在企業実在物を実名で出せるようになった、近年の新海監督作の強みでもある)単位時間当たりの情報量を過積載して、なんとも充実した時空間や生活のキメを描いてみせました。

 谷林氏もまた光源や色彩など視覚的表現を小説へ巧みに取り入れてきましたが、そうは言っても限度があり、一度に送れる情報量に限りのある文字媒体の作品なので、同じ道は歩めません。でもだからって、「彼女の身体はとても冷たい」で活き活きした世界が展開されないということを意味するわけではない。

 六月の空は曇りなのにうっとうしいくらい明るくじめじめしていた。染めたばかりの髪が妙にべたつく感じがする。

 学校と同じくらい嫌いな天気だった。

   ストレンジ・フィクションズ刊『夜になっても遊びつづけろ 夜ふかし百合アンソロジー』kindle版82%(位置No.4096中 3346)、谷林守「彼女の身体はとても冷たい」より

 校則で定められてはいないとはいえ周囲が黒髪のなか、はたして髪を染めていいものかとか。平日にサボって制服姿で街を出歩いて、だれかに咎められたりしないかだとか。別の学年のひとが教室にあらわれて、いきなり声をかけてきたりしないかだとか。彼我をわける境界はさまざまあって、別のコミュニティからすればどうでもいいかもしれないけれど、その世界に生きる者にとってはそれをまたぐか否かは決定的に大きいものだったりする。

mangacross.jp

 谷林氏が自身のツイッター桜井のりお氏がツイッターに載せたオマケマンガを編纂したりした人気マンガの心のヤバイやつ』の最近のエピソードkarte.76「僕は放課後誘った」(7/27UP。なので7/3発表の今作に影響はない。)では、陰キャの主人公市川くんがカーディガンを着るかどうかで悶えていましたが、学生時代のぼくにとってカーディガンよりさらに高いハードルが、髪にワックスをつけて遊ばせるかどうかでした*36。ギャツビーの蛍光カラーの容器をレジに持っていくだけで恥ずかしく、買っても親兄弟の目は避けられないから机の奥にしまってしまうし、つけてみたらつけてみたで、ちょっと着替えて運動して髪型が乱れていないか気になって、鏡もないのに手でなんとなしに弄って、指のべたつきがじぶんの思い上がりが形をもったみたいに感じられて「だれもおれの見てくれなんざ気にしちゃねぇのに必死だな」と恥ずかしくなる。

 引用した染髪の描写がそうなように、「彼女の身体はとても冷たい」は、制服やローファーや水泳の授業など、梅雨から夏へ向かう時分の学生であればだれしも大なり小なり触れてきたものを、湿乾や寒暖を覚える「私」ならではの――視覚的に表現しにくい、小説ならではの――感覚描写によって肉付けしてみせます。

あと、これは『恋に至る病』のときも思ったんですが、根幹にあるネタはそれほど珍しくないもので(インターネッターなら耳にしたことがあるはずのネタ)(インターネッターとは?)、そのネタがキャラクターにとって重要な・無視できないものとして位置づけられている・つまりネタを十全に活かしてるのが不思議な読み味だった。

   note、谷林守「日記(キーボード/〈20世紀SF〉シリーズ/コールミー・バイ・ノーネーム/あたらしいサハリンの静止点)」

 そうしてぼくは思い出すわけです。

 後払いpaidyするFANZAの画像集で●●が●●と伏字にされるべき理由を。

 インターネット面白ネタを、ふとネタとして流せない瞬間のことを。

 卑猥なサイトに並ぶ記号(タグ)を、記号として見なかった時代のことを。

 ギャツビーの粘り気を。

 「気持ち悪がられないかな」とか「場をシラけさせたりしないかな」とかおっかなびっくりしたり、「なんか……なんかいい感じに盛り上がれたんじゃねっ!?」と舞い上がったりした、あの頃の感覚を。

 

 

   ▽坂永雄一著「えずりの宇宙」

(東京創元『創元SF短編賞アンソロジー 原色の想像力』収録)

  「ラクダのことは言うまでもないが」

「あらゆる情報が蓄積され、自由にアクセスできるようになったとして」

「機械を通じた情報の量と質が、肉の感覚器を上回る日が来て」

  「すばらしき新ディストピア

 「偉大なGがあなたを見ている?」

「どちらが現実と言えるか」

「居場所がないと思ってたが俺ポストヒューマンだったんだな」

ポスドクならぬ」

 「じゃあわたしはシステムエンジニア

「それで、ラクダはどうなったのさ」

アフリカゾウならいるけど」

 「アフリカゾウなら、うちの前の道路で寝てるよ」

 図書館の音は途切れない。

 それは揺れて触れ合う笹の葉のような、若葉を咀嚼する芋虫たちのような、絶えることない微かな音。微かだが絶えない音の霧。一度生まれた音は消滅しない。限りなく減衰しながら、その波形は互いを混濁していく。

 鞠は膝の上に置いた本のページをめくる。目をこすりながら、最後に読んだ一節を口にしてみる。

熱死する宇宙のように?」

円城塔新城カズマ飛浩隆時代のSF短編の模範解答的な作品だと思います。量子論を使って、ネット的なリアリティを近未来SFとして書くという典型的な現代SF。最終候補中では、「今の最新流行を書きました」というSFはこれ一作だけで、「現代SFのある種の典型的な作品」として受賞させたい……と思う一方で、そうした狭いサークルの中で傑作と認定される作品かも知れない欠点もある(笑)。

   東京創元社(創元SF文庫)刊、大森望日下三蔵山田正紀編『原色の想像力』p.477、「第一回創元SF短編賞 最終選考座談会」大森望氏の言より

 審美的に受け入れられやすそうな詩的なチャプターがある一方で、とりとめないぼんくら駄弁りの連打されるチャプターもまたあり、それらの声を重ね束ねるSF的結構について綴られる堅いチャプターもあれこれある今作。

 冒頭で今となってはなつかしのミーム「○○ならいまおれの隣で寝ているよ」を持ってきた采配からか、選評では「狭いサークル性」を疑問視されていましたが、作品世界でとびかう言葉が普遍的でなかったりすることは――匿名に見えて、特定の時代の特定のコミュニティでのみ流通していたさえずりであったりすることは――、むしろこの作品を強固にしているように思えます。

 

 収録書は絶版、電子書籍化もされていないからちょっとだけ敷居はたかいですが(ぼくも最近は保管場所の問題から電子書籍を買いがちです)、このメディウムである必然性みたいなものも感じられもして、今の時制から読む面白さというのもまたありそうです。

 紙の本をパラパラとめくる感触やそうして起こるささやかな風は、物語のなかのさらさらと風に笹の葉が擦れ合う竹林とかさなって、別のことがらともつらなり、思いのよらないところまで吹きすさぶ。今あなたが読んでるこの画面がそうであることは言うまでもないが。わたしはもっと別の場所へも届いてくれたらよいなと思う。

 

 

   ▽〃「人の船で発見された手記」

(東京創元『年刊日本SF傑作選 アステロイド・ツリーの彼方へ』収録)

 その日、大いなる深淵の源はことごとく破れ、天の窓が開いた。雨は四十日と四十夜、地に降り注いだ。

 地上すべてが水に沈んだ。

 見渡す限りが波と嵐だ。あらぶる空と海はまざりあって闇に近い黒い流体となって空間を満たしている。そこにわずかに明るい、空気の閉じ込められた間隙があり、船はそこを漂っている。

 わたしは船に乗っている。あまりに大きな船だ。船主によると、地上のすべての空の鳥、すべての這うもの、すべての獣を救うために、これほど大きい船を作らなくてはならなかったという。

 その獣にはわたしも含まれている。

 ……方舟で大洪水から逃れて幾星霜。簡単な言葉と指文字でコミュニケーションをとる夫や家族のなかで、じぶんだけが解する手記を板などにひっかき書き留めている「わたし」の物語です。

 トリビュート掲載作「もしオクラホマ~」や、商業書籍へ以前掲載された「さえずりの宇宙」や後年掲載の「ジャングルの物語~」などなどではさまざまな視点人物や時空間を点描して、めくるめく万華鏡のような物語を展開してみせた坂永氏ですが、それらと打って変わって今作は、主な語り口として、限られた舞台(と言っても、方舟内はかなり広いみたいですが)の一方向へ流れる時間軸を生きる単一の語り手によるモノローグを採用。

 語り手は上述のとおり孤独な存在で、また方舟の船主をのぞく周囲(人間以外)の文化的な水準も低い。だから今作同様あとがきでラファティへの敬愛が表明された坂永氏の別作「大熊座」とちがって、ぼんくら仲間とゴシップ誌や"偽民族学"的なおしゃべりに興じることもできません。

 坂永氏の他作でみられるような味はかなり抑えられたかたちで進むのですが、他作とおなじく面白い。

 他作の味をとっぱらわれたことでよくわかるのは、地味な展開をグイグイ読ませる氏の筆力。見たまま動いたままを書きつらねる地道な語りのなかにあらわれてしまう、審美的に色気のある文章が光ります。冒頭の、空と海の境界さえ曖昧な黒さを眺める語りに「おっ」と惹かれたかたはご安心、その期待は裏切られることなく結末まで絵筆がふるわれています。

 

 ラファティというと、くわしくないぼくなんかはどうしても横山えいじ氏やいしいひさいち氏の表紙絵や背表紙の説明「愛すべきホラ吹きおじさん」「抱腹絶倒」といった明るく愛嬌あるイメージがつよくなってしまいますし、(ラファティ作品の恐ろしさに特記もした)伴名氏が「じぶんがラファティアンソロジーを組むなら」と挙げた現代の漫画家でもやっぱり柔らかめの画風のかたが挙げられていましたが、じっさい作品を読んでみると「もっとぜんぜん別の画風のかたが筆をとったって似合うよな……」と思ったりもする。

 たとえば弐瓶勉氏や五十嵐大介氏はどうだろうか?

 絢爛とか畏れをふくんだ崇高とかって言葉がしっくりくる、クールで圧倒的なイメージを否応なしに見せてくれる作品もかなりあるんですよね。

 「無人の船で発見された手記」にかぎらず坂永氏の作品は、そういう世界観・光景をつよく感じさせてくれます。

 

 創元版の著者あとがきでは、ラファティへの敬愛のほか、坂永氏によるラファティ作品の端的な評価がのべられています。

 

 

   ▽〃ャングルの物語、その他の物語」

{河出『NOVA+ 屍者たちの帝国 書き下ろし日本SFコレクション』収録。電子書籍の流通もあり}

 現代、「最終戦争」から約半世紀が経ち、合衆国を筆頭として地球外の星々へ戦争機関と資源採掘工場を伸ばし、万国が「次の戦争」に備え続けている空漠たる世紀。ここにおいては屍者は時代遅れのものとなった。屍者がロケット制御のために分解・抽象化されたのを皮切りに、電気電信と同様にネクロウェアが現代社会に不可欠だが見えない存在になったこの二十世紀のおいて、いわゆる屍者をその目で見ても、本物だと思うひとは少ない。

 そこに至るまでにはさまざまな技術の試行錯誤があった。たとえばモロー博士による「人狼」――人と獣の相の子のような屍者たちだとか。

 ※※※

「しかしアラン君が、私のように筆一本で食べていこうとしているとはね。ジョンが心配するのも仕方のないことですよ」

「お恥ずかしいことです、ウェルズ先生」

 一九〇四年、ロンドンのナショナル・リベラル・クラブでかの有名なH・G・ウェルズは過去に一年だけ家庭教師をつとめた教え子の青年に相談を受けていた。

「父の期待に背くのは後ろめたいことです。ですが、僕はどうしても作家になるつもりです。一遍のライトヴァースから、多才な俳優と精妙なる屍者に彩られた舞台まですべて魔法です。私はその一員になりたい」

「その意気です。とはいえ、やむをえない仕事であってもちゃんと選ぶべきです。そうだ、先ほどのクラブの件ですがせっかくですし推薦しましょう。進化生物学のクラブとかどうですか。スタビンズ医師は動物と言葉が通じるかのごとくで、まさに在野の動物学の泰斗です。あとは、貴方も新聞を読むなら、モロー博士の驚異の被造物はご存知でしょう」

 ※※※

「ビリー・ムーン! どこへ行くの?」

「アッシュダウンの森だよ、ママ。狼の兄弟が僕を呼ぶんだ。アッシュダウンの森には狼がいるし、熊も、豹もいる。見つからないのは、みんな秘密調査員の訓練を受けていて、一般市民からは隠れているからさ」

 一九二五年、ビリー・ムーン少年がポージングフォードの木立を駆けていく。

「やあ、蛙男(モーグリ、俺の生徒よ。何をしているんだね」

 黒い山のような巨体が森から現れ、橋をまんなかまで進んでくると、欄干にもたれたビリー・ムーンの隣に腰をおろした。

「何もしていないさ、バルー」

「ふむ、つまり何もしていない、をしているというわけかね。それが何か俺は知らないが、人食い虎のシーア・カーンをやっつけるのに有効な手なんだろうか」

 彼らと対峙するとき、ビリー・ムーンにはある種の魔法がはたらく。

 熱帯の大叢林(ジャングル)の空気の魔法だ。一呼吸のうちに、髪と眼がアジアの闇夜の黒に染まるインドの大叢林で育った野生児、熊と豹の被後見人、狼の指揮官、油断大敵の蛙男になる……というお話です。

 

 『屍者の帝国』と世界設定をおなじくするシェアード・ワールド小説で、『屍者』で言う「天才の世紀」19世紀が終わった直後から(『虐殺器官』的なテクノロジーが隅々まで行き届き、生のにおいが限りなく脱臭された、さまざまなことが分業化・専門化され複雑きわまる)現代にいたる激動のなかの、屍者とひとのひとつのありかたを、一対の二連祭壇画(ディプティク)のように描いた作品です。

 地の文がつらつらとつづく歴史・社会描写に満たされた「一」、かの有名なSF作家ウェルズに相談をするも微妙に進路がずれていくアラン青年の人生と、ほがらかさと不穏さの同居する親たちとズレた感覚をもってトンチンカンな会話をするビリー・ムーン少年の冒険がえがかれる「二」。時代も舞台も人物もことなる各物語が、次第に像をむすんで大きな一枚絵となっていくさまが圧巻です。

 複数の時空間が点描される夢みたいな構成、独特の世界観に生きる子ども、崇高な圧巻のスペクタクル、そうした混沌をどうにか引き受けようとする人物がいるところなどは『もしオクラホマ州の~』に近しくもあります。

 ありますが今作の混沌は、(現実を加味した劇中)歴史の経糸がより太くしっかりしたかたちで通されていて、混沌の引き受け手もその線上におり、はちゃめちゃながらも不可抗力的必然なのだと思える確かな質量を有しています。

 読んでいる最中はどこに向かっているのか分からなくて不安になってきますが、五里霧中のような実体さだかでない不透明さによるものではなく、密林のなかをかきわけて行くさいのそれであります。すべてが終わって振り返ってみれば、あの時あの木をこの時この川を通りぬけていったとたしかに思う、確たる眺望が冒険の手ごたえがのぞめます。

 親子の雰囲気などにはとくに『もしオクラホマ州の~』でも参照されたR・A・ラファティ的な温かさと恐ろしさ(異様なレベルの断絶、ディスコミュニケーションの壁、一歩たがえただけで破滅が待っていそうな暴力性)を感じますが、そのあたりの魅力についてはラファティ氏に詳しいかたにお任せしまして、今回注目したいのは別の味。

 下生えがゆらぐ。風がうなる声、岩が歯軋りしながら嘆く声が蛙男に囁きかける。狼の兄弟たちがやってきたのだ。

(略)

「さあ、追い立てろ、兄弟たち! 機関の吠え声で霊素に活を入れてやれ! 北から来た猟師どもを震え上がらせろ! さあ、進め! 牛ども、進め!」

 集められた屍者歩兵は谷の左右に隊列を組み、八頭の狼たちに追い立てられるがままに走りだす。彼らの思考プログラムは、結局のところ待機と突撃のルーチンと、周囲の兵士との距離を見て適切に保とうとするルーチンしかない。人狼部隊は近づき、離れ、そのルーチンを適切に刺激し、フィードバックを制御して組織化し、一つの生き物のように操縦する。

 罠に気づいたシーア・カーンが吠える。

 驚いたヒバリが舞い上がり、太陽に飛び込んで消える。

   河出書房新社刊(河出文庫)、『書き下ろし日本SFコレクションNOVA+ 屍者たちの帝国』kindle版78、79%(位置No.4590中3537、3586)、坂永雄一著「ジャングルの物語、その他の物語」二より(略は引用者による)

 ビリー・ムーン少年が自宅をはなれ森の仲間たちと闇戦争(グレート・ゲームに身を投じる風景。暗に『少年キム』が重なったりなんだりするこの光景、これって奇しくもピクチャレスクはたまたピクチャースキューではありませんか? 英国の作家チャイナ・ミエヴィル氏がSkewing the Picture(丸カッコ内リンク先、当ブログの勝手に邦訳記事)で注目した英国の価値観ピクチャレスクやそこから派生していった{悪凝り(ポスト・)ピクチャレスク。ピクチャレスクの誤発音をミエヴィルが転用した『StP』内の独自概念=ピクチャースキューの風味が、今作からも感じられます。

 19世紀の自然文学の作家リチャード・ジェフリーズが近年称揚されているのは、1885年にかれが描いたポスト終末作品『ロンドン以降(After London)』*37によるものだろう。同じジェフリーズの作でも1881年の児童文学『森の魔法(Wood Magic)』は見過ごされているけれど、こちらはピクチャースキューの基礎をなすテクストだ。

 動物や自然(landscape)と親しく交わり、ウィルトシャーの農場で成長していく田舎の少年の鮮明な記述であり、下生えの藪における戦争や革命についての――野蛮についての、時空間をねじり曲げた崇高についての異常に悪意に満ちた寓話でもある。

These days, if the great 19th-century nature writer Richard Jefferies is celebrated, it is for his 1885 post-apocalyptic After London. But his neglected children’s book, Wood Magic, from 1881, is a foundational text of the pictureskew. A vivid depiction of a country boy growing up in a Wiltshire farm, communing with animals and landscape, it is also an extraordinary vicious fable of war and revolution in the undergrowth, of savagery – and of the wrenching sublime of space-time.

 カパック王率いるカササギ軍とチョーホー率いるモリバト軍二つの軍勢が出会ったとき、日食が起こる。この子ども向け寝物語のなかで、田舎の残忍と荒涼が無限に混ぜ合わさって、急に恐怖へ飛んでいく。

As the two armies of King Kapchack the Magpie and Choo Hoo the wood pigeon meet, an eclipse occurs. Bucolic brutality and the bleak infinite combine, in this child’s bedtime story, hurtling towards horror.

 辺りが影に覆われたときにはもう、前進中の軍勢は戦闘に衝撃を受けていたようで、そしてかれらは日食を見た。

 その時まで……伍や兵はおろか将さえもが、太陽が半円の闇に緩やかに飲まれていくまで気づけなかった。

 不吉な影が軍勢に降りかかり、その突然さゆえになおさらおぞましかった。大いなる恐怖が密集した軍勢を襲う。天国の偉観が個々人の良心に響いた;交戦し大殺戮となることをためらわせるほど恐ろしい啓示が。

Already the advancing hosts seemed to feel the shock of the combat, when a shadow fell upon them, and they observed the eclipse of the sun. Till that moment … neither the rank and file nor the leaders had noticed the gradual progress of the dark semicircle over the sun’s disk. The ominous shadow fell upon them, still more awful from its suddenness. A great horror seized the serried hosts. The prodigy in the heavens struck the conscience of each individual; with one consent they hesitated to engage in carnage with so terrible a sign above them.

    rejectamentalist manifesto、チャイナ・ミエヴィル著『Skewing the Picture』{訳文は引用者による(英検3級)}

 その辺じっさい作り手が意図したかどうかはともかくとして(※)「ジャングルの物語、」劇中英国のすがたは「挙げられたさまざまな参考文献が活かされているのだろうなぁ」という書き込みで具体的。

 ミエヴィル氏は前述概念についてこうも語っていて……

 1816年、ハンフリー・レプトンは『風景式庭園の理論と実践についての断章(Fragments on the Theory and Practice of Landscape Gardening)』を出版した。自身のエセックスの庭園から眺めた、作庭する前と後との挿絵――紙を折り重ねて巧妙に構成された――をレプトンは本の内に閉じ(included)、囲い込んだ共有地でいかにピクチャレスクを造ったか正確に見せた。

 In 1816, Humphrey Repton published Fragments on the Theory and Practice of Landscape Gardening. He included a before-and-after picture of the view from his Essex garden – artfully constructed with paper folds – to show precisely how he made it picturesque, by enclosing common land.

 

{訳注;挿絵『エセックスのヘア通りにあるレプトンの家からの眺め、造園まえ(View from the cottage of Humphry Repton at Hare Street, Essex, before proposed alterations)』画面左の建物の1階は肉屋で木板の窓を持ち上げ開いて屋根にして肉を並べている。手前には整地された庭と菱形格子の柵が水平線と平行に並び、柵のすぐ外に隻眼で片足義足の老人が帽子を器にして立っており、その奥の道に囲まれた三角の原に白い鴨が群れをなしている。馬車がぽつぽつと走る薄土色の道は轍が目立つ}

 

園として充当された25ヤードにより、わたしはランドスケープの額縁(フレーム)を得ました」

 レプトン庭園の植栽により、不快な肉屋を隠すことができ、そして、あてつけがましく、貧民が――「作庭前」の挿絵にいた不具になった物乞いが――近づくどころか見ることさえできないよう前もって閉じ(preclude)妨げられた。それもこれもかれの眺望が「まるで別のどこかにいるかのように見える」ときに、「充当に由来する喜びの心を奪う」せいだ。

 ‘[B]y the Appropriation of 25 yards of Garden, I have obtained a frame to my landscape.’ By the planting of that Garden Repton he was able to hide the butcher’s shop that displeased him, and, pointedly, to preclude the poor — in his ‘before’ picture, a disabled begger — from coming close to his garden and so much as seeing it. All because when his view ‘looks as if it belonged to another’, it ‘robs the mind of the pleasure derived from appropriation’.

 

{訳注;挿絵『エセックスのヘア通りにあるレプトンの家からの眺め、造園後View from the cottage of Humphry Repton at Hare Street, Essex, after proposed alterations』菱形格子の柵は除かれ、かわりに垣根が街路をなぞるように曲線をえがいて仕切る。画面左の建物の1階の肉屋は垣根でかくれ、二階の漆喰の壁も草木を這わす木組みで縁取られている。手前の道は楕円を描き、あいだの芝生にも花咲く藪が植えられている}

 

 これらの改修により、レプトンはあの貧民やあの店を忘れられなくなった。レプトンは彼が何を隠したのか、そしていかに隠したのか注目を惹いたのだ。レプトンはいま貧民がそこにいると知りながらそこにいないかのようにふるまえる。トーリー党が凝視したこのピクチャレスクは、収用的なだけでなく排他的で、にもかかわらず:ラスキンが「苦悩や腐敗」と認めたもので、けれどラスキンが意識的なことだと弁解した憂鬱でさえなく、サド趣味だった。それは忘れない:それは消してしまう(efface)ことを思い出す。

 It is not that with these improvements Repton is able to forget the poor and the shop. He draws attention to what he has hidden, and how he has hidden it. The obscuring is visibly invisible. He can now pretend the poor are not there while knowing they are. This picturesque Tory gaze is not only expropriating and exclusionary, though it is that: as aware of ‘distress and decay’ as is Ruskin, but without even the melancholy with which Ruskin excuses that awareness, it is sadistic. It does not forget: it remembers to efface.

 

 ピクチャレスクの呼び起こす胸のいらつきは雑多だ。曖昧な美化工作からくる正当な不安;ピクチャレスクが否認する救いがたい(abject)現実という、それ自体の抑圧に回帰する不安。

 The disgust the picturesque evokes is multifarious. Righteous unease at this obfuscatory aestheticising manoeuvre; and unease at the returned repressed itself, the abject reality the picturesque disavows.

 

 不安、不気味、奇怪、ピクチャースキューの恐怖はべつに、異国の伝染病ではない:ピクチャレスクそれ自体の中にあるものだ。ピクチャースキューは観点を右や左に毛ほどかすかに動かしたピクチャレスクで、だから組み立てられた眺望が覆い隠したものが再び見られるようになっただけだ。

 The unease, the eerie, the uncanny, the horror of the pictureskew, then, is not some alien infection: it is there in the picturesque itself. The pictureskew is the picturesque with its viewpoint moved a hair to one side or the other so what the constructed view obscures is just visible again. The picturesque itself made abject. The pictureskew sees not what this picturesque misses, but what it unsees.

   rejectamentalist manifesto、チャイナ・ミエヴィル著『Skewing the Picture』{訳文は引用者による(英検3級)}

 ……自然に見えて自然でないピクチャレスクと、やり過ぎのキッチュに見えてむしろ前者が覆い隠したものを暴こうとする写実とも取れるピクチャースキュー。封建社会版ディズニーランドと嘲笑もされたチャールズ皇太子の実験都市パウンドベリーなど)ミエヴィル氏によれば現代までつづいてしまっているらしい英国のそんな地平に、今作のアッシュダウンの森とけもの達だってしっかりと立っているようにぼくの目には見えました。

(※すくなくとも、ミエヴィル氏のこのエッセイを坂永氏が参考にしたということはありえません。だって『StP』は、坂永氏の作品が出版された翌年16年になって初めて発表されたものなのですから。ということはつまり、よく取材しよく創造された作品は、余人がその特色へ注目し特定のラベルを貼るまえから、対象元来の味をきちんととらえ反映してしまえるのだと。そういうことなのかもしれません)

 

 事物はいじらず「観点を右や左に毛ほどかすかに動かしただけ」というピクチャースキューの視点は、『屍者の帝国』執筆するさい円城塔氏が設けた"縛り"を思わせます。

 歴史改変ものには常に程度の問題がつきまとう。歴史の中ではあっという間の十年なども、その中で生きている人々にとっては人生の長い期間を占める十年である。その点、南北戦争西南戦争の時代をずらすことができればなにかとやりやすく、どんなものでも設定可能になりそうなのだが、ここではそうしなかった。屍者という巨大な技術革新があった以上、何がどう変わってしまっていても不思議はないが、世界史の年表的な出来事にはほとんど手を入れていない。これは結局、屍者は生者の歴史に関与できないという立場かも知れず、誰かの歴史に人はそれ以上手を入れられないということなのかも知れない。

   河出書房新社刊(河出文庫)、伊藤計劃円城塔屍者の帝国kindle版99%(位置No.6256中 6184)、「文庫版あとがき」より

 『屍者の帝国』についてはこのblogの別の記事でもちょっと(2万字くらい)ふれました

 登場人物として出てくるのが、人工的な魂「疑似霊素」を注入され(おそらくコンピュータにおけるプログラミングやソフトウェアに類するであろう)プラグインによってソンビのようにうごく死体「屍者」のほか、そうしたかたちで行動を縛られていない生者だけど、しかしグラント元大統領など実在人物や、『シャーロック・ホームズ』のジョン・ワトソンや『カラマーゾフの兄弟』のカラマーゾフといった同時代の創作に存在する人物など、作家の都合で動かせないバックボーンや原典をせおった人物ばかりで。そんな制約だらけのなかでも、生き生きとして見えたり奇怪きわまりなく見えたりするカオスが面白かった作品です。

 また、メタ的なお話になってしまうけれど、偶然にも断筆してしまった伊藤氏の書き味を・書いていたかもしれない可能性を、共著者として(本人は否定していますが)なぞろうとする後任の円城氏の手つきに、ぼくは感じ入ったりもしました。

 『屍者の帝国』でカラマーゾフの兄弟を出てきたのも、その作者ドストエフスキーが影響を受けた思想家フョードロフが出てきたのも円城氏によるお仕事だけど、伊藤氏がウェブに購入したことを記した文庫クセジュのロシア関係の本(それ以上の詳細不明)のなかにはフョードロフに関する記述もあって*38、もしかすると伊藤氏がプロローグから先に筆を進めても彼らが出てきたかもしれない。

 『ジャングルの物語、その他の物語』を読んで思い起こされるのは、そうした感覚についてなのですね。

 どうにもしようがないくらいに重たいけれど、どうしてだか悠々自適に動いているように見えもする活力。ちがうんだろうけどちがわない、なぞっているんだろうけれど独自のなにかに変じてしまう、相反するものが混然一体となった生・時空間についてなのでした。

 

 

   ▽〃「熊座」

(同人・鴨川書房『改変歴史SFアンソロジー』と、改稿版がメジャー出版社の『年刊日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形』とに収録。前者はBOOTHで電子書籍が、後者は紙の書籍が流通中) 

 クリストファーが到着したとき、村にはすでに冬の気配が訪れていた。

「バスの運転手が言ってたよ、もう一週間遅ければ運休になっていたって」

「そこは最初のメールにも書いただろう。ホワイトスノウ・ピークにおける熊の異常行動の目撃報告はこれまではいつも秋から冬にかけてのものだった。もちろん、真冬の山中にはおいそれと入れないが、今日のような晩秋の夜に、村人たちは奇妙なものを見たらしい。だから秋の終わりにしたんだ。

 いいから昼食にしよう。奮発してガチョウをしめてもらおうぜ」

 迎えたのはジョージ一人。村に唯一のダイナーで二人は再会を祝して、そしてこれからの調査の成功を祈って、ガチョウをまるまる一羽、熟成されたワインと一緒に腹に詰め込んだ。新鮮な肉の匂いに二人の博士は奮い立った。

 そもそもゴシップ誌が発端だった。『コロラド州ホワイトマウンテンに空飛ぶ円盤!』あるいは『某H山中に狩人の幽霊現る』と言った春にはお馴染みの三文記事。しかし読みくらべるとすべてここ、ホワイトスノウ・ピークを舞台にしている。動物学者で博物学者、オカルト文化学者、口承文学者、偽民俗学者である奇人にしてジョージとクリストファーの友人であるヴァージニア・ハンチントン博士はそれに目ざとく気づいた。彼女は夫を連れて実際にホワイトスノウ・ピークまで足を伸ばすと、うらぶれた村人たちから直接聞き込みをして回った。ゴシップ記者が売れるネタに整形する前の、生の目撃証言を聞きたかったのだ。

 その結果は熊だった。

 ……冬が近づく山村で、ゴシップ誌の三文記事の真相をたしかめるべく実地調査へむかった二人の髭もじゃ博士の物語です。

 初出は『改変歴史SFアンソロジー』。改変歴史SFと聞くと、『ディファレンス・エンジン』などの印象から、虚実の歯車をカチカチ噛み合わせるタイプの作品が思い浮かんでしまいますが、再録された創元『年刊日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形』あとがきで著者本人が言うとおり、ラファティをオマージュした奇想・ほらばなしの色がつよいSFです。前者のタイプをお求めのかたは『ジャングルの物語、その他の物語』をおすすめします。

 

 さて「愛すべきホラ吹きおじさんラファティの抱腹絶倒の21の短編」とは、早川書房(ハヤカワ文庫SF)のR・A・ラファティ百人のお祖母さん』裏表紙の紹介です。

 『大熊座』もまた愛らしい作品です。

 髭もじゃ博士のなかまが目を留めたパルプの三文記事だって現にいる誰かに取材した結果であって、酒であれば鮮度を気にせず何でも飲んでしまうような呑兵衛がとなえる偽民俗学だってほんものの神話をなにかしら参照していて、神話がここまでつたわってきたのはそれに何か理を見たひとがそれだけ居たのだということでもある。うろんだけれど確からしいボンクラ話を交わしている切れ間から、底知れない世界が覗く……

 ……愛らしい、けれど矮小な個が、世界の圧倒的な巨大さに接してしまうタイプの、おそろしいタイプのラファティ作品の味があります。

 『九百人のお祖母さん』裏表紙は多作のラファティのごくごく一面でしかないことは、坂永氏が邦訳されたラファティの短編を網羅した論考間からはみだすものを読む 邦訳全短篇紹介』で記されたとおり。

今回のベスト・コレクションでもタイトルに採用された「町かどの穴」(略)昔からファンも多い作品であるが、正直に言おう、第一印象からずっと不気味で恐ろしい一作だ。

   note、Hayakawa Books & Magazines(β)掲載、坂永雄一著「ラファティとコミック」(略は引用者による)

 21年のラファティの既訳アンソロジー出版記念に書かれた(余談だけど22年にはラファティの初訳アンソロジーも出るそうな。すごい!)氏の別のエッセイ『ラファティとコミック』では、ある作品について「不気味で恐ろしい」と言い切っていましたが、今作「大熊座」もそんな顔がのぞく作品。

 今作などを入り口にして、ラファティらに手を伸ばしてみるのも楽しそうです。

 

 同人『改変歴史SFアンソロジー』版と創元『おうむの夢と~』版とで物語の大枠に違いはありません。しかし文章が全面的にこまかく改められていて、言い回しがより自然になっているうえ、カギカッコの連続だった箇所に話者の動作などが挿入され(けっこうが空気や嗅覚にかんする表現でまとめられているのも統一感がある)、会話内容も(一セリフ内に、複数の話題が入っていた同人版に対して)だいたい一セリフに一話題となる方向へ改められています。また、お話の因果*39や意味*40・語感*41がよくなっています。

 作品へより入り込みやすく、より一層味わい深いのは『おうむの夢と~』版だと思うので、ぼくとしてはこちらをオススメします。(紙の本しかないので置場に困りますが、2021年7月現在まだ絶版じゃないし、次につながるといいなぁと)

 

 

   ▽〃「脊椎動物の想像力と創造性について」

(今作を収録した河出『NOVA 2021年夏号』は紙の書籍が流通中

 砕けた石畳から咲いた花の上で、小さな蜘蛛がつま先立ちになって糸を風になびかせている。新天地に飛び立とうとしているのだろう。

 サイバーグラスに常駐するミネルヴァシステムが一瞥のうちに蜘蛛を同定し、赤くターゲットした。葛城蛛形(かつらぎちゅうけい)生物群のA型。

 今朝から吹き始めた風は雨の匂いがした。

「天瀬教授、そろそろ出発しましょう」

 声に気をとられた一瞬の間に蜘蛛は飛び去っていた。

 眼前では、京都タワーが薄黒いとばりを突き破り、にわかに曇りつつある空へ伸びている。バスターミナルのベンチから立ち上がって見渡すと、放棄されて久しい町並みが広がる。不在を湛えたビル群が、にじんだようなテクスチャをまとっている。空の雨雲が降りてきてこの町に居座ったように。

 それは蜘蛛の巣だ。無数の蜘蛛の巣が何重にも重なり、ほぼ切れ目なくつながって、巨大な霞網のようになって建造物を覆っている。京都市内ほぼ全域がこのありさまだ。

「小型飛行機で大学近くへ移動します。ここから大通りさえも糸で塞がれていて、装甲車が通行できません。一キロ程度を徒歩で踏破することになります」

 目的地は京都大学。壊してしまう前に訪れたかったのだ。それは建築家であるこのわたしの設計した場所であり、そして葛城博士が最期にいた研究所だ。

 京都を支配するこの蜘蛛たちは、葛城絹という科学者に創造された。彼女はわたしの三十年前の友人であり、今では世界中の人々に蜘蛛女などと呼ばれている……というお話です。

「これぞSFといいたくなる。本当、伴名練の次は坂永雄一の短編集を出さなきゃダメでしょう。」

 と太鼓判を押すのは大野万紀氏。牧眞司氏の書評連載【今週はこれを読め! SF編】では、『NOVA2021年夏号』の「いちばんの注目」作として取り上げられ、作家の飛浩隆氏も大絶賛……

 ……とここまではSF界隈の「いつメン」感がただよいますが、TikTokで自作がバズったり『少女 歌劇 レヴュースタァライト』古川知宏監督の次回作の脚本を担当することが発表されたりなどした気鋭の作家・斜線堂有紀氏が『斜線堂有紀のオールナイト読書日記』で話題にするなど、幅広い層にとどく作品だと言えそうです。*42

 

 建築家である「わたし」が、同窓生である生物化学の研究者葛城ののこしたらしいとてもすごい蜘蛛たちが巣くう奇怪な京都をすすんでいく現在時制・一人称語りを軸として、ふたりが過ごした学生時代の回想や、クモにかんする奇怪な生態や考察にまつわる三人称的パートが挟まれた小説です。

bijutsutecho.com

 蜘蛛の糸によるヴェールをかぶった京都の異景は、はじめこそ現代アートの巨匠の創作にたとえられますが。

 ポンヌフ橋を梱包した実績などがあり生前に凱旋門を梱包する夢を見て死後それを達成した芸術家クリスト&ジャンヌ=クロードのふたりが、自身の創作を「すばらしく非合理なものです。ありふれていない、役に立たない(ユースレス)ことこそが、クオリティーを支えている」と言っていたのとは対照的に、劇中のとてもすごいクモたちや蜘蛛の糸に絡めとられたものに虫などが集まったり日陰に藻類が育ったりして生じ発展する生物圏(!)にとっては有用そのものであり。

 そして合間に挿入される既存のクモの生態解説にあるとおり、京都大学の最奥へむかうにつれ奇怪な様相が次から次へと明らかとなっていく旅は、ある意味で、いまここにある現実がいかに複雑怪奇かを紐解いていく回顧の過程ともなっています。

 恐怖映画やSF映画の制作者たちは、大きさと形の関係についてまったくわかっていないように見える。これら「ものごとの可能性をむやみに拡大してゆく人びと」は、かれらの知覚のかたよりから自由になれないでいる。(略)放射能X』の親切な昆虫学者は、巨大な女王アリが婚姻飛行に飛び立つのを発見したとき、急いで次のような単純な比例計算をした。普通のアリは一インチの何分の一かの体長で、何百フィートも飛ぶことができる。これら巨大なアリは何フィートもの体長だから、一〇〇〇マイルは飛ぶことができるにちがいない。何と、彼らは、ロサンゼルスくらい遠くまで行けるのだ!(実際、映画では彼らは、ロサンゼルスで下水道本管の中にひそんでいた)。しかし、飛翔力は翅の面積に依存するのに、空中で支持されなければならない体重は体長の三乗に比例して増加する。巨大なアリたちは、呼吸と脱皮による成長の問題を何とか切りぬけたとしても、大きさそのもののために永久に地上に釘付けにされただろうことはたしかである。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫NF)、スティーヴン・ジェイ・グールドダーウィン以来 進化論への招待』p.284~、「第6部 大きさと形――教会、脳、惑星」21章 大きさと形より(略は引用者による)

 スティーヴン・ジェイ・グールド氏は、自著『ダーウィン以来』のなかで『放射能X』(傑作モンスター映画!)をおおきな具体例として挙げてそんな批判します。

 今作も『放射能X』同様、とてもすごい虫による国家規模へまで拡大した侵略模様がえがかれるわけですけど、そこまで広がった理由がおもしろい。

 京の碁盤模様がクモの糸で霞みがかって見えなくなる劇中世界を読んで驚嘆するのは、「"放射能"(なり"タキオン"なし"ナノマシン"なり"量子論"なり"超弦"なり"素粒子"なり"シンギュラリティ"なり何なりその他任意の未知なるスゴイ科学用語)すげえな」ということではありません。「クモってそんなことができたんだ」という既知の観察・考察結果にたいする驚きです。

コラム 人工クモの糸の夢

 21世紀になると、それまで夢であったクモの糸の量産化の話が現実味を帯びてきた。2002年の科学雑誌の「サイエンス」誌上では、カナダのベンチャー企業「ネクシア」と米国の陸軍が共同で、遺伝子工学的手法でヤギのミルクから蜘蛛の糸を作り出すことに成功したとの発表が行われた。(略)しかし、待てどくらせど、ネクシアから新しい発表はなかった。結局、分子量で適切な大きさのものができずに、2009年には撤退したものと言われている。

   岩波書店(岩波科学ライブラリー)刊、大﨑茂芳『クモの糸でバイオリン』kindle版32%(位置No.1779中 546)、「コラム 人工クモの糸の夢」より(略は引用者による)

 軍もまきこんだアメリカ‐カナダの共同研究(がなされるも音沙汰なし)信州大学の蚕へのクモの糸の遺伝子組み込み(組み込み率は10%にとどまり、しかも物性にかんする報告はない)、山形ベンチャーによる枯草菌へのクモの糸の遺伝子組み込み{しかし生成物質の特性報告がこちらもなし(おそらくSpiber社のことで、過日「クモ糸を模倣しようというフェーズを脱した」と代表取締役が述べ、別路線への転換を打ち出した)}……クモの糸で2tnトラックを曳いたりバイオリンを弾いたりしてみせた研究者の大﨑茂芳氏は、じしんの研究の試行錯誤や人々による芳しくない研究をならべることをつうじて自著同著に近しい内容の論文はJ-Stageでオンライン公開されていますでクモの不思議を端的に説明します。

 作品末に載せられたさまざまな参考文献のなかにこの本こそ挙げられてはいませんが、大﨑氏が見たようなクモの御しがたい底知れなさは――あるいは人間の限界は――無脊椎動物の想像力と創造性について」にも十二分なほど含まれています。クモたちの巨大な巣は雨雲にもたとえられましたが、なるほど人類には全容が見通せない大自然のようにも、たしかに思える。

 

 とてもすごいクモたちが現実にうまれたら? そこから広がる奇想は量も掘り下げもすさまじく、その読者の理解が追いつくまえに次々と開陳されていく高速さや多様さが、そのままクモに刻々と侵略されている事態の深刻さへとつながって、また、「わたし」と葛城の対立を際立たせ、キャラの主張につよい説得力をあたえもする。そしてさらには……

 ……終盤のくらがりで生まれた今作ならではの光景に、佐藤亜紀『小説のストラテジー』がナボコフ『フィアルタの春』について分析したような美しさをみいだすかたもいることでしょう。

 もし無脊椎動物の想像力と創造性について」にかんするぼくの感想について、

「最近のネットの感想にありがちな、やたらとエモエモな、耳当たりのよいおべっかがならぶアレですか?」

「SF界隈のいつメンのあれですか?」*43

 と鼻で笑われたとき、反論する言葉が見つかりません。だって大傑作なので。そういう言葉をならべざるをえない。

 

 

   ▽〃「装箪笥(ワードローブ)の果てへの短い旅」

{収録した同人『カモガワGブックスVol.3 〈未来の文学〉完結記念号』は第3刷が12月21,22日発送予定でBOOTHCAVA BooKSにて予約受付中。4刷や電子出版があるかは不明}

 衣装箪笥を旅するもののための手引(ワードローブ・トラベラーズ・ガイド)より、一項。

 衣装箪笥のなかへ入るものは多いが、出るものはいない。

 ■

 スーザン・ペベンシーの出現と消滅について、今や、さまざまな伝説が生まれている。

 その一つはこう始まる。

 コートの間にどこかの子どもが忍び込んで遊んでいると思った中年女性のスーザンが衣装箪笥のなかへ手を伸ばし踏み入れると、そこには目くるめく不思議な世界が広がっていた……というお話です。

 衣装箪笥の世界で出会うのは(「これ」という固有名詞こそ出てきませんし、知らなくても思い出せなくてもそのまま読めますが)赤い帽子に青いコート、トランクと傘をもった熊やらなにやら子ども時代のだれかの友達であったような不思議な存在で、ふしぎなかれらがスーザンに語ったり見せたりするこの世界のもようもまたふしぎで、合間合間に挟まれるトラベラーズガイドは固い口調で世界にかんするうろんな逸話や考察をつづる。

 さまざまなものが詰まった何でもありのおもちゃ箱のような世界ですが、この「何でも」は楽しい以外のものだってきちんと含まれるタイプの「何でも」であり、「何でも」詰まるといえど箱は箱という縛りがある。

 広大だけど果てには四方を衣装箪笥の暗い壁が佇んでいるらしい今作の世界は、厚い雲がたちこめた世界のひとびとの変容をえがいたR・A・ラファティ氏の別作『太古の殻にくるまれて』の――ぼくがティーン時代に魅了された作品の――観念もまた見えたりもして懐かしい。

 ラファティトリビュートということで、ラファティに詳しい方ならもっとさまざまな作品が思い浮かぶことでしょう。今作を収録した『カモガワGブックスvol.3』に坂永氏がよせた『第四の館』評もなにか手引になりそうな気配がありますし、きっと『SFマガジン2002年8月号』ラファティ追悼号を本棚から引っ張り出すかたもいらっしゃるでしょう。

 われわれはいま、ポストミュージックの音楽、ポストアートの美術、ポストフィクションの小説、ポスト経験(エクスピアリアンス)の経験がまかりとおる、解体された時代に住んでいます。すくなくとも部分的には、ポスト意識(コンシャス)の世界に住んでいます。たいていの人は、ひとつの次元をなくしたこの世界に生きるほうを好んでいるようにも見えます。その状態が永続的なのか、過渡的なものか、それすらわかりません。

 われわれはまさしく置きざりにされました。世界はわれわれの背後で断ち切られたのです。旧世界がどのように滅びたかはさだかでありません。集団的記憶喪失のため、くわしいことが思いだせないからです。旧世界はハルマゲドンで滅びたのではありません。二度の世界大戦は強力な大破壊の側光でしかないのです。いわゆる革命運動も、なにかを終わらせたわけではありません。その以前からとっくに世界は滅びていました。それらは廃墟の愚かなゴミあさりのなかでも、いちばん愚劣な悪あがきにすぎなかったのです。

 (略)いまのわれわれは平面の国に住んでいて、そこで目につくパラドックスに好奇心すら持っていません。この"平面の国"の生活は、写真のネガのなかの生活か、それともふっとばされた世界での穴蔵生活に似ています。それは集合的無意識という不合理な形をとった中間状態(リンボ)の生活です。しかも、どこへ行けば、いまわれわれが住んでいるネガでなく、もっと鮮明なポジ写真が見つかるのか、それともネガしかないのか、それすらも不明なのです。

   早川書房刊、『SFマガジン』2002年8月号p.45、R・A・ラファティ「エッセイ 世界が終わった翌日」より(略は引用者による)

 ラファティ氏は1979年ディープサウスコンでの講演のための草稿でこの世界をそう捉えます。衣装箪笥の暗い世界に、それは似ている。

 さて『カモガワGブックスVol.3』の<未来の文学>シリーズにまつわる書評やレポート記事のえがかれたトークイベント登壇者の言などには、「孤独な少年」という語が何度か登場します。「孤独な少年の、現実逃避としての幻想」。

 「衣装箪笥の果てへの短い旅」はそんな考えに頷きつつも首を横に振り、さらにどんな方向にも振ってみせます。男じゃないとだめなのか? 子供じゃないとだめなのか? だれだっていいじゃないかと。

 よく引用されるハウスマンの古い詩があります。

「わたしは異邦人としてこわごわ生きる、

 自分の作ったおぼえのない世界に」

 ――この詩を引用するにあたって、自己を正当化し、この世界へ責任を回避する、定石的で利己的なやりかたはいくつもあります。しかし、この詩に言及された世界がもはや存在しない以上、これは絵空事の詩となりました。むしろ、いまあらゆる人間にたずねるべき質問はこうです――「もし、いま現在あなたが世界を作ろうとしていないのなら、それはなぜか?」集団の発明の才は、最初はおそらく無意識のレベル、つぎには意識上のレベルで、世界を作りだすことができます。ほんのひとにぎりのエリート集団、たった数百万人の天才の手で、それをなしとげられます。あなたもそのひとりだと宣言なさい! それには、天才とはこういうものだというルールを自分できめればいいのです。そうすればあなたは天才になれます。いや、自分でルールをきめれば、なんにでもなれます。

   早川書房刊、『SFマガジン』2002年8月号p.47、R・A・ラファティ「エッセイ 世界が終わった翌日」より

 

 

   ▽clementia(呉衣悠介名義)ルカと老人」

{収録した同人『カモガワGブックスVol.3 〈未来の文学〉完結記念号』は第3刷が12月21,22日発送予定でBOOTHCAVA BooKSにて予約受付中。4刷や電子出版があるかは不明}

 最初はてっきりMRI画像でも撮られるのだと思っていた。なにしろ聞けば、脳のいくつかの部位の灰白質の量さえわかれば、その人物が保守なのかリベラルなのかは相当高い精度で特定できるらしい。感染前の思想信条については、SNSの投稿を大量にアルゴリズムに食わせれば特定できるというから、アナリストに自分のアカウントを教えた。

 実際のテストは会話形式で行われた。平山が最初に聞かれたのは、終末医療は自己負担にすべきかどうかという話題で、次にイルカは人間と同じくらい賢いかもしれない、という話だった。もちろん会話はリモートで、面接官の指や肩が、しばしば真っ白の背景にかぶさり、ピクセルのジグザグができる。照明が強すぎるせいかアナリストの皮膚はエイリアンのように白飛びしていた。

「それで私に後遺症は無いという証明はできそうですか」平山の質問にアナリストは即答しなかった。

「回答は一週間後にお送りします」

 ……トマス・M・ディッシュ作品のトリビュートとして書かれた今作は、リモート通話や専門機関をつうじた感染の有無の証明など、COVID-19下に新興した雑多な事象をも取り入れた一番わかい作品です。

 上の冒頭あらすじでも書いたとおり、心理分析をおこなうのが精神科医ではなくアナリストであるところなんて、なんとも当世的で興味ぶかい。

ケンブリッジ大学のサイコメトリック・センターのデビッド・スティルウェルの研究では、フェイスブックでの活動はユーザーの個人的特性をかなり正確に反映していることが明らかになった。

 スティルウェルは数千人のフェイスブック・ユーザーに、性格特性の「五大要素」(率直さ、誠実さ、外向性、同調性、神経症的傾向)を評価するテストを受けてもらった。それから彼らのフェイスブック・プロフィールを別の被験者グループに見せ、性格を評価してもらった。二つの評価結果は驚くほど一致していた。ユーザーはフェイスブックで正確な自己像を伝えている。ソーシャルメディア上のプロフィールをキュレーションしている人ですら、自分らしくふるまっている(37)

   文藝春秋刊(文春e-book)、アンドレアス・ワイガンド著『アマゾノミクス データ・サイエンティストはこう考える』kindle版19%(位置No.7485中 1403)、「第2章 「いいね!」はあなたを映す鏡」第1節 プライバシーは幻想である より

 二〇一三年、スティルウェルと研究仲間のミハル・コシンスキはマイクロソフト・リサーチのチームと共同で、「ユー・アー・ホワット・ユー・ライク(「いいね!」であなたがわかる)」というアプリを作った。フェイスブック上の活動から、IQ、民族的背景、政治信条、中毒性薬物の使用、性的指向などの性格特性が予測できるかを調べる試みだ。その結果、予測モデルは「いいね!」だけをもとに「八八%の確率で同性愛者と異性愛者の男性を正確に識別できた」という。「いいね!」が政治問題や権利と明確に結びついてなくても、識別は可能だった(38)

 この研究チームによると、男性の同性愛者の予測変数として有効だったのは、「MACの化粧品」や「ミュージカル『ウィキッド』」を「いいね!」していることだった。一方、男性の異性愛者の予測変数として有効だったのは、ヒップホップグループの「ウータン・クラン」や「昼寝から起きて寝ぼけている」を「いいね!」することだった。そしてどうやら知能が高いことを正確に予測する変数は「くるくるフライドポテト」や「雷雨」を「いいね!」していることのようだ(39)。雇用主は求職者のスクリーニングにIQや性格診断を用いることが認められている。遠くない将来、あなたが仕事の計画性やストレス耐性を過大申告していないかチェックするために、雇用主からこんなアプリをインストールするよう要求される日が来るかもしれない(40)

   文藝春秋刊(文春e-book)、アンドレアス・ワイガンド著『アマゾノミクス データ・サイエンティストはこう考える』kindle版20%(位置No.7485中 1414)、「第2章 「いいね!」はあなたを映す鏡」第1節 プライバシーは幻想である より

 ただしその手つきはまったく青くない。

 「感情の楽譜」でも冴えていた、劇中に出した事物を視聴覚的なモチーフとして活かす目の良さと手つき。今作ではそこがさらに研がれて素晴らしい。

 たとえばリモート通話は、付属カメラや使用アプリの悪さや性質ゆえ像が白飛びしたり粗かったり、場所の異なるカメラ/画面に目を向けるために対話者同士が目と目を合わせて話せなかったりするというメディウムの特徴がすくわれて。「イルカと老人」劇中独自の病気にかんする診断を受ける主人公と、かれをテストするアナリストとのあいだにながれる微妙な空気をかたちづくったり。さらには主人公がのちのち出会ったコミュニティと噛み合ったさいの夜の黒と対照的なコントラストを成したり……

 ……と、今作に必要不可欠なモチーフとして多段に機能していきます。

 そうして語られる物語のほうは?

 clementia氏はじしんのblogで、S・G・ブラウン著『ぼくのゾンビ・ライフ』読書中の考えごとを記しています。その記事で氏はくだんの作品からチャック・パラニューク作品からの影響を見出すと、そしてブレット・イーストン・エリス氏や漫画家の岡崎京子氏、映画監督のオリヴィエ・アサイヤス氏あるいはミシェル・ウエルベック(そのほかパラニュークフォロワーである伊藤計劃氏)らに共通項を見つめて掘りさげます。

しかし、ブレット・イーストン・エリスといい、チャック・パラニュークといい、漫画なら岡崎京子といい、80〜90年代というのは高度資本主義と消費文化の時代だったんだなと思う。映画だとオリヴィエ・アサイヤスがこのあたりの問題に積極的に取り組んでいるイメージ。

そして、その時代になかったのは恐らく、インターネットの言葉だろう。だから2015年に彼らをリスペクトして何かを書こうとするのであれば、彼らの文体をチューンナップする必要があることは想像に難くない。各自チューンナップして、自分なりの方法で、商品や情報へと置き換えられていく人間について言葉を絞り出していこうではないか。

   はてなblog、『忘れないために書きます』2015年4月18日「資本主義と小説の文体について」

 今回はこうした視点へ、それ以前のディッシュやそれ以降の自身をむすんだかたちといえましょう。

 

新型コロナウイルスについては、すでにそこで疑念が生じている。そもそもわたしは「なにもかもが以前とは変わってしまう」という類の言説を一瞬たりとも信じていない。むしろ逆に、すべてはまったく同じままだろう。(略)

 むしろ新型コロナウイルスは、いくつかの進行中の変化を加速するという帰結をもたらすだろう。何年も以前から、あらゆるテクノロジーの発展は——それが些細なものでも(ビデオ・オン・デ・マンド、非接触決済)、あるいは大きなものでも(テレワーク、インターネット通販、SNS)——物質的な接触、とりわけ人間どうしの接触を結果として(あるいはその第一の目的として?)減らしてきた。ウイルスの流行は、この物々しい傾向に拍車をかけるまっとうな理由を差し出してくれている。つまり、人間関係そのものの、ある種の陳腐化である。

   はてなblog、immoue『汽水域』2020年5月6日掲載、「新型コロナウイルスをめぐって/ミシェル・ウエルベック「少し悪化した世界に」(試訳)」より(略は引用者による)

 immoue氏のblog『汽水域』が紹介するところによれば、ウエルベック氏はCOVID-19についてそんなことを言っているのだそう。

 SNSでさまざまなクラスタができて内部で意見を交わして知見を深め互助会やグループセラピーのように機能さえして、そうして活発になった地球平面説支持者がコミュニティの仲間のおおぜい見守るなか空を飛んでそのまま落下死したり(その一部始終を動画撮影したツイートが削除されるどころか、警告表示もなしに素のまま公開され)、トランプ前アメリカ大統領の選挙結果に関する疑問表明に応えるかたちでQアノンが米国国会を占拠したりさえしてしまう現代社会はなんともカオティックですが。

 振り返ってみればマイノリティのセラピーやら半笑いの門外漢がガチに転向してしまうやら、ブラウン『ぼくのゾンビ・ライフ』やパラニューク『ファイトクラブ』などで見られた展開をカジュアルに広げたものに思えなくもありません。

 クレイトンは、きょうはぼくのおごりですと言い張った。それから、グラスに入ったビールに引っかけて、自分のコントロールできない体重のことを話し始めた。

 レオナルドは同感だった――ダイエットは自分にも歯が立たない。

「あなたがですか!」体重百二十二キロのクレイトンは、笑わずにはいられなかった。ほっ!ほっ! 「ほんとだよ」とレオナルド。「この二年間に十三キロも増えたから」続いて、いたずらっぽく、かつ脅迫感にとらわれつつ(一部だけでも真実を言ってしまえば、秘密にしておいたり嘘をつくよりずっと気持ちが楽だから)、治療のことを話した――医者からタバコをやめるように言われたこと、何度もやめようとしてくじけたこと、それでとうとうマンチェスターへ行ったこと。

「で、効果があったんですか、そのショック療法というのは?」

   国書刊行会刊、トマス・M・ディッシュ『アジアの岸辺』p.167~8、「国旗掲揚」より

 ジュークボックスが鳴った――ケイト・スミスが朗々と歌い上げる。『神よ、アメリカに祝福を』(十セントはバーテンダーの自腹)。クレイトンは、にやりと笑うと自分の自由のバーガーからつま楊枝の旗を抜き、音楽に合わせてそれを振った。

 レオナルドは、笑うべきなのか一緒に歌うべきなのか迷った。

   国書刊行会刊、トマス・M・ディッシュ『アジアの岸辺』p.169

 ウィスコンシン州マディソンでの高校時代、レオナルド・ドウォーキンは、週に五日、一日に一回、体育の授業を受けていた。歳に比べて体が小さく、メガネが気になり、自身もなければ動きもぎこちないため、強制的にやらされる試合では常に隅に立ち、あまりに影が薄いので、試合に観戦しているのか戦っているのか見分けがつかないことがよくあった。だからいまも、ククスカの店に行ったときには、バーのカウンターのところに立ち、レオナルドを引きこんで会話を運ぼうとバーテンダーが必死の努力をしているのに、控えめに「ひどいなあ」とか、あいまいに「なるほどねえ」と独り言をつぶやく程度だった。

   国書刊行会刊、トマス・M・ディッシュ『アジアの岸辺』p.170

 そして更にさかのぼれば、70年代に国旗掲揚未来の文学シリーズ『アジアの岸辺』収録)などを書いたディッシュ作品からしてすでに見え隠れしていたことなのでは? とも。

 「国旗掲揚」は重度の「革フェチのおかま」*44で、それを抑制する一回七ドルのカウンセリングを受けても数時間後には『乱暴者(あばれもの)』のための集まりに参加してしまう主人公レオナルドが、雑誌に載っていた行動科学クリニックに行って電気ショックをともなう転向療法{現在では効果がいまいち証明されない・そして有害な影響をおよぼす可能性がつよく心配される疑似科学と見なされている手法であり、アメリカだと20の州で未成年者への施術を禁止する法が定められている該当地域はだいたい、バイデンが支持を集めた民主党がつよい地域と思ってもらえばよさそう)によりついにそれを抑え込んで業績をのばし転勤する*45も、今度は過食に悩み、おなじ悩みをかかえた同僚に連れられて行ったお店で右翼思想と出会い、ずるずると染まっていってしまい……というお話です。

 

 ディッシュ作品は、ディズニーでアニメ化された『いさましいちびのトースター』を除くと、「リスの檻」河出『20世紀SF 3』に収録され、松本人志監督『しんぼる』の先行作として批評家から言及されたこともあり有名ですね。また、無職の主人公が百貨店のエスカレーターを本を読みながら降りていたら、気づいたら目当ての一階を過ぎてしまっていた。なんとフロアをつなぐエスカレーターは下りの一本しかなくなっていて、それが延々続いているらしいのだった……という「降りる」もまた、東京創元『年刊SF傑作選5』収録されていて、目にふれやすい。

 これらをお読みのかたは、「国旗掲揚」について同様の不条理劇をイメージされるかもしれません。でも主人公レオナルドが落ちこむ穴は、そうシュルレアリスム的に不思議なものではありません。

 レオナルドの勤務先が――のちに「ゴールドウォーター・ルール」の取り決められるきっかけとなるほど、思想を批判の槍玉にあげられた――共和党の保守政治家バリー・ゴールドウォーターの選挙区であった土地柄、同性愛などがまだ治療すべきものとつよく見なされていた時代柄などからくる、ある意味で妥当な勾配であります。

 じぶんと異なる領域に踏み入れてしまったレオナルドが取るなんとも言えない態度のなんとも言えなさ具合は、時代や土地などこそ離れていますが、いまのぼくらが読んでも「あるある」ではないでしょうか。ディッシュ氏の観察力はたしかなものです。スマホ指紋認証をはずすさいの黒画面のむこうで、たしかにぼくはこんな顔をしている。……どんな話題で? 状況で? 「イルカと老人」に記されているような話題で状況で。呉衣氏の観察力はたしかなものです。

 

 雑多な事象や展開があつかわれつつも、ふしぎと読みにくさはありません。その秘訣は、対比変奏がきびきびとキマっていく作品だからなのかなと思います。{キャラ同士の「駄弁り」や登場人物発信の間テクスト的な比喩連想はアレコレあるのに、「じゃあ他場面と連関を築かない独立した事象があるか?」というと、じつは意外なほどに無い。この、さまざま可能性のあっただろう雑多な世界が後半で一本(のみ)筋道が通され(てしまっ)た気持ちよさ(あるいは哀しさ)はなかなかなものです}

 また、(内省的な一人称語りが大部を占めた「感情の楽譜」と反対に、心の声は大部のパートでごく最低限で)登場人物と一定の距離を置いた語りは淡々とした印象を与え、(文字どおり)反復作業をこなす主人公の手つきのように、するすると結末にたどり着けます。

 とくだん衝撃的な地点に至るわけではありません。作品内の推移としても前半では画面外(オフ・スクリーン)でおこなわれていたことが前景に来ただけのこと*46。過去の他作家の作品が思い浮かぶ人もいるでしょう、それこそ『虐殺器官』とか。(とくに突っ込んだ言及はないけれど、伊藤氏も『アジアの岸辺』購入者だったりする)

 「まぁそうさなぁ」という展開であり、しかしそれは何らこの作品の欠点ではない。そう淡々と受け止めてしまえるところに驚きがあります。

{先行作をふり返ってみれば、主人公の終盤の行動や価値観について大なり小なりサプライズやツイストないしセンセーションとして展開していたり、ファム・ファタールやら何やらがいたりしたはずですが、今作はそうではない。

 また、今作を読んでぼくはグレッグ・イーガン氏を最近読み返したこともあって氏の『行動原理』を連想しましたが、じっさい両者をくらべてみると主人公の価値基準(というか事物の順位付け)は似ているようで大きく異なる。この違いはけっこうだいじなのではないかしらん

 「そうさなぁ。ぼくたちはもうそれを不思議と思わない(し、それが単なる日常であることを隠そうともしない)世界にまぁ、たどり着いてしまったのだなぁ」という。

 変貌は、少なくともインターネット上では、じわじわと進んでいった。当初トランプのツイートは散発的で、数日に一回のペースだった。@realDonaldTrumpの誕生から数年間は、投稿は明らかに本人ではなくスタッフによるもので、大半が三人称を主語にして書かれていた。フィードはほとんどが今後のテレビ出演予定の告知、トランプ・ブランドのビタミン剤やキーホルダーなどの宣伝、月並みな名言や格言のたぐい(「人と違うことを恐れるな〔*10〕。それは最高の自分を恐れるようなものだ」など)だった。

 しかし二〇一一年、何かが変わった。トランプのツイートは〔*11〕五倍に増え、翌年にはさらに五倍に膨れ上がった。一人称のツイートが増え、何より調子が変わった。この@realDonaldTrumpはリアルだった。非常に好戦的にもなり、しょっちゅうけんかを吹っかけ――とくにコメディアンのロージー・オドネルを目の敵にした――そうやって磨き上げた言葉がやがてトランプのツイートの定番になった。「残念だ!」「負け犬!」「弱虫!」「ばか!」などを、たちまち何百回も〔*12〕使うようになった。著名な実業家が悩み多きティーンエイジャーみたいにネットのいさかいに突っ込んでいくなど、当時はまだ珍しく、少し見苦しくもあった。だが、トランプの「炎上戦争」は最も重要な点で成功した。つまり、注意を引くことだ。

 トランプのアカウントはより私的なものになるにつれて政治色が増した。(略)それから矛先をバラク・オバマ大統領に向け、ほんの数年前には「チャンピオン」と称賛した相手を〔*14〕、有名人のなかでいちばんの標的に変えて、無数の猛攻撃を開始した。

   NHK出版刊、P・W・シンガー&エマーソン・T・ブルッキング著『「いいね!」戦争 兵器化するソーシャルメディア』1%(位置No.10505中 72)、「1:開戦「いいね!」戦争とは何か」より{略は引用者による。また、傍点部は太字に変更した(引用者が傍点のつけかたを知らないため)}

 伊藤計劃氏も自作へ参照した『戦争請負会社』などの著者であるP・W・シンガー氏は最近の共著『「いね!」戦争 兵器化するソーシャルメディア第1章最初のツカミとして、ドナルド・トランプ氏のSNS上における変節を紹介します。

 なにか欠点があるとすればそれは、いまここの現実それ自体に欠点があるということなのではないでしょうか。

 

 ……と円城塔氏の自作へのリアクションにたいする名言をパクって〆ます(笑)

 斯様にぼくの足ぶみ具合が示されたことで、話題にしたかたがたや作品の進み具合がより一層如実となったのではないでしょうか。つぎの十年はいったいどこまで離されてしまうんだろう? 周回遅れになろうとも、また後を追えていけたらいいなと思います。

 

 

 

更新履歴

(誤字脱字修正は適宜。多すぎるので書きません)

08/28 21時  アップ 1万8000字

10/03 訂正 通販サイト・パブーについて状況変化・事実誤認があったので訂正

2020年01/15 改稿 感想文で結末部に触れていたところをぼかすなど

2021年12/7 改稿・追記 9万字くらい

 「死者の時制」細部の先見性について、のちに出た『誰のためのデザイン? 増補版』を引き合いに説明。

 さらにトリビュート参加者の前後の動静・作品を追った「追記;ついてってみた、たしかに大丈夫」を加筆。

12/12 改稿 最後に『「いいね!」戦争 兵器化するソーシャルメディア』の話題を出して、伊藤計劃トリビュート作(感想文)に端を発した記事らしさをつよめた。

12/16 改稿 「sky's the limit」の感想が『フリースタイルダンジョン』の話ばかりでさみしかったので、類似題材作とならべつつ色々書き足し。皆月氏の作品をまとめた文章も「おおまかなまとめ」に足した。

 

 

 

 

*1:この巻頭言を書いたかた

*2:p.24あたり参照

*3:読み返して「うわ!」となる数ですね

*4:ちなみにドナルド・A・ノーマン氏が『誰のためのデザイン?』などで言ったアフォーダンスは原義と離れた面もふくんでいたため、『誰のためのデザイン? 増補・改訂版』ではそこを注記のうえ、その原義以外の部分についてはシグニファイアと改めています。

*5:バスター・キートン

*6:エドワード・ノートン。映画『ファイトクラブ』の語り手を演じました。

*7:p.48との反復変奏。オフィス内での狂気の沙汰p.54もまた、主人公の境を渡り外への移動→聴覚描写→頬に当たる風の触覚描写→地面について……と展開していきました。そうして展開していく描写のいくつかは、保険適用後の反復変奏p.49から省略された部分です。

*8:今作が発表された2011年から3年後、映画『ロボコップ』がバーホーベン監督版から2014年パヂーリャ監督版にアップデートされた際、人間をロボコップにする流れが、バーホーベン監督版だと家族に「かれは死んだ」と告げたうえで本人の記憶もなくして別人として生まれ変わらせたのに対して、パヂーリャ版は家族の承諾サインを得たうえで行なう生命維持手術へと変更されたことをぼくは思い起こしました。

*9:実作としては『虐殺器官』で、ある集団のなかでいったい誰が影響力を有しているのか、大統領や教皇など額面の階級にとらわれずグラフ解析にかけ割り出す場面が登場しました。ブログを見ると神山版『攻殻2ndGIG』から現代日本の「気分」について触れた記事なんて、そのものズバリな内容です。

*10:伊藤氏は贔屓目ぬきに世界随一のイメージの持ち主でした。孤高のアクション映画監督マイケル・マンの作品のなかでそんな表現がでてきたのは『虐殺器官』刊行後のことでした。

「ここに来た奴が言う 見まわして"すごいね どハデな壁紙だ" "ポロックの抽象画か?"」

「"違うね イエロが 壁に飛び散ってる"と」

   マイケル・マン監督『マイアミ・バイス』0:31:54~、0:32:08~

*11:2019年短編集収録版における実継

*12:2019年短編集収録版における志恩

*13:もっともこの「インプラント」という語彙自体は、イーガンなど既存の脳いじりSFでも使われていますが。

*14:『年刊日本SF傑作選 行き先は特異点』p.594

*15:『年刊日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形』p.696

*16:『年刊日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』p.612

*17:『年刊日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』p.615

*18:いま紹介記事を見るとなんの留保もない「幼女」にギョッとするけど、オマージュ元であろう長谷敏司環少女』のほか、片山憲太郎や、第一線を走り続ける乙一(映画化された『百瀬、こっちを向いて』『くちびるに歌を』、『ウルトラマンジード』シリーズ構成・脚本など)が解説を寄せた山下卓BLOOD LINK』などなど、面白いライトノベルのうちヒロインが幼いものをひとくくりにして「ロリコンにおすすめなライトノベル」などと衒いなく紹介できるセカイがあったのですね。

「ぅゎょぅι゛ょっょぃ」とか、「まったく、小学生は最高だぜ!!」とか、なつかしいですね……。ぼくはいまだに「ロリコンホイホイ」とかは「あったなぁ」と見れるんですが、アグネスホイホイは「う゛っ」てなりますね……(そんな軽々しく自分を持ち上げて他人をばかにしないほうがいいと思うようになりました)}

 

 いや、「小学生の弟子たちや中学生で年下なのに姉弟子がつよい将棋ラノベや、ひげを剃り女子高生を拾ったりする現代となにが違うの?」と問われれば、当方にはサッパリですが……なにも変わってないのかもわからん……

*19:京大SF幻想研『ワークブック』の何号かに掲載されたり、一時期は作家個人サイトでネット公開もあったりしたらしい。うおのめ文学賞への出展作などと同様いまでは読むことはできません。

*20:『年刊日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形』p.697

*21:竹書房刊、大森望編『ベストSF2020』p.439、「2019年度短編SF推薦作リスト」より。

*22:『年刊日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』p.612

*23:『年刊日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』p.612

*24:『年刊日本SF傑作選 結晶銀河』p.553

*25:『年刊日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』p.612

*26:『年刊日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』p.611~612

*27:ディエーゲーシス=感情を排した事実列挙・叙事的な文体。

*28:ミメーシス=ひとの表情や口調など細部がありありと感じられるような劇的な文体。

*29:早川書房刊、『SFマガジン 2008年1月号』p.63下段14~15行目、船戸一人著「二重写し」より。

*30:たとえばあらすじ紹介でも引いてきた「ディスプレイをこちらへ回してその名を見せた」! 一見なんてことないこの導入からして、物語の後半まで読むと感心してしまう、気の利いたアクションです。

*31:東京創元社刊、アマサワトキオ著『サンギータ-Sogen SF Short Story Prize Edition- 創元SF短編賞受賞作』kindle版(位置No.1871中 1843)

*32:「お姉さま方」という語彙は、高女三十一期生が女子挺身隊結成式で読んだ祝辞のなかに登場。

 このとき御卒業の榮譽を擔はれましたお姉さま方が、

宣成社刊、大阪府立寝屋川高等女学校『女学生の戦争体験記』p.53、「第31期生」三十期生は卒業後女子挺身隊員として枚方工廠に より

 上級生から下級生へ手縫いの制服を贈ることについては、三十四期生の手記の中に登場。

 第二次世界大戦中の女学生の制服は、国が定めた全国共通の黒のサージ(人絹と混紡)の布地で、へちま襟に白の掛け襟をかけ、ウエストでベルトを締めた上着に、四枚接ぎのセミフレヤーのスカートといったデザインでした。私たち新入生が着用する制服は、当時五年生に進級されたばかりの三十期生の方々が洋裁の教材として、仕立てて下さいました。

 五年生から一年生への制服の受け渡し式が行われ、級の教室で制服を頂き、ひろげてみると、胸ポケットの上に、一年い組○○○○様、五年い組○○○○、と書かれた紙が入っていました。制服は着用する生徒一人一人の寸法に合わせて仕立てて下さったのでした。上級生の方々の真心のこもった手作りの制服を着用して、高女三十四期生は誕生いたしました。

   宣成社刊、大阪府立寝屋川高等女学校『女学生の戦争体験記』p.282、「第34期生」戦時下の家庭科教材実習 より

 『八月の荼毘』で縫われる制服は「白のブレザー」。空襲後に煤をかぶった黒い人々と対照的で、劇中の学校について明るいイメージを文字どおり感じます。

*33:寝屋川の女学生の手記での類似表現としては、

焼夷弾が雨のごとく落ち、市の中心部を東西に消失しました。

   宣成社刊、大阪府立寝屋川高等女学校『女学生の戦争体験記』p.184、「第33期生」焼け跡に立ちて より

があります。女学生たちの手記を読んでいると、空襲の記述は続いて降ったと云う黒い雨とセットで記述したものが散見され……

辺りが昼間だというのに薄暗く、遠く大阪方面の西の空が真黒に見え、急ににわか雨が降り出した。何となくぶきみで、恐怖感が一瞬脳裏をかすめた。ようやく空が明るくなり出したころ、大阪方面がB29の爆撃に偶ったらしいとの報が入り、私たちも早々に帰宅させられることとなった。

   宣成社刊、大阪府立寝屋川高等女学校『女学生の戦争体験記』p.240、「第33期生」赤いグラジオラスへの思い より

……もしかすると『八月の荼毘』櫻子がそう思うのは、こちらの記憶もくんだものなのかもしれません。

*34:『八月の荼毘』閨町にある女学校の一部クラスでは、英語の授業が戦中も継続されていますが……

私たちの組では、英語も授業に含まれていた。校長先生が、「敵の言葉を知らずに戦争に勝てますか」と、教育委員会に啖呵を切ったという逸話が残っている。

   第三象限『あたらしいサハリンの静止点』kindle版66%(位置No.3929中 2550)、谷林守「八月の荼毘」

 ……これは、寝屋川高等女学校でもじっさいに行なわれたことでした。

当時英語は敵国語ということでどんどん廃止されました。四年生になった時点では、受験組であるい組のみが英語の授業を続けました。当時の森安校長の英断で残されたと思います。外部の圧力に対して"戦争に勝つためには敵を知らねばならない"というふうなことで、頑張られたということだったと記憶しています。

   宣成社刊、大阪府立寝屋川高等女学校『女学生の戦争体験記』p.135、「第32期生」葦牙 より

*35:ただしあまり普及しなかったらしい。

*36:この項の執筆時期がモロバレであれですが、Karte.83「僕は準備万端」では、そのものズバリ髪の毛あそばせ回が来ておりました。

*37:今作は、2020年11月日本でも『アフター・ロンドン』という名でカスガ氏の邦訳がKDPにて流通している。 

*38:白水社刊(文庫クセジュ)、ルネ・ザパタ著『ロシア・ソヴィエト哲学史』p.80~81

*39:たとえば「ジョージ・ネルソンは、日射病だ、あるいは傷んだワインを口にしたせいで目がチカチカしているんだと言って取り合おうとしなかったが」(同人版p.66、創元版p.380~381)「あるいは腐ったワインで俺たちの目がやられたか」(同人版p.69、創元版p.384)といった記述が両版に登場しますが、本編時間軸内でワインを飲む記述が直接あるのは物語冒頭で村到着・旧友と再会時にダイナーへ寄った創元版p.375だけです。(同人版の同場面はほぼカギカッコの連続で、村の外での立ち話ないし歩き話というかんじに読める)

 創元版は出てきた事物が作品内で転がってくれ、同人版は余白がある感じ……という風にも取れるかもしれません。

 

 また、物語の終盤で寒気のする主役が漏らす「こういうとき、(略)温かいものをいつでも食べれたら素晴らしいだろうね」(同人版p.72)というセリフは、「温かいものが一杯ほしいよ。ダイナーが開いてる時間なら(略)(創元版p.387)と改められており、こうして足されたダイナーを鍵語として創元版『大熊座』は、序盤と終盤できれいなコントラストを築いています。

 冒頭・序盤で主役たちは、友人知人のめでたい近況やゴシップ誌の内容や「偽民俗学」など、たのしげに飲み食いボンクラ話をしていたが。人智のおよばぬ怪現象に直面した終盤では、寒々として、口に入れるものは生唾くらいしかなく、神話の紐解きなど固い話を真面目な顔でせずにはいられなくなってしまった……創元版ではそのようなダイナミズムがはっきりと見えます。

*40:たとえば物語の導入からしてちょっと違う。たぶんそれが結構おおきな違いなのだと思う。現場の目撃情報をもとに調査の時期を「だから秋の終わりにしたんだ」と主役が決めたのは両版共通なのですが……

「ここ、ホワイトスノウ・ピークにおける熊の異常行動の目撃報告は、これまではいつもこの秋から冬にかけてのものだった。もちろん冬の山のなかで何がおきていたか見たものはいないし見ることもできないが、晩秋の夜長に、あるいは春の雪解けに、奇妙なものを見たと言う人々がいる。だから秋の終わりにしたんだ。」

   鴨川書房刊、『改変歴史SFアンソロジー』pdf版p.63(書の印字でp.61)、坂永雄一著「大熊座」より

 ……同人版では、熊の異常行動は、晩秋だけでなく春にも目撃されているんですね。これだと万が一「なにが"だから"なのだろう? 春でもいいのでは? そこまで切迫した状況とは記述されてないようだけど……? 一シーズン待った早春に延期すれば、妊娠中のため早期に南下した共同研究者のハンチントン夫婦もワンチャン復帰するかもしれないじゃん?」といった疑問をいだきかねませんが、創元版は目撃時期が一つにしぼられているのでその心配がありません。(もっとも、この記事を書くため両版を比較しながら読んではじめて「ここ違うな? なんでだろう?」と振り返ってそう思うだけで、同人版も素朴にツルツル何ら引っかからず読めていきます。異常行動の詳細をかんがえれば春の雪解け時期に見られるのは至極ふつうで、全くおかしなことではありません。)

*41:たとえば「急に鳥の鳴き声が響き、二人は言葉を止めた。」につづくシーン。その文末を比べてみましょう。

 すでに斜面は緩やかになり、刈り取りの終わった畑が広がるのが見える。遠く闇の濃淡で見分けられるのはホワイトスノウ・ピークの村だ新月の夜に村は人の気配もなく死体のように眠り横たわっている

   鴨川書房刊、『改変歴史SFアンソロジー』pdf版p.72(書籍の印字でp.70)

 すでに斜面は緩やかになり、木立の向こうには刈り取りの終わった畑が広がっている。遠く闇の濃淡がホワイトスノウ・ピークの村を描いている。村は新月の夜に息をつめて死体のように横たわっている

   東京創元社刊(創元SF文庫)、『年刊日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形』p.385

 一般的な文章作法的にただしいのは同人版なんでしょうけど、創元版のほうがこのシーンには合ってるように思えます。{個人的な印象のお話になっちゃううえ、その印象をほかならぬ自分自身が掴めてなくて説明もちゃんとできないのでアレですが……(「~ている」2連続以上など同じ語尾の連続は※「違和感がある」「悪目立ちする」などと言われるけれど、上述の文章は逆にリズミカルで読みやすいとぼくは感じます……)}文末が「~ている」で統一された創元版は、三文が一息に並置されているような、空気の張り詰めた時空間が一挙にあらわれたような読み味です。

(※たとえば「ゲンロン SF創作講座」における大森望氏と円城塔氏の会話など。

大森 教科書的な文体の話だと、語尾が常に同じになってはいけないとかよく言いますね。翻訳の場合でも「~た」は三つくらいまでは大丈夫だけど、「~ている」や「~ていた」は二つ続くとすでに悪目立ちする。「~ている」の次は、せめて「~ていた」にしたいとか。ほとんど機械的に語尾を変えてしまう。

円城 一応、それがきれいな文章、工夫した文章ということになぜかなっていますね。けど、井上靖は「~だ」「~だ」をやたら連打する。だから語尾に違和感のある小説でもそれはそれでいいらしい。読み手が慣れる。他にも体言止めを駆使するとか、文体にはいろいろあるんですけど、それがなにかはわからない。

   早川書房刊、大森望『SFの書き方 「ゲンロン 大森望 SF創作講座」全記録』kindle版59%(位置No.5242中 3041)、「第8回 文学/円城塔」より

*42:いや斜線堂氏は執筆業はミステリを主舞台としてSFでも活躍しており、読書量についていえば前述読書日記のとおりそこらのSF好き(含むzzz_zzzz)より遥かにSFを読んでるかたなので、上述は適切な表現じゃないですが……。

*43:いやこれだけSFの話をしてないぼくに対して「いつメン」も何もないはずで、単なる被害妄想なんスけど……。

*44:国書刊行会刊、トマス・M・ディッシュ『アジアの岸辺』p.165より。

*45:ここまで最初1,2ページで説明される前提。

*46:前半の物を動かしたり「閉め」たりという、卸し仕事の具体描写ににじんでいた視覚・聴覚・嗅覚表現がきれいに思い浮かぶ結末です。