すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

給水塔と円城塔、東京と怪獣と;『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』の妄想与太話

 

 『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』初報のさい、ツイッターの諸姉諸兄がワイワイ楽しそうにされていたのに加わりたくて書き始めるものの、一向におわらず旬を逃してしまった与太話です。

 脚本家の読了本からどこまで本編を想像できうるか? という遊び記事で、結論としては「それなりに行けそうだが、やっぱり本編観ないとわからない!」という感じです。

 ありがたいことにきょう3/19(金)午後6時から、1話・2話の先行上映会(1話はYoutubeでもライブ配信)がなされます。モヤモヤが晴れますね。

www.youtube.com

 

 6万字くらい{+脱線話として、属人的にしか読めないぼくでも楽しめる円城作品ばなし計3万字。(『屍者の帝国』のさみしい風景――全編にまたがり、そして現実のグレートゲームのプレイヤーの手記『A Ride to Khiva』に記された実感も込められていそうな、長編としての魅力――についての話2万字。『文字渦』の現実の歴史や研究との相違点から、円城氏じしんの実感も「微字」語り手の札幌出身本層学者氏へこめられているんでは? という話1万字)}。だいたい引用とか出典元表記で嵩んだだけなので、実際はそこまで文量はないです。

 

 ※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※

 

 

東京都首長がポストを降りたとある事件

田中慎弥「断ったって聞いて、気の小さい選考委員が倒れたりなんかしたら都政が混乱しますんで、都知事閣下と東京都民各位のために、もらっといてやる」

   ANNnewsCH掲載、『石原都知事 芥川賞の選考委員辞任の意向(12/01/18)』0:45~

 2012年のこと。大荒れに荒れた第146回芥川賞を『共喰い』ほかが受賞したさい、インタビューに答える田中慎弥さんの姿がワイドショーを飾りました。

 東京都知事だった石原慎太郎さんは、この回を最後に芥川賞の選考委員を辞しますが、「いいじゃない、皮肉っぽくて。俺はむしろ彼の作品を評価したんだけどね。もう片方は全然駄目だった

 むしろ石原氏は田中氏『共喰い』に好印象でした。

 でははたして、当時の都知事を選考会で激怒・離席させ、辞させた張本人、もう片方とはなんだったのか?

 

(enjoetohの読書メーターの読了日については、スマホ向けページから確認しました。) 

 

初報のざわめき

  2020年のこと、21年春アニメとしてジラS.P<シンギュラポイント>』の公開が発表されました。

 製作スタジオは数々の破壊を描いてきたボンズとオレンジ、監督は『映画ラえもん 南極コチコチ大冒険』のメガホンをとった高橋敦史さん、シリーズ構成・脚本は円城塔さん。

 イントロダクションによれば全13話のTVシリーズで、つまり『コロナ禍日記』の円城氏執筆パートでたびたび登場する全13話のタイトル不詳の作品がこれだったと見てよいでしょう*1。出資者がいて、実作業者も大人数がかかわる共同作業であるアニメシリーズの制作のなかで、円城氏はどの程度の位置にいるのかは今のところ不明。最初の最初は「SF監修」で声がかかったんだとか*2

 

 円城氏は文学やSF方面で活動をする小説家です。

 おもに紙の書籍を活動舞台とし、前衛的な作風でも知られる作家ですね。そちらについては「円城塔 ゴジラ」で検索をかければ、ツイッター有識者がさまざまお話をしていらっしゃいます。興味がおありのかたはご照覧ください。

 『ゴジラS.P』へ円城氏のシリーズ構成・脚本参加という報に震えてしまうのは、複雑怪奇きわまるアレコレ胡乱な作品になってしまうのか? と思える点もあるからでしょう。

 降って湧いたような冗談のようですが、文字どおり降ったり湧いたりするような世界のお話を書いてきたかたなので仕方がない。

 デビュー作ブ・ザ・ベースボールは年一ペースで人が降ってくる町「ファウルズ」の「レスキューチーム」の一員である主人公が、支給品であるバットを片手に空を見上げるふしぎな小説。同時期に出版されたSelf Refference Engine』は、亡くなった祖母の遺品整理をしていたところ、床下から22体(ハヤカワJコレクションで刊行された旧版は20体)のジグムント・フロイトが出てくる短編などをふくんだ22本(旧版は20本)の長編/連作短編集。上のツイートはそれをオマージュしたものなんですね。

 円城氏ははばひろい活動をされており、活躍の舞台はCDや、右耳・左耳など多岐にわたります。(ピアスサイズの小説ってなに?)

rockinon.com

 

素材の味そのままに味そのものの異様に向き合う;既存作への円城氏の向き合いかた

 ネットで無料で円城氏の味がわかるメディアとして、たとえばEnjoe140というツイッターアカウントを覗くというのも一つの手です。

 

 Enjoe140は円城氏が本アカとは別に用意した、一呟完結の掌編小説を投稿するためのサブアカウントで。そうして投稿された掌編は、この記事の最初に引用したような途方もなく巨大な崇高ななにがしかについて記した作品もあれば、おなじく巨大ななにがしかの動きを盛り込みつつもケレン味をタップリきかせた燃える作品もあります。

 向き不向きはもちろんあるでしょうけど、なんでも書ける作家だとぼくは思います。 

 

 プロダクトプレイスメント的なものさえ物語の根幹に;円城氏の『スペース☆ダンディ』担当回

 氏がどんな仕事をされるのか? 商業作品を見てみれば、もっと具体的な指針が得られるでしょう。

 円城氏はアニメでの仕事をさほどされていませんが、ボンズ製作TVアニメペース☆ダンディ』で第11話「お前をネバー思い出せないじゃんよ」第24話「次元の違う話じゃんよ」を担当。

 2話しかないわけですけど、十二分に職人作家としての円城氏の手腕とそうした制限下でかれがどれだけ独創性をふるえるかがわかるエピソードです、興味がおありのかたはこちらもあわせてご照覧ください。(『お前をネバー思い出せないじゃんよ』は高橋氏が絵コンテを担当。その点でも『ゴジラS.P』の参考になるかもしれません)

 

 2話とも、全編ハチャメチャな『スペース☆ダンディ』のなかでもとりわけキテレツに興味ぶかいアイデアが盛り込まれていると同時に、まっとうにそれぞれのキャラの個性を活かしたドラマが編まれ、そしてまっとうなスペースオペラを繰り広げてくれるエピソードなんですよね。まっとうではない『スペース☆ダンディ』で、これは珍しいことです。まっとうさが逆に特異だとも言えます。

 

 『スペース☆ダンディ』のほかの回と同様に、宇宙の神秘と終焉がえがかれ、宇宙生命体の生態がえがかれ(ただしその具体は、文字型宇宙人や、四次元人二次元人など妙ちくりんですが)、われらが主人公・恋多き色男ダンディは恋多き男らしくゲストキャラとロマンスを交わし(ただし相手は、ダンディらには多抱体に見える、四次元人ですが)

 そして『スペース☆ダンディ』ではめずらしいことにダンディたちは母船の操船技術を駆使し船体のちがいなどを加味したスペースフライトとチェイスをきちんと行なったり*3、これまた珍しくきちんと国らしく外交をしたり(艦隊を所定位置に配置し、攻撃まえに降伏勧告をしたり*4敵が未知の転送装置で消えれば、まず偵察ドローンを送ったりする*5宇宙戦争をしたりするゴーゴル帝国の隙間を縫ったり、またまた珍しく謎の物質パイオニウムを求めるゲル博士は科学者らしく世界そっちのけで自身の関心のおもむくままに狂気の探求をしたりします。

 

 『スペース☆ダンディ』は、往年の名作シューティングゲームギャラガ』とのコラボもなされた作品で、劇中にギャラガ要素を取り入れたプロダクトプレイスメント的展開があるエピソードのひとつはなんとゲスト脚本家であるはずの円城塔脚本回。職人芸!

 第24話元の違う話じゃんよ」において、主人公ダンディらがゲストキャラと文字どおり次元を股にかける逃走劇追跡劇を行なったさい、劇中ガジェット(ワープドライブ)で3次元の宇宙にあらわれた2次元宇宙でのもようが『ギャラガ』や『ゼビウス』みたいなレトロなシューティングゲームのドット絵的な様相となるのでした。

 レトロゲーム的な風景はとってつけた一発ギャグではまったくなくて、ゲストキャラである四次元人カトリーヌと二次元人ポール、そして三次元人ダンディらの三角関係が激化した当然の帰結であって、文字どおり次元を股にかけた過激な展開はそのまま人為におよばない過激な暴走へと波及していってしまいます。

 

 『スペ☆ダン』から察すれば、円城氏は『ゴジラS.P』でも抑えるところを抑えた、まっとうなゴジラ物・怪獣物を仕上げてくれそうです。そしてそこには氏の創意もきっちり盛り込まれてくるはず。

 

 ただまぁ、『スペ☆ダン』とはケタ違いの規模のIPでもあるわけで、氏が取れうる自由はそう多くないんじゃないか、というおそれもあります。

 

 (前提)ゴジラのNGライン{ゴジラ像はそれなりに固い(シン・ゴジラの生態・造形に難色)、物語は隣国諸国との国際関係の明確な言及を控える、皇室関係はNG}

 ゴジラは日本を代表する一大アイコンです。東宝が管理する知的財産。

 『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラによれば、変えがたい一線というものもあるみたいです。『シン・ゴジラ』であらたに描かれた立ち振る舞いはかなり難色を示されたそうですし(ネタバレなので一応脚注にふせます*6)。作劇についても「近隣諸国の国際情勢は明言をさけてほしい」「皇室には一切触れてはならない」*7とのお達しだってあったといいます。

 という悲観も当然立ちますよね。

 『ゴジラS.P』で当初もとめられた役回りだって脚本では無かったと云います。

大森望ゴジラの人になるとは思ってなかったですよね?」

円城塔「ぼくだって思ってなかったです。おかしい。"SF監修"って言われたから入ったのに。こんな大ごとになるとは」

   Youtube、ゲンロン友の会『JST構造化チーム若手・共創支援グループ主催 若手研究者の新キャリアパス――第3回「院卒小説家になろう」』1:16:47~

 

  (脱線;アニメ版『屍者の帝国』で円城氏のアイデアがどれだけオミットされたか。天皇や匿名だが実在した女性タイピスト、冒険家の実感などを例に)

 ゴジラとおなじ東宝の映画で、そして天皇を出せなかった作品にすでに円城氏はかかわっています。

 それを見てみることは、「大きな発表媒体での共同作業により、円城氏の創意がどれだけオミットされうるか?」という疑問への参考となりそうです。

 者の帝国』は、円城氏が伊藤計劃さんの遺稿を書き継いだ長編小説で、死者のゾンビ化に達成した19世紀末を舞台とした改変歴史SF。

 客員教授を招いて厳粛におこなわれた、死体を屍者に変える医学的措置の実地講義。受講生のワトソンは――デイリー・テレグラフのゴシップに夢中のおしゃべりな悪友の被害者とはいえ――授業中に私語をしたことで悪目立ちしてしまうが、ヴァン・ヘルシング客員教授からの一問一答をみごとに乗り切ったことで、別の意味で目をつけられる。授業後ヘルシングらに招かれた商社の入り組んだ廊下のさきでワトソンは、謎の紳士Mと出会う。Mと商社の正体をみごとに推理してみせたワトソンは、Mのお眼鏡にかない、英国の諜報機関に引き上げられることとなり、英露グレート・ゲームの一スパイとしてアフガニスタンを進む……

 ……伊藤氏の遺したわずかな原稿とアイデアをもとに書き継がれたこの作品は、『シャーロック・ホームズ』のワトソンが出てきたり、屍者がフランケンシュタインと言われたりすることからお察しのとおり、『カラマーゾフの兄弟』や『風と共に去りぬ』など世界のフィクションの登場人物も劇中現実の実在人物として登場する作品であり。

 また他方で、19世紀イギリスの探検家フレデリック・バーナビーや、日本・明治政府の山澤清吾、アメリカ計算機会社バロースのウィリアム・シュワード・バロウズ1世など現実の実在人物もかれらと対話したりする作品です。

 

 フィクションの事物・技術はあれこれ出てきつつも、『屍者の帝国』の世界には、遺稿に記された「メスメルの動物磁気説にちなんだ劇中独自ガジェットで死者がゾンビとして動き出し、それが産業革命をささえている。屍者化技術の進歩は著しく、非線形制御や不気味の谷といった現代IT技術・用語もお目見えしている」以上の非現実的な交じり物はあんまりありません。

{たとえば「ゾンビだけだと思ったのに他にもいろいろでてきてファンタジーが過ぎる」と言われるうちのひとつである、とある創作物からの参入キャラでさえ、19世紀におけるメスメルの動物磁気の影響を見る研究書の眼に魅されて―メスメリズムと文学の研究 (異貌の19世紀)』で、動物磁気のうみだした創作物として『フランケンシュタイン』と並んで挙げられ。19世紀の文学から当時の女性観・歌・テクノロジーについて考える械仕掛けの歌姫―19世紀フランスにおける女性・声・人造性』(円城氏2010年03月02日読了本)で、大きく文量を割いて検討されるものだったりする}

 

 物語が進むにつれ、とくに第三部はだいぶファンタジックなありさまになるのですが、冒頭から「19世紀という時代がいかに複雑怪奇で胡乱なものであったか」をこれでもかというぐらいに向き合った作品でもあります。

 あまりにも大きすぎて与太話としか聞こえない幻視者の構想に耳を傾け続ける。

 唯物主義(マテリアリズム)を奉じる神秘主義者、フョードロフによれば唯物主義には二種類ある。一つは物質の圧倒的にして蒙昧な力に屈する唯物主義。もう一つは物質を、自然や理性さえも統御するための唯物主義だ。(略)

 ワシリー・カラージンの提案に沿いアラル海で実験中だという人工的な気候制御による環境改良(テラフォーミングについて。アダムの言葉を求める企てについて。そして全父祖の復活計画について。それをも含む、精神圏(ヌースフィア)建設の構想について。

   河出書房新社刊(河出文庫)、伊藤計劃円城塔著『屍者の帝国kindle版31%(位置No.6256中 1885)、第一部 Ⅷより(略、太字強調、文字色変えは引用者による)

 フョードロフは、次のように述べている。「二つの唯物主義(マテリアリズム)がある。一つは物質の蒙昧な力に屈するものであり、もう一つは、物質を統御する唯物主義である。これは、思考の中や、書斎や実験室の遊戯じみた実験の中でなく、自然そのものの中で、自然の理性や統御となるものである」[著作集]。

   水声社刊、スヴェトラーナ・セミョーノヴァ著『フョードロフ伝』p.162、「Ⅱ 教義」《共同事業》の教義の哲学的前提より(略、太字強調、文字色変えは引用者による)(『フョードロフ伝』は主要参考文献の一つで、円城氏の2010年04月14日読了本)

 ここで皆さんに質問したい。どのような事業においてロシア人はもっとも深くその独自性を発揮し、未来に対して担保を残したのだろうか? (略)また、われわれの将来の使命に影を落としている二人の偉人(略)がいるとしたら、それは誰か? (略)肝心の二人目は決して思いつくまい。ところがフョードロフは、その二人目の偉人として、ワシリー・ナザーロヴィチ・カラージンの名を挙げるのである。(略)ハリコフ大学の創立者であるカラージンはすでに十九世紀初めに天候の支配という具体的な提言を行っていたことがわかっている(とくに、雷による電気を抽出して雨を呼ぶため、避雷針をつけて気球を飛ばすことを提案した)。

   水声社刊、スヴェトラーナ・セミョーノヴァ著『フョードロフ伝』p.100~101、「Ⅰ 人物と生涯」モスクワのソクラテスより(略、太字強調、文字色変えは引用者による)

 最後の審判において全ての死者が蘇るなら、かつて存在し、これから先も生まれ続ける全ての死者を復活させる方法が物理的に存在するはずだというのがフョードロフの着想だ。(略)

 生者の体から飛散し大気中へ逃れる霊素。宇宙へ向けて放散されていく魂たち。そのすべてを漏らさず集め直すことにより、死者は蘇る。記憶の中の存在ではなく、実体をまとった存在として。そんなことが実現可能であるという事実をもって、人類の救いはあるとする。人類には救いが存在する故に、そんな物理過程は「存在しなければならない」。それがフョードロフの誇る思想の中核だ。

    河出書房新社刊(河出文庫)、伊藤計劃円城塔著『屍者の帝国kindle版31%(位置No.6256中 1892)、第一部 Ⅷより(略、太字強調、文字色変えは引用者による)

人の子らにとって天上の世界とは、父たちの未来の住処なのである。なぜなら、天上の世界に到達できるのは、復活させられた者たちと復活させる者たちだけなのだから。調査の対象となっている世界へ探検旅行することができないとしたら、科学にはまったく説得力がないことになる。(略)ある地域の上空を舞う気球は勇気と発明の才を呼び覚ますだろう。つまり教育的な効果があるのだ。これは、言わば、知性あるものすべてに天上の空間への道を発見するよう誘いかけることである。復活させるという義務を果たすには、天上の空間への道を発見する必要がある。なぜなら、天上の空間をわがものとしないかぎりは、幾多の世代が同時に存在することは不可能だからである。(略)

 物質全体は祖先たちの遺骸である。きわめて微細な粒子は、肉眼では見えないようなごく微細な生物にしか見えないだろうし、しかも彼らにも、わたしたちが顕微鏡を用いるように、見るものを拡大してようやく見えるほどなのだが、わたしたちは自分の先祖の痕跡を見いだすことができる。(略)この研究方法を発見することは難しい。最初の二、三個の粒子の研究も難しい。だがそのあと、この作業は多くの人が行なうことができるようになり、最終的には、商工業の雑事から解放されたすべての人が行なえるようになる。(略)

 個々の世代が自分の直前の世代を復元するときのむずかしさも、同じようなものである。(略)おそらく最初になされるのは死んだばかりのものを死の直後に復活させることだろう。そして、そのあとに復活させられるのは、腐敗の度合いの少ない者だろう。だが、新しい試みがなされるたびに、復活の事業のその後の進展は容易になっていく。復活が新たに行なわれるたびに、知識は増えていく。人類が最初に死んだ者にまで到達したとき知識は復活させるという課題を解決する最高の段階に達する。(略)

 復活の事業のためには粒子の分子構造を研究するだけでは足りない。だが、粒子は太陽系の空間に、そしておそらくは他の世界にまで分散しているので、それを集めることも必要である。したがって、復活という問題は地球・太陽的な問題であり、地球・宇宙的な問題でもある

   せりか書房刊、スヴェトラーナ・セミョーノヴァ&A.G.ガーチェヴァ編著『ロシアの宇宙精神』p.108~120、フョードロフ「共同事業の哲学(抜粋)」より(略、太字強調、文字色変えは引用者による)

 『屍者の帝国』は、文豪ドストエフスキートルストイに影響を与え、ロシア宇宙旅行の父ツィオルコフスキーが独学時代に世話になり「驚くべき哲学者」*8とたたえたフョードロフの思想みたいに、フィクションの存在のほうがよっぽど地に足がついているように思えてならない奇天烈なイデオロギーが一国を代表するものであった……といった(奇異に思えるけど現実にほかならない)マクロな世界観を紐解くような、各国がそれぞれの「らしい」顔をぶつけ合う世界規模のポリティカルサスペンス・戦争小説であり。

 サムズと名乗った初老の女性は、真っ青なドーナツを咀嚼しながら人懐こい目をこちらへ向ける。勿論サムズというのは本名ではなくコールネームなのだという。彼女の指から生じる打鍵の調子が激しく荒々しいという理由から、全部親指(サムズ)という綽名をつけられたのだと笑った。

   河出書房新社刊(河出文庫)、伊藤計劃円城塔著『屍者の帝国kindle版66%(位置No.6256中 4071)、第三部 Ⅰより(太字強調、文字色変えは引用者による)

「通常の場合、オペレーターは、回線で打たれている音を聞くと、女性が打っているかどうかわかる。キーのタッチが違うのだ。職員によると、女性は通常は男性のように強くキーを叩かない。しかしときには例外もあるが」と1891年の『ウエスタン・エレクトリシャン』詩は報じている。

   NTT出版刊、トム・スタンデージ著『ヴィクトリア朝時代のインターネット』p.138「回線を通した愛」(太字強調、文字色変えは引用者による)

(略)昔は打鍵器の打ち方で相手が誰だかわかったものですよ。監督の目を盗んでお喋りなんかもそりゃあたくさん。自分の家族よりも、ケーブルの向こうの相手のことをよく知っていたりして。しばらく姿を見せなかった海の向こうのオペレーターに子供が生まれたと知らせが届いて、交信所全部が騒ぎになったり。お祝いの短縮符牒や、相手をせっつく符牒だとか、色んな言葉が行き交っていて。今は意味のわからないネクロウェアのデータや解析機関同士のおしゃべりの中継をしているおかげで、生者のオペレーターは人気がないけど、

   河出書房新社刊(河出文庫)、伊藤計劃円城塔著『屍者の帝国kindle版66%(位置No.6256中 4077)、第三部 Ⅰより(略、太字強調、文字色変えは引用者による)

 経験を積んだオペレーターはモールス符号の打ち方を聞いただけで、それが明らかに人間の声のように聞き分けられるので、相手が友人であるかどうかわかった。

   NTT出版刊、トム・スタンデージ著『ヴィクトリア朝時代のインターネット』p.154「回線を通した愛」(太字強調、文字色変えは引用者による)

電信局では全員が1本の支線を共有していたので、いつでも何人かのオペレーターが、線が空かないかじっと聞き耳を立てていた。線が空いている時間には、お喋りしたり、チェスを指したり、冗談を言い合うこともあった。

   NTT出版刊、トム・スタンデージ著『ヴィクトリア朝時代のインターネット』p.69「第4章 電気のスリル」(太字強調、文字色変えは引用者による)

そして牧師が結婚式を始めると、彼の言葉がそのままグラント基地に中継された。そして式のしかるべき時点で、花嫁と花婿がキーを叩いて「誓います」という言葉を送った。そして結婚式が終わると、回線につながったすべての局からお祝いのメッセージが押し寄せた。花婿はそれから何年しても、彼の名前を聞くとすぐに、その結婚式に参加したという仲間のオペレーターに祝福の言葉をかけられた

   NTT出版刊、トム・スタンデージ著『ヴィクトリア朝時代のインターネット』p.147「回線を通した愛」(太字強調、文字色変えは引用者による)

 いっぽうで――今作はいかにもフィクションの悪役らしく、歴史の網目をスルスルとすり抜け世界を股にかけ暗躍する、謎の存在がでてくるのですが、その――謎の存在の所在をつきとめる一つの鍵となるのが、現実の電信社会の名さえさだかでない(けれど、歴史に埋没してしまっただけで、たしかにいたはずの)女性タイピストの実感である……なんて、取り留めのないミクロな感性まで掬うような、手足を動かし証拠をみつけだす類の泥臭い探偵小説でもあり。

 そうして拾われたなかには、明治天皇その異貌までもがふくまれます。

 

 現実の歴史とも噛み合うかたちで屍者の帝国劇中現実に天皇が出てきたのは天皇が出るような現実の歴史的出来事を劇中で出したのは)円城氏の創作ですが、これってそもそも伊藤氏の関心ごとでもありました。

 伊藤氏はどうにも、天皇や皇居、日本をじしんの創作のなかで扱ってみたい意欲があったらしいんですよね。

 今、目の前スクリーンの中を信じられない人物が歩いている。テレビや記録映画の中で、その「人」を我々は何度も見てきた。でも、フィクションの世界でその「人」を演じた人間は恐らく一人もいないだろう。でも、今、その人物が目の前を歩いていらっしゃるのである。畏れ多くも、あの、やんごとなきお方その人が。
 アメリカ映画には大統領が登場する。ハリソン・フォードをはじめ、大統領を演じた人間はかなりの人数にのぼるだろう。イギリス王室もフランスの王室も、今まで幾度となく映画の中で描かれてきた。しかし、国の象徴たる人物で、未だフィクションの世界に翻訳されていない「人」が存在する。その国はその人に触れることをタブーとしてきた。その人の政治的立場や責任といったものについて触れることは恐ろしい禁忌であり、議論されることがありこそすれ、軽々しくフィクションの登場人物として扱うことはもってのほかだ。
 その名を、日本国天皇という。

   伊藤計劃運営『SPOOKTALE』掲載、CINEMATRIX内「番外編:腹腹時計物語」より

 天皇暗殺を試みる自主製作映画『腹腹時計』評に、中村七之助さん演じる明治天皇について一言コメントされた『ラストサムライ』評……伊藤氏のレビューには、創作物にえがかれる天皇に関する記述がいくつか見受けられます(。同じような論調として、これまで邦画で気軽に取り扱えてこなかった、フィクションにおける自衛隊の存在の変化なども話題にされていました)

 そして自作のアイデアとしても、『皇居ダイハード』05年8月26日。皇居をテロリストが襲うなか、主人公の「わたくし」が戦いのなかで「朕」として目覚め、そこで終わらずさらに……というアクション物)に、靖国刑事』〔言及時期不明、おそらく06年10月以前*9靖国神社に猟奇殺人死体があらわれたことで、多種多様なイデオロギーをもつ人々が容疑者として立ち上がる……という『ダヴィンチ・コード』の日本版〕、そして――これは今となってはソースであるBBSのレスが404になってしまって、ぼくが「そう書いてあった」って記憶を頼りに言うだけとなってしまいましたが――伊藤氏の武蔵野美術大学の卒業制作アニメ(だったけど完成したかは不明。たぶんしなかった)「原風景を喪失したところから始まる探求の物語」SPOOKTALE』など、そうした事物を扱ったものがいくつか見られる。

 エッセイをのぞいてみても、野次馬しにいって見た平成の世の天皇のたたずまいについて、(当世的に世俗化されたかたちではあるけれど)天皇をうやまう周囲の観衆や要人警護のシステムによってどうにも別世界が見えてしまう特異なようすを、ノンポリの余所者目線から記していて。伊藤氏のそれらの記述は、円城氏による『屍者の帝国』のワトソンが外国人として見る日本の姿とそう変わらないように読めてしまうんですよ。

 左手に聳える皇帝の城天守(キーフ)を大きく欠いている。革命戦争による傷跡かとも思ったのだが、皇城は二百年以上にわたり天守を欠いたままだという。二百年と一口で言い、この国の得体の知れなさはこんなところにも存在している。頭のない巨人といった城の姿はこの国の現状を表すようで変におかしい

   河出書房新社刊(河出文庫)、伊藤計劃円城塔著『屍者の帝国kindle版35%(位置No.6256中 2167)、第二部 Ⅰより(太字強調、文字色変えは引用者による)

原風景を喪失したところから始まる

探求の物語

   『SPOOKTALE』特設ページより(太字強調、文字色変えは引用者による)

熱心なファン(?)はすでに前方を陣取っていて、ものすごい盛り上がっているようだ。早くから来て場所取りをしているらしい。なんだか有名なアーチストのライブみたいだ。皇居の外に出た時、物販のテントがあるところもなんとなく外タレのライブを連想させる。ちなみに皇室カレンダーなるものが売っていた。あれを壁にかけるのか。御真影の時代を思うとなんだか可笑しい

   伊藤計劃運営『伊藤計劃第弐位相』2007年1月3日、「ホログラムという妄想」より(太字強調、文字色変えは引用者による)

屍者たちの儀仗兵が門から延遼館へ延びる道に整列し正装した近衛たちが、ピンカートンの要員たちと対面する形で立ち並ぶ。屍者たちの発する微かな臭気を、緊張する人馬の汗の臭いが上書きしていく。近衛が犬を連れるのは、屍爆弾を事前に割りだすためなのだろうが、犬たちは明らかにこの雰囲気に困惑して気圧されている。澄んだ空気が薄い硝子(ガラス)のように張りつめ(略)

  この空気は、一個の人間によってもたらされている。日本帝国皇帝その人の存在により。

   河出書房新社刊(河出文庫)、伊藤計劃円城塔著『屍者の帝国kindle版54%(位置No.6256中 3315)、第二部 Ⅵより(略、太字強調、文字色変えは引用者による)

御前に白手袋した燕尾服の要人たちがずらっとならんでいる風景もなんだか異様で良かったです。

   伊藤計劃運営『SPOOKTALE』掲載、CINEMATRIX内「ラスト・サムライ」より(太字強調、文字色変えは引用者による)

あの防弾ガラスのブースの、箱型の形状とやや緑がかったガラスを見ると「ホログラムの陛下が映っているのでは」という妄想から逃れられない。ガラスの箱に偉い人、といえば映画やアニメではホログラムと相場が決まっているからだ。 

   伊藤計劃運営『伊藤計劃第弐位相』2007年1月3日、「ホログラムという妄想」より(太字強調、文字色変えは引用者による)

 黒塗りの馬車(ランドー)のタラップを踏み、長身の人物が玉砂利の上へ降り立つ。実際の背丈は知らないが、背丈の低い日本人の中では際立つ。何よりもその身にまとう雰囲気が皇帝を実際よりも大きく見せる。軍服に身を包んだ明治の世の支配者は、グラントとの会談に浜離宮中島のお茶屋を選んだ。

   河出書房新社刊(河出文庫)、伊藤計劃円城塔著『屍者の帝国kindle版54%(位置No.6256中 3322)、第二部 Ⅵより(太字強調、文字色変えは引用者による)

  そして、我々はついに、いまだかつてフィクションのなかで「演じられた」ことのなかった人物を目撃します。
 天皇
 その天皇は、まさに天皇でした。これが天皇でなくて一体誰なのでしょう。我々がフィクションとして語るのを避けてきた「なんとなく触れてはいけない」存在。それが、こうもあっさりとスクリーンに実現されているのです。地元の一般募集でキャスティングしたこの「天皇」役の老人は、一体どういう心境で昭和天皇を演じているのでしょう。いままで恐ろしくて誰もやらなかったことが、こうもあっけらかんと、至極簡単に、目の前で達成されたことに、私はほとんど死にたくなりました。短い歩幅の、やや猫背気味の、あの帽子にあのスーツを着て、あの杖を持った老人。
 天皇とは何か。多くの論客がそれを倦むこと無く語り続けてきました。戦争責任やら、神と人やら、隠蔽された空虚な中心やら。しかし、我々は見てしまいました。天皇とは短い歩幅の、やや猫背気味の、あの帽子にあのスーツを着て、あの杖を持った老人だったのです。それが天皇のすべてだったのです。今、私の目の前を天皇が歩いています。その数メートル後方を、これまた「それが全てである」皇后陛下が歩いておられます。
 天皇制についてムツカシイことを考えている人はこの映画を見るべきです。
 私の見たもの、あまりにあっさりとスクリーンに実現されたその人間が、まさに天皇の全てだったのです。

   伊藤計劃運営『SPOOKTALE』掲載、CINEMATRIX内「番外編:腹腹時計物語」より(文字色変えは引用者による)

 『屍者の帝国』は、円城氏が書き継いだところからガラリと文体や雰囲気が変わって「コレジャナイ」と読んだかたも結構いらっしゃるようです。 今作を楽しんだぼくだって「これじゃん」「……いやこれじゃなくね?」と思った部分はあります。

 なんなら本人もそう言ってますよね。

 円城氏は「「伊藤計劃らしさ」を意識しましたか。」と問われ「したところもあり、できないところもありました」*10とインタビューに答えています。「伊藤計劃ならどう考えた」という自問自答も、「しなかったですね」と*11。文体の違いも、「最初はそのまま文体を続けて書こうとしたんですが、(略)これはさすがに無理だろうと」*12

わかりやすい神を拒絶し、証拠のない即断を避け、理性的な言葉を用い、新たな知識を取り込み続け、合理的な判断をよくした伊藤計劃が提示するはずだったものは無論、この『屍者の帝国』とは全く異なるものとなったはずである。伊藤計劃は、「次は戦争を書きます」と公言していたし、イスラエルをこの時代に登場させる方法を模索していた。それを盛り込むことができなかったのはひとえにわたしの知識や才能、時間の不足によるものである。映像的な臨場感については言うまでもない。

   河出書房新社刊(河出文庫)、伊藤計劃円城塔著『屍者の帝国kindle版100%(位置No.6256中 6198)、「文庫版あとがき」より

 作者じしんがコレジャナイって言ってんだからそりゃ読者がそう感じるのも当然じゃね? それはそう。

 ただ、円城氏の言やじぶんの実感とは裏腹に、

「じゃあ伊藤計劃らしさとは何だろう?」

「共著版『屍者の帝国』のコレジャナイと感じた部分は、本当に本当に伊藤計劃が書きえないようなものなのだろうか?」

 と考えていくと、ぼくは、

「いや伊藤氏が書いてもおかしくない描写じゃないか?」

 とよく分からなくなってしまう。

 

 初読で違和感をぼくがおぼえた部分は、じつは、伊藤氏のblogやエッセイ、インタビューで語られた今後の作品の展望を読むと、意外と線が見えるものだったりするんですよね。

 ファンタジックな第三部は、伊藤氏円城氏が二人ともチャールズ・ストロス著『残虐行為記録保管所』を面白がる*13ようなボンクラだったことを意識した展開とのこと*14ですし、陰謀論や伝説がとびかう胡乱な19世紀像もまた、遺稿でも劇中世界のゴシップを記し、そして「いずれはトマス・ピンチョンのような陰謀小説に挑戦したいという」*15と展望を話されていた伊藤氏がいつか書いていたかもしれない文章に思えてきます。

 またこうした本筋と関係なさそうな雑学うんちくの類いが、複数のシーンと連関して雰囲気をかたどっているというのも、伊藤氏らしい手つきですし、そうしてたどり着く風景もまた伊藤氏らしい。

{※たとえば伊藤氏の単著『虐殺器官』では、とあるキャラが所属するコミュニティの思想基盤を説明するさい、聖書の一節(「ルカの第二章のド頭」)を諳んじ、その出典元がなにか知っているか主人公へ訊ねたりします。そこでは「……ぼくは無宗教だ。教会に通ったことはない」と主人公は返しますが、終盤のシーンで主人公も聖書の一節をそらんじていて(『機動警察パトレイバーthe Movie2』で諳んじられた、オタクが大好きなやつ。まぁこれ自体は信者じゃなくても知ってるやつ、その出典元は劇中で補足説明ありませんけどまさしくルカの一節であったりして、「実際どうだったんだろうか?」「対話を経て心境の変化があったのかも」と思わせる含みをもたせたりしています}

 この記事で引用した『屍者の帝国』第二部の日本の描写。これは第一部の……

手が届きそうに見えるヒンドゥークシュの山々はどこか書割りのように遠く、高原とは切り離された海峡の向こうの島のように浮かんで見える。岩がちの荒れ地は砂礫だらけの荒野へつながり、ふと気がつくと山肌に沿う細道となり、黄緑色の草原はいつしか雪原へ姿を変える。巨人の国に踏み込んだように、土地を構成する一つ一つの要素が巨大化していく。目につくととりかかりが得られぬせいで、遠近感が喪失され、極大と極小が手を取り合ったような眩暈が襲う。(略)

 数多の帝国の折り重なった巨大な墓地をなす大地の上で、動物、植物、鉱物それぞれの(キングダム)が目まぐるしく入れ替わっていく。

 単調な歩調を順に数えて、早々に訪れた無限の先の次の一歩がまた何度目かの一歩となり、何を数えていたのかわからなくなり、数を数えることさえ覚束なくなる

   河出書房新社刊(河出文庫)、伊藤計劃円城塔著『屍者の帝国kindle版24%(位置No.6256中 1426)、第一部 Ⅵより(太字強調、文字色変えは引用者による)

  ……巨人の国じみた、無限につづくみたく感じられるアフガニスタンの荒野をすすんでいく途中……

「先の戦争時、四十年も前になるか、やはりあの地に入植した一団があった。一人の男に導かれてな。あれは見事な男だった。身の丈は八フィートを超えていたか。それからだよ、わたしがアードの民の言い伝えを信じるようになったのは。あれは実に、実に見事な――」

 老人は大きく一つ身震いする。

屍者たちのであったよ」

(略)

「"その国は深い闇に覆われ、外の者たちは裡を見通すことができない。闇をおそれて誰も踏み込むことはない。人の声や馬の嘶き、雄鶏の鬨が響くのを聞き、その裡には何かの民が暮らすと知る。しかし、どんな民が住むかは誰も知らない"」

 バーナビーの暗唱を、クラソートキンが即座に受ける。

「『ジョン・マンデヴィル卿の旅』ですか」

 マンデヴィル卿は十四世紀の旅行家で、プレスター・ジョンの国を旅した人物らしい。その旅行記は当時のベストセラーになったそうだが、さすがにフライデーのライブラリにそこまでの記録は収めていない。クラソートキンが解説するには、マンデヴィルが東方へ至ったというのは嘘っぱちであるらしい。他人の旅行記を継ぎ接ぎし、もっともらしい話を作った。その種の旅行記の常として母国を離れるにつれ幻想性は増大していき、頭のない民族だとか、犬頭の民族旅行記には登場するのだそうだ。

   河出書房新社刊(河出文庫)、伊藤計劃円城塔著『屍者の帝国kindle版27%(位置No.6256中 1677)、第一部 Ⅶより(太字強調、文字色変えは引用者による)

 ……八フィート超の男が導く屍者の王国にかんする異国の老人からの証言。これを聞いたことで連想した、現実の与太話(=ジョン・マンデヴィル卿の旅)について言葉を交わした後で見聞する風景です。

 

 さて第二部で上層を欠いた異国皇帝の城を「頭のない巨人」と擬人化して認識し、(実在物とはいえ)を目にとめ、同地で耳に入った様々ある音のなかで「ひときわ高く犬の吠え声が尾を引」きもしたワトソンは、第三部でロンドンへ帰還を果たします。

 漆黒の巨体が薄明の霧に浮かぶロンドン・ドックスの横を音もなく進む。雲に拡散された陽光が事物の輪郭をぼやけさせ、地平線から離れたはずの太陽は紗を重ねて溶かしたようにおおよその位置しか知れないどこか岸辺で犬が吠えるが、その姿も霧に溶け込んでいる

 一八七九年九月三十日。懐かしいテムズ川の泥の臭いが私の帰国をこうして迎える。(略)我が故郷

 わたしはこうして帰還を果たす。

 霧の向こうに、几帳面に襟を揃えたようなロンドン塔のホワイト・タワーがおぼろに浮かぶ女王陛下の宮殿にして要塞(ハー・マジェスティズ・ロイヤル・パレス・アンド・フォートレス)(略)複合建築物(コンプレックス)巨人の幽霊のように姿を現す。

   河出書房新社刊(河出文庫)、伊藤計劃円城塔著『屍者の帝国kindle版84%(位置No.6256中 5205)、第三部 Ⅶより(略、太字強調、文字色変えは引用者による)

 犬の吠える声がひびく、巨人の幽霊みたいな女王の宮殿がある、霧につつまれ太陽さえかすませる我が故郷

 イスラエルの選手たちは、ミュンヘンで死んだ。暗殺の目標にされるパレスチナ人たちには、そもそも「祖国」がない。そして、主人公のチームは異国である西ヨーロッパで死んでいく。

 この映画は、人の死の物語ではない。人が死ぬ風景についての物語だ。

 客死、という言葉がある。異国で死ぬこと。祖国でない見慣れぬ場所で最後を迎えること。周りには家族もなく、愛する人もいない。その死は徹底的に孤独であり、残酷だ。寂しい風景としての客死。今回、この映画を染め上げる色は、その荒涼とした、孤独の色、寂しさの色だ。

(略)

 もちろん、それがスパイという世界、諜報畑の「戦争」の在り方だろう。戦場とは異なる「死」のたたずまいが、そこにはある。この映画に登場する人間は、みな祖国から遠くはなれた風景の中でさみしく死んでいく。

(略)

 主人公は確かにモサド工作員かもしれない。しかし彼は作戦遂行にあたって形式上モサドを解雇され、「存在しないこと」になっている。そして彼は表向き祖国に戻ることを許されず、生まれた赤ん坊を見るために、祖国にも身分を偽って潜入する。かれは祖国を追い出された者である。所属せざる者たちだけが食卓を囲み、所属する者たちと食事がともにされることはない。

 この映画が描き出すのは、そうしたさみしい、孤独な、「客死」の風景だ。

   はてなダイアリー伊藤計劃運営『伊藤計劃第弐位層』、2006年1月24日「さすらいびととして死ぬこと」(太字強調、文字色変えは引用者による)

 ミュンヘンオリンピックの報復として他国へ暗殺しにいったイスラエルのスパイを描いた実録映画『ミュンヘン』について、伊藤氏はこう書きました。

 共著版『屍者の帝国』でワトソンが歩むのは、機械社会にぬりかえられていく崇高な自然(ピクチャレスク)や、鎖国を開いて西洋との交流を持つもまだまだへんてこな目線(オリエンタリズムをむけられる極東の国。

 歩んださきで茶を飲み交わし声を交わすのは、市民革命の萌芽はあれどもまだまだ帝政が強いロシアからはみでた政治犯や、機械化の波で職を追われた女性技術者など……国体の移り変わりや労働環境の変化、時代のはざまから浮いた異境や異物たちです。すべてが終わったワトソンは旧友と飲みや歌えやゴシップなボンクラ話を咲かせますが、プロローグと並べられるようなそのボンクラな時空間は、むしろかれにとって自分がどれだけ胡乱な道程を歩んできたか実感させる決定打となってしまう*16

 共著版『屍者の帝国』はワトソンがそうしたさみしい風景を歩みゆく作品として、ぼくには読めます。

 

 逆に、初読で「じつに伊藤先生らしい!」と思った筆致が、再読して揺らいでいってしまったりも。

 ウォルシンガム登録名称(ユニークネス)Noble_Savage_007、個体識別名(コードネーム):フライデー。虚ろな脳に運動制御用の汎用ケンブリッジ・エンジンと拡張エディンバラ言語エンジンを書き込まれた、最新鋭の二重機関(ツイン・エンジン)の実験体だ。(略)

 わたしの従僕(サーヴァント)にして女王陛下(ハー・マジェスティ)所有物(プロパティ)。書類上は、ウォルシンガムの研究開発部、Q部門(セクション)から貸与された備品ということになる。

   河出書房新社刊(河出文庫)、伊藤計劃円城塔著『屍者の帝国kindle版6%(位置No.6256中 339)、第一部 Ⅰより(太字強調、文字色変えは引用者による)

  たとえば、こんな、『007』シリーズのオマージュであり、伊藤氏の当該シリーズの二次創作『女王陛下の所有物 On Her Majesty's Secret Property』やそれを基にした一次創作『From the Nothing, With Love.』にならった展開を、『ロビンソン・クルーソー(2009年05月03日上巻読了本)の高貴な野蛮人フライデーで行なったのだろうと思えたここ。

 フライデーという存在だって改めて読むと、主要参考文献の一つ『ザ・レート・ゲーム―内陸アジアをめぐる英露のスパイ合戦』で挙げられた現実の19世紀のグレート・ゲームの陰の功労者「バンディッド(無法者)」――現地で登用され養成をうけ地図の空白を埋めるも、じぶんたちについて何も書き残さなかったらしい英領インド現地人の匿名のスパイのようにも思えてきます*17

もう一人不審な人物から通信を受け取った。英語で書かれ、ミルザとだけ署名して会った手紙でその男は、自分はインド政庁からこの地域を極秘裡に調査するために送られたものだと自己紹介し、時計を貸して欲しい、自分のが壊れてしまったが天文観測上必要なのだ、また同じ理由で今日の正確な西暦の日付を教えて欲しい、と言ってきた。ショウは彼が何者であるかを怪しみ、累が自分に及ぶのを恐れて断ったが、彼は正真正銘、英国のスパイ「バンディッド」だったのである。

    * * *

 インド亜大陸と周辺地域の地図の作成の任に当っていたインド地理調査所は、北部アフガニスタントルキスタンチベットの地図を作成する段階になって、はたと行き詰ってしまった。制服の士官がそれらの地へ出向くことは厳禁されていたからである。その時調査所で働いていた近衛工兵連隊のトーマス・モントゴメリー大尉が素晴らしい解決策を打ち出した。彼は現地人に特別の訓練を与えて送り出すべし、と提案したのである。現地人ならば見破られる可能性は遥かに少ないし、不幸にして見破られても英軍士官よりは政治的面倒がずっと少なくて済む、というものだ。多分驚くべきことだろうが、この大胆な提案は採択され、ミルザ・シュジャーを含む多数のインド人が送りだされていったのである。彼らバンディッドの存在は極秘にされ、名前も番号暗号で呼ばれた。彼らは知能と資質を厳選されたエリート集団であり、グレート・ゲームの陰のプレーヤーであったが、残念ながら彼らを顕彰する手段はないのである。(略)

 この人たちが大英帝国の主人のために、敢然と困難や危険に立向うよう仕向けたものが何であったかはいまだに謎である。色々考えられようが、根底にあったのはモントゴメリーに対する人間的信頼感であったように思えてならない。(略)残念ながらこの人たちの個人個人についてはほとんど何も分っていない。彼らの誰一人として自分のことを書いたものを残していないのである。

   中央公論社刊、ピーター・ホップカーク著『ザ・グレート・ゲーム―内陸アジアをめぐる英露のスパイ合戦』p.251~252、「25 シルクロードのスパイたち」(略、太字強調、文字色変えは引用者による)

 果ては、最初は「伊藤氏らしくない」と思えたけれど再読したことで「実は伊藤氏らしくなくない」と思えた部分が、再々読して「実は実は伊藤氏らしくなくなくない」と思えたりも。

 伊藤氏らしいさみしい風景を、伊藤氏らしくないけど将来的には氏が書いていたかもしれないピンチョン的胡乱でファンタジックな道筋を経て描いてみせた起点のひとつ――バーナビーという先輩を得て冒険中のワトソンが、グレート・ゲームの道中で旧世界の巨人と出くわしたり、見通し悪い暗闇の限りない墓地を歩いている気分になったりするところ。

 この記事でも引用させてもらったこの展開は、傍目には物語全体をたばねるための作家による創作・操作・ご都合に感じられてしまいもするシーンですけど、実は実は、巻末に挙げられた主要参考文献の一冊フレデリック・バーナビーがヴァ騎行{A Ride to Khiva}』で実際に記した道中の実感を思わせる描写なんですよね*18

〔ただし、以下の引用文は前者はカザフスタンとの国境に沿ったロシア南方オレンブルク~オルスク間のこと、後者はアラル海北のカザラ{カザフスタン}~ヒヴァ{ウズベキスタン}間のこと{……かな? 英検3級だから実はよくわかってません。(「そのうち邦訳でてくるっしょ~」と思ってたら約10年たっちゃいましたね……。旅先でお茶を差し出されるも「我々が言うところのお茶ではなかった」と内心おもいつつもホストのために「素晴らしい!」と声を張るバーナビーとか*19、面白い手記っぽいので、どうにか邦訳がなされないものか……)}〕

 今見ているこの地方はとても良くなってきた。左手の低い山々の連なりは、一マイルかそこら進むごとにざっくりと切れ間が入って乱れている。

 そんな隙間をその高さでもって塞ぐかのように独り立つ巨大なものが、時折われらの眼前に来た。ふわふわした雪の中から色とりどりの草が見えた。金色に染まって輝かしい栗は、そこで伸びる植生たちを圧倒する色合いだった。オリーブ色の茨、そして物憂げな樅(もみ)や松の森は、真昼の太陽のもとで淡く輝く自然の絨毯とつよい対照(コントラスト)をなしている。枝から垂れる露は凍ってまるで蜘蛛の巣。細いつららは、透明な表面をとおして虹の七色を反射していた。こっちの茂みには氷の薄膜(フィルム)の糸が幾重にも架かっている。そこでは、頭上の太陽から無慈悲に降りそそぐ光線により溶かされながらも、持ちこたえた絹のような房がそよ風に舞っていた。

 節くれだった幹や趣ぶかいかたちをした樹の木塊(ブロック)は、冬の衣によって半身が隠れていたが、もしかするとノアの洪水以前(アンティデルヴィアン)の旧世界の巨人かもしれず、たまさか実存に目覚め、そして雪のふとんを振り払いやしないだろうか。

The country now improved very much in appearance.The low chain of mountains on my left was sometimes broken abruptly for a mile or so.Occasionally a single giant would rear itself up into space before us as if by its altitude to block the intervening gap.Various-coloured grasses could be seen through the fleecy snow.Golden-tinted and bright chestnut were the hues which predominated amidst the rising vegetation.Olive-coloured bramble, and sombre fir and pine forests, strongly contrasted with the pale carpet glistening beneath a midday sun.Spider-like webs of frozen dew were pendent from the branches. The tenuous icicles reflected through their transparent surface all the prismatic colours of a rainbow. Here a myriad threads of icy film spanned the frequent bushes. There, broken by a pitiless beam from the orb overhead, they hung in silky tresses, and floated in the rising breeze.Gnarled stumps and quaintly-shaped blocks of timber, half-hid from the gaze by their wintry raiment, might have been antediluvian giants of a former world, awakened to existence, and shaking off their snowy coverlet.

   internet archive掲載、Fred Burnaby著『A Ride to Khiva: Travels and Adventures in Central Asia』{訳文は引用者による(英検3級。グーグル翻訳があやしいところは雰囲気で書いた。なので親切なかた正しい訳をご教示ください……)}

太陽が目覚めたてで霧がかった薄闇のなかで時おり、われわれは無限につづく墓地を通り抜けている心地となった。まだらに凍った地面はスラブや大理石(マーブル)墓石にも似て、こうした墓地は砂漠を横切って目の届く先まで際限なく広がっている

Sometimes in the misty gloom of awakening day we seemed to be riding through endless cemeteries, the frozen patches resembling slabs or marble gravestones, this apparently unbounded burial-ground extending across the desert as far as the eye could reach.

   internet archive掲載、Fred Burnaby著『A Ride to Khiva: Travels and Adventures in Central Asia』{訳文は引用者による(英検3級。グーグル翻訳があやしいところは雰囲気で書いた。なので親切なかた正しい訳をご教示ください……)}

 嘘でたらめに思えるが現実である。現実に思えるが真っ赤な嘘である。いかにも円城氏の筆なのだが、伊藤氏のように思えてならない。伊藤氏の味をほうふつとさせるが、発想から執筆まで円城氏独力のお仕事である。

 そんなふしぎな筆致が進められた果てに、あのエピローグ! ……こんなん泣くにきまってるじゃないですか。『屍者の帝国』はぼくにとって大切な一作です。

 

 『屍者の帝国』は、2015年にアニメ映画化されました。

 『ゴジラS.P』とおなじく東宝の、ゴジラシリーズと同じく皇室関係を出さない映画です。

 霧と煙の深いゴシックなイギリスとCGで描かれる屍者の不気味さ、屍者が無数にうごいて賑やかだけど活気のない不思議な英領インドでのチェイス、ピクチャレスクなアフガニスタンの自然、浮世絵風の日本と生者であるのに奇怪なオリエンタリズムなひとびと、拡大公開系ゾンビ映画のノリのアメリカ……

 ……1本の映画・国内のアニメスタジオで扱うには難しいくらいの数々の舞台を――原作『屍者の帝国』が部ごとにガラッと雰囲気を変えてみせたみたいに――語り口もバラエティ豊かに描いてみせたアニメで、なかなか立派な作品でした。

 物語の改変もなかなかなものです。

 お国の支給品だったフライデーを、屍者化技術の重要な理論を考えている最中に早逝してしまった天才とし。そしてワトソンを、フライデーの親友でかれの復活を夢見た危うい医学生とし。そうして劇中独自要素であ(り、そして小説版でもプロローグでまず描かれた行程である)る屍者化のプロセスは、ワトソンがどれだけフライデーを大事に想っているか描く手段としてまず登場します。違法だけどワトソンのたしかな知恵と知識を感じさせるそのプロセスは、諜報機関に目を付けられる引き金となり、無罪放免の代償としてグレート・ゲームの駒として徴用されてしまう交渉材料となり、ワトソンは英領インドへ……

 ……という導入部は、キャラのアクションがつぎのアクションへと繋がってなめらかですし。冒頭で提示されたワトソンの強いオブセッションやフライデーとの友情が、本題の世界行脚をつらぬく主幹となっていて、一本の作品として一つのまとまりを与えています。

 ただまぁ120分という尺は、長編小説を語りきるにはあまりに短い時間です。

 尺の都合や権利問題によって、ぼくが上であれこれ書いたようなことは大体カット・改変されました。

 原作小説の(「原作小説の時点で失敗していた」とおっしゃるかたはいるでしょうけど、少なくともぼくの目には)現実の歴史の網目を縫うことでどうにか渡り切っているように見えたファンタジックな綱渡りは、映画にするにあたって歴史の糸をことごとく省いた結果、空中浮遊にかわってしまった。

 『カラマーゾフの兄弟』のアレクセイがどうしてパミールにいるかといえば、劇中でも説明があるとおり、『カラマーゾフの兄弟』に影響を与えた思想家フョードロフが「人類の始祖の墓があり、そこで始祖の復活がなされる」と考えていた場所がそこだからなんですね。映画ではフョードロフの話は省かれました。*20

 英領インドや日本でワトソンらは、米国元大統領ユリシーズ・グラントに出会いアメリカへと向かうわけなのですが、これは実際にグラントが世界旅行でおとずれた場所でもあります。明治天皇が小説内に出てくるのも、グラントと明治天皇浜離宮で会談をした史実にもとづきます。

 

 映画版では天皇が登場しない=浜離宮の会談がえがかれない=ので、グラントがなぜ日本にいたのか不明になりました。(グラントという固有名詞は残っているので、歴史にくわしい人なら大丈夫でしょうけど)

 また、"サムズ"のくだりに代表される、ゾンビが産業利用された劇中世界ならではの(しかし現実の、名前さえさだかでないほど些末で歴史に埋没してしまった市井のひとの「個の顔」を浮かび上がらせるような、実感的な)方法で手掛かりをつかむくだりもなくなったので、これだけを観たひとにとっては、有名なフィクションのキャラクターや実在する歴史のビッグネームが出身地関係なく主人公の行く先々に国をまたいで出没する、たいそうご都合主義的な作品に思えてしまったんではないでしょうか?

 また、『ジョン・マンデヴィル卿の旅』も、その与太話の異国と劇中現実の日本をつなぐ頭のない巨人も、日本と英国をつなぐ巨人にたとえられる城も、犬など動物の鳴き声も登場しません。

 小説版でたしかに見たはずのさみしい風景は、映画版ではついぞ現れませんでした。

 

 この辺のちがいは、作り手がどんなものを重視するか、匙加減のお話でしかない気もします。

 アニメ版公開当時、見目麗しいキャラクタの耽美BL的なにおいからアニメ版『屍者の帝国(やアニメ版独自に脚色された方向での百合要素からアニメ版『ハーモニー』)を批判する声ってそれなりに見かけたしぼくもそう思ったひとりなのですが――ほかのかたがどう思っているかは存じません。文学的価値とか、そのほかSF的社会考察的芸術的価値などについてどうであるというような、そういうムズカシイお話はぼくにゃワカランからくわしい余所さまをあたってください――属人的にしか物が見れない俗なぼく個人がアニメ版を原作より推さない理由を述べると、どちらの作品も「原作のほうが強いBL(百合)だよ!」と思うからですね。

 でも「"変におかしい。”! ”なんだか可笑しい。”構文だ! うっ、うっ……伊藤先生……」とかなるやつはいったい何人いるんだってお話ですよ。狭いところを突いたところでしょうがない。

 小説版の"サムズ"のくだりも全く消えてしまったわけではなくて、映画版の主役2人だけがつうじる合図として昇華されたととらえる観方だってありましょう。思いの丈をつよく叫んだり抱きしめたりする姿にこそ、強い情念を受け取るかたもいらっしゃれば。

 たとえばジャクリーン・ケネディ氏が夫から毀れた頭蓋骨の破片を拾った姿であるとか、過去に未来に微粒子レベルまで散らばった伊藤計劃成分をかきあつめて一冊の本にする……みたいな手つきであるとかにこそ強い情念を見いだすやからもいて、そしてたぶん後者は自律神経が乱れているかもしれないのできちんと寝たほうがよい。少なくともぼくはそうで、ひどい自堕落生活サイクルが祟ってか32になったその日の夜に寝小便を垂れましたよ。せつないですね。

 映画版のワトソンの執着やフライデーとの関係性こそが響くというひとも多くいらっしゃることでしょう。なんなら円城氏自身も熱い文章を寄せてますよね

 でもその熱い文章とは裏腹に、憤懣やるかたない気持ちでぼくは映画館をあとにしました。

 

 科学者の読む、SF作家の書く「恐怖新聞」のおかしみ;「恐怖新聞」読書コラム

 そんなわけで円城氏の味ゼロのゴジラらしいゴジラが出てくる可能性も否めません。

 じゃあ、もしゴジラ自体をいじれなかった場合(と書いているけど。『コロナ禍日記』の記述から察するに、序盤から四次元立方体が回転する作品らしいんですが……そこについては詳しくは別項で。)ゴジラS.P』がどんな具合になるだろうか?

 参考になりそうなのが、書で離婚を考えた。』の一エピソードです。

 つのだじろう氏による言わずと知れた傑作ホラー漫画怖新聞』。この1巻を読んだ円城氏が語る第24回「怖新聞通信」は、「……と、いったあたりが、科学者が思考する方向ではないかなあ、と思ったりです。」*21といった記述のあるコラムで、この科学者畑の作家さんの想像力が端的に示されています。

ⅰ)恐怖新聞を読むと、一回ごとに百日寿命が縮む(らしい)。

ⅱ)恐怖新聞が見える人と見えない人がいる。

ⅲ)恐怖新聞は毎回、窓ガラスを突き破って届けられるわけではない。

ⅳ)場所にではなく、特定の人物のところに届く(修学旅行先などにも届く)。

   幻冬舎刊(幻冬舎単行本)、円城塔田辺青蛙著『読書で離婚を考えた。』kindle版60%(位置No.333中 200)紙の印字でp.195、「恐怖新聞通信」より

  恐怖新聞の特徴を4つに分類した円城氏はそれを一つ一つさらに検討していきます。

 いわゆる心霊現象が科学的に捉えることが困難なのは再現性にとぼしいからで、繰り返し発生する恐怖新聞は研究しやすい。そう考えた氏は、なので……

 これはもう、迷わず実験に取り組むべきで、たとえば鬼形君を、カミオカンデに放り込んでみるとかですね、あるいは宇宙に打ち上げてみる、などでもよいです。もしかすると、この恐怖新聞現象が科学的に解明されて、新たな力が見出されて、素晴らしい性質が解明されて、新たな力が見出されて、素晴らしい性質が見つかったりするかも知れません。

   幻冬舎刊(幻冬舎単行本)、円城塔田辺青蛙著『読書で離婚を考えた。』kindle版61%(位置No.333中 202)紙の印字でp.197、「恐怖新聞通信」より(太字強調は引用者による)

 ……と、提案します。そうして何が発見されうるか?

 そうですね、どれだけの距離でも瞬時に情報を伝達する性質とか。たいしたことに聞こえないかも知れないですが、これはまあ、ごく素朴に考えて、超光速通信なわけです。

    幻冬舎刊(幻冬舎単行本)、円城塔田辺青蛙著『読書で離婚を考えた。』kindle版61%(位置No.333中 202)紙の印字でp.197、「恐怖新聞通信」より(太字強調は引用者による)

 円城氏が想像をさらに進めたさきに見る、恐怖新聞最終巻でえがかれるだろう光景

 この記事でそれを明かすことはしませんが、それはそれは途方もない、空恐ろしく面白おかしい世界がひろがっています。興味がおありのかたはこちらもあわせてご照覧ください。

{円城氏の『恐怖新聞』想像が面白かったかたは、円城氏の他の書評説案を5つ』(マーク・チャンギジー『ヒトの目、驚異の進化――視覚革命が文明を生んだ』の書評。評はnoteのHayakawa Books & Magazines(β)で無料公開中)、円城氏の実作『文字渦』字」などもお楽しみいただけることでしょう}

 

 何気なく「そういうもの」として読み流す部分にも面白おかしみを見出しうる円城氏。では氏が向き合うこととなるゴジラってそもそもどんなものなんでしょうか?

そもそも怪獣モノって妙ちくりんだ;『発光妖精とモスラ』を例に 

世の中には解けない謎が多くある。もっともそのほとんどは、考え続けていくうちにだんだん小さくなっていく。しかしここにごくごくまれに、考えれば考えるほど増え続けていく謎があり、たとえばそれはゴジラと呼ばれる。ここ数年、なんとかそれを抑え込もうとしてきたが、手記はここで途切れている。

   『ゴジラS.P』公式サイト「キャスト&スタッフ」円城塔氏のコメントより

 製作発表における円城氏のコメントに震えてしまうのは、『ゴジラS.P』は現在に至るまでのゴジラや怪獣周りの複雑怪奇きわまる胡乱なアレコレにがっぷり四つでむきあう複雑怪奇な作品になってしまうのか? と思える点もあるからでしょう。

 

 ここまで円城氏や氏の創作のへんてこさ(や対象に向き合ったことでへんてこさを露にする手つき)ばかり取り上げてきましたが、怪獣映画・怪奇小説ファンの諸姉諸兄のなかには「いやいや(笑)」と後方腕組みプロデューサー顔でほほえましくお聞きいただいたかたもいらっしゃることでしょう。

 そっすよねぇ。

 べつにいまからなにかを足さなくても、怪獣って妙ちくりんなんスよね。

 その時々の人類の恐怖や心性が盛り込まれた、世界精神型の存在みたいなところもあるし、作家主義的な読み込みがなされたりするような偏りもあったりする。

 

 ゴジラはいわずもがな。

唯一つ我々の制作意慾をかりたてたものは原爆を知りその写真を見た事により水爆のような驚怖をもったものとして心像化する事が出来たと云う事であり、その様な怪獣が今東京へ現われたら一体どういう事になるだろう。この驚怖の原点に立った映画は出来るし作るべきだと云う一点であった。

   本多猪四郎ゴジラの想い出」(小学館刊、円谷一編著『円谷英二 日本映画界に残した遺産』p.67)

 その生まれからして、原爆の驚怖やビキニ環礁の水爆実験・第五福竜丸という当世の時事問題を参照しているやら、太古の生物が水爆で目覚めたやら、人類史の象徴やら*22

 かと思えばのちの作品では水爆で(目覚めただけでなく)突然変異したやら、太平洋戦争で死した人々の怨念の集合体(『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』*23やら、はたまた東日本大震災とそこから波及した福島原発事故を参照しているやら(『シン・ゴジラ*24「ご神木」だとか(『GODZILLA怪獣惑星』)すべての可能な情念が充填されうるのではないかと思えてしまう特異な存在ですし。

 

 そのほかの怪獣にしても、ヘドラが70年代の公害を*25ビオランテがバイオテクノロジーを……とさまざまな時代の刻印がフンニャカホンニャカしています。

 冷戦と宇宙開発華やかなりし60年代、ガガーリンが初の地球一周をした3年後に公開されたキングギドラは金星からの宇宙怪獣で、21世紀ではこの世界の法則がいっさい通用しない、物理の系そのものがちがう次元からおわす特異点より更に異常な質量の異次元体トカナントカで、

「油ギドギドのオタクどもの"漏れの考えた最強の怪獣"妄想にはついてけないっすわ……。やっぱ子供たちの友達モスラや!」

 とモスラを見れば……

  ……そもそもの原作光妖精とモスラからして、冷戦や当時の日本の臭いがだいぶあり、それとは別種の妙ちくりんが盛り込まれています。

 モスラは日本と馴染み深いカイコガと結びつけられ、モスラが眠る南洋の島インファントの不思議な存在・小美人は平和主義的だが、だからこそ水爆実験をする大国ロシリカ(映画版はロリシカ国。ロシアとアメリカの合体名だろうもので、都市部はニューヨークを思わせる)の興行師ネルソンにいいように食い物にされてしまう。

 ネルソンの見世物劇場で歌いつづける小美人。そこでなにかいつもと異なる不思議な歌が唱えられた。小美人が心配で観劇にきた言語学者の中条は偶然その歌を聴き、その歌が頭にこびりついて離れられなくなる。

 東京の大衆は熱狂・連日劇場を満席で埋めるが、いっぽう若者たちの心境は異なり、学生デモを起こし「ゴーホーム・ネルソン!」を訴えたりする(――小野俊太郎さんは『モスラの精神史』で今作を論じたさい、このくだりに将来「ベトナムに平和を! 市民連合」発起を呼びかける堀田氏の萌芽をみます)。中条はネルソンに直訴し、さらに小美人のモスラ呼び寄せを輪唱、ついにモスラを日本本土に招き入れる。

 モスラは鎌倉から上陸し鎌倉大仏をつぶそうかというところで小美人の平和主義がまさって一旦来た道を引き返すが、しかし小美人の虜囚の日々はつづき、自由を求める彼女らの歌はまた始まり、モスラは国道に沿って進んで国会議事堂で繭をつくり、軍隊による熱線放射をむしろ成長の糧にして成虫へ変わり飛翔、ロシリカ国の摩天楼に鱗粉をまき放射能を吐き廃墟と変える……と、なかなかすごい事態となります。

 

 異形をとおざけるためにやったこと(島の吸血植物に襲われたのでサイレンを鳴らしたこと)が、偶然にも摩訶不思議な事態を引き起こし、この――一度しか、そして自分しか遭遇していないうえに、その内容も同郷人から正気を疑われるような――異常事態から法則を見出して(音に小美人が呼び寄せられたと仮説を立て、検証する)意図的に再現できる条理とし、そこからさらに神秘の島インファントの言葉を解読していくことで、異形をまねきいれる呪文を自身も輪唱するに至る言語学者という存在も『ゴジラS.P』用にマーカーを引きたいところですが、特筆したいのは幕引きです。

 事態はモスラが去ることで収拾がつくのですが、モスラが向かった先はなんと別の宇宙――反世界。そして「世界平和のためにインファント島はワイらだけの秘密や!」との旨を中村真一郎福永武彦堀田善衛さんという日本を代表する文学者御三方)作者3人が物語に唐突に顔を出し連名で宣言したりするんスわ。

 インファント島付近へ出ていた船の報告によると、モスラはたしかに到着した。が到着してしばらく後に、ふたたびどこかへ飛び去ったという。さらにその後しばらくして、国連管理の人工衛星IG4・スペースパーキング号が、彼が宇宙空間をまっしぐらに進行し、アンドロメダ星雲をかすめて、別の宇宙、反宇宙へと突入していくのを確認した。(略)

 いつの日かまた小国インファント島の平和が侵されたとき、反世界からふたたびモスラがもどってこないとも限らない。だから人々はインファント島がどこにあるのかなどとさがしてはならないのである。そんな島がいったいあったのか、などと論じてもいけなのである。モスラが来る! このことを、中村真一郎福永武彦堀田善衛の三人は共同謀議によりここに連名で厳粛に宣言する

   中村真一郎福永武彦堀田善衛「発光妖精とモスラ」【下】モスラついに東京湾に入る(堀田善衛){河出書房新社刊、東雅夫編『怪獣文学大全』p.106~107より。(略・太字強調は引用者によるが、「論じてもいけなのである」は原文ママ)}

 円城氏が書きそう!

 およそポスドクなるものの給与は,事前に知れることがほとんどない.学進並,規定に従う,あたりの文言をどう読むのかが問題となる.学進並という文言が,健康保険や年金,雇用保険をどう含むのかの差は意外に大きい.流石に教授や准教授の前に特任と付く種類の体のよいポスドクに関してはこの問題は発生しないのだろうが,現在国民健康保険がいかほどのものであるのか知っている教授や准教授というものにはお目にかかったことがない.

 給与などというものは正規に問い合わせれば良いではないかという意見は正気であるが,世には予算案というものが存在する.通過を待たねば決まらない,プロジェクトの評価がおりねば決まらないという事態はありふれている.(略)

 プロジェクトの成果が出なかったので,資金が減る.ついてはポスドクの給与から補填することとする.個別に交渉を行い,結果についてはポスドク相互の参照を禁ずるという極端な嫌がらせが行われた事例もある.

 雇用期間を半期ずつに分割し,雇用形態を変えるという技も経費削減には有効である.後期は前期に比べて少し減りますとの事前通告があり後期を迎え,二十五万のものが十五万になったという事例もある.四十%を少しと呼ぶのは大胆な日本語の用法である.

   日本物理学会刊、『日本物理学会誌』2008年63巻7号円城塔ポスドクからポスドクへ」(略は引用者による)

(略)不思議としか言いようのない給与体系の罠に落ち込んで,健康保険を支払えずにずっと咳をし続けているポスドクに,

「君は何故病院に行かないんだ」

と素朴な疑問を尋ねてみたり,一年中同じ服を着ているポスドクに,

「何にそんな金を使っているのだ.君は服を買いすぎなのじゃないのか」

と能天気な質問を投げることはおそらくやめておいた方がよい.

 人の心は多分そんなに頑丈にはできていない.

   日本物理学会刊、『日本物理学会誌』2008年63巻7号円城塔ポスドクからポスドクへ」(略は引用者による)

 スドクからポスドクへ」という『日本物理学会誌』に掲載された文筆で、「まさか物書きに嘘を書くなとは言われぬだろうから,以下の全ては嘘である.」と前置きしたうえで円城氏はさまざまな現代ポスドク事情を述べたあと、こんな宣言をしたりしています。

「人類への知的貢献は何よりも重い」

 美しい言葉だと思う.支えにしている方もいるのではないかと思う.命あっての物種だと答えるのはあんまりなので,代替案を掲げさせて頂く.

「私は人類に敵対する」

 あなたがたが今その身の裡に抱えているのはそんな種類の二万人だ.

   日本物理学会刊、『日本物理学会誌』2008年63巻7号円城塔ポスドクからポスドクへ」(太字強調は引用者による)

 

 たとえやりたい放題やろうとしても、すでに先人たちが足跡をつけてあった……というようなことが多々ありそうな、器の大きさが怪獣にはあります。

 怪獣という存在を、ありのまま正しくとらえようとするだけで、それだけでもう複雑怪奇で胡乱な領域に踏み入らざるを得ない……そんな途方もない豊かさが怪獣にはすでにあります。

 そうした部分に向き合う作家として、円城氏はかなり良い人選におもえます。

現状わかってる『ゴジラS.P』;序盤に四次元立方体が右から左へ逆回転、中盤までに演算が必要な複雑な軌道のビームが出る

 円城氏がえがくゴジラとは?

 ごにゃごにゃblogを書いてるあいだに製作はどんどん進み、公式サイトで序盤のあらすじが公開されるような時分までもう来ました。それを確認するのがいちばん早いし確実です。

 また『コロナ禍日記』からもいくつか展開が察せられます。なんでも……

諸般の事情により、4次元立方体を回転させて、左巻きと右巻きを入れ替えるというアニメーションをつくり直す。

   「散木記(抄)円城塔[日本・大阪 2020年3月某日~5月21日]」、3月30日(月)の記述より。{タバブックス刊、『コロナ禍日記』kindle版18%(位置No.5951中 1062)}

 ……序盤で四次元立方体が右回りから左回りするらしく。そして中盤あたりまでには……

「1列に並ぶ円柱に、斜め方向からビームが入射し、角方向へ同心円状に歪みを生じさせた跡」を、斜め方向から正面に移動しつつ見る

   「散木記(抄)円城塔[日本・大阪 2020年3月某日~5月21日]」、4月16日(木)の記述より。{タバブックス刊、『コロナ禍日記』kindle版18%(位置No.5951中 1062)}

 ……というショットが登場するらしい。

 また、2020年12月22日ゲンロンSF講座用の資料のひとつ「設定を考える」として、SF(小説)の設定をどこまで考えればよいかの一例として円城氏はゴジラのお約束を取り上げています。

小説なので
限界はある。僕はあると思うんですよ。

(SF)小説なので
どっかに必ず嘘はある。
なので、読み手に嘘は嘘として流す、ということにしてもらえるかどうか。

(略)

小説として面白ければよい
アニメでいう、印象的なシーン
 ・ゴジラの背ビレはなぜ光るか
  ・チェレンコフ放射がいろいろでさ
  ・うるせえ、光るんだよ
 ・ゴジラはなぜビームを吐くのか
  ・BECによる分子ビーム
  ・うるせえ、吐くんだよ

映画でいう、テンポ
 ・要請から航空支援到達までがはやすぎるのではないか
  ・うるせえ、航空支援はすぐくるんだよ
ってことですよ。

   scrapbox円城塔『設定を考える』

 これだけ読むとアレですが、19年版の「小説の手管/例:設定」「例:でかいものを雑に入れない」では、突き詰められるところは突き詰めておこう、作中における妥当性は確保しておこうというお話がなされていますし。

 前述『恐怖新聞通信』でみせた思索や、この記事の『屍者の帝国』や『文字渦』にかんする脱線話でそれぞれ記したとおり、ファンタジックな展開をやるさいには現実と幻想の境界線まできちんと進んだうえでやるかただ、現実をつきつめてその限界にあるヘンテコさを了解させたうえでそちらへ飛ぶ作品を書くかただという印象がぼくにはあります。

 だから『ゴジラS.P』においてはむしろ、取り消し線の引かれた部分こそがだいじなのではないかとぼくは思います。

 

変貌する円城塔;書評・コラム・読了本から妄想する『ゴジラS.P』

 円城氏らしい味が増し増しの新機軸のゴジラか?

 円城氏がとらえるゴジラらしいゴジラか?

 どちらに転んでも『ゴジラS.P』は面白そうですが、それでもなお、ぼくは作品を観るのがおそろしくてたまりません。

 なぜか?

 (前提)『ゴジラS.P』は、静野&瀬下監督『GODZILLA』制作中から企画スタート

 『ゴジラフェスティバル2020』のトークイベントによれば、『ゴジラS.P』の企画がスタートしたのは、2017年11月から順次公開された静野&瀬下監督によるアニメ映画『GODZILLA』シリーズ製作中のことだったと云います。

 ということはつまり3~4年の製作期間ということ。想像どおりの製作期間でしたね。

 日本の『ゴジラ』といえば最近だと、くだんのアニメ映画版GODZILLA』シリーズがあるほか、2016年7月に公開され好評を博したン・ゴジラの2シリーズがあります。

 『シン・ゴジラ』の美術本・アート・オブ・シン・ゴジラによれば、総監督・脚本の庵野秀明さんに東宝の市川南取締役から打診があったのが2013年1月21日*26そして第一回企画会議が開かれたのが同年6月5日のこと*27で、監督脚本に打診⇒完成版公開まで3年半。

 静野&瀬下監督GODZILLA3部作の場合は瀬下監督が17年11月のインタビューで「3年以上前にお話を伺った」18年11月の完結記念インタビューで「企画段階からおよそ4年余りもかかった」と言っていて、脚本をつとめた虚淵玄氏は2014年に打診を受け、制作発表された2016年8月までに脱稿されました(んで前述のとおり第一作が17年11月公開だから)監督・脚本に打診⇒完成版公開まで3年余くらい。

 

 17年末からの円城氏の書評・読了本をふりかえる

このところずーっとやってるアニメーションのタイトルは本日解禁予定だったが、延期とのこと。それにしてもほんとに10月に放映できるのか。

そうしていつ、関わっていることを公言できるようになるのか。

   「散木記(抄)円城塔[日本・大阪 2020年3月某日~5月21日]」、4月10日(金)の記述より。{タバブックス刊、『コロナ禍日記』kindle版18%(位置No.5951中 1043)}

 2020年10月放送予定だったらしい『ゴジラS.P』に近年の邦画ゴジラの製作期間をあてはめれば、2017中ごろ~2018年初頭。

 そのへんから雑に邪推すると、たぶん⓪静野&瀬下監督版『GODZILLA』の第一作が公開された17年11月前後で監督筋に打診があって、①年内に円城氏へも話がいき、②本腰を入れて製作(脚本執筆)に入られたのが18年3月あたりだったのかな~と思います。

(0323追記;打診はもう少し早そう。

――『ゴジラS.P<シンギュラ・ポイント>』を監督することになったきっかけから教えていただけますか。

高橋 ちょうど『ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』(17年)が終わったころ、東宝ボンズから声がかかりました。

   双葉社刊、『映画秘宝 5月号』(21年3月19日発売)p.3、編集部小澤涼子氏による、高橋敦史監督へのインタビュー記事より

4/23追記;円城氏への打診ももっと早かったようだ。

円城:
メタファーを背負った生物でありつつ神話的な生き物でもあるところにどう折り合いをつけるか、なかなか難しかったです。ずっとそういうことばっかりやっていました。

G:
それはもう、毎週のようにですか?

円城:
2週に1回ぐらいですね。それこそ、アニメ映画の『GODZILLA』3部作の第1部が公開される前からやっていましたね。

   GIGAZINE『「ゴジラS.P<シンギュラポイント>」シリーズ構成・円城塔インタビュー、ゴジラ初の13話構成をいかに作っていったのか?』 

 ①の根拠は、円城氏がつぶやいた、『ゴジラS.P』を指すであろうエンタメ作品の仕事にかんする19年6月7日(「3年くらいかかる」ひとつの仕事)8月5日(「3年くらいやって」いる今の仕事)のツイートです。

(4/23追記;この記事では「3年くらいかかる」「3年くらいやって」を最大限みじかく、四捨五入して3年となるスパンで考えていましたが、上述『GIGAZINE』インタビュー記事からすると、字義どおり「17年6月7日以降8月5日以前のどこかから監督・円城氏・ボンズ・オレンジさんの会議がなされていった」と捉えたほうがよさそうです)

 ②の根拠は二点あって、まず脚本執筆の実作業についての呟かれているのがこの時期だという点3月6日15日

 もう一点は、読書メーターを確認すると円城氏は、この時期からゴジラや怪獣関連・『ゴジラS.P』一部シーンのネタとなる本をよく読むようになっている/キャラクター原案をつとめる加藤和恵さんの漫画『青の祓魔師』1,2巻も読んでいる点が挙げられます。

 2018年1月24日に(『シン・ゴジラ』に影響を与えたのではないか? と噂される怪獣漫画)『神の獣』を読み、2月5日に『KAIJU黙示録』(17年9月刊)を読み。倉谷滋さんによるゴジラ幻論』の読了日(再読日)が18年2月21日で、その前後に氏の他著も読了されています(『分節幻想』が同日、『形態学 形づくりにみる動物進化のシナリオ』『個体発生は進化をくりかえすのか』が2月20日

 予告第一弾でお目見えした「古史羅」図の元ネタである、国芳『讃岐院眷属をして為朝をすくふ図』を紹介している辻惟雄さんによる『奇想の系譜』読了日が2月16日。3月29日に『巨大翼竜は飛べたのか』を読みます。

 4月6日に『シン・ゴジラ政府・自衛隊 事態対処研究』(17年3月刊)を読み{この前後の読了本は『会議の政治学』(06年刊)、『官房長官 側近の政治学』(14年刊)、石動『安全保障入門』(16年8月刊)}(この時期に『ゴジラS.P』キャラクター原案をつとめる加藤和恵さんの漫画『青の祓魔師』1,2巻もを読んでいます。

 ツイートや『コロナ禍日記』の記述から2017年末から2019年8月ごろあたりまではギュラゴジ脚本作業が行われていたとみて良い気がします。2020年4月になっても最終話の大落ちがどうなるか揺れていたという記述もありますが、裏をかえせばラスト前までの大部はさすがに固まっているということでもあります。

 

 この記事内でもちらほら書いたとおり、円城氏の読了本の内容は氏の創作物へ反映されることもいくらかある。

 円城氏のそのあたりの期間の読書歴を詳しくひもとけば、『ゴジラS.P』がどんなものになるのか、少なくとも一つの指針となりそうです。1日1冊ペースでさまざま読まれているなかから、それっぽいものをピックアップしていきましょう。

 

  科学や社会政策における極地の知見が活かされそう

世の中には解けない謎が多くある。もっともそのほとんどは、考え続けていくうちにだんだん小さくなっていく。しかしここにごくごくまれに、考えれば考えるほど増え続けていく謎があり、たとえばそれはゴジラと呼ばれる。ここ数年、なんとかそれを抑え込もうとしてきたが、手記はここで途切れている。

   『ゴジラS.P』公式サイト「キャスト&スタッフ」円城塔氏のコメントより

 製作発表における円城氏のコメントに震えてしまうのは、ゴジラS.P』は科学の最新の動静を追うのではないか? と思えてならないからという点もあるでしょう。

 たとえば分子生物学

その後の分子生物学の発展は目覚ましく、今では手軽にDNAを操作できるようになってきた。多くのことが判明し、そうして多くの謎が増え続けている

   円城塔著『書籍化まで□光年』「「発生」をめぐる学問の歴史」(本の雑誌社刊、『本の雑誌』2018年6月「手長エビ混線号」p.118)太字強調は引用者による

  あるいは進化発生生物学

 二十世紀後半の分子生物学の隆盛以降、一時期影の薄くなった形態学だが、分子レベルの研究が進んだ結果、進化発生生物学という形で研究の最前線に躍り出ている

 現代の生物学における生き物は、種として進化を経たものであり、個体として発生、成長したものであり、その背後には分子の働きがある。

 つまり、そこに生き物がいるならば、その生き物には進化上の先祖がいて、個体としての親がいるはずであり、物理法則にしたがって活動しているはずである。

 これが、生き物はそのあたりから湧いてでてくると考えられた古代と現代の違いであり、現代人たる我々は、街中で怪獣を見かけた場合、こいつの進化上の先祖はなんなのか、と考えることになるわけである。

 怪獣はフィクションだからそんなことを真面目に考える必要はないとしてしまうのはフィクションを甘く見ると同時に科学の力を過小評価しているところがあって、科学的な検討に耐えうるフィクション、フィクションを検討できる科学こそが本物なのではないか。

   円城塔『「ゴジラ幻論」書評 フィクションが導く科学の世界』朝日新聞2017年3月19日掲載)太字強調は引用者による

  理化学研究所の倉谷形態進化研究室の主任研究員であり、怪獣映画マニアである倉谷滋さんによるジラ幻論』を読んだ円城氏は、「同著者による『新版・動物進化形態学』『分節幻想』といった強面(こわもて)の専門書への手がかりにもなるはずである」と書評をしめくくります。

 では、円城氏が節幻想』をどう読んだかと言えば……

 いっときは、DNAの仕組みがわかれば、生物の仕組みはわかるのだ、という主張がはやった。どうもことはそう単純ではなく、生物の「発生」や成長をおいかけるだけでも、新事実が次々と現れ、巨大な研究分野に成長している。ということで冒頭の進化発生生物学へ戻る。

 さてしかし、人間は「進化」というものに気づく以前から、「発生」について考えていた。分子生物学のない状態で、解剖学的、形態学的知見から、その仕組みを解き明かそうと挑戦していた。

 生物はどうやってこの形になったのか。様々な生物がいる中で、共通の仕組みがあるように思えるのはなぜか。たとえば脊椎動物は、背骨に顕著に見られるような、ユニット(分節)の繰り返し構造を持つ。その背後にある設計図はなんであるのか。

 今から見れば基本的な概念が欠けた状態で組み上げられた体系は、幻想的な趣を帯びることになる。かといって、基礎が理解されつくすことなどない訳だから、現在考えられている生物学というものもまた未来から見れば、幻想の生物学ということになるのではないか

 著者の視点はそうして、生物学や形態学の土台に及ぶことになる。

   円城塔著『書籍化まで□光年』「「発生」をめぐる学問の歴史」(本の雑誌社刊、『本の雑誌』2018年6月「手長エビ混線号」p.118)太字強調は引用者による

 

「昔、文字は本当に生きていたのじゃないかと思わないかい」

   新潮社刊(新潮文庫)、円城塔著『文字渦』kindle版28%(位置No.5235中 1422)、「梅枝」より

 そんな印象的なセリフが裏表紙の説明につかわれる最新長編字渦』には、文字や言語の生死にまつわるさまざまなトピックがあふれんばかりに詰め込まれています。

 文字どおり文字が生まれ子を産み親戚ができ子孫がひろがり進化したりする……そんな文字の生態系の考察がなされたり。文字の生息域のプロファイルがなされたりする作品。

「いっそファンタジーのみで勝手に漢字を読めばどうか」

 『文字渦』の執筆動機について、円城氏はそう言います。

 なるほど『文字渦』に登場する奇天烈な文字たちを見ていけばたしかにファンタジーです。専門の機械がなければ判別できない、ごくごく小さな微文字だとか。冥王星の周回軌道上でぽつりとたたずむ、地球から最も遠く離れた文字だとか、『文字渦』にはそんな妙ちくりんな文字が多数でてくる。

 もっとも夢のある挿話の一つとして、こんなものも劇中あります。

微化石としての文字の歴史を整理しておく。かつて熱球として生まれた地球が、適度な所まで冷えたところで、まず最初の文字が生じた。(略)以前は原始の大気を引き裂く雷がこれらの文字を作ったともされたものだが、現代では否定されている。原始の大気はどうやら、今我々が泳ぐ大気とは大きく性質の違うものだったらしい。最初の文字がどこで生まれたのかにはいくつかの候補が挙げられていて、遠浅の海辺であるとか、泥土の中、海底の熱水噴出孔などが有力視されている。もっとも夢のあるものとしては、初期地球の形成時、火星から飛来した成分がその核になったとも言われはじめているが、本層学者たちの間では人気がない。

   新潮社刊(新潮文庫)、円城塔著『文字渦』kindle版40%(位置No.5235中 2052)、「微字」より(略・太字強調は引用者による)

 ただこれ、引用文の「文字」を「生命」に置き換えれば、たんに現実の話をしているだけだという風に思えもしてしまいます。

 色々な火星探査車からもたらされた膨大な新データを読み解くと、昔の火星には複数の大きな湖と小さな海があり、北極盆地にはかつて太陽が広がっていたと見られる。また、地球に比べて酸化還元勾配が大きかったことを示す証拠もある。これは、生命がエネルギーを得るうえで重要な要素だ。火星深部のマントルは非常に還元的であるため、メタンや水素(H2)など、生命に必要な炭素含有化合物を前生物的に合成するためのガスも存在していたはずである。つまり原材料は揃っていた。こうしたことから、四〇億年あまり前の火星には生命が誕生しており、しかもその生命が隕石に載って地球にやって来たと考える研究者がいる。著者ら二人もそうだ。

   河出書房新社刊、ピーター・ウォード&ジョゼフ・カーシュヴィンク著『生物はなぜ誕生したのか:生命の起源と進化の最新科学』kindle版16%(位置No.7488中 1146)、「第4章 生命はどこでどのように生まれたのか――四二億(?)年前~三五億年前」より(太字強調は引用者による)

 ワシントン大学の生物学教授ピーター・ウォード氏と「スノーボール・アース」仮説の提唱者であるカリフォルニア工科大学の地球生物学教授ジョセフ・カーシュヴィング氏は共著物はなぜ誕生したのか』(円城氏『本の雑誌2017年3月「新玉ねぎ春雷号』書評作)でそう唱えます。

 雷が云々はユーリー-ミラーの実験{『生命40億年全史』(円城塔13年12月07日読了本)のほうが詳しいからそちらから引くと}……

 生命の素を生み出す大釜の中身が実際にはじめて調合されたのは、一九五〇年代初期、S・L・ミラーとH・C・ユーリーが行なった一連の火花放電実験によってだった。(略)その混合気体中で、稲妻のかわりに放電すると、さまざまな有機化合物が生成された(略)生命は、思いがけず単純な方法でつくりだせるのかもしれない。卵と小麦粉という何の変哲もない材料からスフレという摩訶不思議な料理ができるように、放電が生命を吹き込む力としてはたらき、平凡なものを複雑なものに変え、炭素と水と窒素をしかるべき順序で結合させて生体の構成分子をつくりだしたのだ。メアリー・シェリーがフランケンシュタイン男爵の人造人間に生命を吹きこむにあたって稲妻を利用することを思いついて以来、天からもたらされた自然界の火がこれほど創造的な役割をとりもどしたことはなかった。

   草思社刊(草思社文庫)、リチャード・フォーティ著『生命40億年全史 上』kindle版21%(位置No.3980中 812)、「第2章 塵から生命へ」原始スープと生命のつくり方より(略・太字強調は引用者による)

 ……『生物はなぜ誕生したか』では、その難しさが解説されたのち……

 このため一九五〇年代~六〇年代頃までは、メタンとアンモニアの大気に水とエネルギーが加わりさえすれば、生命の材料であるアミノ酸がごく普通に合成できたはずだと信じられていた(15)。(略)最も好都合に思えたのが、悪臭を放つ浅い池か、遠浅で温かい海のの波打ち際にできた潮溜りである。そうすれば原始スープに有機分子が満ち溢れ、あとはフランケンシュタイン博士が現れるのを待つばかり、というわけだ。

 現在、初期の地球環境を研究している科学者には、この説を疑問視する向きが多い。生物の形成に必要な有機化合物は複雑であるうえ、溶液が高温になれば簡単に分解する。しかも、この原始スープが平衡状態に陥らないようにしておかねばならず、そのためには膨大な量のエネルギーがいる。

   河出書房新社刊、ピーター・ウォード&ジョゼフ・カーシュヴィンク著『生物はなぜ誕生したのか』kindle版13%(位置No.7488中 955)、「第4章 生命はどこでどのように生まれたのか――四二億(?)年前~三五億年前」ダーウィンの池より(略・太字強調は引用者による)

 ……その後にでた生命誕生にかんする有力な研究が概観されています。

 一九八〇年代の初めに新たな可能性が開ける。先にも触れた潜水探査艇アルビンによる発見を受けて、海洋学者のジョン・バロス(現在はワシントン大学)が地球の生命は海底の熱水噴出孔で生まれたと主張したのだ(16)。新しい分子技術で噴出孔付近の微生物を分類したところ、その見解を裏づけるデータが得られた。DNA解析から明らかになったのは、その微生物が最初の数十億年を非常に高温の水の中で暮らしたか、 または低温の場所で生まれたあとで何らかの高エネルギーなプロセスにより、生命を脅かすほどの熱にさらされたかのどちらかだということである。

   河出書房新社刊、ピーター・ウォード&ジョゼフ・カーシュヴィンク著『生物はなぜ誕生したのか』kindle版14%(位置No.7488中 966)、「第4章 生命はどこでどのように生まれたのか――四二億(?)年前~三五億年前」ダーウィンの池より(太字強調は引用者による)

 円城氏はファンタジー(と自身が言う代物)においてさえ、(『ゴジラ幻論』書評で言ったような)科学的な検討に耐えうるような本物のつくりものを展開しています。ギュラゴジだってこのラインを超えてこようとすることでしょう。

 

 製作発表における円城氏のコメントに震えてしまうのは、ゴジラS.P』は社会の最新の動静を追うのではないか? と思えてならないからという点もあるでしょう。

 たとえばの価値: 規制国家に人間味を』などで実務の具体がじしんの口から明かされた、オバマ政権下で情報規制問題局の局長として仕事をしたキャス・サンスティーン氏の知見。

ここで政府が扱おうとしているのは、十万分の一の確率で致死的な影響を及ぼす要因を解消するのに、幾ら予算をかけることができるかといった話題である。十万分の一の話など気にしなくともと考えたくなるのは、認知的な偏りのせいであり、これは一億人に対して千人の話であって無視してもらっては困るのである。

 数千万から数億人の人間に影響を与える政策を正確に見通せる者などいない。誰にも見通せない以上、誰かの直観を信じても同じことなのか、直観という偏りを排するほうへ進むべきなのか

 行動経済学は少なくとも、一つの指針を与えつつある。

   円城塔著『書籍化までx光年』「行動経済学で見る“命の価値”」(本の雑誌社刊、『本の雑誌』2019年3月「流れ雲ビーフン号」p.118)太字強調は引用者による

 理路を積み重ねても――というか積み重ねたからこそ――現れざるをえない、複雑怪奇な領域。

 『ゴジラS.P』はきっとそこへ踏み入れるでしょう。

 

 そんな風に書くと、無味乾燥な殺伐とした世界に思えるかもしれませんが、多分に過分に人間ドラマが描かれることだろうと思います。

 そうした極地でこそ、人間という生き物の偏りがあらわにならざるを得ないからです。

 僕は、科学は変わり続けることと、科学者だからって正しいことを言っていると思うなよ、の二点に重点を置きました。過剰に正しいと思われているじゃないですか。広告のコピーで、「科学的に証明された!」とか。

   科学書だからって正しいと思うなよ!=円城塔vs山本貴光」(本の雑誌社刊、『本の雑誌』2018年12月号「カレー蕎麦ダブル始号」p.13、第3段7~14行目)

 円城氏は『本の雑誌』の企画で選書したさい、過剰に正しいと思われがちな科学の私的な偏りを指摘します。2020年ノーベル物理学賞を受賞した話題の科学者ロジャー・ペンローズ氏の論考の一部についても、ばっさりとこう言います。

僕のリストには、すでに間違っていることが指摘されている本も入っています。『皇帝の新しい心』ペンローズは大変優れた数学者兼物理学者ですが、人間の心はコンピュータじゃない、量子コンピュータだ! それを解決するのは量子重力理論だ!と言いだし、みんなに違うんじゃないかと指摘されている。

(略)でもそういう偏りがないと発想はできないんだろうと思います。発想の偏りをおもしろがって、使えそうなところを採るというのが科学の成り立ちにおいては大事なんです。

   科学書だからって正しいと思うなよ!=円城塔vs山本貴光」(本の雑誌社刊、『本の雑誌』2018年12月号「カレー蕎麦ダブル始号」p.13、第3段15~下段10行目)

 円城氏は関心をむけるのは、理論の極致や偉人のとんでもない発想だけではありません。

効率なりなんなりの前提を受け入れれば、数理的な解が得られることはままあるが、それはあくまで解にすぎない。

   円城塔著『書籍化まで□光年』、「物から読み解く政治思想」(本の雑誌社刊、『本の雑誌』2018年2月号「雪あかりイカ巻号」p.118、中段14~16行目)

 ふだん私たちが何気なく過ごしている背景ににじむ、人の残した偏りを氏は面白がります。原武史さんの著書『日本政治思想史』にかんする円城氏の評をみてみましょう。

 人に歴史ありという伝で、物にもまた歴史がある。緻密な観察により、物は歴史を語りだす――というのはわかりやすい。

 鉄道や団地、小説などを手がかりに、日本の政治思想を読み解いていく本書は、それに加えて、物に政治ありという視点を与えてくれて、街歩きなどにも革新をもたらすはずだ。

 見慣れて当たり前になっている光景に、実は違和感を感じていると気がつくことは難しい。でも気がつくとそれからは、はっきりと見えて消えてくれない。

   円城塔著『書籍化まで□光年』、「物から読み解く政治思想」(本の雑誌社刊、『本の雑誌』2018年2月号「雪あかりイカ巻号」p.118、最下段12~23行目)

 おそらく円城氏はきっとそこを歩いていくでしょう。

 

  給水塔が出そう;物に宿る歴史・政治史・者の記憶への近年の関心

 13年公開のハリウッド映画シフィック・リム』大絶賛した円城氏は、唯一こんな不満をもらします。

 唯一、「怪獣が大きな塔を壊す」シーンがなかったのが残念なのだが、これは9・11以降の自主規制によるものだという噂をきいた。

   産経WEST2013年8月30日掲載、【円城塔のぶらりぽろり旅】『カイジュー映画、日本襲来』より(太字強調は引用者による)

 読書メーターを確認すると円城氏は、2017年の1月に橋爪ニッポンの塔 タワーの都市建築史』(17年01月04日読了)を読み、同年2月にコマヤスカン『DX版 新幹線のたび ~はやぶさ・のぞみ・さくらで日本縦断』『新幹線のたび ~金沢から新函館北斗、札幌へ』を読み*28、同年10月25日に『GODZILLA 怪獣黙示録』(17年10月刊)を読み、17年12月08日に『生態学が語る東日本大震災—自然界に何が起きたのか—』(16年3月刊)を読み、1月12日に『団地の空間政治学』を読み*29、時代をとばして『命の価値』を読んだ19年1月に『鉄道デザインの心』『団地の給水塔大図鑑』を読みます。

 わたしには長年温めてきた題材があり、あれはいつか小説にできるのではないかと思ってきた。

 それは団地のどこか真ん中だとか、すみっこだかに立っていて、周囲を見回すようにしている。

(略)

団地の空間政治学』などを読むにつけても、団地におけるあの存在、『宇宙戦争』における三本足の侵略兵器であるトライポッドみたいなあれは、小説の主役を張れるのでは、と考えてきた。

 新幹線で大阪と東京を往復する間、その建造物を多く目にする。他にも、エレベータの実験用タワーなども目についたりする。

(略)

 本州のあちこちに暮らしてきたが、そういえば外からきた人向けの住宅地ばかりに住み、団地を考えたことは一度もなかった。

   円城塔著『書籍化までX光年』、「全国の団地の"あれ"」(本の雑誌社刊、『本の雑誌』2019年10月号「さるかに合戦開始号」p.118)

 そして円城氏は、この記事の下のほうにある項「▼円城氏の創作観の変化」で記したような――ぼくの言葉で書評などの考えをざっくりまとめてみれば――生を受け長く付き合ってきた土地や風俗、物や者でなければ描けないもの(「雪の記憶」)に関心を見せたり、あるいはそれを逆転したような、固有の物にまつわる固有の経験を有した個人がそれについて語るものに何らかの力が宿るとして、様々な来歴をへた事物にはそれにまつわる固有の経験を有した幾人かの面影がそれぞれにじんだりするのではないか?(「物から読み解く政治思想」)といった考えを話したりするようになります。

 そうした関心は、社会を侵し破壊する怪獣モノにとってプラスに働いてくれることでしょう。

 

 読了本をだいたい時系列順にくわしく見る

  2018年初頭の読了本

 すでに書いたことの繰り返しになりますが、2018年1月24日に(『シン・ゴジラ』に影響を与えたのではないか? と噂される怪獣漫画)『神の獣』を読み、2月5日に『KAIJU黙示録』(17年9月刊)を読み。、2月21日にゴジラ幻論』を再読し、その前後に同著者の他書も読了されています(『分節幻想』が同日、『形態学 形づくりにみる動物進化のシナリオ』『個体発生は進化をくりかえすのか』が2月20日。そして第一トレイラーでお目見えした「古史羅」図の元ネタである、国芳『讃岐院眷属をして為朝をすくふ図』を紹介している辻惟雄さんによる『奇想の系譜』(並びに次著『奇想の図譜』)を2月16日に読みます。

 

   ▼幻想の生物、生物の幻想としての怪獣像

 ジラ幻論――日本産怪獣類の一般と個別の博物誌は、理研で研究室をもつ最前線の生物学者である倉谷滋さんの論考です。

 それと同時に、アメリカの地でポスドクとして仕事する時代も、テレビで流れる『人類危機一髪! 巨大怪鳥の爪』をくりかえし観て癒されるような、熱心な怪獣映画ファン・怪奇小説読者が趣向を凝らした面白い読み物でもあります。

(余談;『日本SFの臨界点』で『雪女』が締めくくりの作品として選ばれたり、『SFマガジン』次号の特集企画となるなど、にわかに盛り上がりを見せている「異常論文SF」。そういった語り口の作品がおすきなかたは、『ゴジラ幻論』もきっと楽しく読めるんじゃないでしょうか)

 ゴジラの形態生態学的な考察がなされる第一章は、怪獣映画の登場人物(やその子孫)による基調講演、その採録というていの論考です。

 お次は『シン・ゴジラ』牧博士のていで書かれた、架空の研究実験日誌。さまざまな試行錯誤をかさねて人為的に怪獣を生み出そうと研究を進めていく牧博士をとおして、今日的な研究者の手つきが描かれているものかと思います。

 次は、アンギラスの形態学的考察。

 さらには、モスラの形態学的考察、バラン、ラドンとメガヌロン……と続きます。

 第3章は倉谷氏と怪獣の想い出を語ったエッセイ・コラム。怪獣の物語的立ち位置の変遷や怪獣映画が栄えた昭和という時代なども考えるような内容が多め。大映との暴力表現の違い東宝怪獣映画はほとんど血が出てこない)など、ゴジラ作品に限らない怪獣映画・怪奇映画について語られていて、とくに『ウルトラQ』の複数本におよぶコラムは白眉。

 初代ゴジラなどの怪獣がいない世界に怪獣が現れ、現実的な社会が対応する作品群を、童話の姫が現実の社会にふと現れる『魔法にかけられて('07)になぞらえ。そしてシリーズ化され、地球防衛軍やメーサー銃戦車など対怪獣用システムが整った後代のタイプの怪獣映画を、お姫さまのために城や馬車もそろった予定調和的なおとぎ話としてとらえるコラムもまた面白かったです。

 怪獣映画についてだけでなく、SF映画(小説)なども話題にされます。

 SF映画(小説)のバイオテクノロジー描写の変遷に、それぞれの時代の科学観の変遷を見て取るコラムが興味ぶかい。

{『フランケンシュタイン』は雷により生命が誕生していたが、これは動物磁気の時代の科学観を反映したもの。雷⇒生命誕生という表現はしばらく続いていくこととなる。『ハエ男の恐怖』('58年公開)は異なる種のキメラ的合体だった。『ブレードランナー』('82年公開)は劇中の天才が「脳」の学者で、現代の科学ではそれらを作り出す大元であるエピジェネテクスの専門家は、腕など各部や臓器の専門家と並列された下っ端でしかなかった。『ザ・フライ』('86年公開)はリメイク元『ハエ男の~』とちがい、細部から徐々に異形へと置き換わる。DNAの重要性が大きくなったのだ……などなど}

 

 『ゴジラS.P』の主人公のひとり神野銘は、“存在しない生物”の研究をする変わり者の大学院生だと云います。

もしも限界を超えた生物がいるとしたら、それは「わたしたちの知っている生物」(この由緒ある表現は、ほとんど改変されることなく昔から使われている)とは違う何かに違いない。根本的に異なる何者かだ。いわば、ありえない。奇想天外な生物である。

 このような生物について何が言えるだろうか。せめて言えるとしたら、何者でないかだ。(略)これらのことから生物学者は、わたしたちの知っている生物は――あなたもわたしも、ノミやメガロサウルス、チャールズ・ダーウィン、近所の創造説の信奉者、そしてあらゆる極限環境生物も――すべて単一の共通の祖先をもつと信じているのだ。もしも奇想天外な生物が存在するなら、おそらく祖先が違っていて、あらゆる面で奇想天外だろう。生命の基本となるのがDNA以外の分子で、使っているアミノ酸も異なり、溶媒がアンモニアや液体メタンだったりするかもしれない。

 (略)はっきりしているのは、そんな生物が一例でも見つかれば、わたしたちの生物観が大きく変わるだろうということだ。よく、今知られている全生物を巨大な一本の樹木として図式化することがある。幹は系統分類にしたがって枝分かれを繰り返す。枝分かれした先は、もとよりも基本形からはずれ、より数が多くなっている。最終的に、それぞれの種を表す何百万もの小枝に分かれる。(略)けれども異なるタイプの生物が一例でも見つかれば、この系統樹そのものが一本だけではなく、もしかしたらもっとたくさんあって、森の中の一本にすぎないかもしれないということになる。そんな発見があったら、わたしたちは謙虚な気持ちになってしかるべきだ――わたしたちは宇宙の中で、今思っているよりもささやかな場所を占めているにすぎないのだ、と。

   白揚社刊、デイヴィッド・トゥーミー著『ありえない生きもの 生命の概念をくつがえす生物は存在するか?』p.14~15プロローグより(略は引用者による)

 『りえない生きもの―生命の概念をくつがえす生物は存在するか?』は、最近の読了本ではありませんが、円城氏が複数回読了スタンプを押された本{15年12月28日、20年09月02日(『数学セミナー 2021年1月号』の企画・寄稿のための再読かも?)}で、この辺もなにかしら参考となっている部分もあるやもしれません。

 アメリカのマサチューセッツ州立大学アマースト校英文学科准教授(プロフェッショナル・ライティング&テクニカル・コミュニケーション課程ディレクター)デイヴィッド・トゥーミー氏は、この本で「ありえない生きもの」とその発見・想像の歴史をひもといていきます。

  海底の高温の噴出孔や塩分濃度の高い死海、酸化して赤いリオティント川などに住む極限環境生物たちといった実在する生物からはじまって、珪素生物の可能性と不可能性が思索され。1960年代、金星に相当量の水蒸気があると判明したことを受けてカール・セーガンとハロルド・モロヴィッツが仮説を立てた、金星の雲の中に住む生物たち。金星生物について批判されたセーガンが、今度はエドウィン・サルヒーターと組み考えた木星生物たち。ルイス・アラマンドラらによる実験から可能性が見えてきた、彗星からの生物。ダイソンの想像する分子雲型の生物。ダイソンにならって想像を広げたフレッド・アダムズとグレッグ・ラフリンによる、一つの考えを完了するのに千年かかるかもしれない白色矮星の生物……

 ……トゥーミー氏の探索はさらに伸び、SFへ行き、そこで歩みは止まらず、果てとして他宇宙などSFとしか思えないけれど現実の科学者の真面目に可能性を検討しているさまざまな宇宙へと向かいます。

    ▽古史羅図と、歌川国芳『讃岐院眷属をして為朝をすくふ図』の鰐鮫

 すでに何人かツイートされているかたがいますが、第一予告で登場した「古史羅」図は、あきらかに歌川国芳岐院眷属をして為朝をすくふ図』を参考にした描かれたものでしょう。国芳の画の青い海を、ギュラゴジは赤い海へ変えたかたちですね。(また鰐鮫は大きな違いがないけど、天狗などはだいぶかわっている。

 下リンク先のとおり、元絵は「『椿説弓張月』中の場面で、嵐に襲われた源為朝父子を讃岐院(崇徳上皇)の眷属である鰐鮫と烏天狗が救う。一方為朝の嫡子舜天丸を抱いて海中を漂う忠臣紀平治は為朝のために忠死した家臣の魂が乗り移った大鰐鮫に助けられる」さまを描いたもののようですが、『ゴジラS.P』での立ち位置はいかに?)

bunka.nii.ac.jp

 さて国芳の画も参照元があり、大枠の構図は北斎の画にならったものであり、そちらのモデルであった東洋的な竜を、渦巻き模様の鱗におおわれたクリーピーな「鰐鮫」へと置き換えたかたちとなります。

 想の系譜 又兵衛‐国芳(ちくま学芸文庫)は、岩佐又兵衛歌川国芳など近世絵画の傍流とみなされる絵師・作品たちを紹介した本。円城氏は今著とあわせて、おなじく辻惟雄さん執筆による、縄文土器など日本文化の源流をたどる『奇想の図譜』も2月16日に読んでいます。

 

  18年春の読了本

 4月に『シン・ゴジラ政府・自衛隊 事態対処研究』(18年4月6日読了)を読んだ円城氏は、その前後に『会議の政治学』(4月5日)、『官房長官 側近の政治学』(4月5日)、石動『安全保障入門』(4月11日)}を読了します。

 そして同年4月末に『GODZILLA プロジェクト・メカゴジラ』(18年4月刊)を読み、『メカ・サムライ・エンパイア』(18年4月刊)とその前作を読み、『太陽 大異変』を読みます。4月27日に畑中『天災と日本人 ──地震・洪水・噴火の民俗学』(17年刊)を読み、5月11日近辺に『系統体系学の世界: 生物学の哲学とたどった道のり』(18年4月刊)とその著者の過去本『系統樹思考の世界 すべてはツリーとともに』『分類思考の世界 なぜヒトは万物を「種」に分けるのか』を読み、5月23日に『生命、エネルギー、進化』(16年刊)を読み、6月4日に『龍の棲む日本』(03年刊)を読んでいます。06月06日の読了本『星界の音楽 神話からアヴァンギャルドまで――音楽の霊的次元』はムツカシイ内容で、中身をぜんぜん読めてないんですが、予告でも楽譜がみられるからなにか参考となったところはあるのかもわかりません。

 

   ▼序盤で日本というシステムが描かれそう(ただし深くは突っこまないかも)

 議の政治学は、東京大学の公共政策大学院の初代院長、日本行政学会理事長をつとめた森田朗さんによる会議の概論書。 本編180ページほどですが、具体的でとても良いです。

 森田氏は第一章で委員のふるまいを、議論を円滑に進めてくれる①「バランス配慮型」、状況と無関係に自分のいいたいことをいう②「自己主張型」、一見②に似てるが何か主張したいことがあるわけではなくとにかく発言することによって自分の存在を確認し誇示したい③「自己顕示型」などなどといった具合に7タイプに分類し、会議に見られる意見主張(論理的に整合なものというのではなく、意見を通すための詭弁の類い)もまた7タイプに分類、その長所短所を紹介します。日本の会議・委員会を端的かつ具体的に紹介し、どう委員を編成するか? いかに会議を捌くか? より良い答申書を作成するためのプロセスを検討していきます。

 第二章ではそんな会議を支える事務局の役割や活動、会議の打ち方(いきなり本題にズバンと入るか、方針決めのためのジャブ的・勉強会的な小会議をまずひらくか?)、会議資料の作り方、具体的な進行、根回しや応援団についてなどが記されます。

 第三章では会議にかんする情報発信・情報公開について(議事録の作り方とチェック、メディアとの関係性など)が記されています。

 そこで、座長としては、前述した委員のタイプをよく把握して、適宜発言を誘導したり、発言を求めている委員のうち信頼できる委員に優先的に発言を許すなどの方法によって、意見を収斂させる方向へ議論を誘導する。具体的には、会議の冒頭では、自己主張型の委員に発言を促し、それをきっかけに他の委員から発言を引き出す。ある程度さまざまな意見が出て、争点が収斂してきたら、自己顕示型や専門閉じこもり型の委員の発言はできるだけ封じ、バランス配慮型の委員に、多数の委員が受け入れられるような提案を促す。そして、それによって、そろそろ終了時間が気になりだした無関心型の多数の委員に、その日の会議の落としどころを察知させ、タイミングをみてその日の会議の合意内容を確認する。そのとき、その合意内容に不満をもっている一部の委員が発言をしないように圧力をかけるべく、うまく雰囲気を作ることが重要である。

   慈学選書刊、森田朗著『会議の政治学』p.40~41、「第一章 会議の政治学六 会議の運営と少数派の処遇より

 森田氏の論考はあけっぴろげで、実体験に根差したディテールがあり、絡め手も多数紹介されてたいへん興味ぶかかったです。

 会議の座席をどうするか一つとっても、色んな点が考慮されてて*30

「ぜったい会議したくない!」

 となります(笑)。

 房長官 側近の哲学』朝日新聞で30年ほど政治部記者をつとめた星浩さんによる、官房長官にかんする概論本です。安倍政権で官房長官をつとめていた時代の菅義偉さんへのインタビューが巻末に収録されてもあります。

 星氏は官房長官の機能や実際におこなう仕事を概観したのち、官房長官を「子分」「兄貴」「お友達」3タイプに大別し、首相の指示を追従する手足であったり、あるいは(年齢や過去の部署で上司であったために)首相をサポートしつつも時に異を唱えたりする存在であったり、もしくは(首相と同期だったり勉強会を開くなどする仲の)ツーカーであったり、はたまた不祥事で退いたが派閥としてはもっとも力を持つ旧政権から寄越されたお目付け役であったりする官房長官それぞれの姿を描いていきます。

 概して「友達型」では、お互いのかばい合いが目立ち、政権が短命に終わるケースが多い。佐藤栄作政権のように、経済成長が続いて日本が安定期の時代は、首相に忠実な「子分型」でも政権運営はスムーズだった。冷戦後のグローバル化少子高齢化で、内外共に難しい課題を抱えるようになると、ベテランの官房長官を起用して、首相とは異なる冷静な判断を求めることが必要となる。中曽根康弘政権や小泉純一郎政権のような「兄貴分型」(略)だと、首相も官房長官の意見によく耳を傾けるし、官房長官の方も首相を守り立てようという配慮が働いて、微妙なバランスがとれるケースが多いように見える。

   朝日新聞出版刊、星浩著『官房長官 側近の政治学』p.92、「首相との距離」鈴木喜幸と宮沢より(略は引用者による)

 政治記者人生30年で見てきた歴代官房長官を主として200ページ程度で見ていく本です。概論的にならざるをえないのは、尺の都合もモチロンあるんでしょうけど、もしかすると「これは官房長官が決め手となったお仕事です」と言い切れるものがなかなか無いのかもしれません。

 首相との経歴をからめた関係性や他政治家との協調・対立の話題がおおきく取り上げられ、具体的な実仕事については「首相の放言とか靖国参拝したい意思を止められるか否かなのか?」みたいな印象を抱かなくもない。

 各所との連絡・調整役としての官房長官の仕事ぶりのなかで、とくに興味ぶかかったのは、小渕政権下の野中官房長官の功績や、細川政権下の武村官房長官の失敗についてなど。

 当初は参院で与党が半数を割るなどしていた小渕政権で、小沢氏ひきいる自由党公明党へそれぞれ打診し連立政権を打ち立て、連立後に自由党小沢氏の力を押さえた野中氏の仕事(p.77~79)や。東京佐川急便ヤミ金献金事件に端をはっする自民党分裂・非自民連立政権成立により首相となった細川(日本新党)政権下で、力のつよい小沢氏(新生党)らと意見のすり合わせができず対立・分解していった武村官房長官(新党さきがけ)(p.84~88)などが、野中氏や細川氏回顧録を引きつつ記されていました。

 

 『ゴジラS.P』に関係しそうなところだと、「内閣官房機密費で運用される部署にいた」キャラ鹿子行江の造形に「5官房長官を支える組織」「6官房機密費の実態」あたりが関わってきそうですが、概略の概略ってかんじですね。

 機密費は、共産党志位氏が2001年に追求した「上納を裏付ける内部文書」、02年に会見をひらいた宮澤政権下加藤官房長官の事務所に毎月振り込まれた1000万円の使い道(『国会対策費」や他政治家への背広贈答やパーティ券購入、外遊議員への餞別)が大きく扱われるほか、真偽不明な情報の類いが真偽不明なものとして載せられています。

{誘拐された日本人の身代金とか、マスコミ対策とか。(星氏は実際に機密費を渡される機会に遭遇したことはなく、"政治記者になりたての頃、ある先輩記者から「首相の外遊に同行する時、官房副長官から『餞別だ』と渡されそうになったが、断った」といった話を聞いたことがあるくらい"*31だそう)

  上述本2冊は『ン・ゴジラ政府・自衛隊事態対処研究』のなかで参考文献として挙げられた本*32で、

「円城氏はそこを糸口にこれらへ手を出したのかなぁ?」

 と思います。『事態対処研究』コラムで千葉大准教授をつとめる行政法研究者・横田氏は……

特に、『会議の政治学Ⅱ』では、大臣などの政治家が出席する会議とそうではない通常の会議とでは有識者の行動も大きく異なることが指摘されており、興味深い。

    ホビージャパン刊(ホビージャパンMOOK789)、『シン・ゴジラ政府・自衛隊事態対処研究』p.27、横田明美著「学識経験者と政策

  ……と特に『Ⅱ』を推していましたが、こちらは円城氏の読了スタンプがないので、『ゴジラS.P』において政府要人&有識者会議はあまりフォーカスを当てられない要素なのかもしれません。

 『シン・ゴジラ政府・自衛隊事態対処研究』では、『シン・ゴジラ』劇中のタバ作戦が、「B号計画/B-2作戦」と呼ばれていたところから、「ではAとはB-1とは?」と、劇中以外の地域からゴジラが来た場合の展開を予想したりします(p.54~68)

 月島西仲通り商店街に赤い霧がたちこめ怪獣が歩みを進めるシーンがPV第3弾で紹介されている『シンギュラポイント』。今著はその予習となるかもしれません。

 首相たちの乗るヘリコプターってそういえば迷彩柄じゃなかったけど、あれって何だろう?(p.78) 化学防護服に身をつつみ最後の作戦に従事した32普通科連隊を見ると311じゃなくて他の動揺が走るのは何でだろう?(p.107) ……映画の矢継ぎ早なカット割りで膨大に流されていったあれやこれやを振り返る『シン・ゴジラ政府・自衛隊事態対処研究』のまなざしは、現実の日本のシステムや現代史を垣間見る行程ともなります。

 本の題名から予想がつかない内容として、元アメリカ陸軍将校の軍事ジャーナリスト飯柴智亮さんによる、ゴジラアメリカ西海岸から上陸したさいのシミュレーション記事ゴジラvsアメリ ゴジラ、西海岸上陸!」(p.80~83)、未来工学研究所客員研究員で軍事ジャーナリスト小泉悠さんによる、ゴジラが北極圏ムルマンスク周辺から上陸したさいのシミュレーション記事ゴジラvsロシア 『シン・ゴジラ』が描いた”日本”という国」(p.117~119)、高エネルギー加速器研究機構 素粒子原子核研究所 准教授である多田将さんによるゴジラに関する物理学的考察」(p.114~116)など、各記事はそこまで多い文量ではないものの興味ぶかい寄稿があれこれある本でもあります。

 

 

   ▼想像;?天災としてのギュラゴジ?(日本国土・地震・噴火の図像を汲む)

 の棲む日本』は、伊能忠敬以前の日本地図といわれる行基図から、その象徴性を読み解いたのち、行基図的な日本の周りを巨大な爬虫類の尾がおおう金沢文庫所蔵の日本図、ウロボロスのように尾を噛む(ただしその尾のさきは宝剣となっている)東洋的な龍の輪のなかに日本が丸々おさまった画「大日本国地震之図」などをながめた本。

 著者の黒田日出男さんは、南北朝期1356年ごろに描かれた絵巻『諏訪大明神絵詞』の日本へ船橋を架け侵略しようとする蒙古の軍勢を大龍となった諏訪大明神が迎えうった記述などとからめて、金沢文庫版日本図を、蒙古襲来の緊張下にある日本を龍が護国する図としてとらえます。

 一方で、龍にまつわる中国からの・インド仏教からの・日本国内の3つの源流を掘りつつ、水や雷・地震・火山・天変地異や政変(たとえば平家の怨霊の祟り)などの象徴としての龍を取り上げ、そして、日本人が着物をまとっていた時代の龍穴=洞窟探検(ケイビングの記録をひもときながら国土と龍の結びつきを見ていきます。

 そのうえで、「大日本国地震之図」などの絵とはなんなのかが読解されていきます。日本を囲む龍には12の鰭があり、そこには月毎の天変地異が記された一種の占いとなっていて、龍の頭をよくみると押さえつける石があって……と細部まで黒田氏は注目していき、その視線は、現在では散逸してしまった部分になにが描かれていたのかなどへもおよんでいきます。

  災と日本人』は、災害に対する日本の心性を民俗学的に見ていく本。

 著者の畑中氏はまず、災害にたいして別種のスタンスをもつ三者を端的に紹介します。

 日本の「地震と国民性」を好意的にとらえた小泉八雲伊勢神宮でさえ二〇年ごとに建て替えるという、建造物すら「かりそめ」であることで、長期間・定期的に見舞われる天災に対応・回復してきた日本人の特異性を記したものらしい*33人智で制御不可能なものを「天災」と称してただ恐怖し、すぐ去ったなら「天幸」とただ喜悦するような、人為の及ばぬものを「鬼神」「善の神」と神の箱に入れるイカニモ日本らしい「八百万の神」的価値観を前近代的な「人情」ととらえて、痛烈に批判・克服をしようとした近代的な福沢諭吉*34。近代以前の民衆のおかれた状況や生活感情などによりそった歴史学者・笹本正治*35……畑中氏は、じしんの研究を笹本氏の延長線上におき、自然災害と日本人の心性について幅広い資料はもちろん時には現地へ赴いたりなどくわしく検討をしていきます。

 畑中氏が重視する一つは「災害を人々がどうとらえたか」で。

 神頼み・信仰・伝承的な書き込みが充実していて、風聞の類いも拾われています。今世紀になって被災したさい「土砂崩れに関する不吉な地名が、後代で改名されたのでは?」と話題になるも続く検証から「信憑性が薄そう」と沈静化していった「八木蛇落地悪谷」、当時の技術力やマンパワーではあやしいと専門家から疑問視される「信玄提」などにまつわる逸話を(そうした逸話にたいする否定的見解があることも込みで)紹介しています。

 そしてさらには実利的なとりくみが好きな人にも興味深い情報がいっぱいあります。

 たとえば水害の章なら、那賀川が「七分水」――堤防高の七分目ほど――まで達したのを目安に、畳をはずして堤防に運んだ徳島県阿南市羽ノ浦町の「観音寺」とか、床上浸水したさいに汲み取り式便所から室内への汚物逆流を抑える「厠石」など、暮らしの実感にねざした災害対策も多数しるされていました。

{それも聞こえのよい美談だけじゃなくて、後ろめたい細部だって記してくれている。

 たとえば、お上が指揮する大規模な治水工事での犠牲であるとか。民衆レベルでも、自集落を守るために他集落の堤防を切り決壊させようとする集落vsさせまいとする他集落による「水論」と言われる争いも複数事例紹介してくれている。

(とくに岐阜市加納輪中のそれは、「『大脱走』か『刑務所のリタ・ヘイワース』か?」という機転を利かせたもので、実際にどこまで効果があったのかはわかりませんし、やられた側はたまったものじゃないでしょうけど、出歯亀する第三者としては読んでて非常にアツい。Enjoe140版『レ・ミゼ』的でもある)}

 

 地震津波をあつかった第二章では、地震・雷・火山の噴火とむすびつけられた竜の伝承がトピックの一つとして扱われ、こちらの本でも『大日本国地震之図』が記されています。

 読書メーターの読了歴という色眼鏡をかけているとどうしても、今著を読んで災害と竜に関する知見をたしかめたうえで、深掘りすべく『龍の棲む日本』に進んだ……という流れを見てしまいますね。

 ただ、書き始めてから土台や骨を作ったりしないだろうから、伝承的な要素はあくまで肉付けするフレーバーであって、本題じゃないと考えるのが妥当そうではある。

 

  18年秋の読了本

 そして18年10月末に、『怪獣大戦争 (怪獣小説全集)』(18年10月28日読了)発光妖精とモスラそして小野俊太郎『モスラの精神史』(18年10月29日読了)をつづけて読み、その直後に『発光妖精とモスラ』の共著者のひとり堀田善衛さんが司馬遼太郎さん・宮崎駿さんと鼎談した『時代の風音』(18年10月30日読了)を読み、その前には堀田氏の『故園風來抄』(18年10月25日読了)『インドで考えたこと』(18年10月24日読了)横尾忠則『インドへ』(18年10月24日読了)(、さらにまえ4月ごろに『ヒンドゥー教 インドの聖と俗』、その後には他の作家のインド本を複数読み『アジャンタとエローラ インドデカン高原の岩窟寺院と壁画 (アジアをゆく)』(18年11月03日読了)、『迷宮のインド紀行』(18年11月04日読了)、これはインドだけじゃないけど『聖なる幻獣』(18年11月04日読了)、『インド地底紀行 (建築探訪)』(18年11月05日読了)(時代を飛ばして2019年1~2月あたりに『印度放浪』も)}、そして小野俊太郎『大魔神の精神史』(18年11月09日読了)でサンドします。

 そこからアーニー・パイル劇場―GIを慰安したレヴューガール(18年11月21日読了)などを読んでいます。

 

   ▼モスラが出そう。見世物芝居要素も、歴史性を汲んだ上で。

 『怪獣大戦争』はラドンの誕生」、『モスラ』('61)のノベライズ「大怪獣モスラゴジラvsビオランテを収録。『発光妖精とモスラ』は表題作と映画台本を収録。

 『ゴジラS.P』はモスラが出てきそう、しかも原典とおなじく見世物劇場も(歴史性を汲んだ上で)ありそう。

 

    ▽円城氏のアーニー・パイル劇場、伊藤道郎氏への言及

 ーニー・パイル劇場―GIを慰安したレヴューガールは、戦時は"ふ"作戦風船爆弾製作)従事のために徴用され*36たり、戦後GIに接収され進駐軍向けに観劇をおこなっていたりした東京宝塚劇場(現TOHOシネマズ日比谷についての本ですね。

 

 本劇場に小野氏は、『モスラ』興行師ネルソンの(『キングコング』にならった以外にありそうな)背景*37やかれが小美人を用いて行なった興行*38の源流だとにらみました。

 また、円城氏は18年12月刊『幽vol.30』のなかで、ニューヨークで「猩々」を踊った後アーニー・パイル劇場にきた伊藤道郎さんの活動と東宝で「シン・ゴジラ」を演じた野村萬斎さんとを重ねたりもします。18年後半時点ならさすがにゴジラは設定が固まってるだろうからそちらには影響はないでしょうけど、下記引用文の流れでモスラがぽんと出てくるのが気になります。

 とかく他人の目を気にする、というか、日本が海の向こう側からどう見えているのかを考えるとはどういうことかをめぐる連載であったが、今も基本的にその興味は変わっていない。

 今は、パウンドから能の知識を得たイェイツが書いた戯曲「鷹の井戸」を踊り、またニューヨークで「猩々」を踊った伊藤道郎が戦後、アーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場)で活動していたことについてぼんやりと考えている。東京宝塚劇場、転じて「東宝」はゴジラモスラの生まれた場所でもあって、この「怪獣」たちはふたたび解釈される対象として海の向こうにさらされることになった。

シン・ゴジラ」における野村萬斎演じるゴジラの動きと、猩々を踊る伊藤道郎の動きがわたしの中では奇妙に重なって想像される。

   『カゲキヨほか四篇』円城塔「翻訳にあたって」より{2018年12月18日、KADOKAWA刊(カドカワムック736)、『幽 vol.30』p.278~9}太字強調は引用者による 

 

   ▼インドはどんな立ち位置になるのか?

 そしてもしかするとインドが舞台の一つになるのかもとも。

 ゴジラの長く複雑怪奇な歴史のなかには、南洋はもちろん、インドもまた怪獣と一緒に盛り込まれていたりします……

 

(略)「A Ryuhei Kitamura Film」というクレジットとともに、カイル・クーパーによるオープニングクレジットが流れるが、そこにカイルのグラフィカルなテクニックはない。今回、カイル・クーパーゴジラという「魔物」の前にかしずくことを、積極的に選択した。そのオープニング・クレジットは人類がこれまで行ってきた様々な戦争のフッテージで構成され、その上にゴジラという「魔」が君臨するという重苦しいもので、流れる伊福部テーマは人類への弔鐘のように陰鬱だ。

 そして1999年、というテロップ。武装要塞都市と化した東京の異様な景観が見事な空撮で描写される。ゴジラ上陸から実に45年後。ノストラダムスの予言は思いもよらない形で間近に迫りつつある。ユーラシアもオーストラリアもアメリカも海の底に沈むか草一本生えない被曝地帯と化すかして、もはや残された文明は日本列島の一部。関東圏だけだ。この資源の乏しい島国で人類最後の抵抗勢力が反撃戦力を維持すべく、焦土と化した南米やオーストラリアに渡り、鉱物などの資源調達やわずかな生存人類の「救出」を行っているが、アンギラスラドンなど世界中を己がものにした怪獣たちによって阻まれ、その生還率は限り無く低い。

 主人公はそんな「資源調達師団」の隊員。TOKIOの松岡演じる彼は指令部からインドの奥地に残った鉱山跡に赴くよう命じられる。そこに何があるかは、同行する情報部の要員・明石大佐だけが知っている。焦土と化したインドに上陸した彼らを襲う怪獣の群れ。部隊の人間が次々に命を落していく中、彼らはようやく目的地に辿り着く。そこはかつてインド政府が核開発のために掘っていたウラン鉱脈だった

 日本政府──この地上でもはや唯一の政府である日本政府、は決断を下したのだ・・・核兵器によってゴジラを殲滅する以外方法はない、と。情報部は5年前、焦土と化した北米に上陸し、リバモア研究所の廃墟から核兵器の設計図を入手していたのだ。その任務ではほとんどの隊員が怪獣との戦闘で死ぬか、命綱の防護服を損傷し、激烈に被爆して苦しみながら死んでいった。

(略)

 という夢を観ました。たぶん高橋洋「映画の魔」の影響です。

   伊藤計劃:第弐位相』2004年12月4日掲載、「ゴジラ/ファイナルウォーズ」より(太字強調は引用者による)

 ……小説家としてデビューするまえの、とある青年の頭のなかでとか。

 円城氏と同時期にデビューし、『ディファレンス・エンジン』巻末解説では共著したりもした伊藤計劃さんは、ゴジラ FINAL WARSについてそんな夢を見ています。

 伊藤氏の考えは円城氏にも妙なところで根付いていて、たとえば先述した……

映画でいう、テンポ
 ・要請から航空支援到達までがはやすぎるのではないか
  ・うるせえ、航空支援はすぐくるんだよ
ってことですよ。

   scrapbox円城塔『設定を考える』

  ……は、伊藤氏がblogで言ってたことなんですね。こんな些細なところまで身に沁みついているのだからまぁ~伊藤版『ファイナルウォーズ』的な要素は無いだろうけど全くなくもないって感じがしなくもないっしょ!!

 一方、トランスフォーマーの戦闘描写には明らかにオタ趣味がのぞいている。味方と思われる緊急通信が入ると、まずプレデターグローバルホークUAVを飛ばし、AWACSを急行させて、現状を確認したうえで、A-10が地上を制圧し、ついでAC-130の脇腹が膨大な火力を地上に投射するわけだ。あまり段取りを省いていない(指揮系統の直通ぶりはアレだが)。通信がつながってから現場に一瞬で到着する即応ぶりは、いかにカタールといえどもアレな気がするけれど、いいんだよ!信じる心があれば航空支援は時空を飛び越えてやってくるんだよ!

   伊藤計劃運営blog『伊藤計劃第弐位相』、「変態者」より

 

 トカナントカ思ってたんですが、『ゴジラS.P』のキャラクター紹介(ベイラ・バーン"B・B"の項)を見ていてたら、「インドに新たに建設されたウパラ研究所」なる文言が。「国際的な合弁会社シヴァ合同事業体」なるものの建物なんでしょうかね。

 シヴァ合同事業体に出向している李桂英博士の用心棒マキタの項には「代々ロンドンのお屋敷を維持してきた。」とあるので、すくなくともインド・イギリスにまたがる企業だというのがわかります。

 

 円城氏の複数の読了本ででてくるアジャンタの石窟寺院は、仏教が廃れ千年以上存在が忘れられていたけれど「一八一九年、虎狩りにきたイギリス人士官が、密林を抜けた高台から向かいの崖に見つけた横穴を「人工のもの」と直感」*39し探索したことで再発見されたと『アジャンタとエローラ』の著者・立川武蔵さんは述べます。20世紀初頭には大谷探検隊(『大谷探検隊とその時代』は円城氏の19年04月02日読了本)エローラやアジャンタ洞窟へおとずれています。

 

父上よ。こゝろみに此『エロラ』山中を思ひやりたまへ。……この林に輝き満つる光景を見給はんか、必ずや父上は声を揚げてかの『仏光』の想像に思い至りたまはん。無量光、無辺光、無碍光、無対光、焔王光、清浄光、歓喜光、知恵光、不断光、難思光、無称光―あゝ、これ熱帯にありて始めて想像すべき光明には候はずや。

 密林の岩山に二キロにわたって穿たれたエローラの石窟、藤井はこの石窟で仏典が語るさまざまな光を感じ取っていた。しかしそれは、藤井の病弱な体との引き替えであった。

 E〔エローラ石窟〕の探訪開始。……午前八時半起業、午後五時に至る。僅かに第一、第二、第三、第四、第五、第六、第九の七穴を調べ得しのみ。而も一時の休なかりし。写真数葉を取る。……下痢山中にて三回あり。労せり。労せり。血下る、日暮。

  藤井が『印度霊穴探見日記』と名付けた調査日記の一節である。

   勉誠出版刊、白須淨眞著『大谷探検隊とその時代』p.89「35 あゝ藤井宣正」

 1902年10月28日ボンベイに上陸し、エレファンタ島からエローラ、アジャンタの石窟、サンチーの仏塔へ向かい光瑞隊と合流した藤井宣正さんは、03年6月6日、南仏マルセイユ病院で客死されたそう。

 時間軸的にもけっこう大きなお話になりそうな感じがしますね。

 ンドで考えたこと』は、ニューデリーでひらかれる第一回アジア作家会議にむけ、56年秋~57年初めをインドに滞在した堀田氏の紀行録。

著者みずからの「思考旅行記」と称したその本を読んだときの新鮮な驚き、というよりもカルチャー・ショックは、いまも忘れられない。同書はたんなる紀行文学ではなく、今日の浪費時代の幕開け期に、早くもその将来に危機感をいだいた作家の鋭い目で、インドという異文化をとおして日本と日本人を考えた、体験的比較文化論のはしりであった

   中公文庫刊(中公新書)、森本達雄著『ヒンドゥー教 聖と俗』kindle版10%(位置No.5048中 473)、「二、一日本人の目に映じたヒンドゥー教そこに宗教があるというおっかない現実より

 『ヒンドゥー教 聖と俗』の著者・森本達雄さんは、学生時代にインドへ興味をもつも、外貨保有に乏しく一般人の海外渡航もきびしく制限され、新聞やラジオからの情報がもっぱらであるWW2戦後十年ほどのきびしさを振り返ったうえで、『インドで考えたこと』の新鮮な衝撃をこう語ります。

デリー近辺を歩いていると、いや、どこをでも、インドの友人のすすめるがままに見物に行くとするなら、一切は宗教である、ということになってしまう。それは英国の田舎町のようなシムラへ行って雪のヒマラヤを眺めてもそう思わされてしまう。デリー近辺の広大無辺の半砂漠地帯には、その昔の帝王の実に巨大な墓や回教礼拝堂の廃墟がいくらでもあるが、それらはたとえ廃墟であっても、決して死んではいないという、生き生きとした印象を与える。ギリシアの廃墟もエジプトの廃墟も、恐らくは廃墟であろう。聞くところによれば、それらは現在のギリシア人、エジプト人とは、ほとんどかかわりをもたないという。ところがインドでは一切の廃墟が生きている。村の人たちは、観光客用説明というのではなくて、それらの廃墟についていくらでも無限に、そして実に楽しげに、現在に生きている信仰の対象として話をすることが出来る。

   岩波書店刊(岩波新書)、堀田善衛著『インドで考えたこと』p.67~68、「Ⅳ 日本のイメージ」より

 アジア作家会議の参加者との1ヶ月の共同生活や、インドのさまざまな土地さまざまなカーストの人びととのふれあい。これらをとおして堀田氏が考え向き合うのは、ひるがえって日本という不思議についてでもあります。

 これまでの生涯にまったくなじんだことのなかった『マハーバーラタ』や『リグ・ヴェーダ』といった「「真理」と称されるもの」*40の本を借りて読んでいる間に、日本の新聞特派員の家にあった母国の雑誌や週刊誌が「リアリティがひどく希薄なもの、あるいは非常に特殊なものとしか思えない」*41「週刊誌のあるものなどは、エロ気狂いなのではないか、とさえ思える」*42不思議。分科委員会の議長としてABC順に各国の事情をまとめようとビルマからまとめようとしたら、インド人の一人が「アッサムが先だ」と手を挙げ「インド語というものはないのだ。インド内の十七ヵ語の代表が、それぞれにいるのだ」*43と告げて論争がはじまれば、「一ヵ語だけで全国はなしの通じる国」である日本とは何なのか*44、といったところへ思考がむかう。

 そうして自分自身のこともふりかえることとなります。牧師夫婦の喧嘩が強く残ってキリスト教になじめなかった、アメリカ人牧師の家で1年あずけられた少年時代のこと。メモるも「バカも休み休みいえ……」と愚痴るくらいのヒンドゥ教の話のこと。それでもなお崇高を感じてしまう洞窟の不思議のこと。

 しかし、ガンダーラ彫刻を眺めて、いくらか頭がすっきりしたかと思ったのも束の間、中部インドへ行って再び私ははげしい衝撃をうけて混乱した。エレファンタ、エローラ、アジャンタなどの洞窟を眺めて、こいつはとてもいかんわ、というより、何やら怖ろしくなってしまった。

 現代のあらゆる事象が、竜巻をまきおこしかねないほどの積極性をもって活動している、その猛烈な活動が、ふと停止した瞬間を想定するとき、その時間の切れ目に、極言すればひっかきまわるより他に能のない西欧文明が逆立ちしても考えつかぬような永遠の思想が、これらの洞窟のなかにかくされている、と感じたからである。

   岩波書店刊(岩波新書)、堀田善衛著『インドで考えたこと』p.191、「Ⅻ 洞窟の思想」より

 堀田氏はアジャンタの洞窟で、厳かでもあり、不気味でもある奇妙な体験をします。はたしてそれはどんなものだったのか? 長々書いてもアレなのでこのへんにしますが面白い旅行記でした。

 あのこだまは、いったいなんだったのか。

    岩波書店刊(岩波新書)、堀田善衛著『インドで考えたこと』p.201、「Ⅻ 洞窟の思想」より

 ンドゥー教 聖と俗』は、インド学者・森本達雄さんによるヒンドゥー教の本です。

 タイトルだけ見て「新書とはいえ、むつかしい概念の解説本なのかな……?」と尻込みしてしまったんですけど、開いてみるとまったくそんなことない、風土風俗ルポ的に楽しめる本でした。

 クリスマスなども祝う宗教的に雑多な大学のすぐとなりに並ぶ雑多な店。大学ちかくという場所柄により商品価格こそ悪どいふっかけはないけれど、店主たちはバラモンらしく客へ下手にでることなく無口であごで指し示し、客が開店を待っているのもかまわず売れ残りの品に祈祷を成し遂げる。

 一頭のヤギが捧げられる儀式に立ち会う筆者の耳元で、「日頃は謹厳な菜食主義者を自負している村のお偉方とバラモンが、そろそろ肉が食べたくなると、山羊を一匹寺院へ連れてきて、神さまをおよろこばせするのさ」と茶目っ気たっぷりでささやく若者……

 ……堀田氏による前掲「思考旅行記」の新鮮な衝撃をかたった森本氏のこの本もまた、「思考滞在記」とでも言いたいような本となっていて。ご自身の1964~67年にインド国立ヴィシュヴァ・バーラティ(通称タゴール大学)で教鞭をとるなどした経験や、現地で生活し人々とふれあいその五感で体感した実感に根ざした、ヒンドゥーという土地(くに)で暮らすひとびとの生活観・人生観が概観されています。

 ジャンタとエローラ インドデカン高原の岩窟寺院と壁画』は、国立民族学博物館名誉教授である宗教学者立川武蔵さんが文章部を担当した大村次郷さんの写真集。アジャンタとエローラ、ふたつの岩窟寺院を一窟一窟こまかく追っていきます。

 仏伝やジャータカ(釈迦の前世譚。本生とも)などの壁画にえがかれた神話・宗教説話的な部分の解説をしてくれる本。

 この女神像が足を波に洗われながら海を見ているのを見たとき、わたしは何かがわかった気がした。砂地も海も実は「わたし」なのではないかと思った。輪廻する生類のさまざまな営みは現れては消える泡なのではないか。すぐ消えてしまう泡のようにはかないものだというわけではない。陸と海があってこそ泡は生まれる。輪廻は宇宙が全重量をかけて自らを振動させた結果なのである。

   集英社刊、立川武蔵(文)大村次郷(写真)『アジャンタとエローラ インドデカン高原の岩窟寺院と壁画』p.114、「輪廻転生」再びムンバイの海岸にてより

 史的公的な解説に徹していた文章が、巻末で「わたし」をにじませたとき、なんとも言えないほど心動かされるものがあります。

 『宮のインド紀行』は東京大や法政大で講師などもした建築家・武澤秀一さんによる紀行文。アジャンタやエローラのほかサーンチーやナーランダー、バラーバルやアダーラジそしてカジュラーホなどの現地へ訪れた武澤氏の所感にくわえ、さまざまな人々の記述、19世紀イギリス人画家の描いた絵、インドの影響がみられる日本の仏教建築の写真などなどが詰め込まれています。『アジャンタとエローラ』とちがうのは、情念たっぷりの死生観・俗・性が描かれているところ。参拝者にさわられすぎて、石像の胸と局部が手の脂で黒光りしたヤクシニー像(マトゥラーの博物館所蔵)の写真*45なども載っていて興味ぶかい。

 ンド地底紀行』は『迷宮のインド紀行』となじく武澤秀一さんによる紀行文・写真集。「平坦にひろがる大地を開削し、地表の下、大地の奥底に空間を獲得した地底の建築的空間を探訪する」*46という趣旨から武澤氏は、現地語でヴァーヴやバーオリーなどと呼ばれる、地下水の湧き出る地底まで掘り進めた階段空間「ステップウェル」を古今東西・有名無名さまざま巡っていきます。

 紹介されるステップウェルは本当にいろいろあって、荒々しく掘られ「地下というよりは、すでに十分に地の底、地球の中という感覚である」*47ナーヴガーン・クーオ(2~4世紀)や壁が「葉脈のように、あるいは老人の腕に浮き上がった血管、はたまた病んで痩せ細った胸板に浮き出た血管のようにも見え」*48る原初の階段井戸アディー・カディー・ヴァーヴ(11or15世紀)から、「ローマのパンテオンの天空孔を想起してしまう」*49整えられたダーダー・ハリー・ヴァーヴ(15世紀)、いまでは「荒れ果てて今にも崩落し、倒壊しそうなステップウェル、根と草叢に覆われてしまったステップウェル」*50、死したステップウェルにまで及びます。いわゆる"侘び寂び"で飾れるような綺麗な死ばかりではなく、「何年か前に政府の役人たちが来てこの下にステップウェルの存在を確認したが、掘り返す資金がなくてそのままになっていると村の村長は力説する」*51だけの「ただの乾いた土の上に灌木が生い茂っているばかり」*52のものも視界におさめるところが好ましい。

 ここで特にわたしの興味を惹くのは地底のダブル・グリッド、つまり全体をダブル・ラインで均等に四分割するグリッドの図式である。今日の美意識に直接訴えかけるこのような現代的ともいえる抽象的パターンの発想がいったいどこから出てきたのだろうか。三~四世紀の人たちがきわめてシステマティックで合理的な幾何学図式をはたして先験的(ア・プリオリ)にもっていたのだろうか。それがオートマティックに適用されたとは考えにくい。ここにおける空間体験もさることながら、それ以上に、これをつくった人びとの脳の中の過程はどのようなものであったのか、そこにわたしの関心は集中する。

   丸善株式会社刊、武澤秀一著『インド地底紀行』p.68、「第1章 地底の光と霧――ジューナーガル」□地中のダブル・グリッドより

 武澤氏のそんな関心が読者にも共感できるような、広範な写真・建築平面図断面図がたくさんこの本には載せられています。

 

 ……さて、こういった本が、どう『ゴジラS.P』に活かされるのか? 正直よくわからない。どうなるんだろう? 『迷宮のインド紀行』で見られる岩窟寺院のようすから、「円柱が並んだ空間とはこれか?」と思ったり、「インド古来の宇宙観とかが絡んできたりするのかなぁ?」みたいな感じがしますが、よくわからない。

 

    ▽妄想;??唐獅子としてのギュラゴジ??(インドのキールティムカやマカラと繋げる)

 読了本に目をとおしていると、どうしても胡乱なかんがえに飛んでいきたくなります。

 原爆、冷戦、第二次世界大戦の死者の霊、東日本大震災原発事故などなど、現代の悲惨や恐怖とかさねられることが多かったゴジラを、もっと拡大して巨視的な人類の畏怖の象徴としてしまったらどうだろう? という妄想です。*53

 なる幻獣』によれば、古代インドにはキールティムカという怪獣やマカラという海獣がいるそうで、ひょっとしてこれらとゴジラを重ね合わされたりしないか? と。

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 キールティムカは、輪廻の輪をくわえたりする獣で、「kirti誉れのmukha顔」を意味するサンスクリット語に由来する名前のとおり顔だけの存在とのこと。……とのことなのですが、図像によっては脚があったりなかったり、設定がふわっふわしてます。古くはシリアの獅子の儀礼用杯やギリシャメデューサから、のちにはアジア圏の鬼瓦や日本の無常大鬼への影響が見て取れると言います。

 輪廻する無常の世界を口で咥えるキールティムカは、中国や日本で「無常大鬼」と呼ばれています。この「鬼」は、輪廻の世界を守っているというのではなくて、むしろ世界が無常であることを見せつけているかのようです。

   集英社刊(集英社新書ヴィジュアル版)、立川武蔵著『聖なる幻獣』p.50

 マカラは、川の女神や海の女神の乗り物として登場する海獣で。古くはギリシャ神話のケトスから、のちにはクンビーラや日本の金毘羅、アジア圏のトーラナや鳥居などへの影響が見て取れると言います。モニュメントではキールティムカの両脇にもよくあらわれたりするそう。

 マカラの彫像のなかには渦巻模様の鱗をもったものもあり、その点でギュラゴジが参照している国芳の鰐鮫と共通点を見出せます。

 

 キールティムカの顔は獅子を模した獣とのことで、ゴジラの顔のイメージソースとしてよく指摘されるのはキノコ雲や恐竜との関連性ですけど、ゴジラ主義』の著者ヤマダ・マサミ氏によれば第一作の絵コンテには唐獅子に似た見た目のゴジラもいたといいます。

 歴代ゴジラのなかにはおおきな犬歯をそなえていますが、犬歯といえば、理研の倉谷氏が初代『ゴジラ』の山根博士の孫のていで記した論考で……

下顎枝を持つ下顎骨の形状はどう見ても典型的な爬虫類のものではなく、むしろ哺乳類のそれに近く、さらにゴジラのいくつかの個体では犬歯すら分化しておる。これまた、ワニ型類に見るわずかな例外を除き、爬虫類には本来存在しないものなのであります。

   工作舎刊、倉谷滋著『ゴジラ幻論 日本産怪獣類の一般と個別の博物誌』p,26、「【基調講演】「シン・ゴジラ」に確認された新事実をめぐって 第一部――山根恭太郎」(太字強調は引用者による)

 ……と触れているもの。ギュラゴジにも犬歯があります{。それどころか、サメ的(?)な複層化した歯もありますが、そこは無視する}

 並べてみるとギュラゴジはキールティムカと近いように思える。バイアスが入ったぼくの目には、従来のゴジラにくらべて頭のトゲトゲが多め長めになっているのも、ぐるぐるの目も「その符丁なのでは?」とあやしく見えてきてしまう。

 ギュラゴジの異様に開くうえに異様に膨らんで見える開口部。キールティムカの影響元ととなえられるシリアの儀礼用の杯が「じつは杯ではなく、被写体をそのまま写実的にかたどった結果だったのだ!」ととらえるとギュラゴジの模写に見えてくる。(くるか? きびしくね?)

 キールティムカを顔、マカラを胴体とした一体の生物とすると、ちょうど良い塩梅でゴジラになるように思えませんか?

 キールティムカやマカラの彫像のうちには口に(前述した輪廻を意味する)輪ではなく何かを放出しているタイプがありますが、これは『アジャンタとエローラp.115によれば花環、『聖なる幻獣』によれば花綱と呼ばれているもので、

キールティムカが噴き出す花綱は、後世、この世界そのものであると考えられた。

   集英社刊(集英社新書ヴィジュアル版)、立川武蔵著『聖なる幻獣』p.39

 もしゴジラキールティムカになぞらえたりしたら、これまでとはまた別種の光線が拝めて楽しいだろうなぁ。

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 そうなってくるとジェットジャガーの立ち位置は? という話に当然なってきますが……ジェットジャガーよろしく大きくなるハヌマーンとかですかね……。孫悟空との関連も言及されるハヌマーンなら日本へ流れついてもおかしくなさそうだし、マカラはヴァジュラも吐きだしたりする(『聖なる幻獣』p.83)らしいし、ハヌマーンはヴァジュラに砕かれたのち再起したりするらしいし、ゴジラに一度やられたジェットジャガーが改修されて再挑戦する展開とかあったらアガりますよね! ねっ! ねっ?

 

  大量死が描かれそう;東京の首長がなすすべなかった円城塔

 ゴジラは東京に何度もあらわれ、焦土に変えてきました。言わずもがな。

 円城氏が東京を何度も乱したのは、ファン以外にはなかなか知られていない事実かもしれません。

世の中には解けない謎が多くある。もっともそのほとんどは、考え続けていくうちにだんだん小さくなっていく。しかしここにごくごくまれに、考えれば考えるほど増え続けていく謎があり、たとえばそれはゴジラと呼ばれる。ここ数年、なんとかそれを抑え込もうとしてきたが、手記はここで途切れている。

   『ゴジラS.P』公式サイト「キャスト&スタッフ」円城塔氏のコメントより

 製作発表における円城氏のコメントに震えてしまうのは、自己紹介のように思えてならないからでしょう。

 2012年のこと、東京都の首長はつよい拒否感をおぼえつつも打つ手がなく退陣せざるをえなかったひとつの謎と直面しました。

  どんなつもりでか、再度の投票でも過半に至らなかった『道化師の蝶』なる作品は、最後は半ば強引に当選作とされた観が否めないが、こうした言葉の綾とりみたいなできの悪いゲームに付き合わされる読者は気の毒というよりない。こんな一人よがりの作品がどれだけの読者に小説なる読みものとしてまかり通るかははなはだ疑わしい。

 故にも老兵は消えていくのみ。さらば芥川賞

   石原慎太郎著「自我の衰弱」(文藝春秋刊、『文藝春秋 2012年3月号』p.371、「芥川賞選評」より)

 東京都知事だった石原慎太郎さんが、芥川賞の選考中に憤慨・離席し、芥川賞の選考委員をその回で辞すこととなった問題作『道化師の蝶』。

 それを書いた張本人・円城塔さんは、ワイドショーの華にこそなりませんでしたが、むしろ氏こそより一層過激な存在なのかもしれません。

 円城氏が芥川賞で物議をかもしたのは、『道化師の蝶』候補回が最初でもなければ石原選考員ただひとりのことでもありません。

 おなじく芥川賞の選考員で、様々な分野の小説を手がけ、他メディアでも『カンブリア宮殿』MCをつとめるなど多業種の著名人とかかわりをもつなどする現代日本の知識人・村上龍さん。

 龍氏は円城氏の過去作『これはペンです』が芥川賞候補となったさいに、選考会で「ディテールで間違うと、決定的(な欠点となる)」という旨を主張し、落選の決定打とした人物です。

 円城氏は選評をうけて専門家に査読もたのんだうえで自作が考証面に問題がないことをたしかめ、それはそれとして「ここが間違いとみなされたのでは」と思う箇所に見当もつけましたが、肝心の龍氏はどこが間違いと読んだのか仔細を明かすことなく沈黙し、『道化師の蝶』が候補となった回についてはどんなつもりでか存じませんが欠席をしました。(ちなみに龍氏が選考会を欠席したのは18年間36回のうち3回だけです)

 

  19年初頭の読了本やツイート;国家規模の大量死が描かれそう

 ただ淡々と本を書き本を読み、思ったことをふとつぶやく。そんな姿がなぜだかどうにもおそろしい。

 さきに引用したとおり18年秋に「登場人物を殺さなければいけないほど大きな主題ってなにか、というのは、長年の疑問だったのですが、人が死ぬ劇、と思えばそういうものと思えるというのが、最近の発見ですね。」とツイートした円城氏は、2019年1月に『命の価値』(19年01月06日読了)や『団地の給水塔大図鑑』(19年01月14日読了)『ファクトフルネス』、『鉄道デザインの心』などを読みます。

 じぶんがいったい世界のどこのなにを踏み抜きそのはらわたを露わにしようとしているのか、なにひとつ隠すことなく平然と品定めをしている。

 あるいはすでに踏破し終えたあとの、無残に散らされた食べかすの痕跡。

 氏の読書録は、円城塔という怪獣の、悠々たるたたずまいに見えて仕方ならないのです。

 

 の価値』は、オバマ政権下で情報規制問題局(OIRA)の局長として仕事をしたキャス・サンスティーン氏の施策決定にかんする判断基準を記した本です。

 そこで用いられる費用便益分析の基本的なかんがえかたから、定量不可能なものに対してどうするか? アメリカ政府で広く使われているというブレークイーブン分析などを紹介しつつ金融崩壊や尊厳に関する施策の検討をしたのち、タイトルとなっている人命にかんする施策をめぐる議論をしていきます。

 それはけっきょく、ダニエル・カーネマンらが検討したり、911以後にひとびとが航空機利用を控え代わりに自動車利用をこのんだことでその年の自動車による事故死者数が例年の約1500人増・911旅客機搭乗死者数の6倍となってしまったというゲルド・ギーゲレンツァー氏の研究を紹介などした『リスクにあなたは騙される』(円城氏『本の雑誌』10年5月号書評本)で取り上げられたような、人間の認知の偏りにかんする考察ともなります。

 911の影響やあるいは日本でも話題のワクチン(の副反応を不安視して、ワクチンを接種しないよりも被害が出る)問題*54となれば「ふむふむ……」と聞いていられますが、2001年秋フロリダで議論・施行されたサメによる攻撃を抑えるための新しい法規制*55などの事例を見ると、人間という偏りについてキビしい気持ちになります……。

 さてこの本によると、アメリカでは1億ドルを超える施策をおこなう場合はOIRAづけの議題に挙げなければならないと定められているとあり、

「ということは、"コスト面でおいしくないし説得力もうすいから、省をとびこえてOIRAの議題にあげられたら絶対に却下されちゃうけど、やらないと大変なことになりかねない大事な対応" を、主役が提案して。

 それで、そこまで培ってきた信頼によって省内だけにはGOサインが出て、内々でどうにかこうにか1億ドル未満に抑えられる "ということにして" 通してしまう~なんて展開があったらアツいのでは?

 でも熱血バトル漫画の路線であって、リアリティラインの高い作品ではきびしいだろうな……」

 とか思ったんですけど、予告編見るにそういう無理が出てきてもおかしくない雰囲気はちょっとありますね。いやそもそもアメリカが舞台になるかはわかりませんが……。

 

  ヘドラドゴラはななつ星を見る?;『微隕石探索図鑑』『鉄道デザインの心』

 道デザインの心』は"ななつ星"などのデザイナー水戸岡鋭治さんによる自作のデザイン・製作にかんする本。

 今著で水戸岡氏は、じしんのデザインを担当した車両の――特に寝台特急ななつ星」の――さまざまな細部について記していきます。

 JR九州も製造を担当する車両メーカーも声を合わせて大反対。メーカーの人は予算が合わないからダメ、手間がかかるからダメって言う。JR九州は危険だからダメ。揺れる列車の中でガラスを使うと割れるっていうんです。

 冗談じゃない。今だって窓ガラスは使っているじゃないか。でも仕切りのガラスは別の話になってしまうんです。今までやったことないことをやるのはまず危険だと。顧客にとって危険なんじゃなくて、会社員としての自分の立場が危険なのね。自分が最初にやる係になりたくないから。「水戸岡さん、どこかに前例はないか」って聞いてくる。(略)「ヨーロッパにあるよ」って言ったら、「いやヨーロッパじゃなくて日本で」って。

   『鉄道デザインの心』kindle版8%(位置No.2076中 152)、「第1章 雇い主に盾突く」ガラスがなぜダメなんだより

 いろいろな先行例があるなかで何故じぶんの車両のこの部分はこうしたのか?

 地方で利用者もすくない鉄道ゆえ予算も限られているなか、そして何年にもわたって毎日運行する実用品としての能力も求められるなか(見栄えだけよくて整備しにくいんじゃ仕方ないなど)、いかにして他に埋没しない「九州の顔」を作り上げていったのか?

 水戸岡氏は内情をよいところもわるいところも開けっぴろげに雄弁に語ります。

鉄道会社が工場を持っている必要はないんじゃないか、全部大きな車両メーカーに任せればいいという雰囲気でした。

「それは、まずいよね」って反論しました。JR東日本とかJR西日本とか、大きい会社はいいでしょう。でもこんな貧しいローカル線をいっぱい持ったJR九州が、東京と同じ電車をもらって走らせても、お客さんは乗りません。オリジナルを造るしかないから、工場は絶対残しとかなきゃダメです。職人を残しとかなくちゃいけないのです。だから、工場を残してほしいって。JR九州の唐池社長(現会長)が、工場を残すって決めたんです。

 その小倉工場で、今は小倉総合車両センターっていうんですけど、その小倉で、「ななつ星」を造ったわけです。

   『鉄道デザインの心』kindle版16%(位置No.2076中 313)、「第2章 本当の顧客に尽くす」工場を復活させる活力より

 「九州を怪獣が襲うなら、これが対象にならなきゃ!」と興奮することしきりの内容なのですが、たとえ九州が舞台とならなくても『ゴジラS.P』に活きてきそうな内容だなぁと思いました。

 自慢の車両の細部の数々の記述は、そのまま、水戸岡氏がいかにして全国津々浦々のごくごく少数の職人たちと出会い、縁を結んだか。その思い出の種々でもあるのです。

山桜っていうのは、天然記念物だから切っちゃいけないんですよね。だから市場にはないことになっている。ただ、そのときたまたまJR九州の車両課の人のおじさんが材木屋さんをやっていて、台風で倒れたり折れたりしたやつをまとめて積んであった。切っちゃいけないけど、自然に倒れたやつはいいわけです。

 そしたらヒノキ工芸のおやじが一緒に見に行って、「これはいい」と言ったので、JR九州がみんな買ったんです。で、それを使ってブラインドとかを造っていくんです。ピンク色で、いいブラインドですよ。

 ブラインドだけでなく額縁も天板も山桜で、見えるところはほとんど山桜です。

   『鉄道デザインの心』kindle版21%(位置No.2076中 416)、「第3章 攻撃的職人列伝」本当はこんな安い仕事はしないんだけどより

 『ゴジラS.P』のPVで見る感じ、多脚ロボットに、スクーターに……さまざまな機械を組み合わせて徐々にアップグレードを重ねていくらしいジェットジャガー

 その改造・換装過程には、『鉄道デザインの心』のさまざまな人々の意気や知識や経験がぶつかり噛み合っていく創発的なモノづくりの味わいが、どこかに含まれたりするやもしれません。

 

 さて第3弾予告ではヘドラらしき怪獣の姿がおがめました。ヘドラは隕石の鉱物起源の生命体で、円城氏が18年04月27日に『微隕石図鑑』を読んでいたのはこうした部分の掘り下げだったのかもしれません。

 ただオリジナルのヘドラとちがって、予告でみられるヘドラは透き通った水色のからだをしていて、ドゴラ的だと見る鑑賞者もけっこういる。たしかに。

 『宇宙怪獣ドゴラ』はゴジラとおなじ東宝の本多監督円谷特撮怪獣映画で、ドゴラは炭素を糧にいきる宇宙生物北九州市筑豊地区の石炭集積場などをおそいました。工場から出た排出物を糧とするヘドラとの親和性がたかい。

 円城氏は『珪藻美術館』を読了もしていることですし、シリコンアイランド九州へ現れななつ星を壊すこととなる宇宙珪素生物ヘドゴラとか見られたら面白いんでないかな~なんて思います。

 

  ラドン? 米アニメ版『ゴジラ』の巨大コウモリ? ;コウモリ関連の読了歴

 『健康を食べる豆腐』にコメントを残した2019年7月あたりで内容が近しい本の履歴は、『ボクが逆さに生きる理由 誤解だらけのこうもり (Natsume-sha Science)』(19年08月09日読了)、『時間は存在しない』(19年08月10日読了)『コウモリの謎: 哺乳類が空を飛んだ理由』(19年08月11日読了)『【カラー版】動物翻訳家 心の声をキャッチする、飼育員のリアルストーリー』(19年08月12日読了)を読んでいます。

 怪獣映画にくわしくないのでググってみたら、『ゴジラ』シリーズでは巨大コウモリが出ていたそうな。これでしょうか? わからん……。

 

 ラドンという線もなくはないでしょう。『ゴジラ幻論』で倉谷氏はラドンについて論じる章で、プテラノドンとコウモリとが混同されやすかったことを記しています。

 予告第2弾のラドンのように吠えるプテラノドン的怪獣は、サメのような(ポスターのギュラゴジの口の中のような)歯を有しています。一方でプテラノドンはその名のとおり歯を持たない恐竜でした。また予告編に登場するラドン的怪獣をよく見ると、さらに幅があり、極彩色のラドン的怪獣は実際のところプテラノドンとちがって尾が長く(こちらのラドン的怪獣は、倉谷氏が竹内博編『東宝特撮怪獣映画大鑑』のラドンの図版について指摘しているランフォリンクス*56的な造形と言えるかもしれない)、暗い色のラドン的怪獣は尾が短い。

 ギュラゴジのラドン的怪獣は、プテラノドンとは別の出自ももつ怪獣なのかもしれません。

 コウモリ的な翼をもつ恐竜が見つかってもいて、そちらの復元図では歯が見えます。

www.nhk.or.jp

 コウモリ的な恐竜は2015年にイー・チー(Yi qi)という名でネイチャー誌に掲載されたものの同種で、4年まえより状態のよい化石が見つかった、というお話ですね。イー・チーに関しては『ボクが逆さに生きる理由』p.142~143でも紹介されていました。

 クが逆さに生きる理由 誤解だらけのこうもり 』は(株)野生生物総合研究所を9年勤めたあと現在フリーの写真家として活動する中島宏章さんのコウモリ解説本。(監修として東京大学院農学生命科学研究科付属演習林の福井大助教&北海道大人獣共通感染症リサーチセンター国際疫学部門の高田礼人教授がクレジットされています)

 写真やイラスト図版を適宜はさんだ、しゃべり言葉に近い中島氏の語り口は、とにかくとっつきやすい! それと同時に、参照元がある情報にはきちんと研究者と発表年を載せてくれているから、リーダリティよりも正確な情報を求めるかたの期待もかなえてくれそうです。

 コウモリの衣食住や生態について端的に紹介した1章のあと、2章では化石のコウモリとの骨格比較や、リンネの見立てから86年サイエンス誌の論争そして00・06年東工大のDNA解析などを取り上げつつのコウモリの生物学的分類にかんする史的展開、題名にもなった逆さまぶら下がりの利点、考えられうる欠点がなぜ生じないのかなどを、同じような特性や問題を抱えていそうな動物と並べつつ記していきます。

 人間が逆さ立ちをしたら頭に血がのぼって気持ち悪くなってしまう。コウモリはなぜ大丈夫なのか? そしてその観点から行くと、首の長いキリンは水を飲むだけで頭は5mの昇降がある。なぜ失神しないのか? ……さまざまな疑問にこたえつつスラスラ語っていく中島氏は、飛行メカニズム、エコーロケーション、長寿の秘密などその後の各章でも弁を発揮していきます。

 

 翼竜関係では18年3月29日に『巨大翼竜は飛べたのか』 を読了されてもいます。この辺の知見がどう活かされるかも気になるところです。

 

  アンギラスが出るのは想定内。ビオランテの線も見える(大阪・北海道、サウジアラビア隣国の本の読了歴)

 ゴジラは東京だけにとどまらず世界各地を襲いました。言わずもがな。

 円城氏の居が東京にとどまならないのは、ファン以外にはなかなか知られていない事実かもしれません。

 円城氏は『想起の文化』にコメントを残した2019年2月前後に『印度放浪』、『鉄道デザインの心』(19年02月12日読了)、『放射能 キュリー夫妻の愛と業績の予期せぬ影』(19年02月16日読了。被爆原子力関係では、『テクノクラシー帝国の崩壊 〔「未来工房」の闘い〕』(17年12月06日読了)、『原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書)』も18年9月21日に読了)、『地球外生命と人類の未来』{19年02月19日読了、『週刊文春19年3月21日号』にて書評(評は文春オンラインに再録・公開中)を読んでいます。

 そこからの読書歴もまたおそろしい。

 『アイヌの歴史 海と宝のノマド』を19年08月19日に読んだ円城氏は、『アイヌと縄文』(19年08月21日読了)『アイヌ学入門』『日本の金』(19年09月11日読了)(2019年5月ごろには『アイヌのごはん』も)。橋爪『大大阪の時代を歩く』(19年09月08日読了)『よみがえる古代の港 -古地形を復元する-』『地図と地形で楽しむ大阪淀川歴史散歩』(19年09月08日読了)古市古墳群が表紙をかざる『カラー版でますますわかった! 地形と地理で解決!! 古代史の秘密55』(19年09月10日読了)、月日が離れて19年11月20日ごろ『日本の路地を旅する』『被差別の食卓』など上原義広氏の本4冊(大阪の被差別部落で育った上原氏が日本や世界の被差別部落やそこでの食事をたずねたルポ)

 円城氏は北海道の出身で、現在は大阪に暮らしています。

 この駅、どこがどうつながっているのかいまだにぜんぜんわかりません。前からわからなかったのですが、ますますわからなくなってきました。地下街がすさまじいことになっているのは全国的に有名ですが、ついに地上部まで迷宮と化した感があります。

   産経WEST(2017年3月25日)掲載、『芥川賞作家・円城塔の関西ぶらりぶらり』「迷宮・大阪駅 正面はどっちだ!?」より

 2017年ごろには産経で関西を歩く連載をもち、それとは無関係に(経路をベビーカー・車椅子でも移動可能なことを条件として)京橋を練り歩いたりもしています。

togetter.com

 観念的なものばかりを扱っているように言われがちだし、自身もディテールの描写に弱いという発言もあった円城氏ですが、はたしてそれは事実でしょうか? ぼくにはちょっと疑問です。

 たとえば氏の語る北海道の暮らしは、読んでるだけで情景がありありと浮かんでくる、生活に根差したディテールに満ちています。

 11月には雪が降り、12月から2月まで雪が積もる北海道では、冬になると、つららをとりに行った小学生が屋根からの落雪の下敷きになって死んだりしますし、飲み会のあと誰かの姿が見えなくなると、みんなかなり本気で捜します。

 酔っぱらってその辺で寝ると死ぬからですね。

 茶碗蒸しには砂糖が入っており、赤飯には甘納豆が入っていたりで、小道具にもことかきません。小学校にはストーブのところまでコークス(まあ、石炭みたいなもの)を運ぶ当番があり、ストーブの上に水を張った「蒸発皿」で色んなものを溶かして遊んだり、ストーブを囲んだ衝立てに、手袋や靴下をひっかけて乾かしたりしていました。

    幻冬舎刊(幻冬舎単行本)、円城塔田辺青蛙『読書で離婚を考えた。』kindle版56%(位置No.333中 185~186)紙の印字でp.177~178、「雪の記憶」より

 もっと詳しく書けだってできるんです。

 小学校には、石炭ストーブがあった。正確にはコークスである。コークスとは何かというと、まあ石炭の抜け殻のようなものである。朝、コークス部屋からコークスを教室まで運ぶ当番があった。バケツにいっぱいのコークスを、木造の校舎の階段をきしませながら上るのだった。窓は凍りついて花が咲いたようになっており、隙間から吹き込んだ雪が廊下にうっすら積もっていたりする。

 石炭ストーブの上には、加湿器がわりに金属製のタライがのせられている。外から雪玉などをもってきて湯につけて溶かして遊ぶ。ストーブは、濡(ぬ)れた手袋を干す、給食の残りを暖めてみる、などなかなか便利なものなのだった。もちろん、遊ぶなと言われるのだが、子供なのでききはしない。囲いもあるが、年にひとりくらいはストーブに直接手をついてしまい、大ヤケドする者がいたように思う。

 雪に埋まって死ぬ者もいた。軒先から下がるつららを取って歩くうちに、屋根から落ちてきた雪や氷に埋まったりする。プラスチック製のソリがあり、買い物などに引いて行った。ミニスキーと呼ばれるプラスチック製の短い板があり、道路で遊ぶなと言われるわけだが、まあ、遊ぶのである。車道と歩道の間には、雪かきをして積み上げた山があり、その上には子供たちが作った道ができていた。当然危ない。まあ年に何人かは死んだりする。

 自宅は石炭ストーブだった。当時の札幌でも珍しかったと思うのだが、アパートにはペチカがあって、壁にはレンガが組み込まれていた。あれはなかなかよいものだが、石炭を燃やすと油煙(ゆえん)が出る。あたりの雪に黒い燃えかすのようなものが降り、服につくとなかなかとれない。あたりの子供はススにまみれていたように思う。

   産経WEST掲載、円城塔芥川賞作家・円城塔の脱力ぶらり、ぽろり旅】「ペチカがあった札幌の生活、子供はススまみれ」より

 

   ▼円城氏の創作観の変化

 こういうことを書くと、「円城塔にリアリティとか写実とかもとめてるんですか~?」と鼻で笑われてしまうか、「書けたとしても書くかたでしょうか?」とやさしく諭されそうな気もします。

 うんうん、そういう作風のかたですよね。この記事のうえのほうで引用した円城読者の反応からうかがえるイメージってそんな感じで、なんなら本人だってそう言ってますよね。

円城 描写するとかって疲れるじゃないですか、単純に。僕は捉え方がすべて紋切型なので、出てくるのは「草っ原」とか「木が生えてる」とか「青空」とか、漠然としたものばかりなんですよ。『虐殺器官』はすべてディテールが決まってるじゃないですか。僕にはできないんですよね。その場にいる人の数とかを考えたくない。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫JA)、伊藤計劃伊藤計劃記録Ⅱ』kindle版63%(位置No.3463中 2151)、「伊藤計劃×円城塔 装飾と構造で乗り切る終末」より

 作家というものを仕事にしている。
 どちらかというと、想像でものを書いていくタイプである。嘘のような本当の話、本当のような嘘の話というものを扱わせればそれなりだと、自分では考えている。

   note、Hayakawa Books & Magazines(β)掲載『小説案を5つ 円城塔』より

 円城氏のわりきりかたは素晴らしく、こんなお話さえあります。

 自分の場合は、自作の小説が他の言語に翻訳されたりするときには、「そちらの方が面白くなるならば、筋自体変えてもらってもかまいません」と言うことにしている。

   円城塔『映画版「屍者の帝国」へ寄せて』より

 でも、ほんとうにそうでしょうか?

 ひとつ前の項で引いた「ペチカがあった札幌の生活、子供はススまみれ」での思い出話は「というような暮らしを当たり前と思っているので、この話が面白いのかはわからない。でもたまに興味を持つ人がいるようなので」との理由から出たものでした。

 そこから1年が経った「雪の記憶」(「ペチカ~」の直近で引用したコラム)で同じような思い出話をした理由は、記事を読んでいくとどうにも違うように思えてならない。円城氏は創作のわからなさについて、ひいては自分自身のわからなさについても語っています。

 僕はもともと、小説というのは、無名無貌の人たちが、名もなき町でなにかをしている、というだけでも、どんな効果をも発揮しうるものなのでは、と思う派だったのですが、この頃色んなことがわからなくなってきてもいます。

(略)

 たまにインタビューかなにかで、

「北海道を舞台にした小説を書く気はないんですか」

 と訊かれることがあるのですが、

「ああ、この人は僕の書く小説を読んだことがないんだな」

 と思っていました。

 でも、なんというかこう、北海道生まれの自分が突然、アメリカ人っぽい主人公で、どこともわからぬ国とか宇宙とかの話を書いたりするのは不思議だな、と思うようになってきました

   幻冬舎刊(幻冬舎単行本)、円城塔田辺青蛙『読書で離婚を考えた。』kindle版56%(位置No.333中 185~186)紙の印字でp.179~180、「雪の記憶」より(太字強調は引用者による)

 生を受け長く付き合ってきた土地や風俗、物や者でなければ描けないものに、円城氏は興味をみせます。

北海道で育った人でなければ書けない北海道民とか、自分でなければ書けない自分というものがあるのかもなというところでしょうか。

   幻冬舎刊(幻冬舎単行本)、円城塔田辺青蛙『読書で離婚を考えた。』kindle版56%(位置No.333中 185~186)紙の印字でp.179~180、「雪の記憶」より(太字強調は引用者による)

 さきに挙げた給水塔への関心だって、じつは円城氏はじしんの出自も一因しているのです。

 北海道の出身であり、内地の風俗に馴染みの薄いわたしは思った。

 という前置きが長くなったが、無論この建築物とは団地の給水塔のことである。

 人によっては珍しくもなんともないものらしい。むしろ珍しがることが奇異の目で見られることのほうが多い。

   円城塔著『書籍化までX光年』、「全国の団地の"あれ"」(本の雑誌社刊、『本の雑誌』2019年10月号「さるかに合戦開始号」p.118)

  「雪の記憶」に戻りましょう。円城氏はさらにこうつづけます。

 ということで最近わりと、身の回りのことにもようやく興味が出てきました。

 ひまわり、麦わら帽子、白いワンピース、夏休み、みたいな単語のセットを利用すると、誰でもすぐに、自動的に小説みたいなものは作れるような気がします。

 これは、冬休み、ダルマストーブ、校庭の雪だるま、みたいなものでも同じわけですが、全く同じわけでもない。アイテムが自分と深く結びついているならば、ただのアイテムではない力を発揮して、お話に固有の力を与えうるのではないか、ということです。

      幻冬舎刊(幻冬舎単行本)、円城塔田辺青蛙『読書で離婚を考えた。』kindle版56%(位置No.333中 186~187)紙の印字でp.180~181、「雪の記憶」より

 ここから時を経て書かれた別のエッセイ「物から読み解く政治思想」では、それをリバースエンジニアリングしたかのような思索ものぞけます。

本質的にみんなが違う意見を持つ世の中を、一つの視点しか持たない作者が描くことはできるのか、というのは謎だ。

 謎ではあるが、すでにそこに複雑な履歴をもって存在している物とは、一個の人間の考えを軽く飛び越えているところがあって、こういうとなんだかワビサビみたいなところがあるが、なるほどそうした細部から、様々な人間の姿が自然と浮かび上がることがある。

   円城塔著『書籍化まで□光年』、「物から読み解く政治思想」(本の雑誌社刊、『本の雑誌』2018年2月号「雪あかりイカ巻号」p.118、最下段1~11行目)

 固有の物にまつわる固有の経験を有した個人がそれについて語るものに何らかの力が宿るとして、様々な来歴をへた事物にはそれにまつわる固有の経験を有した幾人かの面影がそれぞれにじんだりするのではないか?

 

 そうした趣は、円城氏の実作でもすでにうかがえていたものでもあります。

 それはたとえば上で話した共著『屍者の帝国』にも見られましたし、『文字渦』だとより顕著なかたちで確認できます。

 

   (▽脱線;『文字渦』の「馬」など一文字ににじむ複雑な履歴・浮かび上がる人々の姿)

 繰り返しになりますが『文字渦』は、文字が生まれたり子を産んだり親戚ができたり子孫がひろがったりするお話です。

 ファンタジーじゃん。ファンタジーじゃんね。

 「小説は神経系へのハックなので、意識にのぼるものを最適化したところで最適とは限らない」だなんだとカッコよく言ったところで、べつに頭蓋を開いて脳みそに直接電流を流すわけではなく、五感という入力器官をつうじる迂遠な方法でもって、脳のシナプスに電気を流させるわけじゃんね。

 小説というのはどうやったって文字表示媒体に書かれた嘘なので、「嘘みたいな本当の話」をそのメディアで書いたところで、「"嘘みたいな本当の話"というフィクションなんだな」と思われてしまう余地がうまれてしまいますよね。

 意識にのぼるもの(小説じゃんね、作り物じゃんね、嘘じゃんね)をまず潜り抜けなければ。屏風に描かれた虎を「生きてます。捕まえて!」と言い張ったところで「じゃあ屏風から出してくださいよ」で終わってしまう。

「いいからとっとと箱の中身を見せなさいよ」3:58

「だ~か~ら~、開けると箱の中身がなんだったか忘れちまうんだよ」4:02

「開けないとそもそも調べられないでしょ」4:06

   スペース☆ダンディ』第11話「お前をネバー思い出せないじゃんよ」(円城塔脚本)より

 本当のこと、本当に思える本当の話、本当に思えない本当の話、嘘にしか思えない本当の話、本当に思える嘘、嘘に思えない嘘、嘘に思える嘘……そういったあわいのある表現を縫って、ようやくわれわれは「嘘じゃないかもしれない」と思えるわけでしょう。そこからやっと、嘘に思える嘘なのになぜだか本当と感じられてならない話、本当に思える本当の話なのになぜだか嘘としか感じられない話なども見えてくる。

 振り込め詐欺師がいつまでも「ばあちゃんおれ車で事故っちゃって」と言ってたら捕まえられてしまいます。人口はさきぼそり年配のかたに孫がいる可能性は減っていくいっぽうだし、車をもってるかどうかだって怪しい時代だ。その時代・社会・人物に即した「本当に思える嘘」がある。

www.youtube.com

 バーチャル界の学級委員長・月ノ美兎さんは前世療法を受けに行き、車で移動することはおろか乗っただけで吐き気がしてしまう自身の性分について相談しチャネリングをしてみてもらったところ(46:05~)、「月ノさんの潜在意識として、車に置き去りにされた幼児の姿が見えます」との旨を言われ、「うち自家用車をもったこと一度もないんだけどなぁ」と思いながら聞いたそう。

 たとえば「叔父は文字だ」とか「これは無活用ラテン語で書かれた文章の翻訳です」とか書かれて「ハイそうなんですね!」とはなるのはよっぽどよいお客さんで、「"よいお客さん"? いやいや普通にそう読めませんか……?」と言うかたはすごくやさしい人だと思います。ぼくとともだちになってくださいませんか?

 『道化師の蝶』はぼくにとってそういう本で、あれはぼくにとって「嘘に思える嘘」が「どう考えたって嘘なんだけど、でも本当にそう言い切れるのだろうか?」と、なぜだか嘘に感じられない、なぜだか本当に感じられてしまう不思議なファンタジーでしたが――作り手の意図どおりの印象なのかもしれませんが――それでもその日の体調や天気とか湿度とかによっては「嘘は嘘じゃんね」と全然ノレなかったりする。

沼野 (略) 第1章はこのペアノの考えた無活用ラテン語を日本語に訳したことになっていますよね。その日本語の文体はちょっと翻訳くささを残したものになっていて、それは意図的なんでしょうけれども、それだったら何語から訳したってそうなるわけで、そこが不満なんです。無活用ラテン語らしい特徴を翻訳に出すことはできなかったのか。つまり、日本語にはそもそも名詞の格変化はありませんから、「てにをは」を全部「が」にしてしまうとか。

   講談社BOOK倶楽部掲載(初出『群像2011年8月号』)、『道化師の蝶 合評』より(略は引用者による)

 文学者の沼野充義さんは、『道化師の蝶』について高く評価しつつも一つ「はっきりとした不満」として上のように述べます*57

 ぼくは沼野氏とちがって無活用ラテン語の知識なんてないですが、それでもなんかひっかかりました。

 いや調子がよいときは、気にならないんですよ? というか、気になるんだけど、気になったことで頭がぐるぐる回ってくれる。

「各章にある他のさまざまな矛盾とおなじように、第一部の"それ"と後段の"それをくくる言葉"も、目を動かすのを止めてよくよく見れば"そんなことないじゃんか"と露見してしまう意図的な破綻のひとつ。破綻は問題でもなんでもないのだ。

 破綻しているのに、読んでいる最中は結線するはずのないそれらが確かにつながり実を結んだ瞬間があり。そうして書かれ得ないものが、なぜだか脳内に思い描けてしまった瞬間がある……

 ……それこそが大問題で、今作の醍醐味だ」

 とグイグイ読めて、乳児向け離乳食満漢全席なる劇中独自料理が「次々と手を変えては差し出されるほんの爪の先程の小さなペースト状の塊をひたすらに並べて詰めた……ってコレようするにいま視界に入ってるこのこまごました文字の連なりのことじゃん!」とぎゅんぎゅん見えてくるんですよ? 見えないときはなんも見えません

(それでも見えないものを見ようとして円城塔を覗き込んでですね。暗闇を照らすよな微かなニューロンの発火を探しましたよ。でも予報外れの雨に打たれて何も見えなかったりするんスわ。ぼくも32です。映画を観に行けばおしっこ我慢大会になり、誕生日をむかえたその夜に寝小便を垂れて、ベッドにしみこんだ尿をタオルとドライヤーで吸い出している圧倒的現実のまえには「そんなん付き合ってらんねぇよ……」となったりするんスわ。

 水分を取るだけのつもりで、柄物のマットレスの濡れて暗い色となった部分に白いタオルを当てたら、みるみる黄色に染まっていくあの現実の不思議や。「臭いはそんなしなかったけど、深刻な事態じゃないかこれ?」という圧倒的動揺のほうが、自分の中で大きな位置を占めたりする。

 人生はつらい。すきなときにすきなだけ本を読んでいられたあの頃から、ずいぶん遠くにきちゃったな。どうしてこうなっちゃったんだ)

 

 いっぽう『文字渦』については、しっかりのめりこんでしまった

まず単位となる要素を「人」種とするならば、これは分裂の結果「」へと変化する。「」字となる場合もあるが、微化石としてはあまり見られない。「从」は従うの意で、これは、つきしたがう形によって従うを意味した「从」に字義を強調する要素を加えた「從」を簡略化した形である。「从」字や「众」字は瀛州でこそ物珍しいが、大陸においては日用される文字である。

   新潮社刊(新潮文庫)、円城塔著『文字渦』kindle版40%(位置No.5235中 2064)、「微字」より(リンクは引用者による)

 「無活用ラテン語で書かれた作品の翻訳です」と『道化師の蝶』が言って指すのは、翻訳文章に読み慣れた理数系の学者筋のひとがふつうに書いた文章でした。

 いっぽう「文字が繁殖します」と『文字渦』が言って指し示すのは、とある字「・」に「‥」形に並んだ別字、「∴」形に並んだ他字が現にあるという実例です。見た通り文字通り文字が繁殖してんじゃん! こいつら繁殖したんだ! うまぴょいしたんだ!!

 そしてそこには、かつて誰かがいだいたであろう実感もまた乗っています。

 『文字渦』収録「微字」のなかで、「从」を見たぼくは、巻頭の「文字渦」を思い起こして震えます。

 俑には秦の文字がよくわからない。この地で使われている文字は、俑の見知った文字とは違い、なんというかこう、度を超して簡潔にすぎるのである。ただの線の入り組みであり、線でしかない。馬という字を見ても馬とわからず、羊という字は全然羊のようではなかった。岩も川も空も冷たさも皆似たような、同じ太さの線からできており、具象抽象を問わず軽重がなく均質だった。

   新潮社刊(新潮文庫)、円城塔著『文字渦』kindle版3%(位置No.5235中 144)、「文字渦」より(太字強調は引用者による)

 やがて小篆と呼ばれるようになる秦の文字が、この先もずっと残っていくものだと俑には全く思えなかったし、そもそも文字だとも考えなかった。神聖を欠いて卑俗な符丁にすぎない。馬のように見えない馬の字などは事物と一時の結びつきしかもちようがなく、符丁の意味はすぐ見失われて、ただの模様になり果てるだろう

   新潮社刊(新潮文庫)、円城塔著『文字渦』kindle版4%(位置No.5235中 153)、「文字渦」より(太字強調は引用者による)

 「文字渦」の俑という名の兵馬俑職人は、秦の文字のつまらなさをこう評し、じしんの故郷を侵略し周辺を統一した秦のえらいひと(以下に引用する文のなかには、「嬴」の異体字が含まれています。機種によっては×表示になってしまうかも……)とこんな対話をします。

 どこまでが冗談なのか俑には不明だ。方向の知れぬ会話はどこで死の淵が不意に口をあけるかわからないから、話題を転じた。

「──先日、秦の文字を参考にせよと申されましたが──」

「俑を管理するのも文字を管理するのも同じことだ」と𦣄は何かを払うように手を振る。「ただの符丁にすぎずとも、秩序に従うことが重要で、従うことではじめて意味が与えられることになる」

「『』ですか」と俑は間を置き、「わたしの国では『』とします」

「従うことを『從』とするのが、物事に従うということだ」と𦣄

「『从』の字が『https://glyphwiki.org/glyph/u4ecc.png』と異なる字であるとする根拠は何もないのと同じく、『從』であっていけない理由はない。定める者と、従う者があるだけで理由も因果もありはしない。理由はなくとも、文字を秩序の網で覆うことはできるし、人は法で縛られねばならぬ」

   新潮社刊(新潮文庫)、円城塔著『文字渦』kindle版5%(位置No.5235中 246)、「文字渦」より(太字強調・リンクは引用者による。人が縦に二つ並んだ字https://glyphwiki.org/glyph/u4ecc.pngはグリフウィキ様から引用しました

 なにげない会話でさえも死の恐怖がにじんで話題をえらび、そうしてえらんだ話題であっても自国の文字を他国の(大国という、地理的にも広く使用者も使用量も雑多なコミュニティで使うにふさわしい、たぶんに汎用的で官僚的な)それへと矯正・強制されてしまう……

 ……これは秦以前から秦へ、そして秦から後代へとどんどん簡素化される文字にたいして、ひとびとが抱いたであろう実感のように読めうるでしょう。

 すでに述べたように、秦の始皇帝は天下を統一すると、李斯(りし)の建議に従って〈大篆〉(籀文・籀書ともいう)を改良した〈小篆〉を公式の書体と定め、戦国時代に諸国で用いられた書体の使用を禁止した。ここに全国に君臨する皇帝の文字が生まれたのである。しかしながら、この皇帝の文字は曲線が多すぎた。上申・報告・命令など、おびただしい役所の文書を能率よく処理し、繁雑な事務をこなすには、あまりにも装飾的であり、実用に適するものではなかった。

 そこで簡便で能率的な文字として、直線を基準とした隷書が用いられるようになった。小篆が皇帝用の公式の文字であるのに対し、隷書は役人用の実用に適した文字となったのである。ただ、隷書は、教養ある人々の尊重する文字ではなく、当時はまだ小篆が主要な地位を占める文字であった。

 しかしながら秦代では通俗文字であった隷書は、その簡便さによって漢代に至ると小篆に取って代わって一般に通用する標準書体となった。ごく限られた勅令のほかは、天子の詔勅の類でさえも隷書で書かれるようになったのである。

 それでも前漢(西漢)の頃は、漢字をとり巻く環境はまだ悪くなかった。Ⅰ章の終わりの方でも述べたが、その頃は大尉律(法律の一種)に従って、十七歳以上の者に漢字の試験を行い、九千字以上を読み書きできると群県の史(書記官)に採用した。さらに、中央政府の長官が〈秦書八体〉についても試験し、その成績が優秀な者は尚書(宮中で文書の発布を掌る官)の令(課長補佐)に任ぜられる制度があった。また吏民が役所に提出する文書に誤字があれば、法規に照らして処罰の対象にもなったのである。

 そのことを物語るエピソードがある。前漢武帝(在位前一四一~前八七)のときである。石建という郎中令(長官)が上奏文を書いたとき、篆文の馬の字を書きまちがえてしまった。そのとき彼は「馬の字は、下の曲がったところを加えて五点であるべきなのに、四点になっている。一点たりない。陛下のお譴(とが)めがあれば死罪にあたるだろう」とはなはだ恐れおののいたという。『史記』巻百三「万石張叔列伝第四十三」に見える話である。

 ところが、許慎が生きた後漢になると、このような試験制度は廃止され、そのため秦書八体を学習する機会も失われ、小篆など古代文字はまったく遠い存在となってしまった。そのため、漢字の書体は混乱し、隷書の字形による謝った解釈も行なわれるようになっていった。

   岩波書店刊(岩波新書)、大島正二著『漢字と中国人 ――文化史をよみとく――』p.91~93、「Ⅲ 形で分類する――字書」漢字をとりまく漢代の状況より(太字強調は引用者による 

 (秦のあと漢の時代になりますが)記』をひらいてみれば、ある人物は馬の脚を5本に書き損じたために「処罰されるのでは」と恐れおののいた逸話が記されています{ということが、円城氏が読了している大島正二字と中国人』(12年7月26日読了本。「なるほどなぁ」と読了コメント付)下からの贈り物―新出土資料が語るいにしえの中国』p.126~7で紹介されています}

 こうしたお上による「馬」の四角四面の生育は、秦代より前漢代よりはるか後の明代でも聞くことができるそうで(一次ソース不明の孫引きですが)……

 明代にあっては挙人になるための試験は三年に一回、(略)三日間かかって実施された。(略)

 試験官はきわめて厳格な態度で答案を調査し、ちょっとした間違いでも見逃すことはない。漢字でうまは馬と書くが、急ぐひとは四つの点を略して横に一本の線をひき、https://glyphwiki.org/glyph/dsknmt_hkrm-08017321.svgと記すのが普通である。ある受験生は楷書で記さなければならないという決まりを犯して答案のなかにこの略字を記してしまった。(略)普通ならば合格するところであったが、この過失のために落第してしまった。試験官の評語は「四つ脚なきhttps://glyphwiki.org/glyph/dsknmt_hkrm-08017321.svgは歩む能わず」というものであった。

   平凡社刊(東洋文庫)、ブーヴェ著『康熙帝伝』kindle版83%{位置No.260中 215~6(紙の印字でp.203~4)}、矢沢利彦氏による「解説」より(略・太字強調は引用者による。略字の馬はグリフウィキ様から引用しました

 ……矢沢利彦氏は『康熙帝伝』(円城氏16年07月04日読了本)巻末にてそんな逸話を紹介しています。

 「微字」(『新潮 2017年3月号』初出)には、本の古い層のなかで化石化した文字を研究する"本層学者"――そのなかでも顕微鏡サイズのちいさな文字の化石を調べてまわる、微字学者の思索がえがかれます。

 そのなかには、すでに引用した「人」種についての文章のように、文字の繁殖や地理的な分布についての検討する場面もあります。たとえばこんな考察だとか。

」は示準化石としても用いられるが、」は夔州の限られた範囲にしか産しないので、汎用性には欠けている。いやしかし、「夒」にも「」という変種が存在するから、こちらも「牛」型と考えるべきだとする意見も存在する。 

   新潮社刊(新潮文庫)、円城塔著『文字渦』kindle版39%(位置No.5235中 2029)、「微字」より(リンクは引用者による)

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 あるいは円城氏が16年8月に「良い本。」と読了コメントを残した下からの贈り物―新出土資料が語るいにしえの中国』p.125を開いてみれば、大西克也氏が担当した「1-15 文字はこう変わった」{ご自身の過去の共著(大西克也&宮本徹著)ジアと漢字文化』から引用するかたちで}戦国時代、秦・燕・斉・中原・楚においてそれぞれ異なる「馬」の地域別分布図が掲載されています*58

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 はたまた中日サンスクリットチベット語を学んで複数の国の大使館に勤務したオランダ外交官・作家(現在ではむしろ21世紀でも映画化されている『ディー判事』シリーズの作者と言ったほうが分かりやすい)ロベルト・ハンス・ファン・フーリク氏は、殷代の甲骨文字(左3字)からその1000年後の篆書体(右から2番目)そして現在の楷書体(右端)に至る「馬」(や「鹿」「亀」)の変化を書き留め、自著国のテナガザル』で紹介しています。

「『从』の字が『https://glyphwiki.org/glyph/u4ecc.png』と異なる字であるとする根拠は何もない」「秩序に従うことが重要」

 とは「文字渦」劇中の秦のえらいひとの言ですけど、「馬」の字もまた「从」&「https://glyphwiki.org/glyph/u4ecc.png」とおなじように、脚をつける地面が90度向きを変動してしまったかのような変遷をたどる字なのでした。

 フーリク氏は「微字」の本層学者よりこまかに「」の生息域を追いかけます。そうして夔州の「夔」はもちろんのこと、山東省の「」を見つけたりもする。

 nao が、音声的にも意味的にも、重要な役を担っている二つの字がある。今日でもまだ使われているのだが、一つは「」で、「夒」 nao に大型ザルを意味するけものへんが結合したものである。もう一つは「」で、これは「夒」に山へんが結合したもの。これは山東省にある山の名でもあるが、多分かつてはサルの生息地であったのだろう。

  殷代の nao は、現在「夔」 k'uei と発音されるもう一つの文字とも密接な関係がある。ここに示してあるその篆文から明らかなように、これは「夒」字の上に長い髪のようなものが加えられたものである。(略)「夔」はいま四川省の奉節地方の近くに「夔州」という地名が残っているが、それはまさにこのサルの意味においてである。こはちょうど三峡がはじまるあたりで、これまでテナガザルの生息地として何世紀も有名であったところなのである

   博品社刊、R・H・ファン・フーリク『中国のテナガザル』p.46~47、「Ⅰ上代から漢代まで」より(リンクは引用者による)

 「微字」の「夒」をめぐる研究は、大部が中国やオランダなどの漢字研究者がまじめに研究している単なる現実でしかなかったりするわけなんですね。

 象形文字指事文字は、最も原始的な成り立ちとされ、新石器時代の陶文によく似た形が見られるものもある。

 これに対し、会意文字は、複数の象形文字を組み合わせて動作や様子を表したものであり、象形文字指事文字に比べて複雑な状況や抽象的な概念を表すことができた。より発達した文字と言えるだろう。

 例えば、林(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/%E6%9E%97-oracle.svg)は、木(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e9/%E6%9C%A8-oracle.svg)を並べることで「木が多い場所」を表している。さらに木を増やし加えた形は、「木」が三つで森(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3d/%E6%A3%AE-oracle.svg)になる。

   筑摩書房刊(筑摩選書)、落合敦思著『漢字の成り立ち 説文解字』から最先端の研究まで』p.38、「第二章 漢字の成り立ちと三つの要素」 より(の甲骨文字は、ウィキショナリーWikitionary様から引用しました)

 文字の繁殖もまた同様で、ある字「・」が「‥」形に並んだ別字や「∴」形に並んだ他字、「∴」形に並んだ別字になって発達する……ということは、円城氏がひとりで勝手に言っていることではなくて、字の成り立ち 説文解字』から最先端の研究まで(円城氏15年5月28日読了本)にも――例に挙げられる字こそ別物の、「木」「林」「森」という日本人にもなじみ深いものであれ――実際に取り上げられている真面目な研究成果なのでした。

 

 つまり円城氏は『文字渦』で、たとえば初期の文字は「人」から「众」へ繁殖した(たまに「从」などのエラーも出た。「https://glyphwiki.org/glyph/u4ecc.png」もなくはなかった)んだなどと、作者の作り物ではない古くからある実在文字を掘り起こし並べてみせ、そこへさらに現実の研究や、それらの文字と直面していだろうひとびとの実感を重ねてみせます。

 それを読んだぼくが「文字が本当に生きていたのじゃないか」と思えてしまうほどに。

 

 本は、表紙を下にして、順に重ねていくものだ。

 古い頁ほど下に積もるのが自然の道理というものであり、累重の法則として知られる。本来は水平をなすものだから、縦に並んだ本たちは地殻変動の産物である。歴史は褶曲により歪められ、撓曲により断絶が仄めかされることになる。

 不動のものと思われがちな本の配置も、長い目でみれば絶え間のない変化を続けている。どこかの棚で本の表裏が逆さまになるといった小さなものから、一つの棚が丸ごと位置を変えるというようなことまで起こり、はなはだしくは図書館が炎上したり、水にのまれて流されたり、大陸ごと海に沈んだりする。

   新潮社刊(新潮文庫)、円城塔著『文字渦』kindle版35%(位置No.5235中 1797)、「微字」より(文字色変え・太字強調は引用者による)

  「微字」の語り手は本についてそう纏めます。かれが語る「最初の文字」の研究が『生物はなぜ誕生したのか』にしるされるような生命の起源と相似していたように、このもっともらしい(無造作に積み並べるから天地が逆になったりする乱読者にとって「あるある」な)本にかんする描写もまた、くだんの本にしるされたような地層のお話と区別がつきません。

どの時代区分も、一つの「模式層断面」と関連づけられていなくてはならない。模式層断面とは、特定の時代区分を特徴づける最も典型的な堆積岩層のことをいう。模式層断面に選ばれるには様々な条件がある。容易に近づくことができ、地殻変動や加熱作用の影響を受けず、複雑な構造(断層、褶曲[訳注 地層が波状に曲げられること]本来は水平であるべき堆積層が何らかの不可解な力で潰れているなど)をもたず、断層が上下逆さま(じつは意外に多い)にもなっておらず、おまけに多数の化石(大型化石も微化石も)を含んでいなくてはいけない。

   河出書房新社刊、ピーター・ウォード&ジョゼフ・カーシュヴィンク著『生物はなぜ誕生したのか:生命の起源と進化の最新科学』kindle版3%(位置No.7488中 206)、「第1章 時を読む」より(色変え・太字強調は引用者による)

 あるいは地層を書物のページにたとえるところへ、別の古生物学者の感覚をみるひともいるかもしれません。

 本層学は、本の層を掘り返し、ということは、頁をめくって歴史を読み解いていく学問であり、生活時間のほとんどは、フィールドワークに占められる。トラックの荷台に揺られ、露頭をみかけるやハンマー片手に飛び降りてそこらの石を観察しては叩き続ける以前は瓶につめた塩酸も携行したが、この頃は環境保護の観点から推奨されない

    新潮社刊(新潮文庫)、円城塔著『文字渦』kindle版36%(位置No.5235中 1874)、「微字」より(文字色変え・太字強調は引用者による)

それは、かつて海底だった部分にあたる。つまり、われわれを驚喜させた地層は過去を記録した書物のページのようなもので、石灰質の泥のなかに「時間」そのものを封じ込めた後、それ以上の長い時間をかけて岩石と化したものなのだ。層理面上に三葉虫の形跡がいくつか認められた。それらの化石は、かつて海底で生活していた三葉虫の殻で、かれらは「時間」といっしょに物語の一部として石灰岩のなかに閉じこめられたのだ。

   草思社刊(草思社文庫)、リチャード・フォーティ著『生命40億年全史』kindle版21%(位置No.3980中 812)、「第2章 塵から生命へ」原始スープと生命のつくり方より(略・文字色変え・太字強調は引用者による)

海岸沿いに岩をたたいてゆけば、時間をさかのぼりながら、昔々の世界、そのまた昔の世界をつぎつぎとのぞきこむことになるわけだ。この単純な手法により、石に封じこめられた幾千の物語を順序正しく解読し総合することによって、地質年代に関する体系的知識が築きあげられたのである。太古の海は、その歴史を岩石に残した。そのような岩石も、そこに記録された歴史も、やがて出現する新しい時代の海によって浸食される。しかしすべてが消え去るわけではない。残ったものが、すでに消滅した世界の様子や果てしなく繰り返された気候の変化について語ってくれる。そして、この変わりやすい世界に満ちている気づかれざる詩情についても。

   草思社刊(草思社文庫)、リチャード・フォーティ著『生命40億年全史』kindle版21%(位置No.3980中 812)、「第2章 塵から生命へ」原始スープと生命のつくり方より(略・文字色変え・太字強調は引用者による)

 こうして並べていくと、どちらが学者でどちらが作家のことばであるか、よくわからなくなってもきます。『生命40億年全史』の著者リチャード・フォーティ氏は、じしんの研究をじしんの生育・子供時代の関心事とむすびつけます

三葉虫は、私にとって家族も同然の存在だ。スピッツベルゲン島に向かう何年も前、少年だった私はハンマー片手に、三葉虫の化石が見つかると信じて、ウエールズの海岸や川沿いの岩をたたいていた地層のなかの三葉虫たちが自らの処遇を託す者として私を選んでくれたのは、たぶんそのときだったのだろう。

   草思社刊(草思社文庫)、リチャード・フォーティ著『生命40億年全史 上巻』kindle版53%(位置No.3980中 2079)、「第4章 私のお気に入りと仲間たち」食う者、食われる者より(太字強調・文字色変えは引用者による)

 「微字」の本層学者もまた、それらをむすびつけて回想します。

 わたしと層のつきあいは、幼児期にまで遡る

 札幌で生まれ育ったわたしが最初に意識した層序は、背丈ほどの雪山の断面だった。十二、一、二月と雪の積もる土地にあっては馴染み深い存在である。この山脈は除雪作業の副産物として、車道と歩道の間に形成される。除雪といっても、雪を即座に消し去ることはできない以上、短期的には場所を移しかえているだけである。(略)

 新雪が積もると除雪車が出て、前面に構えたブレードで雪を押しのけていく。このとき道の左側へと雪を跳ばす仕組みである。あまりのときには直接、トラックの荷台に雪を放り込むこともあるが、なかなか手は回りきらない。

 除雪車は、車であるから車道を走る。歩道の雪は近隣住民が自ら除くか、そのままそこに放置しておき、獣道のようなものができあがるのを待つかということになる。歩道に跳ね飛ばされてきた雪を車道に戻す流儀もあるが、いたちごっこになりがちなのであまり褒められたやり方ではない。(略)車道に投げ出された雪は車に踏まれ圧され、水となる。水となって流れていけばよいのだが、外気温が低ければすぐにその場で凍りつく。平らに凍ればまだしもだが(略)ついつい凸凹を強調していくことになる。さてこうなると、除雪車でも削るのが面倒な氷となって、ツルハシが持ち出される事態となるのである。

   新潮社刊(新潮文庫)、円城塔著『文字渦』kindle版36%(位置No.5235中 1843)、「微字」より(略・文字色変えは引用者による)

 

A.注意事項

  • 廃液を下水に流せる薬品はほとんどない.MSDS を確認し,廃液処理を適法で行うこと.廃液専用ポリタンクを専門業者から入手しなければならず,法令や所属組織の規則の確認が必要.

   東海大学出版会刊、谷村好洋&辻彰洋編『微化石――顕微鏡で見るプランクトン化石の世界』p.345、鈴木紀毅著「付録1 篩を使った微化石処理と検鏡準備(放散虫,有孔虫,貝形虫,コノドント)」より

 C.処理法各種

(略)

(5)塩酸法

⑥塩酸は下水に流せないので,38~45μmのステンレス篩を使って残渣を捨てないように注意しつつ,酸専用の廃液ポリタンクに塩酸を回収する.廃液の量をできるだけ少なくするため,ビーカーに入れる塩酸溶液の量は最小限とすること.ここでは廃液を流すことだけが目的なので,残渣をできるだけ流さないように静かに行う.

   東海大学出版会刊、谷村好洋&辻彰洋編『微化石――顕微鏡で見るプランクトン化石の世界』p.348、鈴木紀毅著「付録1 篩を使った微化石処理と検鏡準備(放散虫,有孔虫,貝形虫,コノドント)」より

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 試料の取り扱いに注意したりドーバーの断崖の組成にふれたり(直下に引用する文章内の記述)など、「微字」の「わたし」の回想には微化石研究の知見も盛り込まれますが――ついでに言えば、(詳細はさだかでないが、一説として「"ウイルスたりうるDNA片を流しに捨てる世界"が設定として間違ってる」と読み、批判したのではないかと)『これはペンです』を批判し、『道化師の蝶』候補回では選考会を欠席した村上龍さんだって「正しい」と頷いてくれそうなもっともらしい細部でもある――、「わたし」は微化石学者ではなくあくまで本層学者です。

 上に引用した図版のとおり円城氏が参考文献に挙げる化石――顕微鏡で見るプランクトン化石の世界』はべつにドーバーの崖を白一色と言い切ってなんていないのですが、「微字」の「わたし」はそちらの話を掘り下げるのではなく、「わたし」自身の子ども時代のの記憶から――ふるさと札幌、その土地ならではの風景から――層序にかんする独自の色合いと肌理を引き出してきて、自身の研究との符丁を見ます。

 雪が降るたび、除雪車は車道と歩道の間に山を積み上げていくのだが、山には裾野がつきものだ。裾野は大いに邪魔であるから、これも削る必要がある。結果、車道側には雪の山を垂直に削った断崖ができ、断崖には層が現れることになるわけである。雪であるなら一様な純白だろうと想像するのは早計であり、ブリテン(アルビオンドーバー海峡沿岸部に連なるチョーク層などを想像するのは間違いである。ドーバーの白壁は円石藻の化石から構成されるが、こちらは都市部の雨が都市の塵を巻き込んで凍りついた雪にすぎない。基本的に茶色と白の横縞であり、下のものほど上からの圧力により狭くなり、積雪量の多かった日の部分ほど白い帯の幅は広がる。降雪のない日が続けば、茶色の帯は濃くなっていく。茶色はおおむね、溶けて車に跳ねあげられた泥水の色と考えてよい。(略)

 わたしと層の最初の出会いが、道端の雪の層であったというのは示唆的だ。地層と異なり、永続的な層ではなくて、一冬だけで消えてしまって誰の記憶の中にも残らない。

    新潮社刊(新潮文庫)、円城塔著『文字渦』kindle版36%(位置No.5235中 1860)、「微字」より(略・文字色変えは引用者による)

 つまり『文字渦』は作者の作り物ではない古くからある実在文字を掘り起こし並べてみせ、そこへさらに現実の研究や、それらの文字と直面していだろうひとびとの実感を重ね、はては作者の作り物ではない実在人物の研究と実感を、だれかどこかからの借り物ではない作者じしんの実感(だと読んでいて思えるもの)と重ねてみせます。 

 それを読んだぼくが「文字が本当に生きていたのじゃないか」「今だってこうして現役バリバリで生きているじゃんね!?」と感じ思えてしまうほどに。

 なのでぼくは、ゴジラS.P』で円城氏がゴリゴリの具象をあつかってみせたって、なんらふしぎじゃないと思うわけです。 

 

   ▽(閑話休題、本題つづきへ)

 本政治思想史』は、原武史さんによる3つの総論と12の各論からなる放送大学のテキストです。

 日本政治思想史という学問を概観する総論1。空襲により焦土と化した敗戦地でも、天皇がそこへ巡幸すれば熱狂的に歓迎される政治空間となってしまう「空き地」の不思議に代表される、(言説化した政治思想が空間をつくり出すのではなく)言説化されない政治思想をつくり出してきた日本の「空間と政治」を論じた総論2。時間を超越した不変不動の世界「イデア」があるとするギリシャや、理気があるとする朱子学の中国とちがい、「現実のなりゆきに個人が抵抗することはできないという無常感が幅広く定着した」*59日本の「時間と政治」を論じた総論3を主軸として。

 そして各論として、徳川幕府と朝鮮王朝との比較だとか。あるいは国学復古神道明治維新天皇。江戸の街道網と明治以降の鉄道網とを比較した「交通から見た政治思想」。江戸の公衆浴場や藩校・私塾の読書会、鉄道車内などの近代日本の公共圏。帝都・東京と民都・大阪について、公園、雑誌と新聞、東京駅を中心とした管制鉄道網と阪急小林一三など五大私鉄による私鉄王国などをながめた「東京と大阪」比較論。明治維新でつくられた皇后の役割が民間にもあらわれた「シャーマンとしての女性」。大正天皇の病気をきっかけに「国体」が視覚化され超国家主義が台頭するなどした「超国家主義と「国体」」。

 WW2後についても、宮城前広場という「空き地」を米軍のパレードの舞台とし観閲台へ天皇にかわってマッカーサーアイケルバーガーが立つようになった戦後の「アメリカ化」と、それに対する阪急小林一三による新茶道の勃興や国鉄中央線沿線の地域自治を目指す流れなどをながめた「戦後の「アメリカ化」」。戦争による焦土化・住宅不足に悩む日本とソ連がたどった郊外団地の建造などの「戦後の「ソ連化」」などなどさまざまな観点から原氏は政治思想をながめていきます。

 地の空間政治学は前掲書とおなじく原氏による団地にまつわる市民の動き・政治をあつかった本。

 ソ連など社会主義国家とのつながりも深くもある一方で、アメリカへの羨望も込められている団地のさまざまな顔を、東京や大阪そして千葉などの団地を例に紹介していきます。『発光妖精とモスラ』著者のひとり堀田善衛氏が発起した「ベ平連」の名前がここでも出てきたりだってします。

 大阪の「香里団地もこの本で扱われる団地のひとつで、フランスは哲学者のサルトルらが団地内保育園を視察し、アメリカはJFKの弟ロバート・ケネディFBI長官夫婦が来訪したこともあるんだとか。この団地の独自性と栄枯盛衰について原氏は、埼玉など関東の団地と住み比べた現地住民の声をひろったり、あるいは鉄道や保育園などの敷設誘致・設立をもとめた団地住民の市民活動をながめたり、はたまた団地内新聞や催し物などをつうじて、さまざまな角度からひも解いていきます。

 とくに、団地内スーパーの物価是正のため時折あらわれると云う、非公認の私的な路上販売。これなんて、円城氏も面白がりそうな細部だなぁと思います。

 ジラの逆襲』大阪と北海道を舞台にしたゴジラシリーズ第二作。アンギラスらしき怪獣が『ゴジラS.P』予告第一弾でお目見えしていましたが、もしかすると『ゴジラS.P』はこれにならった展開が待っているかもしれません。

 『逆襲』は大阪のダンスホールで踊っていた都会派の若者たちの逢瀬がゴジラ襲来の警報で打ち止めとなり、北海道の料亭で飲めや歌えや騒いでいた男たちの宴がゴジラ襲来の報で打ち止めとなったりする映画です。

 また、うまく行くかに思えた怪獣対策が、護送中の囚人たちの逃走と偶然かちあってしまってめちゃくちゃになる作品でもある。そうした理にとらわれない人類でもごくごく少数派の暴走運転が世界を火の海にかえる一方で、理にとらわれない人類でもごくごく少数派の暴走運転が後半、事態を冷まし収拾させる糸口となったりする……人類の自由意志が、怪獣と対面するような作品でもありました。

 円城氏が大阪や北海道の料理や(いや囚人とはまったく大違いなんですけど)マージナルな人々にかんする資料をあれこれ漁っていたのは、『逆襲』のそうした展開を踏襲してのことかもしれません。

 

 また、84年版『ゴジラ』の続編ジラvsビオランテも大阪を舞台にしています。こちらの線も捨てきれません。

 ビオランテにはバイオテクノロジーがからみ、『vsビオランテ』では脇役としてサラジア共和国が登場します。

 円城氏はCRISPER 究極の遺伝子編集技術の発見』(18年4月19日読了)成生物学の衝撃』(18年4月17日読了)を読んでいるのはもちろんのこと{過去には、『DNAロボット―生命のしかけで創る分子機械 (岩波科学ライブラリー)』(17年12月16日読了)、『SUPERサイエンス 分子マシン驚異の世界』(同年同日読了)、『超分子化学 (化学の要点シリーズ)』(12月17日読了)、『微生物の驚異 マイクロバイオームから多剤耐性菌まで 』(12月19日読了)なども}、(ずばりサウジアラビアではないのですが)本人だけが知らない砂漠のグローバル大国UAE』(18年4月14日読了)んでみた、わかった!イスラーム世界 目からウロコのドバイ暮らし6年』(18年4月14日読了)などサウジアラビアのおとなりUAEの本など中東関連の書籍も読んでいます。

 

 

 怪獣映画の華は都市破壊です。

 円城氏とボンズとオレンジが描きだす破壊が楽しみで仕方ありません。

 

与太;ぼくの考えた最強『ゴジラS.P』の逆襲

 たとえばこんな想像がわきます。

 ……東京を突如おそったゴジラは天才科学者の発明により一旦は遠ざけられた。しかし天才の祈りもむなしく、文明は発達をつづけ戦争をくりかえし、ゴジラはまたも目を覚ます。まだ肌寒い3月のこと、第二作ゴジラの逆襲を踏襲する形で、大阪にゴジラが訪れさらにアンギラスもあらわれ大暴れする。

 

 両者は『逆襲』どおりに此花区へ踏み入れ、しかし『逆襲』から世紀をへだてた現代らしく、現代人にとって定番のランドマークであるユニバーサルスタジオジャパンで格闘する。

 劣勢に立った側が一転、巨大なモササウルスのアニマトロニクス――『ジュラシックワールド』シリーズ一番の人気恐竜だ――で変わり身して逆転したりの大立ち回りで、当然アトラクションは壊れ炎ものぼるが、開園当初の火薬を大盤振る舞いしたショーの記憶もあって、観客は異変に気付くのにおくれて初動はにぶり、多数の死傷者を出してしまう。

 USJの地球のモニュメントをつぶしホグワーツをつぶしたゴジラアンギラスは、市街地を横断して淀川へ移りそこから北上して、川中でひと悶着したのちに『逆襲』よろしく大阪城へと戦場を移していく。

 

 淀川近辺での一幕は、一見すると新旧ランドマークでの大一番をつなぐダレ場だが、しかし、なぜだか観る者の心を乱す。

 格闘のなかで怪獣たちは、そこまでの道程でかぶった瓦礫や粉塵を洗い流す。足の指と指の間にはさまった靴下の毛玉みたいに、淀川の水面には瓦礫や赤い毛糸のようなものが浮かんで揺れたりしている。

 同時に川面の遊覧船も、怪獣たちが払い落とす瓦礫の雨と揺れる波のあいだをなんとか縫っている。赤い毛玉に見えたものも、遊覧船の乗客の目からすれば当たれば沈没必至の危険な飛来物であって、あの赤く複雑な曲線から成る鉄棒のモニュメントは、川向こうの住民の目からすれば「伝法団地ジャングルジムだ」が、抱っこされて後方を見やる子供とちがって避難に精一杯の親の視界には入らず、「こんな時に遊んどる場合かボケ!」と怒号が飛んだころには川底へ沈んでいる。

 

 逃げるひと、事態がわからずとまどう人、わかるからこそ立ちすくむ人、街はさまざまなひとで溢れかえっている。怪獣たちの経路にあわせてリアルタイムに変化するGoogleマップの渋滞情報は、都市の血管が脈打つようだ。

 

 馬場チョップが繰り出される程度の気安さと軽率さでもってゴジラの放射火炎が放たれて、大振りのテレフォンパンチをかわすアウトボクサーさながらアンギラスもあっさりかわす。

 放射火炎の高エネルギーに淀川は揺れ沸騰し、川面の遊覧船は波打った水に乗せられそのまま岸へと座礁する。背景の建物々々がさっくりと更地に変わって、そのさい桃色の何かが血飛沫のように空にはじける。

1883(明治16)年、当時の遠藤勤助局長が「局員だけで楽しむのはもったいない」と一般開放して以来、「桜の通り抜け」として市民に親しまれている。

   洋泉社刊、橋爪伸也著『大大阪の時代を歩く』p.28、「第1章「大大阪」誕生物語(1868~1945年)」「造幣寮 世界最大の規模を誇る貨幣鋳造機関が近代化を告げる」

 大阪造幣局構内の桜の木が、熱気にあてられ一瞬にして花開き、そして散っていったのだ。木々も熱線の暴威に文字どおり根こそぎ掃われ、消し炭となった。

 春の短い期間に訪れる見物人をもてなすべく、一樹一樹ていねいに配された白い札。この札々だけが、その背の低さゆえ熱線にさらされず地に残り、白骨のように墓石のように並んでいる。

 そろそろ桜の季節である。現在の淀川から南に分かれる旧淀川の上流部、いわゆる大川と呼ばれるあたりの両岸には桜の木が並んでいる。

(略)

 造幣局の桜はそのほとんどが八重であり、マリのように集まって丸く咲くものもある。いちいち樹に名前の札がついているのもありがたい。同じ種類の桜がひたすら続くのではなく、一本一本が自己主張する形である。

 通り抜けというくらいで、一方通行。京阪電気鉄道天満橋駅あたりから北へ歩いていく形になる。せっかくなので川から見ようというのにはあまり適していない。なにぶん構内なのでしかたがない。

   産経WEST2017年4月1日掲載、【芥川賞作家・円城塔の関西ぶらりぶらり】『喜びも悲しみも、桜の下でお別れ』より

 Googleマップの道路情報から赤の消えた区域を見つけた車がそこへ向かうも、あるべき道がないことを目視してブレーキをかけた。運転手が茫然自失となったのも当然で、道だけでなく建物もなく、いつも立っている大阪城さえ顔を失っていた。

 Googleマップの道路情報に赤がなくなったのは、都市の止血がすんで順行できるようになったからではない。そこにいた物も者もこまごまとしたケータイに至るまでことごとくが破壊されつくしたために、Googleが参照すべき現在地を告げるひとびとの声が届かなかったからに過ぎない。

 立往生しているのは市民に限ったことではなかった。人口過密都市で戦車は現地まで向かえず空からの攻撃にもコラテラルダメージを心配して自衛隊に「待った」がかけられている。そんななか町工場の奇人が静かに歌う。

「なにかあったら一直線だ」

 ロボットが現場へ疾走し、横切った人々から「いつの間にえらいもんを! 気が利くなぁ行政!」だとか「西淀川のメカ、あんなんだったっけ?」と「箕面の"ロボットの米屋"? 動けたのか!?」だとか声が上がるが、なんてことはない無公金の超合金、たんなる奇人の発明だった。短足のロボットがVOW! と何の説明もなく平然といる、大阪らしい風景(ネタ)だった。大大阪では面白(オモロ)ければどんなものだって存在し得る。

www.sankei.com

 大魔神ウルトラマン仮面ライダー。ブリキのロボット。昭和の夢、大大阪に余所者がいだく特異な幻想。

 杭打ち機構の帝拳(エルボー・ロケット)を備えた電子の巨人――機械仕掛けの大阪夫人虎柄服(ジェット・ジャガーだ。

カイジュウが攻めてきたんである。だからロボットに乗って戦うのだという以上のことは無粋である。

   産経WEST掲載、【円城塔のぶらりぽろり旅】、『カイジュー映画、日本襲来』

「あのふくらんだ後脚、腰まわりに、複雑な動きを制御する膨大なニューロンがあるんです!」

 鳥盤類との形態的類似から、ジェット・ジャガーを操る奇人変人はそう睨み、崩れ落ちる大阪城を避けつつ接近、背中の角をつかんでしがみつき、腰を猛烈に連打する(パンチ・パンチ・パンチ)*60

 そうして動きのにぶったアンギラスのもとへ、真っ黒の巨体がヌーッとたたずんだ。

 アンギラスを倒し、通天閣を倒し、大阪に放射火炎をまき散らすだけまき散らしたゴジラは黒い海へと消えていく。

 

 Googleマップゴジラ前と後の衛星写真と車載写真を併置した特集メモリアル企画を立てる。地図をドラッグすると、天守を欠いた大阪城のがれきのなかに人型メカの原色の残骸がころがっており、住宅街や団地、給水塔まできれいに消えているのがわかる。

 

 大阪で漁業をしていた若者は、ゴジラ禍による海洋汚染から漁場を北海道の支社へと移す。漁のためではない。風評被害で日本の漁業はのきなみ消沈していた。

 平時は環境汚染を心配する地元民からの強い反対にあっていた、網走沖メタンハイドレートの採掘海上基地の作業員として働きにやってきたのだ。

「なぁに今も昔もかわらんさ。この会社は明治の時代、ニシンの不漁に耐えかねたご先祖様が山へ向かい、砂金を一発当てたことから始まったんだ」

 ヘルメットをかぶった社長が笑う。

 東京の実業家雨宮敬次郎は、シベリアの豊富な砂金の話を聞いて、北海道の砂金採取を思い立って、この構想を榎本武揚に持ち込み、そのつてによって明治一九(一八八六)年、渡島・函館付近・石狩地方の砂金採取の許可を得ることに成功した。

(略)

 当時のオホーツク沿岸は千石場所といわれた鰊網の櫛比する全盛時代で、ネコとカッチャを背負った異様な風体の砂金掘りの姿を見かけることがあっても、関心を抱く者ははなはだ少なかった。しかし、その鰊の回遊路が変わったのか、三〇年からぱったり獲れなくなった。大漁の後は飲む、打つ、買うのにぎわいで、宵越しの金を持たない漁民は、寄昆布を拾って飢をしのぐみじめさとなり、なかには砂金掘りの経験者に混じって、金を求めて山奥を彷徨する者も現れた。

 ところが一週間に二、三〇匁も採金した者があり、この噂はたちまち広がり、日を追って採取者は増えてゆき、降って湧いたような砂金景気は、不漁の不安をたちまち吹き飛ばしてしまった。

   東海大学出版会刊、彌永芳子著『日本の金』p.148~9、「第12章 北見のゴールドラッシュ」二、採取の許可と密採より(略は引用者による)

 オホーツク海海上基地が爆発する。『ゴジラの逆襲』よろしく、どうやら北海道近海を周遊しているらしい。凍った海がときおり溶け割れ擦れ砕け、キイキイと怪音を本道にまで響かせる――ゴジラが近寄った証拠だった。

 度重なるゴジラ襲来と政権交代を受けて、日本は大々的な避難政策を打つ。人的物的経済的被害を最小限におさえる最高の施策だ。現代日本では出せようもない叡智の結晶、フィクションならではの劇的な選択だった。

 大雪で真っ白な北の大地に、幾台も動員された除雪車幾何学的な黒い理路を幾筋もつける。規制線にはられた外から内へ、人々の移動が滞りなく行われていく。

 

 並行して対ゴジラ軍事作戦も立案される。ゴジラの逆襲を踏襲し、雪山に誘い込み雪崩に巻き込み氷漬けにする作戦だ。

 『逆襲』とちがうのは、雪山には金山(かなやま)という固有の顔があり、トナシベツ川など周囲の地名も明確に記されていることだ。

 小樽札幌方面の海岸に自衛隊の大隊が展開されていく。

 ゴジラは神出鬼没と言うほかがなく、人工衛星や海中のソナー、陸海空の野生動物につけたGPS交通機関とを照らし合わせた監視網(野生生物の動きのなかで船舶に起因しない停止や迂回を確認できれば、その原因は……)を抜けてヌーッと都市部に音もなく現れたりする。

 居所はつかめないが被災地はれっきとしてあり、それをみればゴジラは明らかに行動範囲に偏りがある。東京に頻出するほか、大阪にも数度、神奈川にも数度。さらには日本以外ではほぼ見かけないのだと云う。

 ある程度は絞れるはずで、そこで対策本部は検索範囲をひろげた。ゴジラは確認出来うるどの生物とも似ているし、似ていない。ぼくのかんがえた最強の怪獣といった趣の、絵空事めいた存在である。こんなものはありえない。想定外だ。絵空事だと認めてしまえば、ゴジラは統計的に十分な先例があった。

 古の竜の姿だ。

 <大日本国地震之図>に代表されるあれらを地震や噴火、台風・洪水といった人為のおよばぬ災害の戯画化されたものとしてではなく、当時のひとびとが当時の画力で見たまま書き象ったとすればどうだろう?

 竜神の信仰地や蛇に関する地名・旧地名をマッピングすれば? そうして小樽札幌が防衛地として選定された。

 避難対象・作戦地域はヘリやドローンの高い視点から見れば歪んでおり、自衛隊の車両がチェーンを履いた金音の足音を響せ、海岸に並んだ緑色の先客を気づかず潰す。

 アイヌユーカラでは、多数の船でおしよせり疱瘡神を迎えうつため、「私にかわってこの村を守ってください」といいながら、ヨモギでつくった草人形(くさひとがた)とイナウを海岸にならべます(金田一一九二五)

   講談社刊(講談社現代新書)、瀬川拓郎著『アイヌ学入門』kindle版64%(位置No.3433中 2153)、「第五章 疫病――アイヌ疱瘡神蘇民将来」、疱瘡と呪術より

 自衛隊の車列は山から浜へむかって白から緑へと代わっている。冬季迷彩のものだけではとてもじゃないが足りないからだ。

 

 果たせるかな、ゴジラがついに上陸する。

 黒い夜に曳光弾や砲弾の描く描線と、ゴジラの熱線が交錯する。

 潰れていく野や民家をドローンがとらえ、その中継映像を日本中が見る。避難民でも例外ではなく、体育館に雑魚寝しながらスマホの小さい画面で見たりする。

 ――あれは我が家では。避難民のひとりが思う。尋ねようにも家主であった祖母は認知症で、答えはえられず、会話さえままならない。

 集落がくずれる真っ只中こそ特別なにか恐慌も感慨もおこらなかったが、プラスチック容器を手にもって自衛隊の炊き出しに並んでふと、

 ――これはわたしの祖母(フチ)から教わったんだ、大きくなったら孫のおまえにも教えてあげよう。

 そう彼女から言われた料理が、味はおろかどんな見た目だったのかさえ、思い出せなくなっている自分にようやく気づく。

 記憶の淵からぼんやり浮かんだ母の料理は、上から非常食のカレーがべちゃりと落とされ澱みにまたもや沈んで消えた。

 膨大な公文書をあさり、同時期に近隣にいたことが判明した人を訪ね、その親戚たちに話をききにいく。幸いにも、まだ寿命を保っている人々がある。生きていても語ることができない人々があり、死んでいるために語ることができない人々がある。

 調査は、著者が祖父母の存在を呼び戻し、亡くし直す過程ともなる。調査は絶滅収容所で終わりを迎えることがわかっている。著者にも、彼らを収容所から助け出すことはかなわない。その存在をわずかに掘り起こし、失うことができるだけである。

   円城塔『「私にはいなかった祖父母の歴史」書評 消えた存在、亡くしなおす過程』(好書好日、18年5月29日掲載)

 白米のような雪山が砲撃でえぐられ茶色い泥土の血を噴いた。対ゴジラ軍とゴジラの総力戦が佳境を迎える。

 自衛隊の誘導は功を奏し、雪山にうずめることに成功する。ゴジラにかぶるのは雪だけではない。過去はアイヌ征夷大将軍、日本政府が採掘して穴だらけの廃鉱山がゴジラをうずめる。

 うずめはしたが間を置かず、山の地肌から青白い光が幾筋もあふれる。

 大阪の怪獣を燃やしたあのゴジラの放射熱線が雪を溶かし地を赤熱させ山をえぐる。熱線をドリル代わりにゴジラは自然の捕縛具を乱暴にほどいていく。熱線の勢いはすさまじく、規制線のむこうの都市部まで眩く照らし、遅れて溶けた雪と山土による津波が戦車を呑み込む。

 自宅待機した都会の人々が慌て始める。

 窓が震え、割れ、紫色にぼうと光った。ゴジラの熱線か? 反射的に身をかがめた住民は破壊が訪れないことを疑問に思う。また窓が光る。霊魂か? それもちがう。都市の窓々に突然ともった紫色の光の点線は、都市部から山間部のゴジラへ向かって伸びていた。

 熱せられ絶縁性を失ったり割れたりした複層ガラスのなかのアルゴンガスが、高速で動く強力な電磁を帯びた物体に反応してネオンのように光りかがやく。山で足止めをくったゴジラへレールガンの弾が集中する。

 米軍かロシアの秘密兵器か? 現場の自衛隊が疑問に思う。それとも別の怪獣が――大阪を襲ったあの巨花の怪獣が? それもちがう。

 人類の抵抗むなしく自衛隊は潰えてゴジラは規制線を越えて都市部へ向かう。レールガンの投射もとへ。

 そんな秘密兵器などどこにもなさそうな、これといってなんも変哲ない住宅街だが――と、ゴジラがまたこづかれる。住宅街のなかでひときわ背の高い影からだ。それ目がけゴジラは過去最大の放射熱線を放つ。住宅街が消え給水塔が消える。

 

 

「全てはあの、芹沢大助の天才でも倒せない怪獣たちの登場からはじまったのだ。我々には、そうとは知らずに死力を尽くす地球防衛軍や怪獣が大量に必要だったのだ。これで我々が治安の悪化を煽るのもおしまいだ。……では、最後の出撃(ファイナル・ウォーズ)だ」

 北海道にはないはずの給水塔のなか、対ゴジラ軍<NaN界救世軍(ナンカイ・サルベージ)>総指揮官・尾形秀人がつぶやく。指揮下への鼓舞というより自己正当化のようでもある。

 

  昭和54年11月3日以後、幾度となく日本を世界を襲ったゴジラの謎に、平成16年、映像作家がふと気づく。

 こんな時、ふと意地の悪い観客たちは思うわけです。ところでゴジラの足音と歩幅は合ってるのかと。で、そんなことをつらつらと考えていると、突如、猛然と気づくわけです。『ゴジラ』においては、その足音と実像とは絶対に一致しないのだということに。(略)

これが単なる恐怖演出を超える効果を発揮しているように思える。つまり視覚的な実像とその足音が分離されることで、ゴジラが単なる一匹の怪獣であることを超えて、これはもう神話レベルの荒ぶる神なんだ、惨劇のメタファーなりファンタズムなんだっていう。

(略)

 これもまた理屈のようでいて理屈を超えた出来事です。ですからそれは理屈抜きの体験によって実感してみるしかない。それでは有無を云わせぬ勢いで、ここでゴジラの東京壊滅シークエンスを上映します。

(上映)

 皆さん、気づきましたよね。映画の始まりから響き続けた足音、あれだけ前半戦で強調されたゴジラの足音がこの東京壊滅のシークエンスではまったく響くことがない。(略)

 ゴジラはひたすら音もなく、あの漆黒の巨体をうごめかせて街を破壊しつくす。儀式のような厳かさで破壊しつくす。その姿には妙な崇高さすら漂っている。

   塩田明彦著『「フィクションの力」とは何か』「『ゴジラ』をめぐって」{高橋洋稲生平太郎塩田明彦『映画の生体解剖X 映画術:何かがそこに降りてくる』kindle版63%(位置No.1735中 1073)}

 ゴジラは姿が見えないときは足音だけを響かせて、逆に姿を現すときは音もなくヌーッといつの間にかいる――まるで幽霊のように。

 昭和54年11月3日以後、幾度となく日本を世界を襲ったゴジラの謎に、平成29年、理研形態進化学研究室の倉谷滋がこれまでの学者の知見を編纂し悩む。

頭部に耳介、すなわちいわゆる「耳たぶ」を持つこと、とりわけ昨今のゴジラが氷上を持つように見えること、瞼が上から下へ向けて閉じることなどからするに、どうもゴジラは哺乳類か、あるいはそれに準ずる動物(単弓類・後述)であると、こう結論せねばならないようなのであります。(略)下顎枝を持つ下顎骨の形状はどう見ても典型的な爬虫類のものではなく、むしろ哺乳類のそれに近く、さらにゴジラのいくつかの個体では犬歯すら分化しておる。これまた、ワニ型類に見るわずかな例外を除き、爬虫類には本来存在しないものなのであります。

   工作舎刊、倉谷滋著『ゴジラ幻論 日本産怪獣類の一般と個別の博物誌』p,26、「【基調講演】「シン・ゴジラ」に確認された新事実をめぐって 第一部――山根恭太郎」

鳥盤類に伴うはずの頬が欠如していること、顎関節の位置、後爪の蹴爪、咥えて前方を向いた恥骨等の特徴から、確かにこれは暴君竜(ティラノザウルスTyranosaurus)と同じく、肉食性の獣脚類に他ならないとのこと。ただ、同研究員によりますと、前脚の指が五本ある場合があることが腑に落ちぬ

   工作舎刊、倉谷滋著『ゴジラ幻論 日本産怪獣類の一般と個別の博物誌』p.29

 さらに混乱を招く事実として、かつて植物・動物のキメラ生物、ビオランテ出現の折、分子生物学者の桐島博士が、「ゴジラの体温が低いためにバクテリアが繁殖できない」と、こう発言しておる。哺乳類になりかけていた巨大な動物なれば、おそらく温血性であろうし、一方で多くの大型恐竜もまた、鳥類同様、温血であったと考えられておる。ならば件の発言は、「ゴジラ恐竜説」と矛盾するばかりか、陸生獣類の祖先としてのゴジラの出自も否定しかねない。

   工作舎刊、倉谷滋著『ゴジラ幻論 日本産怪獣類の一般と個別の博物誌』p.30

  さて、この系統樹に、先程までの議論に従って、推測されるゴジラの分岐地点の可能性を書き込んでみますと、これだけの異なったシナリオが得られるのであります(図1-8)。単弓類が三か所、双弓類が四か所、ゴジラの起源があるわけですな。困ったもんです。もちろん、事実は一つであります。そして、これまで出現したゴジラがすべて別系統の動物である、すなわち七種の異なったゴジラがいたという可能性も否定しきれないのでありますが、

   工作舎刊、倉谷滋著『ゴジラ幻論 日本産怪獣類の一般と個別の博物誌』p.35

 ゴジラはどの生物にもくくれない。そして、

 ゴジラの正体に関し、過去二度ほど説明があったと記憶しております。(略)ゴジラは「いまから二〇〇万年ほど前のジュラ紀、陸上獣類へ進化しようとしていた海棲爬虫類が水爆実験の放射能により生息域を追われ、海から這い出してきたものである」とのこと。ちなみにゴジラが最初に発見されし大戸島での調査時、ゴジラの足跡からトリローバイトTrilobites、すなわち「三葉虫」なる古代生物が発見されておりますが、この節足動物は、そのほとんどがデヴォン紀の後期、いわゆる「F/F境界絶滅事変」において絶滅し、残ったものもペルム紀の末までには、この世から完全に姿を消しておったものであります。したがいまして、上の古生物学的説明にかなりの矛盾が生じるのでありますが、それが意図的な計算上のことなのか、あるいは単なる誤謬であったのか、小生には一向に判断しかねる。さらにその翌年、一九五五年、大阪にて(略)田所博士も、アンギラスゴジラの生息しておった時代を、およそ七〇〇〇年前とし、これは地質学的に正しく恐竜時代、すなわち中生代に相当するのであります。したがって、ゴジラと同時代に生息していた無脊椎動物というのであれば、それはむしろ、いわゆるところの「菊石」、つまりアンモン貝アンモナイトとされるべきであります。

   工作舎刊、倉谷滋著『ゴジラ幻論 日本産怪獣類の一般と個別の博物誌』p,22~24

としますと、ゴジラは羊膜類の中で最初に成立した単弓類、とりわけ盤竜類や獣弓類と呼ばれる一群の子孫であるということになり、その起源は一挙に古生代に遡り、その限りにおいて三葉虫と一緒におっても一向に構わない。ただし、ゴジラの足跡に発見された三葉虫の扁平な形状は、カンブリア紀オルドビス紀初期にかけての地層から見つかるような、原始的な形態をしておるという報告があり、またもや古生物学者を困惑させるのであります。

   工作舎刊、倉谷滋著『ゴジラ幻論 日本産怪獣類の一般と個別の博物誌』p,29

 年代さえもが特定できない。

 

時間とは、人間の生み出すものだと、物理学者が言ったらどう思います?

   カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』に寄せた円城塔氏のオビ文

 放射熱線に顕著な、エネルギー保存則を無視しているとしか思えないゴジラという存在。

 ゴジラはなぜ黒いのか? それはブラックホールだからだと理論屋が声をあげる。

 相対性理論によれば高重力下では時間の進みが遅くなり、ブラックホール重力の特異点(シンギュラポイント)が存在する高重力の存在である。ゴジラが残したジュラ紀の砂や三葉虫などの億年単位に及ぶ時代錯誤(アナクロニズムは、重力のもたらした当然なのだ。連星をなすブラックホールは、膨大な熱とX線をともなう降着円盤や活動銀河を生成する――ごくごく小規模に実現されたそれらが放射熱線の正体なのだ。

 古代アジアのひとびとは、この世界そのものである花綱を口から噴き出す幻獣キールティムカと呼んだ。海辺に住むひとびとは海獣マカラ、クンビーラと呼び、チベットのひとびとは尻尾を布に見立てててシパと呼んだ。中国や日本のひとびとは、輪廻の世界を守っているというのではなくて、むしろ世界が無常であることを見せつけているかのように六道輪廻の輪を口に咥える無常大鬼と呼んだ。

 ヒンドゥーの神話における宇宙の大河は、踊るシヴァ神の姿をしている。この神の踊り、宇宙の流れを支える踊りが時間の流れなのだ。個の流れより普遍的で明白なものが、はたしてあるだろうか。

 だが、事はそう単純ではない。(略)

 (略)時間の正体は、おそらく人類に残された最大の謎なのだ。そしてそれは奇妙な糸によって、精神の正体や宇宙の始まり、ブラックホールの運命や生命の働きといったほかの大きな未解決の謎とつながっている。わたしたちは絶えず何か本質的なものによって、摩訶不思議な時間の正体に連れ戻される。

 驚嘆の念こそがわたしたちの知識欲の源であり[1]、時間が自分たちの思っていたようなものではないとわかったとたんに、無数の問いが生まれる。

   NHK出版刊、カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』kindle版2%(位置No.2954中 41)、「もっとも大きな謎、それはおそらく時間」より

 言うだけは只だがさまざま破綻があって勘定は合わない。謎はふくれるばかりである。理論屋ではなく居酒屋の誤記ではないかという声もあがっている。

 収支がつかないと言っても現にゴジラは存在しており、となれば現状の法則がまちがっていて、収支をつけられる新たな法則を考えるしかない。

 他方、原理がわからずとも利用できるなら利用してしまえばよいと工学屋が声をあげる。

  飛ぶ原理がよく分からなくても飛べるものなら飛ばしてしまえばよいし、バケツで流し込めるものなら核燃料もバケツで流し込んでしまえばよい。それがフィクションではない、単なる現実の人々の挙動である。

踊るシヴァ神がこの世界を支えているのであれば、一万のシヴァ神がいるはずなのだ。ちょうどマティスの絵画のような、巨大な踊り手たちの集団が。

   NHK出版刊、カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』kindle版8%(位置No.2954中 203)、「一万の踊るシヴァ神」より

 給水塔のジャンプが終わる。

 また新たな宇宙へ降りる。

 アンギラスと戦ったゴジラの放射火炎から/ビオランテと戦ったゴジラの放射熱線から蓄えたエネルギーはまったく目減りしていない。

 

「――ゴジラ確認できました」

 火力、水力、石炭、生命磁気、石油、原子力。人類はさまざまな事物を糧に発展を遂げてきた。そのさきにゴジラが収まらない道理はない。

「さあこちらの準備は万端だ。懐かしのホンダ=ツブラヤ=ナカジマ種なら芹沢のプラン、最新のアンノ=ヒグチ=マンサイ種ならヤグチプラン。どれも揃えてきた」

 産業革命の児童労働者、綿花栽培の黒人奴隷、メキシコ湾原油流出(ディープ・ウォーター・ホライズン)、福島。人類はさまざまな犠牲を無視して発展を遂げてきた。そのさきに事象の地平線(イベント・ホライズン)が収まらない道理はない。

 費用便益分析からどうしても見捨てざるを得ない宇宙だった。

 オーロラに関する古文書を紐解き呉爾羅が最初に大戸島を襲った宇宙にも飛んだ。インドの地下で最珠羅がその羽に宇宙自体を写し取って曼荼羅化し、宇宙を喰らうゴジラを引き寄せる釣餌を垂らす宇宙へも潜った。

 ゴジラ、哥斯拉、GODZILLA。ひとびとの妄想として残滓がまたたく、ありとあらゆるゴジラと出会った。

日本三代実録』には、この地震にかんする記述がある。

「流れる光が昼のように照らし、人々は叫び声をあげ、身を伏せて立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きになり圧死し、ある者は地割れに呑み込まれた。牛や馬は驚いて走り出し、踏みつけ合い、城や倉庫、門櫓、牆壁が崩れ落ちた。雷のような海鳴りが聞こえ、潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、瞬く間に城下に達した。内陸まで水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり、山に避難することもできず、一〇〇〇人ほどが溺れ死に、田畑も財産もほとんど何も残らなかった」

 この記載のうち、「流れる光が昼のように照らし(流光如昼隠映)」は、宏観異常現象(大地震の前に、人の感覚によって感知される前兆現象とみられる現象)の一種ではないかともいわれる。

   筑摩書房刊(ちくま新書)、畑中章宏著『天災と日本人 ――地震・洪水・噴火の民俗学kindle版37%(位置No.2764中 1012)~

 たとえばゴジラの光線を演算資源としてかすめ取りつつ繁栄した呉爾羅化文明(ゴズィライゼーション)と。あるいは異星で栄え食いつくし地球へ飛来した魏怒羅化文明(ギディライゼーション)。はたまたゴジラが眠っていた時代、海底で高熱を発しつつ眠るそれを中心に育ち複雑に進化していったゴジラ環礁生態系の出身で、呉と同盟をむすんで後者と戦うもけっきょく前者と袂を分けた蜀羅化文明(ショッキライゼーション)。それぞれが吠え史上最大の決戦を繰り広げた三哭志。ありとあらゆる宇宙の衝突と崩壊を見過ごしてきた。

 遅刻、晚的、Lateとトーストを咥えて走った丁字路のかどでゴジラとぶつかり朝のホームルームで運命の再会をはたし、卒業式にはもらえるはずないと分かっていながら先輩の黒い学ランできらめく第二ゴジラを乞い求めた。

「同定不能です」

 ゴジラが吠える。

 ゴジラだが前例にない最後のゴジラがこちらを向いた。おなじみの熱線を吐くためにあのフラクタクルな背びれを青く光らせ、四次元にも余次元にも展開させる。

「最後の出撃だ――我々にとっては」

 認識宇宙史上何度目かの同定不能ゴジラはすべての認識可能な宇宙にあらわれ呑み込んできた。当然、「最後のゴジラを人類が倒した宇宙」にもゴジラはあらわれ呑み込んできたし、「「最後のゴジラを人類が倒した宇宙」にもあらわれ呑み込んだ最後の後のゴジラ」を人類が倒した宇宙にも「最後の「後の「後のゴジラ」」」があらわれない道理はない。

 

芹沢 大丈夫……僕はむかしから一度海の底というものを見たいと思っていたんだ……じゃ行って来るよ、恵美子さん

   三一書房刊、香山滋著『香山滋全集⑦』p.437、「怪獣ゴジラ

 ゴジラの吐く火をあび全身火傷を負い亡くなり*61放射能の危険から埋葬も臨時収容所で内うちに行なうこととなった*62新吉少年の悲惨などにふれた想い人・美恵子と緒方の説得によりオキシジェンデストロイヤーを世界に公にした芹沢博士は、その言葉を最後に海底へ向かい、オキシジェンデストロイヤーを作動させたあと送気管を命綱もろともに切断した。

「緒方、大成功だ、幸福にくらせよ、さよなら、さよなら……!」

    本多猪四郎監督『ゴジラ』1:32:18

 その言葉を最後に海底の芹沢博士が、ゴジラ討伐のため一緒に海底作業をおこなった南海サルベージ(0:03:27)の緒方に別れをつげて、送気管を命綱もろともに切断した。

「新吉くん、幸福にくらせよ、恵美ちゃんによろしくな、さようなら、さようなら……」

   筑摩書房刊(ちくま文庫)、香山滋著『ゴジラ』p.150、「ノヴェライズ ゴジラ――ゴジラ 東京編」オキシジェン・デストロイヤーより

 その言葉を最後に海底の芹沢博士が、ゴジラ討伐のため一緒に海底作業をおこなった新吉少年と想い人の恵美に別れをつげて、送気管を命綱もろともに切断した。

 

 給水塔が構える。

 ゴジラの熱線が給水塔に穴をあけ人類は最後を迎えるもそれは別宇宙人類の罠で、そこに貯められたオキシジェンがゴジラを爆殺し、別宇宙ゴジラの熱線が給水塔に穴をあけるも別宇宙人類は最後を迎えるもそれは別々宇宙人類の罠で、そこに貯められた血液凝固剤が別宇宙ゴジラを凍殺し、別々宇宙ゴジラの熱線が円城塔に穴をあける。

 

 

 

 

*1: 

スカイプで打ち合わせ。まだ最終13話の大落ちが揺らいでいるというのはどうしたものか。

   「散木記(抄)円城塔[日本・大阪 2020年3月某日~5月21日]」、4月14日(火)の記述より。{タバブックス刊、『コロナ禍日記』kindle版18%(位置No.5951中 1046)}

*2:

大森望ゴジラの人になるとは思ってなかったですよね?」

円城塔「ぼくだって思ってなかったです。おかしい。"SF監修"って言われたから入ったのに。こんな大ごとになるとは」

   Youtube、ゲンロン友の会『JST構造化チーム若手・共創支援グループ主催 若手研究者の新キャリアパス――第3回「院卒小説家になろう」』1:16:47~

*3:24話『次元の違う話じゃんよ』で突如あらわれた2次元宇宙に、ゲル博士率いるゴーゴル帝国の母艦はその巨体ゆえに2次元宇宙を避けることができず取り込まれてしまうが(4:15)、身軽なダンディの船は、丸められた2次元宇宙の隙間を縫っていく(15:40)

*4:

「第七艦隊、配置完了しました」8:56

「よし、占領作戦を開始する。まずはラガート星政府に降伏勧告を送るんだ。閣下に何度も本の返却期日をせっつくような奴らに、目にものを見せてくれよう」9:00

   スペース☆ダンディ』11話「お前をネバー思い出せないじゃんよ」8:56~

*5:スペース☆ダンディ』11話「お前をネバー思い出せないじゃんよ」11:11~

*6:

庵野 (略)プロットに書いてあるゴジラの4足形態や分裂や増殖に対して、東宝サイドがかなり難色を示していました。

   『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラkindle版56%{位置No.912中 509(紙の印字でp.504)}左段(略は引用者による)

庵野 (略)東宝サイドは「尻尾からは止めてくれ」と猛烈に反対していましたが、譎詐百端で強行しました(苦笑)。

   『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラkindle版56%{位置No.912中 511(紙の印字でp.506)}左段(略は引用者による)

*7:

―――その時点で東宝サイドからの要望はありませんでしたか。

庵野 2015年に入ってからはほぼないですね。大きく言われたのは、近隣諸国の国際情勢については劇中での明言を避けて欲しいという要望と、皇室に関しては一切触れてはならないという厳命の2点です。

   『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラkindle版56%{位置No.912中 505(紙の印字でp.500)}左段

*8:せりか書房刊、スヴェトラーナ・セミョーノヴァ&A.G.ガーチェヴァ編著『ロシアの宇宙精神』p.21より。一次出典元不明。

*9:篠房六郎『百舌谷さん逆上する 3巻』kindle版99%(位置No.247中244)}、巻末特別描き下ろし漫画より。

*10:河出書房新社刊(河出文庫)、『書き下ろし日本SFコレクション NOVA+ 屍者たちの帝国』kindle版95%(位置No.4590中 4354)、「『屍者の帝国』を完成させて | 円城塔

*11:河出書房新社刊(河出文庫)、『屍者たちの帝国』kindle版96%(位置No.4590中 4399)

*12:河出書房新社刊(河出文庫)、『屍者たちの帝国』kindle版96%(位置No.4590中 4367)略は引用者による。

*13:伊藤氏の『残虐行為記録保管所』にかんする言及としては――タイトルはあげられていないので推測ですけど――2008年4月8日収録『ヒデオチャンネルラジオ』があります。そこで挙げた面白ポイントは別観点で……

「仕事してないと分からない本の面白さってやっぱりあったりするので。このまえ読んだ小説はですね、SFで魔術がやたら出てくる本なんですけど。セミナーにやたら行ったりしてですね、爆笑できたんですよね。(略)会社ではやたらエクセルやワードのセミナーがあったりしまして、その小説ではワードの代わりに魔術のセミナーがあったりして(笑) そういう面白さってやっぱり会社にいないと分からないのかな~というのはあったりしますね」

   2008年4月8日収録『ヒデオチャンネルラジオ』20:00~の聞き書き。略は引用者による

 ……こうしたボンクラ趣味については、『コンスタンティン』レビューなどを読んでいただいたほうがうかがえるかなぁと思います。

*14:河出書房新社刊(河出文庫)、『屍者たちの帝国』kindle版97%(位置No.4590中 4414)

*15:『PCfan 08年 10/1号』p.130、最下段10~11行、「空想未来ミュージアム」第26回伊藤計劃【後編】(太字強調は引用者による)

*16:ワトソンが地元スコットランドで同級生ウェイクフィールドとパブで飲む場面。ここも下調べのもと、円城氏が独自に組織化してみせたのだろう描写ですね。

「旧友も古き昔も忘れ去られていくものだろうか。

 友よ、古き昔のために、この一杯を飲み干そう」

 ウェイクフィールドは調子っぱずれのオールド・ラング・サインを歌いはじめ、常連たちが一人二人と加わっていく。

「その歌はな、ウェイクフィールドわたしは口には出さずに胸で呟く。「日本では別れの歌なんだぜ」

   河出書房新社刊(河出文庫)、伊藤計劃円城塔著『屍者の帝国kindle版95%(位置No.6256中 5886)、エピローグ Ⅰより(太字強調は引用者による)

 19世紀末に来日し大森貝塚を発見したアメリカ人E・S・モースの自著本その日その日』

 東洋文庫版1巻について円城氏の読了スタンプ(10年09月07日)が確認できるこの本にも(※ただし、下記引用文は、その後の巻に収録された話題ですが)、西洋人が『オールド・ラング・サイン』を日本で聞いたときの印象が書かれていますが、そちらでは、極東の異国の奇妙な音楽に対置される「我々の唱歌」として記されていました。1882年7月15日にひらかれた東京女子師範学校の卒業式へ参加したモースは、そこで聞いた和洋の音楽を下のように記します。

式の最中に、我々の唱歌が二、三唄われた。「平和の天使」「オールド・ラング・サイン[蛍の光]」等がそれであるが、この後者は特に上出来だった。続いて琴三つ、笙三つ、琵琶二つを伴奏とする日本の歌が唄われた。(略)その音は鋭く、奇妙だった。彼女はそこで基調として、まるで高低の無い、長い、高い調子を発し、合唱が始った。この音楽は確かに非常に妖気を帯びていて、非常に印象的であった(略)、私がいまだかつて体験したことの無い、日本音楽の価値の印象を与えた。

   講談社刊(講談社学術文庫)、エドワード・シルヴェスター・モース著『日本その日その日』kindle版78%(位置No.3557中 2733)、「十九 一八八二年の日本」より(略・太字強調は引用者による)

*17:ちなみに同著で著者ホップカーク氏は、バンディッドがキプリング著『少年キム』の登場人物のモデルになったのだろうと付言します。円城氏は『グレート・ゲーム(2010年04月17日読了本)を読む十数日まえに『少年キム』(2010年04月04日読了本)を読んでいます。

*18:そして、「作家の創作に思えるようなちょっとした会話が、じつは現実の人物のそれほぼそのままだったりする」のは、伊藤氏らしい書き込みでもあって……

*19:

Presently he handed me a tin slop-basin, full of what he called tea, but which was the nastiest beverage it has ever been my bad luck to taste.
It was not tea in our sense of the word, but a mixture which had a peculiar flavour of grease, salt, and tea-leaves.
Swallowing my nausea as best I could in order to avoid offending my host, I drank off the nasty draught, and exclaimed in the best Tartar I could master for the occasion, " Excellent ! "

   internet archive掲載、Fred Burnaby著『A Ride to Khiva: Travels and Adventures in Central Asia』{訳文は引用者による(英検3級。グーグル翻訳があやしいところは雰囲気で書いた。なので親切なかた正しい訳をご教示ください……)}189

 余談だけど『屍者の帝国』第三部でワトソンがアメリカのお茶を馬鹿にするくだりは、『Ride to Khiva』のこうした部分を参考にしたのかもしれません。

 ワトソンの目から語られるバーナビーはどこにでもなじめる大雑把なタフガイとして書かれていて、二人の関係は伊藤氏の長編第1作『虐殺器官』語り手クラヴィスとその同僚ウィリアムズを思わせます。

 識者が指摘している通り、ウィリアムズはクラヴィスが思うほど大雑把な人間ではなく、色々気を回せるし議論の間違いにも気づける理知的な人物なんですけど、『A Ride to Khiva』をちらっと読むかんじ、円城氏がワトソンを通してえがくバーナビーもまた、語り手の見たものが100%の真実ではない、含みのある正しきウィリアムズ的人物らしいことが窺えます。

*20:

 人類が無意識のうちに常に希求し、そこに引き寄せられ、地球が太陽の周りを回転するようにすべてがそれを中心に廻る土地――フョードロフにとってそうした理想的な中心地は、人類の始祖があるとされるパミール高原であり、そこで歴史の流れは、始祖の復活という壮大なフィナーレをもって完結するはずだと考えていた。

   水声社刊、スヴェトラーナ・セミョーノヴァ著『フョードロフ伝』p.256、「Ⅱ 教義」歴史の始まりと終わりより

*21:幻冬舎刊(幻冬舎単行本)、円城塔田辺青蛙著『読書で離婚を考えた。』kindle版61%(位置No.333中 203)紙の印字でp.198、「恐怖新聞通信」より。

*22:ゴジラ』は「ジュラ紀の恐竜が目覚めた」と劇中説明される一方で――「200万年前に生活していた存在(が目覚めた)」とも言われています。ジュラ紀はどう遅く見積もっても1億4550万年前くらいの時代をさし、両者のあいだには隕石に付随する大量絶滅「K-Pg境界」ももちろんあるわけですね。

 これについて、たとえばちくま文庫版『ゴジラ』巻末解説のように、

ゴジラジュラ紀から白亜紀の二百万年前の生物だと香山が設定している事だが、古生物学に詳しい香山が、何故一億数千万年前のジュラ紀から白亜紀を、二百万年前としたのか。

 これは人類の歴史にゴジラをオーバーラップさせている。二百万年前、人類最古の直系の祖先としてアウストラロピテクスが地球上に誕生した(時間は昭和二十九年当時の学説で、現在は四百年前から百五十万年前とされている)。ゴジラは人間自身の姿であると。

   筑摩書房刊(ちくま文庫)、香山滋著『ゴジラ』p.446~447、竹内博「解説 香山滋東宝特撮映画」より

 というような見解をしめすかたもいるのです。ここではそれについて言ってます。

*23:

老人「ゴジラは砲弾が当たっても死なん。

 古代の生き残りの恐竜に、原水爆放射能が異常な生命力を与えたとしても、生物であるなら死ぬはずではないか? ――が、やつは武器では殺せん。

 ゴジラは強烈な、残留思念の集合体だからだ」0:23:33

立花「残留思念?」

老人「ゴジラには、太平洋戦争で命を散らした、数知れぬ人間たちの魂が宿っているのだ」0:24:07

(略)

立花「でもゴジラが戦争で犠牲になった人たちの化身なら、どうして日本を滅ぼそうとするんですか?」0:24:53

老人「人々がすっかり忘れてしまったからだ! 」0:25:00

立花「はい?」

老人「過去の歴史に消えていった、多くの人たちの叫びを! その無念を!」0:25:06

   金子修介監督『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』0:23:33~、主人公であるジャーナリスト立花由里(演;新山千春さん)と、山梨県・本栖警察署で取材した老人(演;天本英世さん)との会話より

*24:

庵野 (略)あとは「3.11」東日本大震災と福島で起こった原発事故です。津波の被災地もその年の5月と7月に行って惨憺たるさまを見ていた自分の気持ちや、原発事故への対応というか官邸と東電、事故の当事者に何が起こっていたのかを知りたいと思った事とかですね。何というかそういう色々な自分自身の中での積み重ねもあって、官邸を中心とした物語なら僕でもゴジラという作品を描けるんじゃないかなと、ふと思ったんです。

   『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラkindle版55%{位置No.912中 496(紙の印字でp.491)}左段、(略は引用者による)

庵野 (略)その時神山さんから、ゴジラ本体に「原発核兵器」というストレートなイメージを提唱されました。具体的には、日本が最終的に核を保有する話にしたい。核兵器でもあるし原発でもある、そんなゴジラをどう扱うかという話はどうか。そして最後にゴジラを石棺で閉じ込めてしまう話はどうか、という内容です。(略)僕自身が迷っていた題材を神山さんが直球で投げて来た潔さに驚いて、感服し、勇気づけられました。

   『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラkindle版55%{位置No.912中 496(紙の印字でp.491)}左段、(略は引用者による)

*25:

(略)本多猪四郎さんの戦争体験とか色んなものが――ゴジラは悪気はないんだけどデカいから東京やって踏みつぶしちゃって、「大変だ、大変だ」っていうことになるんだけど。アレを見た当時の人たちは、広島の原爆だとか東京大空襲だとか、そういうことをやっぱり思い浮かべて、そういうひどい目にあったことに対するアンチっていうか反対っていうか、そういうことに繋がって、わたしの(監督した、ゴジラシリーズ)11作目の『ゴジラ対)ヘドラ』も社会的メッセージを入れようと思ったわけですけど。

 最初にこんどのゴジラをやるうえでも、あくまで環境問題をテーマにする(略)ゴジラシリーズその後いろんな怪獣と戦うだけになっちゃったけど、「もういっぺんテーマ性を取り戻そう」ってある程度うまくいったのがヘドラなんではないかと思ってます

   ゴジラ対ヘドラ』映像特典「公害怪獣、世界を蹂躙す 坂野義光×麻里圭子」20:05、坂野義光監督の言(文字起こし、補足、略は引用者による)

(主題歌『かえせ! 太陽を』は)レイチェル・カーソンという『沈黙の春』を書いたアメリカのすばらしい海洋生物学者が1966年に、「農薬で鳥も魚もいなくなっちゃった」ていうようなことを書いてるすばらしい本がありまして、(略)それがちょうど大阪万博・高度成長のピークと公害がバァッと出たっていうときに「ゴジラすこし久しぶりに考えろ」て田中友幸ってプロデューサーが言うもんですから、いろいろ考えたら、公害が現代の悪(ワル)というか。

 あれはあの――シーンに、画面に出てきますけども――高校、女子高生が体操していてバタバタ倒れる。あれは現実に――杉並の高校で――あった事件で、そういう事件が起きたので自民党も環境問題、「公害はイカン」てことを言いだしたからちょうど作れた

   ゴジラ対ヘドラ』映像特典「公害怪獣、世界を蹂躙す 坂野義光×麻里圭子」08:37、坂野義光監督の言(書き起こし・略は引用者による)

*26:カラー刊、『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラkindle版55%(位置No.912中 495)紙の印字でp.490「インタビュー/庵野秀明」第1部より。

*27:カラー刊、『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラkindle版2%(位置No.912中 11)紙の印字でp.6「G作品メモ(第2稿)」右下の説明文より。

*28:ただし円城氏は小さなお子さんと暮らしているので、それ用かもしれない。

*29:単に原武史さんの本が面白いだけなのかもしれない。『ゴジラ幻論』倉谷氏の著作をまとめて読んだあと、2~3月には円城氏は『松本清張の「遺言」 『昭和史発掘』『神々の乱心』を読み解く』、『昭和天皇』『「昭和天皇実録」を読む』『完本 皇居前広場』を読まれています。

*30:『会議の政治学』が考慮している、会議の座席の考慮点。

 81ページに載ってる例だけでいくつか挙げれば、(経験則として)論争は主張内容よりもむしろ向き合う委員同士で発生しがち(だから席順をシャッフルする可能性も頭に入れておきましょう)とか。

 座長が会議参加者の名前をパッと出せないと「統轄してる頭がこれで大丈夫かこの会議?」となるとか。

 座席表は座長を上に置きがちだけど、それだと座長が肉眼でみる並びとは上下左右が逆になってしまうから、座長を下に置いた表のほうが実用的だとか。

*31:朝日新聞出版刊、星浩著『官房長官 側近の政治学』p.145、「官房機密費の実態」透明化進めるべきより

*32:官房長官~』は『シン・ゴジラ~事態対処研究』p.9の軍事ライター石動竜仁さんの記事で、同書p.27の千葉大准教授をつとめる行政法研究者・横田明美さんのコラム「学識経験者と政策」で付記されています。

*33:筑摩書房刊(ちくま新書)、畑中章宏著『天災と日本人 ――地震・洪水・噴火の民俗学』4%(位置No.2764中 78)~、「序章 天災と国民性」参考。

*34:『天災と日本人』5%(位置No.2764中 111)~参考。

*35:『天災と日本人』5%(位置No.2764中 128)~参考。

*36:風船爆弾を製作しやすい広さと高さをもった舞台として、各地の劇場が目当てにされた。

*37:

 興行師ネルソンを演じたジェリー伊藤は、ジャズ・シンガーや俳優として活躍した。のちに『英語であそぼ』などテレビの英語番組などにも登場したので、そちらで覚えている読者もいるかもしれない。これは芸名ではなく、アーニー・パイル劇場の舞台監督をつとめた有名な伊藤道郎の息子である。

   講談社刊(講談社現代新書)、小野俊太郎著『モスラの精神史』p.130、「第六章 見世物にされた小美人と悪徳興行師」異色の一族より

*38:

 じつは、アーニー・パイル劇場での伊藤道郎演出による一九四六年八月の第三回公演は、「ジャングル・ドラム」だった。(略)内容も「幕開きは、金屏風の前でタイの踊りをやってね、屏風が開くと奥はジャングルでね、土人が出てくるの。あたしたち、背の小さい日本人がやるのにちょうど合ってたんじゃないかしら」(古庄妙子)とする証言もある(斎藤燐『アーニー・パイル劇場』)

 (略)このショーこそ音楽も内容も、『モスラ』のなかでザ・ピーナッツ日劇ダンシングチームが繰り広げたレビューの原型であろう。

   講談社刊(講談社現代新書)、小野俊太郎著『モスラの精神史』p.153、「第七章 モスラインドネシア日劇ダンシングチームより(略は引用者による)

*39:集英社刊、立川武蔵著・大村次郷写真『アジャンタとエローラ インドデカン高原の岩窟寺院と壁画』p.6

*40:岩波書店刊(岩波新書)、堀田善衛著『インドで考えたこと』p.66、「Ⅳ 日本のイメージ」より。

*41:『インドで考えたこと』p.66

*42:『インドで考えたこと』p.67

*43:『インドで考えたこと』p.105、「Ⅶ ことば・ことば・ことば」より

*44:堀田善衛著『インドで考えたこと』p.108

*45:新潮社刊、武澤秀一著『迷宮のインド紀行』p.69

*46:丸善株式会社刊、武澤秀一著『インド地底紀行』p.5

*47:『インド地底紀行』p.62

*48:『インド地底紀行』p.63

*49:『インド地底紀行』p.74

*50:『インド地底紀行』p.93

*51:『インド地底紀行』p.97

*52:『インド地底紀行』p.96

*53:いや上でも言ったとおり、ゴジラはさすがにもう設定かたまってて、別の調べ物だろうと思うんですけどね。(『ゴジラS.P』と無関係の別作品の可能性は大いにある。モスラの線は堀田善衛さんがインドへ行ってる程度。アンギラスは同名の聖人がインド神話にいるらしいけど、ジェットジャガーと戦わせるのか? どうやって? 怪獣とタメはれる兵器を海外へ持ち出せるわけなくね? と新たな疑問がわいてしまう)

 他方で「ほむらちゃんはOPの黒猫だ」とか「『けもフレ2』はダンテの『神曲』だ」とか、そういうのをブチあげてこそ与太話でもあります。また、インターネットでは大与太をこくとまじめな人がより精緻な正しい情報をすべく動いてくれるというおばあちゃんの知恵袋もあります。

*54:勁草書房刊、キャス・サンスティーン著『命の価値 規制国家に人間味を』p.214

*55:『命の価値 規制国家に人間味を』p.239~240

*56:工作舎刊、倉谷滋著『ゴジラ幻論 日本産怪獣類の一般と個別の博物誌』p,200、「ラドンとメガヌロン 古生物学・博士 柏木久一郎」翼竜ラドン参考。

*57:もっとも『道化師の蝶』の第一部は、『ASYMPTOTE』のインタビューによれば円城氏じしんはラテン語をあまり知らない状態で、じぶんにとって普通の文章を書いただけなのだそうで。

 このパートについては、ふつうのひとがふつうに描いた文章がなぜだか奇妙なものに思えてしまう、外国語の翻訳のような「自然な日本語」でないものに思えてしまう……そのふしぎな質感が描かれているのかな~とぼくは思ったりもします。

*58:「馬」の地域別分布図が掲載=ただし、『地下からの贈り物』では過去の研究成果としての紹介で、「馬」の字のように字形そのものが違うケースはむしろ珍しい例で、使われている漢字自体がちがっていたというお話がなされている。

近年資料の増加している秦と楚の文字遣いの違いは際立っている。楚では「重い」を表すのに「童」を使い、「有る」を表すのに「又」を使った。文字遣いの違いこそが、文字統一が必要とされた主因であった。

   東方書店刊、中国出土資料学会編『地下からの贈り物 新出土資料が語るいにしえの中国』p.124、大西克也著「1-15 文字はこう変わった」より

*59:放送大学教育振興会刊、原武史著『日本政治思想史』p.50

*60:倉谷滋さんは『ゴジラ幻論』のアンギラスを論じた項足歩行怪獣アンギラスの形態学的特徴とその進化的起源」で、『ゴジラの逆襲』0:11:25~の劇中博士の解説について適宜訂正や補足をくわえていきます。

「このアンギラスが他のあらゆる動物と異なる最も著しい点は、その行動の敏捷たらしむるため脳髄が肉体の数か所、つまり、胸部・下腹部等に分散している点である」

   東宝小田基義監督『ゴジラの逆襲』0:12:05~

という映画劇中解説について、倉谷氏は前述論の最終項「複数の脳?」p.152~でその現実を解説します。

 現実の四肢動物の脊髄は、上肢と下肢を支配するレベルでより多くの運動ニューロンや知覚ニューロンを持たねばならず、それゆえ「頸膨大」「腰膨大」と呼ばれる膨らみが見られる。とりわけ鳥盤類ステゴザウルスの仙骨に腰膨大が見られたために古生物学者マーシュが「第二の脳」と表現したのだと。別の古生物学者ギッフィンが1990年にだした新説も付記しつつそんな旨を紹介した倉谷氏は、『ゴジラvsメカゴジラ』で見られた各部集中攻撃にこれと関連を見いだし、現実と虚構とを橋渡しします。

*61:三一書房刊、香山滋著『香山滋全集⑦』p.414、「怪獣ゴジラ」九、東京を救う秘策(二)より。

*62:三一書房刊、香山滋著『香山滋全集⑦』p.415