日記です。1万2千字くらい。与太話記事をアップしたり『ゴジラSP』1話に興奮したりプロフェッショナル庵野スペシャルを楽しんだほか、色々キビしい気分になったりした週。
※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※
0316(火)
宿直明け日。
0317(水)
■考えもの■
価値観のアップデートに取り残されていく
非常にきびしい気分になりましたが、これはぼく自身のきびしさでもあり、「どうすればよいかなぁ」と悩んでしまいました。
すこしまえ親切なかたへ相談にのってもらったさい、余談の余談として、ぼくzzz_zzzzの悪ノリにたいして、たしなめのお言葉をちょうだいしたことがありました。
まじめな話をしているときにも、「萌え豚」やら「稗や粟を食って育ったオタク」(←これはぼく含めた一人称複数形の使い方です。「オタク~~~!」と呼びかけているけどじっさいには自分の悪癖についての自己批判だったりするツイートみたいなのと一緒ですね)やら過度で範囲が雑にひろい自虐ネタ、あるいはウェイン町山&ガース柳下や山形浩生さんの悪ノリや、はたまた2ちゃん的な悪ノリを入れてしまう。それに対して、
「同年代の空気を吸ってきた人間として、そういう風なことばづかいやノリをしてしまう気持ちも分かりますが、それはあんまりよろしくないですよ……」
というようなお話でした。
まぁアレだと思いながらアレなことを言っている(やっている)という一応の自覚はあるのですが、それでも口に出してしまっているのはつまり、そうした自覚以上に「アレだけどまぁ大丈夫だろう」という気持ちを大きく持っているワケですよね。
それってたぶん記事となった五輪のかたや、先日の森喜朗さん(「あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、」)、アホな陰謀論(Qアノンのバイデンに対する風評や、関東大震災時に日本在住のコリアンへなされた風評)に対するアホさを揶揄するつもりで言ったネタの「バイデンが井戸に毒入れた」おねロリキメセク天皇陛下*1も(あと、この週の別日で話題にする呉座氏なども)皆そういう気持ちだったでしょう。
この週にアップした別の記事でもぼくは寝小便を垂れた話をしましたが、OKなんだろうか、NGなんだろうか。(「と考えてる時点で、NGだからやめよう」と動けるようになりたい)
難しいなぁと思ってしまった。
▽稗粟オタクという自称がけっこう好きなのですが、
稗粟オタクという呼称(自称)も、稗粟事件を揶揄するルサンチマン的呼称ととられ、すごく陰湿に見えるのではないかということに今更きづきました。
ひとさまの自称であるところの「たかが助教」やら@ただの一読者やらも傍目に見て「うわぁ……」となりますが、自称している御本人としては、ぼくにとっての稗粟並みに「たしかに! いいじゃん!」と使っていたりするのかもしれない。
▽上の話題とはちがうけど、
上の話題とはちょっとズレるけど、トピックをググっていくなかで、2013年にDHMOジョークをエイプリルフールで言ったラジオパーソナリティが視聴者からの批判を受けて無期限謹慎処分となったことを知った。
0318(木)
書いたり読んだりしてました。
0319(金)
宿直日。
■書きもの■
与太話をアップしました。
『ゴジラS.P』初報でワイワイなさっていたのを見て一緒にキャッキャしようと思って書き始めるも、全然仕上がらなかった記事をアップしました。(なんなら現状でも時間切れで当初の理想とはズレたものとなっている)
10/09の日記で書いたことに加えてアレコレおしゃべりしました。また、脱線①『屍者の帝国』(伊藤計劃さんとの共著)や脱線②『文字渦』(円城氏の単著)のちょっとした感想も書いてあります。(ちょっとした……なんだけど、ぼくとしてはスゴいがんばった文章)
以下、感想戦。そうすることで、推敲や今後の記事の糧になればいいなという気持ちもありますが、単に自分語りや振り返りをしたい癖(ヘキ)があるだけです。
2011年、京大SF幻想研さんが『伊藤計劃トリビュート』でワイワイされた。2013年には『艦娘の脳髄』など、オレ屍者二次創作でワイワイするのもあった。15年、17年とプロによる『伊藤トリ』があった、『屍者トリ』もあった。ぼくはそのすべてに乗り損ねてきました。
そして20年、オレ円ゴジでワイワイですよ! 一度くらいはノレるだけノってみようというわけなのでした。出遅れに出遅れたので、気づけば誰も踊っているかたはおらず、みなさんはもううまぴょいうまぴょいと別のステージへ行かれてしまっていた……。時代ははやい……。
きっかけと所感;
感想記事がなかなかアップできないので、
「肩肘はらない与太話なら楽に書けるのでは?」
と思ったのが記事執筆の動機なんですけど、見通しがあまかった……。
感想文という「既にある作品に対するリアクション」とちがって、まだない作品についての与太話で必要となるのは自分(の蓄積)だから、そこが何もないにんげんはそりゃあ大変ですよね。
円城氏の読了本をリスト化し、氏の書評とリンクするだけでよかった気がしないでもない……。
さいごの「ぼくがかんがえた最強の怪獣モノ」は、もっと地に足の着いたヘンテコを目指したかったのですが、宇宙や生物やその他もろもろの知識があまりに足らんかった。
オリジナルメカにトゲトゲをつけていたタイプの少年時代の精神性と知識量そのままで、ナンカスゴソウスペックをごてごて付ける30代のおっさんになってしまった。
記事にかんして当初のプロット;
- 円城氏の作品・作風を振り返る。
- 円城氏の書評や読了本を振り返る。(あくまで書評や読了歴だけで、本の内容には踏み込まない)
- 円城氏の読了本からえんえん参照・引用したオレ怪獣SSを書く。(SSの内容がそのまま、読了本の醍醐味を紹介するようなものとなるような。そしてゴジラの展開予想としても機能するようなもの)
……という3部構成。1,2を真面目にやって、3で(真面目は真面目なんですけど)胡乱ネタを結集させたら、起伏がでて楽しいのではないかと思いました。
実際書いてみたら、内容紹介などなどにSSの筋がうもれてしまうから、本の内容の紹介も胡乱ネタもけっきょく他項へも分散させることになりました。そのほか数万字の脱線を挟んだりなんだりと、ビックリするくらいフラフラしてしまった。
(また、3のSSにしても、本当であればキチンとそれっぽい理屈付けをすべきところをふんわりした妄想でふくらませてしまった)
脱線①②を描いた経緯
脱線部分は記事の本筋の内容をわすれてしまうレベルで長い。
正直いって書いた本人も「同一記事内に収めるのはどうよ?」と思わなくもない文量ではある……。
でもそれよりも書きたい・置いておきたい気持ちが勝ったので組み込んでます。
記事内容にかかわってきそうな大きな動機のうちポジティブなものが二点、
「"円城氏の読了本が、実作へとなんらかの反映されていること"、これを確かめずに本題2・3の"読了本振り返り"をしてしまっては、"趣味(読書)と仕事(執筆)は別物だろ?"と首を横にふるかたもいるのではないか?」
ということ。もう一点は、
「"『ゴジラS.P』では面白い具象や細部が見られそうだ"という話は、円城氏の作家的パブリックイメージとは異なる。こちらも具体例を挙げないかぎり、首を横にふるかたもいるのではないか?」
ネガティブなものも一点あり、
「『ゴジラS.P』にまつわる与太話だけだと、記事が薄味なのではないか?」
ということですね。かなしいな。蓄積がない自分の、コンテンツとしての魅力のなさよ……。
脱線①はどんな内容?
ゴジラとおなじく、東宝かつ天皇を出せない映像作品である今作にとって、第二部で登場した天皇の存在がいかに伊藤氏との共著という面で重要であったか、そして第一部・第三部とまたがって一連の文脈をつくる不可欠な描写であったかを振り返る……というものです。
脱線②はどんな内容?
円城氏はパブリックイメージや本人の言に反して、非実在物をフィクションで取り扱うさいかなり凝りうるひとであるということ、そしてそこへ実在する他者の知見や作家個人の実感を込めうるひとであるということを、『文字渦』劇中の描写・文字研究とを比較して確かめてみよう! ……というものです。
脱線話の有益性は?
①②ともに円城氏の参考文献や読了本からの反映を見るという部分によってそれなりに有益性が確保できてるんじゃないかなと思います。とくに脱線①は『ヴィクトリア朝時代のインターネット』がAmazon中古価格1万円超の転売屋のタネになり、『フョードロフ伝』も値崩れしない現状、辿ろうにも難しくてあきらめてた人もいらっしゃるんじゃないでしょうか。(金でなぐれ! の精神。きびしい人格~)
読書中なんどもお世話になったblog『妄想科學倶樂部』さんの労作「屍者の帝国 用語集」の……
【ワシリー・カラージン】不明。文脈からしてテラ・フォーミングに関わる人物であろうと思われるが、当該情報なし。
『妄想科學倶樂部』掲載、「屍者の帝国 用語集VI」より
……ここを埋める力となれて、ほんのちょっぴりですけど恩返しができた気分です。
あまりにも大きすぎて与太話としか聞こえない幻視者の構想に耳を傾け続ける。
唯物主義(マテリアリズム)を奉じる神秘主義者、フョードロフによれば唯物主義には二種類ある。一つは物質の圧倒的にして蒙昧な力に屈する唯物主義。もう一つは物質を、自然や理性さえも統御するための唯物主義だ。(略)
ワシリー・カラージンの提案に沿いアラル海で実験中だという人工的な気候制御による環境改良(テラフォーミング)について。アダムの言葉を求める企てについて。そして全父祖の復活計画について。それをも含む、精神圏(ヌースフィア)建設の構想について。
河出書房新社刊(河出文庫)、伊藤計劃&円城塔著『屍者の帝国』kindle版31%(位置No.6256中 1885)、第一部 Ⅷより(略、太字強調、文字色変えは引用者による)
フョードロフは、次のように述べている。「二つの唯物主義(マテリアリズム)がある。一つは物質の蒙昧な力に屈するものであり、もう一つは、物質を統御する唯物主義である。これは、思考の中や、書斎や実験室の遊戯じみた実験の中でなく、自然そのものの中で、自然の理性や統御となるものである」[著作集]。
水声社刊、スヴェトラーナ・セミョーノヴァ著『フョードロフ伝』p.162、「Ⅱ 教義」《共同事業》の教義の哲学的前提より(略、太字強調、文字色変えは引用者による)
ここで皆さんに質問したい。どのような事業においてロシア人はもっとも深くその独自性を発揮し、未来に対して担保を残したのだろうか? (略)また、われわれの将来の使命に影を落としている二人の偉人(略)がいるとしたら、それは誰か? (略)肝心の二人目は決して思いつくまい。ところがフョードロフは、その二人目の偉人として、ワシリー・ナザーロヴィチ・カラージンの名を挙げるのである。(略)ハリコフ大学の創立者であるカラージンはすでに十九世紀初めに天候の支配という具体的な提言を行っていたことがわかっている(とくに、雷による電気を抽出して雨を呼ぶため、避雷針をつけて気球を飛ばすことを提案した)。
水声社刊、スヴェトラーナ・セミョーノヴァ著『フョードロフ伝』p.100~101、「Ⅰ 人物と生涯」モスクワのソクラテスより(略、太字強調、文字色変えは引用者による)
フョードロフはすごいひとなので、天候制御にはほかにも地軸をずらして云々とか、大砲をつかって雨雲を云々とか、テラフォーミング関係やら人体改造・人類の発展についていろいろヘンテコなアイデアを出してたかたらしいのですが、そのなかで電気と関係するカラージンを劇中に挙げておくのはなかなかニクいですね。
『A Ride to Khiva』は『屍者』が新刊だった時代に挑戦して英文ワカランと挫折したひとが再挑戦してくれたり、だれか親切なひとが全編を訳してくれたりしないかなと他力本願をこめて触れました。zzz_zzzzが記事で引用した文章は、英検3級がつまみ食いしただけだからぜんぜん的外れなところに類似を見いだしてしまったかもしれん。
そのほか①については、『屍者の帝国』読者の感想とかをあさってみても、『屍者』がイスラエルを出せなかったことに対する言及・そして伊藤氏がイスラエルを出して何をしたかったんだろう? という想像はあっても(ツイッター、『最終防衛ライン3』さんのはてダ記事とか、かにパルサーさんのはてダ記事など)、
「共著版『屍者』が、伊藤氏がイスラエルに関心をつよくもったきっかけの一つである(「というか、イスラエルの建国について自分がほとんど知らないことに今気がついた」)『ミュンヘン』関連書籍や『ミュンヘン』を観て見出したこと――
――つまりイスラエルからはみ出した人びとの感性(さすらいびとのさみしさ)を全面に出した小説であることへの言及って見かけたことないよな~」
と思ったので、その点でわりと珍しいお話ができてる気がします。
{伊藤氏のblog記事はもう15年もまえの記事だし、当時とはひとも大分いれかわってるんでないかなとも思うし、あのblogの振り返りだけでもそれなりに意味があるのでは(……という考えはあぶないよな~。
ぼくが中高生のころにそういう昔話を楽しんでたかっていうと、それで手を出したものもあれば、無いものもあり……回顧厨のおしつけオジサン話にならないラインがわからん……)}
②も、 円城氏を抽象的な記号・概念・理論をあやつる・かんがえる作家/言葉遊び・前衛の作家として見る向き/寝たというお話はプロアマ問わずいっぱいあるけど、
「じゃあ属人的・具象的な読みでは楽しめないのか?
参考文献とかと実際にくらべてみてどうか? どの辺まで歩み寄ることができて・どこから出来なくなるのか……その距離感について詰めた話って見かけたことないよな~」
みたいな印象があるので、その点でわりと珍しいお話ができてる気がします。
{いや、この記事がそんな詰めた話をできてるかっつったら、まだまだまだまだ突き詰めきれてないわけですが(十数話あるうちの一、二話、そのうちのちょっとした表現についてフォーカスしただけなわけで……)}
円城氏の読了本でお気に入りの本
氏の読了本かつぼくがよみおわったなかで、とりわけ面白かったのは『会議の政治学 (慈学選書) 』*2。
(こっから記事でかいたもののコピペ)
東京大学の公共政策大学院の初代院長、日本行政学会理事長をつとめた森田朗さんによる会議の概論書。 本編180ページほどですが、具体的でとても良いです。
森田氏は第一章で委員のふるまいを、議論を円滑に進めてくれる①「バランス配慮型」、状況と無関係に自分のいいたいことをいう②「自己主張型」、一見②に似てるが何か主張したいことがあるわけではなくとにかく発言することによって自分の存在を確認し誇示したい③「自己顕示型」などなどといった具合に7タイプに分類し、会議に見られる意見主張(論理的に整合なものというのではなく、意見を通すための詭弁の類い)もまた7タイプに分類、その長所短所を紹介します。日本の会議・委員会を端的かつ具体的に紹介し、どう委員を編成するか? いかに会議を捌くか? より良い答申書を作成するためのプロセスを検討していきます。
第二章ではそんな会議を支える事務局の役割や活動、会議の打ち方(いきなり本題にズバンと入るか、方針決めのためのジャブ的・勉強会的な小会議をまずひらくか?)、会議資料の作り方、具体的な進行、根回しや応援団についてなどが記されます。
第三章では会議にかんする情報発信・情報公開について(議事録の作り方とチェック、メディアとの関係性など)が記されています。
そこで、座長としては、前述した委員のタイプをよく把握して、適宜発言を誘導したり、発言を求めている委員のうち信頼できる委員に優先的に発言を許すなどの方法によって、意見を収斂させる方向へ議論を誘導する。具体的には、会議の冒頭では、自己主張型の委員に発言を促し、それをきっかけに他の委員から発言を引き出す。ある程度さまざまな意見が出て、争点が収斂してきたら、自己顕示型や専門閉じこもり型の委員の発言はできるだけ封じ、バランス配慮型の委員に、多数の委員が受け入れられるような提案を促す。そして、それによって、そろそろ終了時間が気になりだした無関心型の多数の委員に、その日の会議の落としどころを察知させ、タイミングをみてその日の会議の合意内容を確認する。そのとき、その合意内容に不満をもっている一部の委員が発言をしないように圧力をかけるべく、うまく雰囲気を作ることが重要である。
森田氏の論考はあけっぴろげで、実体験に根差したディテールがあり、絡め手も多数紹介されてたいへん興味ぶかかったです。
会議の座席をどうするか一つとっても、色んな点が考慮されてて*3、
「ぜったい会議したくない!」
となります(笑)。
(コピペここまで)
先日の日記で紹介した「シン・ゴジラ覚書」のblog『忘れないために書きます』さんが追記記事を投稿されていて、それを読んだら、『シン・ゴジラ』後半の検討をされていました。
行政は描かれているけど(前半)、政治=「折衝・交渉・多彩な価値観の対立・矛盾」はオミットされている……というようなお話ですね。
{そこから、時事問題をあつかった『逃げるは恥だが役に立つ』TVスペシャル版に関する疑問、創作の難しさと話題がふくらんでいきます。
この辺のお話は、いまはなき『Red Diptych』さんの関心事(たとえばクーヴァーのポストモダン西部劇『ゴーストタウン』が「長編としては小ぶり」な程度の文量におさまっているのは、ネタにした西部劇自体のもっていた政治性・歴史性・多義性を捨てることで、収まりよい「お話」に対象を矮小化してしまっているからではないか? ……みたいな感じのお話がなされる「西部劇は解体しうるのか――ロバート・クーヴァー『ゴーストタウン』」とか)を思い出したりも}
『会議の政治学』で扱われたのはまさしくそういった部分で、この辺の知見が活かされるかどうかも『ゴジラS.P』の個人的に気になるポイントだったりします。
▼汚言症問題について;ぬるオタにも色々あるよね(スマホゲー以外できない擦り減りかたはぼくのリアルじゃない)
親切な方から窘められたのに、こんかいの記事でも寝小便を垂れた話などをしました。
「どうよこれ?」「せっかくのひとさまからの親切をさあ」
と思いつつも、でもふと、
「ある作品や作家がぼくにとって(お前にとってではなく=客観的な点数とは別軸で)どれだけ重要であるかを語るうえで、"ぼくがどんな生活を送っている人物で、そして、どういったかたちで本や創作物への向き合っているのか"――これを書かないことには、ヨクワカランことにならないか?」
とも思うわけです。
たとえばすごく的を射ているし新規性もある100点の評と、平々凡々とした50点の評があるとしましょう。
でも、100点の評が、書き手は本当は対象とする作品によっては歴史を変えるレベルの1000点の評を書ける天才なんだけど、その評にかんしては片手間でサクサク毎日3食ポイポイ書いたものだったらどうか?
50点の評が、いつもは5点くらいのしょうもない感想しか書けないひとなのに、その評にかんしてはめちゃくちゃのめり込んで1年に1本ようやく書けたものだったらどうか?
……みたいな。
スゴイ識者が見れば1000点だってつけられる作品だけど、5点しか見れないひとが見れば5点にしかならない作品と。あるいは、スゴイ識者が見たら100点程度の作品だけど、5点しか見られないはずのひとが50点を見られる作品、どちらがよいか? ……みたいな。
う~ん……ふんわりしか考えてないので、言ってるぼく自身がよくわかんなくなってきたぞ。なんとなく伝わりますかね?(5点しかモノを考えられない人の思考回路~!)
なんか今すごい「刺さる」と評判の映画には、何者にもなれなかったぬるオタの実存が書かれているらしい。
なんでも、社会人生活を送って疲弊し、スマホゲーをポチポチすること以外できなくなる……みたいな展開があるんだとか。
観もせずに言うのはアレなんですけど、
「でもそれはぼくにとってのリアルじゃないよな」
とか思うわけです。
スマホゲーをやったって毎日こつこつデイリーボーナスをこなすことができず、ウィークリーボーナスをもらうことなんて夢のまた夢。週一放送をリアタイ視聴しようとするもどこかで観そびれてそれっきりになったり、番組録画予約だけ設定して、そのうち録り貯め消化やダビングがおっつかなくなって、HDDが保存容量いっぱいになって整理できずに全削除する。そのくせ、ネットサーフィンは何時間もやっちゃったりして、意味もなく夜更かしして体調がメチャクチャになる。デイリーボーナスをこつこつこなすのも面倒だし苦痛だし、こなせないことで"足りてない"自分をいやでも振り返らざるをえなくて嫌になってくる……
……そういうのがぼくにとってのリアルなんですよね。
で、映画の登場人物の好きな作家リストとか見ちゃうとね、「めっちゃ読んでるじゃん、全然ぬるくないよ!」とか思うわけですわ。「スマホゲーをしっかりこなせるひとはやっぱり違げえや……」みたいなね。アニメも漫画も小説もまんべんなく観たり読んだりしてまじでエラいと思う。
下には下がいるわけですよ。
んで、そういう下の下の下々々のぼくだってのめりこんでしまうような魅力がある~ということを話したほうが良いんじゃないか……
……みたいなことを思っちゃったりもするワケなんスよね。
(『春期限定いちごタルト事件』の極楽トンボ氏の解説が、けっきょくぼくにとって一つの何か核なんだろうな。
あれは正直あんまりおもしろいものではなかったけど、でもその熱意はきっと本物だったよなぁ、みたいなことを最近おもう)
■観たもの■
『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』1話鑑賞メモ
1話先行ライブ配信で観ました。宿直室で、スマホで見たので細部はぜんぜんわかっていない。外でスマホではインターネットやりたくないですけど、ここで通信せずにいつするんだという。(ネットフリックスでとはいえ1話も公開され再鑑賞もした。先行上映会の舞台挨拶で「過度なネタバレは……」みたいな話もあっていちおう伏せたり、伏せなかったけど確認不足だったりしたところを徐々に追記していきます)
素晴らしかった。あと12話もこのなめらかな作劇回しや土地・怪獣のディテールが拝めるかと思うとうれしすぎて困ってしまう。
ここぞという時にだけ使うBGMやSEに感動してしまった。(もっとも、音量しぼっていたから、大きなBGMだけ出力されただけで、ふつうの音量で聞いたらバンバンBGMが使われている作品だったりするかもしれない)
第1話に関して言えばBGMは数シーンだけにしか付いていなくて(0325追記;あまり大仰なものがつけられていなくて、というのが正しい表現か)、それでも/それだからこそ耳がとろけてしまった。
円城氏か高橋監督かどなたの功績かは存じませんが、どんな長台詞だろうと声優さんが滔々としゃべればそれだけで心地よくなってしまうということを、作り手がよくわかっている! すごい作品だ。
(個人的には『映画秘宝』のインタビューを読むと、高橋監督が『スペース☆ダンディ』で円城脚本回11話(高橋氏は絵コンテでクレジット)を担当したさいに感じた一般的なアニメの語り口とはちがう独特の展開の面白味について語っていたので、円城氏の脚本はもちろんエラいけどそういう部分をもとめた高橋氏がエラいという気持ちになっている)
{0326追記:円城氏の3月36日のツイートを読むと、書き伸ばさせたということなので、やっぱり高橋氏のディレクションがえらいという思いがつよまった。
脚本ってふつう一話30くらいのはずなので最初30で書いたら、伸ばしてって言われて40になっていきましたね。
— EnJoe140で短編中 (@EnJoeToh) 2021年3月26日
(と同時に、「これで"円城塔の作りたいゴジラなんだよなあ。ちょっと鼻についちゃう"とか、"視聴者に理解させるつもりない長台詞のカットがいくつかあって「尺稼いでいるのかな?」と思ったけど、脚本が円城塔さんだから台詞切れなかったんだな。"とか言われるのはかわいそうだとも思いました。かわいそう……。
ただ、高橋監督は別の取材で……
「円城さんの文章はとても面白いのですが、とにかくセリフ量が多くどう映像化したものかと。多くの場合TVアニメは1話約20分で300カット弱、平均して1カットあたり6秒で構成されていますが、本作は10~20秒ずっとセリフのカットがザラにありました。それだと見ている側はつらくなります。そのため、アクションシーンを入れ、ロボットを入れ……とこちら側で足させていただきました」
朝日新聞『&M』掲載、阿部裕華著「アニメ『ゴジラ S.P』【1】高橋敦史監督「意味のないシーンやセリフは一つもない」」
……とも答えている。もしかすると「シーンを入れて」という指示が「セリフ増として帰ってきちゃった」とか、そういう余地はあるかもしれない。とか書いていたら、
セリフは相談したり指示があったり尺に合わせたりアフレコ現地で考えたり色々でしたが、円城塔っぽく、というのもありましたね。最後のはわりと得意。
— EnJoe140で短編中 (@EnJoeToh) 2021年3月26日
やっぱり円城氏のせいにされてかわいそう案件なのでは……?)}
考えが回りだすと言葉が止まらなくなる自己完結型天才の独りごとに、古めかしい説明書を律義につらつらと読み上げる局員。妙な本名に妙な綽名、江戸っ子(?)的ななまりを含んだしゃべり、いくつかの性格・職業のそれらしい語法……
……聞き間違いと勘違いを積み重ねていくモノローグやダイアログの音をたのしんでいると、怪しい歌が流れ、獣の声がひびき、そして劇伴音楽がここぞというタイミングで鳴り響く!
「顔のクローズアップは数ショットだけあればよい。
1つある作品のクローズアップの衝撃が100点だとすれば、2つある作品だとクローズアップの衝撃は50点ずつだし、4つある作品なら25点、100あれば1点だ」
と邦画の名匠が言ったとか言わないとかいうお話がありますけど、第一話の絞られたBGMの使い方は、そうした魅せ場をより効果的に映えさせるためのペース配分のように思えました。
第一話の終わりで複数の空間・人のふるまいを同期させたように、(少なくともこの第一話にかんしては)22分の一エピソードという尺が念頭に置かれたペース配分がなされているように思います。
オオタキファクトリーの若者・有川ユンが、休日の屋外ショー会場に突如あらわれた翼竜にパニックがおこるなか、逃げようとしてつまずいてしまって立ち込める砂塵のなかにきえた子供を助けたところ、子供といっしょに生きた翼竜(0325追記:ラドン)と対面し。
ミサキオク地区のわかき管理局局員・佐藤がミサキオクの謎施設の地下で、上司のオッサンに連れられてエレベーターを降り、いっしょに怪獣の骨(0325追記:ゴジラ)と対面する。
(0325追記:1話前半~中盤で神野銘が「こしら」と「らどん天狗」などが描かれた巨大絵と対面するというシーンもあった。ユンと佐藤とが実地で見たものを一緒に見ている存在がこのひとということになるのだろうか)
(0325追記:また1話ごとの区切りが意識された作劇という点では、Aパートの最初でユンたちが「奇跡が云々」という会話をしたうえで、Bパート終わりでユンがモノローグで「奇跡が云々」で〆る、という部分もありました)……
……円城氏が初めて1クールのアニメのシリーズ構成をつとめることに関する不安を消し飛ばして、信頼と期待に変える堂々たる幕開けでした。
モンスター描写もすばらしい。
現代の(劇中設定は2030年のお話なのだが、そこらにいくらでもある寂れた街を舞台にしている。いまここよりも着々と時計の針はすすんでいて、地元の祭りでは、ランタン飛ばしのような催しがなされているけど、紙灯篭の骨組みはドローンだったりする)日本の都市に翼竜があらわれ、電線に(0325追記;八木宇田アンテナに)つまずいて制動をあやまり、予備校の四角い看板広告などの陰に沈みつつも翼をバタつかせて少し揚力を取り戻し、なんとか酒屋かなにか(0325追記「天野酒蔵(?蔵の字はつくりだけ))の屋上広告に泊まる。
しかし翼竜の重みでなのかグラリとひしゃげて、地上へ落下する。周囲の人は逃げ出し、少年もそれに連なるが、祭りらしいサンダルによるものかコケてしまう。
なにげない生活の場を怪獣が侵し、見慣れたものを壊していく……ぼくが好きなタイプの怪獣描写・都市破壊描写がおがめてうれしくなってしまった。
被破壊オブジェクトとしては3DCGの車とかが多くなるのかなと思っていました。そんな不安にたいして第一話の頭を下げて地に落ちる3DCGモデリングの屋上広告ですよ!
長方形の板を張り合わせた円柱の頭に、シャンプーハットみたいな鉄網の電飾部をのせた3DCGのオブジェクトの壁面には、酒屋トカナントカと印字がさらに付せられ、それぞれに赤錆のういた鉄だとか、経年のくすみであるとかといった背景美術さんによるだろうウェザリングの利いたテクスチャが貼られている。
それがぐらりと傾き(円柱の壁面部におちた電飾部の影が傾きにあわせて投影をかえていく)、落ちて、地面にぶつかり大きな土煙を立てる。
こういう些末な――しかし印象的な――大道具をしっかり凝ってくれてこそ、「大切な日常が壊されているんだな……」と心がより動かされるわけで、そこがしっかりしている今作はそりゃもう続きも期待大なわけです。
読了歴との関連;
「古史羅」図の元ネタである、国芳『讃岐院眷属をして為朝をすくふ図』を紹介している辻惟雄さんによる『奇想の系譜』読了日が18年2月16日。3月29日に『巨大翼竜は飛べたのか』。『手作りラジオ工作入門』が5月30日。
ゲルマニューム・ラジオは無電源という特徴を持っていますが、少しばかり音が小さいという欠点があります。
講談社刊(ブルーバックス)、西田和明『手作りラジオ工作入門 聴こえたときの感動がよみがえる』kindle版30%{位置No.178中 53(紙の印字でp.52)}
1話締め切りが6月だったということか?
それともこの程度は調べるまでもなく頭に入ってることだから地力で(手癖で?)書いて、この時期にスタッフから細部の資料をもとめられて読んだのか?
はたまた後段でもっと活用される道があるのか?
「高圧線の下で蛍光灯が勝手に光る」は、ぼくにとってはレン・フィッシャー『魂の重さは何グラム?』で(それを利用したインスタレーションといっしょに)触れられたことが頭に残っているけど、円城氏の読了スタンプはざっと見た感じなさそう。
たしかノーラン監督『プレステージ』でも参照された光景だった気がするけど、『ゴジラS.P』ではインスタレーションの方向性ではなく、おどろおどろしい怪奇現象と(理科的な知識による)そのヴェールはがしという方向で独自の組織化をしている。
0320(土)
宿直明け日で勤務日。
0321(日)
寝たり起きたりしてました。
0322(月)
■読みもの■
『映画秘宝21年5月号』読書メモ
巻頭特集は「ゴジラvsイェーガー! 新時代を戦うアニメ30選」。
『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』高橋敦史監督とシリーズ構成・脚本の円城塔さんそれぞれへのインタビューが1ページずつ掲載されていました。(というのを聞いてポチりました)
円城氏へのインタビューは、こりゃもうアニメ制作や怪獣モノのお約束を題材にした漫談ですね。「恐怖新聞通信」(『読書で離婚を考えた。』所収)がすきなかたはオススメのインタビューでした。
円城 (略)そうなると人間を描き始めるわけですけど、13話もあったら正気に戻ってしまう瞬間がありますよね。
双葉社刊、『映画秘宝 5月号』(21年3月19日発売)p.4、トヨタトモヒサ氏+編集部小澤涼子氏による、円城塔さんへのインタビュー記事より
がんばれ円城先生! 立つんだエンジョー!
■観たもの■
『プロフェッショナル仕事の流儀 庵野秀明スペシャル』
面白かったです。ただ尺は倍あってもいいし、4倍8倍とあったってよい。
集団制作・興行としてのアニメとしては――別スタッフ別TV会社の番組ですが――宮崎駿監督をメインにおきつつも、鈴木敏夫プロデューサーも広告会社や配給映画館主とやり取りするサブ主人公的に取材され、アニメ制作にかかわる各種役職をえがいた『「もののけ姫」はこうして生まれた。』(リンク先、このblogの鑑賞メモ)のほうが見通しが良かった気がする。
(また作家に密着取材的なむきとしても、途中でまとめられた庵野氏の作家のプロファイルは、代表作が端折られたりなど、見ていてけっこう「?」と思ってしまう時系列で編纂されていた気もする。
庵野という「使徒ちゃん」に焦燥・疲弊していく周囲の、ある種の天災モノ・怪獣モノとして見るにしても、やっぱり庵野氏の言うとおり、複数の人物・場をザッピングするカメラの不足を感じざるをえない。
手を付けられない御飯とか、序盤の若々しさが嘘みたいに、うっすら青ヒゲをうかべるようになる鶴巻監督とか面白いのは面白いのだが……)
以下、『シンエヴァ』のネタバレもある感想です。
公開直後の作品についてのドキュメンタリということで、どこまで作品について映してよいか、マスクされた部分も結構にあるのではないか? ……とは思いました。
とにかく饒舌で、さまざまな分野に出張ってやっぱり弁を尽くす宮崎駿@『もののけ姫はこうして生まれた。』。宮崎氏とくらべて、『プロフェッショナル』の庵野氏が無口な苦悩の人に見えるのは、たぶんそういう、作品について突っ込んだ話(をしている場面)がうつせない都合もあったりするんじゃないかなぁ? ……とかチョット思いました。
(各種インタビューはロングインタビューになることも多々あるわけで)
(3/24追記。
また、監督~声優間のやり取りでいっても、「しかしテレビシリーズ「新世紀エヴァンゲリオン」が始まった1990年代は、「時代的にどのアニメの現場も、絵が100パーセント出来上がった状態でアフレコをすることが多かった」という。「『エヴァ』も最初は100パーセント絵が入った状態で、アフレコをしていました。だんだんと絵が減っていったのですが、そうなったとしても庵野さんは『このシーンはこうなる予定だ』『だからこう演じてほしい』ということを、ものすごく丁寧に説明してくださる。すると実際に、おっしゃった通りの映像が上がってくるんです。庵野さんは、そうやって作品に向き合う方だとわかっていたので、ものすごく信頼しています」。」というお話もあるわけですし)
いわゆる全記録全集は読んでないから、この体制がいつからなのか分からないのですが、『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』にも列挙されていた社内試写とその感想が、『シン・エヴァ』では製作⇒試写・リアクション⇒改稿……と、きちんとフィードバックされているらしいところに、「やっぱり製作期間が潤沢であること、そうできる地力があることは大事だなぁ」と思いました。(もちろん初めてやる試みではないことですから、制作の工程に"こなれ"た部分もあるんでしょうけど、いくら慣れてても時間的金銭的余裕ががないことには……)
アンケート内容と、プリヴィズ撮影制作風景ででてきた完成版に無い差分などから、わずかながらも内容がチラついたAパートの初期案がおもしろい。
『シン・エヴァ』の 村パートについて、
「現実のムラ社会の閉鎖性・いやしさがない、ユートピア的である・ぬるま湯である、それは庵野の性格(社会や現実にかんする無関心)などの表れである」
というようなお話をするかたがチラホラ見かけましたが、じっさいのところは他者の意見をうけとめた結果だった……というのは結構おどろきでした。
{もちろん、「熟考し協議した結果があれかよ」という評価をするかたもいるでしょうけど。
(3/24追記。旧劇の最後の一言などから想像されてしかるべきだったんでしょうけど、『シン』についてもシンジ役の緒方さんへの取材記事で、
という話も出てきたりと、とにかく全方位から声を考えを聞き、取り入れるという姿勢が見える)}
アニメであっても撮影現場をつくってバーチャルカメラで複数の視点を検討するとするのは、『シン・ゴジラ』の実写畑のメイン撮影班にくわえて独断で摩砂雪氏らアニメ畑の戦友をD班を投入して「とにかくカッコいい絵を」とあれこれ好きなように撮らせていった庵野氏らしい試みですね。
そしてドキュメンタリー班に『プロフェッショナル』の構成・取材について言ったこと(「カメラを増やして色んな人の絵を撮りましょう」的な)も、それらとおなじ線上でかんがえられるものだと思う。
観られたことに満足しつつも、絵コンテ集とか全記録全集とか更にいろいろ知りたくなる、なかなか良い塩梅のドキュメンタリでした。
■ネット徘徊■
思うは自由だけどTLもblogも「思う」場ではない
(Yahooニュースはゴリゴリ消えるのな……呉座雄一さんの北村紗衣さんをはじめとしたdisツイート炎上、大河ドラマの考証スタッフから辞職したことを伝える記事だったと思います)
17日の話題とかさなるできごとでした。テレビ越しに野球選手や政治家をののしるみたいなノリでインターネットしているひとはたくさんおり(ぼく含め)、「アレだろうけど大丈夫だろう」とアレなこと(当者比)を言ったりしていたら、当社会的にNGでしたという。
個人TLや個人blogはべつに脳内の拡張でもプライベートな自室でもなんでもなくて、そこで書いたことは「思ったこと」ではなくて不特定多数に見られる場で「公言したこと」であるというような齟齬。
{抜粋で判断しちゃうと前後の流れが非常につかみにくくなるので、あくまで抜粋で見る限りでは、と但し書きするかたちになるんですけど。
呉座氏による他者への攻撃ツイートは、個人へはもちろん、その人というよりもその人が含まれる(と呉座氏が思っている)属性(女性研究者とか)へのものもあり、さらにはもっと大きな群(女性)へのものもあり……とさまざまで、そして、呉座氏の攻撃対象は女性というよりも(「というよりも」というか「それに加えて」? いやもちろん、個人にたいして実際にはその人が有さないレッテルで何度も攻撃している以上、「呉座氏が女性や女性研究者に対する偏見をもっているひとだ」という風に結論づけざるを得ないんだけど、そうした属性とは無関係のものもたびたび口撃されているところを見るに)、氏が意見にうなづけない様々なものなら老若男女問わないようでありました。
そういう意味で、TVや新聞のニュース・番組を見ながらあれこれ言う人のツイッター版ととらえるのがぼく個人的にはしっくりくる感じ}
話題にされたツイートのなかには、ぼく目線から見てもキビしい内容をぽつぽつされていたので、「そりゃあ……」という感じなのですが、ただ、
「それだけ仲間がいるのにだれも問題行動を指摘しなかったのか? 自浄作用はないのか」
みたいな話は酷ではと思いました。
なんかアレだと思っても、
「ぼくとは意見が違うし、"それは無いな"と思うけど、ぼくがその分野について無知だから何も言えんわ……」
ということは多々あるし。
そこをクリアして、それはアレだと明確に判断できるものであっても、なまじ親しかったりすれば、
「なんかアレだが聞き流しておくか。良い人だって知ってるし」
と情状酌量や見過ごしが働きそうなもので。
一番は多いのは、
「これに対してはなんかアレなこと言ってるけど、そこを求めてツイッターをフォローしたわけじゃないからここは無視」
という反応なような気がする。
バッサリ「駄目だ」と言い切れるのは、むしろ後腐れがない赤の他人のほうがやりやすいんでないかなぁなんて思います。
テレビにうつる事件や不祥事については素直に「クソだな」「アホくせえ」と言えても、現場で言えるかというお話であります……むずかしいですね……。
ぼくも、尊敬する作家さんについて、「ある特定の話題・人物に対してはどうしてこうも痛罵されているのだろう? 年がら年じゅう揶揄とか批判とかをしている気がする」と不思議に思うふるまいを見ていたりもしますが、ふつうにスルーしちゃったりする。そもそもコミュニケーションをとる手段がないけど。
(たとえばある作家さんについて「千野坊」「千野」でツイート検索して出てくるつぶやきの量や頻度は「これは粘着ではないのか……?」と素朴に思う)
そしてそのうち、なぜそうも辛辣に批判しているのか? その理由が明かされた文面に出会ったりして、「そういう経緯でそうなってるんだな」と納得する場合もある。
そんな感じで「一部はアレだけど、その人がどういう理屈でそう言っているのかはわかる(からスルーをする)」みたいなひとも、呉座氏のツイッターフォロワーのなかにはいらっしゃるんじゃないかなぁ……という印象ももちました。
{呉座氏のツイートについても、たとえば医大の男女差別にかんして出てきた「お嬢様の自己実現なんて知らんがな」はショッキングなわけですが……
正直言ってその「女性蔑視発言」の部分は、「なんでそんな事言うかね・・・」と僕ですら引いてしまうモノも結構含まれていて、それをちゃんと「ダメなものはダメ」って言っていく意味はあると思います。今回の件ではご本人も謝罪してますしね。
一方で、色々な過去発言を遡っていくと、例えば例の私立医学部入試の男性に有利な傾斜配分問題について、そういうのを単なる男女差別的な課題として捉えるんじゃなくて、
「そうまでしなくちゃいけない医者の過重労働で支えられている今の日本の医療のクオリティを、女性差別をしないでも実現できるにはどうすればいいか?」
という方向に持っていくべきだ・・・みたいな傾向の「いらだち」については私は凄い理解できる気持ちになりました。
note、倉本圭造著『「呉座先生事件」に思うことと、「分断の時代を真剣に超えるオードリー・タンの知恵」が身近な活動家にも理解されていない話について』
……騒動後にツイートを読まれたかたのなかにも、そんな風に読んでいるひとがいたり(いや上の記事は「それはそれとして」というお話みたいなんですけど)
呉座氏のTLをながめるに、男女の雇用ギャップ(正職差や所得差・管理職の就労格差)について、「結婚出産育児などで休業・時短業務・退職をするからだ。女性の穴を男が就労・超勤することで埋めているからだ」「そうした構造上、女性は主婦となり夫の収入を自由に使うことへ流れて、じぶんで管理職として働きたくなくなる」という風に考える派がいて、呉座氏もそのひとりみたい。んで、かれらにとって医大の女性入学は、
「高い金をかけて入学してもらい育成した女医もけっきょく結婚・出産などで現場から離れてしまう、社会的に無駄の多い選択。であれば生涯就労年数のながい男を多く入れさせたほうがいい」
という感じで、呉座氏の「お嬢様の自己実現」はそういう流れで出たことばらしい。
(この辺については、そういう論者が参照したデータについて、参照元の当の研究者から「女性に責任転嫁するようなその結論はおかしい」と言われていたり、あるいは諸外国の女性医師の定着率・女性管理職の多さなどから反論がなされていたりするのまでは見たことあるし。そして、それに対して、「海外はナニーなど、親が育児に時間をとられず労働へ充てられる構造があるけれど、日本ではそれにあたる存在がいないのでは?」みたいな再反論があるのまで見たことあるけど、ムツカシイ問題なのでぼくはよく調べてない。
個人的には「5割の確率で(女性に生まれただけで)就学の幅や生涯収入が極端に減じられる構造ヤバいだろ」という思いがある)}
「いやこういう風に思っちゃうのは、トーンポリシングで。
何かまっとうな理由から批判をしているのであれば――センセーショナルに傾きやすい公衆の面前ならなおさら――汚い言葉をつかわず理路整然と批判をすればいいだけだよね」
という気持ちもあり……どうすりゃいいのかなぁとつらい気分になりました。
*1:どういう視点からのネタだろうとネタにすること自体がダメだよという話はわかるんですけど(311後に出たDHMOジョークにぼくはムカついたりした)、他方で『「バイデンが井戸に毒を入れた」への批判に「ネタにマジレス」と苦笑するネットユーザーの闇』は、その「"マジで言っているひとへの茶化し"として当該ツイッタラーが言った」という観点が抜けて、マジなひと扱いされてちょっとかわいそうだなと正直ぼくは思ってしまう(4/3追記;こういう現象を「ポーの法則」と言うんだそう。勉強になりました)。ネタをネタとして分かったうえで「ただただシンプル滑ってる」「サムい」というのはまぁあるのかもわからんけど……。
*2:面白かった本はめちゃくちゃ沢山ある。『団地の政治思想』も団地の掲示板まで拾うような心性史で良かったし。
『ヒンドゥー教 聖と俗』はこうして手に取らなかったら、70年代にインドで大学教員を数年した人の実体験に満ちたルポ的要素がつよい本だとは知らずに過ごしただろうと思う。
『天災と日本人』も全国津々浦々の信仰・プラティカル両面のオモシロ天災対応・対策・失敗本で良かったです。
81ページに載ってる例だけでいくつか挙げれば、(経験則として)論争は主張内容よりもむしろ向き合う委員同士で発生しがち(だから席順をシャッフルする可能性も頭に入れておきましょう)とか。
座長が会議参加者の名前をパッと出せないと「統轄してる頭がこれで大丈夫かこの会議?」となるとか。
座席表は座長を上に置きがちだけど、それだと座長が肉眼でみる並びとは上下左右が逆になってしまうから、座長を下に置いた表のほうが実用的だとか。