高橋敦史監督『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』、その1話を観た感想です。(投稿時点で2話まで鑑賞)
1万9千字 2万2千字くらい。
※以下、高橋敦史監督『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』をネタバレした文章が続きます。ご注意ください※
約言
1話あらすじ;
「起こらないから奇跡なのさ」
岬に立つ洋館の幽霊屋敷さわぎを町工場の何でも屋(メガネと筋肉自慢)が、うらぶれた"みさきおく"の官製施設の怪信号を教授の代理で大学院生がそれぞれ追い、謎の歌をともなう怪信号によってニアミスする。
幽霊さわぎでは怪信号のほか謎の生き物の存在が示唆されもして、翌日、何でも屋のメガネは上司の制止を振り切り歩んださきで、自身の仮説を証明する怪しい存在と日のもとで対面する。他方で、怪信号を気にしていた施設新人職員は、前夜の院生と翌朝の筋肉自慢の何でも屋によって発信元の方角を知り、年配職員に案内されたさきで怪信号以上に怪しい存在と暗がりで対面する。
「そんなもん滅多に起こらないから奇跡なのさ」
記述;
カットを割らずに二桁秒単位でキャラが喋り・動くなどする。複数人を収めた構図にはいつでもなにかしら原動画に動きがあり、見ていて楽しいです。
カメラワークもBGMも、使いどころがよく考慮され抑揚があり(たとえば、回り込むカメラワークは、物語的にキナくさい状況のみに集約されている)、アニメやドラマを見ているとわりあい見かける、場面を持たせるためにか画面を微妙にスライドさせていったりズームさせていったりするような作劇はありません。
セリフ回しや場面転換には、しりとり的な気持ちよいつなぎがなされていました。前後に相同性を持たせるという繋ぎかた等こそオーソドックスですが、素材がオーソドックスではないから新鮮な驚きがあります。
内容;
顔見世回。
序盤の会話で出た「奇跡」が1話終盤で再度発せられるなど、1話ごとの区切りが意識・整理されたペース配分で今後に期待がもてます。
怪獣登場と劇中社会への露見・周知は、20分=全体のエピソードの1/13という上映時間=話の比率的にはそう遅くはないけれど、それでも「遅い」と感じる人がいるだろうと思いますしそれは分かる感覚でもあります(※1)(※2)。情報を追う主役が高所から転落するハプニングに見舞われるなどの展開があり、遅滞を感じざるを得ません。
ここ好き;
気持ち良い言と音と画のつらなり。
細部の凝りかた。錦絵や名札や書類など、それぞれ違えた質感のよさ。被破壊オブジェクトの1話の目玉・ビル屋上広告は、形状もテクスチャも凝ったモデリングだ!(車ばかりが壊されるんだと思っていたので嬉しい誤算)。
ただ、他視聴者の反応をあさると「神輿が千葉ではない」「電車が湘南線」などとの声も聞こえ、凝りかたには偏りがありそう。
{円城氏の近年のコラム・書評・読了本から(線路や道路、団地など)物にやどる政治性・歴史性をすくった文明破壊描写へ期待をしていた自分としては、そこは読みを外したなぁと思う。多数の読了本があるインド(や、今作に出る気配はまだないけどインド同様に多数の読了本がある大阪や北海道)に期待したい}
※二話を観た者として擁護;
1話と2話ではテンポが全然ちがいました。1話時点ではセリフ上で処理された感のある周囲のようすや科学的な思索……これらが2話では目に見える形で登場し、その物量は一周では追えないレベルに膨大なんですよ。『ゴジラ対ヘドラ』中盤まで/『コンテイジョン』の速度感が好きなぼく大興奮。
アクションもすごい引き出し。予告でチラ見えした「スーパーロボット路線?」とか、1話で想像された「スカした知的路線?」とかは良い意味で裏切られました。泥臭っせ~! (そしてその考え方や行動は、1話の幽霊探査と実は根を同じくしている)
1話で「う~ん……」と及び腰になってしまわれたかたも、視聴継続するか否か判断されるのは2話まで保留してもよいと思います。
※八話まで見た者としての謝罪と再擁護;
2話以降を観て思ったのは、自分が怪獣映画を観る際どれだけカタストロフを待ち構えているかということでした。
視聴時のテンションとしては「これは次回たいへんなことになるぞ!」⇒「今回は案外そうでもなかったな。……!? いや、これは次回こそたいへんなことになるぞ!」⇒「今回も案外そうでもなかったな。……!? いやいやこれは次回」というのを繰り返しています。(登場怪獣の規模的には適切なんですけどね)
破局を楽しみにされているかたは、円城氏の「最近の発見」を信じましょう。
登場人物を殺さなければいけないほど大きな主題ってなにか、というのは、長年の疑問だったのですが、人が死ぬ劇、と思えばそういうものと思えるというのが、最近の発見ですね。
— EnJoe140で短編中 (@EnJoeToh) 2018年9月3日
各話でちがうことをやりつつ1~3話を丁寧に対比変奏しながら展開していって、8話まで来て「とんでもないところまで行き始めたな……まだあと5話もあるのか……どこまで突き進むのか……」とおそろしくなってます。
感想本文
とにかく言葉のつらなりが気持ちよい。
それが『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』の完成披露ライブ配信で見た感想でした。円城塔さんの語りを、声優さんがつらつらと読み上げるとこうも気持ちがよいものだったのかと。
ネットフリックスで観直して、それはまちがいだったと思い直しました。
怪獣が出てくる/それを社会が認知するまでの速度は時間的にはそれなりだが、感覚的には遅くかんじられもする
第1話「はるかなるいえじ」は面白いけれど、そのなかで、特段なにかが解決されたわけではありません。むしろ誤解があり迂回があり、遅滞していたと取るかたもいるでしょう。「こんなゆったりしたペースで大丈夫なのか?」と。正直ぼくもそう思います!*1
怪獣など劇中独自事物がいつどのように登場し、劇中社会はいつどのように対応するか? フィクションで大事な要素です。はやければはやいほど良いし、遅い場合でも納得いく理由があれば気にならない。
主役が高所から転落して情報が遅滞するなんてもってのほか。厄介なオタクの厄介な話を引用しましょう……
『原子怪獣現わる』(’53)なんかそうなんですけど、劇中独自ガジェットである怪異に遭遇した生き残りが、怪異の存在を訴えるも無視される展開がそれなりの尺を占める作品ってそれなりにあるんですよね……。
『原子怪獣現わる』だと、0:10:23に怪獣の全体像登場。第一目撃者は驚いた拍子に崖から転落・雪崩に巻き込まれ死亡、主人公は生存するも精神異常扱いとなり(目撃した経緯は水爆実験直後にセンサー異常が確認され、実地見回りに出て。カメラは不携帯)、行く先々で精神異常扱いされつつ(上映時間の1/4※)、0:46:35になってようやく怪獣発見のための海底調査について沿岸警備隊将校らと話し合う席が設けられます(席が設けられるだけで、怪獣の社会的認知はもう少しさきです)。
{※1/4の内訳は、[0:16:55~0:46:35(精神科医のカルテ~沿岸警備隊の人と交えて会議)]-[0:19:54~0:21:15(漁船vs怪獣)]-[0:42:51~0:44:33(灯台vs怪獣)]=26分37秒}
『世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す』('56)にも、想像を絶する存在に主人公(や近しい人)が遭遇する→かわいそうなひと扱いされ信じてもらえず上が動かない…というくだりがあり。
こちらでは怪異の実在が信じられるのに0:46:40までかかります。
{観た当時のメモを読むと、ぼくがやきもきした点として、宇宙人「艦の轟沈座標を教えるぞコレで地球人の上層部もUFOの実在を信じるはずだ」→(56日後)主人公「どうして信じてくれないんです」上層部「いやたしかに艦の通信はそこで途絶えたけど、沈んだかどうか確認取れてないから…」みたいな展開があったらしい。細部が思い出せないけど、メモ通りの内容だとすると、案外作り手はある種のコメディをえがこうとしてたのかもしれない}
昔の怪獣映画を観はじめた当初に前述2作を連続で観て、「う~ん、怪獣・モンスターが観客にとって珍しかったから、劇中独自現象を現実のものとして信じさせるためにこうした描写が必要とされたのかな……?」みたいに思ったんですけど、ほかの作品を見ていくとどうにもそうとも限らないんですよね。
たとえば『ゴジラ』(’54)の、漁船が襲われ(2:28 ただし観客が知り得る情報としては、爆発音をともなう海面の発光現象としてえがかれる。)SOSが無線され(2:49)、無線局が海難無線をとらえ(3:05)救助船が出て(4:23)――同時に船の管理会社の管理者と、船員家族が事態把握のためかけつけ、管理者が困惑顔で確認し――、複数の新聞記者が電話で状況を本社に報道し(5:46)――同時に船員家族が声をあらげて詰め寄り5:50――、難破者が発見・救助され6:25生存者が「いきなり海が爆発したんだ!」と証言していると救助船もまた大破し(5:20)、漁村では夜でも篝火を焚き海岸線にそって人々が並んで目を凝らし8:07、ついに生存者を発見・救助する(9:47)――後日の日中、雑魚一匹かかりゃしない不漁もえがかれる10:12――それを聞きつけた都会からヘリで記者がかけつけ取材をし(10:50)、太古の言い伝えによる呉爾羅をしずめる神楽をし(11:26)、いよいよ島でのゴジラ被害が出ると(12:38~14:46)、被災島民がバスなどをチャーターし(14:53車体に架けられた「大戸島災害陳情團」の横断幕!)国会へ陳情し(15:08「大山委員」「破壊家屋17、死者9名、次の項の"その他家畜"とありますが、その内訳はどういうことになっておりますか?」「大戸島村長、稲田君」「申し忘れました、牛が12頭の、豚が8頭であります」)、科学者が採寸尺や放射線計をもって調査にくる(17:02)……と、ある劇中独自現象(=ゴジラ襲来)にたいする社会の動きをとらえた群像ドキュメンタリー然とした作劇や。
あるいは『放射能X』(’54)の、怪獣のすがたが映画にお目見えする0:28:13までの間に、怪獣による被災現場(だと当初わからない、怪事件の現場を)粛々と調査していき〔①頭部のこわれた赤ちゃん人形をかかえた少女が呼びかけに応えず荒野をひとり歩いてる怪事件(1:39~4:36)・②キャンピングカーもぬけの殻事件{4:47~8:59。「人気がない」との無線連絡を受け向かうと、オープンカーも泊まっている。後ろを回り込むとキャンピングカーには巨大な破壊があり、室内は乱れ、散乱物を精査し、食べかけの食器皿のしたに札束がそのまま放置されていることや(5:44=つまり強盗ではない)、付着してから10~12時間は経っただろう血のついた衣類があること(5:37=暴力沙汰らしい)、拳銃があるけど硝煙の臭いはしないこと(6:14。手で触らず、ペンで銃をすくう手つきが良い)などを確認し、キャンピングカーの崩壊の方向をしらべ、車のそとに足跡がのこされていないか確認する}・③近隣物件への聞き込み{10:20~。キャンピングカー以上にひどい惨状。ひしゃげている猟銃を確認し(11:53=つまり人間業ではない。ハンカチごしに銃を持ち上げる手つきがよい)、建物の崩壊の方向を確認し、レジスターの中身も確認し……と、つまり順序は微妙に異なれど、身に沁みついた現場検証を粛々とおこなっているのだ。}〕そこから着々と重要な要素をとらえていく主人公の地方警官の手並みを描くことで影が真っ黒に落ちたフィルムノワールとして一本立ちしている作劇など……
……劇中の怪異が劇中現実のできごとであると確定するまでをテキパキとさばいたうえで独自のカラーを打ち出した作品は、怪獣映画の早期から存在しているんです。
{下種な勘繰りなんですけど、一部の怪獣・モンスター映画で、ああいう「怪異を見た→ありえないよ、気のせいだよ」みたいな問答に尺をかけるシーンがなぜ生まれてしまうかというと、それなりの上映時間を確保するための水増し的シーンを入れざるを得なかった……みたいなところがあったりするのかな~? なんて邪推します。
逆に、"怪異に主人公が襲われる→周囲に言うも信じてもらえず、信じてもらえるまでに尺が費やされる"映画のなかでも、時代はだいぶ下りますけど『狼男アメリカン』('81)なんかは(当時の鑑賞メモをみかえしたら49分くらいかかったらしい)、ある種の倒叙モンスター映画みたいな感じでその長さがその土地の異様さにつながるし、また主人公が真相を訴える人物も多彩でしかもそれぞれが別個に考えをもってそれぞれ動く群像劇然としたところがあるので、まったく退屈しない良い映画だったりします}
当blog『すやすや眠るみたく、すらすら書けたら』、「日記;2020/10/12~10/19」より
……当blogからの引用でした。我ながら厄介ですね~!!
世の中には粘着質なやからがいて、怪獣がいつ登場して劇中社会がいつ認知・対応するかを時計とにらめっこして延々メモってあげつらうようなドン引きの行動に走ったりする。
「『ゴジラS.P』1話は、上映時間的な展開としては、速いわけではないけど遅くもない。しかしどちらかというと悪い方向に"遅い"作品だ」
ぼくのなかの粘着質なオタクとしての部分はそう訴えます。
20分(全体の作品尺として1/13の時点)で怪獣が出てくる/公に認知もされる(だろう)というのは、べつに展開としては遅くない。
ただし実際『ゴジラS.P』に20分つきあってみると、偶然によるニアミスや、「作者の御都合ではないか」としらけてしまうようなミス(電話相手が転落!)によって話がすすまない場面があったりして、単純な時間以上の遅さを感じもして、正直やきもきしてしまいもする。*2
するのはするのですが、しかし。
『ゴジラS.P』が厄介なのは、その誤解や迂回や遅滞のしかたがとにかく気持ちよい作品でもあるということです。
気持ちよい言と音と画のつらなり
人や話題や画や音が、くっついたりすれ違ったり離れたり……ゴチャゴチャ動いていくその楽しみだけで、延々20分も40分も60分も観ていられてしまう。
そんな魅力が――あらすじや大オチの面白さを語るたぐいの切り口では取りこぼされてしまう類いの魅力が――第1話「はるかなるいえじ」には詰まっています。
気持ちよい言葉のつらなり
「見りゃ分かるさ。
古生物学……博物学、いや、形態学。分子生物学、有機化学。
進化発生生物学?
こっちは非ユークリッド幾何学に位相幾何学。圏論……抽象代数学?
民間伝承、考古学……。
すぐに目移りのする性格」
高橋敦史監督『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』1話「はるかなるいえじ」2:47~3:06、有川ユンのセリフ
ハッとしたのはこのセリフ。
"何でも屋"オオタキファクトリーの社員・有川ユンが、怪現象のうわさされる幽霊屋敷を調査していくさい、屋敷内の所蔵本をつらつら読み上げていくことで具体化される、いまここに現にある本棚へと注がれていた眼差し。
具象への視線がそのまま”がく”と"かく"で脚韻を踏むことでよどみなく、そこにはいない本の持ち主の内面にかんする想像へサラリとつながれていく面白さ!
こんなかんじで、多数の情報を入出力どちらも一挙に処理する天才の思考回路をのぞき見られてウットリしてしまうようなセリフ回しもあれば。
他方で、物語的には遅滞でしかないアホなやり取りによって、上と同様のきもちよさを生んでいる場面もあります。
1話中盤、旧嗣野地区"ミサキオク"管理局の新人局員・佐藤が、局内の謎の配線をしらべるため、その施工業者であるオオタキファクトリーを訪ねたさいのやり取りをみていきましょう。
佐藤 「あ、あの~、私、ミサキオクの佐藤といいます。昨夜ご連絡させていただいた件で」17:15
大滝 「聞いてるよ。おい侍(ハベル)!」17:21
ハベル「121、122、123……」17:24(ヘッドホンをして懸垂中)
大滝 「聞いてねえよ……」17:28
高橋敦史監督『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』1話「はるかなるいえじ」17:15~17:30、オオタキファクトリーでの会話(ネットフリックスの字幕は「聞いてねえ……」だが、自分の耳では「聞いてねえよ」と聞こえるのでこう書きました)
セリフや会話や場面の前後に、なにかしら相同性を用意したうえでしりとりのようにつなぎあわせる。
『ゴジラS.P』1話で見られるいくつかの気持ちよい作劇について、
「なんてことない、オーソドックスな作劇・場面つなぎじゃないか」
とおっしゃるかたもいるでしょう。正直ぼくもそう思います!
「鮮烈な画と音の連なりを観たいなら餅は餅屋で、経験と才能がすさまじい映画作家たちの作品を観たほうがよい。
たとえばロベール・ブレッソン監督『湖のランスロ』や、岡本喜八監督『独立愚連隊』。ゴジラシリーズというくくりであれば、というかそんなくくりを無しにしたって、坂野義光監督『ゴジラ対ヘドラ』もまたすさまじい」
ぼくのなかの映画オタクがそうささやいてきます。
ほかにもたとえば、タクシーの車内で神野銘がオオタキファクトリーの自社ホームページ記載の社員紹介をのぞくシーンでは、くだんの社員・有川ユンの業績の末尾にある作成物として、ダンボールのアイコンに入ったAIが登場し、銘がそれをダウンロードするくだりで場面が〆られ。つづく警察署のシーンでは、警察から事情聴取にたいして有川ユンがケータイを提示し、「有川ユンの作成した」ケータイ内AIが警察の実際に活躍する場面がえがかれる展開だとか。
「まえの場面で話題にしたものが、次の場面で具体的にひらかれる展開!
……まぁオーソドックスですね」
あるいは、警察署での事情聴取シーンの尻が警察署の外観で終わり、つづくファミレス"ブラジル"での夕食シーンの頭がファミレスの外観で始まるだとか。
「景観ショット同士のつなぎ!
……まぁオーソドックスですよね」
オーソドックスなつなぎだと思いはするのですが、「はるかなるいえじ」に投入される知識量・取材量はオーソドックスではなく、つなぎ合わされる素材たちがおよそ見たこともなければ聞いたこともない得体のしれない代物だったりもして。
いかに手つきが素朴であろうと結線は読めず、新鮮なおどろきを与えてくれます。
銘「以上のことから考えますと、生物の進化は基本的に対称性を縮減する形で進んできました。
放射相称と左右相称を比べるならば、前者のほうが多くの対称性を持ち、これは初期の分化が球体から開始されることを考えると極めて自然なことで……
あれ?」14:45
"空想生物"を研究する院生・神野銘が、自室でレポート作業中におそらく机に突っ伏し寝落ちして、翌朝*3めざめたさいに寝ぼけて漏らすこのセリフ。これはつづくAIとのやり取りにはまったく関わってきません。
おそらくこうしたセリフが……
ゴジラSP、視聴者に理解させるつもりない長台詞のカットがいくつかあって「尺稼いでいるのかな?」と思ったけど、脚本が円城塔さんだから台詞切れなかったんだな。でも必要なら切らないといかんよな。アニメーションなんだからさ。
— 影山レオ Leo Kageyama (@Leo_Kageyama) 2021年3月25日
……といった批判を呼んだものかと思うのですが(正直ぼくもそう思います!)、でもこれをどう切るかは難しい問題でもあります。
さきほどの寝言が出てくるまえを振り返ってみましょう。
「インド?」
メイの部屋のまえの場面は、ファミリーレストラン"ブラジル"でオオタキファクトリーの面々が夕飯を食べながら駄弁るシーンです。
「怪信号! あの局はあやしいと思ったんだおりゃ! シェチだなありゃ」「SETIっすね」「ハベルおまえ明日ミサキオクの管理局を探りに行け」「はぁ」だなんだとあれこれ話された会話の尻は、有川ユンの発する「インド?」ですが*4、話題にしたいのはこれではありません。
ブラジルの場面の尻は、怪音楽(=話題の怪信号。1話Aパートでおとずれた幽霊屋敷やミサキオクで耳にした音楽です)を録音した有川ユンが、のちに音声検索にかけた結果ヒットしたケータイの画面を見やる主観ショット。
ユンのケータイ画面に大写しにされた、インド民謡の曲名「ALAPU UPALA」の文字を話題にしたいんです。
……つまりここでは、回文の(=前後どちらから読んでも同じ文言になる、対称的な)楽曲名(視覚情報)から、「生物の対称性に関する知見」の寝言(聴覚情報)へ結ばれるという、"対称"という似通いでもって、時空間も人もことなる場面同士がつなげられているわけなんですよ。
{この辺の異様な素材から相同性を掬って一定のリズムをきざんでいく筆致にぼくは、たとえば伊藤計劃&円城塔『屍者の帝国』のさみしい風景をめぐる記述(リンク先;自blog感想文。2万字くらい)を思い起こしたりします}
とにかく言と音と画のつらなりが気持ちよい。
それが『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』第1話「はるかなるいえじ」をネットフリックスで見直して思った感想です。
気持ちよい言と音と画のつらなり
事物をうまく演出材として活かしたしりとり的場面つなぎはほかにもあります。
幽霊屋敷の隠し部屋を見つけ謎の音楽の発生源を探り当てたユンたちは、そこで更なる怪現象に出会います。音楽とは異なる別の異音とともに蛍光灯が明滅しだしたのです。なんか化け物の鳴き声のようなものもする! そんなようすを今作は、明色の格子窓から漏れる明かりが明滅する幽霊屋敷の外観を回り込むようなカメラワークでとらえて閉じます。
そのショットにつづく次の場面は、異様な様相の化け物のドアップ――今作のもうひとりの主人公・神野銘による古めかしい錦絵見物です。出張中である教授の代わりに、応援要請をよこした旧嗣野地区管理局へむかうためのバス停「逃尾駅」で待つメイは、そこで掲げられた巨大画をケータイのカメラに収めながら解読していきます。
そんなようすを今作は、赤い海をおよぐ鰐鮫やその海を飛ぶ天狗など化け物などを被写体とした構図補助用の白い格子線も表示されたカメラアプリ起動中のスマホ画面が、シャッターの開閉で明滅する光景としてえがきます。
化け物(の音/絵)をともなう明滅する格子画面。これによって異なる時空間をつないでいます。
つづく場面つなぎも面白い。さて「古史羅ノ図」をながめながらメイは、ああでもないこうでもないとほにゃほにゃ呟きます。一部の人にはよく知られた既存の錦絵との違いについて比較している口ぶりです。(おそらく歌川国芳による『讃岐院眷属をして為朝をすくふ図』。読書メーターによれば、この絵を紹介した辻惟雄さんの著書『奇想の系譜』を、EnjoeTohさんは2018年2月16日に読了しています)
そうして見物したり近隣住民と世間話をしたりしているうちに、バスが到着。バスのエンジン音が響くなか、
「こしら?」
と3音の疑問符をつぶやいて別場面へと移ります。
「でんぱ?」
次の場面は、バイクのエンジン音とともに出てきたそんな3音の疑問符から始まります。
さきほど幽霊屋敷を調べていた二人組がバイクを駆りながら、さきほどの怪現象をああでもないこうでもないとほにゃほにゃしています。一部の人にはよく知られた既存の現象と比較している口ぶりです。(セリフひとつでさらっと流されてしまいますが、多分、レン・フィッシャー著『魂の重さは何グラム?』でもそれを活用したリチャード・ボックス氏のインスタレーションが紹介*5され、クリストファー・ノーラン監督『プレステージ』でも参照されたような、タネのある単なる現象だよというお話ですね)
そうしてユンは、海のほうの空を飛び電波をはなつなんらかの生き物の存在を示唆します。
▽場面を横断して相同的な光景の数々
場面の尻と次場面の頭以外にも目を向ければ、「はるかなるいえじ」にはより一層の相同的な展開が認められることでしょう。
たとえば自己紹介メディアを天地さかさに映したショットの相同。
旧嗣野地区管理局の山本(画面左)が、神野銘(画面右)が初顔合わせをしたさいに名刺をさしだすショット(=『映画トンネル』さんがその面白味についてふれていた構図ですね)と、事情聴取をうけるオオタキファクトリーの有川ユン(画面左)が、警察(画面右)に自己紹介としてケータイをさしだすショット。
{山本がさしだす名刺の天地が、『ゴジラS.P』の画面の天地と逆になって違和感をおぼえる(が劇中世界/渡された銘の視点的には正立の)光景と。ケータイの天地が、『ゴジラS.P』の画面の天地と逆になっている(し劇中世界/差し出された警察の視点的にも逆さだ)けど、ケータイ画面内アプリが勝手に回転してくれるので違和感をいだかない光景の相違}
もう一つ、オオタキファクトリーへ訪れた管理局の新人局員・佐藤が、大滝吾郎と初顔合わせした場面。ここも前述2シーンと並べて話したい、面白いアクションが描かれています。(「描かれていない」がただしい表現か?)
佐藤は挨拶と自己紹介をしながらポケットへ手を入れますが――視聴者(つまりぼく)に「あぁこの人も名刺を取り出すんだな」と上述したやり取りを思い起こさせますが――大滝の「聞いてるよ!」という食い気味の返事によってその動作は打ち切られ、ポケットの中身が明かされることはありません。ここへぼくは、省略の美学・テンポの良さを感じました。
あるいはバス亭をのぞきこむメイに各人が声をかける光景の相同。
「ん~2時間に1本か……」
高橋敦史監督『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』第一話6:32
「2時間待ちか……」
高橋敦史監督『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』第一話18:48
Aパートの夜と、翌日Bパートの日中、バス停"みさきおく"の時刻表をのぞきこみながら相同的な独り言をつぶやくメイ。
「笹本先生のご紹介のかたですな」(銘の同定)
「神野銘です」
高橋敦史監督『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』第一話6:38
「あれ? 神野? 神野銘だろ」(銘の同定)
高橋敦史監督『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』第一話18:57
そんな彼女へ画面左手前(前景ナメ/画面外)にいる男が声をかけ、振り向かせます。
もう一つ、逃尾駅からみさきおくへ向かうバスを待つメイと、隣で座る地元のひとのやり取りもここと並べて話したいところです。
「お嬢ちゃん、勉強熱心でえらいねぇ。文学部の学生さん?」バス停での銘の様子から職業の推理
「アッいえ、理学部です」否定と回答
「ほぉ……」相槌
高橋敦史監督『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』第一話5:20
地元のひとから学部を訊ねられたメイは「理学部です」と一言返すだけのはずまぬ会話をしたところでバスが来ました。
侍「お前ここで働いてんの?」バス停での銘の様子から職業の推理
銘「まさか。まだ学生だよ。教授の雑用でちょっとね」否定と回答
侍「へぇ~」相槌
高橋敦史監督『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』第一話19:09
侍「そういえばまだやってんの? 空想生物研究」
銘「やってますよ。時間の中を泳ぐ魚とか、四次元空間を飛ぶ蝶とか」
高橋敦史監督『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』第一話19:44
みさきおくから逃尾駅へ向かうバスを待つメイに声をかけたハベルは、相乗りした道中で話をふって、メイの学業・研究の具体を掘り下げます。ここへぼくは、話題の一致継続と一歩前進・リズムの良さを感じました。*6
ほかにもぼくは、旧嗣野地区管理局内でメイが撮られた、公的資料としては不真面目な顔をした4枚つづり縦並びの水色地を背景にした証明写真と。タクシー車内でメイが見た、公的資料としては不真面目な顔をした4人縦並びの顔写真をならべた水色の壁紙のオオタキファクトリー社員紹介ページとに、視覚的な相同性・リズムの良さを感じました。
アバンタイトルを〆る白黒のポンチ絵にひときわ目立つ赤い多重丸と、タイトル明け本編第一ショットの逃尾市の市民が着る法被の丸。第二ショットの夜空へ野放図にひろがる提灯ドローンのつくるたくさんの丸。本編冒頭で幽霊調査のため赤い信号が明滅する踏切のむこう・水平線が赤い夜へと向かうオオタキファクトリー、部外者の院生メイ以外みむきもしないらしい赤い海の錦絵、終点みさきおくの赤丸のバス停、メイが招かれた管理局の背景で輝く電波塔の赤い航空障害灯(?)。本編でたびたび登場するみさきおくの謎の機械の赤い警告灯の多重丸。クリックした途端に神野銘のパソコンに野放図にウィンドウを乱立させひとつに集約させたAIペロ2が提示するパソコン空き容量表示の紫の丸。途端に町工場の謎のロボットの目の青い多重丸。そのロボットのモニタ画面に表示されたたくさんの丸。駅上空を飛ぶ赤い翼竜を目でおいかけるユンの視界を遮る赤い屋上看板、1話終盤の地下へむかうエレベータの赤いランプ。そして1話を締めくくる白黒の骨とその下の赤いなにか……。
……赤や丸を追いかけていく/気づいたら赤が立ちふさがったり丸が野放図に広がったりする、そんな映像のつらなりとして観て、たのしんだりもできました。
▽怪獣と面と向かう者の背中
群像劇として今後の期待をつよめるのが、怪獣をまえにして立つ主要人物(だろうキャラ)の姿を、相同的にとらえた作劇です。
顧問の笹本先生のかわりに、旧嗣野地区管理局の怪信号調査のため、最寄りバス亭の「みさきおく」へ向かうバスを待つ神野銘(05:05、中央の赤髪のひと)。
逃尾駅バス乗り場に置かれた『古史羅ノ図」のまえに立ち、歌川国芳『讃岐院眷属をして為朝をすくふ図』と比較しつつ(1話では補足がないけどおそらく)、画にしるされた文面を読み上げる。
逃尾市駅まえの七夕祭り会場へ――出店のほか、オオタキファクトリーによる人型ロボットの出し物「ジェットジャガーとあそぼう」などの準備がおこなわれているそこへ――、突如飛来した翼竜。
翼竜をよく見るために社用トラックの上に立っていたオオタキファクトリー社員・有川ユンは、車から降りて、逃げ遅れた子どもを起き上がらせる。
そんなユンと子供のまえに翼竜があらわれる。(22:09、画面中央の白髪のひと)
千葉県旧嗣野地区の管理局ではたらく佐藤は、上司の山本に案内されて管理局内のエレベータで地下へくだり、旧日本軍の施設時代につくられるも放置された「存在しないことになってる場所」に置かれた(見かけ上4つの白色灯でライトアップされた)、赤い何かのうえで伏せる怪獣の骨を見る。(23:34、画面右のひと)
……そんな三者が、画面を端から端までつかって大写しにされた怪獣のまえで、天地方向の比率で画面下から1/3にキャラの頭部が位置するサイズの小さな個人の後ろ姿として映された、類似構図でえがかれています。
謎の信号を追いかけて一旦は逃すも、人助けのためじぶんから動いた結果として付随的に「奇跡」――怪獣の生きた現物(翼竜。声からしてまぁラドンでしょう)とむきあうユン。謎の信号にたいして回りくどいマニュアルを読み担当を訪ね上司へ訊ね、「存在しないことになってる」もの――怪獣の死した現物(獣脚類? 音楽からしてまぁゴジラでしょう)とむきあう佐藤。
1話終盤のユンら地上・佐藤ら地下それぞれの場面で脚韻をふむように出てくるこれらの類似構図は、前者が記憶にしっかり残っているうちから後者が現れるためにどうしたって印象に残りますが……。
……ぼくはそこへ、前半の「古史羅ノ図」と向かい合う神野銘の姿もおなじ枠でくくりたくなります。
上司の代わりのピンチヒッターとして仕事する途中で、日常にころがっている(けれど誰も見向きもしない)怪獣に過去だれかが向かい合った記録に向かい合うメイ。メイは現物と対面したわけではないにせよ、(見かけ上4つの)白色灯でライトアップされたこの錦絵によって、ユンが出会った翼竜(羅甸天狗。まぁラドンでしょう)、佐藤が出会った恐竜(古史羅。まぁゴジラでしょう)その両方といっぺんに出会っていると言えます。
視点や知見をたがえた個人個人が、微妙に足りないピースをそれぞれ持ち寄って噛み合わせ、一つの大きな絵を描いていく……そういう群像劇が繰り広げられていくのではないか?
という期待をいだいてしまう光景でした。
わからないということがわかっていく;『はるかなるいえじ』で積み重ねられた観察・仮説・検証
『ゴジラS.P』第一話はあまり事態が進まない作品です。
劇中時間にして二日、上映時間にして20分かけてようやく怪獣が(恐竜程度の雑魚だろうものが)チラ見えし、そして謎の機械の配線がどこにつながっているかがわかっただけ。
しかし、そこにたどり着くまでの過程には、たくさんの観察、仮説(や憶測)、検証(仮説の是非についての評価、実見)が積み上げられてもいます。
「誰もいないはずなのに人の気配がする」ハベル1:12……そんな理由から生じた幽霊屋敷の噂にたいして、オオタキファクトリーの社員ユン&ハベルがあほな機材「幽霊探知機」*7(「幽霊探知機ったって拾えるのは電波だけだろ?」ハベル2:07)をもって駆けつける。
道中では幽霊屋敷のうわさにたいして、「空き巣?」ユン1:16や「ホームレス?」ユン1:17という現実的な線が示され、同時に「人の気配」なる語のあいまいさが詰められてユン1:18、「部屋の明かりがついたり消えたり物音がするんだとさ」ハベル1:21「ブレーカーも落とされたままで、ガス電気つかった形跡もみられなかった」ハベル1:31などの詳細といっしょに尾ひれがついただろう噂「むかし、首をつった少女の幽霊だの」ハベル1:37など「物好きが肝試しに忍び込もうとして捕まったり、途中で交通事故を起こしたり」ハベル1:42などなどそれに付随する二次被害(?)の伝聞も得る。
そうして現場へやってきたふたりは現地調査をして、失踪した家主の知識や性格や背丈(「やせ形で、背はこのあたり」ユン3:09)が得られ、家主について仮説をたてる(「非正規活動に従事していた?」ユン3:11「死ぬ前に何かを隠した」ユン3:15)。そうしているうちに女の歌声3:36がどこからともなく響いてきて、そこで音の鳴る方向を確認し〔確認しているユンの口自体は、前段のハベルとの会話を受けて、かれが2週間後に何を食べるか、屋敷外の世間の現況{赤潮による漁獲量のすぼまり(=第2話で実景がえがかれる劇中独自現象)}を俯瞰しつつの予言……という、ぜんぜん別のことを同時並行で話している〕、{おそらくさきほど口に出された家主のプロファイル(背丈や性格)から}本棚に隠されたスイッチを見つける(ユン4:01)。
そうして音の所在にたどりつくと(「こいつだ」ユン4:21)、ラジオの具体(「鉱石ラジオか」ハベル4:23)を観察し、その機構をつきつめる(「鉱石ラジオの受信した電波をエネルギーに変えて音を出す。だから電源がいらない」ユン4:26)ことで電気をつかわずに鳴る物音の答えを出す。(と同時に「謎の音楽は発信した大元はどこ?」という新たな謎に出くわしもする)
ゲルマニューム・ラジオは無電源という特徴を持っていますが、少しばかり音が小さいという欠点があります。
講談社刊(ブルーバックス)、西田和明『手作りラジオ工作入門 聴こえたときの感動がよみがえる』kindle版30%{位置No.178中 53(紙の印字でp.52)}※EnjoeToh18年5月30日読書メーター読了本
それと並行して、部屋の明かりがついたり消えたりする怪現象(ハベル4:43)も噂ではなく現におきるファクトとして目の当たりにする。明滅した明かりの具体を観察し(「蛍光灯だ」ユン)、蛍光灯が明滅する現象の有無を確認し(ユン5:37。劇中でもこの記事でも説明したとおり、「よくある現象」)、それらをもとに仮説をだす(「鳴き声の主が電波を発して蛍光灯が反応した」ユン5:43)。
仮説をもとに、電波をとらえるだけの「幽霊探知機」を検証機材として活用して追跡を開始、電波との位置関係からなぞの存在が「海に向かってる?」5:54ことを確かめたユンらは、道中で県警が誘導灯をふるう事故渋滞にでくわす6:02も、ちょっと思案したのち来た道をひきかえして迂回する。(おそらく幽霊屋敷にまつわる二次被害の伝聞と目の前の状況、なぞの存在との関係性を考慮して、憶測に憶測をかさねると、海に向かっているという観察結果を優先して事故となぞの存在とに関係性がうすいと見たのではないか?)
そうして電波の追跡は行き詰りますが、そうしてすすんだ先で偶然、怪信号の発信元の手がかりをつかみます。と同時に発信元から電話がなぜかかかってくる。「監視カメラか? ドローンか? まさか静止衛星!?」と陰謀論じみた仮説がでますし、電話した側について知っているぼくたち視聴者からすればオフビートなコメディですしじっさい数往復の会話のキャッチボールで「勘違い」とわかるものですが、この時点のユンたちにとってそれは「非正規活動に従事していた」かもしれない幽霊屋敷の主との関連性からすれば無くはない線でもあります。
最初の6、7分だけでもそんな具合。
やたらと口数も手数も多い作品ですが、よくよく振り返ってみると、まるきり単発でおわる無駄口無駄足は案外すくない。もっとも3歩目まで進められるかはわかりませんし、4歩目が前3歩とおなじ方向へ進めるとは限りませんが。
ユンの頭は飛躍しがちで、ユンのからだはそれにピッタリの逸脱を平気でしでかします。
電波の追跡に公的機関の足止めがあっても関心を棚上げせずに迂回路を模索し調査をつづけ、怪信号に近づくべくフェンスを乗り越えようとしたり(そして失敗して転落したり)、遠方の謎の存在をよく見ようとトラックの上に乗ったり。
妥当な推論から偏った推理、理屈は妥当だけど突飛な飛躍、根拠薄な憶測まで……「はるかなるいえじ」ではさまざまな仮説が飛び交い、次々と答えがでていきます。
それはだいたい失敗や保留・未解決で終わって、見ようによっては遅滞であります。
もうひとりの主人公・銘もまた状況を遅滞させるひとりです。
古史羅ノ図をみたメイは、既存の国芳の錦絵との相違に即座に気づきますが、だからといって何か結論を出すわけではありません。バスの到着により疑問は棚上げ、思索は中断されます。
怪信号の機械をみたメイは、少し古臭い口調の格式ばったマニュアルの意図を汲み、視聴者であるぼくからすればよく似た図形を掘り当てますが、だからといって結論については保留します。
ふたりのスタンスの違い*8がわかりやすいのが、ハベルの運転するバイクの後席に乗ったふたりが、駅からミサキオク/ミサキオクから駅へむかう車上の会話です。
ユン 「高圧線の下で蛍光灯が勝手に光るってのはよくある現象だ。鳴き声の主が電波を発して蛍光灯が反応した」
ハベル「電波を出す生き物? 電気ウナギとか?」
ユン 「とにかくそいつは、電波を発しながら空を飛んでて、俺たちは今そいつを追いかけてる」
高橋敦史監督『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』第一話、5:38
ハベル「そういえばまだやってんの? 空想生物研究」
メイ 「やってますよ~。時間の中を泳ぐ魚とか。四次元空間を飛ぶチョウとか。
ハベル「それ、金になんの?」
メイ 「世界の成り立ちの話だよ。世界を知るには、この世界にいないものを知らなきゃいけないんだよ」
高橋敦史監督『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』第一話、5:38
夜、駅⇒みさきおくに向かうユンたちは、自分たちがイマココで見聞きした怪奇現象について、よくあるメカニズムを当てはめ、それに当てはまる存在が現に実在するものとして、その所在を追いかけている。そこで例に挙げられるのは既存・実在する水棲生物とか、未知の空を飛ぶ生物。
昼、みさきおく⇒駅に向かうメイたちは、メイが昔からつづけている空想生物についての会話をする。現在研究している空想生物として水棲生物とか、空を飛ぶ生物とかといった詳細を話す。メイが調べているのは、空想生物が実在することを証明したりすることではなくて、あくまで空想生物がこの世界に存在しないことによって、今ここの世界がどんなものか分かろうとしているらしい(?)
ユンとメイは(あくまでこれらの場面で判断する限りにおいては)車だけでなく思考もまったく逆方向をすすんでいる。と受け取れます。
ふたりを主軸にとにかくさまざまな思索と行動をかさねられますが、結果わからないものがわかっていく(=謎が解き明かされ一つの答えが得られていく)ことは前述のとおりあまりなくて*9、わからないということがわかっていく(=謎が謎を呼ぶ)ような道のりとなります。
わからないということがわかっていく;現実の研究について
見ようによっては単なる現実なのかも。
なにかひらめき頑張ってみたけど、ひらめきはひらめきのまま形にならないことがわかったり。わかろうと頑張ってみたら、わからないことがわかるだけだったりする……
……それは現実の研究の過程にも言えることかもしれません。
もしキュヴィエが天使の解剖学的成り立ちを評価したならば、おそらく哺乳類のような皮膚で覆われた背の真ん中に、いきなり鳥類の特徴、すなわち羽毛を生やした皮膚が出現することにまず異を唱えたことだろう。もとよりキュヴィエは、生物が進化することを認めていなかったが、かといって目の前に天使がダ・ヴィンチの描いたとおりの姿で現れたとしたら、「これは私の知る動物として認めるわけにはいかない」と述べたに違いない。彼にとって動物の素性、すなわち分類学的位置は、その動物の一貫した特徴によって定義されるのであり、「頭が哺乳類、胴が爬虫類」といったような(一貫性を欠いた)動物は決して認めるわけにはいかなかったのだ。
丸善出版刊(サイエンス・パレット024)、倉谷滋著『形態学――形づくりにみる動物進化のシナリオ』p.2、「第一章 形態学のはじまり」より
『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』のSF考証・シリーズ構成・脚本をつとめる円城塔さんが複数の書評をしるし、読書メーターに読了スタンプを押し、『ゴジラS.P』の「協力」にクレジットされもする倉谷滋さん――現実に存在する理研形態進化学研究室の研究者――は、自著『形態学――形づくりにみる動物進化のシナリオ』の第一章を18世紀フランスの博物学者キュヴィエ の動物観ふりかえりから始めます。
脊椎動物、関節動物、軟体動物、放射動物……すべての動物は造物主によってつくられた最初の「ひとつがい」に由来する4分類から枝分かれし、分類の異なる生物群はほかの種に変化していくこともなければ、別の種と交配することもない……一説によれば「パリ革命に対する激しい嫌悪感が」p.10そのような考えに至らせたともうわさされる反進化論者キュヴィエの動物観をざっと眺めた倉谷氏は、
ジョフロワは、ナポレオンのエジプト遠征に同行した折、鳥類の受精卵にさまざまな操作を施し、胚発生がどのように乱されるか調べるための実験を行っていたのである。同様に彼は奇形学にも興味を持ち、正常とかけ離れた形を持って生まれてきた個体も、それを解剖してよく見れば、そこに正常な体と共通する特定のパターン、言い換えるなら、どうしても乱すことのできない形の法則性を見出せることを指摘した。言うなれば、動物の形が変わるのは決して無方向ではなく、常にはみだすことのできないパターンに縛られているということなのである。彼にとって動物の「型」とはしたがって、具体的な形象である以前に、一種の観念に似た、きわめて抽象化された深層的な形や、あるいは形の変形運動の法則のようなものであったと覚しい。
丸善出版刊(サイエンス・パレット024)、倉谷滋著『形態学――形づくりにみる動物進化のシナリオ』p.12~3、「第一章 形態学のはじまり」より
同時代同国に生まれながらもまったく異なる性格・考えをゆうした研究者ジョフロワの動物観をふりかえります。
実証主義に重きを置き、精緻な観察に基づいて体系化を目指すキュヴィエとは対照的に、ジョフロワは大局的な法則の発見に対する指向性が強く、また野心的な実験を行ったり、ダイナミックで奔放な概念化を試みる。
丸善出版刊(サイエンス・パレット024)、倉谷滋著『形態学――形づくりにみる動物進化のシナリオ』p.10、「第一章 形態学のはじまり」より
両者は現在からみれば間違っている面はあるけれど、たとえばキュヴィエは解剖学的に認識することのできる体の基本構築(ボディプラン)を足がかりに大分類を設定しようとする基本的理念をこの時点で唱えていたし、ジョフロワは現在でいうところの形態学的相同性(ホモロジー) や後成的発生(エピジェネシス)の初期の提唱者であったと倉谷氏は評価します。
そうして現代にいたるまでの形態学の歴史をひもといていきます。キュヴィエとジョフロワの論争について後者を応援したドイツの文豪・自然学者ゲーテやオーケンの頭蓋骨椎骨説や、かれらが追求した動物形態の観念的な「原型」について。
ゲーテなどドイツの自然哲学・観念論に影響をうけたイギリスの学者トマス・ハクスレーが原型を観念にとどめず具体を追求した結果としての椎骨説などの否定と、そうした結論の導出にみられる進化と発生の間に平行性を見る反復説との似通いについて。
化石の地層と動物の胚発生、それらの各段階に平行性を見出すメッケルの第一期反復説。メッケルの弟子で第一期反復説を否定して議論をすすめた――胚形態の類似性を表す語「ファイロタイプ」の生みの親――比較発生学者フォン・ベーアによる入れ子式の第二期反復説。自説の一部の牽強付会的な図式化が災いしたり、他者おもに英米の反ドイツキャンペーンといった不当な理由からタブー視されがちな旧東ドイツのヘッケルによる、観念論を脱した進化形態学について。
倉谷氏じしんが若い研究者としてリアルタイムでその登場を「言葉にするのはちょっと難しい」p.71感慨でむかえたホックス遺伝子の発見――DNA上の特定の場所に結合するスイッチのような働きを持ち、他の多くの遺伝子を制御することによって、その分節の発生の行く末を決める遺伝子の発見――しかも「最初ショウジョウバエで発見されたこれらの遺伝子群とよく似た配列のものが、マウスをはじめとする脊椎動物各種のみならず、他の動物門にも広く保存されている」p.70ということが発見された、20世紀最後の20年の夢のような時代について。
{これがどれだけ衝撃的な発見だったか? 倉谷氏は別著『ゴジラ幻論』の一項「映画に見る生物学的イメージ」にて、時代ごとのポピュラーカルチャーにみられる生物学的な表現をひもとくことで別角度から論じています。58年公開の映画『ハエ男の恐怖』は、氏が批判するような天使とおなじく生物学的にありえない、異なる種のキメラ的合体でした。『ブレードランナー』('82年公開)は劇中の天才が「脳」の学者で、現代の科学ではそれらを作り出す大元であるエピジェネテクスの専門家は、腕など各部や臓器の専門家と並列された下っ端でしかありませんでした。それが『ザ・フライ』('86年公開)になると、リメイク元『ハエ男の~』とちがい、「ゲノムから細胞、組織、そして解剖学的構築へという、形而上学的生物観が、映画の中で文字通り展開してゆく」かたちでハエに変身してゆきます。
この頃はまさに、ショウジョウバエを用いた分子遺伝学的研究が発生額を席巻し、身体を作る遺伝子が次々と解明されていた。「ザ・フライ」はかくして、分子遺伝学的手法によって、形態形成の謎をゲノムから解き明かすという、生物学的研究におけるパラダイム革命とその勝利を、これ以上ないくらいに謳歌した作品だったのである。
倉谷滋著『ゴジラ幻論』p.241、「第三章 怪獣多様化の時代をめぐる随想」映画に見る生物学的イメージより
}
一進一退、三歩進んで二歩下がったり、あるいは忘れられていた大昔の考えが再評価されたりする研究史を追った倉谷氏は、本の最後でデトレフ・アレント氏による最新の研究を紹介します。
アレントらが膨大な文献と自ら得たデータをもとに構想しているのは、すべての動物のボディプランを系統樹の上で結びつけようという試みである。それは、古くからの多くの比較形態学者たちの夢であったし、現代の進化発生学者たちも同じものを目指している。そして、「個体発生がある程度の反復的効果でもって祖先のボディプランを再現する傾向がある」というのであれば、刺胞動物を出発点とするアレントらのモデルも優れて比較発生学的ということができる。
彼らによれば、最も一次的(祖先的)なパターンは、仮想的な刺胞動物と左右相称動物の最後の共通祖先、グレード的に言えば、前・左右相称的段階に現れているという。
丸善出版刊(サイエンス・パレット024)、倉谷滋著『形態学――形づくりにみる動物進化のシナリオ』p.175、「第5章 動物の起源を求めて」より
「ガースタングの説の弱点を解消」したアレント氏の説をそうまとめ、アドルフ・レマーネの説の一部との一致や、ニールセンの説との類似を見いだしつつも、依然として残る穴を挙げます。
かくして、我々が目にするさまざまな動物を生み出した最初の祖先がどのような姿をしていたのか、そしてその動物の発生プログラムがどのように変化し、その背景にはどのようなゲノム、遺伝子の変化があり、それらの変化をどのような機構が突き動かしていたのか、いまでも定説はなく、全貌はつかめていない。研究者ごとに異なった考えがある。
丸善出版刊(サイエンス・パレット024)、倉谷滋著『形態学――形づくりにみる動物進化のシナリオ』p.177~6、「第5章 動物の起源を求めて」より
『形態学』の果てにあるのは、それでもなおまだまだ道半ばなのだというわからなさ。専門家でもわからないことがあるトピックです、無学なぼくにはもっとよくわかりません(笑)*10。でも、本を閉じるときには、はるかなる家路をどうにかこうにか歩めたような感慨があります。
しかし、共通していうことができるのは、遺伝子や胚の形の中に、常に何らかのつながりや同一性を見出し、変化のプロセスを考えていこうという研究方針である。つまり、相同性とボディプランの理解は、動物の進化の歴史を復元し、我々の祖先の系列がたどってきた(その結果としてこのような体を持つに至った)遠大な道筋をすっかり理解しようという、この大胆な試みにあって、一歩ずつ足場を確かめるための踏み石や、道しるべのような役割を果たしてくれる、本質的に重要なものなのである。 研究が進むにつれて、毎年のように膨大なデータが蓄積されていく。その中には、誰もまだ気がついていない「つながり」がどこかに隠れているのだろう。今後どのような研究技術上の進歩が次なる発見をもたらしてくれるのか。それは我々自身の飽くなき好奇心にかかっている。
丸善出版刊(サイエンス・パレット024)、倉谷滋著『形態学――形づくりにみる動物進化のシナリオ』p.178、「第5章 動物の起源を求めて」より
歴代シリーズとのもう一つの違いは“メッセージ性”を極力排除したことだ。これまでのゴジラは時代を反映したテーマを何かしら内包している。『ゴジラ S.P』でも今の時代を反映し、メッセージ性を付与することもできただろう。ところが、本作においてはエンターテインメント作品に振り切ったのだ。それは「アニメでできることをやろうとしたから」だという。
朝日新聞&M、阿部裕華氏取材『アニメ『ゴジラ S.P』始動【2】作家・円城塔「脚本を書き上げた今も、ゴジラとは何かを問い続けている」』より
『ゴジラS.P』はメッセージ性が極力排除されていると云います、それはエンタメに振り切ったからなんだとか。実際2話も見た感じ、その説明はなるほどたしかに納得できます。
それはそれとして円城氏は倉谷氏の著書『ゴジラ幻論』を書評したさい、ゴジラについてこうも言っています。
怪獣はフィクションだからそんなことを真面目に考える必要はないとしてしまうのはフィクションを甘く見ると同時に科学の力を過小評価しているところがあって、科学的な検討に耐えうるフィクション、フィクションを検討できる科学こそが本物なのではないか。
昨年公開された「シン・ゴジラ」には様々な比喩が読み取れたが、しかしやっぱり怪獣はまず何かの象徴であるより先に生き物である。そこを歩いているわけだから。朝日新聞運営、「好書好日」掲載、円城塔『「ゴジラ幻論」書評 フィクションが導く科学の世界』より
『ゴジラS.P』はメッセージ性が極力排除されていると云います。
……たんなる生き物がそうであるように。
3年くらいやってわかってきたのは、今の仕事はこういう感じのカタリティックネットワークをアニメイトすることだ、という話。 pic.twitter.com/B7tJwMSAeJ
— EnJoe140で短編中 (@EnJoeToh) 2019年8月5日
エンターテインメントのプロットって、シークエンス図に似ているのでは? と思っていたのだけれど、状態1→(触媒A)→状態2みたいな、カタリティックネットワークの方が近いのでは? という実感が湧き、物語としての生命と、ケミカルネットワークとしての生命とは、とか。
— EnJoe140で短編中 (@EnJoeToh) 2019年8月5日
この視点の利点は、お話の最後で最初に戻れば偉いのか? という問いに、「生きてるんだから、オートカタリティックな部分が含まれるのは不可避」と答えられるところ。
— EnJoe140で短編中 (@EnJoeToh) 2019年8月5日
……たんなる現実がそうであるように。
第一話のわからなさを観て、ぼくはそんなことをちょっと考えてしまうのでした。
*1:ただし2話を観た者の感想としては、2話はだいぶペースがはやい・目に見えるレイヤーでの物量が膨大だからすでに不安はすっ飛んでます。
*2:ただし2話を観た者の感想としては以下略。
*3:たぶん。窓はブラインドがしっかり閉められている。他方で鳥の鳴き声がかすかに聞こえる。
*4:この流れ自体面白く、
「ブラジルの看板から始まった場面がインドで終わる、"国"でまとめられた場面だな」とか、
「いまここのお話が気づいたら耳馴染みうすい異国の響きに取って代わられる……というのは、Aパートの冒頭の推理と似ているなぁとか」
とか、いろいろな場面とつながってくるのですが、今回いちばんに話したいことはここじゃなく……。
*5:新潮社刊(新潮文庫)、レン・フィッシャー著『魂の重さは何グラム? 科学を揺るがした7つの実験』p.38、第一章「魂の重さを量る」図4より。ヒトの脳を模した蛍光管が発光するメッセージ性のつよいインスタレーションを、「見えないエネルギーの存在に一瞬ぎょっとさせられるが、このレベルの電力および周波数が人間の脳におよぼす影響については、まだまだ説得力のある証明が必要だ」と留保つきでフィッシャー氏は紹介しています。
*6:これはぼく個人がこう観たよというお話なので、上の「2時間に一本しかないのか」を例に全部セリフで説明する作品だと捉えるひともいらっしゃいます。いろいろな見方がある。
*7:たとえば空から人が降ってくる街のレスキューチームに、バットが支給されるようなナンセンスだ。
*8:少なくとも第一話だけで判断するかぎりにおいて。
*9:少なくともこの1話の時点では
*10:笑いごとではない。かなしいことですねこれは。