すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

日記;2021/01/26~02/01

 日記です。9000字くらい。『シン・ウル』特報を観たり、評判を聞きつけ『viewers:1』に感動したり、『ヨーロッパ企画のYou宇宙be』第三回「君は映画」にニヨニヨしたりした。

 ※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※

 

0126(火)

 ■そこつもの■

  『PotC/呪われた海賊たち』が18年まえ!?

 「ネタバレ全開の話をしてしまったけど、でも最近の作品じゃないし別にいっかな~。……じっさいのところ何年前の作品だっけ?」と気やすい気持ちでググったら、『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』('03)、18年もまえの作品なの!? うそでしょ……。

 

  「あなたがタバコを我慢していれば今頃あのポルシェが……」

 日記の各項目について、もしなにかしら起承転結オチをつけた文章にしようと頑張っていたなら、今頃ぼくはとてつもない数のエピソードトークをこなせて、そしてそうしてとんでもないお話まとめ力を獲得していたんではないかと悲しくなる。

 聞きましたか「おはなしまとめりょく」ですって。なんて貧相な語彙だわ。これがダラダラ日記書いた賜物ですよ。

 

 

0127(水)

 ■書きもの■

  こんな一銭にもならないものへお金をかけて……

 と社会人としてのぼくが部屋の惨状を評価する。

 そうして、ぼくにとって感想を書いたり絵を描いたりといったオタク活動は、ようするに、ボトルシップ作りなどのミニチュア製作やそば打ち、バイクいじり車いじりに凝るオッサンの趣味のヴァリアントなんだなということにいまさら気づく。

 

  半可通コンプレックス

 投稿ハイが完全に終わった。

 じぶんが、アカデミズムで体系だった知に触れトレーニングして確たる体幹を築いたわけでも勿論なければ、独学でだってかじった分野でさえもマジで一冊二冊一般書を読んだだけで「かじった」と言うのもおこがましい……というような不勉強なぬるオタ(のクセに鼻息荒く何かについて語るイキリオタク)であることから来る不安と恥ずかしさがブリ返してきた。

 

 

 ■身の回りのもの■ネット徘徊■

  アイコンはそのままで

 ここのところのcovid-19感染者が増加したためか、確率のいたずらか、身近な人の訃報をしらせるツイートが短期間でふたつくらいバズってました。

 そのなかでゲーム内のファンアイテムのどアップをアイコンにしているひとについて「まじめな話なのに集中できない」みたいな声も聞きました。ぼくはむしろ緊張がつよまりました。

 それまで元気に、ぼくとおなじようにオタクな日常をたのしく送っていたひとが、そのまま非常時にスライドしてしまう。ニュースのテロップとは違う、そのひとの顔がありあり思い浮かぶようなひとの身におこる。その地続き感。

 

 

0128(木)

 ■ネット徘徊■

  世代間クソバカ

 なかなかツラいやらかしが話題になっていた。

 多分ぼくの生まれが10年ちがっていたら嫌韓的思想をぬけだせずにいただろうという気がしてならないし、ぼく自身の価値観(や言葉づかい)もまた、10歳下の世代からしたら嘲笑われる類のものに思えてならない。

{「これはだめかもわからんね」とか、あるいは「くぉくぉわ」とか「サラダバー!」とか、「ふぁっ!?」「はっきりわかんだね」とかネットで見かける汎用性の高い(けど元ネタやその普及経緯を考えるとキビしい)言い回しを、どこまで把握できているかといったら全然なわけなんですよね。

 かわいらしい言い回しだから使っちゃうというパターンもあるし、だれでも考えつくし以前から言われていた言い回しであった(けど、なんか別の意味合いが付与されている)というパターンもあるだろうし(サラダバーがクッキー☆用語なんて調べて初めて知りましたよ……)

 このblogでも――怒られてないからいいやと深く考えず――ゆるい意識でゆるくアレなことを行なっているわけだし。

 

 

0129(金)

 宿直日。

 ■思いつき■

  『うっせぇわ』と『竹取飛翔 ~ Lunatic Princess』のマッシュアップとかないかな

 と思った。意外といけそうな気がします。

 

 

0130(土)

 宿直明け日。

 ■見たもの■

  『シン・ウルトラマン』特報を観ました。

www.youtube.com

 庵野脚本/樋口監督というスタッフをだいたい同じくするン・ゴジラ庵野総監督・脚本/樋口監督)。世に言われているとおり、それを踏襲した作品だと云うことがつたわってくる(そのくらいしか今はわからない)この特報を見てみて、あらためて自分のなかで評価が高まったのは、

シン・ゴジラ』のCGの作り物感って、よく分からない不安を起こすという意味で優秀だったな」ということでした。

 で、子供の頃に「ヘン」だと感じたのは、ヘドラが飛んできて、ドーンと落ちてだだっ広い富士の裾野にぬっと立つんですけど、この瞬間に、これは怪獣映画ではない、と思ったんです。なぜなら、幽霊に見えるんですよね。怪獣の幽霊という、ありえないものが画面に出ちゃっている。(略)幽霊のように恨みがましい、得体のしれない姿で立っている。ゾッとするんですね、こんなのと闘っているゴジラって何なんだという。

 この異様さは"着ぐるみ"ってことと関係してくるんですよ。ご承知の通り、日本の怪獣特撮は着ぐるみの中に人間が入って動かしてるわけですね。子供でもそれは判っている。それが何というか、これ中に誰も入っていないんじゃないか、独立した生き物が動いているんじゃないかっていうそういう感覚がどうもしてくる。さっきの「グラン・ギニョール」とも関わって来るんですが、人形が生命を得ているような怖さ。文字通り人形がコマ撮りで動くダイナメーションでは決して生まれない、着ぐるみだからこそ生まれた異様さです。

   青土社刊、高橋洋著『映画の魔』p.129~130、「怪物映画講義」(略は引用者による)

クリーチャー関係を作るとき、普通人がいちばん気にするのは、目玉なんですね。目玉っていうのはどうやっても作りモノめいてしまうから、エイリアンにしろ何にしろ、目玉がないように工夫するんですよ。目玉が入ると、そこには生命感がないがために、作りモノにしか見えない。しかし、東方のスタッフは堂々と、あんな巨大な作りモノめいた目玉を張りつけて、その片目を失わせて、一つ目のヘドラの眼が、窪地でヘドロの海に沈んでいくゴジラジーッと見おろしているというカットがあるんです。この目が怖いんですね。作りモノの眼、何も考えていない、ただ張りついている眼だから怖い。さっき、人間の輪郭からはみ出すことが怪物かだと言いましたが、これはいわば怪獣、着ぐるみという輪郭からはみ出してしまったわけですね。

青土社刊、高橋洋著『映画の魔』p.130、「怪物映画講義」(太字強調は引用者による)

 『リング』『CURE』ネットフリックス版『呪怨』などの脚本を手がけた高橋洋さんは着ぐるみ怪獣についてこう語ります。それは『シン・ゴジラ』のゴジラにも通じる不気味さ怖さです。

庵野 (略)第2形態は、僕の中でのイメージはバルゴン(『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』/1966)でした。何を考えているか分からないバルゴンのあの怖さと、ツインテール(『帰ってきたウルトラマン』)の怖さですね。ツインテールは眼が口のすぐ近くにあって、走る郷隊員の向こうに何も考えていなさそうな顔がある怖さ。

   『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラkindle版56%{位置No.912中 510(紙の印字でp.510)}左段、(太字強調は引用者による)

庵野 (略)最初から、僕のゴジラのイメージは変わっていないんですね。ですが、当然ながらゴジラに関しては樋口監督他各人それぞれの思い入れとイメージがあり、それを追求していきます。それは概ね写実的な生き物としての表皮や筋肉の動き等、繊細な生物的な表現効果なんですが、それは真っ先に除外しました。動物の筋肉で動くのではなく、着ぐるみとしての動きしか必要としませんと。

   『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラkindle版57%{位置No.912中 520(紙の印字でp.515)}右段、(太字強調は引用者による)

 他方で、アナログ特撮着ぐるみ特撮について、ある種の安心を与えるものだという見方もある。『シン・ゴジラ』の総監督・庵野氏は『ジ・アート・オブ・シンゴジラ』掲載のインタビューで怪獣映画から得た恐怖を語る一方で、こうも話します。

庵野 ええ。特撮映像のミニチュアが何故好きなんだろうと。現実の街が破壊されている報道映像や実際の被災地跡を体験したら、感情のほとんどがやるせない方に行ってしまい、とても高揚感にはつながらないんです。(略)だけど、子どもの頃から観ている特撮映像だと、街が破壊される映像に一種の高揚感や快楽や解放感を感じてしまいます。(略)

(略)

庵野 (略)娯楽映像は、全てがフィクションです。極論すれば何人でも何億人でも人が死んでいる話でも、観終わった後に「面白かった!」「観て良かった」と思える、一種の約束事が出来ているんですね。さらに特撮映像には、現実にありえない虚構の世界観がプラスされ、その表現として作り物の世界があるという構造に何処か安心感みたいなものが、観ている人にはある様な気がするんです。(略)本作はゴジラが出てくる虚構を描いていますが、その虚構を描く為にはドキュメンタリーの感覚、臨場感を持って欲しい。しかし、娯楽映画としては何処かで線引きをして、引き戻す要素というか仕掛けも用意しておかなければならない。そのひとつとしてミニチュア特撮の感覚を画面に活かす事を意識しています。

   『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラkindle版56%{位置No.912中 505~6(紙の印字でp.500~501)}右段、(略・太字強調は引用者による)

 『シン・ウルトラマン』特報でおがめる怪獣はアナログの着ぐるみ的な質感の存在*1ないし、そこから過去の着ぐるみにほどこされていた現実の自然物へとちかづける雑味をとって、成田亨さんのデザイン画のような幾何学的清潔さ(※)を加味したような存在で。(結果、着ぐるみというよりむしろ、ソフビ人形的と言うのが正しいのかもしれない)

(※下記リンク先のレッドキングのウロコなどを言ってます)

www.fukkan.com

 『シン・ゴジラ』のCGのCGらしさを残した/「作り物」感を塗布さえした{よく「出来が悪い」と言われる『シン・ゴジラ』の「進化」*2シーンのエフェクトは、そもそも3Dプリンタ的なものを意図している}ことでぼくが感じた、新時代のギニョール感はあまりありませんね。

 

 特報を見てみて関連書籍を読み返してあらためて自分のなかで評価が高まったのは、れないために書きます』さんの「シン・ゴジラ覚書」です。(オールタイムベストSF作家テッド・チャン氏が評価したラインドサイト』などの著者として知られる)ピーター・ワッツ氏による短編ロズ』、その私家版邦訳記事(無料!)を取り上げさせていただいたのも記憶に新しいblogの別の過去記事ですね。

 ある映画の物語がどんな構想にもとづいているか、そして映画にするうえでどのように撮られていたかという点において、上述評はとてもするどかった。

・2度見て思うのは、これは構造的な映画だということだ。ゴジラの生物としての体組織VS日本の行政組織という図式になっていて、ゴジラが形態を変えるように、行政組織も形態を変える

   『忘れないために書きます』2016年9月1日の投稿、「シン・ゴジラ覚書」より(太字強調は引用者による)

・構造的な映画なので、政治家は政治家の顔をしていなくてもいいし、それらしい顔がなくてもいい。なぜならその顔は交換可能なものであって、個は意味を成さないからだ。したがって、レイアウトを優先し、俳優という生ものを撮っている感覚は犠牲にされる。ひとつのカットでひとつの出来事しか描かないのも、個々のカットの出来よりも、それを編集によって組織することが重要だからだろう。パーツとしての大事さ。

   『忘れないために書きます』2016年9月1日の投稿、「シン・ゴジラ覚書」より

 のちに出版された・アート・オブ・シン・ゴジラ庵野氏がじしんの手掛けた脚本についてこんなことを語っています。

庵野(略)しかし怪獣映画だと、個人というより組織や集団を描く方が世界観としても面白いんじゃないかと。怪獣対人間の組織だけで話が描けます。しかし「観客が感情移入できるか分かり易い主人公が娯楽映画には必要。その為には恋愛や家族、友情などの描写が必要」と考えている人達には、この指針がなかなか納得してもらえないんです。

   『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラkindle版55%{位置No.912中 499(紙の印字でp.494)}右段、(略・太字強調は引用者による)

―――感情ドラマ性の有無は今回、大きなポイントですよね。人と人との感情のカラミがほとんどない。

庵野 もともと僕は、どちらかというと粛々と変化する状況が客観的に描かれていて登場人物の主観的なドラマが少ない作品が好きなんですよ。東宝の戦記物『太平洋奇跡の作戦 キスカ』(1965)、『日本のいちばん長い日』、『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971)も個人のドラマとして過剰に情感などを描かないところも好きなポイントなんです。むしろ状況に対処する人々の動きそのものが葛藤や起伏となりドラマになっているのが良いんですね。『日本沈没』(1973)、『八甲田山』(1977)などもメインの人物像を描いても劇中で行動するさまが主軸でした。海外でも70年代まではそういったクールでハード、シャープな映画がいくつもありましたし。

   『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラkindle版55%{位置No.912中 499(紙の印字でp.494)}左段、(太字強調は引用者による)

 2013年から度重なる打ち合わせと改稿をかさねたすえの2015年(秋に本編撮影予定している年)、台本形式の準備稿について話す庵野氏の口から、余談としてこぼされた"『シン・ゴジラ』という物語における「個」への関心の薄さ"はすさまじい。

庵野 (略)それでようやくプロットから台本状態となる『G作品ラフ準備稿』を2月4日に脱稿しています。柱の数は303本でした。この時に大統領特使と主人公のラストシーンが入っていて、最終決戦時に「宇宙大戦争M32」スタートという文言も入ってます(笑)。余談ですが、この時もまだ登場人物に名前はなくて、個人名はなくとも、濃厚な個人のドラマがなくても本作には問題がない、ということを示唆していると思います。このラフ準備稿も官僚の方達に見てもらい、間違いや違和感がある箇所を指摘してもらっています。

   『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラkindle版56%{位置No.912中 503~4(紙の印字でp.498~9)}、「第2部中期プリプロダクション 脚本作業」より(略・太字強調は引用者による)

 庵野氏は『アート・オブ・シン・ゴジラ』のインタビューでは、映像演出と物語のからみについてこそ特に語っていませんが、しかし。

 呉衣氏の上述評は、庵野氏がのちに明かすこととなる脚本レベルの構想を読み取ったうえで、その意気込みが映画としてじっさい映像レベルでどのように展開されているかを検討した的確なものだとぼくは思います。

 

 『シン・ゴジラ』と似たような文法であることに疑問を呈された呉衣氏のツイートには、ほかのかたからの「そもそも『ウルトラマン』は東宝怪獣映画と同じ方法論で作られてるので。」との引用リツイートがついていて、氏はそれへ「現代版アレンジの方法を一緒にする理由にはなってないんじゃないですか?」と返されています。

 この指摘はもっともだとぼくも思いました。

 物語的にはもちろん、映像的にも個人を大きく打ち出していない『シン・ゴジラ』の文法で、はたしてウルトラマンシリーズを語ってしまっていいものか?

 ……そんな疑問をだれよりも早く抱いた人物がいます。

庵野 もちろんドラマ主体で好きな作品も山の様にあります。けれど、本作はゴジラが主人公なんですよ。なので、人間側はその対処を描くだけで十分ではないかと当初から考えていました。確かに『ウルトラマン』(1966)や『仮面ライダー』(1971)等だとこうもいかないんですよ。主人公の内面も描いた方が面白いんです。しかし怪獣映画だと、個人というより組織を(略)

   『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラkindle版55%{位置No.912中 499(紙の印字でp.494)}右段、(略、太字強調は引用者による)

 『シン・ウルトラマン』の企画・脚本、庵野秀明氏ご本人です。

 この問題に、さて庵野氏と樋口監督がどう取り組んだのか? 本編ははたして特報から想像されるようなものなのか? 続報や公開を楽しみに待ちたいと思います。

 

 また特報では、レヴィ=ストロース『野生の思考』を読む登場人物の姿もクローズアップされています。 それを見てあらためて自分のなかで評価が高まったのは、れないために書きます』「シン・ゴジラ覚書」です。

・ファーストコンタクトものとして、『ブラインドサイト』みたいな、ゴジラとのコミュニケーションを試みるくっそハードな『シン・ゴジラ2』とかを妄想します。本作自体もいちおう、ファーストコンタクトものだしね。

   『忘れないために書きます』2016年9月1日の投稿、「シン・ゴジラ覚書」より

 『シン・ゴジラ』で異質なものとの戦いは描いてみせた。そしてそれと隣り合わせで生きる日常への第一歩も。

 『シン・ウルトラマン』ではそこからどう思索を深めるのか? 続報・本編公開を楽しみに待ちたいと思います。

 

 

0131(日)

 宿直明け日。

 ■ゲームのこと■

  『シャニマス』滑り込みでイベントアイドルをそろえる

 気づいたら復刻イベント・フェスがあと数時間で終了という時期だったので、午前中いっぱいつかって頑張りました。

 

 ■観たもの■

  針谷大吾&小林洋介監督『viewers:1』鑑賞メモ

www.youtube.com

「はぁ……はぁ……ふぁっ」男が無言で砂がちな斜面を登る。

「どーも。どーもどーも、ぐっちゃんでーす!

 え~やっと山を越えました! 今からあの町を抜けて、海を目指していこうと思います! それでは今日も張り切って~……行ってきま~しょおい!!

 さきほどと同じ男が、こちらを見て声を張り上げる。ひび割れた眼鏡の奥で満面の笑みを浮かべる男が指差した"町"は、壁にも屋上にも草木が茂って、かれがいま立つ砂丘のような斜面よりもはるかに山林じみていた。

「おなじみ基地局ドローンで~す。もう三機だけになっちゃいました~。まぁでもお蔭で配信できてまーす!!

 

 ロケーションの魅力も素晴らしいし(南アでロケした『第9地区』やノルウェーでロケした『トロール・ハンター』、メキシコでロケした『マインド・シューター』のような現物にたいして特定の文脈をのせて別世界として書き換えをする映画が、じぶんの住んでる日本でおこなわれたときの脳クニョり具合がこんなに気持ちいいとは……)、映画としてあまりにうまいのでびっくりしてしまった。

 お酒のつかいどころ(0:481:111:57)もさることながら、空を舞う(0:02)から3基のドローン(0:141:35)へ、廃墟で目の合った白猫(0:29)から目もあわせず過ぎ去るやせぎすの黒犬(1:24)へ、不気味な重低音を立てる巨大な"なんか"(0:321:251:48)……と配信者の男が見やるものの変化もまたきれい。

 そしてなにより。

 先日blogで紹介したher/世界でひとつの彼女』圧迫・閉塞⇔開放(リンク先jpg画像)にもつうじる演出が、自撮り生配信という設定によってとてつもなく自然な形で行われていました。

 撮影機材はスマホとじぶんの手(せいぜい自撮り棒)が主である自撮り配信の当然として、男の顔はアップ(やそれに類するもの)にならざるをえず、その構図も制限される(画面端のどこかしらを塞ぐようなショットになりがちだし、地べたにカメラを置いたっぽい釣りシーンに顕著なように、三脚もないから変な高さ・距離から撮らざるをえなかったりもする)

 そうした閉塞から自然と解放されるラストショットがまたすばらしい。

 

 また、マスが見るわけではなく極々一部のもの好きが見る自主制作掌編動画の世界で、「見られてるのか分からないけど、居るかもしれないたったひとりのためにカメラを回し続けるひと」の物語をお出ししたのも凄かったですね。

 ぼくはツイッターでの評判を聞いてから観て「すげ~」となりましたが、前情報なにもなしにふらっと見てこれに出くわしてしまったひとは、とんでもなく気持ち良かったろうなと思います。

{この辺について、先日読んだ同人誌から……

「ミニシアター系の映画で、映画内であつかうお話として「遠出など手間をかけてでも会いたい/見たいものがある」という要素のある作品は、構造的に勝利しているのでは!?」(上映館数がかぎられた作品の観客は、必然的に遠出してきたひとである確率が高くなるので、そういう要素に共感する素地があるだろうから)

「想定される観客に特化した物語構築ってどのくらいの精度でできるもんなんだろう」

 ……とかモニャモニャ考えごとをしていたので、ひじょうに興味深かったところ}

 

 監督の針谷大吾&小林洋介さんはほかにもアレコレ掌編映画を撮っているコンビのようで、ググってみると2018年第5回BOVA協賛企業賞受賞作品としてカイツリーの惑星』宣伝会議主催のオンライン動画コンテスト「BOVA」にてジョルダン社協賛のもとひらかれた"「乗換案内」アプリを使った「便利でスマートなライフスタイル」が伝わる動画"コンテストにて士と助手 瞬間移動装置編』を投稿されていたことが確認できました。

 

  『ヨーロッパ企画のYou宇宙be』第三回をTverで見る

tver.jp

 番組内の短編ドラマはYoutubeにも上がるだろうと思ってたんですけど、そうでもないみたいですね。フジテレビの廊下を歩く男が一言しゃべるたびに地雷を踏むのでタイムリープを繰り返して修正していく1ショット長回し的ドタバタ時間SFコメディンドレスチャンネルエイト』も面白かったですが。

www.youtube.com

「えっ? エッこれは、なんですか?」「ぼくに聞いてます?」

「だってこれ…映画なんですよね?」「これってどういうことですか?」

「だからこれですよ、あなたですよ」「いやぼく映画じゃないですよ!」

                 「ていうかあなた映画ですよね?」

「いやいやあたし映画じゃないですよ」「いやあなた笑ってますけどw」

                 「だってぼく借りてきましたもん」

 男女が借りてきたビデオを再生すると、男の部屋のTVには女の姿が、女の部屋のTVには男の姿が映し出されてしまった……巻き込まれアクションスリラーの男主人公×『13日の金曜日』系ホラーのやられ役の女主人公が交信をもち、それぞれの世界を認識しサバイブしていく、愛らしいメタメタ分割2画面同時進行長回しドラマは映画』(『ヨーロッパ企画のYou宇宙be』第三回00:04:30~)は、Youtubeアーカイブ配信は無いようです。

(もともと手作り感のあるトリック映画"しかけムービー"をまとめた番組ーロッパ企画の26世紀フォックス』の一作だったらしい)

fod.fujitv.co.jp

 

 

0201(月)

 ■観たもの■

  針谷大吾&小林洋介監督『スカイツリーの惑星』鑑賞メモ

www.youtube.com

 きょう、おじいちゃんの家から帰ってくるとちゅうで、とっても大きなたてものが見えてびっくりしました。おかあさんが「スカイツリー」だとおしえてくれました。のぼってみたかったけど、今日は時間がなくてのぼれませんでした。

 もっとうちのちかくにあれば、いつでものぼれるのに。うちのまえやせかいじゅうにできればいいのに。

「お母さん、お父さん」

「なに?」

「ちょっと見てくる」

 朝起きたわが子に呼ばれて子供部屋へおとずれた男は瞠目する。

 夫の朝食の用意をしていた妻はコーヒーを食卓にあふれさせる。

 窓いっぱいに/TVいっぱいに広がる白へ驚きのあまり。

「繰り返しお伝えします。きょう未明から東京スカイツリーによく似た建物が全国各地で出現しています」

 スカイツリーを横目に見た子どもの願いが、スカイツリーを全国に林立させ、全世界へと勢力を拡大させていく不思議な掌編です。

 どちらかというと作り手の技術デモみたいな作品ですが、起承転結ある物語が用意され、映像面でもクルーズ船のした、大西洋をホタルイカ/ダイオウイカのように泳ぐスカイツリーなどの(技術を見せたいだけのひとからは出ない)アホな奇想「スカイツリーはさらに増殖をつづけ、現在都内だけで千二百五十本余のスカイツリーが確認されています」などとあほなセリフを劇中ニュースキャスターが淡々と読み上げる さまとの対比もまたよい)が拝め、なかなかすてきな一作。

 さいしょの日記でインサートされるスカイツリーは、画面はんぶんを前景のマンションがさえぎったり、画面左をマンション右を車のフレーム(?)がはさんだ閉塞感ある構図のなかで遠く小さく見えるだけのカットをコンマ単位の細切れで見せられ、翌朝のスカイツリーは電柱のごしにあるいは両脇にならぶものがない構図で悠然と見せられる。つぎの日記でインサートされるスカイツリーは前景のマンションが画面左から右へ流れるとでんと現われスカイツリー内エレベータからの俯瞰を通じてはじめて画面縦方向のカメラワークが登場スカイツリー内部にいるとどんな眺望が得られるのか・その素晴らしさが描かれることなります。

 スカイツリーを仰ぎ見る構図を(いくぶん悪夢的に)見せたあとで、日記を読んで子どもの願いを叶えるためにスカイツリー内部へ連れてきた父の姿がアオリで撮られその意味を反転させるあたり、『viewers:1』とおなじくキレイな作劇がなされているなぁと思いました。

 

 

  針谷大吾&小林洋介監督『博士と助手 瞬間移動装置編』鑑賞メモ

www.youtube.com

 「はい」

「……よし」

「またなんか変なもん作ったんですかぁ?」

「これから君には歴史的瞬間の記録者になってもらう」

 第1回 四次元移動実験 報告:川口光太郎准教授 記録:更科圭介修士2年

 緑に光るペンライトをかざしながら川口が室内を小走りすると、世界が波打ち、きれいに刈り整えられた生垣に空高く伸びる青いガラスの列、黄色い点字ブロックの道――日光のまばゆい都市の街場があらわれた。

「見ろ! 大成功だ!」

「あれですか? テレポート的な?」

「瞬間移動装置だよぉ!」

 瞬間移動装置を開発した科学者コンビが池袋から東京駅をめざすドタバタコメディでした。ランダムな瞬間移動装置は最初の登場以降も変わらずランダムで、転移先についても前述『スカイツリーの惑星』『viewers:1』のような発想のエスカレートは見受けられません。

 どちらかというと作り手の技術デモみたいな作品ですけど、今作もやはりわずかな尺の中できちんとお話をオトしていて巧い。

 被写体である准教授による劇中独自ガジェットの理論的な説明パートは電池切れ・電池交換のタイミングと重なってカットされ、それがカメラマンである修士による最後の説明と対比をなしています。

 

 

 

*1:メモり忘れたので誰が言ってたのかわかんなくなっちゃったけど、怪奇小説幻想小説の作家さんなど、特撮プロパーのかたからすれば違うみたいですが。なるほどたしかにぼくの目から見ても、後述のとおりオリジナルの番組本編で登場・造成された怪獣の着ぐるみと比べれば、『シン・ウルトラマン』の怪獣のほうが人工性のでた部分もある。

*2:余談だけど、『シン・ゴジラ』の「進化」は、劇中でも「変態」だと言われたりもするとおり、庵野氏自身も「変態」と言っていたりもする。