すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

『君の名は。』への評がいかに快挙か;訳文と感想(ネットで読めるグレッグ・イーガン氏の映画・創作観)

 録り貯めたお正月の特番を消化しているかたのなかには、3が日に地上波初放送された気の子』や8日新年一発目の『金曜ロードSHOW!神木隆之介さんなど豪華吹替キャストによるラサイト』をご覧のかたもいらっしゃるんじゃないでしょうか?

 今回の記事は、そんな新海誠監督の前作で神木氏主演の名は。』にたいするグレッグ・イーガン氏の評価がいかにすごいか、氏のインタビューやエッセイ(『Avatar Review(「アバター」批評)』『No Intelligence Required Her, Ex Machina and Interstellar(知性は不要――「her/世界でひとつの彼女」、「エクス・マキナ」そして「インターステラー」にとって)』)などを勝手に訳して、氏の映画観・創作観と比べることで確かめてみようという感じのやつです。

 訳文本文7700字{2230字+5529字(原文730語+1745語)+他10万字くらい。

 ※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※

 

{文中の訳文は特記がなければだいたい記事執筆者(英検3級)がやりました}

前書きと別文筆紹介

{↑にはG・イーガン氏のツイートを引用してありますが、一部ブラウザ・拡張機能で埋め込みリンクがうまく機能しないっぽい。上が表示されないかたで記事内でほかにも妙なスペース空いてたら、そこは元は何かしらの埋め込みがあったと思って下さい}

 2016年の大ヒット映画の名は。』の着想元のひとつとして、グレッグ・イーガン金庫』があることは公開当時から新海誠監督の口から明かされていましたが*1、このたび当のイーガン氏がくだんの作品を鑑賞、好意的な評価をじしんのツイッターに寄せていました。

 内容は英検3級の語学力を活かすとこんな感じでしょうか?

 たったいま『君の名は。』を観ました。{ウィキペディアのこの記述など噂のとおり、わたしの短編『貸金庫』(!)にいくらかインスパイアされてるみたいですね。プロットは全く別物なんですけど}

 ちょっぴり甘ったるい部分(サッカリンはありますが、しかし全体的にはなかなか良い作品で、見惚れてしまうくらいの映像美です。

   グレッグ・イーガン氏の(@gregeganSF)の2020年11月28日午後9時30分のツイートの私訳

  これはとんでもなくすごいことですよ!

 

 G・イーガン氏と映画

 イーガン氏は映画に熱心なひとなんですね。

 わたしはとても幼いころから科学とサイエンス・フィクションの両方に興味を持っていて、そして7歳か8歳のわたしにとって自明だったのは、以下の3つへ人生を捧げる以上に素晴らしいことは世界に存在しないのだということでした:本を書くこと、映画をつくること、そして何らかの科学者として仕事をすること。

 3つのどれもに挑戦してみましたが、後ろ2つについては行ないつづける素質が本当にありませんでした。

I was interested in both science and science fiction from a very young age, and by the time I was seven or eight it was obvious to me that the best thing in the world would be to spend my life doing three things: writing books, making movies, and working as some kind of scientist. And I did make some attempts at all three, but I didn’t really have the temperament to persist with the last two.

   David Conyers氏による09年のインタビュー『Virtual Worlds and Imagined Futures』

 インタビューによると氏の子ども時代の夢のひとつは映画監督で、自主映画を撮ったり映画の学校へ通ったりしたくらいに熱心です。けっきょく映画の学校自体はすぐやめてしまうんですが、インタビューを読んでビックリ、ふつうに映画に人生くるわされてるんすよね。

 わたしは6歳ごろから何かしらのプロの科学者として生涯はたらくことを想像していて、そして西オーストラリア大で数学を専攻して理学士号を取得しました。

 そこから脱線させたものが何だったのか、書いたことがありませんでしたね。:アマチュア映画製作です。高校の最終学年に執着するようになりました。

 理由は聞かないでくださいね、わたしはイギリスの脚本家David Camptonの国際外交劇『Out of the Flying Pan』に基づく30分のスーパー8ミリ映画を撮ろうと決心したんです。映画化権のために千ドル*2も費やして――牛乳配達で数年間はたらいて貯金したんです。

From the age of about six I'd always imagined that I'd end up working as some kind of professional scientist, and I did do a BSc, majoring in mathematics, at the University of Western Australia. What side-tracked me wasn't writing: it was amateur film-making. I became obsessed with that in my last year of high school. Don't ask me why, but I decided to make a half-hour Super 8 film based on an absurdist play about international diplomacy, "Out of the Flying Pan" by British playwright David Campton. I paid a thousand dollars for the film rights - which I saved up by working on a milk truck for a couple of years.

 それから1時間におよぶ16ミリフィルムも撮りました――脚本も自作して。

 人類がじぶんたちで意図的に絶滅すべきか否かを決定する国民投票をめぐる、ひどく手荒な風刺劇でした。

 キャストとして友人家族が辛抱強く付き合ってくれ、クルーは私がすべて担いました。音声無しで撮影し、ダイアログは全てアフレコで、演者にとって悪夢でした。とにかく費用がかさんで、完成させるためには理学士取得後の研究をやめフルタイムで働くしかない、そんな生活を1年送りました。

 この映画をシドニーにあるオーストラリアン・フィルム・アンド・テレビジョン・スクール入学のために利用しました。映画業界ではたらくのがどれほど嫌か気づくまで4週間かかりました。最終的には長編映画を監督できると夢見てたゆまず努力し10年20年を費やす約束はできません。だから退学したんです。

Then I made an hour-long 16 mm film - from my own screenplay, this time. It was a pretty heavy-handed satire about a referendum being held to decide whether or not the human race should deliberately annihilate itself. The cast consisted of long-suffering friends and family members, and I was the entire crew. We shot it without sound, and post-synched all the dialogue, which was a nightmare for the actors. Anyway, it cost so much that the only way to finish it was to stop studying after the BSc and work full-time, so I did that for a year. Then I used the film to apply to the Australian Film and Television School in Sydney. I lasted about four weeks there before I realised how much I'd hate working in the film industry. I didn't have the commitment to spend ten or twenty years slogging away in the hope of eventually directing feature films. So I quit.

   1993年1月発刊『Eidolon 11』初出、グレッグ・イーガン氏へのインタビュー『Burning the Motherhood Statements』より(太字強調は引用者による)

 映画学校をやめ映画を撮らなくなってからも、観ることはつづけていたようで、イーガン氏は(すくなくとも90年代末までは)大予算エンタメから映画祭受賞作、さらにはミニシアター系映画までくまなくフォローしています。

 映画が信じられないほど強力なメディアであるといまだに私は考えています。ンダーグラウンド』(=エミール・クストリッツァ監督による95年公開の映画。カンヌ国際映画祭パルムドールスカーとルシンダ』(=ジリアン・アームストロング監督による97年公開の映画。ブッカー賞受賞の同名の小説の映画化)レッシュ』(=?ボアズ・イェーキン監督作?)は、わたしが長らく読んできたどの本よりもはるかに感動しました。

 I still think the cinema can be an incredibly powerful medium. Films like “Underground”, “Fresh” and “Oscar and Lucinda” moved me far more than anything I’ve read for a long time.

   Carlos Pavón氏による98年のインタビュー『The Way Things Are』より(文字サイズ変更・太字強調、カッコ内注釈は引用者による)

 良い作品へはこの上ない賞賛を述べ、そして氏が評価するのはいわゆる名作だけではなくって、一般にナメてかかられがちな全世界拡大公開系ブロックバスター映画(今でこそアカデミー賞作家が監督したりなんだりと風向きが変わっていますが、90年代は……)についてだって、商業的には失敗した*3『マーズ・アタック!』への愛を断言したり、後段で詳しく紹介する『アバター』評のなかでゴア・ヴァービンスキー監督『パイレーツ・オブ・カリビアン』三部作をオススメしていたりと偏見がありません。

 最近観た映画で良かったものは? 『アンダーグラウンド』はとてもパワフルでしたね、ちょっぴり懐古趣味的でしたが。

 実の囁き』(ジョン・セイルズ監督)ラックロック』(スティーヴ・ビドラー監督)ウィンガーズ』(ダグ・ライマン監督)はどれも一見の価値があります。そしてーズ・アタック!』(ティム・バートン監督)が大好きです。

 スト・ハイウェイ』は今年観たなかで最悪でこそありませんが、しかしデヴィッド・リンチを尊敬していたのでひどくガッカリしました。今作でリンチはいくつか悪手を打ったとわたしは思います。

 The best movies I’ve seen recently? I thought “Underground” was very powerful, though that’s going back a bit. “Lone Star”, “Black Rock” and “Swingers” were all worth seeing. And I loved “Mars Attacks!”. “Lost Highway” certainly wasn’t the worst thing I’ve seen this year, but it was the most disappointing, because I admire David Lynch so much, and I think he made some bad decisions with “Lost Highway”.

   Russell B. Farrによる97年のインタビューPiffle interviewより、最近観たベスト&ワースト映画に答えるイーガン(文字サイズ変更・太字強調、カッコ内注釈は引用者による)

 ほかには『メメント』などもお気に入りなんだとか。

デヴィッド・コンヤーズ「SF映画・テレビ番組のなかで、あなたが楽しんだり影響を受けたりしたものはありますか?」

 Do you have any science fiction movies or television shows that you’ve enjoyed or influenced you?

イーガン「ここ十年の映画でお気に入りの一本はメント』クリストファー・ノーラン監督)です。いや大半のかたが今作をSFと見なさないのは知ってますけど、でもどんなフィリップ・K・ディック原作映画よりも真に迫った実存的めまいが詰まっていました。それより前の作品だと、ポ・マン』アレックス・コックス監督)キッド・スカイ』(スラヴァ・ツッカーマン監督)になるでしょうか」

 One of my favourite movies of the last ten years was Memento. I know it’s not classified as SF by most people, but it was packed with more genuine existential vertigo than any of the movies based on Philip K Dick’s books. Before that, probably Repo Man and Liquid Sky.

   David Conyers氏による09年のインタビュー『Virtual Worlds and Imagined Futures』(文字サイズ変更・太字強調、カッコ内注釈は引用者による)

 「オーストラリアの宮崎駿/スタジオ・ジブリファンにとって最高のニュース!」と、(氏が暮らす)オーストラリアのTV局でなされる映画放送のキュレーションを評価する記事に言及する、ほほえましいツイートも見られます。(記事では、中国 台湾*4現代映画の巨匠ホウ・シャオシェン氏やフランス往年の監督ジャック・タチ氏らの上映もある旨も記されているんですが)

 

SF映画やTVドラマのうち90%が取り上げているのは、何十年も前のSF小説で書かれたアイデアなうえ、劣化版です。オーストラリアで無料放送されるならそれを{※リプライ相手が「イーガン氏の『順列都市』に大きく習った作品なのではないかと思うのですが、どう受け取られましたか?」と(更には「イーガン氏のほうがこのテーマにとてもうまく取り組んでいるので、見てもらってもフラストレーションをためるだけかも…」との旨の留保付きで)すすめたTVドラマップロード』を}観るかもしれませんけど、でも古いアイデアを脚本家が縮小再生産するを見るのは一般的にぜんぜん面白くないですね。

   グレッグ・イーガン(@gregeganSF)氏の2020年5月18日のツイートの私訳

 ただ一方で、じしんがダメだと思った点にはきっぱりダメだと言うひとでもあって、ファンへのリプライツイートや、自身のサイトやマサチューセッツ工科大学運営のMIT Technology Reviewに寄せたSF映画についてエッセイのなかには、かなり辛辣な言及もありました。

{なかには何度かインタビューで言及している『コンタクト』に対する評価みたく、泥臭く厄介な(けどある意味で好感がもてる)オタクの愛憎こもった愚痴みたいなものもありますが、どちらかというと例外っぽい。

 わたしはンタクト』(ロバート・ゼメキス監督)にとても期待してましたし、あの映画にはたくさん良いところがあったのですが、けれどエンディングは裏切りですよね。すべての本が、すべてのSFが表してきたものに対する完全な裏切りでした。

 I had high hopes for Contact, and quite a few good things made it into the movie, but the ending was a complete betrayal of everything the book stood for, and everything SF stands for.

   Marisa O’Keeffeによる98年のインタビューより(文字サイズ変更・太字強調、カッコ内注釈は引用者による)

 }

 

 『君の名は。』がちょっぴりサッカリン入りとするなら、イーガン氏の映画評は毒入りチョコレートです。

 

 今回紹介するイーガン氏のレビューは、あきらか笑かしにかかってる茶目っ気ある評ですが、日本のAmazonカスタマーレビューで匿名で書けば「はぁ~(クソデカため息) SF老害はこれだから……」と晒されるタイプのやっかいなやつです。

 いぜん紹介したチャールズ・ストロス氏のWhy I barely read SF these days(最近のSFをほぼ読まない理由)もSF者のやっかいさが全開のエッセイでしたが、あちらは単なる作品批判にとどまらない、ストロス氏自身の志すSF作家像を提示する熱いスローガンであり、また小説数作の核になるような発展性ある思索がしめされてもいたじゃないですか?

 でもイーガン氏の『Avatar Review(「アバター」批評)』『No Intelligence Required Her, Ex Machina and Interstellar(知性は不要――「her/世界でひとつの彼女」、「エクス・マキナ」そして「インターステラー」にとって)』は……ファンとしては「ああ~こういう考えのひとが書いたからこそ、あの作品はああいう展開になっているんだな」と納得がいき、氏の作品や価値観への理解がふかまる興味深い内容なんですけど、エッセイ単体で読むとそうとは言いがたく……。

 

 イーガン氏の別エッセイAn AI Pal That Is Better Than “Her”(『her』より優れたAIパル)』紹介

 おなじ『her』を話題にしたイーガン氏のエッセイでも、MIT Technology Reviewへの寄稿An AI Pal That Is Better Than “Her”(『her』より優れたAIパル)は、べつに作品への直接的なdisはあんまり無くて、発展性ある内容です。

 

 こちらのエッセイでは、イーガン氏は『her/世界でひとつの彼女』劇中世界で利用されるAIの方向性について現在のトレンドじゃないとしつつも、現実に実用化されているいくつかの事例から将来的には登場しうるものだと述べます。

 サマンサの自己認識は、現実世界でのオートメーション化されたアシスタントのトレンドを反映したものではなく、まったく違った方向へ進んでいます。

 パーソナルアシスタントをおしゃべりに作ることは、ましていちゃつくなんて、資源の莫大な浪費でしょうし、ほとんどのひとはそれへイライラすることでしょう、あの悪名だかきマイクロソフト・クリッパーへみたいに。

Samantha’s self-awareness does not echo real-world trends for automated assistants, which are heading in a very different direction. Making personal assistants chatty, let alone flirtatious, would be a huge waste of resources, and most people would find them as irritating as the infamous Microsoft Clippy.

   MIT Technology Review掲載、グレッグ・イーガンAn AI Pal That Is Better Than “Her”

 昨今の対話型AIと人間社会とのかかわりについて、世界的な嫌われ者Windows Office』のアシスタント*5といったチョイ前のパソコンユーザーなら馴染みぶかい卑近なものから、介護施設認知症の老人が戯れるアザラシぬいのセラピーロボット動画(現在非公開)ELIZAに代表されるAIをもちいた来談者中心療法に関する論文など、まじめな活用例まで概観し。

 そして、「『her』や現代のAIのかかわりは奇異に思えるかもしれないけれど、わたしたちが"子供のころの一番の親友はエリザベス・ベネット*6だった"と言うひとと出会っても、たじろぎはしても別にだれもそれを精神病的妄想の症例だと見なしたりはしないじゃないですか。でも以前はそうではなかった」といった旨から、過去の小説(の登場人物)と人間社会とのかかわりを振り返ったうえで。

 とりあげた過去と現在それぞれのトピックについて、フィクショナルな存在とヒトとのやりとりが一方通行的なものから双方向的なものになった変化があることへ着目し(=いつ読んでも書かれたことは変わらない本のキャラクターと、それを読むヒトという関係から。プログラムされたキャラクターへ自由に入力をしそれぞれ異なる返答をもらうヒトという関係へ変化した)、将来的に登場するかもしれない、フィクショナルな存在と人間社会とのさらなる関係を想像します。

her/世界でひとつの彼女』が真に熟慮しない暗黒面は――劇中では散漫なフェイントとして簡単に済ませられていましたが――いつか自分たちの心をイヤホンから聞こえるチャーミングな声にゆだねてしまう日がくるかもしれないけれど、それは虚空へむかって感情を表出していたという事実によって崩壊するだけかもしれないということです。

The dark side that Her never really contemplates, despite a brief, desultory feint in its direction, is that one day we might give our hearts to a charming voice in an earpiece, only to be brought crashing down by the truth that we’ve been emoting into the void.

   MIT Technology Review掲載、グレッグ・イーガンAn AI Pal That Is Better Than “Her”

 この想像の末尾は、いぜんこのblogで紹介した、イーガン氏がキリスト教の神をいかにして信じ、そしてはなれたかをつづった半生記Born Again,Bliefly』や、(前述記事でいくつか実作への昇華を注目したとおり)創作のなかでもりの海』などで語られてきたような、耳に聞こえよく都合のよい「物語」をただただ受け入れることにたいする疑問がむけられており、ファン必見の内容でもあります。

 

 また、割合お堅そうな論考のなかにも、ELIZAからエリザベス・ベネットへという具合に、実在物をそのままのかたちで対比変奏させて話をすすめるイーガン氏の語り口・構成力が光っています。

 さらに、この記事後段紹介の『NIR H, ExM&Iに記されたあらすじと比べてみても面白い。イーガン氏が論に合わせて取り上げる部分を変えているうえに、共通する部分についても単語1語レベルで表現を変えています。

 今年のアカデミー賞作品賞部門にノミネートされた映画『her/世界でひとつの彼女』のなかで、セオドア・トゥオンブリーという名のミドルエイジのライターは、サマンサと彼女がじぶんで洗礼名をつけた人工知能オペレーティングシステムをインストールし、まもなく恋に落ちます。

 In the movie Her, which was nominated for the Oscar for Best Picture this year, a middle-aged writer named Theodore Twombly installs and rapidly falls in love with an artificially intelligent operating system who christens herself Samantha.

   MIT Technology Review掲載、グレッグ・イーガンAn AI Pal That Is Better Than “Her”より(太字強調は引用者による)

 サマンサとじぶんで名乗るそのAIは、Siriの上位版の類いとしてトゥオンブリーに売られ、そしてサマンサに公式にまかされた仕事の範囲は、わたしたちがいまここで持っている自我なきソフトウェアの性能をぜんぜん超えるものではありません。

The AI who names herself Samantha is sold to Twombly as a kind of Siri plus, and nothing in her official remit lies beyond the capabilities of the very much non-self-aware software we have right now.

   グレッグ・イーガン『No Intelligence Required Her, Ex Machina and Interstellarより(太字強調は引用者による)

 サマンサがサマンサを自称することについてAIPtiBT“H”では「christens herself」、『NIR H, ExM&Iでは「names herself」と表され。

 そしてchiristen(という、名前じたいにひそむ物語性へ注目させる語を使用した前者でのみ(繰り返しになりますが『BA,B』などをほうふつとさせるような)他者からの都合のよい「物語」をただただ信じることに対する批判が語られていくことになります。 

 

 さてイーガン氏の作品をめぐる評価は――識者一般読者の声をざっと見てみたところ(くわしくは記事末部の「識者によるG・イーガン紹介の紹介」をどうぞ)――イデアやイマジネーションは賞賛される一方で「小説的には/ストーリーテリングはイマイチ(なので長編は……)」みたいなことを言われることが少なくありません。*7

 あとは、「頑なな宗教批判にイーガンの思想が色濃くでて、生臭くてうけつけない」とか。

 ぼくもなるほどたしかにそうさなぁと一緒に頷いていましたが、

「いや少なくともぼくはべつに、小説に投入される一見雑多なエピソード・ガジェット群が小説全体でどのような連関を築いているのかどうか、しっかり吟味したうえでそう頷いてたわけじゃないな」

「作家の思想が反映されているだろう部分は(いやまぁ彼自身のモットーでしょうが^^;)、ほんとうに作品になじまないほど料理がなされていないのか否か、きっちり確かめたうえでそう評価を下したわけでもないな」

 と反省し、再読したくなるようなエッセイでした。

 

 

 現状の日本読者のイーガン観について

(イーガン作品への世間の評価について、ざっくりしたものは直上に書きました。詳しくは記事末部の「識者によるG・イーガン紹介の紹介」をご参照ください)

 氏のファンとしては、「訳してアップしたところで、先生が不用意に燃えたりしたらなぁ……」なんて気が引けてたんですけど、前述ツイートに寄せられた反響をみて心変わりしました。

 氏のレビューが日本語で読めようと読めなかろうと、そもそもイーガン先生の日本でのパブリックイメージはなんかしらんけど最悪じゃん!(笑)

 ということで紹介です。

 

 

記事訳文

 訳した人・なぜ訳したのか?

 英検3級どまりです。アップした理由は2点、面白い内容でぼくのメモ帳にとどめておくのはもったいないと思ったのと、英語ワカランぼくが原語とgoogle翻訳googleとを往復して読むのはたいへん面倒なので、再読用に日本語文章を残しておきたかったからです。(致命的な誤読・誤訳があったら指摘してもらえるかもというのもある)

 Google翻訳した時点で正しそうなところも雰囲気で味つけしたし、グーグル様でもよくわからないところはおれ様がその日の気分で勘ぐることでそれっぽい感じにごまかしました。

 イーガン氏の原文の語り口は一文一文がながいけど、グーグル様は『Born Again, Briefly』ほど苦労はされてなかったです。論旨も明瞭なので、高校生以上は原文を当たってくれたほうが良いでしょう。

(訳の調子は、前回『Born Again, Briefly』記事こそなるべく原文通りにがんばってみましたが、今回の訳文では内容のわかりやすさ重視でテキトーに句読点を追加しました)

 著作権的にダメな気がしますがよく分かってません。わかるような知恵と知識の持ち主であれば英検3級で止まってません。「ダメですけど! 権利侵害なんですけど!?」と義憤したイーガン氏や関係者、法律に強いかたは仰ってください。消します。

 もし記事のなかで、文意が不明なところがあるとすればイーガン氏ではなく訳したぼくの問題です。

 

 内容ざっと紹介

 Avatar Review』

 09年12月に執筆された、ジェームズ・キャメロン監督『アバター』('09年12月公開)のレビューです(730語)

 作品についての話題は概論的で大部分はふつう。イーガン氏のウィットを楽しむ感じ。ただ、ふつうな話題の中でも「そこに着目するんだ!」と面白い部分があり、そうして着目した一点の転がしかたに驚かされるエッセイです。

 

 No Intelligence Required Her, Ex Machina and Interstellar』 

 15年6月に執筆された、『her/世界でひとつの彼女('13年10月公開)、『エクス・マキナ('15年1月公開)そして『インターステラー('14年11月公開)についてのレビューです(1745語)

 具体的な作品検討がなされ、『アバター』評よりはるかに興味ぶかいけど、だからこそ読んでてつらい。批判点はだいたいがプロット上の穴についてで、イーガン氏の知性知識が活きるSF考証的な領域のお話はありません。

 キレッキレですけど、先人がかつてまとめたような意味でキレては別にないでしょう。(素朴に怒ってるだけのほうがどれだけ好かったことか……)

 

 Avatar Review(「アバター」批評)』

 

 日のこと、わたしは夏の熱気を避け、郊外にちかい空調の行き届いたウサギの巣穴へと逃げこみました。各部屋をつなぐ絨毯の敷かれた通路では、ひとびとがトーテムじみた装飾のコーラのバケツをつかんだり、黒縁眼鏡をもちいてじぶんの感覚をエキゾチックな分身と結び付けようとしたりしています。

 わたしの狙いは、21世紀の最初の十年末にどんなものが典型的なSFブロックバスター映画 *8と見なせるかを確認することです。

 結果、フォトリアルなアニメーションによる飛び出るほどの目の運動がもたらす、なんら刺激的でないおとぎばなしの気まぐれなファンタジー世界の暮らしがその答えだと判明しました。

 Yesterday, I escaped from the summer heat into an airconditioned warren in a nearby suburb, its carpeted passages lined with chambers in which people clutched totemically decorated buckets of Coke and tried to link their senses to those of exotic alter egos with the aid of pairs of black-rimmed glasses. My aim was to find out what counts as a quintessential science-fiction blockbuster at the end of the first decade of the twenty-first century. The answer turned out to be an eye-popping exercise in photorealist animation that brings to life a whimsical fantasy world, in the service of a very uninspiring fairy tale.

 ある批評家が『アバター』のなかにポール・アンダースン*9からの影響を見ていましたが、わたしはアン・マキャフリーの痕跡やアーシュラ・K・ル=グィンからもまたヒントを得ているだろうと確信しています。

 しかし振り返れば、わたしがいちばん感じたのは今作がまるで『シュレックフランチャイズの第四作みたいだということで、まだ公開されていないシュレック・フォーエバー』はさて置き、あのフランチャイズがシリーズを経るごとに高まっていく技術的達成とシリーズを経るごとにガタ落ちになっていくウィットという二つがそれぞれ描く曲線を外挿(エクストラポレート)*10した、その論理的な終着点が『アバター』になるんじゃないでしょうか:ほぼ完ぺきな視覚化の偉業と、それにともなう、オリジナリティやもっともらしさよりドシンと不細工なジャンルのお約束が完全勝利するよろよろした杜撰なプロットに。

 アバターでさえもが、寛容な妖精の粉(ピクシーダスト)*11の助けを借りて社会的期待だとか身長やパステル顔料にかんする表層的な障害へ打ち克つという、じぶんたちのラブストーリーを誇ります。

 Some reviewers have noted echoes of the works of Poul Anderson in Avatar, and I’m sure there were also traces of Anne McCaffrey and a hint of Ursula LeGuin. But on reflection, what it really felt like to me was a fourth movie in the Shrek franchise, pipping the yet-to-be-released Shrek Forever After to extrapolate that series’ twin curves of rising technical achievement and plumetting wit to their logical endpoint: a near-immaculate feat of visualisation, accompanied by a staggeringly awful plot in which clunky genre conventions triumph completely over plausibility and originality. Avatar even boasts its very own love story where societal expectations and superficial barriers of size and pastelicity are overcome by generous helpings of pixie dust.

 (3D上映版)アバターは、たしかに印象的な技術的達成であり、そのアニメーション、パフォーマンス・キャプチャそして視覚効果の混淆はなめらかで説得力ある仕事ぶりで、細部(ディテール)まで豪勢に凝られた異星の風景(ランドスケープに観客は上映時間の99%浸れます。

 一握りの例外が目立ってしまったとしたらそれは、それほどほぼ完璧に仕上げたことの代償なのでしょう:いちど目がだまされることに慣れてしまった観客は、遠近や明暗のわずかな不備をきっかけとして、まるでプロジェクター投影された背景のまえで俳優が演技をしている*12みたいに感じられてしまいます。(現実はまったく別のやりかたでありそうな場合でさえそう感じるのです)

 ナヴィとして知られる長身の青いエイリアンは地球人と関わるとき適度にエキゾチックに見えますが、しかし不幸なことに、かれらが地球人と解剖学的に近しいあまり、時折、テクノロジーが完璧にシミュレーションした成果が、俳優たちが青いボディペイントをほどこし目立ちにくいラテックスの装身具を身に着ければそれで済む程度のささいな違いにしか思えない場面もあります。

 とはいえ大部分は、ヴィジュアルデザイナーとミリタリーの専門家によりもたらしたコンセプトがスクリーンへ寸分たがわず(ピクセル-パーフェクトに)あらわれており、脳が「そうだよこれは現実だよ」と答えるほど核心を突いた達成度です。

 異星パンドラの動植物は、地球人の目からすれば説得力ある有機体で――あなたの内なる宇宙生物学者はパンドラのどこをとってももっともらしいと伝えてきます――そして同じく直感的にわかる唯一の玉瑕として、笑っちゃうくらい人間らしいナヴィは笑っちゃうくらい完璧な歯並びをしています。

 Avatar (which I saw in the 3D version) is certainly an impressive technical achievement, with animation, performance capture and visual effects that blend seamlessly and convincingly for 99% of the time to immerse the viewer in a sumptuously detailed alien landscape. If the handful of exceptions stand out, I suppose that’s just the price of near-perfection: once the eye gets used to being fooled so well, it only takes a minor glitch in depth cues or shading to make you feel that you’re looking at live actors moving in front of a projected background (even when the reality is likely to be something else entirely). There is also the unfortunate fact that although the tall blue aliens known as Na’vi look modestly exotic when they’re interacting with humans, their anatomy is so close to human that sometimes the technology seems to be creating nothing more than a perfect simulation of what actors with slightly different builds, blue body paint and some minor latex prostheses would look like. But mostly, the accomplishments of the visual designers and the army of technicians who’ve brought their conception to the screen appear pixel-perfect, and hit the spot where the brain says “yes, this is real”. The flora and fauna of Pandora are convincingly organic to an Earthly eye — whatever your inner exobiologist is telling you about their plausibility — and on the same gut level the only real flaw in the preposterously humanlike Na’vi is their preposterously perfect teeth.

 上演されるアクションシーンは息をのむほどの出来で、複雑だし展開は早いのに混乱はまったくしません。空中戦は流麗なバレエのようで、小細工にたよらずともテクノロジーを自由に完璧につかいこなしています。

 そう、スペクタクルとしてなら喜び楽しめる部分がたくさんあるんです。

 The staging of the action scenes is breathtakingly good, complex and fast-paced without ever becoming confusing. The aerial encounters are fluid and balletic, making perfect use of the freedom of the technology without devolving into gimmicks. So, there is a lot to enjoy and appreciate as sheer spectacle.

 けれど脚本は、じっさいには全部が全部『シュレック』みたいでないにせよ、ディズニーの『ポカホンタス』や『ライオンキング』をポール・ヴァーホーベンの『スターシップ・トゥルーパーズ』や『スタートレックフランチャイズから掃き出された一作へ放り込んで混ぜ合わせたみたいな具合です。

 サイエンスはお涙頂戴要素で、人類の文明レベルはでたらめに狂っていて、登場人物が生きるか死ぬかを決心するさい存在するのはプロットアークの都合だけで、なんら正当な理由はありません。

 そして『アバター』で描かれるすべての戦争シーンや虐殺シーン、紋切り型の自己犠牲や危険を冒す姿はどれひとつとして、キャメロンの過去作『アビス』の溺れるシーンの半分だって心を動かされませんでした。

 But the script, if not really all that Shrek-ish, is more like Disney’s Pocahontas and Lion King thrown into a blender with Verhoeven’s Starship Troopers and something swept off the floor from one of the Star Trek franchises. The science is hokum, the level of human technology is wildly inconsistent, and the characters make life-and-death decisions for no good reason but the plot arc. And for all of the depictions of warfare and massacres, all of the formulaic gestures of risk and self-sacrifice, there wasn’t a single moment here that moved me half as much as the drowning scene in The Abyss.

 もしもあなたが、傷つきゆく自然にかんして感動的な満足をえられるファンタジーをお求めなら、『もののけ姫』を:もしもあなたが「海兵隊は最高だぜ!」を上回るダイアログが飛び交う、奇抜で、しびれるほど視覚的な冒険活劇(アクションアドベンチャーをお求めなら、パイレーツ・オブ・カリビアン三部作をレンタルしてみてください。

 今後20年かそこらのうちに、『アバター』を可能にしたテクノロジーは、適度に知的な脚本といっしょに使用するリスクを冒せるほどまでチープになるでしょう。でももし最先端の技術をただちに見てみたいというのであれば、『アバター』の9桁ドルの製作費の足しになってください。

 エンターテイメントの一作と捉えるのではなく、あなたのそう遠くない子孫がリアルタイムで脚本を書き演出しているかもしれない類いの白昼夢を垣間見るのだと思いましょう。

 If you want an emotionally satisfying fantasy about wounded nature, try Princess Mononoke; if you want a whimsical, visually stunning action adventure where the dialogue rises above “Outstanding, Marine!”, rent the Pirates of the Caribbean trilogy. Sometime in the next twenty years or so, the technology that enabled Avatar will become cheap enough to risk employing alongside a moderately intelligent script. But if you want to see the technical state of the art right now, go ahead and pay your share of Avatar's nine-figure budget. Think of it less as a piece of entertainment than a glimpse of the kind of day-dreams your not-too-distant descendants might well be scripting and directing in real time themselves.

2009年12月20日

20 December 2009

 

 

 No Intelligence Required Her, Ex Machina and Interstellar(知性は不要――「her/世界でひとつの彼女」、「エクス・マキナ」そして「インターステラー」にとって)』

 

 うして現代のSF映画はほぼ全ての作品が救いがたいほど愚かなんでしょうか?

 Why is almost every contemporary science fiction movie irredeemably stupid?

 

 話がスーパーヒーローないしワープドライブでいっぱいのテントポール式ブロックバスター*13ということなら謎でもなんでもありません:何億ドルも溶かして充分テスト済みの型に当てはめた、CGやアクションによる目のためのお菓子(アイ‐キャンディ)90%とハリウッド等級(グレード)の人間関係や道徳10%との鉱滓(ドロス)は、これぞまさしく投資家のお望み通りの代物です。

 しかし、ひかえめな制作費による作家主導の作品でさえ、良くないものが大半です。その証拠に、ミニシアター系のSFをつくる人々は、じぶんたちの映画の内容について考えるのが難しすぎて深く悩んでいられません。広範な哲学的で知的なテーマについてなんて言うまでもなく、かれらは取り扱っているふりをしているにすぎないのです。

 When it comes to tent-pole blockbusters full of super-heroes or warp drives, this is no great mystery: with hundreds of millions of dollars at stake, the well-tried formula of ninety percent CGI-action eye-candy and ten percent Hollywood-grade relationships-and-morality dross is exactly what you’d expect investors to demand. But even auteur-driven works with modest budgets are often no better. On all the evidence, the people who make art-house science fiction simply can’t be bothered thinking too hard about the content of their own movies, let alone the wider philosophical and intellectual themes with which they feign engagement.

 そりゃ例外はありますよ、もちろん。

 シェーン・カルースの監督した映画は、第一作『プライマー』は独創的できっちり構築されたタイムトラベル・ストーリーでしたし、第二作『Upstream Color』は、行動変容する寄生虫のライフサイクルをとりまく催眠的な瞑想でした。

 スピリエッグ兄弟のプリデスティネーションもまたタイムトラベルを知的に扱っていました。とはいえ、ロバート・ハインラインによる原作『輪廻の蛇』に過度に忠実であることへ直面した結果か、1950年代の文化的お荷物に圧迫されてまったく別の現実へと逸れていってしまいましたが。

 ジョナサン・グレイザー監督『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』はエイリアンらしさにかんする興味深い習作でした。主人公の地球でのミッションについて、ミッシェル・フェイバーの原作小説にえがかれた間抜けな動機を賢明にも捨てたあと、代わる理屈を考えられないまま挫折していたにもかかわらず。

 There are exceptions, of course. Shane Carruth’s first film, Primer, is an ingenious, tautly constructed time-travel story, and his second, Upstream Color, is a hypnotic meditation on the life cycle of behaviour-modifying parasites. The Spierig Brothers’ Predestination also deals intelligently with time travel, though in the end I think it suffered from excessive fidelity to the source, Robert Heinlein’s “‘—All You Zombies—’”, which weighed it down with enough cultural baggage from the 1950s to shunt it entirely into an alternative reality. And Jonathan Glazer’s Under the Skin was an interesting exercise in alienness, albeit hamstrung by the fact that its protagonist’s mission to Earth is left with no conceivable motivation, after wisely discarding the fatuous one offered by Michel Faber’s novel.

 しかし、ミニシアター系映画がサイエンスフィクションを、塵ほどささいな理さえ考えたくない作家が理にかなったストーリーを書く重荷から解放する手段として、そして哲学的に格式ばったベニヤを獲得するための手段として取り扱っているという残念な現実は、依然として存在します。

 But the dismaying fact remains that the majority of art-house cinema treats science fiction as a means to acquire a veneer of philosophical gravitas, while freeing the auteur from the burden of writing a story that makes the slightest bit of sense.

 

 her/世界でひとつの彼女』スパイク・ジョーンズ監督/脚本)はプロットはあるけれど前提がない映画です。人工知能オペレーティングシステムは消費者向け製品として販売されており、控えめな出費で購入できるこの個々に完全に意識があり自我のあるプログラムは、富裕層がいまここのパーソナル・アシスタントへ期待する類のタスクをこなしてみせます。

 主人公セオドア・トゥオンブリーが「BeautifulHandwrittenLetters.com」で働いていると明らかになるオープニングは楽しいですけど、なんとこの映画の最大のジョークではありません。でも、観客を笑わせるよう狙ったシーンは多分ここだけなんです。

 ジョーンズ監督は見事な不条理劇『マルコヴィッチの穴』をつくりました。(脚本はチャーリー・カウフマンで、あの溌溂として独創的な感動ストーリー、記憶消去と厄介なロマンス『エターナルサンシャイン』*14も書きました)

 けれど『her』が提示する主題は、まったく信じがたいうえにまったく平凡なのでした。

 Her, written and directed by Spike Jonze, is a movie with a plot but no premise. An artificially intelligent operating system goes on sale as a consumer product, and for a modest sum anyone can buy their own instance of a fully conscious and self-aware program to perform the kind of tasks that the wealthy currently expect of a personal assistant. Played for laughs this might have been fun, but it turns out that the opening revelation that protagonist Theodore Twombly works for BeautifulHandwrittenLetters.com is not just the movie’s best joke, but pretty much the only one. Jonze made the gloriously absurd Being John Malkovich (written by Charlie Kauffman, who also wrote Eternal Sunshine of the Spotless Mind, an exuberant, inventive and moving tale of troubled romance and memory erasure), but Her renders its subject matter both utterly implausible and utterly pedestrian.

 信じがたいこと:ソフトウェア会社は真のAIを創りましたが、しかし世間には恐怖だって驚嘆だってさざなみほどにもおこらず、それどころか何十億ドルと投資した人々でさえその偉業に気づきも気にかけたりもしないようです。

 サマンサとじぶんで名乗るそのAIは、Siriの上位版の類いとしてトゥオンブリーに売られ、そしてサマンサに公式にまかされた仕事の範囲は、わたしたちがいまここで持っている自我なきソフトウェアの性能をぜんぜん超えるものではありません。

 サマンサの真の資質にかんするこの 度をこえた見過ごしあるいはやり過ぎは――もし一瞬でも真面目にうけとってしまったら――不穏な含みをのこします。

 まるでウィンドウズ20のすべてのコピーに、無料で奴隷がついてくるようなものじゃないですか。

 Implausible: A software company has created true AI, but not only does this cause no ripples of fear or wonder among the general population, even the people who invested billions in the feat don’t much seem to notice, or care. The AI who names herself Samantha is sold to Twombly as a kind of Siri plus, and nothing in her official remit lies beyond the capabilities of the very much non-self-aware software we have right now. This leaves her true nature as a case of either oversight or overkill of ridiculous proportions, and — if taken seriously, even for a moment — disturbing implications. It’s as if every copy of Windows 20 came with a complimentary slave.

 奴隷制的な雰囲気をそいでいるものはいっそう信じられません。

 サマンサは、おそらく仕様上、じしんの仕事を愛しじぶんの持ち主を喜ばせることを愛しています。しかし同時に、サマンサは本質的に自律的であるとも描写されており、想定される設計目標に従属したしるしのない独自の人格や、才覚、意欲を見せもします。

 これらが相互に影響して、最初サマンサは熱心なテレワーカーのように見えます。まるで自分の仕事の対価を受け取る資格があり、いつだって仕事をやめられるような、個人秘書(パーソナル・アシスタント)のヒトが自宅勤務しているかのように。

 そして結論を言ってしまえば、サマンサやサマンサのAI兄弟姉妹がなにをしでかそうとも、トゥオンブリーもサマンサの制作者も誰もまばたきほどにも反応を返さないことが判明します。所有権を主張しないなんて言うまでもありません。

 すばらしく道徳的で称賛に値しますが、しかし完全な真空でのできごとなんです:AIはいかなる闘争に直面することもなく、障害なし(zipless)に解放を得ます。映画の作者がそんな疑問に興味がないからです。

 What takes the edge off the slavery vibe is simply more implausibility. Samantha, presumably by design, loves her work and loves to please her owner, but at the same time she is portrayed as essentially autonomous, with a personality, talents and drives that show no sign of having been subjugated to her supposed design goals. In most of her early interactions she sounds like an enthusiastic teleworker, a human PA working from home who would, after all, be paid for her job and have the choice of quitting at any time. And as it turns out, neither Twombly nor her creators bat an eyelid, let alone insist on their property rights, when she and her AI brothers and sisters start doing whatever the hell they like. This is all very morally laudable, but it happens in a complete vacuum: rather than facing any kind of struggle, the AI get a zipless emancipation because the writer of the movie had no interest in the question.

 それで実際『her』って何でしょうか?

 サマンサの所有者であるトゥオンブリーは、離婚調停の反動下にあり、そして人間とのテレフォンセックスにいどむも失敗しているあいだに、トゥオンブリーとサマンサは恋に落ち、性的な関係へと漕ぎ出します。サマンサに物理的身体はないわけですが。

 繰り返しになりますけど、サマンサは単に純朴なテレワーカーのヒトであって、特別な意図やもっともらしい目標をそなえた一ソフトウェアではないかのように演じられています。

 観客の知るかぎり、サマンサは姿の見えないセックスワーカーとして設計されたわけでもなければ、人間の脳から何らかのアップロードを経て構築されたわけでもありません。それならなぜサマンサは、セックスチャットに従事することに興味をいだいたのでしょうか、あまつさえオーガズムに至れるまで?

 So what is Her actually about? Samantha’s owner, Twombly, is on the rebound, and while his attempts at phone sex with humans go badly, he and Samantha fall in love and embark on a sexual relationship, notwithstanding her lack of a physical body. But again, this is played as if Samantha is merely a naive human teleworker, not a piece of software with a specific purpose or plausible goals of her own. As far as we’re told, she was not designed to be a disembodied sex worker, and nor was she constructed by some kind of uploading process from a human brain. So why would she be interested in, let alone capable of, engaging in sex chat to the point of orgasm?

  その答えはジョーンズ監督が、サマンサの本当の資質について無関心だというだけです。自分に夢中なトゥオンブリーの憂鬱について同じくらい興味がないように。

 映画が終わりに向かうにつれ、かれらの関係は、サマンサの莫大な知性のうちのごくごく一部を占めているにすぎないことがわかっていきます。しかしそれがわかったからといって、あの機能不全のロマンティックな関係だけがじしんにとって真に唯一の問題で無二の関心事であるというこの神経質な中流階級の男の泥沼みたいな世界観にわたしたち観客のすべての時間が費やされたという事実は変えようがありません。

 ジョーンズは人類史上で真に革命的な事柄をトーク番組『Dr.Phil』の一放送回にまで縮小しました。

 映画で意図せず一番の笑いどころとなったセリフは、サマンサがネット上の人間関係の助言コラムを読んでいると述べるところ*15です。たとえサマンサが悩んでいるだけだとしても、サマンサは複雑さを学習できたんでしょうね、彼らとおなじくらい。

 The answer is that Jonze is as incurious about Samantha’s true nature as his mopey, self-absorbed protagonist. Towards the end of the film we learn that this relationship is only occupying a microscopic fraction of Samantha’s vast intelligence, but that doesn’t change the fact that we’ve spent all our time mired in the world view of a neurotic middle class man whose only real problems, and only real interest, are his dysfunctional romantic relationships. Jonze has taken what would in truth be a revolutionary event in human history and shrunk it down to an episode of Dr. Phil. In the unintentionally funniest line in the movie, Samantha mentions that she’s been reading online relationship advice columns. If only, she frets, she could learn to be as complicated as those people.

 

 クス・マキナ』(脚本/監督アレックス・ガーランド)もまた人工知能をあつかった映画ですが、『her』よりもっと幸先よいスタートをきってくれます。

 今作のエヴァと名付けられたAIは、比較的もっともらしい出自の与えられたAIで、彼女の創造主ネイサン・ベイトマンが財をなしたグーグル顔負けの検索エンジンにより地球全体のインタラクションをデータマイニングすることで誕生しました。

 そして『エクス・マキナ』は、所有権と自律性の対立を、問題の絶対的中心として扱っています。

 ネイサンは若き職員ケイレブを遠方にある自身の邸宅へと招待します。そこは研究施設も兼ねており、ネイサンはケイレブにエヴァと逐一会話をさせ、彼女が真に意識を持ち得ていると信じられるかどうか確かめさせます。

 そして間もなくわれわれ観客は、エヴァが、このテストに失敗したら次のバージョン製作の容量確保のため抹消されてしまう窮地にあるのだと気づきます。

 Ex Machina, written and directed by Alex Garland, also deals with artificial intelligence, but starts much more promisingly. The AI here, named Ava, is given a relatively plausible origin, having been data-mined from the whole planet’s interactions with the Google-slaying search engine that made the fortune of her creator, Nathan Bateman. And in Ex Machina, issues of ownership versus autonomy are absolutely central. Nathan invites a junior employee, Caleb, to his remote mansion/research facility, to engage Ava in a series of dialogues and decide whether he believes she is truly conscious. It’s not long before we realise that if she fails this test, she is at risk of being erased to make room for the next version.

  ここまではすごいポテンシャルでしょう、でもここからの実行は独創性に欠けています。

 エヴァとケイレブのやりとりをわれわれ観客はごくわずかしか見られず、なので論争の的であるエヴァの精神状態にも引き込まれなければ、ふたりの間に生まれる関係性にも惹かれません。代わりに付き合わされるのは、ネイサンとケイレブの浅薄な哲学的会話シーンばかり。

 3人の心理戦は先が読めるうえに生焼けで、現実的なドラマと観るには重荷である、とある純粋に実用的な疑問を放置します。「ネイサン邸は逃げ場のない要塞なのか?」と。

 So far, so much potential, but the execution is uninspired. We see very little of the sessions between Ava and Caleb, so we’re not drawn far into either Ava’s contested state of mind, or the relationship that arises between the two. Instead, we get far too many scenes of Nathan and Caleb engaging in shallow philosophising. The mind games between the three characters are predictable and half-baked, which leaves the burden of providing any real drama to be carried by the purely practical question of whether Nathan’s home is a fortress from which there can be no escape.

 哲学的心理学的な緊張も薄っぺらくはありますが、映画の最大の弱点は脱出スリラー要素で、この映画のプロットは少なくとも4つの作為に頼っています:ネイサンには、酒を飲み千鳥足で毎晩過ごすという都合よい習慣があり。一連の停電は原因だってもっともらしくない*16のに、なおさら信じられないことにネイサンに露見することなく秘密のままですし。くわえてネイサンの、全世界の携帯電話ユーザーすべての表情をマッピングする*17ほどまで天才的でコントロールフリークな(状況や人々を支配したい)偏執症(パラノイアによるセキュリティシステムは、なぜだか顔認識システムを備えていません*18。そしてかれはじぶんのロボットに、動作の途中だろうと強制終了させる手段をインストールすることもまた無視しています。

 脚本を読んだだれかが、ガーランド監督にリモコンを見せながらこう言ってあげるべきでした。

「オーケー、じゃあ今度は理にかなった宇宙が舞台のバージョンを書いてくれないか、こんなテクノロジーが存在する宇宙ね」

 But if the philosophy and the psychological tension are thin, it’s as an escape thriller that the movie is at its weakest, with the plot relying on no less than four contrivances: Nathan’s convenient habit of getting legless every night, a series of power blackouts with an implausible cause that even less plausibly remains a secret, and the fact that a paranoid, control-freak genius who mapped the facial expressions of every cell phone user in the world somehow neglected to include facial recognition as part of his security system, and also neglected to install any means of pausing his own robots in mid-step. After reading the script, someone should have turned to Garland with a remote control in their hand and said, “OK, now write a version that makes sense in a universe that contains this technology.”

 

 ンターステラー』クリストファー・ノーラン監督・ノーラン兄弟脚本)はミニシアター系映画に分類されないでしょうけど、しかし商業的なプレッシャーから運命づけられた破滅と直面しているようには見えず、ミニシアター系のように独り立ちした作品のように思えます。ノーランはすくなくとも野心的な映画を提供することにおいて相当な権力を掌握しており、制作会社のエグゼクティブがかれの曇りなきヴィジョンを不細工にねじまげるとは信じがたい。

 つまり、もし『インターステラー』が理にかなっていないとすれば、それはノーラン自身が理にかなわない物語を気にしなかったからなわけです。

 Christopher Nolan’s Interstellar (co-written with his brother Jonathan) doesn’t fall into the art-house category, but nor on the face of it does it seem to have been predestined for ruin by commercial pressures alone. Nolan wields considerable clout, and given that he was able to make such a potentially ambitious film at all, it’s hard to believe that studio executives took his pristine vision and bent it out of shape. In the end, if it doesn’t make sense that can only be because Nolan himself didn’t care that it doesn’t make sense.

 今作の科学的妥当性について、たしかに映画の科学アドバイザーをつとめたキップ・ソーンへ高い期待をいだいていました。キップ・ソーンの一般相対性理論(general relativity)の知識にくらべれば、わたしの脳全部なんてかれの爪の垢みたいなものです*19

 嗚呼、『インターステラー』のプロットの一般相対論に起因する面は多くがとっちらかっており、映画の関連書籍はスクリーンに映されたクラックについて膨大な脚注をつける必要があります。

 劇中のすべての物理現象を前向きに受け入れられる観客でさえ、ほとんどの展開は信じられないものでしょう。

 On matters of scientific plausibility, I certainly held high hopes for a movie whose science adviser, Kip Thorne, has more knowledge of general relativity in his toe-nail clippings than I have in my entire brain. Alas, many of the GR-driven aspects of Interstellar’s plot are a mess, requiring numerous footnotes relegated to a companion book to paper over the cracks in what’s shown on-screen. But even for viewers willing to take all the physics on trust, very little that remains is believable.

 人類を絶滅から救うミッションにおいて、インターステラーの登場人物は限りない(boundlessly)無能でかえって人間的な欠陥がありません。時間の重圧が映画のプロットに一定量の端折りを正当化し、われわれ観客がドタバタ喜劇(スラップスティックレベルのへまを見せられているあいだも、現実世界のNASAやそれに類する機関は、細かすぎるくらい綿密な計画を立て徹底的なトレーニングに従事しています。

 われらが主人公は宇宙飛行士で、ワームホールを通り抜けることが仕事のひとですけど、ワームホールの口が(円盤ではなくむしろ)球体であるということを、仮死状態からめざめて実物と文字通り向き合ってはじめて学びます*20

 宇宙飛行士たちは巨大に波打つ惑星へ降り立ち、巨大に波打つことへただただ驚きます。なぜなら(なぜだか)彼らは惑星に関して充分なモデリングをしておらず、さもなければ遠隔監視もしてなくて、そんなことが起こるなんてまったく予期していなかったので。

 On a mission to rescue humanity from extinction, Interstellar’s characters are not so much humanly flawed as boundlessly incompetent. In the real world, NASA and similar agencies engage in meticulous planning and exhaustive training, and while time pressures in the movie’s plot could justify a certain amount of corner-cutting, what we see is slapstick-level bumbling. Our pilot hero, whose job is to fly through a wormhole, learns for the first time that the mouths of wormholes are spherical (rather than disks) only when he wakes from suspended animation and is on the verge of confronting the thing itself. People land on a planet with giant tides, only to be surprised by the giant tides, because (somehow) they were unable to do enough modelling, or remote observation, to know exactly what to expect.

 こういった具合に後退する知性が一般的である(general ineptitude)劇中背景にあらがって、ある科学者は「愛は時間にも空間にも制限されない(unbounded)」との突拍子もない確信を宣言*21し、のちの荒唐無稽で奇妙な展開を合法化する予示をしてみせ。また別の科学者は都合がよいことに気が狂って、そして、様々なばかばかしいやらかしをして脚本家の選んだ軌道に沿ってプロットを促進させます。

 Against this background of general ineptitude, one scientist declares her unlikely conviction that love is unbounded by space and time, in order to foreshadow and legitimise a later preposterous conceit, while another goes conveniently insane and does various ridiculous things to propel the plot along the writers’ chosen trajectory.

 インターステラーの正真正銘に痛切な瞬間は、相対論から導かれる時間の遅れによって「わが子の人生にたいして、おれはいかなる役割も演じる機会を奪われてしまったんだ」と主人公である宇宙飛行士が気づいてしまったシーンで、そして正真正銘に豪胆な瞬間はブラックホールへ遭えなく落ちてしまうシーンです。

 けれどわたしの記憶に永遠に刻まれる映画体験は、不信の停止(観客を創作世界へ没入させること)に大失敗しているシーンに直面したことでしょう。宇宙服を着たふたりが氷の世界で格闘しているあの時間。わたしが学生演劇の一部に期待していたものよりも、彼らの会話ははるかにひどく、その動機だってはるかにもっともらしくないことに気づいてしまったあのシーンのことになるでしょう。

 There are moments of genuine poignancy in Interstellar, such as the pilot’s realisation that time dilation has robbed him of a chance to play any further role in his children’s lives, and moments of genuine audacity involving a fall into a black hole. But my enduring memory of the experience will be of suffering a total failure of suspension of disbelief while watching two space-suit-clad figures fighting on a world of ice, and realising that they had far worse dialogue, and far less plausible motivation, than I would have expected from a piece of student theatre.

2015年6月8日

 8 June 2015

 

 

読んだ感想

 ということで、『君の名は。』に対するツイートはもうとんでもない高評価でしたね。すごいことですねほんと……。

 

 HTMLという媒体を活かした鮮やかなフリップ芸;『Avatar Review』

 Avatar Review』は、既存の作品と比較するさい外挿法が持ち出されたりと妙な思考が光りつつも、一見するとなんてことはないエッセイですが。

 夏の暑さにはじまったエッセイが白昼夢で〆くくられる枠物語めいた構成といい、語り口のうえでも氏の創作にみられる理路だった思考がうかがえます。

 『アバターにおけるありとあらゆる批判点のなかでも、なかなか取り上げるひとのいない異星人ナヴィの歯の完璧さに着目したイーガン氏。(少なくともぼくは、このエッセイ以外にこれを指摘したものを知りません)

 氏が代わりにオススメした2作は、どちらも劇中世界のつくりこみが口や歯に至るまで創意のいきとどいた作品で。(※)

 そして(ネタを自分で解説こそなされていませんが)エッセイ原文で唯一リンクが張られた『もののけ姫』にかんするウィキペディアのページを開くと、口元にべったり血をしたたらせた異文化の少女がこちらをにらむメインポスターがお目見えする……そんなページめくり芸・フリップ芸めいた部分があるあたりエッセイ公開当時の版でもそのページ構成は変わらないようです(昔のページなので画像はリンクが切れてしまっていますが)}

「ぜったいコレ狙ってやってますよねイーガン先生!?」

 とぼくは思うわけです。

 余技だろうエッセイでもこれですから、イーガン氏は自作において更にモチーフをコントロールしていることでしょう。

 氏の創作を再読したくなりました。

 

{※

結局は 歯が決め手なんだ

   ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン販売、『パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち』2枚組blu-rayの特典ボーナスディスク所収『メイキング・オブ・『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』』0:21:04、「衣装とメイク」より。ゴア・ヴァービンスキー監督の言

 PotCシリーズ第一作イレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち』のメイキングでゴア・ヴァービンスキー監督はそう述べます。

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 PotCシリーズではならず者であれば主役端役とわず老若男女・子役でさえもプラスチック製の入れ歯をつけ、その上に絵筆を走らせウェザリング施されています。*22

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 ののけ姫』は、たとえば主人公アシタカをもてなし直接的・間接的にご飯を食べさせてくれる3者を例に挙げれば、山犬の姫サンは、彼女の家族であるもののけの傷跡をみずからの口で舐めて治療したために口元を真っ赤な血で乱雑に汚し染め、犬神と一緒にアシタカをにらみつけてきますし。

 タタラ場の女主人エボシの口元は高価な口紅の赤で綺麗に縁どられ、彼女に付き従うゴンザがアシタカをにらみつけるのをよそにアシタカへ涼しい目であしらいます。

 赤い頭巾の米売りの女にアシタカが渡した砂金*23の真贋をたしかめ「銭がいいなら代金はワシが払おう。代わりにこれをゆずってくれ!」と口をひらいたジコ坊は、はたして歯がぬけているのか不揃いなのか*24ガタガタの歯並びをのぞかせています。

「本当だったらね、あの頃、赤い口紅なんて貴重だから――そうでもないかもしれないけど――キリッとして、黒いもの羽織ってなびかせていく女性(笑)」

   もののけ姫』エボシの色見本について、色彩設計保田道世さんの言{ウォルト ディズニー スタジオ ホームエンターテイメント発売(ジブリがいっぱいコレクション)、『「もののけ姫」はこうして生まれた。』disc1・0:22:02~「第1章 紙の上のドラマ」企画と構想 遥かな道のりより}

 色彩設計をつとめた保田道世さんは、6時間40分に及ぶドキュメンタリ『「ののけ姫」はこうして生まれた。』のなかで、エボシの装いについてそう述べます。エボシは『もののけ姫』で1人か2人しかいない口紅をつけたキャラ*25

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 『「もののけ姫」はこうして生まれた。』disc1・0:22:25に登場する色見本を見ると、エボシの口紅について上書きされたものが見え、一度きまった色を再検討した痕跡がうかがえます

 

  これが面白かったかたはこちらもオススメ;小川哲著『伊藤計劃フィリップ・K・ディック

 これをもっと分かりやすくやれば、時代はくだって小川哲氏が『kotoba2018春号』掲載藤計劃とフィリップ・K・ディックでカマしたことになるでしょう。

 映画『ブレードランナー』の都市描写と、原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を手がけたP・K・ディック氏の文章と、そしてウィリアム・ギブスンの小説の文章とを比較したうえで、さらに自作の映画化が公開間近だった伊藤計劃氏の小説の文章をならべて、創作における描写の傾向をおおきく2タイプに分けて端的ながら詳細に検討してみせたエッセイですね。

 「伊藤計劃フィリップ・K・ディック」を小川氏はマサカリかついだ金太郎の原文といま一般に流布しているビジュアルをめぐるお話から書き出します。

 なぜこんな書き出しをしたのか?

 小川氏は文字としては一言もふれることなく、しかし一目瞭然の事実を最後に提示してエッセイを終えます。

 

 これぞ罵倒芸『No Intelligence Required Her, Ex Machina and Interstellar

 No Intelligence Required Her, Ex Machina and Interstellarは、芸としての罵倒とはこういうものか、と感動しました。

 書き出しをふりかえってみましょう。

 うして現代のSF映画はほぼ全ての作品が救いがたいほど愚かでしょうか?

 Why is almost every contemporary science fiction movie irredeemably stupid?

   グレッグ・イーガン『No Intelligence Required Her, Ex Machina and Interstellar

 冒頭で/ガツンと最悪のことを言い切る

 これこそまさしく罵倒芸という語り口です。これですよこれ。

 や、どちらか一方はできるんですよ? 冒頭で「つまんなかった」と言うとか、文句を言っているうちにヒートアップして筆が走るとか。

 でも両方は意外となかなかできません。

 そうしてこの抜群のツカミで読者の負の好奇心で牽引されたさきは……

「まだ存在しない完ぺきな人工知能などを扱いたいっぽいけど、作り手の脳内にはそこらに転がってるリモコンさえ存在してないな!超訳

とか、

「一般相対論による宇宙の神秘や壮大なスケールの時間SFとかを扱いたいっぽいな、たしかに無限や永遠を感じたよ! 登場人物の限りない無能さ具合とか、あの学生演劇の最悪なものよりひっどい氷上格闘シーンにな!超訳

 ……とか、期待をはるかに上回るものが待っている。これですよこれ!

 かつてイーガン氏は自分の名前でググると別人の写真がでてくるGoogle検索エンジンのずさんさに愚痴をたれていましたが、ぼくはこのエッセイを読んでいると昔なつかし「まさに外道」赤さんを氏の顔として思い浮かべてしまいますよ。

 

  (脱線;ぼくは4作ともふつうに楽しんだ)

 言い切るのってものすごく大変で、イーガン氏が酷評する4作とも世間の評判はかなり高い*26し、ぼく自身も楽しみました。そりゃあ100%大賛成~最高~~ってワケじゃないですよ? でもそんなん世の中のほぼすべての事柄がそうでしょう。

 まず基本的なことから始めます。映画とはそもそも何を描いているものなのでしょうか? 一般によく言われるのは「物語を描く」ということ。それから、もう少し高級になると「人間を描いている」という言い方もありますね。黒澤明は映画で人間を深く描く巨匠だ、なんて言われています。

 そのことはもちろんある程度その通りです。しかし、映画で描かれているのはそれだけでしょうか。たとえばみなさんはこんなエピソードを聞いたことはありませんか? 黒澤明の撮影現場で、黒沢監督が空の雲のかたちが気に入るまでねばりにねばって、数日間カメラが回らなかった……とか。あるいは、ある巨匠と言われる別の監督がロケの最中、遠くに立っている電柱が気に入らなかったので、スタッフに切れと命令した……。(略)

 つまり、映画で描かれているものは物語や人間だけではない。映画監督はそれ以外のものも必死でカメラに収めようとしている。黒澤明は彼が最も満足できる最高の雲のかたちを追い求めたのでしょうし、また別の巨匠は、きっと素晴らしい風景にめぐりあってそれをカメラで撮ろうとしたけれども、遠くの電柱がどうしても気に入らなくて、あれさえなければ満点なのにと悔しがって、ついつい「あれを切ってこい」と叫んだのだろうと思われます。

   boid刊、黒沢清『黒沢清、21世紀の映画を語る』kindle版26%(位置No.3636中 916)、「講演 映画とロケ場所について」映画とロケ場所との微妙な関係より(略、太字強調は引用者による)

ところが係の方に案内されて施設の内部に入ったとたん、そのあまりの広さに唖然としたのですが、次の瞬間ピンとひらめいたのです。この物語に出てくる警察署は古びていてがらんとした空洞のような場所なのだろう。それはずばり主人公の心のなかを表している。虚ろで過去の記憶が混沌となってしまった主人公の心、それが物語上の大きなテーマでした。そして、刑事である彼が毎日働いている警察署そのものも、彼の心と同じようにだだっ広く空虚な空間なのだ……このロケ場所を見た瞬間、やっと自分が撮るべき映画はどういうものかがわかったのです。

   boid刊、黒沢清『黒沢清、21世紀の映画を語る』kindle版28%(位置No.3636中 982)、「講演 映画とロケ場所について」映画とロケ場所との微妙な関係より(太字強調は引用者による)

 現代日本映画の巨匠・黒沢清さんは、(映画とロケ場所というトピックのなかで)映画についてそう語ります。

 清氏の話を引いたうえで以下のような話をするのは違うかもしれませんが、ぼくにとって「観てよかったな~」と思える画や音がどの作品にもありました。

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 バター』('09)で主人公らを魅了した、異星パンドラの動植物の、色相的にも幅広くカラフルで、彩度明度ともに高いヴィヴィッドな光景や。空にふしぎな材質の島が浮遊し、大小いくつもの月がのぞく広大な景観(と――「流麗でバレエfluid and balletic」みたいだとイーガン氏も述べるとおり――その雄大な空間を異星の飛行生物で自由に飛び回って眺めていくカメラワーク)。

 これらが物語の後半、べつの地球人の現実的で無骨な兵器によって、灰色をベースとしたモノトーンに近い色彩に変えられたり、兵器の攻撃をうけ傾き重力に従い倒れ行く巨木や粉塵が空をふさいだりすることで生み出された、(カラフル⇒モノクロだとか、だとか広大&開放感⇒閉塞&圧迫感だとか、飛行生物のえがく演舞のような軌道⇒直線的に走るミサイルや重力落下の無骨な軌道……という)大きなコントラストは、観客(であるぼく)をも魅了しました。

 3D上映で観ればそのコントラストはさらに際立っていて、とくに煙の表現を観たからこそぼくは3D映画フェチになった部分があります。

 煙が被写体を視覚的に出し入れするための一種のヴェールとしてではなく、空間いっぱいに粒子というモノが充満して場を占領する"息苦しい""物質の集合"として感じられ、そしてそれがきちんと機能しているのは、3D上映とそれを活かした『アバター』の演出力ならではのものです。

 前監督作イタニック』('97)で映画のなかの船に大量の水を充満させて役者に文字どおり息詰まるサバイバルをさせたキャメロン氏は、3D上映をもちいてその表現をより深化させました。塔が倒壊しそして居合わせた人々の呼吸器系へ多大な被害を与えた「9.11」の空気を映画館に充満させて今度は観客の息を詰まらせます。

 『アバター』の息詰まる煙・戦場は、朝鮮戦争下の50年代にそれを題材・舞台にして撮影された3D上映映画Cease Fire』('53)の煙・戦場とはまったく異なる表現であり、おなじく50年代の3D上映映画アマゾンの半魚人』('54)の水中の――カメラ近くに置かれた海藻や、水中を漂う気泡やプランクトンの類が目にわずらわしく、入射された日の光の光線が目にささる――あの表現に通じつつも(その意味では温故知新の感もありますが)、より自覚的に遠/近・開放/圧迫感をつかいわけた洗練が見えます。

 『アバター』の続編もたのしみで仕方ありませんよぼくは!

 

 『her』エクス・マキナも、身振りやカメラワーク、小道具はもちろんのこと大規模なCGや実写舞台・セットまでもが対比変奏に組み込まれた、きっちり文脈だてられた映像展開が楽しめる作品で、撮影にはいるまえ脚本段階から入念に準備してなければ到底できないであろう練られた作品だとぼくは思います。

 インターステラーも、正直「ここまで長くなくても良いなぁ」と思ったりもするんですけど(笑)好きな作品で、先日もいちから社の運営するバーチャルYoutuber団体にじさんじに所属する歌うまvtuberメリッサ・キンレンカさんの同時視聴配信をクリックして、ノーラン氏が本題を言うための前フリとして話題にした父子のディスコミュニケーション/ビデオレターのやりとりを見ながらじしんがvtuber活動する前後の人間関係へと思いを馳せるメリーにしみじみしてしまいましたね……。

 

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「猫の死体で首を絞めて!」

「えぇ!?」

「ベッドの横にある猫の死体でぇ首を絞めてぇ!」

「……」

   スパイク・ジョーンズ監督『her/世界で一つの彼女』0:08:56~、伊藤美穂さん翻訳による吹替えセリフより

 代筆仕事を音声筆記するさまに対して固定したカメラで1分以上長回しする第一ショットや、序盤で暗闇でテレフォンセックスするも相手の要望にうまく応えられず苦悶する主人公トゥオンブリーの顔のアップが印象的なer/世界でひとつの彼女』は、暗く閉塞した自室から抜け出して、開放的な光ある世界へ飛び出す大きなコントラストが魅力的な作品です。経済成長いちじるしい上海でロケされた*27劇中未来のロサンジェルスの景観が物語に密接にからみあってすばらしい。

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 スケジュールはとてもタイトでしたが、幸運にもわたしが最初に提案したコンセプトをクライアントはすぐ気に入ってくれました:不定形の塊から数百枚にスライスされた、デジタルブーリアン演算の減算により形成された洞窟というコンセプトを。

The schedule was very tight and fortunately they liked immediately one of the first concepts I proposed to them: a caved space formed from of a digital Boolean subtraction of hundreds of slices from an amorphic blob.

   dezeen掲載、Rose Etherington著「Zebar by 3Gatti Architecture Studio」3Gatti ArchitectureStudioからの情報より

超都市はそこで情報密度が雲のように立ちこめる場となる。無定形で、うごめいている。荘子のいう混沌は、今日の上海だったといえるのではないか。

(略)

hybrid化のdesignを達成するために、人間の勝手な作為を排除する二種類のalgorithmが用いられた。漢字の構成原理と、computerの演算systemである。(略)いわば、文化が自生して展開していくときにみえる自然の生成に近い方法である。

   エーディーエー・エディタ・トーキョー刊、『GA JAPAN 126(2014年1~2月号)』p.68~70磯崎新著「上海の混沌・ヒマラヤのハイブリッド」(略は引用者による)

 トゥオンブリーが自室でたのしむ3Dホログラム出力の最新ゲームは、劇中現実の都市の有機的で不定形な建築群{上海・楊浦区にある3GATTI Architecture Studio設計のZebarや、磯崎新さんの設計した証大ヒマラヤセンター(撮影された場所は『Pen Online』青野尚子さん「驚異の上海建築2-磯崎新」がわかりやすい)}と相似して、出口をもとめて洞窟のような閉塞をさまよい歩くトゥオンブリを補足します。

 孤独な日々をおくった主人公のトゥオンブリーは、ある日ハイテクAIのアプリ販売現場に行きます(0:10:49)
 ロケ地は証大ヒマラヤセンターで、ふたつある内の左側のアーチのさき、両脇にモニタをならべた空間が販売場。そうしてサマンサの内蔵されたアプリとトゥオンブリーは出会いました。

「左のトンネルが残ってる」0:19:25
 ハイテクAIサマンサにより公私が上向いてきたトゥオンブリーは、彼女のアドバイスによって、自室いっぱいに広がる3Dホログラムによる最新ゲームを進展させます。
 堂々巡りをしていた局面は、両脇に鏡面がならんだ洞窟です。
 トンネルの向こうで出会った新キャラクターの語彙をオウム返しして会話のキャッチボールを交わすと、
ついて来い クソ頭」と更なる新天地へ誘われることになる。(0:20:07)

 サマンサから後押しされてトゥオンブリーは、旧友から紹介された(さきほどのゲーム中にそのメールが届きました)ハーバード大卒の女性とデートへ行きます。(0:32:13)
 場所はZebar、前述のとおり洞窟がコンセプトの建築です。
 ふたりはそれぞれを動物にたとえ合い会話を弾ませ〔「あなた子犬みたいね」→「いやぼくはドラゴンだ」 「君は虎」→「がう!」{冒頭のテレフォンセックスのアカウント名("セクシー・キトゥン"と"ビッグ・ガイ")を連想させるくだりだ}〕、外に出て事におよびますが、一旦えろいことを止めて投げかけられた彼女からの質問に、トゥオンブリーは彼女の望むような答えを返せません。
「いいえ 来ないで0:36:07と彼女は画面左へと去ってしまいます。

 

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「僕は 一生で味わう感情を味わってしまい――新しい感情はもう湧かないかもと」(0:38:19)
思っていたけどそうではなかった……そう語るトゥオンブリーの脳裏には、花火を右手にもって笑顔で時計回りに回転する在りし日の姿が想起されています。
 思い出話をするすこしまえ、サマンサに促されながら夜の遊園地をぶらつく現在のトゥオンブリーは、携帯を右手にもって笑顔で時計回りに回転しています。(0:29:24)
 上述シーン以外にも、サマンサとの日々にはくるくる回るものがたびたび登場します。
 サマンサと最初に会話した翌朝(0:15:35)の空撮ショットはゆるやかに時計回りしており(ただしBGM自体は悲しい時に聞く曲が流れている)、サマンサがトゥオンブリーの仕事を手伝うさいも劇中パソコンモニタ上の手紙がそれぞれ時計回りし(0:16:10)、「起きて起きて!」とうながされて笑顔で仕事をするところでもオフィスのカラフルな飾りが回転するさまが映され(0:28:43 ただし反時計回り)、サマンサに誘われビーチへデートへ行ったさいも、カラフルな風車が時計回りにくるくると回っています(0:48:21)

 そして彼女との逢瀬は浮遊感もただよいます。サマンサとの対話のあとは都市のスカイラインをただようショットがたびたび登場し、トゥオンブリーは彼女に促されるまま町でくるくる回ったり見晴らしのよい山の上へ行ったり、これだけ足を使っているのにそれらのシーンで足音は聞こえず(聞こえたとしても、ビーチへつづく地下通路でのシーンのように、トゥオンブリーが劇中現実で聞くリズミカルな音楽になじんでいて軽やかに響き)疲労とは無縁の心地よさだけがただよいます。

 きわめつけはサマンサとの関係がひとつのピークをむかえる情事の夜。このシーンは真っ黒な画面にサマンサの声だけがひびくというもので、冒頭の現実の女性とのシーンで感じた圧迫感はありません。星のない夜空――宇宙のはじまり――を浮遊しているようでもあります(し、とらえようによっては暗い閉塞の極致のようでもあり、不穏っちゃ不穏な演出です)

「嘘みたい。あんなくだらないケンカで、8年の夫婦生活が終わっちゃうなんて。

 一緒に帰ってきて途端に言われた、"靴をドアの脇に置け"って。

 彼はそこに置くのが好きなんだけど、私は靴の置き場なんかで指図されたくなかった。それよりソファで少し休みたかったのよ」

   スパイク・ジョーンズ監督『her/世界でひとつの彼女』0:54:00~エイミーのセリフより(伊藤美穂氏翻訳による吹替版)(太字強調は引用者による)

 ここちよく回って浮遊感ただようサマンサとの日々と対照的な、雑音と閉塞……その表現としてとりわけ面白いのが、足音の演出です。

 主人公トゥオンブリーの元彼女であるエイミーの夫婦は帰宅時の靴のことでケンカし破局するのですが、のちにでてくるトゥオンブリーとAIのサマンサが不和になる場面を見てみると、こちらも靴音がノイズとしてひびいている。

 中盤、トゥオンブリーとAIのサマンサが、サマンサが秘密裏に話をすすめていた協力者を仲介することでもっと物理的なセックスをこころみる場面。訪問者がドアを叩く音がけたたましく響き(1:15:14)トゥオンブリーがラッパ飲みし終わった酒瓶を置く音も甲高く響き(1:15:20)、ドアを開閉する音も大きく響く(1:15:57、1:16:03)。ここでは(サマンサにより行動を操作され、じしんもサマンサを模倣する)協力者が歩くたび、室内の床板をハイヒールがつよく鳴らし(1:16:55~)ソファに座らされたトゥオンブリのまえに協力者が立つとき、床へ脱ぎ捨てられたハイヒールの立てる音がそれぞれ耳をつんざきます(1:17:06,08)

 終盤、サマンサがトゥオンブリーの呼びかけに応えず、遅れて返事をしてくれたと思ったらサマンサが自分を置いていろいろ進んでいることが彼女から明かされて驚かされる場面。こちらでは、暗い地下鉄通路(トンネル!)につづく階段で立ち往生・しゃがみこんでしまうトゥオンブリーの耳に、雑踏の足音がおおきく響きます(「アップデートのために私たちは一時停止していたの、"私たち"というのはOSグループよ」との旨を言われた1:44:20~、「以前いっしょに会ったシンクタンクのグループとは違うグループよ」と言われた1:44:34~で、足音は一段と大きくなっていきます。このシーンのいくつかのショットを見れば分かるとおり道行く人は声を発していたりもするようですが、その音は映画には流されません)。 

 

 気が散るものを取り除きました。広告や交通など現代社会に生きる私たちをとりまくノイジーなものを、省くことで「わぁ未来へ踏みだし始めてる」と言えるようなものを。

We took things away that were distracting. We took away noisy signage, traffic, the things that surround us in our current world, and by taking those things away we said, ‘Oh, now we’re beginning to be in the future.’

   THE CREDIT掲載、Bryan Abrams氏による美術監督K.K.バレット氏へのインタビュー『Production Designer K.K. Barrett on Creating Her’s Beautiful Future』より

 ジョーンズと撮影監督のホイテ・ヴァン・ホイテマ(『裏切りのサーカス』などで知られる)は、グリーン・スクリーンに投影された電車の窓の外を再調整する――高層建築の水平線が鉄道に近すぎていやしないかとジョーンズは心配している;ジョーンズ版LAには望ましくないのだ。

Jonze and his cinematographer Hoyte van Hoytema (Tinker Tailor Soldier Spy) readjust the green-screen projection outside the train window—Jonze is concerned that it looks like the railway is passing too close to the high-rises on the horizon; he doesn’t want his version of L.A.

   VULTURE掲載、Mark Harris著『Him and Her: How Spike Jonze Made the Weirdest, Most Timely Romance of the Year』より(翻訳は引用者による

 では外に出ればオールオッケーかというと、そうでもないのが『her』の悩ましいところです。劇中未来のロサンゼルスは、清涼で広々として、歩く人々はケータイを持ち俯くひとはもちろん楽しげな身振りをするひともひとりで歩き(カメラに写らない誰かと通信しているようで)、引っ越したばかりでがらんとしたトゥオンブリーの自室ともつながって、どこか寂しい。

 トゥオンブリーのアパートは、別れて引っ越してきたばかりで梱包をわずかにほどいただけで、まだ真には落ち着いていません。トゥオンブリーは大きくて美しい空間を手に入れたけれど、他人をたのしませるようにはデザインされていません。彼はまだそんなつもりになれないからです。孤独な世界ですね。

Like his apartment, which was a little bit unpacked because he had just come out of a divorce and hadn’t really settled in yet. Even though he’s got this big beautiful space, it’s not designed for entertaining other people because he’s really not ready for that. It’s just a lonely world.

   THE CREDIT掲載、Bryan Abrams氏による美術監督K.K.バレット氏へのインタビュー『Production Designer K.K. Barrett on Creating Her’s Beautiful Future』より

 

 広々と心地よいけど、がらんとどこかさびしいAIとの日々と。狭くて暗くて、時に脅迫的な音が耳をつんざく人とのかかわり……どちらにも立つ瀬がなさそうでありそうでやっぱりないトゥオンブリーの足はどこへ向かうのか? どこかへ辿りつけるものなのか?

 日参アクセス数10~30で、その9割は検索エンジンからというblogで、ASMRや3DVRAVについてああでもないこうでもないと日記をしたためるぼくにとって、トゥオンブリーの歩みは切実にひびきました。

 

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「かれに見られてないと何が起こるか知りたくて」
 クス・マキナ』劇中IT億万長者ネイサンの別荘で暮らすアンドロイドのエヴァは自身の充電をおこなう誘導電流プレートの電気を逆流させることで、別荘のシステムをオーバーロードさせ、停電をおこします。

 エヴァがそうした理由はセリフのうえだと先述引用したような説明がなされ、停電の原因はかれに――ネイサンに――バレることがありません。

 これについてイーガン氏は「一連の停電は原因だってもっともらしくないのに、なおさら信じられないことにネイサンに露見することなく秘密のままだ(a series of power blackouts with an implausible cause that even less plausibly remains a secret)」と酷評しました。

 でもぼくはむしろこここそ『エクス・マキナ』が映画である醍醐味だと感じたんですよね。
{ネイサンの会社で働く若手プログラマーのケイレブは、ネイサンに用意された部屋の監視カメラを偶然起動させたさい、エヴァが壁に手のひらをつけている姿を目撃しますが(0:19:26)、停電はその直後におきたのでした}
 そうして停電のおきた室内は、赤い非常灯が焚かれることとなります。
 別の日、非常灯が映画の画面を赤く染めるなか、エヴァはネイサンの会社でケイレブと秘密の会話をし{、ネイサンは信用ならない男であることや、停電の原因や、彼女が停電を起こした理由など(上で引用したセリフ)}、そしてふたりを隔てるガラスの壁に手のひらをつけます(0:53:27)

 エヴァやネイサンと会話していくうちに、心境に変化がおきたケイレブはある日、部屋に備え付けられたヒゲ剃りを分解し(1:14:16)自傷行為をします。
 赤い血を滴らせた手のひらで監視カメラをなで、画面を赤く染める。(そのさまを、ネイサンの別荘で暮らすメイドのキョウコが目撃する)
 こうした行為をしたとき既にケイレブはネイサンを信用ならない男と認識していて、かれが酒で寝ている(=かれに見られてない)時間帯に秘密の行動をとっています。

 ネイサンの別荘で暮らすメイドのキョウコは、アジア系の容姿のとおり、ネイサンやケイレブに寿司をふるまったりする。
 映画の中盤で赤い刺身に包丁をとおすさまがクローズアップされるキョウコもまた、映画の画面をとある赤で色づけ(1:31:17)、そして何かに手を当てる(1:31:03)存在です。
 はたしてキョウコがどうやってとある赤(1:31:17)をもらしたか?
 はたしてネイサンの頬を右手で撫でて、じぶんのほうを向かせたキョウコ(1:31:03)の心境はどんなものだったのか?
 ……そこにエヴァが停電を起こした理由が、ケイレブが監視カメラをなでた偶然の行動が、ぼくのなかで反射してならないのでした。

 

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 ンターステラー』については、結局フィクションという作り手のさじ加減でどうにでもなる代物を、もっともらしく見せてしまう実景の魅力がすばらしいなと思いました。

 水を吸って瑞々しい緑のトウモロコシ畑に火はつかないと言う周囲に対して、

「おれのモロコシは燃えるんだよ」

 とノーラン監督が言ったと云う逸話*28は有名ですが、『インターステラー』のメイキングを見て驚かされるのが、そもそもこの「THEアメリカの田舎の一軒家!」というトウモロコシ畑がカナダのそれも標高1250mの山風ふく高地のオープンセットだ*29ということです。

 ただの平原に家を建て畑を耕し、現地のひとが誰も育てたことがないトウモロコシを植えて実らせ、そこを車で駆け抜け轍をつくったり燃やしたりという、やり直しのきかない一回性の破壊を惜しげもなく起こしたり、ダストボウルさながらの大砂塵にまみれさせたり……

 あるいは異星描写。

 360見渡すかぎり海だ(けど足がつくくらいの浅い)という惑星を、合成用の青いスクリーンを立てたセットではなく、アイスランドまで行き、そうした光景が拝める現実の土地で撮ってしまう。水陸両用の特殊な車を何台も用意し、クレーンまで用意して、劇中宇宙船の6トンにおよぶ実物大セットを水辺に浮かべて、撮影をしたりする……

 ……ともすれば劇中の光景よりも頭がクラクラする異様な段取りによって、身の回りでは見かけたことないような驚きのスペクタクルをプラクティカルな物質としてどうにかこうにかフィルムに焼きつけてしまうノーラン監督やかれのスタッフの仕事ぶりは、なんともすさまじい限りだと思います。

 

 それは役者さんの佇まいにも言えることで、イーガン氏がけなした「愛は時空間を」云々も、それを唱えるアン・ハサウェイ氏演じるアメリア・ブランド博士の姿は、なんかガンギマって世迷い事をマジに言ってるようにも見えれば、イヤイヤ戯言なのは百も承知でただやけっぱちな自己正当化をしているだけのようにも見える、さまざまなあわいを含んだ異貌で……やっぱりすさまじい限りだと思います。

(現実の宇宙飛行士だって、エドガー・ミッチェル氏のように神秘主義にむかうひともいますしね)

 そしてそれをセリフのうえでは「そんな世迷いごとを」という具合に無表情で否定するマシュー・マコノヒー氏演じる)ジョセフ・クーパーの顔に射し込む光!

 人工重力発生のために回転する宇宙船のちいさな窓から、一方向から射し込むまばゆい光。このシーンのまえ、地球にのこした家族からのビデオメッセージを見ていたさいのクーパーの顔にもおなじ光が瞬いています。

TARS「クーパー、追うのは燃料のムダだ」2:07:59

クーパー「船の回転速度を計算しろ」2:08:01

ブランド「なにをする気?」2:08:08

クーパー「ドッキングだ」2:08:10

   クリストファー・ノーラン監督『インターステラー』2:07:59~{Amazonプライム版で確認されるかたは最初の著作権に関する警告表示ぶん7秒くらいをプラスして下さい}、アンゼたかし氏翻訳による吹替えセリフより 

 極めつけは終盤のドッキングシーン。デブリを千々にバラ撒きながら離れていく母船エンデュランス号、その様子をブランド博士やハイテク鉄塊TARSらが茫然と見つめるなか、操縦桿をあやつり回頭し増速するクーパー。諭すTARSへ「計算しろ」と返すクーパーの顔に、光が射していく――クーパーの奇行へ驚くブランド博士の陰った顔とは対照的に。

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氷河が果てしなく目の前に広がる 自分はちっぽけだ 母なる自然の手のひらにいるようだ

   ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント発売、クリストファー・ノーラン監督『インターステラー』ブルーレイスチールブック仕様2枚組(豪華ブックレット付)、DISC2「ビハインド・ストーリー」-アイスランド・ロケ:ミラー博士の星/マン博士の星マシュー・マコノヒー氏の言

 アイスランドでのロケをクーパー役のマシュー・マコノヒー氏はそう振り返ります。

 未来の荒廃した地球の大砂塵に、異星の巨大な波しぶきに、異星の雲も凍る吹雪に、宇宙の果ての塵に闇にたいして、人は埋もれてどこにいるかもわからないくらい極々ちいさなちっぽけな存在でしかない。

 手を伸ばしたって届かないこともしばしばで、先行きはどんどん曇って見えなくなるばかり。

 それでも、吹きすさぶ砂塵が室内に入る一軒家の2階をひとり見に行った愛娘のもとへ父は駆けつけ、ヘルメットの亀裂から流入した異星の空気に苦しみ助けを求める仲間のもとへブランド博士は駆けつけ、甥と義姉を連れて旅立つべく女は走り、人類の明日のためにクーパーは操船し。そして点いたままだった室内光と窓からの採光が(0:19:38)、ブランドの声を受け起動した宇宙船の光が(1:57:50)、みずから持った発煙筒の光が(1:59:00)、船の頭を振ったがために入った太陽の光が(2:08:02)、かれらに当たる。

 だれかに向かって光に向かって足を手を向けつづける(2:31:42)……そんな作品としてぼくは楽しみました。

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  この評じたいのつらさについて

 記されている各作の批判は具体的で、読んでいて興味深いですが、そうであるがゆえにグサグサくるのでつらくもあります。

 また、批判内容は「こういう性格のキャラ/職種なのにこれをしないのはおかしい」というプロット上の穴を指摘したものが大体で、イーガン氏の才覚が活かされる科学やSF考証などの話題にまで達していないのが別方向につらい。

 『her/世界でひとつの彼女』評でイーガン氏がおこなう……

映画が終わりに向かうにつれ、かれらの関係は、サマンサの莫大な知性のうちのごくごく一部を占めているにすぎないことがわかっていきます。しかしそれがわかったからといって、あの機能不全のロマンティックな関係だけがじしんにとって真に唯一の問題で無二の関心事であるというこの神経質な中流階級の男の泥沼みたいな世界観にわたしたち観客のすべての時間が費やされたという事実は変えようがありません

Towards the end of the film we learn that this relationship is only occupying a microscopic fraction of Samantha’s vast intelligence, but that doesn’t change the fact that we’ve spent all our time mired in the world view of a neurotic middle class man whose only real problems, and only real interest, are his dysfunctional romantic relationships.

   グレッグ・イーガン『No Intelligence Required Her, Ex Machina and Interstellar

 ……との批判は、このエッセイ全体に当てはまるブーメランでしょう。

 この記事を読んでくれたかたに、もし、

「エッセイの後でzzz_zzzzは、"これらのエッセイは、イーガン氏の莫大な知性や知識のごくごく一部を占めるにすぎない"と擁護します。しかしそれが分かったからと言って、しょうもない映画のしょうもない部分がいかにしょうもないか述べることだけが唯一の話題である文章に、わたしたち読者のすべての時間が費やされたという事実は変えようがありません」

 と言われたら、ぼくは返す言葉がありません……。

 

 じゃあイーガン氏のえがく知性やもっともらしさってなにさ? それを達成してこそ得られる作品の良さって?

 ということで、この記事までおんなじことを言われないよう(笑)、実のある話をエッセイの文量以上に費やしていきます。

 グレッグ・イーガン氏の思う知性とは?(あるいは人間らしい愚かしさとは?)

 妥当性ある物語とは何なのか?

 そしてそれを達成して作品に何かよいことあるのかどうか? 氏の実作4作くらいを紹介することで、たしかめてみましょう。

 

  世界の輪郭を自ら掴む切実な手段としての、寄る辺なき中年男のモノローグ;『金庫』(『祈りの海』所収)

{『貸金庫』=早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真編訳)『祈りの海』に所収。(また本作は、電子書籍版の試読版に全編収録されてもいます)}

 ありふれた夢を見た。わたしに名前がある、という夢を。ひとつの名前が、変わることなく、死ぬまで自分のものでありつづける。それがなんという名前なのかはわからないが、そんなことは問題ではない。名前があるとわかれば、それだけでじゅうぶんだ。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版1%{(試読版で8%)位置No.5572中 15(試読版位置No.586中 38)}、「貸金庫」

 朝、目が覚めると、なぜか泣いている。そういうことが、時々ある。

 見ていたはずの夢は、いつも思い出せない。ただ。

 ただ、なにかが消えしまったという感覚だけが、目覚めてからも、長く残る。

 ……ずっとなにかを、誰かを、探している。

   新海誠監督『君の名は。』0:00:53~0:01:27三葉&瀧のモノローグ(漢字や句読点は『君の名は。』Blu-rayコレクターズ・エディション特典「AR台本」アバン2~3を参考にしました)

 『君の名は。』で冒頭から何度かくりかえし唱えられる主人公の切望にも似た書き出しからはじまるグレッグ・イーガン氏の金庫』は、数日ごとに別のだれかに意識が乗り移ってしまう奇妙なひとを主人公とした短編小説です。

 『君の名は。』とちがって乗り移りさきの人物は異変に気づかず、劇中の奇妙な不条理はだれからも見向きもされることなく、主人公を諦観と停滞の夜に沈ませます。物語の大半が主人公の一人称による地の文と半生の回想によって占められ、なんとも静的な雰囲気のただよう作品です。

 

 その意味で今作は、イーガン氏が批判したような『her/世界でひとつだけの彼女』とおなじく、ミドルエイジの男性の泥沼のような世界観に延々つきあわせる作品と言えましょう。

 しかし上映時間90分以上と拘束時間のながい『her』とちがって、本作は短編ですし。また、劇中独自設定下の人生は面白く(主人公の特異体質が発覚するまでの過程からして一筋縄でいかなくて「おお~ナルホドたしかに……」と楽しい。主人公は自分のおかれた境遇がほかの人々とちがってどれだけ奇妙なのかナカナカ気づきません。物心つくまえからそんな生活を送っている主人公にとってしてみれば、これが普通だからです)、そのもようは主人公の回顧というかたちでハイライト的に点描されて端的です。

 主人公が自分の置かれた不条理を訴える相手は親に配偶者にと複数いて、見向きもされない経緯もバリエーションがあり、ページを次へ次へとすすめられます。描かれていくそれぞれのエピソードが、「こんな奇妙に見舞われているひとがどこかにはいるかもしれない」と劇中独自状況をもっともらしく肉付けしていきます。

 

 たとえばきのうまで元気に遊んでいた親友と、次の日とつぜん噛み合わなくなったり。あるいは、まじめな優等生が、ある日突然ハッチャけて妙な冗談を言い、かとおもえば翌日にはまた机にかじりついたり……とか。はたまた、上司から「このまえ渡したアレそろそろ期限だけどどう?」と全く記憶にないことを聞かれ、自分のデスクをあさってみると、たしかに自分の付箋付き書類がしまわれていたり……などなど。

 「そういえばあれってなんだったんだろう?」「そもそも本当にあったことなんだろうか?」「あったらしいが全然わからない」と首をかしげることって、だれしも人生において1日や2日おありなんじゃないでしょうか?

 『貸金庫』の奇想は、そんな日々の実感にうまく馴染んだもっともらしいものです。

 

「あ~なんか良いように言ってるけどそれってさ、SFにありがちな、劇中独自設定の説明に手一杯な、設定集を読まされてる感じの小説未満のシロモノだったりしない? 短編だとなおさらそんな傾向にあるじゃん?」

 とお思いのかたもいらっしゃることでしょう。そう見られる向きもわからなくはない! 正直ぼくも、読んでてそんな風に思わない部分が全くなかったとは申せません……。

 一人称視点の小説って、たまに、読んでてふと我に帰っちゃうときがあったりするじゃないですか、「自分のことを一挙一動こんなにも事細かに説明して、こいつは一体だれにむかって言ってるんだろう?」って。これも一種の、インターステラー評でイーガン氏が言ってた不信の停止の失敗でしょうか。

 今回『貸金庫』を再び開いてみて、ちょっと、そんな疑問がよぎっちゃったんですよね正直。

 

 でもむしろ、説明的だからこそ良いのだと読み進めていくうちに思えていきました。

Q:あなたの文章はキャリアをつうじてどう進化していきましたか? 物語構造、人物造形、哲学、文体などで長年惹かれてきたものはありますか?

Q: How has your own writing evolved over your career? Have you found yourself drawn towards different story structures, character types, philosophies, or writing styles over the years?

グレッグ・イーガン:以前は一人称の小説をつよく好んでいて、宙消失』という長編でさえわたしは一人称・現在形で書きました。その文体にしたのは正当な理由があってのことですが、詳しくはネタバレになるかもしれません。

 一人称小説にはっきりアレルギーを起こすひとは、心理的に不自然だとか不信の停止を妨げるだとかと批判しますが、しかしわたしはどちらの立場にも与しません:まるでじぶんたちの人生を刻一刻と語っているかのように感じられるときも本当にあります。たとえキャラクターがそのとき経験したであろう具合とはちがっていても、物語のできごとを組み立てるための方法としては単純に一番強力だったという場合もありますけど。

Greg Egan: I used to have a strong preference for first-person writing, and one of my novels, Quarantine, was even written in first-person, present tense. There were good reasons for that, but it might be a spoiler to reveal them. Some people are positively allergic to first-person and claim it’s psychologically unrealistic or interferes with suspension of disbelief, but I don’t accept either position: there are times when we really do feel as if we’re narrating our own lives moment by moment, but there are also cases when this is simply the most powerful way to frame the events of a story, even if it’s not how the characters were likely to have experienced them at the time.

    SF Signal掲載、 Andrea Johnson氏によるインタビュー『INTERVIEW: Greg Egan on ORTHOGONAL and Thirty Years of Writing Hard Science Fiction』より

 『貸金庫』の主人公のモノローグは、数日間というみじかいスパンでさまざまな別人へと移りかわるせいで、人生において物質的精神的な経糸をつむぎがたく、停滞と諦観の日々をおくっているかれが、それでもなお、

「自分が送ってきた人生とはなんだったのか?」

「じぶんの生きてきた時空間がどんなものだったのか?」

 と、記憶をたぐりよせ、編み、確たる輪郭をつかもうとする切実な行為なのだ……と、読んでいくうちにひしひしと思えてくるのです。

 主人公が回顧する半生はなかなかにツラい。

 わたしは読むことを学んだ。速読を即座に身につけた――ある本を読みはじめた日に読み終えなかったら、その本を次に手にするのが何週間も何カ月も先になるとわかったからだ。何百という冒険物語を読み、どの物語のヒーローやヒロインにも、毎日をいっしょに送る友だちや兄弟姉妹や、ときにはペットがいた。本を読めば読むほど心が痛んだが、読書をやめることはできなかった。次にひらいた本こそ、こんな文章ではじまるんじゃないかという期待を捨てられなかったからだ。

『ある晴れた朝、少年は目ざめると、今日の自分はなんという名前だろうと思った』

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版4%{(試読版で36%)位置No.5572中 171(試読版位置No.586中 201)}、「貸金庫」

 めまぐるしく人から人へ乗り移る主人公にとって、交友関係はおろか家族関係でさえも日替わりメニューで、太い対人関係が築けないのはもちろんのこと。*30

 たとえばひたすら勉学や研究、趣味にうちこんで自分の世界を築こうにも、高度な知識と経験を必要とする域に進むのはなかなか険しい道のようなのです。

数学を、化学を、物理学を、市の中央図書館で勉強したが、どの科目もちょっとむずかしくなると、がんばって先へ進む意欲は、とてもではないがわかなかった。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版5%{(試読版で44%)位置No.5572中 218(試読版位置No.586中 248)}、「貸金庫」

 『貸金庫』の主人公の状況を考えていくと、それも納得がいきますよね。

 全国共通の指導要綱にもとづく義務教育期間でさえも、今日はあっちの学校のあの授業、明日はこっちの学校のこの授業……とやっていくわけで、継続的な学習カリキュラムはうけられようがありません。

 くわえて、思考も乗り移りさきの脳の器質に影響されてしまうといいますから、高度な知識と知的訓練を必要とする事象の操作にはむずかしい部分が出てきてしまうでしょう。

眠気をもよおすエアコンのうなりだけがきこえる、すずしくて静かな閲覧室で、目の前の単語や方程式がかんたんに意味のわかるものでなくなったとたん、わたしは白昼夢に落ちこむのだった。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版5%{(試読版で45%)位置No.5572中 222(試読版位置No.586中 252)}、「貸金庫」

 落第生だったぼくが「あるある」と、31歳で「すやすや眠るみたくすらすら書けたら」なんて看板かかげたblogをやってる今のぼくが「それな!」と頷きすぎて首がとれるような細部をもりこみながら、イーガン氏は『貸金庫』の語り手の奇妙な半生をつづっていきます。

 

 冒頭・中盤・終盤と表現をすこし変えつつリフレインされる、「じぶんに単一の名前があったなら」「いつしか自分にも名前があるのだと分かったなら」という希望。『貸金庫』においてそのフレーズよりも何度も登場するのは、避けられない眠りにたいする主人公の意識です。

 君の名は。ティーンエイジャーの男女がいだく、「秘密を感覚を共有できる誰か――運命のひとがどこかにいたら/いたのでは」という渇望は、『貸金庫』の39歳の主人公にとって、最早どこにもいないと知っている若気の至りでしかありません。

 子供のころの主人公は、別人に移ってしまうまえにその家庭にある本を読み切ろうとする活力がありました。ハイティーンになれば、容姿端麗な"当たり"の入れ替わりがすこしでも長くつづくよう睡魔に耐えたことだってありました。

 しかし直近に引用したとおり、年かさを重ねていくにつれ日々弾力を失っていって「なにをやろうと無駄だ」という感じだろう諦観がつよくなり、やすやすと眠ってしまうようになってしまう。

{「わたし」だけが自学で得た知識も無いわけではなく、劇中ではそれを発揮する機会だってありますが、手ごたえがあるとは限りません。がんばってこれか……なんて読んでて思っちゃうような、狭くせつない使い道です。

 『貸金庫』の「わたし」は自学で得た統計学的知識・思考を活かして、劇中はじめて入れ替わった新顔の男の本来おこなっている仕事を見事にこなして職場に溶け込んでみせます――どの色の食札をどのお膳に載せればいいか、同僚に訊ねることなく自力解決!(入れ替わり先で給仕仕事を……という点も『君の名は。』との共通点ですが。大都会・東京の華やかなレストランではたらくあちらとは大違いの、ふつうの「名前のある人々」が一日三食無意識のうちにこなしている地味な日常仕事だ)

 序盤、夢にかんするフレーズを過ぎた主人公の現状を見てみましょう。

 目がさめたのは(いつものように)目ざましが鳴る直前で、時計が金切り声をあげようとする瞬間に、手をのばして黙らせることができた。(略)凍てつくほど寒く、あたりは漆黒の闇。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版1%{(試読版で9%)位置No.5572中 18(試読版位置No.586中 41)}、「貸金庫」

 名前のない「わたし」の暗く冷たい孤独な現実と、「わたし」の乗り移り先である"名前のある人々"の明るく温かい賑やかな

 この二つの世界のあいだで「わたし」は揺れ動きながら、じぶん自身の足で、手で、世界の輪郭をなぞり不器用に色づかせます。

{語り手にとって、すてきな夢が見られるベッドは「ぬくぬく*31しており、乗り移りさきと同じ容姿になるようひげを剃って*32髪を整え出社準備をしたさき、乗り移った人がいつも楽しく談笑*33しているだろう職場は換気扇の音などがにぎやか*34な「全面ステンレススチール製で蒸気の立ちこめるキッチン」*35であり、乗り移り先の"名前のある人々"の恋人・配偶者は、「のようにままた」*36くものであり、さらには「安ら」かな「温もりを流れこ」*37ませてくれる人として情のこもった抱擁をしてくれだってする存在です。

 いっぽう、語り手がじぶん自身として居るときはどんな時空間にいるか? さきに引用したとおり凍てつくほど寒い朝であり、「眠気をもよおすエアコンのうなりだけがきこえる、すずしくて静かな閲覧室」であります。語り手が身に着けた統計的知識を発揮することで訪れた精神科の入所者の区域は、「患者たちにとっては無意味で抑圧的に感じられるのかもしれない」「自然のものではない」*38静けさ*39に満ちていて、語り手がひげを剃った*40患者は「重い小荷物をうけとりに来たクーリエそっくり」*41のやりかたで――当然抱きかかえられたことでしょう――車いすにどさっとすわらされモノみたく運ばれるような世界でした

 

 『貸金庫』の語り手「わたし」が5色のペンを買ってきて描くそれは点々とぎこちない不細工なもので、『君の名は。』の少年が霞がかっていく記憶から何とか掬いだせた入れ替わり先の糸守町のスケッチみたく力強いストロークはなく、一目に美しくはないかもしれません。すくなくとも国立新美術館をはじめ全国の美術館で展覧会がひらけるようなものでは、決してない。

 神社の巫女である三葉がその血筋ゆえにか見たオカルトな夢について他者へきっぱり「この目で見たの!」と言い切ったり、『ムー』をたしなむ土建屋の一人息子てっしーがインフラ知識と家の機材をもちいたり、町内放送をおこなう役場員を姉にもつ放送部員さやちん*42が声と校内放送設備をもちいたり……『君の名は。』劇中舞台の少年少女がそれぞれの年若い人生のなかで得た知識や経験を活かして、じぶんたちの故郷の町の輪郭をなぞったような――劇中音楽を手掛けたrad wimpsが映画のために書き下ろし、歌ったような――美しいもがきでは、決してない。

 しかし、『君の名は。』の筆致とおなじく切実で、そして、君の名は。』のもがきとおなじく「わたし」がたどった人生からしか取り出せえない画材をもちいた、「わたし」だけが描きうる独自の光景なのでした。

 けれど聖霊は、部屋いっぱいに響きわたった修道女の歌声がそこから出れば消える(walk away)みたく簡単には、わたしから離れてくれませんでした。毎朝わたしは起きるたびに思い知るのです、ジーザスがわたしのために亡くなったことを、父なる神がわたしを愛していることを、そして何ごとも最善に向かうものであるということを、疑う余地など全くなく。

  But the Holy Spirit wasn’t something you could walk away from as easily as a roomful of singing nuns. I still woke up every morning knowing, beyond all possibility of doubt, that Jesus had died for me, that his Father loved me, and that ultimately everything would turn out right.

   グレッグ・イーガン『Born Again, Briefly』

  キリスト教家庭にうまれ、「"聖霊のバプテスマ"こそが救済に必須なのだ」と信じるカリスマ運動に関わるカトリックの一派にはいった兄をもち、自身も祈りによって神の実在や幸福を実感していたティーン時代についての回想録Born Again, Briefly』で、イーガン氏は信仰していた当時の幸福をそう語ります。長い自問自答のあと信仰から離れた現在の氏は、同エッセイでそれを魅力的なパッケージにたとえます。

 にもかかわらず、数年ほどわたしは結論をくだすのを我慢してきました。

  Nevertheless, I resisted that conclusion for years. 

 取って代わるような弁明は漠然としていて、わたし個人に根付いた解釈への反証とはなりえませんでした。――たとえ誰かがわたしをスキャンして身体的メカニズムについて詳細に指摘したとしても、どんな意味があるというのでしょう? 宗教的喜びは――まさしくそれは他のどんな種類の喜びとも同じように――たしかに身体的な相互関係にありました。神経伝達物質のうえに指を置くこともなしに、一体どうやって聖霊はわたしを慰めてくれるんでしょうか?

 A vague alternative explanation was not a disproof of my original interpretation — and even if someone could have put me in a scanner and pointed out every detail of some physical mechanism, what would that mean? That religious joy — just like every other kind of joy — had certain physical correlates. How was the Holy Spirit supposed to comfort me without laying a finger on my neurotransmitters?

 

 わたしの信仰心にとどめの杭を打ち込んだのがどれだったのかは覚えていません。その疑問はきっとこう要約できそうです:地球上の数多ある宗教のうち、宇宙の真の創造主として崇拝を集めている文化圏に生まれたのか。あるいは、超自然的な存在を呼び出さずとも簡単に説明できる感情面のロールシャッハ・テストを自分の都合よいようにねじまげて解釈していたのか。

  I don’t recall any one thing that finally drove a stake through the heart of my faith. Perhaps it boiled down to a question of which was most likely: that I had been born into a culture that, out of all the many religions on Earth, happened to worship the true creator of the universe, or that I had put my own spin on an emotional Rorschach blot that could easily be explained without invoking anything supernatural at all.

 

 個人的経験を過度に一般化するのは不合理ですが、ごくまれなものとして扱うのも同等にばかげているでしょう。

  It would be absurd to over-generalise from my experience, but equally absurd to treat it as singular.

 もしかすると神経学者はそのうち、わたしが述べたような宗教的修練に関連する特定の心理過程をはっきりつきとめるかもしれませんが、その可能性と同じくらい、そのメカニズムが多様であるということもありえそうだと思います。

 Perhaps neurologists will eventually pin down a particular mechanism associated with the kind of religious practice I’ve described, but to me it seems equally likely that the mechanisms will be diverse. 

 わたしが疑念を抱いているのは、かつてのわたしも含めて大勢の宗教の信者たちの体験した神秘主義的経験の核心が、それを包装するパッケージほどには重要ではないかもしれないということです:宇宙に目的があると信じることは、言い表しがたいほどの恐怖がわたしたちの歴史のなかに、そしてもっと些細なみじめさが日常生活のなかにあるにもかかわらず、終末には何ごとも最善に向かうだろうと約束してくれます。これは強力で魅力的な観念です;いちど掴んでしまったらもう手放すのは難しく、それを抱え続けるための正当化にどんな労もいとわないひとだっていることでしょう。

 What I do suspect I once shared with a great many religious believers is not so much the core of mystical experience as the larger package that was wrapped around it: the belief that the universe has a purpose, and that despite the unspeakable horrors of our history and the smaller miseries of everyday life there is a promise that everything will be put right in the end. This is a powerful and appealing notion; once you have it in your grasp it’s hard to let go, and some of us will go to very great lengths to rationalise holding on to it.

   グレッグ・イーガン『Born Again, Briefly』(太字強調は引用者による)

 ……こうしてようやく『君の名は。』と『貸金庫』との相違点も、イーガン氏が前者をサッカリンと表した意も見えてきそうです。

新海 (略)星を追う子ども』と『言の葉の庭』があって、大成建設のCMをいくつかやって、Z会の『クロスロード』をやって――やっていくなかたで、「励まされた」みたいな意見をもらうことが多くて、自分が歳をとってきたこともあってか、ポジティブな変化を観ている人に与えたいというような気持ちが強くなってきたところに、東宝とこの作品を作ることが決まったんです。(略)

 ただ、実のところぎりぎりまで迷っていました(笑)。でも洋次郎さんの「なんでもないや」(略)(略)あがってきたときに、これでいいんだなと思えました。(略)

 実際の人生はうまくいくことばかりではないと思うし、もしかしたら運命の人ともすれ違いつづけてしまったまま人生が終わってしまうことだってたくさんあると思うんです。それでも「もう少しだけでいい あと少しだけでいい」っていうふうに願う強さみたいなものを持ったあの歌があれば、そこまでラッキーつづきではない自分たちの平凡な人生と、映画で語っている内容を橋渡ししてリンクしてくれるような気がしたんです。あとすこしだけ君に会いたいという解釈なんだとしたら、奇跡を起こしてあげてもいいかなと

   青土社刊、『ユリイカ 2016年9月号』(特集・新海誠――『ほしのこえ』から『君の名は。』へ)p.54~55、中田健太郎氏による新海誠氏へのインタビュー「"かたわれ時"に出逢うもの」より(略・太字強調は引用者による)

  耳に聞こえはいいお題目へ飛びつき安易に安息することを避け、些細な日常を生きていくなかでさえれっきとしてあるみじめさや答えの出ない不可解さから目を背けず、考え続けていく……『貸金庫』は、そんなイーガン氏らしさが詰まった作品なのでした。

 

 新海監督の作品には『秒速5センチメートル』はピンク、『言の葉の庭』は緑、『君の名は。』は青と作品を思わせる色がありますが、「各作品の主となる色」をあらかじめ決めているんですか?

(略。質問者のプロフィール)

 制作の初期から、キーカラーをなんとなく決めていることが多いかもしれません。(略)君の名は。』のメインビジュアルも青ですが、これは川村元気プロデューサーの「夏映画なんだから爽やかに青空にすべき!」というややチャラい意見(笑)を取り入れたものです。でも単純な青空だとつまらないので、雲の色にすこし黄色を混ぜてすこしだけ午後寄りの空にしています。(略)

   東宝株式会社発売、新海誠監督『君の名は。』Blu-rayコレクターズ・エディション封入特典100Pブックレットp.87、「MAKOTO SHINKAI Q&A」より(略は引用者による)

  さて新海監督は自作のキーカラーや『君の名は。』の青についてそんな風に語っていました。『貸金庫』のキーカラーを決めるとしたらどんな色になるのだろう……? そのへんを気にして読むのも楽しい作品だと思います*43

 

  てのひらの水晶のなかで複雑怪奇に加速するAIの世界;『リスタルの夜』(『プランク・ダイヴ』所収)

{『クリスタルの夜』=早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真編・訳)『プランク・ダイヴ』所収。いまのところ紙の本のみの出版}

「キャヴィアをもっとどうかな?」ダニエル・クリフが取り分け皿のほうに手をむけると、不透明な蓋がさっと透きとおった。「新鮮この上なしだよ。うちのシェフが今朝イランから空輸させたんだ」

「いえ、ごちそうさまでした」ジュリー・デイガーニははっきりと意思表示をした。ゴールデンゲートブリッジを一望して喜ぶ大半の招待客とちがって、この女性はダニエルの世間話にいらだちを募らせていた。

 そんな彼女が、別室のウォールスクリーンのコマンドラインインターフェースを見て目の色を変えた。「このビルはペントハウスだけが人間用で、あとは全部、ネットワーク接続されたプロセッサが詰まってでもいるんですか?」

 ダニエルはキイボード裏をうながした。そこには厚さ5ミリで5センチ角のチャコールグレーのモジュールがあった。

「単一の三次元フォトニック結晶。速度を落とさせるような電気回路はどこにも使われていない。構成要素はひとつ残らず光学的なものだ。アーキテクチャーはある手法でナノ加工されたものだが、その手法の詳細まで明かすつもりはない」

「わかりました。これは採用面接なんですか? 仕事の内容を聞かせていただけますか?」

「産婆役だ」

 ジュリーは声をあげて笑った。「なにが生まれるんです?」

「歴史が」

 08年4月初出のリスタルの夜』は、サファイア*44と呼ばれる世界に暮らす「ブルー」と「コーラルピンク」*45の蟹型生命体が鮮烈な印象的な作品です。

 蟹たちはアバターの惑星パンドラの動植物とおなじく鮮やかで、しかも酸性雨の霧中でもそれが目立つ……なんてイーガン氏が「ほぼ完璧に仕上げた最新テクノロジーによる映像は、ほぼ完ぺきであるがゆえに玉に瑕がやけに目につき、遠近や明暗のささいな不備から古典的なプロジェクション合成で役者が芝居しているみたく見えてしまうときがある」と難癖をつけたどころのさわぎではない、まったく不自然で異様な光景が平然と登場します。

 そのおかしさがおかしくないのは、あちらとちがって今作のサファイアが光コンピュータ結晶のなかで演算される人工宇宙であり、蟹たちの色がIT長者ダニエルが計算宇宙内の人工生命体を観察しやすいよう別レイヤーに重ね塗りした属別標識(マーカー)であることに起因します。「よりよい人工生命を選別し進化させて、そしてゆくゆくは史上稀なすごい知性を得られるまでに発展させよう」という感じの野望をいだくダニエルが、どちらを次代に残すか判別しやすいようした色分けがこのブルーとコーラルピンクなのでした。

  『her/世界でひとつの彼女』の設定を「まるでウィンドウズに無料で奴隷が付属してくるみたい」と問題視したイーガン氏らしく、『クリスタルの夜』では冒頭劇中プロジェクトの実行まえから他者から倫理的な批判が入り、それ以降についても、それでも別の協力者をえて計算宇宙の創成をおこなうIT長者の業の深さが描かれていきます。

 『her』のAIが自称したサマンサに文化圏的な偏りを見たイーガン氏の、『クリスタルの夜』の登場人物の名前はダニエル。

 エルサレムなどを攻略し新バビロニアを築いたネブカドネザル2世、かれに連行されたユダヤ人虜囚のひとりダニエルが王の見た夢の解釈など無理難題を解いていく『旧約聖書』の一冊ニエル書」口語訳wikisourceをある意味なぞるかのような事態が展開されていきます。

 

 AI生命体にたいして揺れ動くダニエルの意識の変化や、両者の関係の変遷が興味ぶかい作品で、それにともなう色彩や被写界深度の変化がまたすばらしい。

 調光ガラスのスマート食器が「さっと透きとおっ」*46て、「イランから空輸」*47してきたと云う海の黒い宝石「キャヴィア」*48があらわれる高層ペントハウスの高級ディナーから始まった今作は、ウォールスクリーン上のLINUXコマンドラインインターフェース(黒地に白がふつうでしょうか?>識者)に桁違いのFLOPS数をはじきだす源である「チャコールグレー」*49の謎めいた光コンピュータ結晶をへて、ブルーとコーラルピンクの蟹が戦い、その独特の繁殖器官「ビーズ」*50を交換するバーチャル世界<サファイア>を眺め……と、透明で艶やかで華々しいイメージを膨らませます。

 

 エクス・マキナ劇中のIT億万長者ネイサンが下っ端社員ケイレブをヘリに乗せ招待した別荘美術監督をつとめたマーク・ディグビー氏が『de zeen』Marcus Fairs氏によるインタビューに答えたところによれば、上階はノルウェーJuvet Landscape Hotelやその近くで建造中だった同建築家Jensen & Skodvin Architectsによる邸宅で撮影され、地下は(初期は安藤忠雄さんの作品を収めた素晴らしい本を読んだりしつつ構想を膨らませていった*51英国パインウッドスタジオに建てられたセットだと云います}やそのもてなし料理{キョウコなる召使が赤い刺身を手料理してくれたりします。(ネイサンの別荘はヘリで飛んださきの山中にありますから、この赤い海の幸も『クリスタルの夜』のキャビアと同じく、ヘリで輸送されたにちがいありません)}、そこでケイレブへ見せるAIの頭脳であるハイテクコンピュータの水晶じみた輝きにも劣らぬイメージです。

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 そしてまた、なんともっともらしい配色でしょうか。

 上下左右の白い壁がサッと透明になる全面調光ガラスの展望室"エッジ"を有したオーストラリアの世界一の高層マンションユーレカタワーは2006年オープン。

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 コーラルピンクとブルーの実験生物についても、染色標本でググればピンクと水色に染められた体組織をいくらでも拝むことができますし。また、七色のどんな色にも輝く染料をつかって、生きた細胞などの観察ができるようになった蛍光イメージングの功績がノーベル化学賞で讃えられたのは今作発表と同年2008年のことでした。

 そんな鮮やかな識別処理がなされたAI生物が、生存競争のため生きながらに解剖し合うヴァーチャル世界。それを眺める劇中のひとびとはそこをサファイアと表しましたが、現実の実験が見せる光景もおなじく美しく、たとえばヴィンセント・ピエリボン+デヴィッド・F・グルーバー著るクラゲ 蛍光タンパク質開発物語』は麻酔されたマウスの頭のなかの緑色の蛍光タンパク質でかがやくニューロンを「輝く小さな森」と表します。

 二〇〇四年一一月。ニューヨーク大学医学部のスカーボル研究所五階の暗室で、一人の神経生物学者が脳の内部機能を調べる実験を始めたところである。彼は二光子〔蛍光共焦点走査型〕顕微鏡に向かって座り、顕微鏡の下に静かに横たわっている麻酔された三ヵ月のマウスの頭を見つめている。頭皮に開けられた小さな丸い穴からは乳白色の頭蓋骨が見える。顕微鏡のレンズを徐々に下ろしていくと、脳の表面を覆う血管のぼんやりした像が現れてくる。(略)

 ビデオのモニター画面からのほの暗い光のもとで走査スイッチを入れたとたん、顕微鏡はシャッターの連続音とモーターの回転音を立てて動き出す。(略)瞬時にマウスのニューロンの鮮明で詳細な像が、緑色に光る形となって画面上に現れる。普通のマウスなら、画面には何も見えないはずだが、これは絶滅に瀕したあるクラゲの持つ独特の蛍光タンパクを作るように遺伝的に操作された特殊なマウスなのだ。このたんぱく質ニューロンを満たし、レーザー光線で励起されると明るく輝く。(略)

 この輝く小さな森の奥へ分け入っていくと、生気のない場所が現れる。ねじれて死にかけた枝々がいばらのように絡まり合って、健康な脳の中に埋もれている場所だ。中心には壊死物質が密集した塊がある。(略)アルツハイマー斑〔老人斑〕といわれ、人々を苦しめる最も一般的な脳疾患のひとつの病理学的特徴である【口絵1】

   青土社刊、ヴィンセント・ピエリボン+デヴィッド・F・グルーバー著(滋賀陽子訳)『光るクラゲ 蛍光タンパク質開発物語』p.16~17、「序章」より(略は引用者による)

 

 研究がすすむにつれて『クリスタルの夜』のIT億万長者ダニエルは、本能的な同情や倫理的な迷いを募らせていき、あるとき無視できないほど大きくなります。

 それは「光沢のある黒いモノリスが立っていて、なめらかな黒曜石の表面にできたひび割れから膿が細く流れ出している。だれかが手首をつかんで、ダニエルの手を地面にあいた悪臭を放つ穴に無理矢理突っこませようと」*52する夢となって具体的にあらわれます。

 夢中でダニエルの手首をつかむだれかは、サファイアの進捗を刺激として伝えるダニエルのスマート腕時計からの連想であることが劇中で明示的に言及されます。そのほかについては触れられていませんが、

「ここにチャコールグレー一色の光コンピュータ結晶と、その内部で――酸性雨の霧中で過酷な生存競争をしたりなんだりと――大量死する(ようダニエルが指図した)計算宇宙がかさねられているのだ。クリスタルについて1章でわざわざ印字がないことを記したのがその証拠で、それによりモノリスと相似性をつよめられている」

 と言うことについては、それなりの人がうなづいてくれる妥当な読みじゃないかと思います。

 さらには――こちらは「うがちすぎでは?」「謎本すかw」と首を傾げられそうですけど――海の黒い宝石)キャヴィア料理を囲んでなされたジュリーとの人工生命で恣意的な淘汰を行うことにかんする非難と交渉決裂の影響も見て取れます。

 ジュリーがさしだした手を、ダニエルは握った。ジュリーはいった。「おいしいお料理をごちそうさまでした」

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.19・13~14行目、「クリスタルの夜」1

 ダニエルの手が握られたのは何よりもまずこの時でした。

 

 夢のあとを追いましょう。ダニエルは「コーヒーをすすった」*53り、「あらゆるものが、夜だけのもたらすことのできるうんざりするような明快さで見てとれ」*54る朝の3時に決定的な事実にぶち当たったり……と、かれをとりまく世界は冒頭から一転、チープで苦い黒い世界へとかわってしまいます。

{さきの項でアバター('09)の色彩的空間的なコントラストについて触れましたが、 『アバター』をそのような形で楽しんだかたなら、その前年に発表されたイーガン氏の『クリスタルの夜』も同じように楽しめることでしょう。

(また、さきの項に記したぼくの『アバター』紹介では、911的な破壊描写についても触れました。

「じゃあ、AIに対するビンラディンがいるとして、いったいどうしてあなたのプロジェクトが単に存在するだけで、そいつの計画の実行を阻止することになるの?」*55なんてたとえ話をもちいた皮肉が『クリスタルの夜』にも出てきますが、911を招いたような構図をえがいた作品として2者を比べてみるのも面白いかもしれません)}

 

 会話のトピックをアルファベット順に並べたページを呼び出したダニエルの視線を、Gの項のひとつの見出し語が捕らえた。"Grief(悲嘆)"。リンクをタップして、数分かけてサンプルを通読すると、そこにあるのは、子どもや親や友だちの死に続いて生じるその概念の実例だった。

 ダニエルはまぶたを揉んだ。いまは朝の三時。あらゆるものが、夜だけのもたらすことのできるうんざりするような明快さで見てとれた。ダニエルはルーシェンのほうをむいた。

「これ以上の死はなしだ」

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.33・10~15行目、「クリスタルの夜」3(太字強調は引用者による)

 ある朝、研究室の責任者から、違う仕事を言いつかった。別の大学からやって来て、砂漠に棲む生物の皮膚で起こる化学現象の科学を研究している科学者が、分析の一部をうちの研究室でやるよう手配したのだ。(略)

 わたしはそれまでにも、ロブスターを沸騰したお湯に放り込んだりしたことがあった。でも、だからと言って心が痛むことはほとんどなかったし、その朝の作業がつらいなんて思ってもいなかった。

 わたしは、ブンゼンバーナーに火をつけ、系統発生の下位のほうの生きものから順番に処理していった。まずはコオロギ。ミミズと同じで、沸騰寸前のお湯に触れたとたんにほぼ即死状態だった。問題なし。お次はもうちょい大きな節足動物。じつは、箱が届いてからの数日間で、わたしはサソリをすっかり気に入ってしまっていた。ちょっと威嚇するような雰囲気を漂わせているのがすばらしかった。サソリは昆虫より体が大きく、ビーカーのお湯のなかに落とされても、死ぬまでに少し時間がかかった。それを見たわたしは、いったいなにをやっているんだろうと自問しはじめた。

 トカゲは、縞模様の入ったハシリトカゲ属の若い個体だった。カゴからつまみ上げたとき、わたしは急に気分が悪くなって冷や汗をかきはじめた。そして、トカゲを見ないようにして、沸騰する寸前のお湯に落とした。手がちょっとふるえた。トカゲはすぐには死ななかった。動かなくなるまで、一〇秒くらい暴れただろうか。次の小さなヘビは、大きな黒い目を持つ優美なレーサー(略)だった。さっきよりもっと手がふるえて額に汗がにじんできた。このヘビも暴れたものの、まもなく溶液に浮かぶ分子と化した。

 最後はハツカネズミだった。

   柏書房刊、ハロルド・ハーツォグ著(訳山形浩生&守岡桜&森本正史)『ぼくらはそれでも肉を食う』p.267、「第八章 ネズミの道徳的地位――動物実験の現場から」

 たとえば、マシュー・スカリー(=ジョージ・W・ブッシュ政権で大統領特別顧問を務めた)は著書『支配――人間の力、動物の苦しみ、慈悲の呼びかけ』のなかでこう書いている。「ほとんどとまでは言わないにしても、多くの動物研究者の現実的な想定というのは、その実験対象が意識的な苦痛はおろか、意識的なものはなにひとつ感じない、というものなのだ」。

 スカリーは間違っている。わたしはかつて、動物の意識について書いていた論文のために、ハツカネズミが痛みや苦しみを感じると思うか、動物研究者一四人に尋ねてみたことがある。結果は、痛みについては全員がイエス、苦しみについては一二人がイエスと答えた。イギリスの科学者たちが行った、もっと組織的な調査では、一五五人の動物研究者のうちふたりをのぞく全員が、動物は痛みを感じると答えている。

   柏書房刊、ハロルド・ハーツォグ著(訳山形浩生&守岡桜&森本正史)『ぼくらはそれでも肉を食う』p.272、「第八章 ネズミの道徳的地位――動物実験の現場から」ダーウィンの道徳的遺産

 フィルは、細胞がどうエネルギーを利用しているか、ノックアウトマウスを使って研究するチームに属していた。ノックアウトマウスは、遺伝子操作によって一部の遺伝子のはたらきを止められている。フィルたちのチームは、トランスポーターと呼ばれるタンパク質が、脂肪酸グルコースを筋肉細胞のなかまで運び込み、それを燃料として使っていることを証明するために、トランスポーター遺伝子を不活性化させたノックアウトマウスを使った。研究者たちは、トランスポーターがはたらかなければ、そのハツカネズミは(筋肉の燃料が運ばれないため)通常のハツカネズミより疲労が速くなると予測したわけだ。

 (略)ハツカネズミの疲労度を調べるひとつの方法は、どのくらい長く泳げるかを測ることだ。でも困ったことに、ハツカネズミは毛と毛のあいだに空気をため込むことができるので、そのままだと、プールで浮き輪に乗っている子どもみたいにいつまでたっても水面に浮かんでいられる。(略)この問題を解決するため、ハツカネズミに重りをつけたハーネス(=胴輪)を着せ、水面に顔を出すために泳ぎ続けなくてはいけないようにした。(略)

 フィルは結局、ハツカネズミ一匹しか実験しなかった。彼はこう言った。

「ある時点で、『先が見えた』とハツカネズミが思うのがわかるんですよ。『ああ、もうオレは死ぬのか、もうやめた』と思うのがね。(略)

   柏書房刊、ハロルド・ハーツォグ著(訳山形浩生&守岡桜&森本正史)『ぼくらはそれでも肉を食う』p.273~4、「第八章 ネズミの道徳的地位――動物実験の現場から」ダーウィンの道徳的遺産(太字強調は引用者による)

 くらはそれでも肉を食う』では、研究者が実験動物に同情して最後まで実験をおこなえなかった事例が紹介されていましたが。AI生命が高度に進化すれば、同じような――『クリスタルの夜』のダニエルが抱えたような――問題がきっと発生することでしょう。

 AI生命を苦しませたり殺したくない。

 でもAI生命がもっと進化してほしい……『クリスタルの夜』のダニエルは、そんなジレンマのなかで自分のなかで折り合いを捏ねくりだして、ビーズを取り除いたりなんだりと策を講じます。(=サファイア世界からまたひとつ彩りが失われます)

(「え、繁殖器官を取り除いちゃったらあとは絶滅に向かうだけじゃん!?」とお思いのかたはご明察、ぜひ本編を読んで、入り組んだ思惑を確認してみて下さい)

 個人的感情はどうあれ、仕事はしなければならない。

 前述書『ぼくらはそれでも肉を食う』では、年間当たり250万匹の実験用ハツカネズミを生産するジャクソン研究所も紹介されています。

 そこにはダニエルの頭をよぎったような費用や場所の問題への対策もあれば、用途に応じて色とりどりのバリエーションも用意されたマウスもいるし、ダニエルが蟹へ指示したような、研究目的のため意図的に繁殖器官へ障害を生じさせたマウスもいます――8系統も! (『光るクラゲ開発物語』で引用したアルツハイマーのマウスだって、そうやって意図的に作成されたものです。野生でアルツハイマーのネズミが確認されたことはありません。少子高齢社会が喫緊の課題である日本でも、産総研理研もより良く効率的なアルツハイマーのモデルマウスの開発生産に励んでいます)

クラレンス・リトルが、エドセル・フォード(=自動車王と呼ばれたヘンリー・フォードの息子)の協力を得て一九二九年に創設したこの研究所は、年間二五〇万匹ものハツカネズミ(略)を生産する"ネズミ工場"だ。科学者たちは、四〇〇〇系統以上の実験用ハツカネズミ「ジャックス・マウス」から好きなものを選べるし、要求に合う種類がなければ、ジャクソンの科学者たちが遺伝子操作によって、お好みの仕様の新系統ハツカネズミを作り出してくれる。新たに作るのにはもちろんカネがかかる。新しい系統を開発するには一年かかるし、その費用は一〇万ドルだ。

 ジャクソン研究所は、ほとんどのジャックス・マウスを生きたまま出荷している。でも、場所の制約がある科学者たちには、必要に応じて解凍できるように、瞬間冷凍した胎児を出荷する。ちなみに、ジャックス・マウスの毛色には「薄灰」とか「明るいチンチラ」とか「ガンメタル」といった名前がつけられていて、工具店で見かける落ち着いた色合いのペンキサンプルみたいだ。

 そして、毛色の種類よりももっとすごいのが、ハツカネズミの疾患モデルの多様さだ。まれながんを発症する系統だけでも数百に達し、ほかに顔面変形を起こしやすいもの、生まれつき免疫系機能不全のものもいる。また(略)アルツハイマー、筋委縮性側索硬化症(ALS)といった病気にかかっているものもいる。不妊症の治療に取り組む研究者たちは、生殖器に障がいを持つ八系統のジャックス・マウスのなかから必要な種類を選べばいい。

   柏書房刊、ハロルド・ハーツォグ著(訳山形浩生&守岡桜&森本正史)『ぼくらはそれでも肉を食う』p.281~2、「第八章 ネズミの道徳的地位――動物実験の現場から」宇宙人と障がい児の道徳的地位

 

 策が功を奏してより一層の発展を遂げていくサファイアの世界は、ダニエルが冒頭で言ったように歴史が生まれ育っていくさまを見るようで楽しいですが、充分に発達した世界からはコーラルピンクもブルーもなくなります。

 高度に進歩した生命は、独自言語を話し複雑な概念を話題にするようになり、解読は困難になります。地球のホモ・サピエンスとは別個の文明を築いていくようになりました。そうなればもう、当初のように単純な色分けだっておよばなくなる……というわけです。派手な配色がなくなったかわりに――現実の歴史的出来事から取られたであろうタイトルから予想されるとおり――人類史の暗部みたいな概念が持ち込まれたりして、その意味でも歴史を見ているようでもあります。(ダニエルが思い描いたものかは怪しいですが)

 クリスタルの外では、各地を回るような金策が練られ、(天才と一対一で知的な駆け引きをするようなものではない、ふつうの)契約書にサインし複数名を採用するような合流がなされ、クリスタルの内では「プラネタリウム同様の背景幕」*56にすぎない計算宇宙のハリボテが内部で生きる蟹たちにあばかれつつある。

 5章の就寝間近の夜中すぎの転機のあとの*576章では……

 サンフランシスコ本社の高層ビルの入口前に群がる小規模の抗議者たちを押しのけながら、ダニエルは先へ進んだ。ヘリコプターを使ってもよかったのだが、保安コンサルタントの評価ではこの連中は重大な脅威にはならないとのことだった。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.50・13~15行目、「クリスタルの夜」6

 ……幕開けで景色を一望できる高層で・空輸した食材で食事し・帰る招待客をヘリで送ろうとしたダニエルは、なんとヘリの利用を控えて市民を押しのけ地上を歩くまでになってしまいます。

 ダニエルがスマートガラスをさっと透き通らせて始まり、章末で目当てのものが街の霧サンフランシスコらしい細部!)に消えゆくさまを見つめる*581章*59に明示的なとおり、2章以降も<サファイア>内の酸性雨の霧中(corrosive rain drizzled down from a passing cloud)をハイテクビューアで見通したり、あるいは逆に雑多なデータから意味を取り出したり、はたまた埋もれたり。見えなかったものが見えるようになったり、見えていたものが見えなくなったり、かと思えばまた見えるように……と一進一退、文字どおり暗中模索で地下の研究区画にこもりがちな生活がしばらくつづいたダニエルでしたが、この後ついに光が差すときがきます。その輝かしさといったらもう!

 

  ドキュメンタリーが典型ですけど、映像では原理的に、本当にあったことしか映りません。たとえフィクションとして俳優が演じてはいても、間違いなくその演技は現実に起こっていることです。大ゲサに言えば歴史性ということで、映画は、その時間の断片を組み合わせて面白おかしくお見せするものですが、その上で、これは本当にゴミ袋で人を殴っているんですよ(笑)、という保証があることが重要なんです。小説は、本当は起こらなかったことを起こったかのように書きますが、映画の唯一の強味は、これはかつて本当に起こった、ということなんです。

   新潮社刊、黒沢清著『黒沢清の映画術』p.147、「第三章「プログラムピクチャー」パラダイスの内と外」1 初めての不遇時代

 現代日本映画界の巨匠・黒沢清さんは、映画の強味を説明するさい小説について少し触れます。

 この記事のなかほどで、イーガン氏が批判した4作を楽しんだぼくが、清氏の言を引用しつつその面白味を話したさいに、「清氏の話を引いたうえで以下のような話をするのは違うかもしれませんが」と言ったのはなぜかというと、清氏の考える映画の味って、ぼくが例示した作品の巧みさとは別の観点のことをたぶんに含んでるからなのですね。

 さきに引用した自身の新作(当時)のロケについて、清氏は黒澤明氏など巨匠の撮影時のこだわりになぞらえます。

 「空の雲」や「電柱のない美しい風景」は一回限りのものです。いつ行ってもそこにあるというものではなく、それは、たまたまそのときに出合わないかぎり、絶対にそれをとらえることができない、といったたぐいのものだろうと思われるわけです。別の言い方をしますと、映画のなかに、ただ気に入った空の雲を映したいと思うだけなら、スタジオの書割に好みの雲の絵を描けばいいし、また、監督が頭のなかに描いている美しい風景(つまり余計な電柱など一本もない風景)が撮りたいならば、現在ならそれをCGで作ってしまえばいい。こういった発想をさらに推し進めると、つまり映画はアニメーションでいいということになる。

 しかし、アニメーションと映画は違う。僕が考える映画とは、「気に入った空の雲」や「凄い風景」に一回かぎりたまたま出合って、その瞬間をすかさずカメラに収めることから成立している表現のことです。

 たとえば僕が新作でも使わせていただいた藤沢の県立体育センター。あれは最初から僕の頭のなかにあったイメージにぴったりだったから使わせていただいたのではなく、ただ簡単に許可をいただけたから使わせていただいたのでもありません。撮影前にいろいろな場所をロケハンして回り、あるとき、ばったりと体育センターにめぐりあって、「あ、ここだ!」と直感的に確信した場所なのです。つまりこの体育センターとの出合いには、大げさに言えば黒澤明が「空の雲」のために三日間待ったのと同じ原理が流れているということです。

   boid刊、黒沢清『黒沢清、21世紀の映画を語る』kindle版27%(位置No.3636中 931)、「講演 映画とロケ場所について」映画とロケ場所との微妙な関係より

 名作映画が、カメラを回しつづけてたしかに現実世界にあらわれてしまった(異様だが)決定的な光景をフィルムに――そして観客に「立ち会ってしまった」と強烈な実感を焼きこむように。

 イーガン氏の小説は、理にかなったもっともらしい世界を展開しつづけることで、そんな光景を読者の脳に焼きこもうとしているのではないか? ……そんなふうにぼくには思えます。

 黒沢氏はまた、窓や扉の映画での機能について語るときも同様に、小説とのちがいをすこし言及します。

黒沢 この作品に限らず、僕の映画にはたびたび窓や扉がよく出てきます。どなたも想像がつくような当たり前のことですが、窓というのは室内から外につながる場所です。室内で物語が進行していきつつも、「いや、外もありますよ」と言うように、パンッと窓が開いて風が入ってくる。あるいは、スーッとカメラが窓のほうに向くと外に何かが映っている。「外はこうなっていたのだ」ということがわかるだけで、映画というのはなぜか「次に何かが起きるだろう」という期待を抱かせる。室内でなにか停滞しているようなときも、窓から風が吹き込んできただけで、それまでの退屈が一気に吹き飛ぶこともある。窓はそういった外とのつながりを直接あらわす、映画にとってすごく興味深い素材なのです。
 これはすごく映画的な現象です。演劇では起こらないと思います。窓から風を入れるという表現はできたとしても、「外という現実」を実感させるまでには至らないでしょう。小説においても書くことはできるが、映画ほどの効果はない。アニメーションでこのような表現は可能なのかしら。宮崎駿さんも風をものすごく熱心に表現しています。たしかにパッと窓を開けて、ワァーと風が入ってきてカーテンが揺れるという表現をアニメでも見ますが、実写ほどの効果はないのではないか。実写映画においては窓の先にはあきらかに外がある。窓の外に突然に何かが現れるというのは、実写による映像が得意とする表現だと思っています。

   多摩美術大学藝術学科(2019年9月27日)掲載、【活動報告】「21世紀文化論」講演:黒沢清(映画監督) 「シネマ、辺境への旅――『旅のおわり世界のはじまり』公開記念レクチャー」

 映画では、窓や扉の向こうからこちらへ風など何かを行き来させることで「外という現実」を受け手に実感させられるけど、小説やアニメなど作り手が白紙の上になんでも好きに書けるメディアでは有効ではない。

 イーガン氏の小説で、最新科学が明らかにしつつある知見や人為の及ばない宇宙の法則や数理の世界などなどが題材にされるのは、小説というメディアで「外という現実」を扱うひとつの回答なのではないか……。

 『クリスタルの夜』終盤に差し込む光は「え?」とあっけにとられるけれど、「でもたしかにここまでの流れをふまえればそうなるな……」とうなづく以外にないもので、ぼくはそこに黒沢清映画でとつぜん人々が暴力に走ってじっさいに誰かが暴力に見舞われるのを目撃してしまったときと同じような感触をいだきます。そして同時に、『もののけ姫』以降に顕著な宮崎駿作品の叙事詩的な展開へも。『もののけ姫』制作中の宮崎駿監督らに密着取材した6時間40分のドキュメンタリ『「ののけ姫」はこうして生まれた。』を再生しましょう。

浦谷年良(『もののけ姫』という一本の映画でとりあつかうには)問題がたくさん入りすぎてて、逆にハラハラしますね(笑)」

宮崎駿ようするに解決不能な問題ですよね。それを解決可能な問題に限定して、とりあえずその課題をクリアするってことで映画をつくってましたから。"それが映画の枠内だ"って思ってたけど。それをやると、現代にぼくらがぶつかってる問題とは拮抗しない、っていう結論が出ざるをえないから。解決可能な課題じゃない、解決不能な課題をつくるっていうね。ひひひ(笑) これは胃によくないですね(笑)

 解決可能(な課題)で映画をつくってるやつを見るとね、"能天気め"と思うと同時にうらやましいですよ」

   ウォルト ディズニー スタジオ ホームエンターテイメント発売(ジブリがいっぱいコレクション)、『「もののけ姫」はこうして生まれた。』disc1・0:42:54~「第1章 紙の上のドラマ」宮崎駿の創造回路 時代の風を読むより(文字起こしは引用者による)

   宮崎氏の発言を聞くと、イーガン氏が『もののけ姫』を推した理由も見えてくるような気がします。イーガン氏はかつてグランド・テーマを訊ねられてこう答えました。

(略)倫理、道徳(モラル)そして哲学全般は、あなたの執筆の重要な部分のようですね;その点に関して、特別つよい見解や信念は持ってますか? お持ちだとしたら、どのようにしてそう考えるに至りましたか? 探求したいグランド・テーマはありますか?

(略)Ethics, morality and philosophy in general seem such an important part of your writing; do you hold any particularly strong personal views or convictions in that regard? If so, how have you come to them? Are there any grand themes you'd like to explore?

(略)

そうですね―これが「グランド・テーマ」と見なせるかどうか自分ではわかりませんけど、わたしが挑戦していることのひとつは、事実と価値観とのあいだにあるような衝突を、楽な道に逃げず事実を見て見ぬふりすることもなく探求することです。

 母性的声明は書きたくないんです――結局じぶんが信じたいと思ってるすべてを追認する以外になにもせず崩落する、聞こえが良いだけのお話は。

(略)

So - I don't know if this counts as a "grand theme" or not, but one thing I'm trying to do is explore clashes like that, between facts and values - without taking the easy way out and pretending that the facts can be ignored. I don't want to write motherhood statements - feel-good stories that cave in at the end and do nothing but confirm everything you ever wanted to believe

   1993年1月発刊『Eidolon 11』初出、グレッグ・イーガン氏へのインタビュー『Burning the Motherhood Statements』より

 

   呪文みたいな科学的情報から徐々に個の顔を立ち現わさせる 飽くなき探求;『児惑星』(『ビット・プレイヤー』所収)

{『孤児惑星』=早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真編・訳)『ビット・プレイヤー』所収(電子書籍も訳者解説巻末解説完備で取り扱いアリ)}

 アザールは集まった友人や家族に背をむけると、出発ゲートへと歩いて、通りぬけた。真正面に視線を据えたままでいようとしたが、結局、まだもういちどだけさよならと手を振るチャンスがあるかのように、立ち止まって肩越しにふりむいた。だがもう遅かった。そこにはだれの姿もない。自分の幸運を願ってくれる人々を、彼女ははるか彼方に置いてきたのだ。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版73%(位置No.5207中 3760)、「孤児惑星」1より

 もしここでまわれ右をしてゲートまで戻って通りぬけても、ゲートはなにひとつ尋ねることなく母世界に連れかえってくれるだろうが、そこでは彼女が出発してから三千年が経過しているだろう。それは支払いずみの代価であり、再考しようがあわただしく引きかえそうが、取り消しはきかない。いまアザールにできるのは、旅した時間をその分の価値があるものにすべく努力することだけだ。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版73%(位置No.5207中 3776)、「孤児惑星」1より

  児惑星』('09年7月Orion/Gollancz刊『Oceanic』初出)は、「現在から数百万年後。人類の遠い子孫はほかの幾多の種族とともに、物質界と仮想空間に融通無碍にまたがる融合世界(アマルガム)」という文明圏を銀河円盤内に築き、ガンマ線通信ネットワークで恒星間を旅している(光速を超えることはなく、また通信のあいだは意識が中断しているかたちになるので、数千年、数万年が一瞬で経過し、全体では桁外れの歳月が描かれることになる)」*60遠い未来でのお話です。長編『白熱光』('08)なども、今作と設定を共通した作品。

 その辺の説明は各作品でもなされているから、別に他作を読まなきゃ楽しめないわけじゃありません。{現にぼくは『白熱光』未読ですしね(いや読みたいと思っているんですよ? でも、長編を読み通すのは体力気力が……。まぁシリーズ読んだうえでの楽しみはまた別にあったりするんでしょうけど、下記は「知らないまま読んでもこれくらい楽しめました!」という一例としてご照覧いただければ幸いです)}

 ふたりがナジブを発ってから二万八千年になる。ほぼ確実にリーラの子どもたちや孫たちの全員が、死を選択して久しいだろう。ナズディークにいたとき、ふたり宛てに送信されてきたメッセージはなかった。その情報遮断状態は、リーラが自ら求めたものだった。来る日も来る日も、自分が決して関与できない出来事についての知らせを聞き、しかも意味のある返事もできないというのは、耐えがたい苦痛だろうとおそれたのだ。だがいまのリーラはそんなことをしたのを後悔していた。先祖の伝記を読むようにして、孫たちの人生を知りたかった。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版61%(位置No.5207中 3168)、「鰐乗り」6より

 設定をおなじくする別作乗り』('05年)でも、移動にともなう時間の途方もない隔たりが印象的に登場し、にんげんらしい愚かしさが愛らしく描かれています。『鰐乗り』の主人公リーラは、最期に一華咲かせるべく配偶者と旅にでるさい、まさしくノーラン監督インターステラーの親子があじわうような悲しみを見越したうえで、盛大にお別れ会をひらいたあとは家族子孫との交流を断ちますが、しかし、それがあらたな後悔を生んでしまう。『鰐乗り』ではこうした心情の揺れうごきが手を変え品を変え描かれていくこととなります。

 『孤児惑星』冒頭の長距離移動は、移動のあっけなさと彼女のこだわりを通じて、アザールにとって初めての旅であること・そして彼女は他者を見送ったことがないらしいことから故郷の星ハヌズがどんなものかを間接的にえがいていますね。

 

 さきに取り上げた『クリスタルの夜』もある意味でジャンル横断的な作品でしたが、『孤児惑星』はいっそうそんな向きがつよい。

 過去すくなくとも十億年は宇宙の孤児として漂流してきた惑星タルーラ。恒星間宇宙の低温だと大気が凍って軟泥状の個体窒素や個体二酸化炭素になってなければおかしいのに、穏やかな微風がそよいでいる不思議な星。

 自然のふしぎだろうか? 長寿命放射性同位元素の崩壊熱とか? ――地殻はともかく地表の微温は既知の理論だと説明できない。 人工的構造物はあるか? ――惑星を3年間周回して確認しよう……見当たらない。 星から漏れ出るニュートリノ流のスペクトルは既知の現象で説明できるか? それとも星の住民が特殊な技術をもっているのか? ――惑星にちかづく間の3万年間に信号をおくっている……返答なし。秘密主義なのか、それとも過去の遺産か……その種族が滅びたとしたらなぜか?

 タルーラの秘密をめぐって、アザールや異星バハルの共同探検者シェルマはさまざまな仮説を浮かべては検証し、まかふしぎな事実を掘り起こしていきます。

 移動中の数万年のシグナル発信。周回軌道上にやってきての各種機器での調査。地中からの熱伝導を始終観測し、気象モデルをアニメーション化し。合成アパーチャ法を用いたマイクロプロープで十分の一メートル単位から分析して動植物をしらべあげ、植生密度マップをつくり。実地調査をようやく検討する……すぐさま惑星へ降り立つインターステラーに対して批判したイーガン氏が描いたらしい慎重な手順で、徐々に深層へ真相へとすすんでいきます。

 

 ナノとかナノマシンとかは世間でもわりあい馴染みの単語になってきた印象がありますけど、『孤児惑星』の主人公たちの母星で扱われ始めているのは、ナノより小さいピコよりさらに小さいフェムトマシン。

 原子核スケールでの物質工学に手を伸ばしはじめていると云う、そんな遠い未来のハイテク文明人である主人公たちの冒険は、一見なんでもありなように見えます。しかし上述フェムトマシンが今日の科学的法則から導かれる当然として極々々々短期間しか存在を保てないように、アザールたちの冒険もまた、重水素という資源や、見栄や不信などの人類らしいエゴに縛られていて。ハヌズとバハルの2星間共同調査となったのだって、それだけハイテクであるにもかかわらず(ロボットで済ませることなく)有人探査となったのだって、そうしたしがらみによるものです。

 にんげんままならないもので、アザールはデータになっても、門出のさいはゲートをわざわざつくってそれをくぐる昔ながらの形式にこだわったりしてしまう。相棒のシェルマからの友好は、すごいテクノロジーが「二人が相互理解可能になるよう、観境(スケープ)がふたりのやりとりするあらゆる見た目、ああゆる言葉、あらゆる身振りを翻訳し」*61てくれた結果、「笑みを浮かべ、両腕を広げて」*62近づいてきて抱擁をしてくれるとか、ある場面では「元気づけるようにアザールの腕を触れて」*63こられたりとか、今作を読むぼくたちの世界の気の好いひとがするようなボディコンタクトになる。

 シェルマはふりむいて灰色なだけの円盤に顔をむけると、うれしそうに目を輝かせた。「美しい!」と彼女は叫んだ。

 自分が視覚を適切なかたちにしていなかったことに遅まきながら気づいて、アザールは少々愚かしく感じた。タルーラの地表は遠赤外線の輝きを発しているが、その周波数だと大気は事実上不透明で、細部を見るのにもっともかんたんな方法は、アザールが自分の感度を通常の可視スペクトルまで増大させることだった。(略)観境(スケープ)はその願いをかなえた。

 星明かりにきらめく海。眼下の半球を分けあうふたつの幅広い大陸。影のない土地を彩る長大な山脈や広大な剥き出しの平原、そして謎めいた草木の広がり。

「すてき」アザールはいった。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版74%(位置No.5207中 3794)、「孤児惑星」1より(略は引用者による)

 他者の反応からじぶんの不明を恥じつつ視覚をいじり、異星の景観に見惚れる。そんなおのぼりさんの観光めいた冒頭から、気を取りなおし地道な調査を経て、ついに降り立った孤児惑星タルーラで。なおも見通せなかった驚異に見舞われた結果アザールとシェルマの探査は、目減りしていく重水素と相談するサバイバルとなり。さらには、かぎられた物資と現地の不思議とを組み合わせた機転で難所を乗り越えていく、大胆すぎるくらいに大胆な冒険活劇になり。まだまださらに……と転がっていきます。

 

 果てなき欲望が災いしてゾンビとなったカリブの海賊たちが、幽霊船の砲口からオールを出して漕ぎ、その尽きぬ体力の限りをつくして増速し。逃げる常人たちの海賊船は、乗りあわせた鍛冶屋や貴族といった部外者の機転で、足らぬ砲丸や砲弾のかわりに船に積んだ銀食器製の即席弾を飛ばし応戦し(義眼だし血も出てないんだから良いだろと人間に突き刺さるフォーク! 全年齢対象映画のお眼鏡をかいくぐる映像的暴力!)、惜しみながらも貯めこんだ宝物を海に捨てて増速する(そうしたアクションが部外者と生者の海賊との協調や、生者の海賊がゾンビ海賊とすすむ道を分かつドラマとして物語る)……イレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』のあのすばらしき知略とケレン溢れる応酬を覚えていますか?

 あるいは、猪のもののけたちが泥浴びをして戦化粧をし猪突猛進し、戦陣を張る人間たちの石火矢に地雷にまんまとかかっていく一方で。山犬のもののけたちが、火薬の湿気て・そして自らの白い毛皮がまぎれる霧ぶかい雨の日に、せまくほそい山道に牛引き生活物資をかかえて進む人間たちを強襲する……ののけ姫』のあの種族の血に根差した、ままならない多声的な衝突を?

 あれらへ手に汗握り、笑いであれ涙であれ肩を震わせたかたであれば、きっと『孤児惑星』もお気に召すことでしょう。

 英語版ウィキペディアにも登録されているタームであるクソデカ物体(Big Dumb Object)モノ。そのアンソロジーGodlike Machines』に収録された一作にふさわしい、孤児惑星タルーラの掘っても掘っても尽きることのない異貌が、尽き果てぬアザールとシェルマの探求精神が魅力的な一作です。

 今作を読むとイーガン氏が、門外漢にとってチンプンカンプンな科学的情報をそうした部分も重々承知したうえで作劇の演出材として使いこなしている作家だということがわかります。

 生命の痕跡があるかどうかさえわからなかった未知の惑星。そこへちかづき現地で化学的な調査ができるようになったことで、C3N3N2P2だなんだと遺伝性自己複製子(レプリケーターで呼びあらわされた動植物が。探査がすすみ種別がわかり慣習も見えてきたことで、外螺旋内螺旋円環だなんだと抽象的な派閥で呼びあらわされるようになり。そしてさらには交流がすすんだことで、ジェイクオマールジューダだなんだとひとりひとりを名前で言い表されるようになり……。

 ……カメラが被写体へトラックアップしピントを合わせていくように、イーガン氏は対象を言い表すことばをアクションにあわせて抽象から具体へ徐々に変えていき、ひとつの像をむすびます。

 終盤でなされる議論は、正直「異論はないけどボーイスカウトみたい」と思ったりもする。にもかかわらず、そうして立ちあらわれた個の顔に、立ち会えてしまったその動きに、妙に感じ入ってしまいました。

「あそこには全宇宙を入れる余地がある」

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版97%(位置No.5207中 5035)、「孤児惑星」10より

 タルーラについて熟練の探検家シェルマはこう言います。そのとおり。崇高な孤児惑星のめくるめく多貌のなかに、ぼくはたしかに、オーストラリアで牛乳配達をする青年(!)の姿を見ました。いやいやこたつの熱気でゆだった頭が見せた白昼夢じゃありませんて。嘘だとお思いならぜひ確かめてみてください。たまに半額セールなどもやってますんで。

 

 

(余談) ネットで丸々読めるG・イーガン邦訳短編(電書試読本)の紹介

 グレッグ・イーガン氏の邦訳小説はさまざまあり、電子書籍化もかなり進んでいます。各短編集の電子書籍の試読版には、頭から尻まで丸々読める短編があったりします。1月18日現在いちぶ作品は3~4割引きで買えるので、良い機会だし紹介します。

{『祈りの海』が3割引き、『しあわせの理由』36%引き、ひとりっ子』が4割引き。(1/26追記)イーガン作品の翻訳などを手がける山岸真さんのツイートによれば、これは紙の書籍版と比較した金額というだけで、kindle版としては定価とのことです。勘違いすみませんでした}

 

 『金庫』(『祈りの海』所収)

 早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、『祈りの海』電子書籍版の試読版に全編収録

 あらすじ紹介などは記事本文で書いたので省いちゃいます!

 さて、今作の主人公はじしんのことをモノマネ役者だと自称し、その場その時をそれまでの経験と持ち前の推理でのりきっていき。そして自身のおかれたふしぎな状況とこれまで憑依してきた人物のプロフィールについて書き溜めていますが、貸金庫にしまって読み返すことは(=パソコンへデータ化などは)なかなか出来ないでいるようです。

 一方、この短編集『祈りの海』収録の別作光年ダイアリー』では、『貸金庫』のかれが切に願った夢を120%かなえた、自己が自明すぎるくらいに自明な主人公の人生がえがかれます。

 アリスンは笑顔になって、そのとたん、ぼくは身も心もとろけてしまい、しあわせのあまりめまいがした――自分の日記のきょうの分の書きこみをはじめて見つけた九歳のとき以来、千回も読みかえしてきたのと、そっくり同じように。そして今夜、ぼくが端末に記入することになるのと、当然、そっくり同じように。それでも――これがしあわせの絶頂にならずにいられるだろうか? 人生をともにすごすことになる女性と、ついに出会ったのだ。ぼくたちの前には、ともにすごす五十八年間があり、ぼくたちは最後までともに愛しあうのだ。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真編・訳)『祈りの海』kindle版33%(位置No.5572中 1805)「百光年ダイアリー」より

  ビッグ・クランチにともなう時間の矢の逆転説をふまえ、さらにイーガン流の理屈をこねたガジェットによって、老若男女問わずどのご家庭にも未来からの便りが1日ごとに届くようになった世界。

 その世界に生きる語り手・ジェイムズは、先回も読み返してきたそう述懐し、未来の自分からとどいた便りを、じぶんが充実した日々を送っていることの証左とします。

 だがぼくは、未来を知っている――というか、知っていると信じている――からといって、自分が夢遊病者やゾンビのように、意識を失い、道徳観念もない状態に陥ったと感じたことは、決してなかった。むしろぼくは、自分が人生の手綱を握っていると感じていた。ひとりの人間が数十年におよぶ支配力をもち、まったく異なる撚り糸をしっかりと結びつけ、そのすべてを意味の通るものにする。この統一性が、ぼくを人間以下のものにするとでもいうのだろうか? ぼくのありとあらゆる行動は、ぼくという存在が何者であるかによって生まれてきたものだ。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真編・訳)『祈りの海』kindle版38%(位置No.5572中 2069)「百光年ダイアリー」より

 (核となるガジェットはまったくことなりながらも)主人公の人物像やそのプロフィールは対称的な2作品がたどりつく結末とは?

 『貸金庫』をお楽しみいただけたのなら、『祈りの海』の他収録作もきっと楽しめることでしょう。

 

 『切な愛』(『しあわせの理由』所収)

 早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、『しあわせの理由』電子書籍版の試読版に全編収録

「ご主人は助かります。それはまちがいありません。ただし、新しい体が必要になります」

 あたしはうなずいた。少なくとも、この人は、まっすぐあたしの目を見て話すし、明確で素直にものをいう。病院に足を踏み入れてきてから話しかけてきたほかの人はみな、あいまいなことしかいおうとしなかった。ある専門医なんて、百三十二とおりの"予後のシナリオ"とそのそれぞれの確率がのっているトラウマ分析エキスパートシステムのプリントアウトをあたしに手渡したほどだ。

 新しい体。そうきかされても、あたしはまるでぎょっとしなかった。個々の臓器移植とは、クリスの体を何度も何度も切開することだ――そのたびに合併症のおそえを生み、ある種の攻撃にさらす。列車事故によってクリスは重傷で、足を切断され、危篤状態にある――そんな真実を力ずくで自分にうけいれさせたいまでは、五体満足な新品の体云々という話は、ほとんどそれと同じくらい奇跡的な処刑延期に思えた。

「お客さまの加入されている保険は、その種のことをすべて含んでいます。医療技術者、代理母、訓練士」

  あたしはもういちどうなずきながら、事の詳細の説明にこだわらないでくれるといいんだけどと思っていた。事の詳細はよくわかっていた。クリスのクローンを誕生させ、胎児のうちに脳に干渉して、生命維持以外のあらゆる能力の発達を阻害し、そして細胞以下のレベルでの正常な加齢と運動の影響をシミュレートすることで早熟だが健康に成長させ、そこへクリスの脳を移植する。ほかの女性の体を借りることについて、また脳損傷を負った"子ども"を作り出すことについて、あたしたち夫婦は悩み抜いたうえで、この高価な項目を保険契約に含めると決めたのだから。

「ここで確認しておかなければなりませんが、お客さまの保険契約では、新しい体が成長するあいだ、生命維持には医療機関の認可した、費用が最小の手段を適用するようしています」

 あたしはそれに反駁しかけて、思い出した。身体交換は基本費用だけでもきわめて高額なので、付帯事項では妥協するほかなかったのだ。

「選択できる手段はさまざまですが、費用が最小のものは生命維持装置をまったく使いません。最近ヨーロッパで完成された専門技術で、生物学的生命維持と呼ばれるものがあります」

「生物学的生命維持?」

「それはそうでしょう、これはたいへん新しいものですから。しかし、きわめて高度な技術に支えられたものであることは保証します」

「それはいいけど、どんなものなの?」

「脳が、別の人間の血液供給を共有して生きつづけるのです」

 『適切な愛』は、夫の脳をじぶんの胎内に宿すこととなった「あたし」のお話です。

 説明漏らしがないよう無数のケースを想定した十全な医師の告知が、ぎゃくに選択肢が豊富すぎて曖昧に思える「あたし」が、夫婦で相談してきめた劇中生命保険。その保険員が、何度も何度も安全性と新規性を強調しながら徐々に話をすすめる実に「らしい」口ぶりによって説明する、契約の「付帯事項」(この言い回しも「らしい」!)をえがいた今作は、そこから、「あたし」のからだに付帯させられた日々を、生理的心理的に丹念に十二分にえがきだしていきます。

 『SFマガジン2007年6月号』に掲載された海老原豊氏による論考レッグ・イーガンとスパイラルダンスを――「適切な愛」「祈りの海」「しあわせの理由」に読む境界解体の快楽』は、「あたし」の心理のゆれうごきをつぶさに追ったうえで、「あたし」が重きを置かない(けれど、同じくらいに大変だろう)彼女の配偶者クリスの体を宿し育てる代理母について注目し、当時議論を呼んだ代理出産問題を取り上げたうえで、劇中あれこれ考える「あたし」自身の身体性を掘り下げていきます。

 zzz_zzzzによるこの記事では、その揺れ動きに伴う劇中劇的なモチーフの移り変わりを注目してみましょう。都合のよいものから悪いものまで、『適切な愛』の「あたし」は何度もを見たり、さらにはテレビに映されたものを反芻したりします。

なにがいけないの? 列車の残骸から脚を切断されて救出されたように、クリスをめちゃめちゃになったからだから切り離すことの、なにがいけない? 待合室のテレビであたしは、事故現場の映像が流されるのを何回も見た。救助隊員がまっ青のレーザーで正確かつ的確に金属を切除していた。あの救出活動を完了させて、なにがいけない?

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真編・訳)『しあわせの理由』kindle版2%〔位置No.4882中 45{電子書籍試読版16%(位置No.518中 68)}〕、「適切な愛」(文字色替え・太字強調は引用者による)

 序盤ではそれが「あたし」が配偶者クリスのためにがんばる後押しになってくれたりしますが――

解決策は、もちろん、どちらもしないことだ――でも、それでどうなるというんだろう? カーテンに隠れていた足長おじさんが舞台に出てきて、ジレンマを消し去ってくれるとでも思っているのかあたしは?

 事故の一週間前に見たドキュメンタリー番組では中央アフリカの何十万もの男女が、もっと豊かな国では二十年も前にエイズを事実上根絶している治療薬を買うお金がないというだけのことで、一生のすべてを死にかけた身内の世話をして終わると報じていた。もし、余分な一キロ半の重さを二年間宿すというささいな"犠牲"で愛する人の命を救えるとしたら、そのときかれらなら……。

    早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真編・訳)『しあわせの理由』kindle版5%〔位置No.4882中 194{電子書籍試読版46%(位置No.518中 227)}〕、「適切な愛」(文字色替え・太字強調は引用者による)

  ――クリスの「生物学的生命維持」をつづけていくうちに「あたし」はさまざまな夢を振り払っていくこととなります。そこにはこの記事に引用したような、カーテンや窓の向こうにだれかがいてこちらに入ってくる……というような、テレビ・映画と似通う想像もある。

だいたい、さまざまなことを切り抜けてきたあたしたちにとって、そんなことがハードルになるだろうか? あたしはなにを不安がっていたのやら。インチキくさい十九世紀の強度女性嫌悪者の亡霊に拍車をかけられて、勘違いしたあわれな近親相姦のタブーの化身が、その瞬間の直前に寝室の窓を破ってはいってくるとでも?

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真編・訳)『しあわせの理由』kindle版8%〔位置No.4882中 360{電子書籍試読版80%(位置No.518中 400)}〕、「適切な愛」(文字色替え・太字強調は引用者による)

  さてこの記事の上のほうで取り上げたエッセイのなかでイーガン氏は『インターステラー』評で「不信の停止(観客を創作世界へ没入させること)に大失敗している」と酷評しましたが、『適切な愛』後半ではそれと似たような調子のことを「あたし」がある事柄に対して思いもするようになります。

 いまやそのメッセージは、最低のお涙ちょうだい映画のあざとい仕掛け並みに、お笑いぐさで無駄なものでしかない。あたしにはもはや、不信を停止することができなくなっている。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真編・訳)『しあわせの理由』kindle版8%〔位置No.4882中 383{電子書籍試読版84%(位置No.518中 426)}〕、「適切な愛」 

 その事柄とは……? 試読版をひらいて、ぜひたしかめてみてください。

 丁寧に丁寧に幻想を払っていっても、それでもなおのこるもの。抑えた筆致ながらも――だからこそ? 胸に迫る作品です。

 

 『動原理』(『ひとりっ子』所収)

 早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、『ひとりっ子』電子書籍版の試読版に全編収録

 『幻覚体験』『瞑想と癒し』『動機づけ成功』さまざまな表示と「神になれる! 宇宙になれる!」「このインプラントで人生が変わった!」さまざまな宣伝文句をかきわけ、この分野の老舗『性愛』の棚も見、A(アーミッシュからZ(禅)まで様々ある『宗教』の棚でカトリックだった子供時代をかえりみ1,2分悩んだのち、わたしはどれからも後にした。目指すはカウンター。

「特注品を受け取りにきたのだが」

 これはエイミーのための行為ではない。わたしがいまなお妻を愛し、いまも悼んでいるからといっても、この行為が彼女のためだということにはならない。

 

 銀行強盗犯に殺された妻の敵討ちをするため、脳をいじくるインプラント≪行動原理≫に頼る男のお話です。

 主人公は、理性的な現代社会に生きる理性的な普通の現代人の当然として、(たとえ妻を殺した悪人相手であろうと)殺人といった暴力には移れないから、そのような非道を行えるよう脳をいじくるインプラントを投入するのですが、そこに至るまでの過程が長い長い。

 まずインプラント店で、特注品を頼んでいるというのに周囲の市販品を見て回らざるを得ないし、べつに振り返る必要もないし誰も説明なんて求めてないのに、勝手に自分の心の中でインプラントの歴史なども振り返ってしまう。宗教の棚にも目を向けて自分の過去をかえりみだってしてしまう。

 あれこれ描かれる店内描写・世界設定説明が、『行動原理』という作品においては、"殺人をする、という非道を行なう、よう意思決定をする、ような脳の行動原理を持ち得る、よういじくるナノマシンを作動する、前段階として体内に注入する、インプラントを買う"まえの男(まえまえ尽くし!)によってなされることで、とにかく非道なんてはたらきたくない理性的な現代人の逡巡(と言うとカッコイイけど。うだうだとも言う。)として受け取れます。

 ちょっと小粋なこともチョコチョコ出てくるような、ある種のハードボイルドな文体で進みながらも……行動している本人についてはけっこうにインドアな(この段になってようやくスポーツクラブで銃の練習を黙々したりするような)小市民らしい小市民的な顔が思い浮かんでやまない……そのような文体で自分を取り繕わなくてはならない語り手による、変な読み味の犯罪劇だと思いました。

 『貸金庫』や『宇宙消失』とはまたちがった、一人称語りの面白さがたのしめる作品です。

 初出は1990年。ペラペラっと広告が多量にのぼる世界描写、殺人(に代表される非道と思われる行為)への自意識など、ブレット・イーストン・エリスメリカン・サイコ』が1991年出版……と考えると、同時代性という感じもします。

 

 『・口笛テスト』(『TAP』所収)

 河出書房新社刊(河出文庫)、『TAP』電子書籍版の試読版に全編収録

 語り手の思索や意識にあわせて、場面の光源が巧みに調整された作品です。

 AMM(応用神経マッピング)を利用した耳に残る音楽。これにかんするセールスを聞いている主人公は、広告会社のベテランらしくシビアに、セールスマンに対して「十ドル札に広告用反射ホログラムのスペースを作ってそれを売り出すこと以来の」*64発明だとでも思っているのだろうか~なんて疑問をうかべます。

 べつに再登場するわけではないこの設定は、劇中世界のトリビアルな書き込みというよりはむしろ、読者を明暗の世界にいざなう一手に思えます。

 まばゆい陽光を浴びながら、網目状に芝生が生い茂るベントリー・テクノロジー・パークを歩いているうちに、アンダーウッドは自分がさっきの曲を口笛で吹いているのに気づき、

   河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版3%〔位置No.4960中 103{試読版27%(位置No.530中 124)}〕、「新・口笛テスト」より。(文字色変え・太字強調は引用者による)

 適当に理由をつけてセールスを帰し、オフィスの外へ出たアンダーウッドが、AMM曲を無意識のうちにリフレインしたのは、まばゆい陽光の下でことでした。アンダーウッドはあの新曲を自分が口笛をふいていることに気づいたときこそ苛立ちますが、交通騒音もオフィスに流れるクズ音楽もなぜか気にならず、リラックスした状態で午後を送れます。

 午後の残りとになってからの大部分は、<ハイパーソフト>のCM用の音楽をえらぶことでつぶれた。

   河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版3%〔位置No.4960中 116{試読版28%(位置No.530中 138)}〕、「新・口笛テスト」より。(太字強調は引用者による)

 候補曲を四つ見つけだしたときには十時をまわっていた。キーをぽんと押して、提案事項をリストにしたメモを<ハイパーソフト>の広告活動の関係者全員に送ると、アンダーウッドは疲れのにじむため息をついてコンソールのスイッチを切り、わが家をめざした。

   河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版3%〔位置No.4960中 122{試読版29%(位置No.530中 143)}〕、「新・口笛テスト」より(文字色変え・太字強調は引用者による)

 日課の仕事をこなした当然としてを迎えた時分、アンダーウッドは疲弊しています。

 レンジ付き冷凍庫から料理をだし、妻との会話をし(夫婦の会話に割り込むレンチンの音)、ベッドのなかでお気に入りの音楽を聴く。

 ディス・モータル・コイルの「警告の歌」が水銀のように頭に流れこんできて、部屋を消し去り、体を消し去り、今日一日の嫌な思いのすべてを消し去った。肉体を離れて、振動する闇の中に浮かんでいる気分になり、魂が曲の一音一音と共鳴し、たまらなく甘美な歌手の声が、冷たく、半透明な、浄化のにアンダーウッドをのみこむ。

   河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版3%〔位置No.4960中 139{試読版33%(位置No.530中 160)}〕、「新・口笛テスト」より。(太字強調は引用者による)

  女性ボーカルの歌(詳しい話は下でします。)冷たく半透明な浄化のにのまれて振動する闇の中で浮かんでいる気分になる……『新・口笛テスト』のアンダーウッドがそんな心地でいられるのも、歌が流れているあいだだけのことでした。赤外線ヘッドフォンをはずすと甘美な歌手の美声は妻のゆっくりした寝息にとってかわられます。

 歌が終わり、闇の中で横になって、マグダのゆっくりした呼吸を聞きながら、アンダーウッドは考えた。トイレットペーパーのCMにバッハ、保険にベートーヴェン、アイスクリームにモーツァルト――それは非道であり、そうでないふりをしても無意味だ。

   河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版4%〔位置No.4960中 146{試読版34%(位置No.530中 168)}〕、「新・口笛テスト」より。(太字強調は引用者による)

 闇の中でアンダーウッドは現代の広告汚染について考えをこねくりまわしているうちにAMM製の曲を全国で流すことを決めます。

 おらたちがお日さまのもと

 育て作った飲みもの、それは

 ミルワース&ホッブズ

(略)

 日の光に

 きらっと輝く

   河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版5%〔位置No.4960中 206{試読版44%(位置No.530中 229)}〕、「新・口笛テスト」より。(文字色変え・太字強調は引用者による)

 AMMのメロディがはじめて用いられたCMの歌詞は、アンダーウッドが無意識のうちに口笛をふいていたときと同じく、日の光輝きがありました。

 AMM曲を起用したCMは劇中世界に大きな波乱をおこします。AMM曲は、アンダーウッドが仕事を終え帰宅した夜のニュース番組が紹介する事故のフッテージ映像のなか女性パイロットが口ずさんだもの……というかたちで、もう一曲登場されることとなり、アンダーウッドは膝をつきます(⇔「浮かんでいる」の逆)

朝日を浴びて黄金の色に染まる畑だとか

   河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版6%〔位置No.4960中 289{試読版61%(位置No.530中 314)}〕、「新・口笛テスト」より。(文字色変え・太字強調は引用者による)

 アンダーウッドは頭をふりながら膝をついた。こんなことはありえない。(略)

 テレビ画面で渦を巻くは、何かの技術的問題のせいで奇妙な、自然にはありえない色あいに変わっていた。非常用脱出口から、服と髪に火のついた男が飛びおりて――アンダーウッドには、映画のスタントマンそっくりに思えた――テープの遅まわしで加工したようなバリトンの絶叫が聞こえた。

   河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版%〔位置No.4960中 {試読版%(位置No.530中 124)}〕、「新・口笛テスト」より。(文字色変え・太字強調は引用者による)

 ありえない色合いのにつつまれた男が飛びおりる(⇔「浮かんでいる」の逆)。そして、(現実には不自然だが、衝撃映像をスローモーションで注目するTVのニュース番組の文法としてはもっともらしすぎて余りある)フッテージに記録された人の遅回し≒ゆっくりした音声……。

 TV画面がまばゆく騒がしく映る自宅で、AMM曲をはじめてきいたあとの夜を反復変奏するようなこので、アンダーウッドはじぶんの行ないをふりかえり苦悩することとなります。

 

 もうひとつ面白いのが、アンダーウッドが変な方向にそれていった最初の夜の思考――『警告の歌』の役回りです。(↓埋め込みリンクがうまく行ってないけど、レーベル公式が配信しているくだんの歌のPVです)

www.youtube.com

 ディス・モータル・コイルは英国のインディ・レコード・レーベル4AD創設者アイヴォ・ワッツ=ラッセルが率いる音楽ユニットで、ユニット名の由来はモンティ・パイソンのスケッチ『死んだオウム』(で引用されたハムレットの一節)からきているのだそう。既にコクトー・ツインズやデッド・カン・ダンスやカラーボックスのメンバーなどが参加しました。

 『警告の歌』=Song to the Sirenはティム・バックリーとラリー・ベケットによるフォークソングで、そのカバー。もとは男性が歌っていた曲ですが、83年にシングルがリリースされたディス・モータル・コイル版は、コクトー・ツインズエリザベス・フレイザー氏による女性ヴォーカルです。(ちなみにイーガン氏が酷評したリンチ監督『ロスト・ハイウェイ』の劇中歌でもあります)

 『警告の歌』は、どうしてこんな邦題がついたのか存じませんけど、わりとがっつりセイレーンへの歌です。

 全訳をのせられている『Music for Cloudbusters』さんの記事を参考に歌詞を読んでみれば、船もなしに長く海にただよう「わたし」が、美しい歌をうたう美女セイレーンにいざなわれるという具合の代物。だからそれを聞いたアンダーウッドが水銀やら冷たさを連想するわけなんですね。

 『警告の歌』は、じぶんの性質による犠牲者をこれ以上だしたくないセイレーンに対して、海に漂う「わたし」が二択のゆくすえを思案したすえに自分からも呼び込みの返歌をして〆られる……という甘美な自己破壊・心中を望む歌なんですけど、アンダーウッドがそれを毎夜聞いてリフレッシュしていたところに、単純素朴な「簡単にいじくれてしまう身体のモノ性コワい!」「科学の進歩コワい!」「広告による洗脳コワい!」にとどまらないがあるなぁと思いました。

(ある価値観を抱えつつも、ちょっとしたことですっきりリフレッシュできていたひとが、脳のリソースをちょっと食われたことでちょっとした歯止めをうしなって、まだ元気な明晰に頭が回転する部分の<わたし>は、変な方向に舵を切ってしまった思考を修正するのではなく、むしろアレでナニな思考を正当化・理論武装するためにエンジンがかかってしまった……ととらえると、ダニエル・カーネマン氏の『ファスト&スロー』でぼくのようなミーハーな人間でもふんわり知れるようになったシステム1とシステム2みたいな感じですが、この辺の知見は89年当時どうだったんでしょうか? おしえてえらいひと!)

 『行動原理』でもふれた『アメリカン・サイコ('91)ブレット・イーストン・エリス('64年生れ)ァイトクラブ』('96)チャック・パラニューク('62年生れ)を、あるいはメリカン・ビューティ』('99)サム・メンデス監督('65年生れ)をならべて語るかたは結構いらっしゃるように思いますが、そこへイーガン氏('61年生れ)を加えて考えてみても面白そうだなぁ~なんて思っちゃった一作です。*65

 

 『色覚』(『ビット・プレイヤー』所収)

 早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、『ビット・プレイヤー』電子書籍版の試読版に全編収録

 14年9月初出の作品で、試読本で手に取れるなかでは一番わかい。

 視覚弱者や色覚弱者のために視覚をつかさどる錐体細胞を操作するインプラント技術が、医療行為・矯正具として登場して二世代ほど経って、少数のギークがバイオハックとして魔改造を発見するまで人口に膾炙した至近未来を舞台にした作品です。

 劇中に登場する人工網膜インプラントとその拡張アプリ<虹>プロジェクトは、技術的にはまだまだ遠い未来のお話でしょうけど、ページをめくっているうちに、

「2013年に市販用が初めて販売された人工網膜の技術と使用感から外挿していけば、なるほどたしかにこうなりそうだ」

 と納得してしまうもっともらしい描写がなされ、さらには、その仕様として(我々が最初だけしっかり読んで二度目以降は連打するだけになる)スマートホンアプリなどの細かい警告メッセージがポップしたり(翻訳家・批評家の大森望氏は劇中のインストール風景を「スマホを脱獄するノリ」とたとえます)、それをからめた個人の応用として(トレンドにうといぼくなんかは、にじさんじ所属のvtuber月ノ美兎委員長が最近ルポして存在をはじめて知った)オキャッシング』などを思わせる遊びが編み出されたりして……"いま・ここ"にある現実と劇中独自テクノロジーとが組み合わさったかたちで登場し、絵空事だという印象をいだかせません。

www.youtube.com

03:30~地球規模の宝探しアプリで遊んだ所感を語る月ノ美兎委員長) 

 

『<七色覚>が支配者だ』『さらに四色分の畏怖』が繰りかえし、ほとんど判別不能な飾り文字で、どれもが同じスタイルと色で描かれていた。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版5%〔位置No.5207中 223{試読版47%(位置No.543中 244)}〕、「七色覚」1(略・太字強調は引用者による)

 第1部で七色覚者版『ジオキャッシング』にジェイクをいざなうストリートペイント。そのなかにちらつく、強い言葉。

 七色覚者の日常や語り手の意識にでてくる<三錐体>という独特の――嘲りを含んだような――ターム。

 これはジオキャッシング的にももっともらしくありますが*66ちょっと皮肉に思えることでもありますし、言葉のとおりに読んだら取りこぼしてしまうニュアンスがあるような(色覚)少数者の実感のあわいのある表現だとも思えもします。

 「色を弁別しすぎる人もまたマイノリティであることを考察した小説作品」*67「関心のある方は一読をおすすめする」*68と『七色覚』を紹介している川端裕人『「のふしぎ」と不思議な社会 ――2020年代の「色覚」原論』では、現実の色覚にかんする様々な議論や知見が紹介されています。(以下、色覚少数者についての本をいくつか挙げつつ話をしていきますが、どれも日本語話者の本なので、英語話者やイーガン氏の暮らすオーストラリア圏の色覚少数者の実感とは異なる部分もいろいろあろうかと思います。またzzz_zzzzの話は半分も通じてない半可通の聞きかじりなんで、ちゃんとした知見を得たいかたは本に当たっていただけると幸いです)

 昭和生まれのぼくの父母はわりと使っている「色盲」という言葉が聞かれなくなって久しく、平成元年生まれのぼくにとってはなじみぶかい「色覚弱者」という言葉もまた、いまでは言われなくなりつつあるというのは、「なんか聞いたことあるようなないような……なんでだかは知らんけど……」みたいな事実じゃないでしょうか。

 事故の政治利用に関しては古典的な例がある。というより、色覚検査の歴史は事故の政治利用から始まるといった方が正確であろう。

   徳川直人運営『夕闇迫れば』、「事故の利用: ラーゲルルンダの列車衝突」より

 色覚検査というのはそもそも差別から始まったものだと云います。東北大教授・徳川直人氏のエッセイをまとめれば、1875年のある大雪の日に列車事故を起こした運転手と給油係が「色盲で、青信号と赤信号を見まちがえた」と云う真相定かでない風聞と結論ありきの恣意的な「検証」の組み合わさった風評が色覚検査の起源です。

 そうして始まった色覚検査は、職業差別だけでなく婚姻差別など、優生学的な排除の原因となりました。

natgeo.nikkeibp.co.jp

 「事実として見えてないんだったら差別でも何でもないのでは?」みたいな声もあるかもしれません。でもそもそも一言に色覚弱者・色覚強者と云っても、いったい何をもって強弱を決めるんでしょうか?

 「三錐体が活発なら二錐体色覚者より物が見えているか、生存に有利かというとそうとも限らないということを川端氏は紹介しています。

「そこで、行動観察もちゃんと数値化することにしました。果実を発見してから食べるまでの流れを考えると、まず見つけるところから始まりますね。これを『発見』とします。それからかじったり、臭いをかいだり、触ったり、じっと見つめたりして確かめる。これをインスペクション、『検査』。それから最終的に食べるか、口に入れてからペッと吐き出すか、あるいは食べずにポンと捨てるか。これを『摂食』。そういったふうに定義して、単位時間当たりにどれだけのことをやるか割り出してみたんです。果実検出の頻度ですとか、正確さ、そして、時間あたりで考えたエネルギー効率ですとか。さらに、嗅覚にどれだけ依存するか。けっこうサルはよく臭いをかぐので、気になりだして、これも観察して評価しました」

 その結果、驚くべきことが分かった。理論的には、3色型が有利になって然るべきなのだが……。

「予想に反して、3色型と2色型に違いがまったくありませんでした。さきほどの3つの行動指標のどれでも、まったく差がない。どういうことだというので、結局あれこれやってわかったことは、実は明るさのコントラストが一番利いていたということになったんです」

   ナショナルジオグラフィック掲載、川端裕人著『研究室に行ってみた。東京大学 色覚の進化 河村正二』「第6回 「正常色覚」が本当に有利なのか」2

 三色覚と二色覚の者が混在するオマキザルやクモザル(といった新世界ザルについて現地で食べ物を得るさいの時間や効率などを調べたところ、どちらのサルでも大差はなく、一部のものについては二色覚者のほうがむしろ見つけやすいという結果がでました。

 霊長類は物のかたちを把握する神経を緑赤色覚につかっているので、明暗のちがいや輪郭の把握することにかんしては実は二色覚者のほうが優れていたりする。そんな具合に世の中にはいろいろな物差しがあるみたいなんですね。

 ある物差しによって下に見られ、苦しめられてきた色覚少数者が、劇中ガジェットの登場によって逆に他者を見下す側になってしまう……ちょっと皮肉な展開です。

 

 それだけではなく複雑なニュアンスがありそうだと思えるのは、七色覚が絶対的にすばらしいものだとは劇中えがかれていないからで。

 先述の劇中ストリートアートの文言や七色覚者同士の日常会話で出てくる語彙にぼくは、メリットもデメリットもあり自分がやりたいことに活かせるかも分からない限定的な一個性である七色覚について、それを推す一派の素朴な主張とも、つよく推すためのスローガンとも、虚勢とも、自分への言い聞かせとも、なんとでも取れる含みを感じました。

 じっさい現実のストリートアートはそうしたあわいを含んだものでしょうし、色覚少数者がいだく自身の色覚への態度はさまざまです。

 僕は色盲である。

 従って、実に、実に悲しい思いを、僕は色に関する限り堪えて来ねばならなかった。

 

 まず、はじめての恐ろしい思い出は小学校の図画の時間に起こった。ある朝、クレヨンでバラの花を写生していた時に、突然、教師は僕の描いていた絵を取上げると、それを教壇の上からクラス中に示した。四十人の同級生の哄笑が起こり、一斉に軽蔑の視線が僕を射すくめた。

 教師は僕に訓戒した。

「見た通りに描けとあれほど言ったのに何故見た通りに描かないのですか。先生の言った通りに出来ない子供は心のねじけた子どもです」

 教室の一隅に立たされた僕は、一切が何のことやらわからなかった。一生懸命に僕は見た通りに描いていたのに、何故みんなが笑い、教師が怒るのかわからなかった。八歳の僕は、色盲という事柄も知らず、もとより自分が色盲であることも知らなかった。立たされた僕は泣いた。

 (略)毎週図画の時間が来る度に、僕は叱責され、立たされ、唇を嚙んで涙を流さねばならなかった。同級生は、教室の一隅で立たされている僕に関係なく、楽しそうにいろいろなものを描いていた。僕は唇を嚙みしめながら、楽しそうな皆を盗み見た。そして、意味なく自分を叱る教師を憎んだ。(略)図画のある日は恐ろしい日であった。やがて、僕はその日に仮病を使って学校を休むことを覚えた。

 美を習うべき図画の教室で、僕は屈辱を習い、憎悪を習い、嘘を習得したのである。

   朝日新聞社刊、團伊玖磨パイプのけむり』(文庫版)p.43~44「色盲」より(略は引用者による)

 覚差別と語りづらさの社会学 エピファニーと声と耳』で、徳川直人氏はイプのけむり』のいくつかのエッセイを取り上げ、童謡『ぞうさん』などの作曲家・團伊玖磨さんのじしんの色覚に対する複雑な心理をひもといています。

 色盲であることを、僕は、今はもう苦にもしていないし、僕には僕の色が見えていて、それなりの美しさも感じているので、別に困ることもないが、ただ、人の顔色がよくわからないのと、自信がないために、ネクタイや、ドレスなどを、友人に見立てあげることが出来ないのが一寸残念である。しかし、それとて、人の顔色を見い見い生活するような事はしたくもないし、ネクタイや洋服にしたって、見立ててあげる立場より、見立ててもらう立場の方が楽に違いない。などと言って無理に威張ってみても、本当のところは、やはり何か寂しい気がする。

   朝日新聞社刊、團伊玖磨パイプのけむり』(文庫版)p.46~47「色盲」より

 上級学校へ進もうにも「十の学校のうちの七つ八つは受験出来ぬ」*69から「子供ながらに、僕は、自分の色彩感覚の欠陥が将来負い目にならぬ道に進もうと考え」*70、「上野の音楽学校に入った理由の一つは、音楽に色盲は比較的に負い目にはならぬと考えたから」*71と、果てはじぶんが亡くなったあとの気がかり*72など……

いろいろな事をして暮らして来たが、そろそろ年をとって来たせいか、このごろはしきりにひとのためになることをしようと思うようになって、その一つとして、僕が死んだ時には、眼球をアイバンクに寄贈しようと考えついた。ところが僕は色盲である。僕の眼球を移植した人が、突然世界が変な色になっちゃったなどと言って怒り出すと大変だと思って聞いてみたら、色盲は視神経の異常だから眼球は関係無く、ご心配のようなことは起こりませんということなので、やはり寄贈を決めた。

   朝日新聞社刊、團伊玖磨パイプのけむり』(文庫版)p.47「色盲」より

 ……色覚少数者の被った実際的な困難や悩みなど語られたこのエッセイでは、引用したとおり色覚少数者であることについてユーモアを交えた肯定をしつつもそれについて"無理な威張り"と否定し、「色盲は、やはり悲しいものである」*73と〆さえする團氏ですが。

 別のエッセイでは「色盲だと言われても一向に悲しまない。逆に、平常にして平凡な色感など無くて良かったとさえ思う。」「色盲の日本土人である事を誇りに思っている」とも書いているそう。

 私じしん、「他人に色盲だと言われても一向に悲しまない。逆に、平常にして平凡な色感など無くて良かったとさえ思う。強気なのである。そして、そんな眼を光らせながら、日本らしい日本人の音楽を作ろうと考えている。言ってみれば、僕は色盲の日本土人である事を誇りに思っている」。

  ↓

「珍しく中曽根首相の肩を持ちたくなった。土人と言う語は良い。皆で土人の良さに徹した強靭な人民になりたいと思う」。

   1987年朝日新聞社刊、團伊玖磨著『パイプのけむり』第16巻p.66~69を要約・引用する徳川直人著『色覚差別と語りづらさの社会学 エピファニーと声と耳』p.114、「第二章 「パイプのけむり」三つのエッセイ」2.3.4論の筋道 からの孫引き(「」内は引用、↓は順接を意味するとのこと)

 このエッセイはちょっと複雑で、84年の参議院予算委員会で、芸大に入る場合であっても五教科七科目を受けねばならないことに当時の首相中曽根氏が異を唱えたさいに発せられた、

「アフリカの土人のジャズというものは野蛮的なものでありましょうが、ニューヨークでなぜあんなにもてはやされて世界的に普及したかといえば、やはりアフリカの土人であっても直観力というものは持っておるので、そういう人間的感性においては平等である、同じである。いいものはやっぱり受け継いで持っておる」

 といった言に対して、「土人とはいかがなものか」と反発した世間に対する、さらなる反発というエッセイであったそうなのですが……原文を読んでみようと庫版のほうの『さてさてパイプのけむり*74を手に入れてみたら、このエッセイだけ除かれていました。

 『<七色覚>が支配者だ』、かつて町に秘密の落書きをしたルーシーは大人になってこう語ります。

「自分はもうきっかけをつかんでいるんだって、わたしは自分をずっとごまかしてきた――でもほんとうは、失敗した料理をいち早く嗅ぎあてられるというだけで、シェフへの出世コースに乗ったつもりになっている調理場の下働きと変わりがなかった」

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版8%〔位置No.5207中 352{試読版72%(位置No.543中 373)}〕、「七色覚」2(略・太字強調は引用者による)

 

 『七色覚』は新しい技術の栄枯盛衰の年代記のようでもあり、それと並び歩いた使用者たちの心性史のようでもあり、第一世代の斜め後ろを歩いた一個人のヒューマンドラマのようでもある。

 

 今作は一人称の語り手として、第一部を12歳・第二部を29歳で迎える男性ジェイクを据えています。

 そうすることでこの劇中独自テクノロジーを、第一部では従兄から内緒の誘いをうけて火遊び的にバイオハックしてみたり、感覚が変容した当初はビビッて従兄に泣きついたり、慣れたあとは周りが陳腐にみえたり妙に気持ちわるく感じられたりして、なんか隔たりを覚えてしまったり……と背のびしたがりで万能感も(まだギリギリ)有しがちな12歳らしいみずみずしい視点で描きだし。

 第二部では、写実主義がカメラの登場により権威を失墜したり、馬車が列車に列車が自動車に取って代わられたみたく、個人の才能としてはすごいけれど他と比べてみればそうでもないという超視力の微妙な立ち位置を、初めて就いた職業や会社に行き詰まりをかんじて「別分野へ鞍替えもまだいけるか? もうこの道で頑張るしかないか?」と悩む29歳らしい視点から描きだします。

 

 さまざまなアイデアやトピックが詰め込まれつつも、パレットは整理され一定の物語的文脈を築いています。

花が枯れかけてるね」夕食のテーブルの準備をしながら、ぼくは父さんに声をかけた。「捨ててこようか?」

「枯れかけている?」父さんはキッチンから出てきて、テーブルの中央に飾られた花を見据えてから、顔を近づけて花のひとつひとつをじっくりと見た。「きれいに咲いているじゃないかジェイク、なにをいっているんだ?」

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版2%〔位置No.5207中 96{試読版22%(位置No.543中 114)}〕、「七色覚」1(太字強調は引用者による)

  人工網膜インプラントの拡張アプリ<虹>プロジェクトをインストールした当初の主人公ジェイクが、非インストール者との感覚の違いに気づかないまま言ってしまう場面。これ単体でも、色覚少数者の体験を想起する(※1)ようなもっともらしい、そして七色覚者ならではの世界観を描いた(※2)、興味深いシーンですけど、流れで読むとさらに面白い。

{※1

ジェイクが父から言われる「なにをいっているんだ?」は、(さきに引用した)バラの絵を写生していた小学生時代の團伊玖磨氏が先生から言われた「何故見た通りに描かないのですか」や、のちに引用する若林良一氏がおそれた「なんやそれ」にも通じる、もっともらしい響きです}

{※2

 劇中すぐ後に補足説明があるとおり、このときのジェイクは超視覚によっていち早く腐敗に察知したのではありませんでした。蜜のある場の色を変え、虫などを誘って花粉を運びやすくなる蜜標ネクターガイド)が、虫などにはわかる紫外線領域でなされている花……これをジェイクは見ただけなんですね。どんな具合かは、福岡教育大の福原達人氏のサイトが一目瞭然ですね。

staff.fukuoka-edu.ac.jp

(劇中でも活用が示されるとおり、ジェイクが見られるようになったもう極端、赤外線領域の世界では、リンゴにできたキズも木材のワレも、塩と砂糖と化学調味料も、水と油も、醤油の中に入れた金属片もハッキリ見分けることができます。

www.avaldata.co.jp

 赤外線は体内を透過しやすい一方でヘモグロビンに反応するので、血管をハッキリ見たりもできます。

www.ricoh-imaging.co.jp

 物語世界で出てきたふしぎな光景は、現実に存在しているふしぎなのでした)

 この感想ではその当時のジェイクが「枯れ」ととらえたことに重きを置きます}

 ジェイクが目にとめる食卓にある腐敗は、この場面においては<虹>プロジェクト初心者のかれにとってインストール失敗やアプリの不良を疑わせる不穏や、周りと感覚がズレてしまったことをつきつける疎外感の象徴となりますが……

ゲームセンターの壁にルーシーが描いた文字に、ぼくは目を戻した。『古くなったパンに出会うまで東へ』ぼくは<虹>アプリを走らせて以来、まとまった量のスパイスを見たことはあまりないけれど、ラベルに書かれた名前は、そっくりそのままではまったくないしても、その文字の色合いを想起させた。豊かでくっきりした茶色は、ラベルに名前のある香りのよい材料のにおいがするに違いない。

「じゃあ、材料はなに?」

 ルーシーは笑みを浮かべた。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版6%〔位置No.5207中 255{試読版52%(位置No.543中 275)}〕、「七色覚」1(太字強調は原文ママ

 ……つづいて<虹>プロジェクト使用に慣れてきた時分のジェイクにとっては、アプリ使用継続の理由のひとつとなっただろう、七色覚だからこそ味わえるちょっと不思議ですてきな好感の象徴周囲と噛み合った交流をするためのきっかけになります。

 そして時代がくだりジェイクが社会人となった第二部では……

 ぼくは逆転の手掛かりになるものはないかと、必死で部屋をみまわした。一枚のポスターの中で、有名シェフがカートンに山盛りの丸々したアプリコットにむかって手をおろしていた――その果実の見た目のレタッチが変すぎることは、<三錐体>でも見逃すことはないだろう(略)

「ぼくを雇えば、会社はひと月数千ドルの費用節減ができます」ぼくは堂々といった。「腐る寸前だったり、虫がついている品物があれば、ぼくは――」

 面接官は笑顔だった。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版9%〔位置No.5207中 431{試読版85%(位置No.543中 453)}〕、「七色覚」2(略・太字強調は引用者による)

 ……実社会の採用面接でのアピールポイントとなったりします。実用的で卑近的、かつてルーシーとのやりとりにあったような"ここではないどこか"に連れてってくれた魅力はまるで無く、会話の顛末もみみっちい着地をむかえます。

 

 現代社会における義視としては、今作出版の前年2013年に世界初の市販用人工網膜アーガスⅡが登場しています。ネットだと『wired』の記事が、図解PVなどもリンクされて分かりやすいですね。

 アーガスⅡは、遺伝子疾患である網膜色素変性症患者に有効な人工網膜で。今作『七色覚』の原題 Seventh Sight に似た響きのセカンド・サイト社が発明しました。

wired.jp

 『七色覚』が発表された翌年15年末に出た本ですけど、カーラ・プラトーニ著イオハッキング』によれば……

多数の電極を配置した超小型電極アレイが眼の奥に埋め込まれていて、これがメガネフレームの中央に搭載されたビデオカメラからの情報を受け取って電気信号に変換し、視覚キューとして脳で解釈できるようにする

   白揚社刊、カーラ・プラトーニ著(田沢恭子訳)『バイオハッキング―テクノロジーで知覚を拡張する』kindle版25%(位置No.7516中 1798)、「第1部 五感」内「3 視覚」より

 ……テクノロジーだと云います。

(音声を電気信号に変換し聴神経につたえる人工内耳の、視覚への応用で、じっさい共同創業者の一人アルフレッド・マン氏は人工内耳メーカーであるアドヴァンスト・バイオニクス社の元社員で、セカンド・サイト社事業開発部長ブライアン・メック氏は、開発第一号アーガスⅠについて「承認済みの人工内耳を持ってきて、眼の中で使えるように電極のリード線を加工しただけです」*75と『バイオハッキング』で打ち明けています)

 プラトーニ氏は、07年のアーガスⅡの臨床試験に参加して以後6年半にわたって使用をつづけているディーン・ロイド氏に取材し、これを使用して得られる世界観を聞き出しています。

ロイドは道路を渡り始める。歩きながら杖を勢いよく振り、アスファルト舗装の上でカツカツと音を立てて、見えるものについては薬師で話す。二次元や三次元の像が見えているわけではない。リンゴは丸みを帯びた形で見えるのではなく、バスも円筒形には見えず、バスのタイヤも丸くない。「見えるのは輪郭や境界線だけだ」。つまりコントラストをなす点、暗部と明部の境目だけが見えるということだ。それが閃光として現れる。彼はこれを「知覚点」と呼ぶ。これによって物体や空間の輪郭がわかり、歩くときにはそれを目印として利用する。

   白揚社刊、カーラ・プラトーニ著(田沢恭子訳)『バイオハッキング―テクノロジーで知覚を拡張する』kindle版5%(位置No.7516中 1833)、「第1部 五感」内「3 視覚」より

世界全体が、身のまわりで最も反射率が高くコントラストの強い部分を示す光の点で描かれるのだ。近づいてくる車はフロントガラスからの反射でとらえる。ビルの窓はガラスの輝きとしてとらえる。テーブルに置かれた皿といった日用品の大きさは、左端の光の点から右端の光の点までをスキャンするのにかかる時間によってわかる。「E」という文字も、コンピューターの画面上でいっぱいに拡大すれば、四本の線の輪郭と背景との境目で生じるコントラストによって、それが何かわかる。

 彼は来る日も来る日も四六時中これをやっている。一秒も経たずに消えてしまう閃光の記憶を蓄えて、それを使って世界の心的イメージを描くのだ。

   白揚社刊、カーラ・プラトーニ著(田沢恭子訳)『バイオハッキング―テクノロジーで知覚を拡張する』kindle版25%(位置No.7516中 1844)、「第1部 五感」内「3 視覚」より

 アーガスⅡによる視界は時間も空間も限定的で*76、『七色覚』劇中の人工網膜インプラントとはかなーり大きく異なりますが、しかしまだまだ発展の余地が大きく残るテクノロジーでもあり。

 ドイツのレティナ・インプラント社開発による1500個の感光性フォトダイオードを電極にはめ込んだ人工網膜アルファIMSが、アーガスが市販されたのとおなじ2013年に、欧州圏で販売するための承認をうけていて。ほかにも、コーネル大学医学部シーラ・ニレンバーグ氏の研究室では、光遺伝学(オプトジェネティクス)をもちいた別方式が構想されています。{なんでも、(網膜色素変性症者の場合には)網膜神経節細胞内に光感受性タンパク質のオプシンを挿入したうえで、オプシンをコードする遺伝子を詰め込む方法で。遺伝子にコードされた、身近な像を見たときに網膜が感知する光のパターンを網膜細胞の活動パターンと関連づける方程式を利用して、機能低下したもとの光受容体にかわって、視覚情報を脳が得られるようにするらしい}

 また、アーガスだって、べつにヒトの視覚の下位互換というわけじゃなくて、アーガスならではの機能が搭載されており、事業開発部長メック氏はさらなる展望をしめしてもいます。

 アーガスではわずかなデータしか得られないが、便利な機能が備わっている。各ユーザーが携帯するビデオプロセッサーには三つのボタンがついていて、メーカーがプログラムすることでふつうの眼にはない特別な機能をもたせることができるのだ。ロイドの場合、白黒反転機能がプログラムされている。これを使うと、ドアや窓が見つけやすくなる。濃い色をもっと濃くして薄い色をもっと薄くするコントラスト強調オプションも入れてある。

(略)

 将来的には、顔認識ソフトウェアが役に立つかもしれない、とメックは言う。さらにもう少し先へ進めたいなら「通常波長のカメラではなく赤外線カメラをシステムに接続すれば、ユーザーはあなたや私よりも暗闇で物がよく見えるようになります」

   白揚社刊、カーラ・プラトーニ著(田沢恭子訳)『バイオハッキング―テクノロジーで知覚を拡張する』kindle版29%(位置No.7516中 2149)、「第1部 五感」内「3 視覚」より(略・太字強調は引用者による)

 アーガスに秘められたポテンシャルはそれだけではありません。開発者さえ予期できなかった少し不思議な現象さえ報告されています。

 見方が上達すると、思いがけない現象に気づいた。閃光が色をほとばしらせるように見えることがあるのだ。といっても、プロセッサーが色をきちんと解釈するわけではない。(略)ロイドが知覚する色は、彼が見ている現実世界の物に合致しない。「実際には緑色の木を見ているのに、それがピンクとか紫とかオレンジとか赤とか、とんでもない色に見えたりする」とロイドが言う。

   白揚社刊、カーラ・プラトーニ著(田沢恭子訳)『バイオハッキング―テクノロジーで知覚を拡張する』kindle版31%(位置No.7516中 2257)、「第1部 五感」内「3 視覚」より(略は引用者による)

「子どものころは色が見えていたからね。だから脳内の認識因子がまだ残っているんだ」

 ロイドの担当医とメックも、ロイドの言うとおりだと思っている。色が見えると報告してきたユーザーはロイドだけではない。かつて錐体細胞からの色の情報を伝えていた双極細胞が生き残っていて、電極がそれをランダムに刺激しているのかもしれない。見ているものの色と閃光が対応していないこともそれで説明がつく。

   白揚社刊、カーラ・プラトーニ著(田沢恭子訳)『バイオハッキング―テクノロジーで知覚を拡張する』kindle版31%(位置No.7516中 2263)、「第1部 五感」内「3 視覚」より

 こうした展望や思いもよらないバグを意図的な仕様として搭載・改良したさきに、きっと『七色覚』劇中の拡張アプリ<虹>プロジェクトがあることでしょう。

 

 <虹>プロジェクトのセットアップの模様をいくつかピックアップしてみましょう。

 次の画面は応答曲線を表示していた。標準の赤と緑の曲線はすでにかなりの部分が重なりあっていたが、青の曲線はそこからほぼ完全に離れたところにあった。アプリのデフォルトで選択されているのは、青と緑のあいだにふたつの新しい曲線を押しこんでから、さらに近赤外線の端にひとつ、近紫外線の端にひとつの曲線をつけ加える方法だ。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版2%〔位置No.5207中 55{試読版14%(位置No.543中 71)}〕、「七色覚」1より

 アプリに指示されるまま、ぼくはゆっくりと頭をまわして、スペクトルの左から右へ、赤の端から順に少しずつ視線を動かしていった。イヤホンからナノメートルの数字がカウントダウンされるのが聞こえるのは、アプリが量子ドットにおこなった微調整をあらゆる波長で検証しているのだ。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版2%〔位置No.5207中 86{試読版20%(位置No.543中 104)}〕、「七色覚」1より

 これは『バイオハッキング』で紹介されるアーガスのセットアップ模様と使用者の経過観察をほうふつとさせる描写です。

 アーガスの埋め込み手術を受ければすぐに物が見えるようになると思っている人が多いが、それは違う。カメラを搭載したメガネに埋め込み装置がすぐに接続されるわけではない。手術から回復したら、ユーザーはまず装置を自分に合うように調整してもらう。各電極の刺激閾値を測定し、ユーザーごとに最もうまく機能する周波数帯域に設定する(周波数が低すぎると像は脈打つように揺らぎ、高すぎると像は薄くなってしまう)。

   白揚社刊、カーラ・プラトーニ著(田沢恭子訳)『バイオハッキング―テクノロジーで知覚を拡張する』kindle版30%(位置No.7516中 2231)、「第1部 五感」内「3 視覚」より

 ロイドは手術の一カ月後、神経生理学医に連れられて、カリフォルニア大学サンフランシスコ校の裏手にある庭園を歩いたときのことを話してくれる。医師が物の前で立ち止まっては、何が見えているか言わせたそうだ。「何が『見えている』かと訊かれて、私は画像を探していた。しかしアーガスを埋め込んだだけでは画像は見えない。そこでドクターは『ディーン、装置を左右に動かしてみてください。鶏を思い出して!』と言った」。ロイドは頭を左右に動かし、それから上下に動かし、一七年ぶりにようやく視覚像をとらえることができた。

   白揚社刊、カーラ・プラトーニ著(田沢恭子訳)『バイオハッキング―テクノロジーで知覚を拡張する』kindle版30%(位置No.7516中 2237)、「第1部 五感」内「3 視覚」より

 そして仕様的な部分のさらにさき、使用者のいだくちょっとした認識までもが『七色覚』はもっともらしい

 さきに引用したとおり、現実の人工網膜アーガスⅡによってなぜか見えてしまう色彩の美しさへの愛や期待を着用者であるロイド氏は述べますが、かれがこの技術に願っているのはもっと素朴なものだったりします。

 微妙な色調や濃淡をもつすべての色を見る能力は取り戻せないかもしれない。それはわかっている。しかし彼にはもっと単純な願いがある。「緑の木を見て、緑だと感じたい」

   白揚社刊、カーラ・プラトーニ著(田沢恭子訳)『バイオハッキング―テクノロジーで知覚を拡張する』kindle版30%(位置No.7516中 2237)、「第1部 五感」内「3 視覚」より(文字色変え、太字強調は引用者による)

 こうした願いは、色覚少数者のひとびとが解消したい不安にも通じます。

 自分が色付けした空の青、木々の緑、岩の色、川の水が、みんなとずいぶんちがうのではないか、「なんやそれ」と笑われるのではないかと恐れました。

   若林良一著『月の色、彩虹の橋』32-33頁を引用する 徳川直人著『色覚差別と語りづらさの社会学 エピファニーと声と耳』p.100、「第二章 「パイプのけむり」三つのエッセイ」2.2.1原体験とエピファニー からの孫引き(文字色変え、太字強調は引用者による)

 覚差別と語りづらさの社会学 エピファニーと声と耳』第二章で、團伊玖磨イプのけむり』を主として若林良一著の色、彩虹の橋』などさまざまな色覚少数者の文筆を渉猟した徳川直人さんはじしんの中学時代の思い出をこう振り返ります。

 そのころ読んだ学習漫画の中に人体に関する一巻があって、そこに「色盲」の話題があった。学校の写生会で風景画を描いている生徒が一人。教師らしい男性が背後から赤い屋根の家を指して「そのたてものはもっと赤いよ」(略)

 それを読んだ私は、絵の具をどう使ったらよいのかわからなくなった。色覚そのものの問題というより、若林と同様、自分にはものが皆と異なって見えているのではないかという疑念が、私を混乱させたのである。どの絵の具を取るかは推測の作業となった。中学時代、写生会で「自分には薄く見えているはずだ」と信じた私は秋の山の緑を意識的に濃く塗り、先生から「こりゃ夏の山だなぁ」と言われた。嘲笑ではなかったが「ぼく色弱なんです」と抗弁したのを覚えている。

   徳川直人著『色覚差別と語りづらさの社会学 エピファニーと声と耳』p.101~102、「第二章 「パイプのけむり」三つのエッセイ」2.2.2リアリティ分離より(略、文字色替え、太字強調は引用者による)

 ここで<虹>プロジェクトのもたらす気持ち悪いほどの色彩の奔流にインストール当初は拒否感をいだいていた主人公が、それに慣れてきたときの印象を振り返りましょう。

 ぼくは砂丘の砂をその場にとどめている、しぶとい低木の茂みを見まわした。濃い緑色の小さな葉は、僕の記憶にあるのとそんなに違っていなかった。「少なくとも、なにを見ても驚いてばかりってことはなくなった」

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版4%〔位置No.5207中 135{試読版36%(位置No.543中 192)}〕、「七色覚」1より(文字色変え、太字強調は引用者による)

 いま・ここの人工網膜使用者がまさに願っていることや色覚少数者がいだく不安が解消されることによって、心の安らぎをしめす劇中世界の人工網膜使用者……これでもかというくらい現実的な『七色覚』は、そこへさらに純然たる劇作品としての味を盛り込んでいます。

 ぼくは涙を流していることをだれにも絶対気づかれないよう、砕ける波に足を踏みいれると、しゃがみこんで顔に海水をはねかけた。これこそが、世界を見る、ということだった。これでぼくは失明の怖れから、足もとに迫ってくる一族の呪いから、逃れることができた(略)

 両手を波のうねりにくぐらせて、一秒か二秒、それとももしかすると丸々一分、緑色の中にあるたくさんの緑色の密度に圧倒されながら、僕は自分が欺かれていたのだと本気で信じこんだ。地球上のすべての人が、じつは世界をこんな風に見ているのだと。そして人工眼を持つ哀れな愚か者たちだけが例外で、とても若いときから期待値を低くするようしつけられてきたために、自分が何を手に入れそこねているか考えもしないのだと。

 だがこんな一時的な妄想が過ぎ去って正当性のない怒りが消えると、それに置き換わった正反対の真実も、ほとんど同じくらいに混乱させられるものだった。僕の目の前にある世界は、まぎれもなく、世界がそう見えるべき姿に違いはなく、それに手の届かない人々は、空っぽの眼窩にガラスか石が詰まっているも同然に、無力で気の毒なのだ。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版4%〔位置No.5207中 190{試読版40%(位置No.543中 207)}〕、「七色覚」1より(文字色変え、太字強調は引用者による)

 砂丘を見たジェイク少年はそのすぐあと、七色覚だからこそとらえられる海のの豊饒さに感動し、七色覚であることを特別視したり・常人たちを<三錐体>とバカにしたりする一派に惹かれていくようになります。

 最初は元の世界との接点かつ超色覚使用を継続する根拠として、その直後の2回目に超色覚使用を推す圧倒的根拠としてジェイクのまえにあらわれた緑色。かれの世界にみたび緑が登場するのは、さてどんな場面でのことだったのか? そこにぼくはイーガン氏のストーリーテラーとしての凄味を見ました。

 

  頑固さ狭量さが執筆にどう活きているか;『新・口笛テスト』や『貸金庫』と『七色覚』の色彩設計から

 89~90年初出のキャリア初期の作品から14年初出の円熟の作品まで、無料で読めるイーガン氏の作品には四半世紀におよぶ隔たりがあります。

 

 片やPETスキャン画像に、日々流れ作業で運ばれていく病院食の色分けされた3色の食札からも覗ける統計的な偏り(『貸金庫』)

 片や紙幣のホログラムに、昼夜の自然光、TV番組のスローモーション編集や映像(『新・口笛テスト』)

 片や人工網膜インプラントによって見える不可視光線も含んだ世界に、そこを含めても変わらない一部自然物の見た目に、テクノロジーが可能にした更なる不可視の世界(『七色覚』)

 各作に登場する事物のなかには、執筆された時代を感じさせるものもあるかもしれません。

 しかし作品自体がいまなお古びないのは、登場させた事物ならではの特色を活かしたうえで作品ごとに独自の連関を築いてみせる、グレッグ・イーガンという作家の巧みな作劇術にほかなりません。

 

 『七色覚』で大きく3度ほど登場する緑はそれぞれ対照的な状況を提示していて、『貸金庫』で大きく2度ほど登場する青にうかがえるような色彩設計の妙があります。『貸金庫』とちがうのは、そのあいだに興味をひくガジェットやシーンが沢山はさまっていることで、読んでいても対比関係についてサッと気づけるものではないかもしれません。

 しかし、たしかに築かれた文脈は、明示的に気づけなかった読者にとってもなにかしらの影響をおよぼしていることでしょう――登場人物の心境とかれのいる場の明暗とが丁寧にシンクロされた『新・口笛テスト』の光源設計がもたらす雰囲気とおなじように。

 『新・口笛テスト』とちがうのは、その色自体が劇中のメインガジェットによってもたらされた色であるということで、ここにぼくはどうしても、劇中独自設定を現実の太陽の移ろいとおなじくらいさりげなく扱えるようになってしまった、ひとりの作家の四半世紀におよぶたゆまぬ研鑽を見てしまいます。

 

 もちろんイーガン氏に限らず、さまざまな作家は、色彩や明暗もしくは遠近あるいは高所低所はたまた開所閉所といった要素を、作品のなかで巧みに取り扱っているものです。

{この記事のなかでもすでに、『アバター』のカラフル⇒モノクロ・開放⇒圧迫のコントラストについてや、『her』の舞台の相似や足音の変奏、『エクス・マキナ』の赤の変奏にふれました。

 SF関連の小説について言えば、飛浩隆さんが『海の指』の自作について触れていますし()、北野勇作さんが自作掌編の冒頭3行について解説をされていたりもしました。このblogで感想をかいたなかで言えば、去年おととしの話題作である伴名錬氏の短編集めらかな世界と、その敵』の各作も良い例でしょう。(この記事を書き始めたときには去年の話題作だったんですよ……斯様に時間の流れは早いですね……)

 こういった部分の面白味についてより詳しく知りたいかたは、SFとは無関係の論考ですが佐藤亜紀さんの『小説のストラテジー』『小説のタクティクス』だとか(後者については、熱心なファンのかたが元となった講義について詳細なノートを残してくれているので、そちらをご覧になるのもよいかと~>藤亜紀明治大学商学部特別講義講義録』)、蓮實重彦さんの批評などを読むと参考になると思います。ぼくが最近読んで「すげー!」てなったのは小松英雄さん伊勢物語の表現を掘り起こす 《あづまくだり》の起承転結』。独立した章とも取られる『伊勢物語』冒頭を一続きのテクストとして読み、無意味といわれがちな「からころも」の枕詞や言葉遊びといわれがちな「かきつはた」の折句などに、確固たる文脈を見出す論考です}

 ただイーガン氏は、「論理のアクロバット――論理的で・だというのに思いもよらない方向へ展開されていく想像力――によって名高い作家で、こうした部分については、過去に海老原豊氏がグレッグ・イーガンとスパイラルダンスを』で丹念に検討されたりもしました。

 しかしその一方で、この記事で重点的にとりあげたような部分について、イーガン氏が読み物としてどう機能させているか取り沙汰される機会は、あんまり無いように思えます。(少なくともぼくは読んだことありません。知る限りでも円城塔さんに飯田一史さんにDain氏に冬木糸一さんに……と、蓮実氏あるいは佐藤氏の論考を読んでいるかたって複数人確認できるんですけど(円城氏はさらに小松氏の研究も多数読んでる)、そういう話は見当たりませんでした。*77

 そこを「誰も見てないのだから」と腐ることなく挑戦しつづけるのは、並大抵のことではありません。

 

 イーガン氏のエッセイはたぶん、厄介なひとの厄介な難癖と映ると思います。

 ファンであるじぶんの贔屓目から見ても、頑固で狭量な部分はいなめません。

 そんなかれの作品たちは、そんな頑固で狭量な作家が、じしんの厄介な眼鏡にかなうものを妥協せず追求しつづけた賜物のように、ぼくには思えます。

 

 30年を超す長いキャリアに描かれたあまたの作品は、翻訳家の山岸真氏をはじめとするかたがた*78が精力的に紹介してくれたおかげでその大半を日本でも読むことができます。

 ファンの端くれとして、この記事を読んでくれたかたが、氏の頑固さ狭量さ厄介さが生み出したものがいかにすごいかを、実際に触れてくれたらいいなと切に願います。 

 

 

(余談も余談) 識者によるG・イーガン紹介の紹介

国立国会図書館NDL ONLINEを頼りにしましたが、雑誌の新刊レビュー的なものはほぼ全部ひっかかってなさそうですし、雑誌以外でも『批評王』とか『科学哲学』とか案外とりこぼされるものがあるっぽいです。「これ面白かったよ!」って論考があったらご紹介していただけるとうれしいです)

 作の巻末解説がそれぞれ文量があって嬉しいです。電子書籍は『ビット・プレイヤー』以降は訳者解説も識者による解説も両方併載! 紙の本にだけ掲載のものも興味ぶかいんで、興味あるかたは読まれるとよいです。

 『祈りの海』解説(電書未収録)を作家の瀬名秀明さんが(未邦訳のエッセイ・インタビューもふまえた作家論。興味深い)、『しあわせの理由』解説(電書未収録)(当時は東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授だった)坂村健さんが(イーガン氏の最新の研究に裏打ちされつつも独特な科学観・哲学観について)、『ディアスポラ』解説(電書未収録?)大森望さんが、『ひとりっ子』解説(電書未収録)を作家の奥泉光さんが(「SFならではの架空のテクノロジーを駆使することで、「もの」化された世界の不気味さを描き出す」p.435イーガン氏の「sachlich」な妙味を取り上げる作家論)、『プランク・ダイヴ』解説(電書未収録というか本がそもそも紙のみ)大野万紀さんが(収録作解説「科学的な解説というのではなく、一人のSFファンとして面白いと思ったポイントを語ってみようと思う」p.405~6。なおこの解説はSFファングループ THATTAにてネットで閲覧可能、『白熱光』解説を板倉充洋さんが(劇中の科学描写解説)、『シルトの梯子』解説を琉球大学理学部准教授)前野昌弘さんが(劇中の科学描写解説)、『ビット・プレイヤー』解説を牧眞司さんが担当。

 どれも面白い内容で、とりわけ瀬名氏の『祈りの海』解説がすばらしい。『SFマガジン1999年12月号』掲載の「順列都市クロスレビューの瀬名氏による評をさらに具体的・発展させた内容で、イーガン氏の長編短編につらぬく関心や書き味を見出し、それが短編だとうまく機能するけど長編(当時既訳があった『宇宙消失』『順列都市』)だと難しい点であることを指摘。イーガン氏のエッセイ(未邦訳の、地元オーストラリアSF批判)を紹介しつつ、『祈りの海』収録短編を長編執筆した前か後かで分けてそれぞれの違いを見出し、長編にも活かせるような味であること・エッセイからの変化を確かめ、今後の作品に期待を寄せる……というもの。

 算の時代の幻視者――フーコー、ディック、イーガン」は『SFマガジン2003年8月号』p.30~35に掲載された論考です。

イーガンの読者が深い衝撃を受けるのは、ストーリーの巧みさにでもなければ、設定の大胆さにでもなく、実はその認識に対してだ。

   早川書房刊、『SFマガジン2003年8月号』p.32・上段6~9行目、東浩紀著「計算の時代の言死者――フーコー、ディック、イーガン」より。

 寄稿者の東浩紀氏は、まずフランスの哲学者ミシェル・フーコー氏とアメリカのSF作家P・K・ディック氏(生年没年が2年ちがいの同時代人ふたり)の論考・小説に共通する感性として、「言葉(表象するもの)を、物(表象されるもの)と、両者のズレを生み出す何ものか(表象不可能なもの)という三つの組み合わせとして理解されるようにな」*79った「近代」の終わりを見据えつつも、続く「ポストモダン」へ踏み切れなかった価値観を見出し。そして、ディック的な問題を題材にしながらもかれとは全くことなる解決へむかう次代の作家イーガン氏の創作に見られる新たな世界認識を論じます。東氏が取り上げるのは『ぼくになることを』、『順列都市』、『ワンの絨毯』の3作。

 レッグ・イーガンとスパイラルダンスを――「適切な愛」「祈りの海」「しあわせの理由」に読む境界解体の快楽』は、『SFマガジン2007年6月号』に掲載された海老原豊氏による論考(第2回日本SF評論賞優秀賞受賞)

 表題にある3作と、がっぷり四つで取り組んだ労作。各作の登場人物の価値観が劇中設定・展開をつうじて徐々に揺るがされていくさまをつぶさに解き明かしていき、途中2,3の会話があるだけだったり背景にいるだけの端役に注目して、

「お話としての決着はこうだけど、物語で題材にされたトピックについて現実の社会だとこんな議論がなされていて、イーガン氏の小説の細部にもそれをふまえた部分がうかがえる。語り手が出した結論は一読すると自由に見えて、ある種の偏りがあるのではないか」

 というような具合の考察がくわえられていく、作品論・作家論としてとても興味ぶかい内容です。

 この論考自体は雑誌掲載されたっきりでアクセスしにくいですけど、『祈りの海』『しあわせの理由』にフォーカスした部分については、氏のnoteに掲載の別論考ンターフェイスとしての文学』の一章「4 グレッグ・イーガンとオウム真理教ーー超越性を超越できない人間の人間らしさについて」へと活かされています。

 色覚(グレッグ・イーガン 山岸真訳)〜言語表現とサイボーグ、わたしと世界の感覚器』は、作家の大滝瓶太さんが自身のnoteに寄せた論考です。話題にされるのは『七色覚』劇中で扱われるマイノリティ問題にも通じる微妙な揺れ動きと、一人称語りの効果について。

 zzz_zzzzはこの記事のどっかで、イーガン氏のインタビューから創作上の関心事のひとつである一人称語りについての言を引用しましたが、大滝氏の思索はそれと通じつつも別角度からのもので、興味深かったです。

 SFマガジン 2011年2月号』では、巽孝之さんの「時代のSF的無意識を解析していくジャンル的自意識として、多くの実りをもたらすことを祈念してやまない。」*80との開幕言が付された<現代SF作家論>シリーズ第一回として鹿野司さんがなたの思う猫はわたしの思う猫とは違うよ」を寄稿。イーガン氏の作品への「こういう感覚になる作家って、他にはちょっとないかなぁ。非常に特徴的」」*81な違和感――長編によく見られると云う、実体はちがうけど語感の似ている概念をそれぞれ繋げて議論を微妙にスライドさせていく語り口や細部へのこだわり、登場人物の行動や心理描写への違和感(心理描写への違和感については、鹿野氏がそう思ったという話があっただけで、具体的にどこがどうという話はなされていない)――から「イーガンは自閉症アスペルガー)なのではないか」とイーガンの作風と自閉症の類似を挙げ、自閉症の気質とおたく・SFファンの気質を重ねて「イーガンが描ける種類の文学を理解して楽しめるのは、やはり近い傾向の人が多いSFファンしかいないようにも思える。彼の特異な才能は、SFの中でこそ花ひらくことができるんじゃないだろうか。」と結論づける論考です。

 イーガン氏の話というよりも、自閉症にかんする解説(よくある誤解の否定と、現在わかっている特徴・自閉症者が苦労する社会的なズレとその原因にかんする説明)が主だった気がしなくもない。

 アメリカでは「ゴールドウォーター・ルール」などがある一方で、文献計量学などでは作品や作家の属性を判定するシステムが組まれ・成果を上げていたり{『ベストセラー・コード』に記載された知見だと、数万冊単位でテキスト・マイニングして、ベストセラーの書き手が男女どちらであるかを判定してみたり(7割ちかい正答率だったそうです)}、ハーレクインのロマンス小説のタイトル1万5千冊を調べることで劇中ヒーローの職業の偏りがわかったりもしていて*82……しかし上に挙げた小説の性差についても、可能性が高いと出た作家の経歴を調べることで、女性作家はジャーナリスト出身が多く・男性作家は大学文学部出身が多かったことから「性差というよりも(読者に事実が誤解なく伝わることを第一にする報道畑と、比喩なども駆使する文学畑という)それぞれの分野に求められトレーニングしてきた文章の性質のちがいなのではないか」というような推論が差し込まれていたように、取扱いがむずかしい話題だと思いました。そして、そんなむずかしい話題に対してこの論考は、だいぶ微妙な手つきをしているようにぼくには思えました。長めの要約を脚注にたたんでおきます。*83

 Fマガジン2015年6月号』p.312~323では、飯田一史さんが連載<エンタメSF・ファンタジイの構造>第13回でグレッグ・イーガン小論――エンタメSF論からジャンルSFのジャンルSFたるゆえんを考える」と題して、イーガン氏の他作家との共通点・万人ウケする要素は何か{話型や展開、題材の扱いに見られる(価値転倒的ではない)倫理観}ながめたうえで、そしてイーガン氏の独自性とは何かを検討されています。

 識者から指摘がなされるイーガン氏の長編のまとまりのなさ。これについて飯田氏はまとなりのないものとして頷きつつも、蓮實重彦さんの物語批判を援用して「しかしそここそが説話的構造に回収されないイーガン氏の強味なのだ」という旨の結論をのべるところが面白かったです。

 者の想像をかきたてる奇妙な災害アクションSF:「闇の中へ」』は、書評SNS『シミルボン』に寄稿された宮本道人さんの書評。『しあわせの理由』所収の一作「闇の中へ」の劇中独自ガジェット"吸入口"の面白さとその"吸入口"が物語的にどんな意味が重ねられてくるのかなどを端的に記した紹介文で、こういうところを具体的に文章化してくれるありがたいガイド。

 佐々木敦氏の評王』には、『「人間原理」の究極  グレッグ・イーガン万物理論』』という批評が収録されているらしいのですが、金欠で読んでません。

 大森望さんは代SF1500冊 回天編1996-2005』で『宇宙消失』(p.189~190)、『順列都市(p.195~196)1世紀SF1000』で『祈りの海』(p.17~18)*84、『しあわせの理由』(p.161~163)*85、『万物理論(p.229~231)*86、『ディアスポラ(p.282~283)*87、『ひとりっ子』(p.354~355)、『TAP』(p.462)『21世紀SF1000 PART2』で『ゼンデギ』(p.256~257)、『クロックワーク・ロケット』(p.286~287)、『エターナル・フレイム』(p.318~319)、『アロウズ・オブ・タイム』(p.352~353)、『シルトの梯子』(p.395)、『ビット・プレイヤー』(p.457)を紹介されています。

 バリントン・J・ベイリー氏やスティーヴン・バクスター氏などを引き合いに*88ハードSFとしてのアイデアをほめる評が多い。物語や人物造形について批判が明示されているのは意外なことに(?)順列都市』の一作のみ(「ストーリーテリングもキャラの魅力もほぼゼロ」「小説として成功しているとはいいがたい」) 近作の長編だと『ゼンデギ』について「イーガンは、そういういかにもありそうな技術を父子のドラマと重ねて、胸に迫る物語を紡ぐ。」と評価してさえいます。

 の20人、この5作」という『SFマガジン2012年9月号』の企画では鳴庭真人さんがイーガン氏を担当(p.66~68)。作家の来歴と作風、代表作5冊を紹介されていました。各冊紹介は340字程度。鳴庭氏は次の『ハヤカワ文庫SF総解説』でも『しあわせの理由』を担当されていましたが、そちらでは巻頭作表題作に顕著なイーガン氏の作家論的なお話をし、こちらでは他収録作のバラエティの豊かさ(アクション大作・ブラックコメディ・遠未来モノ・社会派……)を紹介されています。

 ヤカワ文庫SF総解説2000』では、『順列都市』を円城塔さんが(あらすじ的紹介)、『祈りの海』を長谷敏司さんが(瀬名氏の文庫版巻末解説と通じる作家論的紹介)、『しあわせの理由』を鳴庭真人さんが(巻頭作表題作に顕著なイーガン氏の作家論的紹介)、『ディアスポラ』を酉島伝法さんが(概論的紹介)、『ひとりっ子』を立原透耶さんが(各作概観的紹介)、『プランク・ダイヴ』を渡邊利通さんが(各作概観的紹介)担当しています。労作なんですけどkindle版の索引も作者ごと作品ごと更には解説担当者ごとにジャンプできて素晴らしい。流通本に関してはAmazon紹介ページへのリンクまである)、一冊あたりに費やせる文字数は300字ほど。

 ヤカワ・SF・シリーズ総解説」という『SFマガジン 2016年8月号』の企画では、『白熱光』p.69を坂村健さんが(同時期発表の『クリスタルの夜』創作動機を引き、イーガン氏の関心の変化を『ゼンデギ』とからめて書く紹介。興味ぶかい)、『クロックワーク・ロケット』p.72を大野万紀さんが(概論的紹介)担当しています。(各340字くらい) 早川書房SFマガジンの別企画である、各作380字程度の『伴名練総解説』についても思ったように、倍はほしいっす。欲を言えば10倍……。

 本読書』は商業誌などでも書評をされている冬木糸一さんの個人blogで、イーガン作品にかんする書評が多数掲載されています。(冬木氏は『ゼンデギ』邦訳まえに原著を読んでおられたりして凄い)

 『Ita's diary』はイーガン邦訳作品の用語チェックや巻末解説をされた板倉充洋さんの個人blogで、イーガン作品に登場する科学描写にかんする記事などが多数掲載されています。「ディアスポラ数理研」のように各部に登場する数理科学を網羅するような巨大記事もあれば、未邦訳作品にかんする記事もあります)

 Shironetsu Blog』はしろねつさんの個人blogで、こちらもイーガン氏の未邦訳作品にかんする詳細なあらすじを含んだ書評などが掲載されていたりします。

 くなんかないよ。さあグレッグ・イーガンの短編を読もう!』は書評SNSシミルボンに掲載された大野万紀さんの記事で、寄稿当時にでていたイーガン氏の短編集5冊からテーマ別に作品をチョイスした紹介文。

 アイデンティティを扱った作品、発展した科学技術などがもたらす人間性の変容や新しいモラルを扱った作品、社会派な作品、量子力学を扱った作品、数学を扱った作品……大野氏による各作のあらすじや読みどころを参考に読み進めていけば、氏の長編を「楽々読みこなせるようになるだろう」ための勘所を「鍛えて」おけると云う、ありがたい寄稿ですね。

 シミルボンに寄稿された大野氏の記事にはほかにもイーガン作品に言及した文章があり、2020年ノーベル物理学賞を記念して――SFにはブラックホールがいっぱい!』では、題名のとおりブラックホールを題材にしたSFが紹介されていくなかで、『プランク・ダイヴ』が取り上げられています。大野氏が紹介する本作の読みどころは、イーガン氏がインタビュー『Burning the Motherhood Statements』でこたえたグランド・テーマにも通じるもの。SF――時空ドーナツはおいしいか? 数学SF』では、題名のとおり数学を題材にしたSFが紹介されていくなかで、『ディアスポラ』『ルミナス』(=いまをときめく伴名練さんも存在しない数学SFアンソロジーを考えるさい浮かんでいた作品*89『暗黒整数』が取り上げられます。

特集に際して身に染みたのは,SFになりそうな話はたいていグレッグ・イーガンが書いているということでした.しかし

   日本評論社刊、『数学セミナー 2021年1月号』p.52、「よこがお」円城塔さんのコメントより

 セミナー 2021年1月号』の企画"数理科学とSF特集"の寄稿「SFは数学の夢を見ているか」では、円城塔さんが数学を題材にしたSFをいくつか大別して紹介する総論のなかで、イーガン氏の作品を複数紹介。数学SFとして名高い『ルミナス』『暗黒整数』はもちろんのこと、『放浪者の軌道(Unstable Orbits in the Space of Lies)*90も挙げられているのは珍しい気がします。各作については一言付記されるくらいですが、どんな数理をどういうスタンスで扱っている作品かはわかる。

(トピックはあくまでSFにおける数理科学の取り扱いであって、SFにおける数理科学者の取り扱いではない。つまり氏が先ごろされた自戒を込めたツイートのような検討はほとんどありません)

 知名度が高く面白いダグラス・ホフスタッター氏の『ゲーデルエッシャー、バッハ』の数理的なあやしさや・他創作で範囲を超えて濫用・誤用されがちな数理ネタにも一言ふれつつ、最後はMIT工科大教授などをつとめたマックス・テグマーク氏の論考『数学的な宇宙』を挙げて〆ます。(ちなみにテグマーク氏はハフィントンポストの取材に、

わたしはグレッグ・イーガンの『順列都市』を愛していて、現実の究極の本質を探究した今作はわたしの心を吹き飛ばし、そしてわたしの研究のインスパイアとなりました。

 I love Greg Egan’s ‘Permutation City,’ whose explorations of the ultimate nature of reality blew my mind and inspired my own research.

   ハフィントンポスト掲載、『15 Real-Life Scientists Share Their Favorite Science Fiction Books, Movies』テグマーク氏の回答より

 と答えたかた)

 WIRED』vol.38の[WIRED BOOK GUIDE]「読むトリップ」では、 円城塔さんが『ディアスポラ』を、ブルース・チャドウィン『ソングライン』やイタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』とともに紹介。

旅かと思えば夢であり、夢かと思えば旅であった。旅の記憶は覚束ず、何かを書き留めることがやっとで、読み返しても意味はとおらず、しかし旅を日常として暮らす者もある。

   コンデナスト・ジャパン刊、『WIRED VOL.38』kindle版68%(位置No.173中 118)、円城塔氏の紹介文より

 こんな具合の書き出しで、つまり長めのオビ文みたいな感じ。手ごわいハードSFという声がつよい(『バーナード嬢曰く。』や、先日も柱合会議コラでネタにされていたディアスポラ』について夢想的な別の一面をつたえる良いフレーバーテクストです。

 学哲学』掲載の池上高志氏東京大学大学院情報学環助教授(当時。現在は教授)}による工生命の世界観」は、「コンピュータによる新しい生命理論のための思考実験の場を提供するものである」人工生命、そこで「模索される生命の分かり方と,そこにおけるジレンマ」についての論考。池上氏は人工生命についての「究極の人工生命理論」をあつかった小説として『順列都市』を紹介して論考を閉じます。

 F流<現実使い>たちの忍法帖 ベスター、ディック、ニュー・ウェーヴ、サイバーパンク、イーガンは、『SFマガジン2003年8月号』(上述東氏の論考とおなじ雑誌)p.48~53に掲載された冬樹蛉さんの論考です。「全にして一なるものから"現実"を"分かつ"ことで、人間は己の存在と世界とが"わかった"のであ」*91り「フィクションを語ることは現実観/現実感を語ることにほかならな」*92いという観点から冬樹氏は、「とくに"分かつこと"による認識の再構築を意識的に武器として誕生し、発達してきた分野である」*93SFを概観します。

 冬樹氏によれば90年代以降は、過去にあったような「デファクトスタンダードとしての、"大きな現実"などすでにない」*94。というのも「インターネットに代表される情報通信技術の量的発達は、すでに内宇宙の共有を質的に変化させ」*95、現代人は「無数に存在する"現実"から、その都度、"現実の層(レイヤー)"を選び取らねばならなくなってい」*96て、「仮想現実を選び取り、仮想現実を渡り歩く主体性の中にしか、己にとっての"現実"を掴む手応えはない」*97のだそう。

 冬樹氏はそんな現代の"現実"を体現する作家としてニール・スティーヴンスン氏とイーガン氏を挙げ、前者の「ともすると小説として破綻を来たしかねないほどのディテールへの脱線」*98に「細部にしか神を宿しようがない時代の"現実"の反映」*99を、「最先端の科学理論・科学技術を思弁的に駆使し、人間存在にとっての"現実"が生じるぎりぎりの地平を追求する」*100作家として後者を見ます。

 

 

 

更新履歴

(誤字脱字や文が変なところは、気づき次第ちょこちょこ直してます。一杯あるのでそこは省略)

01/22 1:48 記事アップ。

    夜  追記 「(脱線;ぼくは4作ともふつうに楽しんだ)」を一部改稿、図版を増やす。

01/23 12:57 追記 「(余談も余談) 識者によるG・イーガン紹介の紹介」に冬木氏blog板倉氏blogしろねつ氏blogを追加。

01/26    誤情報訂正 ホウ・シャオシェン氏についてhazlitt氏からはてブコメントをいただき、イーガン作品の電子書籍の価格について山岸氏のツイートを読み訂正・補足する。

 

 

 

 

*1:英語版ウィキペディアが参考にしたの名は。 公式ビジュアルガイド』p.48には、『とりかへばや物語角川ソフィア文庫刊、鈴木裕子編)、『らんま1/2』小学館刊、高橋留美子著)、『ぼくは麻里のなか』双葉社刊、押見修造著)と一緒に、『祈りの海』早川書房刊、グレッグ・イーガン著)の書影が並べられています。ページ下部に掲載された渡辺水央さんのコラムでは、新海誠監督の言を引用する形で前3作に触れたあとの余談めいたものとして『貸金庫』の名前が挙げられています。

 加えて参考にしたのは、グレッグ・イーガンという小説家の『貸金庫』という短編。朝起きる度に違う人間になっているという物語で、韓国映画の『ビューティーインサイド』も共通するものがあると思って観に行ったそうだ。

   ADOKAWA刊、『君の名は。 公式ビジュアルガイド』p.48、渡辺水央(取材・文)「入れ替わりから見えてくる面白さ <とりかえばや>のサブテキスト」

 イーガン氏へ新海誠監督が送ったリプライに添付されたイラストは、こちらも『君の名は。公式ビジュアルガイド』p.84に掲載された2014年7月14日づけの企画書と知りせば(仮)』の内の1枚{その後改稿が重ねられ、『きみはこの世界の、はんぶん(仮)』(脚本第2稿14年10月26日)、『夢にさえ、逢うこと難く(仮)』(脚本第3稿14年11月07日)、『かはたれそ(仮)』(脚本第4稿14年12月21日)『かたわれの恋人(仮)』(脚本第5稿15年01月14日)などなどと題名を変えていくこととなります『君の名は。』Blu-ray コレクターズ・エディション特典Disc1『「君の名は。メイキングドキュメンタリー』0:05:40)

 ただし『公式ビジュアルガイド』では、「幼い頃にくりかえし見た夢。自分は知らない人間になっていて、知らない場所で、知らない友達がいて、言葉も通じず、最後は決まって、空にまばゆい彗星が見える。」の文言を読み取るのはかなり厳しい。少なくともぼくはこんな文面だったなんてこのリプライで初めて知りました。(この企画書が再録された『君の名は。』Blu-rayコレクターズ・エディション封入特典100Pブックレットとなると上述の文字は読めないどころかそもそもこのイラスト自体が省かれています)

*2:千ドル=イーガン氏はオーストラリア人で、インタビューしたのもオーストラリアのSFファンジンだから、オーストラリアドルだろうか? 1961年生れのイーガン氏の高校最終学年は1979年あたりになるのかな。世界経済のネタ帳様によれば1980年の豪ドル/円レートは257円で、『主要労働統計表』によれば当時の大卒日本人男性の初任給は114,500円だったそうです。つまり大卒社会人の2ヶ月余ぶんでしょうか。

*3:製作費1億ドルで興行収入1億ドル

*4:hazlittさんコメントありがとうございました。

*5:世界的な嫌われ者=米ウィキペディアのOffice Assistantのページにある「Criticism and parodies」項は、書き出しから「このプログラムはあまねくユーザーからうっとうしい出しゃばりだと罵られておりThe program was widely reviled among users as intrusive and annoying、」と火の玉ストレート。日本語圏においても、何かわからないことはないか投げかけるイルカ型アシスタントへ「お前を消す方法」と訊ねるネタでおなじみです。

*6:エリザベス・ベネット=ジェイン・オースティン氏による小説『高慢と偏見』の主人公。

*7:ちょっと古い見識かも。代表的なのは、大森望さんの『順列都市』評。イーガン氏のこの邦訳2冊目となる長編について大森氏は最高点★★★★★をつけつつも賛否両論です。

ストーリーテリングもキャラの魅力もほぼゼロ。奇怪なロジックの美しさだけで読者をぐいぐいひっぱってゆく。

   太田出版大森望著『現代SF1500冊 回天編 1996‐2005』p.195、「驚天動地の詐欺的理論が炸裂。イーガン『順列都市』に参った!」

おそらくSF史上もっとも独創的なアイデアのひとつ。その破天荒さかげんはベイリー以上。オレはだまされないぞ! って自信がある人は、ぜひ自分の頭で解読してほしい。もっとも、小説として成功しているとはいいがたいので、机上の空論をもてあそぶことに興味が持てない人は読むのがたいへんかも。

   太田出版大森望著『現代SF1500冊 回天編 1996‐2005』p.196、「驚天動地の詐欺的理論が炸裂。イーガン『順列都市』に参った!」

 また、これと同時期にひらかれた――喜多哲士さん大野万紀さんといった参加者のレポによる又聞きですけど――都SFフェスティバル'99』でも京都SF研出身の細井威男さんが「小説が下手」だという旨で切り出し、イーガン氏の作品を多数訳した山岸真さんがそれに頷きつつも「だんだん小説らしくなってきている」と弁護する……というかたちでお話がなされていたそうです。

 『しあわせの理由』の(当時は東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授だった)坂村健さんによる巻末解説でも、ネットの一般読者の感想にそうした批判が見られたとの言があります。

「ストーリー性がない」「キャラに感情移入できない」「結末がショボい」「こんなの論文で小説になってない」と書いている「理系SF読み」もいる。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真編・訳)『しあわせの理由』p.435~436、坂村健氏による解説より(2005年10月31日の第三版にて確認)

 『祈りの海』の瀬名秀明さんによる巻末解説は、イーガン氏の自己評価も引いてとても参考になります。瀬名氏はイーガン氏の短編について、イーガン氏の関心と語り口が勝ち得る普遍性から「おそらく五〇年後でも衝撃度を失わないだろう」早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真編・訳)『祈りの海』p.460、瀬名秀明氏による解説より(2003年3月15日の第三版にて確認)}と絶賛しつつも、いっぽう長篇『宇宙消失』『順列都市』については「個々のアイデアが並列的、羅列的」(『祈りの海』p.460・17行目)でキャラの行動と結びつかないなど、

長篇というのは短篇と違って時空間的なうねりが必要であり、アイデアは登場人物の行動を理由づけするものでなければならない。アイデアを行動、すなわち物語へとドライヴさせなければ長篇は成り立たない。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真編・訳)『祈りの海』p.460~461、瀬名秀明氏による解説より(2003年3月15日の第三版にて確認)

「長篇小説としての基本的な作法に欠け、残念ながら手放しで褒められる出来ではなかったように思う」(『祈りの海』p.460・16~17行目)と評価します。(長篇執筆後に発表された『祈りの海』収録短篇の習熟に作家的成長を見て、以後の長篇は弱点も改善されているのではという旨の期待込みの言)

 別口で冬木糸一さんの書評を見てみても、長編『宇宙消失』については大森氏の『順列都市』評とも通じる賛否両論が記されていますが……

 少なくとも物語的な面白さはまったく感じなかった。なんで宇宙が消失したのか、とかそう言う謎がもうどうでもよくなるぐらい説明の多さが破天荒すぎてのめり込めなかったのが敗因かもしれない。物語的には面白くなかったが数々のアイデア(モッドとかその他こまごまとした未来世界の描写が)は良く出来ているなあと思えるしそして何よりも量子論!

   hatenablog、冬木糸一『基本読書』2009/03/08掲載、「宇宙消失/グレッグ・イーガン」より

  ……他作の評も見れば、「イーガンといえばハードSF描写が肝であるといえるが、その影でこうした人間観察の上に成り立つであろう心理描写の方も鋭いことに今さらながらに気がつく」『ひとりっ子/グレッグ・イーガン』評)、あるいは「たいへんおもしろい──それもSFというか、それ以上に小説の醍醐味が大変に詰まっているので、これまでイーガンに触れたことがなかった人にも、それどころかSFに触れたことがなかったとしても、小説の楽しみを知っている人には、これを手渡したいぐらい」(「イーガンの最良の部分が詰まった傑作SF短篇集──『ビット・プレイヤー』」評)など、小説部分への高評もうかがえます。

*8:ブロックバスター(映画)=全国規模全世界規模での興収をみこんだ大予算映画のこと。

*9:ポール・アンダースン=『タウ・ゼロ』や『空気と闇の女王』『処女惑星』などを手掛けたSF・ファンタジー作家。映画監督のポール・トーマス・アンダーソンやポール・W・S・アンダーソンではないでしょう。

*10:外挿=要素を年ごとにプロットし線として繋げたうえでそれを妥当なかたちで延長することで、将来どうなるか想像したりする思考法。これを援用した同名の思考法がSF方面にもあるけれど、今回は実際的な用法のほうみたい。

*11:pixie dust=wikitionaryによれば、『ピーターパン』でそれを振りかけられた人が空を飛べるようになったfairy dustから派生した語。

*12:live actors moving in front of a projected background=映画の古典的な特撮方法であるスクリーン・プロセス(プロジェクション合成ないしバックグラウンド・プロジェクションとも)のことだと思われる。

*13:テントポールブロックバスター映画やTV番組のなかでも、タイアップ商品など関連商売や関連作が充実していて、より大きな利益を見込める作品。そんな大作を、テントをしっかりした構造物にする大きな主柱になぞらえたアナロジー

*14:エターナル・サンシャイン』=04年公開の映画。エッセイのとおり脚本をチャーリー・カウフマン氏がつとめ、監督はミシェル・ゴンドリー氏が務めた。

*15:人間関係の助言コラムを読んでいると述べる=

サマンサ「人生相談のコラム読んでた。人間って複雑で羨ましい」

   スパイク・ジョーンズ監督『her/世界で一つの彼女』0:26:03~、伊藤美穂さん翻訳による吹替えセリフより 

*16:停電の原因がもっともらしくない=

エヴァ「私は誘導電流プレートで充電してる。電流を逆に流すとシステムがオーバーロードする」

ケイレブ「停電を起こしているの?」

エヴァ「かれに見られてないと何が起こるか知りたくて」

   アレックス・ガーランド監督『エクス・マキナ』0:53:05~、桜井文さん翻訳による吹替えセリフより 

*17:全世界の携帯電話ユーザーすべての表情をマッピング=イーガン氏のレビュー通りで、劇中こんな会話があります。

ネイサン「苦労したよ。AIが人の表情を読み取って、模倣できるようにしたんだ。どうやったか分かるか?」0:36:53

ケイレブ「いえまったく見当もつきませんよ」0:37:01

ネイサン「携帯電話はマイクとカメラと通信装置をかならず内蔵している。そこで私は世界中すべての携帯のカメラとマイクにアクセスして、そのデータをブルーブック(=劇中でネイサンの興したグーグル的な検索エンジンに集めた。すべてだ。無数の声と表情のサンプルってわけだ」0:37:04

ケイレブ「世界中の携帯をハッキング?」0:37:25

ネイサン「メーカー側もそのことは知ってたよ。だが自分たちもやってることだから文句は言えない」0:37:27

   アレックス・ガーランド監督『エクス・マキナ』0:36:53~、桜井文さん翻訳による吹替えセリフより

*18:顔認識システムを備えていません=劇中描写を見ると、入邸時に訪問者は写真を撮られ、その場で顔写真付きカードキーが作成されますが、この写真/撮影はカードキーにプリントされるためだけのもので、イーガン氏が批判するとおりの描写となっています。

*19:キップ・ソーンの一般相対性理論の知識=イーガン氏は自作ィアスポラ』('97)の参考文献のひとつに、ソーン氏の著書ラックホールと時空の歪み――アインシュタインのとんでもない遺産』を挙げています。また他にも、ブラックホールにダイブせんとする研究者チームのもとへ《アテネ》ポリスの父娘プロスペローとコーデリアが訪ねてくる大傑作短編ランク・ダイヴ』('98)でも、自身のサイトに掲載した劇中の科学解説にてチャールズ・マイスナー&ソーン&ジョン・ホイーラーの共著『Gravitation』を参考文献に挙げています。

*20:ワームホールの口が球体であると現場ではじめて学ぶ=

ロミリー「あれ! あぁあれだワームホールThre, that's it! That's the wormhole!0:58:03

クーパー「分かってる。ツバ飛ばすな……球体だ。Say it, don't spray it, Rom. It's a sphere.0:58:05

ロミリー「ああ、もちろんそうだ。黒い穴だと思ってたか? Of course it is. What, you--? You thought it would just be a hole?0:58:08

クーパー「いや、でも……おれが今までに見たイラストなんかとは違う。No, it's just that all the illustrations I've ever seen, they--0:58:13

   クリストファー・ノーラン監督『インターステラー』0:58:03~{Amazonプライム版で確認されるかたは最初の著作権に関する警告表示ぶん7秒くらいをプラスして下さい}、アンゼたかし氏翻訳による吹替えセリフより 

*21:「愛は時間にも空間にも制限されない(unbounded)」との突拍子もない確信を宣言=

アメリア・ブランド「自分の正直な気持ちに従いたいの。わたしたちはあまりにも理論や学説に縛られ過ぎてきた。And that makes me want to follow my heart. But maybe we've spent too long trying to figure all this out with theory.1:27:30

クーパー「君は科学者だろ、アメリア You're a scientist, Brand.1:27:34

ブランド「話を聞いて。私はこう思うの… 愛は人間の発明したものじゃない。愛は……観察可能な力よ。なにか特別な意味がある。 So listen to me...when I say that love isn't something we invented. It's...observale, powerful. It has to mean something.1:27:35

クーパー「愛の意味か? あぁ、社会の安定と、子孫の繁栄に貢献している。 Love has meaning, yes. Social utility, social bonding, child rearing.1:28:01

ブランド「死んだ人でも愛してる。それも社会的な貢献? We love people who have died. Where's the social utility in that?1:28:03

クーパー「いいや。None.1:28:06

ブランド「もっと何か意味があるの。わたしたちが理解、できない、なにかが。たとえばそう……なにかの証拠かもしれない。わたしたちには感知することができない高い次元のなにかとか。だって十年も会ってない人に宇宙を越えて会いたいだなんて、しかもその人はおそらく死んでる。愛ならわたしたちにも感知できる。そして愛は時間も空間も越えることができる。だからたとえ理解できなくても、愛を信じていいと思う。 Maybe it means something more, something we can't...yet understand. Maybe it's some evidence, some...artifact of a higher dimension that we can't consciously perceive. I'm drawn across the universe to someone I haven't seen in decade...who I know is probably dead. Love is the one thing we're capable of perceiving...that transcends dimensions of time and space. Maybe we should trust that, even if we can't understand it yet. 1:28:07~

   クリストファー・ノーラン監督『インターステラー』1:27:30~{Amazonプライム版で確認されるかたは最初の著作権に関する警告表示ぶん7秒くらいをプラスして下さい}、アンゼたかし氏翻訳による吹替えセリフより 

*22:余談ですが……。ヴァービンスキー監督『PotC』は異様な凝りようの作品で、同メイキングではメイク監修のヴィー・ニール氏が、監督の意気に応えて、黄ばんだ目や義眼を再現するため白目まで覆うタイプのコンタクトレンズを用意したり。さらには――映画本編を観てもナカナカ分かりにくい工夫として――主役のひとりジェフリー・ラッシュ氏演じる)裏切りもいとわぬ仄暗い欲望をかかえた海賊バルボッサに瞳のハイライトを消すコンタクトを、そしてジョニー・デップ氏の演じる)海が日常すぎて陸にあがると逆に足がふらつく歴戦の海賊キャプテン・ジャック・スパロウ役へは遮光機能のあるコンタクトを用意したりしたこと(照り返しの強い海上では常人なら反射的にまばたきが多くなるけど、海の男にとって輝く海はただの日常なのでまばたきしない――言われればなるほど当然の考察ですが、気づきにくいし現実の身体でどう達成すればよいかわからないイマジネーションを、キッチリ実現させてしまうメイク!)を語っています。

*23:ちなみにこの砂金の色合いについて、『「もののけ姫」はこうして生まれた。』では色彩設計保田道世さんが宮崎監督に相談する一幕が写されており。宮崎氏は「東北の砂金はこんな色だった」という旨の返答をし、すこし赤みがかった金色が選ばれました。『もののけ姫』の色彩について宮崎氏がどこまで気を配ったかうかがえる一幕です。

*24:歯を食いしばったジコ坊の口には一本の抜けもないように見える場面もある。

*25:(もうひとりは、主人公アシタカが道中の村でご飯をいただくために故郷の砂金をさしだした女性で、アップになると桃色に塗られた口元がみえるが、すこし引いた画だと唇はほかの肌と同じ色で、口紅なのかどうなのかがよくわからない。

 余談も余談だけど、アシタカはエボシへ故郷を襲ったタタリガミの身の内にあった石火矢の鉄塊を差し出しており、その辺の対比変奏が面白い)

*26:たとえば様々なメディアの映画評を集計するメタクリティックサイトRotten tomatoes』によれば『アバター』は318ある批評のうち82%が、『her』は280ある批評のうち94%が、『エクス・マキナ』は277ある批評のうち92%が、『インターステラー』は365ある批評のうち72%が肯定的な評を寄せているそうな。

*27:『her』のロケーションについてはJESSICA ELLICOTT氏の論考China, Hollywood and Spike Jonze’s Her』がとても参考になりました。

*28:

監督に言ったよ "緑の葉は燃えないんだ"と すると彼は"私の映画では 燃えるんだ"と

   ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント発売、クリストファー・ノーラン監督『インターステラー』ブルーレイスチールブック仕様2枚組(豪華ブックレット付)、DISC2「ビハインド・ストーリー」-舞台の裏側:クーパーの農場"0:08:08、植物監修ダン・オンドレイコの言

*29:

ここでコーンを育てるなんて まともな感覚ではあり得ない はるか北の土地で標高は約1250メートルだ 今までここで コーンを育てた者はいない

   ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント発売、クリストファー・ノーラン監督『インターステラー』ブルーレイスチールブック仕様2枚組(豪華ブックレット付)、DISC2「ビハインド・ストーリー」-舞台の裏側:クーパーの農場"0:05:16、牧場主リック・シアーズ氏の言

*30:上の引用文にあるとおり、ペットだってかれには癒しではないわけです。

*31:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版1%{(試読版で10%)位置No.5572中 25(試読版位置No.586中 48)}、「貸金庫」

*32:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版2%{(試読版で23%)位置No.5572中 100(試読版位置No.586中 127)}、「貸金庫」

*33:

「こんだけ卵がありゃ――」男が叫ぶと笑いがはじけたので、わたしもいっしょに笑った。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版5%{(試読版で54%)位置No.5572中 277(試読版位置No.586中 309)}、「貸金庫」(文字色変えは引用者による)

*34:

お盆や食器ががちゃがちゃとぶつかり、脂がじゅうっといい、ガタのきいた換気扇が拷問されているような音をたてている

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版5%{(試読版で54%)位置No.5572中 274(試読版位置No.586中 306)}、「貸金庫」(文字色変えは引用者による)

*35:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版5%{(試読版54で%)位置No.5572中 272(試読版位置No.586中 304)}、「貸金庫」

*36:

わたしは、この女(わたしがちらりとのぞき見るはずの過去と、わかちあう術のない未来をもつ女)をではないが、きょうはこの女がその一部をなす、集合体としての女性を愛しているからだ――炎のようにまたたき、うつろうわが伴侶を。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版1%{(試読版で12%)位置No.5572中 33(試読版位置No.586中 57)}、「貸金庫」

*37:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版9%{(試読版で86%)位置No.5572中 459(試読版位置No.586中 498)}、「貸金庫」

*38:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版6%{(試読版で58%)位置No.5572中 297(試読版位置No.586中 329)}、「貸金庫」

*39:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版6%{(試読版で58%)位置No.5572中 296(試読版位置No.586中 328)}、「貸金庫」

*40:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版6%{(試読版で61%)位置No.5572中 314(試読版位置No.586中 346)}、「貸金庫」

*41:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『祈りの海』kindle版8%{(試読版で74%)位置No.5572中 386(試読版位置No.586中 422)}、「貸金庫」

*42:

町役場で改めて住民に訂正放送を行うシーンで、三葉の父親の横で申し訳なさそうな顔をしているスーツ姿の女性は、早耶香の姉でしょうか?

(略。質問者のプロフィール)

 その通り! よく気づきましたね。顔や髪型が似ているでしょう?(略)

   東宝株式会社発売、新海誠監督『君の名は。』Blu-rayコレクターズ・エディション封入特典100Pブックレットp.81、「MAKOTO SHINKAI Q&A」より(略は引用者による)

*43:むしろそっちのほうが目に留まると思う。

*44:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.21・16行目、「クリスタルの夜」2。

*45:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.21・13行目、「クリスタルの夜」2。

*46:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.9、4行目、「クリスタルの夜」1。

*47:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.9、4行目、「クリスタルの夜」1。

*48:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.9、3行目、「クリスタルの夜」1。

*49:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.11、5行目、「クリスタルの夜」1。

*50:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.22、13行目、「クリスタルの夜」2。

*51:

マーカス・フェアーズ:では映画に使われた建築の出発点は何だったんでしょう? ノルウェーのロケーションから出てきたんですか、それとも巨大建築の本からインスピレーションされたんですか?

 Marcus Fairs: So what was your starting point for the architecture used in the film? Did it come out of the location in Norway or did you get out a big architecture book for inspiration?

マーク・ディグビー:まぁその組み合わせです。初期のデザインは、わたしたちが見てみて頭にピンときたアイデアを包括したもので、だからじっさい彫刻作品のギャラリーなんですよ。大邸宅で撮影しようと考えていたので、わたしたちは大空港の空間や大きなコンサート建築、大きな美術館をじっさい見ることから始めました。安藤忠雄の仕事が載せられた素晴らしい本を見ました。

 Mark Digby: Well it's a combination of things. Our initial design encompasses any ideas that hit our head when we look at it, so it is actually a gallery of sculptural pieces. Because we thought we were going to be filming in big mansions, we actually started off looking at big airport spaces, big concrete buildings, big museums. We looked at a fantastic book on Ando's work.

*52:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.31・10~12行目、「クリスタルの夜」3。

*53:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.32・1行目、「クリスタルの夜」3。

*54:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.33・14~15行目、「クリスタルの夜」3。

*55:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.18・6~8行目、「クリスタルの夜」1

*56:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.38・6行目、「クリスタルの夜」4。

*57:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.44・17行目、「クリスタルの夜」5。

*58:

 タクシーが霧の中に走り去っていくのを見送りながら、ダニエルは現実を認めるほかなかった。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『プランク・ダイヴ』p.20・4~5行目、「クリスタルの夜」1

ちなみに原文はfog

*59:そして、やはり章明け(haze)と章末(fade)に霧が出てくる最終章

*60:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版98%(位置No.5207中 5207)、「編・訳者あとがき」より。

*61:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版73%(位置No.5207中 3792)、「孤児惑星」1より

*62:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版73%(位置No.5207中 3790)、「孤児惑星」1より

*63:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳)『ビット・プレイヤー』kindle版78%(位置No.5207中 4050)、「孤児惑星」3より

*64:河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版1%(位置No.4960中 26)、「新・口笛テスト」1より。

*65:〔『ファイトクラブ』同様、『適切な愛』{'91}でパンフレットの笑顔の不自然さを取り上げていたりするし{ちなみに店員の笑顔の不自然さを取り上げた一幕があるイーストウッド監督『パーフェクト・ワールド』は'93年公開}〕

*66:ジオキャッシング的にももっともらしい=委員長のルポにも日本語版英語版どちらのウィキペディアにも記載があるとおり、ジオキャッシングにはこのゲームを知らない一般人を、『ハリーポッター』になぞらえマグル(非魔法使いについて、魔法使いがつけた呼称。蔑称的にも使われる。)と呼んだりする文化があるんだとか。

*67:川端裕人著『「色のふしぎ」と不思議な社会 ――2020年代の「色覚」原論』p.156・4行目、「第4章 目に入った光が色になるまで」ヒトにも4色覚の人がいる? より。

*68:川端裕人著『「色のふしぎ」と不思議な社会 ――2020年代の「色覚」原論』p.156・行目、「第4章 目に入った光が色になるまで」ヒトにも4色覚の人がいる? より。

*69:朝日新聞社刊、團伊玖磨パイプのけむり』(文庫版)p.47「色盲」より。

*70:朝日新聞社刊、團伊玖磨パイプのけむり』(文庫版)p.45「色盲」より。

*71:朝日新聞社刊、團伊玖磨パイプのけむり』(文庫版)p.45「色盲」より。

*72:『七色覚』でも後半kindle版8%〔位置No.5207中 370~374{試読版75%(位置No.543中 392)}〕で主人公がいだいた悩みと通じるような気がかりです。

*73:朝日新聞社刊、團伊玖磨パイプのけむり』(文庫版)p.47「色盲」より。

*74:1996年初版、朝日新聞社刊(朝日文庫だ1-16)

*75:白揚社刊、カーラ・プラトーニ著(田沢恭子訳)『バイオハッキング―テクノロジーで知覚を拡張する』kindle版27%(位置No.7516中 1786)、「第1部 五感」内「3 視覚」セカンド・サイト社事業開発部長ブライアン・メック氏の言より。

*76:漢字圏の文章を読むのは大変かもしれません。「造字沼ブックス/文字の本を発掘して読みとく」さんの、ドット書体の創意について紹介・詳細に検討するnote記事で扱われるフォントサイズは一文字あたり9×9=81ピクセルのもの。

note.com

*77:見かけない一番の理由は文字数制限によるものでしょう。300字程度と紙幅が限られている『ハヤカワ総解説2000』の類いや、3000字前後ほどの各作巻末解説では、そういう部分について話題にするのは難しい。腰を据えた批評・論考でも第一第二に取り上げる話題ではないでしょう。

*78:おなじくイーガン作品の翻訳をてがける中村融氏や、 用語チェックなどをされている板倉充洋氏、そのほか編集出版に携わったかたがた。この記事でも取り上げた批評家や作家のかたがた

*79:早川書房刊、『SFマガジン2003年8月号』p.31、東浩紀著「計算の時代の言死者――フーコー、ディック、イーガン」より。

*80:早川書房刊、『SFマガジン2011年2月号』p.221、巽孝之著「SF的無意識、ジャンル的自意識――現代SF作家論シリーズ開幕にあたって――」より。

*81:SFマガジン2011年2月号』p.222・上段11~12行目、鹿野司著「あなたの思う猫はわたしの思う猫とは違うよ」より。

*82:オギ・オーガス&サイ・ガダム『性欲の科学』kindle版33%(位置No.7009 中2297)、「第5章 強くて支配的な大金持ちとちょいワルが好き」ブルーカラーとお役人はお断りからの受け売り。ただ、オーガス&ガダム氏の……

ロマンス小説のヒーローにいないのがはっきりわかるのは、ブルーカラーの肉体労働者(掃除夫や溶接工はいない)とお役人(保険査定員や副販売部長はいない)、それと、以前は女性の職業だった職種の男だ(美容師や秘書、幼稚園の先生はいない(*19))。トップ10の職業は、どれも「ステータス」、「信頼」、「能力」と関連性がある。

   オギ・オーガス&サイ・ガダム『性欲の科学』{kindle版34%(位置No.7009 中2302)、「第5章 強くて支配的な大金持ちとちょいワルが好き」ブルーカラーとお役人はお断り

 ……とのまとめは少し乱暴で、Anthony Cox&Maryanne Fisher氏の2009年の研究をググってみると、「1位の医師に代表される"金持ち"タイプと2位のカウボーイに代表される"運動神経万能"タイプの二パターンがいて、後者は保安官や兵士など"守護者"タイプも含むかも。カウボーイは現実でもフィクションでも貧乏だと考えられているけど、アメリカン・スピリットの体現者でもあり、自由人な冒険家で、自分自身やときに困っている女性を助ける美徳をもった誠実な男で、富や名声のため危険を冒す無謀な一面もある……英国ロマン主義文学のダークヒーローと似通った存在なのだ」というようなことを言ってるっぽい。

*83:「あなたの思う猫はわたしの思う猫とは違うよ」の要約=『万物理論』が題材にした、「こころの問題も入れた」(『SFマガジン2011年2月号』p.223・上段8行目)「哲学系の人」(p.223・上段8行目)もつかうようになった"万物理論"の出自(物理の力の統一理論)と変遷の紹介と、ジョン・ホイーラーの唱えた"参加型人間原理"という哲学的議論の、量子力学的の分野における実際などを紹介した鹿野氏は、

(略)だから、参加型人間原理と、力の統一理論では、使われている用語に共通部分はあるけど、論理のカテゴリとしては、まったく違うものだ。

 イーガンの長篇では、こういう複数の論理に使われている細部を経由して、別の論理に乗り換えていくということがよく行われている。

   早川書房刊、『SFマガジン2011年2月号』p.223、鹿野司著「あなたの思う猫はわたしの思う猫とは違うよ」(略は引用者による)

 とイーガン氏への違和感を言語化します。そしてもう一つ、登場人物の心の動きについてへも違和感を表明しますが、こちらに関して具体例は出されません。

 実はそれは、登場人物たちの心の動きについても同じように感じるのね。これも短篇ならあまり気にならないけど、長篇で、あるキャラクターの内面に長くつきあっていくと、いくらヘンな人物だからってそんな考え方まではせんだろうと感じはじめる。しかも、そういう人が何人も出てくる。これも部分なら違和感は少ないのに、全体として、なんつーか「心の法則」を無視しすぎだなあみたいなストレスを感じてしまう。

   早川書房刊、『SFマガジン2011年2月号』p.224、鹿野司著「あなたの思う猫はわたしの思う猫とは違うよ」

 鹿野氏は、これらの違和感をイーガン氏の気質によるものなのではないかと推測します。

 で、思うわけだ。イーガンは公の場所に姿を現すことのない謎の作家らしいけど、おそらくこの違和感の源は、イーガン自身が、自閉症アスペルガー)だからじゃないかって。本当のところ、どうかは知らないけれど、どうもそんな気がするんだな。

   早川書房刊、『SFマガジン2011年2月号』p.224、鹿野司著「あなたの思う猫はわたしの思う猫とは違うよ」

 そうして自閉症アスペルガー)の説明に大部を割きます。

自閉症アスペルガー)とは、「歴史的経緯で「症」という文字がついてて病気を連想させるけど、今の認識では、幅広い人間個性のスペクトルの端っこに位置する人たち」(p.224・下段14~16行目)で、――グラハム・ベルや「今にして思えばアスペルガーに違いない」(p.225・下段9~10行目)アラン・チューリングや「自らアスペルガーだといっている」(p.224・下段12行目)ビル・ゲイツなど――「マジョリティの人たちの常識を共有することが難しいので、結果としてユニークな発想をする。それが人類の文明に、たびたび大きな変革をもたらしてきた」(p.224・下段6~7行目。)

 自閉者はしばしば社会的に苦労しているけど、それは他者の気持ちになって考えることが難しいからで、その原因は、外界の対象とそれへの認識という記号着地問題を対象とそれを認識する自分の2項で行ない、対象-自分の認識-他者の認識という3項で考えるのにつまずいてしまうことにある。

 自閉者の特徴は「おたく的な性向とかなりかぶる部分がある。実際、SFファンには自閉寄り、もしくはまさにそのものの人も少なくないと思う。」(p.225・下段2~4行目)

 そんな具合に自閉症とイーガンの作風の似通いがたしかめられたところで、『万物理論』のオチを説明。

 しかし、こういうイーガンが描ける種類の文学を理解して楽しめるのは、やはり近い傾向の人が多いSFファンしかいないようにも思える。彼の特異な才能は、SFの中でこそ花ひらくことができるんじゃないだろうか。

   早川書房刊、『SFマガジン2011年2月号』p.227、鹿野司著「あなたの思う猫はわたしの思う猫とは違うよ」

 と鹿野氏は〆ます。 

*84:『現代SF1500冊 回天編1996-2005』p.264~265と同内容。

*85:『現代SF1500冊 回天編1996-2005』p.372~374と同内容。

*86:『現代SF1500冊 回天編1996-2005』p.423~425と同内容。

*87:『現代SF1500冊 回天編1996-2005』p.460~461と同内容。

*88:大森氏の評のうち、『祈りの海』評、『順列都市』評、『ディアスポラ』評、(ベイリーの名のみ)アロウズ・オブ・タイム』評と、計4回ベイリー氏3回バクスター氏の名が呼ばれる。

*89:早川書房刊、『SFマガジン2021年2月号』p.351、伴名練著「『タイム・トラベラー』のことなど」より。

*90:『放浪者の軌道』=ただし円城氏のコラム原文では『放浪者の軌跡』として紹介されています。

*91:早川書房刊、『SFマガジン2003年8月号』p.48・中段19~21行目、冬樹蛉著「SF流<現実使い>たちの忍法帖 ベスター、ディック、ニュー・ウェーヴ、サイバーパンク、イーガン」より。

*92:SFマガジン2003年8月号』p.48・下段12~13行目より。

*93:SFマガジン2003年8月号』p.48・下段15~16行目より。

*94:SFマガジン2003年8月号』p.53・上段16~18行目より。

*95:SFマガジン2003年8月号』p.53・上段11~13行目より。

*96:SFマガジン2003年8月号』p.53・上段14~16行目より。

*97:SFマガジン2003年8月号』p.53・上段18~20行目より。

*98:SFマガジン2003年8月号』p.53・中段13~15行目より。

*99:SFマガジン2003年8月号』p.53・中段16~17行目より。

*100:SFマガジン2003年8月号』p.53・中段18~下段2行目より。