すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

訳文;「パンツははくものであって見せびらかすものではありません。ただし…」チャールズ・ストロス氏のblogより

 以下、チャールズ・ストロス氏のblog『Charlie's Diary』2018年2月6日記事Why I barely read SF these days(最近のSFをほぼ読まない理由)』を無能が勝手に翻訳しました。(英検3級どまり) 9500 15700字(うち訳文7000 7500字+他記事訳文250字+1300字 )くらい。

 

訳した人・なぜ訳した?

 英検3級どまりです。アップした理由は2点、すごく面白い内容でぼくのメモ帳にとどめておくのはもったいないと思ったのと、英語ワカラン御当地ネタもピンとこないぼくが原語とgoogle翻訳googleとを往復して読むのはたいへん面倒なので、再読用に日本語文章を残しておきたかったからです。(致命的な誤読・誤訳があったら指摘してもらえるかもというのもある)

 タイトルからしてもう訳がアレなように、大分アレなはずです。

 Google翻訳した時点で正しそうなところも雰囲気で味つけしたし、グーグル様でもよくわからないところはおれ様がその日の気分で勘ぐることでそれっぽい感じにごまかしました。

 語り口は明瞭で、迷路みたいな文章はありません。なので高校生以上なら原文を当たってくれた方が良いと思います。

 著作権的にダメな気がしますがよく分かってません。わかるような知恵と知識の持ち主であれば英検3級で止まってません。「ダメですけど! 権利侵害なんですけど!?」と義憤したストロス氏やポール・クルーグマン先生ほかの関係者、法律に強いかたは仰ってください。消します。

 もし記事のなかで、文意が不明だったりムカついたりするところがあるとすれば、それはストロス氏ではなく訳したぼくの問題です。

 

内容ざっと説明

 ヒューゴー賞ノヴェラ部門ローカス賞SF部門ファンタジー小説部門受賞作家チャールズ・ストロス氏が、ここ最近十年くらいSF小説をほぼ読まなくなったという自身の近況報告から、M.ジョン・ハリスン氏のこれまた約10年前のエッセイ*1を振り返り、映画『スターウォーズ』影響下のSF小説を批判。『SW』監督J・ルーカス氏が参考にしたビジュアル面での源流を紹介しつつ、いかにそれがSF"映画"として最適であっても現実ともSF"小説"とも不適かを述べ、じゃあ"SF""小説"ならでは踏み込める領域って何かと言えば……と具体例を挙げるエッセイ。(2290語くらい)

 ストロス氏のお話の面白いところは、「『SW』的SFのお約束を鵜呑みにしないで一から再考しましょう」なんて"○○警察"的お説教にとどまらず、「現実世界の物事だって疑問視しないからそうと思わないだけで実はただ古くからの慣例になんとなく従っているだけの仮説にすぎないモノってありますよね、そこも踏み込んでいきましょう」と思索を広げていくところです。

 

記事訳文

Why I barely read SF these days(どうしてぼくが最近のSFをほぼ読まないかって?)』

チャールズ・ストロス氏の2018年2月6日のblogより)

 

 

 SFを書く野郎ってことで、皆さんぼくがこの分野の作品をぜんぶ読んでるSFの大先生だと期待します。(ちょっとこれは、バスの運転手さんならどんな車も道も知ってて一家言もってると思われちゃうのに似てますね)

 出版社のマーケティングのかたがただって例外ではなく、ぼくが読むだろうとか「オビに一筆書かせて」と志願してくれるだろうとか期待してSF本を送ってくれます。そんな暮らしを十年以上つづけて自覚したんですけど、献本のひとにだんだん嫌気がさしています。御馳走バンケットを7コース食べたあと、ウェイターさんがミントのうすいウェハーをすすめてきた*2みたいな胃もたれ具合です。

  いやぼくも数十年前はSF大先生でしたよ。偏食がないとは言いませんけど、90年代までの古典ならほぼ読んでます。

 けれどここ最近十年の短編は読んでませんし、長編SFについても数ページ一、二章読んだだけで大抵の本を投げたくなりました。商業的に大成功を収めた作品だって、腹に据えかねてしまうんです。

 

 いやきみのせいじゃないよサイエンス・フィクション。ぼく自身の問題だ。

 

 皆さんそうなように、ぼくもまた精進中の身です。

 さまざまな時代の変わり目を乗り越えて、ぼく自身もいろいろ変わってきました。自作で焦点をあてるものは徐々にシフトしていき、創作によって通訳する世界も変わりました。そして現在、他SF作家のえがく世界について、不信感を抑えきれなくなってしまったんです。

 十年ほどまえ、M・ジョン・ハリスンは(もしご存じないなら彼の小説はみんな読んでおくと良いですよ*3自身のブログでこう書きました 

 SF小説はどんな場面も、世界構築を超えた文筆的極致を示さなければなりません。

 世界構築は退屈です。

 世界構築は文字どおり発明を急き立ててきます。

 世界構築は書かなくたっていい部分まで書かせます。(そしてそれは読まなくていい部分でもあります)

 世界構築は読解力を浪費させます。何か達成されたと記述されればどんなものであってもなされたのだと信じるべきなのが読み物の約束事なので。とにかく世界構築は技術的にも必要ありません。そんなの沼にズッブズブ踏み入れるオタクの重たい足取りです。ありもしない場所を徹底的に調べ尽くす試みです。よい書き手はたとえ実在の舞台でもそんなマネしません。

 なるほどハリスンの指摘は実践的ですね。ただしぼくは(条件つきで)否定します。人工的だけどもっともらしい世界を暗黙のうちに構築できることこそが、SFがほかの文学と分かつところでしょう。

 たしかに存在する現実を土台にした文学とは違うタイプの小説がSFです。一般的な文学は実体的です。(そしてさほどもっともらしくありません――現実は、理にかなった強制ではありませんから)

 とはいえさっき通訳を強調したのも気に留めてください。

 世界構築はパンツみたいなものです。はく必要はありますが、見せびらかすべきではない――バーレスクの催し物でもない限り。

 衣装に耳目を集めさせる足場組みが世界構築です。

 世界構築のなされなかった宇宙の王様は、そのおろしたての衣装に茶色いタイヤ痕じみた染みを内からつけてしまうかもしれない危険を冒しています。パンツはいてないので。

 

 ストーリーテリングとは、人類の存在と意味について終わりなき内省的探究をすることです。でも人間は社会的動物です。ぼくたちは人間関係や歴史や文化といった文脈のなかに存在しますし、もしぼくたちと異なる境遇で生活するひとびとに関するフィクションを書こうとしたなら、われらが主人公がどんな社会的文脈の上に立っているのかを理解している必要があります――さもなきゃ段ボールの切り抜きみたいに作品が見えてしまうことでしょう。そしてテクノロジーや自然環境は、文脈の重要な部分を密接に規定します。

 

 たとえば今日におけるイギリスの同時代的な暮らしを小説で書こうとしたとき、あのぼんやりと光るフォンドスラブの力を借りずに済ませられる人なんてほぼいません。フォンドスラブから人類知の総和に瞬時に立ち入ることを承諾されたり、放課後のいじめっ子なら標的にたどり着くための最短経路を伝授されたり、人間関係を追跡され定量化されたり(ひどいことに)、終わりないほど無数にあるエモくて不適切なネコ動画の代償としてぼくたちがコンスタントにプライバシーを放棄すると見込まれて嘲けられたり*4。空飛ぶ見えない殺し屋ロボットがカンダハールの結婚披露宴で殺人をするし、億万長者が火星に向けてスポーツカーを送るし、孤独が伝染病みたいに伝播するのも、ぼくたちの生きる世界です。

 メディアの最近の風潮によって、コンスタントに微量の不安とトラウマをかかえながらの生活です。妙な味つけされた危機的局面を追いかける報道によって、ぼくたちは混乱しうろたえて、そうしてバランスを欠いた精神状態がコンスタントになります。

 こうしたものごとが21世紀のメインストリーム文学の獅子身中の虫です。でもべつに、わざわざ抜き出して公衆の面前に押し出す必要もないですけどね。たとえば、馬鹿をやらかそうとしているわれらがストーリーの主人公が、啓蒙的とみなされているまさしく社会らしい社会からどれだけ疎外された人物であるかを、いまいち行間から伝えきれていない場合でもなければ。

 

  これは個人的な見解ですけど、他人の考えがはっきりわかることなんてありません:なのでぼくは意識的な推論を適用して、異なる脳構造へと自分を追いつめる必要があります。友人知人とも態度や価値観が原因で、しょっちゅう仲たがいしてしまいます。(自分がマイルドなASDなんじゃないかって確信にちかい疑問をぼくはもってます)

  ぼくにとって世界構築は、自分の創作した登場人物をより容易に理解するための、行動的な制約をくわえてくれるセットなんです。

(たとえば2018年のストーリーを書くとしたら:もし新進メディアチャンネルが、アメリカの俳優たちが政変をプロデュースしようとした~なんてフェイクニュースをコンスタントに量産して、広告ネットワークを通じて拡散した舞台なら? それならこれが登場人物がコンスタントに不安をかかえ自衛的な原因で、かれらは微妙なレベルで疎外感や苦悩に支配されているんだろう)

 世界構築の目的は、社会的文脈におかれたわれらが登場人物がどう感じ考え行動するか規定することです。世界構築なしでフィクションを創作できるなんてぼくは思いません。

 

 さて、最近のサイエンスフィクションのいったい何をぼくが問題としているんでしょう?

 

 一言でいえば、21世紀水準のもっともらしい世界構築が信じられないくらい難業だってことです。(この"もっともらしい"の一語は、"内部に整合性がある"の類義語です)

 これについて大多数の作家は、整合性を放り投げ、もっともらしいフリをすることさえ放棄することで応えているように見えます:注目してもらいたいのは、登場人物だとか興奮する筋書だとか爆発だとかです。爆発と言っても「主人公だけ五体満足でいられたこの謎射程はなんだ?」みたいな厄介オタクのツッコミはお呼びじゃないですよ。

 映画やTVの特殊効果で育った世代が重視する優先順位として、その作品がどれだけもっともらしくて矛盾ない整合性が取れているかなんて、スペクタクル要素よりも低くなるのが一般的でしょう。

 ジョージ・ルーカスは『スター・ウォーズ』でドッグファイトを演出するとき、第一次世界大戦西部戦線塹壕の上空でおこなわれたドッグファイトを映像的参照としました。巨大な編隊を組んで100~200km/hで空を飛ぶ航空機なら、映画のスクリーンで同一画面上に何機もそしてどれがどれだか見分けられるほど至近距離で並んで飛ぶよう操縦することだってできます。

 第二次世界大戦はそうもいきません:交戦する航空機の速度は400~800km/hなので、撮影監督が映せるのは遠距離から点々が踊るさまとしてか、1機2機がズームされたものとしてかくらいなものですから。(第二次世界大戦下の航空戦をえがいた映画はありますが、映像が魅力的ではありません:観客が観るのは密集隊形で飛ぶ航空機群か、破壊的なモーションによる突然の閃光かくらいなものなので――つまり『メンフィス・ベル』の爆撃機の陣形か、ペーターゼン監督『U‐ボート』終盤の攻撃か、ということですね)

 現代のジェット航空機戦を正確に描写しようとしたら、視界外射程からミサイルが放たれ、ナイフファイトみたいな機銃の接近戦は数キロメートル離れた位置からコンマ秒単位の一瞬おこるだけと、映画的には使い物にならない代物になります:密集した航空隊のぶつかり合いに文脈を求めることなんて、カメラを前にしちゃえば霧散します……ぼくたちは『インデペンデンス・デイ』劇中でまるで複葉プロペラ機ソッピース・キャメルみたいに広大な編隊飛行するF/A-18s(超音速機ですよ)を見ています。

(この映画を手に取ったなら、どんな水準のもっともらしささえ超えるスペクタクル的極致の完璧な作例を見ることができますよ)

 

 ……そうして、宇宙戦が航空戦を模したジェネリックな光景となってから――それもどんな航空戦でもよいわけではなくて、善玉と悪玉を見分けられるくらい至近距離まで戦闘機同士が密集した戦いを映したいという映画監督の欲望と両立できた、ある特定時期の航空戦を模したものとなってから――2世代もの年月が経ちました*5

 

 もう一度ジョージ・ルーカスのもとへ行きましょう。(そりゃルーカスだっていじめられたら枕を涙で濡らして眠ることだろうと思いますよ。500ドル紙幣製のベッドでね)

 『帝国の逆襲』における小惑星の原野のシーンを取り上げましょう:ここ現実世界においては、小惑星帯にある直径1km以上の小惑星たちは平均して300万km以上離れて(つまり地球と月とのあいだの8倍ほど)位置していると知られています。*6

 もちろんこれは大興奮ゲームかくれんぼを描きたいストーリーテラーには全く無用の知識です:なのでルーカスはぼくたちに見せてくれたんですよね、大興奮のゲームを……*7

 

 残念なことに、ぼくたちはカスなスペースオペラを次々と吐き戻してます:識見よりも見世物(スペクタクル)、はたして鵜呑みにしていいものかと再考したりツッコミしたりしない作家によって色味も抜けてブロックノイズだらけとなった代物を。それかルーカスの映画的ヴィジョンを素朴に切り張りしただけだけのものを。

 もっと言わせてください:作家が自分の創作した宇宙の根底にあるはずの整合性をファックするとき、作家は自分の読者に不正をはたらいているんですよ。

 もしかするとその作家がそこを作品の根幹だとは考えてないだけかもしれません:ストーリーを通じて伝えたいのは人間関係であって、小惑星帯の真の目的は、その作品の主人公たちに生き残りをかけた緊迫した場面をもたらしたり強い絆のうまれる共通体験をさせることですよ。どうして小惑星間の平均距離についてそんなに興奮してるんですか? と。

 けれど、作品内の矛盾のもたらす影響は実は油断ならないものですよ。

 時間と空間のスケール因子を作り手がざっくり雑にあつかえば、それは旅行時間を傷つけているのと同じことです。旅行時間がふにゃふにゃだということは、その未来世界の貿易経済を膝撃ちしているのと実は変わりありません。そうした悪影響は、主人公のライフスタイルにも、所属階級にも、商いにも、職業にも、社会的文脈どれもに変化をもたらします。人々や、感情的な関係性にだって。

 そうした作家の書いた人々は(比喩ですよ)宇宙サイズの家に暮らしています。土台の一部やいまにも崩れそうなトランプの家の隅を傷つければ、矛盾した設定を背負った登場人物を押しつぶします。

(ルー滓(カス)小惑星帯の体験をのぞむんじゃなくて、帆船が嵐の中を航海して座礁しないよう頑張るストーリーはいかがでしょうか? その時空間設定ならスケール因子もフィットしますよ)

 

 宇宙戦や小惑星帯をとりまく悲しき古臭いお約束と同じように、現実世界の古臭い慣例がSFに持ち込まれたりもします。作り手がじぶんたちの当然を事実だときめてかかって疑問をはさまなければ、いつだってそんな事態が起こるんです。

 こんどSFを読むとき、登場人物が健康的なワーク・ライフ・バランスを送れているかどうか気にしてみて下さい。いや、正確をきせば:職業とよばれているものってなんでしょうか、脱希少性惑星間未来世界のなかでどう機能するものでしょうか? この炭素エネルギー経済の副作用がなぜポスト気候変動世界を目詰まりさせているのでしょうか? 有給職業という、労働をお金で返してもらう形をとった個人の寿命を第三者へ切り分ける個人間オークションの、歴史的な経緯はどこにありますか? ポストヒューマンの寿命による社会構造とはどんなものでしょう? 平均寿命が200歳の世界でさまざまな世代のひとが行動する場合の医学的人口統計学的制約はなんでしょうか? どうしてジェンダーが? 子供時代の世界とはどこのことですか?

 

 上述のいくつかはコンスタントに不変なものと感じるものもあるでしょうけど、でも実はそうじゃない。

  人間は社会的生物で、ぼくたちのテクノロジーはぼくたちの文化の一部で、これらの要素に僕たちの生活は大きく決定づけられています。今日のぼくたちにはなじみぶかい、アイデンディティとかけはなれ疎外された労働だって、産業革命にさきんじて存在することはありえませんでした。

 いまから2世紀ほどまえを振り返ってましょう、病原菌説によってワクチン接種や医療衛生学がもたらされるまえの時代です:成人をむかえるまでに50%の子供が死んで、10%の妊婦が出産で亡くなる――出産は一部の女性を殺し、そしておそろしいほど莫大な社会的コストのために、安定した人口の担い手である多数の労働者を絞り尽くしました。エネルギー経済が頼るのが(風車や水車:船の帆など)静的源か、筋力かという時代です。

 18世紀のイギリス人作家がどんな未来世界を思い描こうとしても、これらはどれも変えようがない当たり前の制約だったにちがいありません――いやそんなことなかったわけですが。

 

 18世紀の例と似たような、今日のフィクションでオタクが重たい足を突っ込めそうな沼候補をえらぶとすれば、晩期資本主義を取り上げてみましょうか、ぼくたち魚が泳ぐには小便くさい海なんですけど。これもまた当然視されていますが、しかし歴史的に見ても比較的最近になって生まれ発達したものですから、長期的に持続可能なものでは明らかにありません*8けれどそれなしの世界を思い描こうとするのは驚くほど難業です。

 文末にある単語福袋からひとつ適当に取り出してみて、それが資本主義と無関係だった場合のありようを想像してみてください:“広告”、"トロフィー・ワイフ"、"健康保険"、"信号無視"、"パスポート"、"警察"、"ティーンエイジャー"、"テレビジョン"*9

 

 SFは――個人的な見解ですけど――海を飲み干すべきで、そして海底(sea bed)を肺魚みたいにパクパク喘ぎながらバタバタ歩ぎながら見渡す試みであるべきなんです。

 でもあまりに多くのSFは海についてはその様子に肩をすくめるだけで、代わりに近所の水族館の水をそれどころかお風呂の水を抜く程度で落ち着いてしまいます。

 病的なケースなら、たしかに底を眺めているけどソレ高輝度に色付けされたスクリーンセーバーの金魚鉢だよって例もあります。

 もし惑星間をすべて包括するような巨大な宇宙企業が(あるいは宇宙マフィアが、それとも宇宙戦艦が)登場するストーリーを書こうとするなら、忘れてはいけないのはジェンダーや人種や権力ヒエラルキーの社会的標準状態を普遍化することや、言うまでもなくファッションが社会階級や宗教を指示したりすることや……とりわけ長く努めて考える必要があるのは、じぶんの見ているその海がスクリーンセーバーじゃないか見間違えてないかということです。

 

 もう金魚を見るのはうんざりなんです。

 

 

ぼくの感想

 「おれの宇宙では音が鳴るんだよ」、「おれのモロコシ畑は燃えるんだよ」*10

 これらは一部のオタクにとって聖句で、ぼくも「現実はちがうってわかっているけど、それでも映したいものがあるんだよ」と折れずに強い意志をもって実際具現化してみせたこれらの作品・作り手の姿勢は尊敬しています。けれどその一方で、

「でも現実的な思索をつきつめた先も気になるよな、それってそんな魅力がないものなんだろうか?」とモヤモヤした気持ちをかかえてもいました。

 

 そうしたぼくにとって、ストロス氏のエッセイの世界概観はたいへん面白かったです。

イスラエル国防軍(IDF)パレスチナイスラム原理主義過激派組織ハマスも、世界が見守るなかで激しい「ツイッター戦争」〔*42〕を展開した。IDFはこの戦いと、それが世界の世論に与える影響を非常に重視し、「いいね!」とリツイートの数によって標的の選択と地上での作戦の進行が左右される〔*43〕ほどだった。アフガニスタンでは、NATO(北大西洋条約機構)タリバンが、嘲りに戦闘の映像を交えながら、ツイッター上で非難合戦を繰り広げた。いたるところで、武装グループと政府による情報操作と戦争プロパガンダが、インターネットが無限に供給するばかげたミーム(インターネット上で拡散する画像や動画、言い回しなど)や猫の動画と隣り合わせに存在していた。

   NHK出版刊、P・W・シンガー&エマーソン・T・ブルッキング著『「いいね!」戦争 兵器化するソーシャルメディア』3%(位置No.10505中 271)、「1:開戦「いいね!」戦争とは何か」より

 『子ども兵の戦争』『戦争請負会社』『ロボット兵士の戦争』で知られる研究者P・W・シンガー&エマーソン・T・ブルッキング氏が『「いね!」戦争 兵器化するソーシャルメディアのなかでそんな風に現代社会の一風景を提示してみせたのは、blog記事がアップされる半年後のこと。書くのに時間がかかる大きな研究書とかるいblog一記事とを比べるのは、言い出しっぺのzzz_zzzz自身からしてどうかと思いますが、ストロス氏が的確な素描力のもちぬしである証左としては有効ではないでしょうか。

 

 そこから進んだ思索は、たいへんどころでないほど刺激的で――もちろん、最初の「内容ざっと説明」でも記したとおり、色んな意味でホットな語り口でもありますが(笑)――ストロス氏がなにのどこをなぜ問題視しているか、そしてかれの理想像がどんなものか具体的に魅力的に提示されている点で興味深かったです。

(語り口こそ強いですけど、特定の作品のとある表現についてその成立背景まで汲んだうえで具体的に検討していて、ぼくは「内容自体はとてもフェアだ……」なんて思いました。*11

(余談ですが、世界構築についてはチャイナ・ミエヴィル氏も言及していて、そちらも別記事で勝手に訳しました 。お二方の考えの異同を見てみるのも面白いでしょう)

 

***

 

 文章の終盤で、いま・ここの現実世界の当然についてストロス氏が疑問を列挙していくところは、円城塔氏が18年ゲンロン講座用資料としてscrapboxに記した「言葉の問題」のなかで触れられたことを詳しく開いたような論考だなあと思いました。

・たとえば、「妻子」に対応する、性別逆の単語はない

 ・でも困っていない

  ・困っていないと思っているだけ

   scrapbox円城塔『20180920 ゲンロンSF創作講座用』「言葉の問題」より

 上のトピックとそしてストロス氏の述べるSF/他文学の違いとを読んでぼくは、(これまたおなじく円城氏にまつわることですが)『これはペンです』芥川賞選評をめぐる推論と結論――とりわけ、

  を思い起こしもしました。

 

***

 

 ぼくがよく徘徊するblog『忘れないために書きます』の『シンギュラリティ・スカイ』評でも「ストロスの小説の好きなところは、テクノロジーの変化によって、人間だけでなく、法律とか経済とかをぐにゃぐにゃと変形させてしまうところですね」と言われていましたが、今回の記事を読んでストロス氏自身もやっぱりそこに重点を置いていたんだなあという感じ。

 ストロス作品ファン(と言っても邦訳本でさえ未読が半分のゆるふわファン)としては、例としてだされた先行SFや現行現実世界への疑義は、記事内の一言羅列だけでも面白いですが、ストロス作品未読のかたがいらっしゃったら、そうした疑問が『アッチェレランド』などストロス氏の実作でどのように具体化・さらに膨らまされ・脈絡をつけられているか? というのも、ぜひ味わっていただきたいところです。

 また、さきの『忘れないために書きます』さんの評では、主人公ら周りのジャンルSF的な部分について(プロットのうまい絡み具合を除くと)特筆されてないですけど、ジャンルSF的お約束に対する厄介オタクぶりや宇宙戦への熱い思いがわかったので、『シンギュラリティ・スカイ』を読むときは、そこも先行作とどう違うのか期待してみたいと思います。

 

***

 

 また、トピック・語彙の絞りかたがうまいなあと思いました。

 クレオソート氏(吐きまくるデブ)⇒オタクのドシドシ歩き⇒ウン筋つける王様⇒最近のSFはお約束の吐き戻し⇒現実の慣例のとりわけ小便臭いもの⇒肺魚のパタパタ歩き……と、表現がつながる感じ。

 あるいは、ベストセラーSF者ジョージ・ルーカスが500ドル紙幣でできたベッド(mattress)で泣いて眠るのに対して、⇔かれを批判するストロスが理想像として唱える、海を飲み干し海底(sea bed)を歩く肺魚みたいなSF像……なんて対置。

 『アッチェレランド』を読んだ10年前にしても、ぽんぽん出てくるアイデアの幅広さとゴロゴロ転がる深さに関心がいってしまって、文章芸術としてどうかというところまで注意がいってなかったので、こんどストロス氏の作品を手に取るときはその辺も気にしながら読んでみたいところです。

 

 コメント欄はストロス氏のblogのほかの記事とおなじくとても伸びていて、ストロス氏自身も記事の補足から個々の他作家作品への評価から陰謀論に悪ノリ(その理屈捏ねの投稿はどのコメより長いもので、なつかしのニコ動なら「才能の無駄遣い」タグが付いたことでしょう笑)など、さまざま答えています。"最近のSF"といっても、ストロス氏が問題とするのは新進気鋭や今世紀最大級の人気作家も巨匠も関係なくて、たとえばジョン・ヴァーリィ(まさかヴァーリィをご存じない。なにも失くしたことがないならそれでいいけど。)の近作への不満なども{「拙作『Glasshouse』(07年プロメテウス賞受賞作)を書いた経緯は、ヴァーリィの『Irontown Blues』に待ちくたびてしまったからと、かれが《八世界》シリーズを放棄して宇宙ぅぅぅマンモスやハインライン的リバタリアン火星小説執筆へと隠遁してしまったように思えたからでした」}ストレートに述べていて興味深いです。

 ちょっとこのエントリだけではわかりづらいですけど、俎上にのせられ厳しい批評にさらされるのはストロス氏自身だって例外ではありません。『Charie's Diary』には創作物の女性キャラの重要性をチェックする一つの指標「ベクデル・テスト」を自作に試してことごとく不合格だったために猛反省したエントリなどもあります。

 辛口というよりかは、じぶんの考えを歯に衣着せず正直に述べているだけなのでしょう。

 今回のエントリのコメント欄をさらに眺めていくと、ストロス氏はヴァーリィの現在をこう語って理解をしめしてもいます。 

「ストロスさんにおたずねすることでもありませんが、ヴァーリィはなぜ『マンモスin宇宙』や『リバリアンin宇宙』執筆ルートに進んだのか。《八世界》やGaea三部作を生み出したひとにとって大転身ですよね」

 その理由は簡単ですよ!

 ヴァーリィはだいたい1972~79年までに最初の《八世界》シリーズを発表しました。さらにその世界を再調整したのがつづく80~95年のことで、その間には映画脚本(『ミレニアム/1000年紀』)、別世界を描いた3部作(『Gaea』モノ)の執筆も手掛けています。そこでハリウッドの強いシニシズムが沁み込まれたみたいですね。

 25年ほど作家生活をへれば昔とまったく同じ人間ではいられないし、彼としても別のことをしたくなったんでしょう。

 同じ理由でGRRMが『星の光、いまは遠く』や『タフの方舟』の続編を書かないことも説明できます。

 ぼくがもう『シンギュラリティ・スカイ』などのエシャトン関連の作品や『アッチェレランド』の続編を書いてないのもそうですよ――まあでもぼくは彼らと比べれば若輩者で作家歴も15~20年くらいとまだまだだし、さらに書き連ねていくには十分なくらいぼくのホビー・ホースも新鮮なままですけどね。

   Troutwaxer氏のコメントへのC・ストロス氏の返信より

 新鮮なホビー・ホースとはなにか? ストロス氏のblogを読んでいると、 前述したとおりさまざまな話題を活発に議論をされているのはもちろんのこと、『Charlie's Diary』という看板からすればびっくりですが、彼以外の他人からの論考も個別の記事として複数ゲスト寄稿されていることに気づかされます。

{作家仲間からの寄稿のようですが、 作家兼ケニヨン大学生物学部教授(執筆歴に微生物学の教科書アリ) だとか、作家兼エジンバラ暁決闘者協会ドイツ中世ロングソード課程インストラクターだとか、さまざまな経歴の人のさまざまな記事が掲載されています。自作の紹介というかたちではあるけれど、中世の医療がどんなものだったか紹介記事があったりする}

 チャールズ・ストロス氏の単著は――大手出版市場においては――09年に『アッチェレランド』が邦訳されたのを最後に、日本での出版がありません。

{ファンダムに目を向ければ 2010年はるこんにて、短編集『雪玉に地獄で勝算はあるか?』が出版販売されました(。ウェブ通販終了済)。

 ストロス氏はその後、日ウィキペディアにもあるとおり『The Clan Corporate』で優れた改変歴史SF小説に贈られるサイドワイズ賞を受賞、米ウィキペディアによれば『Glasshouse』で優れたリバタリアンSF小説に贈られるプロメテウス賞を受賞、『Apocalypse Codex』で13年ローカス賞ベスト・ファンタジイ部門受賞、《ランドリー・ファイル》シリーズの作品『Equoid』でヒューゴー賞ノヴェラ部門受賞……と、さらなる躍進をつづけています。

 SF賞を逃した作品も目が離せません。たとえば『Neptune's Brood』は、ノーベル経済学賞受賞者ポール・クルーグマン氏から「星間金融を扱った最高の作品」*12と、そしてジョージ・メイソン大学教授で同大メルカトゥスセンターの研究者などを務めるアレックス・タバロック氏からは「経済学だけでなく政治学社会学そのほかの分野の最新の研究結果と制約を尊重した"ハード社会SF"だ」*13と評価されています。原書を読んだ冬木糸一氏の評を読むに、件の作品もまた、今エッセイで触れられたアイデアに肉をつけた小説のようにも思えます。

 

 blog記事ひとつ読むのだってえっちらおっちらおぼつかなくて、ひーこら息が乱れるぼくでは、小説となると、ましてや重たい長編なんてもうお手上げですね……。

 安易に落ち着くことなく*14、新しいものから新しいものへと関心を持って取材し思索していくチャールズ・ストロス氏。かれのここ最近十年くらいの歩みが、日本語で読めることを切にいのってます。

 

更新履歴

11/10 アップ  9500字(本文7000字)くらい。

11/12  追記  コメント欄の本文を補足するレスポンスを組み込み、自分の感想にもストロス氏のほかの返事をいくつか訳出。12500字(本文7500字)くらい。

11/15 追記  自分の感想の、ストロス氏の未邦訳品にさらに一作追加し、その識者による評価を訳出。15700字(本文7500字)。

21年12/09 加筆  ストロス氏の現代社会素描に、後日出版のシンガー&ブルッキング『「いいね!」戦争』が重なって見えたので記す。

22年1/26 訂正・補足  小惑星帯小惑星同士の距離にかんする訳文が知識不足によって大間違いをしていたので直すとともに、脚注で野田篤司氏のコラム『小惑星同士って、どのくらい離れているの?』『宇宙船で小惑星帯を通り抜けるとき、どのくらい小惑星に接近するの?』を紹介する。

 

 

 

*1:ハリスン氏のエッセイ=炎上したらしい。07年1月アップの記事だけど、年末に説明を追記したくらい反響があったみたい。ストロス氏の記事内でも引用されている「great clomping foot of nerdism」=「オタクのドスドス歩き(ってところなんすかね?)」でググると、あれこれ言及記事が読めます。(『アイアンマン3』原作コミックや、ブルース・ウィリス主演の老人スパイ達のカムバック映画『RED』シリーズ原作を手がけた作家ウォーレン・エリス氏なども「なんとすごい」と反応されていました。その他『都市と都市』がドラマ化された作家チャイナ・ミエヴィル氏も2011年にこれについて話していたりするのは、後の勝手に訳出記事で紹介した通りです。)

*2:「wafer-thin mint」=『モンティ・パイソン/人生狂騒曲』スケッチ「クレオソート氏」から。{ネタ元は「ご注文は?」「バケツbucket」な大食漢で、この記事の御馳走(banquet)とのダジャレだったりするのかな? と思いましたが、それぞれバケット・バンクェトみたいな発音だから、そう思うのはカタカナ英語民だけなんだろうな……}

*3:M・ジョン・ハリスン=作家。日本では「『風の谷のナウシカ』に影響を与えたのでは?」と噂される『パステル都市』が81年に、近作では『ライト』が08年に邦訳されている。

*4:fondleslab=タブレットPCのこと。fondle(撫でる)・slab(厚板)

*5:ここではジェネリック航空戦としての宇宙戦批判がなされましたが、ストロス氏が問題視するのはそれだけではありません。記事のコメント欄107では、<オナー・ハリントン>シリーズや『反逆者の月』が邦訳されているデイヴィッド・ウェーバー氏の作品について、否定と批判的検討が自作でどういう風に行なったかを記されています。{以下に訳出(※『シンギュラリティ・スカイ』一部展開ネタバレ?)}

 "軍事SF"の書き手として有名ですよね。狭量な言い方すれば、ナポレオン艦隊in宇宙ぅぅぅうの書き手として。(このジャンルについてのぼくの考えは、拙作『シンギュラリティ・スカイ』で書きました:ホーンブロワーシリーズ最高ですよね、冷戦期の攻撃型原子力潜水艦ハンターキラーと出くわしでもしないかぎりは)

   2018年2月7日15:13、paws4thot氏のコメントに対するC・ストロス氏の返信より

*6:ここにかんしては、JAXAで長年エンジニアをされていた野田篤司氏のblogの一エントリ『小惑星同士って、どのくらい離れているの?』『宇宙船で小惑星帯を通り抜けるとき、どのくらい小惑星に接近するの?』(そのものズバリ!)も参考になるでしょう。野田氏の試算ではストロス氏の言よりさらに長い483万km。小惑星は53万個くらいが見つかっているけどもし数がちがっていたらどうなるか? 後者のエントリによればもし53億個あったとしても、小惑星帯をぬけるさい小惑星との最接近距離は1300kmも離れている計算となるそう。

*7:元記事にもこの文章は劇中シーンの切り抜きへリンクが貼られていたようですが、権利者により削除されていました。正確な切り抜き位置は不明です。

*8:原文は「and it's clearly not sustainable in the long term」。zzz_zzzzとしては「~ですから、長期的に持続可能なものだという証拠はどこにもありません。」とか「ずっとさきの未来までこの体制がつづいてるだなんて断言できません。」くらいでもいい気がするけど、わからん……。

*9:このうち広告・警察・パスポートの3つがどう資本主義と関係するとストロス氏が考えているかは記事のコメント欄106に説明があります。(以下に訳出)

 エヘンッ:資本主義は――これは近代の観念ですが――啓蒙主義の産物で、産業革命と共に生まれました。(マルクス主義者の経済分析や社会主義と同じように)

 

 Ioanさんはテレビや広告のようなものでさえ(※訳者注※ローマ帝国を例に)文化的先達があることを指摘してくれましたが、ちょっと早合点されています:それらの産業は、資本主義なしには存在し得ないものです。ローマの都市の店名を店頭に書くことは、サーチ&サーチ社がかかわっているわけではありません。単一チャンネルの国営放送局によるニュースや教育番組はネットフリックスではありませんし、スーパーボウルの合間にCMを挟んだりしません。

 現代的な警察は、所有地財産を保護するために配置された警護用労働者の典型例です。(資本形成もご参考ください);パスポートは門番機構の構成要素で、労働者が高級払いの他地域へ流出することをふせぐ、経済的帝国主義に欠かせない必須条件でしょう。(マルクス主義的分析によると――資本は生産コストの少ない所へ流れ、販売用輸出品は高値で取引してくれる地方へと送られるので、その裁定取引で利ざやを得ます)……など。

 

 仰るとおりパスポートも広告も大衆娯楽も資本主義の誕生以前から存在します。ロケットが宇宙計画まえから存在していたようにね。

 これらが現行の様式をとっていることが資本主義なしにはそうならなかっただろうってことをぼくは言いたいんです。

   2018年2月7日15:03、Ioan氏のコメントに対するC・ストロス氏の返信より

 

*10:

監督に言ったよ "緑の葉は燃えないんだ"と すると彼は"私の映画では 燃えるんだ"と

   ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント発売、クリストファー・ノーラン監督『インターステラー』ブルーレイスチールブック仕様2枚組(豪華ブックレット付)、DISC2「ビハインド・ストーリー」-舞台の裏側:クーパーの農場"0:08:08、植物監修ダン・オンドレイコの言

*11:スターウォーズ』に詳しいかたが読めば、また違った意見があるのかもしれませんが。

*12:ニューヨークタイムズ掲載記事より、以下全訳。

 星間貿易の理論はよく理解の進んだトピックで、わたしが1978年に書いた論文を起点に広範な文献が存在しています。ただ星間金融についてはその限りではありませんでした。

 しかしそんな状況も今日までです。いまわたしはチャールズ・ストロス『Neptune's Brood』の新刊見本を読んでいます(そうです、コネがありまして!)。これまで書かれたどんな星間金融本より素晴らしいですよ、その理由の一つは、わたしの知る限り星間金融本が今作ひとつしかないというのもありますが。

 小説としてもファンタスティックです。

   ニューヨークタイムズ掲載、ポール・クルーグマン『The Theory of Interstellar Finance(星間金融の理論)』より

 

*13:アレックス・タバロック氏が経済学者タイラー・コーエン氏と共著しているblogMARGINAL REVOLUTION掲載記事より、以下全訳。

 ハードSFとは、現代科学の知見と制約に敬意をはらったサイエンス・フィクションです。ハード社会SF(*そうですね、正しくはハード社会科学・科学小説とすべきかもしれませんね、でも言いづら過ぎますね。)なら、経済学だけでなく政治学社会学そのほかの分野の最新の研究結果と制約を尊重したSFだとわたしは見なしています。

 

 ワームホールなど一部のテクノロジーを除けば、ハードSFは光速を超える移動をファンタジーにすぎないものとして却下します。わたしは共産主義社会がめざすエデンみたいな将来もファンタジーみたいだと思います。エンターテイメントとしてのファンタジーは何の問題もありません、もちろん、それをここ地球上に持ち込もうとしない限りは。

 

 チャールズ・ストロスは私のお気に入りのハード社会SF作家です。ストロスはハードSFもハード社会SFも執筆しており、時にその両方の眼鏡にかなう作品だってあります。たとえば『Ther Merchant Prince』シリーズは世界間をまたぎ歩くファンタジックな要素のある開発経済学にもとづいたハード社会SFで、『Halting State』は近未来のハードハードSFです。(ハイエク・アソシエイツから銀行強盗する印象的な一幕からはじまる作品です)

 

 ストロスの最新作『Neptune's Brood』は、ハードハードSFです。遠い未来の、もしかすると下記引用文が劇中世界についていちばんわかりやすいかもしれません:

 世間一般に認められた真理として、幸運を探し求める星間コロニーならどこだって銀行員が足りなくて困っているに違いない。

 舞台こそ遠い未来ですが、ストロスファンなど読む人が読めば『Neptune's Brood』には今日の時事にまつわる豊富な議論が含まれていることに気づくでしょう。今作がデイヴィッド・グレーバー『負債論 貨幣と暴力の5000年』のエピグラフで幕を開け、利他主義のイカで閉じられるのは偶然のことではありません。

 『Neptune's Brood』はチャールズ・ストロスによるお金を理解するための試みです。星間旅行や相対性理論によってもたらされるお金や銀行業とはなにか思考すること。クルーグマンによる星間貿易理論をストロスが援用しているのはもちろんこと、(こちらは明示的ではないかもしれませんが)ユージン・ファーマやフィッシャー・ブラック、ボブ・ホール、タイラー・コーエン、ランドール・クロズナーといったニュー・マネタリー・エコノミクスさえ汲んでいるのだって驚くに値しません。

 物語の要点のひとつは、お金を取り扱う速度が劇的に上昇した場合どんなことが起こるのかということです。わたしは私掠船の登場に満足しました。

 

 ハード社会SFが扱うのは経済学だけではありません。『NB』には、テクノロジーや宗教、社会組織、生殖やそれらの相互影響についての興味ぶかい言及が含まれています。

 ストロス作品のなかで一番のお気に入りとまではいきませんが、わたしは『NB』を楽しみましたし、物語についてはこちらからあれこれ言うのが野暮なくらい作品自体に魅力があります。ストロスは高速かつ豊富なアクションとミステリーで『NB』を彩っています。

 ぜひご一読してください。

   MARGINAL REVOLUTION掲載、アレックス・タバロック『Hard Social Science Fiction: Neptune’s Brood(Neptune's Broodはハード社会SF)』より

 

*14:ストロス氏基準でという意味です。ほかの作家・作品についてぼくがそう思ってるわけではありませんよ!(そうと判じられるだけの作品数こなせてない……)