日記です。4800 5700字くらい。辛抱たまらんくてエのものを観てきた週。
それはさておき秋から書いてる与太話記事、今週木曜までにアップしないと賞味期限切れになってしまうのだがはたして……。
※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※
0309(火)
宿直日。
■ネット徘徊■
なんか世代が変わった感がある
村上春樹氏の文章についてあれこれ盛り上がってるなか、はてなブックマークでバズっていた記事を読みました。
モチダ氏の文章――少なくともリンクを張った最初の記事のほうは、署名記事らしい文章で、モチダ氏についてアカデミアやらnoteやらでよくご存じの、モチダ氏をすでに信頼されているかたがた向けのものでした。
論の根拠は(すくなくとも最初に書かれた記事では)「一応研究と論文が本業(の一つ)であり、文章を書くことが仕事となっている人間の一人です(悪文ですが)」「それなりに読書家で、中学生くらいから(再読も含めれば、ですが)毎年300冊以上は必ず日本語の本を読んでいる」こと以外にありません。なので、
「なんかすごいというのは知ってるよ。具体的にどうすごいのか知りたいんだよ」
「読んだけどすごさが分からなかった。具体的にどうすごいのか知りたいんだよ」
というひとには届かない気がしました。きっとそもそもそういう外野の底辺は相手にされてないのでしょうから、それはそれでよいと思います。
ありがたいことに、じっさいに文章を引用してその面白味を検討された追記記事②も執筆してくれており、そちらはそういう外野に対してフォローしてくれる内容です。そっちを読んでから①を読む、というのもアリだと思います。
はてな匿名ダイアリー記事のほうは、具体的に村上氏の文章を取り上げたうえであれやこれや書いていて、とても興味深い。
(こちらはこちらで最初「けっきょく文章のうまさって何よ?」という片手落ちがあったみたいなんですけど、追記で書き手がいだく基準を示し、村上氏のそれがその基準においてどうであるか記されたかたちとなっています)
さて後者の記事では余談として「うまい文章」の一例としてナボコフ『フィアルタの春』が取り上げられていました。
(ちなみにぼくはこの記事執筆者じゃありません。村上作品全然読めてないし、関連評なんてサッパリなので。また、blogへ書く記事にこまっているのに匿名ダイアリーに勢力をのばすパワーはない)
匿名氏が言っているとおり、『フィアルタの春』は佐藤亜紀氏の作品論『小説のストラテジー』で検討された文章。
ぼくも前掲書やおなじく佐藤氏の『小説のタクティクス』の作品論にがっつり影響を受けて、自分が作品を楽しむすべとして(ぼくでも取り回しが聞くシンプルな部分は)重用させていただいてきたんですけど、そういう話をするひとって、意外とあんまり見かけないんですよね。
(イーガン氏の勝手に訳文記事で、ひとさまの寄稿を短いものから長いものまで40本くらい読んだけど、そこではゼロ。去年から書き終えられずにいる記事で、別作家に関する評をプロアマ問わずいっぱい読んだけど、そこでもそうした観点からの評だと明確にわかるものは一つ二つといったところだった)
ぼくの文章ふくめ、「そこらを読んできたんだろうなぁ」と思う作品語りがちらほら見られるようになっていて、時代が変わりつつあるんだな~という印象があります。(「たまたまの偏りでは?」まぁそうかも。でもまぁ誰かがなんかやってるのだと、色々やってるひとが世の中にはいるのだと知れて嬉しくなりました)
0310(水)
宿直明け日。
■自律神経の乱れ■
リスナーとしては「盆暮れ正月に元気な顔を見せてくれればそれで良い」気持ちがあるけど……
高校時代からの友人A氏はシュガリリやあにまーれを掘っているらしい。すっかりぼくよりvtuberにくわしくなってしまった。
A氏とLINEで話していているうちに(これはまぁvtuberさんというか芸能活動をされているひと全般に言えることなんですけど)、
「配信活動なんて人生の脇の脇の脇でよくて、べつに配信頻度なんて年数回でいいんだ、たとえば盆暮れ正月に元気な顔を見せてくれればそれでいいんだ」
みたいな素朴な願望を漏らし「それな~」という空気になったんですけど、まぁ難しいよなぁともなってしまった。
配信者さん側としては、
「親戚ではもちろんなければ顔も名前も知らねえ、好き勝手コメントしてくるだけの有象無象に、どうして生存報告せにゃならんのだ」
というお話ですよね。
また、傍目には普段なんてことなく雑談配信されてるように見えるひとが、配信するにあたって1エピソード1エピソードそれぞれに対してどれだけ他人に話が通じるよう、面白く思ってもらえるようお話を組み立てているか……という話でもあり、
「まじでごくごくたまに(他者に楽しんでもらえることを意図していない、山ナシ落ちナシ意味ナシの)ちょっとした近況報告するだけの親戚的なふるまいをする配信者を、zzz_zzzzはきちんと追っかけていくんだろうな?」
と胸に手を当てて考えたら、う゛っ……と言葉を濁してしまう。
0311(木)
宿直日になった。
■読む前のもの■
渡邉一弘著『戦時中の弾丸除け信仰に関する民俗学的研究~千人針習俗を中心に~
19世紀英露の中東地図埋め合戦にかんする本ホップカーク著『ザ・グレート・ゲーム』をひさびさに読み返していたら、「ナイフを刺されるも、服に挟んでいた本のおかげで助かった」という逸話が載っていたので、「これってとりあえず19世紀には実例があったんだな」となり。
そして、
「現実にせよフィクションにせよどこまで遡れるトピックなんだろう?」
と「ナイフ 本 元ネタ」「銃弾 コイン 元ネタ」「銃弾 聖書 元ネタ」とかバカの検索ワードでググってみました。
そうしたら検索結果の上のほうで釣れてきた文章。大著なのでそのうち読みたい。
総合研究大学院大学文化科学研究科日本歴史研究専攻者の博士論文らしい。筆者は昭和館につとめる学芸員さんだといいます。
0312(金)
宿直明け日。
0313(土)
つかれてしまって何もできなかった。
0314(日)
「非常事態宣言下なのに映画を見に行きました」の札を首から提げました。
神奈川の新規感染者数が10月ぶりに土曜日100人を超さなかった(そして全体としてもいちおう減少傾向にある)という言い訳を確認し、COCOAで「いま・ここ」の状況もきちんとモニタリングしつつ、バス電車じゃなくて車で直行する、飲食物は買わない、などのアレコレを気にしつつの鑑賞です。
■観たもの■
エのものの最後のやつ鑑賞メモ
(公開間もないし、そんな詳細なネタバレは控えますが、しかし「これのどこが控えたの?」と言われたら困る程度にはネタバレしてます)
とにかく立派なエンタメでしたね。
旧劇はリアルタイムで見ていない人間だし、シリーズに浸かってきてない人間なので(一周はしてるけど、これを見るにあたって再度の復習はしませんでした。観た理由も「vtuberの配信チャット欄にネタバレが跋扈して十全なオタクライフが送れない……」という非常にしょうもない理由です)、「言うてそこまででもないだろう」と思ったんですけど、そんな人間でも感慨深いものがありました。
(我が家にかえって車庫入れしているところで、「ああ、帰りにコンビニ寄って、そこで公共料金やにじさんじストアの各種商品の代金を支払うつもりが、すっかり忘れてしまった……」と気づいた程度には感情になった)
なにが立派か?
さてあの作品あのシリーズに対する批判って色々あったと思うんですけど(他者がいない、社会が描かれていない、君と僕だけが云々みたいな)、ぼくが印象に残っているのは……
たぶんエヴァの悲劇、エヴァの弱さというのは、は巨大綾波を観て「うははは、でかすぎだろそれ!」と笑ってくれる観客があまりにも少なかったことにあるのじゃないか。あれが公開された夏を思い出すに、そんな気がする。
……これですね。
旧世紀のころからあったアホな展開について、『シン』では冒頭から終盤まできっちりそのアホらしさに突っ込んでくれる存在が劇中世界に存在し、メインを張ってくれている。*1
ただ旧世紀版は、識者は「アホだ」と言いつつもその一方で、ぼくなんかはふつうに圧倒される映像的迫力があったわけなんですよね。
「すごいものを見せてやるんだ!」という若い作り手たちの意欲爆発・才気煥発といったかんじの異様な物量・センスによる書き込みとか発想とか、シュールレアリスムなある種の高尚さ・崇高さがあり、あほな雑念がすっとぶくらいにスゴい描写で、劇中人物も真顔でまじめに対応している(し受け手にしたって、「謎本」ブームが起きるくらいにはまじめに捉えられもした。少なくともぼくはティーン時代「おぉ……」とふつうに度肝を抜かれた)
そういう「やってやる」感が、なんだか控えられている。ただただ、アホな/陳腐なものとして描いている。
ここでようやく「別次元のものを観ている!」と気づけました。
そして「アホなシーンはアホだと笑っていいんですよ」と言ってくれたうえで、とんでもないアホをやらかす。
カーテンコールの挨拶をする役者としては「き、きみらまで挨拶することないだろ!?」というようなポッと出のセリフさえない新参たちが(ドラクエでいえば勇者や魔王、旅の仲間たちにまざってぶちスライムベスや凶メタルスライムがでてくる感じ。大御所名脇役スライムさんはともかくなぜきみらが……)スクリーンにひとりで立って現われ退場していく。アホですわ~!
このアホさは、ガイナックスが『エヴァ』後『トップ2』後につくった長編ロボットアニメ『グレンラガン』、その終盤の大見得が(「倒れていった者の願いと 後から続く者の希望! 二つの思いを 二重螺旋に織り込んで! 明日へと続く道を掘る!」というアツい名言が)、映画版として生まれ変わったさい登場人物の生死がかわったために「お、おまえらがその螺旋の列に!?」という布陣となったアホさに近い。
きっと作り手だってそんなこと百も万も無限も承知でしょう。でもやらなきゃならなかったんだ。そうしないとゴールラインは迎えられないんだ。そういう切実なアホさを感じました。
今作はこれまでとおなじく綺麗な作品でありましたが。
〔これまでどおり微に入り細に入る対比変奏が盛りだくさん。ぼけ~っと見てしまったので細部をひろえてませんが、たとえば『Q』の、境界を叩いたり叩き壊せなかったり跨げなかったり跨いだりする作劇に興奮したひとはたぶん楽しめる要素が無数にある気がする。
{アバンのパリと、本編序盤の日本、そしてさらには後半と、画面右から左に横向くデカ物(エッフェル塔、鉄塔、ヴンダー)が宙に回転しているとか。
あるいはパリで楽しく仕事してるマリが、ハンドル式のコントローラを持ち回転させて釣り糸式のメカを操る(そして大漁となる)アバンタイトルに対して、本編の日本で徐々に元気になってきたシンジくんが(車でどこかへ連れてってくれる*2)とあるキャラから釣竿をうけとり、そして糸を垂らし回転させる仕事をやっていくこととなる(ぜんぜん釣れない)……とか、よくわからないレベルで対比してる。
中盤の坂道をのぼるトラックアップショットが(このショット、めちゃくちゃ地に足ついていて「大地を踏みしめてるぞ!」感とひしひしと楽しくなる、個人的には劇中一、二をあらそう素晴らしい映像)、ほかのシーンとどんな連関をみせるのか? とか、とにかくきれいな整えられた映画だと思う}〕
今作は、旧劇とちがって全くもって綺麗な作品でもあり。
{旧劇ファンが求めるような痛ましさ・居たたまれなさ・緊張感・絶望はない。
いやマジで皆無かというとそんなことはなく、年上と年下と、それぞれの世代の他者から怒りの声がシンジへぶつけられていて、それなりに居たたまれない気分になる。でもそれは「こういう人達ならこう言うだろう」と納得できる、それなりに健全でそれなりに理不尽なものだ。ぽやぽやした現実でぽつぽつとなされるような「怒られ」だ。*3。でもそんなことは『Q』のぬるさの時点でわかってたことじゃないか?}
今作は、旧劇とちがって全くもって綺麗じゃなかった。
{「うおっ!」と身を乗り出したり「うえっ」とのけ反るド迫力のアクション、だれもがハッと「今の何!?」と驚き「ヤバいことやってる」とギョッとするような画つなぎ・演出・メタの跨ぎかたは無い。
いやマジで皆無かというとそんなこともない。でもどれも「オッやってるやってる」という感じじゃないでしょうか?(『カメ止め』上田監督/松本純弥さんのネタバレ感想配信で「TVシリーズの最終回っぽくて超アガる~!」との言が聞けたように、今作の第四の壁をまたぐような演出は、旧世紀版とはちがってショックを与えるものではない。その逆、実家に帰ってきたような安心感を与えるものでしかない)
アクション面では、アバンタイトルのボスキャラへ主役機が鉄塔をぶっ刺そうと突進・失敗するさまを、主役機に固定したカメラが捉えるショットに(主観的にはfixだが、客観的にはトラックアップ+ティルトアップである複合的ショットに)、
「こんな面白い画が前座なのか!」
と驚いたひとの、期待に応えられるものではない(バーチャルカメラを利用したりなど、新たな試みがとられた映像だから、ニブチンのぼくがその凄味・面白味に気づけてないだけかもしれないけど……)}。
笑えるくらいにカッコわるく無様なことを、それでもやるんだと粛々とこなしていく。じぶんのなさけなさ・ちっぽけさに向き合い、だからといってそれを美しくカッコよくあるいは痛々しく文学的に芸術的に彩るような虚勢を張らず、そのまま立ち続ける。そういう立派さが、この作品にはありました。
***
……さて、エのものこそホンニャカのほほんと見ていられた人間ですけど、個人blogのささいな記述をさっと思い出してしまうくらい、ぼくはぼくで十年単位で囚われてきたものがあるわけですね。
で、それについて「じゃあお前にとってどんなものだったんだよ?」と言うと、具体的なかたちにしてきていないという……。
ぼくはぼくの宿題があり、不細工だろうがなんだろうがそれと向き合わねばならないなぁと、映画を観てより一層つよく思いました。
0315(月)
宿直日。
*1:そしてもちろんそれは、ぼくが知る限り少なくとも『破』の時点で「見えすぎじゃないコレ!?」と劇中ツッコミが(『シン』冒頭のそれと同じものが)入ってたものであり。そうしたエヴァというあほらしさに目を向けていた劇中人物が、『シン』でああいう立ち位置になるのは、とても納得がいくことでもありました……。
*2:車を運転してた気がするけどよく覚えていません。その程度には感情になっていた。
*3: 鬱屈するシンジへ、何も知らない上の世代からの年長者らしい「なんか事情があるらしいけどそれにしたってその態度はどうかね!?」という旨の当然の叱責も飛ぶし。
元気になったシンジへは、知っている下の世代からの「今更そんなムシのいいことを!?」という旨の当然の罵倒が飛ぶ(。とくに後者の声は、『シン』の感想をめぐるとたまに見かける「DV男が更生したからって」云々という庵野監督への批判と重なり、そういった点からも作り手がいろいろ込み込みで考えていたことがよくわかる。前者もまた、割合よく耳にされた旧聞だと思う)。
どちらもしごく当然で、それなりに健康的な批判だ。理不尽に当たり散らされているわけではない。