日記です。1万字くらい。今月は2つ、日記以外の記事をアップするぞ(願望)!
『忘却バッテリー』3巻収録話まで順次無料公開(~3/16)で2巻途中まで読み全巻+ジャンプラ有料話ポチって連載おっかけ組になったり(とくに71話⇒72話! 脳が『カイジ』や『嘘喰い』の素晴らしいゲームと同じ部分を刺激された)、『ゴジラ対ヘドラ』大傑作だなと思ったりした週。
※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※
0302(火)
なにをしていたか何もおぼえていません。
0303(水)
■ネット徘徊■
NOVEL DAYS × tree2000字書評コンテスト「講談社文芸文庫」
2000字という尺を無駄なく使った文章で、どれも立派なものだと思いました。
ただしサイトの導線はもう少しどうにかすべきだと思う。
(発表ページから各評タイトルをクリック⇒評の目次ページ→スクロールダウンして「第1話」を見つけてクリック⇒評本文という2クリック3プロセスが必要)
手軽にアクセスできる紹介(評)を読む→興味をもつ⇒「論じられた本を読んでみよう!」(購買する)
……みたいな流れをこのコンテストをひらいたひとが想定していないならコレも正しいかたちなのかもしれませんが、入り口の優秀な評にたどりつくのがダルいのはどうかと思う。
素人の勝手な印象として、1クリック毎にアクセス数が激減するイメージを持っているのですが、そうでもないんでしょうか?
0304(木)
■そこつもの■
ダブルチェックも粗忽者では意味がない
「前に言われたアレだいじょうぶだよね?」「注文してます~」
「注文中ってことだったけどまだこない?」「確認します~」
注文してなかったという凡ミスをおかしたうえに、最初に聞かれた段階で気づけたはずなのに再確認しなかったので問題発覚までめちゃくちゃ時間を過ぎさせてしまった。
おれはなにをやってるんだ。
■悩みもの■
回らない寿司屋のサーモン
ぼくの家は年に一度か二度、車で数十分の距離にある別の市の回らないお寿司屋さんへご飯を食べに行ってました。
お祝いごとがあれば向かう第一候補で、誕生日になるとよくせがんでいました。
大人になってからもそれは変わらず、兄が彼女を家族に紹介するさいもそこが舞台となりました。彼女がサーモンを頼み、「ごめんなさい扱ってないんですよ」と言っていたこのお店が、兄がべつの彼女を連れて再訪したさい、気づいたらサーモンをネタとして扱うようになっていて。
そしてそこから1,2年で店を畳んでしまったことを久しぶりに思い出しました。
現状で満足いくほど回っているなら、それをとくになにか変える必要はないわけですよね。
「これまでやってなかったことへついに手を出しました!」
「新しいものに挑戦です!」
みたいなことを、なんだか素直によろこべなくなってしまった。なにか裏があるんじゃないかと不安になる。
0305(金)
読んだり書いたりしました。
0306(土)
■読みもの■
みかわ絵子著『忘却バッテリー』読書メモ
序盤のあらすじ;
全ての球児にとって清峰葉流火と要圭は、絶対に忘れることのできない、悪夢のようなバッテリーだ。
ドカベン好きの親父に太郎と名づけられてた山田は、野球雑誌をみながら中学時代をふりかえっていた。
74校から熱烈スカウトを受けるも全校辞退し表舞台から消えた中学生怪物バッテリー清峰と要。弱小シニアでお山の大将だった山田はかれらと対決してじぶんの才能のなさを感じ取ってしまった。
山田はユニフォームを脱ぎ、おろしたての高校の制服に着替えて、都立小手指高校の門をくぐった。
もう野球はしない。青春を謳歌する。さっそくかわいい子が目に入った。
「向こうにすごいイケメンいるって」「マジ!?」
彼女らを目で追った先には、女子生徒にむらがられている男子高校生2人の姿があった。
正確には1人。声をかけられているのはもっぱら黒髪の長身のほうで、もうひとりの明るい髪のほうは誰にも相手にされていなかった。え、あれって……。
「いやいやいや ありえないよ」
視界の先の存在が信じられなくて山田は首を横にふって去ろうとしたが、もういちど男を見てしまう、すると、明髪の男と目があってしまった。
「助かった~女子が誰一人俺に話しかけてくれねぇんだもん! 所在なかったわ。よかった友達いて!!」
こちらへ駆け寄り肩をつかんでフレンドリーに話しかけてくる男に山田はたじろぐ。
「え、僕は友達ではないと思うけど……話すの初めて…ですし?」
「そうだっけ? オッケオッケ今から俺たち友達な」
「え」
「パイ毛~~~~~!!」
「え」
「アイアム俺イズKANAME KEI!!」
目の前で一発ギャグを披露するこの男は、怪物バッテリーのかたわれ冷静沈着智将捕手・要圭そのひとだった。
いったいどうして彼がこんな知性の欠片もない一発ギャグを?
「パイ毛おもしろい」「だよな!? 焦ったぜ」
「わ」
女子に囲まれていた黒髪が合流した。黒髪の正体は怪物ピッチャー清峰そのひとだった。どうして二人がおれと一緒の高校に?
「一体どうしてこんな野球部もない都立にいるの…?」
……というお話です。
読んでみた感想;
3/16まで1話ずつ無料公開区域をふやし、3巻収録分までのエピソードが最終日は一挙に読めるサービス期間らしいです。
ぼくは2巻の途中までが無料公開された時期に読み、つづきが気になり2巻を買い、3巻を買い、最新9巻までまとめ買いし、ジャンププラスでコミックス未収録分をチャリンチャリンしました。
1巻あたりの内容まではピンと来なかったんですけど、試合のはじまった2巻からギアが入って、巻をかさねるごとにドンドン面白くなっていきます。
10巻収録相当のエピソードは、主人公の記憶喪失について核心にせまった内容。
初回から何度も出てきたしょうもない滑った一発ギャグや、冒頭からそうだから「そういうものなんだな」と読んでいた幼馴染エースピッチャー&キャッチャーの関係性、その具体的な輪郭に注目してみせ。
そうしたドラマと一緒に、主人公チームである新設野球部に関して、よそのライバル校からシビアな視線がそそがれることとなり、野球というゲームの輪郭をクッキリさせてきもします。
対戦してしまった敵スター選手と(そうじゃない)じぶん、体格に恵まれたチームメイトと(そうじゃない)自分、地方からスカウトされるも1軍にはいれないスポーツ推薦生の悲哀、3年の引退をきめてしまう自分の失敗……
……『忘却バッテリー』は、天才と凡人、理想と現実のギャップを、野球という勝ち負けのあるスポーツで、高校野球という独特の時空間でえがいている作品で。
そうしたシビアさが、公式大会編では主人公チームの弱点をつく敵校の戦略というかたちで示されていて、ここがうまい!
たとえば主人公チームには(実は)イップスでうまく送球ができないひとがいるのですが。
かれとかつて所属していたチームの先輩たちが所属する高校と対戦したときは、打球がそのイップスの内野手のほうへ集まるようにバッティングする。
{その先輩はめちゃくちゃ性格のよい人生の先輩なのですが(聖人ではなく、高校生らしい弱さをもってもいる等身大の先輩というかんじ)、試合でそうした戦略をとるとき、先輩はべつに表で見せる顔と内心が異なる腹黒キャラでもなければ、試合となると性格が変わる二重人格キャラでもなく、先輩の所属校がそういうダーティな校風でそれに呑まれてしまったということでもない。
そこまでの好人物ぶりそのままに、「これも真剣勝負なので、すまんなっ!」という具合にイップスという弱点を突く}
イップスに関する解決については、演出といい何といい素晴らしいものだけど、「"友情・努力・勝利"の、ある種のスポ根・人間ドラマらしい解決だなぁ」とも思ったんですが……
……次の(1巻で練習試合をした因縁の)名門校との公式戦はドえらいことになっている。
記憶喪失のキャッチャーがなぜそうなってしまったのか?
名門校との公式試合で明らかになるのですが、そのトラウマが明らかになった直後に、もうひとつ別角度から現実という壁をつきつけてくる展開があるんですね。
71話がそれに気づいた回で、72話が気づきの詳細提示回なんですけど。72話で記されたことというのは、ここに至るまでで何度も何度も言及されてきたことであって、「あーたしかに! 気づかんかったけど、気づけ得たことだったわ!」と柏手をうつ展開でした。
『カイジ』とか『嘘喰い』の素晴らしいゲーム展開に出くわしたときと脳がおなじ部分を刺激される気持ち良い展開なんですね。
そういう展開が、このキャラのこのトラウマと向き合う局面で出てくるというのがまた凄い。
脳内主題歌は樋口楓『アンサーソング』ですよ。ツラいしアツい。
0307(日)
宿直日。
0308(月)
宿直明け日で勤務日。
■生きもの■
「アの人はなんだかんだやることきちんとやったけど、それを揶揄してきた側はやることやってるのか? いつやることをやるんだ?」問題解決に向け
インターネットでは続々と、きょう公開の映画にかんする感慨が早くも漏れ聞こえてきましたね。平日だというのにすさまじい熱気だ。
何度かの公開延期などにより、ぼくみたいな性格の悪いオタクたちは、
「アの人はいつになったら完結させるんだ」
と(公言するか内心で思うかはともかくとして)揶揄してきたわけですが、アのかたがしっかり解決した(らしい)結果として浮上するのが、
「アの人はなんだかんだやることをきちんとやったけど、アレに対して"いつになったら完結するんだよ~"と思ったことのあるひとは(include私)やることをきちんとやっているのか? いつやることをやるんだ?」
問題ですね。
じぶんの宿題とむきあわなきゃならんよね。アのひとはえらい。
■そこつもの■
豚足とタッチパネルの相性の悪さ
はてなブックマークを漁っていたら、「あとで読む」ボタンをタッチしてしまったらしく、それがちょうど自分の記事でセルフブクマしてしまいました。はずかしい。
■観たもの■
小田基義監督『ゴジラの逆襲』鑑賞メモ
『ゴジラ』第二作。
前半の大阪と後半の北海道とでキッチリ対比変奏していく作劇がたのもしい。
大阪では、洋式のダンスホールで若者たちがペアダンスを踊って回る(が警報で消灯、一斉に逃走となる)。
北海道では一方、和風な料亭で男たちが酒を片手に歌をうたう(がゴジラ登場の報をうけ、玄人の飛行隊が「は」と着々と仕事場に戻る)。
倉谷滋さんは、『ゴジラ幻論』のなかでゴジラ映画を東宝のサラリーマン映画の系譜にあるものと言っていましたが、そうして観ると、なるほどたしかに怪獣によって仕事や恋が左右される社会人のお話でした。
ヒーローに漁船に魚群をしらせる缶詰工場の飛行機パイロット、ヒロインにパイロットと連絡をとりあう無線室の女性社員をすえ、日常(缶詰工場パイロット/工場社長令嬢の娘との恋愛)から、非日常(機械不良により音信不通となった同僚パイロットの捜索や、工場をこわしてのち行方不明のゴジラの捜索)へ敷居をまたがれたりじぶんからまたいだりするさまが描かれていきます。
婚約した男女のダンスはゴジラ襲来により止み、彼女といっしょに郊外の豪邸へ行ってもそこで同僚と出会いゴジラが近くにいる工場へ急行することとなる。
北海道での宴会もゴジラにより中断されるし、北海道での捜索飛行は、戻ってくるよう呼びかけるヒロインの無線に「了解」と答えつつも、婚約者である男はえんえん飛行を続けるさまがえがかれる。
ゴジラとは関係ないけど、旧知の飛行隊仲間と北海道の料亭で出会った主人公カップルが、かれらと部屋をおなじくし宴会をひらき、ヒロインが空気になじめず肩身狭そうにしているところもまた印象的でした。(中島監督『来る。』みたいな居心地悪さ)
怪獣プロレスは、早回しの高速バトルと、ふつうの速度で映される、首かぶりつきや。体勢変換をしたさい、振り回されるしっぽなどでこわれる建物など人間社会がえがかれる。
早回しは撮影時のミスを「面白い」と逆に採用した結果らしいのだけど、チャチく見えてしまうというのが正直な気持ちでした。こういう印象はもしかすると、早回しがチープな演出にもちいられがちであるとか、ビデオテープが一般普及以後じぶんで映像の速度を変えられるようになったこととかが、そんな印象を抱かせるのかもしれないと思いもして、
「当時の観客はどう思ったんだろうか?」
と気になるところですね。
洪水がおきる地下鉄淀屋橋駅の特撮が見事。
序盤中盤後半と、それぞれのバトルで怪獣たちの特撮ショットと人間たちの実写演技ショットとをつなぐ天地のアクションがあって、なかなか文脈だてられているなぁと感心しながら観ました。(洪水も、その文脈を形成する一場面ということですね)
冒頭のパイロット二人が迷い込んだ無人島では、格闘するゴジラvsアンギラスが立つ地面下の谷に、人間ふたりが頭を手で覆っておびえており、かれらに(怪獣の格闘に由来する)岩や砂ぼこりが天からふりそそぐ。
中盤の大阪では、格闘するゴジラvsアンギラスが立つ地面下の地下鉄淀屋橋駅に、脱獄犯が逃げ隠れており、かれらに(怪獣の格闘に由来する)天井崩落、川からの浸水がふりそそぎ、改札をくぐった駅構内を逃げるかれらを洪水が追いかける。
後半の北海道では、無人島にたたずむゴジラにたいし、足元にはドラム缶を並べて着火することによる炎の規制線が張られ、頭上には航空隊のミサイルによる雪崩がふりそそぐ。
ふってわいたような脱獄囚も、そうした整理された文脈に不可欠の要素なのだなぁと再鑑賞して気づきました。
かたや護送車からにげだした脱獄犯(その結果として、暴走・衝突事故。都市を火の海に変え、ゴジラを激怒させた)。かたや飛行機のコクピットに収まりつづけ、ミッションをこなした飛行隊+志願者の主人公(その結果として、ゴジラの熱戦に焼かれ墜落・山へ衝突事故。山に雪崩をおこし、ゴジラを雪の中に埋めた)。
飛行隊のミッションは、主人公の相棒の自由意思によるちょっかいがきっかけとなった作戦であり。
最後の大一番は「ゴジラvs人類」という総力戦の感があるのですが、それが(まじめな公僕の)任務を遂行する高潔な使命感・責任感だけでなく、(脱獄犯もまた、ある意味で持ち合わせたような)自由意志もフル回転させているところ……そこに『ゴジラの逆襲』の特異なところがあるような気がします。
(いや最近読んだ『筺底のエルピス7』も『君の名は。』も、「任務と無関係に思える人情が、作戦成功には大事なのだ」という作品だし、むしろ王道なのでは? そうかも)
画面いっぱいに大写しにされた大阪城がヒビ割れていく(カメラも大阪城自体もうごかず、ヒビだけがどんどん出来ていく)ショットは、コマ撮りアニメか何かなんでしょうか、ギョッとする不気味さがありました。
坂野義光監督『ゴジラ対ヘドラ』鑑賞メモ
『ゴジラ』シリーズ第11作。
映画オタ{というか(映像分野の)フィクションのオタク。「蓮實重彦読みました!」て方向に踏み出す前段階}として色気づいたときに観て「傑作だわ~!」と思った作品を観返したら「あれ、記憶と違ってそうでもないな?」と首をかしげることも少なくない。
そんななかで良い方向に評価が変わった珍しい例が『ゴジラ対ヘドラ』でした。
傑作じゃないわ、大傑作だわ!!
「何かあるんだろうなぁ」とは思っていたけど、BDについていた映像特典で監督じしんが一言解説されたところによれば*1、一部シーンは現実の事件をハッキリ反映したものなのだそうです。(女子高の昏倒シーンは、光化学スモッグによる健康被害をうけてのものらしい)
(略)本多猪四郎さんの戦争体験とか色んなものが――ゴジラは悪気はないんだけどデカいから東京やって踏みつぶしちゃって、「大変だ、大変だ」っていうことになるんだけど。アレを見た当時の人たちは、広島の原爆だとか東京大空襲だとか、そういうことをやっぱり思い浮かべて、そういうひどい目にあったことに対するアンチっていうか反対っていうか、そういうことに繋がって、わたしの11作目のヘドラも社会的メッセージを入れようと思ったわけですけど。
最初にこんどのゴジラをやるうえでも、あくまで環境問題をテーマにする(略)ゴジラシリーズその後いろんな怪獣と戦うだけになっちゃったけど、「もういっぺんテーマ性を取り戻そう」ってある程度うまくいったのがヘドラなんではないかと思ってます
(主題歌『かえせ! 太陽を』は)レイチェル・カーソンという『沈黙の春』を書いたアメリカのすばらしい海洋生物学者が1966年に、「農薬で鳥も魚もいなくなっちゃった」ていうようなことを書いてるすばらしい本がありまして、(略)それがちょうど大阪万博・高度成長のピークと公害がばぁっと出たっていうときに「ゴジラをすこし久しぶりに考えろ」て田中友幸ってプロデューサーが言うもんですから、いろいろ考えたら、公害が現代の悪というか。
あれはあの――シーンに、画面に出てきますけども――高校、女子高生が体操していてバタバタ倒れる。あれは現実に――杉並の高校で――あった事件で、そういう事件が起きたので自民党も環境問題、「公害はイカン」てことを言いだしたからちょうど作れた
ただ、志以上に映像・作劇が立派なんですよね!
劇中女子高をヘドラが飛ぶシーンなどヘドラの活躍は、現実の時事と無関係に、とにかく怖気が走りました。
飛行シーンは、怪獣の姿かたち(ここでたぶん初お目見えする飛行特化形態。前段のゴジラとの対決でみせた、ふわーっと浮遊する姿ではない)、速度(異様に速い)、被害の対象となる人物の近しさ(メインキャラである家族のひとり)、前段の暴力描写(麻雀をたのしんでいた成人男性が、窓を割って入り込んだ毒液で部屋中がひたひたになりそこで浸かって死ぬさま。そこらの市街地を逃げ走るひとが、ヘドラのガスで見る見る顔色がかわり骨になるさま)などなどが混然となって、「終わっちゃった」感がすさまじい。
スクリーンに現れたなにかが「これはあれだな、こういうことだな」と理解するまでのコンマ単位の間隙で、こちらへ猛速で迫り、人々に不可逆的な変化を与えて、去ってしまう*2。
母がその教え子たちが倒れた校庭を、少しあと(後日とかではなく同日中、同じシークエンス中)に主人公の少年が走る。ひとけはなく*3、ただ、グニャグニャに曲がり錆びたジャングルジムは前景でナメられる(主人公の走りに合わせてパンすることでたまたま映ったというかんじで)。観ていて「もう終わっちゃったんだな」「取り返しがつく、引き返し可能な時点はすでに過ぎてしまったんだな」と思ってしまう風景。これが多分だいじなんだなと思いました。
最近あじわったなかだと、ラファティ『空(スカイ)』の速度感とどうしようもなさに近い感触。
{メインキャラはだいたい無事という点で、『空』の容赦の皆無っぷりとは違うんだけども。
『対ヘドラ』は、そうした(たぶんメジャー商業作なら、長編映画作品なら取りたい)容赦について、容赦ならないサブテクストや、好転しようが何だろうが過程で生まれる喪失感は本物であるというシーンを描くことでそれをカバーしている感がある。
序盤も序盤で主人公家族の父に不可逆な変容をあたえ、劇中ではいちおう口も頭もハッキリしているけれど、「今後の生活は大丈夫なのか?」と心配になるレベルの特殊メイクをほどこしたり。
父が海底・水中を調べに行ったのでひとり海辺で少年が彼の帰りを待ち、約束の時間になっても帰ってこない(前もって各人の時計を合わせてたアクションもよい)ので、大声を張る。父への愛と、一人残されてしまったときの心細さをこれでもかと描いたり。
そういった取り返しのつかなさとそれに伴う感情のツラさを序盤で印象づけたことで、鑑賞者であるぼくは、その後なにか不穏な展開があるたびに不安がぶり返した}
ゴミや油・廃液、投棄されたこわれた人形や時計、死んだ魚などの膜が海面いっぱいにただようセンセーショナルなOPと主題歌からすばらしい。
(細部がシャープに見えるHD画質以上で観るとより楽しいでしょう)
そのまま謎の遊び小屋があって一人息子が怪獣遊びをしている、瀟洒な主人公ファミリーの家が登場し、近隣住民から異様なオタマジャクシの死体がもちこまれ、背景をみてみたら、壁に並んだシリンダーに(オタマジャクシとおなじような具合で過去に持ち込まれただろう)水棲生物の畸形の標本が無数に並んでいる。
何気なく点けていたテレビでは、報道映像として、目の前のオタマジャクシをさらに巨大化させたようななにかが大きな商船二隻を転覆させているさまが流れている(すでに事態は進行しており、「問題を未然に防げるか否か?」という分水嶺は、人間が異変を関知したときにはもう、とっくのとうに過ぎてしまっている)……冒頭からしてすごい。
後半までのドラマ、怪獣の都市破壊描写、怪獣プロレスは異様なテンションで、とにかく映画としてカッコいい。
アヴァンギャルドな演出はもちろん目を耳を惹きます。
{細菌や細胞が培養されたようなイメージ映像をバックにし環境汚染反対ソングを歌う、地下ゴーゴー喫茶はもちろんのこと。
デパートの上空のアドバルーン(ヘドラ風)から吊るされた「アンチヘドラ酸素マスク発売中」ののぼりが印象的な、ヘドラ下の人間社会にかんするアート・アニメ/風刺アニメ調の書き味の風景点描。
多重画面をつかったTVのワイドショー。さまざまな宇宙の絵を全面にだしての会話劇(話者は写さない)……どれもが予想外のタイミングで挿入され、ハッと画面へくぎ付けにさせる}
惹きますが、それ以上に単純な地力、絵と音とをつなぐ作劇術がすさまじい。
たとえばゴジラが緑がかった怪獣ヘドラをジャイアントスイングする。すると映像は、緑の雀卓上でジャン牌をかきまわす成人男性らの手元をうつしたショットへと映像がつながれて(緑色と回転するムーブマンの類似つなぎ!)、雀荘の窓を、遠心力で飛んで行ったヘドラの緑のヘドロがべちゃりとたたき、ゴジラが回すたびにその液量は増えて、窓を割り、部屋がひたひたになるまで浸食する。
あるいは自宅で伏せる父と、電話ボックスの子との対話するあのシーンのおそろしさ。
会話するためではなく(その会話でなにか重要情報が伝達されるのではなく)、断線し会話が不意に途切れるために・会話相手に何が起こったか分からない不透明さのために電話越しの会話があるような作劇。恐慌する父から子のほうへ画面がきりかわると、電話ボックスの窓が割れたさまが映される……それにより雀荘の窓が割れた直後の惨状が記憶からよみがえり、ぼくのなかで「終わっちゃった」という感情が再燃する。
終盤の最終決戦はちょっと長く・じれったく感じられましたが、これは観ているぼくの体調的な問題かもしれない。(宿直明け+すでに別作を観た後の二本目だったから、こちらの集中力が失せていただけかも)
にじりにじりの静的な怪獣プロレス(毒液を警戒してか? チョコチョコチョコと小さく横移動したりする)のあいまには、その場に居合わせた・駆けつけた複数のひとびとの姿や行動がさしこまれ。
{偶然その場で音楽デモ集会をひらいていた、ゴーゴー喫茶で環境汚染反対ソングを歌う若者たちのその場にあるものをつかった抗戦。複数いる専門家による複数の策をもってそれぞれ動く、複数の自衛隊。草むらから無言でゴーゴー若者や怪獣の対決を見やる、地元(?)の年配たちの姿(照明の当て方といい、物語的立ち位置といい、不気味で幽霊じみていてこわい。(若者へも怪獣へもなにも介入しないし、逆にかれらからアクションを起こされもしない、ただ見ているだけの存在が草むらの年配さんがたなのだ。どういう立ち位置のひとびとなのか、映画内で明示されることは全くない)}
最終的には「ゴジラってスーパーマンみたい」という冒頭の子どもが何気なく発した戯言を肯定するかのような機転でもって動的なチェイスへと転じる。この静動のコントラストなども素敵でした。
(さて、このゴジラの機転ですが、その絵面だけがわりあいネタにされがちな印象をもっています。
たしかに驚きの起点なのですが、でもあれは上のような予言的なことばのほか、劇中でヘドラが浮遊し飛翔するメカニズムともからんだもので、映画を観ているあいだは「なるほどな~!」とすごく納得する展開でもありました)
坂野義光監督は、助監督としての仕事がおおく{黒澤明監督作品(『蜘蛛巣城』『どん底』『隠し砦の三悪人』『悪い奴ほどよく眠る』)や成瀬監督(『妻として女として』セカンド助監督)、『太平洋の奇跡キスカ』など}、純粋な監督として活動されたのは『ゴジラ対ヘドラ』一作のみのようなんですが。
初監督にもかかわらず、30日余りの短い撮影期間でこれだけすさまじいものを仕上げてしまったことといい。助監督時代の水中撮影経験が、脚本に映像にとてつもなく活きていたところといい、良い意味でスタジオシステム時代の層の分厚さをものがたる裏話だなぁと思います。
監督作が『ゴジラ対ヘドラ』で実質おわってしまったのは悪い意味でのスタジオシステム時代の分厚さという感じもします。
「坂野氏がもっと認められ、いくつもメガホンを取る世界だったら……」
と惜しまずにはいられない大傑作。
*1:ちなみに映像特典の収録時期はギャレス・エドワーズ監督『GODZILLA』で元気になったころらしく、オタクの星として称賛されたレジェンダリーのえらいひと(当時)トーマス・タル氏が『ヘドラ』をイチ押し作品として挙げてたことなども記録されていて、その意味でも面白い資料だと思う。
*2:ただしヘドラの暴力は、女子高シーンにおいては人命が損なわれるわけじゃない。
*3:「ひとけがない」ということは、冷静に考えれば、他の強い被害者と同じような目になったら骨などが残るので、「どこかへ救急搬送されたのだろう」ということになる(。じっさい校庭で倒れたひとは、死んだわけではない)。だけど観客がそこまで頭をまわしていられる余裕はない。