すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

SFのロマンを剥ぐ;短編集『なめらかな世界と、その敵』感想

 記事題どおり、伴名練氏の短編集の感想です。

 一言でまとめると、『なめ、敵』はSFが嫌いなかたにもオススメですよ、伴名練ほどSFが嫌いなひともいないので。という話。

 本文11万+余談5万+自分語り1万字。文字数制限に引っかかっちゃったのでこの辺で。この感想読み終えられるなら期間限定(3月末まで)無料公開中の表題作を数周できちゃうどころか、短編集まるまる読めちゃうよって文量です。「続きを読む」をクリックするより何よりぜひ版元をクリックして伴名氏の短編集をお買い求めください

 

 (03/25追記)この感想文は、何度も下書き保存と公開を押し間違えながら書き上げました。その結果、記事中にリンク張ったかたへ何度も通知が飛んでしまう事態になっていたようです。ご迷惑おかけして申し訳ございませんでした。

 

※伴名練著『なめらかな世界と、その敵』収録作やその他言及作について、がっつり結末までネタバレした感想が続きます。ご注意ください※

(注記がない限り、引用文の略・太字・色変えなどは引用者がつけました)

 

約言

 どうしようもなく面白いしすごいし好きな作品集です。

 内容;SFの中短編集です。扱われる題材は改変歴史/シンギュラリティ物、<わたし>を扱う脳化学アイデンティティ物や、低速化現象モノの時間SFなど色々です。

 重いSF愛は、SFを無批判に肯定し浸る妄信ではなく、駄目な所を駄目と言った上でそれを認めてこそ可能な美を見ようと進む凄い愛です。(この姿勢が特に明示的なのが『ひかりより速く、ゆるやかに』)

 記述;文体や語り口が作品毎に変わり、その語りならでは出せる味を出しています。人物世界劇中独自ガジェットががっつり結びついた、雑味を排した作品構成と物語運びで、それゆえか劇中特異事象について「そういうものがある世界です、以上」という風に映っちゃう部分もありました。{各作の虚構が「この世界にはこういう虚構があるのだ」と読者に思わせる説明は十分あるけど、「現実にもありえそう」と思わせるほど十二分にはない}

 ここ好き;語りの多様さと、作劇への活用。先行作へのオマージュと批判と自作への反映。『シンギュラ~』の歴史との距離感、『美亜羽~』の対象との距離感。『ひかりより~』の全て。

 

 

ざっくり感想

 出版にさきがけて公開された熱すぎるくらいに熱い「あとがきにかえて」や、表紙にまかれた「2010年代、世界で最もSFを愛した作家」という帯文、著者のSF愛を取り上げた各種書評を読んだ人のなかには「うっわ」と尻込みしたかたもいるんではないでしょうか?

「いやそもそもSF自体に興味ないんで……」

 と。

 2001年SFセミナー瀬名秀明氏が発表した調査によれば、とある出版社の編集者さんは「だれもSFと名付けられたものを読みたくない」と言っていたそう。そこから20年近く経った現在でも、こうした抵抗感をもってるかたはそれなりにいらっしゃるんではないでしょうか。

 なんかありますよねジャンルの大前提みたいなやつ。「なんか色んな積み重ねがあるのはわかりました。でもべつに、地元で愛され大事にされる伝統芸能が見たいってわけでもないんですよね……」てなるやつ。

(無闇に戦線拡大して爆縮ですが、たとえば「カイジュウが攻めてきたんである。だからロボットに乗って戦うのだという以上のことは無粋である」に、「いや無粋て……」となるやつ。

 あるいは「いいかギレルモ!仲間と信じてこっそり教えてやる!健全な日本男子はピンチにおちいった女子パイロットをローアングルで撮るんだよ!」に、「いや健全て……」てなるやつ)

 『なめらかな世界と、その敵』は、そんなあなたにこそお勧めしたい作品でしたね。

 だって伴名氏ほどSFを嫌っている人もいませんから

 

 

 

 

低速化時間SFのせつなさを剥ぐ;『ひかりより速く、ゆるやかに』

 序盤のあらすじ

 noteのHayakawa Books & Magazines(β)にて、冒頭1万5千字が公開中です

 感想

  ▼『ひかりより~』の先行作をふまえた洗練

 伴名氏はSFを抱く。

 膨大な先行作を渉猟し、その魅力を一作にぎゅっと詰め込んでいます。

 そのオマージュは、図書館に寄ってさまざまなSFを貸し出し限度いっぱいまで胸に抱えて家に持ち帰る伴名少年の姿が思い浮かぶような鮮やかさです。

 それがわかりやすいのがかりより速く、ゆるやかに』で、劇中にタイトルをもじった表現のある○りにし日々の光』から受けついだ演出が劇中でどう膨らまされたかを見ていったり、そして劇中"低速化現象"と言い表されたシチュエーションが、劇中でほぼ明示的言及のあった先行作9(詳しくは補足で。)でどう視覚的に表現されたかその変遷を見ていったりすると、伴名練氏による洗練がよくわかります。

   ▽窓を覗く、空間に踏み入る;『ひかりより~』の先行作をふまえた洗練

 『去りにし日々の光』はボブ・ショウ氏による時間SFです。

 静かな山林をすすんでいた夫婦はとある一軒家で車を留めた。夫の目当てはスロー・ガラス。吸収された光が時間をへて外へと出力される――そんなふしぎな材質のスロー・ガラスは人気のインテリアだ。山頂に3年置いたそれを潜水艦にかざれば、深海にいようと3年のあいだ鳥の舞う青空や星空が楽しめる。

 「平凡な毎日に変化を」「倦怠期の打破に」とスロー・ガラス選びに精をだす夫と対照的に、身重の妻は無駄な買い物だとしか思えず、「ここが美に無頓着だ」「不愛想だ」とバイヤーの中年男やそしてその家族の汚点探しに精をだし……というお話です。

 遠くにあるものへ近づいて徐々に輪郭をはっきりさせていったり、枠の向こうを覗き見・パーソナルスペースを踏み入れたり……そんな記述の運動が面白い作品でした。

 また今作でえがかれる窓の役どころも興味深い。本来的な役割であるところの"採光の建具=部屋の内外を可視化する穴のような道具"であると同時に、まったく別種の――窓を見る者の頭のなかが明らかとなってしまう、鏡みたいにも――機能をしてみせたりもするんですよね。

 『ひかりより速く、ゆるやかに』劇中では、本としてこそ出てこないものの、主人公の速希がこのタイトルをもじった表現をしています。

これほど近くから窓越しに彼女と見つめ合っても、彼女がこちらに気づくこともないし、彼女の瞳にこちらが映ることもない。彼女の目に映っているのは、とっくに過ぎ去った日々の光だ。

   早川書房刊、伴名練著『なめらかな世界と、その敵』kindle版79%(位置No.4781中3762)、「ひかりより速く、ゆるやかに」より

 引用部分からして覗き見の要素があるとおり、今作も全編にわたって、こうした運動や機能が活かされています。

 見る者の脳内をこそ映し出す鏡のような機能について、それが劇中のほかの展開とどのように結びついているのかは、今感想でははぶきます。短編集が発売され1週間と経たずにどなたかが書いたの世界の中で、この世界を超えて――伴名練とSF的想像力の帰趨』という評で詳しく論じられているので、そちらをご覧ください。

 

 この感想では、前者の運動の面白さについて話します。

 たとえば主役の修学旅行不参加組ふたり、速希と薙原との出会いについて。

 確かに窓を通して見ると、車両の反対側で揉め事が起きているらしいことは分かったが、はっきりとは視認できない。

   『なめ、敵』kindle版75%(位置No.3535)

 僕は小走りでそちらに近づいていた。

「あ、あの……、先生の指示を待った方が」

「あ?」

 僕の言葉に説得されたというよりは、同じ高校の制服に視線を奪われた彼女の動きが止まったところで、彼女は警官たちによって地面に組み伏せられてしまった。(略)

 警官の手で外されたヘルメットから、金色に染めた長髪が零れ落ちた。

   『なめ、敵』kindle版換算75%(位置No.3554~3558) 

 新幹線で暴れる薙原を速希らが反対側の窓越しに見て(けれどはっきり見えず)、さらに車体をぐるっと回って現場へ踏み入れ、速希が近づき声をかけたことをきっかけとしてフルフェイスヘルメットが掃われ、お互いがだれかを確認し、ふたりの関係ははじまりました。

 ふたりが打ち解ける場面はどうでしょうか? 薙原が速希のスマホ画面を勝手に覗き見たからでしたね。*1

 では低速化現象の糸口は? これも、速希が薙原に自分のスマホ(に送られたLINEの旅行生グループチャット)閲覧を許可し薙原がじぶんの撮影したスマホ写真と見比べられたからつかめました。*2(前段の、ひとのスマホを勝手に見る関係から。この段では、速希は薙原に自分のスマホを、薙原は速希に自分のスマホをそれぞれ見せ合う、双方向の関係に変化しています)

 

 後半ふたりが対話するのも、薙原の控室に速希が勝手に踏み入る明確な描写があったうえでのことです(「なんとか心を決め、ノックする。返事が無かったので、思い切ってノブを回した時、鉢合わせした。」*3『去りにし日々の光』の踏み入りが他者のプライバシーに踏み込んだ決定的な事実の提示を招いたように、今作の踏み入ったさきでもまた他者についての決定的な開示がなされます

 速希が叔父以外の余人には秘密にしてきたものが、すでに薙原にも知れていたことが薙原の口から明かされ。さらにはこれまで積み重ねてきた作劇的文脈に沿った"スマホの覗き見"の過激な変奏として――個人の内に潜めていたものを、勝手に取り上げられるというかたちで――暴かれつきつけられ{「彼女は僕を右手で吊り上げたまま、ポケットからスマホを左手で取り出し(略)こちらの鼻面につきつけた。」*4 この場面は、序盤の「薙原が僕の手首を捩りあげて、スマホを強奪しようとした」*5場面からの変化も面白いですね(手をねじり上げるだけでスマホを無理に覗きはしなかったひとが ⇒ 手を吊り上げスマホを勝手に覗くようになる)。そして速希の本人の口からも、これまで自身が(何度か言おうとしていたけれど)誰にも漏らしてない脳内について明かされるのでした。

 明かされた結果として、『去りにし日々の光』がそうだったように、気まずい沈黙がおり、身体的距離の遠ざかりがあり、退室があり(「乱暴にドアを閉めた。」*6、ふたりは別れます。薙原は前を見つづけ外へと向かい、速希は過去を見つづけ学校へとどまる。

{ここまでの物語で、速希らのドラマに挟まれるかたちでさまざま描かれてきた"低速化現象"に際した公的機関・私企業・大衆いろいろな世間にかんする現実的なシミュレーション的場面・文章(=叙事的な文章。速希の感情を排した、淡々とした時事報告的な語り)

 そうした場面やそれについて記すさいに採用された文体が、この直後の事件においては、(叙事的な文体でえがかれる一出来事・一員として収まった)薙原と(そうではない)速希との決定的な別離・へだたりを明示する、厚い層みたく機能しているのも面白いことです。

 薙原と速希はふたりしかいない「天乃のアナログチャレンジ被害者の会」であり、そのほかにも世間のふるまいについて――薙原は卒業式で声に出して(「何も嘘は言ってねえだろ。自己満足なんだよあいつらの」*7、速希は家族協会の石碑へ卒業証書を埋めることについて頭のなかで(「どう見てもこちらに残る人間たちの自己満足だった」*8――それぞれ「残った者の自己満足だ」と否定した二人ですから、この隔たりはより一層印象ぶかいものとなっています。(のちに速希は薙原らとの関係を「遠いところに行ってしまった」と地の文であらわしますが、そんな文をするっと読み流せるのも、こうした演出が積み重ねられ、距離感が印象づけられたからこそでしょう)

 

 『ひかりより~』は物語の終盤で、前段の告白で(自分からのぞんだ訳ではないにせよ結果的に)改めて見直すことのできた過去も手掛かりとして現象について考察をすすめることによって{そのきっかけもまた、叔父の本(にはさまったメモ)を覗き見たことで生まれました}、低速化現象を、これまでの"こわすことも侵すこともできない窓や鏡"としてではなく、"部屋・パーソナルスペース"のような役割をするものとして再定義します。

 ここにきて低速化時空間は、速希の個人的な懺悔室へとかわります。みんなへ罪悪感をかかえ、せめてもの罪滅ぼしをしたい気持ちでいっぱいの速希が、「みんなのために」と踏み入れみんなを送り出し、ひとり引きこもる時空間へと。

 そんな速希にたいする赦しは、やっぱり劇中独自ガジェットであるところの低速化時空間へ他者から勝手に踏み入られたり、これまたやっぱり『ひかりより~』が(そして速希が)取り上げつくりあげた独特で今日的なもう一つの空間へ他者から勝手に踏み入られたりすることによって、もたらされます。*9

 

 見ること/見られること、踏み入ること/踏み入れられること、書く(≒想像する・妄想する・邪推する)こと/書かれること。僕わたし/あなたのこと。

 『ひかりより速く、ゆるやかに』はそうした運動の応酬が美しい作品で、その応酬のなかには劇中独自現象や今日的な意匠までもが演出材として組み込まれてしまっている……というすごい作品なのでした。

 

   ▽他者の静止画から主観の明滅へ;先行作の低速化現象の表現の変遷①

 さて『ひかりより速く、ゆるやかに』に凝らされた演出はそれだけではありません。

 瞬きを繰り返している自分に気づいて、そうじゃないと気づいた。昼と夜が切り替わっているんだ百七十キロ、百三十キロ、百キロ、その事実を自分の頭で処理しきる前に、瞬きの速度は速くなって、認識できなくなって、やがて朝と夜が交じり合った灰色に

   『なめ、敵』kindle換算96%(位置No.4561)

 こんなちょっとした一文も、先行作の蓄積をふまえた伴名氏のあらたな工夫がうかがえます。

 1962年『宇宙塵』60号掲載広瀬正石の街』は、低速化におかれた街にやってきた余所者による手紙形式の小説で、低速化の人を映画の一コマにたとえます。

少年は、かけ足をする格好で右足を少し曲げ、うしろに流れた左足は地面から浮いていた。丁度、映画のフィルムの一コマを見ているような感じだった。

   集英社刊(集英社文庫)、広瀬正著『タイムマシンのつくり方』Kindle版29%(位置No.4349中 1219)、「化石の街」

 そして、語り手は、低速化におかれた人から見た世界の様子を以下のように想像します。

 彼等は、はたして私の存在を意識しているだろうか。たしかに、彼等の網膜には私の姿が映ったに違いない。(略)それは彼等にしてみれば、一秒の何千分の一かの短い時間なのである。しかもその間、私は絶えず体をあちこちと動かしていた。だから、おそらく、私の姿は、彼等の目にとまらなかったに違いない

   『タイムマシンのつくり方』Kindle版30%(位置No.4349中 1269)

 『SFマガジン1971年3月号』掲載*10梶尾真治亜へ贈る真珠』では、低速化におかれた人側から見える外界を、「駒落としの映画に見えるのではないか」と(ふつうの時空間に生きる外界の人々が推測するかたちで)表現しています。

 その時空間にいれば星の動きさえ遅くなる『化石の街』に対し、低速化する場を"航時機"というタイムマシン内に限定した『美亜~』では、人だけでなく外界自体も目まぐるしく動くだろうこと、そして劇中の低速化現象が科学技術省の計画である(=乗り手の安全が考慮されているだろう)ことを書き手は想像し、航時機を記念館の室内に置き、目隠しとして常緑樹を植え、静的な雰囲気を作ります。

「アキに、この真珠が見えるでしょうか。どう思われます」

(略)

「さあね。航時機内は、こちらの二十四時間、つまり一日が一秒にしか感じられないのです。あなたがここへやってきてからの数日間も、彼にとっては数秒間の、まるで駒落しの映画みたいに写っているのではないでしょうか。だから乗務員の視力を守るために、テラスの外は常緑樹が、ほら、あんなに植えてあります

   早川書房刊、梶尾真治『美亜へ贈る真珠 梶尾真治短編傑作選 <ロマンチック篇>』p.11、「美亜へ贈る真珠」より

 低速化現象を(さらされた側からの実像として)「めくるめく光闇の反復」と描いたのは、『アメージング誌72年5月号』掲載*11J・ティプトリー・Jr著郷へ歩いた男』です。

 数知れぬ閃光、めくるめく光、闇、光、闇の反復、そして濃くなり薄くなる大気の衝撃のなか、彼は時間そのものである空間をすべり、明滅する地球を足がかりにブレーキをかけようとしていた

   早川書房刊、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア著『故郷から一〇〇〇〇光年』p.277、「故郷へ歩いた男」より

 中井紀夫走バス』でもほぼ同様に「めまぐるしく昼と夜が交替」します。(こちらは『化石の街』『美亜~』と同じく、低速化現象の外の人間による推測です)

ある学者さんの計算では、このバスは運転している人から見ると、時速八十キロぐらいで走っているんだそうですよ。運転手さんから見れば、外はめまぐるしく昼と夜が交替し、目にもとまらないほどのめちゃくちゃな勢いで車が走り抜けていくように見えるでしょうから、とにかくなんとか早いところ終点まで行ってしまえというので、飛ばしに飛ばしているんでしょう。

   アドレナライズ刊、中井紀夫『山手線のあやとり娘』kindle版換算4%(位置No.2721中94)、「暴走バス」より

 ただし『故郷へ歩いた男』は年に一度何分かだけ低速化した男が現れる……という設定でしたが、中井氏の作品では屋外・交通のど真ん中という設定上、周囲の乗物の動きなども描かれていきます。

   ▽明滅から灰色へ;低速化現象の表現の変遷②&先行作『むかし、爆弾がおちてきて』の静から動へのダイナミズム

  かし、爆弾がおちてきて』が執筆されたことで、低速化はついに明暗の激しい転換を超えて人間の感覚で処理しきれない灰色になりました。

 ──そして、〝加速〟。

 一瞬の滞空状態の最中、まず朝が来て、そしてまた夜になった。

 またすぐに朝が来て、すぐ夜になった。

 朝が来て夜、

 朝が来て夜。

 朝、夜、

 朝、夜、

 朝夜朝夜朝夜──

 太陽がすごい勢いで頭上を横切り、昇ったり落ちたりしている。その勢いはどんどん増していき、やがて光の軌跡を追うこともできないチカチカになり、ついにはそれすらも感じられない灰色っぽい光になる。

(略)

 灰色の光景の中、見慣れないビルが建ったり消えたりし、そのペースはなおも速まっていき──ぼくの知っていた世界は、今この瞬間、全部流れて消えてしまった。

   株式会社KADOKAWA刊(メディアワークス文庫)、古橋秀之ある日、爆弾がおちてきて【新装版】』kindle換算79%(位置No.2784中2160)、「むかし、爆弾がおちてきて」より 

 『むかし、爆弾がおちてきて』は、 「ぼく」の一人称による地の文が大部を占め、数少ない鍵カッコのセリフもほとんどが "なんて言われた" と追想に位置づけられる。祖父との微笑ましい思い出ばなしを主体としたノスタルジックな静的な語りが積み重ねられていき、それがポンと弾ける後半のダイナミズムが心地よい作品です。

 うえに引用した場面は、静的な前半と動的な後半のコントラストをより強烈にする活写で、「ぼく」がアクションの行為者・当事者としてリアルタイムで味わっている"いま・ここ"ぶり、刻一刻と変化する圧倒的な速度が魅力です。

    ○『ひかりより~』の客体・叙事から主体・叙情へのダイナミズム;『ひかりより~』の先行作をふまえた洗練

 『ひかりより~』の作劇にも、じつはこうしたダイナミズムが受け継がれています。

 

 今作で大きく3度登場する低速化現象のうち冒頭・中盤の2つは、どちらも語り手である速希がリアルタイムで立ち会うことのできない"かつて・そこ"の事象としてあつかわれています。

 動いているものが止まるまさにその瞬間を撮影しているカメラは存在せず、冒頭の現象の模様はまずツイッターのトレンドワードとして登場し*12、語り手の速希の意識にのぼるのはTVを点けてなお現場の視覚的情報ではなく「ニュースで流れていた理解不能の言葉」*13への混乱であり、中盤の現象についてはRingYouなる劇中独自ガジェットで映されるのは事後ひらかれた記者会見で、事故のもようは国土交通大臣による(速希が「恐ろしくわかりにくい説明」*14やら「まるで要領を得ない」*15やらと判じる)セリフによって表されます。

 

 『ひかりより~』は、"かつて・そこ"の文章を{『むかし、~』であれば(主に祖父との)思い出話によって積み上げましたが、まったく異なる経路をすすむことで――つまり}現実であれば起こりうるリアリスティックな災害シミュレーションとそれをつづる叙事的な描写によって積み上げたすえに、終盤3度目の低速化現象シーンを"いま・ここ"の当事者の視点から描くことで、圧倒的なダイナミズムを生み出しています。

 

 今作についてン・ゴジラの名は。』の名前がだされることもありましたが、その2作や災害や事故など突発的な事象をあつかった作品が事故・災害の光景をどのように表したか振り返ると、今作の特殊さがよりはっきりしますね。

(『シン・ゴジラ』は、前半の後手後手に回り密室・画面越しに対応する政府と、後半のいま・ここから肉眼で対応する政府との大きなコントラストが魅力的な作品で、このダイナミズムは『ひかりより~』へと通じる類の気持ちよさですが。

 序盤、怪獣の実在をしんじられず事実確認が遅れて後手後手にまわる政府の動きが描かれますが、その一方で海面から突如として沸き立つ白い水柱や、アクアラインの天井から突如としてこぼれおちる多量の赤い水といった、怪獣が人間社会をいままさに襲っている一部始終・決定的な瞬間の映像が都度インサートされます。

 『君の名は。』は流れ星の飛来から幕をあけました)

 もちろん現場に立ち会えない作品はそれなりにあります。(9.11同時多発テロに対応した民・軍の航空管制センターが主要舞台となり、事件の対応にあたった本職のひとがそのまま映画のなかでも当日の模様を再現・演技したりしたポール・グリーングラス監督『ユナイテッド93』だとか)

 でも、物語を彩る演出材・モチーフとしてや、作劇のコントロールのためにここまで思いきった舵取りをしてみせた作品は、そう沢山あるものではありません。

 

    ○孤独な鈍色の煉獄から雑多な色彩の奔流へ;『ひかりより~』の先行作をふまえた洗練

 さきに引用したとおり『ひかりより速く、ゆるやかに』は、低速化時空間を灰色とあらわしました。個別・直接的には『むかし、爆弾がおちてきて』からの参照でした{し、そのダイナミズムも『ひかりより~』が(まったく別種の・別角度の細部でもって)汲んでいるのは前項で述べたばかりです}が、今作を読み進めていって出会う灰色は、『むかし、~』とはまったく別種の感慨をひきおこします。独自の文脈のなかの一ピースとしてしっかり昇華がなされていました。

 低速化現象/低速化時空間は、『むかし、爆弾が~』の語り手にとっては行ってみたい世界であり冒険であり、周囲の人々(しかし物語において前景に登場しない人々)などと引き離されてしまうできごとでありつつも、気になっていた子と対面するための通過儀礼でした。

 いっぽう『ひかりより~』の語り手・速希にとっては低速化現象/低速化時空間なんて行きたくない世界であり罪の証であり、周囲の人々はもちろんのこと、接点のあった好きな子とも決定的な別れをひきおこす、孤独へのゴールでした。

 速希は、楽しい修学旅行中に低速化時空間へとらわれた同級生たちの状況を「煉獄に似た楽園かも」とたとえます。

実際、あの中で修学旅行の楽しい思い出に浸る時間を引き延ばされて生きている友人たちは、もしかしたら楽園の住人なのかも知れない。限りなく煉獄に似た、楽園。

   『なめ、敵』kindle版78%(位置No.3685)

 罪悪感と贖罪したい後悔をかかえて、たった独りで低速化時空間へむかう終盤の速希にとってそこはただの煉獄でしかないでしょう。

 

 僕はクラスメートたちの将来の夢を、新聞で知った。

   『なめ、敵』kindle版70%(位置No. 3329)

 明灰の紙面に黒い文字がつらつらと並ぶ――一般にそんな印象のつよい新聞という事物が、速希の疎外感とともに『ひかりより速く、ゆるやかに』本編の第一文で登場するのは、きっと偶然ではありません。

 今作は彩度に乏しいモノクロの事物や空間がやたらと登場します。

 白い竜にたとえられる新幹線は言わずもがな、後半で薙原のいる部屋(そして速希がつよい叱責にあうこととなる部屋)にむかうために速希があるく、迷宮のようなテレビ局内の「真っ白な」*16廊下や。中盤で家族協会が設置した石碑(「スケートリンクを四角にしてそのまま縦にしたような白さだった。」*17、白い竜をめざした少年のもとに立ち込め視界を遮る「四方を乳のように真っ白な霧の壁」*18に顕著ですが。

 そのほかにも、卒業式で速希の目につくのはおおむね銀(ないし灰色)の骨組みと暗い色のクッションから成るだろうパイプ椅子の海であり、事故当初の現場は白い帆布が多いだろう「運動会で使うような四角い屋根つきのテント」が目にとまり*19、家族協会の集落は白や灰色のイメージがつよいだろう東日本大震災のニュース映像で見たことしかなかった、仮設住宅*20で、夜の底に沈む新幹線は建物は白で夜は真っ黒のモノクロで描かれることが多いだろう月面基地*21にたとえられたり、お供え物が白い花*22だったりと、派手な色合いの事物はなかなかお目にかかれません。

 幕開けから月日のしばらく経った終盤ちかく、夕陽が柔らかく射し込む教室でさえ、速希の意識は疎外感とくすんだ白と共にあります

 同級生は誰もいなくなって、僕だけが居残っている。暖かな風を受けて微かに揺れるカーテンは、白い生地に歳月のくすみを湛えていた。

   『なめ、敵』kindle版92%(位置No.4377)

 

 

 白以外のものもぽつぽつと登場します。白い竜のなかにいる鮮やかな藍(色と白)色の制服をきた修学旅行生や、そのなかでも特別な少女の鳶色の瞳、叔父が記者として記事を寄せていたゴシップ雑誌の極彩色の表紙*23や叔父の愛好していたSF本、薙原の金髪、卒業証書を入れる緑色の筒、低速化現象まえの文化祭で黒板に「何色ものチョークを使って大書した」*24天乃の絵……などがありますが、どれも遠ざかったり別れたり、速希と隔てた時空間にいる傾向にあります。

{藍と白の制服は、代替わりして紺と白になり(。白は変わらず残り続け)*25。SF本は車を運転する叔父のとなり助手席にあって、速希はひとり後席においやられます*26。卒業証書は、薙原と天乃のものは車の近くに*27、ほかの生徒のそれは記念碑のしたに*28位置します}

 とりわけオレンジ系統の事物の役割は印象的で、終盤の低速化時空間にはいってすぐの(「紅葉だっただろうか」と速希が想像する)橙色の光に閃いたもの*29は、物語の序盤で少年にとってかけがえのない友・白鱗の竜の死が噂された時分(赤銅の花の散らせ始めるころ*30)と(両者とも "散る植物"という相似によって)むすびついて寂寥感をかもします。

 速希の疎外感白い竜を友とする少年の孤独が増していくにつれ色づいていた世界から色が失われていく……そんな展開が『ひかりより速く、ゆるやかに』に散見されます。

 白鱗の竜の世界の集落は、はじめ(派手ではないものの白以外の)アースカラーで彩られていたものの、少年がそこから外れひとり別の道をいった途端に白い霧につつまれてしまいます。

 きわめつけは速希のとらえる天乃の姿。文中であらためて明示はされてませんが、使用者にとっては当然ライトグリーンの色合いがおなじみの実在アプリLINE上での速希とのやりとりをめぐった前半から、中盤で薙原と天乃のつながりが薙原の身の上話とともに明かされたあと、改めて速希が詳述する車上の天乃の姿はこう切り出されます。

 出席番号8番、檎穣天乃は、ホワイトチョコを象ったカバーに包まれたスマホを手にして、写真をLINEに流そうとしている。

   『なめ、敵』kindle版82%(位置No.3891)

 天乃のスマホケースは「板チョコの銀紙型スマホケースをもつ薙原といっしょに買ったのだろう」とにおわせる小道具というだけでなく、今作の色彩設計のひとつなのだとぼくは思います。

 みんなと一緒に色づいた世界にいたはずの速希が、(くすんだ)白い世界にひとり孤立し、遠ざかっていく。そんな色彩の変遷をかたちづくるひとつとして、LINEの蛍光緑やチョコの白さがあるのではないでしょうか。

 「九つのいのち」と同じく、これも心の神話(サイコミス)ではなく、純然たるSFであり、冒険/アクションではない、心理の展開である。肉体行動が精神行動を反映しないとしたら、行為がその人間を表現しないとしたら、冒険小説の類いはわたしにとって退屈きわまりないものになる。どうやらアクション多ければ、事少なしのようである。わたしの興味はどうしても内で語られることに向けられる。内的宇宙のようなものに。わたしたちの心にはそれぞれの森がある。踏みこまれたことのない、果てしない森。だれしも、夜ごとひとりでその森をさまようのだ。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、アーシェラ・K・ル・グィン『風の十二方位』Kindle版60%(位置No.5915中 3528)、「帝国よりも大きくゆるやかに」序文

 国よりも大きくゆるやかに』を描いたル・グィン氏は件の作品についてこう語ります。『ひかりより速く、ゆるやかに』は、森のかわりに、果てしない白い霧中をまどい歩くひとでもってそれを表現した作品だとぼくは言いたい。

 

伴名:(略)「ひかりより速く、ゆるやかに」は、瞬間最大風速を目指して書いたもので、2019年に最も刺さる物語を、というつもりで書きました。これは真っ先に古びる作品でしょう。

   RealSoundブック掲載、杉本穂高氏によるインタビュー『伴名練が語る、SFと現実社会の関係性 「大きな出来事や変化は、フィクションに後から必ず反映される」』2

  短編集出版後いくつかのインタビューで伴名氏は、収録作のうち今作を一番すぐに古びてしまう作品だと言いきります。

 この断言に「そうか?」と思うひとは大勢いることでしょう。

 今感想でも後の項で説明する先行作からスクラップ&ビルドした物語展開や、災害とその周囲のギャップ、思春期らしい煩悶など……今作で描かれるさまざまなものごとは、「明日じぶんたちの身に起こっても不思議ではない」と思わせるほど読者をぐっとつかんで離さない具象的な書き込みで、「これはぼくだ」と自分を振り返らずにはいられない随一に普遍的な問題や心情を扱っています。

 「むしろ今作がいちばん読み継がれていくだろう作品だ」と思うひとも絶対いるはずですが、伴名氏はなぜそこまで断言するのか。

伴名 5年ももたないでしょう。ウェブサービスも、高校生のライフスタイルや感性も変わってしまうでしょうし。

   Hayakawa Books & Magazines(β)掲載、『SFの歴史を継いでいくこと。ベストSF第1位記念・伴名練インタビュー』

 電話が衰退しつつある。LINEのようなSNSに比べて、相手の時間を強制的に奪うことに嫌悪感を抱く若者が増えたからだ。(略)

 思い出すのは「自作が長く読み継がれるよう、古びそうな描写を具体から抽象に変えていった」という星新一の逸話だ。その例としてよく挙げられるものがまさに電話のこと、「ダイヤルを回す」を「電話をする」に書きかえたというものだった。それほど注意して時代性を消し去ろうとしても、「電話」そのものは削らなかった。

   文藝春秋刊、『文學界 2019年12月号』p.210、伴名練著エセー「延命小説」

 明灰色=新聞紙、ライトグリーン=一企業のSNS。そんな等号が読者のなかで結ばれるのがいつまでなのか? 伴名氏の断言には実はそんな疑問もあるんじゃないか……そんなことを思うくらいに徹底した色彩設計を、ぼくは今作に見ました。

 

 前述の項でも言ったとおり、速希がひとり向かった低速化時空間の世界も、少年がひとり向かった白竜の世界も、どちらも他者の踏み入りによってやぶられることとなります。

 このもようについて色彩に注目して追ってみると、そこには灰色や白を基調としたモノクロの世界ふたつが、(踏み入りと同時に)多彩な色合いの流入によって塗り替えられていく……という、ダイナミックな色彩変化をともなっていたことが認められます。

 ふたつの世界のうち片方は、カラフルなパラソルかテントの類{「あり得ないカラフルな色の滲みが空を四角く切り取っている」*31前述した運動会で使うようなテントや白い石碑と同様に、これも四角です(白い四角からカラフルな四角へ)や、黒とライトグリーンのバイクや、朝日の差し込み、バイクの乗り手が自ら外したフルフェイスヘルメットの下の赤髪によって。

 そしてもう片方は、卒業証書の筒の変化した緑の柱の奔流や、金色の鳳凰の飛翔、扉から飛び出した(あの白と鮮やかな藍色の時代の/少女ではなくなった彼女はもう着ていないはずの)制服を着た鳶色の瞳の少女によって、塗り替えられていくのです。

 

  ▼先行作の物語的蓄積;低速化に伴う風化に対するセンチメンタリズムとヒロイズム

 前項では低速化現象の視覚的な表現の変化について見てきました。

 ここからは数ある低速化が物語のなかでどのようなはたらきをしてきたかを振り返っていきます。

 ざっくり言えばどれもが孤立をもたらすものでした。

 孤立こそが低速化SFのキモでした。

 先行作でえがかれる低速化現象は、人々にとって忘れ去られて風化しがちなものです。

 時が経つごとに『航時機計画』は、そのニュース・ショー的な性格を失い、年初めにマスコミから行事的番組として取り上げられるときだけ、世間の人々は、「ああ、あの計画は、まだ続いているのか」といったふうに、しばらくの間記憶の片隅から呼び起される程度のものになっていました。それも、次の毒々しいショー番組が始まる時は、きれいさっぱりと忘れ去られていたに違いありません。人々にとっては、ただ「時」の経過を感じさせる過去のある時点の事件となっていたのです。

   『美亜へ贈る真珠 梶尾真治短編傑作選 <ロマンチック篇>』p.11より

 『美亜へ贈る真珠』のテレビのプロデューサーはこう評価します。

 もっとも、興味本位で、ふらありとここへ訪ねる人が全然いないわけではなかったのです。興味、それは美亜へのそれです。その中で、私でさえも嫌悪感を催したのは、テレビのプロデューサーでした。

(略)

「駄目だなあ、やはり駄目だ。絵にならない、視聴者は興味を持たないよ。彼女が、犬か猫だったら、『忠犬ハチ公』の現代版といったふうに、感動ドキュメンタリーを再現してやるんだがなあ。

(略)

「彼女がもっと若けりゃ、ミュージカル仕立てのショー番組でも作るのだけどさ」

   『美亜へ贈る真珠 梶尾真治短編傑作選 <ロマンチック篇>』p.27より

 

 こうした無関心はデイヴィッド・I・マッスン著人の憩い』にもみられます。

 低速化現象にさらされた戦場仕事から<解任>され、そこから遠くはなれた外の普通の時間のながれる銃後の街へ戻った男の人生をえがく『旅人の憩い』において、ふつうの時間の街のひとびとは様々な芸術を謳歌しますが、時間のギャップがもたらすものについては無関心のようです。

 一般住民の戦争への関心は薄かった。(略)彼らは、ありあまる精神エネルギーを多種多様な遊戯や娯楽にふりむけ、造形し、描写し、創造し、鑑賞し、批評し、理論化し、整理し、組織し、協力していたが、自分の属する地方社会のそとにとびだすことは稀だった。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、大森望『時間SF傑作選 ここがウィネトカなら、きみはジュディ』p.291~292、「旅人の憩い」より

 低速化現象の戦場で兵士のひとりは、人々の忘却について思いを馳せます。

 (略)頭脳はふたたび時間集速の換算を始めた。(略)あの遮蔽壕に自分がいなかった時間は二十二分そこそこということになる((略)もうあれから十年がすぎ、子どもたちは父親のことを忘れはじめているだろう)。

   『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』p.298、「旅人の憩い」より

 「いちばん直接的な影響を受けている」と伴名氏の語る走バス』でも、低速化現象は忘れ去られた現象です。

「覚えてないですか。もう二十年も前のことだから、覚えてないかな。東名高速の長距離バスの事件。名古屋から東京に向かって出発したバスが、とつぜんゆっくり走り始めたというやつです。当時は大騒ぎになったんですがね」

「そういえば、そんなことがあったような気がするな。よく覚えてないが」

「最初のころは、テレビも新聞も毎日のように報道してました」

   『山手線のあやとり娘』Kindle版4%(位置No.2721中 80)

 郷へ歩いた男』はどうでしょうか?

 忘れられた現象でこそありませんが、しかし、低速化者は生きたひとりの人間としてではなく<昔の竜>*32と呼ばれ、近隣にくらす先住民の若者にとって度胸試しの小道具になったり、出現場のクレーターの一部が町の公園になったり「春だけの小規模な観光業が発達し」「酒場や宿屋には、怪物の姿をかなり精巧に模した土産物が並んだ」り「怪物を中心に宗教がいくつか生まれ」*33たりと、(三人称で鳥瞰するような語りも相まって)あたかもブリューゲルの民衆画のような牧歌的な空気をまとっています。「お帰り、ジョン」と始まる永久樹脂の厚板による記念碑も、悠然と、人類史を「月にむかって誇示してい」*34る――低速化現象に遭いながらも故郷を目指し歩く男当人の悲愴さとは裏腹に*35

 

 ぼくたちのことなんて気にも留めないでうごく世界において、われらが主人公が打ちのめされたりそれでもなお頑張ったりする姿に、われわれSFファンは手に汗握り、せつなく身もだえしてきました。孤独なハードボイルド、やせ我慢の美学。

 流れる時間がへだたっているために自分がなにをしようと責めもされなければ褒めもされない世界において、自分がどうありたいかを決める広瀬正石の街』や片瀬二郎著00:00:00.01pm』の主人公の男の姿は、まさにそんな醍醐味が味わえる作品群でしょう。とくに後者では"もしかしたら自分もそうなってしまったかもしれない(類似した能力・環境の)化物"と対決する展開が大部を占めており、事実上のワンマン・ヒーロー物。

 るさとは時遠く』もこの範疇に収まるでしょう。低速化した田舎から高速化した都会へ上京して家庭をもった主人公が、田舎へひとり里帰りするこの作品のクライマックスは、妻子供が高速化空間にいて預かり知らぬ田舎で一枚の手紙を受け取ったことから始まります。差出人はティーン時代の元恋人。主人公は都会を目指した少年時代の希望とそれを追いかけた結果としての現在と、目指した過程で捨て置いた過去の輝かしさとのあいだで煩悶します。

 

 低速化にさらされた側とそうでない側のうち、少数の側に属すひとを主人公とした作品群はそうした味があります。

{あと5作の共通点としてすべてが異常空間から帰ろうとする男の物語であり、そのうち4作は(『故郷~』『旅人~』『00~』『ふるさと~』)、家族を別の側に残した父を主人公にしたお話でもあります}

 

 では低速化にさらされた側とそうでない側のうち、多数派の側に属すひとを主人公とした作品群は――『美亜へ贈る真珠』『暴走バス』『海を見る人』『むかし、爆弾がおちてきて』は――、どんな味なのか?

 さて、劇中で挙げられた本に収録された低速化SFの先行作は、低速化した者とそうでない者とが別れたまま終わる作品がほとんどで、直近で挙げた4作中3作もその列に並びます。

 そのため、これら先行作のいくつかで描かれる低速化現象は"植物状態に置かれつづける難病"や"引き伸ばされた死"といった様相を呈しており、その主人公たちのドラマは、病状や死を受け入れられなかったりようやくふんぎりがついたり遺言を探り当てたりする遺族のドラマのようにも思えてきます。

(『ひかはや』劇中でも、いつか状況が回復すると思っているひとと、そうと思わないひとのギャップが描かれていましたね)

 こちらがなにか救いの手を差し伸べることも往々にして不可能で、だれもが忘れ去り気にも留めなくなっていくだけの物事に、われらが主人公が感情を大きく揺れ動かしたりあるいはかれだけが真意に気づけたりする……そんなさまに、ぼくたちSFファンは目に涙浮かべ、せつなく身もだえしてきました。やるせなさのなかにも微かに見いだせた光。センチメンタリズム。

 

 この真珠の美しさも。

 あの海の点の永遠も。

 その町の恐ろしさも。

 人知れず化物を倒し、赤ん坊を救う雄姿も、ぼくたちだけは知っている。

   ▽『ひかりより~』がはぐ、先行作のロマン

「このぼくたちってなんだよ?」

 と疑問をていすのが、『ひかりより速く、ゆるやかに』なのでした。

 

 今作は、低速化現象にまつわる様々な人物事物の、種々の機微をえがきだします。

 巻き込まれた高校生ひとクラスぶんが低速化現象にさらされたその当時なにをしていた(している)のか、そのケータイのアプリの種別まで描くし(たとえば音楽バンドのライブの予約をしようとしていたとか)、こうした事態になって初めて子供の恋人関係などを知らされるクラスメイトの家族たちやその家庭環境も描くし、車窓から垣間見える人の美醜を取沙汰し憶測を飛ばし人々の交遊関係をあばきたて祭りたてドラマ化したりする俗世間の俗っぽい動きも――『美亜へ贈る真珠』では丁寧に排除された毒々しさを、騒がしさを。件の作品が発表当時には存在しなかったSNSなど"いま・ここ"の激しさを取り入れたうえで――えがきだします。

 さらには、アプリを覗いていたクラスメイトの裏(たとえばライブを予約しようとしていた高校生はバンドファンじゃなくて、そのチケットに高値をつけて小遣いをえる転売ヤーだったとか)や、「のぞみ123号のみなさん、おかえりなさい」と書き出し――人類史を悠然と記し誇った『故郷へ歩いた男』の記念碑とちがい――次いで個人の至らぬ尽力の無念を伝え、記念品を遺した記念碑を建てたりもする絶望も楽観も諦めきれなさも入り混じった被害者家族の微妙な感情・家族協会の活動――『暴走バス』で開始時点から末期で風化の気配があったそれを、始まりから終わりまで。想い出話のセリフ上で消化された乗員を「遺族」と言い表すか否かを現在形で*36。もっと過激な意見対立まで盛り込んで――や、そんな民衆の感情に適当に沿いつつもいつまでも付き合ってられない政府との関係性もえがけてしまいます。

 ともすれば(三人称視点の)『故郷へ歩いた男』よりも広くつまびらかに、ミクロマクロひっくるめて眺めてみせる、視野の広さと視力の良さ。それが『ひかりより~』主人公の「僕」の一人称から語られる"いま・ここ"の風景です。

「この僕ってなんだよ?」

 と疑問をていすのが、伴名練氏なのでした。

 

 顔をぶん殴られた。

 いや、殴られてなんかいない、そう錯覚するくらい恐ろしい言葉だった。

   『なめ、敵』kindle版89%(位置No.4241)

 伴名氏はSFを剥ぐ。

 切なさの陰の気持ちわるさを露わにする。

 低速化現象にまつわる周囲の醜さをながめる「僕」自身の距離のとおさ・気持ちわるさを暴きたてる。

 『ひかりより速く、ゆるやかに』はよくなるエビデンスなんてない無駄な、あるいは性急で乱暴な試みをする別の家族を、それを遠巻きにながめる語り手「僕」の一人称視点でえがきます。

 えがいたうえで、後半かれらが「僕」と対峙し「お前はどうなんだ?」とつきつけてきます。

 そうすることで、ものごとを俯瞰的に冷静で見ていられる、理性的・自制的と言えば聞こえがいいけど口だけ達者で手足をろくにうごかさず傍観しているだけの「僕」の白々しさ(そしてそんな「僕」に寄り添い肩入れして、かれらに冷笑しつつ読んでいたぼくのいやらしさを)表へと引っぱり出すのです。

『暴走バス』との違いはそこでしょう。

 低速暴走運転中のバス、それにあわせて標識灯を移動させる関連業者の作業よりもいち早く、そして細かに行なわれる私的なテントの引っ越し――寝袋や食器類を台車に積み、家形冬用ドーム型さまざまなテントを片し、進んださきでアスファルトに穴を穿ち杭を打ちロープを張る。近所で水道を借り水を貯え運び入れる――など、被害者に(文字どおり)寄り添う被害者家族・婚約者の真摯で親身な日々の仔細を描いてみせた(がゆえに、物語の行く末も/主人公の行ないもなんとなしに受け入れられてしまった)『暴走バス』に対して。『ひかゆる』の「僕」にとって低速下の新幹線は、大体において月面基地だの深海だのと現実離れした場で――どうにか中のひとびとを救い出せないかと、壁にむかってバットを振るい重機を操り、あるいは卒業証書をもってきたりする薙原と違って――触ろうとすらしないただただ眺めるだけの存在です}

 いまもなお続く異常事態について、浅はかだろうが解決策がないものか試すこともしなければ、みっともなかろうが見込みがなかろうがあがくこともしないまま、勝手に青春時代の美しい一ページとして永遠に綴じ込め感傷に浸ろうとする「僕」たちの厚かましいツラの皮を正面から斬ってみせる。

 

伴名:(略)何かを助けるために、いろんなものを犠牲にしないといけないことは確かにありますけど、それを書く時に、いかにもマッチョな話になるのは避けたい。

   『伴名練が語る、SFと現実社会の関係性 「大きな出来事や変化は、フィクションに後から必ず反映される」』1

 伴名氏はSFを剥ぐ。

 ヒロイズムの裏のマッチョイズムを、ナルシスティックな思い上がりを笑ってみせる。

 『ひかりより速く、ゆるやかに』の「僕」は上述の対峙によって斬られて考えを改め、新たに改たに孤独でドラマチックな闘いへ身を投じます――まさしく劇的なセリフも発せられ、ここで物語を締めくくったってお腹いっぱい涙いっぱいになれる展開です――。しかしそれにさえ、

「それって独りよがりなんじゃないの?」

 とさらなる待ったをかけるのです。

 

 主人公に対して、ほかの誰かが異議を唱え対立し――主役級の人物だけでなく、ときには背景にいた端役でさえもが大舞台の中心に立って、ぐうの音もでないような正論を主人公に叩きつけてきて――主人公の拠って立つ足場をぐらぐらと崩す多声的な構成。その足場が、それまで発表されてきた過去の名作SFを建材として組まれたものだったりするために、ここまでのSFさえもがゆるがされることとなる……

 ……そうした結構は、『ひかりより速く、ゆるやかに』以外の他の収録作にも言えるのです。

 

伴名:(略)個人的には悲劇的だったり嫌な後味の結末の方が簡単に書けるのですが、それは作者の都合でしかない。

   『伴名練が語る、SFと現実社会の関係性 』

  伴名氏はSFを育む。

 『ひかりより速く、ゆるやかに』を読み終えたかたならご存じのとおり、「待った」をかけて終わりでもなければ、嘲笑って終わりの逆張りクソ野郎でもない。

 劇中で話題にだした作品も、それぞれ血肉になるほど読み込んでいなければできないレベルの参照です。まさしく愛といってよいでしょう。

 ただそれは、なにもかも盲目的に肯定するようなものではない。 

私自身がオマージュを書く上で気を遣っているのは、先行作品に対する敬意と、先行作品を乗り越えようとする意識の双方を持てているかどうか、という点です。

   note掲載、Hayakawa Books & Magazines(β)『【往復書簡】伴名練&陸秋槎。SFとミステリ、文芸ジャンルの継承と未来について』伴名練氏の書簡より

  これまでの作品の美点はもちろんのこと、汚点も直視する。受け止めたうえで、そうした駄目さみじめさ気持ち悪ささえもに温かいまなざしを注ぎ、すくいあげ、それらを必要不可欠な建材とする。

 そうして建てた道をすすんでこそ辿り着ける境地。そこの天へ舞い上がるような活力、目のさめる色鮮やかさ。

 これもまた、伴名氏の大体の作品は拝ませてくれるのです。

 

 

 

 

「おかしい」の先、「おかしくてかなしい」の更に先;『なめらかな世界と、その敵』

 序盤のあらすじ

 うだるような暑さで目を覚まして、カーテンを開くと、窓から雪景色を見た。

 学校へ行く気を養ったあたしは部屋を出て食卓について味噌汁を飲んだら塩辛かったので、苺ジャムトーストをデザート代わりに食べ、茶碗を置いて家を出る。

 熱気に炙られた坂を勢いよく下って、狂い咲いた桜のしだれかかる並木道を駆け、早すぎる紅葉をサクサク踏みしだいて、凍った川面をすがめ走り抜ければ、学校が見えてくる。

ハヅキン、ヴァルトラ6ちょー面白いよー明後日発売だけどけさ並んで買ったぜっ」「じゃああたしも買おうかな」教室の扉を開けるや否や常代と談笑し、

「やよい明後日のシフト代わってくれなあい? デート入っちゃったから」コンビニの扉が開くや否やバイトリーダーの柴峰さんの写メを見せられ苦笑し、

「架橋、転入生が来るんだが覚えあるか? おまえと小学校のころつるんでたという厳島マコトだ」と職員室で先生に訊かれたあたしは、

「今日マコトが転入してくるんだって!」と驚きのあまりマコトを小突いた。後輩の指導をしていたマコトはおさげを揺らして振り向きふむふむと頷く。

 HRのチャイムとともに扉が開かれた時、あたしはうっかりお客さんから受け取った小銭をレジ下にばらまいてしまった。短髪のマコトを見て、尋常じゃない違和感を覚えたからだ。ひるまず明るく声をかけるとマコトはにらみを返した。

「あいにくだが、私は――転校してから三年間、どのお前とも再会したことがない」

「馴れ馴れしくしてすまん。ならなおさら積もる話もあるだろう? 一緒に走りながらでもどうだ?」

「部活などに割く時間は持ち合わせてない」

 マコトはきょう初めて笑ったけれど、それはぞっとするような、冷たい薄ら笑いだった。

「もう私の人生には、脇道も寄り道も無い」

 感想

  ▼、こそ;『なめ、敵』の一人称の語り口、並行世界をまたぐ語り手の意識

 、こそが大事なことです。

★★☆☆☆タイトルどうかならんかったのか

なめらかな社会とその敵』ってタイトルの本があるよね。なんでパクっちゃたんだろ。昔、『世界の中心で愛を叫ぶ』っていうお涙頂戴の三文小説が流行ったとき、SFファンはハーラン・エリスンの小説から題名パクってんじゃんって思ったものだったけど、同じことをSF小説家がやらかしてどうするよ。(略)

   Amazonカスタマーレビュー、『なめらかな世界と、その敵』のoooooさんによるレビューより

 Amazonの商品ページを見てみるとこんなレビューが拝めます。

 このレビューには間違いと文意のわからないところがあって、片山恭一氏の小説は『世界の中心で愛をさけぶ』であって『世界の中心で愛を叫ぶ』ではなく、『世界の中心で愛を叫んだけもの』の著者ハーラン・エリスンもまた、コードウェイナー・スミスをもじったコードウェイナー・バードというペンネームを有するひとであり、伴名氏が範をとった鈴木健氏著『なめらかな社会とその敵』もまた、カール・ポパー著『開かれた社会とその敵』に範をとったタイトルであるということです。

 独立して存在するものごとはそうそうなくて、敬意であれ軽視であれ何らかの上に立っている……というお話はすでにしましたがここでもまたおいおいするとして、まず言いたいのはべつのこと。

 、こそが大事なことなんです。

 

 『なめらかな社会とその敵』から社会を世界に変え、を加えた伴名氏の『なめらかな世界と、その敵』は、無限の世界を自由に意識をまたぐことのできる"乗覚"という劇中独自の感覚器官をもったひとびとが日常をいとなむ物語です。

 "乗覚"をゆうした人物による、一人称現在形の語り口。そんな文体を選択した『なめ、敵』は、無限の世界を自由にまたぐことが朝飯まえ*37の劇中人物ならば当然の感覚をまじまじと表現することで、読者(であるぼく)に強烈な違和感を与え、そして物語を読みすすめる速度を左右します。

 、と。そして のコントロールがとてもうまい*38

 うだるような暑さで目を覚ましてカーテンを開くと窓から雪景色を見た

   『なめ、敵』kindle版1%(位置No.4781中 19)「なめらかな世界と、その敵」1より

 『なめ、敵』の書き出しでは、2つの読点(、)を越え句点(。)に到達するまでの短い一文で、朝おきたばかりの語り手が夏と冬ふたつの世界をまたぎ見ます。

 

 読み手が劇中設定をなんとなくのみこめ始めてきたあとの――葉月も覚醒してじゅうぶんな時間が経って意識も明晰となり、朝食もデザートまでしっかりのみこめたあとの――登校シーンでは、6つの読点をまたがった一文で4つの季節をまたぎ見ます。

 ゆらり陽炎の立つアスファルトがあたしを迎えた

 三十度近い熱気に炙られた坂を勢いよく下っていい感じに汗をかいたら異常気象で狂い咲いた桜のしだれかかる並木道を駆け途中からは路面の早過ぎる紅葉をサクサクと踏みしだいて季節外れの雪化粧を纏った橋を凍った川面に目を眇めたりしつつ走りぬける頃には、丘の上に高校が見えてくる。

   『なめ、敵』kindle版1%(位置No.42)「なめらかな世界と、その敵」1より

 こちらのシーンについては――語り手にとってルーティンワークだという物語内事実のとおり、葉月による世界の乗り換えもなめらかなのでしょう――書き出しに感じたような異物感や困惑を覚えずに、かなりスラスラなめらかに読めてしまいます。

 さらっと読める理由は2点、読点間の文章がながめで、書き出しのような息切れ感を感じさせないためと。

 そして、読点をまたぐ=季節(世界)が変わる……というある程度一定したルール・リズムでもってつづられているためです。そのルールづくりに、冒頭の一文や世界をまたぐ前後の文章も一役買っています。

 ゆらり陽炎の立つアスファルト」「三十度近い熱気」に出迎えられた葉月が別世界を(別の季節へ)またぐ姿は、冒頭「うだるような暑さ」で世界をまたいだ葉月とおなじ行動・情動なので、この時点ですでに冒頭のような混乱はありません。(ちなみに文の終わりも、それぞれ「見た」「見えてくる」と相似してます)

勢いよく下っていい感じに汗をかいたら異常気象で

駆け途中からは路面の早すぎる紅葉を

サクサクと踏みしだいて季節外れの

 読点のまえ、世界をまたぐ直前はほぼ移動の動詞{それも例外なく軽快な足運び。「踏みしだいて」という重たそうな(しかし滑りやすい紅葉のじゅうたんを歩くなら当然の)足取りに「サクサクと」を前置したりなど、さらっと凄いことをやってますね……}か、あるいは次の展開を予感させる言葉――それまでと異なる展開を期待させる言葉――でまとめられ。

 読点のあと、世界をまたいだ直後はほぼ場面(の急)転換を伝える言葉(おおむね異常な気象を伝えるもの)が受け継いでいます。*39

〔余談かも。ここに伴名氏の先達からの蓄積を見るひともいるでしょう。

(略)文章にこういう「移動の感覚」を埋め込むのは、じつは読者を次の文へ読み進めさせる秘伝のテクニックなのである。

   河出書房新社飛浩隆『ポリフォニック・イリュージョン 初期作品+批評集成』Kindle版56%(4796中 2667)、「SF散文のストローク――野尻抱介はハードSFの何を革新したか? 野尻抱介『サリバン家のお引越し クレギオン④』解説」より

  と語るのは飛浩隆氏。巻末解説をまかされた伴名氏が、書き手のブログやツイートまで掬ってまで詳らかに書いた結果、文庫本換算20ページを超す大論考になった短編集『自生の夢』の作者です。*40

 

 さて中盤からは読みやすい文章がつづきますが、並行世界から知識を輸入しようと何度も往復する放課後のシーンで読点がまた多くなり、いちだんと読みづらくなります。

 後半の葉月にとって意図せぬ事件の最中でも、読点が多い印象。急な場面転換もまた増える。

 

 終盤の競争は、多くの遠くの並行世界に片足をつっこんでのシーンで、前段で訪れた並行世界2つ(雪景色の世界と、松葉杖をついたマコトのいる世界)もふくめ計8つほどの別世界をまたぎます。ついに世界だけでなく葉月自身の姿さえもがはげしく変わる大またぎのシーンで、葉月も感覚の変容に酔ったり眩暈がしたりなんだり四苦八苦してますが、大変な葉月とは裏腹に、読んでるこちらとしては意外と戸惑いはすくない。

 なぜかといえば最初と最後の世界以外は、文頭を一文字あけた段落ごとに、片足をつっこんだ並行世界が統一されているからです。

{各段落の描写は並行世界のことが大部を占め、さらによく見てみると、別世界の景観描写以外のトピックについては、隔段落ごとに要点が絞られ、独特のリズムをきざんでいることがみとめられます。

 スタートから踏み込む順で奇数段落の世界(①雪の世界*41、③爬虫類の世界*42、⑤白骨の世界*43、⑦松葉杖のマコトがいる世界*44で葉月の意識にあがるのは、ースの進行状況マコトとの距離感です。

 そのあいだにある偶数段落の世界(②畳の世界*45、④金色の下生えが足元で溢れる舞台劇の世界*46、⑥星の海が眼下に見える宇宙の世界*47では、マコトはマの字も出てこなくて、葉月はちらちらと世界を切り替えることで起こるあたし自身の感覚の失調を気にします。

奇数の隔段落の相似について具体的に引いていくと、

 ①「速度が、増していくにつれて。」にはじまる段落の後ろのほうで「あたしの身体はコーナーを曲がる。」と記されます。

 ③そこから1段落またいだ「直線でさらに速度を増すと、」ではじまる段落の後ろのほうでは、「またコーナーを曲がる頃には、ほんの僅か、マコトと差が開き始めている」と記されます。どちらの段落でも葉月は段落あたまで速度を増して、段落おわりでコーナーを曲がる。

 ⑤そこから1段落またいだ「次いで視界に飛び込んできた路面の白さは、」ではじまる段落の後ろのほうでは、「あたしはもう、二歩ばかりマコトに引き離されている。」と記されます。

 ⑦そこから1段落またいだ「切れ切れに聞こえたのは、」ではじまる段落の後ろのほうでは、「全力疾走しているあたしを転々としながら、あたしはマコトに追いすがる」と記されています。2段落まえ4段落まえとおなじく、マコトとの距離が描かれる。

 上でまたがれたほうの偶数の隔段落たちの描写

②「グラウンドを区切るフェンスと、どこまでも続く畳の地平線が視界の果てでちらちらと切り替わる。(略)かえって距離感を失わせかける

④「息遣いしかない静寂の世界とのスイッチに眩暈がしそうになる

⑥「交互に切り替わる重力方向の変化は船酔いめいた酩酊感を引き起こす。酸素を必要としない身体と、酸素を求める肉体の転換もまた、何かの発作のようにあたしの神経を揺さぶった」)

 

 そして競争のあとのまたたき。

 葉月は連続する5つの文章5つの並行世界をまたぎ見ます。すべてが「を」で終わる各文に読点はひとつもなく、ことさら飲み込みやすいシーンです。

 

 『なめらかな世界と、その敵』は、葉月の選択を、その語り口でもって肯定します。一人称の語りによって、葉月(=語り手)の意識のゆるがなさをえがきだします。ひとによっては馬鹿だと言い捨てそうなふるまいを、マコトのもとへ行くさいの8つの世界八大地獄煉獄じみた四苦八苦を、酔うような気持ちわるさを、心地よいものとしてつづります。

 物語について、物事をどう語るかについて、呼吸一つまでつき詰めた今作は、『ひかりより速く、ゆるやかに』と別種の趣向ながらもしかし同様に、文字を追うのが楽しい、読むごちそうなのでした。

 

  ▼「おかしい」定番;先行作『町かどの穴』の三人称の語り口、作品と著者ラファティの作風について

 『なめらかな世界と、その敵』が面白かったので、エピグラフ(冒頭の引用文)としてつかわれた着想元かどの穴』をさかのぼって読んでみたぼくは驚きました。

 『町かどの穴』は、ある種つき放したような視点の笑い話ホラ話だったのです(。SF以外で言うと、落語『天狗裁き』みたいな。個人的には3次元の人々による早着替えコントで観たいっすねぇ)

 並行世界から夫がつぎつぎとやってくることで繰り返される帰宅風景。三人称の語りは、類似場面がでてくるたびに描写を省略してテンポよく進めていって楽しいですし、書き出しの帰宅も『なめ、敵』の書き出しとおなじく読者に強烈な違和感を与えてくれて、設定面だけにとどまらない関連性をうかがわせてくれます。

 でもだからといって、これを受けて『なめ、敵』のような葉月らの心情に寄り添った青春ドラマが出てくる……というのはかなり不思議です。

 

 『町かどの穴』は、らっぱ亭*48氏運営『とりあえず、ラファティ』でひらかれた、ラファティ氏のベスト短編投票企画『再び、あなたの選ぶ短編ベスト3』でも堂々1位、「愛すべきホラ吹きおじさんラファティの抱腹絶倒の21の短編」*49のひとつと言われれば「フムフムなるほど……」という一編ではあります。*50

 上述リンク先記事を眺めていると、そんなラファティ観に待ったをかける声が

もし一冊目に訳された本に「忘れた偽足」「昔には帰れない」「だれかがくれた翼の贈りもの」辺りが収録されていたら、今とは全く違うラファティ観が形成されていたのでは、と感じます。

   らっぱ亭氏運営『とりあえず、ラファティ』掲載、「再び、あなたの選ぶ短編ベスト3」伴名練氏の投票より

 伴名練。

 そう、「SF界のホラ吹きおじさんラファティが語る、底抜けにおかしくて風変わりな物語」*51は邦訳作だけでも百を超すラファティ一側面でしかなかったのです。

 

  ▼"「おかしくてかなしい」ラファティについて語る"伴名氏の他ラファティ表敬作『一蓮托掌(R・×・ラ×ァ×ィ)』

 伴名氏によるラファティの別の顔の紹介は、『なめ、敵』*52発表に先立つこと1年ほどまえ、R・A・ラファティ生誕百周年記念トリビュート小説集 つぎの岩』*53でもおこなわれました。題名のとおりラファティ氏をトリビュートした創作小説集で、伴名氏の寄せた蓮托掌(R・×・ラ×ァ×ィ)』は、のちに商業書籍『年刊 日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』に再録されています。

 各人にそれぞれ、「語りたいラファティ」があったので、ど真ん中のほら話は他の人に任せて、「ファニーフィンガーズ」「忘れた偽足」「最後の天文学者」のようなウエットな作品、「おかしくてかなしい」ラファティについて語るのが私の役目だった。

   東京創元社刊(創元SF文庫)、『年刊 日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』p.305「一蓮托掌(R・×・ラ×ァ×ィ)」■著者のことば 伴名 練より

 『一蓮托掌(R・×・ラ×ァ×ィ)』は、この世界のありとあらゆる事物を半分こにできるおかしな手を持ったシャム双生児の姉妹をめぐるすこしふしぎな小説で、パスティーシュ元であるァニーフィンガーズ』とおなじく――坩堝のなかへ手をつっこんで、この世界のありとあらゆる機械のありとあらゆる部品を取り出せる"おかしな指"で、遊び相手の鉄の犬も、算数も作文も、「見つからなければこの世界を永久に終わらせたほうがましかもしれない」と超難解な講座の教師さえ悩む新しい概念さえをも取り出せる少女をめぐる、すこしふしぎなラファティ氏によるその小説とおなじく――まさしく「おかしくて」

 そして、ふしぎな手でなんでも半分こにしてしまうために世間の大人から白目で見られ親ともそんな個性ゆえに齟齬がうまれ、双子のかたわれからも口をきいてもらえなくなって、世界の理にくわしい青白い男の助言から決定的な半分こをし、へだたれた双子のかたわれが涙をながす小説で、これまた『ファニーフィンガーズ』とおなじく――おかしな指(でできること)のために、そしておかしな指の一族が懇意にしている裏山のおじさんから教わった知識を常識としているために、教師など世間の大人から白目で見られ、母親とも齟齬がうまれ、彼氏の助言も聞き入れられず、みんなのために古来よりさまざまなものを取り出し作ってきた"おかしな指"一族の決定的な個性のゆえに、彼氏との決定的なへだたりを感じてひとり涙をながすラファティ氏のその小説とおなじく――「かなしい」ラファティを、見事にすくい上げてみせた傑作でした。

{脱線。そして子供の児戯からトントン拍子に事態がトンでもない混沌になっていくさまに、ラファティの別作(で伴名氏の他作にセリフが引用されもした)△日間の恐怖』を。

 半分こできることに対する妹レイジーの意識にラファティのこれまた別作(でやっぱり伴名氏の他作に演出がオマージュされた)ロコダイルとアリゲーターよ、クレム』の2人に分身してしまった男の思考回路をそれぞれ思い起こしたりもします。

 ファンのかたならもっと様々なラファティ氏の色を見出すことができそうですね。(21年追記;また、伴名氏の「おかしくて」は、ぼくが上で言ったような「funny」より、「weird」とか「crazy」「creepy」の向きがかなり強そう。伴名氏はエッセイの短篇集」で「町かどの穴」などの「苛烈で薄気味悪く、笑いとして描かれていながら突き放した残酷さ、怖さ」について特筆します)

(21年12月12日追記;「町かどの穴」「クロコダイルとアリゲーターよ、クレム」を収録したかどの穴 ラファティ・ベスト・コレクション1』が10月に。そして「ファニーフィンガーズ」「七日間の恐怖」さらには後段で話題にする「田園の女王」を収録したァニーフィンガーズ ラファティ・ベスト・コレクション2』が12月に早川書房から紙と電子書籍の両方で出版されました! これで読み比べしやすくなりましたね~)

 

 それでいて、双子姉妹を中心とした関係性の強さ、劇中独自ガジェットをシンプルにしたうえでドラマとガジェットとの絡まりを強化するなど*54、短編集『なめらかな世界と、その敵』収録作のそれぞれで見せてくれた伴名氏じゃなければ出せない味もあります。

 

 どちらの作品も同じように涙を流して終わるけれど、そこに至るまでの過程は似て非なるもので。

 親との齟齬は『ファニー~』みたくちょっとした会話の食いちがい性格の不一致レベルのふんわりしたものではなく、『一蓮托掌』は親自体が半分この餌食にされてしまうという直接的な(=劇中独自ガジェットからダイレクトな影響される)ものとなり。

 『ファニー~』における彼氏の役回りをする姉とのいさかいもまた、(『ファニー~』ではふんわりやんわり話を振るといった感じだった彼氏とちがって)『一蓮托掌』の姉は、妹のふるう"半分こにする手"に対して明確に否定するかたちであらわれます。

 両作とも、大人たちの言葉を受けて、仲睦まじい主人公と彼氏・姉妹のへだたりが決定的になるのは共通するものの、『ファニー~』のへだたりが、個人ではどうしようもない運命的な要素を主人公が大人のセリフにより自覚することであるのに対し。

 『一蓮托掌』のほうは、大人から聞かされるのはそうした運命的な要素についての説明であると同時に、「それを聞いたきみは何をすればいいか?」という"なんでも半分こにする手"のふるい手である妹自身の選択をうながす問いかけでもあり、決定的なへだたりは妹のアクションの結果として生み出されるという展開になっています。

 そして、両作とも涙をながして終わるの自体は変わりないけど、『ファニー~』が"おかしな指"をもつ少女オーリャドがひとり孤独に泣いたのに対し、『一蓮托掌』では、涙をながす少女(ふしぎな手をもたないほうの、妹に振り回された側である姉ですが)へ、おなじく"半分こ"に振り回された親が寄り添って、痛みを共有するかたちとなっています。伴名氏らしい味がある。

 ……あるのですが、ここで注目したいのは伴名氏の「著者のことば」です。上に引用した文からかれはこう続けます。

 パスティーシュを書くのは初めてで、「自分ならこういう展開や結末にするが、ラファティなら?」と悩みながら執筆するのは、得難い体験だった。

   『年刊 日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』p.305

 

  ▼ラファティの換骨奪胎としての『なめ、敵』

 『一蓮托掌(R・×・ラ×ァ×ィ)』は、展開から結末に至るまでラファティ氏に寄り添った作品だった。では、伴名氏なら? ……そうした思索の結果が『なめらかな世界と、その敵』なのではないでしょうか。

 

 『なめ、敵』は発表自体は2015年12月末でしたが、伴名氏が今作や今作の元を練っていたのはラファティトリビュート作品と同時期だったことが推察されます。

{2014年11月発表『つぎの穴』を読んだらっぱ亭さんのツイートによれば()、この段階で伴名氏は『町かどの穴』にインスパイアされた作品を『SFマガジン』編集部に送っていた模様。送った作品が(下永氏『三千世界』が発表された)2014年2月前後に書いていたもののお蔵入りとなった作品なのか、「一度ボツになった作品の弔い合戦」である改作『なめ、敵』自体なのかは不明ですが、『町かどの穴』に限らずラファティへ密に寄り添っていた時期に練られたのは間違いなさそう}

 

 といったところで、ラファティ氏諸作の換骨奪胎としての『なめらかな世界と、その敵』の話をしていきます。『なめ、敵』が彷彿とさせるラファティの作品は、実は『町かどの穴』だけではないのです。

   ▽別世界を行き来し魔術を取り出す少女たち;『ファニーフィンガーズ』と『なめ、敵』

 『ファニーフィンガーズ』を読んでいると、『一蓮托掌~』だけでなく、じつは『なめらかな世界と、その敵』にも影響を与えているのではと思われる場面や展開に出くわします。

 たとえば序盤のこんな展開。上でふれたとおり、『ファニーフィンガーズ』は、超難解な概念さえも取り出せる少女の物語でした。彼女は彼女のほか限られた者だけが行ける世界へ行って魔術*55とも称される3体の異形の力を借りてさまざまなものを取り出します。オーリャドの"おかしな指"にかかれば、超難解な講座の教師がなやむような超難解な概念と記号の体系だってこしらえられてしまえるのです。

オーリャドは、教科書や宿題のプリントを家から持ちだす。そして、歌をうたいながら修理店のなかを通りぬけ、部品室をぬけ、その奥にある部品室をつぎからつぎへと通りぬけて、丘の底の底のトンネルをくだっていく。

 「おお、ケルミスよ、アクモンよ、ダムネイよ、

  ねえ、用意して。答えのはいった坩堝を」

 オーリャドはそんな風に歌う。つぎに、答えの坩堝から鉄の答えをとりだす。それから宿題の科目に応じて答えを組み立てる。それをプリントの上へまるでスタンプみたいに押しつけると、はい、できあがり。

   早川書房刊、『SFマガジン』2002年8月号p.12下段22行目~13上段9行目、R・A・ラファティ著「ファニーフィンガーズ」1より

あたしはもう帰るわ、セリム。宿題もやんなきゃならないし、ジェレゾヴィッチ先生のためにあの概念と記号の体系をこしらえてあげなきゃ。あれはだいじなことなんでしょ?」

   SFマガジン』2002年8月号p.19上段24行目~、R・A・ラファティ著「ファニーフィンガーズ」2より

 「おお、ケルミスよ、アクモンよ、ダムネイよ、」と歌うように難なく概念を取り出してみせるオーリャドら"おかしな指"のひとびとは、そこまで重要で様々な発見をしたり人類の発展に貢献したりしながらも歴史から忘れられた存在で、世間はおろかオーリャドの彼氏それどころか母さえも娘(やじぶんの夫/娘と同じく"おかしな指"をもつオーリャドの父)がなにをしているのかよくわかっていません。オーリャドは"おかしな指"のひとびとのもう一つの特徴によって、彼氏と決定的なへだたりを覚え、涙をながします。

 

 『なめらかな世界と、その敵』もまた、別の世界へと往復することで新たな概念――魔術書とも称される、図形や文字――を取り出せうる少女の物語です。葉月は友達のため重要な概念を運び出そうとします。

重要なはずの図形や文字は形のみが頭にかろうじて残っていたから、試しに、スケジュール帳の隅にペンで書きつけてみるけれど、それらが何を意味するのかわからない。

 覚悟を決め、通学路脇の川べりに座った。そして鞄から昨日買ったばかりのノートを取り出す。

 あちらへ行って、少しでも多い行数を目に焼き付けて、こちらのノートに記す。

 見て、戻って、書きつけて。見て、戻って、書きつけて。まるで門外不出の魔術書を、記憶を頼りに盗み出そうとする異端者になった気分だ。

   『なめ、敵』kindle版6%(位置No.238)「なめらかな世界と、その敵」2より

 「見て、戻って、書きつけて。見て、戻って、書きつけて。」と息切れしそうな意識のなかで、なんとか概念を取り出そうとした葉月の試みはここでこそ失敗してしまいますが、『なめ、敵』の物語がすすんでいくと、劇中世界の大体の人々がそのような能力の持ち主である必然として、葉月はじぶんのような試みを行なっている者が他にもいることを知り、さらには、よその異質な現実からもたらされた原理不明だし用途不明な概念をなんとかして実用レベルまで持ってきた者もいて、はたまた、そうすることで利益を得ている大人たちの企業さえ存在することを分かっていきます。

 ……挙句、葉月が別世界に跳び治そうとした友人マコトの乗覚障害だって、上述企業によって実用化された別世界の技術によりもたらされたものであることも。裏か表か面がちがうだけで、葉月の賭けとコインをおなじくするような真相です。

 物語の後半、葉月は無限の世界を行き来できる彼女だからこそできる方法で、大人さながら警察沙汰の事件を解決・マコトを救い出します。できなかったことができるようになる、なんと素敵な変化でしょうか! しかし、その特徴ゆえにマコトは隔たりを覚えてしまうのでした――葉月ではなく、特徴を有さないマコトのほうが。

 

   ▽「楽園よりも煉獄を」『なめらかな世界と、その敵』の罪人の応答

 ええ、と、どこか嬉しそうな声音で、一陣は応じる。

「この、なめらかな世界の人間は、誰もが絶対の理想郷に生きている。苦しみや悲しみを感じても、その苦しみも悲しみもない可能性を担保していて、実際いつでも行使できる。愛されなければ愛される現実に行けばいい。永遠の命が欲しければそれを達成している現実に移ればいい。彼らにとって、唯一の可能性を生きざるを得ない僕たちは、低次元の生物であり、理解できない存在であり、恐怖の対象であり、何よりも世界の敵なんです」

(略)

「だからこそ、僕たちはこの楽園を破壊する権利がある。世界を煉獄に落とす資格がある。僕たちは選ばれた人間なんです

   『なめ、敵』kindle版10%(位置No.424)、「なめらかな世界と、その敵」4

 マコトとおなじ乗覚障害で"異質な現実からもたらされた概念の実用化物の被害者"である男・一陣はこう述べます。ここで思い出すのが、園の女王』後半に登場する男の主張です。

    ○「天国よりも地獄を」他ラファティ作『田園の女王』の罪人の叫び

 男は身をこわばらせた。ピクリと震えた。また撃たれたのだ。しかし、死ぬまで絶叫をやめないつもりらしかった。

「電車王国のきさまら、みんなくそくらえだ! 自動車に乗ったひとりの男は(略)電車に乗った男百万人分の値打ちがある! この怪物のハンドルを握ったとたんに、黒い心臓が大きくふくれあがる気持を、きさまらは一度でも味わったことがあるか! この跳ねまわる宇宙の中心から全世界をあざ笑うとき、なまなましい憎しみでうっとりとなる気分を、一度でも味わったことがあるか! 上品ぶった野郎どもは、犬にでも食われろ! チンチン電車天国に行くよりも、おれは自動車で地獄へ行くほうを選ぶ!」

   講談社刊(講談社文庫)、R・シルヴァーバーグ他編『世界カーSF傑作選』p.245、R・A・ラファティ著「田園の女王」

 『田園の女王』R・A・ラファティ氏による短編で、C・アーチャー氏が自身の若者時代を振り返る昔話と、老いてひ孫カップルと送る現代の休日とを描いた作品です*56

「わしは目はしのきく若者じゃった。目はしがきくため、自分がすべてをわきまえとるわけではないことも、ようくわきまえとった。そこで、物知りの人びとを訪ね、どんなふうに遺産を投資すればよいかと、助言を仰いだ」

 州になったばかりの若く活気ある1907年のオクラホマで、成人し巨額の遺産を受け継いだC・アーチャーは、その使い道をなやんでた――自動車産業が栄えると見越してハーヴェイ・グッドリッチなる男による新興ゴム会社へ投資するか? それとも支線拡大のため株主募集中のチンチン電車会社へ投資するか?

 アーチャーがそう思い出話を聞かせる相手は、ひ孫カップルだ。彼らはローカル線に乗り、美しい準郊外の田園を回る休日を過ごしている。蜜蜂が黄色い雲をつくり2メートルを超すトマトが実り、さまざまな果樹園が広がる田園詩に甲高い音と異臭が入る――密造自動車が現れたのだ! かれを見て電車のなかのひとびとは……というお話です。

 

  伴名氏の選ぶラファティ短編ベスト3からこそこぼれていますが、自作『一蓮托掌(R・×・ラ×ァ×イ)』でオマージュした『ファニーフィンガーズ』と並べて、

「これや「田園の女王」が『昔には帰れない』に入らないらしいので、ラファティ短編集はもう一冊出さなきゃいけないですね。」

 と述べた重要作。21年12月出版のァニーフィンガーズ ラファティ・ベスト・コレクション2』に再録されたのもその証左と言えそう。

 『ファニーフィンガーズ』が主役の子供時代と大学生時代との2時代を描いた作品だったように、『田園の女王』も主役の若年期と老年期と2時代がえがかれた作品で、こちらも件の作とおなじく、前代の「なるほど陽気な酒呑みホラ吹きおじさんか~」と納得のとぼけた調子からすると、信じられないくらい重い調子を含んだ次代パートがくるので、高低差にびっくりします。

 酒場でいきなりキレ散らかされたり真顔で滔々と説教がはじまるアレを、計算ずくの周到な芸術にした感じ。(『ファニー~』は情動方面にさめざめと、『田園~』は風刺方面に寒々ときました)

 

 

 作品の簡単な紹介したところで、この項の最初に引用した場面について話を戻します。

 『田園の女王』終盤、アーチャー家族は密造自動車乗りに遭遇します。家族の乗ったチンチン電車から放たれるライフルの銃弾の雨にさらされながら、密造自動車で走る男が叫んだセリフがうえに引用した文章です。

「天国のような世界に生きる多数派のふつうのひとびとから疎んじられ地獄にいるマイノリティのほうが、じつは特別な存在なのだ」

 そんな旨を投げかけた男は、そのまま爆死します。密造自動車乗りを捕まえたところで看守を殺し脱獄しまた広野を走りだしてしまうからです。男の死に電車内では乗客から歌声がひびいたりします。

 男への非道に対しては、ひ孫娘から「なぜあの人たちを殺さなきゃいけないの、曽祖父さま?」「あの人たちがドライブするのが、なぜそんなに悪いことなの?」*57と異がとなられたりするのですが、そんな温和な彼女もけっきょく男のライフスタイルに強い拒否を示していきます。

「この匂い! とてもがまんできないわ!」

排気ガスじゃ。こんな匂いの中に生まれ、こんな匂いの中で一生涯を過ごし、こんな匂いの中で死んでいきたいかね?」

「いやよ、いや。それだけはごめんだわ」

   『世界カーSF傑作選』p.244

 なかなかひどい世界です。ひどい世界なのですが、

「われわれの生きる自動車社会のように、ローカル電車が主線として普及した社会だったら?」

 そんなif世界の変わりようを描いた作品なので、劇中人物がその酷さを分かる必要がないというか、わからないからこそ――劇中人物にとって常識だからこそ読者は劇中世界とのより強いギャップを如実に味わえるというわけです。

 

 そして「昔はよかった」幻想*58を批判した作品でもあります。

 ひどい世界はひどい世界だけど、そのひどさは、自動車社会に生きるぼくたちとくらべてどれほどのものなのか?

 温和派のひ孫娘が、終盤で決定的な拒否を見せるまえに唱えたあの異にしたって、「なぜそんな悪いことなの?」のあとにつづいた、

「 ふつうは人けのない荒地を走るだけでしょう? それも真夜中の二、三時間だけよ」*59という言葉は、穏当なようでその実、それを言われた特定の肌の色や性別や宗教信徒やあるいは特定の趣味を持っているかたがたにとって(現代ならたとえば、BBCでドラマ化された『都市と都市』などを手がけた作家C・ミエヴィル氏がグライム音楽などを好む若者を取材し、その酷さを取り上げたフォーム696制度やら、たとえばストリートでサッカーをすることを禁じられたりといった反社会的行動禁止命令やらに悩まされるイギリスの若者にとって)悪い意味で耳馴染みのある、持てる者ゆえの傲慢な言葉だったりやしないでしょうか?

 自動車乗りの男の姿に共感を覚える読者もそれなりにいることでしょう。

 

 ラファティ氏が、抑圧的な社会とそれに追従するふつうのひとびと、そして彼らからすると荒々しい異物であるけれどその実自由であるマイノリティの姿を描いたのは、『田園の女王』が初めてのことでもなければ、それが最後というわけでもありません。

(作品のネタバレを増やしてもアレなので、本文ではなく余談でしますが、前述伴名氏が「今とは全く違うラファティ観が形成されていたのでは」と述べた作品もふくまれます)

 今回の感想で挙げたいくつかの作品に言えるのは、"凡庸な多数派が、ある種運命的なまでに変えがたい存在である"ことと、"虐げられがちな少数派の人々がその実すごいパワーや自由な個性を有している"ことです。

 特殊な種族の特徴と同種族の大人たち複数人からの言及だったり、(のちに自分も老いてそうなる)街の年長の名士たちの考えといった世論だったり、進化論的必然だったり……理由はさまざまながら、とにかく皆かたくなな運命的と言える変えがたさでもって(『田園の女王』はとくに印象的。「語り手が分岐を選んだ前半をうけて、この後半なの!?」ってビックリします)、若者たちはくじかれますが、くじかれる一瞬は温かく輝かしく華々しい。

 くじかれたあとは……? というと、「どうなんだろう……」というところですが。(爆死したりするので)

 

    ○『なめらかな世界と、その敵』の罪人の応答への応答

 『なめらかな世界と、その敵』『田園の女王』それぞれの作品に登場し犯罪的アクションを起こしたマイノリティと、それに対するリアクションの違いは興味深いものがあります。

 『なめらかな世界と、その敵』は犯罪におよんだ男の声*60を、勝手にわめきちらす狂人の叫びにしません。

 一陣のことばは理路整然と読みやすく、適切な句読点のつけられた劇中随一のなめらかなことばです。

「愛されなければ愛される現実に行けばいい。永遠の命が欲しければそれを達成している現実に移ればいい。」

 再び引用したこのセリフも、よくよく見れば一文に「たられば」仮定条件をふくんだヤヤコシイ入り組んだ文章ですが、読点がひとつもないのにサラっとのみこめてしまう

 『なめ、敵』は犯人のことばを独り言にしません。

 主役であるマコトとの対話のなかで徐々に明らかにされてゆく一陣の主張は、(そもそも一陣の凶行の被害者であったはずの)マコトに決定的な変化をもたらします。

 そしてマコトだけでなく、彼女の異変を見つめる葉月にも。

 葉月は遅れながら自分の失態に気づくのです――じぶんの一陣への対応やマコトへのやさしさは、『田園の女王』でいうところのチャールズ老の聞く耳をもたないかたくなさと、ひ孫娘の穏当なようでその実持てる者ゆえの傲慢さ、どちらをも持ち合わせたものだったのだと。

(この一陣の存在感、影響力。ここでも、前述の感想で述べた『ひかりより速く、ゆるやかに』の被害者家族協会の立ち回りがそうだったような、端役を端役としない展開がみとめられます)

 この気づきは、多数派少数派こそ逆なれど、『ファニーフィンガーズ』の幕引きでオーリャドが涙した決定的なへだたりです。

 ラファティ氏なら気づいたところでおしまいでした。

 ラファティ氏のパスティーシュ『一蓮托掌』でもやっぱり少女が涙を流しておしまいでした。

 でも伴名氏なら?

 気づいておしまいにできないのが伴名氏なのでした。

 気づいたらはじめてしまうのが伴名氏なのでした。

 葉月は更なる一歩を踏み出すのです。

 『なめらかな世界と、その敵』は、マイノリティを憧れの特権的な存在とせず、圧倒的に持てる者であるマジョリティの側に立ったうえで、『ファニーフィンガーズ』の涙の代わりに汗をながし、『田園の女王』のペシミズムのさきへ進もうとする作品なのでした。

 葉月のすすんださきに見える光景は、この感想で挙げたいくつかのラファティ氏の作品の終盤で見せる一瞬の輝きにも似てます。

 あたし自身のスケールさえよく分からない闇色の空間で、あたしが踏み、蹴った地点にだけ光の帯が生じた。そこから何か途方もないエネルギーが生まれ、未来が生じた。

   『なめ、敵』kindle版13%(位置No.578)、「なめらかな世界と、その敵」5

 世界という世界が豊饒な虚空の中に形づくられるのだ。球形の世界だけではない。十二球面体の世界、さらにもっと複雑な世界すらも。映されるのは虹の七色だけではない。七の七乗、さらにその七乗の色彩までも。

 明るい光の中で星々が鮮やかに輝く。暗闇の中でしか星々を見たことないものたちよ、沈黙せよ!

   (ネタバレ防止のため出典元は伏字に)河出書房新社刊(河出文庫)、山岸真中村融編『20世紀SF④ 接続された女』p.354~5、R・A・ラファティ著「空(スカイ)」

 宇宙から地表へと突き刺さった神罰の大槍を。

   『なめ、敵』kindle版13%(位置No.611)、「なめらかな世界と、その敵」5

 青空の時代――それがなんだったか知っているかね? それは光の流れに乗ってくだってくる輝かしい死の剣だった。

   (ネタバレ防止のため出典元は伏字に)早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、R・A・ラファティ著『つぎの岩につづく』p.347、「太古の殻にくるまれて」3

興奮と恐怖と全力疾走とで、心臓が割れそうなくらい、肺が破れそうなくらいになっていて、体が弾け飛びそうだ。永遠に爆発まで一秒前の爆弾みたいだった。

   『なめ、敵』kindle版13%(位置No.579)、「なめらかな世界と、その敵」5

  "空飛ぶもの"の若者たちが、アンジェラを下へ運んで降りて、雲ゴケのベッドに寝かせた。アンジェラは恐怖と痛みで真っ白になり、染まった血で赤くなっていた。それでも彼女は微笑んでいた。

(略)蝋ムシのロウソクにだれかが火を点けた。

   (ネタバレ防止のため出典元は伏字に)青心社刊、R・A・ラファティ著『翼の贈りもの』p.18、「だれかがくれた翼の贈りもの」

  (そして一陣のことばとも似ています。さきに引用したとおり一陣は乗覚者の世界を、苦しみとも恐怖とも無縁の楽園だと表し、自分たちの世界を煉獄にたとえます。

 葉月は終盤の競争で、文字通り「恐怖」し、「心臓が割れそうなくらい」になり(≒苦しみ)、「永遠に爆発まで一秒前の爆弾みたいだった」と認識します。

 それはまさしく、一陣が挙げた楽園の暮らしとは正反対の態度です)

 ……似ていますが、葉月は目をそこで閉じません。

 輝きの去った何の変哲もない冷たい夜のなかで葉月は、そのさきの光(=明日)を、まだおとずれない暑さを、きっと見出せると目をひらきつづけて、うだるような夜風をその身でうけとめ、物語は終えるのです。

 

 

 

 

トンデモ? いやSFだ、明治だ、人間だ;『ゼロ年代の臨界点』

 序盤のあらすじ

 一九〇二年四月、開校間もない大阪開明女学校の講堂において、独人教育学者V・クラインの行った講演が佳境に差し掛かった頃、ある女学生が突如として立ち上がり、近代国家の動員主義に対する批判的な質問を独語で繰り出した。満足な回答が得られないとわかるや否や件の少女は講堂から退出した。

 呆気にとられるクラインらの前でやにわに別の少女が立ち上がり、「富江さんが聞く必要が無いと判断されるならば、われわれが聞く必要などどこに」といった意味のことを英語でまくしたてて退席し、ほかの学生も次々と追従した。最後に学生が一人残っていたが、大人たちがよく見ると彼女は幸福そうに眠っていた。

 最初に反旗を翻したのが少女が中在家富江、生徒を先導したのが宮前フジ、座席でねむりこけていたのが小平おとら。

 当時の同窓生から得た証言として『古典SF大系』六巻の「巻末解説」に柏原鴇太郎によって記録され、以来、幾度となく日本SFの正史と称するものに登場したこの偽エピソードが、それでも広く流布されているのは、やはり彼女ら三人の作家の性格を端的に表している(と思われている)からであろう。これに限らず彼女らは確たる資料に乏しく、全容は杳として知れない。

 日本SFの第一世代、即ちゼロ年代SFの歴史が如何にして始まったかには、明確な答えが提出できる。

 すべての始まりは、一九〇二年五月であった。「女學同朋」に読者から投稿された小説作品、これが一般に日本最初のSFと称される『翠橋相対死事』である。作者は中在家富江であった。

 感想

 カリスマ富江とその追従者フジそしてバランサーのおとらという明治社会に波紋をなげかける3人の少女~女性。信奉者をあつめる少女たちの集いは秘密主義で、敵対者には石鹸を食べさせたりと過激な行動にも出る……ゼロ年代の臨界点』のそんな構図に、ユートピアの臨界点」の3人の女性を思い浮かべた読者はすくなくないでしょう。

 『虐殺器官』の結末部分について伊藤氏自身の口から裏読みがあることが明かされるキッカケとなった評の書き手である稲葉振一郎氏の著書ナウシカ解読 ユートピアの臨界』や、東浩紀氏らによる批評誌美少女ゲームの臨界点の相の子のような)そのような文句で巻末紹介がしめくくられた○伊藤計劃著『ーモニー』は、カリスマ御冷ミァハとその追従者トァンそしてバランサーのキアンという3人が、未来の生府社会に波紋をなげかけるお話で。伊藤氏が影響元と明示していたチャック・パラニューク著■ァイト・クラブ』は、カリスマ"タイラー・ダーデン"とその友達「ぼく」と彼らの築いた秘密主義の集いが、石鹸をつくったり破壊活動をしたりするさまをえがいた作品でした。

 ゼロ年代の臨界点』は、カリスマ作家で学生の憧れの的・富江の後を追うふたりの女性が……富江の熱心な信奉者で文筆業についても批評眼に優れ弁もたつけれど小説家業としては1作目を書いて筆を折ってしまったフジ、最初の挿話こそ二人に置いていかれ創作も二番煎じでトロいひとに見えるが実のところキメるところはキメるし周囲との関わりも円満で、文筆業についても富江の作を(余人が誰も論じなかった富江参照元に気づいているなど)熱心に読みこむ優れた見識を持ち、マイペースに小説家業もつづけられるおとら……というかたちで一長一短ともに並び立っていて、(後半の展開のためにか、前半では印象が凡人色がつよく影がうすめのキアンが3人組の一角をしめる)『ハーモニー』よりもキャラやキャラ間のやりとりは印象に残ります。

 

  『ゼロ年代の臨界点』を読んで思い浮かべる先行作として、ルヘスの著作を挙げる人も少なくないでしょう。じっさい識者でも初出時に読んだ牧眞司氏がツイートで*61あるいは陸秋槎氏が『SFマガジン2019年12月号』で*62今作をまずそう評しますし。架空の書評・研究形式といえばボルヘスにレム。伴名氏が平部員だったときの京大SF幻想研も生協でフェアをしたときにボルヘスから一作奇集』を並べました(あと△行類』も)、レムによる架空の書評集全な真空』はよそおい新たに文庫版として絶賛発売中。そんな架空の書評・研究形式小説観に待ったをかける声が

 私自身、ボルヘスやレム、平行植物鼻行類など、架空の研究論文・エッセイの形式をとった作品には、それまで何度も触れてきていた。ただ、リアルタイムではなく、遥か昔の研究が再発掘されたもの、という形で語られる本作品(※引用者注;石黒達昌著『雪女』)の、「手が届かない決定的な遠さ」は、とりわけ私を魅了した。

   伴名練氏運営『石黒達昌ファンブログ』、「雪女」(『人喰い病』収録)より

 伴名練。

 ということで女』を今作に重ねるひとはもちろんいるでしょう。石黒達昌氏によるこの作品は、伴名氏が運営する『石黒達昌ファンクラブ』にて、今作の影響元として直接言及されました。*63

 今ここで告白するが、私がかつて書いた短編のひとつ、「ゼロ年代の臨界点」は、この作品がなければ存在しなかったであろうものだ。小説の「形式」が持ちうる力というものを、この小説に教わったのだ。無機質な文体に無機質でないものをこめられる、という可能性を、私は石黒達昌の筆致から学んだ。

   伴名練氏運営『石黒達昌ファンブログ』、「雪女」(『人喰い病』収録)より

 引用文の『雪女』の形式の独自性や続く文章で検討がなされる細部は、ゼロ年代の臨界点』の形式について理解の一助となるでしょう。『雪女』の結末の異様と常との交錯を読むと、『ゼロ年代の臨界点』の結末はなるほど根を同じくするものだと納得できます。

 

 もしかすると、歌の黙示録(エンカ・アポカリプシス)を連想したひとがいないとも限りません。

  ▼他作家『演歌の黙示録』の多彩な声を集積する(芸能雑誌史書形式

 『演歌の黙示録』牧野修氏の筆による、演歌が神秘主義から持ち込まれたヘンテコ偽史小説で(今作を収めた『楽園の知恵 あるいはヒステリーの歴史』は早川書房から電子書籍が流通中(4/13まで半額!)です)1999年晦日NHKホールに月刊エンカマガジンの記者である「私」が立ち会った当日と、そこに至るまでの演歌史とが並行して語られていく作品です。

 演歌は神秘主義から生まれた音楽だった。演歌神秘主義の嚆矢は、最初の演歌歌手である川上音二郎によって一八八九年(明治二十二年)に造られた『オッペケペー』である。

 オッペケペーとは、「オー、エー、へー、イェー」の音便である。「オー、エー、へー、イェー」とはヘブライ語で「おお、私は在る」という意味だ。霊中枢を覚醒するためには必須の聖句なので、西洋魔術を実践するものであるのなら、一度は口にする言葉である。

   早川書房刊、牧野修『楽園の知恵 あるいはヒステリーの歴史』Kindle版66%(位置No.7917中 3188)、第三章「諸例」内「演歌の黙示録」より

 演歌の基調とする七五調、七はご存知完全数で五はご存知YHWHにSを加えたペンタグラマトンやら、日本薔薇十字興業黒井津楼膳(くろいづろうぜん)やら、その弟子筋の黄金の暁プロダクション捲屋名山(まくりやめいざん)やら、そのさらに弟子筋で恋の法の書横丁でデビューする荒下黒瓜(あれしたくろうり)やら……パワーワードの乱れうち、それでいてちゃっかり神秘主義人物史にもなっているし、あまつさえ(引用文で実在人物川上音二郎とその唄が神秘主義に読み替えられたみたく)明治~1999年までの日本を舞台に・演歌をモチーフにした味もしっかりよく出ている……というすごい作品です。

(伴名氏が所属していた時代の京大SF幻想研ブログを読んでみると、今作に狂気乱舞されているかたが少なくともひとりはいたことが確認できます)

 

 『ゼロ年代の臨界点』との違いとして、語り手は(=劇中史の編纂者は)明確な顔があり――雑誌記者という語り手の性格によるものか、あるいは引用する架空の媒体の性質によるものか(『演歌の黙示録』劇中で引用される架空の文献はゴシップ芸能誌であったり、インタビューは腹に一物かかえてそうな関西弁であったり、七五調の演歌の歌詞であったりさまざまです)、はたまた執筆当時の精神状態か――所々くだけた調子も混じります。

 ただそれは欠点では全くなく、そうしたあやしくてうろんな部分を多分にふくむ混沌とした世界を、矮小な語り手が「それでも」と自分の口でもってなんとか世界の輪郭をなぞろうとしてみせたからこそぼくは胸を打たれました。

 

  ▼『ゼロ年代の臨界点』の限定的な時代の限定的な声を集積する史書形式

 『演歌の黙示録』の多様な声色とそのコントラストが美しかったように、ゼロ年代の臨界点』もまた語調の掬い上げとコントラストがすごい作品です。

 (おそらく現代人に近い時分を生きる)語り手の言葉は「だ・である」体の硬い文章で*64、カギ括弧内で発せられるゼロ年代当時の人々の言論はさらに硬く、言文一致が運動中の(=旧来の言葉遣いがまだ強い)明治ゼロ年代を舞台にした作品らしく、古文・旧字仮名遣いの文章が主体の語調でつづられていきます。(『ゼロ年代の臨界点』の言論は、漢字以外がカタカナとなっていて、異物感はさらに強い)

 ひらがな・話し言葉が出てきたかと思ったら、明治のお嬢様学校*65という時代柄土地柄階級柄らしい「してらして」などの上品・古風な年長者の言葉が話されたり。

 あるいは、作品内の原文がひらがなで引かれたと思ったら七五調の和歌だったり……と、ことばの地盤を伝統ある強固なものとしていきます。

 

 冒頭中盤のフジの言葉は、丁寧語ながら2020年代を生きるぼくたちが口にし耳にする言葉遣いに近いけれど、冒頭は劇中内で妄想*66中盤のそれは風聞と示された*67場面内の言葉であり、前者のセリフはしかもその場面単体で見てさえも"といった意味のことを英語で"と彼女がそのまま発したものではない言葉である旨が念押しされていました。

 地味な世界の硬い言葉を地道に連ねていったなかで、最後の最後に(ぼくたちの耳にとって)ふつうの話し言葉がぽんと置かれる。その一言がスルッとなめらかに呑み込めて胸の奥にじいんと響く美しい作品です。

 

  ▼もう一つの明治としての『ゼロ年代の臨界点』

 劇中舞台(時代・場所)の選択による凝りよう・面白さは文体(とそれが生み出す作劇のダイナミズム)だけにとどまりません。『ゼロ年代の臨界点』も――『演歌の黙示録』の神秘主義史なぞらえほど直接的なかたちでないにせよ――伴名氏が巻末で献辞をささげた横田順彌{や、横田氏をふまえた長山靖生氏(「日本SFの歴史を概観するうえで、長山靖生『日本SF精神史【完全版】』、日下三蔵『日本SF全集・総解説』などと並んで重要である。」と伴名氏が述べる○本SF精神史』など)の}古典SFや明治の時代風俗研究・紹介書とくらべて読んでいけば、

「なるほど、こちらの世界の明治前後のSFの変遷や、科学~信仰が交じり合った新進の有名人・事件。これらを3人の女性の作品やその後輩に集約した、トンデモ古典SF/明治空想史だったのか!」

 と柏手を打つ内容なのでした。

{……なんて言いきりましたが、お察しのとおりぼくはSFにも疎ければSF史日本史なんてサッパリの人間です。下村思游さんが作中作と作中現実との関係を考察した『伴名練「ゼロ年代の臨界点」に関する補足解説』SF游歩道)でさらっと触れられていた横田氏の著作をはじめ、みんな最近になって読みました(笑) しかも伴名氏が作品の参考にしたかどうかはおろか、読んだかどうかさえ不明な本ときた(笑) だから以下は、否定材料なんてごまんとあるだろうにあれもこれもと『ゼロ臨』との関連性を見出してしまったダメ論者による相当ガバい話です。

 インターネットではテキトーこくと識者からキッチリカッチリしたお話が聞けるというウル技があります。この感想を呼び水に、正確な時代認識・作品検討のなされた論考がお目見えできることを願いましょう}

 そもそも舞台設定からして素晴らしいですよね。既読者から漏れ聞こえた今作の体裁から、設定のぼんくらのヨタ話ぶりに笑ってしまったんですが、でも星新一氏による明治本を読んでびっくり、1900年代って、

 本をつんどく。この言葉が流行(学燈)。

   新潮社刊、星新一『夜明けあと』Kindle版65%(位置No.3456中 2231)、●明治三十四年(一九〇一)より

 と新聞が「積ん読」の流行を報じたくらい(有象無象の)本の供給・所有が容易になった時代なんですね。架空の書物史をあつかうにあたってこれ以上しっくりくる時代ってある!?

 

 劇中に登場する事物をみていきましょう。冒頭の劇中内都市伝説エピソードに登場し富江から指弾される人物ヴィルヘルム・クラインは、明治期日本へも影響をあたえたヘルバルト教育学のヘルバルトの弟子で五段階教授法の提唱者ヴィルヘルム・ラインのもじりです。{2011年『結晶銀河』収録版では、「ク」がなくてまんま「ヴィルヘルム・ライン」でした。(現行版への変更は、クラインの壺を想起させる面白い変更ですね) ただ来日したお雇い外国人はさらにその弟子筋のエミール・ハウスクネヒトであり、このかた自身も劇中のクラインほどには日本に居なかった模様

 

 『ゼロ年代の臨界点』中盤で「何らかの超能力開発が行われていたという説が流布」した、私学時代の入学生で20年代を代表する作家となった劇中人物のうち数人も、モデルにした人物が分かりやすいです。

 武良(けよ)、氏原千鶴子や、上の噂を流布した劇中20年代の「福来派」SF作家といった面々は、おそらくそれぞれ高橋貞子(かはしさ)、御船千鶴子福来友吉から由来します。

 3人とも明治の末をにぎわせた千里眼事件の関係者で、前2者は透視や念写といった超能力の持ち主であると喧伝された人物、福来氏は東京帝国大の研究者で彼女らを取材研究・指導した人物です。

 千里眼事件とはどんなものか? こちらも長山靖生氏が里眼事件―科学とオカルトと明治日本』を、千里眼事件含め前後の催眠術史について一柳廣孝氏が■眠術の日本近代』を著されていて、それぞれ参考になります。

 義兄による催眠術で千里眼にめざめた御船千鶴子氏が、日露戦争で遭難した常陸丸の兵士らの安否を視たり、地元で手かざしや遠隔治療などをしていたところ、1909年に話題を聞きつけた福来が何度かの訪問と実験ののち10年4月、京都帝国大学医科大学教授今村新吉と共同実験を8月に各都市で公開実験を行なった(新聞も報道した)結果、各地で千里眼にめざめた人物が新聞を賑わせました。

 京都帝国大学文科大学哲学科の学生・三浦恒助氏(=同大心理学教授松本亦太郎教授より派遣された人物)が、千里眼者の念写時についての発言(東京日日新聞報道/『千里眼事件』p.107)などから「念写時に光線がでているのだ」として、それを京大光線と名づけ発表すれば/東京朝日新聞で報道されれば(『千里眼事件』p.108)、福来氏も「いやそんな直線的に伸びるものでもなければ物理的でもない、もっと精神的なものだ。精神線だ(『千里眼事件』p.110)との旨の対抗談話をし、ついにはX線の追試などをした日本物理学の権威山川健次郎氏らが追試に立ち会うことに……と、医学界物理学界も注目のできごとでした。

 そもそも御船氏が千里眼にめざめた催眠術ってなに? 一柳氏によれば千里眼事件に先立つ1903年の明治では催眠術ブームが再燃、『学理応用催眠術自在』『実用催眠学』『心理作用読心術自在』などがベストセラーになり、二匹目のドジョウ本も続々出版、大日本催眠術奨励会やら精神研究会やら帝国催眠学会やらといった組織的な通信教育を軸とする民間団体の活動が活発化していたそうな。青弓社『催眠術の日本近代』GoogleBooks版p.66~(紙の印字でp.64~)} 本当にいろいろな本が出ていた・文化活動があったんですねえ。

 

   ▽劇中世界の文筆と、こちらの明治の文筆との相違

 一番気になるところは、

「はたして『ゼロ年代の臨界点』主役3人にそのものズバリなモデルがいるか?」

 ですよね。歴史文化史にうといぼくには分かりませんし、『ゼロ臨』冒頭の三者三様の逸話に下村さんら複数人が星小松筒井御三方の逸話を想起していたところからすると、時代に囚われずさまざまなSF作家の総体のような面もあるのでは? とも思われますが。

 さておき作中作や周辺のムーブメントには、明治日本の文筆のにおいや趣味やうろんなものごととそれへのお上の反応などと重なるものがあります。

    ○『巌窟女王』と『銀山女王』;明治のSF作家に『巌窟王』はどんな影響をあたえたか

 たとえば『ゼロ年代の臨界点』注1*68にしるされた、劇中明治で黒岩涙香以外による『巌窟の訳書で(おそらく)その登場人物ダングラールの娘について独自展開を盛り込んだ『岩窟王』が無断翻案され(広く読まれ)た、という話。作品単体では、「女性(キャラ)が大きな役割を演じても読者が自然と受け入れる世界だ」とほのめかせる書き込みですが、実はこちらの明治日本における窟王(モンテ・クリスト伯)』と日本人作家への影響を汲んだような細部でもありました。1901年から邦訳連載されたデュマ氏のこの傑作は日本の読者・作家にも多大な影響をあたえており、日本初のSF作家ともいわれる押川春浪もそのひとり。学生だったかれは『モンテ・クリスト伯』を読み、長篇底軍艦』執筆を行ないました。

■然しユーゴーアレキサンダー、ジユマ等の小説には多大の興味(インテレスト)を有し、此様な雄大剛健な小説なら日本にあつてほしいと考へ、ユーゴーの『ザ、ミゼラブル』と、ジユマの『モント、クリスト』とは吾輩に大なる刺激を与へ、未だ一介の法律学生である癖に、生意気にもジユマ大先生の向ふを張る気で、臍(ほぞ)の緒切つて初めて長篇の小説に筆を染めて見た。之れが吾輩の処女作『海底軍艦』である。

   武侠世界 大正四年正月号』掲載「吾輩が初めて金を儲けた時」を引く、徳間書店刊(徳間文庫)横田順彌會津信吾著『快男児 押川春浪』p.92、第三章 出洞――処女作時代

 『海底軍艦』は好評を博しシリーズ化されました。春浪氏はその第二作英雄小説侠の日本』のはしがきでも『モンテ・クリスト伯』への愛を明言しているそうです。

(略)実は先年仏国の文豪アレキサンダー、ジユマ氏の「モント、クリスト」を読み、其の趣向の壮大なるに驚嘆し、本年は又た黒岩涙香氏の妙筆が、同書を訳して「巌窟王」と題し(略)連載せられたるを看、余も愛読者の一人となつて、読めば読む程面白さに堪へず、恋愛小説も面白いが此方がモツト面白い、文学上の価値が無しと云はれても、何と云はれても、面白きものは矢張面白きなり、如何にもして斯かる面白き小説を作らんと毎日〳〵「巌窟王」の続物を読みつゝ考ひつゝ漸く愚頭よりひねり出したるが本書なり。

   『快男児 押川春浪』p.163-4、第四章 雄飛――写真雑誌時代

  春浪氏の作品『銀山は、横田&會津氏によれば「恋に破れて世捨人となった富豪の令嬢が、離島の隠者に助けられ、再び恋人を取り戻すまでのラブ・ロマンス」*69だったそうで……これは婚約披露パーティ中に逮捕され孤島の要塞イフの城へ投獄されるも隣の牢屋の神父に助けられ、復讐を誓った『モンテ・クリスト伯』からの影響がうかがえるあらすじです。今作も人気を博し2パターンの華訳もなされ、そのうち一つの題名は『銀山王』だったそう。

    ○富江『翠橋相対死事』と春浪『海底軍艦』;「日本SFの祖」と後続作家

 上で名の出たSF冒険小説海底軍艦の爆発的人気と押川氏について、横田順彌氏は「日本SFの祖」、明治30~40年の同ジャンルの作家が台頭する引き金となったと評価します。

問題はそれを高く評価するか低く評価するかなのだが、ぼくは押川春浪日本SFの祖と呼ぶことに、なんの抵抗ももっていない。(略)春浪のSF史上における功績は、自らSFの傑作を書いたというにはとどまらない。それは彼が意図したものではなく、あくまでも副次的な現象であったが、『海底軍艦』の爆発的人気により、明治三〇年代から四〇年代にかけて、潜在的なSF冒険作家たちが次々とデビューしたことだ。

 羽衣に身を包んだ日本のウラ若き美女が月世界へ飛ぶ『月世界探検』(略)ほか、春浪に劣らない冒険SFの作品数を誇る羽化史。(略)主人公が三〇〇年後の東京に蘇生して、恐るべき東京の姿を目撃する『三百年後の東京』の月露行客。(略)

   集英社刊(集英社文庫)、横田順彌著『日本SFこてん古典[1]宇宙への飛翔』p.337、「第18回 日本SFの祖・押川春浪のこと」

  こんな史観に『ゼロ臨』読者はデジャヴを覚えたことでしょう。

 いずれにせよ、結果的に『翠橋相対死事』が日本SFの祖になった点は否めない。(略)以降、本作に影響を受けた(略)野しづによる『籤千本』(未来へ向かう方法として神社の鳥居を用い、主人公を女学生とした)、女性運動家牟田口ミズエによる未来探訪譚『西暦千九百五十年帝都絵巻』が発表される。この作品ラッシュが、日本SFが現在に至るまで主に女性作家によって書かれるようになった直接の原点となっている。

   『なめ、敵』kindle版15%(位置No.4781中 709)

  片や明治30年代という「この時代には珍しい女性が主人公の」*70小説を書いた羽化史という筆名の渋江(しぶえ)保らが現れたりしたこちらの世界。

 片やゼロ年代で、富江という日本SFの祖が描いた主人公と異なり「女学生を主人公とした」小説をかいたしづらが現れたあちらの世界。

 片や作品のジャンル/片や作家のジェンダーと相違はありますが、圧倒的人気作・作家の登場により、要素を同じくする作家が次々デビューした潮流を『ゼロ臨』も辿っています。

    ○おとら『九郎判官御一新始末』と『義経再興記』;明治の日本スゴイ偽史架空戦記

 おとらによる『九郎判官御一新始末』。劇中の語り手からは、トウェイン著『アーサー王宮廷のヤンキー』との関連が指摘されたこの劇中劇もまた、明治日本のにおいがするのです。作品内では、元薩摩藩士の主人公がタイムスリップして、タイトルのとおり九郎判官=源義経が主役を張って海中に遷都さえしてしまいますが、源義経が海を渡って中国大陸を征した義経ジンギスカン説が世界規模で再燃したのも明治なのでした。

 『九郎判官御一新始末』が発表された1902年(明治三五年)ごろはどんな時代だったのか? {明治一八年(1885年)に}義経再興記』として内田彌八氏により邦訳出版・重版出来されたケンブリッジ大の論文『The Identity of the Great Conqueror Genghis Khan with the Japanese Hero Yoshitsune(大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なること)』の著者末松謙澄氏が、日本政府の内務大臣(第四次伊藤内閣)をつとめていたのがつい去年という時分です。

 『義経再興記』後の創作を長山氏はこう振り返ります。

 さらに日本国内では、義経主従による蝦夷地統一物語である永楽舎一水『義経蝦夷勲功記』(金盛堂、明治十九)、内田の著作を軍記物として増補した清水米州『通俗義経再興記』(東京文事堂、明治十九)などが続々出版された。これは大正期に出版されてベストセラーとなる小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』(大正十三)の種本となった。また、源為朝琉球王となる物語を描いた高木親斎『為朝再興記』(金鱗堂・真盛堂、明治二十)なども、同系統の本ということができるだろう。

    河出書房新社刊(河出ブックス)、長山靖生著『日本SF精神史 幕末・明治から戦後までKindle版34%(位置No.3229中1076)、「第三章 覇権的カタルシスへの願望――国権小説と架空私小説」内 捏造される「歴史」 より

 「海中に遷都」するくだりは『なめ、敵』収録版で書き足されたもので、物語単体としてはおとらの行く末を予感させる細部にも思えます。ただもしかすると、こちらの明治で義経がモンゴルに渡ったり蝦夷にいったり為朝が琉球に行ったりしたことや、あるいはこちらの明治で国産SF海底軍艦が一世を風靡したことを受けてのことかもしれません。

 薩摩藩士がタイムスリップして活躍したおとらの『九郎判官御一新始末』なんてなんのその、こちらの『海底軍艦』では明治三九年1906年シリーズ第五作英雄小説日本島』なんと薩摩の英雄・西郷隆盛が生きていたという設定で活躍するんだとか。

西郷は西南戦争で死なず、秘かフィリピンに渡って独立運動を助けていたのだが、米国の奸計に陥って捕らえられ、ロシアに引き渡されてシベリアに幽閉されていたのだった(この筋運びには、南進小説を時局にあわせて北進の物語にした経緯がうかがわれる)

   日本SF精神史Kindle版49%(位置No.3229中 1547)「第五章 新世紀前後――未来戦記と滅亡テーマ」内 押川春浪海底軍艦』、その後の進路 より

 

 明治二二年(1889年)大日本帝国憲法発布・議会開会を境に、政治小説の潮流が民権小説から国権小説へ転換した……そんな柳田泉氏の知見にならうかたちで、長山氏はその時代の日本SFの潮流について、未来小説から冒険小説・シミュレーション小説への転換を見出します*71。国権小説とは「日本が国力を展ばして、幕末に欧米諸国から押し付けられて以来の諸外国との不平等条約を撥ね退け、海外に国土を拡張して行く」*72小説のことで、シミュレーション小説とは「偽史が歴史を装っているのに対して、明確にフィクションの形をとりながら、同様の架空史を娯楽小説として描いてみせた」*73作品のことを指すみたい。

 

 そこで具体例として挙げられている一作が、明治二十年に杉山藤次郎が著した仮年偉業臣再興記』で、「一見すると『義経再興記』『為朝再興記』のような偽史系小説のように見える。しかしその内容は、」*74と長山氏が語る内容は、秀吉が朝鮮どころか明やシャム印度ルソントルコなどなど次々と攻め落としてアジアを統一し、ヨーロッパ侵攻を準備中に死んだ冥界で出会った孫悟空と猿つながりで契りを結び、閻魔帳を書き換え不死身となって現世に舞い戻りヨーロッパを征服し地球大皇帝となりそれでも飽き足らず地獄を……という架空戦史ファンタジー*75横田順彌氏の『日本SFこてん古典』によれば、インドの南尸陀林から地底方向へ掘り進めて地獄に辿りついた秀吉軍のため助太刀として、地獄にいた信長や義経義経の仇敵・清盛など錚々たる顔ぶれが結集したのだそう*76

 

 そして長山氏は明治三十年代から四十年代にかけてを、「現実の日本の海外拡張に関連して架空戦記、特に対露戦争小説が流行し、日露戦争後になると対米戦争小説(あるいは英米との技術開発競争物)がしきりに書かれ」*77た時代だったと概観します。

 おとらの『九郎判官御一新始末』はそうした偽史~架空戦史・冒険小説を総括したような作品に思えてなりません。(ただ『九郎~』は、南進も北進もせず、日本にとどまっているという大きな違いがあるわけですが……)

    ○おとら『銅瘡』;明治の終末SF

 『ゼロ年代の臨界点』劇中ではおとらが著した『銅瘡』を「日本初の終末SF」だと語り手は語り、さらにエドガー・アラン・ポオ『赤死病の仮面』との関連を付記しますが、長山氏のSF史を読んでいくと、どうやらこれも当時の明治のSFを汲んだものらしい。

 長山氏は『日本SF精神史』第五章で、明治三十年(1896年)のウェルズ著宙戦争』英米と同年の訳出紹介された翻訳事情や、海外の天文学者フェルプが唱えた大彗星地球滅亡説を下敷きとした中川霞城著界滅亡』(明治三二年)松居松葉著国星』(明治三三年)アメリカの天文学者シモン・ニウカムの著黒星』{明治三七年(1904年)黒岩涙香邦訳}など、当時の終末SFの多産ぶりを紹介しています。

 ところで、明治三十年代は西暦でいえば十九世紀から二十世紀への変わり目を含んでおり、欧米の世紀末ブームに影響を受けた終末論的SFが日本にももたらされた。(略)日本独自の終末小説が展開を見せるのは、主に日露戦争後の社会不安が広まってからだった。

   日本SF精神史Kindle版49%(位置No.3229中 1566)「第五章 新世紀前後――未来戦記と滅亡テーマ」内 宇宙戦争』に『暗黒星』――世界は何度も滅亡する より

  おとらが『銅瘡』を記したのは1908年。劇中でも日露戦争終結したあとだと明言されている時分のことでした。

 終末SFと聞くとクソでかい規模が想像されますが、ポーの死病の仮面』は流行り病により城下が潰えようと、じぶんたちだけは籠城し仮面舞踏会を催す国王プロスペロとその友人貴族たちによるゲーテッドコミュニティ物。劇中の女学校・SF趣味人の集いの状況をかんがみた伴名氏のDJならぬビブリオジョッキーぶりが光りますね。

 

    ○富江『藤原家秘帖 前編』と『冒険世界』、1908年=明治41年にあらわれた二つの後編公募小説企画

 劇中明治41年(1908年)10月に発表された2月に渡米留学を宣言した、とあるから、その頃に執筆・出版社に託されたのだろうと思われる)富江『藤原家秘帖』の、前編だけ富江が記し後編を読者に募るというこの試みは、こちらの世界の1908年1月にスタートした険世界』誌を思わせます。押川春浪氏が主筆を務めたこの雑誌でなされた企画の一つが、まさしくそういったものだったのです。

 これ以外にも「冒険世界」は、読者を惹きつけるために、読者を巻き込むさまざまな工夫を凝らしていた。(略)

 Bの「結末投稿」は作家が小説の前半を書き、その後の展開を、読者が自由に創作して投稿するもの。たとえば「冒険世界」明治四十一年二月号に掲載された「幽霊妖怪奇譚」にたいしては三千七百五十六通の答案が寄せられ、同年四月号に優秀作七編が掲載されている。

   日本SF精神史Kindle版52、53%(位置No.3229中1655、1667)「第六章 三大冒険雑誌とその時代」内「冒険世界」の多様な誌面戦略 より

 富江らが籠球を楽しんでいたように、春浪氏も海外の球技――野球――をはじめさまざまなスポーツへ熱心に取り組み応援していた人物で、富江の父が学校運営者をつとめたように春浪氏の父もまた学校運営者(東北学院の創設者)でした。

 

 田子の浦で、和歌や句を残して、三人の女性が入水自殺。若くなく、動機不明。

   『夜明けあと』Kindle版83%(位置No.3456中 2833)、●明治四十一年(一九〇八)より

 『ゼロ年代の臨界点』で主要舞台となる学校やSF趣味のつどいは、お上からの反発や、作家の自死の可能性も疑わせる失踪をうけ、勢いをうしなってしまいます。

 そうしたお上の抑圧や大衆からの疑義は、こちらの世界の趣味人・うろんなひともこうむったことでした。

 たとえばこちらの世界の明治42年(1909年。『ゼロ年代の臨界点』における『藤原家秘帖』発表の翌年)『冒険世界』誌と『少年世界』誌合同で<振武大競争>を企画しますが――靖国神社まえをスタートし、王子の飛鳥山までレースを行なうというもの。これ自体は、前年1908年の『冒険世界』誌が開催した<天幕旅行大運動会>という「野武士的大運動会」の成功をうけた企画*78でしたが――

 多人数が一時に疾走しては危険の恐れがあるとする麹町警察署の圧力により、このレースは中止を余儀なくされてしまう。もっとも、これはあくまで名目で、当時、盛んになりつつあった労働運動の街頭運動を牽制するのが、当局の目的だったようだ。つまり、春浪と博文館とは、とばっちりを食った形になったのだ。

   『快男児 押川春浪』p.223「第六章 壮遊――<冒険世界>2」

 さらに春浪氏が熱心に推していた野球も、1906年明治39年早慶戦が「本年は応援合戦で不穏になりそうと、中止に」*79なったり。あるいは、1910年(明治43年)新渡戸稲造などによる”野球害毒論”が東京朝日新聞から唱えられたりします。(春浪氏らが反論に立ち論争となり、論争の結果は現在までつづく野球人気から推して知るべしですが、それはそれとして野球の取り扱いについて翌年1911年に春浪氏は『冒険世界』誌の上層部と対立し、誌から降りることとなります)

 

 千里眼事件のひとびとはどうでしょうか。

 福来友吉氏が御船千鶴子氏・長尾郁子氏らを都市部にまねいて行われた公開実験は、物理学の権威山川氏などをまじえた追試の成果がかんばしくなく、千里眼はアカデミアやメディアから疑問視・沈静化されていきます。福来氏はその後も研究をつづけ1913年『透視と念写』刊行とともに共同実験を呼びかけましたが、学会は無視、大学から休職の辞令がくだり、福来氏は(任期満了と更新打ち切りをもって)東京帝国大を去りました。御船千鶴子氏はといえば……

 透視女性の新しい出現で、その第一号の千鶴子は、服毒自殺。人気が落ちたと思ってか、家庭の事情のためか(東朝)。

   『夜明けあと』Kindle版65%(位置No.3456中 3060)、●明治四十四年(一九一一)より

 (21世紀のいまも人気がつづく本物にせよ、その場かぎりの紛い物にせよ)明治に勢いのあったさまざまなカルチャーの活気が、もしSF一本に集中されていたら?

 そんなSFオタクの夢のようなif世界が『ゼロ年代の臨界点』の世界ですが、この感想で前述した(if世界を描きつつも「昔はよかった」批判の様相をていした)某作よろしく、活気ある文化がほかから反発・抑圧された明治という時代の必然として、劇中SFカルチャー自体が劇中の大人気相応のさらなる反発・抑圧をむかえることとなり。そして、コミュニティ内部の動きとしても、『ファイトクラブ』やら現実の日本ならオウムやら、活力のありあまるコミュニティが往々にしてそうであったように、過激派な暴走を巻き起こしもしてしまいます。

 劇中1908年に、女装し潜入捜査した記者・堂島鉄*80の正体が暴かれ女学生たちから石鹸を無理やり口の中に押し込まれて洗浄される私刑の模様は、こちらの世界の同年におきた銭湯帰りの27歳の女性が殺害され、手ぬぐいを口に押し込まれた状態で発見され」女湯覗き歴のある男が逮捕された(が冤罪という声もある)いわゆるデバカメ事件のように騒がれたことは想像に難くない。

{また、今作をSF界隈のミラーリングとして見た場合、胸に手を当て考えたいシーンだとも……。日本SF業界の「家庭に入った女には蓋をせよと主張した支配的な毒親」性が大々的に公言されたのは最近ですが、今作発表当初でも山形浩生氏らによる小谷真理氏へのテクハラなどを鑑みれば、こちらも想像に難くなさそう}

 

 人を惹きつけるカリスマ、学校運営者の父、後続を生んだ「日本SFの祖」、スポーツのたしなみ、読者をまきこんだ創発的な創作企画、明治末期から存在感をなくしていく……などなど、いくつか共通項がみられる富江は、劇中世界における春浪氏なのか? というとそれは確実に違います。

 さて『ゼロ年代の臨界点』既読のかたはここまでの記事を読んで「聞き覚えが……」となっていたことでしょう。そうですね、『藤原家秘帖』後編執筆を試みた劇中人物のひとり(で富江の筆に『後編』執筆に挑戦した男性ではいちばん近かったと云う)として押川姓のひとが登場していました。キリスト教牧師・押川方存(まさあり)――春浪氏の本名です。『ゼロ臨』世界においては、春浪氏の父・押川方義氏とおなじ道へと進んだということなのでしょう。

 ただし先述のとおり富江とあちらの世界の方存ふたりの筆が近かったと劇中で明示されているということは、富江(ら)がこちらの世界の春浪になぞらえている部分はやはりいくらかあると云うことでしょう。

 相似点はいくらか挙げました。

    ○おとら『藤原家秘帖 後編』と『三十年後』、メタい語り手が未来世界の問題に対応する二つの共作

 第二に、この作品を「今こそ読まれるべき」と私が述べた理由である。理研のケースと似ている部分があるから読む価値がある、のではなく、似ていない部分があるからこそ、読んで欲しいのだ。現実と大部分が似ているからこそ、現実との「相違点」が浮き上がってくる。そして、その「相違点」にこそ、本編のエッセンスが含まれている。即ち、

   fc2ブログ、伴名練運営『石黒達昌ファンブログ』掲載、「アブサルティに関する評伝」(『冬至草』収録)

 では相違点は?

 二人の作風のちがいはあるでしょう。「恋愛小説も面白いが此方がモツト面白い」と冒険小説を書いた春浪氏と、『リップ・ヴァン・ウィンクル』にない思慕を盛り込んだ時間SFを書いた富江という違いは、その後の両世界のSF史に大きな違いを生んでいます。

 その他おおきな違いとしてアメリカに対する態度が挙げられるでしょう。富江アメリカ留学に行っていますが、春浪氏はアメリカ嫌いのバンカラでした(。さらに言えば海外旅行経験はなかったそうです)

 

 『冒険世界』は先行競合誌『探検世界』などが廃刊するなかも好調で、その頃の掲載作の名を複数日露戦争に従軍した元海軍士官阿武天風による『時事小説米の危機』など)挙げたうえで長山氏は当時の作品傾向をこう述べています。

 なお、この頃から、はっきりとアメリカを次の仮想敵国とした小説が増えてくる。これはカリフォルニア州で排日移民運動が盛り上がっていることへの反発と、太平洋や中国の利権をめぐる日米対立が次第に露わになってきた現実を反映していた。

   日本SF精神史Kindle版54%(位置No.3229中1731)「第六章 三大冒険雑誌とその時代」内「探検世界」廃刊と「武侠世界」誕生 より

 アメリカ嫌悪や戦記要素は(春浪氏にかぎらず)当時のSFの風潮だった。

 富江『藤原家秘帖 前編』は、そこからすると牧歌的に思えます。

 数百年先のいまだ生まれえぬ都の物語である。天駆ける俥で空を満たし、永久に夜の訪れない都・東京、すべての人が常に和歌のごとく己の心情を詠んで、顔の前に次々浮かべながら往来を歩く都・江戸、人の上を人が歩くほどに混雑し、人体を部品部品で切り売りする市が立ち、望むなら不死を得られる都・鎌倉、などなど、そのすべてが、定子の属する藤原家の、遠い子孫たちの目から語られた物語であった。

(略)

 表面的には珍奇な道具と概念の羅列でありながら、現実とは異なる姿で語られる、無数の都市の描写は、文明批評のようであり、また未来の都市から順に語られる形式には何らかの隠された意図があると思われた。

   『なめ、敵』kindle版19%(位置No.867)

 とはいえ、こうした作品がなかったわけではありません。そしてアメリカが好きなSF作家もいなかったわけではありません。……今回話題にしたい作家の登場は、10年代後半になってからのことですが。

 『藤原家秘帖 前編』の定子がかたる未来の都市は、1918年(大正7年)発表の星一(&江見水蔭?)著■『十年後』を思わせます。星氏は長年アメリカにいて財をなした人物で、偶然の対照ですけど(春浪氏が論戦をくりひろげた)新渡戸稲造氏のとりなしにより津田梅子氏の妹君と婚約までいったこともありました。(ただ日本に帰れない多忙な日々ゆえ、津田氏とは結婚まではかないませんでした)

 『三十年後』は、くしくも富江の第一作のような浦島太郎要素のある作品で、そして富江の前編をおとらなど後編作者が仕上げたような共作であった星一氏考案のいくつかのアイデアをもとに、江見水蔭氏が大半の執筆を行なった)と云われています。

 大正三十七年、明治・大正期の大政治家で、南洋の無人島で隠遁生活をおくっていた嶋浦太郎が、三十年後に日本に戻ってきて、その進歩した社会に驚くという趣向をとっており、その構成自体は明治の政治小説を彷彿とさせる。ただしその文章には、大正期らしいユーモラスでモダンなセンスがあふれている。

(略)

 三十年後の世界では、不老回春の薬が開発されており、嶋浦翁のような白髪白髭の老人はおらず、皆若々しい姿をしている。未来の東京市街には(略)各家庭の屋上には自家用飛行機の発着場が設けられている。

 街には警官の姿もみえなかった。人々は銘々に秩序を維持するので、警察は不要なのだという。家庭は電化が進み、調理設備や冷暖房も整い、しかも国民の富は平均化・向上化が進んだので、どの家庭でもそのような設備がある。

(略)また感情も薬剤でコントロールできるようになり、あまりに興奮して危険な行為に及びそうになると、警察の代わりに巡視官が駆けつけてきて、測頭機で頭の検査をして、薬を飲ませて興奮を冷ます。

   日本SF精神史Kindle版57%(位置No.3229中 1834)「第七章 大正期未来予測とロボットたち」馬鹿をも治すクスリの力より

 人々が(俥でないにせよ)空飛ぶ乗物を常用し、(不死でないにせよ)不老回春の薬が開発され、(常時でないにせよ)思考を読み取る機械がある。

 そして、おとらが書き継いだ『後編』によって、この未来世界にもその世界ならではの問題を有していることや・それを解決すべく動く語り手との関係が掘下げられたように、『三十年後』の世界にもその世界特有の問題があり(横田氏によれば『三十年後』みたく公害など未来世界の負の面がえがかれる作品はそう多くなかったそうです)、解決には語り手が関わってくる……

 このような社会にも問題はあって、一時期、工場や汽車から盛んに排出された煤煙のために、都市部では樹木が枯れるという公害が起きてしまった。しかしこれも、動力を太陽エネルギーに切り替えるなどの対策を進めており、いずれ克服できるだろう……。

 このユートピアのような世界を作り上げた人物は、さまざまな発明をし、それらを生産する会社を興しながら、匿名で隠遁生活をおくっているのだが、実は『三十年後』の著者である星一こそ、そのユートピア建設者なのだった──というオチである。

   日本SF精神史Kindle版58%(位置No.3229中 1851)

 共通点が見いだせる二作にあって、大きく異なるのは語り手の素性です。

 『藤原家秘帖』だと、劇中世界をより良くしようと努めるのは、劇中登場人物である語り手でありその職能(情報伝達。和歌に未来の出来事を示す暗号をしめしたりなど)でした。

 『三十年後』でも、語り手が劇中世界をより良くしようと努めているのは同じですが、語り手は実在人物である作者自身(!)と一部その職能(! 製薬・政策など)ということで、ある種の自己成就予言のような趣があります。「メアリー・スー?」いえいえ、星氏じしんが立派な人物で、製薬会社の社長代議士そして星薬科大の創設者でもありました。星氏についてはいくつか複数人の評伝・伝記があります。横田氏に言わせれば「企業PR小説」*81ですが、有言実行というか、所信声明の感があります)

    ○フジ『藤原家秘帖 前後編』と『三十年後』;明治の言文行一致の作家たち

 面白いのが星一氏とその小説『三十年後』のような、こうした書き手の思想=創作の内容という作品は、じつは明治においてそう珍しいことではなかったらしいんですよね。

 たとえば、古代ギリシャはセーベの民政回復劇・スパルタとの対決・ギリシャ統一をえがくことで、幕藩体制を脱して統一された日本の「あるべき理想の未来」を示した民権運動のバイブル的小説『斉武名士国美談』。これを著した矢野龍溪氏じしんも民権論者で、福沢諭吉から大隈重信に推薦され大蔵省入りし太政官大書記官などを務めつつ私擬憲法を起草するなどした筋金入り。(今作の印税で洋行し、西欧の実情を見た矢野氏は、それを作風に反映した南進論的な国権拡張小説『報知異聞浮城物語』を描いたと云う)*82

 

 あるいは未完の政治小説日本』とその書き手。「明治維新直後からの歴史を書き換えるパラレルワールド物」だと云う今作は、日清戦争は避けられず準備を進めなければならないという「民権小説であると同時に、国権小説でもあった」作品で、日清戦争に先立つこと7年まえ明治十九~二〇年に書かれました。

 なお本書では、外国からの侵略に備え、国権伸長を図るためには、国民の多くが政治参加する形に内政の改良整備をしなければならないと主張されており、さらには女性の教育充実、地位向上への言及もある。

   日本SF精神史Kindle版23%(位置No.3229中  718)「第二章 広がる世界、異界への回路」『新日本』――憲政の神様、唯一の小説より

  作者は尾崎行雄氏――「憲政の神様」「議会政治の父」そのひとでありました。

 言文一致運動が有名な明治ですが、言文どころかその行ないまで一致している作家もあれこれいたとは。いやはや。

 

 『藤原家秘帖』で面白いのがフジの役回りです。

 文末と脚注で語られているとおり、10年代以降フジは作品の発想・質・量ともに充実した小説家として表舞台に立ったようです。その理由は「また会うためには、世界を早めるほかなかったから」

 脚注の最後で記された劇中史実とそれを読むぼくたちの世界の歴史との相違によって、「フジ(やら劇中SF作家)がさまざまSFを描くことによって、まさしく文明の針が速く進んだのではないか……?」と思わせる一言です。

 ただしそこまで読んだところで、アリタマヨさん青柳美帆子さんの料日ラジオ』にてアリタさんが言うように(39:20~あたり)、すべて「たまたま」だという可能性だって依然として否定できず、結末を読んでも富江らの素性が『藤原家秘帖』でほのめかされたものかは不明ですし*83ゼロ年代の臨界点』世界がぼくたちの世界とちがうことがフジの活躍があったからかどうかも不明なんですが、だからこそ素晴らしいとぼくは思いました。

 富江おとらに影響されたフジの活躍によって*84、劇中劇『藤原家秘帖』の内容が劇中真実のように思えてくる――富江らおとらは時間跳躍したのだと思えてくる。

 富江おとらフジ3人でもって、こちらの世界の星一――明治~大正期の作家/名士に見られた、言文行一致のひとびと――と成った(のだろうと思える)

 この原稿の中身が後にばらばらにされ、フジが生涯で残す七十数作のSFのうちでももっとも重要な作品のいくつか(略)に発展・転用されている。

    『なめ、敵』kindle版21%(位置No.997)、「ゼロ年代の臨界点」注10

 (略)フジは移植臓器不適合による心不全で亡くなる。享年五十一。日本人で初めて月面の土を踏んだ女性だった。

   『なめ、敵』kindle版21%(位置No.992)、「ゼロ年代の臨界点」注11

「星さん、こちらの部屋にいらっしゃい……」

 夫人に呼ばれて行くと、三百冊もの本が積んであった

「……お望みの品ですよ。これだけあったら、どこまで見学できますか」

月までも行けそうです。お礼の申しようもありません」

   新潮社刊(新潮文庫)、星新一『明治・父・アメリカ』Kindle版41%(位置No.2926中 1160)6

 冒頭からして妄想のつづられた3人が、そしてそのまま明らかに虚構とわかる記述でもって{ひとりは史実と異なる日本人初の月面着陸者。ひとりは現行世界でも達成しえないタイムトラベラー(?)}どこかへ飛び去っていく。

{この虚実の距離感は、伴名氏が大きく影響を受けたと語る『雪女』と、はっきり異なるところです。(『雪女』は発見された資料、という結構を崩しませんし、劇中世界が、現実世界と大きく異なることを誰にも明らかなかたちで伝えるような展開もありません)}

 あきらかに現実ではないのに、現実の歴史がそうであるようにこちらからは手を届かせようもない変えがたい無常さがあり、そして現実に生きたひとびとの記述を読むようにほほえましく、苦々しく、熱く、もの悲しい。

 『ゼロ年代の臨界点』は、虚構が虚構のままに持ちうる力強さを見せつけてくれた傑作だと思います。

 

   ▽とんでも? オカルト? いやSFだ、明治だ、人間だ;『ゼロ臨』と端々ににじむオカルト

 そうした虚構のもつ力として、人の生きかたとして、迷信・狂気を全否定しない。

 フジの生きざまによって提示された『ゼロ年代の臨界点』の視点はそこも面白いなと思います。

 うえでも劇中人物の何人かが千里眼事件関係者だと挙げましたが、他にもうろんなネタがあれこれ覗くんですよね。

 富江ら3人が取りしきって演劇をしたW・B・イェイツも神智学協会(や黄金の夜明け団に参加するなどオカルティズムに傾倒した人物で、『ゼロ年代~』劇中にはほかにも「たぶん神智学協会のもじりかな?」と思わせる信知会なる団体が登場したり。

 こうした流れの源流のひとつとして、ガルヴァーニの実験からくる動物磁気説やメスメリズムというものがありまして。これらの影響を受けているのが、前述した千里眼事件の催眠術であったり、『ゼロ臨』劇中に登場した『七破風の屋敷』を含むホーソーン作品や『赤死病の仮面』を書いたポーのいくつかの作品(※『赤死病の仮面』は無関係)なんだとか。

 マリア・タタールの眼に魅されて』によれば、ポー自体はオカルト的側面については批判しており、動物磁気の科学的な面をのみ信じていたとのことですが、『魔の眼~』で抜粋紹介されるポーのエッセーや小説で出てくる動物磁気・メスメリズムはただのオカルトにしか見えませんでした。("エーテルは電気と同じ宇宙の霊的原理であり、生命力や意識や思考といった現象はすべてそこから発する"としたエッセー『ユリイカ*85とか。

 磁気催眠中の人が「催眠状態にあるとき[……]私は器官を用いず、究極の非有機的な生において用いる媒体によって、外界の事物を直接に知覚する」と語ったりする『催眠術の啓示』*86は、義兄の催眠術により千里眼に目覚めた御船千鶴子氏に重なるエピソードです)

 同じく『魔の眼~』が紹介する、ホーソーンの磁気催眠師への(負の)信頼もすごい。

(略)ああした現象は、現在や未来についての真実を私たちに教えてくれるよりも、むしろ私たちを惑わすだけのように思われます。(略)あの力は、人間の精神を別の人間の精神と融合させるところから生じるものです。そんな力を受け入れれば、人間の神聖さが蹂躙されるような気がします。貴女の内のもっとも神聖な場所が汚されるような気がしてなりません。

   Love letters of Nathaniel Hawthorne, 2 vols.(1907 ; reprint ed. Chicago : The Society of the Dofobs, 1972), Ⅱ, 62.を引用する、国書刊行会刊、マリア・タタール『魔の眼に魅されて』p.222、第六章「主人と奴隷/ホーソーンの作品における創作過程」Ⅰから孫引き

 慢性頭痛の治療を磁気催眠術師に頼んでみようか考えている画家のソフィア・ピーボディ(アメリカで初めて幼稚園を開いた教育者エリザベス・ピーボディの妹。ホーソーンの妻)に、ホーソーンはこんな手紙を送ったんだとか。ホーソーンの小説ではたびたび"主人(支配者)と奴隷"というべき関係性が取りざたされ、主人役として初期だと画家が、つぎに科学者がと担ってきたあと、磁気催眠師がその位置を占めるようになったそうです。『七破風の屋敷』はそうしたモチーフのひとつの到達点のような作品らしく、くだんの作品に登場する磁気催眠師はふたり。ホーソーンでおなじみ"主人"的な悪い磁気催眠師のほか、よい磁気催眠師も登場する異色作……とタタール氏は語ります。

 

 今作ですごいと思うのが、上で書いたようなオカルト話やデマについてのスタンスです。(伴名氏と同年代のオタクとしてなおさら)「人間ができてるな」と感心してしまう。非科学的なことについて抵抗感を覚えたりそれどころか嘲笑したくなる気持ちが、ぼくはつよいんですよ。

山本弘さんにも影響を受けています。センス・オブ・ワンダーに溢れた作品、とくに海外SFを紹介し続けていらっしゃるので。『トンデモ本? 違う、SFだ!』は早川から早く文庫に落とすべきでしょう。

    Hayakawa Books & Magazines(β)掲載、『SFの歴史を継いでいくこと。ベストSF第1位記念・伴名練インタビュー』

 伴名氏は88年生れで、ぼくは89年2月生れ。ここら前後の生まれのオタクのなかには(濃いオタクでなくても)山本弘さんが設立された「と学会」によるトンデモ本紹介だとか、フィクションの展開と本物の物理法則とのギャップを楽しむ柳田理科雄著『空想科学読本』シリーズだとか、あるいは映画のお約束が実際おこるかどうか検証したディスカバリーチャンネルの『怪しい伝説』だとかとともに学生時代を過ごしたひとはそれなりにいるものと思います。

{あとちょっと毛色がちがいますが、後にちくま文庫入りしたパオロ・マッツァリーノ氏の『反社会学講座』で溜飲をさげてみたり。(ワイドショーでおなじみの「キレる若者」像について、法務省犯罪白書』の統計データをTVでよく取り上げられる範囲と取り上げられない部分を含めたものとを比較することで、むしろ逆の現状=最近の若者のキレ離れを指摘した「キレやすいのは誰だ」とかいま読んでも鮮やかだなと思いますね)

 

 なかにはぼくのように、それらから暗い楽しみを見いだしてしまったひともいたことと思います。自分が理性的で知識ある側に立って(じぶん自身はそんな知恵ないのに)、他人の無知を笑う"見下しの面白味"ですね。

{ちょっと毛色が違うけど、マスゴミが伝えない真実がわかってる俺ら(と思いたいだけで、その「わかってる」こと「真実」自体もべつのメディアが報道したことだったりすることも少なくない)とか嫌韓流とか}

 と学会の活動にしたって他の研究にしたって、他人をあざ笑うようなものではきっとないはずなんですが……。

まあ、作り手の側にだってそういう向きがまったくなかったとはぼくは思いませんが。たとえば、と学会運営委員のひとりであった唐沢俊一氏は

唐沢 (略)と学会が今年(二〇一一年)で二〇周年なんですよ。ああいう、人の信じていることをハタから嘲笑うって行為は若いから出来ることですな(笑)。いい年して「UFOなんてあるわけねえじゃねえか」っていまだに言い続けるのも大人げない気がしてきたしね。

   徳間書店刊(徳間文庫カレッジ)、吉田豪『サブカル・スーパースター鬱伝』p.237~8、[10人目]唐沢俊一、「気圧によって心も変わる」

 と吉田豪氏のインタビューにこたえていましたしね}

 

 デマや迷信って悪いことですし確証の取れてないことはそう喧伝するもんではないでしょうと今でも思っていますが{さきに名をだした山本弘氏もまあblogの記事『と学会がやっていたことは「弱い者いじめ」だったのか?(,,,)』を読むに、「間違いは間違いと言うべきでしょう」というスタンスかな? とも思いますが}、でも一方で「世間ではまだ認められてないし、もしかしたら追試の結果デマだと結論づけられるかもしれないけど、でも"本当だ"って追認が来る可能性だってまだ否定できないもの」というものはれっきとしてあり、そしてそういうものに突き動かされてきたのは、香具師や詐欺師だけでなく、作家だって科学者だって例外ではないですよね。

ゼロ年代だと、ミレニアム懸賞問題でげんざい唯一解かれているポアンカレ予想ペレルマン氏による証明がたしかだと結論づけられたのは、複数チームによる数年がかりの検証の末のことでした。02年の証明にミレニアム賞の授賞が発表されたのは2010年代のこと。21世紀でもそういうことはあれこれあるはずです)

 こちらの世界でSFの祖とも言われる女性作家の作品の着想も、そうしたうろんな「当時の知見」と想像から生まれました。

いわゆるSFの祖は、メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』と言われていますから、もしかしたら日本でもそんなルートもあり得たのではないかと思ったのが発想の起点です。

   RealSoundブック掲載、『伴名練が語る、SFと現実社会の関係性 「大きな出来事や変化は、フィクションに後から必ず反映される」』より

 メアリ・シェリーの小説『フランケンシュタイン』の生命創造にはエラズマス・ダーウィン博士の実験にみられた不思議やガルヴァーニ電気の知見がかかわっています。

ガラスケースの中にバーミセリ(パスタの一種)を一本入れたところ、一体いかなる経緯によってか、それが勝手に動き出したという。しかし、生命とはそんなふうにあたえられるものではないだろう。とはいえ、ひょっとしたら死体を甦らせることは可能かもしれない。すでにガルヴァーニ電気はその前兆を見せている。

   メアリ・シェリー著『フランケンシュタイン1831年新版の「はしがき」を引用する『魔の眼に魅されて』p.86、第二章「電気による救済/科学、詩、「自然哲学」」Ⅱから孫引き 

 そうしたSF――やSFに限らず、ひとがつきうごかされる・信じる・想像するということであれば全般――がはらんでしまいかねない微妙な領域について、ある種の危うさについて、杓子定規に悪いことだと決めつけず「いやそれはそれで」と認めているところが、『ゼロ年代の臨界点』――やそのほか伴名練作品――のすごいところだなと思います。

 今作発表当時の若輩者の時分のぼくはもちろん、31になったいまだに持ちあわせていない度量です。すごい。

 

 

 

 

聖書でなくて;『美亜羽へ贈る拳銃』

 序盤のあらすじ

 きみの手の中に銃がある。つめたく光る黒色の銃。

 銃を視界に入れ、舌で奥歯のスイッチを操作する。たちまちきみの眼前に、正確にはきみのかけた眼鏡型端末(ヒエロニムス)に展開される。……文字が。文章が。

 そしてきみは読み始める。

 ◆◆◆

 科学が発展し、体内のインプラントによって個人の性格まで操作できるようになった世界。古豪の医療コンプレックス神冴の末っ子・実継は、かれの兄で神冴から出奔した天才・志恩の結婚式で決定的な出会いを果たす。

 社会を一変させることなる、兄とその新婦が銃を向けあう光景――互いが互いを愛するよう医学的・化学的処置をおこなう銃、ウェディングナイフのお披露目――と。そして、じぶんにテーブルナイフを向ける兄の義娘・美亜羽と。

 感想

 伊藤計劃氏の殺器官』の痛覚マスキングや(兵士といえど)子どもを殺すことを可能とする戦闘時適応調整、ーモニー』ナノマシンによる脳の報酬系の操作。そういった感情・意思を操作する技術が発達・普及した世界であれば、社会のありようや愛の形も全く変わってしまうんではないか? ……そんなエクストラポレーション*87の光る作品です。

 

 初出は京大SF・幻想研による藤計劃トリビュート』(。こちらの本については以前感想を書きました。今回の『美亜羽』感想はそちらで書いた文章と論旨はいっしょです。というか半分くらいコピペです)。お話も語り口も二転三転する展開がすごくって、くだんのトリビュートのなかでもひときわ一本の作品として面白い――伊藤氏関係なしに。ですが、多岐に渡った伊藤計劃作品からの引用・参照・発展から、『トリビュート』のなかでもいちばん伊藤氏に拠って立っているようにも思える不思議な作品でした。参照は長編作品だけでなく短編も、それどころか『MGS』ノベライズまで! ……とうれしい驚きでした。

伊藤作品はいまKindle版が半額セール中(20年4/13まで)。伴名氏のファンは『美亜羽』やそのほかの作品にどんな影響をあたえているのか・伴名氏がそこからどんな答えをだしているのか比べ確かめてみるのも楽しいと思いますし、ファンでないかたも、単純におもしろい作品なので読んでみるとやっぱり楽しいと思います}

 存在は知っていたので、発表当初に読んでいたっておかしくなかったのですが、しかし、当時読まなくて正解でした。というのも、ゼロ年代の臨界点』以上に、自分の至らなさをつきつけられる、胸に痛い作品だったからです。

 

   ▼(余談)劇中「聖書」の扱いと自分語り

 とにもかくにも凄い作品ですし、そのSF上文学上の業績については、ぼくなどより詳しい方がたくさんおられます。その辺はどなたかが語ってくれていることでしょう。各自おググりいただきたい。

 

 なのでぼくが書くのは自分のことです。

 個人的に刺さりまくった劇中「聖書」のあつかいについて書きます。

    ▽(余談の余談)伊藤計劃の登場と没後の反響

 『伊藤計劃トリビュート』が出た前後の伊藤計劃氏とその周辺についてふりかえりましょう。

 小説家としてのデビュー作虐殺器官は、のちに『道化師の蝶』で芥川賞をとることとなる作家・円城塔氏の『Self-Refference ENGINE』とともに出版当初から話題をあつめていた作品でした。刊行(2007年6月25日。書店に並んだのは23日くらい?からわずか2週間ほどで、新人のデビュー作に対して、筆業10年を超す作家や識者が個人サイトから(大手メディアを通さない)評を寄せ、作者本人から応答もなされるという濃い時間がありました。

当初から佐藤亜紀氏が絶賛したり(より詳しい検討は『小説のタクティクス』で読めます)、明治学院大学社会学部教授である稲葉振一郎氏が評価し、考察にたえうる作品だったがゆえにということか(終盤の展開にかんする)疑問を呈したり。(ちなみに稲葉氏の一部の疑問については、伊藤氏自身が「その疑問は書いた側も検討済みで、ラストで語り手は大嘘をついている&事実がなにか一応それまでに触れています」という旨を回答したりも)11月にはアノマ・ソラリスで著者インタビューもなされました}

 

 しかしそれが「SFでは売れてる」を超えて、大々的に出版部数がのびたのは没後に文庫となってからだったと云います。

 伊藤氏の没後、自サイトに書き溜めた伊藤氏の映画評や同人誌などの活動の歴史が熱心なファンによってリスト化されたり、そのリストを出版社がそのまま利用して、雑な体裁のコラム集として発行されたりもしました。

(彼の自身運営のサイトの文章のほうが、章立てがしっかりして読みやすかった。なので雑な体裁だと言っています。たとえば『ファイト・クラブ』評の、『伊藤計劃記録 はてな版』をご覧いただければその意味がおわかりいただけるでしょうか。「Introduction」や「Cast & Crew」といった章題がことごとく除かれ、話の区切りが曖昧にされて論旨が掴みづらくなってるんです)

 『ハーモニー』が伊藤氏の死後各賞を受賞していくなかで、その死と作品とをからめた選評者のコメントやマーケティングがでたりしました。

 『伊藤計劃トリビュート』がでた2011年11月当時も、伊藤氏が没してから2年も経っているというのにいまだ上半期に伊藤計劃以後」*88やらなにやらと印象的なキャッチフレーズの特集が組まれたりしたのだからすごいことです。そこからさらに3年が経ってもその熱は冷めない、というか、むしろ上昇している印象さえありました。映画化をつたえる特報でのナレーションを取り上げましょう。

 夭折の作家、伊藤計劃

 2007年、処女作『虐殺器官』で鮮烈なデビューを果たし、その2年後に書き上げた『ハーモニー』が彼の遺作となった。

 この2つのオリジナル長編は、彼の遺言である。

 彼は自分が去ったあとの世界に、物語を遺した。計画を遺した。

 それは祈りなのか、悪意なのか。

   ノイタミナYoutubeチャンネル掲載、『「虐殺器官」「ハーモニー」続報!「屍者の帝国」劇場アニメ化発表!特別PV』花澤香菜氏のナレーションより(句読点、漢字変換は引用者による。「遺した」は同チャンネルの『「Project Itoh」PV』の字幕から採った)

 過日にじさんじ所属のバーチャルYoutuber*89の卯月コウさんが『BLEACH』のポエムかそれとも『コミックLO』のキャッチコピーかクイズ」を雑談中にやってましたが、そんな具合に伊藤計劃にまつわる文言かそれともノストラダムスの大予言など世界の真実を解きあかすMMRマガジンミステリー調査班のセリフかクイズ」がひらかれたらぼくは正答できる自信がありません(笑)

 いまでこそ笑って流せますが、当時は冗談じゃないと青筋うかべました。

 こういう声はメディアだけに留まらず、読者からも聞こえました。「彼は我々読者に何を遺したのか。何を伝えたかったのか。」(2010年2月刊の文庫版『虐殺器官』に寄せられた、『大学読書人大賞』推薦文)とか「あなたには、憧れの作家がいるだろうか。魂の中枢に刻み込まれた、座右の書があるだろうか。私にはある。伊藤計劃と、彼の遺したその作品群だ。」(2010年12月刊の文庫版『ハーモニー』に寄せられた、『大学読書人大賞』最優秀推薦文)とか。……いやおなじ人が書いたろうから並べてもアレなんですが。リンク先の推薦文もそれ以外のものも、文章のなかみ・推薦者の作品観じたいは「そうっすよねぇ」「そこぼくも感銘うけました」という感じでとくに異論はないです

 当時のぼくはこういった声について白い目をむけたり脊髄反射的に叩いたり、これは『トリビュート』発刊後のできごとですが『屍者の帝国』刊行にさいした円城氏のコメント「伊藤計劃が闘病生活を送った故に、『虐殺器官』や『ハーモニー』を書くことができたという見解にわたしは与していません。当然、経験は小説の内容を変化させたはずですが、それが決定的で本質的なものであったとは、わたしにはどうしても信じることができません。彼が闘病生活を送っていなかったなら、作品はより素晴らしいものになったはずだと信じています。」にそうだそうだと留飲を下げたりしました。

 

 彼が亡くなって11年が過ぎました。その間にたくさん作家も亡くなり生まれましたし、無数の本が書店で入れ替わりました。書店自体もがほかの店舗と入れ替わったところもあるでしょう。『虐殺器官』が発売された年にうまれたひとは小学校の卒業証書を手にしている時分で、「『美亜羽』を読んで『ハーモニー』へ手をだしてみよう」という逆転が起きるくらいの歳月です。(『虐殺器官』を読んだ大学1年生のぼくは今では31歳、くだんの作品を伊藤氏が小松左京賞に送ったのと同じ年齢になりましたが、個人ブログで読書感想文をアップするのもままなりません)

 それでもなお彼の本が書店の棚にささっているのは、出版社などのそうした戦略が功を奏したおかげもあるでしょうし、いつ消えてしまうかわからない個人サイトの一データとしてでなく紙の本として国会図書館等に所蔵できるかたちで残すべきです。今となってはそうした理由もわかる。

 でもあの頃はただ腹を立てただけでした。死者を出汁にするなと。でもそれってとてもずるい怒りかたでした。このムーブメントによって自分が、流通わずかな伊藤氏の同人寄稿などを読めた恩恵を得ていたことを、ぼくは棚上げしてました。動こうと思えば動けたのに金も労力も惜しんで何も動かなかった自堕落さを無視してました。

 その後も伊藤氏作品の多メディア展開を、コラボパンツを、面白味のまったくないお役所仕事的LINEスタンプを茶化しに茶化して雑に消費しました。甘い汁をすった。伊藤計劃を出汁にしたラーメンをずるずるすすった(と書くとアレですが、まるわさんのラーメン自体は原作オマージュも味も素敵な料理でした)。SNSで大喜利される「伊藤計劃以後将棋部」に同調して笑いつつも……一方で、もしだれかに「おまえが伊藤計劃以後がきらいなのはわかったが、じゃあおまえにとっての伊藤作品ってどんなもんだよ? 『虐殺器官』の大嘘とはなんだったの?」と問われたとして自分のなかでなにか答えがあったかといえば何も無かった。ことあるごとに著作をブログを読み返し引用してかれを内心で神格化しているじぶんを無視してきました。

 じぶんが怒りや嘲笑をむけていた態度といったいなにが違うのか?

 いや真に怒りや嘲笑をむけられるべきは、一部の性根のまがったオタクからそういう目が向けられるなんて知ってただろうにそれでもじぶんの気持ちを正直に表明したかれらではなく、それを「意識高い」だ何だと冷やかし茶化すことだけ達者で本をめくる手も頭もろくに動かさないぼく自身じゃないか? ……そこからぼくは目をそらして生きてきたんですね。

    ▽(余談)『美亜羽』の「聖書」の扱いについて

 片や信奉、片や反発あるいは茶化し――伊藤計劃氏とその作品への受容にみられた両極端なお気持ちに待ったをかける声が

(本感想に無関係のネタバレなので省略)≫『虐殺器官』終盤の、決定的な嘘である。

(本感想に無関係のネタバレなので省略)≫『ハーモニー』終盤の、致命的な嘘である。

 (略)これらの詐術がなぜ仕掛けられたのかという議論を、SF研の仲間と何度か戦わせたものだ。

 二〇一一年に彼らと出した『伊藤計劃トリビュート』も、「作品」と真摯に対峙しようとする試みであり、そこに「夭折の天才」の物語は大して影を落とさず、他の作家へのオマージュ会誌と本質は同じだった。

 あれから四年、「以後」の言葉が独り歩きし、彼の名は余りに多くのものを背負った。

 神話や物語ではなく、伊藤計劃の書いた(「遺した」ではない)作品に、私は今も向き合えているだろうか。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫JA)、早川編集部編『伊藤計劃トリビュート』p.574、「フランケンシュタイン三原則、あるいは屍者の簒奪」末尾の伴名氏の言葉

  伴名練。

 作品と真正面から向き合って、語り手の述べることばの裏の世界がどんなものか自分なりの答えを持ち寄り検討しつづけたひとびとがしっかりいた……そんな足跡が『美亜羽』にはきざまれています。

〔また、京大SF・幻想文学研究会ブログをのぞいてみると、2011年11月の文学フリマでの『伊藤計劃トリビュート』発表の半年ほどまえ11年4月に行なわれた『虐殺器官』書会のもようが、2009年4月の記事では『ハーモニー』書会のもよう{伴名氏が参加していたかどうかは不明なものの}それぞれレポートされています。いま読んでも興味ぶかい内容です。{後者の読書会内容の一部については、hanfpen氏個人blogによる2018年度の読書会レジュメで劇中描写を引きつつくわしく開かれているのでそちらも併せて読むとより一層面白いと思います}*90

 

 『美亜羽へ贈る拳銃』において伊藤計劃作品は、グレッグ・イーガンテッド・チャンの著作とおなじく)劇中世界の「聖書」となっています。

 第一印象こそ前述「伊藤計劃囲碁将棋部」的な、伊藤氏への過剰な持ち上げにたいする茶化しとして映ります。そうした部分ももちろんあるでしょう。しかし読み進めていくにつれ、これは内輪の笑いとは一線を画したもっと多面的なモチーフであることに気づかされていきます。『美亜羽』の「聖書」は、茶化していたひとにさえ含まれていた狂信的な部分もふくめて拾ったうえで、劇中世界の社会にとって劇中人物のドラマにとって必要不可欠なガジェットとして転がし機能させきっています。その腕力が刺さりました。

 『美亜羽』の「聖書」みたいに、冷笑とも、意地汚さとも、公言も自覚もしたくないマジに崇めちゃってる部分とも向き合って、すべてひっくるめたうえで劇中必要不可欠な要素にしてしまう……そんな、おおまじめにふまじめな昇華を、ぼくはじぶんの心中で行なえなんてできやしませんでした。

 

   ▼聖書としてでなく

 そうした自分と比べてみたとき、『美亜羽へ贈る拳銃』のいちばん凄いところは、その世界観なのかも、と思いました。

 『美亜羽』で描かれるのは、言ってしまえば世界有数の医療関係企業のお家騒動ですが、ふたを開けてみるとおどろくほど生臭く、まるでヤクザ映画マフィア映画のように手足が首が飛んでいきます。{縮小された敵対企業の要人は、主人公側企業の要人と親子の盃(的行為)を交わしたりすることでその身を保証されたりして、その印象をさらに強めます。(そんな席にじつは……という展開も、たとえば伊藤氏が愛したリドリー・スコット監督による日本ヤクザ映画■ラック・レイン』で描かれたような展開で、『美亜羽』のヤクザな印象をさらにさらに強めます)}

 ともすれば粗っぽいととらえられかねません。実際、今作が収録された商業書籍『拡張幻想』の感想をあさってみると、展開の早さについての声が聞こえなくもない。

 けれどぼくには、この荒々しさは、今作が『ハーモニー』劇中世界では寸でのところで踏みとどまっていた領域から歩みを進めてしまった世界であるための必然のように思えてなりません。

 冒頭で鮮烈なお披露目をされたウェディングナイフ。それで撃たれた者の感覚を、『美亜羽』は下のようにあらわします。

 こうして、神冴実継と、北条美亜羽は――もともと互いのことを微塵も愛したことなどなかったにもかかわらず、相思相愛となり、幸福に二人で暮らした。

 俺たちは、いま、とても幸せだ――とても。

    伊藤計劃トリビュート』p.163「美亜羽へ贈る拳銃」より

 『美亜羽』のこの文章は、もちろん『ハーモニー』結末の参照です。{そこへさらに短編『From  the Nothing, With Love.』や、伊藤氏によるノベライズ『メタルギアソリッド ガンズ・オブ・ザ・パトリオット』の語りの技巧をからめた複雑な語りとなっていますが、そこはこの感想の重点でないので、その面白さはここでは語りません。*91

 いま人類は、とても幸福だ。

 

 とても。

 

 

 とても。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫JA)、伊藤計劃著『ハーモニー』kindle換算100%(位置NO.3981中3964)、<part:number=epilogue:title=In This Twilight/>より

 『美亜羽へ贈る拳銃』でこうした文章があるのは、ほかの作品にみられた先行作への言及とおなじく宣言でしょう。この作品はあの幕引き後の世界ですよと。その先はなにかを探しに行きますよと。

 『虐殺器官』劇中世界が、すでに核を通常兵器として使用することが常態化されてしまったあとの、手遅れの季節を描いた作品であったのと同じように。

 『美亜羽』のような、性格を意識を弄ること、<わたし>というアイデンディティを弄ることが常態化された世界では――それこそ、三大欲求以上に別の欲望の優先順位をつよくするというような大規模な脳への操作が、「インプラント」なんていう、"いま・ここ”においては歯医者でいちばん聞くんじゃないかという何の変哲もない語であらわされてしまう世界では*92――、たやすく人命自体に手がのばされてしまう。あるいは医療が進歩したからこそ、物事を動かすためにはちょっとのケガではびくともしないから、人命自体を飛ばすほどの荒事を行わざるを得ない。……そういうことなのではないか?

 

 本作はメガネ型の拡張現実端末のことをヒエロニムスと名づけます。ぼくが日参しているparorasisさんによる個人blog『視神経』に掲載された今作の評(毎度のごとく興味ぶかい)では、「スマートグラスの名称がヒエロニムスなのは眼鏡を使う姿が絵画になっているからか。生前に発明されていなかった眼鏡が知性の象徴として描かれているらしい。」とさすがの知見が記されていてナルホド勉強になりましたが、ぼくはこう捉えたい。

ぼくらが飛んでいるはるか下方の大地、これから降り立つ場所では、すべてがカオスへと転がり落ちてしまったかのようだ。それは悲惨であると同時に少なからず祝祭的でもあるだろう。

 ヒエロニムス・ボッシュの描く地獄絵が、どこか楽しげであるのと同じ意味で。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫JA)、伊藤計劃著『虐殺器官Kindle版5%(位置No.4769中 221)、第一部 2

街は、かつて街だったものの瓦礫の山は、今やヒエロニムス・ボッシュの絵画のようなシュールな情景を彼に見せていた。虐殺、という言葉があまりに意味を削ぎ落としすぎ、この情景を形容するには無神経すぎるほど、ここで行われていることは既知のあらゆる人間性を逸していた。いや、アウシュビッツの看守達は、スターリンの配下達は、あるいは異端審問官かちは知っていたのかもしれない。何十人という単位で女子供が蹴飛ばされ、生きたまま穴に放り込まれると、AKの長い銃撃がその命を断つ。ここの兵士達はみな、殺すことに忙しすぎた。まるで生い茂る雑草を全力で摘んでいるかのような熱心さと、ぞんざいさだった。

   伊藤計劃運営『SPOOKTALE』掲載、『CINEMATRIX』「ハンテッド」評Plot Summary

 世の中にはさまざまな敬意の表しかたがあるかと思います。

 対象を構成した要素をコラージュするとか、その精神性をオマージュするとか。コレクションやアルバムのようにまとめ、大事に大事に懐かしむという方法もあるでしょう。それこそ聖書信徒のように、そらで暗誦してみせるとか。

 そうじゃなくて、原典をなぞるのではなく、原典にはえがかれなかった空白のページを自身で書き進めるという方法もまたあるでしょう。

 そうした方法の一例がこの『美亜羽』の世界観なのかなと思いました。

 

 

 

 

 

ホーリーアイアンメイデン』

 序盤のあらすじ

 拝啓 鞠奈姉様へ

 錦秋の候如何お過ごしでしょうか。横濱は夜ともなれば、身を切らんばかりの寒さで、打掛が欠かせぬ日々ですが、暑がりの姉様ならきっと、あの空襲の日のように、寒気を物ともしない薄着で過ごされるのでしょうし、それを想像するだけで、私はくしゃみが出てしまいそうです。

 幼少の頃から、姉様は寝癖も直さないくらい身嗜みに無頓着、うっかり者の姉としっかり者の妹、なんて失礼なことを言われても平気の平左で、そんな姉様だからこそ、情勢を覆すなんて重責も、軽々と負うことができるのかも知れませんね。

 今でも昨日のことのように思い出します。防空壕で遠くの爆撃の音に震えていた日のことを。癇癪が燃え移ったみたいに泣く光郎ちゃんたちを、姉様が次から次へと抱きしめ、ぴたりと泣きやませて行った日のことを。

 いけない、せっかちな姉様はきっと焦れているところでしょうから、そろそろ、お手紙を差し上げた本題に入りますね。

 姉様がこの手紙を読んでいらっしゃるということは、私はもうこの世にはいない、ということです。この手紙が姉様に届く日付は、私が死んでから丁度二日目になるはずですから。

 どうです、驚かれましたか。

 感想

 異能の姉をもつ妹からの手紙という体裁の小説です。

 読むごちそうとしての伴名練作品の魅力がぎゅっと凝縮された作品でした。

 語り手の感情が噴出するのは数文字で終わるわずかな間隙で、そしてそのことば自体はことさら特殊なものではありません。読者(であるぼく)にことさら大きな情動をまきおこすのは、『ホーリーアイアンメイデン』の語りのコントラストによるものでしょう。

 便りがいくつか重ねられていく作劇は、「拝啓 〇〇様」で書き出し「敬具」で終える"手紙のお約束"を毎度まもって、お約束を繰り返すことで一定のリズムをきざんでいきます。この型を、はじめ、一般の小説における「章数」表示のような「話の区切り」として読んでいくと、徐々にそういったものだけではないと気づかされることとなる。文字からでも情景がうかんでくるような、語り手の雄弁な本文にみられる不安も怖れもうずまく私情。それにたいして、この型の強固さが、一線を引いて留まる語り手の気高さのように、だんだんと思えてきます。

 

 この、(知識的にも視界的にも限りのある)いち個人の、(いつだれが読むとも知れない)手紙というこの形式がもたらす面白さについては、谷敏司氏作品解説(『SFマガジン2019年10月号』p.346~350)で、語り手の見聞きしたこととそれを基にした語り手の解釈についての再検討したうえで述べられていて、とても参考になりました。

 ぼく自身は今作を「サイエンスよりもファンタジー寄りの作品だ」と思っていましたし、つぶやきを眺めてみると同様の声がそれなりに聞けます。

 この感想の「約言」で言った「劇中特異事象について "そういうものがある世界です、以上" という風に映っちゃう部分も」とぼくが感じたのは……一番はこの作品ではないんですが……本作のような書きぶりも含まれます。{べつに「以上」で終わらせたところで本作品を損ねるものでは全くないし、あれこれ説明づけようとするとそちらのほうが面倒くさいことになりそうですが。(ウンチクでそれっぽい周辺情報を足すことはできるでしょう。たとえば『ホーリー~』の姉の抱擁が特異で、俗に「抱擁ホルモン」と呼ばれたりもするオキシトシンを異常分泌させるすごい抱擁なのだとか。しかしそうすると、ほかのところで面倒くさいことになるのは目に見えています。

 劇中でなしたとおり、劇中独自の特異な現象について、聖書のとある聖人の逸話から前例を引いてしまう展開は、姉の特異な能力がありえないことではないことと希少さとの両面をさらっと読者に飲み込ませるこれ以上ないくらいスマートな展開だと思います)

 が、長谷さんの解説を読むと「なるほど科学小説だ……」と蒙を啓かれました。{長くなっちゃったので余談の『伴名練総解説』のほうに移しておきますが。テッド・チャン氏やSFのゆるいファンであるぼくは、伴名氏『ホーリー』実作読んだうえで長谷解説を読んだことで、チャン氏の『科学と魔法はどう違うのか』理解がふかまった気分でしたよ~(ただまぁ『科学と~』読み返してない&『SFマガジン』当該号が手元にないので、ぼくの記憶違いでぜんぜん違う話題である可能性も大いにある)

 上で言った、劇中虚構がありえそうと読者に思わせるようと劇中で色々書いてしまったさいの面倒くささも、長谷氏の解説を読まなければ想像つかなかったです}

ある青年が癌になった。それはどうしようもなく進行していて、余命は3ヶ月だと診断された。3ヵ月後、彼はこの地上から消えることになる。

死を目前にして、すさまじい恐怖の中ですさんでゆく男。それはまるで、残り少ない命を無駄遣いするかのように。死にたくない、死にたくないと叫びながら、彼は手首を切る。死にたくないのに怖いから死んでしまおうという倒錯が彼を捉える。

しかし、そんな彼の前に、ささやかな奇跡が訪れた・・・。

という物語があったとして、主人公が癌になった「理由」なんて求める読み手や鑑賞者がいるだろうか。もちろんいない。若くして癌になるのに、そもそもほとんどの場合理由などないからだし、物語の主眼は、彼が癌によっていかに絶望へと叩き込まれ、そこからささやかな希望を足がかりにして、残り少ない命をいかに見つめなおすか、というところにあるからだ。

(略)

なのに「『原因不明』で子供が生まれなくなった」ときちんと説明している物語に、なんでその理由を説明せんのだと言う人がいる。ぼくはこれがとっても不思議でたまらない。

思うに、それはたぶん、「空気嫁」に近いフィクションの読解力による違いなんじゃないだろうか。件の映画で言えば、始まって15分あれば「ああ、これは原因究明型の物語ではないんだな」と無意識にわかるはずだし、

   伊藤計劃第弐位相掲載、伊藤計劃『理由という名の病』

 『美亜羽』の感想でも話したとおり、伊藤計劃オタクであるぼくは、劇中独自設定についてとくに十二分に説明がない(と自分が感じた)作品について、「ははぁ~~なるほど~~ウンウン原因究明型の物語ではないんだな~~」と読んでいったりするんですが、

「ぼくの読みかたはこれはこれで、どんなものでも自分の脳内の偏見・固定観念にあてはめ一括りにしてしまって他の可能性を考慮しない、作品の機微を無視した雑で硬直した向き合い方だなぁ」

 と反省しました。

 

 長谷氏のほかにも色々読み込んでいるかたはいて、みなもと(@kiryivu_minamo)さんのツイートは、今作に忍ばせてあると云う姉側の動機を考察されていて「なるほど~!」と柏手を打ちました。

 『ホーリー~』の語り手である妹がたどりつく結論は、名も出ない人々のちょっとした一言まで拾いまとめた充実した見解ですが、前述にリンクを張ったツイートのように、そうして拾いまとめた見解には、姉の動機が反映されていない……というすれ違いが物悲しいですね。

 幕引き後にどうなるか? いろいろ想像すると楽しい作品ですし、伴名氏じしんも「書き終わってからもいろいろと考えたんだろうな……」というのが、後の作品を読むとわかります。(いちおう脚注に伏せておくと、*93

 

 

 

 

宇宙の/科学発展の夢を剥ぐ;『シンギュラリティ・ソヴィエト』

 序盤のあらすじ

 一匹の妖怪(ヴォジャノーイ)がヨーロッパを徘徊している。共算主義という妖怪が。

 冷戦下、宇宙空間を突破するロケットへではなく人工知能開発による技術的特異点(テフノロギチェスカヤ・シングリャルノスト)の突破へ注いだソ連が制した後の1976年9月5日の夜のこと。労働者ヴィーカは自宅への帰路の途中で、人工知能通りを列をなし歩く赤ん坊のひとりに声をかけられる。

『現時点から、党員現実の使用を許可する』

 運ばれてきたのはひとりの青年だった。

リンカーンの尖兵だ。彼の拘束及び尋問を』

 尋問なんて。しかし、なんとしてでもこなさなければ。人工知能ヴォジャノーイの指示は絶対だし、なにより家ではかわいいジェーニャがあしたの誕生会を楽しみにしているのだから。

 

 感想

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』は(担当編集溝口氏の冒頭紹介に含まれた)"技術的特異点(テフノロギチェスカヤ・シングリャルノスト)"(感想を眺めてみれば取り上げているかたが複数みられる)"労働者現実"など階級別AR(拡張現実)バイスといったパワーワードの乱れうち、謎が謎をよぶハイテク冷戦下諜報サスペンスにどきどきしたり、主人公と義姉とをとりまく百合な関係性にぞくぞくしたり……と、これ単体で読んでもおいしい作品です。(初読時ぼくはそのように読みました)

 そんなパワーワードがちゃっかり東側文化圏の想像力の参照だったりするように(たとえば先述した労働者現実も、伴名氏自身が今作の「発想の原点」と語る東欧SF・ファンタスチカ☆『労働者階級の手にあるインターネット』からの創作でしょう)、本作が『改変歴史SFアンソロジーの一編であった点を念頭に、劇中に登場する固有名詞をググって関連本をディグっていけば、主人公と義姉とをとりまく百合な関係をとりまく関係にぞくぞくとしたり……と、また別種の旨味が味わえる、一粒で二度おいしい作品です。

 

  ▼閉所から広場へ『シンソヴィ』の眺望のダイナミズム

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』は、まず「技術的特異点を突破したハイテクAIが営むハイテクソ連から謎命令をおしつけられたヴィーカが、彼女がいっしょに暮らしているジーニャの誕生日までに日常へ戻れるかどうか?」をめぐる私的なタイムリミットサスペンスによって読者の興味を牽引します。

 

 博物館をめぐりながら、アメリカ人記者を名乗るマイケル・ブルースと問答をしていくうちに、ハイテクソ連の歴史の影やヴィーカ個人の過去があばかれていき……そしてヴィーカ・ベレンコは物語の終わり、自分の人生を反映した良い感じの納得・決心へたどりつきます。

 ヴィーカの納得は、物語的にも序盤で蒔かれたことが回収された美しい結論で、読んでいてとても満足します。決心した彼女がヴォジャノーイやらと一緒に飛び立つ幕引きの、なんたるエモいこと*94

 

 そうした感動をよりいっそう彩るのが、今作の序盤から終盤にいたる各モチーフの変化・コントラストの大きさでしょう。

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』のヴィーカの物語は、ハイテク版モスクワの雑踏を歩く、文字どおり地に足の着いたところから始まります。野外にこそいるけれど開放感はなく、ひらけているはずの空には天道虫型の気象扇なる(読者にとって分かるようで詳細はよく分からない)劇中独自ガジェットが空中を漂っているそうで、ヴィーカの目に映るものは「見渡す限り、路面を這いずって進む」*95劇中独自ガジェットであるハイテク赤子の(登場人物にとっても読者にとっても理路の不明な)行列行進で、それにぶつからないよう建物テルミン像(おそらくソ連らしい巨像で、確実に彼女より背が高い。「顔を上げて確かめると」*96)の陰}へ退避することとなります。

 退避したそばから『同志ヴィーカ』とヴィーカは前述の赤子に視聴覚どちらの面からも詰め寄られ、おつぎは彼女の職場である博物館の室内を歩きながら(「明かりを点けて頂けませんか。このままでは展示品どころか足元も何も見えない」*97狭く暗い場面をつみかさねていくことに。

{博物館の展示物で世界観が小出しにされつつも(歴史年表がくまなく描けるほどには)十全ではなく。

 マイケルとの諜報戦も、味方であるヴォジャノーイからの交信はとだえがちで(「党員現実に来る指示は一方的かつ散発的で、何もこちらの思うままにならない」*98「慌てて身を引き、わざわざ声に出したのは、ひとりでに作動するはずのスプリンクラーが動かなかったからだ。それでもなお消火用の水は降り注がない」*99、意想外のタイミングで意味不明な采配をしてきて後から注目しても不透明。(「押し付けられるように店主から寄こされた」「オレンジをスキャンして見れば案の定、産地が分からない」*100

 敵国のマイケルらについても、唐突に意識に入り込む自国のTVからはマイケルの仲間による破壊活動がつぎつぎ映されて(「その途端にスプートニクのニュースが流れてきた。(略)火災発生。現在、消火対応中」*101スプートニクニュースが、今度はチェルノブイリ人工知能研究所の火災を告げた」*102「また火事が起きた」*103ヴィーカの不安を煽り、マイケルの演説が終わるとともに脅迫的な騒音とともに停電がおきる(「雷鳴か、あるいは地響きのような重く低い音がとどろき、ヴィーカの視界がわずかに暗くなった。停電したのだ」*104

 マイケルによって暴かれるヴィーカの過去は、まさしくそうした閉所・視聴覚や身体制限の極致であるMiG戦闘機のなか(「最初に押すのはこっちのスイッチ、青い光が点いたらこれを押して。すぐに機体が空へ飛び立って、あなたは重力と振動に体を押さえつけられる*105「窓の外、空なんか見なくていい*106「このレバーに赤い光が点いたらすぐに引き寄せる。光が消えるまでずっとそのままの姿勢で。大きな音が響いても怯まず、光が消えない限りは手をレバーから離さないで。」*107。対する相手もまた不透明(「マジックミラー式の風防によって外から中の様子を窺えない戦闘機」*108)。そこでヴィーカは「地獄のような後悔に襲われ」*109るようなトラウマレベルの所業をおかすわけです。

 

 そうした作劇の果てに、ジェーニャが登場し、ここで一気にひらけた高所へと飛翔。ここまでの断片的で不透明な見通しとは対照的な、地球規模の巨視的な眺望を得るのです。

 展示物によって小出しされた劇中世界の各所についても、その改変歴史世界の世の流れこそ断片的かつ不明のままだけど、ヴィーカとジェーニャの個人的な人生のなかでは「これだ!」という糸が一本とおされ

 世界はハイテク戦闘機MiGで見た青や赤やハイテク知性体ヴォジャノーイが見せる階級現実による緑の人工光の世界(「網膜に進むべきルートが逐次、表示される。緑色の足跡を順々に踏んで」*110「彼を連行するに当たって、視界のあらゆる近隣の住宅に使用可能の緑の光点が灯った」*111ではなく、橙色の炎という自然光に彩られる……

 ……それも、ソ連人工知能と米国の人工知能の諜報合戦のさなかで知らずに押し付けられた産地不明のオレンジではもちろんなければ、途端に流れてきたニュースのなかの炎とも違う、死者を悼むための国家の(実在する)永遠の火(ウイエチヌイ・アゴーヌ)*112とも異なる、あの懐かしいわたしとあの人との想い出の橙だ

 

 閉塞から開放へ、暗所から明所へ、低所から高所へ、人工から自然へ。

 未知から旧知へ。

 さまざまな軸での大きなダイナミズムをともなった大団円。

 腹のよめない相手と対峙する諜報戦。一触即発の心臓にわるい神経質でパラノイアにとらわれやすい冷戦という時代柄、アメリカという外敵の工作によっていつの間にか外堀が埋められていっているらしい不安。いつどこでだれが権力者の手先かわからないうえに、歴史的政治的隠蔽工作だって大々的におこなう一方で、堂々と個人を意に添わぬ動員にかりださせる強権も抑圧もはたらかせられる、キナくさいソヴィエトというお国柄……

 ……『シンギュラリティ・ソヴィエト』で選択されたジャンルや展開、舞台といった諸要素も、そうしたダイナミズムを際立たせるために必要不可欠な演出材ともなっています。

 

 今作で何度もこすられる伊藤計劃氏、かれも読んでいた佐藤亜紀氏の説のストラテジーで詳細に検討されたM・ナイト・シャマラン監督イン』の視聴覚表現における演出を思わせるような、緻密で大胆なダイナミズムです。

 世界構築・設定の余白の多さも『サイン』的だ。

 『シンソヴィ』の感想をながめていると識者・一般読者問わず「夢か現か考え込んでしまう」「ディック的な云々」みたいな話が聞けますが、正直ぼくはこれ初読時ピンとこなかったんすよね……。

 夢か現か云々なんてお話は胡蝶之夢の昔からいくらでもあるわけで、気になってくるのはそれぞれの作品が「どのように現実らしさ(あるいは夢らしさ)を確保し、その境界を揺るがせているか?」じゃないですか。

ほとんど現実そのままだけど、少しだけあり得ない奇想が潜り込んでる……とか。まったくの絵空事だけど、細部の手触りは個人的な実感をズバリと言い当てられたような「あるある」と身に覚えのあることである……とか。まったくの絵空事だけど、精緻なスイス時計のようにきっちりかっちり現実の諸要素と嚙み合わせたうえで虚構へとズラされている……とか。

 たとえば少年時代のぼくに不安を植え付けた■トラレ』は、劇中独自設定こそありえない「他人が言わないだけで、自分の考えが周囲に漏れてしまっている」というものですが、しかしそうは思っていても、個人の経験(ふと雑踏で気になる人が視界に入って目で追ったら、ふいにその人がにらんでくるとか)や個人の生理的恐怖・不安(開陳したくない内心はだれしもあるものです。)とあまりに結びついて「もしや……?」「本当だったらどうしよう?」と揺さぶります}

 初読時のぼく自身は、

「いや、お話はめっちゃ面白いけど、シンギュラリティってそもそも宇宙開発(月進出)と二者択一できるようなものでは無し(今だって夢のまた夢のテクノロジーなのに、冷戦期でなんてとてもとても……)フィクションはフィクションじゃん??」

 としか思えなかった……というのが正直な感想です。いや正直じゃねえな。

オタクくんはすぐボルヘスとかレムとかディック出すの禁止!! ディック陳列罪ですよ!!!

 と毒吐きネットマナーを内心立てていたというのが本音です。

 

 先述『ホーリーアイアンメイデン』感想のなかで、『「約言」で言った「劇中特異事象について "そういうものがある世界です、以上" という風に映っちゃう部分も」とぼくが感じた作品』がじつは今作なんですよね。

 『サイン』も設定面でいろいろ気になった作品ですが、受け手のその場その時の感情を最大限に動かすという点において、完璧な設定でした。今作だって、そういうものとして受け取れば完璧な設定でしょう。

  海外SFの翻訳もてがける評論家の大野万紀氏もこう言ってます。

 作家で『伴名練総解説』で『なめ、敵』を絶賛したオキシタケヒコ氏もこう言ってます。オキシ氏の底のエルピス』は劇中設定を煮詰めに煮詰め、世界を丹念に構築した傑作で、実在物・史実の劇中での改変が楽しい改変歴史SFでもあります。大文字の歴史はもちろん、こまごまとした細部までもが――Amazonでポチればぼくらだってすぐ遊べるようななんてことない実在ゲームでさえもが――『エルピス』劇中世界の事実に則った凄まじい歯車のひとつとなっている。

 そんなオキシ氏でさえ絶賛しているんです。

 担当編集の溝口氏だってこう言ってます。

 シンギュリティがソヴィエトにきたんです、だから月面に旗を立てるんだという以上のことは無粋でしょう。技術的特異点(テフノロギチェスカヤ・シングリャルノスト)という「最高のルビ」、ただの文字列が2000RT4000favされ得てしまう圧倒的なパワーに身をゆだねればよい。

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』はほかの収録作と同様に、これまたやっぱり、読むごちそうなのでした。

 

  ▼改変歴史SFとしての『シンソヴィ』/元となった人物事件とはなにか?

「いや待てよ?」と内なる自分が言いました。

 おまえは『ホーリーアイアンメイデン』長谷氏の解説を読んで、じぶんのなかにすでにある型へはめていくだけの観方を反省したのではなかったか? と。

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』は、『改変歴史SFアンソロジー』の一作として発表されました。

 『ゼロ臨』を再読し、伴名氏による架空史がじつは意外なほど史実と密接だということもこの感想で書きました。

 今作の改変歴史と史実との絡みがどんなものか、きちんと追ってみるべきではないか? と。

 

 『シンソヴィ』が進んでいくにつれ露わとなるのは、ハイテクソ連の歴史や、ヴィーカの過去。

 「一九六〇年一〇月二十三日」と明記された、あちらの世界でのニェジェーリンにおける人工知能開発・実験とその仔細の隠ぺいも、ソ連も宇宙開発に力を入れたこちらの世界でググってみればニェジェーリンの大惨事がヒットする。(成功/失敗と結果こそさかしまですが)あれがこれをなぞったのは明白です。

 ヴィーカたちの物語はどうか? 「一九七六年九月五日二十一時」などなどと劇中世界の時制がことこまかに明示され、翌日――つまり9月6日――に近づくにつれ焦点が合わされていくのは、ハイテクMiG戦闘機の秘密にヴィーカ・ベレンコがからんでおり、アメリカへと亡命して真実を伝えるか否かです。

 ヴィーカ・ベレンコ。一般にヴィクトリアの愛称であるこの名前によく似た人物が、『シンギュラリティ・ソヴィエト』を読むぼくたちの世界にはいます。

 ヴィクトル・ベレンコ。そう今作は「はたして彼女はこちらの世界のヴィクトル・ベレンコと同じく(西側にとって未知の機体である=)MiG最新鋭機へ乗りこみ1976年9月6日に亡命するのか否か?」公的な時空間をめぐるサスペンスとしての結構を暗にちらつかせた改変歴史SFなのです。

 

 アラン・チューリング(ソ連に「亡命」しコンピュータを発展させただけにとどまらず)性転換さえもおこなっているのは、フレーバー的な小ネタの一つというよりも、ヴィクトル⇒ヴィーカの変化が劇中世界においてなんら不思議でないことを示す世界設定情報でしょう。

{雑多なネタが、じつは作品世界や物語にとって重要な要素となっている……というのは、『シンギュラリティ~』にかぎらず伴名氏のほかの作品でも同様です。

 初読時はメインキャラの強い感情・関係性にぼくの関心は行ってしまいましたが、そうしたドラマの周囲で展開されている世界に注目するなどしても同じくらい楽しいだろう、二読三読と周回する面白さを有した短編集でしょうね。*113 

 

   ▽義家庭からの待遇;『シンソヴィ』ヴィーカと『ミグ-25ソ連脱出』ヴィクトルとの相違

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』のヴィーカとこちらの世界のヴィクトルという二人のベレンコを分かつ点としてまず目につくのは、前述したような性別のちがい・76年9月5日前後の動向そして職種ですが。ウィキペディアでふたりの経歴をながめたかたの背筋がまずゾッとするのは、両者の義家庭の食をからめた関係性のちがいでしょう。

以後ベレンコは継母から食事内容を差別されるといった陰湿な嫌がらせを受ける過酷な少年時代を送る。

   ウィキペディア「ヴィクトル・ベレンコ」の項(2018年10月29日8:46、X-enon147最終執筆版)より

  あちらの世界のヴィーカの義姉との思い出は、義姉からつくってもらった蜂蜜ケーキ(メドヴィク)によって彩られているのに対して。⇔こちらの世界のヴィクトルは、義母からふだんの食事面においてまで及んだ差別の記憶をかかえていた……正反対の関係性が築かれていることがわかります。

 ちなみに上述ウィキペディアの文章にはソース未掲載ですが、おそらく出典元となったのはジョン・バロン著▲グ‐25脱出 ベレンコは、なぜ祖国を見捨てたか』。ヴィクトル・ベレンコお墨付きのバロン氏による伝記の記述は、上述文章ほど重たい印象をいだかないかもしれません。

 日曜日のこと、珍しくスープに待望の肉が入っていた。彼は継母が大きな肉をすくって自分の子供たちの皿に入れるのをちらりと見たが、何も言わなかった。

   パシフィカ社刊、ジョン・バロン著『ミグ‐25ソ連脱出 ベレンコは、なぜ祖国を見捨てたか』p.35より

 『ミグ-25ソ連脱出』のヴィクトルと義家族で恐ろしいのはそこからつづく文章で、そちらと合わせてぼくは『シンギュラリティ・ソヴィエト』の義家族との対照性をより強く感じました。

彼はこれまでホッケーのスティックやサッカー・ボールや本や入用なものを買う時は、いつも父に金をねだってきたが、再婚した父はセラフィーマ・イワーノブナに頼みなさいと言うようになった。しかし、継母に頼むと、いつも丁寧な口調ではあるが、いまは家計が苦しくてその余裕がないからと言って、断られるのだった。

 (略)継母は銀行口座を二つ持っていることがわかった。いっぽうには、全家族用に父の給料全額と自分の給料の一部を預け、もういっぽうには、自分の子供たちのために自分の給料の残りを預けていたのである。

   『ミグ‐25ソ連脱出』p.35~36より

 さて、『シンギュラリティ・ソヴィエト』ハイテクソ連社会の設定をここでおさらいしましょう。戦前ベルナルド・カジンスキーにより「電波によって人間の脳波同士を中継させ」ることが実証され{そしてSF小説ウエル教授の首』(著者のA・ベリャーエフはこちらの世界でカジンスキーの知己で、かれはほかの小説内にカジンスキーをモデルにしたキャラや理論を載せるなどしました*114。)に由来するであろう会社がクローン技術など生物学関係で多大な成果を上げ}、戦後ひとびとの脳のリソースを人工知能の演算に充てる共算主義(=共同演算主義)が達成された社会で。そしてひとびとは劇中独自システム(インターネットと図書館と外部記憶装置と外部CPUの合体みたいなもの)にアクセスすることで、公的な情報や個人的な記憶を呼び起こしています。その名も人民銀行

 このシステムは全人類の知の総和に、地球上の誰もが自由にアクセスできるようなものではなく、階級ごとに使用限度がきまっているもののようで、(以下ぼくの憶測)たぶん~脳の領域は演算資源であり、情報や記憶もまた資産だ~という価値観の変化から銀行なんて命名されたのでしょう(以上、憶測)

(略)記憶はもうヴィーカにとって朧気で、人民銀行に接続しなければ呼び起こせないものになっている。

   『なめ、敵』kindle版 (位置No.2623)

党員現実をせっかく得たことだし、噂に聞く人民銀行への常時アクセス権をまた行使してみたのだが、慣れないことはするものではない。義姉から連想される記憶のうち、ヴィーカにとって痛い部分が雪崩れ込んできたのだ。

   『なめ、敵』kindle版 (位置No.2818)

 そんなわけで『シンソヴィ』社会における思い出は、ただの思い出ではありません。

 銀行から引き出しを渋り口座を別々にするヴィクトルの義母⇔銀行の資産(=自身の個人的な思い出)を共有するヴィーカの義姉……という対照的な義家族関係をここでも認めることができます。

 

  ▼(うかつな話)逆百合SF?としての『シンソヴィ』

 2018年5月のSFセミナーの一つ合が俺を人間にしてくれた――宮澤伊織インタビュー』でも説かれた"女と女の関係"性、女と女とを結びつける""巨大不明感情""。

 勃興を見せる百合SFとしても取り沙汰される伴名練作品のご多分に漏れず、この『シンギュラリティ・ソヴィエト』も女と女の強い関係性が印象に残る作品で、初読時はてぇてぇ(=「尊い」というオタク方言の更になまった言葉)百合の味でお腹いっぱいになりました。しかし史実とくらべて見ていくにつれぼくは、

「その女、ってそもそも……?」

「その女と女って結びつき、ってもともと……?」

 と途方に暮れてしまいました。

 

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』で何度もこすられる伊藤計劃氏は、自作『虐殺器官』読者からの「セカイ系」やら何やらさまざまな声を受けて、「逆セカイ系なんです」と自称しました。セカイ系はあいまいな定義で、話者によってさまざま指示対象がかわる取り扱いの難しいことばですが、)伊藤氏が言いたかったことをぼくが適当にまとめると、

「"終わらない日常を生きるぼく"や、"きみとぼく"のお話に見えるかもしれないけれど、自分が書いたのは今日的な終末のありようである"終わらない終末"のつもりであり、そういう話型になっているのはきみとぼくを取り巻く現在の(=現在に萌芽が見られたり、脳などの研究であきらかになりつつある)社会やテクノロジーや生物学的な結構が、"ぼく"をそのような形以外の存在になることを許さないからだ」

 というようななんかそんな感じのことみたいです。*115

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』は、そんな伊藤氏のことばになぞらえると、「逆百合」とでもいうべき、""巨大で不明な感情をうむ女と女""の周囲の巨大で不明ななにかがぐるぐるととぐろを巻いている腹のおさまり悪い作品なのではないか、と考えています。

{『シンソヴィ』の伊藤作品・論考のこすりポイントが具体的になにで、この感想本文で書いたぼくの考えの補強となりそうか……というオタク語りについては、脱線のはげしさ・文量から本文に組み込むのもアレなので、余談の「死者の帝国としての『シンソヴィ』;劇中の伊藤計劃氏の参照と、『虐殺器官』の身も蓋もなさ」に置いときます。くわしくはそちらをご参照ください。伊藤作品のネタバレも多量なので、未読のかたはご注意ください}

 

   ▽(識者の話への導線)頭のおかしな百合SF色々・対談記事から窺える現況百合シーンの話と、『シンソヴィ』と重なりそうだという話

 いや、上はだいぶ口が走りました。

 「キャラ同士の関係性が」というのは単なる前提であって現況に即した表現ではなく、いわばジャンル門外漢がとっかかりやすくするのための入り口・ざっくりした標識であるというようなことを、(『百合が俺を人間にしてくれた』後に企画された)宮澤伊織氏といとう(いとう階)氏との『ねとらぼ』による対談記事前編後編でほかならぬ宮澤氏ご自身が述べており、

「ここから先10km、女と女の関係性」

「巨大不明感情アリ〼」

 そんな看板のさきに実際あるのは、とても一言ではいいあらわせない多種多様な大密林が、複雑怪奇なカンユリヤ爆発が広がっている……というのが現状みたいなんです。

 

 ジャンルにうといぼくが連想する百合のイメージをとっぱらい、寡聞ながら味わってきた実作を振り返ってみれば、たしかに、たとえばいちから社の運営するにじさんじ所属バーチャルYoutuberでびでび・でびる様が語る『〔女庭国〕』であるとか(note掲載、でびでび・でびる様著■女庭国 ー百合厨夢の庭 -○○しないと出られない部屋』*116、あるいは(チャンネル登録者数トップの女性配信者が2億円トイレで便所飯(カレー)したりラブドールレンタルしたり丸呑み性癖カフェ服をぬぎローションまみれてシャチに丸呑まれた体験談を報告する)頭のおかしなにじさんじにおいても十指にはいる頭のおかしな配信をしている雨森小夜ちゃんが「にじさんじに応募してみようと思ったきっかけのひとつです」と推す後にして最初のアイドル』{や(申し訳ないことにぼくは未読なんですが)、漏れ聞こえる感想が意味不明な『大進化どうぶつデスゲーム』の続編『大絶滅恐竜タイムウォーズ』など草野原々作品}であるとか、ぼくが知る限りでも「ゆ、百合とは?」と頭をかかえるおかしな作品はひとつやふたつではない。百合はいろいろな作品がありいろいろな試みがなされている、奥がふかいジャンルです。

 

 また前述の対談記事では、『リズと青い鳥』の衝撃を話し合うなかで、いとう階氏が「女と女」の次は「社会」……。と最新・今後の百合シーンについて思いを馳せており、後編3ページ目は百合とBLの違いについて、登場人物の社会的な属性のちがいから検討されていて「女子アイドルものと比べて、肩書に対する依存度が高いんではないだろうかと感じたわけです。ただ、これももしかすると、現実の世界で女性の職業の自由が男性ほど高くないことに阻害されていて、それが反映されているにすぎないのかもしれない」、ぼくが以下の感想で説明しようとしている、『シンギュラリティ・ソヴィエト』の心ゆさぶる肝の冷える面というのは、百合の最新トレンドど真ん中の作品なのかもしれません。

 その視座からぼくが読んできた過去の百合SFを振り返ってみても、『シンソヴィ』へと続く道というのはたしかに見えてくるような気がします。ここまでの感想で挙げた京大SF幻想研版『伊藤計劃トリビュート』でも、収録作のひとつThe Pile of Hope』は、至近未来の先進テクノロジーを導入したモデル学校を舞台に、臨時教諭として赴任した主人公がすでにもう亡い双子の姉の影をなぞる/学生たちとの関係になやむ姉妹百合/学園百合で、登場人物をとりまく社会・テクノロジーをめぐる物語でした。

 まだまだ勉強が必要ですね。

 

 幸運なことに、しっかりした百合・百合SF観をお持ちの有識者が勢ぞろいした本が去年でたばかりです。SFマガジン2019年2月号』「百合特集」号を見て、ぼくも勉強・面白百合作品をあさっていきたいと思います。

 特集企画は、SF界隈を超えて幅広い識者に取材されたり・原稿が寄せられていて、柴田勝家氏によるコミック百合姫編集長へのインタビューや若おかみは小学生!令丈ヒロ子氏による児童文学とそこで描かれる同性間の関係性についてのコラムがあるほか。

 伴名練『なめらかな世界と、その敵』 最高の読み手による最強のSF短編集で古今のSFを網羅しつつネタバレを防ぎつつ作品をより楽しむ解説・紹介をした将来の終わり氏によるミニシアター公開系映画の百合紹介があったり、さきほども名前をだしましたいとう階氏によるイラスト付き百合SF・百合ミステリ紹介があったり。{いとう氏は、DL数100万達成のスマホむけゲーム■ALTER EGOイラストレーターをつとめたほか、氏の脚本・作画による同人ながら話題沸騰■悪にも程がある』 やSF漫画集■魚電網群(さけのうおでんもうにむらがる)』*117なども記されています}

 前述のいとうさんやら、『The Pile of Hope』作者の)谷林守氏やら、少女終末旅行トリビュート』先行終末作品をを広く概観したうえで『少女終末旅行』がどんなパースペクティブに乗せられるか・独自性とはなにかを論じた批評を寄せた)俳乱土さん・(同トリビュートで正統派な二次創作と頭のおかしな野球百合小説を寄せた)鯨井久志さんやら、その他さまざまなかたの筆による『百合SFガイド2018』など……今後の読書・映像作品鑑賞のたすけになる情報がいっぱいあります。

 

  ▼他作家の歴史改変SF『ゼムリャー』のソ連の宇宙の夢の美しさ

 今作と比較したくなるのが(色々あると思います。余談に置いておきます)、スティーヴン・バクスター著■『ムリャー』*118。言わずと知れたソ連宇宙飛行士ユーリ・ガガーリン、かれによる二度目の宇宙飛行――金星探査のもようを描いた、改変歴史要素をふくんだSFです。

 冷戦下ソヴィエトで米国との競争のために――体制のメンツのために、最新科学の進歩のために――、表向きは無人機である有人機に乗って、ミグのなかで死ぬこととなる旧世代の英雄。その秘密にかかわるもう一人の主人公。そしてさらに*119……その点において二作は共通するのです。

 『ゼムリャー』において、自殺行為といえる金星飛行へガガーリンが向かったのは、もう一度宇宙へ旅したいという彼自身の欲望を叶えるものでもありました。もうひとりの主役コロリョフもまた、そうした彼の憧憬の理解者だったのです。

「そりゃガガーリンも魅入られちゃうよ!」

 と読んでいて納得してしまう、苛烈だけどうっとりするほど美しく崇高な宇宙の不思議を、五感を刺激する宇宙船操作の面白さを、バクスターは持ち前の思考と筆力でもって、物理的な現象として実体的なメカニズムとして具体的に描きだします。

 きびしい体制のなかでも――というかそのきびしさを逆手にとって――一縷の希望をなんとか見いだし宇宙を旅するガガーリンの姿が、せつなくも胸を打つロマンあふれる一作です。そしてかれの意を解説するコリョロフによって「かれの意気をおれたちだけはわかってるんだ……」とやるせないダンディズムに浸らせてくれる作品でもあります。(そしてそんな風に浸っていると終盤……)

 ガガーリンコロリョフといった人間たちのようすがふつうの文字フォントでつづられ、それと同時並行して、とおい宇宙の神秘のようすが太字フォントで描かれていったさき。物語の後半で両者が意図せず起こすケミストリーは、読者(であるぼく)にとって予想外のはずなのに、お話が落ち着くべきところに落ち着いたある種の納得感を与えます。

  ▼『シンソヴィ』のソ連のAIの夢の腹の収まりの悪さ

 対する『シンギュラリティ・ソヴィエト』はどうでしょうか?

 自殺行為といえることをしでかした大祖国戦争(WW2)の歴戦パイロットである義姉の意向はほぼブラックボックス化され(義姉の心情について、いちおう終盤で回収・筋が通される一言セリフがあるにはありますけど、劇中世界はハイテクAIが生身の人間を乗っ取り勝手にしゃべらせることが可能な世界なので、はたしてどこまで彼女自身の言葉なのか? 疑問はのこります)、主人公については訳もわからずただただ上の指示に従った結果として予想だにしないことをしでかしトラウマを負ってしまっています。

 ふたりとも体制の追従者で、劇中SFガジェットについても後ろ向き(=自分から活用してやろうという意気ではない)

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』の三人称による語りは、冒頭のアメリカ部分を除いて視点はヴィーカに寄り添っていて、劇中の神秘(シンギュラリティに達したAI)側からの視点はわずかしかなく、神秘は鉄のヴェールの隙間からちらつくだけで、夢みたいに漠然とした得体のしれなさを残します。

 

 はたして科学技術の進歩がもたらした変革を、ロマンで済ませていいものか?

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』はそんな疑問をなげかけてきます。

 

  ▼『シンソヴィ』が挿し込んだ改変歴史要素により際立つ、シンギュラリティの変容の凄まじさ

「いや宇宙開発モノじゃなくてシンギュラリティ物でしょこれ? (ポスト・)シンギュラリティ物ってそもそもそういう得体の知れない世界改変が当たり前じゃん!?」

 ここまでこの感想をよんでくださったSFファンのかたのなかには、そう思うかたもいらっしゃることでしょう。

 たしかにシンギュラリティ物って、突拍子ない改変が行われている作品だという印象です。祖母の遺品整理をしたところ床下からフロイトが(それも本ではなく本人が、しかも十数体も)出てきたりする円城塔著△Self-Refference ENGINE』しかり、空から電話が降ってきて巨大知性体が喋りかけてきて願いをかなえてくれたり何だりするチャールズ・ストロス著■ンギュラリティ・スカイ』しかり。

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』の無数のレーニン(もしかすると現実の反映かもしれませんが。1959年ソ連のルナ3号が月の裏側を写真に収めていたころレーニンは氷を砕き冬の北極海航路を確保していました、赤子越しに突然語り掛けてくる人工知能ヴォジャノーイなども、そういったシンギュラリティ物ではおなじみの"突拍子もない状況"の範疇にふくまれるでしょう。

 ただし上に挙げた2作はどちらも未来の話でした。

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』がうまいのは、シンギュラリティを過去に起こすことで、読者であるぼくは「シンギュラリティが無い場合どうだったか?」という物差しを得ることができ、その突拍子のなさ・変容の(気持ち悪いほどの)凄まじさをより如実に味わえる作品だということです。

 

   ▽「神がついている」とベレンコに説く『ミグー25ソ連脱出』ヴィクトルの祖母と『シンソヴィ』のヴィーカの義姉

 すでにいくらか引用した『ミグー25ソ連脱出』と読み比べ、ヴィーカとヴィクトルふたりがどのようにして1976年9月6日に辿り着いたかを、そしてさらに――実在人物イェフゲニヤ・グルリエヴァ‐スミルノヴァ(Yevgeniya Gurulyeva-smirnova)のインタビューが載っている『A Dance with Death』も開いて――イェフゲニヤがどんな人生を送ってきたのかをも見ていきましょう。

 

 ヴィクトル・ベレンコは多才な人物でした。

 『ミグ25ソ連脱出』が伝えるところによれば、かれは戦闘機を操れただけではなく、読書家で、勉学にも優れ、医学校へだって受験者の中でも有数の得点で入学できたほどでした――そうです、人工知能が憑けば子供でさえ高度な医療手術を行える『シンギュラリティ・ソヴィエト』のハイテクソ連社会に生きるヴィーカが無用視する医師、それに成るための学校へも通ったのです。

 ヴィクトルは、なにも何とはなしにアメリカへ亡命したのではありません。すでに記したような家庭への不信・孤立など、人間関係の問題もたしかにありましたが、それだけでなく――もしかするとそれ以上に――衣食住、学業体系、労働環境、政治思想などさまざまな要因からソ連社会へ失望をかさねにかさねたうえでの決心でした。

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』の諜報サスペンスの端々に描かれるヴィーカの半生や認識は、ヴィクトルと対称性をゆうしています。

 

 大丈夫よ、何も心配しないで、ヴィーカ。機械の神様があなたを守ってくれるから

   『なめ、敵』kindle版65%(位置No.3062)「シンギュラリティ・ソヴィエト」

 ヴィーカの心に大きく突き刺さる戦闘機乗りイェフゲニヤのこのセリフは、改変歴史世界のヴィクトル・ベレンコのエピソードとしてしっくりくる言葉です。

ビーチャや、お前にはいつも神様がついててくださるからね」

   『ミグ‐25ソ連脱出』p.28 ヴィクトル・ベレンコの祖母の言葉

 ビーチャが――ヴィクトル・ベレンコが――2歳から実父が引き取りにくるまでの一時を過ごした祖母の家。毎晩イコンへお祈りするほど信仰に厚い祖母から、幼ヴィクトルはそんなことを聞かされながら育ちました。失火で部屋に煙が充満してしまった怖い夜などは、祖母のベッドに入り込んで一緒に毛布にくるまったとも云います。

 ベレンコが幼少期を一時的に共に過ごした、じぶんに「神がついている」と説く年上の女家族。……改変世界における祖母的存在として『シンソヴィ』義姉イェフゲニヤのふるまいは、しっくりきます。

 ベレンコの義家族なら不思議ではない。

 ではYevgeniyaなら?

 

   ▽探究を鏡にした両世界のベレンコの対照

 ハイテクMiG戦闘機にあるまじき旧来の機構を推理の糸口に、ハイテクソ連社会が大衆に隠した過去の秘密を解き明かした米国人記者マイケル・ブルースは、それを冷戦の巻き返し/米国内人工知能の躍進に異を唱える材料にすべく「見かけ倒しの詐欺」*120を公表しようと提案するものの、ヴィーカは頷きません。そんな彼女の態度をマイケルは下記のように言い表します。

「あなたは過去の探究が無意味だと仰る人間の歴史を解き明かすことが無益だとお考えになる。

   『なめらかな世界と、その敵 』Kindle版 66%(位置No. 3101)「シンギュラリティ・ソヴィエト」より

  探究をこばみ、過去の真相追求について首を横へ振るヴィーカに対して、ヴィクトルはどうだったのか。

 『ミグー25ソ連脱出』において子供時代のヴィクトルは地元図書館の司書と仲良くなり、そうして薦められた本のなかから人生の指標となる二人の人物と出会います。

 いまや彼が読んだ本の著者たちが彼の本当の両親となり、その登場人物たちが彼の本当の教師となり、時には彼の模範となった。彼はローマの奴隷を指導して反乱を起こしたスパルタクスの中に、力と徳をみつけ、自分もこうありたいと思った。彼にとって、スパルタクスは将来の“新しい共産主義的人間”以上に素晴らしい存在だった。彼は外部の環境からではなく、自分自身の中から生まれた価値観を重んずる人間だったからである。

   『ミグ-25ソ連脱出』p.38~39、「2●ビクトルの探検」より

 つぎには、フランスの冒険飛行家で作家でもあるアントワーヌ・サン・テクジュペリの作品が素晴らしい飛行の世界を彼の前に開いてくれた。いまや、嵐も未知の空もものかは、勇敢に飛んで、空の美しさを発見し、探求する飛行家が彼の英雄となった。

   『ミグ-25ソ連脱出』p.39

 司書との交流は途絶えますが、ヴィクトルは以後もスパルタクスのように身の内の価値観を重んじ、ソ連社会に批判の目を向け口を開き手足を動かしました。(『ミグ-25ソ連脱出』文中には、「スパルタクスなら?」と自問するかれの姿が何度も何度も登場します)

 そうして探求する飛行の果てにヴィクトルは、ソ連が大衆に隠した姿を直視したのです。MiG-25で強行着陸し保護された日本で(MiG-25自体も、日米の研究者により分解解析され、「ペンタゴンは、意図的にかつはなはだしくミグー25の性能を過大評価することによって、アメリカ国民をだましつづけてきた」*121と米国下院議員から米国内の軍拡批判の材料にされたり「空飛ぶ"ポチョムキン村(張りボテ)”」*122とか一部から言われてしまうような、米最新機にはない旧式の鋼鉄や真空管の使われた機構が露わにされつつ)ソ連で禁書扱いのソルジェニーツィンの小説やロバート・コンクエストのソ連圧政の研究書{直下の引用の『大粛清』もコンクエストの著。*123を手に入れ、読みふけりました。

 『大粛清』は子供、夫人、男、忠実な党員、英雄、忠実な将軍や情報将校、労働者、農民など――少なくとも千五百万人もの人びとが飢え死にしたり、射殺されたり、拷問で殺されたりした、あのスターリンの粛清の恐怖の全貌を詳しく物語っていた。(略)スターリンを神格化した何百万、何十億という言葉や活字はすべて嘘っぱちだった。(略)

 彼はほとんど飲まず食わずで、三日目の朝まで何度も読み返した。そして、自分の生涯かけた探究の一つが成就したのを感じた。

   『ミグ-25ソ連脱出』p.147、「4●日本の獄舎で」より{※『大粛清』は先述のとおりR・コンクエストの書(多分『スターリンの恐怖政治』?)}

 探究を――ソ連が自国の英雄さえも手にかけた歴史への態度を――鏡にして、ヴィーカとヴィクトルは正反対の姿を見せます。*124

 

 ヴィクトルの半生は挫折と別れの歴史でした。

 束の間つうじあった人物はソ連にとって少数派であるか、ソ連のふつうに呑まれてしまってかつての輝きを失ってしまっています。怖い夜を癒してくれた信仰に厚いソ連にとって都合の悪い正教徒である)祖母とその故郷とは実父の都合で離れることとなり*125、人生の指標を示してくれた司書は――夫が囚人との噂のあるこの人物は――学校の休みが明けたら行方知れずとなってしまう*126。一緒に青春時代を送った同期と再会したら、故障を機に肥えた飲んだくれになっていた*127

 神とあがめられたスターリン*128の、死後に頭となったフルシチョフによる彼への猛烈な批判*129と、フルシチョフ賛美と名声にそぐわぬ惨状。フルシチョフに代わって頭となったブレジネフによるフルシチョフへの猛烈な批判*130と、やはり変わらぬ荒廃*131

 ソ連当局や上部の意図の読めない動員につぐ動員は――医大生となって3日後に数ヶ月単位で農作物の収穫へと駆り出され*132、医師よりも給料のよい花形戦闘機パイロットとなってもやはり農耕へ従事し*133、最新鋭ミグ-25のパイロットとなってさえ首都のお歴々訪問のご機嫌取りで2か月間土木作業に追われる*134――、ヴィクトルの選び勝ち取った学業を職業を阻害する。

 そうした数々が、ヴィクトル・ベレンコをMiG-25に駆らせました。

 さまざまな挫折を味わったということは、それだけさまざま理想をいだいて挑戦したということでもあります。亡命もそうした試みのひとつでした。そもそもミグ-25パイロットという役職は優れた操縦技術と真面目さがあれば勝手に授けられるものではありません。農民出身のヴィクトルにそんなコネはなかった。

 ミグ―25パイロットへの道はたゆまぬ修練の賜物であると共に、狂気じみた沙汰でした。配置換えを直訴し、その取引材料として周囲の醜聞・不正の暴露を天秤に乗せ交渉した*135ヴィクトルは、上官から精神病院送りにされた*136ほどです。ミグ-25はそこまでしてやっとたどり着いた境地なのです。

 

 対するヴィーカ・ベレンコはどうか?

 信仰に厚い(しかもその信仰先は体制の長である)義姉は死んでしまったかと思ったら復活しヴィーカのもとへ戻り、反体制派の知人はおらず、スターリンレーニンも健在で党首交代に伴う世論の掌返しもなく、共同体の神ヴォジャノーイは間違えることなく統治しており、暖かな家と食事にありつけている。

 ヴォジャノーイの意図は読めず、戦闘機操縦や諜報仕事など階級を超えた動員に巻き込まれるものの――動員時に振り回されるのは彼女と家族の関係で、彼女が姉になったのもジェーニャの誕生日もヴィーカが選び決めたものではない――、そのどれもが義姉との思い出の一ページとなっている。

 ヴィーカの職歴は近年7年ほど人工知能博物館の館員をつとめていること以外わかりませんが、MiGでの操作法伝授を聞くに、とりあえず航空隊員ではなさそうだ。

 戦後ソ連のふつうの女性に軍歴がないことはなんら不思議じゃありません。(大きく歴史改変のおこった世界なのでこちらの史実が適用してよいか怪しいですが)こちらの世界の戦後ソ連において、DOSAAF(陸海軍三軍支援有志会)オムスク市支部の飛行場に女性兵は皆無に等しく、女性用トイレも配備されていませんでした

過去八年、彼女は常に男性と対等以上の働きぶりをみせ、常に自分の力をみせつけ、飛行場に女性用の特別のトイレや更衣室がないのも我慢しながら、教官を務めなければならなかった。

   『ミグ-25ソ連脱出』p.60より

 大祖国戦争に従軍した女性のひとりは、女性(元)軍人に戦後の世間が向けた目をスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチにこう話します。

 負傷したことは誰にも言えなかった。そんなことを言ったら誰が仕事に採用してくれる? 結婚してくれる? 私たちは固く口をつぐんでいた。(略)男たちは戦争に勝ち、英雄になり、理想の花婿になった。でも女たちに向けられる眼は全く違っていた。私たちの勝利は取り上げられてしまったの。<普通の女性の幸せ>とかいうものにこっそりすり替えられてしまった。

   岩波書店岩波現代文庫)刊、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著『戦争は女の顔をしていない』p.182-183

 また、『シンギュラリティ・ソヴィエト』の劇中年代1970年代後半におけるソ連女性のワーク・ライフ・バランスは――群像社刊(ユーラシア文庫9)、高柳聡子著■『ロシアの女性誌』*137によれば――“女性に不向きな職業、女性の健康を害し危険の伴う職種の紹介が始まってい”*138った時期でした。

 ソ連のメジャー女性誌『労働婦人』誌で1979年5号では、「未来の母親と軽労働、健全な職場について」というテーマで(医師らにも意見をあおぎ)、軽労働とみなされてきた紡績工場の労働実態(女性労働者が臨月まで工場ではたらくこと)に疑問が投げかけられていたり、別の月の11号では毎日30キロの装備をつけて仕事する炭鉱測量師業の女性などが取り上げられているそう。

{”一九一八年の全ロシア女性労働者大会では、「家族は社会にとって必要なものではなくなるだろう、コミュニズムの勝利によって、すべての家事と家族の世話は集団、労働者国家じたいが負うものとなるからである」"*139と、そして20年代の同じ『労働婦人』誌で"女性の家庭内労働が「終身奴隷(カバラ)」という語で繰り返し表現された"*140のとはえらい違いです}

 ふつうの女性なら不思議ではない。

 ではヴィーカなら?

 

    ○その狂気は決意はどこまでわたし自身のものか/ソヴィエトの神を信じなかった『A Dance with Death』Yevgeniya

  ヴィーカの半生は挫けも別れを知れない物語でした。

 こちらの世界の史実を照らし合わせない限り、そうと知れないほど巧みな喜怒哀楽山あり谷ありの物語でした。

 そうしてたどり着いた境地が、その世界の他人からしてみれば、狂気の沙汰だと思われるほどに。

(略)あんたはただの倒錯者だったんだ。(略)正気の沙汰じゃ──」

   『なめ、敵』kindle版68%(位置No.3230)

 しかしその沙汰に、彼女の自由意思はどれだけ絡んでいるか?

 ジェーニャの誕生日はそもそもなぜあの日だったんでしょう?

 こちらの世界の爆撃機乗りYevgeniyaの誕生日は、『A Dance with Death』によれば1922年12月24日*141、まだまださきの話です。これだけならまだ巡りあわせの問題と言えそうですが、ジェーニャもそして複製元のイェフゲニヤも、肉体の存続がハイテク文明に拠っている以上のちがいがあるようにぼくには思えてなりません。

 ならば、見届けよう。

   『なめ、敵』kindle版 70%(位置No.3222)

  と決めたヴィーカの選択、そのよすがとなったイェフゲニヤのことば(「大丈夫よ、何も心配しないで、ヴィーカ。機械の神様があなたを守ってくれるから」)に、イェフゲニヤの自由意思がどれだけ絡んでいるのでしょう?

 『A Dance with Death』を読むかぎり、爆撃機乗りのYevgeniyaが神を信じていた旨を示すことばはとくに見受けられません。イコンや聖書の類を持っていた話も出てこなければ、もう一方の神についてはむしろ批判的でさえある。繰り返しになりますが、もう一方とはすなわち――

「わしらの救い主様、守り神様が身罷りなすった!」女の人が悲しみの声をあげた。「これから、だれがわしらの面倒をみてくださるんじゃろう?」

 スターリン死去の報せがこの村にも届いたのであるソ連の報道機関はスターリンを常に神様のように書きたててきたので、村でもそのように思われていた。

   『ミグ‐25ソ連脱出』p.29

 ――偉大なる指導者スターリンです。Yevgeniyaは大祖国戦争を振り返り、スターリンと女性兵入隊についてこう語ります。

No other country in the world let women fly combat, but Stalin proclaimed that our women could do everything, could withstand anything!

(私訳;女に航空戦をおこなわせる国なんて世界じゅうでうち以外なかったけど、でもスターリンはこう公言した――われらがソ連女性はなんだってできる、どんなことにだって耐えてみせる!)

It was a kind of propaganda to show that Soviet women were equal to men and could fulfill any task, to show how mighty and strong we were. Women could not only bring babies into being but could build hydroelectric plants, fly aircraft, and destroy the enemy.

(私訳;ソ連の女が男と対等にどんな務めだって果たして見せることや、どれほど強くてたくましいかを見せることは、一種のプロパガンダだった。女は赤ん坊を生むだけでなく、水力発電所もつくれるし、飛行機で空を飛べるし、敵を打ち倒すことだってできる)

Even if Stalin hadn't let the girls fly we would have volunteered by the thousands for the army.

(私訳;たとえスターリンが女を飛ばそうとしなかったとしても、入隊を志願する子は何千人といたことだろう

   Anne Noggle著『 A Dance with Death: Soviet Airwomen in World War II 』Kindle 版45%位置No.3629中1602~1604(訳出にあたって当該箇所を抜粋引用した佐々木陽子著『総力戦と女性兵士』p.72、第3章「ソ連での女性兵士創出」、「元女性航空隊員兵士の回想から」③Yevgeniya Gurulyeva-smirnovaを参考にさせていただきました)

 爆撃機乗りのYevgeniyaは、神の声ではなく個々人の自由意思を重んじます。ふつうの女が志願して軍飛行隊に入ることを信じます。

 ふつうの女が戦闘機に乗るにあたって、機械の神にゆだねていればそれでよいと説く戦闘機乗りのイェフゲニヤとは正反対の態度と言ってよいでしょう。

 Yevgeniyaは誕生日ケーキについて話しません。(『ADwD』では別の兵士が、クリミアを前進しウクライナ人居住区に立ち寄ったさい、ちょうどイースターの時節でとてもよいご馳走でもてなされ、家政婦さんがつくった特製ケーキや卵そのほか美味しいものを食べグッスリ眠れて幸せになった話を述べてはいますし、劇中のイェフゲニヤもひとから聞いたことを自分で体験したことのように話しているだけという可能性はあります。*142

 Yevgeniyaはろうそくの火の話をしません。(『ADwD』では別の兵士がろうそくの火の話をしてはいます。しかし劇中のハイテクAIにその記憶が反映されているとしたらブラックジョークが過ぎるという内容です。

One night, as our aircraft passed over the target, the searchlights came on, the antiaircraft guns were firing, and then a green rocket was fired from the ground. The antiaircraft guns stopped, and a German fighter plane came and shot down four of our aircraft as each one came over the target. Our planes were burning like candles. We all witnessed this scene.

{私訳;ある夜、わたしたちの航空機が目標上空を過ぎると、探照灯(サーチライト)があらわれて、対空砲火がはなたれ、それから緑のロケットも地上から発射されました。対空砲火がやむと今度はドイツの戦闘機が追ってきて、おのおのの目標を襲いにきたわたしたちの航空機4機を撃ち落とします。わたしたちの飛行機がろうそくのように燃えました。その一部始終を目撃することになってしまったんです。}

   『 A Dance with Death』Kindle版18%(位置No.636)

 

 はっと目を見開く。かつて義姉から聞かされた言葉が、頭の中に響いたような気がしたのは、錯覚だっただろうか、それとも。

   『なめ、敵』kindle版70%(位置No.3315)

 そもそも死者の声が聞こえたことについて、想起による幻聴以外の可能性を考える時点であやうげで、ひとによってはそれこそ狂気の沙汰とみなすでしょう。

 でもそんな狂気が、あの世界の出発点のひとつです。あの世界のハイテク社会に必須であるカジンスキーの研究の着想元はなんだったのか、こちらの世界のかれの著書物学的無線通信』を開いて確認してみましょう。

 ある夜、わたしは、病人のところから自分の家に帰り(わたしはMの住まいから一キロ離れたところに住んでいた)、ベッドにもぐると、すぐにいつものように深い眠りにおちいった。ところが、深夜の静けさのなかで、わたしの耳は不意に、完全に明瞭に(完全に物質的に、と私は言いたいのだが)、ある微妙な音をとらえた。それはかなり大きな金属音で、銀のスプーンが薄いガラス・コップにふれるときの音に似ていた。

 とたんにわたしは目がさめた。

(略)

 わたしは迷信には縁のない男だ。しかし、わたしはぞくっと寒けをおぼえた。きょう、いまここで、このまだ冷えきってないわたしの親友のからだのそばで、自然の新しい偉大な真理の探求へひとりの人間を参加させる儀式がおこなわれているのだ、そうわたしはさとったのだ。もうわたしは、ゆうべ聞いたあの銀のふれあうような音と、この死んだ友のまくらべのテーブルでのスプーンの音が、まったく同じ音であることを、すこしも疑わなかった。

   新水社刊、B・B・カジンスキー著『生物学的無線通信』p.9~12、第一章「●生物学的無線通信のめざましい例」

 ヴィーカのあの決意は、案外あの世界で自明視されている常識にならっただけのものなのかもしれません。

 

 

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』が端々から描きだすのは、暖かな物語の下の寒々とした世界です。

 ミクロな個々人の視点からは、迷いも疑念も不信も絶望も狂気さえもいだけたうえで「さまざまな選択肢から自分はこれを選んだのだ」と確かに(いや確かなんだか不確かなんだか、やはり迷い交じりに。いかにも生きた・現実の人間らしい、白黒つかない幅をもって)思える人生が、マクロな世々界の視点からすれば実はそうではない、じぶんの可能性がせばめられているなんて関知できないほど高度ななにがしかの決定的な力にながされている現実の一市民のありようです。

 

 創作のなかで実在人物や事物が改変されて登場したさい、ぼくたちのだれもが知ってる歴史のビッグネームが、だれでも創作だとわかるかたちで(しかしビッグネームらしい顔をのこしたまま)改変された場合は、ほほえましいおかしみを誘います。

 現実世界でミイラが保存されたりしているレーニンが、創作のハイテクソ連のなかで、ロボットのように量産され社会主義国家らしい労働に奉仕しているとか。あるいは、現実世界では同性愛者で母国でひとり自死したチューリングが、創作のハイテクソ連に「亡命」したうえに性転換して勇名をはせているだとか。

 『なめらかな世界と、その敵』をはじめて読んだ三十路のぼくは、そのうちの一作『シンギュラリティ・ソヴィエト』をにやにやしながら楽しみました。

 はたまた、モーツァルトワームホールの登場によって現代と交流をもったことでテクノ音楽に夢中だとか。マリー・アントワネットが現代文明にふれてそちらの世界の永久在住権をほしがってるとか。

 新潮文庫タイム・トラベラー』を読んだ中高生時代のぼくは、そのうちの一作「サイバーパンクの書記長」B・スターリング氏によるラーグラスのモーツァルトをにやにやしながら楽しみました。

 

 しかし、創作内で改変される人物が、ほぼ無名の兵士であったら――検索してもごくごく数件しかヒットしないような、書籍にも大勢を取材した聞き書き集にすこし出てくるだけの一兵士であったら、どうでしょうか?

 あるいは、ウィキペディアにも事件や人物について記事があり、伝記さえ出ているものの現在絶版で、話題にする者がほぼいない人物について、名前も性別さえ変えられて登場した場合は?

 

   ▽『シンソヴィ』ヴィーカの納得がもたらす、伴名氏他作への疑義

 『ミグ-25ソ連脱出』に記されたヴィクトル・ベレンコ(の才能の豊かさ)からデジャヴするのは、『シンギュラリティ・ソヴィエト』だけではありません。

 ヴィクトルは医者にもなれたし、自分が読んだ本を糧に飛ぶこともできた。

 『なめらかな世界と、その敵』の語り手で無限の世界をまたぐことのできる葉月が、ある世界では専門書の著者であるくらい乗覚治療の第一人者となれたように。

 『ゼロ年代の臨界点』の少女たちが、いくつも作品を記し世界を動かし飛んでみせたように。

 『美亜羽へ贈る拳銃』の美亜羽がその医学的天才により世界のありようを変えてみせたように。

 『ひかりより速く、ゆるやかに』の速希が、叔父の本を糧に疾走できたように。

 ……そのなかには、できたことができなくなるほうへ進んだひともいます。

 なんにせよ、喜怒哀楽さまざまな葛藤のはてに納得ずくの選択として、結論をだしている。読んだぼくがせつなく身もだえしたりしつつも、ときには目に涙を浮かべつつも、「当人たちがこれだけ考えたうえでのことなのだから」と前向きに受け入れられた結論たちです。

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』のヴィーカと同じように。ヴィーカも同じはずなのに。この腹のおさまりわるさはなんなのでしょう?

 

 伴名氏はSFのロマンを剥ぐ。

 伴名氏自身の作品さえをも。

 伴名氏はSFを愛してる。

 それは間違ありません。

 愛にも様々あって。

 『愛の寓意』

 これだって、そう呼ぶわけですから。

 

 今後の伴名氏の作品への期待

 やっぱり、そして育みもするんでしょう。

 『改変歴史SFアンソロジー』巻末で伴名氏はこう語ります。

 短編というオーダーにほぼ中編の長さになってしまいましたが、それでも収まらないような諸々が立ち上がってきました。もう少しこの異世界と人々がどこに向かっているのか踏み込んでいきたい気持ちがあります。

   鴨川書房発行、『改変歴史SFアンソロジー』電書版p.142(紙の印字でp.139)、■作者コメントより

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』の世界はまだまだ語り足りないことがある……吉報ととらえたい気持ちはあります。

 伴名氏はある作品についてこう語ります。

伴名:実は(略)(作品名省略)」は、「(作品名省略)」で登場人物に迎えさせた結末が心苦しくて、別の回答に辿り着きたくて書いたものなので、当然似ているんです。個人的には(略)結末の方が簡単に書けるのですが、それは作者の都合でしかない。「(作品名省略)」の登場人物たちにも、もっと別な結末を迎える権利があったんじゃないか、作者としてはそういった可能性を書く責務があるんじゃないか、という思いも、「(作品名省略)」を書く動機になっています。

   『伴名練が語る、SFと現実社会の関係性 』より

 執筆順は不明ですが、『なめ、敵』が『一蓮托掌』から足を進めて、そのさきでかすかな光を見出したような作品であることは、この感想で触れました。

 伴名氏は一作一作、それぞれ時代も国もたがえた舞台の全く異なるガジェットの物語をまるで別な語り口でもって発表していますが、だからといってそれらに繋がりが全然ないというわけではなく、過去で伴名氏がえがいてきたものをふまえたうえでのさらなる挑戦である(場合もある)ことが、自身の発言や作品の内容からうかがえます。

 

 凶報ととらえる気持ちもあります。伴名氏に短編集『自生の夢』――表題作は伊藤計劃氏の『ハーモニー』を読んだときに考えたことが着想の一つと作者が明言しており、劇中に氏への明確なオマージュもある――自作の巻末解説を依頼したほど、かれの眼を腕を(あるいは伊藤愛を?)信頼している飛浩隆は、伴名氏による伊藤計劃トリビュート作についてこう語ります。

 伊藤計劃は愛につれなかった。伴名練はそうでもない。読者への釣餌か、それとも偽りのない本心か。

   早川書房刊、『SFマガジン2019年10月号』p.348、「伴名練総解説」での飛浩隆による『美亜羽へ贈る拳銃』解説より

 はぐくまれた結果、もっと腹のおさまりの悪いとんでもない代物がでてくるともかぎりません。

 

 ここまでの伴名氏の短編を振り返ってみると、その無駄のない構成から(=劇中独自ガジェットと劇中世界とキャラとの関連性がつよさから)、だいたいの作品は2つの大枠に収まっているように思えます。作品の劇中独自要素(異能なり革新的な技術・知見なり)により世界をぬりかえるひとと、まだ染まってないひととをめぐる物語か。もしくは、劇中独自要素(現象なり器官なり)によりぬりかわった世界の多数派(の代表的人物)と、そうでない少数派(の代表的人物)のお話か。

 そしてどちらの大枠においても(おなじく無駄のなさゆえに)、登場人物がそれぞれ対極的な別の派閥にそれぞれ属し代表するような立ち位置となり、さらには対決してみせるような二項対立(やら三つ巴やら)的構図が、余人の作品よりも目立ったかたちで登場することになります。……おそらくこれが(作品の感想めぐりをしているとたまに見かける=)「箱庭」的といった印象の原因なのではないでしょうか?

 さてここ一、二作(※『白萩家食卓眺望』は未読)はとりわけ好評ですが、それらに共通するのは、伴名氏がまるきり制御できるものではない別軸の雑音・外部からの横槍(災害とか、それに際し人の不幸をいろんな形で料理してしまう衆愚とか。歴史的時事とか)を明示的に入れてきており、キッチリカッチリした精緻な構図に良い意味で乱れ・複雑さが出ている作品だということです。

(そもそもそれまでの作品の対立軸も、富める者がそうと気づかず常識としてしまっている傲慢さだとか、そういった普遍的かつどうにもならない複雑な問題に根差したものであったりしたわけで、べつに過去の作品がダメとかってわけでは全くないんですけどね)

 それを"たまたま"としてではなく"傾向"としてとらえたら、「歴史改変SF『シンギュラリティ・ソヴィエト』の続きは、もっとままならないものをもっともっとままならないまま扱っていくのではないか……?」とも思えてきます。

 それは伴名作品とそれに先立つ事物との関係性についてからも言えそうです。

 大胆な改変・創作がなされつつも実は明治のSF史を時系列順に細かになぞってもいたゼロ年代の臨界点』から、読者から「間テクストへの批評が甘いのでは」との声も上がった(し実際、伴名氏も改稿に際し言及を一部削除した)『美亜羽へ贈る拳銃』、(ラファティ作品の日本読者にとって一般的な顔とは異なる別の面を紹介しつつも、展開まで結末までラファティパスティーシュを志した『一蓮托掌』、)ラファティ作品の先を歩もうとした『なめらかな世界と、その敵』、史料と要所要所は同じなのにことごとくさかしまな道を辿る『シンギュラリティ・ソヴィエト』、同ジャンルの先行作を細部までならいつつも先行作が取り上げなかった部分に着目しさらには明示的に批判的検討をしてみせた『ひかりより速く、ゆるやかに』……と、伴名氏の創作と先行作・史料との関係は、時代をへるごとにより密接に、しかし厄介なことになってきている。

 

 伴名氏がこのさき、どんな物語を選択をつづるのか?

 楽しみになるのはもちろんのこと、恐ろしくもなる短編集でした。

 

 

 

 

余談

 本文に組み込むのはもちろん、脚注に収めるのも長くなってしまった文をここに置いておきます。

 なお本文内や下で出した作品のうち、あれこれ記号がついてますがこれらは、

 ☆=伴名氏が影響関係を明言した作品

 ○=氏が読んでいることの確認できていて、関係もありそうな作品。

 △=読んでいることは確認できたが、関係なさそうな作品。

 ▲■=読んでいることが確認できない作品(関連性の大小で▲■をつかいわけた)

 ……という感じでつけてます。なお、感想本文では、話の流れ上「それに引き換えこっちは」というカドの立つ言いかたになってしまいましたが(特に『ひかゆる』劇中言及作)、どの作品もすごかったり、面白かったり、良かったり、美しかったり、おそろしかったり……それぞれ味のある作品ばかりです。ぜひ手に取ってみてください。

 

 死者の帝国としての『シンソヴィ』;劇中の伊藤計劃氏の参照と、『虐殺器官』の身も蓋もなさ

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』は冒頭から幕引きまで延々と伊藤計劃作品やかれの話したことをこすり続けた作品です。その参照は創作に限らず、エッセイにまでも及んでいます。

 いくつか例示すれば、ハイテクソ連社会をあるくハイテク赤ん坊についてヴィーカが言う「彼らは別の人類だと考えておりますから」 *143は、飛浩隆氏が伊藤氏に『ハーモニー』劇中「<ハーモニー>世界での子供のことを問うた」*144さい伊藤氏から返ってきた一言「彼らは別の人類だと思っています」*145を参照したものでしょう{。『SFマガジン2009年7月号』に掲載された元の文章は『ポリフォニック・イリュージョン』に再録されています(『なめ、敵』感想内脚注で「回りっくどくてよく分かんねえな……」と言ったやつです)}

 マイケルの語調についてヴィーカが思った「言葉の力だけで人を殺すことができると信じるかのように」はもちろんのこと、

「そして、たとえあなたの妄想めいた推論が真実だったとしても、(略)時計の針を進めたのが捏造の勝利であっても、既に進んでしまった針を戻すことはできない。

   『なめ、敵』kindle版65%(位置No.3093)「シンギュラリティ・ソヴィエト」より

 ソ連社会の嘘をあばこうとするマイケルに対してヴィーカが返すこの問答は、『虐殺器官』の終盤で、共同体からはみでつつある主人公クラヴィスと良き市民であるほかのキャラとの問答から来ているでしょう。

「嘘っぱちだろうがなんだろうが、すでに走っちまってる経済は紛れもない本物だぜ」

   『虐殺器官』Kindle版97%(位置No.4769中 4569)第五部 5

 {もちろんヴィクトル・ベレンコ自身が身の内にかかえたソ連への違和感を、二者に分離させ表立った対立として描いたという見方も十二分にできますし。

 ヴィクトル・ベレンコ事件を引いてきた■動警察パトレイバーthe Movie2』「26年前、日本の防空体制と国防意識を揺さぶったミグ25の亡命騒ぎ。あれの再来ですよ」)の「だが、二本のテープが二本とも虚構だったとして、吹っ飛んだベイブリッジだけは紛れもない現実だ。」や「ここからだと、あの街が蜃気楼の様に見える。そう思わないか」「たとえ幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人々がいる。それともあなたにはその人達も幻に見えるの」といったやり取りを参照した可能性もいなめません(そもそも『虐殺器官』の問答がこれの影響下にあるのでは……? ということもある)}

 こまかなガジェットとしては、「口の中で、リンカーンと遣り取りしているらしい」デバイス(『改変歴史SFアンソロジー』p.98だとヴィーカ側のデバイスですが、「口を閉じたまま舌を動かし」と詳述も。)もまた、『虐殺器官』でしょう。

 目的地までの経路をナビしてくれる拡張現実や、ホルモンバランスを調整し恐怖を中和し幽体離脱感を味わわせる体内デバイス、役目を終えた瞬間に弾け消える*146未知の素材でできた宅配ドローン≪蟷螂≫は、『虐殺器官』や『ハーモニー』に出てきた(目的地まで経路をナビしてくれる)拡張現実や、非道を可能とする心理状態に置く戦闘時適応調整・体内デバイスWatchMeによる(動揺時の自制促しなど)心理状態に応じた助言アプリ・脳の報酬系操作プログラム、動物と機械の相の子のようなドローンから来ているのではないでしょうか。

 いちばん取り上げたいのは下記のシーンです。

「ぐっすり眠りなさいな、夢見る国の人。もうじき目覚めの時間が来るでしょうから。こちらの国もそちらの国も、そう安らかには眠ることができない時代がね」

 義姉はきっと、そんな世界が訪れるなどとは予想もしなかっただろう。だがそれは、かつて義姉が願い、自身の屍の上に築かれることを選んだ未来だった。

   『なめ、敵』Kindle版70%(位置No.3218)

 ……『シンギュラリティ・ソヴィエト』の幕引き間際の、こんな文章。ここではっと目を見開きました。かつて伊藤氏から聞かされた言葉が、頭の中に響いたのはけっして錯覚ではないでしょう。

 我々が死者に安らかであれ、と願うのは何故だろうか。

 それは死者が往々にして安らかではないからだ。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫JA)、伊藤計劃著『伊藤計劃記録Ⅱ』p.259、「侵略する死者たち」より

 伊藤氏がS・スピルバーグ氏について語った評論略する死者たち』であきらかにするのは、ュンヘン』の主人公アブナーが突き動かされる、かれが実際には目撃"しなかった"筈の(頬を撃ち抜かれ、腹部をズタズタにされるなどの)即物的な暴力描写によって描かれる「死者のイメージ」とそれにより支えられるイスラエルという国についてであり。

 イノリティ・リポート』の人々が動かされる"起こりえなかった"筈の(スナッフ・ムービーさながらの)殺人の風景であり。

 スピルバーグ監督版宙戦争』のトライポッドの一つ眼が発した光線で瞬時に殺されるさまと、三脚を立てたカメラで撮られることとの類似であり。

 そして.I.』の主人公デイヴィッドの出自――「とある夫婦の、目覚めることのない我が子の代替物として召還され」た「外見的なモデルは設計者である博士の今は亡き息子」、つまり生まれたときからすでに死者――であり、デイヴィッドの役割――我々が死者たちに対して寄せる様々な情念により構成され、地域として束ねられることで一種の歴史空間とでもいうべき仮想空間として現出する「死者の帝国」。その斥候として我々の前に顕現する」――でした。

 

 ヴィーカが「見届けよう」と突き動かしたあのことばが――覆い切れない戦慄が身体を這い上って絶叫しそうなヴィーカを落ち着かせた、イェフゲニヤのあのことばが――こちらの世界のYevgeniyaが発したものでもなければ、出そうにもないということは、すでに感想本文で書いたとおりです。

 アメリカから来たマイケルが、自国民が劇中ハイテク人工知能リンカーンの見せる夢のなかで生きつつある現状を変えようとして試みたのが、ハイテクソ連の嘘を自身があばくもようを自国に同時中継放送することです。カメラの暴力性が『シンソヴィ』にも刻まれている。

 秘密の実験を終えたあと失意のヴィーカの宅に届けられたジェーニャは、目覚めることのない義姉の代替物として召還されました。ヴィーカが故人に寄せる情念を、ジェーニャは見事に叶えてみせます。

 ……つまり『シンギュラリティ・ソヴィエト』の世界は、死者の帝国なのです。それは冒頭から宣言されています。

 魂さえもが溶け出しそうな炎暑の夜、六億とも七億ともいわれる人々の瞳が、死人の投げたコインが卓に落ち回転を止めるとき、裏表いずれを示すのか見届けようとしている。

   『なめ、敵』kindle版54%(位置No.2563)

 今作が、死者のことばにイメージに突き動かされた世界であることを。

 

「自分もラノベを書いてみたい。鎌とハンマーで戦う社会主義的魔法少女の話とか」

 さて伊藤氏は会話のキャッチボールでそんなことを放り投げ、前島賢氏を笑わせました。でもそれはジョークだったのか?

 漫画家の篠房六郎氏は、大学の先輩である伊藤氏についてこう語ります。

口から出まかせの如く、プロットがポンポンと出てくる人でもあった

   篠房六郎日記、『+ '09年03月23日(月) ... 伊藤計劃先輩のこと +』

実は「虐殺器官」のプロットに近いものは遥か昔からあって、

周りから、早く書け、早く書け、と急かされてもいたらしい。

   篠房六郎日記、『+ '10年03月20日(土) ... 一周忌に寄せて +』

近年お互い作家という立場になってからは

バカ話の内容が

 

どれくらいタワけたプロットの話を捏造できるか

そして出来たしょーもねえ作品群を世間にブン投げて

どれだけテロることができるのか、益体もない想像に耽っては悦に入る

 

と言う方向にシフトしました。

   『+ '09年03月23日(月) ... 伊藤計劃先輩のこと +』

  前島氏に投げたタワけた話も――虐殺器官がそうだったように――いつか本当に書店で平積みされていたかもしれません。

(04/3追記、’21/04/29追々記)

  V林田氏とラノベ作家事務所T澤氏から解説いただきました。ありがとうございます。(流れを把握しきれてなくてスミマセン……)

 ツイートして下さったのはV林田氏が『SFマガジン2015年10月号』p.55伊藤計劃読者に勧める「次の10作」ガイド【コミック】にて「大祖国戦争当時のソ連を舞台に、魔女と女性将校のコンビが東部戦線を転戦していく」速水螺旋人『靴ずれ戦線』を紹介した項での言(「ソ連ネタをモチーフに使ったライトノベルを書こうとしていたという話があったりする」)とその補足p.374ですね。詳しくは氏の『マンバ通信』寄稿をご参照ください。(ちなみに同号には前述前島氏の言のほか仁木稔×長谷敏司×藤井太洋 座談会」では「塩澤さんから、伊藤さんがルイセンコ学説ネタで書こうとしていると聞いた」p.14との仁木氏の話も。塩澤氏は『伊藤計劃記録Ⅱ』で、

ダークナイト」ばりの誰も読んだことのないヒーローテーマのSFだったに違いありません(ロシアを舞台にしたヒーローもののアイデアを伺ったことがありました)。

   『伊藤計劃記録 Ⅱ』kindle版100%(位置No.3463中 3430)、塩澤快浩氏による解説より

  とお話もされていました)

(追記オワリ)

 まるでことばが人を殺せるとでもいうかのような信念をいだいた青年が住み、世界を飛び、真実を公にせよと戦う。そんな青年の暮らすアメリカの裏側で――鎌とハンマーと歯車の国で、指を振るだけで炎や風を巻き起こし、戦闘機を椅子にして空を飛ぶ、まるで魔法のような特異な技術をゆうした少女が戦っている。

 ……ぼくには『シンギュラリティ・ソヴィエト』が、故人が表にできなかったコインの裏側を、伴名氏なりに描いてみたように思えてなりません。

 

 『虐殺器官』は多数に読まれ、賛否両論さまざまな声のあがった作品でした。

 難点として挙げられたうちのひとつに「メインアイデアである"虐殺の文法"の掘り下げがよわい」という話もありました。そうした論難は、名も腕も知られた識者からも出ていたのです。『虐殺器官』の投稿先である小松左京賞の最終選考をになった小松左京氏や、投稿時になかった第四部インド編が丸々追加されたと云う早川書房商業出版版を読んだ山形浩生氏――山形氏は、伊藤氏がサイトにリンクを張り著作も読んでいたファンだった人物です――などが代表的でしょうか。

{余談も余談ですが。

 『虐殺器官』だけでなく『ハーモニー』もさまざま賛否両論や設定に矛盾が生じそうだとおもわれる展開への検討があれこれなされた作品で、たとえば15年10月に書かれたはてな匿名ダイアリーの記事様は裸だ! と叫ぶ勇気 ~伊藤計劃『ハーモニー』の崩壊~』で指摘された(そして同記事ではメジャーメディアや作家で触れる者がいないと言われている)作品の穴とされるものは、うえでふれた『SFマガジン2009年7月号伊藤計劃没後特集号に掲載された飛浩隆氏の(まどろっこしい)記事で、穴でも何でもなく作者が意図的に言い含んだことであるとSFメジャー誌上でジャンルメジャー作家による作者自身への聞き取りによってとっくのとうに明かされているものでした。

 その後も、2015年8月に早川書房から出たほうの『伊藤計劃トリビュート』で伴名練氏が、

(略)≫『虐殺器官』終盤の、決定的な嘘である。

≪これが人類の意識の最後の日。≫『ハーモニー』終盤の、致命的な嘘である。

   早川書房刊(ハヤカワ文庫JA)、早川編集部編『伊藤計劃トリビュート』p.574、「フランケンシュタイン三原則、あるいは屍者の簒奪」末尾の伴名氏の言葉

 と述べ、上述解釈にもとづいたオマージュ作を同著上に寄稿していたりもしていました。だからあの匿名記事は、二重の意味でまちがいなんですね。

(ちなみに、これはあの匿名記事が投稿された数週間後に劇場公開された作品なので執筆者のかたの不備ではないですけど、(正直ぼくとしては感心するところの全くなかった)なかむらたかしマイケル・アリアス監督のアニメ映画版■『ーモニー』でも、それをしっかり汲んで、含みのがっつり持たされたクライマックスとなっていたりもします)

 いっぽう反対のスタンスを――「作品内で十分に書けている。というか、わざわざ言われるまでもなく知っている/知っていなければならない自明な価値観でしょう」という具合の立場を示す識者も複数います(前述山形氏も『虐殺器官』の世界観自体は自明ではという立場だと思う)

 説のタクティクス』で、トム・クルーズという「ハリウッドのスター級の俳優、人間の無限の可能性と力を英雄的に体現する俳優、自分の顔を自分で描くことが出来るという意味での人間を演じ続けてきた俳優が、巨大な力に翻弄され為す術もない、という絶望的な光景」*147、虐殺される一様な顔をした群衆のなかに埋没してしまうさまを映し、現代アメリカであってもボスニア内戦的光景へと簡単に転げ得ることをえがいたスピルバーグ監督版宇宙戦争や、1989年出版当時悪評にさらされた「揃って最高の大学を卒業し、一流の企業に勤め、おれはアセットであり投資によって更なる利益を得ていい筈だと考えている人間たちが、何が出来るかによってではなく何を身に着けているかによって顔ならぬ顔を形づくっている」*148ブレッド・イーストン・エリス著メリカン・サイコ』や、「所謂「凡庸な悪」を「人間の顔」を維持する手段とする男」*149を主人公としたジョナサン・リテルしみの女神たち』などとともに、現代の「もはやルネサンス期のピコ・デラ・ミランドラが『人間の尊厳について』で唱えたような、"人間が人間として、自分の力で世界を把握し、自分の力で未来を切り開いていく物語"など信じられなくなった」視座に立った作品の一つとして虐殺器官』など伊藤作品を取り上げた佐藤亜紀――佐藤氏は、伊藤氏が著作をほぼ読みトークイベントまで聴取に駆けつけた人物で、伊藤氏が読んでいたことがわかる■ーバルトの小説や、blogでベストディストピア小説の一つとして挙げるナボコフの■ンドシニスター、『虐殺器官』のエピグラフで引かれた■楽への憎しみ』を本やサイトで高く評価した作家です――や、一言でくわしいことは言ってないけど円城塔氏などがそうです。

 ぼくは後者のひとびとの声に説得力を感じています。伊藤氏が衝撃をうけたェノサイドの丘』で詳細に描かれたように、ある日隣人が殺人者にかわるルワンダの虐殺みたいな状況というのはあれこれある。そして、どのような意識づけがなされればひとがひとを殺せるのか……ということも、虐殺者の言や語り手ら特殊部隊の仕事のなかで十二分に説明されていたと思います。{当ブログにアップした記事(非道を仕様とする記法;『イン・マイ・カントリー』感想)でぼくは、映画『イン・マイ・カントリー』で描かれるアパルトヘイト時代の加害者の自己正当化が、どれだけ原作ルポ『カントリー・オブ・マイ・スカル―南アフリカ真実和解委員会“虹の国”の苦悩』そのままor巧く翻案しているかや、どれだけ南アにとどまらない普遍的なものであるかをC・R・ブラウニング氏による論文『普通の人びと――ホロコーストと第101警察予備大隊』やV・クレムペラー氏の回想に基づく論文『第三帝国の言語「LTI」』を引き合いにして語りましたが、『虐殺器官』にもかなりの部分が当てはまるはずです}

 

 そしてそうした、単なるモノでしかない人間のいとなみ。そういった荒涼とした身も蓋もなさを、『シンギュラリティ・ソヴィエト』からも嗅ぎ取りました。

 

 『虐殺器官』の劇中人物ジョン・ポールが発見した"虐殺の文法"とは、一言で言ってしまえば、ある条件下の生物にとって生存・種の存続に必要だった脳の機構を、その条件下になくても活発化させるバグ技でした。

 ただこれはほとんど話題にされることがないですが(「ほとんど」と濁しましたが、この感想以外にそれを話してるものってあるのか、ぼくは知りません。……つまりぼくが勝手に誤った道をつっぱしってるだけな可能性もある話ですが、でも自分としては確信を持ってます)、ジョン・ポールがその"文法"をつかった/つかおうとしている国というのは、実のところその条件がほぼ揃った/揃いつつあるような状況だということが劇中で描かれていて、その状況下で争いが起こり人口が減るというのは、べつに、脳やひとの無意識的な習性について研究の進んだ進化心理学や進化生物学で初めてあきらかになったことではない、前世紀から識者に唱えられていた歴史的知見なのでした。

(内戦の――同種殺しの――ロジックとして伊藤氏は進化心理学や進化生物学的知見をもちこんだのかなぁ? とぼくは思っていますが、人口抑制手段としての同種殺し・子殺しもまた、前世紀から同じ識者に唱えられていたことでもありました)

 ウィリアム・H・マクニール氏による争の世界史』は、03年5月14日時点で大判本版を伊藤氏が所有していたことの確認できる本で、P・W・シンガー氏の争請負会社』読書時に再読され、実作においても知見が二度も採用されました{。ォックスの葬送』と、そしてそれをセルフ引用した虐殺器官(。上の読書記事にも引かれた「スペイン無敵艦隊常備軍でなかった」という話が実作に参照された知見で、これは『戦争請負会社』にも載っていますが、同著に注がある通りシンガー氏のソースもまた『戦争の世界史』でした)}。

 そしておそらく――いや確証が取れたわけではなく、希望的推測をふくむ妄想ですけど――屍者の帝国』執筆のために「読んでいます」と佐々木敦氏からのインタビューで語られていた題名不明の本もこれっぽい。

 『戦争の世界史』で驚かされるのは、マクニールの語るのが表題から予想される戦術や兵器の発展史だけにとどまらず、農畜技術の発展史でもあるということです。

 さて戦争はどういった理由で起こるのでしょうか。宗教的対立とか、啓蒙思想や社会契約説の浸透による労働者階級の自意識の高まりと特権階級への不満とか、皇太子の暗殺の禍根とか? そういったものももちろんあるでしょう。『戦争の世界史』でも、そういったものは戦争の三形態のうちのひとつとして(=勢力均衡政治として)取り上げられています。

 『戦争の世界史』が説く戦争の一因は、もっと身も蓋もない足し算引き算です。

 農畜技術や医療の発展により人口が増え、家督の田畑を継げなかった農家の次男坊三男坊が第二次三次産業へ流れ、そこからもあぶれた人物がゴロつきになったり軍に入る。増えた消費人口と、人間の増大以上ほどには伸びない生産量(食糧生産量・外貨獲得量)に不均衡がしょうじたコミュニティは戦争を起こし、勝利し領地を増やすことで、あるいは敗北し消費人口を減らすことで、コミュニティ内の消費と生産のバランスを保つ……ライフゲームなど単純な分岐から成るシミュレーション・モデルじみた、そんな"人口動態としての戦争"の一面をマクニールは説きます。

というのは、すでに第六章で指摘したように、もし十八世紀末の民主主義政治革命と産業革命とが、ある一面において、当時西ヨーロッパを苦しめていた人口過剰に対する対応であったとすれば、二十世紀の軍事的大衝突をも同じ仕方で解釈することが許されるだろうからである。すなわち両次大戦は、人口増加が、農村部の伝統的生活様式に内在する人口受容能力の限界に達した事への対応であった、と理解することができるのである。

   中央公論新社刊(中公文庫)、W・H・マクニール著『戦争の世界史 下』p186~7、「第九章 二十世紀の二つの世界大戦」より

{もう一形態は、"経済や産業のひとつ・経営されるものとしての戦争"で、『虐殺器官』劇中に登場する民間軍事会社ユージーン&クルップス社の由来であろう現実の武器商人クルップ(社)についても『戦争の世界史』は記しています}

  ちなみに『戦争の世界史』執筆中に着想をえた姉妹作病と世界史』では、さらに踏み込んで"人口抑制手段としての同種殺し・子殺し"まで唱えられていますが、こちらは伊藤氏が読んでいたかどうか記録はありません。

 腕のいい、強力な狩猟者だった人類は、間もなく競争相手の他の動物をあまり恐れなくてすむようになった。つまり、はじめて完全な人間と言い得るわれわれの先祖は、ポピュレーションの増加を抑制する基本的な調節機構を失ってしまったのだ。それに代わる人口抑制の手段として、人間の人間による殺戮ということが恐らく起こったであろう。(略)人口抑制のもう一つの社会的手段も実行に移されたに違いない。すなわち、望まれざる新生児の遺棄である。ともかく、今日でも狩猟民、採集民は、自分たちのあたま数を食物の供給量に応じた適切な数値内にとどめるための習慣的手段を持っている。

   中央公論新社刊(中公文庫)、W・H・マクニール著『疫病と世界史 上』p57、「第一章 狩猟者としての人類」より

 

 虐殺器官』の劇中紛争地で端々に描かれるのは、実はそんな人口過剰と国力(食糧生産量や外貨獲得力)のなさです。

 たとえば会議室の会話のなかでだけのぼって、フレーバーテキスト的にさらっと流されるソマリアについて。ここにもその状況が端的に記されています。

 以前のエントリ(萌えクストラポレーション礼賛;『A.G.C.T. 』『月刊 来栖川綾香』感想 脚注*4)でマーク・ボウデンの筆による原作『ブラックホーク・ダウン』の知見(この記事にも論拠を一部引用するソマリア評)・実際の軍人の声(劇中ロックウェル大佐の「軍事的には失敗ではなかったが政治的には失敗した」という旨のモガデシュの戦闘回顧は、現実のガリソン少将の評価とおなじ)が参照されていることを説明しました、『虐殺器官』劇中ソマリアについての文章後半。そちらで引いたのと同じ文章と他がそのまま"人口動態としての戦争"とも読める記述となっています。

 赤字・青字で引いた箇所が参照された(とぼくが見ている)文章です。『虐殺器官』の以下の描写は……

ソマリアの資源は
 とウィリアムズが訊いた。エリカ・セイルズは首を振り、
ほとんどありません。見つかっていないだけかもしれませんが、最後に調査が行われた前世紀末までに、石油、鉱物、農作物など外国に買ってもらえるような資源は一切ないと烙印を押されています。

  『虐殺器官』kindle版24%位置No.1090、第二部2より

長きにわたる内戦で、誰もそんな国に投資したくないし、観光に訪れたくもなくなっちまった、ってことだな」

  『虐殺器官』kindle版24%位置No.1096より

 『ブラックホーク・ダウン』の下記の描写を汲んだ描写ですが……

天然資源もなく、戦略的価値もなく、世界の商品のもうかる市場になる可能性もないのだから、

  『ブラックホーク・ダウン』下巻p.281

カメラマンのピーター・トビアとわたしが滞在しているあいだ、<ホテル・サハフィ>に宿泊客はほとんどいなかった。当時なにがあったかを正確に知るためにモガディシュへ行ったアメリカ人はわれわれが最初だし、その後も行ったものはいない

  『ブラックホーク・ダウン』下巻p.281

  両者を比べてみるとソマリア天然資源のなさについて、『虐殺器官』では具体的になにがないのかまで開かれていて、そのひとつが農作物と明示されています。

 ここで食糧生産力をふくめた国力のなさ(上で赤字と青字で塗ったもの)が示されました。もう一方の人口増はどこで語られているかというと(言ってる自分でもこじつけくさいですが)……

ソマリア国民は一〇年代に入って、自主的にAKやロケット弾を回収し、警察や学校を再建し、裁判所や行政府を構築し、自らをカオスから救い出そうとした。

   『虐殺器官』kindle版23%(位置No.1078)、第二部 2より 

貧しくとも、飢えていようとも、捨ててはいけないものがあると国民全員が強く認識したように一時期は思えました。子供たちは学校に通い、文字を勉強しました。もう機銃をつけたトラックが街中を走り回るようなことはない、と皆が安心して眠れる国になったのです。

  『虐殺器官』kindle版24%(位置No.1086)より 

 ……と、欧米留学から帰ってきた知識層の熱意にうごかされた人々のがんばりにより、争いはなくなり(=死傷者の数は減り)平和になったと。劇中ソマリアに人手自体はあることは、資源のなさから「どうしようもないな」と言われたエリカ・セイルズが「そんなことはありません」と述べた反論のなかに記されています。

「人がいるかぎり、そんなことはありません」エリカ・セイルズは肩をすくめ、「人がいれば、労働力を売ることができます。国際貧困対策機関である国連ミレニアム計画は、そんな資源もなく農業にも適さない国々をいくつも立て直してきました。

   『虐殺器官』kindle版24%(位置No.4769)より 

 人はいる、しかし国力がない……そんな状況がセリフのなかに埋め込まれています。

 

 ジョン・ポールがちょっとした休息で訪れたらしい第三部チェコでは、ドミノ・ピザを食べバドワイザーを飲みながら暴力的な映画をたのしめるアメリカ本国とおなじく、特殊部隊の諜報活動をつうじて、平和な国の平穏が豊かな飲食物とむすびつけられて描かれます。

 語り手は尾行対象が「ショッピングモールに入」*150ったり、「食料品と衣類の買い出し」*151に行ったりするのを観察し、潜入活動で出会ったチェコの知識人(本家のブドヴァイゼルが飲めるクラブの店主)から労働対価農畜・食事にむすびつけられた話を聞きます。

労働はその個人の自由を奪うけれど、見返りにもたらされる給料で、さまざまな商品を買うことができるかつては自分で畑を耕し、収穫し、狩りに出て獲物を捕まえなければならなかったその時間を、農家に代行してもらって、収穫済みの野菜や、解体済みの肉、あるいは調理まで済んだ食べ物を手に入れることができる。ある自由を放棄して、ある自由を得る」

   『虐殺器官』kindle版44%(位置No.2085)、第三部 2より 

 

 追加された第四部インド編は、アクションシーンを増量してほしい編集部の意向と合致していたそうですが、初顔合わせのさいに伊藤氏が独自に考え持ち寄った改稿案だったそう*152。小松賞落選後にひらかれた残念会で「せっかく書いたんだし同人誌なりネットなりで公開しよう(要約)」とうながす漫研の仲間に、

「落ちたものは落ちたものです、やはり充分なレベルまで達していなかったという事でしょう」

 と一旦は固辞したと云う伊藤氏が、小松左京氏の批判に対してなにも対策をとらずにいなかったとは考えづらい――つまり"虐殺の文法"のディテールアップもまた、なされたのでは? と思います。

 インド編でまず描かれるのは、衛星映像規模の自然の喪失です。

戦域弾頭が大地に穿った穴には、山岳地帯から豊潤な山水が流入し、核爆発から数年を経て円形の大型湖を形成している。クレーターの周辺は生命すべてが立ち入ることかなわぬ放射能の地獄で、赤茶けた地肌がむき出しになって

   『虐殺器官』kindle版61%(位置No.2860)、第四部 1

 赤緑青各チャンネルあたり二十四ビットの色分解能だと、山道に不規則な列を成す緑色のピクセルのかけらが、周囲の樹々の深緑とは異なるグリーンであることが見て取れる。この緑色は戦の緑、軍隊の緑だ

   『虐殺器官』kindle版61%(位置No.2867)

 核爆弾が直接的に緑を赤茶けた地肌にかえ、間接的に山岳地帯の豊潤な山水を奪って生命の立ち寄れない放射能の地獄としてつぶしてしまい、山あいの農村は軍隊が陣取り虐殺している。

国連ミレニアム機関が介入する前の戦後インド復興は、混沌の極みにあった。壊滅した産業は復興の気配もなく、かつてインドが誇っていた理系技術者のほとんどが戦争で死んだ

   『虐殺器官』kindle版70%(位置No.3293)、第四部 3

 ソマリアの話題ででた国連ミレニアム機関(計画)の介入が語られたことで、逆説的に劇中インドが「資源もなく農業にも適さない国々」の一つであることが示されています。また農業だけでなく、IT分野の労働力の喪失をはじめとした自力の外貨獲得力が落ちていることも記されています。

 一方で、人口増も語られています。

 「戦後のインドは、正直よくやっていたと思います。(略)国民の貧困は確かに悲惨なものがありましたが、民主選挙も無事行われ、乳児死亡率も急速に低下しつつありました。それが今年に入ってから、すべてが急速に悪化しました」

    『虐殺器官』kindle版62%(位置No.2918)、第四部 1

 (一時的な)情勢の安定と死亡率の低下。これも、劇中ソマリアの紛争まえと同じです。

 

 ヴィクトリア湖周辺はどうでしょうか。「産業というよりも自給自足、の地元民たちが、それなりの生活を送っていた」*153が、ナイルパーチの実験的な放流により在来小魚が絶滅、小魚が餌としていた藻類が過剰繁殖し恒常的な赤潮によりナイルパーチも絶滅した「死の湖」*154となってしまった。そこへ先進国がナノマシン赤潮を一掃・産業用人工筋肉の生産地に変え、その外貨で潤った湖周辺地域が既存の3国から<ヴィクトリア湖沿岸産業者連盟>という名のひとつの国として独立・「先進国に承認され」*155た……という設定です。

 死の湖と先進国の介入という点で第四部のインドと重なるような、そして第一部の「旧ソ連領で、共産党が政権を手放したあとは独立し、資源を巡ってロシアと対立し」*156た国と似た状況です。ぼくの目には、ここから国内を虐殺してまわった「暫定政府」(「あんたが『国防大臣』を務める『政府』とやらは、どの国連加盟国からも承認されてはいない」*157があらわれるまであと数歩、という風に映りますが、どうでしょうか?

 ヴィクトリア湖沿岸産業連盟にくらす少年は、こんな希望を語ります。

ぼくらががんばれば、この国は貧困からも、エイズからも救われて、そう遠くないうちに湖に魚が戻ってくるんだ、という気にさせられる。筋肉を輸出してお金をたくさん増やしながら、前世紀の初めのように、湖でとれる魚を食べて幸せに暮らす。そんな生活が手に入れられるように思えるんです。工場から出たイルカや鯨の内臓を食べてしのぐ女の子たちも、きっと学校に入れるようになってあんなゴミ漁りをしなくていいようになる、って。

   『虐殺器官』kindle版91%(位置No.4323)、第五部 3

 この希望にもすでに不穏がにじんでいて、すでに潤い始めているはずなのになぜいまもナイルパーチ時代と変わらず工場から出た廃棄物漁りをしているのか? (劇中ソマリアやインドのように)先進国の介入や自助によってもこの国の衛生・保険などが改善されたとして、働き手はあるのか? 湖はどこまで広いのか、工場を作れる土地はあるのか? ……という疑問がうかびます。 

 

 『虐殺器官』冒頭、旧ソ連領のどこかの国での作戦中、語り手クラヴィスら特殊部隊が武装勢力の検問をスルーするための言い訳も「パトロールしていたらガスと糧食が尽きた、とかなんとか」*158というものでした。紛争と食料とをむすびつけた状況が、こんなところからもうかがえる。

 

 各地で起こる虐殺とそこにいた謎の人物、死者の国の夢、意識不明の母の死、人工筋肉で制御された人工物など、『虐殺器官』のアイデアがそれ以前に伊藤氏が書くも頓挫した二次創作『Heaven scape』から来ている(細部を微調整してほぼ丸々セルフ引用されてさえいる)ということは知られていますが、他トピックについても『虐殺器官』と関連性を微妙に見出せそうなんですよね。

 『Heaven scape』劇中独自ハイテクSFガジェットは、ハイテクすぎて一見『虐殺器官』と無関係です。ただその使い道を見てみると、上であげたような知見が覗くのでした。

 大気中に散布されたナノマシンが緑化など自然の回復のために用いられ{紛争の発端だけど復興しつつあるらしい、ザンジバー(ロシア~中国~アフタニスタンに隣接する国とのこと)に緑が戻りつつあること}、劇中紛争の発端であるザンジバーが属するソ連その消滅まえの光景としてモスクワのレストランで二時間待たされた*159ことが挙げられている――今作の時点で、情勢不安と食(自然環境)とが関連づけられたような話がチラつくのです。

 

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』終盤できめた主人公の決心は、ぼくには彼女が決心したというよりも、――主人公が、こちらの世界のモデル人物である反ソ連アメリカに亡命した男性とちがって「ふつう」の「女性」であるとか、「義家族と仲がよかった」とか。劇中世界が、友人のいまわの音が聞こえたとかいう神秘体験から端に発した研究がなぜか成果を収めてしまい、社会を形作ったりなんだりしてしまっているとか。もっと直截に、こちらの世界のモデル人物とちがって衣食住に困ってなかったとか。そういう――周囲のさまざまな――しかし1か0かといったような極端かつ単純な――変数のいたずらでそのように心が決まってしまった……そんな身も蓋もない結果に思えてならないのでした。

 

 

 皆月蒼葉氏の改変歴史要素を含む作品群

 文字数制限のため手短に言うと、作家の自由な創作度が高そうな『シンソヴィ』をキッチリカッチリ改変歴史SFとみなすことについて、『歴史改変SFアンソロジー』で参加者が扱いたい舞台について皆月氏と事前連絡の末に書いた作品だということで、皆月氏の作品がキッチリカッチリ改変歴史傾向なんだから、氏から結果的に席を貰うかたちとなってまで書いた『シンソヴィ』も、皆月氏に見せても恥ずかしくない方向へ舵取りしたと見るのが妥当では? って流れで紹介します。

 一次創作でBOOTHカモガワSFシリーズ Kセレクションにて購入できるものとして『江戸の花』『改変歴史SFアンソロジー』所収)、『艦隊これくしょん』二次創作でBOOTHびびび文庫にて購入できるものとして『終わりの花』『日本史の中の深海棲艦』があります。それ以外に歴史改変要素の強い作品がある否かは未読だったり未入手だったりでわかりません。

 ▲わりの花』は、皇国本土と川崎鎮守府近海の丹那島に着任した提督と、艦娘の決意をえがいた作品です。

 皆月氏曰く"「丹那島にある銀行がなぜ三井や住友、三菱ではなく安田なのか」「なぜ沼坂のチェーホフ岩波文庫ではなく改造文庫なのか」など、出てくる実在固有名詞のチョイスにはすべて理由があ"*160る、歴史改変長編SFです。

(そうした凝り性の足跡を皆月氏電子書籍版でいくらか開陳されており、電書版巻末には、『ディファレンス・エンジン』巻末のアイリーン・ガン氏による『ディファレンス・ディクショナリ』を範とした「『終わりの花』便覧」が追加収録。劇中に登場した事物について、15×21字×3段字組で10ページぎっちり自己解説されています)

 そう書くと「キャラや『艦これ』は撒き餌かよ!?」と思われてしまいそうですが、二次創作としても一級品で、

「『艦これ』というゲームの仕様(プレイヤーが味方艦隊を出撃させ、敵と戦う)が成り立つ世界設定(深海棲艦の生態)とは?」

 と原初から突き詰めた作品です。

 外伝として『ランドスケエプ』があり、現在シリーズ最終作も構想中とのことですが、これ単体でたのしめます。

 本史の中の深海棲艦』は、『艦隊これくしょん』の深海棲艦や艦娘たちが実在した改変歴史世界について概観した架空史書です。今作の世界では、深海棲艦による海難事故により国際汽船が経営悪化し、国際汽船に貨物輸送を頼っていた鈴木商店がその煽りを受け、さらに鈴木商店に融資していた台湾銀行も……と深海棲艦が昭和金融恐慌の引き金となったり、1937年、日本が第一次人艦戦争の泥沼に踏み入れていったりします。と驚いたところで2章からは戦前どころか紀元前まで遡ります。

 『終わりの花』でゲームの仕様が成立する世界設定とはどんなものかを詰めた皆月氏が筆をとりつづけた当然の帰結として、今作では現実世界の古代史まで詰めていくこととなりました。おかしなことが好きなひとにはオススメの一作です。

 余談も余談ですが皆月氏は学生時代ディファレンス・エンジン』読書会の進行をつとめたそうで、当時の記事や読書会用に氏の作成したpdfは現在も閲覧可能です。(ちなみに、上で話にだした『演歌の黙示録』絶賛マンもこの読書会に参加していたことがわかる)

 

 

  短編集収録作の参照元? や劇中の言及他作と流通状況

  ▼『なめらかな世界と、その敵』

 ☆『めらかな社会とその敵』鈴木健

 タイトルの元ネタ。勁草書房から紙の書籍が流通中。

 冷戦下・分断されたドイツに少年時代に訪れ・壁の崩壊後統合されたはずの社会へ矛盾を見た鈴木氏が、現代科学で明らかになった人間の生物的な特徴をもふまえたうえで、ほんとうのなめらかな社会とはなにか・どうすれば達成できるかを考えた提言書。識者の書評として山形浩生さんの個人blogの書評があり、こちらで指摘された一票の問題は『なめ、敵』後半の議論につながってきそうな話題です。

 ☆かどの穴』R・A・ラファティ

 エピグラフの作品①。今作を収録した『九百人のお祖母さん』は絶版。

 夫が帰宅するお話です。何人もの夫が帰宅して、何人もの夫が精神科にかかり、原因についてマッド・サイエンティストのもとへ訪れます。

 3人称の語りは神という堅苦しさはなく繰り返し部分をざっくり省略したりと柔軟で、語り手がジョッキ片手に酒場であるいは焚火を囲んでホラ話をふく姿が見えるよう。

 ☆能力が必要』「マルチヒロイン」ユエミチタカ著

 エピグラフの作品②{。劇中では同人誌時代の筆名と書名?(sorethroat『Multi Heroine Syndrome』)が記されています}。今作を収録した『超日常の少女群』イースト・プレスから紙と電子書籍が流通中

「どうやったら好きになってくれる? キャラも変えるよ!」

「あなたがキャラを変える必要はないと思うわ。 必要なのはただひとつ…じ」

「ぢ? カナデさん!?」

 粉雪の舞う空を見上げたまま私は倒れた。

 夢……ではないらしい。気づくと私は学校の廊下に立っていて、私に関する一切の記憶がなかった。覚えてるのは名前だけ――

「ユキさん! もー待っててって言ったのに」

「ユキ……って誰のことよ、私の名前はミスズでしょ!?」

 多重人格の少女とその子にいつも付き合い補助する子のお話です。少女の人格は限りなく、補助役の子はおなじ人格と再会できたことはないと云う。なぜ補助をしつづけるのか? 過去の少女が言いそびれたこととは?

 『超日常の少女群』に同時収録された、漫符の怒りマークが現実の身体にあらわれる世界の思春期の子たちを主人公にした『シュリケン』シリーズや、時間を巻き戻す能力を手に入れた少女の夜更かしした翌朝の異様な感覚を漫画で描いた『超能力が必要』「ループ」などとおなじく、漫画という表現媒体を活かした人物描写がたのしい一作です。

 エピグラフの文字列でググっても出展元がよくわからない今作とぼくとを引き合わせてくれたのは、来の終わり氏の『ねとらぼ』での書評です。

 ○千世界』下永聖高著

 今作を収録した短編集『オニキス』が早川書房から電子書籍が流通中

 全ての並行世界どうしが穴でつながっている世界の話を書いたんです。でも、世に出す前に、下永聖高さんが「三千世界」という小説で、ゲートで並行世界を行き来する話を先に発表されたのでお蔵入りになったんです。ならば、穴を使わず意識だけで並行世界を行き来できるようにしてしまおうと考えました。

   リアルサウンドブック』掲載、『なめらかな世界と、その敵』伴名練が語る、SFの現在地「社会の激変でSFも期待されている」より

  伴名氏が『なめ、敵』を現在のかたちに改めた先行作。冒頭の時点で借金をかかえていることが会話のなかで示されるクセのある語り手らしい行動力で、さまざまな世界がまたがれ、その場その時によってがらりと雰囲気を変えていく物語が楽しい作品です。

 『ジェイソン・ボーン』シリーズみたいなその場その時を機転で泥臭くのりきる追跡・逃走劇をしたり腹の探り合いをしたかと思えば、ヘリコプターが掃射するような『マトリックス』のような大立ち回りが拝めたり……はたまたしっぽり恋愛ロードノベルになったり。同じようでどこかが決定的に異なる別世界にまるでジョルジョ・デ・キリコの絵の中へと迷い込んでしまったかのような不安な孤独におそわれる場面もあれば、おとぎ話を聞くみたいに土着風俗をしみじみ楽しむ観光的な場面もある。

 借金、ハイテクメカの電池残量、エントロピー増大値……世界をまたぎウラ技を駆使しても語り手には手を変え品を変えさまざま負債がつのっていって、自由に好き勝手やっているシーンであっても「いつかどこかで清算の日がくるのでは」と緊張をかかえたままページをめくっていくこととなります。

 ちなみに表題作の『オニキス』は設定を一部おなじくした姉妹作で。時間をさかのぼって情報をつたえるマナの発明によって世界改変がたびたびおこなわれるようになった世界で、その改変の違いに気づくための外部記憶装置のテスターとなった語り手による一人称視点の物語です。本人の意図しない時分に世界をまたいでしまい、過去の世界が違和感として残渣する『オニキス』の語り手の世界観と、自覚的に世界をまたぐ『なめ、敵』語り手の世界観と……作家が独自に設定した世界のなかで生きる人々の認識をどのように描いているのか、それぞれ読み比べるのも面白いかもしれません。

 

   ▽『なめ、敵』感想で省いたラファティ他作

 感想本文で言っていた、「抑圧的な社会とそれに追従するふつうのひとびと、彼らからすると荒々しい異物であるけれどその実自由であるマイノリティの姿」が描かれた作品について。ラファティは全然読んでないのでモチーフが類似する作品はもっとあるかもしれません。Fマガジン2014年12月号』に邦訳作品長短編のレビュウと紹介があり、読書の参考になりそうです。

 たとえばここから挙げる直下3作と感想本文でふれた『田園の女王』は、奇しくも坂永雄一著間からはみだすものを読む 邦訳全短篇紹介*161で大別された8項のうち1項◆せまい谷の外へ*162と題された項でみんな紹介されている作品なのです*163。坂永氏はその項で上述4作に加えさらに8作も紹介されていますが、それさえラファティ邦訳短編106作のうちの1/9程度という幅広さ。

 坂永氏のツイートによれば長篇『蛇の卵』もこうしたテーマを扱った作品とのこと。

 上の感想本文でぼくはラファティ作品を悲観的に見てしまいましたが、牧眞司ファティの終末観』*164を読むと、ラファティ翻訳者井上央氏の解説なども引きながら「諦めて投げやりになったりニヒリズムに陥るのではなく、けろりと「抗い」つづける」*165ラファティのヒーロー像について語られているではありませんか。

 井上氏と同じくラファティ翻訳者で特殊翻訳家である柳下毅一郎ントは怖いラファティ*166も、一見ぼくのラファティ観を肯定してくれそうでその実、結論が同じというだけでそこに至る過程も異なれば精度も段違いの内容です。ラファティ作品に見られる「圧倒的な厭世観と人間嫌い」「人があまりにも簡単に死ぬ」*167ことについて、作品検討はもちろん、作家の宗教信条を氏の発言なども引きながらフォーカスする骨太の作家論。えっこわい。

 「いや批評家(?)の意見とかどうでもいいんで。感想本文曰く、そもそも日本のラファティ観って偏ってるらしいじゃん?」とお思いのあなたもご安心、ラファティ氏当人がSF観を語るFのかたち』*168インタビュー*169、井上氏との14年間におよぶ書簡集抜粋*170と盛りだくさんありますよ!

 やっぱり/いや思っていたより遥かにラファティ氏は奥深そうだ(。なにせ件の誌では名翻訳者にして名解説者山形浩生氏まで「ラファティアーキペラゴ』30年ぶりに読み直したが未だにわからん……」との旨の敗北宣言されておられるくらいですしね……)。digればdigっただけ面白そうです。この記事で興味をもたれたかたは是非ラファティ氏の実作に手をのばしてみてください。

 

 古の殻にくるまれて』(1971年『Quark』#3収録。邦訳は早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)『つぎの岩につづく』ほか、新潮社刊(新潮文庫『時間SFコレクション タイム・トラベラーに収録されていますが、どちらも絶版。)もまたそうした作品のうちの一つで。次々と人が死に不妊となり肺に粘液がたまり気腫ができ体が奇形化していく世界の激変のさなかを描いた第1部、激変した世界に適応しつつあるひとびとの姿を描く第2部、激変した世界が日常となったひとびとの姿をえがく第3部のそれぞれの時代で、風の強い高原にある<山の上クラブ>の会合をえがいていきます。「マスクをつけろ。でないと死ぬぞ」と警報屋が声を張り上げる物々しい書き出しから語られる中身はラファティらしい変てこな激変。初心者にもオススメしやすいとっつきやすい作品で、事実この作品でラファティ氏に初めてふれたぼくは、図書館へ本屋さんへラファティの本を探しにいきました。

 激変した世界で保守的となり老成した多数派に対してマイノリティが試みるのは飛行です(。やはり法律違反行為となります)。『太古の殻~』の空飛ぶひとびとは若き日の自分たちであり、配偶者です。法律違反だ、狂人だと言いつつも、憧憬が見える。せつない。

 (スカイ)』(1971年『New Dimensions I 』収録。今作を収録したアンソロジー『20世紀SF 4 1970年代 接続された女』河出文庫から紙の書籍が出るも絶版)は、"スカイ"と呼ばれるドラッグを服用したうえでスカイダイビングをする若者たちを描いた作品です。地底で採れる素材をつかったドラッグがあれば、飛行機も空気のない高所まで飛ぶことができ、人々は哲学的で明晰な思考もできるし、それ以上のこともできます。一瞬のスカイダイブを"スカイ"が永遠に変えるさま、若者たちのあじわうその目覚ましい気持ちよさ美しさを今作はえがきだします。

 そして冒頭の"スカイ"を用意するドラッグの売人のみすぼらしさが予感させるように、若者は圧倒的な勢いでみじめに潰えます。あまりに圧倒的なのでスラップスティックでさえあります。ぼくにとってはスラップというかスプラッターで、現実がそうであるように容赦がなさすぎて、ただただ不気味でこわかった。

 今作で対比されるのは空の明るさと地底の暗さ、若者と老人。

 れかがくれた翼の贈りもの』(1978年『Rooms of Paradise』収録。今作収録の短編集『翼の贈りもの』は青心社から紙の書籍が流通中)は、進化論的変異の過渡期で若者が翼を有しはじめた世界を、そんな若者を娘にもつ親などから見た作品です(。今作の翼についてもやはり法律でもぐ必要がありますが、もがなければもがないでそれもまた……)。伴名氏が挙げた「今とは全く違うラファティ観が形成されていたのでは」という3作のうちの1作。

 書き出しのティーンの子と親らしい噛み合わない会話、大仰な名前の若者グループの姿、居酒屋でくだを巻いてるおっさんのセリフにも思えるコウモリについてなどがやわらかい口調で描かれ、"光り輝くもの"たちやら"コウモリの翼"団やらところどころ漏れる劇中独自事物について「なんだろう? 比喩? 中二病?」とふんわりした認識で読み進めていくと、学者らしい学者の堅い世界説明が来て、ふんわりしたなかにも見え隠れしていた暗雲が決定的な輪郭をもってしまう。そうしてはっきり詳述された身体的特徴は、若者たちの暗い将来を現実的なものとする一方で若者たちの飛行が夢物語でないことへの証左ともなって、そうして空を飛ぶ若者の奇妙な身体と大気とがからんだ物理法則のなせるいたずらを現実に描く契機となります。おそろしくも美しい作品です。

 には帰れない』も空と若者がからんでいる作品と言ってよさそうです(。ただしこれは『田園の女王』発表後の作品。短編集『昔には帰れない』はハヤカワ文庫SFから紙の書籍が流通中。表紙絵が好き)。伴名氏が挙げた「今とは全く違うラファティ観が形成されていたのでは」という3作のうちの1作。

 ふるさとの野には小さな月が隠れており、笛の音色でそれを浮かび上がらせて月のうえで遊んだ子ども時代を、結婚し子を得た大人の時分にもういちど再訪する作品です。

 飛行と音楽という点では『~翼の贈りもの』と、臭気にいやがるマジョリティという点では『田園の女王』と重なりますね。(『ファニーフィンガーズ』の裏山もくさいらしい)

 

 べつに空も高速の乗物も特権的なマイノリティもでてきませんが、伴名氏が挙げたラファティ短編ベスト3の一作でありかつ「今とは全く違うラファティ観が形成されていたのでは」という3作のうちの最後の1作であるれた偽足』(短編集『昔には帰れない』はハヤカワ文庫SFから紙の書籍が流通中。)は、無限にあるもののなかでただひとつある(んだかないんだかな)気がかり、余人からはもちろん自分からしてもどうでもいいような(しかし気になる)部分をあつかっているという点において、『なめ、敵』とも重なるような(というか、読んだ中ではじつは一番密接に関係してそうだとさえ感じる)内容でした。じぶんのなかで咀嚼しきれてないので、具体的にどう、ということも言えず、とうぜん感想本文に組み込むこともできませんでしたが……。

 

 

  ▼ゼロ年代の臨界点』

 ☆女』石黒達昌

 今作を収録した『人喰い病』は、アドレナライズから電子書籍流通中です。

 大々々傑作。あらすじや内容は伴名氏運営執筆の『石黒達昌ファンブログ』記事がおすすめです。伴名氏の評にひとつ付け加えると、じつは今作、前段のアクションや小道具が後段で別のアクションの糸口になったりと展開の転がしぶり活劇ぶりが楽しい作品でもあります。

 ○ップ・ヴァン・ウィンクル』ワシントン・アーヴィング

 岩波文庫『スケッチ・ブック(上)』は絶版で、F・ダーレイの挿絵がついているらしい三元社『リップとイカボッドの物語「リップ・ヴァン・ウィンクル」と「スリーピー・ホローの伝説」』が紙の書籍で流通中みたいです。

 岩波文庫なのでと後回しにしていたら、地元の図書館みんな休館になっちゃって読めてません……。

 ○ーサー王宮廷のヤンキー』マーク・トウェイン

  大久保博訳『トウェイン完訳コレクション アーサー王宮廷のヤンキー』が角川文庫から紙と電子書籍で、砂川宏一訳『アーサー王宮廷のコネティカット・ヤンキー (マーク・トウェインコレクション)』彩流社からオンデマンド本として紙と電子書籍で流通中。角川電書半額セールの対象品になったりするので、お金ない人はちょっと待ってもよいかもしれません。

 ○破風の屋敷』ナサニエル・ホーソーン

 甲南大副学長などをつとめた(?)青山義孝氏による個人出版がマイデザイン社から流通中のよう。商業翻訳としては鈴木武雄訳があり絶版。鈴木訳は電子書籍で出ているようですが、出版社はグーテンベルク21です。権利関係大丈夫かどうか、詳しいかたご教示ください。*171

 大著なので後回しにしていたら、地元の図書館みんな休館になっちゃって読めてません……。

 表題にもなった家はセーラムにあるホーソーンの親戚の家がモデルで現存しており、劇中のピンチョン家も(米ウィキペディアからの孫引きですが)実際その地にいた人々で、トマス・ピンチョンの御先祖なんだとか(。ただし名前をもらっただけで、一家像は現実とかけ離れた物語的な創作があるそうです)。まじで!?

 ○さな白い鳥』J・M・バリ著

 パロル舎(倒産)からでた紙の書籍は絶版。

「私どものところへお越しくださいませんか」母親からの言伝をもってくるたび私は少年にこう言ってやる。「折角ですが気が進みませんので」

 しかしその日のデイヴィドは強くそれで引き下がらなかった。「母さんの誕生日なんだ、今日は来てくれなきゃやだよ、父さん」

 メアリ・Aという貞淑で心優しい女性に、私が望みの無い愛を捧げていると思い込まれ、有難迷惑な同情を寄せられて数年が経つ。私は店の中など人前で、メアリの息子に『父さん』と呼ばれるのが好きだ。この子は店員にいろんな質問をする。一日の儲けはいくらかとか、アキレスは好きかなど。デイヴィドはアキレスに会うためなら死んでもいいとさえ思っている。もしその夢が実現したならきっとアキレスの手をとって『父さん』と呼び、どこか『円池(ラウンド・ポイント)』のようなところへ引っ張っていくに違いない。

「デイヴィド、もしきみがどんな巡り合わせで生まれてきたのか知りたかったら、今日のお昼を食べに私と一緒に『夏』へ行こう」

「ぼくたち『夏』へいくの?」

「そう。何度も何度も、たくさんの『夏』へね」私は辻馬車を止めた。「六年まえに戻って『保守青年クラブ』に着けておくれ」……というお話です。

 上述のような感じで謎が謎をよぶ序盤から読者の興味をひっぱり明らかになっていくのは、独身中年男性の「私」が、1900年前後の英国紳士らしい階級意識男女観を、自分が親切することへの照れ隠しに振りかざしながら、保母さんメアリとその彼氏『わっはっは』氏の恋と家庭を陰ながらサポートするお話です。

 森見登美彦氏が翻案してもおかしくないような、ほほえましさと気持ち悪さのあふれる作品。乙女のおともだちパンチはないけど、喜びのあまりステッキで電灯へ喜びのフェンシング突きをする独身中年男性はでてくるぞ!

 ○死病の仮面』エドガー・アラン・ポオ著

 今作を収録した田中西二郎訳『ポオ小説全集3』東京創元社創元推理文庫)から紙の書籍が、金原瑞人『モルグ街の殺人事件(岩波少年文庫)』岩波書店から紙の書籍で、巽孝之『黒猫・アッシャー家の崩壊 ポー短編集Iゴシック編』が新潮社(新潮文庫)から電子書籍で流通中。

 感染した者の顔が赤く爛れ死に至る赤死病の流行る国で、国王プロスペローの城だけは無事だった。彼は城に友人と芸人を呼び食料を貯め固く門を閉ざして日がな宴を開いている。プロスペローの城砦は奇妙なつくりで、虹色に染めた7つの部屋があり、かれの城砦は気味悪くもあり、最後の一部屋は真っ黒塗りで窓だけ血のような赤で染められていた。ただの宴に飽きて仮面舞踏会(マスカレード)となったプロスペローの悪趣味な知己も最後の部屋にだけは寄りつかない。ある夜、赤窓の部屋以外にも空きができた。仮装者の海が闖入者によって割れたのだ。悪趣味なひとびとでも退く仮面とは? そんな不届き者に王は? ……というお話です。

 掌編と言ってもよいコンパクトな作品で、ディエーゲーシス(叙述、脚色ない事実説明)に強く寄った文章で、ことさらミメーシス(劇的な模倣、たとえば登場人物の顔や会話や比喩を逐一細かに描写したりすること)は無いのですが、それが逆にお屋敷や時計のおどろおどろしさ状況の不気味さに一役も二役も買っている作品です。

 ホラー映画でも後付で大きなSEや音楽をつけた作品と、そうでなく淡々とした作品との二派ありますが、後者が好きなかたにオススメな小説。

 余白からあれこれ想像が膨らむ作品で、(『ウィキペディア』からの孫引きですが)寓意を見出す人もいれば(作者ポオの作風から)それを否定する人もおり、あるいはポオの田舎で親族がコレラにかかった体験が影響しているのでは? と云う声もあるそうな。

 

 もしかしたら関連するかもしれない文献

 ▲本SFこてん古典』など横田順彌

 1~3巻までが早川書房集英社から、『新・日本SFこてん古典』が徳間から出ているがすべて絶版。

 『こてん古典』は明治大正昭和さまざまな日本SFを紹介した本です。ぼくが読めているなかでは『明治「空想小説」コレクション』『百年前の二十世紀』もSFや未来予想本(当時の人々が予想した未来像を記した文献)についての研究でした。

(横田氏の近年の筆業としては『SFマガジン』での連載『近代日本奇想小説史』があり、その一部『明治篇』などは書籍としてまとめられてもいますが、ぼくは未読です……)

 伴名氏は巻末の「謝辞」で、横田氏とかれによるアンソロジー『ジュニアSF選』を挙げ、初めて日本SFの短編に触れたりパラレルワールドを知ったりしたきっかけになったと述べています。

 各作のあらすじが(後述『日本SF精神史』よりも)多い文量で詳細に紹介される傾向にあり、それでいてユーモラスなエッセイとして取っつきやすくもあります。『こてん古典』では、本や作家の紹介だけでなく、横田氏と読者とのやり取りや古書所有者との知縁と入手・解読までのトレジャーハントの苦楽の過程も掲載。政界との繋がりもでき、本好きの美女と出会え、卒業以来それきりだった恩師と再会しさえする。冒険小説のような楽しさ。

 ○本SF精神史 幕末・明治から戦後まで長山靖生

 今著については河出書房新社(河出ブックス)から電子書籍が、2018年に『日本SF精神史【完全版】』河出書房新社から紙の書籍で流通中。

 明治大正昭和さまざまな日本SFを紹介した本。

 前掲横田氏の功績をふまえつつ時系列順に記してます。横田氏の紹介や評とかぶる部分はありますが、引用文が微妙に違っていたりして(送り仮名がちがうとか)、べつに孫引きしたわけではなく長山氏自身も一次ソースに当たっているのがわかる本です。完全オリジナルな紹介ももちろんあって(いや全部研究を追えてないからうかつな発言ですが)伊藤博文氏のSF的思想とかは横田氏の本では読んだ覚えがありません。

 各作の細部の面白さも分かりつつも長すぎず端的で分かりやすい史的な概観を提示してくれるという点で、この分野に初めて踏み込んだぼくとしてはたいへん参考になりました。

 里眼事件―科学とオカルトの明治日本』長山靖生

 前述長山氏による明治の千里眼(透視者・念写者など)について記された本です。

 千里眼の持ち主御船千鶴子、長尾郁子氏)と同等かそれ以上に、その研究者・福来友吉氏や他科学者・記者のふるまいにフォーカスが合わせられ、長山氏はそのほか挿話として同時代の小説『科学小説ラヂューム』や外国のうろんな研究(N線のR・ブロンロ)なども取り上げることで、見えないものを見ようとした人々により、あるかもわからないことがいつの間にか"ある"ということになるまでの推移――なにげない余話が説話となり小説となり学説となり定説となるまでの――共同幻想が生まれ育まれ固まる過程をえがきだします。

 これから読む人の注意としては、『科学小説ラヂューム』の受賞取り下げ経緯が(長山氏が後に著した)『日本SF精神史』で改められています。

 小説との関わり;ゼロ年代の臨界点』劇中に登場する「何らかの超能力開発が行われていたという説が流布」した私学時代の入学生で10年代を代表する作家武良(けよ)、氏原千鶴子や噂を流布した20年代福来派SF作家といった面々は、おそらくそれぞれ高橋貞子(かはしさ)、御船千鶴子福来友吉から由来するのではないか? と思いますが、そのうちの後ろ2名について記された本ですね。

 

 

  ▼『美亜羽へ贈る拳銃』

 ☆亜へ贈る真珠』梶尾真治

 タイトルの元ネタ。早川書房から『美亜へ贈る真珠[新版]』が紙の本で流通中

 高校生時代に読んで「すごい……」となった作品。いま読んでもすごい。機内の時間をゆるやかにする航時機に乗り込んだ男、かれを日がな眺める女、ブームも去り閑古鳥の鳴く記念館に足しげく通う珍人物として注目し次第に彼女自身が気になってくる警備員の語り手……という一方通行の矢印のむかうさきが気になる作品。かつて梶尾氏の傑作選<ロマンチック篇>に収められたし感想本文でもそんな感じで取り上げましたが、梶尾氏のまなざしはクレバーで、今作でえがかれる時間の無常は――映画『黄泉がえり』から入った・泣けるSFを読みたかったいたいけなティーン時代のぼくをかるく打ち砕く――きもちよくエモがれない・居たたまれない荒涼を見せもします。

 『「アカデミー賞作品賞を獲るような"考えさせられました"って感想が連なるような人間ドラマで扱われたりする、アメリカン・ドリームの崩壊」ってもはや常識で、今日の創作ではコメディドラマの1エピソードくらいに単なる日常で、重要なのはそれを材料にしてどう演出するかじゃん?』というサム・メンデス監督のクレバーな映画群、とくに『レボリューショナリー・ロード』が好きなかたにぜひぜひオススメしたい作品でした。

 ☆藤計劃氏の諸々の作品

 早川書房から出ている伊藤作品はいまKindle版が半額セール中(2020年4月13日まで)

 美亜羽の名前の由来、劇中『聖書』の収録作、物語のテーマや一部プロットなど、色々なところがネタにされています。さすがにここに書くには文字数が足りません。実作買って読むのがいちばんだと思いますね面白いから。Kindle半額セールもたまにあるのでその時にでも。

 ☆『日間の恐怖』R・A・ラファティ

 結婚式での美亜羽のセリフの元ネタ。今作を収録した『九百人のお祖母さん』は絶版。

 子供の児戯からトントン拍子に事態がトンでもない混沌になっていく、物語の遠心力がすさまじい大部と、「どうしようもないでしょコレ……」と読んでいて思う終末的風景をどうにかしてしまう小粋なオチがあざやかな作品。かっこいい。

 消火栓からの噴水であそぶ子供といった、R・スコット監督『アメリカン・ギャングスター』とか60年代やらのストリートを舞台にした映画でよく見る「あるある風景」が劇中独自ガジェットによって生み出されたので「あるある」と思っていたら、そこからどんどん「ありえない終末的風景」になっていく転がり方がすさまじい。

 ここであれこれ読んだラファティ作品のなかだと『空』と並んで、”ダメだと分かっていてもどうにもできない、容赦ない急制動・大きなモーメント”に対してオブセッションがあるひとはぜひオススメの一作です。

 ☆心』グレッグ・イーガン

 結婚式での美亜羽が挙げた作品。早川書房から『ひとりっ子』が紙と電子書籍で流通中

 

 実継がどうしてだよ、と自然に動いた叫びで出た作品群3作(劇中『聖書』の収録作)『視神経』さんの記事で言われるように、ぼくとしても実継らの会話ほど単純素朴な内容かといえば「?」と思います。劇中「聖書」に収録された内容ははたしてぼくらが読めるそれと一緒かどうか、疑問がのこりますね。

 ☆の美醜について――ドキュメンタリー――』テッド・チャン

 早川書房から『あなたの人生の物語』が紙と電子書籍で流通中

 美醜失認処置というテクノロジーが生まれた世界における聞き書き集形式の小説で、オーラル・ヒストリーの大家スタッズ・ターケル氏の仕事(本によっては、発言に入るまえインタビュー相手の略歴などが長々前書かれることもある。)をさらに純化させ、声だけを連ねるかたちとなっています。

 美醜失認ガジェット導入をきめたコミュニティや家庭の話もあれば、鳥がある条件下においてじぶんの産んだ卵より偽物の卵を温めてしまう超正常刺激などの生物学的不思議が説かれたり、あるいは語源学がはじまって美に関する単語に共通する起源が説かれたり……と、話題は多岐にわたります。

 ひさびさ読んで驚いたんですが、今作にはポリティカル・コレクトネスの暴走ぶりの最新の一例だ」(邦訳文ママ)*172として一部知識人が反発するシーンがあるんですけど、これ初出がゲーマーゲート論争さえ干支ひとまわり前である2002年発表なんですよね……。

 美醜失認処置の全面導入するか否かの投票で揺れる学生を中心とした美醜にかんする世論の多角的かつもっともらしいスケッチがなされるなかで、外部ではちょっと荒唐無稽にも思える大きな動きがチラつくのですが、これがまた……。

 ☆The Idifference Engine』伊藤計劃

 今作を収録した短編集『The Indifference Engine』はハヤカワ文庫JAから紙と電子書籍が流通中です。

 ☆あわせの理由』グレッグ・イーガン

 今作を収録した短編集『しあわせの理由』はハヤカワ文庫SFから紙と電子書籍が流通中。

 

 初稿(?)に名前が出てくるも同人版2版/『拡張幻想』以降では削られた4作

 なんで削られたのか考えるのも面白そう。ちなみにイーガン作品で尊ばれる思考というのがどういうものかは、エッセイ『Born Again,briefly』実作とを比較すると何となく見えてきそうです。(ざっくり言うと、安易な結論に飛びつかないこと的な)

 動原理』グレッグ・イーガン

 早川書房から『ひとりっ子』が紙と電子書籍で流通中

 これはエイミーのための行為ではない。わたしがいまなお妻を愛し、いまも悼んでいるからといっても、この行為が彼女のためだということにはならない。『幻覚体験』『瞑想と癒し』『動機づけ成功』さまざまな表示と「神になれる! 宇宙になれる!」「このインプラントで人生が変わった!」さまざまな宣伝文句をかきわけ、この分野の老舗『性愛』の棚も見、A(アーミッシュからZ(禅)まで様々ある『宗教』の棚でカトリックだった子供時代をかえりみ1,2分悩んだのち、わたしはどれからも後にした。目指すはカウンター。

「特注品を受け取りにきたのだが」

 銀行強盗犯に殺された妻の敵討ちをするため、脳をいじくるインプラント≪行動原理≫に頼る男のお話です。

 理性的な現代社会に生きる理性的な普通の現代人の当然として、(たとえ妻を殺した悪人相手であろうと)殺人といった暴力には移れないから、そのような非道を行えるよう脳をいじくるインプラントを投入するのですが、そこに至るまでの過程が長い長い。

 まずインプラント店で、特注品を頼んでいるというのに周囲の市販品を見て回らざるを得ないし、べつに振り返る必要もないし誰も説明なんて求めてないのに、勝手に自分の心の中でインプラントの歴史なども振り返ってしまう。宗教の棚にも目を向けて自分の過去をかえりみてしまう。

 あれこれ描かれる店内描写・世界設定説明が、『行動原理』という作品においては、"殺人をする、という非道を行なう、よう意思決定をする、ような脳の行動原理を持ち得る、ようをいじくるナノマシンを作動する、前段階として体内に注入する、インプラントを買う"まえの男(まえまえ尽くし!)によってなされることで、とにかく非道なんてはたらきたくない理性的な現代人の逡巡(と言うとカッコイイけど。うだうだとも言う。)として受け取れます。

 ちょっと小粋なこともチョコチョコ出てくるようなある種のハードボイルド(?)な文体で進みながらも、行動している本人についてはけっこうにインドアな(この段になってようやくスポーツクラブで銃の練習を黙々したりするような)小市民らしい小市民的な顔が思い浮かんでやまない、そのような文体で自分を取り繕わなくてはならない語り手による、変な読み味の犯罪劇だと思いました。

 初出は1990年。ペラペラっと広告が多量にのぼる感じ、殺人(に代表される非道と思われる行為)への自意識など、エリス著アメリカン・サイコが1991年出版……と考えると、同時代性という感じもします。

 断者』グレッグ・イーガン

 早川書房から『ひとりっ子』が紙と電子書籍で流通中

 allo, toi, toi』長谷敏司

 本作を収録した短編集『My Humanity』ハヤカワ文庫JAより紙と電子書籍から流通中

「allo(もしもし), allo(もしもし)」

 人間のもっとも輝く季節――少女について想像していたチャップマンの耳元に、かわいらしい声が聞こえた。男性を知らない、まだ恋を知らない声だ。好きになってもらうよろこびと、褒めてもらうよろこびがまだ分離してない、本物の少女の声だった。

 こんなところに、女の子がいるはずもない。顔を上げても、房内にいる人間は自分だけだ。

 ここはグリーンヒル刑務所の独房。チャップマンは8歳の少女を強姦し四肢をバラバラに切断して殺した犯罪者だった。小児性愛者は囚人の中でも最下層民だ。独房の外ではチャップマンは誰とも目が合わないよう俯いて過ごし、もし話しかけられても口はぱくぱくとするだけで返事ができない。

 周囲の囚人に殴られなくて済む独房のために手を挙げたが、これこそがその本当の恩恵なのだろうか。チャップマンが耳の裏の端子をこねくりまわした。端子の奥には脳内機器があり、そこには性犯罪者矯正用プログラムがインストールされている。チャップマンは新進プログラムの試験者だった。

 制御言語ITPで動く脳内機器の、性犯罪者矯正用プログラムのテスターとなった小児性犯罪者チャップマンと、脳内に現れた女の子とのやり取りをえがいた作品です。

 そうしてチャップマンの意識の混線した価値分別が解きほぐされていくさまはスリリングで、そこについての面白味は京大SF・幻想研ブログの読書会(レジュメ)記事が理解の百助になります。

 地の文が多めで(ITP越しや独房で黙考するなど、冷静な気分に置かれたフィルタで濾された調子の)叙事的な文章がつらなって一見地味ですし、「"考えさせられました"って感想が連なる類いのムツカシイお話なのか?」と退くひとがでそうですが、読んでみると一挙一動に対比や変奏があり、ときに各場面に強烈なコントラストを生みだしながら作劇が展開されていきます。

(たとえばチャップマンがテスターになった御褒美としてITPに仕込んでもらった脳内TV受信機能をつうじて「お菓子の宣伝で、ピンク色の長い舌を出した少女が、ポルノグラビアのように大きな飴に舌をはわせていた*173さまに「性的過ぎる」と説教おじさんした次の場面では。「ずいぶん楽しそうじゃねえか」と現実の刑務所で同室だった囚人がマウンティングのため暴力をふるう直前に、自身の「唇を舌でなめた*174さまが描かれたりします)

 パーセントのテンムー』山本弘

 今作を収録した短編集『シュレディンガーのチョコパフェ』が早川書房から紙で、アドレナライズから電子書籍が流通中。〔新規購入者は値段・特典ともに後者がオススメです*175

「ねえ、聞いてよセンセイ、信じられる? 俺、テンムーなんだってさ!」

 私は科学雑誌向けの連載エッセイを書いていたところだった。キーボードを叩いていた指を止め、仕事部屋の入り口の方を振り返る。瞬は大学用のカバンとスーパーの袋を抱え、ドアにもたれぷんぷんむくれていた。同棲しだして八カ月、一三歳も下のそこそこイケメンの青年だ。

「テンムー? 駿が?」何かの冗談かと思った。数週間前、T大学医学部の知り合いから聞いた、セレブロの被験者のバイトを瞬に紹介してやったが、その話題はそれっきりだとばっかり思っていた。

「そうなんだよ! なあ、俺、ゾンビに見える?」……というお話です。

 上のあらすじでは削りましたが「ねえ、~」から「テンムー?~」の会話の間に、原稿用紙7割8分(314字)くらいが挟まる書き出しが巧い……。年下のイケメン云々というお話は、ともすれば鼻白む描写ですが、テンムーの詳細が明らかになるにつれ「あれって実は、語り手に取ってショッキングなことを伝えられたがために、つい"良かった探し"へ走ってしまったという、防衛機制的な文章だったのか?」と別の様相も見えてきて、さらに読み進め改めて読み返すとまたまた違った印象をいだいたりもする、一粒で何度もおいしいシーンです。

 結構ネタバレになっちゃいますが、ぼくみたいに山本氏に疎いひとが雑に抱いている{し、識者にしたって『第29回日本SF大賞選評』の飛浩隆氏による『MM9』評として「本書には、作者おとくいのオタク文化讃美や反知性的態度への批判が顔を出さない。それすら必要ないほど、本書はゆるぎない自明さの中にある」*176とあるように……実はそこまで見解を違えていないのでは? とさえ思える}トンデモ批判者というパブリックイメージ、これを山本氏は逆手にとった作劇をしていて「ナメてかかってすみませんでした!」となりました。

 短編集収録の他作『奥歯のスイッチを入れろ』は加速装置を有したサイボーグ兵士のお話で、『X-MEN』のクイック・シルバーの高速アクションが好き・『00:00:00.01pm』が面白かったというかたはこちらもどうぞという感じです。「高速で動けることが可能だとして、単なる映像早回しで済ませられるか?(反語)」という丹念な想像力が興味ぶかい。高速アクションシーンが面白いのは当然として、高速アクションをしないケの日常の感覚の変容――高速で動けること・そうした身体を有することのおかしみを大きく取り上げていてゾクゾクしました。

 

 ☆『ロコダイルとアリゲーターよ、クレム』R・A・ラファティ

 劇中表現が終盤で採用されている。今作を収録した短編集『つぎの岩につづく』は早川書房から出て絶版。

 

 

  ▼ホーリーアイアンメイデン』

 ☆『天女縁起』春眠蛙著

 今作を収録した京都大学SF・幻想研による同人誌『艦隊これくしょんトリビュート』は第二回文学フリマ大阪にて発表後、いま現在は流通ナシ。ちなみに同誌には伴名氏が『艦上の夜』を寄稿

 そして、春眠さんの書いた「戦天女縁起」を読まなければ、私は「ホーリーアイアンメイデン」以降の幾つかの作品を書くことはできませんでした。

   『なめ、敵』kindle版100%(位置No.4736)

  未入手のため詳細不明です。気になる・そして大学受験をひかえたかたは勉強して京大SF・幻想研に入って読ませてもらいましょう。(京大SF研にあるかは不明。そこでなくてもつよい同窓生がいるSF研ならあるいは?)

 なお『艦隊これくしょんトリビュート』収録作は、『年刊 日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』巻末で紹介された「2014年日本SF主要短編主要作リスト」に9作も名を連ねるすごいやつらしいです。(『戦天女縁起』もその一作)

 

 

  ▼『シンギュラリティ・ソヴィエト』

 ☆働者階級の手にあるインターネット』アンゲラ&カールハインツ・シュタインミュラー

 今作を収録した『時間はだれも待ってくれない21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集』東京創元社より紙の書籍が出、現在は絶版。初出は、rlmdi.若林雄一氏編集出版/西塔玲二氏翻訳による同人誌版で、そちらには詳注がつけられているそうです。

 拙作でいえば、「シンギュラリティ・ソヴィエト」という短編は、さまざまな作品の影響を受けましたが、中でも発想の原点になったのは、アンゲラ&カールハインツ・シュタインミラー「労働者階級の手にあるインターネット」という短編でした。

   note掲載、Hayakawa Books & Magazines(β)『【往復書簡】伴名練&陸秋槎。SFとミステリ、文芸ジャンルの継承と未来について』伴名練氏の書簡より

『親愛なるルイーザ。すまないが、今日の約束はなしにしてほしい。ウルグアイの事件のせいで、チーフが労組会議の招集をかけたんだ。』

 オーストリアが消え、送ったメールは『DNS項目が見つかりません』と無常に宣告される一方で、どこの誰とも知れない間違いメールは届くネットの不調日。誤送されたメールにヴァルター・アダムチクは目を留めた。文面はいたって普通の私用連絡だが、そのアドレスを見ると末尾はDDR――いまはもうない東ドイツドメインだった。その前はAdw(科学アカデミー)にZKI(サイバネティックス情報プロセス研究所)これも統合と共に解体された遺物だ。アドレスを後ろから順に見ていったヴァルターは驚く。walter.adamczik――自分のフルネームが記載されているではないか。十中八九イタズラだ、でもメールから伝わる言葉の端々は、あの時空間を生きていなければ出せない冷戦下東側独特のにおいがある……というお話です。

 舞台こそパソコンの前かティータイムかで静的なのですが、しかし代わり映えしない舞台と対照的に、さまざまな角度からチラつくメールの向こうの世界が気になって、徐々にのめりこんでいく語り手とおなじく読むのを止められない作品です。メールの文面からでさえにじむ東独のにおいと、別の発展をとげているらしい東独の姿、メールの送り主はだれなのか? むこうの自分のもとにいる女性とはだれなのか? 

 冷戦下東側はスパイ物の華で、密告監視社会の大変さもスパイ物を通していくらかは見てきたものの、スパイの主人公らがいくら隠もうと「まあそれがお仕事だから当然だよね」とどこかで思っていた自分にとって、「ふつうのひとびとでさえ、そしてぼくが何気なく日々見ているネットサーフィンでさえここまでせにゃ」という点で、今作ほど東側国の大変さおそろしさが身近に実感できるかたちで示された作品はないかもしれません。

 ▲グ‐25ソ連脱出 ベレンコは、なぜ祖国を見捨てたか』ジョン・バロン著

 パシフィカ社(倒産)から出た紙の書籍は絶版。古書がクソ高い。

 伴名氏の言及はナシ。主人公ヴィーカ・ベレンコのモデルだろうヴィクトル・ベレンコの手記を元にジョン・バロン氏が描いたノンフィクションです。1976年9月6日の函館空港強行着陸~アメリカ亡命事件だけでなく、その前後のベレンコの半生もえがいてあります。

 親の都合もありいくつかの土地を点在したヴィクトルによって、ソ連の農村・炭鉱村から、都市の労働者、基地の隊員たちの暮らしが点描された文化風俗本として楽しむもよし、体制への疑問をいだく冷戦下ソ連版『一休さん』トンチ集として唸るのもよし、アメリカ人を共著者にむかえたからこそ描けただろうヴィクトル強行着陸時におけるアメリ国務省監視センターを舞台にしたリアルタイム"管制室・会議室"モノとして、あるいは日米ソの3国の外交戦・情報戦として手に汗握るもよし……と、いろいろな楽しみかたができる本です。

 ▲『A Dance with Death: Soviet Airwomen in World War II 』Anne Noggle著

 電子書籍の流通アリ。(書籍の一部文章が佐々木陽子著『総力戦と女性兵士』にも翻訳引用されており、こちらでもYevgeniya氏の言がいくらか拝めます。こちらについても電子書籍の流通アリ

 伴名氏の言及はナシ。主役のひとりイェフゲニヤ・グルリェヴァのモデルだろうペトリヤコフPe-2爆撃機Yevgeniya Gurulyeva-Smirnova氏のインタビューなどを収めたAnne Noggle氏による聞き書き本です。

 Yevgeniyaとイェフゲニヤとでは乗ってる飛行機も違いますし、『シンソヴィ』で語られる大戦期の思い出もYevgeniyaの証言にないことなのですが、イェフゲニヤ同様「一人息子が」おり、『シンソヴィ』がそのように記述されていることから、ぼくは「伴名氏が『ADwD』まで読んだのではないか?」とにらんでいます。{『ADwD』のYevgeniyaの言は個人ブログで大体が紹介されていて(祖父grand fatherが父fatherになってるなど微妙な読みこぼしがあるけれどとても参考になりました)、戦後の家族構成まで記されていますが、しかし前述のリンク先記事では子息の性別までは触れていません

 ○ウエル教授の首』アレクサンドル・ベリャーエフ著

 未知谷より田中隆訳が紙の書籍で流通中。東京創元社から出た原卓也訳は2016年「名著復刊」として新版が刷られるも絶版。おそらく早川書房(世界SF全集8)の袋一平訳を底本とするだろう電子書籍グーテンベルク21から出てますが……詳しいかたいらしたらご教示ください。

 秘密厳守を念押しされたマリイが新たな仕事場に入ると、なんと死んだはずの高名な外科医ドウエルの首が自分を見ていた。しかも物悲しそうなその瞳はまばたきをしているではないか。「生前のかれを有名にした、死後間もないからだの諸器官を切り取り復活させる技術の応用だ」とドウエルの元助手でマリイの現上司ケルンは語る。マリイはドウエルの世話をしながら、彼の生い立ちや人となり、ケルンとの関係を知っていき……というお話です。

 ぼくが読んでいてハッとさせられたのは、あれこれ因縁が顕在化する前どころか渦巻きさえしてない時分、ドウエルが口がきけると判明しマリイと長い対話をするようになる前の序盤も序盤、マリイ・ローランによる日々の"首"世話描写です。

 首は同じ表情をした。

 いろいろ質問をしながら、ローランはてきぱきと朝の仕事をやった。器具や、体温や脈搏を調べた。それを日誌に記入した。さらに、注意に注意を重ねながら、やわらかなスポンジを使ってアルコール溶液で顔を洗ってやり、脱脂綿で耳朶を拭いてやった。まつげについた脱脂綿のかけらを取り去った。目や耳や口を洗ってやった――口や耳にそのための特殊な管を挿入するのだ。さらに彼女は髪をきちんととかしつけてやった。

   東京創元社刊(創元SF文庫)、A・ベリャーエフ著『ドウエル教授の首』(2016年復刊版)p.18、「2 禁じられた開閉栓の秘密」

 床屋さんで顔や首に落ちた髪の毛がかゆいけど覆いのせいで掻けずもじもじした経験は誰しも有るでしょう(し、なんなら「コミケ前にちゃんと風呂入ったか、着るもの洗濯したか」をvtuberのギャルに念押し心配されるようなオタクくんにとっては整髪よりも気になるものでしょう)。だけど「じゃあアウトプットできるか?」というとあやしそうです。

 この文章は、劇中独自要素である"首だけで生きる人"の実在感をありありと覚える、脊椎カリエスにより数年間首から下を動かせなかったと云う作者の経験が活きた首生活描写であり。それと同時に、(髪をとかすなど目に見えて分かる部分だけでなく)かけらにきちんと気づき取り除く世話するマリイの温かさ、さらにはこの場にいない(かけらの落ちた時分によっては見ててもおかしくない筈だがしかし除けられてないことから醸される)相棒ケルンの冷ややかさ(ドウエルの知識はともかくドウエル自身についてはどうでもよさそうな具合)が垣間見える……という、ベリャーエフ氏の小説家としての筆力もひしひしと感じられるすごい場面だと思いました。

 劇中での登場;おそらく劇中で謹製生首が落ちるドウエル社の元ネタ。「あとがきにかえて」で伴名少年が楽しんだSF叢書のうち3冊はベリャーエフの本で、件の書名も確認できます。

 『シンソヴィ』劇中にも登場したB・B・カジンスキー、かれの書『生物学的無線通信』の本文や解説によれば、ベリャーエフ著『宇宙の元首』にはカジンスキーをモデルにしたキャラや理論が登場し、物語の一材料となっているのだそうです。(注釈で当該文章を引用しました)

   ▽『シンソヴィ』で引き合いに出されたりなんだりした作品そのほか

 ▲闘妖精・雪風はそれなりに見かけました。AIを搭載した戦闘機モノであり、人々を動かしさえする巨大知性モノでもあります。

 伴名氏は『雪風』著者の神林長平氏についてSFマガジン2019年10月号』に論考を寄せていたりもして、これが挙がるのは自然ですね。(論考も、神林氏が選考委員をつとめたSF賞の選評と入選作から氏の創作観を炙り出す労作で、とても興味深く面白かったです)

 40年以上もまえの作品で若い人にはちょっと手が伸ばしにくいと思いますけど、読んでもらえさえすれば「人間本位の安易に陥らず、思索を突き詰めた作品は、その程度の年月など軽々先行するのだ」「『ゼロ年代の臨界点』はこういうことだったのか、優れた創作は、未だ来ぬ世界を先取りするタイムマシンになれるのだ」ということが分かってもらえるはずです……。

 第一作『戦闘妖精・雪風〈改〉』などが早川書房から紙や 電子書籍で流通中です。〈改〉は「加筆修正した改訂版だよ」という意味で、べつに2作目じゃないからご安心を。

 ■ァイアフォックス』は、『シンソヴィ』とおなじくベレンコ中尉亡命事件に着想をえたクレイグ・トーマス氏の筆による小説で、C・イーストウッド作監督主演で映画化もされました。白状すると映画しか観てません(ごめんなさい!)。こちらもパイロットの思考を読んで動くハイテクMiG戦闘機が登場し、室内でアフターバーナーを燃やすかっこよい発進シーンがあり、こわい入管シーンがあります。ソ連ロケ映画ではありませんが、時代の空気を(ビジュアル含め)つかむという点で案外オススメかも。

 ファイアフォックス』シリーズがハヤカワ文庫NVから紙の書籍で流通中だったり絶版だったり。

 ■われみ深くデジタルなる』挙げてる人も。科学が高度に進歩したイスラーム共和国連合による記念演説採録小説ですね。当然のようにヒジュラで暦をかぞえる語り手が、ハイテクAI(=劇中用語で信仰機械意識を得たサイバネティック信仰者)が他国の聖域へ次元転移(=劇中用語で時空の織物を貫通)を達成したことについて話します。『シンソヴィ』冒頭、ハイテクAIが突如月面に現れ他国の意識をくじいた場面と並べて読んで楽しみました。

 作者はB・スターリング氏、『なめらかな~』巻末の献辞で別著2冊があげられた作家です。

 

 

  ▼『ひかりより速く、ゆるやかに』言及作

 ☆国よりも大きくゆるやかに』アーシェラ・K・ル・グィン

 タイトル元ネタ。今作を収録した『風の十二方位』早川書房にて電子書籍ふくめ流通アリ

 宇宙連合の創成期に、地球のひとびとは真の異境を探しもとめ長旅へでた。極地調査隊のそうした志願者たちはおしなべて一つの特殊性を共有していた。彼らは狂人であった。つまるところ正気の人間が、十世紀さきでなければ受けとってもらえない情報を集めにでかけるだろうか?

 緑色の惑星4470へと向かう探検する宇宙船<グム>の船員たちは概ね協力していたが、ある男だけはその和になかった。

「彼にはがまんがならない。あの男は狂人だ。政府が企画した不適応性の実験として、モルモットがわりに乗せたというなら話は別だが」重科学者ポーロックが不満をあらわにする。

「ためしてみたらだなんて、そんないやしいことをいうなんてひどい」純潔とか童貞という言葉のない庭園惑星ベルディン人の、誰とでも寝る女が寝るのをこばんだ男。

「彼がわれわれの敵意に悩まされているとしたら、たえまない攻撃や侮辱でその敵意を増幅させているのではいでしょうか? 自閉症はどちらかといえば……」たしなめる統率官が口をつぐんだ。

「賛成」狂人だらけの船員からさえ狂人扱いされる男がメイン・キャビンに入ってきたのだ。「自閉症的内向性は、ぼくをとりまいているあんたらの安っぽい、手あかのついた感情よりはましだろう。あんた、いまどんな憎悪をかきたててるところかね、ポーロック? ぼくを見るにたえないか? ゆうべやってたような自体愛の訓練でもしたらどうだ? どこのどいつが、ぼくのテープをいじったんだ? ぼくのものには手を触れるな、だれでも。がまんならないんだ」……航行中から不穏な探検隊が辿りついた惑星とは? そこで調査隊は? というお話です。

 エンパシーという特殊能力をもったオスデンを中心として台風のようにうずまく、色々な人種の清濁混じったさまざまな思惑がおそろしくも面白い作品。感想本文で引いたようにル・グィン氏自身の認識としてはアクション少な目な非冒険・アクション作品とのことですが、いやいや冒険小説としても一級品の面白さがあります。

 心理を微細に広範に展開した結果、未知の惑星を探検するまえの宇宙船内の時点で不穏で不透明な緊張感があり、未知の惑星に辿りつけば流血沙汰があり事態に一層かすみがかかり、謎が謎を呼び、やがてそうした心的な爆発を可能とした状況がどういったものか人体の/宇宙の神秘の仔細が解き明かされ、明らかとなった異質さ/崇高さに圧倒されてしまいました。

 ☆ーマという名の島宇宙バリー・N・マルツバーグ

 エピグラフの作品。今作を収録した『スターシップ (新潮文庫―宇宙SFコレクション)』は絶版。

 1「これは小説ではなく、一連のメモである」そんな風に書き出した今作は、2光そのものだけでなく時空間を包み込む「黒い島宇宙」という故ジョン・キャンベルのエッセイを紹介し、3「ではここで、一隻の超高速船がこのブラック・ギャラクシーに飛びこんで、そこから出られなくなった、と考えてほしい」と物語の初期条件を伝え、4「一編の完成した小説はおろか、こうした創作ノートのたぐいを書くことにさえ抵抗を感じた。わたしの私生活そのものがブラック・ホールだと告白したい気持ちにさえなった」と自身の大変な私生活を開陳し「なぜなら、わたしの生活は、一つの人生に関する一連のメモにすぎず」と1のようなことを言い出して、5で3の初期条件を肉付けしたような小説らしい小説が始まるが記述には「物語であること」を意識した書き手の意図が明示的に挿し込まれ、7「この小説には、なんらかのセックスの要素をとりいれる必要がある」「現代の文学的SFが、人間の欲求と活動の全域にわたって真実性を重んじることを伝統としている以上、この問題を避けて通るのは、へたくそなアマチュアのやることである」と、宇宙を「フロイト的なオーバートーン」で彩ると、「これではうまくゆくはずがない」「宇宙空間は無菌的なのである。それがこの四十年間のサイエンス・フィクションの秘密だ」とジャンルの結構を振り返り……と物も物語も物語る人もすべて包み込まれたブラックホールを描き出した凄まじい短編です。

 

 劇中主人公・速希の伯父がもっていたSFの収録作(計9作)

 石の街』広瀬正

 今作を収録した『広瀬正・小説全集・6 タイムマシンのつくり方』集英社から電子書籍も含め流通中。

 物理の教師による切羽つまった手記というかたちで、彼の訪れた町のおそろしさがつづられていく作品です。

 語り手の試行錯誤、思考の変遷によって街の不思議が解明されていくことも今作の面白味のひとつなので、この並びで挙げるのにはためらうところがあります。ジャンルエポックの哀しさ。

 街の輪郭がはっきりするにつれ語り手の展望がくらくなっていくなかで、物理教師らしい(そして作者である広瀬氏の、凝り性でクラシックカーモデル職人らしい)観点から低速化現象ならではの楽しみを見出したひとときが光ります。{そして語り手の想像に対して実証(掘り下げた考察)はどう出るか? こういうところがSFを読む一つの楽しみだなぁなんて思います}

 余談も余談。アニメや漫画好きなぼくが、小説をそれなりに読むようになったきっかけはいろいろありますけど、『タイムマシンのつくり方』収録の『ザ・タイムマシン』を読み、「なるほど文章芸術とはこのことか!」と感嘆したこともそのひとつです。『なめ、敵』のことば運びを楽しんだかたは、こちらを読んでみるのも面白いと思いますよ!

 ○亜へ贈る真珠』梶尾真治

 感想本文で一部シーンを引用したり『美亜羽へ贈る拳銃』の余談で紹介を書きました。 エモいSF代表作にして、エモがれないほど荒涼とした人心の時間の無常も見せるこわい作品。

 ○走バス』中井紀夫

 今作収録の『山手線のあやとり娘』はアドレナライズから電子書籍が流通中

 低速化現象にさらされたバスに付き添う、同乗者家族・婚約者を主役にした短編。物語はバスの内外にいる人が低速化まえに積み重ねた想い出話をえがいたりなどして関係性が断裂したこと・その情念をことさらに煽るのではなく、生活と化した付き添いの日々について五感を刺激する情報とともに描くことで、低速化現象被害者へのたえることのない思慕を人々の行ないから浮き彫りにします。そんな穏やかな日常が、バスを測量したりなんだりする見知らぬ人々の登場により……。

 そんな具合に、記述のコントラストも大きく、読み進めていくと明らかになる新展開などもきちんとあって、物語としてしっかり面白い作品なんですが。そのうえ奇想を絵空事としない地道な想像力・ひとびとの営みが素晴らしい、ある場のある一時期を切り取る類の作品でもあります。ここには人生がある。

 ○郷へ歩いた男』ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア

 今作収録の『故郷から10000光年』が早川書房から紙の本が丸善ジュンク堂書店系列でのみ再販中Amazonは送料ボッタクリ転売屋の巣窟になっているのでhontoさんを頼りましょう

 ――離脱! 恐怖! 彼は突きとばされ、取り残された――ありえない境に落ち込み、わけもわからぬままに捨てられた――十億分の一秒に、彼は自分のただ一つのきずなが切れ、飛び去ってゆくのを知った――長く長くのびた生命線が、遠のき、またたき、光を失い、永遠に消えようとしていくなか――彼は何をしたのか?

 歩いたのだ、彼は。

 故郷をめざして。

 アイダホ州ボネヴィル粒子加速研究機関のおおどころの参画団体であった民間企業におこった事故とその余波をえがいた作品で、上述したような情感のこもりにこもった書き出しから一転、三人称の語りは事故現場を鳥瞰するようにして、春ごろ短時間だけ現れる低速化者が<昔の竜>と呼ばれ、近隣にくらす先住民の若者にとって度胸試しの小道具になったり、出現場のクレーターの一部が町の公園になったり、低速化者をもした土産物が宿や酒場に並ぶような春の恒例祭事になったりする……あたかもブリューゲルの民衆画のような牧歌的な空気をまとった叙事詩をつづります。そんな大部と、書き出しに代表されるような低速化者に主眼をおいた悲壮なシーンとの強烈なコントラストが印象的な作品です。

 ○人の憩い』デイヴィッド・I・マッスン著

  今作を収録した『伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ』『時間SF傑作選 ここがウィネトカなら、きみはジュディ』どちらもともに早川書房から紙の書籍が流通中です。

 暗赤色の前方視覚バリアや藍色の後方視覚バリアのなかでありとあらゆる銃弾や爆発、神経麻痺剤や視床下部破壊剤のしぶきが弾け、HやB、XN2など一文字言う時間が惜しいとでもいうかのように極端なほど簡略化された個体認識の兵士らが防護服と歩行機で跳ねる秒単位で目まぐるしく戦況のかわる集速(コンセレレーション)の進んだ視聴覚的にドギツくジャーゴンだらけで夢のような黙示録的な戦場と、そこから<解任>されて訪れた銃後の都市・都市生活とのギャップがたのしい作品です。

 ○を見る人』小林泰三

 今作を収録した小林氏の短編集『海を見る人』早川書房から電子書籍ふくめ流通中。また複数の作家のアンソロジー『日本SF短篇50 4──日本SF作家クラブ創立50周年記念アンソロジー』も紙の本が流通中。

 真っ黒な海に浮かんで朝の超光を受けて輝く真っ白なきらきら。それを見つめる老人から、山の村に暮らす男の子が夏祭りの一時に出会った浜の村の女の子との恋の話を聞くエキゾチックな作品です。

 エキゾチックな語りに反してゴリッゴリのハードSFで、時間の流れの違いは光学的なゆがみとして世界観を文字どおり捻じ曲げ(これについては前野昌弘氏の『海を見る人』勝手に科学解説が勉強になります)、高低差による時の進みのちがいが少年少女の生活に根差したかたちで具体化されます。

 この地に足つきすぎた情景がすごい。あまりにすごいので、エキゾチズムも「こういう環境だからそういう心性・語りになるだろう」という文化人類学方向にハードな想像力がはたらいた結果に思えます。たとえば、

「僕は今年、だんじりに乗るんだ。(略)あんまり速いんで、目の前を通り過ぎる時、光で見てたら、ちかちかぐにゃぐにゃして何がなんだかわからないぐらいだよ(略)

(略)

(略)あんまり速く走ったものだから、衝撃波で村中の屋台が潰れちゃったよ。それに、なかなか走り終わらずに、結局三ヶ月間も走り回ってたんだ。だんじりを引いてた<人の子>の時間だけが何百倍も遅くなってて、ほんの数分間だと思ってたらしいけど」

   早川書房小林泰三『海を見る人』Kindle版77%(位置No.4366中 3340)「海を見る人」より、山の村の少年の言

(略)一階に比べると、二階の時間は速く過ぎるから(略)わたし、睡眠不足の時は二階で眠ることにしてるし、宿題が溜まっている時やテストの前も二階で勉強するの。そんな時、三階以上ある家の子がとっても羨ましいわ」

   『海を見る人』Kindle版77%(位置No. 3340)、浜の村の少女の言

 おなじ時流のギャップを話す具体例でも、出身や性格で大違いの話を取り上げていて{大げさで光景の面白さが伝わる山の村の少年の言と、聡明で実利的な興味深さを語る浜の村の少女の言(少女はほかに、高低差による像の歪みも話していて、劇中世界仕様の"ブサイクに見える角度"への拒否感を示したりもしてます。)}、「世界設定を詰めに詰めるとここまで出来るんだ」と感銘を受けました。

 ☆かし、爆弾がおちてきて』古橋秀之

 今作を収録した『ある日、爆弾がおちてきて【新装版】』KADOKAWAメディアワークス文庫)から紙電子書籍が流通中(2020/03/10現在電子流通ナシ? 正気か?)新装版は旧電撃文庫版より一作収録がふえてお得です。

 昔の大きな戦争で落とされた時空潮汐爆弾。その爆心地にいた少女はその爆弾の唯一の生存者かつ時間凝縮効果の被害者で、戦後ひとが戻り更地に町が建ち並んだいまもなお少女は平和記念公園の中心で60年前とほぼそのままの姿でそこに佇み続けている。「ぼく」の祖父は記念公園の清掃係で……というお話です。

 「ぼく」の一人称による地の文が大部を占め、数少ない鍵カッコのセリフもほとんどが"なんて言われた"と追想に位置づけられる。そんな静的な語りが積み重ねられていき、それがポンと弾ける後半の語りのダイナミズムが心地よい作品です。

 余談ですが古橋氏はそのほか『ソリッド・ファイター[完全版]』という最高の作品を記してもいます。出るのが早すぎた不遇の格闘ゲームプレイ小説。完全版もなぜかAmazonで書籍ではなく「おもちゃ&ホビー」扱いなんて不遇が続き、現在絶版。(合本版も珍しくない電子書籍市場なら……と思いましたが音沙汰なし。『ある日~』でさえ電書版絶版になったっぽいしなぁ)

 ヒマつぶしの子供からオタク、台パンするDQN、大人(になってしまったかつての若者)、はては亡霊まで混じり得る人種・世代のサラダボウルとしてのゲームセンターという舞台の面白さ。フレーム単位のわずかな操作受付時間で無数に瞬き発火するニューロン。乳揺れに一喜一憂するみっともない男子高校生でかつ格闘ゲーマーの一人称小説だからこそ生まれ得た独特の文字列。できることは方向レバーPKボタンを回し押すことだけ、でもそれでしか表せない咆哮がある。あなたは格ゲーのボタンコマンド表記で震え、笑い、そして泣いたことがありますか? ぼくはある。 『なめ、敵』の句読点単位に及んだ語りのおかしみ、『ひかりより~』の圧縮と解放、プレイヤーと非プレイヤーが混交する創発的な展開がお好きなかたにぜひオススメしたい作品です。

 ○00:00:00.01pm』片瀬二郎著

 今作を収録した『サムライ・ポテト』は、河出書房新社(NOVAコレクション)から電子書籍が流通中です。

 この容赦のなさ、手心の加えなさが惚れ惚れするほどすさまじい。今作は"巻き込まれ"型の孤独な不条理劇からはじまって、(感想本文でも述べたとおり)後半からワンマンヒーロー的な展開へすすむ作品で、後半から出てくる"敵"も一歩まちがえれば主人公だってこうなってしまったかもしれない鏡像・影的存在なのですが、そんな意味論な大枠の見取り図をえがき図式的に解釈しようとする読者の頭をかき乱すほど、生理的にきつい描写・展開が待っています。

 多様性が尊ばれ「敵には敵で道理が~」「悪役だってぼくらと同じく人間で守るべき家族が~」みたいな、善悪に多義性・キャラに厚みをもたせた作劇がふつうとなった今日において、貴重かつ困難なのは実はそうした混色を排した原色同士のぶつかり合い・両極端の立場にいる存在のメロドラマでしょう。背景も家族もありますよね、そりゃあね。でも共感も同情も及ばないような根本的な変容ぼくらが辿りつけないような極地をえがけるのがフィクションの良さでもあり、想像力ってものではないか? そんなことを思い出させてくれる、{なんだかこっちの語調まで荒くなってくる(笑)}力強い作品でした。

 ○るさとは時遠く』大西科学

 今作を収録した創元SF文庫『拡張幻想(年刊日本SF傑作選)』などは絶版みたいです。

 高所であればあるほど時間の流れが速くなってしまった世界の新首都・高京でサラリーマンをして暮らす主人公の、7年ぶりに海辺の実家へ里帰りを描いた作品です。

 『海を見る人』みたく時の流れの異なりが光学的な歪みとして世界観をねじまげ、人間の生活にも社会レベルに拡大されたかたちでさまざまな変化があらわれています(。『海を見る人』の少女が一言ふれた「時間流のちがいから宿題は1階でなく上階でやる」が、今作では家庭を超え世界規模で適用された姿が描かれる)。陸海空の航路や、数日ごとに昼夜がかわる特異な日照サイクルの高京での新たな食料対策などさまざま変化があらわれています。

 劇中特異現象は、置き去りにした青春時代のあれやこれやが当時そのままのかたちで残ってしまった、まるで中年の危機のアナロジーのよう。

 また、色彩設計の美しい作品で、劇中高地では味わえなくなった低地の眩い日の光のもと、古くなったコンクリートに白い砂浜、ローカル線、白い帽子に白いサマードレスなど淡色の物々が語り手の視界にはいるなか、ワンポイント的に登場する姉の赤い口紅や過去の恋人の桃色の便箋が印象にのこります。

 余談も余談ですが大西氏の『ジョン平とぼくと』は、伴名氏の作品とおなじく、心のやらかいところをつっついてくる青春SFで、ぼくの心の一作です。GA文庫電子書籍流通アリ)

 

 ○りにし日々の光』ボブ・ショウ著

 今作を収録した『時間SF傑作選 ここがウィネトカなら、きみはジュディ』早川書房から紙の書籍が流通中です。(長編改稿版『去りにし日々、今ひとたびの幻』は絶版。

 前述将来の終わり氏が『去りにし日々、今ひとたびの幻』からの参照を指摘しているボブ・ショウ氏のSF、その短編です。

 作品のあらすじやら劇中での登場(もじり)やらは感想本文に書いたので省略。

 

 

 『なめらかな世界と、その敵』辺りの伴名氏のインタビューとか

 紙媒体のものはわかりません。

 とがきにかえて』伴名練著

 エモさにバズったあれです。

 復書簡】伴名練&陸秋槎。SFとミステリ、文芸ジャンルの継承と未来について

 Hayakawa Books & Magazines(β)に掲載された伴名×陸氏の往復書簡。

 陸氏からは、『彼岸花』を中心にした伴名氏作品所感、ミステリ方面における少女小説フォロワー作の概観と伴名氏の違い、中国での少女小説的作風にたいする反応、オマージュについて話されています。

 陸氏のたよりを受けて伴名氏からは、陸氏作品所感、ミステリ遍歴、『シンソヴィ』着想元の一つ開陳、男性作家として女性キャラを主役にした物語を書くことについて、オマージュについて話されています。

 日新聞/山崎聡氏による著者インタビュー(19年9月6日web掲載。また『好書好日』にて短縮版が掲載

 SFとの出会いについて話されたり、『ひかりより~』の語り手についての工夫などが明かされました。

 ドブン/野性時代編集部による著者インタビュー(19年11月15日web掲載。もとは『野性時代 19年12月号』掲載)

 『美亜羽』の着想元がSF研会員から紹介されたスニーカー文庫の一作にある旨が明かされたり。『ひかゆる』の語り手についてや『ホリデン』の姉の動議だけでなく、各編に隠された狙いが一つはある旨が話されたり。

 Realsoundブック/杉本穂高氏による著者インタビュー前編後編

 前編は『なめ、敵』について、『シンソヴィ』一言、新海監督『君の名は。』について、『彼方のアストラ』騒ぎについて、現在のSFシーンについて。後編は男キャラを主役にしなさがちな理由について、『ゼロ臨』について、創作と現実のできごとについてを話されています。

 SFの歴史を継いでいくこと。ベストSF第1位記念・伴名練インタビュー

 『SFが読みたい!2019』国内ベストSF1位となった伴名氏への記念インタビュー。

 『少女禁区』以降の作家活動の四苦八苦をふりかえるようなお話に始まり、アンソロジーや、2020年のSF展望について語ってくれています。

 の本」

 『別冊文藝春秋 2020年1月号』掲載のエッセイ。前述『なめ、敵』裏話のほか、『シンソヴィ』『ひかりより~』の初期構想についてのお話が。

 

 『なめ、敵』書評やら反応やら

 博識・慧眼な識者による、特に食べ応えある作品評・作品紹介が2点。

 の世界の中で、この世界を超えて――伴名練とSF的想像力の帰趨』“文学少女”と名前のない著者)

 刊行後1週間としないうちから出た、速度・質ともにすんごいネタバレ評論。『ひかりより速く、ゆるやかに』単体の作品論が主ですが、そこから伴名氏のほかの作品を包括するような作家論的な楽しみを伝えてくれてもいます。

 名練『なめらかな世界と、その敵』 最高の読み手による最強のSF短編集将来の終わり著(ねとらぼ掲載)

 さまざまな作品評を発表されている将来の終わりさんによる紹介の色つよい書評です。いろいろな作品との関連を指摘していて、たいへん興味ぶかい記事です。「『なめ、敵』おもろかったな! ほかにもSF読んでみたい!」となったぼくはこれを参考にほかの作品を楽しんでます。

 将来の終わり氏はこのほか個人blog『君と夏の夢、将来の終わり』で、上述記事の補足となる『ひかゆる』に関する重大な考察をされています。

 

 面白かった記事など。

 部理玲『なめらかな世界と、その敵』の感想と解説(ネタバレなし)』

 東北大SF研のバーチャルYoutuber卜部さんによる紹介です。短編集自体の内容を記しつつ、トピックやテーマが重なるような他作家の作品についてもふれた記事です。

「『なめ、敵』おもろかったな! ほかにもSF読んでみたい!」となったぼくはこの記事も参考に楽しんでます。

 村思游『伴名練「ゼロ年代の臨界点」に関する補足解説』SF游歩道

 直上の卜部さんの評を読んだ同東北大SF研・下村さんによる『ゼロ年代の臨界点』考察記事。文中ではちらっと触れられただけですけど、この記事を読まなければ、ぼくはまれに買う『SFマガジン』で読み飛ばしていた横田順彌氏らの研究の面白さを知らない人生をこれからも送っていたことでしょう。

 東北大SF研部会レジュメ(短編集『なめ、敵』版)

 上2記事執筆者と同じく東北大SF研の19年10月17日あたりにひらかれた読書部会用のレジュメです。ぼくはじぶんの感想をあらかた書き終わってから読みましたが、上2つとはまた別の観点の記された記事で、『美亜羽』については「言われてみればたしかに……」「そんな記述の齟齬が!? はぇ~」と再読したくなりました。

(また『なめ、敵』感想でぼくが最初にふれたような文章の面白さは、このレジュメなどでも触れられていますね。ぼくの記事は長いうえに遅く、言わんでもいいことを言った感が更につよまる……)

 余談も余談ですが、東北大SF研@wikiをしっかり見たのはこれが初めてでしたが、きっちりかっちりされててビックリしてしまった。部会の報告(レジュメのアップ)がこまかい

 hikaさんが主宰された『SF ・海外文学読書会(仮)』用のscrapbox同業他者の作家評をツイート単位からすくってくれていたり、作者や読者が語ったり思ったりした元ネタやらネタの似ている作品があれこれ提示されていて、勉強になりました。わがやの積ン読山に埋もれた(『あわれみ深くデジタルなる』を収録した)『グローバルヘッド』はこちらを読まねば崩せませんでした。

 SFマガジン2019年10月号』p.346~350掲載「伴名練総解説」は、飛浩隆氏や小川一水氏や大森望氏や山岸真氏など当代きっての小説家ないし翻訳・批評家による商業発表作すべての伴名練作品(『少女禁区』~『彼岸花』まで)解説です。「ガイド」と宣伝されたりもしてますが、結末まで触れた既読者向け掌論考

(『ひかりより~』や商業未収録の『艦上の夜』などは解説ナシ)

 文量ゆえ物足りなくないと言えば嘘になるけど「20*19=380字程度の尺でよくぞ……」と柏手を打ちたくなる盆栽みたいな名解説の数々で。たとえば島伝法氏による、発想の面白さと初読時の衝撃をサクっと説明したうえで、劇中のリアリティ確保の手管やら何やらを語ったもの(=『ゼロ臨』書評)。ほかには谷敏司氏による、語りのユニークさ・面白さを取り上げつつ、そこと関連して結末解釈の一助となるもの(=『ホーリー~』書評)。はたまた浩隆氏による、劇中参照作家との比較を行ない相違を取り上げ、「他作ははたして?」と包括的な読み返し・今後の作品への注意をうながすもの(=『美亜羽~』書評)……と作品や評者によってさまざまな切り口で語られています。

 さきにアップした『なめ、敵』単体の感想記事で盛大に人間違いした手前、あれこれ言ってもかたなしなんですが、田タカシ氏による『一蓮托掌~』解説は、「深淵を覗く者は深淵もまた」といいますか「化物には化物をぶつけるんだよ」といいますか、ラファティを降ろした伴名氏の件の作品を論じるために、倉田氏もラファティを降ろして解説するという独特なもの。(奇怪な作品の奇怪さを論じるために、作品評もまたその奇怪を帯びるという点において、飛浩隆氏の『シン・ゴジラ断章』タイプの評)

 ちなみにこの号は神林長平特集で、さまざま掲載された論考のひとつは伴名氏による寄稿です。(視点が斬新だし、書くために必要な読み込みが半端でないユニークな評論です。神林氏が選考委員をつとめた新人向けSF賞の選評と、入選し出版された新人さんの作品から、氏の創作観を炙り出すというもの。この記事と違ってピシッとタイトな高密度なやつでした)なかなかお得な一冊です。

 余談の余談、『ホーリー~』感想文で言ってた、長谷敏司解説の面白さについて。

 長谷氏はべつに、劇中の異能について「実はもととなる人や事件が昭和にあって……」「人を穏やかにさせる化学成分は、俗に言う"抱擁ホルモン"など、現実の科学研究によって解明されつつあって……」といった史的・科学的なウンチク解説を述べるわけではありません。

 そうではなくて、あるものごと(書かれた事物)についてどのような態度で接するかというところで「科学的ってこういうことか」と興味ぶかい内容だったんです。

 ぼくのような今アラサーのゆるいSFファンのなかには、テッド・チャン氏の『科学と魔法はどう違うのか』を読んだことのあるひとってそれなりにいると思うんですよね。(想定;伊藤円城で「SFおもしれー」ってなってしばらく読んでみたものの、熱が冷めて、んで「まあチャン特集だけは読んどくか……」って程度の好きは持ち続けてるひと)

 長谷氏が解説で覗かせる視点は、そこで言われた峻別と根をおなじくするもので(いかんせん昔読んだだけなので全然ちがうかもしれませんが……)、観点自体はそう前代未聞の斬新ではない。けれどそれを実用に移す(=そうした態度でものごとにのぞむ)のは、はたしてどれだけのひとが出来ているのか?

 「ふむふむ」と頷いたチャン氏の論考について、伴名氏の『ホーリー~』と長谷氏の『ホーリー~』評をよむことで「なるほどアレってこういうことだったのか!」と理解をより深められたひとってぼく以外にもきっといるはず。そんなところから読み比べされてみても面白いんではないでしょうか~。

(『ホーリー~』の姉の異能を、オキシトシンを異常分泌させるなどとして説明したときの問題について。

 現代科学であかされつつある知見を、WW2末期を舞台とする世界で説明できる妹/劇中世界の文明発達レベルは何なんだ? とか。あるいは、なにか特異な成分の特異な増減が計測できるなら、なぜ姉以外にほぼ先例もなく、後例もないのか? とか。

 ひとつの嘘について、それがありうると信じられるような説明を加えたことで、逆にその説明についての説明が必要となるような事態を招き、劇中世界全体がより嘘くさくなってしまう面倒がおこりそう)

 りまよとアオヤギの給料日ラジオ(『なめらかな世界とその敵』回)

 『ねとらぼGirlsSide』編集長にして日能研1位を取ったこともあると云う青柳美帆子氏と『Sacks&Guns!!(サクガン!!)』プロデューサーを務めていると云うMayoArita氏のネットラジオです。

 音声媒体はつよい、作品への興奮・感動や不満が率直に伝わる。そして、そう判じた理由を大なり小なりきちんと説明してくれるから、聞く側もナルホドと納得できるラジオです。構成の巧さについて、(早川の編集者が同人で出した)三幕構成研究本で触れられた月村了衛氏のキッチリカッチリさが引用されたり、『三体』の話になったり、話題が多岐にわたって興味深い。前述将来の終わり氏や早川書房の編集者・溝口力丸氏が実況コメントをしたり、青柳氏の知人の京大SF研出身者の伴名練作品への複雑な心境が聞けたりもします。

 藝SF・幻想文学研究会読書会ツイート

 日芸SF・幻想文学研究会さんの公式ツイッターに掲載された、閉会時のホワイトボードをアップしたもの。白板には作品考察的なかたい話から「いいよね…」「いい……」みたいなやわい話まで、一緒くたに記されていて、臨場感が伝わります。おれもこういう楽しそうな学生生活を送りたかった。

 

 

 

 

(余談も余談;18禁)自分語り;ロックマンXに片栗XにサイクロンX10

 運がよかったのだとは思わない。ましてや悪かっただなんて。

 伴名氏は88年生まれ00年小学校卒ということで、学年についてだけ言えばぼくと氏は同級生(4/1追記;いやあちらのほうが一つ上でした……。学歴はもちろんのことSFファンとしても雲泥の差があるなと、「あとがきにかえて」「印税の寄付について」を読んで思いました。

 ぼくと小説の出会いは遅かった。SFというのは、というか小説というのは、ぼくにとって読まなければならないノルマでした。小学4年生の伴名氏をSFの宇宙にのめりこませたSF界に燦然とかがやく星新一は、中学生のぼくにとって綺羅星でした――読書週間などと称して1限目の授業まえの10分15分のあいだに読書するイベント、これのために、じっくり味わうでもなく読み捨てられていく流れ星。

 伴名氏が『美亜へ贈る真珠』に出会ったのも小4だったようですが、ぼくがあのやるせなさに献身に打ち震えたのは、梶尾真治選集が出た高校生になってからのことでした。後追いも後追いで、ぼくの本棚に収まっているのは『美亜へ贈る真珠』――映画『黄泉がえり』公開後に編まれた短編集で、大いに名が売れたために門外漢のぼくの目にも入ってきたというわけです。

 小4のぼくはといえばニンテンドー64やプレイステーションに夢中でした。夏にゴールデンアイ007』ロックマンX4』冬にチョコボの不思議なダンジョンが発売された年かな? 『ロックマン』はプレステになってパスワードをノートに書き写さなくてもよくなったのがうれしかったですね(もっと上の世代を悩ませたふっかつのじゅもんより楽チンでしたが、それでも面倒くさかった)。薄青の半透明のメモリーカードを使ってましたが、その当時から持っていたかわからない。夢中といってもうっすいエンジョイ勢で、『チョコボ』は「これいつになったら全クリになるんだろう?」と首をかしげながら深部に降りて、けっきょく終わりを見ることなくやめてしまった。(あとでインターネットで検索をかけて知りましたが、いくら降りても底にたどり着かない、無限生成のダンジョンだったそうです) そして特典としてついてきた公式プロアクションリプレイデータみたいなものを使って、『ファイナルファンタジータクティクス』をレベル上げすることなく進めていった。プロアクションリプレイってのはゲームのデータをいじる機械のことです。マジコンの類ですねってこれも死語か?

 ぼくが開くのは漫画に漫画、漫画でした。文字の多い本もよく開いていましたが、それはまったく小説とは異なる分野の本でした。『大技林』というテレビゲームの裏技(ウルテク)が網羅された本で、古今東西のウル技の合間になぜか、いやらしいウル技により拝める麗しい女性キャラのいやらしいシーンがなぜか画像で採録印刷されていたりもする本でした。ぼくの『大技林』はそういったページに読み癖がついている。

 こらえ性がなく、易きに流されつづける日々でした。

 中学のころ夢中だったのは『RPGツクール2000』でした。ゲームをつくるゲーム。製作元のアスキーが毎月ひらく、アマチュア作成ゲームによる公募企画『コンテストパーク』通称コンパクの受賞結果・受賞作をプレイすることを楽しみにして日々を過ごしました。とくに好きだったのは『女神の涙』などHIDE氏主催のサークル・アルファナッツ作品でした。じゃんけん的な分かりやすく複雑さもあるバトルシステム、今野隼史氏の美麗なグラフィック。有料版が出ると知ってウェブマネーの買い方を印刷しどうにか買って、今野氏が富士見ファンタジア文庫でイラストを務めると知れば本屋をはしごし『七人の武器屋』を探し回った。

 当時のISDN回線のパソコンに表示される残りDL時間の長さといったら。一世を風靡した手のひらサイズのゲーム機『たまごっち』の亜種デジモンの公式サイトの、オリジナルデジモン投稿ソフトの何十×何十ドット程度のモノクロ画像を投稿するのさえ失敗しないかヒヤヒヤしたくらいですよ。マメモンというキャラに頭巾をかぶせた"えだマメモン"というのがぼくのオリジナルデジモンでした。

 漫画家の村田雄介氏が小学生時代に投稿した『ロックマン』用のボスキャラが公募企画に入選するなど、のちの大作家が視聴者公募企画で少年時代から頭角を現していた……なんて逸話は数知れませんが、ぼくのえだマメモンは何の賞にもカスりもしませんでした。かなしいね。

 「いつか自分もアッと驚かせ楽しませるゲームを作るんだ」と、件のRPGツクール2000にドット絵描画用ソフト『キャラクターツクール』にワコムペンタブレット『バンブー』にと一通りそろえて、そして当然のように使いこなせませんでした。ルーズリーフにオリジナルゲームのあらすじや設定を書き、じぶんでは斬新で面白いと思っているが丸パクリのゲームシステムのアイデアを書きはしたけど、実装できる頭がなかったのです。けっきょく出番があったのはワコムペンタブレットくらいで、それもけっきょく、すごいゲームを完成させた作り手の個人ホームページのお絵描きBBSに入りびたるための道具だった。

 そのペンタブだってサイトにゆいちゃっとが設置されるまでの短い栄光でした。年上のひとびと会話できる楽しさに浸ったけれど、浮かれ気分もすぐ失せて、「じぶんにはゲームを作るなんてもちろん、会話のキャッチボールをする頭さえないんだ」と気づかされていく日々を送りました。

 次第に人間がログインする時間帯を避けるようになり、あるいは自分がログインしてもいくらか待ってみても誰も入ってこない場合が増えた。

 チャットbotになにかしら吹き込むだけ吹き込んで立ち去るのが日課になって、ウェブ広告によそ見するようになった。

 あれがえろぐリビアンコム盗撮マーシーなんてのもあったか。回線を食い合う夏の大三角。そういったサイトの無料の数十秒のお試し動画を漁るのが、当時のオタ物語でした(そうか?)

 いつの間にかダイヤルQ2に繋がれてしまって月の電話代がひどいことになっても、ブラクラやウィルスをどこかから貰ってきてパソコンの調子がおかしくなっても、「え? なんすかそれ初耳ですけど?」と素知らぬ顔で黙秘をつらぬきました。

 

 ぼくがSFを読むようになったのは中学のおわりになってからでした。ぼくは高校受験勉強のため夏休みや冬休みなどで塾の都会の支店へ行くようになり、バスに乗り電車に乗りと移動時間が長くなった。親からケータイを与えられてはいたけれど、充電が切れたら嫌だからあまり触りたくなかったし、iモードからダウンロードできるゲームなんてたかが知れていたのでそもそもあまりやらなかった。(画面下から上へと昇る地面たちを延々つたうゲームとか、その逆とかをやった記憶がある。『コンパク』であれだけ輝いていたアルファナッツ作品も、初期のアプリゲームでは味気なくおもえた)

 そもそもケータイを持ち歩きたくないというのもあった。

「このメールを5人に紹介したうえで下記アドレスへジャンプしていだきますと、新たな絵文字を使用できるようになります」

 そんなチェーンメールまるだしの便りの不法投棄場所がぼくのケータイでした。教室ではなんも喋らなかったのに、チェーンメールだけはおくってくれた野球部の遠藤くん、元気にしてるだろうか。そんな仕様知らずに素朴に「すごいね! ありがとう!」とありがたがり返信したぼくのメールを、彼はどんな気持ちで受け取ったんだろうか。そもそも読まずにゴミ箱に入れたのか。そしてそんなケータイさえもが、中学の体育の授業中に消えてしまった。

 だからといって参考書に目を向けたくなかった。塾から顔をそらした先にあった駅前の書店でなんとはなしに『葉桜の季節に君を想うということ』を買って読み、これはすごいと『このミステリーがすごい!』2004年版を買って上から下へ読んでいき、古典ミステリを読みアシモフと出会った。伏線がすごいミステリとしても面白いなどの評判も聞いてホーガンの『星を継ぐもの』を読み、私立探偵要素があったので『宇宙消失』を読みイーガン信者になった。

 なかでも『放浪者の軌道』は思い出深い作品です。

 公立高校入試のうち3科目自己採点満点で地元進学校に志望どおり入学し、まだ自分が有能だと思っていた頃。じぶん以上のひとが五万といるというのに、そして授業も難しくなるというのに、あげく高校から予備校通いをやめていて自学の時間ゼロだというのに、中学と変わらず余裕ヅラで授業を落書きして過ごしていたら、学力テストの順位が3桁台後半になり、気づけば取り返しがつかなくなっていた自分にとって。

 あるいは、中学時代はまだクラスの人気者と談笑して男女混合で泊りで遊んだりなんだりしていたけれど、結局そういう縁は本当に社交的だった兄つながりで出来た関係だったりなんだりで、学区を離れまったく新しい人々と一から関係を築かなければならない高校では自分からはどうすることもできず教室の隅でつっぷすだけになってようやく社交性のなさを自覚した自分にとって、『放浪者の軌道』はとても刺さる作品でした。

 劇中世界の社会構造を一変させるほど致命的で複雑怪奇な状況。それをわかりやすく概観してみせ、キナくさいコミュニティに染まらずうまく迂回し、知り合いの少女とともに歩いていく年若く聡い主人公の姿。そうして歩いて行った先に……。

 『ひかりより速く、ゆるやかに』の主人公とヒロインの姿に、ぼくは『放浪者の軌道』を読んだ高校時代の情動がよみがえりました。

 

 『放浪者の軌道』が収録された『祈りの海』のなかの一編である、一定の生年・都市に住んでいるという以外に関連性をもたない肌の色も職種もバラバラの人々に意識が日ごとに乗り移ってしまう奇妙な人物を主人公にしたイーガンの『貸金庫』についての評で、少年だったり老父だったり年齢がバラバラの自分に日ごとに移り変わってしまう奇妙な人物を主人公にした『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』の話題が出てきたら、新潮文庫時間SFオムニバス『タイム・トラベラーを読み。そこに収録された、あのあまりにも完成された、無限に繰り返される日々による倦怠と摩耗とそれでもなお繰り返してしまうままならさとなおも残る感情のすさまじい『しばし天の祝福より遠ざかり……』などに圧倒されて、おなじ作者ソムトウ・スチャリトクルの長編『スターシップと俳句』に手を伸ばしてみて、湯呑みの名品で自殺合戦が起こる劇中日本に別の意味で圧倒される。

  そうした圧倒的なきもちよさや、一息に飲み込めないとまどいといった、喜怒哀楽の振幅はげしい幸福な読書を味わえたあのころがよみがえりました。同時に、"『スターシップと俳句』を読んでいること"が好事家のなかでなにかステータスのようなものになっているとネットで知ったら、内容の面白さを語るよりまず、読んでいる自分についてを話してしまう、あの頃の(そして今も抱えた)自分の浅ましさがよみがえりました。

 雑誌だけに掲載された作品や近所の図書館に未所収の作品をもとめて国立国会図書館に訪れたり、神保町の古書店を巡ってみたり……伴名氏がしたようなことも何回かはしてみました。

 ただしけっきょくぼくは、作品と自分だけの対話ができないやからなのでした。

 ブラウンアイズ派だいやワンスアデイ派だと盛り上がるのが先達の嗜みと聞けば、そそくさと『ハローサマー、グッドバイ』『エンジン・サマー』を読み、マイクル・コニイやトマス・ディッシュの未復刊作をもとめてサンリオSFの門戸をたたき。チャンの『息吹』が掲載されたときだったか魔法少女まどかマギカが盛り上がってからだったか、パミラ・ゾリーンの『宇宙の熱死の名前が識者から出されれば、そそくさと読みに行き、それぞれ遠方へ足を延ばしただけの感動を得つつも、やることと言ったら「え? なんすかきみ未読なの? おれは読んでるけど」と素知らぬ顔で2ちゃんで煽るだけだった。2ちゃんというのは匿名掲示板のことで、いまの5ちゃんねるです。えっそれさえ死語?

 神保町も国立国会図書館も、ぼくが関東住民だから行っただけで、地方出身だったらぜったいやってなかったことでしょう。

 不毛だった。

 前途洋々のはずのティーンエイジャーの時点で、すでに救いようがない老害だった。

 

 

「SF研の思い出に」

 伴名氏は謝辞をまずそう切り出して、大学のおなじサークル仲間たちに感謝を告げていきます。

 友人たちと切磋琢磨したことや、書下ろし作品以外のすべての収録作の初出である同人誌についてが少しだけ語られている。初出はふるいもので2010年。氏にとって角川ホラー文庫から商業デビュー作が出版された年でもあるそのとき、ぼくは落第生だった。自堕落さゆえに留年し、就職もリーマンショックの余波等とは無関係に当てがなかった。見つかるか否かというよりも、見つけようとさえしてなかった。ただただ何をするでもなく学校へ行くと言って家を出て名画座に一日こもり、あるいは何も告げずに家にこもった。

 絵心があったので友人から「同人をやろう」と誘われ一時はうなづきもしたけれど、道半ばどころか出航するか否かの冒頭で沈んで海の藻屑と化してしまった。

 誰か何かの才能に圧倒されてその道を諦めたとか、そういうかっこいい理由ではなく、ただただなんだか書くことができなかった。一言「書けない」にも幅があり、書き損じを丸めた紙が積み上げたりでもしていたのならまだ示しもつくけど、そうではなかった。ごみ箱は紙でいっぱいだったが、それはfc2動画のいやらしい映像による産物だった。

 

 ぼくはSFファンが当然のように知っている本をほとんど読んでません。銀背もなにもいまだによくわかりません。この感想でやたら『タイム・トラベラー』の話が出てくるのは、ぼくがそれしか読んでないからです。

 だからといってSFに費やさなかった時間を勉学に注いだわけでもなく、地元のいわゆるFラン大に入学し、そこでさえも落第した。高校に年一でまわってきた洋書の出張販売で買ったトールキンの『指輪物語』ペーパーバックは、読み終えるどころか開くことさえほぼせずに、本棚の一角に収まっている。TOEIC? TOEFL? なんだろう。ぼくがもってるのは中学時代に得た英検3級だけです。

 

 ぼくが知っているのは2ちゃんねる』の専用ブラウザの使い勝手だった。メル欄にsageと書く作法だった。長文を書けば社員乙と叩かれていく世界での話法だった。分割され圧縮された、出所のしれない猥褻データを解凍するさまざまな拡張子や暗号だった。どのエロゲー体験版がよりボリューミーでより実用性があるかということだった。Winnyでの違法ダウンロードに手を出さなかったのは、ぼくが倫理や自制心があったからではなく、手も足も出せなかったからに過ぎない。それを導入できるだけの頭がぼくにはなかった。ポート開放だっけか、いまだに何だかわからない。

 20代だったぼくが自信をもって詳しいと言えることは、世のために書けることといえば、片栗粉X実作するさいのノウハウくらいなものだった。少なくないひとびとが、誰かと出会い連れ合い慕い合い時にはいさかいをしつつも折り合い伴侶をもち部下をもち家庭をきずくなかで、ぼくが知っている唯一のぬくもりはやわらかさは片栗粉Xのでんぷん質だけだった。

 先人としてwikiにも*177ニコニコ大百科にもアンサイクロペディアにも記されていない知恵を教示すれば、片栗粉Xを冷ますさい表面をさわって適温だななどと早合点してはいけません内部の温度は灼熱で、あなたのちんこを焼くおそれがあります。表面に霜がつくのは仕方ないことと割り切って、中もそれなりに冷ましたうえで、うえから挿し湯をして温度を戻すとよいかと思います。(そのまま突っ込むと二の舞なので、湯切りをきちんとしてください)少し溶けたでんぷん質が潤滑油の代わりも果たします。

 

 伴名氏が『ひかりより~』を書きあげ2冊目の商業出版により本屋の話題をさらい『SFが読みたい!』堂々2019年ベストに選ばれた現在、ぼくは大同小異の日々を送っている。

 ネットサーフィンがバーチャルYoutuberの配信追いかけに変わり、片栗Xの出番がなくなった一方で、PS4を買いVRを買いスイッチを買ってコントローラと連動する段ボールキットを買い、パソコンとUSB接続することでゲームと連動する電動オナホールを買った。30になったぼくが自信をもって詳しいと言えることは『サイクロンX10』のノウハウくらいなものだ。

 先人としてネットに記されていない知恵を教示すれば、商品と一緒にローションを注文しておきましょう(買い忘れても、数袋ついているのでケチらず使いましょう)、陰毛は短く整えておきましょう。ゲームの展開と自分とをシンクロさせることはある程度わりきりましょう。これをわざわざ買うということは大なり小なり没入感をもとめたいからでしょうけど、リアリティの追求はあなたの健康を損ねかねません。ぼくの場合プレイしたゲームの最初のシチュエーションが、異性と無理やり行為に及ぶというようなものだったので「なめらかな膣内は原文不一致で臨場感に水をさす敵だ」とローションささずにそのまま突っ込んだところ、『サイクロンX10』は一瞬にして凶器にかわりました。なんということでしょうローションなしの人工の数ノ子天井は、摩擦係数の高さゆえに陰毛を巻き取って、しかもそのまま回転しつづけることで愚息を絞め食い込み千切らんとしてくるではありませんか。救急車こそ呼びませんでしたが、手で陰毛をとくことはできず、はさみをいれる羽目になりました。まじで死ぬかと思った。コンピュータが人間に牙をむくのはいま・ここにある紛れもない現実だと実感しました。緑の肌をした爬虫類人類の存在も信じられるくらいに衝撃的でした。

 また、『サイクロンX10』の長期間継続使用はひかえましょう

 テクノブレイクなんて都市伝説だ? いえいえそういうことではありません。ヘッドホンをしていてもマフラーを貫通してひびくギュイイイン、ギュッギュッギュッ、ギュウウウウウンという生物感皆無のモーター音を気にしないすべを覚えて、この仕様を楽しみはじめたころ、あなたは異臭に気づくことでしょう。

 イカ臭さなら中坊時代から慣れ親しんでるよ? いえいえそうではありません。しかし懐かしいという点では変わりない。

 異臭の正体は電動オナホの連続使用によって内臓モーターが灼けていくあの焦げ臭さです――そうあなたが猥褻文書に精通するまえ、いたいけな子供時代に苦楽をともにしたミニ四駆から漏れでてくるあの匂いです。

 その時あなたの胸は締め付けられることでしょう。

 スーパーウルトラハイパープラズマ、モーターの序列をきっちり覚えていたあの頃の勤勉さに。

 スーパーファミコンのゲームの特典としてついてきたシャイニングスコーピオンをじっさい走らせてみたときに、ゲームと違って速度によってボディの色が変わったりなんて勿論しないけど、「たしかに変わって見えた」と思い描くいじらしい想像力に。

 あのころ思い描いていたかがやかしい将来像と、いま電動オナホでギュインギュインやって「これはたしかにディスプレイのあの子のボディなのだ」と言い聞かせるいじましい現状との落差に。

 

 SF以外の様々なことを書いたのは、SFの冬の時代、子ども向けのSF叢書が新たに出ることのなかった時代に、どれだけの娯楽があり快楽があり怠惰な人物がダラダラと流されてきたのかということを振り返りたかったからです。

 べつに運が悪かったとは思いません。

 これはこれで楽しい人生です。

 固有名詞を挙げるだけにとどまらず長々と書き連ねたのは、ひとつはそうでもしないと伝わらないかもしれないと思ったからです。

 読書が「注ぎ込まれる」と表される凄まじさに、誰も引っかからずさらっと流されていく状況では、ぼくのような自堕落な人間の生態が、延々と何をするでもなく時間を無為に流しに流してしまう人間の生態が、そうやってどれだけ「無」を生み出してきたのかが、分かってもらえてないのではないかという危惧があったからでした。

 ぼくにとって読書は「する」ものだ。まちがっても受動態の言葉ではない。「注ぎ込ませる」もののほうが正しいかもしれない。アブグレイブの水拷問のように苦しく、面倒くさく、避けたいものです。できれば失敗せず面白いものだけ読んでいたいから識者のガイドは手放せないし、それどころか、読まずに中身がインプットできる方法があるのならそれにたよってしまいたいと思うときさえあります。

 「書く」こととなれば、より一層やりたくない。

 

「やることがある人間なんだ。止まってられない人間なんだ。暴走特急だ」

 『ひかりより~』の登場人物・薙原は同級生のひとりについてそう評す。

 ぼくは同級生の(一学年上の先輩ぽい)伴名氏へ、同じセリフを言いたくなってしまう。

 

「運が良かったのだと思う」

 伴名氏は「あとがきにかえて」をそう書き出すけど、べつに運が良かったのだとは思いません。

 かれはやり続けた人間なのだと思います。そしてそんな彼とともに談笑し切磋琢磨しただろう学友たちもまた、彼とおなじく止まらず動きつづけた人間なのだと。

 それは運なんてものではない。彼らがじぶんでつかんだ当然だ。

 止まらずまじめに向き合いつづけた彼の彼らの誠実さの結晶として、『なめらかな世界と、その敵』に収録された数々がある。いや当人たちからすれば、そうなめらかなものではないよと否定の声も上がるでしょう。『なめらかな世界と、その敵』の少女たちの歩みのように走りのように、ぐにゃぐにゃの地平を進む綱渡り的な局面も幾度とだってあったでしょう。劇中人物にびっくりするほど感情移入してしまえるのだから、みじめでなさけなくどうしようもない弱さを実感するような日々だってあったかもしれません。そうだとしても、それでも彼は筆を動かしつづけた。それもたしかな事実です。

 そんな風に思えてしまうくらい、圧倒的な作品でした。

 

 

 ここ1年弱は、久々に本を積むだけでなくきちんと本を開けた1年弱でしたし、SFに触れてみようと思えた1年弱でした。

 エロくない同人誌もあれこれ買ってみたし。中学生からなにも成長していない英語力だというのに、海外作家のエッセイを読んでみようと思い立ち、誤訳だらけだろうけどある程度は読むこともできました。

 読みたいという気になった。書きたいという気になった。

 とにかく本に対する元気がでた。

 vtuberの配信をぜんぜん追えなくなるほど読んだり書いたりした週もあった。

 感想文の精度がどうかは、書いた自分でも首をかしげるものですが{書きあげたハイの現時点でも「ぼくの書いた文章は、かつてじぶんが嫌悪したはずの、曲解だらけの謎本や、例外なんていくらでもあるのにひとつの型にはめこめる俗流サブカル批評と同じ轍をふんでしまってないか?」という疑念が払えない。(追記)なんたって己の年齢さえ間違えてる粗さです……、『なめらかな世界と、その敵』を読んだことで、さまざまな作品に出会えたこと、楽しめたことだけは伝えられたのではないかと思います。

 

  長々と書き連ねたもうひとつは、さすがにふつうのひとが未読の状態でここまでの長文を読むのは万が一にもないでしょうけど、それでもダラダラ読んじゃう変なひとがいることをぼくが知っているからです。あなただ。ぼくだ。

 「本を買うのはめんどくせえし外れたらヤだから手を出さないけど、気になりはする。とりあえずネットの感想みてどうすっか決めっか」と思うでもなく思って何となしにこれをダラダラ読んじゃったあなた、「一度でもSF小説を書こうとした人間は膝を打って悔しがるのではないだろうか。私は悔しい。」と言ってのける将来の終わりさんの紹介記事を読んで後輩の活躍にくやしがる京大SF研OB(OG?)のお話がでてくる『給料日ラジオ』を聞いて「おれそんな凄そうな伴名練に共感できるほど学歴もなけりゃかれの作品を悔しがれるこの評者ほど熱心でもないSFエリートじゃねえんだよなぁ……」と疑問に思ったぬるいSFファンのあなた。

 ぼくの自分語りを聞いて「あるある」と思えちゃうようなあなた。ぼくがこの本をオススメしたいのは誰よりもなによりも実はあなただ。

 ロックマンXのパスワードメモの多少の面倒臭さを、片栗Ⅹの冷たさと熱さを、サイクロンX10の焦げついた臭いの悲しさを知ってるあなたなんだ。

 怠惰なぼくがこれだけ動かされたその凄さをわかってくれるひとが、あなたのほかに誰がいるっていうんだ?

 

 

 

 

*1:『なめ、敵』kindle版75%(位置No.4781中 3574)

*2:『なめ、敵』kindle版77%(位置No. 3652)

*3:『なめ、敵』kindle版89%(位置No. 4221)

*4:『なめ、敵』kindle版89%位置No.4243

*5:『なめ、敵』kindle版76%(位置No.4781)

*6:『なめ、敵』kindle版91%(位置No.4322)

*7:『なめ、敵』kindle版71%位置No.3357

*8:『なめ、敵』kindle版84%位置No. 3969

*9:そして速希の罪の自覚がスマホを本をとそれぞれ2度の落下をともなって舞い込んだように、踏み入った他者による赦しもまた、ロケットが鳥がとそれぞれ2度の飛翔をともなって現れます。落下から上昇へ、垂直を軸にした正反対の方向の運動の応酬。

*10:早川書房刊、梶尾真治『美亜へ贈る真珠 梶尾真治短編傑作選 <ロマンチック篇>』p.271、初出一覧より。

*11:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア著『故郷から一〇〇〇〇光年』p.481、伊藤典夫氏の解説「名前以外は、すべてわたし」より。

*12:『なめ、敵』kindle版73%(位置No.3445)

*13:『なめ、敵』kindle版73%(位置No.3450)

*14:『なめ、敵』kindle版85%(位置No.4053)

*15:『なめ、敵』kindle版86%(位置No.4781中 4065)

*16:『なめ、敵』kindle版89%(位置No.4212)

*17:『なめ、敵』kindle版84%(位置No.3959)

*18:『なめ、敵』kindle版88%(位置No.4204)

*19:『なめ、敵』kindle版73%(位置No. 3468)

*20:『なめ、敵』kindle版78%(位置No.3691)

*21:『なめ、敵』kindle版78%(位置No.3683)

*22:

小さな花瓶に刺さった白い花が夜露に濡れていた。

   『なめ、敵』kindle版81%(位置No.3815)

*23:『なめ、敵』kindle版73%(位置No.3438)

*24:『なめ、敵』kindle版93%(位置No.4389)

*25:『なめ、敵』kindle版92%(位置No.4372)

*26:この表現で面白いのが、「拒んだ」と強いことばが使われていることです。

 助手席には、僕の着席を拒んだ先客である、大量の本が積まれている。

   『なめ、敵』kindle版73%(位置No.458)

*27:

自分の分と、天乃の分の、卒業証書の緑の筒が車両近くに置いてあった。

   『なめ、敵』kindle版79%(位置No.3726)

*28:

紀上高校二年生全員分の卒業証書と収納用の筒を入れたのは、どう見てもこちらに残る人間たちの自己満足だった。

   『なめ、敵』kindle版84%(位置No.3970)

*29:『なめ、敵』kindle版96%(位置No.4556)

*30:『なめ、敵』kindle版72%(位置No.3383)

*31:『なめ、敵』kindle版96%(位置No.4557)

*32:『故郷から一〇〇〇〇光年』p.260

*33:『故郷から一〇〇〇〇光年』p.261

*34:『故郷から一〇〇〇〇光年』p.276

*35:『故郷へ歩いた男』は、低速化現象にさらされた側とそうでない側とのギャップ・強いコントラストが魅力的な作品です。

*36:

「最初大勢いた関係者が、ひとり去り、ふたり去りしていったときは淋しかったな」

「あれは十年前ぐらいですかね。残っていた人たちが一斉にバスのなかの身内の失踪届を出した。あれは悲しかった。おまけに、遺族会なんてものを結成したのには、びっくりするやら、腹が立つやら、あのときもそんなもの作るなと大喧嘩をした。だってバスのなかの人たちはまだ生きてるし、顔も見ることができるんですからね」

    アドレナライズ刊行、中井紀夫『山手線のあやとり娘』Kindle版9%(位置No.2721中 223)、「暴走バス」より

 

*37:文字どおり。

*38:個人的な印象です。ほんとうは形態素解析(?)にかけて客観的データをど~んと出したいところですが、なんもわかってないので……。

*39:今作を読んで気づいた逆説ですが、不意打ちは「不意打ちで」と書くと読む側にとって不意打ちじゃなくなるんですね。ギャップのある文章間を、異常を伝えることばでつなぐと文の前後のショックがすくなくなります。たとえば……

 その夕方、ホーマー・フースは家路をたどり、金色の常套句へと帰りついた――無二の親友である駄犬、幸せなてんやわんやの毎日の舞台である完全無欠の家、いとしい妻(略)

(略)ホーマーはいとおしげにレジナを抱きしめ、組み伏せ、大きなやさしいひづめで踏みつけて、彼女を(どうやら)むさぼり食いはじめた。

    早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、R・A・ラファティ著『九百人のお祖母さん』p.415~6、「町かどの穴」より

  ……という文章がもし「組み伏せ、人外の怪物らしく大きなやさしいひづめで踏みつけて、」だったらどうでしょうか? 驚きもなにもなくなってしまう。前者に類するのが『なめ、敵』書き出し起床時の文章で、後者のように繋がれているのが登校の文章です。

*40:{余談も余談ですが、『ポリフォニック・イリュージョン』には、飛氏の初期の小説のほか批評もあれこれ収められていて、小説を読んだり映像作品を観たりするのがもっと楽しくなりました。なかでもオススメなのが、上で引用した(もとは富士見ファンタジア文庫から出ていた野尻抱助氏のライトノベルクレギオン』シリーズの文章の美しさ(≒表現を読み進めていく楽しみ)をつまびらかにしていく前述の解説と。

 話題作でさまざま批評もにぎわった(ともすれば余人からドキュメンタリ的だとか現実がそうであるように照明設計もいまいちだとか言われもする)シン・ゴジラ』が、怪獣と主役らをいかにカメラに捉えていたか、空の色や血の色をどのように映したか……といったショットから色彩設計から視たうえで、過去の庵野作品の表現との異同をたしかめ、『春と修羅』の色彩表現や『太陽を盗んだ男』との関連を検討する名論考かつ名ブリコラージュ『シン・ゴジラ断章』。

 ぼくが飛さんの小説以外の文章をはじめて読んだのは、『SFマガジン2009年7月号』伊藤計劃氏没後特集の記事で、そのさいは正直「回りっくどくて何言ってんだか分かんねぇな……」と思ったものです(し、この記事に関しては、再読時もそこまで印象がかわってません)が、上の二論考は明解でよかったです。ぼくみたいに苦手意識もってるひとも印象かわるかもしれませんよ}

*41:『なめ、敵』kindle版12%(位置No.545)

*42:『なめ、敵』kindle版12%(位置No.554)

*43:『なめ、敵』kindle版12%(位置No.563)

*44:『なめ、敵』kindle版13%(位置No.573)

*45:『なめ、敵』kindle版12%(位置No.550)

*46:『なめ、敵』kindle版12%(位置No.559)

*47:『なめ、敵』kindle版13%(位置No.569)

*48:SFマガジン』にもラファティ氏について寄稿している、日本のラファティ愛好家。

*49:早川書房刊、R・A・ラファティ著『九百人のお祖母さん』裏表紙の紹介より。

*50:(余談じぶん語り)ただし、アラサーくらいのSFファンは、タイムトラベル要素をふくんだ泣かせるフィクションに触れてSFに興味を持ち、とりあえず新潮文庫時間SFアンソロジータイム・トラベラーを手に取ってみて、抑圧的な社会とそこに流されてしまう矮小な自分を気にせず飛んでいく異端者の姿をえがいた古の殻にくるまれて』を読み「最高じゃん……ラファティっていうのか、他も読もう」となってラファティ氏の邦訳第一短編集『九百人のお祖母さん』の表紙を見て「えっ」と面食らいつつも中身を読んでみて「そっか……」と泣き笑いをしたり、ばし天の祝福より遠ざかり……』を読み「最高じゃん……スチャリトクルっていうのか、他も読もう」となって『スターシップと俳句』を手に取り、天目茶碗のために自殺する未来世界の日本人や全自動マリオみたいな感じでレールなしジェットコースターで次々と自殺していく未来日本の遊園地を読み「そっか……」と泣き笑いをして、大人になったひとも少なくないんじゃないでしょうか?

*51:早川書房刊、R・A・ラファティ著『つぎの岩につづく』裏表紙の紹介より。

*52:『なめらかな世界と、その敵』を初めて収録した『稀刊 奇想マガジン 準備号』は15年12月31日流通

*53:2014年11月25日文学フリマにて発表

*54:『ファニー~』の劇中独自ガジェット"おかしな指"一族の個性は、

①鉄っぽい体で遅成長・長命。

②裏山のるつぼからなんでも取り出せる"おかしな指"の持ち主。

③"おかしな指"族は古来よりみんなのためになんでも取り出してきた。④裏山にすむ太古から生きる魔術師のおっさんたちからあれこれ教わり、るつぼでの理を常識として物事についてをしゃべる……といったところですが。

(母親との齟齬は②によって生じ。超難解な講座の教師との齟齬は、④②によって。彼氏とは①をきっかけに交流をもつようになり、③によって諍いがうまれ、①によって決定的なへだたりを感じる……といったところ。話題は分散していて、そして意外と②が関わることってすくない)

 対する『一蓮托掌』の劇中独自ガジェットは、

①´シャム双生児

②´なんでも半分こにできるふしぎな手の持ち主である。

③´世の双子は古来より創世の逸話がある……といったところ。

(親との齟齬は②´によって生じ、世間の大人との齟齬も②´によって生じ、①´と性格の不一致によってたびたび諍いをしていた姉妹の決定的なへだたりもまた、③´を聞かされてどうしたいかを決めた②´の使い手・妹レイジーが②´をふるうことによって生じる……といったところ。②´に物語の焦点がさだまっています。)

*55:早川書房刊、『SFマガジン』2002年8月号p.18上段4行目、R・A・ラファティ著「ファニーフィンガーズ」より

*56:R・シルヴァーバーグらが1979年に編んだ『世界カーSF傑作選』収録の一作で、日本では講談社講談社文庫)から出版されています。

*57:講談社刊(講談社文庫)、R・シルヴァーバーグ他編『世界カーSF傑作選』p.243、R・A・ラファティ著「田園の女王」より

*58:日本で言う「江戸はよかった」ってやつですね。

 余談ですがこういうことを言うひとは(/そしてぼくみたいに「やだよ」と思うひとは)どこにでもいるようで、ルネ・クレール監督による1952年の映画ごとの美女』なんて、ままならない今を生きる青年が、年長者の言う「昔はよかった」に従い昔へさかのぼり、またままならない日々を送っていたところ、さかのぼった昔にいた年長者の言う「昔はよかった」に従って昔の昔へさかのぼり、またまたままならない日々を送っていたところ、さかのぼった昔の昔にいた年長者の言う「昔はよかった」に従って昔の昔の昔へ……と延々タイムトラベルしてました(笑)

*59:『世界カーSF傑作選』p.244より

*60:余談ですけど、この行動自体が二段構えで面白いですよね。じつは世界精神型の悪役(=「世界に認識の変革を迫るヴィジョンを演出することで、ある事物の本質を抉り出すことそのものを目的とし、どんな現世利益的な欲も動機や目的にはしない、そんな悪役」)だったという。

*61:「一部で話題沸騰の「ゼロ年代の臨界点」(京大SF研のファンジンに掲載)、タカアキラくんにコピーを送ってもらって読む。や、これは面白い! 1900年代(明治30年代半ば~)に日本独自のSFが勃興していたとする、レムやボルヘスばりの架空論文。」

*62:

ゼロ年代の臨界点」はボルヘスやレム風の偽文学史

   早川書房刊、『SFマガジン2019年12月号』p.147「SFブックスコープ」、陸秋槎氏による短編集『なめらかな世界と、その敵』レビューより

  

*63:ちなみに石黒氏の作品や書評・エッセイは、現在アドレナライズ社より電子書籍版が流通中で、なんと『石黒達昌ファンクラブ』でとりあげられた作品も電子化されています。

*64:『結晶銀河』再録時の商業書籍初出版との違いを見ると、その印象はより強まります。「すすんでいなかった」は「進んでいなかった」に、「もと薩摩藩士」は「元薩摩藩士」に……とひらいていた文章が漢字に直された箇所や、「手中に」を「掌中に」と画数の多い語に改められた箇所が見受けられます。

*65:そう推察する理由として、①劇中の授業、②実在の華族女学校の授業(黒岩比佐子著『明治のお嬢さま』に記載された学習院序学部1897年卒業者の成績など)、③文科省『学制百年史 > 三 中学校・高等女学校の学科課程』掲載の高等女学校の授業を、以下の図にまとめました。

f:id:zzz_zzzz:20200324215053p:plain

*66:この序盤の作り話について語り手がよせた評価は、2011年刊『結晶銀河』再録/商業初収録版だと「想像」でした。ここにおいては虚構性をつよく提示する改稿がなされています。

*67:この中盤のフジの言葉は、2011年『結晶銀河』再録/商業初収録版だと「という。」だけでした。ここにおいては虚構性をつよく提示する改稿がなされています。

*68:『なめ、敵』kindle版換算21%(位置No.4781中 966)

*69:横田順彌會津信吾著『快男児 押川春浪』p.182「雄飛――写真雑誌時代」

*70:集英社刊(集英社文庫)、横田順彌著『日本SFこてん古典[3]未来への扉』p.82、「第45回 謎のSF作家 渋江保のこと」

*71:日本SF精神史Kindle版27%(位置No.3229中 860)~、「第三章 覇権的カタルシスへの展望――国権小説と架空史小説」世界への躍進を目指して――国権的政治小説の萌芽 を参考にしました。

*72:日本SF精神史Kindle版28%(位置No.3229中 869)

*73:日本SF精神史Kindle版35%(位置No.3229中 1103)

*74:日本SF精神史Kindle版36%(位置No.3229中 1122)

*75:日本SF精神史Kindle版36%(位置No.3229中 1122)~を参考にしました

*76:集英社刊(集英社文庫)、横田順彌著『日本SFこてん古典[1]宇宙への飛翔』p.351~2、「第19回 秀吉、地獄を征服す」より

*77:日本SF精神史Kindle版49%(位置No.3229中 1563)

*78:『快男児 押川春浪』p.221~222「第六章 壮遊――<冒険世界>2」

*79:新潮社刊、星新一『夜明けあと』Kindle版78%(位置No.3456中 2669)、●明治三十九年(一九〇六)より

*80:記者という経歴やという下の名前は、明治一八年(1885年)や明治一九年に描いた十三年未来記』(明治一七三年を舞台に国会開設150年を振り返る)政治小説中梅』が『日本SF精神史』に取り上げられた記者・政治家の末広を思わせる名前です。鉄腸は讒謗律・新聞紙条例の制定者を茶化し、入獄経験がありますが、女装経験はさすがにないっぽい。

*81:PHP研究所刊、横田順彌著『明治「空想小説」コレクション』p.93、「2●未来を覗く人々」(六)より。同氏による類似した言及は「星製薬のPR小説」筑摩書房刊『百年前の二十世紀』p.147「4 その他の未来予測」星一と『三十年後』より)などもある。

*82:日本SF精神史Kindle版30%(位置No.3229中 935)~、第三章内 『浮城物語』――明治中期冒険小説の白眉 を参考にしました。

*83:この不明性は短編集収録の最新版でより強められています。(富江の第一作を称賛する声で並べられた作家は現行版の「ブロンテ女史」ではなく、『結晶銀河』収録版では虚構とわかるイプセン女史」でした。)

*84:かつて「小説のていをなしていない」自作を自分で焚書したと噂されるフジが、富江の『前編』に影響され、再び原稿を(けっきょく『後編』としては形にならなかった文章を)無数に書き。そして、フジがかつて唱えたタイムパラドックスについて乗り越えた時間論を唱えたおとらの『後編』を(おそらく)受けて、自論と正反対の考えに至った(らしい)フジが、その草稿をもとに「小説」を数十作と書き発表したことによって。{この辺の劇中人物が創作した物やその変化に覗かせるキャラの経糸横糸の動きも面白いなぁと思います。(「選ばれた人間なんです」の風聞も、イェイツ演劇のさいの役割振りを受けてのものだろうし、無駄がない作劇だ)}

*85:『魔の眼に魅されて』p.215を参考にしました。

*86:『魔の眼に魅されて』p.215~6を参考にしました。

*87:(リンク先;インターネット・アーカイブ所蔵、HIDEOBLOG、伊藤計劃『エクストラポレーション礼賛』

*88:『SFマガジン 2011年7月号』

*89:にじさんじ早川書房といえば、戯曲マータイムマシン・ブルース』刊行を記念した『SFマガジン』特別企画として、月ノ美兎委員長がヨーロッパ企画の魅力を語ったりもしていました。

*90:余談ですが『京大SF・幻想文学研究会ブログ』では読書会や例会、他大イベントの参加録などさまざまな記事が載せられていて、サークル活動やファンダムってどんなものか、ありがたいことに部外者のぼくでもほんのり味わうことができます。

 世代や記事執筆者・読書会題材作品によって記事の雰囲気もだいぶ違っており、そこを読むのもたのしい。

 

{かつて読ませてもらったときは、どうしても文量があったり深掘りできたりする記事に関心がむかってしまったんですけど、今となっては(ぼくzzz_zzzz自身も、「じぶんが読みたいと思うような感想・お絵描きブログをつくろう!」とこのブログを立ちあげたものの、当初の理想とは裏腹なただの身辺雑記ブログとなっている現状からすれば)、むしろコンパクトな内容でもきちんと記事としてアップしてる読書会報告へ「えらい……」と思うようになりました}

 

 現在の京大SF・幻想研はnoteでアカウントを作成されたようで、「ネットでの記事はそちらへ移っていくのかな?」という感じ? いやワカラン……。{会員さんの個人blogで投稿されていた最近の読書会のようすなんかもnoteへ行くんでしょうか?}noteによる作品の紹介記事も、作品の魅力をそれぞれ別角度から伝える良記事ですね。

*91:というかその辺のうまみを追いかけちゃうと、読書期間が倍あっても足りなさそうなんですよね……

 語り手を文章の途中で突然交代したり、「(人名)」「あなた」などの名詞を一意にさだめず多義的にしたりなどの混交した面白い表現は、『美亜羽』のほかこの短編集収録では最新の『ひかりより~』などにもみられることです。

 そして、『美亜羽』においてはR・A・ラファティロコダイルとアリゲーターよ、クレム』からのオマージュである(だろう)ことが伴名氏じしんの口から語られており、ほかにも、そうした人称の混交・名詞の多義的な語りは伴名氏が長文解説を寄せた生の夢』など飛浩隆作品に見られたり、『視神経』さんの『美亜羽』評に出てきた(伴名氏も同人誌で解説したこともあるという)名秀明氏の作風でもうかがえたりするそうなんですよね。先行作・作家の試みとその面白味と、伴名氏の作劇との比較するのはぜったい楽しいことですが、しかし、また長旅になるでしょう。へたしなくても今以上の。『チョコボの不思議なダンジョン』第3ダンジョンへ挑むような。そちらの楽しみへ踏み出すまえに、とりあえず一旦帰宅したというのがこの感想文です。

*92:もっともこの「インプラント」という語彙自体は伴名氏の発明というわけではなく、イーガンなど既存の脳いじりSFでも使われています。

*93:某作との創作上での関連性は、伴名氏自身がのべていることですが。ほかの作品にもフムフムと思える部分があります。『ひかりより~』の手紙・送り手の意図と、送ったあとどうなったかとか。そういった方向では、未来だけでなく過去作だって味わい深くなります。『ホーリー~』の手紙に至る道のりとして、『美亜羽』の仕様書と見比べてみたりとか。

*94:『なめ、敵』収録版では、初出の同人誌『改変歴史SFアンソロジー』収録版から「もう一つの笑顔は~望外の反応に戸惑うような笑顔――」の義姉がヴィーカの誕生日を手作りケーキと共に祝ってくれた場面が丸々加筆挿入され、終盤のエモさに磨きがかけられています。

*95:『なめ、敵』kindle版56%(位置No.4781中2626)

*96:『なめ、敵』kindle版56%(位置No.4781中2651)

*97:『なめ、敵』kindle版60%(位置No.2849)

*98:『なめ、敵』kindle版59%(位置No.2802)

*99:『なめ、敵』kindle版 67%(位置No.3195)

*100:『なめ、敵』kindle版59%(位置No.2784)

*101:『なめ、敵』kindle版61%(位置No.2910)

*102:『なめ、敵』kindle版63%(位置No.2972)

*103:『なめ、敵』kindle版66%(位置No.3104)

*104:『なめ、敵』kindle版66%(位置No.3140)

*105:『なめ、敵』kindle版65%(位置No.3055)

*106:『なめ、敵』kindle版65%(位置No.3058)

*107:『なめ、敵』kindle版65%(位置No.3059)

*108:『なめ、敵』kindle版65%(位置No.3064)

*109:『なめ、敵』kindle版65%(位置No.3067)

*110:『なめ、敵』kindle版56%(位置No.2661)

*111:『なめ、敵』kindle版57%(位置No.2671)

*112:『なめ、敵』kindle版59%(位置No. 2813)

*113:水の妖ヴォジャノーイの名を関したハイテクAIなども、たぶん何か由来があるんだろうと思うんですが、今のところなんだかよくわかりません。また、人間が――更には湖のプランクトンが――計算資源につかわれているというネタも、いまいち「これだ!」という把握ができていません。

 DNAや粘菌などを用いたバイオコンピュータ研究を反映した結果や、あるいは円城塔Self-Reference ENGINE(先行するシンギュラリティ物。伴名氏は既読で初出不明・詳細不明ながら書評しているそう。)で巨大知性体が複雑な計算回路のために複雑な自然現象自体を用いたといった書き込みや、はたまた演算資源として植物を用いるようになった津久井五月著『コルヌトピア』(『SFマガジン』19年10月号論考p.42で伴名氏が読んでいることが確認できる。)などを受けてのものなのかもしれませんが、それ以外にもなにかあるやも。

 ……たとえば、米ウィキペディア『History of computing in the Soviet Union(ソ連のコンピュータ史)の幕開けであるウラジミール・ルキアノフのアナログ・コンピュータとか? 1954年のカラクーム運河の設計や70年代のバイカル・アムール鉄道の建設にも使われたと云うソ連の初期のアナログ・コンピュータ油積分器(Гидравлический интегратор)ないし水積分器(Water integrator)は、その名のとおり相互接続されたパイプとポンプを流れる液体によって偏微分方程式を解いたんだとか。

*114:「自作小説内にカジンスキーの理論を載せる」のソースを下記に引用。

以上あげた類推を吟味し、図式を検討してゆくうちに、むろんわたしは、これは大雑把な近似値計算程度のものにすぎないと考えてはいたが、しかし、まあ、これが完全には正しくないとしても、それでも一般に発表☆すれば、やはり科学的討議のための資料となり、新しい問題に対するより効果的な研究に他の研究者を導く刺激ともなって、多少なりとも利益をもたらさないはずはない(略)

  ☆ その後、この概要は、B・B・カジンスキー著、≪思考伝達≫(モスクワ、一九二三年)、V・L・ドゥーロフ著≪動物の調教≫(モスクワ、一九二四年、二七〇頁)、A・R・ベリャーエフ作≪宇宙の元首≫(レニングラード、一九二九年、一六九頁)のなかで発表された。

   新水社刊、B・B・カジンスキー著『生物学的無線通信』p.34、第一章「●光明への最初の踏みだし」本文と☆本文中の著者による注より

  ベリャーエフの人気ある科学空想小説≪宇宙の元首≫の主要登場人物のひとりカチンスキーは、カジンスキーをモデルとしたものである。生物学的無線通信についてのカジンスキーの考え、また彼の一連の考察と観察が、この作品の基本的な科学的材料となっているのだ。

   『生物学的無線通信』p.232、医学博士補V・A・コーザクによる解説より

 

*115:『アニマ・ソラリス』さんからくわしく引用すると……

伊藤 ▶(略)冷戦時代の「終わり」の在り方というのは、核戦争で人類滅亡、または文明完全崩壊、だったわけですが、それはいまのわたしたちの「終末」ではないだろう、と。「終わらない日常」というのが学園ものに代表されるモラトリアムもの、あるいはセカイ系で頻繁に扱われた時期がありましたが、いまのわたし個人の実感として、終わらないのは日常でなくむしろ終末である、と。終わらない終末、日々それぞれが世界の終わりであるような日常、そういう感覚があるだろう、と。

(略)

伊藤 ▶「一人称で戦争を描く、主人公は成熟していない、成熟が不可能なテクノロジーがあるからである」というのは最初から決めていました。ある種のテクノロジーによって、戦場という、それこそ身も蓋もない圧倒的な現実のさなかに在ってもなお成熟することが封じられ、それをナイーブな一人称で描く、というコンセプトです。

雀部 ▶(略)その成熟が不可能なテクノロジーというのは、作中に出てくる予防処置としてのカウンセリングと薬剤による戦闘感情調整のことでしょうか。

伊藤 ▶そうですね。それと、社会全体が悲惨に対して「無関心」になっている、それを可能にしているライフスタイルも含みます。社会状況が先鋭化した針先に、感情調整などのテクノロジーが表象として現出している、ということです。社会そのものが、テクノロジーを経由して、個に投影される、という。

 だから、「虐殺」をセカイ系だという方もいらっしゃたんですけど、それはちょっと待て、違う、流入経路が逆方向だ、と(笑)個がセカイに直結しているんじゃなくて、セカイが個に直結している。逆セカイ系なんです。

   アニマソラリス掲載、『虐殺器官』著者インタビューより

 テクノロジーの細部について、ちょっと補足しておきましょう。当ブログの過去記事萌えクストラポレーション礼賛;『A.G.C.T. 』『月刊 来栖川綾香』感想で話したことの繰り返しになっちゃいますが。

 『虐殺器官』は劇中アメリカ特殊部隊員である語り手の目をつうじて、体内のナノマシンで生命を維持したり、脳の痛覚を送る信号にナノマシンでマスキングをかけることにより "自身の負傷はわかるけど(感情をかき乱し活動に支障をきたす)痛みや苦痛は表れない" という至近未来世界の兵士へ採用されたテクノロジーについて描いていて、そしてこれらがどうやら"戦闘継続性技術(パーシステンス・イン・コンバット)"の賜物であるらしいことが記されています。

 この用語は伊藤氏の造語ではなく、当時のアメリカ軍で研究されていた実在の計画でした。日本版WIRED誌2003年10月15日づけの記事でも報じられているとおり、その研究の一つは痛みを化学作用によって無視するワクチンの開発です。

 おそらく伊藤氏は、ワクチンのかわりにナノマシンとラマチャンドラン著『脳のなかの幽霊』で紹介されていた現実の症例である痛覚失象徴(=脳内の処理によって痛みを無視してしまう症状)を組み合わせ、劇中のディテールを詰めたのでしょう。

 こういう、劇中事物や劇中人物の意見について、多くは語られていないけどじっさいの知見に基づいているということは、伊藤作品には結構ある。

*116:余談ですが、でびる様のおそろしさは、①去年今年と新年すごろく大会をひらいて他配信者とプレイさせ手玉にころがし、②秋は運動会をひらいて他配信者にプレイさせ掌で泳がせたりした配信で拝むことができます。とくに去年の新春すごろくは、絶命の絶叫が何度もひびくおそろしい配信でした。(ぼくの視聴日記はこちらそのほかオススメは鷹宮リオン様とのお料理配信ですね「お前マジでア゛ア゛ア゛な゛んでそんな゛包丁の持ち方するんだよぉ!?」「も゛ぉ゛ぉぉじゃあやって!」「ハイ……」。最近のでびるるコラボ『零~刺青の聲~』実況プレイ配信とか、オフコラボ配信とか)もおそろしかったぞ!「電話するまえに電話してほしいですよね!」「……そうだね!」)(「それすごい難しいヤツだーダメだそれー!」「たんたんたん、あい♪」ウッキー(いいカンジだよ)「……なんで?」

*117:収録作『最愛の一皿』はARとそして分子ガストロノミーの延長線上の料理を扱った作品で。『美亜羽へ贈る拳銃』のイルミネーションめいた分子ガストロノミー料理や、『白萩家食卓眺望』の共感覚がみせるふしぎな料理の世界がおすきなかたにオススメです。

*118:S・バクスター著『ゼムリャー』=『SFマガジン』1997年10月 496号収録作品。ただし伴名氏が参照したという言もなければ、読んでいるかどうかさえ不明です。{献辞された京大SF幻想研出身者の曽根卓氏が読んだり、もうひとかた(全公開アカですけどHNでやられてる趣味アカっぽいのでリンクは張りません。)から一緒にトリビュート本を出した同研出身者へお勧めされたりしている姿は確認できています}

*119:両作の終盤の展開について申し訳程度にネタバレ配慮し伏せておくと、(以下、白字→)件の英雄が劇中の神秘により(『ゼムリャー』では金星で発生・進化した謎生物により。『シンギュラリティ~』ではAIが技術的特異点に達した科学技術により)殺されたうえで異形の存在として復活し、再び故郷を飛んで笑みを浮かべる。

*120:『なめ、その敵 』Kindle版 66%(位置No.3107)

*121:『ミグ-25ソ連脱出』p.226

*122:『ミグ-25ソ連脱出』p.228

*123:原文に当たってませんが、たぶん『スターリンの恐怖政治(The Great Terror: Stalin's Purge of the Thirties)』でしょうか?

*124:余談も余談なんですが、”衛星軌道レベルで統制の敷かれた共産主義国家に、空を飛んで叛逆するスパルタクス”というのがトンチキな絵空事じゃなくて、単に現実の人類史の一ページだったんだというのは驚きでしたね。勉強になりました……。

*125:『ミグ‐25ソ連脱出』p.32

*126:『ミグ‐25ソ連脱出』p.42

*127:『ミグ‐25ソ連脱出』p.80

*128:

「わしらの救い主様、守り神様が身罷りなすった!」女の人が悲しみの声をあげた。「これから、だれがわしらの面倒をみてくださるんじゃろう?」

 スターリン死去の報せがこの村にも届いたのである。ソ連の報道機関はスターリンを常に神様のように書きたててきたので、村でもそのように思われていた。

   パシフィカ社刊、ジョン・バロン著『ミグ‐25ソ連脱出 ベレンコは、なぜ祖国を見捨てたか』p.29

 

*129:『ミグ‐25ソ連脱出』p.45

*130:『ミグ‐25ソ連脱出』p.49

*131:『ミグ‐25ソ連脱出』p.108

*132:『ミグ‐25ソ連脱出』p.64

*133:『ミグ‐25ソ連脱出』p.108

*134:『ミグ‐25ソ連脱出』p.130

*135:『ミグ‐25ソ連脱出』p.112

*136:『ミグ‐25ソ連脱出』p.114

*137:2018年3月22日出版。『改変歴史SFアンソロジー』は2018年5月6日文学フリマが初出。伴名氏が『ロシアの女性誌』を読んだという情報はないし、たとえ読んでいたとしても執筆に活かせはできないだろうスパンですね……。

*138:群像社(ユーラシア文庫)刊、高柳聡子著『ロシアの女性誌』p.72より。

*139:『ロシアの女性誌』p.28より

*140:『ロシアの女性誌』p.27より

*141:「I was born on December 24,1922.」Anne Noggle 『A Dance with Death: Soviet Airwomen in World War II』Kindle版44%(位置No.3629中1579)

*142:

a Ukrainian settlement, a village; we were billeted in their houses. I was in a house where I was treated to a very good meal, and it was Easter time. The housewife cooked special cakes and eggs and other good things to eat.

   『 A Dance with Death』Kindle版20%(位置No.715)

*143:『なめ、敵』kindle版61%(位置No.2888)

*144:河出書房新社刊、飛浩隆『ポリフォニック・イリュージョン 初期作品+批評集成』Kindle版94%(4796中 4487)、「伊藤さんについて」

*145:『ポリフォニック・イリュージョン』Kindle版94%(4796中 4489)、「伊藤さんについて」

*146:いや『虐殺器官』の役目を終えた瞬間に溶け消える特殊部隊の侵入鞘とちがって、たぶん集配場へ跳んで戻っていくだけなんでしょうけど……。

*147:筑摩書房刊、佐藤亜紀著『小説のタクティクス』p.57、「群衆の中の小さな顔」Ⅲ

*148:筑摩書房刊、佐藤亜紀著『小説のタクティクス』p.173、「忠実な羊飼い」Ⅱ

*149:筑摩書房刊、佐藤亜紀著『小説のタクティクス』p.183、「「未来」は存在しない」Ⅰ

*150:虐殺器官kindle版33%(位置No.1533)、第二部 5より

*151:虐殺器官kindle版33%(位置No.1561)より

*152:Nizista掲載、『「Project Itoh」3作品一挙上映オールナイトイベントレポートが到着』より塩澤氏の言。「作品を読んで、もっとアクションを足してほしいと思ったんですが、お会いしたら「こう書き直します」という改稿案を、伊藤さんが既に持っていました。それはこちらが考えていたものと全く同じで、そこから「ムンバイ編」が加えられました。」

*153:『虐殺器官』kindle版87%(位置No.4113)、第五部 2

*154:『虐殺器官』kindle版87%(位置No.4124)

*155:『虐殺器官』kindle版87%(位置No. 4161)

*156:『虐殺器官』kindle版8%(位置No.336)、第一部 3

*157:『虐殺器官』kindle版14%(位置No.648)、第一部 4

*158:『虐殺器官』kindle版11%(位置No.477)、第一部 4

*159:早川書房刊(ハヤカワ文庫JA)、伊藤計劃『The Indifference Engine』kindle版32%(位置No.3634中 1151)、「Heaven scape」Chapter01

*160:びびび文庫刊、『終わりの花』電子書籍版(ver.1.0)p.303「あとがき」より。

*161:『SFマガジン2014年12月号』p.80~88

*162:『SFマガジン2014年12月号』p.85~86

*163:『太古の殻にくるまれて』は厳密にはその前項◆生まれ変わる世界で紹介されてるのですが、当項でも取り上げられています。

*164:『SFマガジン2014年12月号』p.100~101

*165:『SFマガジン2014年12月号』p.101上段28行~中段1行より。

*166:『SFマガジン2014年12月号』p.96~97

*167:『SFマガジン2014年12月号』p.97上段17行、20-21行より。

*168:『SFマガジン2014年12月号』p.47~51

*169:『SFマガジン2014年12月号』p.53~61

*170:『SFマガジン2014年12月号』p.66~69

*171:グーテンベルク21はさまざまな出版社からでた紙の書籍を電子化している会社なのですが、権利関係の扱いについて一部の作品について権利者から「無断使用された」と発表されたり・その経緯説明から底本の出版社ともやり取りされていない作品があることがわかったり『〈グーテンベルク21〉による『死が二人をわかつまで』解説の無断掲載について』解説者当人の経緯発表)、疑問視されたりしている会社です(。たとえば大森望氏のツイートなど

 なかには酒寄進一さん本人がご自身の過去の翻訳のグーテンベルク21による電子化をツイートされていたりと、権利関係が大丈夫だろうとわかるものもあるのですが、一方で、「電子書籍版でヴァンス「終末期の赤い地球」(グーテンベルク21社)を購入したら、末尾に『【お願い】翻訳者・日夏響氏の著作権の継承者の方をさがしております。お心あたりのある方からの連絡をお待ちしております。』とあり驚愕したことが。」なんて購入者からの声もあります。

 ぼく個人としては、「……大丈夫なのそれ? "見切り発車で売ったけど権利上やっぱりダメだったので配信中止にします"となっても困る……」と心配になってしまう。

 Amazonはさきごろも家電製品について類似品商法が話題になった通り、あやしい商品が取り扱われていないわけではなく、フィクション関係でもたとえば海外映画のビデオ流通にかんしては、有限会社フォワード(ラン・コーポレーション/WHDジャパン)という、たびたび識者から「権利者じゃないのに売ってる」旨が指摘されているメーカーの商品が流通してますし{たとえば正規の権利者が問題を確認し販売中止・フォワード社で回収となった(現在は別の会社マグザムより正規品が流通している)『吸血の群れ』のほか、そのまま流通中の『赤ちゃんよ、永遠に』『宇宙からのツタンカーメン』『ザ・ベイビー呪われた密室の恐怖』『ロザリー残酷な美少女』など}、すっごく気になります。どなたか詳しいかたお手数ですが教えてください。

*172:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、テッド・チャン『あなたの人生の物語』Kindle版92%(位置No.5678中5196)

*173:早川書房刊(ハヤカワ文庫JA)、長谷敏司『My Humanity』Kindle版24%(位置No.3842中 906)、「allo, toi, toi」より。

*174:『My Humanity』Kindle版25%(位置No.930)。

*175:{紙の文庫も表紙がポップで素敵だから迷うところですが}。後者には電書版後書きがあります{が、作品の影響元の開陳という点においては「文庫版あとがき(電書版ではこちらも収録!)で言われたのとほぼ変わらないかな?」って感じなので、文庫版持ってて本棚に困ってない人が新たに買い直すほどではないかも}

*176:『ポリフォニック・イリュージョン』kindle版67%(位置No.4796中 3155)

*177:このサイトは応用も載っているしとても詳しいのだけど、初歩的過ぎるのかそんなミスをおかすほどの低脳がいないのかFAQにも注意にもなぜか載っていない。