すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

『少女終末旅行トリビュート』感想

 先月は11年の京大SF幻想研による『伊藤計劃トリビュート』を読みました

 今月は18年の京大SF研+αによる『少女終末旅行トリビュート』を読みました。

hanfpen.booth.pm

 同人販売サイト『BOOTH』にて、電子書籍版を入手することができます。

 以下、感想。1万3千字くらい。

 

※以下、『少女終末旅行トリビュート』やつくみず著『少女終末旅行』のネタバレした感想です。ご注意ください※

 約言

 面白かったです。

 内容;『少女終末旅行』をトリビュートした小説5作と評論1作(うち二次創作が1作で一次が4作)です。

 記述;現代劇からSF色の強いもの、幻想的な色のものまで、一次創作二次創作評論なんでもござれ。

 ここ好き;『終末には向かない職業』の書き出し、『終止符は一つだけ』の大体、『終末少女と八岐の球場』の舞台設定。『もや』『少女通学旅行』の連作感、評論の雑味を削いだエレガントさ。あと表紙がかわいいです。

 

 

ざっと感想

 新潮社くらげバンチにて連載されたりWHITE FOX社によりアニメ化されたり*1などしたつくみず氏の漫画『少女終末旅行』を京大SF幻想研有志とプラスαの方々がトリビュートした作品集です。

 小説5作(うち二次創作1作、一次が4作)と評論が1作、イラスト数点が収録されています。最初の二次創作と最後の評論は、『少女終末旅行』を読んでからのほうがよいかもしれません。(二次創作は、原作を読んでなくても大丈夫な気がしますが、原作のネタバレがあるっちゃある。べつに「驚愕の事実!」みたいなものでもない気もするんですが、知ってしまったことをなかったことには出来ないという不可逆性はあるわけで、原作を読んでからのほうがよいかもと。評論は原作『少女終末旅行』について細かくエピソードや最後の方の内容まで触れるから、さすがに原作を読んでおいたほうがよさそう)

 どれも独立した作品なのでどれから読んでも大丈夫です。順番の妙もあるので、表紙から順番に読んでいくのもおすすめです。

 

 京大SF・幻想研で、『(任意の固有名詞)トリビュート』で……というところが読んだ一因ですけど、『伊藤計劃トリビュート』と執筆陣のかぶりは無いみたいです。こちらはこちらで面白い内容だし、かぶってないことで逆になおのこと凄いと思いましたね。層が分厚い。

 『伊藤計劃トリビュート』は題名のとおり伊藤氏という作家へのトリビュートでした。伊藤氏は作品数こそ少ないものの、扱うトピックも色々だったし芸の幅がひろかった。

 対する今作は、『少女終末旅行』という一作品へのトリビュート。全6巻のマンガで、劇中の登場人物も少数です、

「はてさて?」

「けっこう内容が絞られてきそうな?」

 と思ったんですが、こちらはこちらでバリエーション豊かでした。色々出てくるものですねぇ。『少女終末旅行』と執筆陣どちらにもポテンシャルの高さを感じます。

 

 わりあいどの作品もおなじくらい好きだし面白かったですが、ひとつ挙げるなら『終止符は一つだけ』かなあ。(『伊藤計劃トリビュート』での好きな作品もそうなんですけど)これはぼくが、ガジェットがごりごりと分かりやすく動いて理路を通してくれる作品によわいタチだからで、別の趣味のひとが読めばほかの作品の名前が挙がることと思います。

 また、自分が感想ブログを書き始めた手前、色々と背筋をのばす思いだったのは最後の評論ですね。

 

 大元の『少女終末旅行』とぼくとは、トリビュートを読むためにトリビュート元に手を出した程度の日の浅い関係ですが、それでも「ここはあすこじゃん」「そこをこう変えてきたのか!」みたいなことが思えるくらいに、大元の味を抽出しています。

  『トリビュート』であれこれ拾った装備や気持ちで、もういちど『少女終末旅行』を読んでみたくなりました。

 

 

各作感想

 (巻頭言)

 詩ですね。雰囲気があります。灰の匂いがあり頬を撫ぜる感覚があり味があり五感描写のすべてがあり、過去があり今があります。

 

 

  終末には向かない職業

 原作キャラが主役の二次創作ですね。最終6巻「43」と「44」とのあいだを描くエピソードで、チトが旅の道中で手に入れただいぶ昔の人の日記をユーリに読み聞かせつつ旅をつづけるお話です。4巻「32」(アニメ版最終話)で知らされる劇中世界情報なども話題に出てきます。ネタバレを気にするひとはご注意ください。

 ……とまあネタバレはあるにはありますが、原作未読者でも楽しめる作品だとも思います。

 

 お気に入りは書き出しです。 視点人物的なチトが感じる「ふつうの感覚」の範疇で、周囲の物事が十二分に描写されています。

 ケッテンクラートの荷台には限りがある。

 いつか読んだ本の中に、本来は二人乗りの戦車のはずが、車内には三人でも四人でも、あるいはそれ以上でも乗り組めるような無限の空間が広がっていて――という話があったことをチトは思い出す。

   カモガワ終末旅行社刊、『少女終末旅行トリビュート』p.8「終末には向かない職業」より

 ケッテンクラートという耳馴染みない謎の代物は、どうやら二人乗りの戦車くらいの大きさ・形状のもので、持ち物を厳選しないといけないほど狭いらしい……ということが、乗り手の少女が読んだ本からの連想をつうじて、読者であるぼくに分かる。*2

 わかると同時に、そのようなイメージを思い描く少女が読書家であること、その道のりは易しくはなさそうなことなども伝わる(。あるモノについての形容が、そう形容する者についての記述にもなっている。コスパがよい)。劇中世界で起きていることをそのまま書いているだけなのに、劇中にある事物の説明にもなっています。

 また、劇中人物の主観にくるんで事物のありようを描くことで、客観的な写実とことなる、ふんわりした味があるのもこの書き出しの好きなところですね。(と書くと語弊がありそうな……。写実でないこと・ふんわりした味があることは、実在感がないことを意味しません。チトの思い描いたイメージ自体はもっともらしくて、実在感がある)

 ここで思い出すのが原作の味です。『少女終末旅行』を読んでみて面白かったのが、絵も物語も説明的な部分が可能なかぎり除かれていて*3、にもかかわらず、こういう景色が建物がどこかにあるかも・これから生まれうるかもと思えるくらい、とても実在感があるということです。

 手描きらしい味のある、線が二重になったりはみ出したりする筆致による、配管などが無数にある建物などは、つくみず氏のたしかなデッサン力を感じさせる描写によってとても存在感がありますが、物語のなかでその機能がすべて明かされるわけでもなく*4、ともすれば視覚的な装飾であるようにも思えます。しかしそれがお風呂になったり楽器になったり、少女たちの五感を刺激する活劇の材料となって、彼女らの行動の範囲内ではとてつもない実体感がある。

 『終末に向かない職業』の書き出しの事物描写もまた、『少女終末旅行』の味が感じられる書き出しでした。

 

 

 (間の絵)

  『少女終末旅行』のふたりが瓦礫の中に佇む絵です。傾いた日本式の電柱に、空気が抜けてたるんだタイヤの四人乗り自動車。細かな瓦礫は折れた交通標識やらなにやら信号やら。原作ではこういう、いま・ここの廃墟はあまり見なかったかもしれません。

  十字マークの第二象限のところにドットがあったりとか、原作のデザインをよく見ている絵だなあと思います。

 

 

 もや

この世界はもやに包まれてると私は思ってて、旅行でもしないと息が詰まるなって

   『少女終末旅行トリビュート』p.29「もや」より

 現代日本らしい世界で、有休を/冬休みを使い海辺の町に来たふつうの会社員・慶留間/大学四回生だった加賀が出会う話です。成人済み女性週末旅行という感じ。

  27ページの地の文で具体的にひらかれているとおり、「もや」というのは「当たり障りのない世間話」p.27をしたりなど人々が何気なく送る日常のことのようです。

 モチーフのあつかいが丁寧だなあと思いました。(寒暖温冷の温度描写とか) 各舞台についての書き込みはソフトフォーカスというか、意図的に書き割り性をだしている舞台もあり、あまり細部まで踏み込まないざっくり一般的な領域で扱われることが少なくないのですが、そうした大まかな要素でも今作ならではのシーンとして活かされています。

 「ガラス戸を引いた」p.27さきの露天風呂でつよい冷気と熱気とで整っているところ、「湯気の向こう」p.27*5から現れた加賀と偶然にも出会った慶留間は、お定まりの自己紹介や手垢についた形容で両者の旅程をとらえあったあとp.28、彼女に誘われて自分一人では行かなかっただろう場所へ行き、昼夜でがらりと様子のかわった景色に驚かされたり、酒と疲れとで良い感じに曖昧になったりします。

 ……が、ふたりはやがて「機械的にサービス」がなされる普通の宿に戻らなければなりません。(この辺からはぼくの捉え方で、読む人によっては「え、それぜんぜん違くない?」と思うかも。詳しくは本文を読んでみて、確かめてみたください。)そして、ふたりにとって今泊まっているこの宿が目的地であるかその先に行くための通過点であるかというちがいがあり、ほかに5歳の年の差があり、社会に出ている者と出ていない者の違いがある。それによって慶留間は別人である加賀を(33ページで「彼女だっていずれは喉を詰まらせることになる」と考えているように)自分の若いころに寄せて考え過ぎてしまっていないかという気もぼくにはしましたし(そしてその正否は、5年後加賀がどうなっているか分からない以上何とも言えない)、31ページで「慶留間さんは出来てんですか、それ」と聞かれた彼女の返答が「THEもや」という感じでだいぶつらい。

 一方で、「こういうことを宿の広縁で言い合えたりすること自体が若くない? もやの払われた本音の青春って感じでよくない?」と、歳の差をこえテンプレを越えた二人の顔が見えてくるような無時間的な夜だと思いもしました。

{でも、そうしてもやが払われたなかで出てくるのが、すでにもやが内面化されたような己だという、更なるつらみもあるような。

 でも、(劇中の会話が下記のように出てきたものと作り手が意図しているかどうかは知りません、ぼくが読んでいてそう思うだけですが)言ったそばから正解ではない気が、自分の言いたいことではない気がしてならないけど喋るのを止められないということはあるなあとか、聞こえるのは定型のお説教だったり紋切り型の人生訓だけど自分のことを想ってくれているのはわかるとか、そのような形ででてくる顔というのはあるよなあ……とか。

 読んでいて色んな考えがぐるぐるします}

 翌朝について加賀は「なにか当りさわりのない返事をして、その場に適切なだけの手短さで別れを告げ」p.32、海の向こうへと――「水平線の向こう」p.33「ガラス張りになった壁の向こう」p.33*6へと旅立ちます。

 向こうから現れたひとが、向こうへと消えていく。

 文脈の整理と、そこから滲み出るなまっぽい実感とが魅力の作品でした。

 

 『もや』の作者は今トリビュート内で『少女通学旅行』という作品も書いており、そちらの感想で『もや』のモチーフの扱いの面白さをふくめ、また話をしていきます。合わせて読んで更においしいみたいな作品でした。

 

 

 終止符は一つだけ

 大気はどこまでもくすんだ暗水色だった。街全体が陽炎のように揺らめくような気がしている。同じ景観の繰り返しに脳が飽きてしまったのだとシィは思った。

   『少女終末旅行トリビュート』p.40、「終止符は一つだけ」より 

 地は瓦礫だらけ天は粉塵が覆って太陽をぼんやり霞ませる終末世界で、文明がないか調査するよう使命を受けた少女シィの旅のお話です。

 シィの旅のなかには街を闊歩する巨大機械があらわれたり、かまくら作りがあったり、自然現象が立てる音を聞いたり、都市の排水を見たり、人類の痕跡が感じられる箱モノを来訪したりなど、『少女終末旅行』のふたりの旅で見てきたようなシチュエーションが登場しますが、どこかが決定的に違えていて、孤独がつよい。違和感はどんどん大きくなって、終盤でひとつの理路が通されていきます。

 三人称の語りはシィの行動に寄り添いつつも一定の距離を保ち、最後のほうでぐーんと引いていく。その引き具合が途方もなくて、SFの楽しみの一つだなあと思います。

 今作の一つ前に掲載された『もや』で、現代日本だろう世界の会社員氏が漏らした比喩的な世界観が、つづいて載せられた『終止符では一つだけ』では、劇中世界をあらわす具体描写として登場しているのが面白いですね。

 1「瓦礫」では、「もはや見飽きた白灰色の石材」p.35の積み重なる瓦礫の山を探索し、37ページ下段からはじまる2「雪」では、「何もかもを白く覆い隠す」p.37雪景色に包まれます。3「博物館」ではこの項の最初に引用した、脳が飽きるほどの暗水色の世界。

 そんな白を基調とするぼんやりとした色彩や飽きるほど単調な光景がめだつなか、「緑色をした、半透明のオブジェクト」p.35について、5行をかけて視覚的なフォルムや握り心地といった触覚描写もまじえて説明されています。

 

 シィは旅のなかで自分の街のひとびととは違う存在と出会い、調査を終えます。

 シィが出会った彼らの考えはチトとユーリとちがっていて、この作品のたどりつく終末はなんとも寒々とした光景です。

 旅を終え一箇所に定住することになったシィは最終48ページで「煩わしい使命からも解放され、これからは生きるためだけに生きていく。それはとても幸福なことだと思う」と述べます。

 「宇宙の長い歴史のなかに溶けていって、混ざり合って、見分けがつかなくなっていく。どうしてもそれが許せなかったのです。」p.45

 シィが出会った存在は自身の行動理由をそう説明します。

 それにシィが同意するのはそれなりに納得のいくことです。彼らが否定しているのは、感想冒頭に引用したように景色に飽きをかんじたシィがそこから続けて述べた「こんな風に世界はいつか曖昧になっていって、にじみきった水彩画のようにとろけて混ざり合ってしまうのだと思った。」p.40と似た思いですから。

 「終わりを、終わらせたくないのです」p.45という劇中でシィが出会った存在の言葉は、アニメ版『少女終末旅行』のエンディング曲『More One Night』の歌い出し♪「終わるまでは終わらないよ」を思わせ、その後のセリフは「まるで歌っているようだった。」p.47と形容されもします。

 

 ただ、だからといって彼女が彼らと同じ結論に達しているかというと、どうでしょうか?

 緑のオブジェクトについて抱いた彼女の感覚、それを発掘した現場の真上で行なわれる破壊を見てシィが嘆いた「あっ、あっ、あー……」p.37という響きは、煩わしい使命を遂行しているだけのひとが出したものとは、とてもじゃないけどぼくには思えないのでした。

 

 

 終末少女と八岐の球場

 こうした一連のプレーを見て、ユイがひっそりとつぶやいた。

「分かりきってるのにな。……何が楽しいんだか」

 (略)

 その一方で、ユカリは、

「儀式だからねえ」

 と間延びした声で告げ、スコアブックにゴロアウトを示す記号と〇とを記入する。

 手のひらで太陽を隠しながら、ユイは空を見上げた。陽光が降り注いでいる。雲ひとつない、絶好の野球日和だ。

   『少女終末旅行トリビュート』p53、「終末少女と八岐の球場」より。(中略は引用者による)

  延々とつづく野球。そこではスコアの記録者も連綿とつがれてきていたのだが、当代125代目タカマが「全ての茶番を破壊する」と布告する。タカマの娘で次期126代目のユカリ、その友達のユイはその宣言を受け……というお話です。

 起源もよくわからないけれど、実りもないけど延々行われつづけること、それに野球が関係すること。その点でぼくは『オブ・ザ・ベースボール円城塔著。なぜだかよく分からないけど人が落ち続ける、どこかの州にある町ファウルズで、野球用具一式を支給される9人のレスキュー・チームの一員がその日々を語る小説。ラピュタが出てきたり、アリストテレスが出てきたり、さまざまな確率分布のお話がでてきたりする)を思い浮かべたりしましたけど、『八岐の球場』がそれとちがうのは、延々とつづくことが「伝統」と言い表されたり、さきの「125代目」や「忖度」などという言葉が出るとおり、平成の日本らしさがつよく打ち出された世界であるということです。

 「儀式ですから*7」みたいなセリフはともかく「神木」あたりから「うん?」と思い「いやなんでもかんでも結びつけるのは稼業民の悪いクセだ」と反省したのも束の間「『喧嘩稼業』! 『喧嘩稼業』だよコレ!! やっぱり『八岐の球場』の正体は『喧嘩稼業』だったんじゃないかぁぁ!!!」となりました。ただし、ぼくの『伊藤計劃トリビュート』感想とちがって(だめなやつは文脈など無視してよくわからないタイミングで自分だけが楽しいネタを挿し込んでしまうんです……)、今作のそれはそういう内輪の悪ノリ感はなく、お話の中でしっかり咀嚼されています。

 友ユカリのためにバッターボックスに立つユイは、「倒れることも、見逃すことも許されない、極限状態」p.78に追い込まれ(ボックスはボクシングリングじゃなく本当にバッターボックスです。どういうことなの……?)、それを今作は"煉獄"と表現しています。これは木多康昭著『喧嘩商売』『喧嘩稼業』シリーズに出てくる"倒れることも許されない"同名の必殺コンボ”煉獄”から来ていますけど、本家の煉獄は技をしかけたひとが手を止めないかぎり煉獄を撃たれている側は自分の意志では抜け出せない技です*8

 対する『八岐の球場』の煉獄は、ユイの企みにたいして対策を打ったタカマの手であって、ユイ(煉獄でいためつけられている側)が抜けたいと思えば自分から抜け出せることのできる状況です。

 友だちのことを想わなければ、やめることができる。友だちのことを想いつづける限り永遠につづく……かもしれないけど、それはそれで緩慢な死と変わらないのかもしれない。現状の、真夏日のなか延々代々肌を焼きつづけている野球みたいに。

 ユカリのことを想うとはどういうことか? ユイが死ぬ気で考えた末の結論とは?

 

 また、甲子園のカット問題のほか、野球ゲーム『パワプロ』やら野球漫画のアレやらと、野球にかんすることならフィクションまでもが取り込まれた『八岐球場』{作者のツイッターを見るに野球全般に詳しいかたのようなので、この辺も時代を反映したモチーフ選択という感じなのかな。いまや地上波で広く放送され話題にされるの、甲子園くらいでは? ……という印象が、野球にうといぼくにはあります。 (プロ野球のレギュラーシーズンが地上波で流れ、試合が長引いて後番組が繰り下げ放送される光景はどこへやら……)}のありとあらゆる野球史に楔を打ち込むのが、野球漫画『泣くようぐいす』を打ち切られてしまったあの先生の作品、というところに意味があるのかもしれません。……野球が終わったって人生はつづく、そういうことなのかもしれません。

 

 『終末には向かない職業』と同じ作者さんによる一次創作で、どちらも記録することと、「やっても無意味なのでは」とやってる本人が思いもしてしまうことがトピックとして登場します。

 

 

 少女通学旅行

「<高校>に行きたいんです。どこへ向かえばありますか」

 一週間弱を費やした末、ようやくたどり着いたそのコミューンで、挨拶もそこそこに悠里が尋ねる。

   『少女終末旅行トリビュート』p.91、「少女通学旅行」より 

「……ったく、なにやってんだろ」

 (略)

 見たこともない<高校生>になりきって、思いつく限りの茶番劇を繰り広げてしまうと、強烈な脱力感が全身を包んだ。

   『少女終末旅行トリビュート』p.94、「少女通学旅行」より(中略は引用者による)

  自然が栄えているらしい終末世界で、沢を越え森を抜け<高校>へ向かう少女たちのお話です。

 『もや』と同じかたによる作で、原作のヒロイン像について一貫したイメージがあるんだなあと思いました。どちらも『少女終末旅行』のユーリ的な明るく雑だが行動的なひと(=『もや』では加賀、今作では悠里)が「行きましょう!」と誘って、落ち着いた読書家のひと(=『もや』では慶留間、今作では「私」)と一緒に(疲れるくらい遠くの)どこかへ歩くシーンがあります。{そしてその旅先で、落ち着いたひとは、昼夜でまったく別の光景になる世界を見たりする(p.29、p.95)}

 今作の悠里は語り手の「私」が疲れたあともあれこれ動く人物で、悠里がしたとあることを目撃した「私」は心地よい気だるさに浸りながらこんな述懐をします。

 過剰なほどの眩しさにも疲れ、ぬるいコンクリートの上に寝転がると、

   『少女終末旅行トリビュート』p.95、「少女通学旅行」より

 いっぽうの『もや』の加賀の行動(のひとつ)を慶留間は、下記のように表します。

 夜闇に慣れかけていた眼に、蛍光灯の輝きが眩しい。浴びるものをみな漂白するような、暴力的なまでの照明の下で、加賀はガラスケースの中身を物色して、ビールの缶をふたつ取り出す。

   『少女終末旅行トリビュート』p.28、「もや」より

 眩い光を演出したり、そのなかにいたりする存在。一貫している……。

 さて『もや』の慶留間は、「今日の予定も明日の行き先も、まるっきり決まってはいなかった。ただひとつ明後日にはもやの中へ、生温かくて薄暗い、明けることのない夜の中へと戻らなければならない」p.33と述懐したうえで、「夢から醒めたよう」p.33な気付きを得て終わります。

 いっぽう『少女通学旅行』の「私」は、「ぬるい」p.96上段コンクリートに寝転がって、悠里からの「ねえ、明日からどうしよっか」という問いに、「もうなんか、どうでもいいや……」p.96下段と呟きつつ「明日は明日できっと、予想外の何かに出会えるかも」p.96下段と展望をいだいて眠ります。

 面白いのは、「私」にとって予想外のできごとは、悠里にほぼ起因するものだということです。今作で「私」が過去の生徒の影を幻視するのは、『少女終末旅行』の5巻「37」で過去の住人を幻視した回のオマージュだと思いますけど、『少女終末旅行』が過去の人々を幻視するにいたったのは、複合的な要因のからんだ連想ゲームでした。

(廃墟探索中に「死後の世界が実在するか?」議論がなされ、ユーリが「やっぱこう口から出るのかな」と魂が口から出るさまをイメージし、チトも「だすなだすな」とそのイメージを共有する*9⇒廃墟からチトが煙草を見つけ*10、ユーリが先導するかたちで自分たちも吸ってみる⇒至近過去に出会ったカナザワも*11近過去のに出会ったおじいちゃんも*12煙草を吸っていたことが思い出される⇒廃墟から「煙草を吸っている過去の人びと」の写真を見る*13紫煙と魂が比喩で結びつく*14⇒煙草の薬効が効き*15……というながれ)

 対する『少女通学旅行』の連想には、手に入れた本から学園のイメージを思い描いていた部分があるくらいなもので、学校を光らせるに至った給電ユニットの持ち主であるおじいさんから学生時代の思い出話を聞いたわけでもなければ、たとえば窓奥に生徒の描いた自画像やら落書きやらを見つけたわけでもなく、音楽室の音楽家肖像画群とか美術室の石膏像や理科室の人体模型が見えたとか人影になるようなものを見たわけでもないんですよね。で、その本からの「ごっこ」は、茶番劇らしい徒労感を生んだだけだった。ということは、悠里の活き活きとした生きざまに、「私」は在りし日の学校の活力を見出したと言っても過言ではないわけです。

 『もや』のように「私」と悠里が別の世代だったら?

 船を見送る側とそれに乗る側とで分かれていたなら?

 あるいは『もや』のように悠里の視点が描かれたら?

 『もや』と併載されたことで、今作のまどろむ温かさが、「いま、ふたりが一緒にいること」の奇跡的なすばらしさが、増幅されたような読後感でした。

 

 

 評論 世界の終わりの安らぎと、その系譜

  古今の終末モノを概観しモデル化し、そのうえで『少女終末旅行』の独自性を見いだそうという評論です。古今の終末モノのお話は98ページ半ばから始まって116ページまで(計18.5ページ)と評論の7割ちかくを占め、ジャンル論や時代考察・社会論的なおはなしを読みたいひとは楽しめるでしょう。

 『少女終末旅行』の検討は、117ページから125ページ頭まで(計8ページ)と評論の3割程度で、前者に比べると短めですが、前者を土台にしたうえでの作品論なので前述したような単純なページ数でははかれないボリュームがあり、作品論が読みたいひとも十二分に満足できます。

 

 ぼくはこうしてブログをつくって感想を書きはじめた身なので、今トリビュートのなかでいちばん読んでよかったと思ったのはこの評論かもしれません。評論のなかではいろいろな作品が取り上げられるわけですが、それは話の長いオタクのウンチクでもなければ(ちなみにぼくは数日まえに「面白い話なのでついでに書いておきましょう」とかって無関係の話をしたばかりです、頭の悪いオタクの脱線でもありません(ちなみにぼくは今感想『八岐球場』の項で我が身を反省したばかりです。『少女終末旅行』の面白さを語るうえで、総論的な話は避けて通れぬ道だった……というのが読んでいてわかります。

 たとえば、『少女終末旅行』の作品検討にうつった文章のなかで「終末という状況に際し、カナザワやイシイは、生を駆り立てる意味が失われた中に置いてそれぞれの意味を見出して生きている。」p.120といった一文がある箇所。

 これだけを抜き出すとなんてことない文章ですし、マンガ本編の当該エピソードにしたって、ぼくは(単体でそれぞれの人々との関わりについてふつうに楽しみながらも、特に引っかかることなく)さらっと読み進めてしまった箇所でした。

 しかしこの評論前半部を読んだうえでここに辿りつくと、がらりと別の景色が見えてきます。p.120のこの一文は、評論前半部で語られた、過去の終末モノについての話――たとえば「終末をきっかけとした人間関係の回復や、個人の人間としての再生、それぞれにとっての居場所=死に場所を見つける選択が描かれる」p.112と云う『終末の過ごし方』についてだとか――を思い起こさせます。

(読んでいて想像力をいろいろかきたてられる刺激的な評論です。

 ぼくはそこからさらに、

「あっカナザワやイシイが主人公ふたりよりも年上で、彼らより上の世代だろう"おじいさん"が人々とがっつり対立・戦闘をしていたところ。ここも、今評論の終末モノ時代別変遷と照らし合わせてなにか考えられないかな?」

 とちょっと思ったりしました。)

 

 終末モノを眺めていって、「しかつめらしい終末」モノと「安らかな終末」モノという異なるスタンスの作品たちを見出したうえで、それらはおおむね発表年代の違いとも言えそうだ……というのが確かめられたところでこの評論は、「◆反映されている気分」章p.106~のなかで、終末モノのスタンスの違いについてもう一点もっと詳しく見ていき、なぜその違いがあるのかという点について一つの推測を立てます。

「時代の気分をある程度反映してのことではないかと思う」

 この推測は、「ここから先は本当に個人的な仮説なので、与太話と取ってもらって構わないけれども」p.107と前置きしたうえでのものですが、それが評者の謙遜なのか否か詳細は本文を読んでもらうこととして、ぼくが語りたいのはべつのところ。

 そのなかに、

「手の届く範囲の、睡眠や食べるということの方が大事になってくる。」p.107

 という一文があります。

 ここにトピックの整理が見えて、勉強になりました。

 評論内の作品紹介をいくつかながめていきましょう。「アル中の映画脚本家がそれが原因でハリウッドを追われ、治療をあきらめてラスベガスで死ぬまで飲んで暮らすことを決める。」p.111というあらすじのマイク・フィギス監督『リービング・ラスベガス。「主人公たちがゾンビに取り囲まれて、でもショッピングセンターの中だから、食料品もあれば服でも武器でもなんでもある。」p.114荒木飛呂彦氏の評論『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』で説明もされるジョージ・A・ロメロ監督『ゾンビ』……など、"終末モノ的な味わいのある作品"を、今評論は"飲み食い"と紐づけて取り上げたうえで、『少女終末旅行』のふたりの行動のスタンスの一つを「食料という存続につながるものを求めているからでもある」p.120とし、そしてまさしく食料を探すお話であるところの啓蒙書『チーズはどこに消えた?』について触れます。

 ただ『チーズはどこに消えた?』のチーズは食糧のことではなく、人生の充足に結びつく「何か」の象徴だった、では『少女終末旅行』の「何か」とは? ……と話が転がっていきます。

 

 執筆者のhighland氏は、評論で扱った以外にも、たくさんの作品や言論を渉猟されたことだろうと思うんですが、調べたものを雑然と全部出しするんでなく、きちんと話題や焦点が絞られてい(ることがうかがえ)て、エレガントな評論だなあと思いました。

 

 

 論の運びかたばかり話してしまいましたが、劇中に表紙が登場した実在書物の内容を取り上げ『少女終末旅行』のふたりと照らし合わせた論の中身自体も面白いです。

 

   評論から『トリビュート』収録作を読み直す

 また、この評論から、今トリビュート収録作を読み直したりするのもよさそうだと思いました。

 たとえば121ページ下段からの「◆終末に対置される生」で論じられること。

 今評論では、『少女終末旅行』6巻「47」134ページ*16第3コマからはじまる一連の会話を下記のように引用して、それと劇中に登場した実在書物との関連性を論じていきます。

「…私不安だったんだ。こんなに世界が広いのに…何も知らずに自分が消えてしまうのが」

   『少女終末旅行トリビュート』p.122「評論 世界の終わりの安らぎと、その系譜」内「◆終末に対置される生」より(句読点などを引用元評論者が適宜補足したうえでの『少女終末旅行』6巻47話から孫引き)

  ここに似たやり取りは、今トリビュートのそこかしこに覗けます。

 チトは図書館の本棚を思い出そうとする。手帳の横に並んでいた本の表紙は、果たしてどのようなものだったか。しかし言葉の宇宙のような果てしない景色が続いていたこともあって、記憶はすっかり混濁してしまっていた。

   『少女終末旅行トリビュート』p18、「終末には向かない職業」より

 海は、昼に遠くから見たのとは違っていた。ちっぽけな存在を丸ごと呑み込んでゆく、ひたすらに巨大で曖昧な集合というような、わたしが抱いた解釈

   少女終末旅行トリビュート』p29、「もや」より

宇宙の長い歴史のなかに溶けていって、混ざり合って、見分けがつかなくなっていく。どうしてもそれが許せなかったのです。

   『少女終末旅行トリビュート』p45、「終止符は一つだけ」より

 この世のことに意味なんてあるのだろうか、と思ったときがある。目に映る景色も、周りで騒ぎ立てるクラスメイトも、そして自分自身でさえも、広い広い宇宙のスケールで考えれば実にちっぽけな存在で、そんな中で生きていくことに、何の見出せなかったときが。

   『少女終末旅行トリビュート』p50、「終末少女と八岐の球場」より

<高校>はだだっ広くて誰もいない、ただただ寂しいだけの場所だった。わかりきっていたことだったけど、そこには際どい制服を着た女の子たちも、やたらに厳しい生活指導の教師もいなかった。何百という生徒たちのさざめきや、決まった時刻になるチャイムさえなかった。

   『少女終末旅行トリビュート』p94、「少女通学旅行」より

  各作でどのようなかたちであらわれていて、それがどのような展開を見せるのか? それに注目してみるなどなど、さまざまな補助線になりそうです。

 

 あるいは、この評論には、終末モノ(の取り扱いかた)と時代の空気との影響関係を語ったところがあります。そうした視点で今トリビュートをふりかえってみると、現代日本を舞台とした『もや』、『もや』劇中人物がかかえた比喩としてのもやをそのまま世界の具体描写にしたような『終止符は一つだけ』、平成日本らしさを打ち出し延々つづく「茶番」に嫌気がさしてしまった父と戦う『終末少女と八岐の球場』、そして廃墟となった学園で本で読んだ学園モノの「茶番」をしてみて強力な脱力感に身を包まれてしまう『少女通学旅行』……と、これらもまた大なり小なり、いま・ここの空気を取り扱っているように思えました。各作がこの空気とどのような関係を築いている・いくのか?

 そういったところから読み直してみるのも、また、面白いのではないかなあと思いました。

 

 

更新履歴

 09/11 アップ。(1万1千字)

 ~09/12 夕方 何度かの微修正。(1万3千字)

*1:アマプラやらネトフリやらの対象作品らしいです。

*2:「分かる」というのは文字どおりで、白状するとぼくはこの辺の書き出しを読むまでは『少女終末旅行』について知識ゼロでした。原作を開いてみて「おっこれか~」となりました。(アニメの主題歌?は『あきばっか~の』で取り上げられたことがあるから知っている程度)

*3:少女ふたりの行動のなかで知れること以上の背景がわからないけどそれなりに察せられはしますが。

*4:まあこれはこれで現実的だという見方もあります。いまここを生きるぼくたちだって、街の建物がどんな設計思想でどんな構造計算でどんな工法で建っているかなんて知ってはいません

*5:湯気という、もやを連想させる小道具の向こう

*6:ガラスはp.27下段の露天風呂との仕切りでも出てきましたが、ガラスも水平線も、冒頭p.26から登場しています。

*7:上に引用したとおり「ですから」ではない。余談ですが、「儀式ですから」でググると一番上に『喧嘩商売bot』が来るんですね……シークレットウィンドウからでも同様。びっくりしました。

*8:設計思想的には。

*9:少女終末旅行』5巻kindle換算p.89(紙の印字でp.87)第1コマ

*10:少女終末旅行』5巻kindle換算p.93(紙の印字でp.91)第2コマ

*11:少女終末旅行』5巻kindle換算p.93紙の印字でp.91)第3コマ

*12:少女終末旅行』5巻kindle換算p.95(紙の印字でp.93)第4コマ

*13:少女終末旅行』5巻kindle換算p.95(紙の印字でp.93)第5コマ

*14:少女終末旅行』5巻kindle換算p.96(紙の印字でp.94)第1コマ

*15:少女終末旅行』5巻kindle換算p.96(紙の印字でp.95)第2コマ

*16:紙の印字。kindle版では136ページ。