先週はSF作家チャールズ・ストロス氏のSF語りを勝手に訳して紹介しました。
今週はSF作家グレッグ・イーガン氏の少年時代の回想記『Born Again,Briefly』を勝手に訳したうえで、現在電子書籍が半額セール中(20年1/6まで)の彼の作品などを紹介します。12700字くらい(うち訳文5300字くらい)
訳した人・なぜ訳したのか?
英検3級どまりです。アップした理由は2点、すごく面白い内容でぼくのメモ帳にとどめておくのはもったいないと思ったのと、英語ワカラン御当地ネタもピンとこないぼくが原語とgoogle翻訳とgoogleとを往復して読むのはたいへん面倒なので、再読用に日本語文章を残しておきたかったからです。(致命的な誤読・誤訳があったら指摘してもらえるかもというのもある)
タイトルからしてもう訳がアレなように、大分アレなはずです。
Google翻訳した時点で正しそうなところも雰囲気で味つけしたし、グーグル様でもよくわからないところはおれ様がその日の気分で勘ぐることでそれっぽい感じにごまかしました。
イーガン氏の原文の語り口は一文一文がながくて、グーグル様でもなかなか苦労されていました。でも論旨は明瞭だと思うので、大学生以上は原文を当たってくれたほうが良いでしょう。
著作権的にダメな気がしますがよく分かってません。わかるような知恵と知識の持ち主であれば英検3級で止まってません。「ダメですけど! 権利侵害なんですけど!?」と義憤したイーガン氏や関係者、法律に強いかたは仰ってください。消します。
もし記事のなかで、文意が不明なところがあるとすればイーガン氏ではなく訳したぼくの問題です。
内容ざっと紹介
SF作家グレッグ・イーガン氏が、子ども時代いかにしてキリスト教に目覚め、そして信じなくなったのか。自身の家庭をざっと眺めたのち、熱心な信者だった兄との思い出を中心に回想します。(1950語くらい)
コンパクトなサイズのエッセイながら、まさしく信仰にめざめた瞬間が描かれ、信者となってから参加した祈祷会や礼拝のもようなども興味深いです。
ふつうのキリスト教家庭の子供たちの――カルトでもなければアンチでもない、フィクションで取り上げられるような過激さのない、ふつうの信心の人々の――暮らしぶりが知れるという点で、作者に興味のないひとにとっても面白く読めそうだなと思いました。
(ただまあ、回想される時代は1973~80年行くかどうかでしょうからもう50年近く前ですが)
イーガン氏の回想がなぜこうも簡潔なのか、体験時の年齢や回顧に至るまでの歳月の影響も否定できませんが、短編の名手としても有名なイーガン氏の要点をよく整理した筆味によるところもあるでしょう。こんな身近なエッセイでも、対比と変奏が見られます。
ティーン時代のグレッグ少年が、自身の信仰と科学的な知見とになんとか折り合いをつけようと捏ねる理屈っぽい思考も楽しいです。こうした理屈に光るものを感じたかたでイーガン作品未読のかたは、ぜひ作家となった氏の小説を手に取ってみてください。きっと楽しい時間が過ごせることでしょう。
記事訳文
『Born Again, Briefly(新生したこと、簡単に)』
(グレッグ・イーガン氏ホームページ、2010年7月11日のエッセイより。※ただし文中のリンクは訳者が付け加えたもの※)
12歳から20代半ばにわたる十数年の間、わたしはどんな宗教の哲学的な主張についても説得力ある議論と出会ったことがないというのに、神は実在するのだと論争の余地ないほど直に肌に確信していました。
わたしの父は、子供に教会へ行くよう勧める程度にはそれなりに敬虔な英国国教会信徒でした;ときどき父は日曜学校で教えていましたが、家のなかへはめったに宗教的な議論を持ち込みませんでした。母がこの件について意見を表した覚えはありません。
わたしの兄は10代早々でとても真剣に信仰にめざめ、やがてカトリックへと改宗しました。
兄もその仲間だったカトリックのとある一団は、いわゆるカリスマ運動に関わっていました;"聖霊のバプテスマ"こそが救済に必須なのだと信じている一派です。これの修練(practice)は――アメリカのプロテスタントがさまざまな分野で突出した役割をはたしたことから、もしかすると今日では幅広い層になじみ深いかもしれませんが――使徒行伝2章1~4を基にしています:
五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
1973~4年のこと、わたしは高校生になるのを心待ちにしていました――そこから大いなる知の冒険が始まるのだと確信していたからです。わたしはすでに微積分の自学を終えていましたが、そんなわたしと比べても4歳上の兄はまばゆいほどに知的で洗練されていました;兄は他国語を勉強していましたし、世間についても精通していて12歳のわたしからすればその知識はまるで何畝も刈り整えられた広大な牧草地みたいに見えました。
わたしたちは部屋を共にして、毎晩――母が読書をやめさせ部屋の電気を消してからも――暗闇のなかで1時間は語り合い、科学や哲学の永年にわたる問題を深く考察したのでした。
ある晩、会話は神についてへと移りました。
わたしは礼拝を無分別で退屈だと思っていましたが、それでも相変わらず信者でした。深刻な懐疑的視線を向けた経験は一度もなかったのです;宗教的な主張はわたしにとって不可解でしたが、そのいくつかは教育課程を進めていけばいずれ解決されるだろうと思っていましたし、それ以外の残りについては、この宇宙について理解することだって人類はまだまだ取組中なんだし、すべての疑問が解決されるだろうだなんて見込めるわけがないと思っていました。
兄はキリスト教の歴史について話しました、そして何世紀にもわたってさまざまな神学者や哲学者が信仰に関して主張していることについて語りました。
驚いたことに、兄はどの議論も不十分であることを悪びれもせずに認めました;神は、兄が言うには、誰にも推しはかれるものではないのだと。信じること(Belief)は信仰の問題(matter of faith)で、信仰(faith)は神からの贈り物(ギフト)です。けれどギフトは選ばれた少数にしか授与されません。もしきみが心から乞うたなら、神はギフトを授けてくれるだろう。きみがすべきことはひざまずき祈ることだよ、ジーザスよどうかわたしの心に聖霊をお授けてくださいと。
話が心底いやなほうへ向かっているなとわたしは確かに感じていたので、抗弁をこころみました。不意打ちから逃れたくて、すくなくとも時間かせぎしようとして。
「ひょっとしてみんなが必要なことじゃないのかも」わたしは提案しました。「ぼくでは何日も考えなきゃ決められないことかも」
しかし兄は聞き入れてはくれませんでした。聖霊のバプテスマを受けない者は呪われており、わたしが感じた恐怖はサタンによってもたらされているのだと。今すぐ祈るべきだ、さもなければサタンがおまえの魂を差し出せと言うだろう。
このようにして私たちはベッドから起きて一緒にひざまずき、そしてわたしは言われたことをやりました。
祈りを終えたとき、大きな満足感にこそ包まれたものの、決定的な出来事が起こったかどうか正直わたしにはわかりませんでした。それについては兄が保証してくれ、わたしの満足感はいっそう強くなりました。
静かに祈りをささげると、強力な感情の盛り上がりによる応答があり、そしてこの言葉を介さない対話は次第に豊かに強烈になって、なによりすべきはジーザスの御名を心の中で切願するだけだと思うほどまで――じぶんが圧倒的に幸福で、安心で、そして愛されていると感じられるほどまでつづけました。
数時間のうちにわたしは、教義を忠実に繰り返すだけの人からこそ離れましたが、まるで昼の空に顔を向けているというのに太陽が現実のものか疑う人をおかしく思うのと同じように、神の実在について疑問に思うひとをばかだと考えるようたやすく信じ込むようになりました。
兄の交友範囲にわたしは一種のマスコットみたいに混じって、数週間ほど祈祷会に付いて回ったり地元カトリック教会へ礼拝に行ったりしました。
修道女、僧侶、司祭、そしてカリスマ運動の参列したギターをかき鳴らすヒッピーにしか見えない在家のひとびとによるゴスペルミュージカルの時代でした。たとえどんな政治的ないし社会的課題を持ちこまれようと、しかし、わたしにはちんぷんかんぷんで頭のうえを素通りしていったことでしょう;たくさんの祈りと歌声だけが記憶に残っています。
わたしは自分の舌でも祈祷を唱え始めていて、shやlの発音がきれいな外国的な音節の連なりを諳んじました。
兄が詳しく語ったのは、それまで聞いたこともなかった言語だったにもかわらずヘブライ語で祈りはじめた女性についてのアネクドートでした;おそらく彼女のことばはヘブライ語話者からも本物だとお墨付きをもらえたでしょう。けれど祈祷会の記録をだれも作りませんでしたし、それを分析できるほど諸言語に通じたひとに送ったりもしませんでした;そんなことが私の脳裏によぎったとしても、漠然と不敬だと却下したでしょう。信仰を試す意図はありませんでした。
いったいどれくらいの期間わたしがこの一員として過ごしたのか正確には思い出せませんが、しかし思春期をむかえ自立心が芽生えていくにつれ、自分から関係を切りました。英国国教会であれカトリックであれ、わたしは礼拝に行かなくなって、表面的には普通の生活に戻りました。
けれど聖霊は、部屋いっぱいに響きわたった修道女の歌声がそこから出れば消える(walk away)みたく簡単には、わたしから離れてくれませんでした。毎朝わたしは起きるたびに思い知るのです、ジーザスがわたしのために亡くなったことを、父なる神がわたしを愛していることを、そして何ごとも最善に向かうものであるということを、疑う余地など全くなく。
キリスト教の絶対的な核心を別として、しかし、わたしはどの教義とも距離を置きました、聖書とさえもです。聖霊のバプテスマを授かれなかったひとが――他宗教を熱心に信仰しているひともまた――呪われているとは、わたしにはどうしても信じられなかったのです;わたしは地獄の存在さえも確信をもてていませんでした。もっとも、神の愛を受け入れるのを潔しとしないかたがたがくつろいだり、サルトル信者のかたがたがお互いに耐えしのんだりできる場としての、天国に代わる純粋な自発的代替物としてなら話は別ですが。
わたしがティーンになった途端、キリスト教の公式な教義の大部分さえもがわたしにとって不条理なものとしてかあるいは、率直に言えば幼稚で馬鹿げているかするものとして襲いかかってきましたが、わたしの内に生きるジーザスの使者はそうした資質を持っておらず、教皇や主教、神学者あるいは翻訳困難な使徒などどんな人にもまさって態度表明をするのでした。肝心かなめは、神は全てを救い給うことをわたしが知っていることですよ、だって彼からの愛は無条件に感じられるでしょう?
わたしの宗教的な信念は、科学への興味を減らしも抑えもしませんでした;創造論者に一度も会ったことすらありませんでした。それでも、一種の監督的存在としての神の感覚について、物理法則を理解していくなかでわたしは不安な便宜をはかりました。
量子は神が干渉するための窓として、そして人体のうえを飛ぶ魂の動きとして不確かながら認められるなどといった空虚な考えを一時期わたしも書いたりした経験があります。しかしこれについてきちんとした解答がただちに本当に見込めるとはわたしは思っていませんでした。
神の存在証明は、自身の存在を証明するのと同じくらいに当たり前のことでした。科学は解明できることであればなんでも解明でき、わたしはそこについてなんら恐怖をいだいていません。科学者が気づいたことのほんの些細な断片さえもわたしに掴めなかった時分からずっと、未解決の課題は尽きることないように思えましたし、いくつかの提案は組み合わせられないだろう概念版ジグソーパズルといったような思いつきでどれも馬鹿げているくらい早計に見えました。
けっきょく信仰がわたしの良心と自然科学が解明しそうななにかとの間で完璧に整合性が取れていたとしたら、信仰はわたしの終生でずっと続いたことでしょう。
すべての悪行が最後には正されるだろうという、多大な幸福と平和についての感覚に立ち入ることは、べつに負担となることではありませんでした。
それにしても、なぜ、最終的にはほぐれたんでしょう?
とてもゆるやかに、わたしは自分の関心をそのものごと自体へと移していったのでした:じぶんの信仰の理由や、確信の源へと。
兄のそばで祈ったあの夜わたしの身に起こったのは正確にはなんだったんでしょうか?
わたしがいつも聖霊と呼んでいたものは、正確にはなんだったんでしょうか?
わたしの信仰は精査されるのを好んでいませんでした。
上で抱いた類の疑問をじぶんに訊ねてみると、形而上幸福による衝撃が答えとして返ってきて、それを理解することは期待すべきじゃないことを思い出させてくれました。
わたしはどの宗教コミュニティの一員でもありませんでした;初めて同行したとき、経験則による解釈を補強しようとした者はひとりもいませんでいた。「祈っているときに喜びを感じる。これが証明するところは……なんだろう?」もしかするとそれは単に、歓喜を感じる方法を発見したというただそれだけのことを意味するのかもしれません。人間の脳は柔軟な組織で、もちろん複雑なトランス状態やさまざまな宗教の瞑想修練と比べれればとてもささやかな達成ですが、適切な脅迫さえすれば12歳の子供でさえコントロールできるという、ただそれだけのことを。
にもかかわらず、数年ほどわたしは結論をくだすのを我慢してきました。
オルタナティブな説明は漠然としていて、わたしのオリジナルな解釈を反証するものではありませんでした。――たとえ誰かがわたしをスキャンして身体的メカニズムを詳細に指摘をしたとしても、どんな意味があるというのでしょう? 宗教的喜びは――まさしくそれは他のどんな種類の喜びとも同じように――たしかに身体的な相互関係にありました。神経伝達物質のうえに指を置くこともなしに、一体どうやって聖霊はわたしを慰めてくれるんでしょうか?
わたしの信仰心にとどめの杭を打ち込んだのがどれだったのかは覚えていません。その疑問はきっとこう要約できそうです:地球上の数多ある宗教のうち、宇宙の真の創造主として崇拝を集めている文化圏に生まれたのか。あるいは、超自然的な存在を呼び出さずとも簡単に説明できる感情面のロールシャッハ・テストを自分の都合よいようにねじまげて解釈していたのか。
個人的経験を過度に一般化するのは不合理ですが、ごくまれなものとして扱うのも同等にばかげているでしょう。
もしかすると神経学者はそのうちわたしが述べたような宗教的修練について、関連する特定の心理過程をはっきりつきとめるかもしれませんが、その可能性と同じくらい、そのメカニズムが多様であるということもありえそうだと思います。
わたしが疑念を抱いているのは、かつてのわたしも含めて大勢の宗教の信者たちの体験した神秘主義的経験の核心が、それを包装するパッケージほどには重要ではないかもしれないということです:宇宙に目的があると信じることは、言い表しがたいほどの恐怖がわたしたちの歴史のなかに、そしてもっと些細なみじめさが日常生活のなかにあるにもかかわらず、終末には何ごとも最善に向かうだろうと約束してくれます。これは強力で魅力的な観念です;いちど掴んでしまったらもう手放すのは難しく、それを抱え続けるための正当化にどんな労もいとわないひとだっていることでしょう。
読んだ感想
グレッグ・イーガン氏は、手ごわい作家だと知られています。
きわめてロジカルなのに頭のネジが外れてるとしか思えないド派手な展開が導かれる奇想や、最新科学の知見に基づく構想などが、評価されてきた作家でしょう。
最近だと、東北大から東大院へ進み北大京大東大でポスドクを務めた円城塔氏が、イーガン作品のSF考証には学士以上の見識を必要とされるだろうことを述べていたり……
イーガンも白熱光あたりになると、反論するには論文のレフェリー級になるわけですが、高度に細かいSFは学術論文と区別がつかなくなる、ということになるのや否や。
— EnJoe140で短編中 (@EnJoeToh) February 3, 2014
イーガンを査読するって卒論を通す大学はあってよいと思う。
— EnJoe140で短編中 (@EnJoeToh) June 21, 2016
……あるいは批評家も巻末解説で「わからないところはばんばん飛ばす」ことを推奨したり*1とか。アニメ化もされた『バーナード嬢、曰く。』でもイーガンの難解さが取り上げられていましたね。
そういったある意味キャッチーな評判は、本読みならどこかで一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
今エッセイは、そんなイーガン氏の世評とは裏腹に、とても取っつきやすい内容でしたね。ぼくも「イーガンも人間なんだ……」みたいな気分です。
えがかれているのは現代のふつうのキリスト教家庭なのですが、イーガン氏の作家としての筆力や、実作とも重なるような問題意識が端々からうかがえる作品でもあります。
(現代というか、回想される時代は1973~80年行くかどうかでしょうからもう50年近く前ですが)
「内容ざっと紹介」で述べた、対比と変奏について。
ベッドから起きてのお祈りの一幕で、イーガン少年は兄や兄の教えに感じた恐怖(fear)を「サタンの仕業だ」と、そしてお祈り後の満足はしたけど神的な存在を感じなかったことを「いや確かに降りてた降りてた」という具合に言いくるめられたわけですが。
このエッセイの最後のイーガン氏による総括もまた、歴史にある言いようのない恐怖(horror)などを覆い隠して意味を与えるパッケージとしての宗教……と、構図が踏襲されています。
グレッグ少年時代の体験が、作品にどう活かされたのか。初期短編との関連性
※以下、グレッグ・イーガン氏が90年代に書いた短編2作と近作について内容に触れた感想が続きます。ご注意ください。(短編については結末までネタバレしています)※
イーガン作品読者のなかには、エッセイをはじめて読んだ気がしない既視感を覚えたかたもきっといらっしゃることでしょう。それもそのはず、『祈りの海』の冒頭に、回顧されたグレッグ少年と4歳年上の兄との日々そっくりなシーンがありました。
(ちなみに『祈りの海』は、現在電子書籍が半額セール中(20年1/6まで)です。ぜひ読み比べてみて下さい)
『祈りの海』は海人と陸人とが暮らすどこかの星を舞台にした作品で、そこではぐくまれた独自宗教《移相教》とりわけ《深淵協会》について、海人の語り手が10歳のとき信仰に目覚めてからの四半世紀にわたる物語です。日本では早川書房から出ている同名の短編集の巻末に収録されています。
『祈りの海』家船のなかで眠りについた語り手は、5歳年上の兄ダニエルにこう訊かれます。
「おまえは神がおられると、ほんとうに思っているのか?」
早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)2000年12月31日発行版(旧サイズ版)、グレッグ・イーガン著『祈りの海』p.359「祈りの海」1より
消灯された寝室で、ベッドの上での信仰談義*2。兄の改宗を肯定する父*3、何も言わない母*4。「勉強中の異邦語の単語や熟語を教えてくれ」*5る憧れの存在で、尻込みする語り手を言いくるめてベッドから起こして祈りを捧げるよう強要する兄。兄弟ふたりだけで行なわれる《深淵教会》のバプティズムを思わせる――そしてもともと家庭で信仰されていた《移相教》とちがって、過激な――浸礼で、語り手は兄の聖句を繰り返し唱えて儀式をし、儀式のあと満足感*6・多幸感につつまれ、それを兄が神の愛とむすびつける*7……。
似通いは冒頭だけにとどまりません。
その後の展開についても、語り手の青年期から(信仰の核をしっかり抱えて毎朝神の愛を感じながら起床する日々だが、表立った礼拝などからは離れたので、周囲からはそんな信仰厚い人だとは思われていないとか)、その結末に至るまで、大きなところから小さなところまでエッセイと重なる点はさまざまありますが(たとえば、強く祈ったあとの語り手の口から勝手に異邦の言葉がこぼれ出る場面*8は、エッセイで出てきた兄の信仰の基盤『使徒行伝』二章4からだったのか、など)、きりがないのでこの辺にしときましょう。
前述した『祈りの海』と『Born Again, Briefly』の関連性についてツイッターで検索かけてみたところ、すでに触れていたかたがいらっしゃいました。
意外と誰も言ってるひとが見当たらなかったのが、エッセイと短編集『祈りの海』所収の別作との関係性です。
グレッグ少年時代の体験が、作品にどう活かされたのか。別の一作から
『祈りの海』所収の別作『百光年ダイアリー』は、未来から過去へ情報が送れるようになった世界のシドニーに住む男性の物語です。92年発表の短編。
ビッグ・クランチにともなう時間の矢の逆転説をふまえ、さらにイーガン流の理屈をこねたガジェットによって、老若男女問わずどのご家庭にも未来からの便りが1日ごとに届くようになった世界。その文化や風俗が、ビデオゲームから流行りのドラマの話型といった日常の些細なことから政治や戦争など歴史のマクロなことまで描かれていきます。
物語のはじめに語り手のジェイムズは、自身や世界の約束されたしあわせについて楽しそうに記したり認めたりしていきます。
アリスンは笑顔になって、そのとたん、ぼくは身も心もとろけてしまい、しあわせのあまりめまいがした――自分の日記のきょうの分の書きこみをはじめて見つけた九歳のとき以来、千回も読みかえしてきたのと、そっくり同じように。そして今夜、ぼくが端末に記入することになるのと、当然、そっくり同じように。それでも――これがしあわせの絶頂にならずにいられるだろうか? 人生をともにすごすことになる女性と、ついに出会ったのだ。ぼくたちの前には、ともにすごす五十八年間があり、ぼくたちは最後までともに愛しあうのだ。
早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)2000年12月31日発行版(旧サイズ版)、グレッグ・イーガン著『祈りの海』p.156「百光年ダイアリー」より
学校では、これからの千年紀の歴史を教えている。飢饉と疾病がなくなり、民族主義と大量虐殺が終わり、貧困も差別も迷信も消え去る。行く手には輝かしい時代が待っているのだ。
旧サイズ版『祈りの海』p.164「百光年ダイアリー」より
そしてジェイムズは人々が「未来を知っている」ことについて――これには劇中、いろいろな見解があって、大々的に政争もありさえするのですが。少なくともジェイムズの考えとしては――プラスのできごとであると考えています。
だがぼくは、未来を知っている――というか、知っていると信じている――からといって、自分が夢遊病者やゾンビのように、意識を失い、道徳観念もない状態に陥ったと感じたことは、決してなかった。むしろぼくは、自分が人生の手綱を握っていると感じていた。ひとりの人間が数十年におよぶ支配力をもち、まったく異なる撚り糸をしっかりと結びつけ、そのすべてを意味の通るものにする。この統一性が、ぼくを人間以下のものにするとでもいうのだろうか? ぼくのありとあらゆる行動は、ぼくという存在が何者であるかによって生まれてきたものだ。
旧サイズ版『祈りの海』p.175~6「百光年ダイアリー」より
しかし、こうした楽観も、物語がすすむにつれて瓦解します。
ジェイムズは自分にとって都合のわるい私生活を体験しても、日記上は詳細をはぶいたりごまかしたりしたかたちで書くようになり(嘘のつきはじめは、幼馴染とそして恋人とのバラ色夫婦生活のための男の約束みたいなものでしたが、段々とバラ色夫婦生活を壊すものとなります)。さらには、そうした嘘が、不倫した夜の数時間を日記に残さないといったような個人の些細なよしなしごと程度ではとどまらないことが明らかになっていきます。
五十万人もが虐殺された。それは運命でもなければ、必然でもない。神のおぼしめしや、歴史の力が、ぼくたちの罪を赦してくれることもない。原因は、ぼくたちという存在に――ぼくたちがこれまでにつき、これからもつきつづけることになる嘘に――ある。
旧サイズ版『祈りの海』p.179「百光年ダイアリー」より
ジェイムズを揺らがしたのは、大虐殺が行われていてそれを自分たちは見て見ぬフリをしているという歴史のなかにある言い表しがたいほどの恐怖であり、自分が汚職もすれば不倫もするしそれをなかったことにできるクズだったという日常のなかにあるみじめさであり、百光年ダイアリーの保証する輝かしい世界が、事実ではなくて単なる口約束だったということでした。
これ(そして語り手ジェイムズをはじめとした『百光年ダイアリー』マジョリティの行動)は、今回訳出紹介したエッセイの最後で語られた宗教(そしてその手放しがたさ)についての考察と、かなり似通ってはいないでしょうか。*9
グレッグ少年時代の体験は、実は近年の作にも活かされているのかも?
グレッグ・イーガン氏は、手ごわい作家だと知られています。
近年の作品ではますます奇怪となっているようで、3部作の初めを飾る『クロックワーク・ロケット』について、数々の奇書を読みこなしてきた柳下毅一郎氏をして、
まったくわからなかった……イーガンを読んで、これほど何もわからなかったことはない。補遺を読んでもまったく意味がわからず、板倉先生の解説を読んでやっとわかったが、何一つ納得はできなかった。「おまえがそう言うなら、そうなんだろな。おまえの中ではな」という言葉をこれほど強く実感したことはない……
と言わしめました。
正直、ぼくは難物だという数々の声をきいて、最近の作品を買いはしたけど、尻込みしてしまって本棚の肥やしにしてしまっている不真面目なオタクです。
イーガン氏の手ごわさは、氏の取っつきづらさも一つの要因だったように思えます。
過去作では、覆面作家のイーガン氏のわずかなりとも公表された来歴と重なるような点が作中に見られても、訳者解説で「作品と作者は切り離して語ることを求めているように思える」「よけいな詮索はたぶん無意味なことなのだろう」*10「こういう読みかたを作者は拒否しているということなのだろう」*11とそれ以上の掘り下げがなされなかったり……ということもありました。
こうした立場は、イーガン氏本人の言明からも補強されたものと思います。
『祈りの海』解説で瀬名秀明氏が(瀬名氏自身は「本当にこのようなことを思って書いたのだろうか?」と否定するための、各作の検討に移るための前フリとしての意図だと思うし、じっさい瀬名氏の解釈は慧眼だった*12。とぼくは今更ながら思いますが……)簡単に紹介してくれた、イーガン氏の別のエッセイ『ミラクル含有物Aの起源とその恐るべき効用について』でかれが故郷オーストラリアSFの不遇な海外受容(なにを書いても英米の模造品と思われ、求められるのは常夏のリゾートやら技術と神話の同居やらのエキゾチズム)を概観したうえで「オーストラリアについて書くのではなく、自己執着的、自画自賛的、自己神話的なものではなく、もっと理知的で解析的なものを書くことだ」と述べていた過去。これが記憶に残っているひとも少なくないのではないでしょうか?
上記のような読み手書き手のスタンスがある一方で、ぼくは、
「イーガン氏とかれの実作とは、かつて言われたほどに、それぞれ切り離して考えられるものなんだろうか?」
という思いをかかえてもいました。
イーガン氏は『ミラクル含有物Aの起源とその恐るべき効用について』発表して数年後に、エキゾチックな信仰と土着風俗のある海上生活者を主に描いた『祈りの海』をしたためたり*13。長編で自身の過去と一部重なるようなバックグラウンドをもつ人物を描いたりしているわけですからね。
近年ではより顕著に、もともと難民問題の活動のために一時期筆をおき、難民支援や在豪難民との対話を深めていた折に、イラン民主化などを扱った『ゼンデギ』執筆を決意し、さらにはイラン旅行を敢行し(さらにネットで旅行記を公開し)たり……なんてこともされていました。
今回エッセイを改めて詳しく読んでみて、その印象はより深まりました。
考えてみればイーガン氏は、『順列都市』についてのFAQで、「劇中でオートバース(※コンピュータでシミュレートした人工宇宙みたいなもの)の生命体を微生物から知的生物へと進化させるために、数十億の生物を苦しめ死なせていったことは、現実の過程をなぞったとかSFではおなじみの展開にならっただけと言えばそれまでだけど、そんなことを行なった人物は道徳的に破滅してなければおかしいのではないか?」という旨の後悔を語っているひとです。
そんな倫理観の持ち主が、アイデンティティを扱った作品を手がけるさい自分がまったく理解もできなければ共感もおよばない無関係の赤の他人を――理知的解析的と言えば聞こえはよいし、最新の研究知見に基づいて十分に科学的だけど、しかし作家が勝手にこしらえた、単なる小説内設定でしかないものでもって――大上段で皮肉るような、そんな神の視点から弄べるものでしょうか?
さきほども言ったとおり『クロックワーク・ロケット』に始まる<直交>三部作は、とにかく「難物だ」「わからない」と苦悩の声がそこかしこから聞こえてくる作品です。違う惑星の違う生命どころか、物理法則まで違うらしい。そりゃ難物ですわ……。
けれどそんななかには「『百光年ダイアリー』を思い出した」なんて意見もあったりするのです。
イーガン氏は、たとえどれだけ劇的な奇想や地球とかけはなれた異星の生命体を扱っていようとも、じつは彼がエッセイにでも起こさなければ誰もわからないような、どこにでもある普通の些細な日常のよしなしごとを起点にしている場合があり、そのオブセッションは結構につよかったりするらしい。
<直交>三部作も、案外、彼が直に肌にふれた身近なものとそして人生をとおして考えてきたものと接点があったりするのかもしれませんね。
読み出したはいいが途方に暮れている文系読者のための『ディアスポラ』攻略法は、しごく簡単。すなわち、「わからないところはばんばん飛ばす」。これだけでOK。隅から隅まで理解しようと脳みそを絞る必要はありません。
*2:早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)2000年12月31日発行版(旧サイズ版)、グレッグ・イーガン著『祈りの海』p.359
*6:「満ちたりた気分が大波のようにぼくを洗った。」旧サイズ版『祈りの海』p.376第13行
*7:「「それがベアトリスの愛だ。(略)」ぼくは驚いて目をぱちくりさせてから、自分のおろかさを静かに笑った。その瞬間まで、ぼくは海中でのできごととベアトリスを結びつけて考えていなかったのだ。けれど、あれは彼女のなさったことに決まっていた。(略)ダニエルの表情からも、それはわかった。」旧サイズ版『祈りの海』p.377第10~17行
*9:今回の記事ではとくに結びつきが強そうに思われる作品2点を取り上げましたが、「"自分にとっては当たり前(だけどただ自分がそう思っていただけで、物証があるわけではないこと)"に対してどのような態度を取るか」といったレベルまで範囲を広げると、もっと多くの作品との繋がりが見えてきそうです。そういった視点からほかの作品も読み直してみたいところですね。
*10:『万物理論』訳者解説(2004年)での山岸真氏の言より。以下、長めの引用。
もしかすると、自伝的要素が反映された部分はほかにもあるのかもしれないが、プライベートをまったく公表せず、作品と作者は切り離して語ることを求めているように思えるイーガンのことだけに、よけいな詮索はたぶん無意味なことだろう。
*11:『TAP』編訳者あとがき(08年初出/16年修正)での山岸真氏の言より。以下、長めの引用。
イーガン作品には宗教に対する苛烈な批判がしばしば出てくるが、作者自身はキリスト教徒として育てられたという。長篇『万物理論』にはある人物の子どものころの話として、作者の体験が下敷きのように思える宗教関係のエピソードが出てくる――が、こういう読みかたを作者は拒否しているということなのだろう。
河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著『TAP』kindle版96%(位置No.4960中 4730)、山岸真氏による「編訳者あとがき」より
*12:瀬名氏の解説は、改めて読み返して凄すぎてビックリしましたよ。
その後の作品傾向を予言するような内容だ~というのは勿論なんですが、「作者の言葉」という強すぎるものを瀬名氏自身で読み紹介・引用しながらも(未訳のそれを紹介している時点で、本文に添えた文章としては既にかなり充実した情報になるわけですが)それを妄信せずゴールとせず、瀬名氏自身がイーガンの実作と検証・検討をし、齟齬を見て取り「作者の実際」を浮き彫りにする……それだけ自信と確信を持てるほど読み込んだ解説が載る幸運に、いったいどれくらいの本が巡り合えているのか?
*13:もちろん海外が求めるような豪州SFと思わせて、エキゾチズムや神秘体験をことごとく解体する、アンチミラクル含有物Aとして書いたという見方もできるでしょうし、むしろそちらが本道なのかなとも思います。