お台場・日本科学未来館『マンモス展 -その生命は蘇るのかー』の感想です。12,000字くらい、写真9枚。
※以下、『マンモス展 -その生命は蘇るのかー』のネタバレした文章が続きます。ご注意ください※
約言
面白かったし興味深かったです。
内容;シベリア永久凍土から発掘された古生物の遺体や骨格標本の展示。興味の入口的な役割がつよいかな。
記述;視聴覚体験だけでなく、触覚体験もあり(毛に触れる)、展示物の中には嗅覚も刺激させるものも。発掘・解剖を映像で拝めます(各5分くらい?)
混み具合;(8月3連休当時)当日券購入まで10分くらい。
観覧時間;会場内映像はほぼ見て、写真を150枚くらい撮ったぼくで55分。同行した友人は30分でした。
図録;11×13inchと大きい。冷凍標本の写真は近距離で様々な角度から複数枚、マンモス関係の展示物は部位単位で掲載。マンモス以外の古生物の骨格標本はなし。リーダビリティが高い。
音声ガイド;大人用、ファミリー(子供)用の2種類。大人用は、展のキャプションだけでほぼ事足りそう。
ここ好き;冷凍標本の生々しさ。発掘や解剖が映像で拝めること。原寸大13センチ四方のマンモスのウンコを高画質掲載する図録。
ざっと感想
シベリア永久凍土から発掘された古生物の痕跡や骨格標本・冷凍標本、発掘・研究道具をならべた展示です。視聴覚だけでなく、触覚を直接刺激されるコーナーもあり(マンモスの毛をじかに触れる)、間接的に嗅覚を刺激される展示物もあります(マンモスの糞が拝める)。
どちらかというと、興味の入り口的な役割がつよい展示なのかなあと思いました。標本類もあります、発掘の映像もあります、解剖調査の映像もあります。
他方で、NHK教育で番組も放送された『ワケあって絶滅しました』とコラボしたキャプションもあれば、壁一面に漫画風のタッチで研究員・研究課程の紹介をするコーナーもあります。
(基礎研究所を取材したF・ワイズマン監督ドキュメンタリ『霊長類』に興奮したぼくなんかは、「イラストよりも写真が欲しいな」と思ったところでした。科学者の仕事風景がどんなものなのか気になります)
音声ガイドが大人用とファミリー(子供)用のふたつあるのはすごいなと思いました。
図録も表紙がしかけ絵本みたいな装丁で、ページをめくるとマンモスについてFAQ形式で説くページがあったりして、大人も子供も楽しめる内容。むしろ大人(というかぼく)こそ読んでよかったと思えるものでした。
展を見て、図録を読んで、それでもまだ知りたいことがあるなら展を監修したり図録でインタビューに答えた専門家たちの書籍なり何なりにも手を伸ばしてみる、そういう興味の入り口として、よい展示だったなあと思いました。
凍土から発掘され、展示もマイナス数十度の冷凍庫内におさめられた古生物たちは、初めて見たので興味深かったです。そもそも冷凍標本自体、記憶ある限りでははじめて見ましたが、数万年まえに命を終えた存在とは思えないほど生々しい、死体らしい死体なんですね。
「あれらの古生物は、図鑑のなかにだけの絵空事でなくて、糞も尿もし血も出るし肉も毛もある、たしかに生物だったんだ」
とまじまじと実感できました。
知っていることと感じることとは、やっぱりちがうもんですね。
骨格標本の面白さ
「実物のマンモスと肉眼で相対すると、どのように見えるのか?」
これを確かめるということが、展にのぞむぼくの個人的な目標でした。
PS4やスイッチなど現行世代のゲームを買い、『モンスターハンター:ワールド』や『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』(どちらも操作キャラの全身が画面に映る、三人称視点アクションゲームですね)などをプレイして、巨大生物と戦うシチュエーションを摂取したことで、「ゲームではこんな感じだけど、実際どうよ?」と気になったのです。
これについてはしっかり達成できたと思います。
やっぱり本物の迫力ですよ!
数十cmの小さな紙面を見下ろすかたちで読む本のなかのマンモスの写真じゃあやっぱり、骨格標本のあの視界に収まりきらないほど巨大かつ頭を傾けて見上げなければならないスケール感は得られがたいですな。
マンモスは種によっちゃ現行のゾウよりも小さいそうですけど、「そうは言っても大きいなぁ」と思いました。
「これが骨皮毛をつけて動く/対するこちらの武器は石やせいぜいシカの角で、防具はない……」
そう考えたらメチャクチャこわい。
「いや動物園で生きたゾウ見に行けばよくね?」
という声もあるでしょう。
でも生きた動物は動くんですよね。間近に寄ってくれるとは限りません。
(たとえばぼくが肉眼でおがんたことのある生きたライオンは、小さな覗き窓越しに遠くで寝ている姿だけです。動物が最大限こちらに寄ってくれたとしても、柵が幅をもたせてあるなどの安全上の施策から、やっぱり距離がある場合もあります)
サイズ感はむしろ骨格標本のほうがわかりやすいのではないかと思いました。
マンモスもほかの骨格標本もまじで目と鼻の先で拝めます。
古生物の骨格標本だけでなく、現行の動物の頭蓋骨などがあったのもよかったです。
「"肉食獣・強い"ってイメージの、オオカミとかクマとかでも骨ってこんなに小さいの?」
という驚きと、
「それにくらべて古生物の大きさなに? こわ……」
ひるがえって怖ろしくなる古生物の体格。動物それぞれのスケールが明確になってよかったです。
冷凍モノの凄み;たしかに生きていた物を見るということ
世界初公開となる発掘資料も複数ありましたが(去年発掘されたばかりの仔ウマ「フジ」やら、弾力があって毛穴まで見えるほど状態のよいケナガマンモスの皮膚やら)、興味深かったのはその瑞々しさです。
冷凍庫内に展示されていないものでも、マンモスの糞は繊維の一本一本が見えて、ガラスの窓がなければ臭ってきそうだし(図録曰くそんな臭くないのではとのこと)、歯は凹凸がこまかくはっきりと見え、サイズやフォルムさえ違えばそこらの軒下や屋根上から出てきそうな代物です。
じかに触れるマンモスの毛は、云万年のへだたりがあるとは到底思えません。ナマ感があるというか、現代科学感あった。化学繊維感が。
「イミテーション……え、本物? こんなバネっぽいんだ?!」
とびっくりするくらい芯に固さと張りがあって面白かった。"?!"は文章上そう書くしかないからそう書いただけで、まぁ無言・真顔でさわっちょります。
「あ~でも、巨大生物のソレを知らんからそう感じただけで、毛っちゃあ毛か」
と、
「ほっそいやっこい針金を茶色く塗られて"マンモスの毛です"と言われたら、"こういうもんなんか"と思ってしまうかもしれん……ほんとうにイミテーションじゃないんだよな? 田舎者をだましてるわけじゃないよな?」
とを往復しつづけ、そこまでの感動はなかったんですが、その無感動さが後から思い返してヤバいっすね。
「云万年のへだたりがある代物が、どうしてこんなナマなの? ふつうの抜け毛っぽいの?」
と。
展の後半にある、マイナス数十度の展示スペースに保管された永久凍土からの発掘物は、「これまでたしかに生きていた物なんだな」という生々しさが――包み隠さず言えば"死体らしさ"がすごかったですね。
とくに、記事最初に貼ったライチョウ!
さて我が家の周りには、毎年ツバメなどが巣をつくりにきます。
そしてヒナの何羽かが落ちて、アスファルトの上でお亡くなりになっているのをかならず見かけるのですよ。
もしあの古のライチョウを手に取ることができたなら、ツバメを持ったときのあの感じが感じられるんではないか?
死骸を掴むと首がぷらんと揺れ下がって、移り変わる重心。
アスファルトから持ち上げるとき少し覚える、固まり始めた血の抵抗力。
身体は干からびきってはいないからそれなりの水気があって、羽毛からはふわふわさやハリが伝わり(あるいは張り付いてただただ固く)、そのしたには肉の柔らかさと骨の硬さが感じられる、あの感じが。
そういうホヤホヤの、なまの「死」がありました。
天地逆に寝かされ仰向いたユカギルバイソンの冷凍標本は、下からのぞくと見える、解剖のさい一度ひらいたのであろう頭の縫合跡がえぐかった。
(発掘されたときには破損していたのかな、より生前の姿に近くなるよう手心したのかなとも思いましたが、それにしては切り口が直線的では……?)
「人としてどうなんだ?」
て疑問が過(よ)ぎる程度にちゃんと死体なんですよ。
「学究の徒とかでもなんでもなく、興味本位でわざわざ金を出して死体をながめにきている俺って、人としてどうなんだ?」
倫理的な嫌悪感・野次馬根性への恥ずかしさからくる自問がもたげたりもしました。
世界で初めてマンモスをCTスキャンした鈴木直樹氏の本にこんな記述があります。
冷凍マンモスにも保存状態の善し悪しがある。私は鰻丼になぞらえて松、竹、梅とランクづけをしている。
梅クラスは、暑い時期に死んで雪が降るまで地表に横たわり、鳥や肉食獣に食われたのちに腐敗して、骨と皮だけが永久凍土に取り込まれたケース。竹クラスは、せっかくいい状態で保存されながら人知れず地表に露出し、腐敗したり動物に食われたりしてしまったものなど。そして、研究者が夢見る松クラスの標本は、生きている状態のまま氷河のクレバスに転落したり、冷たい泥の海に飲まれて溺死してそのまま保存されたケース。マンモスとしては悲惨な死に方だが、泥の内部で酸素が吸収されながらパックされるため、遺骸は意外にもいい状態を保つことになる。クレバスに転落して即座に雪や氷に埋もれてしまったものほどいい。
角川ソフィア文庫、『北極にマンモスを追う 先端科学でよみがえる古代の巨獣』kindle換算37%(位置No.2145中779)、第3章1「冷凍マンモスの発見を目指して」より
あるいはハロルド・ハーツォグ著『ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係』。
著者であり研究者であるハーツォグ氏*1は、類をたがえておこなってきた動物実験のじしんの感情や、それはそれとして肉うめぇよなって実感を率直に記しています。
ある朝、研究室の責任者から、違う仕事を言いつかった。別の大学からやって来て、砂漠に棲む生物の皮膚で起こる化学現象の科学を研究している科学者が、分析の一部をうちの研究室でやるよう手配したのだ。(略)
わたしはそれまでにも、ロブスターを沸騰したお湯に放り込んだりしたことがあった。でも、だからと言って心が痛むことはほとんどなかったし、その朝の作業がつらいなんて思ってもいなかった。
わたしは、ブンゼンバーナーに火をつけ、系統発生の下位のほうの生きものから順番に処理していった。まずはコオロギ。ミミズと同じで、沸騰寸前のお湯に触れたとたんにほぼ即死状態だった。問題なし。お次はもうちょい大きな節足動物。じつは、箱が届いてからの数日間で、わたしはサソリをすっかり気に入ってしまっていた。ちょっと威嚇するような雰囲気を漂わせているのがすばらしかった。サソリは昆虫より体が大きく、ビーカーのお湯のなかに落とされても、死ぬまでに少し時間がかかった。それを見たわたしは、いったいなにをやっているんだろうと自問しはじめた。
トカゲは、縞模様の入ったハシリトカゲ属の若い個体だった。カゴからつまみ上げたとき、わたしは急に気分が悪くなって冷や汗をかきはじめた。そして、トカゲを見ないようにして、沸騰する寸前のお湯に落とした。手がちょっとふるえた。トカゲはすぐには死ななかった。動かなくなるまで、一〇秒くらい暴れただろうか。次の小さなヘビは、大きな黒い目を持つ優美なレーサー(略)だった。さっきよりもっと手がふるえて額に汗がにじんできた。このヘビも暴れたものの、まもなく溶液に浮かぶ分子と化した。
最後はハツカネズミだった。(略)体重を量り、必要な蒸留水の量を計算してビーカーに入れ、バーナーを点火した。水温が約八〇度に近づくにつれて、自分にはどうがんばってもネズミを"始末"できないことに気がついた。
柏書房刊、ハロルド・ハーツォグ著(訳山形浩生&守岡桜&森本正史)『ぼくらはそれでも肉を食う』p.267、「第八章 ネズミの道徳的地位――動物実験の現場から」
目の前にある豚バラ肉は、なんの衒いもない、焼いた脂身のかたまりだった。ところが一口かじって、肉に対する考えが一変した。かつて美術館で、マーク・ロスコ(略)の絵の前に一〇分間立ち尽くし、どうして真っ黒に塗ったカンバスが芸術だなんて思う人がいるのか知りたいと思ったことがあった。でも、そこでわたしはピンときて、すべての謎が氷解した。豚バラ肉の味にも、美術館のときと同じようにピンときた。つまり、ロスコの絵と豚バラ肉には、どちらにもプラトン的な純粋さがあったのだ。
『ぼくらはそれでも肉を食う』p.222、「第七章 美味しい、危機、グロい、死んでる――人間と肉の関係」
ぼくは「ドイヒーw」なんて思いながら、あるいは「まあそういうこともあるよね、わかる……」なんて訳知り顔をしながら次の文章へ移るわけですが。
こうやってなまの展示を見て、
「あの文章の悲惨さをまったく感じ取れていなかったし、一線の研究者のかたがたの業のふかさを――そうした悲惨がありありと感じられる存在に直に立ち会い触ってもなお、一資料として研究を深めていかねばならない態度のむずかしさを――よく分かっていなかったな……」
とつくづく思いました。
こうした生物らしさ・生命を扱うことのこわさを、この標本らに立ち会うまえの早い段階から、よりつよく実感させてくれたのが、同じ時間帯に展を回っていた他鑑賞者の反応でした。
展の醍醐味;剥製を見て泣く子ども
最初のフロアには骨格標本だけでなく、ホラアナライオンは毛や目玉歯茎などが再現された剥製風のもので展示されていたんですが、それが目に入るや否やギャン泣きしていた小学校低~中学年くらいのひとがいて、それが印象ぶかかったです。
「余計なこと言ってこわがらせない!」
と怒っていたのも同じく印象的。お母さんは、
「大丈夫だから死んでるから」
とか、
「作り物だから」
とか色んな角度からなだめておられたのですが、それでもこの子の気持ちは収まらない。
皺よせて牙をむいている巨大な動物と自分の目とが合ってしまい、(剥製であろうと)怖いということ。「死んでるから」と諭されても、それはそれで気持ち悪いしイヤだということ。こうした感情は、ぼくも子どものころ確かに持っていたはずで、でもいつの間にか、すっかり忘れてしまったものでした。*4
骨格標本の一本一本に記された数字やらなにやらを、まるで機械の各部位に記されたこまかな注意書きを見るみたいに*5、パシャパシャ写真を撮っていた自分は、背筋をただした光景でした。
(脱線)展の醍醐味;入口として、あるいは本では描かれないものを得る手段として
ところで展の面白味って何なんでしょう。
もちろん展自体をひとつの(ひとまとまりの)作品としてプレゼンとして楽しむという見方もあります。この感想だと「展の構成について」はそうした部分についての話題ですね。でもぼくはどちらかというと、博物館関係となるとなおさらですが、知識欲を満たすべく展へとのぞみがちです。
ただまあ知識充足的な点について得るだけなら、本や映像でだって全然よいわけですよね。むしろそちらのほうが多大で密な情報が得られるということだってあるでしょう。展示スペースにも開催予算にも限りがあり(本物はお金がかかるものです)、人間の脳も程度が知れています。たとえお金も会場も無限であっても、展というかたちに適う情報入力は(不特定多数が、いくらか足を止めつつも、ゴールに向かって順路に沿って移動しながら味わえるものは)あっさりしたものになりがちでしょう。
それでも展へと足を運ぶのはなぜか?
人によって展によって、さまざまな理由があるでしょう。ぼくがパッと思い浮かぶのは3点くらいですね。
そうしたこまかく詳しい領域への足掛かりとして、興味の入り口としてふらりと寄ってみるという場合。ぼくにとってはスカイツリー前駅の郵政博物館や、北海道の函館市北洋資料館などがそうでした(こちらについてもそのうち感想を書きたいですね……)。
もう1点、既知であろうとも一層集中して味わいたい、という場合もあります。TVの点いた自室でネットサーフィンしている間に「おっ」と行きがかりパソコンのモニタでスキャンされた浮世絵を眺めるのと、「見るぞ」と自発的に足を運んで太田美術館で足の裏で畳を感じながら浮世絵と向き合うのとでは、見る心構えがだいぶ違ってくるものです。
3点目、本やビデオでは描かれていないなにかを求めて足を運ぶという場合もあります。これまでの感想から例をあげれば、『印象派への旅 海運王の夢 バレル・コレクション』感想でふれた、平面に印刷される図録からこぼれおちる、油彩画の絵の具の凹凸がそれに当たるでしょう。
今回の『マンモス展』の個人的目標もまた、本や映像ではわかりづらいところ――実物に自分で対面したときのスケール感――が知りたかった、というものでした。
ただこの二例にかんしては、映像関係の記録・再生機器が発達していけば、そのうち自宅でも味わえそうな気がします(。もちろん現時点では無いものねだりのSFの世界ですが)。もしかしたら展の醍醐味ではなくなる日がくるのかもしれません。
また、こうした見方は、自分が何を得たいのか(自分になにが足りていないのか)展に足を運ぶまえからすでに分かっているひとの決め打ちだという面もあります。
「けっきょく自分の価値観のなかをぐるぐる回ってるだけではないか?」
そんな閉塞感が否めません。
展の醍醐味;他者の声が聞こえる時空間であるということ
ようやく上のお嬢さんの反応の話に戻れます。
彼女の反応は、"本やビデオでは得られないなにか"ではありますが、上の二例とはちがって、(生物としての大前提的な根本的な感覚であるにもかかわらず)ぼく個人だけではなかなか思い至れないような別方向からの気づきをもたらしてくれるものでした。
「展の醍醐味とはこれではないか!?」
そう思わせてくれる体験でした。
知識も年齢層もバラバラな不特定多数が参加して、その場で声が聞こえ表情が見えるイベントならではの気づきです。『恐竜博』も夏休みが終わるまえ、それなりに人(や幅のある年齢層)がいる時に見てみたい……。
(「いや他者の反応を得るというのなら、ブログなどのひとさまの感想をまわるのでも、それなりに事足りるんじゃない?」
と自己ツッコミしましたが、でも、事足りるくらい簡単に感想があふれているなら、今もブログ文化は栄えていただろうと思いなおしました。
文字にするのはめんどくさいことです、それが取るに足らないさまつな気づきのことであれば尚のこと)
そのほかの展示について
映像にせよ何にせよ、複数のフッテージがあることで情報量が多くなって興味深かったですね。
たとえば化石を洗うための手際にしたって、写真ではペットボトルに入れた水をかけているさまが映されていましたが、動画のほうではヘルメットに水を貯めてそれをジャバジャバするところが映されていたり。
発掘した骨などについても、写真だと記念だからか喜びからか、重量挙げのように両手で天高く掲げがちですが、いままさに土の中から掘り出され外に出される動画だと、重たそうで大変そうでした。
「毛皮ってあんな風に発掘されるんだ」
とか素朴におどろきました。
解剖動画は、解剖の手つきとしてまず白い線(チョーク?)をひいて切開箇所を下書きしたうえでナイフを走らせたりするのが良かったですね。一発勝負だものなあ、変なところ切れないですよね。
また血管の採取にも色々とパターンがあって、冷気に触れていた外側の血管から円柱状の黒い氷と化したモノを保管する手際もあれば、内側で冷えてはいるけれど液体のまま保管する手際もあり、「へぇ~」となりました。
図録は良書だけど短所もないわけではない
図録も購入しました。『「マンモス展」オフィシャルプログラム』という、吹雪を模した半透明のカバーが表紙の立派な装丁をした、11×13インチの大きな冊子です。内容も面白いし興味深く、FAQ形式でマンモスについて記されたページ(回答者はサハ共和国ヤクーツク「マンモス・ミュージアム」館長セミヨン・グリゴリエフ氏)があったりと、幅広い疑問に答えてくれる上にリーダビリティが高いです。
展の音声ガイドも大人用とファミリー用の2種類がありましたが、この図録も幅広い年齢層にとってもうれしい内容なんじゃないでしょうか。
いまさら聞けない疑問に答えてくれるありがたさ
「マンモスって美味いのか?」
いやむしろ大人こそありがたいのでは。
現にぼくはありがたかった!
掲載された質疑応答はたぶん初歩的だったり素朴だったりすることなんでしょうけど、それゆえに大人が聞くのをためらわれるようなものもあるんですよ。
たとえばぼくと同級生の友人計3人が、マンモス展を振り返ってした話題のなかでもっとも意見が対立し言葉を交わしたものはこんなものでした。
「マンモスって美味いのかな?」
「あれだけ狩られたのだし美味しいのでは?」
「いやぁあの感じだとまずそうじゃない? ブタの鼻とか味しないじゃん?」
「いやおれにはモツっぽい質感に見えたよあの鼻」
……しょうもないですね。3人とも三十路を過ぎた大のおとななので、まじきっっついですね……。
でも、この疑問の答えを得るのってなかなか難しいんですよ。
(脱線)知りたいことを知るむずかしさ;実はゾウの味さえ探るの大変
書店で売られている大人の本を開いてみましょう。
- 『北極にマンモスを追う』*6、記載なし。
- 『マンモスを再生せよ ハーバード大学遺伝子研究チームの挑戦』、記載なし。
- 誠文堂新光社刊、福田正己著『マンモス ―絶滅の謎からクローン化まで―』……そのものズバリ「マンモスの肉はウマいのか?」という章がありました。
これ読めば解決じゃん、そう思うじゃないですか?
でもなんとこの章を読んだところでマンモスが美味いのか分からないんです。どんな味なのか、推測程度さえ書かれてません。まじかよ。
北海道大学名誉教授をつとめる福田氏は、自著『マンモス』の前述の章でさまざまなことを説いてくれます。
発掘される冷凍マンモス肉はどうか(地中温度の経年変動グラフを出しながら、「図からわかる通り冷凍庫より熱く、これではたんぱく質や脂肪の酸化はまぬかれない」とそもそも食べられませんという結論)という話から、マンモスが生きていた頃の先史モンゴロイドにとってはどうかを検討します。同時代の縄文人の食生活やいまを生きる非農耕民(先住民イヌピアックや西シベリアのネネツの人々)の食生活を引き合いにだしつつ、調理方法などを推測、さらに考古学的証拠{遺跡内の骨はどうなっているか(砕かれているから、現行非農耕民とおなじく髄を取り出し食べてそれを塩味として味わっていたんではないか?)(髄を食べるってどういうことかは、別資料ですけど岸上伸啓氏『極北地域にくらすイヌイット (世界の食の情景 14: カナダ)』リンク先pdfが参考になりそう)、ほかの痕跡はどうか?}にもとづいて地固めをします。
じゃあ章題にもなった味についてはどうか? 先史モンゴロイドが1日1キロくらいマンモスを食べていたことや、現代人の近縁のゾウの扱いについて(盛んなゾウの密猟・密売によって、象牙以上にゾウ肉が流通されていて、しかも儲けもゾウ肉のほうがケタ違いに大きい。)ふれる程度で、現行ゾウ肉の味がどんなものかなどの記述はありません。
{こんなの、読むひとによってどうとでもとらえられる書きぶりじゃないですか。
「今も昔もいっぱい食べられているのだから美味いのかな?」
と解釈するひともいるでしょうし(ぼくはこう思いました)、
「いや消費量に限ったってほかの肉と比べてどうという話がなければ何もわからなくない?」
とモヤモヤするひともいるでしょう。はたまた、
「日本などでゾウ肉密買されたみたいな話を聞かないということは、そこまで美味しくないのかな?」
と思うひともいるでしょう}
ゾウの味を知ることさえ一苦労です。
「ゾウ 味」でググると 『NEWSポストセブン』誌による記事『「象は象だけに大味ですね」と辺境作家・高野秀行氏語る』*7が出てきて、「なんだ即わかるじゃん」となりますが、それは運がよかっただけなんですよ。
高野秀行氏の著書をひらいてみてその記述に出会うのは難しい。氏が世界を行脚し食べた料理のまとめ本 『辺境メシ ヤバそうだから食べてみた』(文藝春秋刊)では、のっけからゴリラとチンパンジーとサルの食べ比べが掲載され(早大探検部時代のルポ『幻獣ムベンベを追え』で記されたことの再話ですが、より詳しい内容です)、アリ芋虫どころの騒ぎでない虫食、果ては動物のゲロまで様々な食材・料理が紹介されているんですけど、ゾウについては記されていません(『幻獣ムベンベを追え』を開いてみても、ゾウはいません。カワウソの煮込みやワニの仲間アビアールなどの感想はあるけれど。「あなたがもしゾウに踏まれたら」なんて章があって、ゾウは無音で動き暗闇にまぎれやすい体色であるために交通事故に遭いかねないから「テールランプ」で対策する――尻尾に自転車用の反射材をつける――なんて現地の細部が紹介された『怪しいシンドバッド』を開いてみても、ゾウの味はわかりません)。
三浦英之氏の『牙~アフリカゾウの「密猟組織」を追って~』を開いてみても、ゾウを食べる現地の人の存在と出会えども、書かれているのはそこまで。味がどうという話は出てきません。
(わからないなりに、「ゾウってそこまで美味くないのかな?」と思う展開は出てきます。
三浦氏の取材に応じたタンザニアの元密猟者は、「最初は食べるためだったんだ」けど、象牙を高値で欲しがる金持ちが現れたことで象牙密売に手を出し、貰った40万シリングで4頭の牛を買ったのだと告白しています。*8)
なんで書かれないんだろう?
ここからはぼくの想像ですけど、密猟・密売が現状さかんなゾウ肉の味についてもやはり盗掘なども今なおあるマンモスの味についても、それがどんなものか記述することは、(需要・密買を煽るおそれなど)倫理的な観点からはばかられる部分があるんじゃないでしょうか。
また、そうした問題がなくても、物的証拠がない部分について話すのは(味についての記録がない限り、妥当性があろうと想像の域を出ないにはちがいないので)本がまじめであればまじめであるほど、断定は避けたくもなりそうです。
図録にマンモスの味について一つの回答が
『マンモス展』の図録ではマンモスの味について一つの回答を提示していて、本当のところはどうあれ個人的には「良い買い物をしたな~」と思いました。
さて『マンモス展』図録には、くだんの福田氏も登場し永久凍土について解説しており、専門家の知見や監修が(名義貸しではなく)しっかりと入っていることと思います。
マンモスをどう狩猟したかの補足説明も『マンモス ―絶滅の謎からクローン化まで―』と共通するようなところがありますし、また、一瞬「どういうこと?」と思うようなファンシーな回答にもちゃんと補足説明があったりして、
「この図録はただ楽しくキャッチーなだけの本じゃないぞ」
ということが門外漢のぼくにも伝わってきます。
{たとえば「友だちはいた?」という質問に「ケサイやバイソン、ウマなどの草食動物たちが、友だちです」と大きなゴシック体で答えたもの(それ自体はどの回答も共通のフォント・サイズですが……)があって*9、一瞬、「なんだフジテレビが関わってるからって『ワンピース』か?*10」と早合点してしまうわけですが(笑)、次ページのユカギルバイソン冷凍標本のアップ写真の空白を埋めるように刷られた文章を読んだら、
「マンモス動物群というのがあり、ユカギルバイソンもその一頭で……」
という旨の補足がなされていました}
図録の短所
未掲載の展示物について
……と、ことほどさようにマンモスについての記述は充実しているのですが(あなたは縦横13センチのウンコの写真がそのままのサイズで、しかも同程度の別のウンコも実物大で高画質掲載された図録をご覧になったことがありますか?)、ほかの生物についてはちょっと控えめです。
冷凍庫で展示された化石群は、展示台に接地して見えるはずなかった裏側からの写真をふくめ、様々な角度からの写真が載せられていたり、専門家からのインタビューが載せられたりと結構に充実しています。
ただ、会場の入り口付近で並べられたマンモス以外の古生物の骨格標本やらは未掲載のものもありました。ましてや現行生物の骨なんて。
なので、骨格標本好きなかたなどは、現地でいっぱい写真を撮っておきましょう。
そのほか未掲載だったのは発掘動画のいくつか、とくに解剖動画など。これは会場現地でも撮影禁止でございました。
なので、解剖好きなかたなどは、現地で脳に焼きこまれるまで繰り返し見ておきましょう。
異論ある部分も断定口調で書かれている
また、文章について、本の趣向と限りある紙幅の都合上あれやこれやについて断言しがちの語り口なので、ちょっと注意が必要かもしれません。
たとえばマンモスの牙の用途について、図録では……
①食べるために使われた。
(①a土をほり返し、地中のミネラルを得るために。
①b雪原をほったり氷を割ったりして食べ物をさがすために)
②オス同士の権力争いやメスへのアピールとして使われた。
……などを挙げて回答してくれるのですが(ほかの本を読むに①は現行のゾウの牙の使い方からの類推らしいです)、理由について説明があったりなかったりとマチマチです。固まりきった定説であれば省略も当然かなとも思うんですが、ほかの本を読んでみると「う~ん?」とも思う。
そもそも①②が妥当かどうかの評価も識者によってマチマチみたいなんですけど、その辺は触れられていません。
(たとえば図録監修協力に名を連ねる福田氏は自著『マンモス』を読むかんじ①は違うと考えているようですが。
図録監修者に名前のない鈴木直樹氏は『北極にマンモスを追う』を読むに①のほうを推してます)
いや「文句がある」「その辺も載せろ」と言いたいわけではありません。
「写真主体で、かつわかりやすさ・面白さ重視の図録では、くどくどと文章載せられないすよね……」
「そんななかでよくこれだけ……」
という感じですね。
わざわざこんな長い感想を読むような熱心なかたであれば、図録のほかにもさまざま手を出してみるのもきっと面白いと思います。
展の構成について
展示の構成もよかった。
部分から全体へ、想像から実物へ……会場の奥へすすむにつれ徐々に輪郭がクッキリし血肉が宿っていく、探求者の気分が味わえます。
骨格標本から始まった『マンモス展』は、毛や歯、牙、糞などひとつひとつ別のケースに入れられた展示がつづき、過去の人々が想像していたマンモスの復元図の歴史などを経由して(まず骨が見つかったので、復元図には鼻がなく、牙のつきかたさえ怪しい)、発掘までのルポや永久凍土のレプリカなど研究者についてのスペースに移り……
……マンモスの皮膚や鼻などの冷凍標本をそれぞれ展示するスペースへと入り……
……そこからさらに、雪原から掘り出された標本が村の倉庫そして研究所へと運び込まれて解剖される研究映像の上映スペースや、研究室の機材を展示するスペースへ移ります。
展示機材の機械の側面を見てみると、黄色いテプラが貼ってありました。
機材の周りの壁は、遺伝子研究を伝える新聞記事や解説が貼られていたり、マンガ絵におこされた研究者の研究秘話が描かれています。
そこからさらに歩みを進めると、復元剥製のマンモスの立つスペースが。
それぞれバラバラに見てきた骨も毛も皮膚も鼻もすべてが一つに組み合わさって、白い牙には欠けもない。
そんなマンモスの足には蛍光緑にひかるバーコードのタグが巻かれており、いつか来るかもしれない未来を想像した展示なのだとわかります。
「はたしてマンモスを再生する研究をすべきか否か?」
そういう倫理的疑問をなげかけるキャプションを過ぎていくと、最後の冷凍標本スペースです。黒い空間を進んでいくぼくを待っていたのは、撮影禁止のマンモスの顔の冷凍標本。
どの冷凍標本もそうであるように生々しくおぞましく、そして骨格標本や復元剥製などほかのマンモスと違って背が低いので、いやが応にも「対面」というおもむきが強く出る。カメラのシャッター音がひびくことない静謐な空間で、われわれはどこから来てどこに行くのか、すこし考えました。
……とかっこよく〆られたならよかったのですが。すでに書いたとおり一緒に行った友人と観覧時間が倍近い差が出たため、ぼくのケータイには「展示終わって出たところの多目的ルームにおる。」「zzz_zzzくんどこいんの」と個人もグループも混ぜこぜでLineが入ってきて静謐とは無縁でしたし。お台場をあとにすれば、居酒屋で唐揚げをつまみながらマンモスは美味いのか否かで白熱したわけで、カッコなんてつきようがありません……。
ほかにもウンコは接写したいわ解剖映像は目に焼き付けたいわと、人類の飽くなき好奇心に業のふかさにイヤんなっちゃう観覧でした。
*1:研究者であるハーツォグ氏=『ぼくらはそれでも肉を食う』著者紹介によればウェスタンカロライナ大学心理学科教授。
*2:であろう人物
*3:であろう人物
*4: 余談。そのファミリーはぼくよりさきに次のエリアへ進んでいき、追いつけることなくそれきりでしたが、以降はマジモンの死体も出てくるわけで、あの子は大丈夫だったんだろうか……。
*5:実際帰路で見たガンダムもそういうところばかり注目してしまいました……
*6:角川ソフィア文庫刊。角川学芸ブックス刊『マンモスを科学する』を加筆修正のうえ改題した文庫本
*7:リンク先記述によれば、『週刊ポスト』2011年5月20日号掲載記事の再録みたいです。
*8:小学館刊、三浦英之著『牙~アフリカゾウの「密猟組織」を追って~』kindle換算50%(位置No.2448中1209)~、第四章「象牙女王」より
*10:これこそ怒りを買う雑な発言だ……。この回答自体は、すでに言った通り、「マンモス・ミュージアム」館長グリゴリエフ氏によるものです