すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

日記;2022/05/01~05/16

 ひさびさの日記です。3万6千字くらい。

(03/15~05/16までを一挙に載せたら「読み込みが不安定だ」というツイートを見かけました。自分のPCで確認したら確かに重かったのと、承認欲求のかたまりなので、分割することにしました。この記事と、そのまえの「日記;2022/04/01~04/30」と、さらにまえの「日記;2022/03/15~03/31」は5/17にアップした記事です)

 メリー卒業告知で杞憂民の血がさわいだり、『ゴジラS.P』ACを聞いたり、『カービィ ディスカバリー』の感想記事をアップしたり、話題の映画を観たりした2週間でした。

 ※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※

 

0501(日)

 ■ネット徘徊■杞憂■

  結局にじさんじはどこへ進んでいくんだろうなぁ

 グレッグ・イーガン氏による映画評を勝手に邦訳したり、著作の紹介をしたりした記事のなかで、『インターステラー』同時視聴配信についてふれた歌ウマvtuberのメリッサ・キンレンカ氏がにじさんじを5月いっぱいで卒業されることとなりました。

 歌がうまいだけでなく作詞作曲もできるシンガーソングライターとして、にじさんじでも数少ない人材であり、オリジナル歌はもちろん、歌唱力・作曲力をネタ企画にも活かしてくれて大変すてきなかたですね。

 サブカルなど雑談配信だけでなく、ゲーム実況、多人数コラボもいろいろやってくれていたし、にじVALO大会での初心者ながら熱心な取り組みも記憶にあたらしい。

 ましろくんとの毎週金曜のトーク配信も楽しく聞いていたので、「そうかぁ……」という感じです。

 

 ふんわり「(けれど実際はそうではなかった、単なる俗説である)常識」として流布していた、「3DCGのからだへ受肉されたvtuberは、むこう1年はvtuber活動をしてくれる」といううわさが今回の発表でそんな保証はなにもないというのが分かったので、vtuberの配信/活動は水物の鉄火場みたいな印象がより一層つよまりました。

  • (真相定かでない噂)にじさんじvtuberの名義で発表した作品は、なんかロイヤリティやらが当人ではなく会社に(ぜんぶ? だいぶ?)持ってかれるらしい。(そんな話があったらしい、程度の又聞きも又聞きなので、著作権著作隣接権、原盤権がどうなるのかzzz_zzzzにはわかるはずもない
  • (イベントスケジュールから見た、単なる事実として)3DCGモデルでライブをおこなう機会はそう多くない。自社スタジオとZEPPなどの)ライブ会場ふくめ、年に数回あれば多いほう。
  • にじさんじから卒業して別名義で歌手として活躍されるかたのなかには、ワンマンライブで全国のZEPP数ヶ所を回っているかたもいる。

 ……憶測も多数ふくみますが、じぶんで作詞作曲もおこなえるかたが企業vtuberとして活動する旨味ってあんまり無さそうに思えるから、しかたのないことではありますが。

 先日、別の企業774incの有閑喫茶あにまーれに所属していた歌ウマvtuberの宗谷いちか氏が、もっと広い活動をしていくためにあにまーれを卒業/しつつも774inc宗谷いちかとしては籍をのこす選択をなされた矢先のことでしたから、vtuber箱推し系リスナーのじぶんにとって都合がいい着地がなかったものかなぁ……という気持ちは、どうしたって湧いてしまいますね。

 

 配信者さんの音楽ライブイベントを観ていくうちに気になってきた点として、使用可能カバー楽曲の枯渇(カブり)問題があって、「この曲、あのイベントであのひとも歌ってたな」とかそういうことが結構ある。

{もちろん、『KANA-DERO』での(曲をカバーする配信者ふたりがそれまでの配信で死生観を話し合ったフッテージを間奏に載せた)『命に嫌われている』のように、全然ちがうアレンジをしてきたりや文脈をせおって、まったく別種の新曲をみるようなつもりでのぞめる幸運なケミストリーもあります。でもまぁ、毎度毎曲そんなホームランは打てないわけで……}

 逆に、「え、この人が歌うこの曲が聞けるなんて!」と思った曲は、(たぶん権利上・契約上の都合で)ライブの採録Blu-Rayに未収録となったりする。

www.youtube.com

www.youtube.com

 にじさんじでチャンネル登録者数トップの葛葉くんのワンマンライブのBlu-Rayについて、{同時期(1週間後)におこなわれた月ノ美兎委員長のワンマンライブのBlu-Rayが市場に並んでいるいっぽうで}まだ発売日のお知らせすら未発表の状況なのは、かれのライブが別イベントで円盤未収録になった『Ray』とおなじくBUMP OF CHICKENさんによる『アカシア』のカバーで幕をあけたからなのでは? と疑問をもったりする。

(言うて委員長葛葉くんのライブの前月に行なわれた『NIJIROCK NEXT BEAT』も『Initial Step in Nijisanji』の円盤化も音沙汰ないし、そこまで気にするものでもないのかもわかりませんが……)

 

 作詞作曲歌唱がライバーそのひと独自のものであれば、イベントの引き出しは増えるしその後の処理もいろいろと楽ちんに思えるので、重宝されそうな気がするのですが、そうなってない現状、にじさんじはこれからどんな興行をしていくのかなぁ……と悶々としました。

 

 

0502(月)

 ■ネット徘徊■読みもの■

  作品論でなく、「歴史」の話に/概論にすると作品読者以外にも読まれるが……

b.hatena.ne.jp

 毎度のことながら面白い『名馬であれば馬のうち』さんの記事でした。

 本文を読むと、書き出しとは裏腹に「始祖」がだれか・どれかということはあんまり主眼ではなく{探求の楽しさとか(点と点がつながったり、狙いをつけたものが確証えられたりした時の脳汁出る気持ちよさとか)は書かれているけど}

 文量がさかれているのは、(一言「ジャンプ時のコマ送り表現」とくくれる描写でも)各作でがらりと違うそのバリエーションや描きかたの面白味についてであり。

 「おまけ」と題されているし言葉すくなくはあるけれども、前段をふまえたうえでダリスト』(つるまいかだ著)のジャンプ表現が、先行表現をどうブラッシュアップしているか、どこに独自性を盛り込んでいるかを概観・注視した末部が、この記事でいちばん興味ぶかい読みどころだと思いました。

 記事を読んだnanamenon氏のツイートも興味ぶかかった。いのりさん(主役の少女)が光さん(天才少女)のジャンプをどう見たか(見れなかったか)をふまえたうえで、アフタヌーン』22年6月号掲載エピソードを読むと、いのりさんのコーチ(主役の男性)が光さんのコーチ(天才)のジャンプをどのように見ていくか(見ようとしなかったか)が一層あじわいぶかくなります。

 

 はてなブックマークのコメントを読んでみると、そこについてお話されているひとは少なくて、「同時代のバレエ教則本にこういう写真が掲載されていた」という大事なお話はともかくとして、「連続写真ではないか」(いやそれ記事冒頭に書いてねっスか……?)とか「手塚がやってる(具体例はなし)」とか、「(任意の作品)がない。」だとかの、起源にかんするお話になっていました

「う~んこういう記事でも、話題の中心はそっちになっちゃうのか。

 いやまぁでも、記事執筆者さんが毎月"メダリスト、天才……"みたいな鳴き声を上げていることをぼくが知っているからそう思うだけで、ふつうに読めばそっちに注目する・話題にするのが正しい筋なのでは……?」

 ともごもご独語オタクになってしまった。

 

0503(火)

 仕事休みだったのだが、だらだらしているうちにすべてが終わってしまった。

 

 ■観たもの■

  『ゴジラS.P』1巻のオーディオコメンタリーを聞く

 『ゴジラS.P』1巻のオーディオコメンタリーを聞く。1~3巻とも、各種メディア・イベントでインタビュー・登壇されたさいにお話しされたことと重なる部分も多かったです。

 

 以下、面白かった部分を記します。

●0:17:40~(1話)

 共同作業の途中で設定を変えたときに直しきれなくて出た誤字的な部分へ、意味を見出されてしまう問題について。

(逃尾町でスタートしたものの「(町にしては)規模が大きい」ということで逃尾市へ変更したが、すでに発注かけてしまった分は修正できなかったものもある。

 視聴者にそのちがいに注目されて「多世界だ!」ととらえられてしまった)

 

●0:29:08~、31:14~(2話)

 ラドンにまつわる生物学的な事実と創作でのウソ(設定構築)について。

高橋「じっさいの翼竜ってだいぶ体重軽かったはずなので、こんなドシドシはいかないんで、そこはウソついて怪獣なんですけど」

高橋「じゃあ本当に翼竜だったら羽ばたかないんじゃないか? とか」

円城「まず下から上に飛んだ時点で、あの(笑)」

高橋「羽ばたいて上昇していく時点で翼竜とは言えないだろうみたいな(笑) ありますけど、そこは"そういう嘘レベルでいきます"、という感じですかねぇ」

円城「そういうことをするために素材も設定している。まぁ設定って言えるほどじゃないんですけど、"いいんだよ、強い設定なんだよ!"っていう(笑) はい」

   東宝、高橋敦史監督ゴジラS.P』Blu-Ray1巻0:31:14~、2話オーディオコメンタリーより{ただしzzz_zzzzが場つなぎ表現をいくらか削り、(笑)で補足もした}

 ぼくは書き途中の感想文記事で……

 さて『ゴジラSP』劇中さまざまなされる怪獣論議のなかで、ぼくがとりわけ注目したいのは報道番組(? ワイドショー?)のとある場面。

 ラドンケツァルコアトルスとの類似が指摘され、そのさいケツァルコアトルスがどんな生物であったか、現在考えられているプロフィールも表示されます。

 ここが「SF考証~!」て感じで、たいへんよろしいなとぼくはワクワクしたわけなんですよ。

 劇中TV番組で表示されたケツァルコアトルスの情報は、復元図と体長、進行速度など。体重は無記載でした。

 この、いてないってのがよく考えられてるなってニヤニヤした点なんですよ。翼竜の体重ってすごい意見がわかれるところらしいんすよね。

 ケツァルコアトルスは、巨大翼竜が飛べたかどうかという議論を巻き起こした。この翼竜は、現生鳥類との比較などにより、さまざまな体重推定が行われている。体重500キロを超えるとする推定もあるが、よく見かけるのは約70キロという記述だ。しかし、翼開長10メートルに対して70キロは軽すぎるという反論がある。東京大学の佐藤克文らの研究では、250キロ程度と推定している。そして、現代と同じ環境だったとすると、この体格では、離陸も持続的飛行も難しかっただろうとの見解を示している。

   技術評論社刊、川上和人著『生物ミステリー 鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』kindle版43%(位置No.4190中 1768)、「第2章 鳥は大空の覇者となった」Section5 鳥は翼竜の空を飛ぶ、存在の耐えられない重さ より

 動物たちにセンサをつけてしばらくしたのち回収、各種データを取るバイオロギング。このリサーチによって、海洋生物が小さなペンギンであっても巨大なクジラであってもだいたい同じくらいの速度で泳ぐことを唱えた川上克文さんは、その後さらに研究をつづけた結果、翼竜は飛べたのか』(円城氏が読書メーターに18年3月29日読了スタンプを押した本)で前著ンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ―ハイテク海洋動物学への招待の自説の細部について修正したうえで、さらに踏み込んだ発表します。

 カメも海鳥も魚も水中で泳ぐ生物であれば、10万倍ものサイズ差があろうとだれもが秒速1~2メートルで泳ぐ、それは間違いない(なので前著は正しい)。でも、鳥類なら鳥類だけ、哺乳類なら哺乳類だけでカテゴライズして見ていくと、泳ぐ速度の速遅と体長・体重の大小とには比例関係にある……それがデータを再検討してわかったことでした。

 さらに各種データを調べていくと、エンペラーやキング・ジェンツー・アデリー・ヒゲ・マカロニ・コガタの七種のペンギンはどれも胴回り長は体重の0.36乗、翼長は0.36乗、翼面積は0.63乗に比例しており*1、平均遊泳速度は体重の0.083乗、最適遊泳速度のペンギンの翼の周波数は体重のマイナス0.29乗に比例する*2。(ちなみにペンギンやウミガラスや鵜など海鳥も、アザラシやイルカやクジラの哺乳類も17種の海を泳ぐ生き物は翼やヒレを動かす周波数が体重のマイナス0.29乗だった*3

 こうした関係は水中だけでなく、飛行生物の飛行速度と体長・体重や羽ばたき周波数にも言えるのではないか? ……『巨大翼竜は飛べたのか?』はそう推論します。

 「あれっ、飛べるの?」というのが、私が抱いた最初の感想だった。その後、藪の中にいた鳥が次々と開けた場所に出てきては、軽やかに飛び立っていく。助走しながら飛び立つものもいたが、全く助走せず、地面の上から飛び立つものも数多くいた。そして、なぜか発射台を利用する鳥は皆無であった。

   平凡社刊(平凡社新書)、佐藤克文『巨大翼竜は飛べたのか』p.176、「第五章 樹に登らないオオミズナギドリ飛べるんです より

 佐藤氏のデータロガーをもちいたフィールドワークや探求精神は目覚ましく、たとえば上に引用した川上氏も著書に記した「空を飛ぶのがヘタだけど、高所へよじ登って高度を稼ぐことで飛翔を可能とするオオミズナギドリ*4という知見が、データと実見によってあやしいことをつきつけます。(川上氏はここで、BBCの動物番組はもちろん専門家にさえ浸透した都市伝説がどこで生まれたのかを史料を遡り調べる、ちょっとした歴史研究の領域に踏み入れたりもします)

 通説と異なりオオミズナギドリでさえ平地から自力で垂直飛翔するのが常であり、自力飛翔できる現生生物の翼の長さと体重には関連性があり、オオミズナギドリもその枠内にばっちりいる。また、体重に対する筋肉量の割合や骨密度なども適量が見受けられる。

 この枠内に翼竜だけが当てはまらない道理があろうか? ……佐藤氏は推論の羽をさらに広げます。

大胆な推測

 羽ばたきで得られる揚力に頼って飛翔する動物において、羽ばたきの周波数は、筋肉の最大パワーによって制限され、その上限値は体重のマイナス1/3乗に比例する。一方、飛び続けるために必要な羽ばたき周波数下限値は体重のマイナス1/6乗に比例すると予測できる。(略)こうした理由から、飛翔性動物の体サイズには上限があることも、過去の研究者によって指摘されてきた。昆虫や小鳥の飛翔行動はその気になれば観察できる。(略)

 しかし、鳥類でも行動半径が広い種類の場合は、一羽を観察し続けるのは難しい。(略)

 私は、加速度データロガーをミズナギドリ目の5種類に用いることでデータを得た。測定された羽ばたき周波数の上限値と下限値を、データロガーをとりつけた個体の体重と比較したところ、理論予測に非常に近い関係式が得られた。羽ばたき周波数の上限値と下限値は、体サイズが大きくなるほど近づいていき、体重41キログラムのところで一致した(略)(略)

 ここで体重41キログラム、翼開長5・1メートルよりもわずかに大きなミズナギドリ目の鳥を仮想してみる。実在するミズナギドリ目の鳥と同様に海上を滑空できるだろう。強風が吹き荒れる状況ではダイナミックソアリングによって長距離を移動できる可能性もある。しかし、長時間飛翔する間に必ず無風状態に遭遇するはずだ。そんなときは、自ら羽ばたくことで加速しなければならない。ところが、その大きな鳥は加速に必要な周波数で羽ばたくことができない。(略)

 実際には、そこまで巨大なミズナギドリ目鳥類は実在せず、(略)ミズナギドリ目鳥類の最大体重が理論的に予想される41キログラムよりもだいぶ軽い12キログラムに収まるのは、かなり現実的な値に思える。

 ワタリアホウドリ以外にも様々な大型飛翔性鳥類が今の時代に生存している。アフリカオオノガン、オオハクチョウコブハクチョウ、モモイロペリカン、カリフォルニアコンドルの体重は、いずれも12から16キログラムくらいだ。これらの鳥類は分類群も異なり、翼の形や飛翔方法はそれぞれ異なるが、上限が似たような範囲に収まっているところを見ると、長い進化の過程で画期的な体型や飛翔方法を見いだした鳥類はいないようだ。

 ところが、現在生存していない動物、化石のみでその存在が知られる動物の中に、これらの上限をはるかに上回るとされる者たちがいる

   平凡社刊(平凡社新書)、佐藤克文『巨大翼竜は飛べたのか』p.236~238、「第六章 巨大翼竜は飛び続けられない」大胆な推測 より(太字強調は引用者による)

 そうした段階を踏んだ推論の成果が、「ケツァルコアトルスは250キロ」「ただし直接離陸も持続的な飛行もできない」なんですね。

 もちろん、巨大翼竜が現代まで生きていない以上、どれだけ説得力があろうと究極的には仮説にすぎず、そもそも検討材料がまちがっているという可能性もある。

 川上氏は佐藤氏の研究を紹介する一方で、巨大翼竜がゆうゆう飛べたと唱える研究者の知見も紹介します。

 一方、巨大翼竜は軽々と飛べたとする研究もある。たとえば体重が重い巨大翼竜でも、4本足で飛び上がることによって、容易に舞い上がることができるというのだ。実際に巨大翼竜が飛べたかどうかについては、まだ結論が出ていない。

 もしかしたら、彼らの生きていた環境は、現代とちがっていた可能性もあるといわれている。たとえば、大気の密度が異なれば、飛行可能な条件も変わってくる。また、そもそも翼竜の体サイズの推定がまちがっている可能性もある。巨大とされるケツァルコアトルスでは、翼の一部の骨しか見つかっておらず、体サイズはあくまでも推定にすぎず、実際には飛行可能性が疑われることのないサイズだったかもしれない。

    技術評論社刊、川上和人著『生物ミステリー 鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』kindle版43%(位置No.4190中 1774)、「第2章 鳥は大空の覇者となった」Section5 鳥は翼竜の空を飛ぶ、存在の耐えられない重さ より(太字強調は引用者による)

 

 ……というようなことを考えていました。

 オーディオコメンタリーの高橋氏&円城氏によるラドンまわりのお話は、その証左となる内容でうれしかったです。やっぱりそうですよね~。

 ただ、翼竜は飛べたのか』を読んでいる円城氏由来の書き込みだろうと思っていたので、高橋監督もご存知だった(ないし、さらっと語れるくらいに知識が共有されていた)のはこのACではじめて知りました

(のちのエピソードのACで円城氏から話題にされるコンラート・ローレンツ撃』の知見は、他メディアのインタビューによれば高橋監督から話題に出されたそうですし、高橋監督がそもそもご存じだった可能性もかなり高そう)

 

●1:04:45~(3話)

 報道などを点描していくシーンは円城さんの構成。(とくに書き足したり削ったりはしていないそう)

 高橋さんとしては経験のない展開だったので、試作しつつの作業だったとのこと。

 

 既出の情報として円城氏から、

「オーダーを受けて脚本を書きのばしたりもした/映像となるにあたって削られた/あの脚本をこうまとめた高橋監督はすごい」

 というお話はありました。

 なのでてっきり『ゴジラS.P』のあの作劇は高橋監督らアニメスタッフ側の感覚(手柄)なのだろうと思っていたぼくとしては、意外なお話でした。

 ただまぁ円城作品、たしかに飛ばすときはバンバン飛ばすし、不思議ではないかもしれない。

 

●1:25:00~(4話)

高橋「インドだし、インドからありがたいお経を持って帰るお話なんで、"猿じゃないの?"みたいな。猿が閉じ込められているっていう意味で五行山なんで、ハッチの数は五個で。(略)オキシジェン・デストロイヤーもお経の巻物っぽい形をしてないすかね? みたいな話をしていた」

 高橋監督のことばだけど、『文字渦』の一挿話とおなじく円城氏的な発想。

 

●1:45:00あたり(5話)

 アンギラスの未来予知・跳弾行動の設定と表現の推移について。

 円城氏が何度か話されていた、「理屈としてはこうなるが、それだと絵的に面白くない」部分の詳細として聞けるような細部(の変更)

 視聴者から「これでそう判断するのは早合点じゃない?」「偶然そうなっただけということは大いに考えられるよね?」と疑問がでた部分は、見栄えを優先した結果みたいでした。{「アンギラス(ユンらの推察どおりに)未来予知をしている」という設定らしい}

 

●1:49:20~、1:50:51~(5話)

 だれ発信で想像されたかわからない捕鯨砲/源さんと。

 いかにも昔のアニメの元気なオッサン的な源さんの造形にも、(高橋監督らの)取材によって捕鯨砲手らしいディテールが盛り込まれているというお話。

 

 ■書きもの■

  過去記事への追記(『都市のイメージ』原文確認)

 過去の勝手に訳文記事『訳文;「そこにはなんの報酬もありません。このゲームが何を為していてどう機能しているのか、ただただ見ていたかったのです」ジェンキンズ、カーソン、ホッキング、『Outer Wilds』へつづく2,3の論考』の一部文章をあらためたり加筆したりしました。

 ジェンキンズ氏の論考でケヴィン・リンチ氏の『都市のイメージ』を引用した箇所について、当該箇所を確認したり、訳をあらためたり前後の文章を紹介したりしました。

 すべてがふにゃふにゃしている一方で「いまはふにゃふにゃしているけれど、大人になったらカッチリ仕事できるようになるでしょ~」みたいな楽観を漠然といだいてしまう子供時代ではなく、じぶんの仕事のできなさぶりが重々わかった年齢になってから読む市のイメージ』、すごい泥臭いフィールドワーク的なえらい仕事ぶりにただただ「えらい……」と感動してしまいますね。本当にえらいお仕事ですよ。

 

 

0504(水)

 仕事休みだったのだが、だらだらしているうちにすべてが終わってしまった。

 

 ■観たもの■

  『ゴジラS.P』2巻のオーディオコメンタリーを聞く

ゴジラS.P』2巻のオーディオコメンタリーを聞く。

 

 

0505(木)

 仕事休みだったのだが、だらだらしているうちにすべてが終わってしまった。

 

 ■そこつもの■

  『ゴジラS.P』3巻のオーディオコメンタリーを……

 『ゴジラS.P』3巻のオーディオコメンタリーを聞こうとしたが、どこにあるのかわからなくて探しているうちに日が暮れてしまった。

 

 

0506(金)

 ■観たもの■

  『ゴジラS.P』3巻のオーディオコメンタリーを聞く

 『ゴジラS.P』3巻のオーディオコメンタリーを聞く。

 

 (■観たもの■そこで考えたもの)

   ▼製作上、齟齬はどこかで出てしまうもの。ということは……

 『ゴジラS.P』オーディオコメンタリーを聞いていると、たびかさなる設定変更と発注とのあいだで生じた齟齬により、視聴者から(たとえば「パラレルワールドなのでは?」など)意図しない意味を見出されることが多々あったそう。

「ただ単に製作上のいきちがいなんです(苦笑) そういう世界じゃないんです{申し訳ない(笑)}

 といった感じのお話が何度か出ましたが……

「でも見えてしまうものは仕方ないのでは?」

 とも僕は思いました。そしてさらには、

「そうした部分を突き詰めると、もしかしてアニメ(など大規模共同作業)は、多世界設定にもとづく以外ないのかもしれない」

 とも。

 

 ■書きもの■

  過去記事の加筆(「symbols scratched into subterranean walls」を「岩々へ刻まれるも見えづらくなったイニシャル」と訳した経緯の説明)

 過去の勝手に訳文記事『訳文;「そこにはなんの報酬もありません。このゲームが何を為していてどう機能しているのか、ただただ見ていたかったのです」ジェンキンズ、カーソン、ホッキング、『Outer Wilds』へつづく2,3の論考』の一部文章をあらためたり加筆したりしました。

 「因と結果」エレメントは、時の流れを描写するのにも有効です。

 ゲームのキャラクターは序盤に慣れ親しんだ場所へ、そこが完全に変貌していることに気づくためだけに戻ってくることがあります。大変動の結果かもしれませんし、あるいはかつて訪れたさいに覚えていたエレメントが消えてしまっている結果かもしれません。

 「原因と結果」エレメントはまた、ゲームプレイヤーの行動によって直接引き金を引くこともできます。ハーフライフ『Duke Nukem 3D』が最高のお手本で、『Duke Nukem』の場合、ゲームプレイヤーはその環境へ大破壊を弄し、トイレを吹き飛ばし、やしの木に火をつけ、そして沢山の建築物を穴だらけ(スイスチーズ)に変えてしまいます。長い死闘のあと、デュークの未来的なロサンゼルスで起こったことがどんなものかは疑う余地はありません。

 の「原因と結果」の例は、「サクヌッセンム辿り」とわたしが読んでいるものです。

 ジュール・ヴェルヌの著した『地底旅行』にちなんだ命名です。この物語の主人公は、岩々へ刻まれるも見えづらくなったイニシャルの跡を追いかけます。跡の主は冒険の先達、16世紀アイスランドの科学者アルネ・サクヌッセンムです。

 このようにしてゲームプレイヤーは、先を進む架空のゲームキャラクターの後にのこされた「パン屑」を拾うことでストーリーに引き込まれます。

 環境全体にちらばったノートを完成させるにせよ、危険な生きものの破滅的な足跡を追うにせよ、この「原因と結果」エレメントはクリエイターが語ろうとしている物語のドラマ性を高めてくれます!

 "Cause and effect" elements can also depict the passage of time. A game character may return to a place that they had become familiar with earlier in the game, only to find it completely altered. This may be due to a cataclysmic event, or the disappearance of elements remembered from a previous visit. "Cause and effect" elements could also be triggered directly by the actions of the game player. The best examples are found in games like Half Life and Duke Nukem 3D. In the case of Duke Nukem, the game player reaks havoc on his environment, blasting toilets, setting fire to palm trees, and making Swiss cheese of many architectural elements. After a lengthy Deathmatch, there is not doubt as to what has transpired in Duke's futuristic Los Angeles.

 Another example of "cause and effect" is the use of what I call "Following Saknussemm." Derived from the story Journey to the Center of the Earth by Jules Verne. In Verne's story the main characters follow a trail of symbols scratched into subterranean walls by their adventuring predecessor, a sixteenth century Icelandic scientist, Arne Saknussemm. In this way, the game player is pulled through the story by following "bread crumbs" left behind by a fictitious proceeding game character. Whether you create notes scattered throughout your environments, or have the game player follow the destructive path of some dangerous creature, "cause and effect" elements will only heighten the drama of the story you are trying to tell!

 ドン・カーソン氏の論考について、ぼくが「岩々へ刻まれるも見えづらくなったイニシャルの跡」とした箇所の原文は「trail of symbols scratched into subterranean walls」。

 辞書で意味を確認すれば「subterranean=地下の/秘密の」「walls=壁(の複数形)」という具合で、意訳が過ぎるかもしれません。前者はまぁいいかもわかりませんが「『地底旅行』なんだから"地下"では?」みたいな疑問はよぎりますし、wallsが岩々になるほうは訳した自分からしても距離があることばだと思います。

 小説を開いてみると、サクヌッセンムの暗号が刻まれているのは①羊皮紙と②火口の岩と③地底の岩などで、「地下の」はおかしい。そして「壁」というのも我々がイメージする「壁」ではありません。

 ②と③の状況をそれぞれ引用すると、②は……

Je l'aperçus, les bras étendus, les jambes écartées, debout devant un roc de granit posé au centre du cratère, comme un énorme piédestal fait pour la statue d'un Pluton. Il était dans la pose d'un homme stupéfait, mais dont la stupéfaction fit bientôt place à une joie insensée.

みると、彼は、地底の王者プルートンの像をささえる大きな台座のような、火口の中央の花崗岩の前で、両腕をひらいて立っていた。彼の姿は、びっくり仰天した男のそれであったが、やがてその驚きは、気でも狂ったような喜びに変わった。

(略)

Et, partageant sa stupéfaction, sinon sa joie, je lus sur la face occidentale du bloc, en caractères runiques à demi-rongés par le temps, ce nom mille fois maudit:

わたしはの西側に、年月を経てなかば消えかけたルーン文字で、あのじつに呪わしい名前を読みとったとき、叔父のように喜びはしなかったが、やはりびっくりしてしまった。

   仏語原文はProject Gutenbergより。邦訳文は、東京創元社刊(創元SF文庫)、ジュール・ヴェルヌ(窪田般彌訳)『地底旅行』kindle版40%(位置No.4305中 1978~、1682)、16より(太字強調は引用者による)

 ……という具合で、③は……

Et, prodigieusement intéressés, nous voilà longeant la haute muraille, interrogeant les moindres fissures qui pouvaient se changer en galerie.

Nous arrivâmes ainsi à un endroit où le rivage se resserrait. La mer venait presque baigner le pied des contre-forts, laissant un passage large d'une toise au plus. Entre deux avancées de roc, on apercevait l'entrée d'un tunnel obscur.

Là, sur une plaque de granit, apparaissaient deux lettres mystérieuses à demi rongées, les deux initiales du hardi et fantastique voyageur:

 そこでわたしたちは、興味津々として絶壁にそって歩き、回廊に変わっていそうな小さな割れめをくまなくさがした。

 こうしてわれわれは岸がせまくなっている地点へたどり着いた。海はほとんど岩の足もとを洗っていた。せいぜい幅二メートルぐらいの、やっと歩いて通れるくらいの道しかなかった。そして、ふたつのつきでた岩のあいだに、暗いトンネルの入口がみつかった。

 そこの花崗岩の表面には、半分消えかかったふたつのふしぎな文字が、大胆で、じつにすばらしい旅行者の頭文字がきざまれていた。

   仏語原文はProject Gutenbergより。邦訳文は、東京創元社刊(創元SF文庫)、ジュール・ヴェルヌ(窪田般彌訳)『地底旅行』kindle版86%(位置No.4305中 3698~)、39より(太字強調は引用者による)

 ……という具合。そんなわけでこう訳しました。

 

 

0507(土)

 遅起きと昼寝で日中をつぶし、水分不足で頭がぼーっとして夜もつぶす。

 ことしのGWは仕事も宿直もほぼかぶらないという最高の期間だったのだが、なにもできずに終わってしまった。

 

 

0508(日)

 急な勤務変更でお仕事&宿直。

 

 

0509(月)

 宿直明け日。

 

 ■ネット徘徊■読みもの■

  『ダークソウル』はローカライズ分野でもダークソウルってこと?」そうです;『'It's a tier above': How a giant, cryptic RPG like Elden Ring gets translated』読書メモ

www.pcgamer.com

 それは何ですか;

 ルデンリング』の和訳が「ヤバい」という内容の記事が話題となり{最初うろんなクラスタによる、そういう「てい」の記事かと思ったのですが(ほら、『天気の子』がゼロ年代美少女ゲームのアニメ映画化だというていで記された感想みたいな)そういう記事ではなかったらしい。※}、そこで派生して別のかたが紹介していた記事。

{※勘違いで突っ走った部分はあったけれど。

 記事執筆者のツイートなどを覗くに、宮崎氏のクリエイティビティをたたえたうえで、しかしゲームが大作化した(り、あるいはアプデによる修正などからみられるとおり、納期などに追われたりした)ために、宮崎英高氏が直接てがけた領域がすくなくなって「任せる部分が増えた」と言っているインタビューもあり、実際この認識は正しいらしい)コントロールが効いてない部分が『エルデンリング』日本語文章には目立つのではないか? という疑問からもとづく批判記事だったようで、実態の正否はどうあれ、そういう論調で言えばわりあい理解者を得られそうな内容だと思いました}

 読んでみた感想;

 そんなゲーム、翻訳しづらいに決まってるじゃないですか、でしょ? ライアン・モリスはフロッグネーション社がローカライズを担当した他タイトルとくらべて、宮崎英高のゲームが「特段」難しいことを認めます。(『ダークソウル』はビデオゲーム翻訳におけるダークソウル……ってコト? まぁ、そういうことです)

So it must be hard to translate these games, right? Morris admits that compared to other titles handled by Frognation, "it's a tier above" in terms of difficulty (Dark Souls is the Dark Souls of videogame translations, then? Well, yes).

 機械翻訳につっこんで読みましたが、面白い記事でした。

「西洋ファンタジーの雰囲気(ムード)をとらえるために、日本語圏販売用でもゲーム内の音声について英語での収録を選択しました」

 なんて記述には、理由は全然ちがいますが、ユーザーインターフェースを英語で設計したのカービィ ディスカバリー』を思い起こしたりも。

 宮崎ゲーってけっこうケルト神話モチーフが多いのではないか? と考えるかたが少なくないようなのですが、この記事ではなんか気になるお話が載っていますね。

 声優については、配役した理由や経緯についてさまざまなことが考えられています。フロッグネーションの創設者リン・ロブソンによれば、『エルデンリング』プレイヤーはしばしば、一般的なゲームではあまり聞かれない地方のアクセントの存在に感銘をうけたとフィードバックを寄こすそうです。

「『エルデンリング』は複雑な家族関係をあらわします」ロブソンは言います。「そして私たちはウェールズコーンウォールの方言をゲームにもちいることを思いついたんです。これらの方言は、ローマ征服まえにも最中にもブリテンで話されていたブリソン諸語からの派生で、前提にも適していると」

As for the voice actors, a lot of thought is put into how and why they're cast,. Lynn Robson, founder of Frognation, said that players have often sent feedback, impressed by the presence of regional accents that aren't often heard in games. "Elden Ring presents complex family relationships," Robson said, "and we came up with Welsh and Cornish regional dialects since both are derived from Brythonic language spoken in Britain before and during the Roman occupation and fitted the premise." 

 

 

0510(火)

 ■ネット徘徊■

  4枚画像プレゼンクラスタを探してみる

 たまに見かけるこのクラスタ。検索してみるといろいろなかたちでいろいろな層ががんばっていることが見えてきますね。

 

   ▼あるある

 

   ▼動物占い

 

   ▼ブログでやれ

 

 

    ▽パワポでやれ(持論をレタリングしてプレゼン)

 

    ▽ストーリーブック形式

 

   ▼オタク以外のまとめ
    ▽情報アカのお役立ち系

 

    ▽美容アカのお役立ち系

 

 

0511(水)

 ■書きもの■

  『星のカービィ ディスカバリー』感想記事をアップしました

zzz-zzzz.hatenablog.com

 感想記事をアップしました。前回が2月で今回が5月。去年に比べれば良い調子だよきっと。

 この記事のために、カービィ スーパーデラックス』格闘王への道」をクリアしてサウンドモードが出てくるまでやり直したり、カービィ スターアライズ』を本編ストーリーモードと『星の○○』をやって、サウンドモードが出てくるまでやったりしました。

 『スパデラ』は友達の家で遊ぶゲームだったのですが、

「ひとりプレイ&CPUとのタッグはこんなにつらいのか。自動でうごいてくれるだけでもエラいんだろうけど、今になって振り返るとかなりツラいAIだ」

 『スタアラ』にかんしては、

「4人プレイしても楽しい作品をひとりプレイするのはちょっと骨だな……(道や宝箱が4択になってめんどくさい)

 と思ったりしました。

 

   ▼適当なものさししか持ってないので星取りムズい

 事物への評価として、○(出来が良いかどうかの度合い)とか★(すごいかどうかの度合い)や♪(面白いかどうかの度合い)とか!(興味深いかどうかの度合い。知識欲的な)とか♥(好きかどうかの度合い)を4点満点できめておりまして。

 で、今回は「!」以外みんな2にしたんですけど、この辺はみんな3にしてもいいししなくてもいい位なかんじで、いろいろ難しいなと思いました。

 

    ▽「おれは良い/悪いと思ったが、そもそも作り手は"おれの良し/悪し"で物をつくってないだろ」問題

 「"良い/悪い"と"好き/嫌い"をそれぞれべつの尺度で表せば、たとえば"客観的にわるい作品でもおれは好き"といった評価がくだせるのではないか?」と思ったのですが、良し悪しってそんなうまく一つの基準にまとめらんないよな、みたいなことを思い始めてきました。

 たとえば難易度設定ひとつとっても、良し悪しは決められないよな……と思ったり。

 スーパーファミコンミニで『スパデラ』を甥っ子とやったとき、幼稚園生だった甥っ子は「はるかぜとともに」もクリアできなくて詰んだことを思い出します。それは『カービィ』のステージが云々というよりもそもそもSFCのコントローラを持って、左手で移動しつつ右手でボタンを押す、という行為自体ができないがために詰んじゃったんですよね。

 それをかんがみるとディスカバリーはたぶん小中学生時代の自分にとっては難しいか適正な歯ごたえの作品だと思うんですよ。

 あと、構造の理解とかがゆるめだった当時なら、いまのぼくにとって計算ドリル的に思える応用問題的構成についても気にならなかったはずだと思います。

 そもそもメインターゲットではない(だろう)自分が、その作品を評価するさい、どのような視点に立てばいいのか? よくわからなくなってしまった。

(たぶんこれ、blogはじめて1年目で気づくべき問題な気がするんですけど、あまりにグダグダ運営なので、感想文・レビューをまったく量こなせてこなかったために、そんな悩みをいだくのにこれだけの時間がかかってしまった……それも気が重くなるポイントです……)

 

   ▼じぶんがよいと思った程度のことは、良いレビュアーも考えているし、(そんな良作を作れる)作り手なら考えたうえで造形してる。なので……

 なんだかんだ四月の半ばにはほぼ書けてたんですけど、お絵かきブログの矜持として、途中の妄想パート(こういう内容だったら自分はもっと楽しめただろうという、具体例の提示)にイラストをつけようともにゃもにゃしているうちにこれだけの時間が経ちました。

 記事をクリックすればわかるとおり、けっきょく妄想パートに絵はつけられてません

 ……それというのも、ダラダラしているあいだにDという新大陸への軌跡 開発者インタビュー」を掲載したアンビット『Nintendo DREAM』2022年06月号が発売されてしまったからです。

 このインタビューでは、5面までの各ステージ、各ボス、各キャラに関するスタッフのお話が聞けるほか、初期のイメージボードなども一部掲載されています。そこでのお話がじぶんの感想文でフォーカスしたところと重なる部分がありました。

 ようするに、

「おれの感想文が、階段機知の事後諸葛亮におもわれてしまう!」

 と杞憂してあわててアップしたってわけですね。あらためて文字にするとキツいですね。キツいですな。

(そもそも上のインタビューを読むのがおそくなったので、雑誌発売から20日という、「それだけの期間があればおまえの感想文だって書けるのでは?」と思われても当然の期間が空いてしまったわけなのですが……)

 いやまじで自分ひとりで感じ思ったことなんすよ今回の記事も……。

 

 『Outer Wilds』レビューを回って、

「クリエイティブ・ディレクターがじしんの論文で述べた狙いは、たぶんそれを読んでないだろうプレイヤーにもしっかり伝わってて、そこがきっちり評価されてるじゃん! すごいゲームだし、それに答えられるくらいプレイしたりアンテナをおもちだったりする識者はいっぱいいるなぁ!」

 と思ったんですけど。

 『Nintendo DREAM』掲載インタビューを読んで思ったのは、zzz_zzzzがよいと思った程度のことは、(そんな良作を作れる)作り手なら考えたうえで造形してるということですね。なので、感想文を書くなら(他者の言及や創作者からの答え合わせが出そろわないうちに)さっさと出したほうがいい

 

   ▼情報の配分をどうするか? 予防線張りまくって、一番に伝えたいことが脇に退く問題

 なんか、伝達情報の優先順位や、配分をミスってしまった気がしなくもない。

 伝えたいことがぼんやりしてしまっただろうのはたぶん気のせいではないんでしょうね。予防線としての御託がおおくなり申した。

「とある要素Aがじぶんの趣味で、それを期待するとそこまで耽溺できない気もするけどべつの要素Bは豊かにあって、それは自分の趣味を超えて余りある美味である」

 というお話をしたい(したかった)のです。

 Aにあたるのが1-1面のトータロスまでのくだりから想像される、創発的な展開とか、『Outer Wilds』を引き合いに出して説明したような細部が大部へと発展・連結するような世界の広さと書き込みとかですね。

 で、B(=伝えたいこと)が、1-1面の"ドームほおばり"がクライマックスまで出張ること、そしてその出張り方がクライマックス独特のスペシャルな演出ではなく、あくまでここまで何度も何度もおこなってきたワドルディ救出などの道中と地続きであること。

 

 文量的にはAがかなり多くなりました。

 どうしてそうなっちゃったんでしょうね?

 「要素Aだって特濃じゃないってだけでべつに薄いわけではないというのも話すべきだと思いました。殊勝な理由ですね。具体的にどのくらいのものなのか、示せた気がします。

 でも実際のところそういう崇高な理由からそうしたわけじゃなくて、ぼくが危惧したのは、Aについてきちんと語らなければ、

「けっきょくzzz_zzzzさんはAをどうでもいいと思っているひとで、実際にはBが好きな人ってことでしょ(A好きな自分にはダメそうな作品だな)

 と取られてしまうのではないか? ということでした。

 

    ▽自我の問題(副な話題について、「今回の記事では主題じゃないけど、別にそこに興味がないわけでも嫌いなわけでもない」と言いたい、「むしろお前よりよっぽどそこについて考えてるし、好きなんだが?」と言いたい気持ちをどうすればよい?)

 ぼくがAについて興味がない人間だと取られても、感想文の内容にはとくに影響しないはずなわけですが、それでもそう取られたくないというのは……はずかしいお話ですが、自尊心の問題と言わざるをえません。

「バカにされたくね~~!」

 という一心ですね。この執着心がバカっぽい。もう少しどうにかするべき。

 でもどうやったら抑えられるんでしょうね? どうしようもない問題に思える。

 

    ▽「作品の"リアリティ"は一番の評価軸ではないが、(自分も気にしてる軸ではあるし)避けるのもなぁ」という態度が、記事を、作品を肴に現実や思想を語る俗流社会批評みたいにしちゃう問題

 前述した要素Bはゲーム(この作品)ならではの楽しみで、そうした「作品内で描かれたものを大事にしよう」「そこでしか得られない栄養素を重視しよう」という(テマティスム的な?)見方は、ぼくがイメージする・そうありたいと願う「善き鑑賞」の態度です。

 要素A(の後半部)はいわゆる「リアリティ」とか「厚み」とか「深さ」とかいう言葉であらわされるような面白みで、Aを語ることは(無知な)自分にとって面倒だし「話題がイヤな方向に拡散しちゃうなぁ」という危惧もあります。

 どういう方向?

 日にちは前後しますが、こういう方向の問題ですね。

 作品を肴に特定の現実の諸問題や思想を語る、俗流社会批評になっちゃう問題。

 

 作り手が意図してかせざるかともかくとして、あるいは見た側がきちんと受け取れてるか曲解しちゃったかはともかくとして、事物に向き合ったり向き合わなかったりした結果なんかリアリティを感じて身近な事象に感じられたりとか何かが蒙が啓かれた気分を味わわせてくれたりとかしたのならそれはそれで良くね?(そう感じたのにそれを書かないのは、それはそれでなんか違くね?) とは思うし、実際じぶんが書いているのはなんだかんだそういう記事ばっかりな気がするのですが。

(ただ書き方もまた注意したほうがよいよね、とも思うけど……

「この作品はこういう間テクストを置いているからこう読むのは正しそうだ/その作者はそういう本を読んだ履歴が確認できるからそう読むのは正しそうだ」

とか、

あの作品のあの描写はあの文献にそっくりだ……が、出版年が前後してるから参照できた可能性は低い。偶然の一致だけど面白いよね」とか)

 『本しゃぶり』さんは意図的にやっているでしょうからそれはそれでいいと思うんですが、ぼくの場合はべつに意図してそうやっているわけでないのに、そんな感じになってしまうんですよね。よくない傾向ですね。

 で、しかも、今回はべつに本題じゃないので。本題をくっきりさせたり掘り下げたり厚塗りするための挿話じゃないので、せっかく記事を読んでくれるかたにたいして無駄足をふませてしまっている気がする。

 

   ▼しりとり的モンタージュごり押し問題

 今回の話題まわしも、いくつかの語句が共通することで何かまとまってるっぽい雰囲気をかもす"しりとり的モンタージュ"でどうにかしてるわけなのですが、今回つなげた箇所(じぶんが以前の記事で訳した文章)の原文を見直したら、翻訳したじぶん以外にはそうなった経緯がわからなそうな、飛躍のある部分でした。

 直訳の「地下の/秘密の・(岩)壁」でもべつに今回の記事ではうまくつながるんですけど、現行のそれが別に変な訳でもないと思うんで、「まぁいいか~!」とそのままにしてしまいました。

 

   ▼記事内容ではなくて、HTMLがよくわからなくて困った部分

 ふたつどうすればいいのか分からなくて困ってる問題が生じた。

  • (解決済み!)はてなブックマークのタイトルがアドレスになってしまう。(あまり悩んでない問題)
  • blogに貼った画像をクリックしたさいの挙動がなんか変わる。

 前者の問題は、Amazonリンクとかが影響しているとも聞く。アドレス羅列になってしまってもあとから編集してタイトルを変えられるので問題ない。

(わざわざ記事タイトルへと変更するかは別の問題が生じますけど、つまり「わざわざ変更するとかこいつイキってんじゃね?」と思われないかどうか心配だ……といったアレがありますけど、これはもう自意識の領域であって、インターネットやはてなさんサイドの問題ではない

 ※ただ、ブックマークした人じゃないとタイトル変更できないのはどうにかしてほしい。変えたい人が自分以外にいなかった場合、自分でブクマして変えるという二重のイキリをしなきゃならんわけです。まぁこれも自意識の問題と言えばそう)

 

 後者について。でかい画像については、はてなフォトライフにアップロードした画像の原寸アドレスを記事に貼って画像を表示させているのですが、同じ画像をクリックしても挙動が2通り生じるんですよ。

  1. 記事ページを暗くしたうえで画像をうえからポップアップで表示する(この方式でやりたい)
  2. 記事ページからフォトライフ原寸画像ページに勝手にジャンプする{たまになる。(記事を開いて最初にクリックした画像がこうなりがち。文字情報はDLできたけど、元画像の読み込みがまだな時にクリックするとこうなるとかなのかなぁ……?)}

 なんかじぶんのパソコンのマウスが壊れてて分岐するとかなら良いんですけど、だれが見ても同じような不安定な挙動をしてしまうというのであれば、②だと続きの記事を読むにはブラウザバックしなくてはならないので、

「②の挙動がでるたびに、アクセス数が回ってしまっているんじゃないか?」

 という不安・疑問がある。

  ふだんのアクセス数20~40のblogが、アップ後101に上がったんですけど、これはその謎挙動が原因なんじゃないか? という気がします。

(05/18 7:51追記)

 ということを書いたところ……

 ……倫理がない田中(tanaka_tooru_)氏がこんなツイートをされていました。

 倫理がない田中さんありがとうございました!

(追記おわり)

 

 

 

0512(木)

 なにをしていたんだったか……。

 

0513(金)

 ■ネット徘徊■

  『しゃべリバー』ログを読む

www.youtube.com

b.hatena.ne.jp

{通知を飛ばしたくないのではてブのリンクにしました(本当に飛ばないかなぁ?)}

 それは何ですか;

 現代の錬金術師かもリバー氏が隔週でツイッター・スペースでひらかれている喋り場近よかったコンテンツについてしゃべリバー』の記録エントリです。

 

 読んでみた感想;

 ぼくがそこに踏み入れる位階にないだけで、"わかる"識者のお歴々は日夜ディスコードや何やらにこぞって知見を持ち寄り盛り上がっています

 スペースやツイキャスで話されることもあるけれど、まぁなんにせよ、外に出すのがはばかる部分があったりなどするがために、あるいは体力気力的な問題から、不特定多数が閲覧できるオープンな場に文字起こし記事がアップロードされることはほぼ皆無です。

 たとえアップされたとしても、なんでどうしてそうなったのか議論の仔細がぬけおちた、抜け殻のような記事がころがっているだけ。

「なにやらすごいことが行なわれた結果らしいな……信頼してるひとが褒めてるんだから、"濃い"オタクの信頼できるリストなんだろうな……」

 みたいなもどかしい了解のもと、ほしいものリストの片隅に入れていくこととなります。

 なんとも食べ足りない文章に出くわしたときに嘆くべきは、その記事などに対してではなく、それを書いた(/評価するひとが沢山いる)ひとがマジで弁舌を尽くす""""本物の舞台""""に立ち会えるような位階に達しなかったぼくじしんの足りなさを嘆くべき、という、いつものお話になりますな……。

   幣blog、「日記;2021/07/06~08/16」より

www.youtube.com

 そんな位階のひくい、文化的第9地区の掃きだめでゴミ拾いをするわれわれでも、かもリバー氏のログ記事群は(『セミになっちゃた』他記事とおなじく)楽しめる内容になっていて、しかも期間限定イベントの話題をイベント開催期間中に記してくれる即応性もあって、徳がたかい記事でございました。

 

 もちろんこの日記は徳が低いblogなので、あなたがこの文章を読むころには上述イベントは終わっています

 すごいひとのすごい活躍はできなくとも、身の丈にあったがんばりをそれぞれなしていきましょう。ぼくはぼくでこれからも、できるかぎりのことはしていきますので……。

 

***

 

 リンク先の記事や、記事内でリンクされた別記事などで、いい感じのバグ技が紹介されていて楽しかったです。

 徳の高い識者・人間が大好き(@hito_horobe)氏が、同時開催されたセールを多重利用することで「買えば買うほど逆にお金が貰える」錬金術を紹介されていましたが、おなじく鮮やかで、しかもそれよりもさらに込み入った様々な事例が紹介されていて面白かったです。

 

 当blogでもなんか「面白いな~」と思った事例をいくつかメモってきましたが、かもリバー氏や人間が大好き氏が取り上げるようなエレガントなものではない。

  『サッカーデータ革命 ロングボールは時代遅れか』読書メモ;データというか『カイジ』『嘘喰い』等のルールハックっぽいストークの戦略

(略)

 本のなかでも『マネー・ボール』で一躍有名となった野球メジャーリーグのアスレチックス活躍の立役者ビル・ジェームズなどが話題にされているとおり、今著はスポーツ分野(とくにサッカー)におけるビッグデータ革命の本なので、弱小チームであるストーク・シティの不思議が本の冒頭にあり、それが紐解かれもするのですが――「野球などほかの分野とくらべてサッカーはデータ解析後進スポーツだけど、解析すると良いことあるよ」と問題提起・提案する本であるからかなんなのか――ここが面白い一方モニャモニャもして、なんとも不思議な味わい。

 ストーク・シティ(出版当初2010年あたり)は現代サッカー研究的に「それが高いと勝ち点獲得率も高い」とされるボール支配率が群を抜いて最低。パスをすれば2回に1回近く相手チームに盗られてしまう。

 毎年下位だがしかし最下位ではなく、二部リーグ堕ちすることがありません。

 すごいストライカーやゴールキーパーがいるわけでもないストークがなぜぼこぼこにされないのか?

 その秘訣はトークが、マンUでもリヴァプールでも手も足も出ない絶対的な時間をつくれることにありました。
 ボールがライン内にある時間が、ストークは他チームに比べて圧倒的に短いのだ!

 サッカーの試合時間はご存じのとおり前後半90分あります(※)。しかしトーク戦においてスローインコーナーキックなどの「コート外にボールがあって敵チームがボールに触れない(けれど試合時計はうごきつづける)時間」は、本来の試合時間の半分である45分となることもあるそうなんですよ。

(※ここはインパクト重視でzzz_zzzzが「盛った」部分で、ストーク・シティにかぎらずどんなサッカーも90分まるまる試合していることなんて全くなくて、すべてのサッカーのオンプレー時間は大体60~65分くらいだそう。

 2010~11年のプレミアリーグの平均は62分39秒。最長であるマンチェスター・ユナイテッド戦における平均オンプレー時間は66分58秒で、最短であるストーク戦の平均は58分52秒とのこと)

 ふつうに戦えば競り負けるから、戦わないで時計をまわすと。

 そうして引き分けやPK戦に持ち込んだり、あるいはロングスローの名手を起点とした攻撃でゴールを掠め取り(ストークのゴールのうち三分の一がロングスローに始まるプレーらしい)、強豪たちと互角に渡り合う。

{ロングスローの名手は、ださい邪道だし、フリーやコーナーキックがうまいMFやストライカーがいれば不要な人材だし……で、ストーク以外は戦略構想外になる。(ここもストークのうまいところっぽい)}

 

 ……面白いし、説得力ある理屈なんですけど、これってデータ革命というかもう、カイジ』『嘘喰い』方向のルールハックじゃないですか。あるいはワンナウツ

 いやまぁ、「『マネーボール』だってそういう向きがあるじゃん」と言われればそうなんですけど……。

 ですけど「柔道の(反則とられない)うまい掛け逃げ/担ぎ技つぶれで時間稼ぐのがデータ研究の粋ござい~!」と言われるとなんか違くないでしょうか?

 試合終了間近でサッカー日本代表がコーナーでほにゃほにゃやったりパス回ししたりしている姿があれこれみられるように、それって経験論的にわかっていそうなことでデータを研究しなくたって大丈夫そうなことじゃないですか。というところもある。

   弊blog、「日記;2022/01/18~01/24」より

 

ja.wikipedia.org

f:id:zzz_zzzz:20210426183759j:plain

(死者180人×20万ドル)+(火傷した人180人×6万7000ドル)+(炎上した車2100台×1台当たり700ドル)=4950万ドル

 フォードはこうして、修正費が1億3700万ドルかかるのに対し、損害補償は4950万ドルで済むと見積もった。そうやって、問題を解決するほうが、放置して弁償するよりもはるかにお金がかかると結論づけ、直さないほうを選んだのだった。

 血も涙もない計算だ。ではなぜ、企業はこうした倫理観に欠ける決断をするのだろうか。ノーベル経済学賞を受賞した有名なミルトン・フリードマンは、費用便益分析の裏にある原理を説明している。ある学生からピントの事件について質問されたフリードマンは、こう答えた。「1億ドル以上の費用がかかるのに、安全ブロックを付ける理由がどこにあるのか」と。そして、フォードの計算方法は「原理的に」正しかったと主張した。正しいというのは、計算に使った数字が適切だったというだけではなく、企業が活用できるリソースは限られていて、そしてどの会社も、決断の際には人命に値札を付けなくてはならない場合があるという意味だ。

   ビー・エヌ・エヌ新社刊、ジョナサン・シャリアート&シンシア・サヴァール・ソシエ著『悲劇的なデザイン』kindle版21%(位置No.4194中 868)、「第2章 デザインは人を殺す」ケーススタディ3:フォード・ピント より

 Wikipediaはここ止まりなんですけど、劇的なデザイン』ではさらに興味ぶかい話が載っていて、フォード社はエンジニアの機転によって、くだんの修正費が1台あたり1ドルで済む(=つまりリコール費のほうが安く済む)方法を見つけたのですが、そうだと分かったあともリコール隠しをつづけ批判を封じるロビー活動へいそしんだと言います。

 費用便益計算の部分がどうしてもインパクトがつよいこの事件、前半だけ知ると私情をはさまないシステマチックな、合理的にものごとを判断するドクトリンに思うけれど

 後半のお話も含めると、のちのち、分が悪いことがわかってもシステマチックになんて撤回できない/一度しちゃった判断が尾を引きつづけ失敗を否認・自己正当化に邁進するようなドロドロの「私」らしいふるまいだというお話なのかもしれません。

   弊blog、「日記;2022/01/18~01/24」より

 もらうだけでなく提供できるような、面白い知見をたくわえていけたらなぁと思いました。

 

(05/18 7:51追記)

 ということを書いたところ……

 ……倫理がない田中(tanaka_tooru_)氏がこんなツイートをされていました。

「えっそうだったんすか!?」

 と思ったが、そもそもぼくが上でリンク張ったウィキペディアにもしっかり書いてあるぞ……よく読まないとだめですね……。

nitech.repo.nii.ac.jp

 幸いなことに名大のサイトで全文が公開されてるっぽい。

 あとで読ませていただこうと思います。

 倫理がない田中さんありがとうございました!

(しかし「もらうだけでなく提供できるような、面白い知見をたくわえていけたら」と言ったそばから、記した情報はまちがってるし、ひとさまから知見を頂戴しているの我ながらすごいな……)

(追記おわり)

 

0514(土)

 寝てた。

 

 

0515(日)

 あさ映画を見に行って、帰りにバスを乗り間違えて、午後つかれて寝てつぶしてしまった。

 

 ■観たもの■

  樋口真嗣監督(&庵野秀明脚本・総監修)『シン・ウルトラマン』鑑賞メモ
   ▼書き手の状態、メモの趣旨

・パンフレットと関連書籍は買ったけどまだ読んでない。

 未読のまっさらな現段階での、素直な感想を書いておこうと思った。

 

   ▼(前提)観るまえに考えたり期待していたりしたこと・知っていたこと

zzz-zzzz.hatenablog.com

 特報を観たときの感想。

 この日記では、『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』から『シン・ゴジラ』の人物造形・物語展開について述べたところをながめ、

「個人のドラマとして過剰に情感などを描かないところも好きなポイントなんです。むしろ状況に対処する人々の動きそのものが葛藤や起伏となりドラマになっているのが良い」

 と述べる庵野(『シン・ゴジラ』総監督・脚本。『シン・ウルトラマン』脚本)の発言を引用したうえで、さらに『ウルトラマン』について触れた文章を紹介しました。

 物語的にはもちろん、映像的にも個人を大きく打ち出していない『シン・ゴジラ』の文法で、はたしてウルトラマンシリーズを語ってしまっていいものか?

 ……そんな疑問をだれよりも早く抱いた人物がいます。

庵野 もちろんドラマ主体で好きな作品も山の様にあります。けれど、本作はゴジラが主人公なんですよ。なので、人間側はその対処を描くだけで十分ではないかと当初から考えていました。確かに『ウルトラマン』(1966)や『仮面ライダー』(1971)等だとこうもいかないんですよ。主人公の内面も描いた方が面白いんです。しかし怪獣映画だと、個人というより組織を(略)

   『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラkindle版55%{位置No.912中 499(紙の印字でp.494)}右段、(略、太字強調は引用者による)

 『シン・ウルトラマン』の企画・脚本、庵野秀明氏ご本人です。

 この問題に、さて庵野氏と樋口監督がどう取り組んだのか? 本編ははたして特報から想像されるようなものなのか? 続報や公開を楽しみに待ちたいと思います。

 

 また特報では、レヴィ=ストロース『野生の思考』を読む登場人物の姿もクローズアップされています。 それを見てあらためて自分のなかで評価が高まったのは、れないために書きます』の「シン・ゴジラ覚書」です。

・ファーストコンタクトものとして、『ブラインドサイト』みたいな、ゴジラとのコミュニケーションを試みるくっそハードな『シン・ゴジラ2』とかを妄想します。本作自体もいちおう、ファーストコンタクトものだしね。

   『忘れないために書きます』2016年9月1日の投稿、「シン・ゴジラ覚書」より

 『シン・ゴジラ』で異質なものとの戦いは描いてみせた。そしてそれと隣り合わせで生きる日常への第一歩も。

 『シン・ウルトラマン』ではそこからどう思索を深めるのか? 続報・本編公開を楽しみに待ちたいと思います。

   弊ブログ、『日記;2021/01/26~02/01』より

 

    ▽知っていたこと

・なにかセクハラ的描写が目立つらしい。(尻へのタッチ/尻へのフォーカス)

・メフィラス山本がすてきらしい。

 

   ▼観た感想

 40~60点くらいな印象。悪くはないけど、良くはない。

 いや本当に悪くなかったか?  けっこう悪かった気もしなくもない。

 いやいや良くないわけでもなかったよね? たしかに良かったっちゃ良かった気もする……みたいな、そんな複雑な心境です。

 チケット代1900円を無駄にしたとは思わないから、良いんじゃない? みたいな。

 

    ▽ノれなかったところ
     ○本を捨てて人間とかかわろうよ

ウルトラマンは図書館こもって『野生の思考』読んでる場合でもなければ、新参者のバディと会話している場合でもないのではないか。

 ウルトラマンが地球/人類にコミットしたのが、人類や神永という不可解な存在*5こそが動機だったと云うのであれば、人類がどんな存在なのか積極的に関わりを持つ(調べようとする)べきだし、神永がどんな人物であったかを辿っていくべきだ。

{『シン・エヴァ』のAパート(? Bパート? まぁアレですアレ)は、(あれはあれで、「もっと主役以外の"外部"との関わりも見たかった」とか「書き込み不足で、そこへ重点を置いた作品と比べると表層だけなぞったマネゴト・ままごとっぽい」とか思ったり言われたりしたけど、それでも)やっぱり必要だったんじゃないか……? みたいな。

(0:16:10~55:36の40分くらいの尺ということになるが、『シン・ウルトラマン』が113分で『シン・エヴァ』は155分だから、ぼくがノレなかったのはこの40分の有無にあるのかな……)}

 

・上のような反感に対して、「頭でっかち(でズレてる)ウルトラマンに対して、地域密着型(私の好きな言葉です)のメフィラスがいたのでしょう」「そしてメフィラスの"人類"観も、それはそれでズレたものだった……という話なのでは?」と反論がとんでくる作品ではあるんだけど、うまく消化できなくてモヤモヤする……。

一方で機械を介してコミュニケーションし(うちの星の科学力なら翻訳できます)人間を道具として扱うザラブ星人(じぶんの好きな情報を捏造・拡散する)がいて。

 一方で世間に溶け込みまくったうえで(私の好きな言葉です)人類を(しょーもない?)下等存在として愛するメフィラス星人がいる{人類の好みを聞いて、(人類が)拡散した情報の削除をかって出たりする}(?)。

 それらに対して、人類と対等な関係を築こうとするウルトラマンがいて(異星由来の情報を、自分で考え自分で渡す)……みたいな構図で観ていた。

 もしも今作のウルトラマンの「人類」愛がもっとマクガフィン的なものだったら/外星人があらわにする人類が戯画的ではなくもっと雑味や厚みのあるものだったら、つまりありもしない「理想」と「現実」の対立のお話だったら、ぼくにもスッと受け入れられたのかもしれない。

(そのようなお話として見るには、巨大化などの被害者へローアングルでパシャパシャ撮り「美人すぎるカトクタイ員」みたいな風に下品な目線を向ける人類に対して、メフィラスが「こんな下品な輩がいるとは思いませんでした(ぷんぷん)」という反応を見せるところで、メフィラスの人類理解がよくわからないところがあった。ポーズなのかもしれないし、そうである可能性は大いにあるけど。

「あ~人間てこういうところありますよね~ダメですよね~」と否定しつつも愛おしそうに削除してったら、もっと色んな方向で受け取れたのだが)}

 

    ▽映像の構図選択・編集に、作劇的な必然性がわからない

・最初っから最後まで構図と編集(コマ割り)がガッチャガチャしているのがつらかった。カメラ位置とかを凝るまえに人間同士/外星人&人間の会話を練るべきでは?

 その意味で、『シン・ウルトラマン』は一見『シン・ゴジラ』の映像を踏襲しているように見えて、ぜんぜん文脈がわからない謎の作劇になっている。

(『シン・ウルトラマン』の企画がうごいた理由であろうし、作品内でも明確な目くばせがある2016年の話題作)ン・ゴジラではガチャガチャした構図・カット割りが、後半の個人同士の人間ドラマでは、長回しの落ち着いた構図になる……という視覚的な変遷があった。

{"巨災対"リーダー矢口(演;長谷川博己&米国からのエージェント・カヨコ(演;石原さとみが(カヨコの祖父母の話もまじえながら)対話する操車場とか、矢口&(矢口の先輩的な日本政府官僚)赤坂(演;竹野内豊の屋上とか}

 『シン・ウルトラマン』の映像は、最初の世界設定説明シーンと本編との違いはあれども、神永が生きてた/カトクタイが怪獣相手に(ギリギリ)仕事できていた時代も、ウルトラマンが成りすましていた時代も、ウルトラマンが正体を明かしてからも、ウルトラマンとメフィラスら外星人らだけで会話するシーンも、とくに違いという違いが感じられない。

 

ウルトラマン登場後、カトクタイに配属された新人アサミ(演;長澤まさみの出社模様を後頭部側から写した一連のくだりが、ブレブレで生理的に気持ち悪かったのと、作劇的意味がわからず二重に気持ちわるい。

シン・ゴジラ』の移動撮影で目立つ場面は3つくらいあって、①(0:01:40~首相官邸の5階廊下で、アクアトンネル亀裂がつたわった状況について話しながらしゃべる矢口らの姿が正面からクレーンアップ的な構図で捉えたカット、ペンの束をかきあつめたり段ボールを運んだりする点描カットののちの)0:02:02~同地下危機管理センター・オペレーションルームのなかを矢口らが歩くさまを正面から付添う移動撮影がある。ここではバストアップくらいの距離感で、ほとんど揺れのないカメラによって、体移動のユレが煩わしくない被写体をとらえている

 ②手持ちカメラのブレが目立つのは1:08:01~矢口が夜道を歩くさまを正面から付添う移動撮影と、つづく1:08:24~の朝・立川防災基地の予備施設へ入るかれらの姿を背中から付添う移動撮影だが、これらはゴジラが首都中心を蹂躙して、官邸を撤退しなければならなくなり、心身ともに荒れていた状況でのショット

 ③カヨコが米国の偉い人と話を終えて、手を乗せ合った後いろいろと事態が好転していく1:36:47~科学技術館内を矢口とカヨコが歩く姿を正面からとらえた移動撮影ショットなどでは、膝まで写した距離からなめらかなカメラワークによる移動撮影がおこなわれてカヨコ&矢口の握手が、いくつか脇役の移動しながらのお仕事描写をはさんだあとの、矢口ら巨災対らが歩いていく移動ショット(これもなめらか)では、矢口&泉の握手が映されていくこととなる。

 ……①は慌ただしい人々のなかで矢口らが理知的に動く/矢口らの居所は事件とは遠い安全圏でのシーン。②はゴジラに官邸もおそわれて職場を離れなくならなければならなくなった心身ともに荒れているシーン。③ではいろいろと事態が好転したシーンであり、つまりシン・ゴジラ』の移動撮影が視覚的な静・粗は、そのまま映されている被写体の心理や物語的なテンションと一致しているのだ。

 このへんの分かりやすさが、『シン・ウルトラマン』にない

 

     ○もし本の境を壊して、人と触れ合う決定的なシーンがあったなら……

・たとえば上映時間をもう10分くらい、せめて5分でも伸ばして、積みあげた本がつくる境界を壊して、人とふれあう決定的なシーンがあったら印象はかなり違ったはずである。

 

     ○カトクタイやらウルトラマンやらは、自分たち登場後も頑張る自衛隊という「無力を噛みしめつつもがんばる」先達などには目を向けないのか?

・陣地の中央でパソコンをかたかたするカトクタイを画面中央に据えて陣地内を俯瞰するグループショットで、画面右下にいる自衛隊員の眉間に皺を寄せた顔が印象にのこった。

 なので、さまざまなものがフェードアウトしたり蚊帳の外におかれたりする静的な作劇をさびしく思った。カトクタイの4人+αを人類と見るにはあまりにもオタクオタクしすぎて狭い。

 「理性的な把握によって"じぶんがしたところで無駄である"ということがすでに分かってしまった」歯がゆさ・無力感は、カトクタイのまえに自衛隊員など現行戦力が味わっている(『シン・ウルトラマン』でもそこは自覚的で、ザラブ星人と戦う夜でそれが描かれている)わけで、無駄に思えても義憤にかられ行動せざるを得ない・自己犠牲に走る行動を自衛隊らに取らせたっていいのではないか?

 そうでなくても、カトクタイが終盤になってようやく抱えた悩み・挫折をすでに超越した先達である自衛隊(だとか、日々を生きる"一般"人)が諭したり元気づけたりしたって良いんじゃないか。

 そうした行動を見てウルトラマンが、「じぶんが不思議に思った神永の行動は、なにも神永(という主役)独自のなにかではなく、人類に普遍的ななにかであるのではないか?」と考えるに至ってもいいのではないか。

「人類は、自分たちがなにか指図したり守ったり利用したりする存在じゃないのだ」と考える(根拠と)なってもいいのではないか。とは思った。

 

   ▼ノれたところ

・メフィラス山本はよかった。ザラブ星人もすき。

 メフィラス星人(既存の役者さんで言えばピーター・ローレみたいな)奇怪さがあり、すばらしかった。物語的な立ち位置もすてき。

「(任意の言葉)、私の好きな言葉です」がきっちりネットのオタクたちのジャーゴンになってるのはすごい。毎作毎作、よくもわるくも印象的なキャラやセリフをかっちり作れるのってエラいことだと思います。

 

・「シン・ゴジラ」から「シン・ウルトラマン」と変わって冒頭数分のダイジェストが個人的には一番面白かった。

 

   ▼当初はノれたが結局ノれなかったところ

ウルトラマンの妙な挙動をそのまま取り入れてるのは面白かった。

 ただしこれらは、異星人ゆえの奇怪さというよりは、児戯をみる親しみ・おかしみを抱いた。ノれた『ウルトラQ』⇒『ウルトラマン』オマージュとこれというふたつの展開から(多分に趣味的な)オールドクラシック、伝統芸能を見ている気分になった。

 高橋敦史監督/円城塔脚本『ジラS.P』(のオーディオコメンタリー)では、怪獣ゴジラがふつうに尻尾を振るだけで、その速度は音速を超えるんじゃないか? 周囲の建物の窓は全部割れ飛ぶんじゃないか? 尻尾の振りだけで第二宇宙速度を突破して空飛べるんじゃないか? と検討がなされたと云う。(後者の疑問については、「(今まで)補足されなかった怪獣ってなによ?」とか「作劇の都合上、衛星をつぶして通信不能にしておく必要があるんじゃないか?」とか、怪獣モノのお約束にかんしてどう作劇上の理屈をつけようかという検討だったようなのだが……)高橋&円城の検討は、宇宙へ行くのは難しそうだが、窓は割れるだろう、でも製作コスト的にわりに合わないからやめよう……というような哀しい推移を迎えた。

 「しっかりした予算で『ウルトラマン』が撮られていたら?」みたいな構想ではじまったらしい『シン・ウルトラマン』は(今作では、上のような哀しい推移にはいかないだろうはずなのだが)「あれだけ異様な速度で回ったら、周囲への影響はどうなる?」とか、必要な描写が足りていないように思えた。

 その一方で、ウルトラマン降着時の二次被害などは描かれるところにノれなかった。

 『シン・ウルトラマン』では環境や人類への被害を最小限におさえるようダメコンをしながら戦う姿が目立ったから、その後のかれの挙動にともなう「軽さ」は、初降着での失敗を反省して異星のナンカスゴイG操作をじぶんがうごくたびに周囲へはたらかせて相殺した結果だったりするのかもしれないけれど(そういう意識変化・行動変化があると見るのは、ウルトラマンの認識の変化などから、考えられないことではなさそうだ。なさそうだけど……)、「変だよなぁ」「御都合っぽい」「こういったところも含めて、さまざまな映像があらすじを追っていくだけのつけ合わせみたく見える」という印象をさまざまなところでもった。

{飛んでるときの音速突破して浮かぶ雲描かれるところへのもやもや感もそこにあるんだろう。エヴァで同じような速度出したら(じっさい『ヱヴァ破』0:34:30~でもそういう雲をまとうシーンがあったけど、それだけ駆けるエヴァによって駐車場の車はみんな吹っ飛ぶじゃないですか――冒頭0:11:01~でヱヴァ2号機が着地した衝撃で主人公たちの乗った車がピンボールみたくすっ飛んでエヴァ0号機の足に当たって跳ね返る、その暴力性を知らしめたうえで)}

 

   ▼人物造形・物語として前時代的でアレはアレだが、映像としてはわかったところ

・尻叩き(1回目だか2回目だか)

 アサミが尻を叩いたショットの直後に場面転換して、移動先の陣地にたかるハエを叩くショットへつながれたところ。類似アクションをつなげたしりとり的モンタージュ

 絵つなぎとしてはわりあい良かったし、意味の分からない構図やコマつなぎのなかで数少ない必然性がぼくにもわかる展開だったのだが、「人物造形や物語として前時代的だ」「キモい」と批判されるのはわかるし、そういう古さ・ダサさに勝てるほど素晴らしい作劇というかというと微妙だと思いました。

{両手を打ち鳴らすとか、両手で頬を叩くとか、尻じゃなくて腰(両わき腹を、手汗をぬぐうように)叩き払うとか、他者に対してなら肩とか背中を叩くとか……(べつにケツじゃなくても)なんでもよさそうな気はしました}

 

    ▽映画のなかでどういう要素か判断を保留するが、世評に乗れるようで乗れない、微妙な点

・尻たたきについて「ひどい」という声ばかり聞いていたので、むずかしいなとは思った。

 

・別に、とくにエロく撮ろうとはしてないんじゃないの? とは思いました。

 人間を綺麗に撮ろうとしてないのとおなじく。(じゃなきゃ早見あかり氏が二重アゴに見えたり、『スノーピアサー』で戯画化された醜い上流階級の人をえんじたときのティルダ・スウィントン氏みたいに見えたりするような撮りかたをしないでしょう)

(というかそもそも『シン・エヴァンゲリオン』のほうが登場人物はよっぽど性的な部位を強調したコスチュームを着ていたし、それを大写しにするようなカットも目立った

 また、話題作というくくりでは君の名は。』のほうが登場人物が自覚的に性的欲求をみたす行為を何度もしたりと性的だったのだが、今作についてこれだけ強い否定が出てくるのは不思議に思った。

 見ている層がそこまでちがうとも思えないので、本当にふしぎ)

 

・尻たたきは、セクハラと聞いてまずイメージする性的欲求を満たそうとするなにかというよりかは、そういうクセのあるひとがそのようにやっているだけとか、デリカシーがない人のデリカシーのない(前時代的)コミュニケーションとかに見えた。

{じぶんでじぶんの尻を叩く分には良いんじゃないか? と思う一方で、(両手を打ち鳴らすとか、頬を両手でたたくとか)気合を入れる動作としてほかにも色々選択肢はあるなかで、なぜ「尻たたき」を選択したのかという疑問やひっかかりを感じる人がいるのは当然だと思うし、アップで写すことに対して「う゛っ」となるのはわかる

 他方でそれはそれとして、写し方はべつに扇情的なものではないのではないか、とは思った。(画面に大写しにすることと、煽情的に撮ることとは違うという立場です。スカートの中も真っ黒闇にしているし。

 この立場をとっているので、「劇中で下品だと評価される"美人すぎるカトクタイ員"みたいな劇中フッテージは、本編映像と差異がなさすぎて失敗している」と思いました。写真のアングルはもちろん、写真だけなのも清潔すぎますね。これをモチーフにしたオタクの二次創作とかも並んでいいはず)

 今作がそうなように尻を叩く行為者が女性で女性から女性へや、女性から男性へやる分にはいくらか観れる部分はあるよなぁと思った。

(たとえばフェイグ監督版『ゴーストバスターズで、主人公の女性がイケメン男性を「観賞用」に雇い、ペアダンス踊ってアプローチをかける姿や。星来『ガチ恋粘着獣』で、女性主人公たちがイケメン男性へストーキングして他ファンへ加害する姿は、それなりに見れてしまうという意味で、今作も観れてしまう。

 ただし上述作品を楽しんでる人でも今作は強く批判しているのが実際なんだよな。その違いってどこにあるんだろう? そこのほうがぼくとしては気になりました}

{0525追記;ただ、公開後公式PVで当該カットのひとつがあった(12:00)ので観なおしてみたら、尻たたきのうち一回は防護服のときにおこなったことにより、結果的に臀部のラインを強調するかたちとなってはいましたね……ぼくが鈍感なだけかもしれない}

 

 

0516(月)

 この日記を書いた。

 

 

 

*1:平凡社刊(平凡社新書)、佐藤克文『巨大翼竜は飛べたのか』p.51、「第一章 大きな動物はやっぱり速く泳ぐ」体型比較 より。

*2:平凡社刊(平凡社新書)、佐藤克文『巨大翼竜は飛べたのか』p.65、「第一章 大きな動物はやっぱり速く泳ぐ」経済的な速度 より。

*3:平凡社刊(平凡社新書)、佐藤克文『巨大翼竜は飛べたのか』p.67、「第一章 大きな動物はやっぱり速く泳ぐ」説明できた! より。

*4:

同様に第一趾が退化的なオオミズナギドリは、傾いた樹を歩いて登り、その上から飛び立つ姿がよく知られている。

   技術評論社刊、川上和人著『生物ミステリー 鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』kindle版40%(位置No.4190中 1638)、「第2章 鳥は大空の覇者となった」Section5 鳥は翼竜の空を飛ぶ、親指の使い方 より

*5:終盤でなされるお話はホメオスタシストランジスタみたいなお話で、「庵野さんにとってそこまで重要なオブセッションなんだなぁ」と思ったが、なんか色々あっさりしてもいるので、「お話として作りやすい対立概念ってだけなのかなぁ」とも思った。