すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

訳文;「そこにはなんの報酬もありません。このゲームが何を為していてどう機能しているのか、ただただ見ていたかったのです」ジェンキンズ、カーソン、ホッキング、『Outer Wilds』へつづく2,3の論考

 翻訳の秋が今年もきました。また去年みたく面白い記事をいくつか見つけて勝手に紹介したいところです!

 去年アップした文;「"好奇心駆動型の冒険"とでも言うべき特殊なタイプの冒険に報酬を与えるゲームをつくりたい、それが『Outer Wilds』の主目的です」A・ビーチャム氏の論文より』で翻訳紹介した論考のなかで、参照文献として挙げられていた文献のうち2つ、ヘンリー・ジェンキンズ著『GAME DESIGN AS NARRATIVE ARCHITECTURE(物語による建築物としてのゲームデザインとボニー・ルバーク取材『Clint Hocking Speaks Out On The Virtues Of Exploration(クリント・ホッキングが語る冒険の美徳)。別記事1つ、ドン・カーソン著『Environmental Storytelling: Creating Immersive 3D Worlds Using Lessons Learned from the Theme Park Industry(環境ストーリーテリング:遊園地産業から学ぶ没入型3D世界の創造)を勝手に紹介。

 訳文45000字+感想24000字くらい。

 

 ※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※

 

訳した人・なぜ訳した/これまで訳さなかった?

 英検3級どまりです。アップした理由は2点、すごく面白い内容でぼくのメモ帳にとどめておくのはもったいないと思ったのと、英語ワカランぼくが原語とgoogle翻訳googleとを往復して読むのはたいへん面倒なので、再読用に日本語文章を残しておきたかったからです。(致命的な誤読・誤訳があったら指摘してもらえるかもというのもある)

 タイトルからしてもう訳がアレなように、大分アレなはずです。*1

 Google翻訳した時点で正しそうなところも雰囲気で味つけしたし、グーグル様でもよくわからないところはおれ様がその日の気分で勘ぐることでそれっぽい感じにごまかしました。

 語り口は明瞭で、迷路みたいな文章はありません。なので高校生以上なら原文を当たってくれた方が良いと思います。

 著作権的にダメな気がしますがよく分かってません。わかるような知恵と知識の持ち主であれば英検3級で止まってません。「ダメですけど! 権利侵害なんですけど!?」と義憤した関係者のかた、法律に強いかたは仰ってください。消します。

 

 アップしてこなかった理由もまた2点あり、第一にzzz_zzzzがぐうたらである点。

 第二に、元記事ページを開いて翻訳ボタンを押してくれれば、ほぼほぼ事足りるという点が大きいです。

 作家のエッセイとちがって翻訳ソフトが訳し漏らしたりバグるような長いor入り組んだ文章がほとんどないうえに(それだけならビーチャム氏の文章も同様に平易ですが)、ビーチャム氏の論文掲載サイトとちがって――これまた翻訳ソフトがうまく機能してくれない原因である――文章が妙なところで改行を入れられたりする不幸もまた無いからです。

 

内容ざっと説明

 GAME DESIGN AS NARRATIVE ARCHITECTURE』南カリフォルニア大で教授をつとめる現代カルチャーの研究者ヘンリー・ジェンキンズ氏が2004年に記した論考です。{本文6445語(原文脚注ふくめ7313語)くらい}

 ビデオゲームにかんするルドロジストvsナラトロジストの「論争」※にたいして、氏はこのエッセイで物語の空間性にフォーカスした新たな観点を提示するとともに、両者の橋渡しを試みます。

 『Outer Wilds』クリエイティブ・ディレクターであるA・ビーチャム氏の2010年の論文で引かれたのは、「埋め込み型物語」についての一部分(=探偵物語に代表される、空間に物語を埋め込むタイプの作品)でしたが、本文を読んでみると、上述物語は氏が「環境ストーリーテリング」により可能と唱える4つの空間的物語のうちのひとつでしかないことに驚かされます。

 探偵小説SFファンタジー戦争モノ、イタリアのコメディア・デラルテロシア映画戦艦ポチョムキン』のクロスカッティング、『ドクトル・ジバゴ』などのメロドラマ、ヒッチコックレベッカ』の空間設計、ディズニーランドの遊園地デザインにケヴィン・リンチ『都市のイメージ』の都市設計、はては日本の絵巻物まで……

 ……さまざまなものを横断しながら、ジェンキンズ氏は空間的物語の可能性をさぐっていきます。

{※CEDEC2006レギュラーセッション増田泰子さん(武蔵野大社会学部講師)らが論争や論考の説明・要約を行なっていて、これがとても分かりやすい。また京大現代文化学准教授松永伸司さんの抄訳紹介によればエスペン・オーセット氏など「そもそも"論争があった"と言うひとでそのソースを張るものはいない。事実ではない神話だ」という感じの立場をとるかたもいます}

 

 Environmental Storytelling: Creating Immersive 3D Worlds Using Lessons』は、ジェンキンズ氏が引用した(ビーチャム氏が直接引用したわけではない)ドン・カーソン氏による「環境ストーリーテリング」の論考です。(3650語くらい)

 このターム・技術の初出は寡聞にして知りませんが、カーソン氏のこの2000年の記事が発祥だとすれば意外なことにこれは別の業界からの輸入概念だということになります。*2

「ディズニーの遊園地を設計(デザイン)するさい採用されている"環境ストーリーテリング"の技術を研究すれば、ゲームデザイナーはたくさんの学びが得られるだろう」

 ウォルト・ディズニー・イマジニアリングの主任(シニア)ショー設計者(デザイナー)を務めた経験もまじえて、ゲームデザインのノウハウを語ります。

 

 Clint Hocking Speaks Out On The Virtues Of Exploration』は、『スプリンター・セル』シリーズや『Far Cry2』のクリエイティブ・ディレクターをつとめたクリント・ホッキング氏へのインタビューです。(1900語くらい)

 ゲームにおける冒険について氏が行なったGDC2007でのレクチャー*3に続いてなされたインタビューで、そちらでは「多くを語らなかった」部分についての掘り下げもなされます。ビーチャム氏の論文で直接引用されたのは、まさしくその部分――ホッキング氏が現実の人々が冒険へでた動機と、『オブリビオン』プレイヤーの冒険の動機とについて語った部分です。

 ですが、ほかの部分を読むと、『Outer Wilds』がゲーム舞台を物理シミュレーションによって不可逆的な変化をこうむる世界にした理由の一端が見えてくるようでもあります。

 

 

訳文本文

 ヘンリー・ジェンキンズ著『物語による建築物としてのゲームデザイン(GAME DESIGN AS NARRATIVE ARCHITECTURE)

 

丸カッコ()の注は原注で、*の脚注や文中リンクはzzz_zzzzがつけた}

 

 ームとストーリーの関係は、ゲームファンやデザイナーや学者の間で依然として意見の分かれる問題です。

 たとえば最近の*4アカデミズムにおけるゲーム研究カンファレンスでも、ゲームプレイの仕掛け(メカニック)に焦点を当てたいルドロジー(遊び学)学者と、ゲームを他の物語表現媒体(ストーリーテリング・メディア)の隣へ置いて研究することに関心のあるナラトロジー(物語論学者とのあいだで血で血を洗うような諍いが勃発しかねませんでした*5(1)
 The relationship between games and story remains a divisive question among game fans, designers, and scholars alike. At a recent academic Games Studies conference, for example, a blood feud threatened to erupt between the self-proclaimed Ludologists, who wanted to see the focus shift onto the mechanics of game play, and the Narratologists, who were interested in studying games alongside other storytelling media.(1)

 

 この問題に関する最近の声明をいくつか検討していきましょう。*6

 Consider some recent statements made on this issue:

 双方向性(インタラクティビティ)は、物語(ナラティブ)とほぼ正反対の存在だ;ナラティブは作者の指示(ディレクションのもとで流れていくけれど、いっぽうインタラクティビティはプレイヤーを原動力として依存する。

   アーネスト・アダムス*7(2)

 "Interactivity is almost the opposite of narrative; narrative flows under the direction of the author, while interactivity depends on the player for motive power" --Ernest Adams (2)

 直接的で即時的なコンフリクト(対立/葛藤)は、ストーリーに要求されるものとゲームに要請されるものとの間で起こる。

 物語の筋道から逸脱すれば、ストーリーの満足度を低下させる可能性がある;プレイヤーの自由な行動を制限すれば、ゲームの満足度を低下させる可能性がある。

   グレッグ・コスティキャン(3)*8

 "There is a direct, immediate conflict between the demands of a story and the demands of a game. Divergence from a story's path is likely to make for a less satisfying story; restricting a player's freedom of action is likely to make for a less satisfying game." --Greg Costikyan (3)

 コンピュータゲームは物語(ナラティブ)ではない……ナラティブはむしろ、ゲームのコンピュータゲームらしさから切り離されていたり、ゲームへ逆効果となったりする。

   イェスパー・ユール(4)*9

 "Computer games are not narratives....Rather the narrative tends to be isolated from or even work against the computer-game-ness of the game." --Jesper Juul (4)

 アカデミズムの理論の外にいる人々はふつう、物語(ナラティブ)と劇(ドラマ)とゲームとを区別するのが得意だ。もし私がだれかにボールを投げたとしても、私はその人がボールを落とすことを期待したりしないし、そしてなにかストーリーが語られ始めるまで待ったりもしない。

   マルック・エスケリネン(5)

"Outside academic theory people are usually excellent at making distinctions between narrative, drama and games. If I throw a ball at you I don't expect you to drop it and wait until it starts telling stories."
--Markku Eskelinen (5)

 私はこの視点に複雑な気持ちで反応していることに気づきます。

 上記の執筆者がそう反論するのは理解しています――エンターテイメントの創発的な様式(モード)としてゲームがどう特殊なのか注意を拡張する道を捨て、伝統的な物語構造(ハイパーテクスト*10や、インタラクティブシネマ*11ノンリニア・ナラティブ*12)に当てはめてゲームをマッピングしようとさまざま試みている言論に対して、そう反論するのは。

 平均的なゲーマーにナラティブと言ってみましょう。かれらが想像しがちなのは、人を虜にするエンターテイメントや洗練されたテーマやキャラクターの複雑さではなくて、生気がなくて機械的な説明で有名な自己選択形式アドベンチャーブックのようなものです。そしてゲーム産業の幹部はおそらく、ハイパーテキスト論者の売り込んでいる断然不人気な(そしてしばしば反人気な)美学をじゅうぶん勉強することにまさしく懐疑的です。

 映画理論をゲームへ適用することは、手つきがぎこちなくそして融通が利かないように見えることがあり、しばしば両媒体の間の深い違いに認識できずに失敗します。けれども同時に、ゲームデザイナーや批評家が、ほかの物語表現媒体(ストーリーテリング・メディア)と有意義な比較をおこなうことで学べるだろうこともたくさんあります。あるひとは、自分の責任のおよぶ限りでだけゲームについて考えるための枠組みとしてのナラティブを取り除いています。

 わたしはこの短い論考で、ルドロジー学者とナラトロジー学者のあいだに中立地帯を設けられればと願っていますし、ゲームという新しい表現形式(メディウムの特殊性へのリスペクトも提示できればと思っています――ストーリーとしてではなく、ナラティブの可能性の熟した空間としてゲームを考察してみたいと思います。

 I find myself responding to this perspective with mixed feelings. On the one hand, I understand what these writers are arguing against - various attempts to map traditional narrative structures ("hypertext," "Interactive Cinema," "nonlinear narrative") onto games at the expense of an attention to their specificity as an emerging mode of entertainment. You say narrative to the average gamer and what they are apt to imagine is something on the order of a choose-your-own adventure book, a form noted for its lifelessness and mechanical exposition rather than enthralling entertainment, thematic sophistication, or character complexity. And game industry executives are perhaps justly skeptical that they have much to learn from the resolutely unpopular (and often overtly antipopular) aesthetics promoted by hypertext theorists. The application of film theory to games can seem heavy-handed and literal minded, often failing to recognize the profound differences between the two media. Yet, at the same time, there is a tremendous amount that game designers and critics could learn through making meaningful comparisons with other storytelling media. One gets rid of narrative as a framework for thinking about games only at one's own risk. In this short piece, I hope to offer a middle ground position between the ludologists and the narratologists, one that respects the particularity of this emerging medium - examining games less as stories than as spaces ripe with narrative possibility.

 

 ずは全会一致できそうな点を5つまとめましょう:

 Let's start at some points where we might all agree:

【1】すべてのゲームがストーリーを語るわけではない。

 ゲームは映画よりも音楽や現代ダンスに近しいような、抽象的で、表現的で、そして経験的な形式をしている可能性があります。バレエのいくらか(たとえば『くるみ割り人形』のような)はストーリーを語るけど、ストーリーテリングはダンスにとって本質や固有の特徴ではありません。同様に、わたしのお気に入りのゲームは――『テトリス』、『BLix』『Snood』*13は――シンプルなグラフィックのゲームで、ナラティブの解説に適しているような作品ではありません(6)。このようなゲームを理解するには、インターフェース・デザインやゲームを始めるきっかけとなる印象的な運動(ムーブメント)など、ナラティブを超えたべつの用語(ターム)やコンセプトが必要でしょう。

 私たちの最終目標は、媒体(メディウム発展の初期に生まれる必要のあった独創的実験を治めることです。

 1) Not all games tell stories. Games may be an abstract, expressive, and experiential form, closer to music or modern dance than to cinema. Some ballets (The Nutcracker for example) tell stories, but storytelling isn't an intrinsic or defining feature of dance. Similarly, many of my own favorite games - Tetris, Blix, Snood - are simple graphic games that do not lend themselves very well to narrative exposition.(6) To understand such games, we need other terms and concepts beyond narrative, including interface design and expressive movement for starters. The last thing we want to do is to reign in the creative experimentation that needs to occur in the earlier years of a medium's development.

 

【2】多くのゲームには物語的な志望(narrative aspirations)*14ある

 ゲームのおおくは最低限、過去の物語(ナラティブ)体験であじわった感情的な残余を利用(タップ)したいと思っています。大半のゲームは私たちがエンターテイメントジャンルのロール(役)やゴール(目標・目的)に親しんでいることにしばしば依存しており、そして多くの場合ゲームデザイナーが創造したいのは、プレイヤーのための一連の物語体験です。

 それらの物語的な志望を考えれば、私たちがゲームデザインの美学やあるいは現代ゲーム文化の性質を理解するよりもまえに、ゲームとナラティブが結びつく方法を理解していくことは、理にかなった提案に思えます。

 2)Many games do have narrative aspirations. Minimally, they want to tap the emotional residue of previous narrative experiences. Often, they depend on our familiarity with the roles and goals of genre entertainment to orientate us to the action, and in many cases, game designers want to create a series of narrative experiences for the player. Given those narrative aspirations, it seems reasonable to suggest that some understanding of how games relate to narrative is necessary before we understand the aesthetics of game design or the nature of contemporary game culture.

 

【3】ナラティブ分析は規範的である必要はない。

 たとえ一部のナラトロジー学者が――ジャネット・マレーが一番の代表例ですが――特定のナラティブ形式を追求するゲームを提唱しているように見えても従う必要はありません。それはゲームの未来ではありません。

 ジャンルを美学を観衆を多様にはぐくみ、可能なかぎり最も広範な体験へとゲーマーを開放することがゴールとなるべきです。

 ゲーム産業ではここ数年のうちにずば抜けて創造的な実験や革新が起きていて、草分け的タイトルとして以下が挙げられるでしょう。『シムズ』『ブラック&ホワイト』『Majestic』*15シェンムー;魅力的なゲームプレイをまったく別個のコンセプトによって達成している作品たちです。

 ゲームにおけるナラティブの潜在能力(ポテンシャル)を討論するさい、ストーリーテリングがゲームで出来うる他の可能性すべてを上回る特権的存在であるという結論に達する必要はありません。たとえ全員の心に「ゲームデザイナーがストーリーを語るつもりなら、彼らはもっと上手く語るべきだ」と思い浮かんでいるかもしれないとしてもです。多数がしばしば計算機科学(コンピュータ・サイエンス)グラフィックデザインを学校で修めているゲームデザイナーは、文学理論の基本的語彙を刷新する必要があるでしょう。

 3) Narrative analysis need not be prescriptive, even if some narratologist - Janet Murray is the most oft cited example - do seem to be advocating for games to pursue particular narrative forms. There is not one future of games. The goal should be to foster diversification of genres, aesthetics, and audiences, to open gamers to the broadest possible range of experiences. The past few years has been one of enormous creative experimentation and innovation within the games industry, as might be represented by a list of some of the groundbreaking titles. The Sims, Black and White, Majestic, Shenmue; each represents profoundly different concepts of what makes for compelling game play. A discussion of the narrative potentials of games need not imply a privileging of storytelling over all the other possible things games can do, even if we might suggest that if game designers are going to tell stories, they should tell them well. In order to do that, game designers, who are most often schooled in computer science or graphic design, need to be retooled in the basic vocabulary of narrative theory.

 

【4】ゲームをプレイして得られる経験(エクスペリエンス・オブ・プレイングゲーム)は、単純素朴に物語体験(エクスペリエンス・オブ・ストーリー)へ還元できるものではない。

 ストーリーテリング自体とはほとんどないしまったく関係ない様々な要因が偉大なゲームの発展に貢献しており、私たちはそうした要素をもっとじゅうぶん取り扱えるようゲームについての批評的語彙を著しく広げる必要があります。「ゲーム学者はゲームプレイのメカニクスへもっと注目すべきだ」というルドロジー学者の主張はこの意味では全体的に正しいでしょう。

 4) The experience of playing games can never be simply reduced to the experience of a story. Many other factors which have little or nothing to do with storytelling per se contribute to the development of a great games and we need to significantly broaden our critical vocabulary for talking about games to deal more fully with those other topics. Here, the ludologist's insistence that game scholars focus more attention on the mechanics of game play seems totally in order.

 

【5】一部のゲームがストーリーを語る場合、ほかの媒体(メディア)の語り口はとれそうもない。

 ストーリーはある媒体から別の媒体へ移し替えられるような空っぽのコンテンツではありません。たとえばプルーストの『失われた時をもとめて』の内的モノローグを魅力的な映画的体験に翻訳するのは難しいでしょうし、ヒッチコックがじしんのサスペンス映画で成し遂げたような厳密にコントロールされた観賞体験は、良いゲームデザインの美学とは正反対でしょう。

 私たちは、なので、ゲームの媒体としての特殊性に注意すべきであり、ほかのナラティブの伝統とは明確に区別すべきなのです。ただしそのためには正確な比較が要請されます――古いモデルによってゲームをマッピングするのではなくて、既存のゲームにたいしてほかの媒体と何を共有していてどこを違えているのか決定づけるためにそれらのモデルをテストするのです。

 5) If some games tell stories, they are unlikely to tell them in the same ways that other media tell stories. Stories are not empty content that can be ported from one media pipeline to another. One would be hard-pressed, for example, to translate the internal dialogue of Proust's In Remembrance of Things Past into a compelling cinematic experience and the tight control over viewer experience which Hitchcock achieves in his suspense films would be directly antithetical to the aesthetics of good game design. We must, therefore, be attentive to the particularity of games as a medium, specifically what distinguishes them from other narrative traditions. Yet, in order to do so requires precise comparisons - not the mapping of old models onto games but a testing of those models against existing games to determine what features they share with other media and how they differ.

 ルドロジー学者の伝統的な執筆の多くは、過度に論争的です:ルドロジー学者はゲームデザイナーを「映画への嫉妬」から引き離すことにいそがしいので、あるいはハイパーテクスト論者があえて冒険しない領域を定義することにかまけているので、じぶんたちの研究対象を理解するためにナラティブを利用することについて、その価値を早々に捨て去っています。私見ではこの一連の概念上の盲点が、ナラティブとゲームの相互作用にかんする理解が満足いくものへと発展するのを妨げています。

 第一に、かれらの議論は狭すぎるナラティブのモデルではたらいてます。

 古典的で線形(リニア)ストーリーテリングの規則や慣習に気を取られるあまり、ほかのナラティブにかんする検討をおろそかにしているからです。かれらが却下するのはハイパーテキスト論者がインスパイアされた(霊感を受けた)モダン主義やポストモダン主義の実験だけでなく、因果による出来事の連鎖(イベントチェーン)を象徴する空間の探査や、需要の競合するスペクタクルとナラティブとのバランスの見極めといったもっと通俗的な伝統まで捨てています。(7)

 第二に、かれらの議論はナレーションについて限定的な理解ではたらいてます。

 ストーリーテラーの活躍や願望にばかり焦点がむかい、物語理解(narrative comprehension)の過程について目を向けなさ過ぎているのです。(8)

 第三に、かれらの議論は論点が単一すぎます。ゲーム全体がストーリーを語るかどうかのみが問題として扱われ、ナラティブの要素がもっと局所的なレベルでゲームへ入る可能性がないかどうかについては議論がされていません。

 最後に、かれらの議論はナラティブが自己完結型であることを前提にしすぎています。むしろ、メディア横断物語表現(トランスメディアストーリーテリング*16の新しい環境のなかで特定機能をはたすものとしてゲームをとらえた声にとぼしい。

 これらの問題点を考え直すことで、ゲームと物語(ストーリー)の関係について新たな理解が導かれるかもしれません。つまり私は、この議論にたいして第三のタームを紹介したいわけです――空間性(spatiality)という語を。そして、ゲームデザイナーをストーリーテラーとしてではなく、物語(ナラティブ)による建築家として理解してもらうよう主張していきます。

 Much of the writing in the ludologist tradition is unduly polemical: they are so busy trying to pull game designers out of their "cinema envy" or define a field where no hypertext theorist dare to venture that they are prematurely dismissing the use value of narrative for understanding their desired object of study. For my money, a series of conceptual blind spots prevent them from developing a full understanding of the interplay between narrative and games. First, the discussion operates with too narrow a model of narrative, one preoccupied with the rules and conventions of classical linear storytelling at the expense of consideration of other kinds of narratives, not only the modernist and postmodernist experimentation that inspired the hypertext theorists, but also popular traditions which emphasize spatial exploration over causal event chains or which seek to balance between the competing demands of narrative and spectacle.(7) Second, the discussion operates with too limited an understanding of narration, focusing more on the activities and aspirations of the storyteller and too little on the process of narrative comprehension.(8) Third, the discussion deals only with the question of whether whole games tell stories and not whether narrative elements might enter games at a more localized level. Finally, the discussion assumes that narratives must be self-contained rather than understanding games as serving some specific functions within a new transmedia storytelling environment. Rethinking each of these issues might lead us to a new understanding of the relationship between games and stories. Specifically, I want to introduce an important third term into this discussion - spatiality - and argue for an understanding of game designers less as storytellers and more as narrative architects.

 

  空間的物語と環境ストーリーテリング
 SPATIAL STORIES AND ENVIRONMENTAL STORYTELLING

 ームデザイナーは、ストーリーをただ単純には伝えません;かれらは世界を設計(デザイン)し、空間を彫刻します。たとえばゲームデザインの書籍が歴史的に見て、キャラクターの動機や筋書き立て(プロッティング)よりもレベルデザインの問題に関心をいだいているのは偶然のことではありません。

 ビデオ・コンピュータゲームの先史時代として、卓上遊戯(ボードゲームないし紙の迷路からの進化が私たちのまえを通り抜けていったことでしょう。これらは物語的文脈(ナラティブ・コンテクスト)が提示された場合でさえも、ともに空間設計へ夢中にさせました。

 たとえばモノポリーは、運命がどのようにして勝敗をきめるか語っているのかもしれません*17;個々のチャンスカードは私たちが得失するその土地の一定の値にかこつけた物語をなにか提示するかもしれませんが;しかし最終的に私たちが覚えているのは、ボードを動き回って別プレイヤーが本当に所有する領土へ乗り込んだ経験です。

 パフォーマンス理論家はRPG(ロールプレイング・ゲームを協同的なストーリーテリングの様式(モード)として論述しますが、しかしダンジョンマスターの活動は、空間をデザインすることから始まります――ダンジョンの――プレイヤーによる探検(クエスト)がおこなわれる舞台の。

 幅広いさまざまな種類のストーリーを語れた『ゾーク』のようなテキスト・ベースによる初期のゲームでさえ、その中心となっているのは、プレイヤーが物語的に魅力的な空間を動き回れるようにすることでした;「あなたが面と向かっているのは、白い家の北側だ。ドアはなく、すべての窓が板張りになっている。北へ向かって狭い道が、木々の間を曲がりくねりながら伸びている」

 初期の任天堂ゲームにはとてもシンプルな物語的フックがありますが――キノコ王国のお姫さまを救え――しかしゲーマーがこれを初めてプレイして瞠目したのは、『ポン』パックマンが10年前に提示した単純な点々(グリッド群)よりもはるかに洗練された、想像力豊かなグラフィック領域でした。宮本茂スーパーマリオ・ブラザーズ』のような影響力ある黎明期の「スクロール・ゲーム」に言及するとき、私たちは大昔の空間ストーリーテリングの伝統の隣に位置づけます:たとえばあまたの日本の絵巻物(スクロール・ペインティング)にえがかれる地図は、空間を展開していくことで四季をまたいでいきます。

 映画をゲームに適用しようとしたら、そのプロセスには一般的に、映画の中のできごとをゲームのなかの環境で起きるよう翻訳することをともないます。ゲーム雑誌がゲームプレイ中の経験を記述しようとしたら、その物語を詳述するよりはむしろ、ゲーム世界のマップを再現しようとするでしょう。(9)

 私たちはゲームの物語(ナラティブ)について話すまえに、まず、ゲームの空間について語り合う必要があります。

「ゲームコンソールを、魅力的な空間を生成する機械として見なすべきであり。これらのバーチャルな遊び場が、伝統的な裏庭が喪われつつある現代の少年たちのカルチャーを補うのに役立っており。さまざまなゲームの背後にある物語の核(コア)は、競争的な空間を冒険し、マッピングし、熟達するための抵抗を中心としている(10)

 自著サイバースペースでのコミュニケーション(Communications in Cyberspace)』(1994年、ニューヨーク:セージ刊)や、「ムーブメントの完全な自由:ジェンダーの遊び場としてのビデオゲーム('Complete Freedom of Movement':Video Games as Gendered Playspace)ジャスティン・カッセル&ヘンリー・ジェンキンズ編『バービー人形からモータル・コンバットへ:ジェンダーコンピューターゲーム(From Barbie to Mortal Kombat:Gender and Computer Games)』(1998年ケンブリッジ:MITプレス刊)所収}など一連のエッセイをつうじて私はそう主張してきました。

 ここで私はその議論をさらに遠くまで広げたく思います。

 ゲーム空間を組み立てることで、いったいどんな種類の物語体験が促進されていくことになるんでしょうか?

 Game designers don't simply tell stories; they design worlds and sculpt spaces. It is no accident, for example, that game design documents have historically been more interested in issues of level design than plotting or character motivation. A prehistory of video and computer games might take us through the evolution of paper mazes or board games, both preoccupied with the design of spaces, even where they also provided some narrative context. Monopoly, for example, may tell a narrative about how fortunes are won and lost; the individual Chance cards may provide some story pretext for our gaining or losing a certain number of places; but ultimately, what we remember is the experience of moving around the board and landing on someone's real estate. Performance theorists have described RPGs as a mode of collaborative storytelling, but the Dungeon Master's activities start with designing the space - the dungeon - where the players' quest will take place. Even many of the early text-based games, such as Zork, which could have told a wide array of different kinds of stories, centered around enabling players to move through narratively-compelling spaces: "You are facing the north side of a white house. There is no door here, and all of the windows are boarded up. To the north a narrow path winds through the trees." The early Nintendo games have simple narrative hooks - rescue Princess Toadstool - but what gamers found astonishing when they first played them were their complex and imaginative graphic realms, which were so much more sophisticated than the simple grids that Pong or Pac-Man had offered us a decade earlier. When we refer to such influential early works as Shigeru Miyamoto's Super Mario Bros. as "scroll games," we situate them alongside a much older tradition of spatial storytelling: many Japanese scroll paintings map, for example, the passing of the seasons onto an unfolding space. When you adopt a film into a game, the process typically involves translating events in the film into environments within the game. When gamer magazines want to describe the experience of gameplay, they are more likely to reproduce maps of the game world than to recount their narratives.(9) Before we can talk about game narratives, then, we need to talk about game spaces. Across a series of essays, I have made the case that game consoles should be regarded as machines for generating compelling spaces, that their virtual playspaces have helped to compensate for the declining place of the traditional backyard in contemporary boy culture, and that the core narratives behind many games center around the struggle to explore, map, and master contested spaces.(10) Communications in Cyberspace (New York: Sage, 1994); Henry Jenkins, "'Complete Freedom of Movement': Video Games as Gendered Playspace," in Justine Cassell and Henry Jenkins (Ed.) From Barbie to Mortal Kombat: Gender and Computer Games (Cambridge: MIT Press, 1998). Here, I want to broaden that discussion further to consider in what ways the structuring of game space facilitates different kinds of narrative experiences.

 

 ームはしばしば英雄の放浪(オデュッセイアや神話の探求(クエスト)あるいは旅物語の形式を取るように、空間的物語の古来からの伝統に適しています。(11)

 J.R.R.トールキン*18ジュール・ヴェルヌ*19ホメロスライマン・フランク・ボーム*20あるいはジャック・ロンドン*21の傑作は大抵、たとえばトルストイ戦争と平和のピョートルがボロジノの戦場をあてどない放浪するシーンだって、この伝統に収まります。

 多くの場合こうした作品は、文学の境界の外側に存在しています。なるほどたしかに読者からとても愛されていて、世代から世代へ受け継がれていますが、偉大な文学の正典のなかで頭角をあらわすことはめったにありません。

「世界創造(world-making)にばかりかまけて、登場人物の心理やプロットの進展をおろそかにしている」

 たとえばSFはいったいどれだけこんな風に批判されたことでしょう?*22

 こうした作家は、活字出版で達成できる限界を常に押しのけて進んでいるようであり、したがって、これらの作品は、古典的構成の小説をめぐって定義された美的な標準に対してはまずいほうへ行っています。

 多くの場合、キャラクターは――豊かに発展した世界を案内するガイドは――肉の下の骨まで剥くことができ、説明(description)は解説(exposition)に置き換えられ、プロットは一連のエピソードや出会いへ分解できます。既存の文学や映画といったジャンルから物語要素をゲームデザイナーが描くとき、しばしばファンタジーやアドベンチャー、SF、ホラー、戦争物といった世界創造や空間ストーリーテリングへ最も投資したジャンルを利用(タップ)する傾向にあります。

 次にゲームは、こうした物語の空間性をより完全に如実化し、物語世界をはるかに没入感があり説得力あるかたちで表現できます。

 トルストイの天職はゲームデザイナーだったでしょう。それが信じられないかたはぜひ戦争と平和の終盤を読みなおしてください。この小説で取られたオルタナティブ(現実と異なる)選択の数々がナポレオンによるロシア遠征の結果をいかにして裏返してみせたか、トルストイは見事に処理してみせました。小説の文脈だとこの章は鈍重ですが、シヴィライゼーションのような神視点のゲームではたやすく伝達できるアイデアとしてあらましを描けます。

 As such, games fit within a much older tradition of spatial stories, which have often taken the form of hero's odysseys, quest myths, or travel narratives.(11) The best works of J.R.R. Tolkien, Jules Verne, Homer, L. Frank Baum, or Jack London fall loosely within this tradition, as does, for example, the sequence in War and Peace which describes Pierre's aimless wanderings across the battlefield at Borodino. Often, such works exist on the outer borders of literature. They are much loved by readers, to be sure, and passed down from one generation to another, but they rarely figure in the canon of great literary works. How often, for example, has science fiction been criticized for being preoccupied with world-making at the expense of character psychology or plot development? These writers seem constantly to be pushing against the limits of what can be accomplished in a printed text and thus their works fare badly against aesthetic standards defined around classically-constructed novels. In many cases, the characters - our guides through these richly-developed worlds - are stripped down to the bare bones, description displaces exposition, and plots fragment into a series of episodes and encounters. When game designers draw story elements from existing film or literary genres, they are most apt to tap those genres - fantasy, adventure, science fiction, horror, war - which are most invested in world-making and spatial storytelling. Games, in turn, may more fully realize the spatiality of these stories, giving a much more immersive and compelling representation of their narrative worlds. Anyone who doubts that Tolstoy might have achieved his true calling as a game designer should reread the final segment of War and Peace where he works through how a series of alternative choices might have reversed the outcome of Napoleon's Russian campaign. The passage is dead weight in the context of a novel, yet it outlines ideas which could be easily communicated in a god game like Civilization.

 

 ィズニーの遊園地(アミューズメントパーク)を設計(デザイン)するさい採用されている「環境ストーリーテリング」の技術(テクニック)を研究すれば、ゲームデザイナーはたくさんの学びが得られるだろうとウォルト・ディズニー・イマジニアリングの主任(シニア)ショー設計者(デザイナー)を務めたドン・カーソン*23はそう主張します。つづけて曰く、

「物語の要素は、来園者(ゲスト)が徒歩や乗り物で通りぬける物理的空間に注入される。デザイナーが伝えようとする物語を運んでくるのに大きな働きをしてくれるのは物理的な空間であり……その世界にかんする知識と、映画や本から寄り集めたヴィジョンだけで武装した観客は、そのデザインされた冒険のなかへ身を落とせるほど*24熟しているんだ。

 こうした企み(トリック)がゲストの記憶と期待に訴えかけてくる。デザイナーの創造した宇宙を冒して進んだスリルによって高められた感情だ。」(12)

 『トード氏のワイルドスライド』のようなアトラクションは、原作『たのしい川べ』の文学上の物語(ストーリー)をさして再現せず、その空気感を喚起させます;もとの物語は「デザインのガイドとなったり、プロジェクトチームの共通目標(コモン・ゴール)となるルール一式」を提供し、そして観客の体験へ構造や意味を与えるのに役立ちます。

 たとえば海賊を中心としたアトラクションの場合「デザイナーが使えるすべての質感(テクスチャ)*25や、鳴らせるすべての音、道中のすべての変化(ターン)は、海賊というコンセプトを補強すべきだ」とカーソンは書いていますが、矛盾した要素は物語宇宙(ナラティブ・ユニバース)への没入を台無しにする可能性があります。

 『Sea Dogs』*26のようなゲームにも同じことが言えそうで、これはディズニーのアトラクション/映画パイレーツ・オブ・カリビアン同様、既存の海賊ファンタジーマッピングする能力に依存した作品です。

 もっとも重要な相違点は、遊園地デザイナーは来園者について手や腕をずっと乗り物のなかで収めているものとして見積もれるのでかれらの体験全体を細かくコントロールし造形できる一方、ゲームデザイナーはプレイヤーが思いどおりに触れられ掴めて放り投げさえできる世界を開発している点にありましょう。

 Don Carson, who worked as a Senior Show Designer for Walt Disney Imagineering, has argued that game designers can learn a great deal by studying techniques of "environmental storytelling" which Disney employs in designing amusement park attractions. Carson explains, "The story element is infused into the physical space a guest walks or rides through. It is the physical space that does much of the work of conveying the story the designers are trying to tell....Armed only with their own knowledge of the world, and those visions collected from movies and books, the audience is ripe to be dropped into your adventure. The trick is to play on those memories and expectations to heighten the thrill of venturing into your created universe."(12) The amusement park attraction doesn't so much reproduce the story of a literary work, such as The Wind in the Willows, as it evokes its atmosphere; the original story provides "a set of rules that will guide the design and project team to a common goal" and which will help give structure and meaning to the visitor's experience. If, for example, the attraction centers around pirates, Carson writes, "every texture you use, every sound you play, every turn in the road should reinforce the concept of pirates," while any contradictory element may shatter the sense of immersion into this narrative universe. The same might be said for a game like Sea Dogs which, no less than The Pirates of the Caribbean, depends on its ability to map our pre-existing pirate fantasies. The most significant difference is that amusement park designers count on visitors keeping their hands and arms in the car at all times and thus have a greater control in shaping our total experience, whereas game designers have to develop worlds where we can touch, grab, and fling things about at will.

 

 ストーリーテリングは、没入感のある物語体験のための前提条件をすくなくとも4通り創りだします:空間的物語は、既存の物語(ナラティブ)とつながる連想を喚起させます;物語のできごとを上演する舞台を提供できます;ミザンセーヌ(=直訳すると「舞台に置かれたもの」。衣装や小道具やセット・照明・演出など)のなかに物語情報を埋め込めます;あるいは創発的な物語のみなもとを提供します。*27

 Environmental storytelling creates the preconditions for an immersive narrative experience in at least one of four ways: spatial stories can evoke pre-existing narrative associations; they can provide a staging ground where narrative events are enacted; they may embed narrative information within their mise-en-scene; or they provide resources for emergent narratives.

 

  喚起させる空間

 EVOCATIVE SPACES

 っとも魅力的な遊園地のアトラクションは来園者にとって聞き馴染みぶかい物語やジャンル的伝統のうえに建っており、来園者を物理的に踏み入れさせるのは、かつて来園者がじぶんの空想のなかで何度も訪れたような空間なのです。

 既存のストーリーに正しくならったものか(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』)、あるいは幅広く共有されたジャンル的伝統を汲むか(ディズニーのホーンテッド・マンション)、アトラクションは大体そのどちらかです。

 こうした作品は、既存の物語の能力を活かしきれるほどには、自己完結型のストーリーを強く語ってはいません。デザイナーは、じしんの世界についてざっくり大まかな輪郭(アウトライン)を描いて、残りの余白を来園者/プレイヤーが埋めてくれるよう任せることができます。多くのゲームにも同様のことが言えるでしょう。

 たとえばエレクトロニック・アーツ『アリス・イン・ナイトメア』の翻案元はルイス・キャロル不思議の国のアリスです。このゲームのアリスは不思議の国での経験が現実なのか妄想なのか不確かなまま数年を過ごして狂気におちいってしまってしまいました;いま彼女はあの不思議な世界にまた戻り、そして血を求めて歩みだしました。

 アメリカン・マギー*28による不思議な国はユーモラスな夢の情景ではなく、暗い悪夢の領域です。

 空間もキャラクターもシチュエーションもキャロルの原作らしい宇宙を連想させる、きわめて精巧な心理地図(メンタルマップ)からマギーがゲームを始めさせたことで、プレイヤーは安心感をおぼえ、それから、絵本の挿絵やディズニー映画に出会って形成された心象のバックグラウンドからすれば歪んでいたりしばしば怪物的であったりするイメージを読んでいくことになるでしょう。

 マギーはアリスの物語を書き直しましたが、その仕事の大部分はアリスの空間を再設計することによってなされました。

 The most compelling amusement park attractions build upon stories or genre traditions already well known to visitors, allowing them to enter physically into spaces they have visited many times before in their fantasies. These attractions may either remediate a pre-existing story (Back to the Future) or draw upon a broadly shared genre tradition (Disney's Haunted Mansion). Such works do not so much tell self-contained stories as draw upon our previously existing narrative competencies. They can paint their worlds in fairly broad outlines and count on the visitor/player to do the rest. Something similar might be said of many games. For example, American McGee's Alice is an original interpretation of Lewis Carroll's Alice in Wonderland. Alice has been pushed into madness after years of living with uncertainty about whether her Wonderland experiences were real or hallucinations; now, she's come back into this world and is looking for blood. McGee's wonderland is not a whimsical dreamscape but a dark nightmare realm. McGee can safely assume that players start the game with a pretty well-developed mental map of the spaces, characters, and situations associated with Carroll's fictional universe and that they will read his distorted and often monstrous images against the background of mental images formed from previous encounters with storybook illustrations and Disney movies. McGee rewrites Alice's story, in large part, by redesigning Alice's spaces.

 

 語としてのゲームに対して、イェスパー・ユールはこう提案します。「スター・ウォーズ』ザ・ゲームからスター・ウォーズを除くことが不可能なのは明白だ」が、小説の映画化作品(a film version of a novel)からプロットの大まかな輪郭(アウトライン)を描くことはできる。(13)

 これは翻案プロセスとして極めて時代遅れのモデルです。

 いよいよ私たちはトランスメディアストーリーテリングの世界に暮らしています。作品が個別に独り立ちして自己完結することよりも、各作が貢献し合ってひとつのより大きな物語経済を成すことによって語られる世界に。*29

 スター・ウォーズのゲームは映画版のストーリーを忠実になぞるものではないかもしれませんが、でも映画の素朴な再話はスター・ウォーズサーガ体験を拡張したり豊かにしたりするために必要なことでしょうか。

 ゲーム購入以前からすでにストーリーを知っていたら、そしてもし映画で体験したことを丸きりオウム返しされるだけだったとしたら、きっとイラつくことでしょう。

 むしろスター・ウォーズゲームの存在意義は、映画版と対話することにあり、その環境の細部(ディテール)について創造的な操作することを通じてあらたな物語体験をもたらしてくれることにあります。

 本や映画やテレビやマンガそのほかのメディアがそれぞれ最善を尽くし、それぞれがある程度は独立しているけれどしかしさまざまなチャンネルにまたがったナラティブを生みだす。それらを追ったひとが至る物語世界への豊かな理解をつうじた、物語の情報伝達による大きな物語体系(ナラティブ・システム)のなかでゲームが席につくことは想像可能です。*30

 このような体系のなかでゲームが最も得意とすることは、ほぼ確実に、物語世界にかんする私たちの記憶や想像へ具体的なかたちを与える能力に集中していて、そして私たちが歩き回れて相互に影響しあえる没入感たっぷりの環境を創り出すことにあるでしょう。

 Arguing against games as stories, Jesper Juul suggests, "you clearly can't deduct the story of Star Wars from Star Wars the game," where-as a film version of a novel will give you at least the broad outlines of the plot.(13) This is a pretty old fashioned model of the process of adaptation. Increasingly, we inhabit a world of transmedia story-telling, one which depends less on each individual work being self-sufficient than on each work contributing to a larger narrative economy. The Star Wars game may not simply retell the story of Star Wars, but it doesn't have to in order to enrich or expand our experience of the Star Wars saga. We already know the story before we even buy the game and would be frustrated if all it offered us was a regurgitation of the original film experience. Rather, the Star Wars game exists in dialogue with the films, conveying new narrative experiences through its creative manipulation of environmental details. One can imagine games taking their place within a larger narrative system with story information communicated through books, film, television, comics, and other media, each doing what it does best, each relatively autonomous experience, but the richest understanding of the story world coming to those who follow the narrative across the various channels. In such a system, what games do best will almost certainly center around their ability to give concrete shape to our memories and imaginings of the storyworld, creating an immersive environment we can wander through and interact with.

 

  上演される物語

 ENACTING STORIES

 トーリーとしてのゲームについて話し合うとき、物語のできごと(ナラティブ・イベント)をプレイヤーが演じたり目撃したりすることが可能かどうかが話題のほとんどです――スターウォーズのゲームであれば、ライトセーバーを掴めるかとか、ダース・モールを処刑できるかとか。

 ナラティブはこのようなゲームに対して2つのレベルで入り込みます――目的あるいはコンフリクト(対立/葛藤)と広義に呼ばれる見地からと、局所的な事件の水準からと。
 Most often, when we discuss games as stories, we are referring to games that either enable players to perform or witness narrative events - for example, to grab a lightsabre and dispatch Darth Maul in the case of a Star Wars game. Narrative enters such games on two levels - in terms of broadly defined goals or conflicts and on the level of localized incidents.

 

 ーム批評家の多くは、すべての物語はそれぞれの要素が全体的なプロットの筋道のなかで緊密に統合されて古典的に構成されなければならないと思っています。

「ストーリーはコントロールされた体験である;作者は意識的に技巧を凝らして、確たるできごとを正しく選んで、確たる順序で並べ、物語による最大限の衝撃を創出する」(14)

 とコスティキャンは書いていますし、アダムスはこう主張します。

「良いゲームは良いジグソーパズルと同じくしっかりつじつまが合っているものだ。つまみ上げたとき、お隣と堅く噛み合っているために全てのピースが持ち上がってしまうような」(15)

 空間的物語は、他方で、しばしば一挿話(エピソディク)として片づけられもします――ようするに各エピソード(ないし類型)はプロットの進展へ重要な貢献をしなくてもそれ単体で魅力的になる可能性があり、そしてどう並び替えても私たちの全体としての体験へは著しい衝撃を与えない場合もしばしばあります。

 ジョセフ・キャンベルが概観したヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)の諸段階(ステージ)と古典的なアドベンチャーゲームの各階層(レベル)とを並置しながらトロイ・ダニウェイ(Troy Dunniway)が思いえがいたように、これらの空間的物語は一連の段階(ステージ)あるいは動き(ムーブメント)のなかで広がっていくかもしれませんが、しかしそれぞれの段階内部における行動(アクション)の順序はかなりゆるいもしれません。(16)

 空間的物語はそこまで雑に構築された物語ではありません;むしろ、プロット進展における空間の探索を特権化する、別種の美学の基本原理に応答したストーリーです。空間的物語は広義の目的・コンフリクトとむすびついており、マップをわたり歩くキャラクターの動き(ムーブメント)によって押し進められます。

 かれらの解決策はたいていプレイヤーが最終地点に辿りつけるかどうかにかかっていますが、けれども、マリー・フラー(Mary Fuller)が記したように、すべての旅物語が成功を収めて終われるとはかぎりませんし、物語をうごかしてきた謎を解決できるわけでもありません。(17)

 もう一度「環境ストーリーテリング」の原理にもどりましょう。

 プロットを組織することは架空の世界の地理をデザインする問題となり、だから障害物は邪魔をしてきたりアフォーダンスは主人公が解決に向かって前進するのを手助けしたりするのです。ゲームデザイナーは過去数十年にわたって、ゲーム空間の特徴をつうじてゲームプレイのリズムを調整および変更するノウハウをどんどん磨いていきました。

 Many game critics assume that all stories must be classically constructed with each element tightly integrated into the overall plot trajectory. Costikyan writes, for example, that "a story is a controlled experience; the author consciously crafts it, choosing certain events precisely, in a certain order, to create a story with maximum impact."(14) Adams claims, "a good story hangs together the way a good jigsaw puzzle hangs together. When you pick it up, every piece locked tightly in place next to its neighbors."(15) Spatial stories, on the other hand, are often dismissed as episodic - that is, each episode (or set piece) can become compelling on its own terms without contributing significantly to the plot development and often, the episodes could have been reordered without significantly impacting our experience as a whole. There may be broad movements or series of stages within the story, as Troy Dunniway suggests when he draws parallels between the stages in the Hero's journey as outlined by Joseph Campbell and the levels of a classic adventure game, but within each stage, the sequencing of actions may be quite loose.(16) Spatial stories are not badly constructed stories; rather, they are stories which respond to alternative aesthetic principles, privileging spatial exploration over plot development. Spatial stories are held together by broadly defined goals and conflicts and pushed forward by the character's movement across the map. Their resolution often hinges on the player's reaching their final destination, though, as Mary Fuller notes, not all travel narratives end successfully or resolve the narrative enigmas which set them into motion.(17) Once again, we are back to principles of "environmental storytelling." The organization of the plot becomes a matter of designing the geography of imaginary worlds, so that obstacles thwart and affordances facilitate the protagonist's forward movement towards resolution. Over the past several decades, game designers have become more and more adept at setting and varying the rhythm of game play through features of the game space.

 

 所的な事件ないし私が微物語(ミクロナラティブ)と呼ぶ規模からでも、ゲームに物語(ナラティブ)は入り込みます。セルゲイ・エイゼインシュテイン監督戦艦ポチョムキンオデッサの階段シーンにおいて、ミクロナラティブがどんなはたらきをするか一緒に考えてみましょう。

 まず第一に認めてもらいたいのは、たとえどれだけシリアスで気品ある作品だろうと、そのシーンが本来的には大多数のゲームと同種の材料(マテリアル)を取り扱っているということです――階段は、上に登ろうと頑張っている一団(小作農)とそこを下り降りている別の一団(コサック兵)とが争う空間です。

 エイゼンシュテインは、短い物語のユニットを通じて、大規模なコンフリクト(対立/葛藤)のともなう感情的な交戦模様を強烈にしました。ここでのミクロナラティブのうち乳母車を押す女性はもしかすると世界一有名かもしれません。それぞれの構成単位(ユニット)は文化的類型(ストック・キャラクター)に頼っていたりメロドラマのレパートリーから引っ張ってきたりしています。数秒以上つづけて登場する者はだれもいませんが、エイゼンシュテインは多様な事件をクロス・カッティングすることによってそれを引き延ばし(そして感情的なインパクトを強烈にし)ています。

 エイゼンシュテインは、じしんの映画において上述したような感情の詰めこまれた要素を「アトラクション」という語を用いて説明しています;現代のゲームデザイナーなら「記憶に残る瞬間(メモラブル・モーメント)」と呼ぶかもしれません。

 ゲームにおけるメモラブル・モーメントが物語的フックに頼るのと同じくらい、(レーシングゲームのスピード感といった)五感(センセーション)や(スノーボードゲームで急に青空が広がるといった)知覚(パーセプション)に依っているように。エイゼンシュテインはアトラクションという語を、深い感情的な衝撃を生み出す作品内の要素を説明するために広く使用して、そして作品のテーマは個別の要素を通じたり横断したりして伝達できると理論づけました。

 大規模なプロットの筋道をつくらないゲームでも、プレイヤーの感情的な体験を形づくるのにこうしたミクロナラティブへ強く依存しているかもしれません。

 ミクロナラティブはイベントシーン/カットシーンである場合もありますが、別にそうである必要はありません。

 フットボールゲームをプレイ中のあなたが決めた素晴らしいタッチダウンに対して敵選手が見せたプログラム済アクションによるシンプルな反応も、ミクロナラティブとして想像し得るのです。

 Narrative can also enter games on the level of localized incident, or what I am calling micronarratives. We might understand how micronarratives work by thinking about the Odessa Steps sequence in Sergei Eisenstein's Battleship Potempkin. First, recognize that, whatever its serious moral tone, the scene basically deals with the same kind of material as most games - the steps are a contested space with one group (the peasants) trying to advance up and another (the Cossacks) moving down. Eisenstein intensifies our emotional engagement with this large scale conflict through a series of short narrative units. The woman with the baby carriage is perhaps the best-known of those micronarratives. Each of these units builds upon stock characters or situations drawn from the repertoire of melodrama. None of them last more than a few seconds, though Eisenstein prolongs them (and intensifies their emotional impact) through crosscutting between multiple incidents. Eisenstein used the term, "attraction," to describe such emotionally-packed elements in his work; contemporary game designers might call them "memorable moments." Just as some memorable moments in games depend on sensations (the sense of speed in a racing game) or perceptions (the sudden expanse of sky in a snowboarding game) as well as narrative hooks, Eisenstein used the word, attractions, broadly to describe any element within a work which produces a profound emotional impact and theorized that the themes of the work could be communicate across and through these discrete elements. Even games which do not create large-scale plot trajectories may well depend on these micronarratives to shape the player's emotional experience. Micronarratives may be cut scenes, but they don't have to be. One can imagine a simple sequence of preprogrammed actions through which an opposing player responds to your successful touchdown in a football game as a micronarrative.

 

 「レイヤーの関与は物語構造にたいする潜在的脅威となる」とゲーム批評家はたびたび特筆しますが。いっぽうで、堅い線路のようなプロットは、相互作用(インタラクティビティ)とむすびついた「自由」や「活力」「自己表現」を過度に抑制する可能性があります。(18)

 上演(パフォーマンス)(ないしゲームプレイ)と解説(ないし物語)とのあいだの緊張は、ゲーム固有のものとはほど遠いものです。大衆文化(ポピュラー・カルチャー)の楽しみはしばしば、見事なパフォーマンスがいくらかと自己完結型の類型(セットピース)に集中しています。「歌劇パートやギャグシーンやアクションシーンは、映画のプロットを途絶させる存在である」だなんて言い表すのはナンセンスでしょう;ジャッキー・チェンが自身の才能を見せてくれるから、私たちはカンフー映画を観に行くのです。(19)

 しかし、そうしたシンプルな瞬間だけから成る映画はほとんどなく、局所的なアクションが意味のある構成(フレームワークとなるような幅広い物語的説明に頼っているのが大概です。(20)

 ミュージカルやアクション映画、スラップスティックコメディはアコーディオンのような構造をもっていると説明してもよいのではないでしょうか。特定のプロットポイントは固定されていますが、ほかのモーメントについては、プロット全体に深刻な影響をおよぼすことなく、観客からの反応を受けて伸ばしたり縮めたりできるんですから。

 イントロダクション(導入部)では登場人物の目標(ゴール)を確立したり基本的なコンフリクト(対立/葛藤)を説明したりする必要があります;コンクルージョン(結末)では目標の成功裏の完了(successful completion)ないし敵対者の最終的な敗北を見せる必要があります。

 コメディア・デラルテを例に挙げれば、演者のかぶる仮面は登場人物の関係を定義し、そしてどんな目的や欲望を抱いたキャラクターなのかを観る者に伝えてくれます。(21)

 全体的なパフォーマンス(上演)は即興であるにもかかわらず、仮面はアクション(演技)の限界を決めます。役者はそれぞれのキャラクターで可能な動きやラッツィ*31

に習熟していきますが、それはまるでゲームプレイヤーがキャラの特定のアクションを行えるようにボタン操作の組み合わせに習熟するかのよう。

 役者がひとたびステージへあがってしまえば彼らに指示する作家はいませんが、しかし、こうした可能なアクションによる基本的なボキャブラリーや演劇の伝統による幅ひろい変数一式から、物語のかたちは浮かび上がってきます。ラッツィのいくらかはプロットの発展に貢献できますが、しかし大半は(ならず者が主人をだましたり痛めつけたりといった)基本的な対立のシンプルな再演となります。

 こうしたパフォーマンスないし見世物(スペクタクル)中心のジャンルは、過程が進行していく楽しさをしばしば発揮してくれます――段取りがこなされていく体験は、目的や決心といったいかなる強い感覚をも圧倒しうるのだと。一方で、こうしたジャンルは説明パートがパフォーマンスの楽しさにたいする招かれざる妨害として経験される可能性もあります。

 ゲームデザイナーも同様のバランス取りにもがいています――プロットにどれくらいまで強制的な構成を組むか、そして物語の本筋からあまり脱線させない局所的なレベルにおいて、プレイヤーの楽しむ自由をどれくらいまで与えるか?

 未熟なストーリーテラーは、初期の映画作家がときおり視覚的なストーリーテリング技術を学ぶんじゃなくて過度な中間字幕(インタータイトル)頼みになっていたのと同じく、カットシーンによる機械的な説明をむしろ頼ります。

 それでもほかの美術の伝統がそうであるように、ゲームデザイナーは実験と基本的な物語装置の洗練をとおして技能を開発していく傾向にあり、ゲームで即興的な余地(スペース)を不当なほど制限することのないようなより良い物語体験をかたちづくれるようになっていきます。

 Game critics often note that the player's participation poses a potential threat to the narrative construction, where-as the hard rails of the plotting can overly constrain the "freedom, power, self-expression" associated with interactivity.(18) The tension between performance (or game play) and exposition (or story) is far from unique to games. The pleasures of popular culture often center around spectacular performance numbers and self-contained set pieces. It makes no sense to describe musical numbers or gag sequences or action scenes as disruptions of the film's plots: the reason we go to see a kung fu movie is to see Jackie Chan show his stuff.(19) Yet, few films consist simply of such moments, typically falling back on some broad narrative exposition to create a framework within which localized actions become meaningful.(20) We might describe musicals, action films or slapstick comedies as having accordion-like structures. Certain plot points are fixed where-as other moments can be expanded or contracted in response to audience feedback without serious consequences to the overall plot. The introduction needs to establish the character's goals or explain the basic conflict; the conclusion needs to show the successful completion of those goals or the final defeat of the antagonist. In commedia del arte, for example, the masks define the relationships between the characters and give us some sense of their goals and desires.(21) The masks set limits on the action, even though the performance as a whole is created through improvisation. The actors have mastered the possible moves or lassi associated with each character, much as a game player has mastered the combination of buttons that must be pushed to enable certain character actions. No author prescribes what the actors do once they get on the stage, but the shape of the story emerges from this basic vocabulary of possible actions and from the broad parameters set by this theatrical tradition. Some of the lassi can contribute to the plot development, but many of them are simple restagings of the basic oppositions (the knave tricks the master or gets beaten). These performance or spectacle-centered genres often display a pleasure in process - in the experiences along the road - that can overwhelm any strong sense of goal or resolution, while exposition can be experienced as an unwelcome interruption to the pleasure of performance. Game designers struggle with this same balancing act - trying to determine how much plot will create a compelling framework and how much freedom players can enjoy at a local level without totally derailing the larger narrative trajectory. As inexperienced storytellers, they often fall back on rather mechanical exposition through cut scenes, much as early film makers were sometimes overly reliant on intertitles rather than learning the skills of visual storytelling. Yet, as with any other aesthetic tradition, game designers are apt to develop craft through a process of experimentation and refinement of basic narrative devices, becoming better at shaping narrative experiences without unduly constraining the space for improvisation within the game.

 

  埋め込まれた物語

 EMBEDDED NARRATIVES

 シア・フォルマリズムの批評家は、プロット(ないしシュジェート)――クリステン・トンプソン言うところの「すべての因果関係が、その映画じしんが視聴覚情報として提示するとおりに構造化されたセット」――と、ストーリー(ないしファーブラ)――鑑賞者が心のなかで構築する、時系列順のできごと――とを有用に区別しています。(22)

 極端なまでに一本道(リニア)な映画・小説はほんのわずかしかありません;大多数の映画・小説では、物語上の行動を進めるにつれて徐々に明らかになる類いのバックストーリーが活用されています。

 この原理の古典的実例として探偵物語が挙げられましょう。探偵モノは二つのストーリーを語ります――ひとつは多かれ少なかれ時系列順の物語(調査それ自体の物語)と、もうひとつは、徹底的に順序がめちゃくちゃな物語(殺人につながるできごとや動機となるできごと)とを。

 この図式にしたがえば、物語理解とは受け手による活動的なプロセスということになります。テクストのなかの手がかりや糸口から抜き出した情報に基づいて、ありえそうな物語展開を受け手が整理し仮説をたてるということですね。(23)

 フィルムを回していくにつれ鑑賞者は、物語空間(ストーリー・スペース)や物語上の行動(ナラティブ・イベント)の心理地図を試したり立て直したりします。

 ゲームの場合プレイヤーは、こうした心理地図にもとづいて行動し、そしてゲーム世界自体に対して文字どおりテストすることを余儀なくされます。この扉のさきに悪者が潜んでいるかどうかについてプレイヤーが誤った場合はすぐわかります――たぶんやっつけられたり、ゲームオーバー画面が始まったりすることにより。

 あまたのゲームの序盤でなされる鈍重な説明は、ゲーム世界へ初めて入ったプレイヤーが愚かで取り返しのつかないミスをやらかさないための大前提になじむための便利な機能をはたします。

 いくつかのゲームは稽古場(リハーサル・スペース)を設けていて、そこでプレイヤーは物語空間をのりきっていく試練と直面するまえに自分たちのキャラクターがどれだけ動けるのかたしかめられるようになっています。

 この見解から読むと、ストーリーは情報本体ほどには時間的な構造物ではありません。

 本や映画の作家は、特定の情報にかんする断片をどんな場合のどんな時点で観客/読者が受け取るかまで高度にコントロールできますが、ゲームデザイナーがいくらかコントロールできるのは、情報をゲーム空間のどこへ分布させるかとそれによる物語の過程(ナレーショナル・プロセス)です。

 ゲームという、解法が開かれていて(open-ended)探索的な物語構造においては、かならずしもプレイヤーがとある要素のもたらす重要性を認識したり突き止めたりしてくれるなんて想定できないので、重要な物語情報を空間やアーティファクトにわたって幅広く冗長性をもたせて存在させなければなりません。

 ゲームデザイナーは、プレイヤーを促したり物語的に目立った空間にむかって舵を切らせたりするためのさまざまな即席組立(クラッジ)を開発していきました。

 こうした冗長性を組み込む手法は、一定数の視聴者が放送エピソードを見逃してしまうだろうものと想定しているテレビのソープオペラや、3つの示唆(suggests)を用意することで重要なプロットポイントに少なくとも三通りの方法で伝達しなければならない古典的なハリウッドの物語作法と依然として変わりません。

 Russian formalist critics make a useful distinction between plot (or Syuzhet) which refers to, in Kristen Thompson's terms, "the structured set of all causal events as we see and hear them presented in the film itself," and story (or fabula), which refers to the viewer's mental construction of the chronology of those events.(22) Few films or novels are absolutely linear; most make use of some forms of back story which is revealed gradually as we move through the narrative action. The detective story is the classic illustration of this principle, telling two stories - one more or less chronological ( the story of the investigation itself) and the other told radically out of sequence (the events motivating and leading up to the murder). According to this model, narrative comprehension is an active process by which viewers assemble and make hypothesis about likely narrative developments on the basis of information drawn from textual cues and clues.(23) As they move through the film, spectators test and reformulate their mental maps of the narrative action and the story space. In games, players are forced to act upon those mental maps, to literally test them against the game world itself. If you are wrong about whether the bad guys lurk behind the next door, you will find out soon enough - perhaps by being blown away and having to start the game over. The heavy-handed exposition that opens many games serves a useful function in orienting spectators to the core premises so that they are less likely to make stupid and costly errors as they first enter into the game world. Some games create a space for rehearsal, as well, so that we can make sure we understand our character's potential moves before we come up against the challenges of navigating narrational space. Read in this light, a story is less a temporal structure than a body of information. The author of a film or a book has a high degree of control over when and if we receive specific bits of information, but a game designer can somewhat control the narrational process by distributing the information across the game space.  Within an open-ended and exploratory narrative structure like a game, essential narrative information must be redundantly presented across a range of spaces and artifacts, since one can not assume the player will necessarily locate or recognize the significance of any given element. Game designers have developed a variety of kludges which allow them to prompt players or steer them towards narratively salient spaces. Yet, this is no different from the ways that redundancy is built into a television soap opera, where the assumption is that a certain number of viewers are apt to miss any given episode, or even in classical Hollywood narrative, where the law of three suggests that any essential plot point needs to be communicated in at least three ways.

 

 偵モノとの例示をつづけましょう。ゲームデザイナーは二種の物語を展開できると想像できます――ひとつは比較的に構造化されてなくてプレイヤーのコントロール下にあり、プレイヤーがゲーム空間を探検し秘密を解き明かしていく物語;もうひとつは、あらかじめ構築されているがしかしミザンセーヌ(=直訳すると「舞台に置かれたもの」。衣装や小道具やセット・照明・演出など)に埋め込まれていて、発見されることを待っている物語。後者のゲーム世界は一種の情報空間になります。記憶の宮殿*32ですね。

 『ミスト』はこうした埋め込み型の物語(embedded narrative)の大成功例ですが、しかしこの型の物語だからといって現在時制の(comtenporary)物語的活動の余地を無にしたゲームである必要はないということは、『ハーフライフ』*33のようなゲームが示しています。

 埋め込み型物語はしばしば争いの場に生じます。物語を孕んだミザンセーヌを進むためには、敵対者と戦い乗り越えたり、迷路を通りぬけたり、鍵の開け方を思いついたりする必要があるかもしれません。

 上演型と埋め込み型両方の物語を混ぜ込んだ要素は、インタラクティブ(双方向の)柔軟性と予め準備された(pre-authored)台本による一貫性との間でバランスを取ることを可能にします。

 To continue with the detective example, then, one can imagine the game designer as developing two kinds of narratives - one relatively unstructured and controlled by the player as they explore the game space and unlock its secrets; the other pre-structured but embedded within the mise-en-scene awaiting discovery. The game world becomes a kind of information space, a memory palace. Myst is a highly successful example of this kind of embedded narrative, but embedded narrative does not necessarily require an emptying of the space of contemporary narrative activities, as a game like Half Life might suggest. Embedded narrative can and often does occur within contested spaces. We may have to battle our way past antagonists, navigate through mazes, or figure out how to pick locks in order to move through the narratively-impregnated mise-en-scene. Such a mixture of enacted and embedded narrative elements can allow for a balance between the flexibility of interactivity and the coherence of a pre-authored narrative.

 

 エイク』を例にしてイェスパー・ユールは、ゲームのなかでフラッシュバックは不可能だと主張します。なぜならゲームプレイはいつでもリアルタイムで生じているから、と(24) 。依然としてストーリーとプロットを混同している主張ですね。*34

 映画がつねに線形(リニア)じゃないのと同じように、ゲームも永遠に現在時制に固定されてはいません。多くのゲームには真相が明らかになる瞬間だとかあるいは過去の行動に光を当てるアーティファクトだとかが含まれています。

 ドン・カーソン曰く、ゲームデザインにおける技芸の一部は、没入感をそこねることなくそしてプレイヤーの首にむずがゆい感覚をあたえることないかたちで環境のなかに埋め込まれた物語情報を見つけ出す巧みな方法にあらわれます:

「段階わけされた領域は……過去のできごとにたいしてやあるいは一寸先にひそむ危険な可能性の示唆にたいしてゲームプレイヤーが自分で結論に至れるよう導くことが[できます]。

 数例を挙げると…壊れて開いたドア、まあたらしい爆発痕、衝突した乗り物、はるか高くから落とされたピアノ、炎で炭と化した廃墟」(25)

 プレイヤーは、カーソン曰く、かつて慣れ親しんだ空間へゲーム後半で戻ってきたさい、事後の{オフ・スクリーンの(画面に映らない)}できごとによって変えられてしまった部分について気づく可能性が高い。

 『クライブ・バーカーズ アンダイイング』*35なんてよい例で、この作法に忠実なバックストーリーが強力な感覚をつくりだしています。

 今作は超自然的な次元を呈した同胞間抗争の物語です。各キャラクターの空間を訪れるにつれて、プレイヤーはかつて人間であったけれど悪魔となってしまったかれらの感覚がわかっていきます。

 ピーター・モリニューによる『ブラック&ホワイト』では、プレイヤーの倫理的選択がゲームの風景に痕跡を残したりキャラクターの身体的外見を再設計したりします。ここで私たちはミザンセーヌに物語的影響(narrative consequences)を読み取るでしょう、ドリアン・グレイの肖像画からかれの放蕩を読み取るのと同じように。

 カーソンはこのような物語装置を「サクヌッセンム辿り」と名づけました。ジュール・ヴェルヌ地底旅行の主人公が、16世紀アイスランドの科学者/探検家のアルネ・サクヌッセンムが残したアーティファクトや手がかりを偶然見出しつづけることで、読者が「サクヌッセンムが迎えた運命について、主人公らはどんなことを学べるんだろう」と冒険者たちが意図された行く先へ近づいていくたび虜になっていく手法にちなんでいます。*36

 Using Quake as an example, Jesper Juuls argues that flashbacks are impossible within games, because the game play always occurs in real time.(24) Yet, this is to confuse story and plot. Games are no more locked into an eternal present than films are always linear. Many games contain moments of revelation or artifacts that shed light on past actions. Carson suggests that part of the art of game design comes in finding artful ways of embedding narrative information into the environment without destroying its immersiveness and without giving the player a sensation of being drug around by the neck: "Staged areas...[can] lead the game player to come to their own conclusions about a previous event or to suggest a potential danger just ahead. Some examples include...doors that have been broken open, traces of a recent explosion, a crashed vehicle, a piano dropped from a great height, charred remains of a fire."(25) Players, he argues, can return to a familiar space later in the game and discover it has been transformed by subsequent (off-screen) events. Clive Barker's The Undying, for example, creates a powerful sense of back story in precisely this manner. It is a story of sibling rivalry which has taken on supernatural dimensions. As we visit each character's space, we have a sense of the human they once were and the demon they have become. In Peter Muleneux's Black and White, the player's ethical choices within the game leave traces on the landscape or reconfigure the physical appearances of their characters. Here, we might read narrative consequences off mise-en-scene the same way we read Dorian Grey's debauchery off of his portrait. Carson describes such narrative devices as "following Saknussemm," referring to the ways that the protagonists of Jules Verne's Journey to The Center of the Earth, keep stumbling across clues and artifacts left behind by a sixteenth Century Icelandic scientist/explorer Arne Saknussemm, and readers become fascinated to see what they can learn about his ultimate fate as the travelers come closer to reaching their intended destination.

 

 ロドラマを研究すれば、ゲームのアーティファクトや空間に感情的なポテンシャルを包含させたり意味深長な物語情報を伝達させたりするためのより良い理解が得られるのではないでしょうか。メロドラマはしばしば服飾設計(コスチュームデザイン)美術監督(アート・ディレクション、照明選択をとおして内的状態を外部へ投射します。

 私たちが空間へ入るにつれ、とくに物語上の出来事によって空間が変化した場合、郷愁や喪失による力強い感情に圧倒されることでしょう。

 キャラクターが邸宅に帰ってきたらことごとくが荒れ果ててそして氷に包まれてしまっていたドクトル・ジバゴのあのひととき、スカーレット・オハラがじぶんたち家族の土地であった焼け焦げた廃墟を渡っていく風と共に去りぬの炎上後のアトランタが良い例ですね。

 アルフレッド・ヒッチコック監督レベッカは、題名となった人物が登場することはありませんが、けれど彼女は他のキャラクターへ強力な影響をおよぼします――とくに、レベッカの思い出の品がどこにでもある空間へ住まねばならなくなった二番目のド・ウィンター夫人へ強く。

 ヒッチコックは映画の主人公がレベッカの空間をさまようシーンをつくりました。閉ざされたドアを通り抜けるシーンを、壁にかかった圧倒的な肖像画が夫人をじっと見つめてくるシーンを、引き出しのなかのレベッカの持ち物にふれるシーンを、あるいはカーテンや毛皮の質感(テクスチャ)を感じるシーンを。夫人が家のどこへ行っても、レベッカの記憶から逃れることはできません。

 Game designers might study melodrama for a better understanding of how artifacts or spaces can contain affective potential or communicate significant narrative information. Melodrama depends on the external projection of internal states, often through costume design, art direction, or lighting choices. As we enter spaces, we may become overwhelmed with powerful feelings of loss or nostalgia, especially in those instances where the space has been transformed by narrative events. Consider, for example, the moment in Doctor Zhivago when the characters return to the mansion, now completely deserted and encased in ice, or when Scarlet O'Hara travels across the scorched remains of her family estate in Gone With the Wind following the burning of Atlanta. In Alfred Hitchcock's Rebecca, the title character never appears, but she exerts a powerful influence over the other characters - especially the second Mrs. DeWinter who must inhabit a space where every artifact recalls her predecessor. Hitchcock creates a number of scenes of his protagonist wandering through Rebecca's space, passing through locked doors, staring at her overwhelming portrait on the wall, touching her things in drawers, or feeling the texture of fabrics and curtains. No matter where she goes in the house, she can not escape Rebecca's memory.

 

 ール・ヤングの『Majestic』のようなゲームは、埋め込み型物語の観念を論理の極北まで推し進めます。今作では埋め込まれた物語はもはやコンソールのなかにとどまるものではなく、多様な情報チャンネルに渡って流れるものです。

 プレイヤーが行なうのは書類(ドキュメント)を分類し、暗号を解読し、要領を得ない通信から道理を得ることなど。これらの行動をつうじて、最初にゲームが物語的な焦点を合わせたとある陰謀にかんしてプレイヤーはより完璧な理解にむかって一歩一歩すすんでいきます。

 プレイヤーはウェブサイト間のリンクを追いかけます;ウェブキャストやFAX、電子メール、そして電話から情報を得ます。このようにして埋め込まれた物語は、分岐した物語構造を要求せず、むしろ線形(リニア)な物語をごちゃ混ぜにした断片に頼っていて、プレイヤーが看破や思索や探索そして解読することでプロットを再構築してくれるよう見込んでいます。

 当然のことながら埋め込み型物語の最たる例は目下、探偵モノか陰謀モノのかたちをとり、プレイヤーが手がかりの調査や空間の探索を積極的におこなう動機づけの助けとなります。そして、過去におこった物語を再構築しようと努力するための理論的根拠をあたえてもくれます。

 それでも私が例として挙げたようなメロドラマがさずけるのは、埋め込み型物語がはたらいてくれるための別種のモデルです。この、手紙や日記を読んでいくにつれ、キャラクター同士の関係に光を当てるだろう秘密をさがしもとめて寝室の引き出しやクローゼットの回りをうろうろ覗きまわる類のモデルは――今のところはまだ大部分が未調査です。

 A game like Neil Young's Majestic pushes this notion of embedded narrative to its logical extreme. Here, the embedded narrative is no longer contained within the console but rather flows across multiple information channels. The player's activity consists of sorting through documents, deciphering codes, making sense of garbled transmissions, moving step by step towards a fuller understanding of the conspiracy which is the game's primary narrative focus. We follow links between websites; we get information through webcasts, faxes, e-mails, and phonecalls. Such an embedded narrative doesn't require a branching story structure but rather depends on scrambling the pieces of a linear story and allowing us to reconstruct the plot through our acts of detection, speculation, exploration, and decryption. Not surprisingly, most embedded narratives, at present, take the form of detective or conspiracy stories, since these genres help to motivate the player's active examination of clues and exploration of spaces and provide a rationale for our efforts to reconstruct the narrative of past events. Yet, as my examples above suggest, melodrama provides another - and as yet largely unexplored - model for how an embedded story might work, as we read letters and diaries, snoop around in bedroom drawers and closets, in search of secrets which might shed light on the relationships between characters.

 

  創発する物語

 EMERGENT NARRATIVES

 ムズ』は、物語の可能性がいかにしてゲーム空間へマップされるかを示してくれる四つ目のモデルです。

 創発する物語(Emergent narratives)は事前に構築されたものでもなければ予めプログラムされたものでもありません。ゲームプレイをつうじて具体化されていくものですが、まだ人生そのものほどには未構築でもなければ無秩序でもなく、そしてフラストレーションのたまるものではありません。

 ゲーム世界は、究極的には、たとえシェンムーほど入り組んでいようとも『エバークエスト』のように地理的に広大であろうとも、現実世界ではありません。

 クリエイターのウィル・ライトはよく『シムズ』サンドボックスないしドールハウスゲームと言い表しますが、これはプレイヤーが自分でゴールを定めたり自分自身の物語をえがけたりすることのできる一種の執筆環境に『シムズ』がなっているためにそう連想されたと理解すべきでしょう。いやマイクロソフト『ワード』とちがって、ゲームは白紙から立ち上げるものではまだありませんけど。

 大多数のプレイヤーは『シムズ』に時間を捧げて、ある程度の物語上の満足を得て、離れていきます。

 ライトは物語の可能性が熟す世界を創造し、各デザイン決定を対人関係にロマンスないしコンフリクトの期待が高まるほうへ目を向けて行ないました。

 独自の「スキン」をデザインする機能により、プレイヤーは感情的に意義深いキャラクターを作ったり、友人や家族あるいは同僚関係のリハーサルをしたり、『シムズ』以外のフィクションの宇宙のキャラクターを好んでマップしてみたりするよう励みます。*37ウェブにプレイヤーが投稿した色とりどりのスクラップブックをパラパラめくると、相対的にオープンエンドな(解法の開かれた)構造を鋭敏に利用していることがわかります。*38

 いやいや、デザイナーの貢献を過小評価しないでください。キャラクターは独自の意思をもっていて、べつにプレイヤーのコントロールにいつも従っているわけではなく、たとえば主人公が気落ちして仕事探しをこばんだときは、お風呂に沈んだり、あるいはフロントポーチでふさぎ込んだりして小一時間つぶすことを選んだりします。

 キャラクターには欲望や衝動、ニーズがあたえられ、他者と対立する可能性もあって、なのでドラマチックで魅力的な出会いを生み出したりもします。たとえば愛するひとを亡くして嘆くなど、『シムズ』の環境のなかで起きたできごとにキャラクターは感情的に反応します。

 有り金を全部はたいてしまえばかれらの食べ物を買うお金がなくなってしまうのと同じように、わたしたちの選択は影響力をもちます。

 対話のさいのちんぷんかんぷんな言葉と明滅するシンボルはプレイヤーに独自の意味をマップさせ、特定の感情を表すのに依然として強力な声のトーンやボディランゲージは、なじみぶかいプロットシチュエーションの相互作用を理解するよう促します。

 たとえば同性間のキスはよいけれど、あきらかな性行為が起きる可能性は制限しようといった具合に、どんなアクションがこの世界で可能でどれが不可能かをデザイナーは決めたのです。(優秀なプログラマーはそんな制限を迂回できるようにするかもしれませんが、でも大多数のプレイヤーはプログラムの制限下で作業する可能性があります)

 The Sims represents a fourth model of how narrative possibilities might get mapped onto game space. Emergent narratives are not pre-structured or pre-programmed, taking shape through the game play, yet they are not as unstructured, chaotic, and frustrating as life itself. Game worlds, ultimately, are not real worlds, even those as densely developed as Shenmue or as geographically expansive as Everquest. Will Wright frequently describes The Sims as a sandbox or dollhouse game, suggesting that it should be understood as a kind of authoring environment within which players can define their own goals and write their own stories. Yet, unlike Microsoft Word, the game doesn't open on a blank screen. Most players come away from spending time with The Sims with some degree of narrative satisfaction. Wright has created a world ripe with narrative possibilities, where each design decision has been made with an eye towards increasing the prospects of interpersonal romance or conflict. The ability to design our own "skins" encourages players to create characters who are emotionally significant to them, to rehearse their own relationships with friends, family or coworkers or to map characters from other fictional universes onto The Sims. A quick look at the various scrapbooks players have posted on the web suggests that they have been quick to take advantage of its relatively open-ended structure. Yet, let's not underestimate the designers' contributions. The characters have a will of their own, not always submitting easily to the player's control, as when a depressed protagonist refuses to seek employment, preferring to spend hour upon hour soaking in their bath or moping on the front porch. Characters are given desires, urges, and needs, which can come into conflict with each other, and thus produce dramatically compelling encounters. Characters respond emotionally to events in their environment, as when characters mourn the loss of a loved one. Our choices have consequences, as when we spend all of our money and have nothing left to buy them food. The gibberish language and flashing symbols allow us to map our own meanings onto the conversations, yet the tone of voice and body language can powerfully express specific emotional states, which encourage us to understand those interactions within familiar plot situations. The designers have made choices about what kinds of actions are and are not possible in this world, such as allowing for same sex kisses, but limiting the degree of explicit sexual activity that can occur. (Good programers may be able to get around such restrictions, but most players probably work within the limitations of the program.)

 

 ジタル・ストーリーテリング―電脳空間におけるナラティヴの未来形デッキ上のハムレットでジャネット・マレーは、ライトはある種の手続き型作家として成功したと記述したかもしれません。(26)

 でもわたしが思うに、ライトの選択はもっと深いところへとすすんでいるんではないでしょうか。プログラミングを単純につうじてではなく、ゲーム空間のデザインをもまたつうじて働くような達成へと。

 たとえばちょうどドールハウスが現実の家庭の空間の乱雑から切りはなされた合理的な表現(ストリームラインド・レプレゼンテーション)を売りにするみたいに、『シムズ』の家はそれぞれが特定の機能をはたす少数のアーティファクトへ分解されます。

 ニュースペーパーなら仕事の情報をつたえる。ベッドがあればキャラクターは眠る。本棚があれば賢くなれる。ボトルは回転するためにあり、よってキスをいっぱいする動機となる。こうした選択が非常に読みやすい物語空間となる結果を生んでいます。

 ケヴィン・リンチは主著『都市のイメージ』で、都市設計者(アーバンデザイナー)は都市空間の物語的ポテンシャルへもっと敏感になる必要があると問題提起しました。「感覚に訴えやすいものとするために,計画的にわれわれの周囲の世界を操作する」ように都市計画を記述するのだと。*39(27)

 アーバンデザイナーはじしんが作った空間を人々がどのように利用するかについて、あるいはそこでどんなシーンが演じられるかについて、ゲームデザイナーほどにはコントロールすることに努めません。それでも説話的に忘れられなかったりあるいは意味のある体験となったりするよう、とりわけ適した空間はありますが。

 都市計画家(アーバンプランナー)は自分たちのつくる空間の使い道や意図を予め隅々まで決めてしまおうなんて企むべきではないとリンチは提案します:「岩という岩がみな物語を伝えてくるような風景(ランドスケープから、新鮮な物語を創造するのは難しいかもしれない」*40(28)

 リンチが提案する都市デザインの美学はむしろ、「詩的で象徴的な」ポテンシャルを空間に授けることです:「そんな場所の感覚じたいが、そこへやってきた誰しもの行動を元気づけ、より多くの思い出の轍を堆積させる」*41(29)

 リンチの本からゲームデザイナーが学べることはたくさんあるでしょう、プレイヤー起点に生成される物語を支えるゲームプラットホームの製作へ移ったさいなんて特に良いのではないでしょうか。

 Janet Murray's Hamlet on the Holodeck might describe some of what Wright accomplishes here as procedural authorship.(26) Yet, I would argue that his choices go deeper than this, working not simply through the programming, but also through the design of the game space. For example, just as a doll house offers a streamlined representation which cuts out much of the clutter of an actual domestic space, The Sims' houses are stripped down to only a small number of artifacts, each of which perform specific kinds of narrative functions. Newspapers, for example, communicate job information. Characters sleep in beds. Bookcases can make your smarter. Bottles are for spinning and thus motivating lots of kissing. Such choices result in a highly legible narrative space. In his classic study, The Image of The City, Kevin Lynch made the case that urban designers needed to be more sensitive to the narrative potentials of city spaces, describing city planning as "the deliberate manipulation of the world for sensuous ends."(27) Urban designers exert even less control than game designers over how people use the spaces they create or what kinds of scenes they stage there. Yet, some kinds of space lend themselves more readily to narratively memorable or emotionally meaningful experiences than others. Lynch suggested that urban planners should not attempt to totally predetermine the uses and meanings of the spaces they create:"a landscape whose every rock tells a story may make difficult the creation of fresh stories"(28) Rather, he proposes an aesthetic of urban design which endows each space with "poetic and symbolic" potential: "Such a sense of place in itself enhances every human activity that occurs there, and encourages the deposit of a memory trace."(29) Game designers would do well to study Lynch's book, especially as they move into the production of game platforms which support player-generated narratives.

 

 上のそれぞれのケースにおいて、ゲーム空間の組織化や設計(デザイン)にかんする選択は、物語論的な影響をおよぼします。

 喚起型の物語の場合であれば、空間設計はプレイヤーに馴染み深い世界での没入感かあるいは確立されたディテールの変容をつうじた物語による新鮮な視点の伝達かどちらか一方を高めます。

 上演型の物語の場合であれば、物語それ自体がキャラクターの動き回る空間に構築されるかもしれず、そしてその環境の特徴はプロットの筋道を遅滞させたり加速させたりするかもしれません。

 埋め込み型の物語の場合であれば、ゲーム空間はプレイヤーがプロットを再構成しようと試みるほど解読しなければならない記憶の宮殿となり。

 そして創発型の物語の場合であれば、プレイヤーによる物語構築活動が容易に行なえる物語的ポテンシャル豊かなところとしてゲーム空間はデザインされます。

 どんなケースにおいても、ゲームデザイナーはストーリーテラーではなく物語による建築家(ナラティブ・アーキテクト)として考えた方が理に適っているでしょう。

 In each of these cases, choices about the design and organization of game spaces have narratological consequences. In the case of evoked narratives, spatial design can either enhance our sense of immersion within a familiar world or communicate a fresh perspective on that story through the altering of established details. In the case of enacted narratives, the story itself may be structured around the character's movement through space and the features of the environment may retard or accelerate that plot trajectory. In the case of embedded narratives, the game space becomes a memory palace whose contents must be deciphered as the player tries to reconstruct the plot and in the case of emergent narratives, game spaces are designed to be rich with narrative potential, enabling the story-constructing activity of players. In each case, it makes sense to think of game designers less as storytellers than as narrative architects.

 

  原注

(1)ルドロジーという用語は、新たな研究分野の出現の提唱者エスペン・オーセット*42による造語です。既存の学問(ディシプリンやほかのメディアの関心事の枠にはめるのではなくむしろ、ゲームとゲームプレイ研究にフォーカスした学問がオーセットの唱えるルドロジーなのです。*43

 (1)The term, Ludology, was coined by Espen Aardseth, who advocates the emergence of a new field of study, specifically focused on the study of games and game play, rather than framed through the concerns of pre-existing disciplines or other media.
(2) Ernest Adams, "Three Problems For Interactive Storytellers," Gamasutra,  ※インフォーマ社のサイト『Game Developer』にて無料で公開中のようです。
(3) Greg Costikyan, "Where Stories End and Games Begin," Game Developer, September 2000, pp. 44-53. ※本人サイトで無料で公開中のようです。
(4) Jesper Juul, "A Clash Between Games and Narrative," paper presented at the Digital Arts and Culture Conference, Bergen, November 1998, http://www.jesperjuul.dk/text/DA%20Paper%201998.html. For a more recent formulation of this same argument, see Jesper Juul, "Games Telling Stories?", Game Studies, http://cmc.uib.no/gamestudies/0101/juul-gts

前者は本人サイトで後者は『Game Studies』で無料で公開中。
(5) Markku Eskelinen, "The Gaming Situation," Game Studies, htttp:cmc.uib.no/gamestudies/0101/eskelinen

(6)前掲『The Gaming Situation』エスケリネンは、ジャネット・マレーが自著『デジタル・ストーリーテリング―電脳空間におけるナラティヴの未来形』テトリスにたいしておこなった物語分析を取り上げます。

「無理な仕事をしていた1990年代アメリカ人の生活の完璧な実演――注意を要する、そして過密スケジュールに何とかして適応しなければならない、さらには次の猛襲のための余地を空けるべくデスクを片づける、絶え間ない爆撃じみたタスクに見舞われたあの時代の」

 このマレーによるテトリス要約について、物語的解釈に逆らうかのようだと書いたエスケリネンは正しいですが、しかしこれはべつに「意味深長な分析をゲームに対してなんら行なえない」とか「こうした分析は現代文化に適さない」と主張するものではありません。

 テトリスは、まさにモダンダンスがそうであるように、もしかするとストーリーを介することなくモダンライフの熱狂的ペースをうまく表現した作品かも知れません。

 (6) Eskelinen, op cit., takes Janet Murray, Hamlet on the Holodeck: The Future of Narrative in Cyberspace (Cambridge: MIT Press, 1997) to task for her narrative analysis of Tetris as "a perfect enactment of the over tasked lives of Americans in the 1990s - of the constant bombardment of tasks that demand our attention and that we must somehow fit into our overcrowded schedules and clear off our desks in order to make room for the next onslaught." Eskelinen is correct to note that the abstraction of Tetris would seem to defy narrative interpretation, but that is not the same thing as insisting that no meaningful analysis can be made of the game and its fit within contemporary culture. Tetris might well express something of the frenzied pace of modern life, just as modern dances might, without being a story.

(7)

 物語とは、事実を因果関係の提示する時系列順にならべた集積だ。

   クリス・クロフォード『クロフォードのゲームデザイン論』NPO法人国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)により邦訳版がウェブで無料公開中。ただし上記引用文はzzz_zzzzの私訳です(「第一章 ゲームとは何か」ゲームと物語の違い から引かれた文章だと思われる)}

 物語はゲームとは正反対だ。ストーリーを語る一番の方法はリニアな形式だ。ゲームをつくる一番の方法はプレイヤーが自由に行動できる構造を与えることだ。

   グレッグ・コスティキャン前掲『Where Stories End and Games Begin』

 (7) "A story is a collection of facts in a time sequenced order that suggests a cause and effect relationship." Chris Crawford, The Art of Computer Game Design, chapter one, http://members.nbci.com/kalid/art/art.html . "The story is the antithesis of game. The best way to tell a story is in linear form. The best way to create a game is to provide a structure within which the player has freedom of action." Costikyan, op cit.
(8)

読者が作者へ降参することと同義であるときがストーリーテリング――ナラティブ――のいちばん恵まれた形式だ。作者が読者の手を取りそして作者の想像する世界へ引っ張っていく。読者は演じる役割をもちますが、かなり受身な役割です:気を配ったり、理解したり、もしかして考えたり……けれど行動はしない。

   アーネスト・アダムス前掲『Three Problems For Interactive Storytellers』

 (8)"In its richest form, storytelling - narrative - means the reader's surrender to the author. The author takes the reader by the hand and leads him into the world of his imagination. The reader has a role to play, but it's a fairly passive role: to pay attention, to understand, perhaps to think...but not to act." Adams, op. cit.
(9) 私もどこかで書いたように、これらのマップは特有の形式を取ります――客観的かつ抽象的なトップダウンビュー(見おろし視点)ではありません。空間を旅していれば出くわすだろうような、ゲーム世界を代表するスクリーンショットを複合(コンポジット)した形式です。

 (9)As I have noted elsewhere, these maps take a distinctive form - not objective or abstract top-down views but composites of screenshots which represent the game world as we will encounter it in our travels through its space. Game space never exists in abstract, but always experientially.
(10) Henry Jenkins and Mary Fuller, "Nintendo and New World Narrative," in Steve Jones (ed.) ※スタンフォード大ウェブサイトで無料公開中。

(11)空間的物語にかんする私の考えはミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』アンリ・ルフェーヴル『空間の生産』に強い影響をうけています。

 (11) My concept of spatial stories is strongly influenced by Michel de Certeau, The Practice of Everyday Life (Berkeley: University of California Press, 1988) and Henri LeFebvre, The Production of Space (London: Blackwell, 1991).
(12) Don Carson, "Environmental Storytelling: Creating Immersive 3D Worlds Using Lessons Learned From the Theme Park Industry," Gamasutra.com, http://www.gamasutra.com/features/20000301/carson_pfv.htm

(上述はリンク切れしていますが2021年10月現在、同記事はインフォーマ社のサイト『Game Developer』に場を移しており、そちらで今でも読書可能です)

(13) Juul, op. cit.
(14) Costikyan, . For a fuller discussion of the norms of classically constructed narrative, see David Bordwell, Janet Staiger, and Kristen Thompson, The Classical Hollywood Cinema (New York: Columbia University Press, 1985).
(15) Adams, op. cit.
(16) Troy Dunniway, "Using the Hero's Journey in Games," Gamasutra.com, http://www.gamasutra.com/features/20001127/dunniway_pfv.htm.
(17) Fuller and Jenkins, op. cit.
(18) Adams, op. cit.
(19) For useful discussion of this issue in film theory, see Donald Crafton, "Pie and Chase: Gag, Spectacle and Narrative in Slapstick Comedy," in Kristine Brunovska Karnick and Henry Jenkins (Eds.) Classical Hollywood Comedy (New York: Routledge/American Film Institute, 1995); Henry Jenkins, What Made Pistachio Nuts?: Early Sound Comedy and The Vaudeville Aesthetic (New York: Columbia University Press, 1991); Rick Altman, The American Film Musical (Bloomington: Indiana University Press, 1999); Tom Gunning, "The Cinema of Attractions: Early Film, Its Spectator and the Avant Gare" in Thomas Elsaesser with Adam Barker (Eds.), Early Cinema: Space, Frame, Narrative (London: British Film Institute, 1990); Linda Williams, Hard Core: Power, Pleasure and 'The Frenzy of the Visible' (Berkeley: University of California Press, 1999).
(20)

ノンストップアクションだけのゲームはしばらくの間こそ楽しいですが、退屈になることがよくあります。これは陰謀やサスペンス、ドラマに欠けるからです。

 一体どれだけのアクション映画のヒーローが銃を撃って数秒と経たずに走っていますか? こんな映画はだれも見る気が起きません。

 ゲームをプレイすることは少し違いますが、ノンストップアクションの後に脳が刺激を受けすぎてしまっているのは事実です。

   トロイ・ダニウェイ『Using the Hero's Journey in Games』

 (20)"Games that just have nonstop action are fun for a while but often get boring. This is because of the lack of intrigue, suspense, and drama. How many action movies have you seen where the hero of the story shoots his gun every few seconds and is always on the run? People loose interest watching this kind of movie. Playing a game is a bit different, but the fact is the brain becomes over stimulated after too much nonstop action." Dunniway, op. cit.
(21) See, for example, John Rudlin, Commedia Dell'Arte: An Actor's Handbook (New York: Routledge, 1994) for a detailed inventory of the masks and lassi of this tradition.
(22) Kristen Thompson, Breaking the Glass Armor: Neoformalist Film Analysis (Princeton: Princeton University Press, 1988), pp.39-40.
(23) See, for example, David Bordwell, Narration in the Fiction Film (Madison: University of Wisconsin, 1989) and Edward Branigan, Narrative Comprehension and Film (New York: Routledge, 1992).
(24) Juul, op cit.
(25) Carson, op. cit.
(26) "..." Murray, p. .
(27) Kevin Lynch, The Image of the City (Cambridge: MIT Press, 1960), p 116.
(28) Ibid, p. 6.
(29) Ibid, p 119.

 

 

 ドン・カーソン著『環境ストーリーテリング:遊園地産業から学ぶ没入型3D世界の創造(Environmental Storytelling: Creating Immersive 3D Worlds Using Lessons Learned from the Theme Park Industry)』

 

 15年のあいだ多くのテーマパークやコンピューターゲーム、そしてソフトウェア会社でデザイナーとして働いてきました。プロジェクトを引き受けるたびに、わたしは同じ試練に直面します。

「どうすれば観衆をわたしの想像した世界へ引き込め、そこへ住んでいたいと思わせられるんだろう?」

 100万ドルのディズニーの乗り物であれ3Dシューティングゲームであれもしくは子供向けエンタメ作品であれ、わたしの目標は、現実ないし想像の物理的空間を旅して回る体験をつうじて物語(ストーリー)を語ることです。

 リニアな映画とちがって、わたしが相手にするメディアの観衆は旅の途中で選択肢があります。観衆は、物理的世界にかんする日々の認識およびわたしの創ったバーチャル世界との関係に基づいて決断をする必要があるでしょう。なによりも重要なのは、この体験が「空間的」なものとなりそうなこと。

 For the past 15 years I have worked as a designer for many theme park, computer gaming, and software companies. In every project I undertake, I am faced with the same challenge, "How do I draw my audience into my imagined world and make them want to stay?" Whether it's a 100 million dollar Disney ride, a 3D shooter, or a kid's entertainment title, it is my objective to tell a story through the experience of traveling through a real, or imagined physical space. Unlike a linear movie, my audience will have choices along their journey. They will have to make decisions based on their relationship to the virtual world I have created, as well as their everyday knowledge of the physical world. Most important of all, their experience is going to be a "spatial" one.

 ンピュータゲームをプレイしたり遊園地のアトラクションへ訪れたときに私がいだく欲望をまとめると以下のようなものとなるでしょう:

 こんな場所に連れてってほしい:

  • 絶対いけないどこかへ行かせてくれる場へ
  • 絶対なれないだれかにならせてくれる場へ
  • 絶対できないことをやらせてくれる場へ!

If I have an all encompassing desire for any computer game I play or themed attraction I visit, it is this:

Take me to a place that:

  • Lets me go somewhere I could never go.
  • Lets me be someone I could never be.
  • Lets me do things I could never do!

 

  3Dゲームの進化

   The Evolution of 3D Gaming

 10年間にわたって*44わたしたちは3Dゲーム宇宙の進化の目撃者となりました。

 ウルフェンシュタイン』『ドゥーム』そして『クエイク3 アリーナ』のようなゲームをプレイすれば、ますます劇的(ドラマチック)で現実的(リアリスティック)になったコンピュータ画面上の世界を訪れて冒険できます。

 サイアンワールズによるMYSTRivenにみられるような劇場的な環境をリアルタイムで歩き回るという概念は、それほど不自然ではありません。テクノロジーの驚異的な飛躍にもかかわらず、依然としてゲームプレイは比較的に変わらないままです。

 わたしたちはいつか魅力的で精巧で劇的に照らし出された大聖堂を輸入できるかもしれませんが、私たちはいまだ単純にお互いを殺し合っているのが実際です。

 いやいやご理解ください、わたしは3Dシューティングゲームになにも反対していません。ロケットランチャーをこの手に握って費やしてきた時間は数知れず、低Pingレートの栄光だって存じております。このことは、バーチャルな建築物の美しい部分を称賛することをあえてためらったためにわたしが木っ端みじんになる機会をたくさん生んでしまった事実を変えはしませんけど。

 Within the past decade we have been witness to the evolution of the 3D gaming universe. In games such as Wolfenstien, Doom, and now Quake 3 Arena, we can visit and explore worlds on our computer screens that are increasingly dramatic and realistic. The notion of walking through theatrical environments like those found in Cyan's Myst and Riven, real time, are not that far fetched. Yet, despite our staggering leaps in technology, the game play remains relatively unchanged. We may be transported into ever engrossing and elaborate theatrically lighted cathedrals, but the fact is, we are still simply killing each other. Please understand, I have nothing against 3D shooters. I have spent countless hours with a rocket launcher in my hands and know the glories of a low Ping rate. This doesn't change the fact that on many occasions I have been blown to bits because I dared hesitate to admire a beautiful piece of virtual architecture.

 

「『クエイク3 アリーナ』は3Dテクノロジーの自然がより劇的で現実的になっていることの証明となります」とのキャプションとゲーム画面画像)

 Quake 3 Arena demonstrates the increasingly dramatic and realistic nature of 3D technology

 

 うした技術的奇跡にもかかわらず、これらの世界を体験する観衆は比較的すくないです*45。流血と騒乱が全盛を誇り*46、大勢のコンピューターに精通した電脳剣闘士(サイバーグラディエーターがどんどん時代遅れになるPCの腸内の3Dアクセラレータカードと格闘(レッスル)しなければなりません。しかし時代は変わりつつあり、未開拓市場が発達するかどうかの瀬戸際に私たちは立っているように思えます。3Dアクセラレータの組み込まれたパソコンが市場へ到来するとともに、平均的米国人男性(ユア・エブリデイ・ジョー)はデスクトップ上のますます写実的な世界へ訪れる力を得るようになる可能性は十分あるでしょう。

 Despite these technological miracles, the audience that experiences these worlds are relatively small. Bloodshed and mayhem rein supreme, with many a computer savvy cyber gladiator having to wrestle a 3D accelerator card into the guts of their increasingly obsolete PC. But, times are changing, and it seems that we are on the brink of an untapped market potential. With more PC's coming onto the market with 3D accelerators built in, it is quite possible that your everyday Joe will have the power to visit increasingly realistic worlds from their desktop.

 

  遊園地とバーチャル世界

   Theme Parks and the Virtual World

 90年代なかばまで、コンピュータゲームの世界でのわたしの経験と関心はわずかなものでした。MYST『ドゥーム』のようなゲームが発売されて初めて、わたしは職場の遊園地(テーマパーク)と卓上のコンピュータ世界とに架け橋をかけられる十分な可能性を見ます。

 コンピュータのプロとして経験を積むにつれ、この二つの世界は遠く離れたものではないという確信を持つようになりました。

 観衆の人口統計こそすこし異なるのは事実のようですが、しかし両デザイナーはなにかと同じ試練に直面します:どうすればわたしたちが作り上げた世界に人々を連れてこられるだろう、そして楽しみ没頭させたままでいてもらうことができるだろう?

 オンラインゲームとマルチプレイの人気が増していってる現在、コンピュータ環境は今まで保留にしていた物理的な世界の領域を踏み荒らしはじめています。

 何千人もの人びとがまったく知らない他人とバーチャル世界でつながり関係をもつ理由の一つは……すなわち、体験を「共有(シェア)」する魅惑にあります。この新世界で人と人とのつながりを作ったり、こんなことを言うチャンスにあります――

「やあ! あれを見たかい!?」

 Prior to the mid-1990's, my experience and interest in the computer gaming world was marginal. Not until the release of games like Myst and Doom did I fully see a potential bridge between the theme park world I was working in and the world of the computer on my desktop. As my professional computer experience has grown, so has my belief that the two worlds are not that far apart. True, their audience demographics may be slightly different, but in many ways they face the same challenge: How to bring people into their created worlds and keep them immersed and entertained. Now with the growing popularity of multiplayer and internet games, computer environments are treading on a realm, until now, reserved for the physical world. Many thousands of people are connecting and participating in these virtual worlds with total strangers for one reason.... namely, the allure of the "shared" experience. A chance to make a human connection in these new worlds and to be able to say, "HEY! Did you see THAT!?"

 

「エンターテイメントをテーマにした環境を設計(デザイン)するさいの背後にある企業秘密は、ゲストが徒歩や乗り物でとおりぬける物理的空間に物語要素が注入されることにあります」とのキャプションと、ディズニーランドの一建物の写真。

 写真には、ふつうに読めば「落下の危険がないゾーン」とでも訳すべきだろう黄色い看板「FALLING SAFE ZONE」、これを提げた街灯が前景にある。街灯はよく見てみるとその頭を少し傾げており、足もとの石畳は割れて巨大な立方体が転がっている。立方体の一面を見るとダイヤル付のドアがあり、つまり金庫(セーフ)であることがわかる。巨大な金庫箱は縄でくくられていて、縛った先は千切れている。近くに目を向ければ、正面の壁に「金庫会社(SAFE COMPANY)」と記された家があり、その切り妻には梁が一本そとに突き出ており、梁につけられた滑車と縄は二階の窓へつづいている――

 ――ようするにこの写真は、"落下の危険がないゾーン"ではなく、文字どおり、"金庫が落ちてくる区域"(FALLING SAFE ZONE)の写真なのだ

 One of the trade secrets behind the design of entertaining themed environments is that the story element is infused into the physical space a guest walks or rides through.

 

 のため、一見ことなる産業間で共有すべき知識はたくさんありあます。遊園地(アミューズメント・パーク)は150年以上もの間ひとびとを楽しませてきました。過去50年間ディズニーランドのような遊園地(テーマパーク)は、人びとを空間的に楽しませる技芸(アート)を新しい高みまでみがいてきました。もはや乗り物による短絡的なスリルに生きるのではなく、現在の来園者(ゲスト)は物語に完全に没頭しており、そこで主役を演じています。遊園地デザイナーは(経験則で)機能することがわかっている企み(トリック)や企業秘密を長年にわたって開発してきました。

 Because of this, there is a lot of knowledge that should be shared between these two seemingly different industries. Amusement parks have been entertaining people for over a 150 years. In the past 50 years theme parks like Disneyland, have taken the art of spatially entertaining people to new heights. No longer are rides simply a short lived thrill, now guests are fully immersed in stories, where they play the main character. Over the years these designers have developed tricks and trade secrets that (from experience) they know will work.

 

  環境ストーリーテリング

  Environmental Storytelling 

 ンターテイメントをテーマにした環境を設計(デザイン)するさいの背後にある企業秘密は、ゲストが徒歩や乗り物でとおりぬける物理的空間(フィジカルスペース)に物語要素(ストーリーエレメント)が注入されることにあります。多くの点で、デザイナーが伝えようとする物語を運んでくるのに大きな働きをしてくれるのは物理的な空間です。色彩、照明、そしてその場の質感(テクスチャー)さえもが観衆を興奮や恐怖で満たすことができるんです。

 れの多くは、物理的世界で観衆じしんが経験したことに基づいた期待を操作することによって行われます。その世界にかんする知識と、映画や本から集めたヴィジョンだけで武装した観客は、そのデザインされた冒険へ立ち寄る準備ができているんです。

 こうした企み(トリック)がゲストの記憶と期待に訴えかけてくる。デザイナーの創造した宇宙を冒して進んだスリルによって高められた感情です。

 One of the trade secrets behind the design of entertaining themed environments is that the story element is infused into the physical space a guest walks or rides through. In many respects, it is the physical space that does much of the work of conveying the story the designers are trying to tell. Color, lighting and even the texture of a place can fill an audience with excitement or dread.

 Much of this is done by manipulating an audience's expectations, which they have based on their own experiences of the physical world. Armed only with their own knowledge of the world, and those visions collected from movies and books, the audience is ripe to be dropped into your adventure. The trick is to play on those memories and expectations to heighten the thrill of venturing into your created universe.

 

  物語の重要性

   The Importance of Story

 密のひとつめは「物語(ストーリー)」です。

 ここでいう物語とは、線形(リニア)な「昔々あるところに」形式の物語ではありません。創造される世界の「全体像(ビッグピクチャー)」を包括したものをについてわたしは言っています。一式のルールは、デザインとプロジェクトチームの共通目標(コモン・ゴール)のガイドとなるでしょう。創造する世界から継ぎ目がなくなるよう保険を掛ける第一歩です。

 たとえば「海賊」をもとにゲームかアトラクションを作るとして、デザイナーは観衆の期待をバイオリンのように奏でる必要がでてきます。

 海賊であればするにちがいないと観客に期待されることすべてを満たすことによって彼らをもてなしてあげたいですよね。使えるすべての質感(テクスチャ)や、鳴らせるすべての音、道中のすべての変化(ターン)は、海賊というコンセプトを補強すべきです!

 もしデザインの初期段階で十分に強力な「ストーリー」を首尾よく打ち立てた場合、製作チームの集中を維持し続けるのにほとんど問題はありません。もしデザイナーがルールをなにか破った場合、たいてい製作チームはこう主張します。

「そこに置くなんてとんでもない、ぜんぜん"海賊らしさ"がないですよ!」

 とたび物語をつくったりあるいはその宇宙が拠って立つルールを想像したりしたなら、デザイナーは絶対にそれを破ってはいけませんよ! ルールの包容力は大きくなり得ますが、でももしそれが破られてしまったら「だまされた」と観客は感じることでしょう。

 矛盾に頬をひっぱたかれたゲストは、その世界へ踏み入れた当初夢中になったほどにはもう二度と心をゆるしてくれないでしょう。

 The first secret is "story." When I say story I am not talking about a linear "once upon a time" type story. I am talking about an all encompassing notion, a "big picture" idea of the world that is being creating. A set of rules that will guide, the design and the project team to a common goal. It is this first step that will insure the created world will be seamless. If you are creating a game or attraction based on, let's say "pirates", you'll need to play your audiences expectation like a violin. You want to pamper them by fulfilling every possible expectation of what it must be like to be a pirate. Every texture you use, every sound you play, every turn in the road should reinforce the concept of "pirates!" If you successfully establish a strong enough "story" early on in your design process, you will have little trouble keeping your team focused. If you break any of the rules, more often than not your team will argue, "we can't put that in there, that's not at all 'piratey'!"

 Most important of all is once you have created this story, or the rules by which your imagined universe exists, you do not break them! These rules can be broad, but if they are broken your visitors will feel cheated. They will be slapped in the face with the contradiction and never again allow themselves to be as lost in your world as they may have been at the onset.

 

  「どこにいるんだ?」

   "Where Am I?"

 ザイナーが「物語」を語っていくうえで2番目に重要なタスクは、観衆が最初にいだく疑問へ答えることです。すなわち……

「どこにいるんだ!?」

 たとえどれだけ巧くデザインされた環境であろうと、観衆がこの疑問にたいする答えをえられず15秒過ぎてしまったら、その時点でもう失敗なんです。

「おぉ、暗い倉庫の中なんだな」

「あぁ、船倉にいるんだな」

 といったシンプルな答えでかまいません。どんな場所であろうとデザイナーの最初の仕事は、観衆が上の疑問に自分じしんでこたえられる機会を提供することです。

 に答えなければならない疑問は、

「こことの関係ってなに?」

 たとえどれだけ見事な中世のお城や、放棄された宇宙ステーションを作ろうとも、観衆がその場所での自分たちの役割を理解できなかったら、その世界へより深く引き込むすばらしい機会をデザイナーは逸してしまっているんです。

 長々としたCDのライナーノートや手間のかかった紹介映像である必要はありません。手がかりはデザインした環境のいたるところに残せます。

 あなたは自分がだれだかわからなくても、あなたは最初にいる場を基に考えはじめることができるはずです。

 Valve社のハーフライフの称賛に値する仕事は、プレイ中に生じるプレイヤーの自己同一性(セルフアイデンティティへの欲望を、周辺人物とのランダムな遭遇や物理的空間での経験をつうじることのみによってひとつの結論へ至らせていることです。

 ずから発見することは、オープニングクレジットでストーリーが詳細に説明されるよりはるかに愉快になりえるでしょう。

 デザイナーが物語要素(ストーリー・エレメンツ)を環境のいたるところへ置くことにより観衆をゲームプロットに設計された結論へ導く方法はたくさんあります。

 In the telling of your "story," the next most important task is to answer your audiences first question.... "Where am I?" No matter how well designed your environments are, if your audience can not answer this question in the first 15 seconds, you are already lost. This can be as simple as "Oh, I am in a dark warehouse." or "Ah, I am in the hold of a ship." Wherever it is, your first job is to present your audience with the opportunity to answer this question for themselves.

 Your next question to answer is "What is my relationship to this place?" No matter how gorgeous your medieval castle, or abandoned space station might be, if they can't figure out what their role is in this place, you have missed out on a marvelous opportunity to pull your audience deeper into your world. This need not be done with lengthy CD liner notes or costly Intro AVIs. Clues can be left throughout your environment. Although you may not know who you are, you should be able to begin to have a notion based on your initial location. Valve's Half Life does an award winning job of playing with the player's desire for self identity, but only lets them come to a conclusion through their experience of the physical space and random encounters with peripheral game characters.

 Self discovery can be even more enjoyable than having the story spelled out for you in the opening credits. There are lots of ways designers can place story elements throughout their environments to lead their audience to conclusions designed into the games plot.

 

  「原因と結果」をつうじたストーリーテリング

   Storytelling Through Cause and Effect

 ザイナーによる物語環境へ観衆を引き込むための最も成功したメソッドは、「原因と結果」ビネット(装飾・小品・挿話)を利用することです。

 過去のできごと(イベント)にたいしてやあるいは一寸先にひそむ危険な可能性の示唆にたいして、ゲームプレイヤーが自分で結論に至れるよう導く段階分けされた領域がこのビネットです。

 「原因と結果」要素(エレメント)を含んだ例をいくつか挙げれば、壊れて開いたドア、まあたらしい爆発痕、衝突した乗り物、はるか高くから落とされたピアノ、炎で炭と化した廃墟……などなど。

 こうした「原因と結果」によるストーリーテリングのかけらは、ゲームプレイヤーがどこにいて今後の経験で何を期待できそうかもっとよく理解する助けになれるでしょう。

 ただ「クール(かっこいい)」であるという理由だけでこのエレメントを置くのは、それが物語に沿った進行の助けとなる絶好の機会をのがします。

 One of the most successful methods for pulling your audience into your story environment is through the use of "cause and effect" vignettes. These are staged areas that lead the game player to come to their own conclusions about a previous event or to suggest a potential danger just up ahead. Some examples of "cause and effect" elements include, doors that have been broken open, traces of a recent explosion, a crashed vehicle, a piano dropped from a great height, charred remains of a fire... etc. These "cause and effect" bits of storytelling can help the game player better understand where they are and what they might expect to experience further on. Putting in an element just because it is "cool" misses a vital opportunity to use that element to help further your story along.

 

「『ハーフライフ』は、"原因と結果"要素がゲームプレイヤーのアクションの引き金となる優秀な例です」とのキャプションとゲーム画面画像。銃を構えた一人称視点のプレイヤーキャラクターの視界の先にふたりの人物がいる)

 Half Life is an excellent example of cause and effect elements triggered by actions of the game player.

 

 「因と結果」エレメントは、時の流れを描写するのにも有効です。

 ゲームのキャラクターは序盤に慣れ親しんだ場所へ、そこが完全に変貌していることに気づくためだけに戻ってくることがあります。大変動の結果かもしれませんし、あるいはかつて訪れたさいに覚えていたエレメントが消えてしまっている結果かもしれません。

 「原因と結果」エレメントはまた、ゲームプレイヤーの行動によって直接引き金を引くこともできます。ハーフライフ『Duke Nukem 3D』が最高のお手本で、『Duke Nukem』の場合、ゲームプレイヤーはその環境へ大破壊を弄し、トイレを吹き飛ばし、やしの木に火をつけ、そして沢山の建築物を穴だらけ(スイスチーズ)に変えてしまいます。長い死闘のあと、デュークの未来的なロサンゼルスで起こったことがどんなものかは疑う余地はありません。

 の「原因と結果」の例は、「サクヌッセンム辿り」とわたしが読んでいるものです。

 ジュール・ヴェルヌの著した『地底旅行』にちなんだ命名です。この物語の主人公は、岩々へ刻まれるも見えづらくなったイニシャルの跡*47を追いかけます。跡の主は冒険の先達、16世紀アイスランドの科学者アルネ・サクヌッセンムです。

 このようにしてゲームプレイヤーは、先を進む架空のゲームキャラクターの後にのこされた「パン屑」を拾うことでストーリーに引き込まれます。

 環境全体にちらばったノートを完成させるにせよ、危険な生きものの破滅的な足跡を追うにせよ、この「原因と結果」エレメントはクリエイターが語ろうとしている物語のドラマ性を高めてくれます!

 "Cause and effect" elements can also depict the passage of time. A game character may return to a place that they had become familiar with earlier in the game, only to find it completely altered. This may be due to a cataclysmic event, or the disappearance of elements remembered from a previous visit. "Cause and effect" elements could also be triggered directly by the actions of the game player. The best examples are found in games like Half Life and Duke Nukem 3D. In the case of Duke Nukem, the game player reaks havoc on his environment, blasting toilets, setting fire to palm trees, and making Swiss cheese of many architectural elements. After a lengthy Deathmatch, there is not doubt as to what has transpired in Duke's futuristic Los Angeles.

 Another example of "cause and effect" is the use of what I call "Following Saknussemm." Derived from the story Journey to the Center of the Earth by Jules Verne. In Verne's story the main characters follow a trail of symbols scratched into subterranean walls by their adventuring predecessor, a sixteenth century Icelandic scientist, Arne Saknussemm. In this way, the game player is pulled through the story by following "bread crumbs" left behind by a fictitious proceeding game character. Whether you create notes scattered throughout your environments, or have the game player follow the destructive path of some dangerous creature, "cause and effect" elements will only heighten the drama of the story you are trying to tell!

 

  お馴染みのデザインのもつ力

   The Power of Designing the Familiar

 染み深いデザインを利用することはこれまた強力なトリックです。

 もし何から何までエイリアン(異質・異星)な環境をつくることがデザイナーの目的(ゴール)だった場合、観衆にとって馴染み深いものを定期的に与えることは、観衆をそこへ据え付ける利益があります。

 ゲームクリエイターは、すべてが腸のような材質の脈打つ壁で建てられた面(レベル)を何度も生み出してきました。そんな場所はコンセプトとしては「かっこいい」ように思えても、プレイヤーを没入させるどころか遠ざけるだけなんですけど。

 もし観衆が参照できるポイントを定期的に与えられたなら……たとえば、

「おぉ、宇宙船のなかだな」

「うん、機関室に違いない」

 と十二分に観衆をおもてなしできるでしょう。そしてさらには、

「おぉ! なにこれエイリアンのトイレみたいな!?」

 といった感想さえも、環境と関連づけられているなら観衆は持ち帰れるでしょう。ちょっぴりユーモアもおまけして。

 Another powerful trick is to use the familiar in your designs. If your goal is to create an environment that is totally alien, it pays to periodically give your audience something familiar to anchor them themselves to. All too often, game designers will create a level built entirely of pulsating walls of intestine like material. Although the concept of such a place may sound "cool," it does more to alienate the game player than draw them in. If you can periodically give them some reference point... such as, "Oh, I am in a spaceship" or "Hey, this must be the engine room" you will be doing them a great favor. Even something like "Wow! These look like alien toilets!?!" will bring your audience back to relating to the environment, and even lend a little humor.

 

  忘れないで、ここは劇場ですよ!

   Remember, This is a Theatre!

 ィズニーランドカリフォルニアの乗り物アトラクション『カリブの海賊』を歩いて回れるチャンスを何度か得ました。最初の機会の途中、わたしは「オークション・シーン」で一息つきました。カリブの化粧漆喰(スタッコ)の建物にわたしがもたれ掛かった途端、それがぴんと張られたキャンバスに描かれた絵(!)であることに気づいてショックを受けました。

 子ども時代のあいだずっと、わたしはあの街並みは頑丈(ソリッド)だとすっかり思い込んでいて、今日でさえも、あれがクレバーな劇場の魔法にすぎないとは思い難いです。バーチャル世界が劇場の舞台ないし映画の撮影セットになんら劣らないと覚えておくことは大事でしょう。キャンバスや絵の具こそ使いませんが、劇場で2000年間試され培われてきた本物のトリックから学べることはたくさんあります。

 テクスチャマップは私たちのキャンバスセットで、その使い道をいかに選ぶかで私たちが運ぼうとしている物語は作れもするし壊れもします。テクスチャマップは壁紙ではありませんが、しかし観衆の目をだますための私たちの道具(ツール)です。

 動的な光源(dynamic lighting)が新たな3Dテクノロジーのさまざまな贅沢のひとつだとしても、環境が観客へどう見えるのかを光源に左右されないようにしましょう。*48

 もし二次元表面に突き出たり彫られたりした建築学的細部がテクスチャにあるのであれば、奥行きの幻想(イリュージョン)のドラマをつよめる助けをするために必要な陰影を書き込んで損はありません。テクスチャマップで達成できることが多くなれば、つまらないディテールに浪費するポリゴン数が少なくなります。

 ないほうがより豊か」適用がデザインの呪文(マントラです。

 複雑だったり忙しなかったり、うるさかったりする模様のテクスチャで空間を散らかすのは控えましょう。

 視覚的な複雑さは軽くすこしだけ使うべき贅沢です。どのテクスチャを強調してどの模様をシンプルにおさえるか、選りに選りましょう。

 建築の細部を観衆をある空間からべつの空間へ導く助けとなる矢印として利用しましょう。

 トリックのひとつは、観衆を引きつけたい領域のために装飾的な要素(エレメント)を節約すること。とくに重要でない廊下を見事な装飾により散らかすよりはむしろ、廊下の終わりにひとつの詳細なエレメントを置くだけにとどめたほうが、ぶらさげられたニンジンのように観衆をつぎの空間へ引き寄せられます。

 On several occasions I have had a chance to walk through the "Pirates of the Caribbean" attraction in Disneyland, CA. During my first visit, I took a breather in the "Auction Scene." As I leaned back against one of the Caribbean stucco buildings I was shocked to discover they were entirely made of painted stretched canvas! All through my childhood I had just assumed that the buildings were solid, and even today it is hard to remember they are only clever theatrical magic. It is important to remember that the virtual world is no different than a theatre stage or a film set. Although we don't use canvas and paint, we can learn much from the tried and true tricks handed down to us by 2000 years of theatre. Texture maps are our canvas sets and how we choose to use them will make or destroy the story we are trying to convey. Texture maps are not wallpaper, but our tool to trick the eye. Even though dynamic lighting is one of the many luxuries of the new 3D technology, don't let lighting dictate how an environment appears to your audience. If your texture has architectural details that are carving into, or stick out of the two dimensional surface, it pays to paint in the necessary shadows to help heighten the illusion of depth an drama. The more you can achieve in your texture maps the fewer polygons you will waste on frivolous details.

 The design mantra "Less Is More" applies. Refrain from cluttering your spaces with complicated, busy, or loudly patterned textures. Visual complexity is a luxury that should be used lightly. Pick and choose where you place your accenting textures, and down play simpler patterns. Use your details as architectural arrows that help lead your audience from one space to another. One trick is to save your most decorative elements for areas you wish to draw your audience to. Rather than cluttering an unimportant corridor with gorgeous ornamentation, simply save one detailed element for the end of the hallway and let it draw your audience, like a dangling carrot, into the next space.

 

「ディズニーランドのアトラクション『カリブの海賊』の建物は、頑丈そうに見えるにもかかわらず、全てがピンと張ったキャンバスに描かれた絵であるという、クレバーな劇場の魔法の一例です」とのキャプションと、同アトラクションの写真)

 The buildings in the "Pirates of the Caribbean" attraction at Disneyland, despite appearing solid are entirely made of painted stretched canvas and example of clever theatrical magic

 

 き飽きするもう一つの落とし穴は、過度に照らされた環境です。

 苦心して階(レベル)を完成させたマップ建築者が、部屋の隅から隅まで割れ目さえ見せびらかしたくなる気持ちはわかります。不幸なことに、無数の光による洪水は建物を台無し(wash out)にし奥行きの幻想(イリュージョン)を平坦につぶしてしまいます。まさしくムードやドラマの感性がすべて飛ばされてしまったフラッシュ撮影、ウォルマートのスーパーマーケットみたいに照らされたマップとなってしまうんです。

 ためらうことなく、自作のマップに影を落として大部分を見えなくしてしまいましょう。

 ゲームの活気あるエレメントを暗がりに隠さないことはもちろん重要ですが、しかし物語にとって最も重要なのは、照明をそれらにだけ当て注目をあつめることですからね!

 明が驚くほど劇的な効果を生み出すことは容易に理解できることですが、しかし実は小道具や物を置くことにだって同じことが言えるんです。

 広いなか一条の光に照らされた小道具がただひとつだけある部屋は、凝ったエレメントでいっぱいに満たされた部屋よりも一層印象にのこります。

 ハイライトさせたい重要な「原因と結果」小道具がもしあるなら、その空間にあるほかのすべてのテクスチャや小道具はその重要な物語要素(ストーリーエレメント)にたいする脇役に過ぎないものとして構成しましょう。

 いつなんどきも、多すぎる選択肢によってゲームプレイヤーを混乱させることがないように気をつけましょう。

 環境を組織化(オーケストレイト)しているのはデザイナーですが、それがうまくいったとき、ゲームプレイヤーはじぶんが登場人物の運命を完全に掌握(コントロールしている幻想(イリュージョン)をいだけます。
 Another pitfall to be weary of is the overly illuminated environment. After a map builder has painstakingly finished a level, it is understandable that he/she should want to show off every nook and cranny. Unfortunately, too many lights flooding an environment washes out and flattens the illusion of depth. Just like a flash photo removes all sense of mood or drama, so does a map that's lighted like a Walmart. Don't be afraid to loose large areas of your map in shadow. Of course it is important that you do not hide vital game elements in the gloom, but use your lights to draw attention to only those things that are most important to your story!

It is easy to see that lighting can create marvelous dramatic effects, but the same can be true of the placement of props and objects. A large room with a single shaft of light illuminating a solitary prop is more effective than a room filled with detailed elements. If you have an important "cause and effect" prop you wish to highlight, compose all other textures and props in the space as merely supporting players to the important Story element. Be careful not to confuse the game player with too many choices at any given time. Though it is you who has orchestrated the environment, when it is done right, the game player has the illusion that they are in complete control of their character's destiny.

 

  対照的な要素を強みとして活用

   Using Contrasting Elements to Your Advantage

 世の大聖堂や大きな古い教会を訪れると、広大な室内へ畏敬の念を起こしてしまうのには理由があります。

 入った時には気づかないかもしれませんが、そうした場所の建築家は、訪問者の視界に本堂の巨大(モニュメンタル)な室内が現れるまえに、まず小さく狭い空間を通るよう強制しています。

 これはきわめて意図的に行なわれていて、そうして閉じ込められた小さな空間との対比効果が隣の部屋をますます劇的にしているのです。

 ントラストは環境デザイナーの知恵袋(bag of tricks)にしまわれたもう一つの道具です。可能であればいつ何時でも、デザインする空間に変化を生みましょう。

 観衆をクールに照らされた空間をさまよわせましょう、観衆がホットな場に立ち寄るまえに。無秩序な体験をあたえるまえに、秩序ある場所へ送りましょう。

 そしてとりわけ可能であればいつ何時でも、非対称性(アシンメトリーをあたえましょう。わたしたちの暮らす世界は幾何学的な完全性とはほど遠いので、イスも机も鉢植えも場にあるものならどれだって格子(グリッド)に沿って整列された空間は、デザインした世界がどれだけ偽物であるかを強調してしまうだけです!

 あなたの手がける建築の室内だって同じです。

 多くの建築学的モニュメントは完全に対称的(シンメトリカル)ですが、わたしたちの住んでるところはほとんどそうではありません。

 もし柱の連続する長く広い空間やそのような要素をつくらなければならなくなったとき、残りに独特(ユニーク)なものを作りましょう。幾何学的には完璧だけれど退屈な環境へ、かるく肘でつつくか直ちにノックするかして生気を加えましょう。

 If you have ever visited a medieval cathedral or even a large old church, there is a reason the vast interior is so awe inspiring. What you may not realize when you enter, is that the architects of these places have forced you to enter the church through a small confined space, before revealing the monumental interior of the main church. This in done quite on purpose, and it is the contrasting effect of having been confined in a small space that makes the adjacent room all the more dramatic.

Contrast is another tool in the environmental designer's bag of tricks. Whenever possible, create variety in your spaces. Force your audience to wander through a cool lighted space before dropping them into a hot one. Give them the experience of disorder before you deliver them into a place of order. And above all, give them asymmetry whenever possible. The world we live in is far from geometrically perfect, and spaces where every chair, desk, and potted plant is lined up in a grid only helps emphasize how fake your world really is! This is the same with your architectural interiors. Many architectural monuments can be perfectly symmetrical, but in our lives little else is. If you must create a long expanse of repeating pillars, or some such element, make one unique among the rest. Nudge it out slightly, or knock the thing right over, it will only add life to an otherwise mathematically perfect, but boring, environment.

 

  「ゲーマー」のための環境をデザインする矛盾

   The Paradox of Designing Environments for "Gamers"

 ンピュータで成功する環境をデザインするための一つの試練は、主な顧客の……「ゲーマー」の期待やその周辺で作業することです。

 わたしはゲーム会社のために『インディ・ジョーンズ』型のゲームの美術監督をした経験があります。できるかぎり現実的な環境をつくることに骨を折って働いたあと、リードプログラマーのオフィスに踏み入れ、じぶんが入念にレンダリングした松明の炎が非現実的に速いペースで明滅しているのを目撃しました。

 わたしの不満にたいしてプログラマーは「"ゲーマー"のためにこうしたんだ」と誇らしげに主張しました。具体的に言えば、かれはこのゲームの目覚ましいフレームレートを引き立たせたかったと。そして「ゲーマー」は、わたしがつくった環境のリアリズムよりも、その高フレームレートの視覚効果を高く評価するだろうと。

 言うまでもなく、美しいゲームを作りたいという欲望を満たすことと人々がプレイしたいゲームを作ることとの間には明確な線引きがあります。

 たとえデザイナーのつくった環境がどれだけハッとする出来でも、それが楽しくなければ、だれも買ってくれません!

 特定空間のレイアウトもおなじです。ロケットに点火し飛ばす楽しみを能率的に活かした環境をデザインするのは、ゆっくり進展する物語を語る環境には適さないかもしれません。いやこれは、「どれだけ装飾を凝らしていようとも、ちっとも戦略的に配置されたプラットフォームではない空間から離れるべきだ」という意味ではありません。

 製作チームが強力な物語にすがりうることは、これらの試練に内包されます。

 もし剣闘士が互いを木っ端みじんに粉砕し合うための闘技場をつくった場合は、剣闘士の闘技場について宣伝しましょう。それと無関係のギルドの華麗なテクスチャーではなくて。

 なによりも、遊べるうえにデザイナーの知識が活用されたゲームをつくりましょう。そして混乱を誘うよりむしろゲームが楽しくなるのをサポートする物語をつくりましょう。

 「"りに"尖ったものを作れ(Make it more 'edgy')」「でもまだ最高(awesomeじゃない。その時がきたら伝える」以外にはっきり要望を口に出せないチームリーダーと一緒に仕事をした経験もわたしにはあります。

 悲しいことに、そういう発言と戦うためにどうアドバイスするのが的確なのかわたしにはわかりませんが、それもまたこの産業の一部です。けれどこれだけは言えますが、もしあなたが、チーム全体が納得できる強力な物語を確立できるなら、議論はふつう、発売3ヶ月前(!)にゲームを見た目からすっかりオーバーホールするほうへ向かうのではなく、細かい詳細へ退きます。

 One challenge to designing successful environments in the computer is working in and around the expectations of your main client.... mainly "gamers." I had an experience of art directing an Indiana Jones type game for a gaming company. After painstaking work on making the environments as realistic as possible, I walked into the lead programmers office to witness my carefully rendered torch flames flickering at an unrealistic lightening pace. When I complained, the Programmer proudly argued that he had done it for "the gamers." To be specific, he wished to show off the remarkable frame rate of the game, and felt that "gamers" would appreciate the visual effect of a high frame rate over the realism of my environments.

Needless to say, there is a fine line between fulfilling the desires of creating a beautiful game, and creating a game that people will want to play. No matter how stunning your environments might be, if it's no fun, no one will buy it! The same is true of the layout of a particular space. Designing environments that optimize the enjoyment of firing rockets, may not be one that tells a slowly evolving story. This does not mean that we should be left with spaces that are no more than strategically placed platforms, no matter how ornate the decor. It is within these challenges that a team can lean back on a strong Story. If you are creating arenas for gladiators to blast each other to bits, play up the gladiator arena aspect of the game rather than guild it in unrelated ornate textures. Above all, make the game playable, but use your knowledge and Story to support the enjoyment of your game rather than confusing it.

I have also had the experience of working with team leaders who can only articulate their desires as "Make it more 'edgy' or "It's not awesome yet, I will tell you when it is." Sadly, I do not have foolproof advice to combat such statements, it's a part of this industry. I do however know that if you can establish a strong story, one that your whole team can agree on, arguments are usually relegated to small details rather than gutting and overhauling the look of the game 3 months before it ships!

 

  コンピュータ環境が遊園地に勝る点

   The Advantages of Computer Environments over Theme Parks.

 ーチャル環境には出来て遊園地には出来ないことがいくつかあります。

 真っ先に挙げられるのは、物理的世界での建造には費用に限界があるということ。遊園地デザインは、1時間のうちにできるだけたくさんのゲストをさまざまなアトラクションへ押し込む必要性を考慮しなければなりません。

 アトラクションひとつ作るのに1億ドルかかり、清潔にたもって運用しつづけるのに年間数百万ドルがまたかかってしまう。

 30秒から15分間ほど実行される遊園地の体験は、『MYST』の島をさまよううちに費やす40時間のライバルにはなり得ません。

 遊園地はつねに安全性に気を配らなければなりません、なのでララ・クロフトが十階建てビル相当の崖からバック宙して跳び降りるのなんて問題外です。

 There are several things that virtual environments can give you that theme parks can not. Foremost is the expensive limitation of building in the physical world. theme park designs need to take into consideration the necessity to push as many people an hour as they can through their various attractions. One attraction alone can cost a 100 million dollars to build, and takes millions more per year to just keep it clean and running. Theme Park experiences run from 30 seconds to 15 minutes in duration and could never rival the 40 hours spent wandering the islands of Myst. Theme parks must always be aware of safety, so my Lara Croft back flips off 10 story cliffs are out of the question.

 園地デザイナーとしてのわたしは、より高価で主題に合った照明設備を加えるために激しく頻繁に闘わなければなりませんでしたが、コンピュータ環境なら複製貼り付け(コピペ)するだけで済むことです。

 コンピューターなら制限という制限は、機械が処理できるポリゴン数と、そして主題化された照明で部屋いっぱいにすることを優先して進捗が遅くなることにわたしがどれだけやる気をだせるかしかありません。

 わたしもまた、テクノロジーとコンピュータプロセッサーが高速化していくにつれ、わたしの環境もさらに豊かに詳細になっていくことを確信しています。

 ンピューターがまだ習熟していない領域は、友人や親あるいは恋人の隣に座って、冒険を真に「生き」ぬく物理的な体験です。

 たしかに私たちはジョンソンとして処理されている立方体をレールガンで釘づけにして叫んだり、『エバークエスト』を日本やオーストラリアそしてモスクワのプレイヤーとさまよい歩けたりできますが、依然として友人恋人と寄り添えませんし、一緒に冒険する体験を送れていません。

 その時がくるかは神のみぞ知る!

 As a theme park designer, I have had to battle hard and fast to add more expensive themed light fixtures to a particular attraction, while in my computer environments I can just cut and paste. In the computer I am only limited by the number of polygons my machine can crunch and how willing I am to slow my progress down in favor of a room full of themed lamps. I am also reassured that as technology and computer processors get faster, my environments will be even richer and more detailed.

One area the computer has yet to master, is the physical experience of sitting next to your friend, parent, or loved one, and truly "living" through your adventure together. Sure, we can holler over our cubical at Johnson in accounting as we nail him with a rail gun, or wander through EverQuest with players in Japan, Austrailia, and Moscow, but we still can't sit close to our loved ones and friends and experience our adventure together. Goodness knows, one day we will!

 

  焦がれる機会

   Missed Opportunities

 

「遊園地では、十階建てビル相当の崖から『トゥームレイダー』スタイルのバック宙跳び降りは問題外です」とのキャプションとゲーム画面画像。洞窟のような空間で宙を舞うララ・クラフト)

  In theme parks, Tomb Raider style backflips off of ten story cliffs are out of the question

 

 分の間、バーチャル世界をつくる能力はわたしたちにとって比較的新鮮なものでしょう。引き続きこのエンターテイメント表現形式(メディウムの深く新しい道が切り開かれていくことに疑う余地はありません。毎年あらたな技術的地平は拓かれていくとはいえ、依然として物足りていない自分に気づきました。

 ダンジョンの通路であれ裏路地であれあるいは下水道の通り道であれ、わたしは迷宮をさまよい歩くことそれ自体から脱出する日を待ち焦がれています。

 自分がどこにいて自分が何を求めているのかを深く教えてくれるバーチャルな場へ訪れるのを楽しみにしています。

 難所を自分の知識と機転をつかって切り抜けたい。そして、ただ単にゲームの別の面(レベル)へ進むためだけに何度も何度もアクションをくり返すことを強いる時限式パズルに引っ張られるのは二度とごめんです。

 ルチプレイヤーゲームの人気が高まりそしてより広い帯域幅も約束されていったことで、友人と会ったり一緒に冒険へ出られたりする日をわたしは味わっています。

 その場所における成功は殺害数のみで測られはしませんし、そして報酬は単にファイアビートルをどれだけたくさん殺したか*49に基づいて出るものでもありません。

 いつの日か、冒険の行動がじっさいにプレイヤー同士の人間関係を築けないだろうか。自分のキャラクターで試してみたい。

 より高尚な原因から自己犠牲をするか、それともけちな報酬のために他人を犠牲にするかを選んでみたい。他プレイヤーと自分の関係を試すような選択をあたえられたい。

 共通目標(コモンゴール)に向かって協力したり、引き離されたり、それから呼び集めたり、そして自分たちの精神や感情的なリソースをプールさせ、この冒険を無事に乗り越えるよう強制されたい。

 後になりましたが、何年かさきの未来をわたしは享受するだろうということを言いたいです。あなたがつくりだしてくれるバーチャル世界をわたしははやく冒険したくてたまりません。「これまでずっと行なわれてきたやりかた」へ勇敢に挑戦し、限界を越えてください。

 深く没入させる環境を活用して、そして、良い物語の強度(strength)を築いてください、あなたのプロジェクトの背骨(バックボーン)をつくるんです。その力があなたにはあります:あなたはストーリーテラーです。さぁ……

  • 絶対いけないどこかへ連れてってくれ
  • 絶対なれないだれかにならせてくれ
  • 絶対できないことをやらせてくれ

 For the time being, the ability to create virtual worlds is relatively new to us. I have no doubt that in the years to come we will continue to blaze new trails deep into this entertainment medium. Although we break new technological ground with every year that passes, I still find that I am left wanting. I long for the day we break away from rambling labyrinths for their own sake, whether they are dungeon passages, back street alleys, or miles of sewer pipes. I look forward to visiting virtual places that tell me more about where I am and what I am supposed to do. I want to use my wits and knowledge to get myself out of tight spots, and never again have to twitch my way through timed puzzles that force me to repeat my actions over and over to simply reach another level of the game.

With the growing popularity of multiplayer games and the promise of higher band widths, I relish the day I can meet friends and explore these worlds together. Places where our success isn't measured only in frags, and our rewards aren't merely based on how many fire beetles we have killed. I look forward to the day when the act of exploration actually builds relationships between it's players. I want my character to be tested. I want to be given the choice of sacrificing myself for a higher cause, or sacrifice others for my own petty rewards. I want to be given choices that test my relationship with other players. Force us to work together for a common goal, pull us apart, then bring us together, and make us pool our mental and emotional resources to get through this adventure in one piece.

In closing, I want to say that I relish the years to come. I can't wait to see what virtual worlds you will have created for us to explore. Push that envelope and bravely challenge the "way it has always been done before." Use your environments to draw us in deep, and build on the strength of a good Story, making it the back bone of your project. You have the power. You are the storytellers. Now......

  • Take us somewhere we could never go.
  • Let us be someone we could never be.
  • Let us do things we could never do.

 

 

 ボニー・ルバーク取材『クリント・ホッキングが語る冒険の美徳(Clint Hocking Speaks Out On The Virtues Of Exploration)

 

 リント・ホッキングは革新的な『スプリンター・セル』シリーズの作者として有名なユービーアイソフトモントリオールスタジオのクリエイティブ・ディレクターです。GDC2007に登壇*50したホッキングはゲームにおける3種の――システムの、空間の、そして個人の――異なる冒険のかたちや、仕掛け(メカニック)がより意義深くなるためにディベロッパーは冒険をどのように活用しているかを語りました。

  Clint Hocking, Creative Director at Ubisoft Montreal, is best known for his innovative work on the Splinter Cell series. At GDC ‘07, Hocking presented a talk on the three different types of exploration in games–systems, spatial, and personal–and how developers can use exploration to create more meaningful mechanics.

 プレゼンを追うことで、ホッキングのゲームデザインや文学からの影響、そして何故『エルダー・スクロールズⅣ:オブリビオンが「自発的な冒険」の特筆すべき例として目立っているかを知ることができるでしょう。
 Following his presentation, we caught up with him to talk about game design, his own literary influences, and why The Elder Scrolls IV: Oblivion stands out as a particularly noteworthy example of “self-motivated exploration.”

 ゲーマスートラ*51

 ークのなかであなたは「競争的なゲームプレイのなかでさえ、冒険が――つまり戦略のことなる冒険が内包される」と言っていましたね。そしてまた、『オブリビオン』のような報酬をもとめて世界をさまよい歩けるゲームにおける冒険についても語っていました。しかし、結末をむかえる手段としてならともかく、冒険それ自体がゴール(目標・目的)となりえるでしょうか?

Gamasutra: In your talk you mentioned that even competitive gameplay involves exploration, namely the exploration of different strategies. You also talked about exploring in games like Oblivion, where players can wander across rewards. But can exploration ever be goal in itself, not just a means to an end?

 クリント・ホッキング:

 ステムの見地からすれば冒険はいつだってゲームのゴールです。ゴールはプレイヤーが結末をむかえたり勝利を得るためにどうすればいいか教えてくれます。ゲームのコントローラを握ればプレイヤーは自動的にゴールが与えられますし、本をひらけば読者にゴールが与えられるのと同じことです。

 しかし文字通りモチベーションとしての冒険という見地からすれば、空間的冒険が考えられるでしょうか。空間一帯をうごき回りたいとか、あの場所へ行きたいと動機づけられたりだとか。

 間的冒険は義務ではありません。どんなゲームでも必須というわけではない。そうやって遊ぶことに興味をもっているのは、特定のプレイスタイルの特定のタイプのプレイヤーだけです。空間的冒険をうまくサポートしてくれるか否かははデザイン次第で、そこについてどのゲームが秀でているかはきわめて明白だと思います。グランド・セフト・オートオブリビオンはそんな趣味を持ってないだろうプレイヤーでさえも自発的に冒険することへ興味をいだかせます。

 Clint Hocking: In terms of systems exploration, it’s always the goal of the game. The goal is to figure out how things work so you can get to the end and win. Picking up a game controller gives you that goal automatically, the same way picking up a book gives you the goal of reading that book. But in terms of exploring more literally as a motivation, I think that's what spatial exploration is about, wanting to move around space and being motivated to go places.

Spatial exploration isn't mandatory. It's not required in any game. It's a certain play style and a certain type of player who's interested in playing in that way. There are ways to design to support that well and ways to do it badly. I think it's pretty clear which games do it well. Grand Theft Auto, Oblivion, they make players who might not even be that kind of player become interested in the act of self-motivated exploration.

 

(「ベセスダ社による大人気RPG『エルダースクロールⅣ:オブリビオンBethesda's hugely popular RPG The Elder Scrolls IV: Oblivion」とのキャプションと、そのゲーム画面画像。剣と盾を握って背中を向けるプレイヤーキャラクターは岩がちな起伏に富んだ丘に立っていて、丘のさきには森があり、青くかすんだ遠景には険しい雪山が見える)

 

 GS:

 い例は考えられますか?
 GS: Can you think of any bad examples?

 CH:

 かりませんが。これだけは言えそうなのが、もしとあるオープンワールドゲームがうまくいっていないとしたら、クリエイターが冒険のサポートをそこまでうまくできていないんじゃないでしょうか。冒険をサポートするシステムをデザインしなければ、ひどく空虚なゲームになってしまいます。すこし歩き回っただけでプレイヤーが退屈になってしまい、そして放り投げてしまうゲームに。

 CH: I don't know. I can only assume if your open-world game doesn't do well, you didn't support exploration as well as you should of. If you don't design systems that support the exploration, you have a giant empty game. Then it’s you walking around in space for a little while until you get bored and then you give up.

 GS:

 定のタイプのプレイヤーが冒険者になると言いましたよね。そこには性差が関係すると思いますか? 探索的なプレイスタイルはしばしば女性プレイヤーにまとまっているように見えるのですが。

 GS: You said it takes a certain type of player to be an explorer. Do you think there’s a gender issue there? It seems like an exploratory play style often gets lumped with female players.

 CH:

 当ですか? それはおもしろい(funny)ですね、というのも、私が読んだ本のなかに、現実世界の冒険者100人にまつわるアンソロジーがありまして。人々がなにをもとめて冒険しているのか知りたくて私はその本を開いたんですが、巻頭の話題のひとつは冒険における性差についてでした。女性の冒険者は100人中4人なんですって。もしかするとインタラクティブゲームのテクノロジーがなにか変えたのかもわかりません。

 男性的vs女性的という区分けについては私はなにもわかりませんよ。でも皮肉なことに、有名な冒険者のほぼ大多数は、この長い歴史上、みんな男性なんですよ。

 化的偏見があるせいで女性の仕事の多くは記録にのこされなかったか、二流とみなされたかして、歴史から消えてしまいました。また、伝統的役割のために男性が海を船で渡るための資金を女王からもらうことができた半面、女性はそうではありませんでした。

 つまり「男性は冒険者である」というこの文化史は、明確にジェンダーバイアスが作り出したものなんですよ。ゲームによってそれが変わった、そしてけっきょく冒険とはもっと女性が情熱を注げるものだった、ということなんじゃないでしょうか?

 さてゲームをプレイするとき、私は一人の冒険者です。ゲーム空間をそしてゲームシステムを本当に活発に冒険しようとします。私は女の子っぽいプレイヤーなのかもしれませんね。

 CH: Really? It's funny, because one of the books I've read, it's just an anthology of, like, a hundred different real-life explorers. I was trying to figure out what made people want to explore, and one of the opening things in the book is the author talking about gender issues in exploration. Because in terms of famous female explorers, there are, like, four of them. Maybe it's something that has changed with interactive game technology. If there are sort of masculine vs. feminine things, I don't know. But it's ironic, because all of the famous explorers, for the most part, throughout history, are male.

There's a cultural bias there because a lot of the female work wasn't recorded or it was considered second-rate and disappeared in history. Also, because of traditional roles a man could get money from the queen to sail across the sea whereas a woman wouldn’t be able to do that. So there are definitely gender biases that created this cultural history of males being the explorers. I wonder if maybe that has changed with games and if maybe it is more of a feminine verve after all. I mean, I'm an explorer when I play games. I try to really actively explore the space and the systems of the game. Maybe I'm a girly player.

 

――――――

 

 GS:

 なたが読むかぎり、人々が冒険したい理由はどんなものでしたか?

 GS: Did you find out from your reading what made people want to explore?

 CH:

 著を読んだというのに、いかなる共通テーマも私では見つけられなかったのはがっかりしましたよ。冒険者は誰しも別々の理由で冒険しているようなのです。かれらを駆り立てるものはみんな違います。ある人はお金が動機で、ある人は愛国心ナショナリズム、ある人はもっとピュアな欲望でした――だれも行ったことがないところへ行ってみたいという……。そんな具合にバラバラな冒険のなかで、私はどうしても公分母を見つけられませんでした。残念ですね。このレクチャーで私が多くを語らなかった理由はこれなんです。

 CH: That was the disappointing thing about reading that giant book was that I didn't really detect any common theme. Explorers all seemed to explore for different reasons. They all have different drives. Some of them were motivated by money, some by patriotism or nationalism, some of them by more of a pure desire to go where people hadn’t been... in all these different kinds of exploration I didn't really find a common denominator, which disappointed me. That’s why I didn’t talk about it a lot in my lecture.

 GS:

 ームのなかでは冒険者だと言いましたね。ではあなたについてはどうでしょう?  なにがあなたを冒険したいと思わせるのですか? 

 GS: You say you’re an explorer in games. So what about you? What makes you want to explore?

 CH:

 うですね、私はいたるところへ低価値の報酬を供給する必要がある冒険ゲームについてたくさん語りました。オブリビオン――私が言ったように――本当にうまくいってますよ錬金素材とか。

 でも、さきの講演では語らずそして意図的に脇へよけていたことがあって、それは、オブリビオンで私のする冒険のひとつが、ただただ美しい眺望(パノラマ)を得られる場所へ行くということなんです。私は一番高い山を登りました、どれほど遠くまで見られるのかただただ知りたくて。私ははるばる海まで行きました、世界の底へ日が沈んでいくのをただただ見たくて。

 字どおり私はコントローラを置いて、日没を見ながらビールを飲みました。そこにはなんの報酬もありません。このゲームが何を為していてどう機能しているのか、ただただ見ていたかったのです。なのでこの、開放感やシミュレーションがいかにゆたかかをただ見たり感じたりすることは、別の種類の報酬なんでしょう。そしてこれは、プレイヤーがゲームでふつう行ない得ないものでしょう。

 CH: Well, I talked a lot about exploration games needing to provide ubiquitous, low-value rewards. Oblivion, like I said, does that really well with alchemical ingredients. But what I didn't talk about, and I intentionally left it off to the side, was this idea that one of the things I did in Oblivion was I went to places just to get beautiful panoramas. I went to the highest mountain I could find just to see how far I could see. I went all the way to the sea at the bottom of the world just to see the sunset.

Literally, I left my controller there and drank a beer while the sun set. There is no reward for that. It was just wanting to see what the game did and how it worked. So there is this other kind of reward which is just the feeling of this openness and seeing how rich the simulation is, which is something you can’t usually do in games.

 

(「ユービーアイソフトの隠密アクションシリーズ『スプリンターセル』」とのキャプションと、そのゲーム画面画像。映画のワンシーンみたく、市街に渡されたワイヤーを伝ってプレイヤーキャラクターが滑り降りていく。その眼下では、埃っぽいのか夕方がちかいのか、うっすら暖色がかった市街のなかで、黒煙がまきあがり爆炎が小さく輝いている)

 

 GS:

 サーチのためにあなたは現実世界の冒険者へ関心を向けました。しかし彼らは誰も行ったことがない場所へ冒険しますよね。ゲームでは、プレイヤーはすでに誰かがプログラムしたところだけしか行けません。それは考えを変えてきませんか?
 GS: For your research, you turned to real-life explorers. But real-life explorers are exploring places no one has ever gone. In a game, you can only go places someone has already programmed. Doesn’t that change things?

 CH:

 富すぎて余りある空間的冒険を有しているオープンワールドゲームは、だれかによってつくられたものである一方で、スプリンターセルが手作りするのと同じ方法では作られていません。

 スプリンターセルの部屋はひとによって作られたもので、みなさんもよくご存知のとおりこの部屋はどのアングルからも眺められますが(いやひとつのカメラが置けうるすべてのポジションからではありませんが、しかし)、プレイヤーが見るものはアーティストやデザイナーによりきつくコントロールされています――光も影も植物相さえも、興味深く組み合わさったそこにあるすべてのものが。

 CH: One of the things though is that open-world games that have a lot of rich spatial exploration, while they’re built by someone, they're not hand-crafted in the same way a game like Splinter Cell is hand-crafted. Someone builds a room in Splinter Cell and you know exactly what that room looks like from every angle--not every single possible camera position, but what players see is very tightly controlled by artists and designers, even interesting compositions of flora and light and shadow and all these things.

 かしオープンワールドゲームは、午後6時の薄明光線(ゴッド・レイ)によってひとつの木が通しうるすべての葉のポジションや航海中の船やそのほかなんであれを確かめている時間なんてありません。ある意味では、すべてはひとによって作られたものである一方で、もっと絵画的な方法で作られてもいます――素材を置いて象(かたど)っていますが、しかしそれがただしいか確かめる時間さえ本当に取りません。

 But in an open-world game, you just don't have the time to make sure with every single tree you have nice God rays shining through the leaves at 6:00 pm and a ship is sailing by or whatever. In a sense, while it is all created by someone, it's created in a much more painterly way, putting the stuff there and shaping it but not really even taking the time to check if it's right.

 れはゲームのシステムやゲームエンジンが作り出す、このゲームの美です。プレイヤーが踏み入れるのはある種の未踏の領域です。午後6時のこの森のなかのこの岩のこの方角から、あの神の光を、時間をとって立ち止まって見た者はだれ一人としていないのです。

 It's the systems of the game and the game engine that have made this game beautiful. The player is kind of going into uncharted territory. No one ever took the time to stop and look in this direction from this rock in this forest at 6:00 in the afternoon and see the God rays.

 

――――――

 

 GS:

 かしな区別かもしれませんけど。今まさにあなたが述べてくれたみたいな屋外空間と、室内空間との間で、ゲームへ活用する際になにか違いはありますか? たとえば宮本茂はゲームを洞窟として考えた言及をしています。

 GS: It might seem like a strange distinction, but what about the difference between using games to explore an exterior space, like the one you just described, and an interior space? For example, Miyamoto has been quoted as thinking of games as caves.

 CH:

 本のゲームはある意味それら自体が折りたたまれていて、そして別種のスケールのものを内包した作品だと明確に見受けられます。

 もし小さく小さくちっぽけなものと巨大なものとが同じ空間をプレイヤーが冒険した場合には、プレイヤーのサイズの変化に応じてそれらの空間がどう変化するか注意をはらってみましょう。

 宮本の空間なら、スケールについてやものの大小についてです。小さな小さなひとびとが周囲を歩きまわって感じられることや、万物が巨大に感じられることなど全体をこづいたりその関係を逆転させたりする楽しみについて。

 ので、ゲームの仕掛け(メカニック)がプレイヤーに強いるものとは違ったやりかたで物事を見る冒険があります。高さが4ピクセルしかないときと、400ピクセルあるときとでは、ものごとはちがって見えるでしょう。

CH: I can definitely see that in the way his games sort of fold in on themselves and involve different kinds of scales. If you explored the same spaces as a tiny, tiny little thing and as a giant thing, you’d pay attention to the way that those spaces change as your size changes. His spaces are about scale and about things being big and little. They’re also about inverting those relationships and about poking fun at them...that whole feeling of tiny, tiny people walking around and everything's giant.

So there’s the exploration of looking at things in a different way which the mechanics force onto the player. Things look different when you're only four pixels high and then four-hundred pixels high.

 GS:

 クチャーのなかであなたは、ゲームメカニックをつうじて感情を探求する(exploring emotions)一例として『ウルティマIV Quest of the Avatar』も挙げましたね。デイブ・ギルバート(Dave Gilbert)による『シヴァ(The Shivah)をプレイしたことはありますか? このゲームはアドベンチャースタイルの意思決定をつうじてユダヤ人の価値観を伝えようとするゲームです。

 GS: In your lecture, you also talked about Ultima IV as an example of exploring emotions through game mechanics. Have you by any chance played Dave Gilbert’s The Shivah, an indie game which tries to communicate Jewish values through adventure-style decision making?

 

(「『ウルティマⅣ』は1985年にオリジナル版が組まれたRPGの古典です」とのキャプションとゲーム画面画像。ほんの数色をもちいた見下ろし視点のマップには盾と剣をかまえたプレイヤーキャタクターや町、数マス分をつかった城、草原や森、海が描画されている)

 

 CH:

 値観をさずけるゲームを作るべきだとわたしは言おうとしたわけでは本当にないんですよ。言いたかったのは、プレイヤーが自主的に冒険したくなるゲームをつくるべきだということです。デザイナーとプレイヤーが協力して作りだす体験の共同作者(the collaborative authorship of experience)はひとつの課題だと考えています。それをゲームでやろうとすると、文学よりもはるかに説教くさくなる危険性があるでしょう。

 ームで特定の価値観をだれかに教えようとすることは難物で、あくまでわたしの意見ですが、ゲームですべき問題は空間全体に存在しているからです。

「あなたは正直であるべきです」と言う代わりに、メカニックをつうじて「正直が意味することはこれです」と言うべきです。これがあなたが真実か嘘かを伝えるときに起こることです――「嘘は悪いことで正直は良いことです」と言うゲームを作ろうとする代わりに。

 説であれば、とても豊かなキャラクターをつくったり、そのかれが嘘をついて後悔していることを小説の残りの部分で詳細に描写したり、その人生がいかにして崩壊したかを見たりすることができます。ゲームはそうすべきではないと私は考えます。

 ゲームがすべきは、真実またはうそを告げることが良いか悪いかどうかをプレイヤー自身が理解するようにすることと、それをめぐるすべてのメカニックをプレイヤーへ与えることなのです。

 CH: I wasn't really trying to say we should make games that impart values. I was trying to say we should make games that allow the player to explore himself. I think one of the challenges is the collaborative authorship of the experience, the designer and the player collaborating to make this thing work. There's a risk that, even more than with literature, games can become didactic if we do that.

To try and teach someone a specific set of values in games is trickier because what games ought to do, in my opinion, is present the entire space of the problem. Instead of saying, “You should be honest,” it should say, “This is what honesty means” through the mechanics. This is what happens when you tell the truth or you tell a lie--instead of trying to make a game that says “Lying is bad and honesty is good.”

That's what literature can do by creating characters who are very rich and detailed and tell a lie and regret it for the rest of the novel and watch how their who lives fall apart. A game I don't think should do that. A game I think should give the player all the mechanics that surround that and figure out for himself whether telling the truth or lying is right or wrong.

 GS:

 学についてたくさん言及されていますね。作家としてのバックグラウンドは、冒険のトピックに関する見方に影響を与えていますか?

(訳注;writerのうまい語がわからんかったです。別のインタビューによればホッキング氏はゲームの脚本家もつとめるほか、前職はウェブライターに就いており、ブリティッシュコロンビア大学時代にはクリエイティブ・ライティングの修士号を得てもいます

 GS: You seem to refer to literature a lot. Has your background as a writer affected the way you look at the topic of exploration?

 CH:

 ラン・バルトが作者の死について語ったみたいなことですね。昨日言ったように、文学的にはバルトは間違っているとわたしは思います。ですがバルトは先見性があり、とくにメディアとわたしたちの新しい関係がどうなるかにかんしては――マーシャル・マクルーハンが主張することと同じであったという意味で――時代に先んじて予言していました。

 CH: It's like what Roland Barthes said about the death of the author. Like I said yesterday, I think in terms of literature he's wrong. But he was visionary and ahead of his time in predicting what our new relationship with media would be, especially in the sense that what he says is similar to what Marshall McLuhan says.

 

(「インディペンデント系制作会社ウアジェト・アイ・ゲームによる『シヴァ』」とのキャプションとともにゲーム画面画像。シンプルなドット絵による教壇の中央に立つ金髪のラビが画面右のトビラにむかう人に対して、「きみはもう止まれないぞ!(Yout can't just stop)」と言っている)

 

 ルトがインターネットについて語る機会があったなら、そうですね、きっと正しかったでしょう。

 私としてはバルトから、作者ではないとはどういう意味かを学び、コントロールを放棄するとはどういう意味かを学び、「オーケー、プレイヤーにとってどんな意味をもつのか決断するのは私の仕事ではないな、その決断をとりまく空間をプレイヤーにあたえることこそが自分の仕事だ」と言うことを学びました。どれも捨てがたい学びです。とても魅力的で惹きつけられます。それは長い歴史のなかの偉大な作家みんなが行なってきたことです。ゲームという表現形式(メディウムのなかの人々に――デザイナーに――期待されたことではありませんが、わたしはそうは思いません。
 If he had been talking about the internet, then yeah, he would have been right. For me, learning what it means to not be an author, learning what it means to give up control, learning to say, “Okay, it's not my job to make decisions about meaning for the player, it's just to give the player the space around that decision,” it's a hard thing to let go of. It's so attractive and sexy. It's what all of our great authors throughout history have always done. But people in our medium, designers, it's not what we're supposed to do, I don't think.

 まだに私たちはそうしているんです。そんな風に設計され組み立てられていくのがゲームの常となるでしょう。私たちが何も言わないとは言っていませんよ。正直であることを中心として相互作用するシステムをいかにして治めるか、私たちはいまだに決断しています。マクベスの語るマクベス夫人を善玉だと読むひとはほんのわずかしかいないでしょう。彼女は悪玉だと考えることになるのは明白です。

 We'll still do it. There will always be games that are designed and built that way. I'm not saying we don't say anything. We still makes decisions about how those rule systems interact around honesty. We just need to lead the reader to make his own decisions. Very few readers will read Macbeth will say Lady Macbeth was a good person. It's clear that you're supposed to think that she's a bad person.

 GS:

 論としてはどんなメッセージがありますか? 主流であるリニアなゲームのなかでもっと冒険するための余地はあるでしょうか?

 GS: So what’s your overall message? Is there more room for exploration in mainstream, linear games?

 CS:

 険にちがった趣(flavors)を持たせられないか、わたしはいま取り掛かっています。ゲームは全体的にリニアになりがちですし、空間的冒険の機会もあたえないですが、それでも自己分析(self exploration)のための機会は依然として豊富にあります。私たちが抱いている探求がどんな種類があるのかを見てみたい、そしてこれらをより良く活用できる道はいろいろあるのだと私は言いたいです。

 That's what I'm trying to get at, that exploration has different flavors. A game can be totally linear and offer no opportunities for spatial exploration and still have rich opportunities for self exploration. I just want to look at the kinds of exploration we have and say there are some ways that we can use these things better.

 

 

 

感想

 さまざまな分野の知見を横断するェンキンズ氏の論考はおもしろく、たいへん刺激的です。ただ、包括的であるがゆえぼんやりして見えたり、あるいは危うい思いつきのようにも感じられる部分があるかもしれません。{スクロールゲーム『マリオ』から日本の絵巻物(スクロール・ペインティング)の話をするところとか(「うぉーなるほどーすげー!」てなるけど、振り返るとふと「エスニシティ括りですげー大胆な連結をしてません……?」ととまどわないでもない)

 他方で、ゲームの冒険へ現実の冒険者の資料をリサーチして活かすホッキング氏や、別の畑から移ってきてそちらで培った経験・知見をゲームへ活かしているカーソン氏もそうなように、好むも好まざるもかかわらずさまざまな知見やメディアを横断・混交されてしまうのが思索や創作活動だなんて思ったりもします。

 

 ちょっと硬めでオタクっぽい*52寄り道をすると、Henry Jenkinsはヘンリー・ジェンキンスとして紹介されることが多かったようですが、氏の単著『コンヴァージェンス・カルチャー』がジェンキンズ表記であったため、そちらにならいました。

 『Game Design as Narrative Architecture』にかんして日本語で読める紹介、言及としては、zzz_zzzzが適当にあさったかんじだと、06年7月に科学史家の伊藤健二さん個人blogによる概要紹介、同年8月末に「内容ざっと説明」でふれた増田氏によるCEDEC2006レギュラーセッション、12年に小林昭世さん(武蔵野美術大学基礎デザイン学科教授)による語とゲームによる経験のタイムアクシス・デザイン 』が総論要約的に、アーネスト・アダムス氏の共著ームメカニクス おもしろくするためのゲームデザイン(Professional Game Developerシリーズ)(原著12年、邦訳13年)、イェスパー・ユール氏の著ーフリアル:虚実のあいだのビデオゲーム(原著05年、邦訳16年)が各論的に語っています。

 さまざま紹介がなされていますが、伊藤氏の記事のようにblog閉鎖で読めなくなってしまったものは言わずもがな、抜粋はもちろん総論的要約でさえも全文とはだいぶ様相がことなるもので、だからこそ今回きちんと全部読んでよかったなぁと思います。

 アダムス氏らの紹介・「ナラティブアーキテクチャ」の説明は一見総論的ですが……

ナラティブアーキテクチャ

 チュートリアルレベルデザインを用いてプレイヤーのトレーニングができることは、ビデオゲームの強みの1つである。チュートリアルレベルデザインは、ゲームのシミュレートされた物理空間を使って、ゲーム体験を構造化しているのだ。時系列に出来事を連ねていくのによく適している文学や映画とは異なり、ゲームは出来事(イベント)を空間に配置するのがふさわしい。ヘンリー・ジェンキンズ(Henry Jenkins)は、彼の論文"Game Design as Narrative Architecture"において、この種の空間的なストーリーテリング技術をナラティブアーキテクチャ(narrative architecture)と呼び、ゲームを空間的物語の系統に位置づけ、伝統的な神話や英雄伝だけでなく、近現代のJ・R・R・トールキンの作品にも並ぶものとした(Jenkins 2004)。端的に言えば、ゲーム空間を旅していくことによってストーリーが語られるのだ。

   ソフトバンククリエイティブ刊、アーネスト・アダムス&ヨリス・ドーマンズ著『ゲームメカニクス おもしろくするためのゲームデザイン(Professional Game Developerシリーズ)』kindle版14%{位置No.396中 55(紙の印字でp.34)}、「第2章 創発型と進行型」2.4進行型ゲーム チュートリアルより

 ……4つの本論にはいるまえの序論的な「空間的物語と環境ストーリーテリング」を、そこで話題にだされたひとつに絞ったようなシンプルさです。

 ユール氏の『ハーフリアル』での言及は、じしんへの批判へ応えるかたちもあってか、「喚起させる空間」項の映画『スターウォーズ』とそれを題材にした小説とゲームのちがいについてジェンキンズの見解への反論と自論の掘り下げ、そして「創発する物語」項の『シムズ』批評にたいする異議です。

 乱暴にまとめてしまえば「ジェンキンズ氏の言う物語は"あらゆる種類の舞台設定または虚構世界"ってことだけど、これは映画や小説など既存のメディアの物語でもできることで、ゲーム独自のものなんだろうか?」「ジェンキンズ式創発物語ってべつに『シムズ』に限らなくない?」というかんじのお話で、「たしかにそうさなぁ」と思わされます。

 zzz_zzzzとしても「ゲームの独自性と言うけど、それぞれの空間物語は同時に達成できるかわからんし、ほかのメディアの既存作で説明できるのはどういうことなんだろう?(=とある独自性/長所のある"ゲーム"というよりも、とある独自性/長所のある"作品"、であったりしない?)」とよくよく考えるとよくわからないところはなくはない……。

 ユール氏の主張を全面的に受け入れたとして、それでも残る部分はあるのか?

 

 ーソン氏の論考は、先輩クリエイターから若いクリエイター(志望)にたいする実用的なノウハウという感じで、発表から20年もの月日こそ経ってしまいましたが、今なお得られるものがある、大事な根本を述べているように思います。

 また、カーソン氏の古巣ウォルト・ディズニー・イマジニアリングで働いたかた(クリエイティブ・ディレクター)の筆による現場にかんする解説本として他にぼくはーンテッドマンションのすべて』を読んだことがありますが、そちらの本でもアトラクションにもちいられた手品(イリュージョン)のノウハウなどが語られつつも――そこで開陳されるのは、それがどのようなカラクリでそれを達成したのかであって――それによってゲストにどんな感想を持ってもらいたいかという意図の説明はあまりありませんでした。

 カーソン氏の論考がおもきを置くのはそういう演出意図についてのお話であり、『ホーンテッドマンションのすべて』とは別口で興味ぶかかったです。

〔環境ストーリーテリングの発祥についてはよく分かりません。{詳しいかたの総括がどこかにないものか……*53

 

 また、口ぶりこそかるいですが提示する知見はあくまで自分の経験論の域にとどめる節度があって、このましく思いました。

 そうした節度がよく出ているのが結論で、それまでの先輩クリエイターという立場ではなく、ゲームをたのしむ一プレイヤーとして未来のゲームへの夢を語るところがおもしろい。

 ……ただ、その慎みぶかさゆえに「では次にくる展望は?」と大きな飛躍を求めているかたからすれば不満をいだく部分もあるかもしれません。

(上にもちょっと書いた通り、カーソン氏はその後『パート2』と題して、じしんの遊園地デザインの経験と環境ストーリーテリングにかんする知見についてまた記しています。こちらを読んでみるのも楽しそうです)

 

 ッキング氏のインタビューは、レクチャーのあとのアフタートークなこともあってか、これ単体では分かりにくい部分もあるかもしれず、そこについてはそのうちまた補足していけたらいいなぁと思います。

 インタビューなのにビーチャム氏の論文に引かれたのも納得の濃さがあり、

「じしんの関心事について常日頃から、具体的に言語化することって大切だわ」

 なんてことも思ったり。

 もちろんインタビューには変わりないので、熟慮のすえのカッチリした見解や推敲に推敲をかさねた決定稿を求めるかたにとってはまた物足りない部分があるかもしれません。

 かもしれませんが、余談である(という但し書きがある)からこそ自身にとっても固まりきってない考えを提示してくれた部分もあるようで、第一線のクリエイターにとって定まってない概念とはつまり最前線の未踏の領域であるということ。だからこそ面白く、示唆的だという向きもあるでしょう。

 また、「未完成だから」とお蔵入りさせてそれっきりとなり何も動かない(あるいは、結局なにも動かなかった場合と外から見て変わらない)ことがままあるぼくとしては、別口でもなかなか示唆的なお話でした。

 

***

 

 批評にせよ実作にせよ、今回紹介した三者のだれもに共通する、新たなものを生み出そうとする貪欲な姿勢に感心させられました。

 世界には多種多様なことがらがあり、ゲームにも多種多様なこころみがなされている。

 作り手の意図を正確に受け取るかどうかはともかくとして、ぼくがなにかゲームに手を出すときも、自分の感性を拡張させて、いろいろな可能性を見出しながら遊んでいけたらいいなぁなんて、改めて思った論考たちでした。

 

 デザインヘ実際に社会学建築学を活かした最近のゲーム

 さてジェンキンズ氏は本論でケヴィン・リンチ『場所のイメージ』を引き、原注で空間的物語というかんがえの影響元としてミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』アンリ・ルフェーヴル『空間の生産』を挙げていましたが。

 実際ゲームクリエイター/ゲーム製作に社会学建築学の知見が活かされることは、別に与太話でもなんでもないみたい。

 

  ブルデュー「社会空間」やゴッフマンの「表舞台と裏舞台」を潜り抜ける『ヒットマン2』;レベルデザイナーの講演から

game.watch.impress.co.jp

 新人デザイナーとしてスタートを切ったとき、わたしはまだインターンでした。

 I had just started right I was a new designer I was an intern at the time.

 『ヒットマン』のようなクレイジーなゲームでどうすれば良いレベルがつくれるのか実際的な方法を理解しようと試みていました。

 I was just trying to figure out how do you make a good level, in this crazy game like how do you actually do that.

 そうしてわたしたちが何をしたかというと、立ち上げたレベルごとにメタスコア*54を調べることにしました。

 And what happend was that we would get a meta score for each level we launched.

   Youtube掲載、GDC『Hitman Levels as Social Spaces: The Social Anthropology of Level Design』9:18~

 これにより、すくなくともレビュアーが出来に納得しているサピエンツァという、わたしたちが『ヒットマン』第2レベル「明日の世界」として送り出した舞台の何がうまくいっていたのかを考え始めるようになりました。

 this got me started like thinking like what worked and Sapienza which the second level that we ship was where we really seemed to convince at least the reviewers

 サピエンツァは本当にうまくいっていました。

 this was working out really well

 ファンもユーザーも本当に誰もがこのレベルを愛しているようでした。

 it was really everyone that seemed to love this level it was our fans and user research

   Youtube掲載、GDC『Hitman Levels as Social Spaces: The Social Anthropology of Level Design』10:00~

 サピエンツァのなにがクールたらしめているか、わたしは掘り下げて分類してみました。

 I tried to sort of dive into what makes this cool 

 なぜなら天候も素敵だし、場所も素敵だし、すべての事物が美しく見えます。

 because it was weather is nice, it's a nice place, it's beautiful to look at there's all these things,

 サピエンツァの村は中央に大きな別荘があります。

 the village is like you have this big villa in the middle and then you have like this village that's  surrounding it

 そして目標として、シルヴィオ・カルーソーとフランチェスカを殺して、地下にあるウィルスを調査して破壊することもあります。

 and objective is to kill Silvio Caruso, Francesca the census and destroy the virus that they have in the basement.

 けれどレビューを眺めてみると、ミッションに絡んでおこなったことは誰もなにも語っていないように見えました。

 but when I looked at the reviews, everything they seemed to talk about actually didn't have anything to do with the mission.

 レビューで記されていることはすべて、この美しい村サピエンツァにただ過ごしたり歩きまわってみたりして感じたことや、その村にふくまれた小さい物語々、奇妙なキャラクター達、訪れたこの村がいかに素敵な場所だったかということのようでした。

 it like they were all describing how it felt to just be there to just walk around in this beautiful little village that had all these little stories, these weird like characters and these nice little places to visit

 このとおりわたしもアイスクリーム兄貴(ガイ)が大好きです。

 so I love the ice cream guy he's getting figured out

 そこでわたしの疑問は「いかにして最高(awesomeのレベルをつくるか」の代わりに、少し違うものへ跳び込むことにしました。わたしが理解したいのは、

「いかにして日常生活をデザインするか?」

 so my question became instead of like how do you make an awesome level, I decided to dive into something a little bit diferent. I wanted to find out how do you design everyday life.

「いかにしてもっともらしい日常生活をデザインするか?」

 そここそがひとびとが本当にレビューしていることのように思えたんです。

 how do you design believable everyday life because that really seemed to be what people were describing

   Youtube掲載、GDC『Hitman Levels as Social Spaces: The Social Anthropology of Level Design』10:45~

 そうしてわたしは自分のレベルデザインにかんするツールボックスを見ました。ゲームプレイの要素を記述するためのクールなコンセプトと専門用語がすべて入っていました。

「素敵な不法侵入をつくる方法」「素敵な歩哨を作る方法」うんたらかんたら……

 so I looked at my level design toolbox and I had all these cool like concepts and terminology to describe the gameplay element of it how do you make nice trespass and sentries and blah blah...

 でもわたしの疑問に答えてくれたり問題を解決してくれるものは一つも持ち合わせていませんでした。

 but I didn't actually have anything that could help me solve this problem or answer this question

 なので私は本棚へ戻りました(笑)

 so I went back to the books

 わたしは大学で社会人類学を1セメスター学びました。

 I had one semester of social anthropology in university

 わたしが先述のゲーム業界のやりかたに代わるアプローチを考え始めたとき、大学で学んだことがまさにピンときたんです。

 some of this stuff just seemed to click for me when I started to think of it in that way instead

 なので私はピエール・ブルデューとアーヴィング・ゴッフマンのもとへ戻りました。社会学の――ゴッフマンはさらには人類学の――分野の専門家です。

 so I went back and Pierre Bourdieu and Goffman who are specialists within sociology and Erving Goffman is also from the field of anthoropology.

   Youtube掲載、GDC『Hitman Levels as Social Spaces: The Social Anthropology of Level Design』12:04~

 ットマン2』では、その舞台設計や人物配置などに、レベルデザイナーの一人メーテ・アンデルセン(Mette Podenphant Andersen)氏が大学時代にまなんだ社会学の知見が援用されたと云います。『ディスタンクシオン』で知られるピエール・ブルデュー氏の「社会空間」や、社会学においてドラマツルギー概念を導入したアーヴィング・ゴッフマン氏による「表舞台と裏舞台」)GDC公式による実際の講演の記録映像と、スライドショー資料

(ご興味あるかたはGAME Watchさんの記事が端的にまとまっていて図版も多数でわかりやすいので、そちらをご覧ください)

 

  『CONTROL』に活かされたブルータリズムの重苦しさと神秘性;美術監督と世界設計監督へのインタビューから

www.eurogamer.net

「みなさんが建築により一層の興味をもってくれたのを見られてうれしいです。わたしの前職は建築家で、それから可能性を感じてビデオゲーム業界へ転職しました。建築家の究極の夢ですよ、だって世界を象(かたど)るためのパワーとコントロールを持てるんですから」

 "It's good to see people taking more of an interest in architecture. I used to be an architect, and I moved into video games because of the potential. It's the ultimate architect's dream, because you have the power and control to shape worlds."

   EUROGAMER掲載、Ewan Wilson寄稿『Remedy's Control is built on concrete foundations』、『CONTROL』ワールドデザイン・ディレクターのスチュアート・マクドナルド氏の言

 そう『ユーロゲーマー』寄稿者Ewan Wilson氏の取材に答えるのは、レメディー・エンターテイメント社のゲームCONTROL』で世界設計監督(ワールドデザイン・ディレクター)をつとめるスチュアート・マクドナルド(Stuart Macdonald)氏。『Outer Wilds』ともどもゲーム・ディベロッパーズ・チョイス・アワード2020に複数部門ノミネートされたこのゲームでは舞台にブルータリズム建築が参照されました。それはゲームプレイや物語に大きく関係しているそうな。

 美術監督(アート・ディレクター)のヤンネ・プルキネン(Janne Pulkkinen)氏とともにその意図を語ります。

 レメディー・エンターテイメントは、ブルータリズムの分厚く物質的な性質をうまく利用しようと試みた。「『CONTROL』ではテレキネシス(念動力)がもちいられます。それで沢山の破壊を起こすんです」マクドナルドは答える。コンクリートは複雑ではない物質であり、なので「空間の平凡性が重要となります。なぜなら10秒後にはすべてがゴミと化し、混沌に向かい……プレイヤーはそのコントラストを楽しむのですから」

 柱やバルコニーあるいは階段からコンクリートの塊をテレキネシスで掴めるというのに、プレイヤーがそうしないでいることはほぼ不可能であると製作チームはたしかめた。わたしたちは誰だってオフィスのあちこちにあるコンクリートの塊を放り投げたい抑圧された衝動をかかえている。「キュービクル(半個室デスク)をめちゃくちゃのゴミカスにしたくならない人なんて存在しますか?」プルキネンは付け加える。

 Remedy has attempted to make good use of brutalism's chunky, physical nature. "We're using telekinesis, so there's a lot of destruction," Macdonald says. Concrete is an uncomplicated material, and so "the mundanity of the space is important, because 10 seconds later everything's going to be trashed, and there's going to be chaos... we play on that contrast". The team has ensured it's almost impossible not to be in a position where you can telekinetically grab a mass of concrete from a pillar, balcony or step. We all have that repressed urge to toss chunks of concrete around the office. "Who doesn't want to trash a cubicle every now and then?" Pulkkinen adds.

   EUROGAMER掲載、Ewan Wilson寄稿『Remedy's Control is built on concrete foundations』、『CONTROL』アートディレクターのヤンネ・プルキネン氏とワールドデザイン・ディレクターのスチュアート・マクドナルド氏の言など

 上のコメントは、贅肉のないむき出しコンクリートの様相がもたらす整然や重圧・抑圧・閉塞的な要素に着目して、それがゲームプレイへどう活かされたかというお話ですが。

 記事をさらに読んでいくと「打ちっぱなしコンクリ」にとどまらないブルータリズムの幅広さが、『CONTROL』の物語や作品世界に多様な厚みをあたえてくれたことも明かされています。

 建物それ自体の美学的な訴求力のほかにも、ブルータリズムには文化的歴史的な土産が山ほど備わっている。姿かたちだけでもどれも大いに壮観だけれど、しかしその様式はより多くのことを語る。

「私たちは『CONTROL』の物語のコンセプトに政府機関であることを持ってきました」マクドナルドは言う。「ブルータリズムは、アメリカ政府に採用された建築様式のひとつです。それは私たちにとって本当に都合がよいことでした。管理や秩序、堅実、地位の場としての局(bureau)というアイデアを捨てさせてくれたのです。ブルータリズムの良い手本を見つける探求へ出発させてくれました」

 Outside of raw aesthetic appeal, brutalism comes with a ton of cultural and historical baggage. The forms and shapes alone offer plenty of spectacle, but the style communicates a great deal more. "We had this narrative concept of it being a government bureau," Macdonald says. "Brutalism is one of these architectural styles that's been adopted by the American government. That worked really well for us. It gave up this idea of the Bureau as a place of control and order, solidity and position. That set us off on a quest to find good references for brutalism."

   EUROGAMER掲載、Ewan Wilson寄稿『Remedy's Control is built on concrete foundations』、『CONTROL』アートディレクターのヤンネ・プルキネン氏とワールドデザイン・ディレクターのスチュアート・マクドナルド氏の言など

 そして光の教会などをてがけた安藤忠雄さんの建築、非常に儀式めいた階段や反復をそなえたカルロ・スカルパ氏の建築に見られる特徴が、『CONTROL』の「儀式主義」や「オカルト官僚主義」がはたらく世界とフィットしていたことなどなどを語っています。

 安藤忠雄の作品は『CONTROL』の光源の利用に影響をあたえた。安藤の建築には宗教的ないしスピリチュアル要素がつよくにじんでいる。超越感をおぼえる広大で空虚で対称的な空間を安藤はつくりだした。

 The work of Tadao Ando influenced how the game uses lighting. Ando's structures are imbued with strong religious and spiritual elements. He creates large, empty, symmetrical spaces that feel transcendental.

   EUROGAMER掲載、Ewan Wilson寄稿『Remedy's Control is built on concrete foundations』、『CONTROL』ゲーム画面へ付されたキャプション

 プルキネンにとって『CONTROL』の世界にはたらく「オカルト官僚主義」は、諜報スリラー『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』*55にみられる厳格な規則と儀式の世界ではない。

 儀式主義(リチュアリズム)『CONTROL』制作陣にとってキーコンセプトだ。ルーチンと反復というアイデアはブルータリズム建築の表現のなかから見出したものだ。

カルロ・スカルパは自身の建築でこの階段状のコンクリート様式を用いていて、とても儀式的に昇っていく入り口や階段のさきで壁面空間や柱々に変じるスカルパの意匠を『CONTROL』でたくさん参照しました」とマクドナルドは語る。

 制作チームは『CONTROL』のオールデストハウスを照らすさい、教会や式の行列(プロセッション)にも目を向けた。「平凡なオフィスであっても、祭壇や台座そして明確な中心をそなえた教会であるかのようにアプローチできます」とプルキネンはわたしに教えてくれた。

 For Pulkkinen there's an "occult bureaucracy" at work within the world of Control, not unlike the rigid rules and rituals found in spy thriller Tinker, Tailor, Soldier Spy. Ritualism is a key concept for the team. These ideas of routine and repetition also find expression in the architecture. "Carlo Scarpa used this stepped concrete style in some of his buildings, so I used a lot of references from him to get those very ritualistic ascending entranceways, and the way the stairs turn up into wall spaces and columns," says Macdonald. The team also looked to churches and processions when lighting the Oldest House. Pulkkinen tells me "even though it's a mundane office you can approach it as if it was a church, with a clear centre, an altar or plinth".

   EUROGAMER掲載、Ewan Wilson寄稿『Remedy's Control is built on concrete foundations』、『CONTROL』アートディレクターのヤンネ・プルキネン氏とワールドデザイン・ディレクターのスチュアート・マクドナルド氏の言など

 

***

 

 クリエイターがこうした論考を読んでいたかは寡聞にして知りません。

〔たとえカーソン氏らが唱えているうえに、実作が達成してもいる要素があったとしても、「つまりこれらの論考を知っている!」という結論に飛びつくのはアレですよね……。

 たとえば直近であげた二つのゲームどちらもがそれぞれのやり方により達成しているヒットマン2』では公的/私的(表舞台/裏舞台)や貧富*56など社会的な見地によって『CONTROL』が秩序/無秩序(抑圧/解放)など劇中舞台とプレイングによる破壊とによって生み出しているコントラストなどは、カーソン氏に限らず、古くから言われている普遍的に大事なことでしょうし……〕

 しかし……

www.youtube.com

Mette Andersen

「プレイヤーが何を期待しているかはとても重要です。

 なにが私たちを駆り立てるのかや、なににインスパイアされるのかと同様に。

 プレイヤーが銀行に踏み入れたとき、わたしたちクリエイターはその期待に応えるものを本当に与えたいと思っています。驚きの要素もまた加えたいとも。

 そして銀行のような空間の何がそう面白いのかといえば――商店にせよ空港にせよどこにせよ――、それがどのようなところなのか知りたいということで、裏舞台には行ったことあるひとはそう居ません。ですよね?

 つまりわれわれが確かめたいところはプレイヤーも行ってみたいところなのです。

 (今作をプレイした)多くのひとは地下金庫のなかへ訪れていますが、ただ一方これまでに地下金庫を見たことはあったんじゃないでしょうか? 映画や似たようなメディアをつうじて。

 期待はすごく重要なのです」

 What they expect is so important. It's kinda what drive us, as well, and what inspires us, too. When they walk into a bank, and we really want to give it to them. We also want to add an element of surprise. And, what's so interesting about spaces like banks --or shops or airports or whatever-- is that you know how some of it looks like, but you've never been behind stage, right? So, you kinda wanna make sure that the players get that, too. A lot of people have been inside a vault, but then have probably seen a vault, right? What's in the movies, and stuff like that. Expectations is super important.

取材者

「そしてそれは、裏舞台へアクセスした先にあることも重要でしょうか?」

 And is it important that they sort of are in that backstage access?

Mette Andersen

「そうですね、そうそう、不可欠です。

 クリエイターはプレイヤーが期待するものを与えたいんです、なぜなら教える必要がないからです。

 もし舞台に宇宙船やあるいは異星の(エイリアン)世界のようなところを選んだら、クリエイターはプレイヤーへ全てを説明しなければなりませんが、しかし期待を持っているということはプレイヤーは"オーケー、もしここでこうしたら、こんなことが起こるんじゃないか"とわかっていることを意味します」

 Yes, yes, yes, yeah, it's essential. You want to give players a look at what they expect, also because then we don't have to teach you. If we have like a spaceship as location, right, or like an alien world, then we need to explain everything to you, but having the expectations means that players know "Okay, well if I do this, this is going to happen."

   Youtube掲載、Noclip - Video Game Documentaries『Revealing the Tricks Behind Hitman's Level Design』6:27~

 しかし、上で名前を出した『ヒットマン』のアンデルセン氏らがべつのインタビューで話すことが、ジェンキンズ氏らが説いた「プレイヤーが映画など既存の作品でふれた、ジャンル的伝統によっていだき育んだ期待に応えることの重要性」や、カーソン氏が宇宙船やエイリアン世界をひきあいに「お馴染みのデザイン」について語ったことと近しいように、誰のなにが発祥かなどはともかくとして、現場に共有され実用されるノウハウとして生きていそうだなぁと思いました。

 

 ではテーマパークは実際いかに物語を喚起させるか?

 遊園地アトラクションにかんするお話については、ーンテッドマンションのすべて』『SJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?』読者として興味ぶかく読みました。

  ディズニーランドの「共有されたジャンル的伝統」の見極めかた;国によっては幽霊屋敷でさえない『ホーンテッドマンションのすべて』

ウォルトはパークを、スクリーンという平面ではなく立体的にストーリーを語る格好の場と捉えていた。初期のイマジニアたちは映画畑からやってきたため、テーマパークという新規のコンセプトに、映画づくりの美術と技術を用いた。ディズニーのアニメーションを題材に、映画をつくるように、ライドやアトラクションのストーリーボードをつくりあげたのだ。ウォルトは、アニメーションのプロットをアーティストたちに身ぶり手ぶりで説明したように、いくつかのライドを最初から終わりまで"演じて"みせた。

   講談社刊、ジェイソン・サーレル著ホーンテッドマンションのすべて』kindle版10%{位置No.139中 14(紙の印字でp.11)}(太字強調は引用者による)

 ホーンテッドマンションのすべて』はディズニーランドの同名のアトラクションについて意匠などを解説したガイドブックとアトラクション完成経緯について取材したノンフィクションとの合本みたいな書物で、著者のジェイソン・サーレル氏もクリエイティブディレクターを務めたウォルト・ディズニー・イマジニアリングの仕事ぶりがわかります。

 なるほど"幅広く共有されたジャンル的伝統を汲む"例としてジェンキンズ氏がこのアトラクションを挙げたのも納得です、英米の古城や荘園・邸宅に実地取材しスケッチを重ねた幽霊屋敷(ホーンテッドマンションのなかへ入ると、「オスカー・ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』のごとくゲストの目の前で歳をとっていく館の主の肖像画*57が出迎え、ジャン・コクトーによる映画『美女と野獣を参照した「人の体のパーツが建築の一部になっていて動き出す」*58小物に、ロバート・ワイズ監督『たたり』を参考にしたと云う"呼吸するドア"、廊下が暗くなってその壁紙から「邪悪な目」が白く浮かびあがってこちらを睨みつけてきます*59

 また、廊下ほどあからさまな形でなくとも、「つねに自分たちが見張られているような感覚をゲストに与え、館がまるで生きているかのように感じさせたい」*60意図からイスなど室内のいたるところへ顔を模した意匠がほどこされているそうで、ジェンキンズ氏の論考に別口で紹介された映画『レベッカの画面設計と重なりますし。

 はては、氏が遊園地とゲームの世界とのちがいについて触れたところにも具体例が……

「ミスティック・マナー」を実際より広く感じさせているのが、ドゥームバギー(30ページ参照)に相当するAGV(無人搬送車)だ。これは床に誘導経路を埋めこんだ無軌道のナビゲーションシステムで、乗り物に搭載されたコンピュータシステムが誘導経路を感知して進むため、レールが不要になる。

 このライドシステムのおかげでロバート・コルトリンは、本国の「ホーンテッドマンション」の約3分の2の大きさの建物にアトラクションを押し込むことができた。誘導経路は曲がりくねったり向きを変えたりしながら邸宅のなかを進み、あらゆるシーンの見どころを示す(略)

「軌道のない個別の乗り物はマジックショーにうってつけです。つねにそれぞれの位置がわかりますから」とロバート。「ある方向を見せたくなければ、乗り物を回転させて別のものを見せればいい。『ホーンテッドマンション』が有名なマジシャンのカッパーフィールド型のイリュージョンなら、『ミスティック・マナー』は少人数相手に至近距離で行うクローズアップ・マジックといえます。

   講談社刊、ジェイソン・サーレル著ホーンテッドマンションのすべて』kindle版41%{位置No.139中 57(紙の印字でp.54)}(略・太字強調は引用者による)

 ……しるされていますが、今回いちばん注目したいのは別のところ。

 

「もっとも魅力的な遊園地のアトラクションは来園者にとって聞き馴染みぶかい物語やジャンル的伝統のうえに建っており、来園者を物理的に踏み入れさせるのは、かつて来園者がじぶんの空想のなかで何度も訪れたような空間なのです」

 などとさきの論考でジェンキンズ氏は唱えていましたが、ふと疑問がよぎるのは「馴染みぶかさには限度があるのではないか?」ということです。たとえば「だれかの家にゲストとして招かれ歓待を受ける」というイメージ一つとっても、靴を脱いで玄関を上がってカレーやしゃぶしゃぶをふるまわれるようすを想像するひともいれば、家と庭を土足のまま行き来してBBQやカラフルなケーキを楽しむようすが思い浮かぶひともいるでしょう。

 この本を読めば、世界じゅうで人気のディズニーはそうした違和感へきちんと対応していることがわかります。ホーンテッドマンションは世界中のディズニーランドに在りますが、その園内配置は各国でことなり、お屋敷の装いやお屋敷の建てられたランド内バックストーリーもちがうし、お屋敷のなかの演出内容だって実はかなり別物だったりするらしい。

 園内は複数のエリアで区切られていて、エリアコンセプト毎にアトラクションや意匠がまとめられているのですが、アメリカ本国のディズニーランドでは、ニューオーリンズ・スクエアでアメリカ河を見下ろす丘に建つ、南北戦争時代の古風な南部のプランテーションハウスで、開園時期がアメリカ建国200周年にちかかったフロリダのディズニーワールドでは、歴代大統領が勢ぞろいする「ホール・オブ・プレジデンツ」のあるリバティー・スクエアに建つ十三植民地時代のオランダ・ゴシック様式マナーハウス

 東京ディズニーランドでは、後者にならったオランダ・ゴシック様式。しかし表門にグリフィンのような怪物の像があらたに加えられているとおり、「日本では、幽霊やお化けはおとぎ話や寓話に分類されることが多い。おとぎ話はファンタジーランドに属するから」*61ファンタジーランドに建っています。「ゴシック様式の邸宅や墓地が身近にあります。毎日のように目にするため、エキゾチックでも神秘的でもない」*62フランスでは(ゴールドラッシュで栄えたサンダー・メサの町の一軒で、金鉱により成り上がるも家主が地震により行方不明となったお屋敷として、ビッグサンダー・マウンテンなどともに)フロンティアランドに、香港でも日本とおなじくファンタジーランドに置かれています。

 ただし「中国人は先祖に深い敬意を払う。そして、死者の魂は尊ばれ、崇められるものと信じている。だが、決して近寄りはしない。孔子の格言にも「鬼神を敬して之を遠ざく」とある」*63香港のそれは幽霊屋敷ではありません。老いてなお健在な探検家ヘンリー・ミスティック卿が密林に建てた"熱帯・ヴィクトリア朝折衷様式"のお屋敷兼私設博物館「ミスティック・マナー」となっていて、そこには過去の探検で蒐集したさまざまな名品珍品とともに巨大グモから助けたおサルのアルバートがおり、「中国の文化ではサルはいたずらの象徴で、何か面倒を起こすと予感させる」*64とおり、アルバートは不思議なオルゴールを勝手に開けてしまい、そこから出た不思議な煙にふれた万物に生命が宿りはじめていくんだとか。

 

  物語世界へ深く没入させるための不快;『USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?』「バイオハザード・ザ・リアル」の常識破り

 端的に言えば、現在のUSJは集客効果・ゲスト満足において同等のアトラクションやショーを、世界の相場に比べて2~3割も安く開発することができるのです。(略)

 これを可能にするのは徹底した消費者理解を推し進めるマーケティング力と、ユニバーサルの伝統を独自に発展させてきた技術力です。テーマパークの経営を最も圧迫する巨額な設備投資費を効率的にマネージするノウハウを強化してきました。

 結果としてUSJは、ここ数年間の大変革によって、テーマパークを世界で最も効率的に経営するノウハウを備えつつあると私は考えています。例えば、約3倍の集客規模を誇り自前の土地で経営する東京ディズニーリゾートよりも、借地で経営するUSJの利益率(EBITDAマージン率)の方が高いのです(注:EBITDAマージン率=EBITDAを売上高で割って算出する、減価償却費を除いて収益性を判断する会計指標。設備投資の額が大きい業界で用いることが多い)。

   KADOKAWA刊(角川文庫)、森岡毅著USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?』kindle版70%(位置No.2832中 1964)、「第6章 アイデアの神様を呼ぶ方法」イデアは実現させないと意味がない! より(略は引用者による)

 SJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?』は、大阪の遊園地ユニバーサル・スタジオ・ジャパンのチーフ・マーケティングオフィサーを務めた森岡毅さんによる、2010年6月から『The Wizarding World of Harry Potter』が形になり始めた2013年11月までのマーケティング戦略を自己解説した本です。

 森岡氏は就任まえ年間来場者数が700万人前半まで低迷した同パークをほぼ倍増させた立役者。USJのV字回復といえば人気漫画『ワンピース』や人気ゲーム『モンスターハンター』などとのコラボやハロウィンイベントの主導など、「ユニバーサルスタジオ」や「映画」や「アトラクション」だけにこだわらない転換が有名ですが、この本を読むとそれは戦略の一面でしかないことがわかります。

 ジェンキンズ氏の言う「観客の体験へ構造や意味を与えるのに役立」つ「空気の再現」を徹底することで、USJはテーマパークやエンタメの常識をくつがえした体験を来園者にあたえることにどうやら成功していたらしい。

 体験型アトラクションイオハザード・ザ・リアル』が生まれた経緯を、森岡氏は若き日の思い出や空想をまじえて語ります。

バイオハザードの最初の作品が発売されたとき、私は当時1ゲーマーとしてめちゃくちゃのめり込みました。夜に自分の部屋の大画面でヘッドホンを使ってこのゲームをやったときのあのスリルは強烈に覚えています。

 ゾンビやクリーチャーの描写のクオリティーの高さ、自分が銃を撃ったときの反応のリアリティー、底辺をしっかりと流れる確かなストーリー性、ギーッとドアを開けて暗くて見えない向こうの部屋へ進んでいくときのあのたまらない緊張感、左右のヘッドホンからリアルに聞こえて来る異形の怪物の足音や息づかい、開けちゃったドアの目の前にハンター(クリーチャーの一種)がいたときのあの衝撃!(略)

 (略)このパークで働くことになる前から、「いつかはこれがリアルなゲームになるだろう」と思っていました。あの世界をリアルに体感できれば、すごい非日常になると感じていたのです。

 そんな私が、モンハンで作り上げたカプコン社との関係の延長線上に、このアイデアを進めようと考えたのは自然の流れだったと思います。それが、バイオハザードのゲームの世界を再現し、ゲストが銃を撃って戦う超リアルな「サバイバルホラー・アトラクション」というアイデアだったのです。

   KADOKAWA刊(角川文庫)、森岡毅著USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?』kindle版71%(位置No.2832中 1982)、「第6章 アイデアの神様を呼ぶ方法」生存確率限りなくゼロ!「バイオハザード・ザ・リアル」の苦闘 より(略は引用者による)

 『バイオハザード・ザ・リアル』は、題名どおりさまざまなリアルを追求したアトラクションで、たとえばゲストが持つ「銃」のリアルさを質感(「ズシっと本物の重量感」*65と操作感{「米国で軍のトレーニングに実際使われている赤外線センサーのシステム等を用いて、ゲストの持つ銃とターゲット(この場合はゾンビやクリーチャー)を赤外線の信号で結びつけ、お互いの間で当たり反対をできるようにシステムを組」*66み「ゾンビは即座に演技で反応」*67する、「撃った手ごたえ」*68が味わえること}の両面から試行錯誤しました。

 さまざまな追求のなかでもいちばんリアルで尖っているのがアトラクションのコンセプト!

 しかも、生存確率が限りなくゼロ(0・004%)という、テーマパークにはあるまじきコンセプトにしました。テーマパークは、全ての人をハッピーにする場所なので、ほとんど全てのアトラクションは最後には全員を成功者(ヒーロー)にするのが常識です。(略)

 常識に従って「全員が生き残れる」というやり方も考えてみたのですが、どうしてもバイオハザードらしくないと思って、私は全員死亡(生存確率限りなくゼロ)にこだわりました。全員が助かるというテーマパークのゆるい予定調和をこのバイオハザードに当てはめたら、バイオらしいスリルも緊張感も必死さも出てこないじゃないですか!

   KADOKAWA刊(角川文庫)、森岡毅著USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?』kindle版71%(位置No.2832中 1994)、「第6章 アイデアの神様を呼ぶ方法」生存確率限りなくゼロ!「バイオハザード・ザ・リアル」の苦闘 より(略は引用者による)

 氏の語るバイオらしさに「そうそう!」と懐かしくなったかたもいらっしゃるんじゃないでしょうか?

三上:配置といえば、寄宿舎から、洋館に戻ってきたときに、まず最初に物置でみんなセーブすると思うんですよ。開発中は、その物置の前にハンターを3匹セットしちゃった。ここが、山場やー! ここを越えないとセーブできへんでぇー! って言いながら(笑)。(略)

小林:バグチェックとかを内部でやってても、みんな死ぬんですよ。『バイオ』作ったスタッフが(笑)。ちょっと強くしすぎたかなー、って(笑)。

――三上さんは、セーブできたんですか?

三上:だいたいクリアできたんですけど、たまに死ぬんですよね。そこだけ何回やっても3回に1回は死ぬ。でももう、それぐらいでなけりゃ、やりごたえない。ワーワー言いながら、ハンターがウオーッて襲いかかってきて、死ぬか、死ぬのか―ってぐらいのハイテンションが、たまんなく好きなんです。

   KADOKAWA刊、『バイオハザード ディレクターズカット 公式パーフェクトガイド』kindle版5%{位置No.164中 8(紙の印字でp.5)、「バイオハザードディレクターズカット開発者インタビュー」より、三上真司プロデューサー兼ディレクターと小林裕幸企画兼プログラマーの言(略は引用者による)

 アトラクションの常識よりも参照作品に忠実であることを優先した森岡氏のこだわりは実をむすび、『バイオ・ザ・リアル』は開始から22日間で参加者10万人を超す大盛況。初の生還者が出たさいにはニュースとして報じられる話題性をも獲得しました。

 

 『Outer Wilds』が先人にならったこと、独自に発展させたこと、見つけたこと

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 Outer Wilds』(やその制作時の論文)との関連で読んだぼくにとって興味深かった点はさまざまあります。

 まず、「好奇心駆動の冒険」というビーチャム氏らのゲームのコンセプトが……

「冒険にちがった趣(flavors)を持たせられないか、わたしは今取り掛かっています。(That's what I'm trying to get at, that exploration has different flavors.)

「私たちが抱いている探求がどんな種類があるのかを見てみたい、そしてこれらをより良く活用できる道はいろいろあるのだと私は言いたいです。( I just want to look at the kinds of exploration we have and say there are some ways that we can use these things better.)

 ……とホッキング氏がインタビューの最後に語った将来の展望と問題提起の変形であり返答であり、独自の発見であるというのはわかりやすいところでしょう。

 

 それぞれの好奇芯は秘匿されているか到達困難なロケーションに存在しており、そして実際そこへ辿りつくにはそれを取り巻く動的な仕組みについての理解が要請されます。さぁPOIsの出番がきました。好奇芯はおのおの「関心のポイント群」3点と結びつけられており、この3つのPOIsはどれも異なる惑星に配置されています。

 Each Curiosity exists in either a hidden or hard-­to-­reach location, and actually getting to one requires an understanding of the dynamic system surrounding it. This is where the POIs come in. Each Curiosity is linked to three Points­of­Interests, each of which is located on a different planet.

  USC Digital Library掲載、アレックス・ビーチャム著『Outer Wilds: a game of curiosity-driven space exploration :: University of Southern California Dissertations and Theses』

 POI‐好奇芯の網の背後には、プレイヤーが最初にどこを冒険しようとも、好奇芯4つのなかでとりわけ興味をそそられるものにまつわるPOIと遭遇するだろう……というアイデアがあります。

 The idea behind this POI­-Curiosity web is that no matter where the player chooses to explore first, she will stumble across a POI that attempts to pique her interest about one of the four Curiosities.

  USC Digital Library掲載、アレックス・ビーチャム著『Outer Wilds: a game of curiosity-driven space exploration :: University of Southern California Dissertations and Theses』

 あるいは『OW』が意図してデザインしたと云う好奇芯ーPOIsの網

 世界の核心に迫る重要な知識が得られる「好奇芯」にたいして、そこへたどり着くための情報を提示する3つのPOIs(関心のポイント群)が別個に配置され情報の網目をつくる……『OW』のこの工夫が、ジェンキンズ氏が紹介したハリウッド映画の古典的物語作法などにかなり忠実にしたがったものだったと知ったときは、独創的な天才たちに見えたビーチャム氏ら作り手もまた巨人の肩に乗る「善き生徒」だったのだなとほほえましく思うとともに、勉強や素直な姿勢の大切さを再確認しました。

 へそまがりだったりものぐさだったりで、どうしてもなんか要らんことをしたり必要なことをしなかったりしがちなぼくとしては胸が痛い箇所でもあります。

{なんならこのblogの訳文記事も、そんな具合で。

 機械翻訳の文章にしっくりこなくてぼくにとって正しそうに思える文章にしてみたあとで、後日あらためてGoogleさんらにおうかがいを立てたら「え、こっちのほうが正しいじゃん!?」とそちらへ戻すというような進行でした(笑)}

 くわえて、前回の論文勝手に邦訳記事では、ざっくり「プレイヤー」と訳しちゃいましたが、「the player」がshe/herで表されていたのは、ホッキング氏の対談を受けてのものなのかもしれません。

 『OW』本編をプレイしていて、とくに性別を強調したり示したりするシーンを覚えていないので、前回は上述のように女性性をオミットしたかたちで訳してしまいましたが、ここでも一つの冒険が行なわれていたのかもしれません。そのまま訳すべきでした。

 

 また、論文の最後に、いささか唐突にも思える形で盛り込まれた「ファンコミュニティが盛り上がるのでは?」というお話もこれらの論考を読んだことで導線が見えてきたような思いがあります。

 ジェンキンズ氏がそういったことにも興味があったからなのかもしれませんし、(ビーチャム氏の論文で直接引用こそありませんでしたが)より明示的に体験の共有する楽しみ(「やあ! あれを見たかい!?"HEY! Did you see THAT!?"」)を語ったカーソン氏の論考にも目を通していたのかもしれません。

 ホッキング氏が語ったオープンワールドゲーム世界の(一回性の)美を、独特のメカニズムで不可逆的にうごく『Outer Wilds』太陽系/星々へと発展させたうえで、そこへファンコミュニティへシェアする楽しみへと結びつけたのは、習っただけでなく応用もしてみせる、クリエイターとしての柔軟性がうかがえます。

 

 間にもとづいた表現形式(メディウムであるにもかかわらず、時間経過によって不可逆的に変化していく世界をフィーチャーしたゲームは比較的すくないです。特に、多くのオープンワールド・ゲームは、望むかぎり長時間ずっと自由に冒険できることがこのジャンルの魅力の大部分です。

 オープンワールド・ゲーム『スカイリム』では、大地がドラゴンからの襲撃のさなかにあってさえ、たとえプレイヤーが世界を救うことよりも山を登攀したり錬金術の薬を集めたりすることを優先したところで何も悪いことは起こりません。

 プレイヤーの入力をはっきり待ってくれるようゲーム世界をデザインすると、数ある不快だったり管理困難だったりするシチュエーションを回避できますし(e.g.もし時間内にプレイヤーが世界を救うことに失敗したら、ゲームが単純にエンディングを迎えないとか)、結果、プレイヤーを中心として回るなかなか(fairly)安定した世界となる傾向にあります。

   Despite being a time­-based medium, relatively few games feature worlds that are irreversibly changed by the passage of time. This is especially true of many open­world games, where being allowed to freely explore for as long as desired is a large part of their appeal. Even though the open­world game Skyrim takes place in a land under attack by dragons, nothing bad happens if players choose to put saving the world on hold to climb a mountain or collect potion ingredients. While designing a world that clearly waits on player input sidesteps many undesirable and difficult­-to-­manage situations (e.g., the game does not simply end if players fail to save the world in time), it tends to result in a fairly stable world that necessarily revolves around the player.

 ちろん、私たちの生きる宇宙は、はっきりくっきり私たちを中心に回ってなんていません。

 現実世界の宇宙探査は、私たちの地球がこの宇宙という舞台においてどれだけ矮小で無意味であるかを絶えずわたしたちの肝に銘じてくれる、信じられないくらい謙虚な仕事となる傾向にあります。

   Of course, we live in a Universe that very clearly does not revolve around us. Real­world space exploration tends to be an incredibly humbling affair that constantly reminds us how small and insignificant our planet truly is on the cosmic stage. 

   USC Digital Library掲載、アレックス・ビーチャム著『Outer Wilds: a game of curiosity-driven space exploration :: University of Southern California Dissertations and Theses』

 001年宇宙の旅』『アポロ13』から強いインスピレーションを受け、そのテーマや美学を『Outer Wilds』は引いています。(略)『Outer Wilds』は宇宙空間を摩擦なしの無重力環境として正確に表現します。この宇宙旅行はプレイヤーの直感とはかけ離れてしまいますが、より現実的で危険味を感じさせてくれもすることでしょう。

   Outer Wilds draws much of its thematic and aesthetic inspiration from the films Apollo 13 and 2001: A Space Odyssey. (略)Outer Wilds accurately represents space as a frictionless zero-­gravity environment.

   USC Digital Library掲載、アレックス・ビーチャム著『Outer Wilds: a game of curiosity-driven space exploration :: University of Southern California Dissertations and Theses』(中略は引用者による)

 逆にすごいなとより一層思ったのは、冒険や宇宙モノといった既存のジャンル的伝統を導入しようという考えのなかで、「(酸素があるとはかぎらず重力も地球とことなる、宇宙という)世界設定に忠実であるために、プレイヤーにとって不快な操作感を盛り込む」と明確に決めていたことです。コンセプトを統一することはジェンキンズ氏が没入感の強い体験のためのセオリーとしてしっかり述べていることですが、後者は必ずしもそうではない

 ジェンキンズ氏が紹介した空間的物語によって生み出される感情は、もちろん親近感を覚えたりストーリーへの興味を牽引させたり(「サクヌッセンム辿り」)、成功をより鮮やかにしたりタッチダウンに対する敵プレイヤーの反応)、ノスタルジーや切なさを誘ったり(メロドラマの空間描写、『シムズ』)などといった例はありますし……

 Outer Wilds』の美学として意図しているのは、旅行(バックパッキング)ないし登山探検にNASAの詩情を染みこませた感覚を呼び起こすことです。

 装備はわずかに使い古した探検家道具のようで、惑星は現実世界の地理的特徴と気候帯を微妙に取り入れた異星。

 大胆かつはかない宇宙旅行の性質を、冷めたくて不毛で非人間的なものと感じさせないかたちでとらえてもらうよう狙いました。

 The aesthetics of Outer Wilds are meant to evoke the feel of a backpacking or mountaineering expedition infused with NASA sensibilities. Equipment is made to look like slightly worn expedition gear, and the planets themselves are subtly alien takes on real­world geographical features and climate zones. The goal is to capture the daring and fragile nature of space travel without making it feel cold, sterile, or impersonal.

   USC Digital Library掲載、アレックス・ビーチャム著『Outer Wilds: a game of curiosity-driven space exploration :: University of Southern California Dissertations and Theses』

 ……『OW』にも活かされています。

 ですが、そのなかで大きく取り扱われた例を見ていくと『アリス・イン・ナイトメア』のサイコな世界だったり『Majestic』の{聞いてるだけで面倒くさそうな(笑)}探偵モノ・陰謀論の世界だったりと、けっこう厄介な代物もまた多い。

 この感想で寄り道して紹介した「バイオハザード・ザ・リアル」が――ゾンビに襲われて死んでばかりでクリアはほぼ絶望的な高難度が、むしろアトラクションの魅力になった――わかりやすいとおり、空間的物語が可能にするという没入感の強い物語体験の利点は実は、それ単体では不快であることを和らげたりむしろそれこそが良いものであると逆転させたりできる点にあるかもしれません。

 

 ジェンキンズ氏の論考に対するユール氏の主張を全面的に受け入れたとして、それでも残る部分はあるのか?

 それでもなお、空間的物語は作品にたいする深い没入感をもたらす強みがある、ということは言えるのではないかとぼくは思います。

 妙なクセがある宇宙船の操縦や重力のことなる異星での身動きなど、操作性についてSteamのユーザーレビューねとらぼなどメディアのプロのライター・作家によるレビューでさえも難色を示されている一方で、ンテンドーダイレクトの紹介動画でも宇宙船がドタンと乱暴に着陸するさまがピックアップされていた(0:33)とおり、あるいはストリーマーの実況配信動画に寄せられたファンからのコメントとして減速不足による惑星へ激突からの宇宙船故障と、修理にあたったさいの状態からくる当然の帰結としての死自動操縦の仕様と各惑星の動きの妙による太陽へ誤突入焼死がタイムスタンプされていたりするとおり、それが妙にクセになったりその世界に魅了されたりした者もまた多く生んだ『Outer Wilds』は、ジェンキンズ氏の論考が暗に示唆していたことの証明となるかもしれません。

 

 そして『Outer Wilds』の冒険は、厳格な思考を組み立てていくユール氏さえも乗り越えていく部分があったのでは?*69

ゲームでは、挑戦課題に取り組むのは現実世界上のプレイヤーであり、そしてそれを乗り越えること自体がポジティブな経験だと考えられている。虚構世界上の目標は、現実世界でのプレイヤーの目標に似せたものでなければならない。それゆえ、それもまた感情的にポジティブなものでなければならない。たとえば、トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』にもとづいたゲーム――つまり、最終的にプレイヤーキャラクタが列車に身を投げるのがプレイヤーの目標になっているようなゲーム――を想像するのは難しい(Ryan 2001a)。その目標は、プレイヤーが達成したいと思えるようなものでなければならないのだ。『ハムレット』にもとづいたゲームも同様だ。このゲームの宣伝文句は、おそらく次のようなものになるだろう。「君の父上が殺されたぞ!さあがんばって復讐に失敗してむだ死にしよう!」。

    ニューゲームズオーダー刊、イェスパー・ユール著『ハーフリアル:虚実のあいだのビデオゲームkindle版73%(位置No.4721中 3418)、「Chapter 4 フィクション」プレイヤーと虚構世界 より

一方で、悲劇的なゲームを作るのは難しい。悲劇は、どうにもならない出来事が進んでいきつつも、全体としてなにかしらの意味深いものになるものだ。それに対して、ゲームはふつう、状況に対する権限が与えられ、挑戦課題を乗り越えることができるものだ。どうにもならずにプレイヤーが死ぬようなゲームは、だめなゲームだろう。これは、悲劇的なゲームが不可能だということではない。たんに、悲劇的なゲームを作ることの難しさがゲームというフォーマットに本来的に含まれている問題だということだ。

   ニューゲームズオーダー刊、イェスパー・ユール著『ハーフリアル:虚実のあいだのビデオゲームkindle版74%(位置No.4721中 3443)、「Chapter 4 フィクション」プレイヤーと虚構世界 より

 『Outer Wilds』はコンセプトや作品世界の設定に忠実であるために、インタラクティビティさえもが――プレイヤーによる働きかけ(エージェンシー)さえもが天秤にかけられるゲームです。プレイヤーの冒険によって動かせる部分もあれば、そうでない部分もある。

 現実世界の宇宙探査とおなじく「どれだけ矮小で無意味であるかを絶えずわたしたちの肝に銘じてくれる、信じられないくらい謙虚な仕事」を忠実にこなした果てに迎えた結末は、はたしてプレイヤーにとってどうであったか?

 

 もしこの3つの論考を読んだかたのなかでゲーム本編を未プレイだというかたがいらっしゃるなら、ぜひ『Outer Wilds』の太陽系へ飛び込んでみてください。

 あなたが膨らませた好奇心に、よかれあしかれきっと応えてくれる世界がきっとデザインされていて、そこでの体験はもしかすると、あなたにとって何よりも代えがたいものになってくれるかもしれません。*70

 ぼくはなりました。

 

 

更新履歴

(誤字脱字修正・訳し間違えは適宜。多すぎるので書きません)

10/22 1時  アップ 152932字(訳文45000字+原文79923字+感想24000字)

10/23 2時  追記 156000字

 申し訳程度ながら『Outer Wilds』のメインストーリーネタバレをぼやかす。

 「SFは世界創造にかまけて物語おろそかにしがち」批判の例として、以前紹介した、M.ジョン・ハリスン氏による「SFオタクどすどす歩き」批判にかんする当blog記事へリンク。

 3Dゲーム設計とディズニーランド設計について、98年のスティーブン・クラーク‐ウィルソン氏による「Applying Game Design to Virtual Environments」、カーソン氏の「パート2」記事を追加で紹介。

10/23 22時  追記 159000字 ジェンキンズ氏の論考のなかで、後の単著『コンヴァージェンス・カルチャー』と関係する記述について補足を脚注に

10/25 8時  追記 160000字 スコット・ロジャーズ氏によるGDC2009講演(Inside小野氏取材記事)の話を追加。giant bombなどによればロジャーズ氏はその後12年にWディズニーイマジニアリングに入って複数年働いたらしい。

10/28  追記 165000字 『OW』論文で主人公が「she」「her」と表されたこととホッキング氏の対話とをつなげた想像を追加。前回の記事でそれらを省いたことも述べる(訳もあらためました)。

11/25  改稿 冒頭「On the one hand, I understand what these writers are arguing against~」の文章が真逆に取れる訳文だったので訂正。(「ナラトロジストのゲーム観に対して、ルドロジスト達が上記引用文のとおり反論するのは、私ジェンキンズもわかるっすよ……」という風にぼくは読んだが、ぼくの訳文はそうとは読めない文章だった)

2022年1/28  追記 この記事で話題にしなかったユール氏の他書に触れた「かわいいゾウさんを撃つーー『It Takes Two』について」をよみ、感想文最後に氏をひきあいにだしたところについて「性急だったのかも」と一言いれた。

05/03  追記 ケヴィン・リンチ『都市のイメージ』引用箇所の既訳や前後の文章を追加する。

05/06  追記 カーソンの論考の一文「trail of symbols scratched into subterranean walls」をなぜこう意訳したかについて説明をくわえた。

 

 

 

 

*1:たとえば「物語による建築物」とした「Narrative Architecture」。このタームには既訳があって、アーネスト・アダムス&ヨリス・ドーマンズ著ームメカニクス おもしろくするためのゲームデザイン(Professional Game Developerシリーズ)を訳した山本貴光さんは同書で「ナラティブアーキテクチャ」と表しています。武蔵野大学社会学部講師をつとめたゲーム研究者・増田泰子さんは「ナラティブの建築術としてのゲームデザイン」としています。でも「もっと"空間""モノ"っぽい言葉がいいな」と建築物にしちゃいました。

*2:このblogでいろいろ記事を紹介させてもらった『Game Developer』が掲載している記事のなかだと、ざっと漁ったらゲームクリエイタースティーブン・クラーク‐ウィルソン氏が1998年にSIGGRAPHで発表した論考「Applying Game Design to Virtual Environments」が引っかかりましたが、これは3Dゲームにおける空間や事物表現のノウハウについてで、ストーリーテリングとはほぼ無関係のお話でした。

 しかしウィルソン氏のこの論考でも、3D空間の美術をディズニーランドのそれにたとえたりディズニーランド設計のノウハウ「ウィンナ(weenie)」から援用したりなど、遊園地業界と無縁ではありません。

 後年の関連する話題としては、『ゴッド・オブ・ウォー』などにかかわったTHQスコット・ロジャーズ氏により「Everything I Learned About Level Design I Learned from Disneyland(レベルデザインの知識はすべてディズニーランドから学んだ)という講演がGDC2009で行なわれており、INSIDE小野憲史氏の取材記事を読むに、ウィルソン氏やカーソン氏のそれとかなり重なる内容でした。講演当時までこそ違っていたものの、このロジャーズ氏もまた12年から複数年ウォルト・ディズニー・イマジニアリングに入職・そこで働くこととなったらしい。

*3:リンク先音声記録。文字情報としては、『Game Developer』にそれを要約紹介した記事などがあるみたいです。なおGDCとはGame Developers Conference=ゲーム開発者会議のことで、ヘンリー・ジェンキンズ氏の論考脚注で引用されるクリス・クロフォード氏は、発端となった1988年のCGDC主催者でもあります。

*4:元の論考の初出は2004年です。

*5:この論争や、後述ジェンキンズ氏の4つの物語については、「内容ざっと説明」で挙げた増田氏のCEDEC2006レギュラーセッション や、ゲーム研究者の松永伸司さんのウェブ記事『ゲーム研究と「ナラティブ」』も参考になりそうです。

*6:リーダビリティの確保のため、本文を「です・ます」体、引用文を「だ・である」体に訳し分けてみましたが、妙な色をつけちゃったかもしれません……。

*7:アメリカ出身イギリス在住のゲーム研究者。IGDA国際ゲーム開発者協会(と名をかえたCGDAコンピュータゲーム開発者協会)の創設者でもある。邦訳書にヨリス・ドーマンズ氏との共著『ゲームメカニクス おもしろくするためのゲームデザイン

*8:TRPG『パラノイア』の生みの親のひとり。

*9:ゲーム研究者。邦訳書に『しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン』『ハーフリアル: 虚実のあいだのビデオゲーム』

*10:リンク先は日本語版ウィキペディア。テクストの相互関連。

*11:リンク先は英語版ウィキペディア。映画みたいに劇的な筋書きや演出があるうえで、受け手が(観客としてただ観るだけでなく)プレイヤーとしてストーリー進行に関与できもする表現媒体のこと。

*12:リンク先は日本語版ウィキペディア非線形の語り口のこと。

*13:リンク先は日本語版ウィキペディアタイトーパズルボブル』のシステムにならったゲーム。

*14:と直訳したけど、増田氏による「ナラティヴ的な動機づけ」が一番わかりやすい。

*15:ゲーム紹介記事としてはWIRED「プレイヤーの現実に侵入してくる『マジェスティック』の世界」も参考になりそう。

*16:ジェンキンズ氏独自の概念で、21年に邦訳の出た『コンヴァージェンス・カルチャー』にて詳述される。ネットで無料で読める記事だと、CEDEC2019でおこなわれた有限会社エレメンツ石川淳一氏による紹介講演を、4Gamerが報じています。

*17:余談ですがモノポリーの物語について、イェスパー・ユール氏は『ハーフリアル』で面白いことを言っています。前段でウンターストライク』エイク3アリーナ』の対人戦モードについて、ラウンド中のリスポーン回数や頻度などちょっとしたルールの違いが、チームで協力するか個人行動を優先するかプレイスタイルの変化を創発しているのだ……という旨を語ったユール氏。じつはモノポリーもそんな創発ゲームのひとつなんだと云います。

『Monopoly』の対局は、最後に残ったふたりのプレイヤーのうちの一方が破産して終わる。もちろん、『Monopoly』のルールに「プレイヤーは破産することになる」と書いているわけではない。それにもかかわらず、この出来事は、『Monopoly』のルールとプレイヤーの勝ちへの欲求の結果として、ほぼ必ず生じる。ゲームツリーとして見れば、『Monopoly』の対局がプレイヤーの破産に終わるのは、プレイヤー全員が勝ちを目指してゲームツリーのうちの特定の部分を進んでいった結果だ。

   ニューゲームズオーダー刊、イェスパー・ユール著『ハーフリアル:虚実のあいだのビデオゲームkindle版47%(位置No.4721中 2176)、「Chapter 3 ルール」ゲームプレイ――ルールの実行 より

 ユール氏の記述を参考にすれば、ジェンキンズ氏の言うこの「物語」も、だれに命じられるでもなくプレイスタイルが勝手に生みだしプレイヤーが見出してしまったものなんだとか。へぇ~!

*18:ピーター・ジャクソン監督『ロード・オブ・ザ・リング』として映画化されたファンタジー小説指輪物語』の作者。

*19:『海底2万マイル』や『月世界へ行く』、『八十日間世界一周』など記したフランスSFの父。『十五少年漂流記』も氏の執筆。ヴェルヌがこの論考で出てきた理由は「埋め込まれた物語」の項を参照のこと。

*20:オズの魔法使い』作者。

*21:『野生の呼び声』などの作者。『どん底の人々』などルポルタージュでも有名。

*22:たとえばジェンキンズ氏による論考の数年後に書かれた、作家M.ジョン・ハリスン氏がじしんのblogで書いた「SFは世界構築(world-building)重視で物語展開をおろそかにする」という旨の批判は、英語圏でけっこう話題になったみたいで、このblogでも取り上げましたね。

(『アイアンマン3』原作コミックや、ブルース・ウィリス主演の老人スパイ達のカムバック映画『RED』シリーズ原作を手がけた作家)ウォーレン・エリス氏なども「なんとすごい」と反応されていましたし、『都市と都市』がBBCでドラマ化された作家チャイナ・ミエヴィル氏などもインタビューで応答をもとめられています。「great clomping foot of nerdism」=「オタクのドスドス歩き(ってところなんすかね?)」というハリスン氏の言でググれば当時の空気がいくらか垣間見られます。

 十年以上経った2018年でさえ、(かのノーベル賞受賞の経済学者ポール・クルーグマン氏に称賛された!)SF作家チャールズ・ストロス氏がblogで「ハリスン氏は正しいが、でもSFはむしろドシドシ歩くべきだよ」という旨の、世界構築の重要性について自論を展開していたりします。

*23:リンク先の自己紹介や引用論考に書かれているとおり、ドン・カーソン氏自身もまたゲームデザイナーであるそうです。

*24:dropped into=自然に…なる/…に立ち寄る。だけど、つづくripeと併せて読むと「実が熟して落ちる」イメージが浮かび、それがエスケリネンの引用文にあった、(「現実ではそうなることを期待しない、物語的展開であるところの)「ボールをdropすること」とつながってぼくには感じられたんで、悪凝りしました。

*25:当該論考を読んだ感じだと、「来園者の認識/注目しうる表層」という具合か? カーソン氏は乗り物アトラクション『カリブの海賊』を"歩いて"回れる機会をはじめて得たさい、ひと息つこうと「漆喰の建物」へ寄り掛かったら、実はそれがピンと張ったキャンバスに描かれた絵であったことにショックを受けた思い出を語っています。

*26:オブリビオン』や『スカイリム』、『フォールアウト』などで知られるベセスダ・ソフトワークスの海賊ゲーム。リンク先は4gamersによる紹介記事

*27:ジェンキンズが唱える4つの「環境ストーリーテリング」のうち後ろ2つについては、松永氏のウェブ記事『ゲーム研究と「ナラティブ」』がまた参考になるでしょう。

 2000年のGDCでマーク・ルブラン氏が提示した「埋め込まれた物語」「創発的物語」という対立概念をひとまとめにした(かもしれない)ジェンキンズ氏の論考は包括的すぎるという見方もできそうです。

*28:アメリカン・マギー=ゲームクリエイターで、『アリス・イン・ナイトメア』のディレクター・共同脚本家・デザイナーをつとめた。

*29:『コンヴァージェンス・カルチャー』では、「第4章 エンティン・タランティーノの『スター・ウォーズ』?――草の根の創造性とメディア産業の出会い」と題して、一章の大体を『スター・ウォーズ』シリーズの多メディア展開・ファンコミュニティの成長について捧げられています。

 くわしいファンからしたら常識なのかもしれませんが、自作をつよくコントロールする暴君的側面が話題にされがちなシリーズ創造主ジョージ・ルーカス氏が具体的にどういうことをしたのか? そういう風に言われるなかで、『SW』世界の帝国兵士の日常仕事を『全米警察24時 コップス』風にえがいた二重パロディ多重二次創作自主映画『帝国兵士24時 トループス』が当のルーカス氏の目にとまり、そのまま公式コミックスの脚本をまかされた……というケヴィン・ルビオ氏のケースや。公式ファン映画コンテストを開催すれば応募作が250本以上あつまるアマチュア創作文化の隆盛と合法違法さまざまなファン作品の詳細、後の脚注でふれる公式ゲームスター・ウォーズ・ギャラクシーズ』の双方的な開発過程などなど、いろいろ勉強になりました。

*30:ここについては、『コンヴァージェンス・カルチャー』の一項分の銀河をデザインする」が更なる理解の助けとなりそうです。

 その項でジェンキンズ氏は、ター・ウォーズ・ギャラクシーズ』の開発責任者ラフ・コスター氏の同作への見解を紹介しています。

 コスターが『スター・ウォーズ・ギャラクシーズ』開発に関心を向けたときに気付いたこととは、自分がこれから仕事をするフランチャイズには、アクションフィギュアを使ったり、裏庭でごっこ遊びをしたりして登場キャラクターの役を演じて育ち、デジタルの世界に同じファンタジーが描かれるのを見たいと思っている、細かいところまで知り尽くした熱狂的ファンがいるということだった。

   晶文社刊、ヘンリー・ジェンキンズ著『コンヴァージェンス・カルチャー ファンとメディアがつくる参加型文化』kindle版51%(位置No.9746中 4908)、「第4章 クエンティン・タランティーノの『スター・ウォーズ』?――草の根の創造性とメディア産業の出会い」自分の銀河をデザインする より

 そんなコスター氏がファンコミュニティへ送った(長年の『SW』ファンが期待しているであろう、SW世界の一住人として暮らす面白味について具体的に語った)所信表明や、上述のファンの需要に叶えるために取った『ギャラクシーズ』の開発過程が原典の映画製作にたいして違いを生んだか、完成したゲームをファンがどのように楽しんでいるかの記述もまた興味ぶかい。

*31:原文ではlassiなので、もしかしたら勘違いかも。lazziは英語版ウィキペディアによればコメディア・デラルテにおける「喜劇のストック・ルーチン」のことで、ピンのネタ、コンビ芸、劇団全体用と多種多様のネタがあるそう。

(ひとりでやるネタとしては、移民労働者のストックキャラクター「ザンニ」が、風俗をしている妹のことを「自宅で"人類についての学校"を開いている」と言い表したり。複数人でやるネタとしては、上流階級のストックキャラがワインを注ぐが、それは召使がストローで主人の器を空にしたからだった……という「ストローのラッツォ」と呼ばれるネタが。全員でやるネタとしては、部屋が真っ暗になったていで一団がよろよろ歩いてつまずいたり七転八倒を演じる「夕暮れのラッツォ」などがあるそう)

*32:memory palace=古代ギリシアの時代にはあったとされる記憶術。場所法とも。名探偵シャーロック・ホームズが使っていたとされる。

「そう。つまりこういうことです――」彼は説明した。「――ぼくの考えだと、人間の脳というのはもともと小さなからっぽの屋根裏部屋のようなもので、ひとはおのおのその屋根裏に、選び抜いた家具だけをしまっておくようにしなきゃいけない。ところが、愚かな連中は、たまたま目についたものをなんでも見さかいなくそこに詰めこんでしまうから、おかげで、役に立つ知識もそのために押しだされてしまったり、あるいは、せいぜいよく言っても、ほかのがらくたのなかにまぎれこんで、いざというときにとりだせなかったりする。そこへいくと、熟練した職人は、なにを自分の脳という屋根裏にとりいれるか、その点についてはきわめて慎重です。とりいれるのは、自分の仕事に役だつはずの道具だけですが、それでも、とりいれたものは非常に多岐にわたるし、しかもすべてが完璧に整頓されている。

   東京創元社刊(創元推理文庫)、コナン・ドイル『緋色の研究【新訳版】』kindle版10%(位置No.3391中 308)、「2 推理の科学」より

 また、名犯人ハンニバル・レクターは明示的かつ拡張的に使用していた。

クラリススターリングが落葉の舞う森のコースを走っている光景は、頭の中の"記憶の宮殿"にしっかりと刻まれている。それは"宮殿"の入口から一秒とたたないうちにたどり着ける、またとない楽しみの源だった。博士はスターリングの走っている姿を脳裏に甦らせる。彼の視覚的な記憶力はズバ抜けているので、あの光景を探るうちに新たなディテイルを確かめることができる。耳には、あの大きな逞しいオジロジカが傍らを跳躍して坂をのぼってゆく音が聞こえる。彼らの肘のあたりの皮膚の硬結した箇所や、すぐ近くを走る鹿の腹部に貼りついていた茨が見える。その記憶を、博士は別の時代の別の鹿、あの矢が突き刺さっていた子鹿から可能な限り遠く離れた、日当たりのよい”宮殿”の一室に蓄えた……。

   新潮社刊(新潮文庫)、トマス・ハリスハンニバル(下)』kindle版28%(406ページ中 111ページ目・位置No.5354中 1465)、「第三部 新世界へ」より

*33:ハーフライフ』はつぎに紹介するカーソン氏の論考で絶賛された作品です。ほかにもまたアーネスト・アダムス&ヨリス・ドーマンズ氏は自著で、『ハーフライフ』を「ストーリーテリングを活かし」た「傑出した例」として紹介します。

このファーストパーソンシューターのアクションゲームシリーズでは、プレイヤーは広大に見えて、実は狭い経路に絞り込まれた仮想世界を冒険する。ハーフライフのストーリーはすべてゲーム中に語られる。プレイヤーをゲームから引き離すようなカットシーンは一切なく、すべての対話はゲーム内のキャラクターによって行われており、耳を傾けるか無視するかはプレイヤーの選択に委ねられている。ハーフライフはプレイヤーのためによく構造化された体験を作り出し、ゲームを通じてプレイヤーを導く手法を美学の域まで完成させた。

   ソフトバンククリエイティブ刊、アーネスト・アダムス&ヨリス・ドーマンズ著『ゲームメカニクス おもしろくするためのゲームデザイン(Professional Game Developerシリーズ)』kindle版14%{位置No.396中 56(紙の印字でp.35)}、「第2章 創発型と進行型」2.4進行型ゲーム ゲームにおけるストーリーテリング より

*34:ただジェンキンズ氏の挙げる当該テクストを読めてないけど、ユール氏の別著『ハーフリアル』では、ちらっと読んだ感じそこまで極端な話をしていなさそう。

*35:自身の小説を映画化した『ヘル・レイザー』シリーズの生みの親として知られる作家クライヴ・バーカーが脚本した、エレクトロニック・アーツ社製ホラーFPS。リンク先は4gamerによる同ゲームの紹介記事

*36:ここについてカーソンがもとの論考で示す参考例も面白そうです。「環境全体にちらばったノートを完成させるにせよ、危険な生きものの破滅的な足跡を追うにせよ、この”サクヌッセンム辿り”はクリエイターが語ろうとしている物語のドラマ性を高めてくれます!」

*37:ンヴァージェンス・カルチャー』の一項ピクセルヴィジョンとマシニマは、明らかにこの一節を掘りさげ膨らませた内容なので、ここについて興味をもったかたはこちらもご一読をおすすめします。

 80年代末に100ドルで売られていた史上最も安価なカメラPXL2000(ピクセルヴィジョン2000)が独自の愛好家を生み、PXL撮影動画限定の映画祭をひらくなどコミュニティとして育った結果、PXL2000で撮られた映像が批評的な成功や商業映画の一シーンに採り入れられたのを紹介したジェンキンズ氏は、こういうムーブメントが「ふつうの人々の手に創造的な表現をするための低コストで使いやすいツールが届くようになる」デジタル革命の恩恵であるという声を拾って、おなじ色が見えるマシニマの誕生と発展をつづけて取り上げていきます。

 マシニマとは、ゲームエンジンを使ってリアルタイムで作られた3Dデジタルアニメーションの総称で、93年のゲーム『ドゥーム』に付属した「ゲーム内アクションの記録再生のサポートプログラム」を利用したのが始まりだったと云います。そこから更に"その後のゲームでは、プレイヤーが自分のデジタル資産を作ったり、ゲーム世界のキャラクターや特徴に自分の「スキン」(略)をかぶせたりできるような、さらにもっと洗練されたツールが出てくるようになった。"……とのこと。

*38:『コンヴァージェンス・カルチャー』「『・シムズ』のモールで」を読むと、ここで言われるプレイヤーの投稿は、もしかすると想像がしにくいタイプの「利用」もふくまれているかもしれません。

 上述の項でジェンキンズ氏は、作品のプログラムを書き換えて改造するMOD文化の流行について、そして『シムズ』製作者がそれについて好意的であり、それがどんな具合にファンコミュニティを活性化させているかについて触れます。その代表的なオンラインサイトが「『ザ・シムズ』のモール」なんですね。

訪問者は最先端の電子機器からヴィンテージの骨董品、中世のタペストリや見つけにくいサイズの服、ブリトニー・スピアーズ(略)ついでに言えば『スター・ウォーズ』のキャラクターにそっくりなスキンまで、何でも置いている50軒以上の違う店をブラウジングできる。モールは自前の新聞とテレビサービスも持っている。現在のところ、モールは1万人以上の会員がいると自称している。ライトによると、フランチャイズの成功のため、一番人気のサイト群が莫大な額のデータ使用料を請求されて支払う必要が出てきたため、ほぼファンコミュニティが絶滅しそうになったが、ファンが頒布センターの維持コストを取り戻すために少額の料金を課すのが許されるよう、会社が条件を書き換えた。

   晶文社刊、ヘンリー・ジェンキンズ著『コンヴァージェンス・カルチャー ファンとメディアがつくる参加型文化』kindle版53%(位置No.9746中 5081)、「第4章 クエンティン・タランティーノの『スター・ウォーズ』?――草の根の創造性とメディア産業の出会い」ザ・シムズ』のモールで より(略は引用者による)

*39:前後の文章を以下に引用します。

デザインの過程 The Process of Design

 現に存在してその機能を果たしている都市地域ならば,たとえその程度は弱いとしても,なんらかのストラクチャーstructure(構造)とアイデンティティidentity(実体)をもっているものである.ジャージー・シティでも全くの混沌状態からはよほど上等な段階にいるが,もしそうでなかったなら,人間に住める筈がないであろう.ほとんどどんな場合でも,やがて強力なイメージとなるような素質は,その現実自体の中に隠されているものである.このことは,ジャージー・シティのパリセーズ(絶壁)や,その半島型の形状,マンハッタンとの関係などを考えてみても明らかである.そこでしばしば問題となるのは,すでに現存する環境を改善する賢い方法,つまりその中の強いイメージを発見して保存し,知覚上の困難を解決すること,とりわけ混乱の中に潜んでいるストラクチャーとアイデンティティとを引き出すことである.

 またデザイナーは,大規模な再開発が行なわれる時のように,新しいイメージの創造という問題に直面することもある.この問題は,まったく新しい広大な風景を知覚的に組み立てなければならないような,大都市地域の郊外拡張の場合にとくに重要となる.開発が徹底的かつ大規模であるので,自然の特徴はもはやストラクチャーにとっての十分な指針とはなりえない.現在の建設の速度が続く限り,小さな個別の条件に,形態を徐々に適合させるというような時間的余裕はない.したがってわれわれはこれまで以上に意識的なデザインに頼らなければならない.つまり感覚に訴えやすいものとするために,計画的にわれわれの周囲の世界を操作することに頼らねばならない.これまでにも都市のデザインの例は豊富にありはするが,今後のそれは,全く異なる空間的,時間的な規模で進められなければならないのである.

 このような都市の創造ないし改造は,都市あるいは都市地域のための"視覚プラン Visual Plan"ともいうべきものに沿って行なわれなければならないだろう.そのプランは,都市の規模における視覚的形態に関する勧告とか制限からなるものである.そのようなプランの準備は,まず,付録Bで詳述したテクニックを用いて,現存する形態とパブリック・イメージとを分析することから始まるであろう.この分析をもととして,重要なパブリック・イメージ,視覚的な悪条件と好条件の基本的なもの,決定的なイメージ・エレメントとエレメントの相互関係,さらにそれらの詳細にわたる特質や変化の可能性などを明らかにする図表とレポートとをまとめるのである.

   岩波書店刊、ケヴィン・リンチ丹下健三&富田玲子訳)『都市のイメージ』(1979年9月20日第12刷)p.146~7、「Ⅳ 都市の形態」デザインの過程 The Process of Design より(「感覚に~」の太字強調は引用者による)

 文中「付録Bで詳述したテクニック」とは、「市民の中から選び出した少数の標本を対象にして,かれらが環境に対して抱いているイメージについてインタビューすることと,訓練された観察者が現地を回りながら心に描くイメージを系統的に検討すること」p.181を指します。

 一言「都市計画」「都市開発」と聞くと、ついつい新参者のコンサルや箱物お役所仕事が抜本的に塗り替えられてしまう断絶的なものを想像してしまいますが、リンチ氏の手法はかなり泥臭いかたちの現地の味の抽出と料理なのでした。

*40:既訳と前後の文章を以下に引用します。

外界を知覚するにさいし,観察者自身が積極的な役割を演じなければならないし,そのイメージを発展させるのにも,創造的役目を受け持たなければならない.変化する要求に応じてそのイメージを変化させる力をもっていなければならない.細部にいたるまで緻密に決定的に秩序立てられた環境のもとでは,活動の新しいパターンは育たないであろう.岩のひとつひとつにまで物語がまつわっているような風景からは,新しい物語は生まれにくいであろう.現在の都市の混乱のただ中にいるわれわれにとっては,このことは危急の問題ではないかもしれないとしても,われわれの求めるものが,究局的な秩序ではなく,ますます発展しつづける可能性をもつ未完結な秩序なのだということを,このことは指摘しているのである.

   岩波書店刊、ケヴィン・リンチ丹下健三&富田玲子訳)『都市のイメージ』(1979年9月20日第12刷)p.7、「Ⅰ 環境のイメージ」わかりやすさ Legibility より。(「究局」は原文ママ

*41:既訳と前後の文章を以下に引用します。

 都市または大都市の形態が,なにか巨大な,層をなした秩序を表現するものでないことは明らかである.それは連続性をもち,全体としてまとまっていながら,入りくんでいて流動的な,複雑なパターンであろう.それは,何千もの市民の知覚的な習慣に対して柔軟で機能や意味の変化に対して開放的で,新しいイメージの形成を受け入れるものでもなければならない.それを見る人々を新しい世界探検へと誘うようなものでなければならないのである.

 われわれは,たんによく組み立てられたというだけの環境ではなく,詩的で,象徴的でもある環境を必要としている.それはそこに住む人々やかれらの複雑な社会をはじめ,かれらの願望,歴史的な伝統,自然の背景,そして都市世界がもつ複雑な機能や運動などのすべてを表現するものでなければならない.しかしストラクチャーの明晰さとアイデンティティの鮮明さこそ,強力なシンボルを育てるための,第一歩である.都市は目立った,しかもよくまとまった場所に見えることによってはじめて,これらの意味や連想を分類し,編制するための舞台となりうるのである.このような場所という感じそのものが,そこでおこなわれるすべての人間活動を活潑にし,記憶にとどめられるものを増すのである

   岩波書店刊、ケヴィン・リンチ丹下健三&富田玲子訳)『都市のイメージ』(1979年9月20日第12刷)p.151~2、「Ⅴ 新しいスケール」より(「このような場所という感じ~」の太字強調は引用者による)

*42:ググる松永氏による「アーセト」表記の11年のウェブ記事や、16年に本人と会ったべつの研究者・吉田寛さんの耳には「オーシェトとオーセトの中間くらい」に聞こえたこと・「オーシェト」と表記した邦訳事例があることを記したツイッターのやりとりが出てきますが{松永氏が訳した『ハーフリアル』(16年邦訳)でも「オーシェト」と表記}

(あと別口で、11年に山本貴光さんが訳したケイティ・サレン&エリック・ジマーマン著ルールズ・オブ・プレイ――ゲームデザインの基礎』「ユニット3 遊び」26.物語の遊びとしてのゲームでは、「オーセス」表記ででてくる)

 松永氏の最近の自著ビデオゲームの美学』(21年1月刊)では「オーセット」表記。この記事では最後の本にならうことにしました。

*43:とジェンキンズ氏は書いていますが、この意味でのルドロジーが「広まったきっかけ」として、イェスパー・ユール氏は『ハーフリアル』で、ゴンサロ・フラスカ(Gonzalo Frasca)氏の1999年の論文『ルドロジー物語論の出会い(Ludology Meets Narratology:Similitude and Differences between Video Games andnarrative)を挙げています。

*44:この論考は2000年発表です。なので1990年ごろからという意味ですね。

*45:再三の説明になりますが2000年発表の論考です。

*46:原文のつづりは「rein」ですが、「reign supreme」なのかな~ととらえました。

*47:「岩々へ~跡」の原文は「trail of symbols scratched into subterranean walls」。

 辞書で意味を確認すれば「subterranean=地下の/秘密の」「walls=壁(の複数形)」という具合で、意訳が過ぎるかもしれません。前者はまぁいいかもわかりませんが「『地底旅行』なんだから"地下"では?」みたいな疑問はよぎりますし、wallsが岩々になるほうは訳した自分からしても距離があることばだと思います。

 小説を開いてみると、サクヌッセンムの暗号が刻まれているのは①羊皮紙と②火口の岩と③地底の岩などで、「地下の」はおかしい。そして「壁」というのも我々がイメージする「壁」ではありません。

 ②と③の状況をそれぞれ引用すると、②は……

Je l'aperçus, les bras étendus, les jambes écartées, debout devant un roc de granit posé au centre du cratère, comme un énorme piédestal fait pour la statue d'un Pluton. Il était dans la pose d'un homme stupéfait, mais dont la stupéfaction fit bientôt place à une joie insensée.

みると、彼は、地底の王者プルートンの像をささえる大きな台座のような、火口の中央の花崗岩の前で、両腕をひらいて立っていた。彼の姿は、びっくり仰天した男のそれであったが、やがてその驚きは、気でも狂ったような喜びに変わった。

(略)

Et, partageant sa stupéfaction, sinon sa joie, je lus sur la face occidentale du bloc, en caractères runiques à demi-rongés par le temps, ce nom mille fois maudit:

わたしはの西側に、年月を経てなかば消えかけたルーン文字で、あのじつに呪わしい名前を読みとったとき、叔父のように喜びはしなかったが、やはりびっくりしてしまった。

   仏語原文はProject Gutenbergより。邦訳文は、東京創元社刊(創元SF文庫)、ジュール・ヴェルヌ(窪田般彌訳)『地底旅行』kindle版40%(位置No.4305中 1978~、1682)、16より(太字強調は引用者による)

 ……という具合で、③は……

Et, prodigieusement intéressés, nous voilà longeant la haute muraille, interrogeant les moindres fissures qui pouvaient se changer en galerie.

Nous arrivâmes ainsi à un endroit où le rivage se resserrait. La mer venait presque baigner le pied des contre-forts, laissant un passage large d'une toise au plus. Entre deux avancées de roc, on apercevait l'entrée d'un tunnel obscur.

Là, sur une plaque de granit, apparaissaient deux lettres mystérieuses à demi rongées, les deux initiales du hardi et fantastique voyageur:

 そこでわたしたちは、興味津々として絶壁にそって歩き、回廊に変わっていそうな小さな割れめをくまなくさがした。

 こうしてわれわれは岸がせまくなっている地点へたどり着いた。海はほとんど岩の足もとを洗っていた。せいぜい幅二メートルぐらいの、やっと歩いて通れるくらいの道しかなかった。そして、ふたつのつきでた岩のあいだに、暗いトンネルの入口がみつかった。

 そこの花崗岩の表面には、半分消えかかったふたつのふしぎな文字が、大胆で、じつにすばらしい旅行者の頭文字がきざまれていた。

   仏語原文はProject Gutenbergより。邦訳文は、東京創元社刊(創元SF文庫)、ジュール・ヴェルヌ(窪田般彌訳)『地底旅行』kindle版86%(位置No.4305中 3698~)、39より(太字強調は引用者による)

 ……という具合。そんなわけでこう訳しました。

*48:直下の文章を読むに、「3DCGモデルと物理演算による明暗だけでなくて、絵の具の書き込み的なかたちでも明暗を表現しましょう」という理解でよさそう。たとえばプラモデルにおけるスミ入れとかウォッシングやお化粧のシェーディングなど立体感あるメイクとかみたく、絵具で明暗を書き込んでしまうとか、あるいは映画や舞台やアトラクションの遠景の背景美術みたいに平面へ立体的なモノを絵として書いてしまうとか。

*49:『ウルティマ・オンライン』ネタなのかなぁ?

*50:リンク先音声記録。文字情報としては、『Game Developer』にそれを要約紹介した記事などがあるみたいです。なおGDCとはGame Developers Conference=ゲーム開発者会議のことで、ヘンリー・ジェンキンズ氏の論考脚注で引用されるクリス・クロフォード氏は、発端となった1988年のCGDC主催者でもあります。

*51:過去に存在したウェブメディアで、現『Game Developer』

*52:でも聞きかじりの半可通らしい適当な

*53:10/25追記;『Aesthetics and Design for Game-based Learning』がよさそうな情報を載せてそうな予感。日本語圏で紹介している記事はないかな)}

(10/23追記)『Game Developer』が掲載している記事のなかだと、ざっと漁ったらゲーム会社ヴァージンインタラクティブエンターテイメントの副社長をつとめたクリエイター{スーパーファミコンセガドライブのゲーム『ジャングルブック』『アラジン』などディズニーのゲームを複数製作したほか、世界でも有数に高価な「ゲーム」であるB-2ステルス爆撃機のコンピューターグラフィックスアルゴリズムも製作したことで有名な}スティーブン・クラーク‐ウィルソン(Stephen Clarke-Willson)氏が1998年にSIGGRAPHで発表した論考Applying Game Design to Virtual Environments」が引っかかりましたが、これは3Dゲームにおける空間や事物表現のノウハウについてで、環境ストーリーテリングとはほぼ無関係のお話でした。

 しかしウィルソン氏のこの論考でも、3Dゲーム空間が映画のセットではなくディズニーランドにたとえられたり{映画なら観客はセットの裏側に回ることなんてないので、映画のカメラが写す正面だけ美術を凝ればよいけど、ディズニーのアトラクションがゲストが偶然回ってしまう可能性ある部分までしっかり作り込むように、3Dゲーム空間についてもプレイヤーが動き回れる範囲はきちんと作り込みましょう}。地図を見ずに直感的に動き回れるよう、探索すべき場所を特別で興味ぶかいデザインのランドマークとして配置することがディズニーランド設計のノウハウ「ウィンナ{weenie}」から援用されたり……と、遊園地業界と無縁ではありません。

 

 (10/25追記)また、後年の関連する話題としては、『ゴッド・オブ・ウォー』などにかかわったTHQスコット・ロジャーズ氏(邦訳書に『「レベルアップ」のゲームデザイン――実戦で使えるゲーム作りのテクニック』により、Everything I Learned About Level Design I Learned from Disneyland{レベルデザインの知識はすべてディズニーランドから学んだ}という講演がGDC2009で行なわれています。

 INSIDE小野憲史氏の取材記事を読むに、この講演独自の論点もありますが、ウィルソン氏やカーソン氏のそれ{今回紹介したパート1と後日発表されたパート2とかなり重なる内容でした。

 「ウィンナ」=目立つランドマークに{≒ウィルソン氏/カーソン氏パート2}、枝分かれしつつも一点に集約する導線設計{脇道など寄り道の多い行きと直通の帰りで別々の経路が頭にはいるなども含む}とエリアのスタイルに合わせたバリエーション{≒カーソン氏パート2(カーソン氏の「By adding varied pathways~」図ロジャーズ氏の地図)。細部はことなりますが、曲がりくねったニューオーリンズエリアを例にしているのも同じです。(カーソン氏のfigure3&4ロジャーズ氏の地図)}、注目させたいところを目立たせる照明{≒カーソン氏パート1}、「環境によってストーリーを追体験させる」{カーソン氏パート1}、観衆の誘導となる目立つ物の配置{≒カーソン氏パート1}などなど……

 ……giant bombの紹介によればロジャーズ氏は12年にウォルト・ディズニー・イマジニアリングへ入職したとのことですが、それも納得の知見です。

Linkedinによればいまは退職しているようですが、『Aesthetics and Design for Game-based Learning』の15年出版当時は在職中で、すくなくとも2年以上は働いていたらしい}

*54:でもどう聞いてもYoutubeの文字起こしも「メサmesa」なんだよな……。単語調べてもよく意味がわからなかったのでメタにしちゃいましたが……。

*55:ジョン・ル・カレの小説。裏切りのサーカスとして映画化もされた。

*56:

 ムンバイに行きたいと思いました、「私たちはそこでなにをできるんだろう?」と。

 コントラストが欲しかったんです、ムンバイの富裕層が、貧困層が、列車が、インドだと思えるすべてのもの、味わいが。それで「オーケー、どういう方法ならマップの端から端まで横断するのが面白くなるんだ?」と理解する必要がありました。

 We wanted to go to Mumbai and like, "What are the things we can do?" We want contrast, we want the rich in there, we want the poverty, we want trains, and we want all of that's India, all those flavors. And then, we need to figure out "Okay, how do we make it interesting to traverse from one end of the map to the other end of the map?"

   Youtube、Noclip - Video Game Documentaries『Revealing the Tricks Behind Hitman's Level Design』7:45~、『ヒットマン2』ムンバイ編デザイナーMattias Engström氏の言

*57:講談社刊、ジェイソン・サーレル著ホーンテッドマンションのすべて』kindle版54%{位置No.139中 75(紙の印字でp.72)}

*58:講談社刊、ジェイソン・サーレル著ホーンテッドマンションのすべて』kindle版90%{位置No.139中 126(紙の印字でp.123)}

*59:講談社刊、ジェイソン・サーレル著ホーンテッドマンションのすべて』kindle版67%{位置No.139中 94(紙の印字でp.91)}

*60:講談社刊、ジェイソン・サーレル著ホーンテッドマンションのすべて』kindle版67%{位置No.139中 94(紙の印字でp.91)}

*61:講談社刊、ジェイソン・サーレル著ホーンテッドマンションのすべて』kindle版29%{位置No.139中 41(紙の印字でp.38)}

*62:講談社刊、ジェイソン・サーレル著ホーンテッドマンションのすべて』kindle版32%{位置No.139中 45(紙の印字でp.42)}

*63:講談社刊、ジェイソン・サーレル著ホーンテッドマンションのすべて』kindle版36%{位置No.139中 51~52(紙の印字でp.48~49)}

*64:講談社刊、ジェイソン・サーレル著ホーンテッドマンションのすべて』kindle版50%{位置No.139中 53(紙の印字でp.50)}

*65:KADOKAWA刊(角川文庫)、森岡毅著USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?』kindle版72%(位置No.2832中 2021)、「第6章 アイデアの神様を呼ぶ方法」生存確率限りなくゼロ!「バイオハザード・ザ・リアル」の苦闘 より

*66:KADOKAWA刊(角川文庫)、森岡毅著USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?』kindle版72%(位置No.2832中 2028)、「第6章 アイデアの神様を呼ぶ方法」生存確率限りなくゼロ!「バイオハザード・ザ・リアル」の苦闘 より

*67:KADOKAWA刊(角川文庫)、森岡毅著USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?』kindle版72%(位置No.2832中 2037)、「第6章 アイデアの神様を呼ぶ方法」生存確率限りなくゼロ!「バイオハザード・ザ・リアル」の苦闘 より

*68:KADOKAWA刊(角川文庫)、森岡毅著USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?』kindle版72%(位置No.2832中 2037)、「第6章 アイデアの神様を呼ぶ方法」生存確率限りなくゼロ!「バイオハザード・ザ・リアル」の苦闘 より

*69:2022年1/28追記;『ハーフリアル』の一節を引き合いにした考えでしたが、ユール氏の他作『しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン』未読のままこういう話をしたのは性急だったかもしれません。『名馬であれば馬のうち』さんによる「かわいいゾウさんを撃つーー『It Takes Two』について」で引用・紹介された内容を読むと、こちらもとても興味深そうな本です。

*70:ただ、これはゲームデザインというよりも仕様的な問題なんですが、わりあい移動速度が速いので酔うひとは酔います。ぼくも大きいTVに替えたら、ちょっとクラッとするようになりました。