すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

日記;2021/09/14~09/20

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/z/zzz_zzzz/20210922/20210922023303_original.jpg 日記です。1万7000字くらい。記憶がぼんやりしてるので、なんか思いだしたら追記するかも。

 『中世ヨーロッパ ファクトとフィクション』からリドスコロビン・フッド』をふりかえったりした週。

 ※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※

 

0914(火)

 ■読みもの■

  日常業務のあいまの不定期仕事としての精神鑑定;『精神鑑定への誘い』読書中メモ

 これは何ですか;

 星和書店『精神鑑定への誘い』は、精神鑑定のビギナーガイドです。著者は、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所の司法精神医学研究部で、精神鑑定研究室長をつとめる安藤久美子氏。

 某マンガで話題になった、精神鑑定による心神喪失状態や責任能力の有無。これってけっきょく何? ということでいくつか本とかを読んでみているうちの一冊です。

 読んでみた感想;

 先日の日記で読書メモを記した(「親に責任転嫁の甘ったれ男」は、通信簿1/WAIS-R算定IQ49だが親に「ふつう」を求められ続けた男だった;八王子通り魔殺傷事件にかんする当時の報道と実際」)岩波明人に至る「病」』の八王子通り魔殺傷事件にかんする記述や、同著中野テレビ騒音殺人事件の記述は(そしてこの事件と鑑定について、岩波氏が大きく参照した秋元『刑事精神鑑定講義』は)、加害者や周囲の証言・加害者の半生を振り返って精神障害と判ずるに至る特徴を読んだり、適切な精神医学的なケアがそのひとになされていなかったことを読んだりするのが主でした。

 『精神鑑定への誘い』では、その辺については……

たとえば,一般精神医療における診断の際には,一人ひとりが持つ生物学的,心理学的,社会学的要件を分析して,ひとつの診たて(診断)を作ることになります。そして,その診たてに基づいて,精神療法,心理療法,疾病教育,薬物療法,環境調整,リハビリテーションなど,それぞれの個人に合った適切な治療法を考えていくわけです(図6-1)。

 精神鑑定の場合も基本的には同じです。

   星和書店刊、安藤久美子『精神鑑定への誘い』kindle版55%(位置No.2900中 1572)、「第6章 鑑定人は何をみているか」精神医学の診たてと治療 より(太字強調は引用者による)

 ……というような感じ。そして、ICD-10DSM-5など国際規格を参考にするとともに、厚生労働省「他害行為を行った者の責任能力鑑定に関する研究班」による『刑事責任能力に関する精神鑑定書作成の手引き』にしるされた7つの着眼点もまた参考にしましょうと。

(この項目がいくつ該当されているからどう、というような評価をしないように……との注意つき)

 かわりにミネソタ多面的人格目録やローゼンツヴァイクのPFスタディ、脳波検査にSPECTの紹介などが自身の経験とともに記されていて、とくに、「HTPP検査で、どんな人がどんな絵を描いてくるの?」「風景構成法でどんな人がどんな絵を描いてくるの?」(そして筆者はどんな風に解釈したの?)といったことが書いてあるのが興味ぶかかったです。

(HTPP検査も、風景構成法も、素人からすればフロイトの夢占いっぽいなぁと思ってしまうテストですが、安藤氏が言うには、自画像の画風には時代的変遷があり、描く人の性格変化を「感じざるをえません」とのこと)

 

(※上で名前をだした本にそういった要素が全くないわけではありません。

 たとえば秋元事精神鑑定講義』p.533では、加害者が記したノートを抜粋、レタリングされたアルファベットや数字五十音などの羅列を「この種の造形的表現はそれが意図的に制作されない限り,分裂病の人たちの作品に共通する特徴をそなえているといってよい。それは分裂病に特有な観念連合弛緩の具体的表現とされているものである」p.532と解釈、ノートの執筆時期が加害者の証言する「自己臭恐怖の症状を呈した時期と一致する」のを確かめて、「分裂病に特有な非現実的思考がはじまっていたとみなければならない」と判じます)

 

 精神科医のかたむけの指南書的な部分がけっこうあって、精神鑑定をする前段階の細部がすごい興味深い。

病院を鑑定留置先と定めて2~3カ月間病院に入院させて精神鑑定を実施する場合,保険は適用されずすべて自由診療です。鑑定期間中は,病棟内の保護室を一室占拠するわけですから,さまざまな管理料も含めると月100万円にものぼることがあるかもしれません。

 (略)検察庁や裁判所も予算の中で動いていますので,鑑定の検査費用として概ねどれくらいかかるのかということを最初に伝えておくとよいかもしれません。

   星和書店刊、安藤久美子『精神鑑定への誘い』kindle版22%(位置No.2900中 624)、「第5章 精神鑑定の実施方法」精神鑑定の流れ 2.鑑定依頼の受け方、(5)費用の確認 より(略は引用者による)

(6)資料の受け取り方法

 資料は,郵便や宅配便で送られてくる場合もありますし,直接検察庁や裁判所の職員が持参する場合もあります。また,鑑定人の人定尋問のあとに鑑定人自身が持ち帰ることもあります。

 その分量は5センチくらいのファイル1冊のケースもあれば,ある事件では大きな段ボール15箱が送られてきたこともありました。鑑定人といっても,常に精神鑑定だけを行っているわけではなく,むしろ日常は臨床や研究などを主な業務として従事していますので,たとえば自分のデスクの周りに15箱の段ボールが積まれたらどうでしょう。(略)ですから,資料の保管場所を確保するという意味でも,あらかじめ鑑定資料がどれくらいの分量になるかについても確認しておいたほうがよいでしょう。

   星和書店刊、安藤久美子『精神鑑定への誘い』kindle版22%(位置No.2900中 630)、「第5章 精神鑑定の実施方法」精神鑑定の流れ 2.鑑定依頼の受け方、(6)資料の受け取り方法 より(略は引用者による)

 

 

0915(水)

 宿直日。

 ■自律神経の乱れ■

  生活サイクルの乱れが顔に出た

 ここのところのマイブームであるFPS配信視聴熱によって夜更かしが加速し、顔に出来物が起ち、寝不足となり、頭が痛くなり申した。

 23時始まりの4時おわりに付き合うとか、連日じゃなくてもやっぱり心身ボロボロになりますな。よく朝まで1万2万人が同時視聴するもんだ。すごい。

 

 

0916(木)

 宿直明け日。

 

0917(金)

 台風にそなえて掃除をしました①。

 

0918(土)

 仕事休み。台風にそなえて掃除しました②。

 

 ■考えもの■読みもの■観たもの■

  R・スコット監督『ロビン・フッド』の虚実の巧みな綱渡り;『中世ヨーロッパ ファクトとフィクション』について映画と歴史に詳しい人の意見がききたい

(書き終わったのは9/22午前3時)

 要約;

●ウィンストン・ブラック『中世ヨーロッパ ファクトとフィクション』は面白いし興味ぶかいけど、監訳者から後書きで注記が入る程度には先行研究批判の筆が走っているらしい。

 ・監訳者氏が筆走りを言及するのは、ブラック氏による歴史家ミシュレ批判。そのほかについては特にない。

●ブラック氏のリドリー・スコット監督『ロビン・フッド』批判はおかしい。

 ・ブラック氏は「農民は風呂に全く入らず汚物にまみれ/貴族も年一しか風呂に入らない、不潔な中世」像をミシュレを鵜呑みにした偏見だと批判し、映画やテレビによりこの偏見が流布されていると言い、その「たいへん不穏」な例がリドスコロビン・フッド』なのだと名指しする。

 ・リドスコロビン・フッド』をじっさい観てみると、農村貴族が木樽風呂で入浴を、農民が外にある石の水瓶で水浴をする映画である。

 

 詳細;

 紋切り型フィクションと(そのイメージソースとなったかもしれない)実際のギャップについての話を前回の日記でちょっとしました。

 辺境にとんでもなく立派な城が建ちヒラヒラの衣服を着た女性がそこへ住まう『GoT』などファンタジー。それと接するさい某氏の頭によぎると云う、ちょっと小高い丘にせいぜい数階建ての建物が城代の「城」として立ち、村人によっては家の一階に連れた羊を「自然暖房装置」がわりに一緒に寝て過ごす『モンタイユー』の中世についてのお話です。

zzz-zzzz.hatenablog.com

 

 おなじ日記ページの別の項でぼくは、リドリー・スコット監督『キングダム・オブ・ヘヴン』の面白味にもほんのちょっとだけ触れたんですが、これはこれで色々と粗い見方なのかもしれないな? と思わされる記述を読みました。

www.youtube.com

 ぼくはほかにも同じくリドリー・スコット監督版『ビン・フッド』が好きなんですよ。フランスのひとびとがイギリスへ侵攻・領土を拡大すべく策をめぐらせるさい、牡蠣をナイフでこじ開け食べるくだりとか「良いなぁ~」(その後の展開を示唆するように、その食事でちょっとした痛手を負ったりするところも好きなんだけど、)という感じですし。イギリスの田舎村に住むキリスト教の司祭が、養蜂をし蜂蜜酒(ミード)をこしらえていたり。

 あるいはかんばしくなかった十字軍遠征の帰り道に、リチャード獅子心王の指揮するイギリス軍がフランスの丘上のお城へむかってDIYな攻城兵器を歩兵たちでオーエスオーエスひーこら言いながら押して行って(そして上述兵器にそなえられた滑落防止の機構の綱の先端で馬が物言わず綱を引っ張って下りながら)城攻めしている野営地で、仲間が戦闘をしているのを尻目に主人公らが周囲の森で獣を狩ってご飯にしようとしている書き込みなどがまたすてきだなと思うわけなんですが。

人々が起きたと思っていること

 中世の人々についてみなが知っていることを何か一つ挙げろ、となれば、今を生きる私たちよりずっと不潔だった、ということになるかもしれない。中世に生きた人々のほとんどは農民、つまり泥と肥やしにまみれて働き暮らした農業労働者だった。彼らの体からシラミやノミがいなくなることはなかった。ギリシア人やローマ人に普及していた石鹸や入浴習慣は、中世には貧富の差を問わずなくなってしまった。農民は汚物にまみれていたが、富裕な者たちはあるいは年に一度くらいは入浴したかもしれない。(略)

 私たちは、中世都市はこうして病気の蔓延を自ら招いたと信じ込んできた。(略)十字軍を扱った近著(児童書)は、出典を示すことなく、「十字軍はさほど入浴しなかったので、病気や伝染病にかかりやすかったのです」と書いている(Cartlidge 2002:26)

   平凡社刊、ウィンストン・ブラック著『中世ヨーロッパ ファクトとフィクション』kindle版23%(位置No.6022中 1366)、「第3章 農民は風呂に入ったことがなく、腐った肉を食べていた」人々が起きたと思っていること より(略は引用者による)

一般に流布した物語(ストーリー)――入浴について

 中世を通じて人々はずっと不潔だったという観念は、基本的にある人物に発するものだ。フランス人の歴史かジュール・ミシュレ(一七九八~一八七四年)である。(略)ミシュレは中世について、「千年ものあいだ、入浴という習慣がまったくなかった」(Michelet 1862, 110)と言い放ったことでじつに評判が悪い。彼は十九世紀フランスで人気を誇った著述家であり、多数の翻訳が出版されているが、それと軌を一にして中世をめぐる極端な見解が世界中に拡散された。ミシュレ本人は、中世にあこがれる同時代のフランス国内の保守派をあてこすって中世の不潔さを故意に誇張したふしがあるが、多くの人々がミシュレの言い分を文字通りに受け止めてしまっている。

   平凡社刊、ウィンストン・ブラック著『中世ヨーロッパ ファクトとフィクション』kindle版24%(位置No.6022中 1396)、「第3章 農民は風呂に入ったことがなく、腐った肉を食べていた」一般に流布した物語(ストーリー)――入浴について より(略は引用者による)

 ……ウィンストン・ブラック氏は世ヨーロッパ ファクトとフィクション』(原著2019年刊)で、こうした泥臭いウェザリングたっぷりの中世ヨーロッパ像はある種の都市伝説にもとづく誇張されたものだという見解をしめします。歴史考証的には、(ある思想を持っていたり、少数の例を一般論に拡大してしまったりなどした)ミシュレによるものなどが払底されずに引き継がれてしまった結果だった。

 そして映画にえがかれる中世像もまた独特の手つきがあり、くだんのリドスコ監督版『ロビン・フッド』もそんな作品の一つなのだと云います。

 中世を題材に二十世紀、二十一世紀に刊行された著作のほとんどは、たしかに、中世人の身体に関わるこの種の言い回しを避けているし、根拠の不確かな結論を控えてもいる。しかし、中世の農民だけでなく中世人はみな不潔だったという扱いは、映画やテレビを通じ繰り返し流布され続けている。典型的(ステレオタイプな場面で、カメラは豪華な衣装をまとい、手入れの行き届いた高貴な騎士淑女から、虐げられた農民の群衆へとパンする。農民たちの衣服はくたびれぼろぼろであり、顔と手は泥にまみれている。あえて汚されているのは、ばかばかしく不自然なまでの甘美な前時代の「中世」映画の衣装に満足しないぞという、歯に衣着せぬリアリズムによるものである。中世映画における泥とリアリズムの明瞭な粉飾・増量は、色鮮やかで颯爽たるエロール・フリン主演の『ロビン・フッドの冒険』(一九三八年、マイケル・カーティズとウィリアム・ケイリーの共同監督)から、ほこりまみれの友情劇であるケビン・コスナー主演の『ロビン・フッド(一九九一年、ケヴィン・レイノルズ監督)さらにはたいへん不穏で「歴史的にもっともらしいリアリズムの世界」を描くラッセル・クロウ主演の『ロビン・フッド(二〇一〇年、リドリー・スコット監督)に至る流れのなかに見て取ることができるだろう(Bildhauer 2016,57-58)。中世映画のなかで、泥と暴力は手を取り合って共存しているのだ。

 ロビンとその陽気な一党、森のアウトローの一団が多少泥をかぶっているのは、リアリズムの点から見てもありそうなことだろう。

   平凡社刊、ウィンストン・ブラック著『中世ヨーロッパ ファクトとフィクション』kindle版24%(位置No.6022中 1433)、「第3章 農民は風呂に入ったことがなく、腐った肉を食べていた」一般に流布した物語(ストーリー)――入浴について より(太字強調は引用者による)

 BD映像特典でリドリー・スコット監督は『ロビン・フッドの冒険』を引き合いに語っていたような気がありますし、たしかにブラック氏の言うことも一理ありそう。

 

ただおそらく意図してのことだと思うが、典型的なフィクションをあげつらうあまり、過度な誇張もまた避けられなかったようである。たとえばフィクションを広めた張本人としてたびたびジュール・ミシュレが登場するが、ブラックは、この歴史家が当時の一次史料をいっさい引用することなく中世観をでっち上げたかのように説明する。しかし、これはミシュレの戯画化というものである。実際のミシュレは多くの一次史料を参照・引用しており、その歴史家としての業績はもっと正当に評価されるべきだ。「史料」から乖離した過度な誇張こそが、フィクショナルな歴史観を生み出してしまう。ブラックのミシュレ批判は、皮肉にもそのようなことを教えてくれる。

   平凡社刊、ウィンストン・ブラック著『中世ヨーロッパ ファクトとフィクション』kindle版99%(位置No.6022中 5924)、「訳者あとがき」より

 でも監訳者の大貫俊夫さんが言うとおり、ブラック氏の言及は、ぼくにとって色々よくわからないところがあるんですよね……。

 中世の清潔さについてブラック氏は、「パリの街路で湯が熱すぎると大声で叫ぶ入浴客について」書いた12世紀の学者アレクサンダー・ネッカムの記録、パリに公衆浴場が32箇所あったことなどを挙げます。

 もっとも貧しい人びとは、仕方なしに公衆浴場へ行った。パリでは、一二九二年に、二六軒以上あったことが知られている。それは、日曜、祭日を除いて毎日営業していた。湯加減がよくなると、風呂の準備ができたことを知らせるために、公衆浴場の主人は、呼び込み人を町のあちこちに遣わした。しかし、夜明け前に、主人が呼び声を立てさせるのは固く禁じられていた。なぜかと言えば、真暗なうちから公衆浴場に急ぐ客が、強盗の餌食になる危険があったからであろう。

   白水社刊(文庫クセジュ)、ジュヌヴィエーヴ・ドークール『中世ヨーロッパの生活』p.58、「第二章 時の流れ」一 日々の生活 より

 ジュヌヴィエーヴ・ドークール氏の世ヨーロッパの生活』からさらに進歩した知見に、より一層「パリは清潔だったのだなぁ」と思わされますね。ドークール氏はさらに具体的にこう書きます。

 だが、当時の人たちが顔と手を洗う以上のことはできなかったとか、上半身だけ裸になって、バケツに水を汲んで洗っただけであった、とまで言うのはおおげさであろう。都市の住民や城館に住んでいた人たちは、入浴の楽しみさえ知っていた修道院では、病院と快方に向かっているものにだけしか入浴は許されず、また刺胳あと三日間は、差し止められていた。この気晴らしは、洗濯用にも使われた木製の水槽で行なわれた。たまたまとげで皮膚をいためることがないよう、その底には布が敷かれていた。十分な設備がない場合、ある人たちは、フィンランドの「サウナ風呂」に似た方法で、風呂に入った。(略)

 こうした家庭での風呂は、朝たてられるか、あるいは疲れる仕事や体が汚れる仕事(旅行、狩猟、騎馬槍試合など)から帰ったときたてられた。

   白水社刊(文庫クセジュ)、ジュヌヴィエーヴ・ドークール『中世ヨーロッパの生活』p.58、「第二章 時の流れ」一 日々の生活 より(略・太字強調は引用者による)

 阿部謹也氏の世の星の下で』では中世ドイツの例として、「カトリックの教義における寄進のひとつ」*1で「やがて都市におけるひとつの制度となっていった」*2喜捨としての入浴なども紹介されています。

 一般の寄進者が自分の死後一回あるいは一年間に月一回ずつ貧民を浴場に招待したり、ときには期限を定めず年三、四回招待することを遺言状で定めている。(略)貧者のために浴場が解放されるとき、浴場主は鈴を鳴らして小路を走り、エルフルトでは次のように呼ばわる。「救霊浴がはじまるよ。聖堂参事会員様が良い風呂を開放して下さった。入浴したい者は無料だよ」。(略)町によっては火、木、金の三日間を貧民の入浴日と定めていたところもあった。手工業職人は土曜日に入浴する習慣があったからである。

   筑摩書房刊(ちくま学芸文庫)、阿部謹也『中世の星の下で』kindle版21%(位置No.4330中 874)、「Ⅰ 中世のくらし」風呂 より(略・太字強調は引用者による)

 喜捨としての入浴は、あの有名なルターが手紙のなかでふれていたりもするんだとか。

 

 (実はブラック氏自身も言っているんですが)研究者によってまちまちなところはあり、世パリの生活史』(原題『Paris au Moyen Age』、原著2003年刊)シモーヌ・ルー氏はドークール氏が「おおげさ」と思うような不衛生寄りの立場。ルー氏もまた、当時の家事生活指南書や人の財産目録などをひもとき述べていて、説得力がないわけではない。

 身体の衛生については、『パリの家長』の中にはあまり出てこない。その他の文献は身繕いについて明らかにしている。家の財産目録には水浴び用の桶、顔あるいは足を洗うためのたらい、簡単に手を洗えるように部屋に設置された脚付きの洗面台も記載されている。「深皿」に入った肉を切るためにナイフを使い指で食べていたので、食事の終りに指を洗えるよう、よい香りのする水を満たした水差しを会食者に出すのがよい作法とされた(37)おそらく顔と手は毎日洗っていただろう。水浴び用の桶があって、水を運んできてくれる小間使いがいれば家で入浴していた。最も貧しい人たちは夏にセーヌ川で水浴びする程度だったに違いない。裕福な人々のためにパリには浴場という公共施設があり、そこで蒸し風呂や温浴風呂に入っていた。飲食も可能で、説教鋤の人は娼婦がここに逗留してサービスを提供していると言うのだった。しかし新たな証拠が見つかったならともかく、浴場が単なる「売春宿」だったとは思えない。一三世紀および一四世紀には蒸し風呂屋の仕事は他の仕事と同じように認められており、浴場施設は男女を交互に入場させたり、あるいは「殿方用」蒸し風呂と「御婦人用」蒸し風呂に分けていた。

   原書房刊、シモーヌ・ルー『中世パリの生活史』p.266「第九章 生活様式日常の営み より

(※『パリの家長』について説明はp.196~。「この家が相当な収入を得ている裕福な有力者の家であることはあきらかで(略)妻は一人か二人の下女の助けを借りながら自ら家事をする必要はないが、大都市と裕福なエリート層のおかげでこの種の給与生活者が生活できたことは指摘しなければならない」p.196~7)

 

 ちょっと寄り道しましたが『中世ヨーロッパ ファクトとフィクション』に話をもどしましょう。

 ブラック氏の「ファクト」でもやもやするのが、『ロビン・フッド』批判のながれでこちらが知りたいこととトピックが微妙にズレていることです。知りたいのは都会の衛生事情ではなくて、村の衛生事情じゃないですか。氏の提示するファクトはそこがなんともよくわからない。

 社交と礼儀の身振りの次には、清潔と衛生の動作に移ろう。衛生といってもやはりまたく社交的なものである。モンタイユーではほとんどひげを剃ることはなく、身体もまれにしか洗わず、水浴もしなければ水をかけもしない。その代わり、虱取りは行為のしるしなので、互いに虱取りに励む。

   刀水書房刊(刀水歴史全書26)、エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ著『モンタイユー(上) ピレネーの村1294~1324』p.213、「第八章 身振りと性」虱取りと衛生動作 より(太字強調は引用者による)

 たとえばアナール学派のえらい歴史家ラデュリ氏は『モンタイユー』のなかで記しますし、同書を紹介する阿部謹也氏は――上述のとおり中世の入浴文化をとりあげたかたですが――「中世人の例にもれず風呂にめったに入らなかったから」と異論をとなえず同意します。

 ドークール氏のさきの引用文が「だが、」と始まったのは、農村部のひとびとの体の清潔についてふれた知見の逆接だったからです。

 多くの辺鄙な農村には今でもこの習慣が遺憾ながら残っているのであるが、一応服を着終えてから洗面した。その当時の人びとは、人目にふれる部分、言いかえれば、顔と手を洗うだけであった。この習慣がつづいたのは、前に述べたのと同じ理由による。つまり、数人が一つの寝室を共同して使用しており、一人用の洗面所がなかったからなのである。

 だが、当時の人たちが顔と手を洗う以上のことはできなかったとか、上半身だけ裸になって、バケツに水を汲んで洗っただけであった、とまで言うのはおおげさであろう。都市の住民や城館に住んでいた人たちは、

   白水社刊(文庫クセジュ)、ジュヌヴィエーヴ・ドークール『中世ヨーロッパの生活』p.57~58、「第二章 時の流れ」一 日々の生活 より(太字強調は引用者による)

 ジョセフ・ギース&フランシス・ギース氏は中世の都市(1250年フランスはシャンパーニュ伯領トロワなど)……

 大広間と台所の上の階は、主人一家の寝室である。主人夫婦は天蓋付きの大きなベッド(長さ約二五〇センチ、幅約二一〇センチ)に寝る。藁を詰めたマットレスにリネンのシーツをかけ、上掛けはウールか、毛皮で裏打ちしたもの、それに羽根枕を使った。子供たちのベッドはもっと小さく、サージ(機織りの毛織物)や綿と毛の交織のカバーがかけてあった。ベッドのほかには、台の上に載せられた洗面盤、テーブル一台、椅子二、三脚、チェストがあるだけだ。おそらくは週に一度、入浴のために木製のバスタブが組み立てられ、召使たちは台所の火で湯を沸かしてバケツに入れ、三階まで運んだのだろう

   講談社刊(講談社学術文庫)、ジョセフ・ギース&フランシス・ギース『中世ヨーロッパの都市の生活』p.67「第二章 ある裕福な市民の家にて」

 エピスリー通りを東へ行くと、コルド川の近くまで来たところで歴史と権力を持つノートルダム女子大修道院(この女子修道院が管理する露店から、一一八八年の大火は起こった)があり、そこから通りの名前は「ノートルダム通り」と変わる。そこから南へ行くと、築二〇年になるドミニコ修道会修道院がある(フランシスコ会修道院は、街の外、プレーズ門の近くにある)。少し北へ行くと、グラン通りの端と出会うことになり、そこからバン橋を通ってコルド川を渡ると、ローマ時代の旧市街へと入る。右側の土手、橋の上のほうに見えるのが公共浴場で、旅行者はそこで道中の埃を洗いながすことができた

   講談社刊(講談社学術文庫)、ジョセフ・ギース&フランシス・ギース『中世ヨーロッパの都市の生活』p.53「第一章 トロワ 一二五〇年」

 一三世紀の都市ではローマ式の公共浴場も珍しいものではなかった。この頃になると壁暖炉には、湯を沸かすという新たな機能が備わっていた。しかし、一四世紀になると多くの浴場が閉鎖されてしまう。混浴が原因のスキャンダルが続いたためだ。公共浴場に代わって個人の家に浴槽が登場した。当時の木製の浴槽は裂けやすかったため、バスマットが使われるようになった。当時のバスマットは浴槽の脇に置くのではなく、なかに敷いて使った。

   講談社刊(講談社学術文庫)、ジョセフ・ギース&フランシス・ギース『大聖堂・製鉄・水車』p.247「第六章 中世 盛期」

 ……(12~3世紀ごろのイングランド……

入浴には木製の風呂桶が使われた。風呂桶はテントや天蓋で覆い、そこに布を敷き、暖かいときには庭で、寒いときには室内の暖炉のそばで入るのだった。領主が移動をするときは風呂桶も、風呂の用意をする入浴係も同行しなければならなかった。十三世紀になると、大きな城には常設の浴室が設けられるようになる。ヘンリー三世のウエストミンスター宮殿では、湯殿に湯と水の出る設備さえあったという。熱い湯は専用のかまどに大鍋をかけて沸かし、湯槽にためたものが使われたのだろう。エドワード二世の湯殿の床にはタイルが張られ、足が冷たくないようにマットが敷いてあった。

   講談社刊(講談社学術文庫)、ジョセフ・ギース&フランシス・ギース『中世ヨーロッパの城の生活』kindle版29%(位置No.3376中 946)、「第三章 住まいとしての城」(原著『LIFE IN A MEDIEVAL CASTELE』1977年刊)

 ……農村(13世紀後半イングランドの村エルトン)の衛生・入浴事情についてそれぞれ異なる光景を提示しています。

 入浴するときは――入浴は頻繁にはおこなわれなかったが――上部をはずした樽を利用した。水を運んだり温めたりする手間を省くため、家族は同じ湯に次々と入ったと思われる

   講談社刊(講談社学術文庫)、ジョセフ・ギース&フランシス・ギース『中世ヨーロッパの農村の生活』p.135「第五章 村人たち――その生活」

 

 中世を旅した人々の手記に入浴が描かれる機会はそう多くない。

 画家アルブレヒト・デューラーが妻とともに1520年7月15日から翌1521年7月15日まで旅した日誌をまとめた岩波文庫ューラー ネーデルラント旅日記 1520-1521』では、道中に出入りのあった金銭について食べたものの値段から賭博の勝ち負けまで事細かに記されていきますが、「入浴代」「入湯代」は10月7日ごろの記録として湯治の場として知られたアーヘン滞在時で支払われたものが3度と、2月11日ごろ第四次アントウェルペン滞在時の1度とのあわせて4度しかありません。

 世東アルプス旅日記―1485・1486・1487』でも、入浴の記述がすくない。

 オスマントルコの侵略により混乱が生じた(現在で言うオーストリアユーゴスラヴィアと隣接する)ドラウ河周辺を聖別・主任司祭の監督にまわるピエトロ・カルロ司教の旅に随行した法律家パオロ・サントニーノ。かれがある日、城代から受けたもてなしについて……

この日、高貴なる血筋の、プリーセンエック城の城代にして、私の知人のうち、最も教養に富み、真に高貴なる方ゲオルク・ヴェント殿から、私サントニーノはべっとりこびりついた旅の垢を落とすために風呂に入るよう、お招きをうけた。まもなく、殿の言いつけだと思うのだが、ひとりの貴婦人、つまり前に述べた〔一四八五年一〇月六日〕フラッシュベルク城のフラッシュベルガー殿のご令嬢がドアを開けて入って来られた。この方がフェント殿の奥方バルバラさまなのである。年の頃二〇歳、たいへん美しく、とくに物腰やわらかで温和、しかもしっかりとした躾と控え目な態度を絶えず保っておられる。夫君のお指図で、奥方は白くてしなやかなお手をして、このサントニーノの全身を、腹のほうまで、このうえなく優しくこすってくださった。サントニーノははじめご辞退申しあげたのであるが、そのような成り行きとなってしまって、承諾の告白をしたのである。それから奥方はサントニーノの頭を洗ってくださり、これで完璧にきれいになったと思った。ところが遂には、きたないこと極まりない汚水をたっぷりかけながら、腹から足の先まで肢体を洗ってくださったのである。(略)

 そのあとでゲオルク殿には、サントニーノの散髪の際、実にていねいな手助けをしていただいた。

   筑摩書房刊、パオロ・サントニーノ『中世東アルプス旅日記―1485・1486・1487』p.60~61

 ……詳しく日記をつけたことについて、訳者の舟田詠子氏は「この日記からもわかるように,入浴はごくまれ,浴室を持つ館も多くはなかったので,サントニーノにとっては特記事項だった。」*3と解釈します。(また上のできごとは、風呂桶1杯の湯水での入浴法にかんする子細な記録と舟田氏は読んでいます)

 舟田氏が「中世の不衛生状態」の参考記述として挙げたいくつかの日記(「二年間牛と豚の世話をするので司教にならせて」と願う牛飼いへ、司教が「明日、日の出前に、長年牛飼いの仕事で身に着けた幾層もの田舎の垢を近くの川で洗い落とし、きれいにならなければ司教さまはそのことを果たさないだろう」*4と答えたら実行してきた話など)のほかにも当時の様子がうかがえる記述はいくつかあって。

 たとえばサントニーノは「蚤と南京虫のせいで不眠不休の思いをした」り(1486年9月12日*5、旅の仲間が南京虫や蚤と格闘するのを見越して賢明にも木のベンチで寝たり(1487年5月25日*6するさまが描かれているほか、特筆すべきは1487年5月23日、シュトゥデニッツ修道院外、指導司祭(カプラン)方の司祭館での歓待。

われわれ一行は修道院長やその〔霊的〕ご姉妹方から、筆に尽くしがたいほど、下にも置かぬもてなしを受けた。とくに司教さまには、下山でびっしょり汗をかいておられたためであるが、すぐにくるぶしまである長い服が用意された。これは胸元に金と絹を織り交ぜたもので、司教さまも喜んでお召しになった。(略)それから司教さまは、修道院内の、ある離れた場所へ連れて行かれ、尼僧方全員お立会いのうちに、中でも若くて美しいひとりの方が、司教さまの髪の毛を洗い、次の方が司教さまの頭にあたためた手拭いを載せて、その頭をくるっと巻き込んだのだ。そして修道院執事が、水鉢の水をかれの頭にかけた(略)そのほかにも至れり尽くせりのご奉仕があった。ただしこれは、長上に対してのみの話であって、そんなことには耳を貸しもしなかったサントニーノは別である。

   筑摩書房刊、パオロ・サントニーノ『中世東アルプス旅日記―1485・1486・1487』p.158~9(略・太字強調は引用者による)

 ……プリーセンエック城のような、美女から身を清潔にしてもらうもてなしを受けながらも、やってもらったことは着替えと洗髪だけです。

 

 アルノ・ボルスト氏は世の巷にて』で、ウルリッヒ・フォン・フッテンが知人の都市貴族にラテン語で送った手紙を紹介していて、そこには1488年にフランス人帝国騎士の長男として生まれたフッテンが11歳までそして25歳ころに住んでいたシュテッケルベルク城フルダの近く、キンツィヒタールを見下ろす立地)での暮らしについてが記されています。風呂の話はないものの、城での火薬や犬と糞の臭いと隣り合わせの生活へフッテンは文句を述べています。

 都市ではあなた方は平和に、その気になれば安楽に暮らせる。しかしあなたは、われわれ騎士が落ち着きを見出せると思うだろうか。われわれ騎士階級の人間がどんな大騒ぎと迷惑にさらされているか、あなたは忘れてしまったんだろうか。(略)人は畑で、銛で、そして山の上の名の知れた城で生活している。われわれを養ってくれるのは、われわれが畑やブドウ山、牧草地や森を賃貸している、乞食のように貧しい農民なのだ。入って来る収入は、費やされる努力に比べたら僅かなものだ。(略)

 次にわれわれは自分が庇護を求めている領主に仕えねばならない。それをしなくても彼は私にすべてを許してくれるだろう、と誰もが思っている。しかし、たとえそれをしてもその希望はいつも危険や恐怖と結びついている。つまり家から一歩外へ出ればいつも、領主がどんなに優れた人であっても、不和や戦争を引き起こし、私を襲って連れ去ってしまうような、そういう相手にぶつかることを心配せねばならない。一度不運に見舞われれば、財産の半分は身代金でふっ飛んでしまう。私が防衛を期待したまさにそこから、攻撃の手が伸びて来る。それでわれわれは馬や武器を持ち、莫大な費用をかけて多数の従者で周りを囲んでいる。われわれは武器を持たずに一〇〇アールの外までも出たことはない。丸腰ではどこの村にも行けないし、狩りにも釣りにも武器を持つ。それによその管理人とうちのとのあいだではよく喧嘩が起こる。喧嘩のない日はないほどだし、よほど注意して調停せねばならない。あまり一方的に自己主張したり不正を罰したりすると、すぐ戦争になってしまう。かと言ってあまりおとなしく譲歩したり自分のものを放棄したりすると、すぐ他人の法律違反に晒される。誰でも他人の物をその人の不正に対する戦利品として入手したがるからである。しかしいったいどんな人間の間でそんなことが起こるのか。友よ、それはよその人間とのあいだではないのだ。隣人、親戚、家族、いや兄弟間でさえ起こる。それがわれわれ田舎者の楽しみ、余暇、安らぎの実態なのだ。

 城自体は山の上であれ平地にであれ、心地良い安息地ではなく、要塞として作られている。城壁と堀に囲まれ、内部は狭い。家畜小屋でふさがれているからだ。その横には大砲、ピッチ、硫黄、その他武器の付属品の入った暗い部屋がある。どこも火薬くさい。それに犬と糞。素敵な香りとしか言いようがない。騎馬の連中の出入り。中には泥棒、盗賊、強盗もいる。われわれの家はどんな人にも開かれているが、それがどんな人かわからないし、いちいち訊くわけにもいかない。羊、牛、犬の鳴き声、外で働く者の呼び声、荷馬車、手押し車のガタガタいう音も聞こえて来る。それどころか狼のほえ声も家の中で聞こえる。森が近いからだ。

 朝から一日中心配事や厄介事が持ち込まれる。絶えざる不安と仕事。畑を鋤き、耕し、種を播き、こやしをやり、刈り入れや打穀もせねばならない。収穫が終わったかと思うと、次にはブドウ摘みがある。しかしこんなやせた土地にはよくあることだが、収穫の悪い年が一年でもあると、恐ろしい困窮がやって来る。そうなると、人を不安に陥れる暴動や陰謀が絶えなくなる。あなたは私を汚れた宮廷生活からこんな生活に引き戻してしまう。あたかもそれが研究に役立つかのように。

   平凡社刊、アルノ・ボルスト『中世の巷にて 環境・共同体・生活形式(上)』(原著1973年)p.209~211、「空間と環境」臨場恐怖症 より(略・文字色変え・太字強調は引用者による){ちなみにこのくだりは、ハインリヒ・プレティヒャが原著を1961年に記した『中世への旅 騎士と城』でもほぼ引かれていますが*7、そちらでは前後の皮肉っぽい言い回しや、誰に向けた手紙であるかは伏せられています}

(もちろんこれもまたブラック氏が唱える「ミシュレ氏の"中世"」のように、都会の貴族である知人氏へあてつけるべく汚点を誇張した可能性は大いにありますが、まったくでたらめということはないでしょう)

 

 ……歴史家の見解や当時のひとびとが記したことをいくつか振り返ってみたところで、ブラック氏がわれわれ現代人に「中世の農民は汚物にまみれていたが、富裕な者たちはあるいは年に一度くらいは入浴したかもしれない」という印象を「流布」しつづけている「たいへん不穏」なリドリー・スコット監督ビン・フッド』の描写を見てみましょう。

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 風呂入ってるじゃんか!!!!

 12世紀末を舞台にした今作の主人公ロビン・ロングストライドは、ノッキンガムの領主宅に用意された風呂へ入ってから眠りに就き、翌朝、領主息子の夫人と連れだって同村にむかうと、起床し水浴び中の十字軍遠征仲間に遭遇して談笑します。

(ちなみにBlu-Rayなどで出ている長尺ディレクターズカットでは、冒頭のフランス城攻めシーンで、リチャード獅子心王が起床し天幕から戦地へ向かう際、顔を洗う光景が追加されていたりする)

 あらためて見てハッとしたのは、木樽の浴槽の内部に垂らされた布! これもまた良いですね~。

 前述ギース氏やドークール氏が記したように、木の浴槽は裂けやすく「たまたまとげで皮膚をいためることがないよう、その底には布が敷かれていた」。この小道具は、それがしっかり再現されているように見えます。

 

 もっともロビンが入浴した経緯は領主に「風呂に入れ。臭いぞ」と顔をしかめられたためなので、ある意味で"風呂にも入らない下層階級"というイメージを強めていると言えるかもしれません。また、さらに前段ではロビンたちは王家を含んだ貴族へ「王傍仕えの騎士」と身分を詐称し謁見するもバレなかったくだりがあり、"貴族でさえも不潔を気にしない中世人"というイメージさえも強めていると言えるかもしれません。

 でも、ロビンより粗野な十字軍仲間が自発的に水浴びをしている姿もまた『ロビン・フッド』でれっきとして描かれているわけで、「(盲目の領主がとりわけ鋭敏な嗅覚の持ち主だっただけで)上下階級ともに、それぞれの方法で身だしなみを整えている世界である」……と取るのが妥当なようにzzz_zzzzには思えます。

 

 清潔だったとする意見と、そうでもないとする意見……幅のある歴史家の見解の両方を、貴族と農民階級とに振り分けて達成する。『ロビン・フッド』の入浴に見られる生活描写は、そんな誠実な綱渡りの結果のように、ぼくには見えます。

 

 『ロビン・フッド』の魅力はそうした歴史との綱渡りだけではありません。映画はその後、沼や海など水場で物語が展開されていくわけですが……と続けていくと、単体の記事としてまとまりがいい気がする。いつか映画感想文を書くときはそんな感じで行きます。

 

***

 

 うまく上の文中に組み込めなかったこと。

 古めの本が多いので最近の知見も知りたいところですが、最近の本を持ってないのと、持ってるものに「そのものズバリ!」という知見が記されているものが手元にない。

 テリー・ジョーンズ&アラン・エレイラ世英国人の仕事と生活』では、中世イングランドの農村にくらす人々(農民・農奴の、貧しく汚い農村のひとという偏見を払底するような考古学的知見なども示されて面白いですが{たとえば残された骨を見るに虫歯は少なかったとか(当時のパンは粗く、砂も混ざっていたので、歯はよく研磨されていた)。でも口臭が原因で離婚となった裁判事例があるので、口は臭かっただろうとか}、入浴にかんする話題はありませんでした。

 

 zzz_zzzzはけっきょく聞きかじりの半可通であり、「(専門的知識のないzzz_zzzzの印象を一番に置くのではなく、)いろいろな文献を網羅している専門家がそこまで言うことをまず受け入れるべきだろう」と考えるほうが妥当でしょうけど、でも、風呂入ってる描写が普通にある映画をこの話の流れで挙げるのはおかしいと思う。

 もちろんそこを拡大して「どこまで信用していいのか分かんねぇな?」と感じてしまうのは針小棒大、間違った飛躍なのですが……。線引きをきっちりできていけたらいいなぁ。

 

 

0920(日)

 宿直日だったがナシになった。かんぺきな三連休がうれしい。

 

0921(月)

 仕事休み。三連休最終日。

 ■読みもの■

  『こういうのがいい』読書メモ

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 「大人の日常系」というキャッチコピーがありますが、気楽に下ネタも言い合えるし実行もできるゆるいラブコメディという意味なのだと思います。(「そういうのじゃないアンチラブコメディ新連載」ともあるけれど……)

 恋人関係と言い合うまえに、セックスが先に来る関係というわけですね。

 精神の置きどころがうまく定まらず、よき読者にはなれませんでした。

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 ワイワイガヤガヤとにぎやかで恋人をつくることに飢えているような他メンバーに対して少し距離を置いた位置から、

「まるで合コン…誰もゲームの話をしてないな…」

「ピッピとかクソ面倒」

 とつぶやく二人が意気投合、アダルトショップに一緒に行ってみたり居酒屋で二次会したりそのままラブホテルに行ったりする。

 一次会~ショップまでの道中を歩きながら、ショップ~居酒屋までの道中を歩きながら、居酒屋でご飯を食べながら、ふたりは元恋人にかんする愚痴を何度も言いながら、そしてショップに居酒屋にラブホテルにと自身の性体験やその好き嫌いについてしゃべりながら事に至る。

「…お初の人に全然緊張しないの初めてかも」「俺も初めてかも」「束縛される事が多かったからそういうの疲れちまった」「おっ わかりみ深海レベル」「肩書って息苦しいわよねっ」「それな だから一人で抜いてるのが一番楽かな」

 などなど、ふたりはあれこれ共通意見を言っていくのですが……

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 ……それは、「にしてもこんな可愛い子女の人だったのびびった」「イケメンでびっくり」/「彼女いないよ?」「カレシは音信不通で自然消滅かも」/「上司のセクハラがまじキモくてー」「悩みならいつでも聞くよ!」などなどのオフ会のワイワイガヤガヤとけっこう似通うひびきでもあります。

 オフ会で初顔合わせをし、ヤるまで複数話をまたいでいるとおり、べつにこれは「多数派にマウントしつつ自分たちはヤることヤってんじゃん!」という読者からのツッコミを期待した2コマ即落ち漫画的なコミカルな相似・対照をねらった展開ではなさそうです。

 

 広角パースがかなり強く利いている構図で、『3発目①』の居酒屋は、黒い実線でえがかれる縞々の店内の装飾も相まって、牢獄のような閉塞感があるのですが、だからといってそれはべつにメリカン・ビューティ』サム・メンデス監督がじしんのえがいた絵コンテを撮影監督コンラッド・ホール氏といっしょに解説するビデオ特典で意図をはなし、同監督別作『レボリューショナリー・ロード』などでもその意匠が見える視覚的サブテクストでは多分ありません

 つまり、ワイガヤの人びとと距離を置きバカにしさえする彼らもまた同様の価値観にとらわれた牢獄の中にいる存在なのだ……ということでは多分ありません

 

 主人公ふたり+αのやりとりが大部を占めるわけなのですが、{1話でえがかれる(仕事中にも電話してくる彼女/夜勤や遅番で崩れた生活サイクルでも気にせず長話をしてくる彼氏)恋人関係の面倒くささのオポジットなので「そういうもの」なのだとはいえ}かれらの会話がふんわりしているので、虚無ってしまう。

 とりあえず、ふたりがやっているゲームを「一オツ」(2発目①)などと言い表されるモンハンライクゲーとしておきます。(同エピソード内では「クソエイム」などの会話などもあって、単なるFPSなのかなぁという気もする)

 ほかの人がゲームの会話をしていないことを愚痴るこの主役ふたりのゲームにまつわる会話がどんなものかといえば……

「トモカさんが使ってる武器素材 全然取れないよね」「凄かろう 苦労したんじゃ」「裏山」「あのイベクエクリアするのにその武器作らんと無理ゲーすぎる」「素材集め手伝ってしんぜようか」「えっ いいの? ありがたいわ」

 ……といった、べつにモンハンじゃなくてもできるふんわりした内容なんですよね。

 ぼく自身モンハン詳しくない人間だからアレですが、もうちっと何かありそうなものじゃないですか、話題にする作品固有のものが。

「言うて周回ラクになったじゃん今作。犬最高。『MHW』でも快適だったのに、その上があるとは!」

「いや『MHR』は省き過ぎてダメでしょ、省くというか雑。フレーバーテクストやイベント構成が、プレイヤーキャラやプレイヤーが実景として歩きまわれる村と乖離しすぎて、倒し甲斐がないんよ。その意味で『MHW』最高だった」

 とか、

「百竜夜行ダルすぎるんだよ。セオリーがいまだにわからん」

「百竜夜行がかかわってくるとアレなんだよね。野良だとどうしてもセオリーわかってない人とも組まざるを得ないから。……って、つまりダルい理由正反対で草。オンラインクエストできるんならその回線で攻略wikiや動画みてお勉強しましょうね~」

 とか。

 ぼくがこの日記で昔したような話であり(『モンハンライズ』の話が6900字『モンハンワールド』の話が2万4000字あるので注意)、また、ぼくが高校時代からの友人A氏とLINEで会話するようなやつですね。

(「その会話でzzz_zzzzは異性とエロい関係に発展したんですか?」

 「ぴ、ピッピとかクソ面倒だから……」)

 そもそもかれらが居酒屋でしたような会話は、自宅で協力プレイ中のボイチャでする可能性のたかいもので、「この話をいまここでするってことは、このふたりは先日のCO-OPでだれと何の目的で戦っていたんだ?」というお話になりませんか? ……いやまじで、このふたりはいったい何のために協力プレイしてるんだろう?

「IT系なもんでスケジュール管理のツールはよく使う」ような人間なのに……(じぶんの身のまわり3クリック圏内のIT系のゲーマーは、結構ガンガンに周回効率とかデッキ構成とか練るひとが多い印象。こういう人の方がぼくの記憶に残りやすいというだけで、そうじゃないひともいっぱいいるんだろうけど……)

 

 ゆるやかで肩の力が抜けて、気が落ち着ける時空間/関係を描くには(たぶん)多くのコマ数や会話のやりとりが必要となる。

 そこで話される内容や行動を具体的かつ詳細にする作品もあるけれど、でも、そうして肉づけした「実のある話題」をくりひろげてしまうとどうだろう? 今作のような、なんてことのない、しょーもない話を気楽に言い合える{と彼ら自身は思っているらしい(先述のとおり、ぼくには合コン勢が交わしているのとかわらないように思えるし、サシ呑みの居酒屋はやっぱり牢獄にしか見えない……)}類いのゆるさは、もしかしたら損なわれるかもしれない。

{多量のセリフ(や心象描写)は、『こういうのでいい』1話の恋人とのやりとりやオフ会大ゴマのように、画面を圧迫しセカセカした印象を与えるかもしれない}

 むずかしいなぁと思いながらの読書でした。

*1:筑摩書房刊(ちくま学芸文庫)、阿部謹也『中世の星の下で』kindle版21%(位置No.4330中 872)、「Ⅰ 中世のくらし」風呂 より。

*2:筑摩書房刊(ちくま学芸文庫)、阿部謹也『中世の星の下で』kindle版21%(位置No.4330中 874)、「Ⅰ 中世のくらし」風呂 より。

*3:筑摩書房刊、パオロ・サントニーノ『中世東アルプス旅日記―1485・1486・1487』p.59

*4:筑摩書房刊、パオロ・サントニーノ『中世東アルプス旅日記―1485・1486・1487』p.151~152

*5:筑摩書房刊、パオロ・サントニーノ『中世東アルプス旅日記―1485・1486・1487』p.110

*6:

一行の何人かは一晩中南京虫と烈しく格闘しなければならなかったので、今朝は非常に早く起床した。南京虫だけではない、蚤やほかの呪われるべき動物たちが、フル・メンバーのオーケストラでかれらに挑んだのである。

   筑摩書房刊、パオロ・サントニーノ『中世東アルプス旅日記―1485・1486・1487』p.160

*7:白水社刊(白水uブックス1111)、ハインリヒ・プレティヒャ『中世への旅 騎士と城』p.63~65、「快適なのは夏だけ――住居と設備」より