先々週の日記です。3万9千字くらい。
『マザリアン』(傑作!)を読み、Webで全編読める読切『峯落』(傑作!)の読者・事物への配慮と作品の演出との結びつきぶりを読み、岡田索雲を追おうと決めたり。伴名練編『触手・ゴリラ女房・ビキニアーマー傑作選』(非実在)に笑ったりした週でした。
※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※
- 0308(火)
- 0309(水)
- 0310(木)
- 0311(金)
- 0312(土)
- ■ゲームのこと■
- ■観た配信■
- ■考えもの■読みもの■
- 「やってないわけではない」自覚が火種となるのかな;DM事件のときシスターフッド映画特集をしたばかりだった『映画秘宝』/男だらけのホモソ批判・絶版本企画批判のとき、男女比半々くらいの「百合特集2021」を「自社文庫総解説」と一部復刊をしていた『SFマガジン』
- ▼『映画秘宝 21年2月号』シスターフッド特集が興味ぶかかった
- ▽真魚八重子さん&澤井健さんによる「シスターフッド映画爆走対談」
- ▽『高殿円の配信ロマンシス最前線!!』が批判する旧来の男性優位ご都合ロマンシスと、それを脱した新時代の作品群
- ▽上2記事がある一方で、「一生ついていきます! 銀幕のスーパーラヴァー イケメン女優名鑑BIG5」はけっこうルッキズムじゃない?
- ▼閑話休題。「やることやってる」「やってないわけではない」仕事をやった直後のアレについて
- ▽『SFマガジン』百合特集が「男性作家と男性読者と、男性批評家と男性編集者で仲良しこよし」「(男性)作者本人の話にシームレスに繋がらないように、女性身体に置き換えた上でやってる私小説」と批判されたとき、発刊済みの最新号では特集寄稿者男女半々・創作が非男性が大半に改められていた
- ▽早川絶版本妄想企画批判者が「それに引き替え」と『サンリオ総解説』やレム新訳の地道な努力を褒めたとき、『SFマガジン』当月号がやっていたのは「ハヤカワ文庫JA総解説」と絶版したJA名作の復刊告知、「レム短編初訳」と「書簡などの再録」だった
- ▼閑話休題。「やってないわけではない」からこそ何か言いたくなってしまう/で、"わけではない"レベルの至らなさゆえに粗野な応答が出力されて更なる墓穴を掘る、負の連鎖はあるのではないか?
- ▽(追記)「チェリーピッキング」かどうかはもちろん大事なんだけど、「そもそも大多数の旧態依然が変化する初期は、少数の例外にならざるをえないはずでは……」とも思う
- 0313(日)
- 0314(月)
0308(火)
■身のもの■
左襟あたりの首の圧迫感/左目が充血し、痛い
それなりに睡眠時間は取った気がする。すくなくとも6時間は寝ているはずだ。
夕方ごろから左襟あたりの首に圧迫感をおぼえる。
またこちらも夕方ごろから目がごろごろし充血もみられ、なんかピクピクとしていたのだが、21時台くらいから左目の中央あたりの表面がピンポイントでちくちく痛い。(先週の『スリザリオ』長時間プレイした夜とおなじ痛み)
■ゲームのこと■
きょうの『Wardle』
あなたは正解できませんでしたが、それでもわたしたちはこのことばを知ってほしいです。きょうのWARdleは「論争」でした。
You didn’t guess it, but we want you to know it anyway. The wardle was: ARGUE
街路で敵と論争しないでください。そしてどんな犠牲をはらおうといかなる挑発も避けてください。
Don't argue with enemies in the streets, and try to avoid any provocation at all costs.
明日はまた別の知識のかけらを得る機会があります。
Tomorrow is another chance to get another piece of knowledge.
■書きもの■
先週の日記を一部蔵にしまう
先週の日記でしるしたフェイグ監督版『ゴーストバスターズ(2016)』の鑑賞メモについて、一部を蔵にしまいました。
(言ってることはそこまでおかしくないと思うからアップしたのですが、やっぱり「"そこまでおかしくない"程度の認識でアップするのはどうだろう?」って話題だよなと思い直した)
0309(水)
■身のもの■
左目が充血し、痛い/右目の上がゴロゴロ痛い
なんだかんだ午前2時ごろ寝て、睡眠時間4時間くらいだ。ここのところそんな感じの日々がつづいている。
起床時から目が充血し、じりじり痛かったのだが、始業後10時には右目の上がゴロゴロ痛い。また両目とも、上下に眼球運動をすると筋肉痛みたいなかんじのかったるさもある。市販目薬をさすとそれなりにやわらぐのだが、実はこれがドライアイだったりする?
■社会のこと■
『女性の描かれ方めぐる「炎上」はなぜ起きる? 社会学者・小宮友根さん、ネットで発信・ふくろさんに聞きました』;雨宮氏の鬼畜系への受容にも通じる回顧
ふくろ 絵の作者は、どんなわずかな点や線であっても意図して描き込み、そうした細部から全体の印象をつくっています。エロさが差別的になるかどうかは露出度ではなく、全体の文脈による。たとえば自分の好みで肌を見せる服を着た女の子が、自信満々で仁王立ちしていれば主体性の表現にもなる。「やめて」と恥じらうようなポーズを取れば性的対象として見たり触ったりしても拒絶しない女性、と受け身な印象を与えるかもしれない。私は女ですが、子どものときからそういう表現を浴び続けてきたので「女体=エロ」だと思い込み、半裸の女の子ばかり描いていました。大学生の頃には、「女なのに女を消費できてすごい」と悦に入っていました。見られる側から脱出できた気になっていたのかも。
東京新聞、『女性の描かれ方めぐる「炎上」はなぜ起きる? 社会学者・小宮友根さん、ネットで発信・ふくろさんに聞きました』、ふくろ氏の発言より(発言の太字強調は引用者による)
女性による女性の性的表象の鑑賞が支配的な男性の視線に対するある種のカウンターであったり主体性の回復プロセスなのではみたいなくだりはおもしろかった。
— c. karafune (@shikousei) 2022年3月9日
なるほど興味ぶかい記事でした。
ふとん氏の振り返りを読んで思い起こしたのは、90年代「鬼畜」系サブカルを振り返った雨宮処凛さんの記事です。
私がそんな90年代サブカルに惹かれたのは、自分自身が「ゴミ」という自覚があったからだ。もっともハマっていたのは19〜24歳のフリーター時代。貧乏で、お先真っ暗で、自分以外の同世代の女子たちはキラキラ輝いて見えて、中学のいじめ以来ずっと対人恐怖で人間不信で、リストカットばかりしていた私にとって、鬼畜と言われるような世界に浸ることは、世の中への「復讐」のようなものだった。お前らが眉を潜めるこのようなものが自分は好きなのだ。着飾ってちやほやされて喜ぶお前らなんかと私は違うのだ。...本当は、私だって叶うなら着飾ってちやほやされたりしたかった。だけどそれが絶望的に叶わない時、数百円で買えるそれらの雑誌は、確実に私を救ってくれた。
HAFF POST掲載、雨宮処凛『90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝』より(太字強調は引用者による)
雨宮氏にとって「鬼畜系」サブカルは、「お前ら」とちがう「自分」をもっていることを表す救いであり復讐だったのだと、エッセイのなかで述懐します。
そんな雨宮でもノレなかったものがあると云う。
当時の雑誌を開けば、そんなAVの撮影現場のルポやレビューが溢れるほどに載っていて、自分と同世代だろう女性たちが、肉体的、精神的に痛みつけられるなどいろいろと酷い目に遭っていた。そんなものを読みながら、私は引き裂かれそうな思いでいた。だけど、結果的に私はその痛みを引き受けることを拒絶した。リア充の世界に居場所がないから逃げ込んだサブカルの世界。そこでも「女」として傷ついてしまうなんて、そんなこと、絶対にあってはならなかったからだ。
百人中百人が「ひどすぎる」と思うような状況であっても、それを言ってしまえば私が否定した「つまらない人間」と同じになるだけだった。それの究極が「正論を振りかざすPTAのオバサン」的な存在で、だからこそ、私は痛みを感じることを頑なに拒んだ。最初の頃こそもやもやしてざわざわしたけれど、私は自分を意図的に麻痺させて、そして慣れることに成功した。サブカル系のイベントなんかに行けば、有名ライターなんかが「お金欲しさにAVに出る女性」たちを「バカなAV女優」なんて笑っていた。そういう枠に入れてしまえば、私の罪悪感も薄まった。だけど、同じようなイベントでも女優本人が来ると、みんながちやほやして、おだてて脱がせたりした。本人不在で「バカな女優」なんて笑われている時より、本人がちやほやされている様を見る方が辛かった。
そして、そんなイベントに行けば、私と似たような「クソサブカル女」が、「AV女優の体型の崩れ」なんかを男性と一緒になって批評したりしていた。それが「男と対等になること」なのかと一瞬思ったりもしたけれど、やっぱりどうにも違う気がした。
HAFF POST掲載、雨宮処凛『90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝』より(太字強調は引用者による)
アダルトビデオ業界における女優の酷使やそれを屁とも思わない言及についてでした。
自認としては「"みんな"に染まらない、個別の意思・価値基準をもった自分」だと思っていたけれど、さらに外から見てみると、べつの"みんな"に染まっているだけだった……という回顧ですね。
***
もちろん、本心から楽しんでいるひともいるでしょうし、男性の嗜好を迎合するのではない嗜好というものもあるはずです。
「毎日めっちゃボコボコに殴られていた」ときに出会った“聖書のような”クジラックス作品
稀見:少し話を変えて、うどん先生はクジラックス先生の作品を最初に知った、読んだのはいつごろだったんですか?うどん:21、22歳のときやったかな? 最初に単行本を読んだのは。で、そのときは当時付き合ってた彼と同棲してて、毎日めっちゃボコボコに殴られてたんです。
クジラ:マジか~! そんな大変なときに。
うどん:家出たら怒られるんですけど、どうしても本欲しいから、こっそりと大阪、日本橋のとらのあなに買いに行ったんです。
クジラ:軟禁じゃないですか!?
うどん:ヤバいなこの人好き放題してるって。毎日殴られるし、毎日バイトあるし、マンガも描けなかったし、何して生きたらいいかわからへんと思ってたときに、これを読んだらええなぁと思って。
うどん:ただ自分がおもろいと思ったもん描いてるだけで、そこまで深くは考えてません。どう解釈されてるのか知らないですけど……。
暴力や性暴力をあつかった過酷な作品で知られる、知るかばかうどん氏は、おなじく過酷な内容で知られるクジラックス氏の作品と出会った経緯とその魅力を語り、じしんの作品を「ただ自分がおもろいと思ったもん描いてるだけ」とふりかえります。
n=1ではない、もっと広範な例はどうでしょうか。
女性によるポーンハブ上の検索上位には、読者の多くにとって嫌悪感を催させるものもある。女性に対する暴力を含むポルノの検索だ。女性による検索の優に25%は女性が被る苦痛や恥辱を強調した動画を求めてのものだ。「痛ましいアナル責め」や「公衆の面前での凌辱」や「極端に暴力的な輪姦」などだ。女性の5%は同意を伴わないセックス(「レイプ」や「強制された性交」)の動画を(同サイトでは禁止されているにもかかわらず)探している。そしてこれらすべての検索語の検索率は、男性に比べて女性のほうが2倍にも及ぶ。もし女性に対する性暴力をテーマにしたポルノがあれば、私のデータ分析は、それはほぼ常に女性に偏って好まれるであろうことを示している。
光文社刊、セス・スティーヴンズ=ダヴィッドウィッツ著『誰もが嘘をついている~ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性~』kindle版38%(位置No.4896中 1796)、「第4章 秘められた検索」多彩なる好みの世界より{※ただし、同項で次いでただし書きされているように、取扱い注意な情報です。「もちろんこうしたデータを受け入れるにあたっては常に、空想と現実生活の違いを忘れないことが重要だ。確かにポーンハブを訪れる数少ない女性のさらに一部はレイプものを探している(見つからないが)のは事実だ。しかし当然ながらこれは、女性が実生活でレイプ願望を抱いているということではないし、もちろんレイプの罪を軽くするものでもない。ポルノ関連データが教えているのは、時に人は、自分の身に起こってほしくないこと、人には決して言えないことを空想するということだ。」}
アメリカロマンス作家協会によれば、2008年のロマンス小説の売上高は、10憶3700万ドルにのぼり、小説本の市場では、ロマンス小説が最大のシェアを占めているという。つまり、ロマンス小説を買う人は、推理小説やスリラー小説、SF、科学ノンフィクションを買う人より多いのだ。2008年には、少なくとも7480万人がロマンス小説を読み、その90%が女性だったという(*5)。
この7480万人という数字がどれほどすごいかは、2008年にアメリカとカナダでオンラインポルノにアクセスした人の数が、それより少し多い約1億人(*6)と言えば、わかってもらえると思う。
阪急コミュニケーションズ刊、オギ・オーガス&サイ・ガダム著『性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し女は「男同士」に萌えるのか』kindle版31%(位置No.7009中 2361、2216)、「第5章 強くて支配的な大金持ちとちょいワルが好き」ロマンス小説には7480万人の読者がいる より
女性は支配的なアルファ・ヒーローが好きだが、今のロマンス小説には、ヒーローが超えてはいけない一線が存在するように思う。女性に暴力を振るったり、女性を心理的に虐待するようなヒーローは書けないのだ。しかし、1970~80年代のロマンス小説には、残酷なヒーローが登場するものも多い。道を踏み外したヒーローもいる。『炎と花』のヒーローは、冒頭のシーンで処女のヒロインを事実上、レイプする。そしてのちに、彼女を娼婦だと思っていたと弁解する。1982年にキャサリン・コールターが書いた『悪魔の抱擁(Devil'sEmbrace)』では、18歳のヒロイン、キャシー・ブロウガムがステキな青年と結婚式を挙げる直前に、34歳の貴族クレアがヒロインを誘拐し、縛り上げたうえで、荒々しくレイプする。そしてのちに、彼女はクレアのとりこになる。
(略)
しかしロマンス小説の読者は、レイプ犯や人殺しのヒーローを望んではいないだろう。ストーリーの最初のほうで、ヒーローにちょっとした女性蔑視の言動があったり、ヒーローがまぬけだったりしても、彼らがヒロインに出会ってから変わることになるから、喜んで我慢するのだ(*29)。実際には、ヒーローが最初からアルファとして登場する小説は、全体の半分程度しかない。
阪急コミュニケーションズ刊、オギ・オーガス&サイ・ガダム著『性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し女は「男同士」に萌えるのか』kindle版35%(位置No.7009中 2361、2389)第5章より(*29は「Knight(2009)」とあり、『Passionate Ink: A Guide to Writing Erotic Romance』などを書いたロマンス作家アンジェラ・ナイト氏の論考を参考にしたものと思われる)
女性たちは、自分のロマンスのヒーローには、ココナツのようであってほしいと思っている。つまり、外側はハードで手強いが、中身はソフトで甘いということだ。だれもが甘い中身を味わえるというのではダメで、ヒロインだけが彼の殻を破れるというのがいいのだ。ヒーローがヒロインに優しさと思いやりを示してくれるのなら、ほかのみんなに対しては、どんなにこわもての支配者であってもかまわないというわけだ。
オギ・オーガス&サイ・ガダム著『性欲の科学』kindle版35%(位置No.7009中 2407)第5章より
女性が男に犯されることを夢想するのはよくあることで(*15)、女性の学者たちも一般の女性たちも、こうした夢想に理解を示しながらも、戸惑い、不安を感じている(*16)。しかし、想像の世界で興奮するからといって、現実の世界にそれを望んでいるわけではないようだ。心理学者のメレディス・シバーズは「興奮するのと、認めるのは別ものだ」と主張する(*17)。実際には、多くの女性が、想像上のレイプはかなりのレベルの合意にもとづいていることを強調している。
オギ・オーガス&サイ・ガダム著『性欲の科学』kindle版40%(位置No.7009中 2736)第6章より
16 Meana(2010).https://www.nytimes.com/2009/01/25/magazine/25desire-t.html?pagewanted=all
LeitenbergandHenning(1995).「女性の30%が『男のすべての要求に従わなければならない奴隷になった自分』を想像したことがあると答え、22%が『自分が男にひどい目にあわされた後に官能を覚えるセックス』を想像したことがあると答えた」
オギ・オーガス&サイ・ガダム著『性欲の科学』kindle版92%(位置No.7009中 6403)第6章脚注16より
ファンフィクションサイトにも、さまざまなタイプの「合意のない」セックスを描いた作品が掲載されている。なかには、非常に暴力的だったり、女性の名誉を傷つけるようなセックスを描いたものもあり、そうした作品は、分類用のこんなタグがつけられるほど増えてきている。「虐待Abuse」、「暴力Violence」、「嗜虐的性行為BDSM」、「拷問Tort[ure]」、「恥辱Humil[iation]」。こうしたタグは、アダルトファンフィクション・ドットネットのハリー・ポッターものでは、セックスジャンル別人気ランキングのトップ10に名を連ねている(*20)。
オギ・オーガス&サイ・ガダム著『性欲の科学』kindle版41%(位置No.7009中 2777)第6章より
セス・スティーブンズ=ダヴィッドウィッツ著『誰もが嘘をついている~ビッグデーダ分析が暴く人間のヤバい本性~』のポーンハブ検索ワード分析や、男性がこのんでアクセスするポルノや女性がこのんでアクセスするハーレクインロマンスやファンフィクションなどのロマンス小説の傾向をしらべたオギ・オーガス&サイ・ガダム著『性欲の科学』で、意外なことに女性でも(強姦など)じぶんたち女性を蔑視するような/性暴力的なシチュエーションを検索したり夢想したりするひとが少数派ながら存在するらしい……という知見や研究が記されていました。
さすがにここで紹介された女性のみんながみんな、「マジョリティである男性文化に流され騙されて、自分の本心とはちがうけど"楽しい"と思い込んでいるだけだ」、というのもなかなか信じられない見方であります。
……でも、たしかに――男女やマイノリティマジョリティの勾配とか関係ない経験談ですが――ピンとこないまま劇場をあとにしたのに偉い人や信頼している人が褒めている声を聴き「なんか傑作だった気がするぞ~?」と自分で自分の印象が操作され、それが自分の本心からの感想だったと大なり小なり自己改ざんがおこることは、結構あります。
セス氏やガダム氏の話を鵜呑みにせず、「そのなかには本当に受け売りでそう思おうとしているだけのひともいるんだよ。ふくろ氏や雨宮氏がそうだったように」ということもまた、きちんと頭に入れていけたらなと思いました。
0310(木)
■身のもの■
目の不調かわらず
睡眠時間は4時間あるかないかくらいくらい。きょう(9日24時以降)は『楽園ノイズ』4巻で夜更かしした。(夜に読めばいいのだが、24時をまわってから読みだすのでこういう事態になる)
目はごろごろし、たまに表面に刺すような痛み。目の周りもぴくぴくする。
■買いもの■
『ゴーストバスターズ』メイキング本(邦訳)がテン年代に出ていたことを知る
ポール・フェイグ監督版が公開されるタイミングで出た本みたい。
一時期は古書2000円台くらいで売られもしたようなのですが、いまとなっては新品はおろかそもそも古書が出回っていないようでした。趣味本はこういうツラさがあるんですね……とか思っていたら、こういう系統に特化した本屋さんで取り扱いがあるとかないとか! ありがたや~! 通販サイトどおりに店内在庫がしっかり残っていると嬉しいなぁ。(追記;物理在庫も残ってたみたいです。即日配送されて二重にありがたい……)
ざっと読んだ感じ、(危ない街だった80年代NYが息を吹き返す一作だった、という『GB』観など)一部の論調はLESLEY M. M. BLUME氏がVanity fairに掲載した記事『Surviving "The Murricane" and a Marshmallow Man On Fire: The Making of Ghostbusters』に似ていて、しかもBLUME氏のほうが他者の言及を引いていて詳しいし具体的だ。
発表順としては、『GBヒストリー&メイキングブック』のパイロット版(今回のひととは別の人が書いたもの) ⇒BLUME氏の記事 ⇒『GBヒストリー&メイキングブック』完成版……という順番らしい。
0311(金)
■身のもの■
目の不調かわらず
睡眠時間は6時間あるかないかくらいくらい。きょう(10日24時以降)も『楽園ノイズ』4巻で夜更かしした。(夜に読めばいいのだが、24時をまわってから読みだすのでこういう事態になる)
目はごろごろし、たまに表面に刺すような痛み。右目の右下あたりが特にぴくぴくする。
■社会のこと■ネット徘徊■
日本は他国に比べことさら核を具体的な恐怖として意識してなくね?;バケツ臨界にID使い回し
怖いことに気がついたんだけど、ちっちゃな頃からはだしのゲンやら歴史の資料集やらで核の怖さをよくよくわかってるのってもしかして僕たちが日本で生まれ育っているからに他ならないのか?よその国でも「核が落ちると影が焼きついたり、人間がデロデロになります」って周知されてる?されてるといいな
— あめだま (@ames_poke) 2022年2月28日
「日本の核の恐怖についてよく知っている」という認識、たしかに最近でもギャレス・エドワーズ監督らによるレジェンダリー版『ゴジラ』シリーズとか2016年版『ゴーストバスターズ』などを観ると思ってしまうことなのですが……。
……でもこれって、かたちを変えた「日本スゴイ」だったりしないかな、とちょっと思えてしまう。
柏崎刈羽のIDカード不正利用のやつ、全てがヤバいので好き(何も好きではない) pic.twitter.com/HKtLGwyYo1
— クロダオサフネ (@kuroda_osafune) 2022年3月11日
自分のIDカードなくしたので同僚のロッカー(無施錠)から他人のIDカードを持ち出したうえで、IDカードに自分の生体情報で登録し直すくだり、真剣にあたまがどうにかなってしまう
— クロダオサフネ (@kuroda_osafune) 2022年3月11日
本邦の原発の問題、(たまたま重要かつ注目されているから問題が見えているのであって、他の諸々にしても同様にヤバいのかもしれないけれども)政策から運用主体から炉の形式から個別の運用に至るまで問題が多すぎて、問題を語るたびに問題点を一通り挙げる羽目になるのほんとうにきびしい
— V層もどき (@desuga_NlkL5EiN) 2022年3月11日
問題点が多すぎるせいで、「問題Aが解決しても問題Bがある、問題Bが解決しても問題Cがある……。」と小出しに言っていくと、問題の所在は最初から何も変わっていないのに、問題点を指摘している側がゴールポストを動かしているように見えてしまうという意味不明な状態なわけで……。
— V層もどき (@desuga_NlkL5EiN) 2022年3月11日
0312(土)
■ゲームのこと■
きょうの『Wardle』
正解! きょうのことばは「医薬品」でした。
Right! The word was: PILLS
ご家族のために医療キットを用意しましょう、そして防水カバンに入れてください。緊急事態における基本的な医療キットはこちらのPDFで確認できます。
Prepare a medical kit for your family, and place it in a waterproof bag. You can find a basic medical kit for emergency here https://drive.google.com/file/d/19ZmPaV9nkM2g-Xuy-_ZbIXaZgGPhGY2t/view?fbclid=IwAR1-UVeYlWl1OvoEN0UPpd-rdJsIjQkejwbg91yTK5kcv-gqpuQcO4khPCE
より多くのことばを推測すれば――それだけより多くの準備ができるのです。
The more words you guess – the more ready you are.
■観た配信■
田辺青蛙&円城塔『ぐだぐだ夫婦・読書話Part2』アーカイブ視聴しました
配信チケット購入/視聴期間はきょう3/12(土)23:59まで。すべりこみで観てます。1回目は見損ねたんですが、面白いので3回目希望! ということでご興味ある方もない方もぜひご覧いただきたい。
田辺青蛙さんと円城塔さんふたりの作家が、オススメの本を紹介したり、自作や今後の作品についてお話したり、創作について語ったり。あと……
1:01:50 妖怪のミイラ紹介
田辺「でも"いまミイラ全体的に、『呪術廻戦』の人気のせいで値段あがってる"って言われましたよ。呪物ってことで。河童の手とかもヤフオクでまえチラッと見たんですけど、すごい値段で落札されたみたいですね。人魚のミイラもいま出てるのもあるけれど30万くらい値段ついてましたよ。
あっ、で、これは、ちっちゃい――ちょっと見づらいんですけど――ボストンから送られてきた人魚のミイラで」
円城「"ボストンから送られてきた"ってのはなに?(笑)」
……あと前回好評を博した妖怪のミイラを紹介したりもするトークイベントです。
2年に一度ラブクラフトの誕生日近辺の時分にひらかれるイベント{ネクロノミ・コン(笑)}で出来たツテで……という経緯もさることながら、詳しいかたであればボストンでピンときたかたかたもいらっしゃるのではとも思いますが、キワモノはキワモノなのですが、けっこうに民間伝承学・歴史的なお話で、アメリカのうろんな興行といえばこの人P・T・バーナムなども話題にでてきてびっくりしました。
このイベントってどんな感じ? 序盤の一部会話を適当に書き起こすと……。
0:7:56~引用文のくくりをしたけど、会話どおりではない雑な書き取り
田辺
「"連絡まつ"とだけ書いてある知らないおじさんの顔。それがいっとき、天満の町中に貼ってあって、」
円城
「町中って言っても、"こう"(両手を左右にひらく)じゃないでしょ(笑)」
田辺
「いや"こう"だよ。扇町公園の滑り台とかにもバババババっと。
ですごいのが、鉄橋のところに――ぜったい手じゃとどかないようなところにも――20枚くらいバァーっと貼ってあって。で下におじいさんの顔に"連絡まつ"とだけ書いてある。書いてあるのに、電話番号とか連絡先とかなんにも書いてないんですよ。
気になったかたは「連絡まつ村」とか「連絡まつ 大阪」とかで検索してもらえると……。」
円城
「いや僕もそれは知ってたんだけど、ある日帰って冷蔵庫見たらそこに貼ってあって(笑) ”うわあぁ取って帰ってくんな”っていう(笑)」
という怖い都市伝説/じっさいに田辺氏が見たルポ的なお話もあれば……
0:40:32~円城氏による他作家の本紹介③ アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』
「現実からそこまで離れずにこんな物語を書けることができるのか! という正しいエンターテイメント。(略)"よくできてるな!"と思うと同時に、書評の依頼とかも来るんですが……"いや、おれにこんな正当な宇宙SFの書評たのむなよ""おれはもっと色物なんだよ"って断りつづけてる、それが言いたくて持ってきました。
……アンディ・ウィアーだから、すごいんだよ、うまいんだよ。正しいんだよ。でもおれは正しい人じゃないから、ぼくがここに"絶賛!"とか書いてもへん。いや(この作品の)オビは書かないんだけど(笑)書評で(ぼくがこの作品に)"すばらしいSFですね"とか書いてもしょうがないじゃん(苦笑)
出版社のかたが(このイベントを)見ていたら、ぼくにはへんなものを回してほしい」
「たとえばこれとかですね、」
40:32~円城氏による他作家の本紹介④ エルヴェ・ル・テリエ『異常【アノマリー】』
「こういうの! こういうのの書評をください! っていうアピールを――だれに向けてしているのかわかんないですが(笑) ……っていうのを声を大にして言いたいって持ってきました」
……というような、自身の作風・好みもまじえた漫談的なトークもあり。
0:42:40~田辺氏による他作家の本紹介③ 岡田索雲『マザリアン』
田辺「岡田索雲さんは天才なんですよ。最初、『鬼死ね』っていうタイトル(の作品)で(世に)出て、『寄生獣』を最初に読んだときくらい衝撃を受けたんですよ。で"このひとは有名になる""ビッグになる"って思ったんですけど、いまんところ全部打ち切りなんですよね。牧野修さんとかもすごい絶賛されて……なのに打ち切り。
『マザリアン』もすごい話ですよ」
円城「内容紹介は……?」田辺氏からコミックスを受け取る円城氏。
田辺「内容は、"ひずみ"っていうのがいきなり空間に出て、その"ひずみ"に遭遇すると近くにあったものと生物が混ざっちゃうんですよ」
円城「(オビに)"青春融合ニャンニャンパニック"って書いてある……ここが問題なんじゃない?」
田辺「うん、ぜんぜんそんな話じゃない(笑)」
円城「(笑)」
以降、田辺氏は、表紙の主役の例が幸運だっただけで融合の具合によっては死やその後の生活に支障をきたす例を紹介し(そして主役でさえ手が猫になったことで、かれが子供時代から握り慣れ親しんでおり、精神統一にもちいるなど心の支えであった竹刀さえ握れなくなってしまった場面を取り上げ)、『マザリアン』がフォーカスする、障碍者やある種の社会的弱者のような存在としての融合者について説明していく。
……というような熱い作品語りに、初見であるもうおひとかたが妙な点を見つけて創発的に話がころがる、漫才的なトークもある。
▼創作論も(もちろん)ある
上や下では笑える楽しいトーク部分についてばかり触れてしまうんですが、けっこうに面白いお話がありました。
円城氏のお話は――ツイッターでもちらほらされていたお話ですが――
「小説は"紙とペンさえあれば書ける"参入障壁のひくい業界に思われてきたが、最近はそうも言えなくなった。
ただ書くにも『マイクロソフト・ワード』だって買い切りではなくサブスクリプションサービスになり、ちょっとした単語・用語について横断検索(「ジャパン・ナレッジ」?)を必要とする機会も多い。
また近年作品にもとめられる取材量・質(先行作の研究や、リサーチなど)が上がってきている傾向にあり、それでも"専門性で勝負しよう"(★)となっても皆ある程度調べられちゃう/書けちゃうからツラくなってきている。
他方で、80年代ごろまでと違って執筆にあたって取材費などは出ず作家持ち出しだし、収入としても出版部数は文藝もエンタメも少なくなってきている」
というような具合のお話。
〔★この「専門性で~」あたりの部分、zzz_zzzzはちょっと意味をきちんとつかみ損ねました。
「知識のゲタ履きが昔にくらべてだれでも容易になった」という意味なのか?{たとえば『メモリー・ウォール』(※1)『すべての見えない光』(※2)のアンソニー・ドーア氏はどんな国のどんな時代の話も異様な精度で書けてしまうが*1……という、円城氏が何度かされていることの延長線上のトピックなのか?}
それとも、
「{作家業一本で食っていくのは難しい、趣味レベルでやるのがよさそうな現況をかんがみて、}"まじの専門家が趣味として専門分野にかんする小説を書く"ことに対し、専門外の専業作家がどう立ち向かえるのか?」という話なのか?
ちょっと分からんかった。
{※1 円城氏による『メモリー・ウォール』評としては、『波』2011年11月号書評「記憶の種子」(一時期は新潮社のサイトに併載されてたがリンク切れしてしまった……。皆さんInternetArchiveで確認されたし。ちなみに時期によって短評版と『波』版、べつべつのものがあります)や、『本の雑誌2013年7月「シラス丼たじろぎ号」』書評「非SF作家のSF」がある。
後者はドーアのほか、「地上の都市から異星の町、架空の都市まで手広い」ミエヴィルや「架空の北米やアジアが得意な」バチガルピ、「対ゾンビ全世界大戦を描き切る」『WorldWarZ』マックス・ブルックスという自身と同年代/広範な土地を創作の舞台にした作家を並べた「昔とは使える資料の量がちがう」創作論的な話がチラリ}
{※2 円城氏による『すべての見えない光』評としては、朝日新聞『好書好日』書評「重なり響き合う少年少女の時間」、『本の雑誌2017年9月「豆ダヌキ乱読号」』書評「ドーアの言語兵器」などがある。
後者は、そもそも我々の読んでる「小説」なるものの時代性・特異性を語ったうえで――つまり、天や王様に捧げるのでもなければ税収の記録といったものでもない「あたかも個人に向けるような」小説は、「文章で人が感動できるようになった」時代の技法だよと――、「情報技術が猛烈な発達を遂げ、もう間もなく膨大な計算パワーがその枷を解かれそうになっている昨今」の小説、つまりドーアの件の作品について語った評}
〕
1:35:57~それに対して、田辺氏が、
「なので、失われた――あんまりアーカイブの残っていない――それこそこの小説のような(笑)90年代の前半から半ばくらいを舞台にした青春小説とか、その時代に生きたひとの記録みたいなのが出てきてほしいなぁみたいな」
と即座に反応・じしんの創作の意義を提示されていて、かっこよかった。
そんな田辺氏によるこの小説が、『致死量の子どもたち』。
0:20:26~
田辺
「作中の設定が1990年代の後半からゼロ年代の前半ぐらいで、当時のネット文化とかネットミームとかを使って、当時のアンダーグラウンド文化の――テレホーダイとかあったりする時代にして最初そういう風に書いたんですけれど、編集者さんが"いまの若い人はそんなのサッパリわかりませんよ"って言われて、ガッツリ削りました。まぁでもね、どうしてもそのあたり残したかったのと、スマホでその場で撮影したりツイッターとか呟いたりオンタイムの情報発信をからめたものをわたしがまだ書く力がなかったので、当時のアングラの雰囲気として『絶望の世界』とかそのへんの話がちょっとだけ作中に出てきます」
円城
「なつかしいね、20年くらい前の話だね。もっとまえか」
田辺
「そうそうだからまだ『2ちゃん』とかもなくて、『あめぞー』とかで、ドリームキャストでインターネットをやってる人間がいて、Eメールが送れるだけで"すごいっ、ネットに詳しいんだ~"って言われる世界の話を書きたかったの。
その時代に学園で不穏な事件が起こっていって……っていうような話に、って。でも編集者さんは」
円城
「知らないでしょ(笑) なんだったらぼくぐらいの世代の話。むしろあなたもなんで知ってるのかってくらいの世代の話じゃ?」
田辺
「いやでもわたしがそのとき中学ぐらいで、そのときわたしはパソコン家にあって、暗いアングラサイトで死体の画像をピーーガーーとかでゆっくりこう上からさがって出てくる画像を見たり。(略)ジオシティーズでみながホームページをつくっていて、"カキコ"とかね、"キリ番GET"とかいう風習があり」
円城
「時代だよね」
田辺
「そういう時代の小説が"意外とないな"と思っていて。あるの?」
円城
「いやないよ。あのころはみんなネット上だったから。本っていちおう国会図書館に入るじゃないですか。だけどあのころのものって本当にのこってなくて。Internet Archiveはあるんだけど、あのへんて保存できてないので実は問題なんです」
田辺
「それであのときに、本当にインターネットっていうのが世界に広まってみんなとつながれるのかっていうのすら分かってなくて、携帯電話の普及率もさほどでもなくて、世の中がちょっと前と今につながるもののすごい大きな切り替え期だったのに、その時代を舞台にしたものって――だから『絶望の世界』も「本になる」って言って成ってないじゃない。だからあの時代の話をわたしは書きたいの。
だけど(笑)"フロッピーディスクすらも最近のかたは知りませんよ"って言われて……(略)もしこれが売れたらそういう話を続編として書きたいなって思って」
円城
「それを書きたかったけどそこの要素は削られてしまったと(笑)」
田辺
「削られた(笑)」
とのこと。(け、けっきょく今作の話ではないのか? ……いちおうそういう時代のお話ってことでいいんですよね? ね?)
▼余談1:20:20~「ガンジーも助走つけて殴るレベル」的たとえのSF界隈版
イベントを見るかたが作家志望者が多そうだ、そして「どうすれば作家になれるか?」というのがよく聞かれる質問だということで、その答えを話すおふたり。
田辺氏が、奇特なかたちで作家へ拾い上げられたケースを2通り・複数人ずつお話ししたあと、ちょっとSFオタク的に面白かった話題。
円城「いまだったらふつうに"投稿して新人賞獲ってください"とぼくは必ず言うことに」
田辺「そっちでしょうね。もしワンチャン狙いで行くと逮捕される可能性のほうが遥かに高いですからね」
円城「まストーカーとかするとね(苦笑)
誰かのツテでデビューってできないことはないけど、ずっと(そのことを)言われるし、いまはすぐ炎上するじゃないですか。でけっこうそれで息の根とまったりするんで。事前に知り合いになるとかもぼくは"できれば避けるように"ってのは言います」
田辺「で実際ツテで仕事ってゲットできないじゃないですか。
わたし"あなたがSF作家だからそれツテで仕事もらえないかな?"ってずっと思ってるんだけど――」
円城「身近にいた(笑)……ハイ(笑)」
田辺「――(SFの依頼は)ないもん!」
円城「ないよ!」
田辺「だってSFでしょ? わたし『ゴリラ女房』がさいきん気になってて」
円城「ゴリラ女房SFじゃないもん」
(略)
田辺「わたしゴリラ女房と触手モノのSFを書いてみたいってデビュー当時から言ってるんだけど、だ~れも依頼してくれないから……」
円城「触手モノを(笑)書いてくださいって依頼する人はいない」
田辺「なんで!? そうなの?」
円城「うん たとえね……」
田辺「触手とビキニアーマーとゴリラ女房で……」
円城「……たとえ伴名練でも編集できないと思うね」
田辺「だめですか?(真顔) 伴名練編集『触手・ゴリラ女房・ビキニアーマー傑作選』……」
円城「なんで混ぜるんだよ!(笑)一冊ずつ出そうよ(笑)」
……いや一冊ずつ出すのもおかしいですよ円城先生!(笑)
zzz_zzzzは以前……
『本の雑誌』あたりの連載企画としてですね、
およそありえない無理難題をなげつける読者vsどんなお題でもそれに当てはまるSFを絶対に見つけてこられる伴名練先生
という、ビブリオマニア向け『ほこ×たて』とか読んでみたくないですか? ぼくは読みたいですよ。
(最終回はついに伴名先生が該当作を見つけられないんですが、しかし、「○月×日発売の『△△』という小説がこれに該当する作品です」とみずから新作を書き下ろし、掲載告知をして終わるという、感動的な痛み分けENDをむかえる)
……なんて日記を書きましたが、考えることはプロアマ問わず似ているもんだなとほほえましかったです。
■考えもの■読みもの■
「やってないわけではない」自覚が火種となるのかな;DM事件のときシスターフッド映画特集をしたばかりだった『映画秘宝』/男だらけのホモソ批判・絶版本企画批判のとき、男女比半々くらいの「百合特集2021」を「自社文庫総解説」と一部復刊をしていた『SFマガジン』
▼『映画秘宝 21年2月号』シスターフッド特集が興味ぶかかった
世間のポール・フェイグ監督版『ゴーストバスターズ』評が気になったので、とりあえずググったら出てきた『映画秘宝』を複数号取り寄せた。
2021年2月号(20年12月21日発売)は「『マッドマックス怒りのデス・ロード』が世界を変えた! 『ワンダーウーマン1984』究極攻略&シスターフッド映画の世界!」。そのほか『私をくいとめて』橋本愛さんとのん氏の対談と、同作をシスターフッドから見る特集記事などが掲載されていました。
▽真魚八重子さん&澤井健さんによる「シスターフッド映画爆走対談」
いくつか興味ぶかい記事があって、真魚八重子さん&澤井健さんによる「シスターフッド映画爆走対談」も面白く読みました。
『怒りのデス・ロード』以後の作品を中心として、77年公開『ジュリア』や91年『フライド・グリーン・トマト』、『セックス・アンド・ザ・シティ』やドリュー・バリモア製作作品(監督作である名作『ローラーガールズ・ダイアリー』が思い浮かぶけど、『チャーリーズ・エンジェル』もバリモア氏のプロデュースだと云う)など、色々なお話が出てきます。
さて百合作品について「死体埋め百合」とかが「共犯者」とかが一つの注目をあつめていましたが、真魚氏&澤井氏も「シスターフッド」映画にまつわる「不健全」なイメージに注目しています。
上に挙げた『ジュリア』はレジスタンス物と澤井氏から説明され、『テルマ&ルイーズ』『フライド・グリーン・トマト』については女性による男性への犯罪がからんだ作品である点を真魚氏から注目されています。
真魚 シスターフッドは犯罪とか復讐とかが多いというか。例えばヒッチコックの『ロープ』(48年)をブラザーフッドとは言わないけど、あれの女性版があったら、絶対シスターフッドって言いますよね。女同士のコンビものって、有名なものは犯罪が絡むものが多い気がして。女性を抑圧する男性というのが、暗に敵としてある感じがする。
澤井 確かにそうですね。『お嬢さん』(17年)とか『オーシャンズ8』(18年)とかもそうだし。
真魚 それといままでは、女同士のバディものとかに、女性同士の恋愛要素を必要以上に入れる場合があったと思うんです。『お嬢さん』は好きな作品ですが、原作に無い濡れ場が過剰にありますよね。まだ男性の需要に応えてる面もあると思うし、今後はそれも自然体になって行くのかなと。
そして『ハスラーズ』(19年)について、犯罪モノでも単純な「女vs男」ではないことを真魚氏は述べます。
▽『高殿円の配信ロマンシス最前線!!』が批判する旧来の男性優位ご都合ロマンシスと、それを脱した新時代の作品群
真魚氏澤井氏らの対談とおなじように、作家である高殿円さんの寄稿もまた面白かった。
私に言わせれば、女性同士の恋愛関係そのものが、いままで男性目線で描かれすぎであった。有名テレビシリーズには必ずレズビアンカップルがいて、それはそれでとても素敵に描かれているのだけれど、それじゃあゲイのメインキャラクターがいるかといえばそうではない。いても彼の恋愛は描かれない。(略)ウチは多様性をとりこんでいますよとアピールしたいが心理的にゲイカップルをいれたくないのか、女性同士のほうが制作側にとって美しいつくりものであるからか、とりあえず入れるならロマンシスで! みたいな、作り手のやや安易な意図が透けて見えていたのだ。
高殿氏は従来の作品にえがかれた同性愛カップルが(見目麗しい)女性同士が多かったこと・男性同士は少なかったことなどを根拠として、多様性のお題目の裏に透けて見える男性目線について批判すると、『クイーンズ・ギャンビット』、『オールド・ガード』、『スタートレック:ディスカバリー』……「関係性が「恋愛」だけではない」「さまざまな相手への執着心が愛を持って描かれ、決してハラスメントにはならない」2018年や20年代に入ってから公開された最新の作品群を紹介していきます。
▽上2記事がある一方で、「一生ついていきます! 銀幕のスーパーラヴァー イケメン女優名鑑BIG5」はけっこうルッキズムじゃない?
おおむね面白く読ませていただいたのですが、「うーん?」と首をかしげるコーナーもありました。(いや号全体でみるとむしろバランスは良いのか? よくわからないな……)
たとえば、
「『ゴーストバスターズ』はシスターフッド的な女優を全員揃えた作品ですよね。いまルッキズムがすごく見直されてる過渡期だと思うんですが、これが男性に批判されたことで浮き彫りになったと思うんですよ。この作品を、「おばさんばっかりで楽しくない」と言えてしまう男性がいるのが、けっこうショッキングでした。」p.20
というお話がなされた記事をめくっていくと現れる別企画「一生ついていきます! 銀幕のスーパーラヴァー イケメン女優名鑑BIG5」(ただこのコーナーの選・文も、さきの対談記事で興味ぶかい批評眼と知見を披露されていた真魚八重子氏なのだよな。真魚氏以外のライターも女性でした。)は、どうとらえてよいかわからない企画でした。
「イケメン女優名鑑」で挙げられる役者は、シャーリーズ・セロン氏、ケイト・ブランシェット氏、ジェイミー・リー・カーティス氏、ハ・ジウォン氏、ダナイ・グリラ氏……と、国籍や年齢も多様な役者が挙げられつつも、次点でクリステン・スチュワート、ルビー・ローズ、ヘレン・ミレン、グウェンドリン・クリスティ、ゾーイ・サルダナ&カレン・ギラン、ブリー・ラーソン、ブレイク・ライブリー、ミシェル・ロドリゲス、レナ・ヘディ、レベッカ・ファーガソン、キャリー=アン・モス&クリステン・リッター、ハル・ベリー、ティルダ・ウィンストン様(『サスペリア』から)……と並べられていくとわかるとおり、若かったり・若くなくとも美形であったりする役者が大多数なんですよね。
一言「イケメン」と言ってもどうとでも拡張できるわけじゃないですか、「外見的にはいわゆる美形ではないけれど生き様がイケてる」とか。
{そして「生き様がイケてる」なかでも、共にがんばっていきたい人格者、という場合もあるでしょうし。
(ポール・フェイグ監督版『ゴーストバスターズ』の精神的支柱アビー・イェーツを演じたメリッサ・マッカーシー氏とか、容姿が整っている範疇にはいってしまうとも思うけど、『ドリーム』で計算手をコンピュータ・プログラマへ転身させたアフリカ系女性の計算部のリーダー・ドロシー・ヴォーンを演じたオクタヴィア・スペンサー氏とか)
お近づきにはなりたくないし自分がそのように生きれるとも思わないけど、自分には出来ないくらい自由にやりたい放題をやる傾奇者、という場合もあるでしょうし}
男性の需要にこたえる旧来的シスターフッド批判をすることと、美形語りをすることはトレードオフかというと必ずしもそうでもなく両立できそうな気もしますし。対談でシャーリーズ・セロン氏について評した「女性からみて、男っぽいから好きなんじゃなくて、女として美しいから好きって思える女性」p.20の具体例ということなのかもわかりませんが、うーん……。
***
▼閑話休題。「やることやってる」「やってないわけではない」仕事をやった直後のアレについて
(真魚&澤井対談記事や高殿記事など、質・量ともに興味ぶかい記事もある一方で)「達成度や質は100点満点やそれを超える120点のものか? 20年末~21年初めの企画として時流に合っているか?」というと(一部コーナーは)正直ちがう気もするのですが、まぁ、「100点満点じゃないかもしれないけど、やることやっているよな」、と感じもするわけです。
で、これ、時系列的にふりかえると、ここから1ヶ月経たないうちに、映画秘宝編集長のキモキモDM炎上/批判者の電話番号を入手し直電事件がおこるんですよ
DMを送った発端は、ラジオ番組の一コーナーに、『映画秘宝』関係の男性ふたりが出演し女性ゲストがいなかったことを取り上げたあるツイッタラーが続けた、「俺たちのー!」というノリの「男性執筆陣ばっか」である本としての『映画秘宝』批判でした。
アトロクの韓国映画特集聞いててなんとなく西森さんが出ると思い込んでいて(多分前回の何かに出演されていたのと間違えてた)ゲストが映画秘宝(雑誌)の人たちで男性ふたりで、私は映画秘宝全然読んでなくてあんまいいイメージなくてむしろあの雑誌まわりが全部苦手で、勝手に幻滅している...女性ゲストは?」
韓国映画についての面白い論説や批評、私が読んでるのは女性の方が多いので1人女性にするとか...って思うけど、アトロク(うたまるさん)とか映画秘宝とかは「俺たちのー!」とか「ポンコツ」とかそう言うノリがしんどーい
宇垣さんのマブリーインタビュー読みたいけど男性執筆人ばっかの本も買いたくねーな(純粋な悪口です)
▽『SFマガジン』百合特集が「男性作家と男性読者と、男性批評家と男性編集者で仲良しこよし」「(男性)作者本人の話にシームレスに繋がらないように、女性身体に置き換えた上でやってる私小説」と批判されたとき、発刊済みの最新号では特集寄稿者男女半々・創作が非男性が大半に改められていた
ここで思い出すのが、最近のSF(雑誌)批判。
百合SFや、「絶版本のあやふやな内容を聞いて勝手に内容を想像してみよう」という企画にたいして、当然っちゃ当然でた批判についても覚えたモニャモニャ感でした。
ラジオのパーソナリティとして出演などもしたこともあるSF読者の男性らが、
「早川書房様、東京創元社様、わが町の本屋からSF棚が無くなりました。
理由は売れないからだそうです。
売れないということはないはずです。なぜなら私が私が買っているからです。
本屋の言う「売れない」とは相対的なことらしく、SFはもっと売れるジャンルに棚を奪われたのです。BLでした。」
「SF界のみなさん、おなじことがみなさんの町で起きていませんか?
SFを買って読んで書店の棚を奪い返しましょう。」
「せめて百合だったらSFと共存共栄した時間線があったかもしれない…。
この売れないジャンルの棚縮小問題。
『このお店にしか棚がない!』になると強みになるんですよね。
なのでSF者がピンポイントに実店舗に行けるように我々読者クラブはSNSで店舗へのナビゲートをするのだ!」
とのなかなかキッツいし実際炎上したツイートと、うまいこと軟着地しようと試みたらそれはそれで別のキツさを有してしまった別のかたのリプライ(こちらは削除・撤回済みなはず)などから延焼再燃した、百合SFブーム批判やそれを読んだべつのかたによる2021年4月末の批判をみてみましょう。
「男性作家と男性読者と、男性批評家と男性編集者で仲良しこよししてきた結果として「SF男性読者のホモフォビア&ミソジニー」」
とか。
「百合SFのインタビューで「こちらに興味がない顔の美しい女性キャラクターは、めちゃくちゃキレイな景色の擬人化に近い」みたいな箇所があり、早川の百合SFアンソロ買ったときにもほとんどそれとおなじ読後感のものが複数あって、」
「それは情景描写に対してプライオリティがない、読者にも作者にも興味がなくて、擬人化で女性にしてようやく読めると思ってるのか、めちゃくちゃキレイな景色みたいに遠いものにしなければ、卑近的な生身の女には憎悪がでるという話なのかな、とか考えていた」
とか、
「「これ本当に女と女の感情かなあ? 興味があるの他者ではなく自己とガジェットだけなのでは??」というところがあり、男性にモテてる百合というのは結局ガジェットのことなのでは?」
「百合という名前の女体を使いこなすガジェットのひとつ」
「何個かは読んだけど、すごく……カジュアルな私小説ぽさを感じたんだよな エヴァみたいに作者本人の話にシームレスに繋がらないように、女性身体に置き換えた上でやってるというか」
「重要なのは女の身体があることなので、女が社会的に苦しむ父家長性とか貧困とか、その辺はあんまりどうでもいいのだろうなーみたいな。書くとしてもその辺の背景がソ連とか大正時代とか、亡くなった国やそれらが続いてたら!調に描写されてるように思える。」
……こういったお話が出たわけですが(前述『映画秘宝』真魚&澤井対談記事や高殿記事で指摘・批判された点ともかさなる論旨で、そして百合SFに寄稿した作家のトーク記事や『アステリズムに花束を』などを読んでそうした評価をくだすかたがいらっしゃることはなるほど理解できます。ぼくも百合SF関連の対談記事の草野原々さんによる言及のいくつかについて、批判された方がおっしゃるような意味で「厳しい……」と思いました*2)。
じゃあ、
「特集の寄稿者の男女比って実際どうなの?」
と見ていくと、この男女比の偏りにかんする批判が当てはまりそうなのは19年2月号の最初の百合特集の創作(すべて男性作家の作品)や、そこから付随して出版されたアンソロジー『アステリズムに花束を』のお話(参加作家10名のうち7名が男性だと公言している作家で、櫻木みわ氏以外に女性と公言している作家はいないのではないか?)でしかなくて、寄稿者・取材対象がざっと数えて男女半々/掲載創作の作者が非男性のほうがおおい『百合特集2021』は眼中に入ってない批判なんですよね。
(『百合特集2021』は、うえの批判がでた5ヶ月まえの年末の締めくくりの号)
『SFマガジン』19年2月号(百合特集)/百合特集2021/『百合SFアンソロジー』に寄稿したり取材されたりしたかた・『SFマガジン編集部』はべつに男性だけじゃないんですよ……ということは言っておきたいです。
{そもそも性別非公表だったり男女でザックリ二分していいもんじゃないだろうというお話だったりってあると思うんで、乱暴な話なんですけど、前回の百合SF特集号にくらべて、『百合特集2021』の寄稿者・インタビュー相手は男女比はかなり変わったと思います。
『2021』のほうの寄稿者・インタビュー相手は宮澤伊織さん&佐藤卓哉さん(『裏世界ピクニック』原作者&アニメ版監督対談)、花守ゆみり氏&茅野愛衣さん(『裏世界ピクニック』主演2人)、斜線堂有紀さん(小説)、届木ウカさん(小説)、小野美由紀さん(小説)、櫻木みわさん&李琴峯さん(小説)、伊藤階さん(漫画)、水沢なお氏(詩)、根岸十歩さん(小説)、月本十色さん(小説)、ふりっぺ氏、『百合姫』編集長梅澤佳奈子さん&『百合姫』編集伊藤さん&ガガガ文庫編集榊原さん&pixiv宮武さん(座談会)、将来の終わり氏、嵯峨景子さん(敬称は見やすさのため漢字でおわるひとは「さん」、ひらがなのひとは氏「氏」にした)。
企画自体は溝口力丸さんが担当だったようだけど、『百合特集2021』刊行当時(最近の号が本棚にうもれて見つからない)のSFマガジン編集部自体は溝口氏にくわえ塩澤快浩さんと梅田麻莉絵さんの3人体制}
弊blog、「日記;2021/04/20~04/26」より
また、(たまたまでしょうけど)『SFマガジン』21年6月号のように特集企画の掲載作家・翻訳者がひとりを除いてみな女性というような号がありました。
でも、じっさいに女性が仕事をしていようが批判者から「男性しか居場所がないボーイズクラブだ」と、男性以外が透明化されてしまう不思議がある。
(もちろん、上は「特集企画だけ、しかも年6冊でているうちの1冊だけ見れば、そういう号もある」というだけのおはなしで、「じゃあ通号連載シリーズや通号連載記事は/作家・ライターは女性ですか?」という視点を無視した、狭い見方ではあります)
{あと、「こちらに興味がない顔の美しい女性キャラクターは、めちゃくちゃキレイな景色の擬人化に近い」と言う「百合SFのインタビュー」がどれか、パッと思い当たれませんでした。風景に散った痕跡から百合の物語が想像できる、というようなお話は確認できたけれど、それ(=「無関心な美女=美景というモノ化」)とこれ(=誰もいない風景から、かつて実在した女性キャラ同士の「人の物語」が想像できる)とは全然ちがう話ですよね。*3}
▽早川絶版本妄想企画批判者が「それに引き替え」と『サンリオ総解説』やレム新訳の地道な努力を褒めたとき、『SFマガジン』当月号がやっていたのは「ハヤカワ文庫JA総解説」と絶版したJA名作の復刊告知、「レム短編初訳」と「書簡などの再録」だった
「絶版本ウンチャラカンチャラ企画」の場合はどうでしょうか。
「自分がそういう本を買いたいかというと全然全く少しも買いたくないけども!!!
まだこっち買った方がマシ これも絶版高騰ですが……(ちなみにこちらは本の雑誌社の仕事です)
「私は大野氏が翻訳者として携わられていたスタニスワフ・レムコレクションを高校生の頃から追っていたんだけど「大失敗(フィアスコ)」以降なかなか続刊が出ず、Twitterで企画潰れちゃったのかな〜とぼやいていたらDMでわざわざ「きちんと動いているので安心してください」と言ってくださってですね。」
「こうやって大変昔の本であっても待っている読者がいる中細々仕事をされる人がいるからSFというジャンルは持っているのであり、個人の同人誌より出るか出ないかというレベルの印刷部数を頼りにイキり散らして過去も顧みない馬鹿に与する事は将来的に何の実りも生まない。」
などと言われたその渦中の『SFマガジン』の特集記事がなんだったかといったら、「1500番到達記念特集 ハヤカワ文庫JA総解説」であり、「レム生誕100周年記念特集」による短編本邦初訳・書簡などの再録企画であったんですよね。
SF界の知の巨人として知られるスタニスワフ・レム。
今年、2021年はレムの生誕100周年にあたる。
本邦初訳短篇、書簡、語録の再録で、その存在をいまいちど振り返る。
・特集短篇
原子の町 スタニスワフ・レム/芝田文乃訳
・特集記事
スタニスワフ・レムからアメリカのレム翻訳家、マイクル・カンデル宛ての書簡 久山宏一訳/沼野充義・選
(本誌2004年1月号より再録)スタニスワフ・レム語録 牧 眞司=編
スタニスワフ・レム生誕100周年記念グッズ発表!●1500番到達記念特集
ハヤカワ文庫JA総解説 PART3[1001~1500]文庫JAが今年9月で1500番に到達予定であることを記念した特集を3号連続掲載。最終回となるPART3では、1001番~の籘真千歳《スワロウテイル》から、1500番の樋口恭介=編『異常論文』まで、番号順にすべての読みどころをSF作家・評論家らが解説する。
ハヤカワオンライン、『S-Fマガジン2021年12月号』紹介文より
そしてこの号はじめのカラーページには同総解説されたJA文庫のうちからいくつか復刊する「ハヤカワ文庫1500番到達記念復刊フェア」告知・宣伝ページが掲載されていたり……。
……もちろん「なんかハヤカワ文庫SF総解説もちょっとまえに号をまたいで長期でやってなかった?」とか「1500冊中のたった6冊ですか」とか、「ビッグネームのビッグタイトルだけですか」とか「そんくらいは恒常で取り扱うようにしたらどうすか」とか。
「埋もれた名作にスポットライトを当てるキュレーションは行わないんですか、伴名練がいないと行えないんですか」とか。
「『ハヤカワ文庫 海外SF デジタル化総選挙』はどうなったんだ、ベスト20だって復刊できてないじゃないすか」とか、「『スキズマトリックス』『故郷から10000光年』が復刊できたのも丸善150周年記念事業というよそ様の力のおかげってだけっぽいよな……」とか、いろいろ思うところはあるわけですが、「100点満点ではないにせよ、なにもやっていないわけではないよな」と感じるのは感じるわけです。
▼閑話休題。「やってないわけではない」からこそ何か言いたくなってしまう/で、"わけではない"レベルの至らなさゆえに粗野な応答が出力されて更なる墓穴を掘る、負の連鎖はあるのではないか?
批判者へ粘着DMを送りさらには直電さえしたと云う*4『映画秘宝』前編集長と、送らなかった『SFマガジン』編集部(※とはいえ「萌え絵女性キャラ表紙批判」にたいしてふせったーで自己弁明したりなどはあった。また「絶版本妄想企画」は、早川の社員でないにせよ企画者である作家の樋口恭介さんがこれについてnoteを書いた結果、更なる反感を買ったりもした)という違いはあるわけですが――また、どうあっても『映画秘宝』前編集長の所業はマズ過ぎるだろうとは思いますが――「やってないわけではない」からこそ「何か言いたい」みたいな機微はあるんだろうな……と思いました。
で、他人様の記事や文言を引用してまとめるこたつブロガーのぼくが(と同列にしちゃうのはナメた言い方ですが……)、「なんか自分がこう考えたぞ」気分になっているけど実際にはひとのふんどしであり自分じしんは空っぽであるのと同じように、たとえ立派な本を編集したとしてもそこに書かれていることは記事執筆者の調べ考えたものであって、「編集者がそこまで調べたり考えたりしているか?」というとそうではないだろうから、なんか言おうとすると練り込み不足となる可能性もなくはない。
もしこういう「やってないわけではない」と思うことについて「やってない」と批判されたさい、公にむけたそういう仕事歴の提示(と、至らない点ばかりではございますが改善しようと努力はしておりますので、何卒あたたかく見守っていただければ……というような文章)くらいなものだったら、お話はどのように転がっていくのだろうな……とちょっと思ったり。
まぁ繰り返しになりますが、実際に『映画秘宝』元編集長が送ったのは、「そういう印象に対して、実際なにをしてきたか」ではなくてマジに気持ちしか語らないキモキモDMとコンプラなんてあったものではない直電だったからあの話はあれでおしまいですおしまい。どうしようもない。
▽(追記)「チェリーピッキング」かどうかはもちろん大事なんだけど、「そもそも大多数の旧態依然が変化する初期は、少数の例外にならざるをえないはずでは……」とも思う
(3/30に追記したこと)
ぼくが挙げたような例や話にたいして、「(都合がよいオイシイ事例だけをピックアップした)チェリーピッキングではないか」、「印象ではなく客観的な実態をお話しすべき」という話は当然できると思うし、もっと勉強しなきゃいけないなと思うわけですが……。
他方で、「そもそも大多数の旧態依然が変化する初期は、少数の例外にならざるをえないはずでは……?」とも思ったりもするんです。
そこからさらに、
「(社会的に倫理的に)すばらしいとある価値観(=たとえば男尊女卑の是正とか、男女平等とか)と、それの実社会での関係性・存在感(たとえば「万人向け」雑誌に見えて男向けに特化されてないか? 雑誌製作者の男女比に偏りはないか?)について話題にするとき、なにがしかについて"あの称えるべき価値観をあれは有していない"と批判する声ばかりが目立つけど、そもそもその価値観を尊重し順守した一面があらわれたときに(あるいは過去すでにあらわれていたことがあったとわかったときに)、それを評価する声をあげられるのだろうか?」
という疑問を反語的に感じてしまっている。
最初から80点100点のものだけを摂取するのが精神衛生的にもよいわけで、延々赤点つづきのものを追いかけるのは疲れてしまいますよね。
皆さんはどうかは知らないけれど、とりあえずぼくは、そういう赤点から50点くらいの変化に対して「う~~~ん……」と苦い顔しちゃって許容できない人間だというのは上の文章の脚注でもご覧の通り。
{SFにおける女性キャラの役割について、70年代と現在とのちがいを批評家の論考と作家のトークイベント採録記事から取り上げたお話なんて良い例ですね。
「女性とSF」でパミラ・サージェント氏が批判した「ガジェットや科学的原理にかんする(無知な)聞き役」から、草野(&宮澤)氏の「ガジェットや科学原理について話すのも女性、聞くのも女性{。なぜなら、そこに関係性(≒ドラマ)を盛り込めば、皆さんのお好きな百合として楽しみやすいから}」は、たぶん良い方向に向かってはいるが、それでもなぁ……という}
……で、たぶん、『映画秘宝』のシスターフッド特集の話題も、『SFマガジン』本誌の話題もあんまり聞かなかったとおり、それはぼくに限ったことでもないのではないか、とも思う。
(トーン・ポリシングになってしまうからそういう「よかった探し」はしなかったんだ、という賢明なかたももちろんいらっしゃるでしょうが)
0313(日)
■ゲームのこと■
きょうの『Wardle』
正解! きょうのことばは「電話」でした。
Right! The word was: PHONE
すべての重要な電話番号をべつべつの紙に書き留めましょう。その紙をほかの書類と一緒にしまいましょう。あなたが携帯電話をなくしたときのために備えるのです。
Write down all important phone numbers on a separate sheet of paper and place it with the other documents in case you lose your phone.
より多くのことばを推測すれば――それだけより多くの準備ができるのです。
The more words you guess – the more ready you are.
■読みもの■
岡田索雲『マザリアン』全3巻(完)読書メモ
それは何ですか;
岡田索雲さんによる寄生モノSF漫画です。田辺青蛙&円城塔トークイベント『ぐだぐだ夫婦・読書話Part2』にて、田辺氏がオススメされた作品。全3巻。
序盤のあらすじ;
「赤い絵の具、に黒を混ぜてそれっぽくしてる」
椅子に広がった染みを見ていた少女に、おなじ制服を着た女性が声をかける。
「野々宮さん大丈夫? これよかったら使ってや」
タンポンを差し出されて野々宮は冷や汗をながす。
「ここまで一つの嫌がらせなんだ。この先エスカレートしたらどうなるんだろう…こわい…でも気になる…」
両親を亡くし白猫の白粒(はくりゅう)と一緒に暮らしている女子高生・野々宮桃子は、そのとぼけた性格ゆえイジメの標的とされ、クラスのつまはじき者となっていた。
「頼むで木屋…親父さんみたいな立派な剣道家になってくれよ…」
「いくら立派にやっとっても銃で撃たれたら簡単に死ぬし」
父を亡くし母も入院している男子高校生はそのとがった性格ゆえケンカにあけくれ、学校全体のつまはじき者となっていた。木屋が学校で口を開くのは生徒指導の教師か、校舎裏で偶然居合わせたサボリ屋と世間話するときくらいなものだった。
「知っとるか、俺ら"ひずみ世代"って呼ばれてるみたいやで」
「ふーん」
「木屋ちゃん卒業後の進路とか考えてる?」
「銃持った相手でも倒せるようになる」
「いがんどるわ~~~」
玄関のドアを開けた瞬間とびだした白粒をおいかけた桃子の顔が固まる。
多勢に無勢でリンチされパンツ一丁となった木屋が、白粒のあごをくすぐっていたのだ。差し出された猫を受け取った桃子は「汚いから帰って体洗うよ!」と白粒に話しかけて去ろうとしたところ、
「おい!! ちょっと待て!!」
眉間にしわを寄せた木屋に怒鳴られる。
「あ違います違います…あなたが汚いとかじゃなくって」
「止まれ! ひずみや!!」
女が来た道を引き返そうとした進路は、ぐにゃぐにゃと空間が歪(ひず)んでいた。
「……ついに生で見た…これが…」
「オアー~」
胸元の白粒がつらそうな声をあげる。下半身がひずんでいた。
桃子が気をとられていたその数秒のあいだに"ひずみ"に巻き込まれたのだ。
「白粒ぅーー!!」
腕からすり抜け、強い力で引き込まれていく白い体をつかもうと手を伸ばすが、桃子は桃子で逆方向へ引っ張られた。「ちょっと! はなし」「離れるんや!!」木屋が彼女を連れて逃げようとしていた。
「いだっ!?」
木屋が痛みに叫ぶ。歯形のついた後ろ手のさきをみると"ひずみ"に駆け寄る桃子の背中が見えた。
「アホ!」
「あ…手の感覚が…ああ…体も動かなく…だめ…助け……」
気を失った桃子が目を覚ますと、愛しの白毛がすぐそばにあり安心したのも束の間、驚愕に変わった。
「白粒…?」
まるで着ぐるみのような、恰幅のよい白猫が、
「なんやこれ!?」
パンツ一丁でじぶんの両手を見回し驚きの声をあげていた。
「おい鏡持ってへんか!? だいだいどんな状況かわかってるけどそれでも確認したいんや! なぁオレ…オレ…猫と混ざってしもうたんか!?」
「あ…だ、誰か呼んでくる」
「なぁそうなんやろ!」
白猫男との会話をさけるように桃子はその場を去った。高速に去った。
そしてべつの通りに頭からぐしゃりと落ちた。
数瞬まえ桃子は地面を強く蹴ったいきおいで家を飛び越え住宅街を舞ったのだった。
「…え?」
まきこんだもの同士を融ざり合わせてしまう謎の怪現象"ひずみ"があらわれてからしばらくが経った、すこしふしぎな日本。
ひょんなことからひずみに巻き込まれてしまった女子高生の桃子は、木屋とまざりあった愛猫を救い出すため、そして一見すると事件前とかわらないヒトだけど異様な身体能力を得てしまったじぶんの謎を解き明かすため、"ひずみ"の秘密を調べることにする。
そうして桃子と木屋は、日本全土をさわがす事件に踏み入れていくのだった……というお話です。
読んでみた感想;
第一話でひずみにまきこまれた者物が、融ざり合ってしまったところから始めた今作は。時に大胆な時間経過をはさみながら、主人公ふたりのバックグラウンドにまつわる謎を解き明かしながら、それぞれの目標を達成していきます。
女主人公である桃子が、げんざい一人暮らししている理由ともからんでくる"ひずみ"の秘密について。男主人公である木屋が、現在すさんでいる原因だろう親の過去の因縁について、その混ざり具合いかんで社会になじめたりなじめなかったりする(なじめたとしても日陰者がおおい)融合者の衣食住や社会保障をふくめた暮らしぶりを織り交ぜながら、十二分にえがいてみせます。
「打ち切りは打ち切りなのかな?」
という気はたしかにします。でもそれ以上に、
「もともと全3巻構成だったのではないか?」
と思わせるほど満足度の高い中編作品でした。
上のようなまとめは前述イベント『ぐだぐだ夫婦・読書話Part2』で田辺氏がおっしゃったことに追従する内容で、さらに田辺氏は今作(か岡田氏の過去作『鬼死ね』か)をかたるさい、「『寄生獣』を最初に読んだときくらい衝撃を受けた」とのべておりましたが、こちらもなるほど納得のストーリーと世界構築でした。
たとえばヒトと異なるモノや混ざり合ってしまった者の価値観の異物性であるとか、あるいは融合者に対する世間の反応・関わり合いであるとかが、丁寧かつちょっと突き放したような(でもまぁ「実際こんな感じになるのでは?」と思わせるような)シビアな目線で描かれておりまして。
融合者というガジェットをつうじて、身体障害や精神障害などに起因するマイノリティや、ホームレスや町の不良などマージナルな存在に焦点をあてていく、社会派SFのおもむきがありました。
さまざまな融合者が出てくるなかで――融合したものや融合のしかたの影響なのか精神状態がだいぶおだやかだけれども――ただのホームレスであるときはだれも見向きもしなかったのに、木と融合した後は"かわいそう"だの何だの注目してくれるようになったおかしみについて語る樹木との融合者はとくに印象的。
また、このシビアな空気をつよめているのが、運がよい主役級も比較的運がよいというだけで、かれ彼女らへも容赦なく"融合したがための不条理"が舞い込むんですよ――周囲をまきこんで。
読むこちらの理解度・許容範囲よりも数テンポさきに・範囲外へぽんと進む作劇は、このblogで話題にしたなかだと『空(スカイ)』とかこわいときのR・A・ラファティ作品や『ゴジラ対ヘドラ』の速度にちかい。
関西、東京、その他とさまざまな地域を舞台にしていく作品で、いちぶ細田守監督『バケモノの子』と舞台がかさなるところがあるんですけど、
「細田映画は夏映画という縛りがあるから選べなかっただろう、"渋谷で人とバケモノの交錯する時分といったらこれだよな!"というイベントが『マザリアン』ではちゃんと選択されている!!」
とキメてほしいなと思ったところをきっちりキメてくれる正攻法(?)の魅力もきっちりあって、そこも嬉しいところでした。
岡田索雲『鬼死ね』全4巻(完)読書メモ
それは何ですか;
『マザリアン』の岡田索雲氏の過去作です。
読む人への注意;
『マザリアン』とちがって、打ち切りらしい打ち切りで、「ぼくたちの戦いはこれからだ!」エンドです。
序盤のあらすじ;
試し読みで3話途中まで読めますのでご参照ください。
読んでみた感想;
面白かったのですけど、長編連載するうえでのむずかしさみたいなものは感じました。
『マザリアン』(ひずみに巻きこまれてしまってじぶんが/愛猫が融合してしまった! どうにか元に戻る方法をさがそう! ひずみ研究者の両親の死の謎をさぐろう!)と違って、わかりやすい大目標みたいなものが見えないので、そこら辺が打ち切りにつながってしまったのかな……などと愚考しますが、でもなんだかよく分からないまま生きてるのが中学生というものじゃん! 自然な物語展開だよなぁとも思います。
『マザリアン』のアクセルの踏まなさ具合を味わったうえで『鬼死ね』を読んだ結果、かなり緊張しながらページをめくっていったわけですが、これを発表順どおりに読んだらちょっと読み味が変わってくるかな? どうなんだろうな。
岡田索雲『峯落』
それは何ですか;
岡田索雲氏による読切マンガです。webアクションで全編読めます。
読む人への注意;
一ページ目の注意書きのとおり、性暴力やセカンドレイプをあつかった作品です。
序盤のあらすじ;
山の新しい頭領が決まるまえの最後の夜がはじまった。白髪の現棟梁による、含蓄ある挨拶がおわると、候補者である長の息子の豪傑や、開墾農畜を躍進させた知性派の男、そして初の女性幹部・独立独歩のマサリが前夜祭の壇上で並び立つ。
壇上で豪傑が威勢はいいものの中身のない演説をしたり。壇の下では、男衆が声援をとばしたり、演説の中身のなさへひそかに愚痴をたれたり。会場裏では女衆が、宴の料理を準備しながら「茶番だねぇ…頭領候補何人並べられても私たちが選べるわけじゃないんだから…」と冷静な見解をのべたり……そんな「あるある」な宴の空気が、マサリの所信表明でピシャリと変わる。
「今苦しんでる同世代のものたち 後に続くすべての年若いものたちを守るため…私はこの場をつかいはっきりさせておかねばならないことがある…
私は…子供の頃――この男にレイプされた」
読んでみた感想;
この話には
性暴力に関する証言や
セカンドレイプの表現があります。
フラッシュバックなどの心配のある方は
ご注意ください。
webアクション掲載、岡田索雲『峯落』より
「性暴力に関する証言」というところに、この作品がどれだけ考えられた作品であるかがあらわれています。「性暴力」ではないのです。
いやそれにかんする証言をあつかうのだから、性暴力をあつかう作品ではありちょっと語弊のある表現かもしれませんが、しかし、この作品を世に出したひとびとがそのように注意書きをするのは、非常によくわかりもする。
『峯落』は性暴力の仔細について極力描写を避けています。
この作品は、「証言された当時」を回想シーンとして視覚化することもなければ、視点を移してその「実際」を実景として描くようなこともまた決してしません。頭領決定日の前日から翌日くらいまでを、"いま・ここ"の現在形から9割9分はなれることなく追っていきます。
それは、「フラッシュバックや見世物化をふせぐ」という読者や題材に対する配慮だってもちろんあるんでしょう。
ポリティカル・コレクトネスが云々、人を傷つけない作劇が云々、というのがさまざま言われる昨今、考えていかなきゃならない問題です。
この作品は、「証言された当時」を回想シーンとして視覚化することもなければ、視点を移してその「実際」を実景として描くようなこともまた決してしません。
それは、「フラッシュバックや見世物化をふせぐ」という読者や題材に対する配慮だってもちろんあるんでしょう。
でもなにより、被害者のマサリがショックで記憶がとんでしまったという物語的な必然であるんですよ。
事前注意は前述のとおり「性暴力に関する証言」(と「セカンドレイプ」)ですが、そのセリフ内でさえ、普通のふれあいが危険域へ向かった数瞬までしか述べられていません。
それは読者や題材への配慮もあるんでしょうけど、なにより証言に意図せず立ち会うこととなった加害者による否認の激しさ・被害者の話を強引に断ち切る高圧を示す物語的必然としてあらわれます。
『峯落』は、読者や題材について慮ったからこそ、これだけ豊かな物語・作劇を生み出せたということを示してくれる格好の好例と言える作品だとぼくは思いました。
もちろん、すべての物語が『峯落』のようなかたちで活きるとは限らないでしょう。でも、「事前警告は作品の興を削いでしまう(しまわないか?)」みたいな頭ごなしの否定や危惧も聞くなかで、「いやそうでもないみたい、作品の質と読者への配慮を両立し得る物語だってあるよ、ここに」と実例があるのは、うれしいですね。
遠藤浩輝『愚者の星』7巻まで読書メモ
それは何ですか;
『EDEN』『オールラウンダー廻』で知られる遠藤浩輝氏のSF戦争漫画です。
序盤のあらすじ;
一話がマガポケで読めるのでそれをご参照ください。
読んでみた感想;
フルフェイススーツで集団戦を同時並行でおこなうむずかしさを感じてしまいました。
中川海二『環の影』について先日、「知らない人らが知らない人らと戦い合う」のでむずかしいとナカナカ酷いdisをしたわけですが、「いやあの作品はまだ、戦闘は誰が誰とどのように戦っているかわかりやすかったな……」と上方修正がはいりました。
どっちがどっちの陣営のひとか単体ではわかっていないので、話の流れのなかで判断していく……って読書/鑑賞じたいは、物覚えのわるいzzz_zzzzだとほかの作品でもやらないことがないわけではないことだったりするのですが。
『愚者の星』にいたっては戦い合うふたりのどちらもがだれだか記憶にないので、さらなる周辺情報で類推する……とかいう、ひどい事態になりました。
今作はさまざまな部族が織りなす紛争/戦争モノで、ユニークな武装は遺伝子認証的な措置とともに継承されていくもので、また、そういった武装がつかえる劇中部族は大人になると紋様が皮膚にうかびあがる……という設定なのですが。
こういう紋様ならこの部族、ああいう紋様ならあの部族……みたいな分かりやすい差別化はなされていないんですよね。
その辺の"パッと見で判別つくラベリングのなされていない分かりにくさ"が、そのひとがはじめてユニーク武装を使って「こいつ不浄の民だったのか、ちかづくなエンガチョ!」となるやらという、因縁や文脈が多様に複雑に入り組んだ"紛争らしさ"につながったり、さまざまなひとやコミュニティと接することで徐々に見えてくるような見えてこないような……な今作のふくざつな価値観形成につながっていったりするわけですが。
それはつまり、個人の復讐劇や戦果・立身出世譚にしても、もっと大きな集団の戦況にしても、マクロな政治状況にしても、どのシーンやエピソードも白黒はっきりつくものでもなければスッキリ区切りがつくものでもない、ぐにゃぐにゃの模様がグネグネと連なっていくかたちの連載だということで。
まとめ読みするにはまだ面白いけど、毎月毎月付き合うのはだいぶ知力体力が必要なんじゃないでしょうか?
⓪地球人(とかれらに同調した一部スラース人)とスラース人が大戦して、地球人が支配下においた異星で、地球人にまじってスラース人/地球人のミックスである主人公がスラース人の叔父いとこと3人で暮らしてるぞ。学校では地球人がいとこをレイプしようとしたりする。おのれ地球人!
そのとき叔父から渡されていた先祖代々の品がおれと結びついて、おれを異形に変身させたりしたぞ。「なんだろうなぁ」と疑問に思いつつまた日常へ戻ろうとすると……
①スラース人のよそ者Aがやってきて叔父を即殺、なんか故郷(の家)を焼きはじめたぞ!?
なんかAは民族主義の反乱軍で、育ての親であるおじさん家族はさきの大戦でかれらと共に戦った同志であり、でも裏切って隠遁したらしい。なんか事情があるにしても殺すのはひどい。おのれ民族主義者!
⇒叔父がわたしてくれた先祖代々の品がおれをパワーアップさせ、Aの部下aを一刀両断できたぞ。でもAも同じようにパワーアップできて、あっちのほうが強いぞ。
②スラース人のよそ者Bがやってきて、民族主義の反乱軍であるよそ者Aと戦いはじめたぞ。Bは地球連邦軍的なひとらしい。
⇒戦闘がおわったらBに「保護」されたぞ。
③Bら連邦軍に「保護」されたさきで、連邦軍の新兵Cと仲よくなったぞ。
=Cは、親や兄など家族の責めにたえかねて逃げ出し、軍へ入隊したらしい。
⇒連邦軍は一枚岩ではなく地球人とスラース人の混在チームで、ここでもスラース人は被差別民だぞ。おのれ地球人。
④連邦軍の船が民族主義の反乱軍a´におそわれたぞ。脱出船には、スラース人であるおれたちは乗せてもらえないぞ。おのれ地球人。
⇒①のときに、民族主義者の反乱軍Aの部下aを殺したが、こんかい襲ってきたのはa´はaの兄。弟の仇を取りに来たそうだ。ほかにもタンク役の別部族Dなどがいるぞ。
→a´とaはなんか複雑な関係らしいぞ。部族ってなんだろうね……。
⇒戦闘がおわったのでDを捕虜にしたぞ。
⑤Dはじつは少数民族のお姫様だったぞ。Dは連邦軍から脱獄・主人公を人質にして故郷をめざす。
→Dにつれられたさきもまた一枚岩ではなく、彼女と対立する民族の姉姫D´がいて、そちらは仇である民族主義の反乱軍Aとつながっていたので戦闘になったぞ。
→D´とスリーマンセルを組む側近ふたりはDの幼少期からの友だちなので、こちらは殺さないように気をつけるぞ。
⇒ 戦闘途中で連邦軍Bが助けに来てくれたぞ。Bが言うにはおじさんはおれを連邦軍にたくすつもりだったらしい。連邦軍のブートキャンプにはいるぞ。
⑥連邦軍ブートキャンプも一枚岩ではなく、地球人からの差別はあり、さらにはスラース人同士もまた一枚岩ではなく、部族差別があるぞ……
……と、書いてて疲れてきたのでこのへんにしますが、出てくるコミュニティ出てくるコミュニティみ~んな一枚岩ではない「(家族兄弟姉妹とも対立する)複雑な人々をかかえた複雑なコミュニティ」であり、それらがとにかくどんどんどんどん出てくるので、付いていくのが大変でした。
複雑なのは(まだ)いいんですよ、それ「だけ」なのがつらい。
「とにかく複雑なのはわかりましたよ、でもぼくそもそも、これらの基本色を知らないんスけど? "地球人との融和を考えるひとと反地球人をやってるひとがいて、複雑なんです"以上の情報が、どのコミュニティもぜんぜんわからんスけど……」と困惑してしまいました。
こういうわかりにくさに対して、新兵訓練の雪山行軍演習中に、別訓練生のイジメもあって主人公らがはぐれたさいのエピソードは、分かりやすい「友情・努力・勝利」要素があり、息がつけます。
はぐれた主人公が立ち向かうのは、自然の猛威であるとかオオカミ的動物であるとかの、わかりやすい「脅威」や「敵」。
そこで主人公は叔父らとの猟師生活の思い出を振り返り/運動が苦手で勉強熱心であることがこれまで描かれてきたパートナーは本で得た知識を活かし、それぞれの個性を見せながら/協力しながら危機を乗り越えていくエピソードです。
……ただ――というかなんというか――『愚者の星』について「一貫しているなぁ」と思ったのが、このvsオオカミ集団編でも、リーダーのオオカミと痩せてアバラの浮き出た手下のオオカミたち……という感じにオオカミさえもまた一枚岩ではないことがわかってくるんですよ。
そしてオオカミたちを機転と勇気でなんとかやっつけたと思ったら、さっき倒したのとはちがう別のオオカミコミュニティが漁夫の利を狙って現れたりする。
このエピソードはその辺の配分が良くて楽しく読めたのですが、「バランスとるのが難しそうだなぁ」と読者ながら思ってしまいました。
▼「こんなときレガリアがあれば…!」のむずかしさ
主人公たちが、スラース人だけが使えるレガリア(生体認証があるハイテク武装)やらハイテクスーツやらが手元にないがために窮地におちいるシーンが何度かあるのですが、「なんとも難しいな……」と思ってしまいました。
強力な武装だから地球人側が主導権をにぎっておきたい/スラース人には限定的に持たせたい事情があるのでしょう(。たとえば反乱などの予防とか。知らんけど)。実際「所有権」云々という会話がちょこちょこある。
(わりとカジュアルに配備されているようにも見えたりもしないでもないんですけど、とりあえずのところ、そう常備携帯させるようなものではない、という理解で話をつづけます)
設定をさらに見ていくと、レガリアを使える適性持ちはごくごく少数の選ばれた存在で、死ぬのはもちろん腕を切られたりするだけでレガリアの使用はむずかしくなってしまうという設定でもある。
……なんか事情にあるにしたって、レガリア適性者をあんまりにも無武装のまま色々行かせて、危険にさらし過ぎではないか?
上の箇条書きストーリーでも察せられるとおり、『愚者の星』世界は(レーダーや防空システムがないのか?)敵対者が民間人のいる区域までとにかくスルッスル入り込めてバッカスカ寝首をかいたりなんだりしている舞台なわけで、その疑問はさらにつよまる。
(あと、マンガのなかではスラース人めっちゃ強いんですが、「それでも地球人陣営が勝ったんだよなぁ……?」と、不思議な読み味です。事後処理を考えず核とか戦略兵器をバカスカ使っていった~とかなんだろうか?)
つよまるものの、この辺のままならさが、政治のなまぐささであり、にんげんの愚かしさであり、今作の味なんだろうものでもあり、むずかしい……。
高野ひと深『ジーンブライド』1巻まで読書メモ
それは何ですか;
序盤のあらすじ;
FEEL公式サイトで一話が読めます。
「諫早依知」
ふりむいた依知へ綺麗に並んだチョコが差し出される。
「思い出したか 僕は正木蒔人 きみの運命の相手だった男だ」
「通報…」
「あ゛あ゛あ゛あ゛ ごめんなさいこいつ俺のアシスタントで」
男性優位社会のなかで生きづらい日々を送る美しい女性・依知のもとへ、妙なこだわりと空気をもつ青年・蒔人が訪ねてくる。
彼女の同級生でジーンブライドだったと名乗るかれとの再会をきっかけに、学生時代の苦い過去を見直す……というマンガです。
読んでみた感想;
1巻の内容としては、女性を性的モノとしてしか見ない男性優位社会で、主人公である見目麗しい女性が暮らしていくことの生きづらさにフォーカスした作品という具合。
とある男性映画監督にたいして、おなじ内容の取材をしても、片や男である蒔人が不躾にごちゃごちゃと言ったときには「なかなか出てこないよそのタイトル!」と話がひろがり、片や女である依知が端的にしたときには「そんなに褒められると男はみんな勘違いしちゃうよ? 君も気をつけないとさあ」と流されて、過去にはいていたスカートしか覚えられていない……
……といった、ナードな文化系にも男同士のホモソーシャルと女性蔑視が根深くあることへ紙幅を割いた一話からして、「じぶんは同じ轍をふんでないだろうか?」と考え込む内容でした。
失意の取材帰りに、依知が心のなかで述懐する「ドウェイン・ジョンソンかマ・ドンソクになりたい…」など、いま・ここのトピック総まとめという感じがあります。
ストーリーの序盤なので「こういう世界のこういう問題をあつかった作品ですよ」という世界設定をことさらつよく提示をしている部分もあるのかもしれませんが、1巻時点で「クソが代をつくるマジョリティ男vs生きづらい女性」みたいな対立構図ではなくて、それにおさまらないグラデーションを覗かせています。
ジェンダー以外の要因で生きづらさを味わっている(ASD気質の人としてえがかれている)蒔人の存在もそうですね。
『Sherlock』の現代版シャーロック・ホームズに『イミテーション・ゲーム』の内向的なアラン・チューリングなどベネディクト・カンバーバッチ氏へタイプキャスティングされてきたような、あるいはベン・アフレック氏演じる『ザ・コンサルタント』主人公のような、新世代のヒーロー像というかんじです。
世界への違和に気づく存在として、よそから来て「NO」と強く提言できるタフなストレンジャー(部外者)ではなく、「ふつう」とはズレた感性のひと(非タフガイ)へ白羽の矢が立つのが現代のトレンドなのでしょうかね。
そしてもうひとり、蒔人の上司{という言い方は適切ではないかも。私的な付き合いとして、大学時代から付き合いのあるルームメイトで、かれ自身も「やばない?」人である。パスポートを10回なくしていると云う。}が仕事面・生活面でかいがいしく彼をサポートしているのも、興味ぶかい。
そこがかれ(ら)が、「ぼくら」「おれら」とは違うファンタジックな存在だなぁと思う点でもあります。
依知が「じぶんがこうだったら」と心の中でぼやいたドウェイン・ジョンソン氏は、男性性の象徴のようなじしんの味わった「生きづらさ」について語っています。
ジョンソンはツイッターの1270万人のフォロワーに向け、「気付くのに長い時間がかかったけど、恐れずに打ち明けることが大事だ。特に男性は、抱え込む傾向が強い」と書き込んだ。
ジョンソンは英紙「エクスプレス」に1日、「何もしたくないし、どこにも行きたくない状態になった。しょっちゅう泣いていた」と当時のことを語った。
15歳の時にアパートから退去させられ、そのすぐ後に、母親のアタさんが目の前で高速道路の走行車線を歩き出したという。母親を道路から引きずり戻したが、その後数年間うつ状態が続いたという。けがでフットボール選手になる夢も絶たれ、恋人とも破局し、さらに困難に陥ったと話した。
ロイター、 Reuters Staff『米俳優ドウェイン・ジョンソン、うつに悩んだ過去明かす』
遺伝子改良やクローンなどテクノロジーが高度に発展した(であろう)未来社会を舞台にしつつも、「いま・ここのわたしたちの生きづらさ」が変わらずつづいている『ジーンブライド』世界で、その「わたしたち」が背中を預けあって共闘できそうなのは、「いま・ここのおれたち」の悩みをサックリ乗り越えてみせたファンタジックな例外・連帯し「生きやすい」蒔人コンビである……というのは、諦観(※というか「まぁ普通に考えればそうなりますよね」という当然の予測なんですが。)が二重におもたく、なかなかつらいお話ですね。
(※
「"おれたち"はこの男女賃金格差や要職就任率の偏差など社会的な勾配・男尊女卑的な視線やふるまいを是正できますか?」
「"なんとかせにゃならんですよね~~"とその場その時だけ渋い顔をつくって特に何もしないままなんじゃないですか?」
と言われたら、たしかにそっすね……とうつむくしかない。なんとかせにゃならんですよね……)
どうしても社会的な要素について話題にしてしまうのですが、提示したトピックや登場人物の性格を一エピソード内で起承転結をつけて転がして、ストーリーにからめる立派な作品ですばらしかった。
連絡どころか当時コミュニケーションさえろくに取っていなかったのに、突然あらわれた同級生。映画監督とおなじような自分目当てのゲス/そのキザな亜種なのか? それともこういう変人なのか? ――こういう変人だ。でも、本当にただの変人として処理していいものかどうか?
蒔人のキャラ像を読者がつかめない時分だからこそ可能なミステリ的な「#1」もすごいし。
「#2」、蒔人の変人性がじゅうぶんわかったあとの、1話の映画監督とはちがう別の取材男性を糸口にした蒔人の歩み寄り(そしてこの歩み寄りはその場で突拍子もなく湧いて出てきたものではなくて、エピソード冒頭のなにげない書き文字セリフのなかで伏線が張られてもいる。)により示される、蒔人の並外れた変人性・すでに変人だとわかっているのにその他の男とおなじ枠に入れようとする依知が送ってきたこれまでの失意の日々がまたすごい。
(「#2」は物語効率の高い描写の積み重ねという感じで、一ページ目第一コマは依知の上司である年上女性がマウスをクリックする右手元のアップで、第二コマは左手で頬杖をつき硬い表情でパソコンをながめる女性のバストショットなのですが。
セリフの内容などから初読時の関心としては、同ページ最終4コマのパソコン画面に映される「投開票結果」やら、そうして示唆される「女性政治家や女性が支持する政治家の立候補者・当選率の低さ」「政治・社会的な観点からして男性優位である辛さ」みたいな部分に注意がいってしまうのですが、ようするにこの第一・二コマですでに、「今回は指輪をめぐる物語だ」というさりげない宣言がなされているんだなと)
「#2」と依知らのオフィス(?)と、「#3」の蒔人の家の対照的な防犯意識もまたすごい。
「#2」序盤のやりとりなんてすごい。玄関モニタ越しの会話を終えて、鉄柵のゲートごしの会話へ。ゲートをひらいて両者を遮るものがなくなっても、次に来るのは中央に持ってきたケータイへ目線を両者置いた、話者を見つめ合わない会話が……
……と、舞台や小道具を変えながらの動的な会話劇がえがかれていて。
エリッヒ・シュトロハイム監督が『クィーン・ケリー』の宮殿で(シュトロハイム監督らしい大予算をかけて達成しただろう)おこなったような数多の扉・門番の開閉劇・入退室劇的なおもしろみを、もしいま・ここの日本で自然な形で実現しようとすれば、このようなかたちになるのかもしれないなぁ~なんて思いました。
ふみふみこ『ふつうのおんなのこにもどりたい』2巻まで読書メモ
それは何ですか;
ふみふみこ氏によるアイドル卒業・田舎の実家帰省マンガです。
序盤のあらすじ;
COMICリュウなどで一話や最新話が無料で読めます。
読んでみた感想;
アイドル一直線で脇目もふらずがんばってきた主人公が、アイドルとしてはだいぶベテランとなったため卒業/芸能界引退。
実家へ帰り、ひきこもり生活を送っていたところ、ひょんなことから実家の近所だけど自分のことを知らない年下の男子高校生(その子の父親と主人公は交流があるけれど、その子は父親が上京し都会で暮らしていた子だから、主人公と交流はほぼ無かった。)と交流をもつようになり、子ども時代の青春を再体験する……という田舎スローライフみたいな1・2巻でした。
上述の男の子は、主人公が童顔ゆえに自分より年下の子だと勘違いします。そして学校を見渡しても彼女がいないことで、親が亡くなりこちらへ越してきた当時の自分とおなじように田舎にとまどい塞ぎこんでいる不登校児だと、勘違いに勘違いをかさねます。
それで田舎の祖父がじぶんにそうしてくれたように、主人公を畑仕事に連れ出したりなんだりする。
長年グループをささえてきた貢献者として振り込まれていたお給料が止まり、じぶんが卒業した後のグループは人気低迷で後輩たちまで卒業の話が出てきて、世知がらい話題も耳に入るなか、社長からは「復帰はどうか?」と打診もされもして……
……夏の終わりはちらついていますが、今のところはほほえましいコメディとして楽しくよめます。
ふみふみこ『僕たちのリアリティショー』2巻(完)まで読書メモ
それは何ですか;
ふみふみこ氏の男女入れ替わり漫画です。
『村村』さんによる「【2021年度版】すごかった漫画(全35作品)」で取り上げられていたことに読後に気づきました。
序盤のあらすじ;
コミックDAYSで一話が無料で読めます。
「彼女は僕のあこがれ まぶしすぎるほどの光」
せんべい工場のライン作業員として黙々と仕事をする柳のもとへ、旧友のいちかが訪ねてきた。
じぶんなんかとも仲良くしてくれた学校のマドンナは、リアリティショーの一員としてお茶の間をにぎわしている。
「あの番組やめたほうがいいよ。あれはいちかちゃんだけどいちかちゃんじゃない。本当のいちかちゃんがかわいそうだ」
でも柳はあの番組は好きではなかった。いちかはフォークを置いて、あの番組が若手の登竜門であること、捻じ込んでくれた事務所への感謝を述べ、退室しようとする。
「いちかちゃんはお母さんみたいじゃなくてもいいと思うけどなぁ」
ぽつりともらした柳の言葉に、いちかがふりむいた。学生時代に見慣れた笑顔だった。
「今日はそうやって励まされたくて、柳に会いにきたんだよね」
せんべい工場で仕事をし、夜はリアリティ番組にやきもきする日々に戻った柳だったが、ふと実家の母から電話がかかってきて驚かされる。
『女優沢田いちかさん死去。自殺か』
驚きはそれだけではなかった。
柳はある日めざめると、自分がいちかになっていることに気づいた。半年前、リアリティショーが始まったばかりの時分のいちかに。
柳はいちかの代わりにいちかを演じ、そしていちかの死の真相を探る……というお話です。
読んでみた感想;
2巻完結ですが、きれいに語り終えている作品だと思います。
入れ替わりモノというと『君の名は。』のような、気になるあの子と入れ替わってドキドキハラハラするようなロマンチックな作品が印象的でしたが、今作は両者とも入れ替わり先の世界であれこれ妙な具合にアクセルを踏みこんでしまう作品で、「へぇ~!」ってかんじでした。
物語の発端が発端なので、芸能界の楽屋裏の暗がりを見たりもします。
いま連載中の同作者の『ふつうのおんなのこにもどりたい』と比べるとだいぶクールだしダークだし、ずかずか物語が進んでいく。
どのくらい突き進んでいくかというと、いちかの死の真相……みたいなお話は、1巻収録エピソードで一旦ひとつの答えが出て、当初「何か大きな契機があったのだろう」と思われたリアリティショーでのやり取りはさっくり終了、枕営業現場、ガチンコボクシング、ドラマ……などなど仕事場が点々と移っていく。
ともすれば成り行き任せの無軌道・迷走にも思える展開でさえある。
だからって「それぞれ勝手にやります!」と突き放した関係性というわけでもなくって、入れ替わり元のひとびとにたいしてそれぞれ情があって、それどころか主役以外のひとびとへそそぐ視線も独特の情がある。
世間的には後ろ指をさされるような領域に足を踏み入れた人々に対しても「そういうがんばりかたもあるよね」という感じの視線さえあり、独特の着地点をむかえておりました。
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好きなエピソードは「#7」。
いちかを演じるのに慣れてきた柳が、リアリティショーの共演者に連れられて(タワーマンションの一角にある)会員制バーに訪れ、扉をすこし開いたさきで「は?」芸能界の「営業」に瞠目して腰をつく。
汗を浮かべて柳のマンションへと逃げ、柳を演じるいちかに相談するが、「え?」扉をすこし開いたさきからさらに、小さな女の子と柳の職場の事務の女性がエプロン姿で現れる。
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柳が反射光のちらつくスマホでのぞいたTV番組のなかのいちか。いちかのなかの柳が入ることとなる、リアリティショーのシェアハウスにあったプライベートプール。リアリティショーの出演者と行くレインボーブリッジをのぞむデート。柳のなかにはいったいちかが仲良くなった事務の女性と大浴場のある旅館ですごす一夜。光の反射するTVモニタ越しに映されるボクシング企画。いちかのなかにはいった柳がいちか母とはいった露天風呂。柳のなかにはいったいちかが職場の女性の娘といっしょに見て回る水族館。そして……。
無軌道に思えた展開をよくよくふりかえってみると、窓越しの光景や水辺とゆらめく水面の光が何度も何度も登場し。
そして、水着を捕られたり捕ったりしたリアリティショーの下りが裸のまま次の場面へ転換されたように、あるいはTVに流せないほどの事態をまねいたボクシング企画が更なるバラエティ番組への出演へとつながったように、水に浸かったまま終わりらしい終わりが描かれずに進むこともままある。
そんな展開のなか、最後の水辺で見せるアクションが、なかなか感動的なのでした。
タヤマ碧『ガールクラッシュ』3巻まで読書メモ
それは何ですか;
タヤマ碧氏による、日本からK-POPアイドルをめざす女子高校生の漫画です。
『村村』さんによる「【2021年度版】すごかった漫画(全35作品)」など、各所で評判がよい作品。
序盤のあらすじ;
LINEマンガで3話まで無料で読めます。
読んでみた感想;
スポ根・創作モノ漫画だとライバルキャラになりそうなひとが主人公。
学校一イケてるけれど欲しいものは遠くにある天花と、教室の隅にいるようなイケてない側にいるけれどひとたび舞台に立てば人々を惹きつけてやまない天真爛漫な恵梨杏という対照的なふたりのコントラストが素晴らしい。
天花の屈折がまた共感をよぶ身近さで、しかも屈折しているけれどひたむきな努力家なんですよね。応援したくならないわけがない! という魅力的な造形です。
小学生時代からの想い人や恵梨杏と離れて、ひとりでがんばる道を選んだ研修生編の清々しさがまた良い。
そうして飛び込んださきはエンタメの最前線最高峰、厳然たる実力の世界。オーディションのときより一層たいへんで過酷な世界であることが入りたての現時点ですでにうかがえますけど、覚悟のきまったひとびとの覚悟のきまった四苦八苦だから、どこかすこやか。
大須賀めぐみ『マチネとソワレ』10巻まで読書メモ
それは何ですか;
伊坂幸太郎『魔王』のコミカライズなどを手掛けた大須賀めぐみ氏による演劇マンガです。
『空想料理店 蟹』チャンネルでさまざまな料理動画を投稿しているバーチャルYoutuberの蟹さんの雑談配信で「面白い」「一日一日じっくり読んでいる」とお話しされていた作品。
序盤のあらすじ;
ゲッサンで1話が無料で読めます。
読んでみた感想;
とても面白いです。
主人公のコンプレックスである兄の天才性が、実人生であじわったさまざまな感情の機微をファイリングして演劇にすらすら引用できることであることが示された序盤こそ「"面白い顔・身振りをどれだけうまく引き出せるか"みたいな作品なのかな……?」とか「役者の人生と劇中劇の物語とをシンクロさせていかないといけないタイプの作品なのかな……?」と思ったんですけど、良い意味で予想を裏切ってくれます。
独特のセリフ回しが必要とされる劇中劇で独特のセリフ回しを漫画ならではのド派手な演出をぶつけてきたり、かと思えばどういう位置に照明があってどういう立ち回りをすればよいかを気にしたりするような渋い演劇の立ち回りがあったりして、とても良い。
演者やパフォーマーを主役にした創作マンガで/主人公らの才能が爆発する創意工夫を観ていると、
「たかが一役者にそれだけ自由な裁量があるのだろうか?」
「脚本や監督はなにをやっているんだろう?」
と気になってきます。
『マチネとソワレ』はそこに自覚的で、物語が大きく動きだす初舞台が、そういう主人公が活路をきりひらいていく芸術内芸術らしい面白さと「いや共同制作ってそういうものじゃなくね?」と冷や水を浴びせる二面性をたずさえた展開となっていました。
脚本家・座長が華であるタイプの劇団に参加した主人公は、そこではじめて役者としての手ごたえをおぼえ他者からの称賛をあびるのですが、しかし公演をこなしていくうちに、ふつふつと不満が湧き出てくる。
ある日かれは練習とは異なる独自の演技プランでスタンドプレイしてみせるのですが、せっかく作り上げた和がそれによって壊れてしまうので座長からも観衆からもバッシングの対象となってしまうのでした。
その後もへこたれず主人公はさまざまな創意工夫をじぶんから編み出していくのですが、同時にキャラが自由に演技するための土台(物語的必然性)を整えてくれています。
(ラッキーパンチで話題性が急に増してしまっただけの人員かつかつマイナーな半アマチュア演劇に出演したさいは、役者も脚本などに関わらなきゃいけなかったり……とか)
そうして整えた土台に打ち立てられるのは、主人公ら天才役者の異才というよりかは、送り手が受け手にどのようなイメージを伝えるか・受け取ってもらうかという技術論・創作論的なお話であったりする。
2.5次元舞台編がかなりアツい!
このエピソードで主人公やライバルは、監督や演出家の指図をうけず自由に演技してよいキャラをキャスティングされます。役者冥利につきますね。
しかしその役柄は、ある意味で自由度なんてなく、監督や演出家よりもはるかに怖くシビアな存在がその良し悪しを見つめている難しい役どころでもあった……という、『マチネとソワレ』らしい設定の妙があじわえるエピソードです。
このエピソードで主人公やライバルが演技合戦することとなったのは、作中で数言数コマしか出番がないけれどファンの二次創作によって妙な人気を獲得してしまった取り扱い注意なキャラ。
キャラをどう肉付けするか役者たちが取ったそれぞれのアプローチが面白いし、SNSをふくめたファンの反応もまたすごく解像度がたかい(としか表現できない、現代的なオタクの反応シーンがある)。
まず一番うえに「面白い劇中劇」があって、そのしたに劇中劇を演じる役者たち・スタッフたちのドラマがある。
主人公たちの人生とか関係なしに(いやそこも乗ってさらに素晴らしい仕上がりになっているんですが)、(既存の)作品に対して面白い解釈をした面白い演劇が味わえて、そこがうれしい。
そうした良さが味わえるのが、最新刊でひとくぎりついた主人公のコンプレックスの源である兄との初競演となる江戸川乱歩『孤島の鬼』編で、役者の天才性の競争はほどほどに、劇団でひとつの世界をつくりあげていく共同作業・アンサンブルとしての演劇の魅力があじわえます。
(そして孤島の地下の暗がりにどんどんはまり込んでいく『孤島の鬼』の物語過程と、主人公の兄の演技に引っ張られてゾーンに入っていき演劇の神髄的楽しみを主人公が味わっていく過程とが重なり合って『マチネとソワレ』という物語も一段階すすんでいく。そこもうまい)
0314(月)
■ゲームのこと■
きょうの『Wardle』
正解! きょうのことばは「階段」でした。
Right! The word was: STAIR
爆発音や危険な信号を聞いたなら、その建物から出来るかぎり速く離れてください。階段やホールに居残ってはいけません。エレベーターは使わないように。
If you hear explosions or have any kind of danger signal, try to leave the building as soon as possible. Don't linger on the stairs or in the building halls. Do not use the elevator.
より多くのことばを推測すれば――それだけより多くの準備ができるのです。
The more words you guess – the more ready you are.
■ネット徘徊■本のこと■
同一地平線上に別々の世界を並置するビジュアル群
田辺&円城トークイベントから、信頼するかたが褒めていた『分かれ道ノストラダムス』って世紀末日本のはなしだったよな? とググってみた。電子書籍化&文庫化がされていたようで、買い求めやすい価格になっておりました。
で、そこは今回の話題ではない。
上が16年9月に出たさいの単行本(と電子書籍)の表紙なのですが、……
……文庫版(2019年)の表紙がこれ。
『君の名は。』 8月28日(日)公開記念舞台挨拶 決定!!
— 東宝映画情報【公式】 (@toho_movie) August 10, 2016
☆詳細はこちら⇒ https://t.co/Pthap8PWb0 pic.twitter.com/TeME9k4Dwh
売れに売れたしぼくもいたく感銘を受けた『君の名は。』(2016年8月)のインパクトが強いですけど、こういう、同一地平線上に別々の世界が収まったビジュアルって、どこが発祥なんだろう。
いや類例はそこまでおもいつかなくて、小林泰三『パラレルワールド』(2018年)、百瀬義行『二ノ国』(2019年)、今石洋之『プロメア』(2019年。画像は公式サイト掲載のもの)などもあったな、というくらいなもんなんですけど……。
石田祐康『ペンギン・ハイウェイ』(2018年)のように一見このラインに収められそうだけど、両サイド同じ街の別側面で両サイドそれぞれ別々のおかしさを携えている……というのもあった。
別々の世界を同一画面上にまとめたビジュアルは、神山健二『ひるね姫』(2017年)、新房昭之総監督&武内宣之監督『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』(2017年。画像は『アニメ! アニメ!』掲載のもの)などもあったのですが、それらは水溜りやプールの鏡面に映るもの……などなど、上下にならんだ鏡像というような具合に(もっと違和感のすくないかたちで)処理されておりました。
{6/12追記;
ディズニー/ピクサーの『2分の1の魔法』(2020年。このビジュアル公開は2019年。画像はアニメイトタイムズ掲載のもの)もこの路線だ。
このビジュアルは、はたしてどこまでアメリカ本国で使われたものなのかな……?
すくなくとも英語圏のディズニー公式が5月末にツイートしたファーストルック映像の宣伝とともに付したポスターや、COLLIDERの記事を見ると(本編ティーザー画像の次にでた)2019年8月のディズニーエクスポD23のポスターの"バンでの旅行"を推し出したノリは全然違う。
Get your first look at Disney and Pixar’s Onward tonight during the NBA Finals. #PixarOnward pic.twitter.com/djCITOqdg4
— Walt Disney Studios (@DisneyStudios) 2019年5月30日
『君の名は。』より以前の例としては、同ポ対比変奏の鬼・細田守監督『バケモノの子』(2015年)の対置的ビジュアル(画像はPR TIMES掲載のもの)が思い浮かんだけど、ヒトの暮らす渋谷とバケモノの暮らす渋天街それぞれでメインキャラクターが立つヴァリアントはあるけれど、同一平面上に並置させたものではないようでした。
(06/10追記)2011年のTVアニメシリーズ、中村健治監督の『C』もまたこういうキービジュアルでしたね。
すっかり忘れてたなぁ。ほかにも見つけられそうだ。
▼『ハリー・オーガスト、15回目の人生』が、ライト文芸的表紙で出し直しされているのを知った
(似たような関心ごとの話題;
ライト文芸の表紙などの傾向をとりあげた『「新海誠っぽいエフェクトのかかった、青春っぽいイラストが表紙の文芸作品」このジャンル名って?』つぶやき群から。ぼくがティーンのころに印象的なビジュアルをちょっとふりかえった日記。
中村佑介さんやカスヤナガト氏といったポップな林清一『小梅ちゃん』的画風とか、『世界の中心で、愛をさけぶ』が出て、『いま、会いにゆきます』のポスターが映画館にならんだ時代とか。
シャクルトンの南極探検をどう彩り伝えるか? 地図と船の探検書として描く? それともシャクルトンの姿をドゥルー・ストゥルーザンなど往年のハリウッド映画風に盛り立てる? それともビジネス啓蒙書風? ちょっとふりかえった日記。
)
時間SFモノの作品の表紙・ポスターをググって知ったんですけど、『ハリー・オーガスト、15回目の人生』が、明暗の強い色相にキラキラと光の粒々がまぶされたライト文芸的な表紙で出し直されているのを知りました。
上が最初に出たときの表紙で(ミルハウザーの『エドウィン・マルハウス』表紙やナイトウミノワ氏の映画コラム本『いとしのおじいちゃん映画 12人の萌える老俳優たち』などを手がけた高橋将貴さんのイラスト)、下が現在の表紙らしい。
*1:
円城:最近の本なんですけど、アンソニー・ドーアの『すべての見えない光』はショックを受けたというか、すごいなと思いました。
ドーアって多分、いつの時代のどんな主人公でも書けるんです。「ユニバーサル小説マシン」なんじゃないかと思って、ちょっと怖いくらい。『すべての見えない光』は、第二次大戦中のドイツとフランスを舞台に、出会えそうで出会えない少年と少女を書いた作品で、すごく優れた小説なんですけど、ところどころに「あれっ?」というわからなさがあるんですよね。
戦時の少年少女をあそこまでうまく書けるのはすごいんだけど、世界史としてみると「戦争ってこう書いていいんだっけ?」という恐怖感も覚えます。善悪がちょっとわからなくなる感じがある。
もっとも、ネット掲載記事で引きやすいから引きましたが、個人的には本文先述『本の雑誌』ドーア本書評回のほうが恐怖感などについて詳しいので、気になるかたはそちらを手に入れるべきだと思います。
*2:
草野 ハードSFの致命的な弱点は、SFファン以外には面白くないということです。メインが科学的な説明で、いろいろな物語がありますが、最後には科学的な説明にパスする。でも、それがSFファン以外にはカタルシスがほとんどない。長々とした説明を読まされても何が面白いのか、というのが正直なところではないでしょうか。だから、ハードSFはSFファン以外には広がらないという悲しい現実があります。しかしこれをハード百合SFにすると、科学的な説明の場面が、女性同士が会話している場面になります。これはすなわち、みなさんの好きな百合描写です。
note掲載、Hayakawa Books & Magazines(β)『百合が俺を人間にしてくれた【2】――対談◆宮澤伊織×草野原々』
「たんなる説明ではなく関係性を入れ込んでみよう」ということなら、べつに男と女でも男と男でも人と宇宙人でも何でもいいわけで、「女性同士ならよし」とするのは何かがはたらいているのではないか。
考え・開陳するのも女性、聞いたり反証したりするのも女性……という物語は、評論『女性とSF』でパミラ・サージェント氏が、SFにおいて女性キャラは、ガジェットや科学的原理にかんする(無知な)聞き役となりがちだと批判した70年代よりも良いのかもわかりませんが……
女性は、その限られた役割の中で、作家のために実用的な機能を果たした。物語の中で、作家が登場人物のだれかの口をかりて、ある装置のしくみや、一つの科学的原理を、無知な少女や婦人にむかって――ひいてはその延長としての読者にむかって――説明するという手である。女性はまた、なんらかの英雄的行為の報償としての役も果たしたし、危機から救い出される対象でもあったし、ときにはヒーローがうち負かさなくてはならない危険な(あるいは狡猾な)敵にもなったし、雑誌の表紙の飾りにもなった。そこには、露出度の多い、非実用的な衣服をまとった美女が描かれるのがつねだった。
……たいして良くなっていないというか、サージェント氏がそこで取り上げた別の批判点であり、そして本文前述の『映画秘宝』シスターフッド特集で真魚八重子氏&澤井健氏や高殿円氏が批判した旧来のシスターフッド映画的な価値観=「女性同士のほうが制作側にとって美しいつくりものであるからか、とりあえず入れるならロマンシスで! みたいな、作り手のやや安易な意図」に当てはまりかねません。
*3:百合SF関連のインタビューは宮澤伊織トークイベント、宮澤&草野原々トークイベント、宮澤&いとう階対談などが話題になったが、宮澤氏の発言として、以下のようなものはあったけれど……
宮澤 海を前にした崖に、草が生えていて、フェンスがあり、灰色の海と空が広がって、無人の2人がけのベンチがある……という画像を「#百合」とタグをつけてアップしている人がいたんです。これ、わかりますよね。
——たとえば『裏世界ピクニック』ファイル9でも女子ふたりが農機に乗って、どこまでも広がる草原を走っていく…という扉絵を描いていただきました。これが百合だと。
宮澤 そうです。そして、その風景から女子ふたりをとりのぞく。
——はい。
宮澤 轍の上に、錆びて朽ち果てた乗り物が置いてある。
——はい。
宮澤 すると、かつてそこには2人がいたんだと……これはもう完全に百合じゃないですか。
……指摘されたような点は、いまいち見つけられなかった。