安田剛助著『となりの信國さんは俺のことが好きな気がする』既刊2巻まで読んだので感想です。1万字くらい。
なお当該作は1話と2話途中までは試し読みできます。
お読みいただけましたか。「あんまりおもしろくなかった」? 「他愛のないエロコメだった」? 話が合いますね。つまり、続きを読んだらぼくとおなじく2巻も定価で買う可能性があるってことだ。(ただ性的なのは性的なので、そこがダメなかたは続きもダメだと思います……)
※以下、当該作の2巻までをネタバレした文章が続きます。ご注意ください※
約言
1巻がとても面白いし良かった、かなり好き。噴くほど笑った。2巻は5話7話ほど爆発力のある回こそないですがまた違った魅力が。
内容;気があるティーンの女男の恋愛劇。ただ一対一の対決的な要素はそこまで強くない(。同性同士の会話だけで終わる回もある)。タイトルの印象に反して、主人公は俺ではなく信國さん。
記述;愛らしい萌えが主で、エロは時として安易だが、しっかり笑える回があったり、ミステリ的に面白かったり、異性・性愛のからまない青春ドラマがあったり。
この辺のトーンチェンジがうまくって、予想外に心が動かされる。
ここ好き;笑いのためなら主役に卑劣な立ち回りをさせられる強さ。事物に対する視差。
ざっくり感想(あんま約言と差を出せんかった)
……いや「2巻も買いたくなる」というのは、アレとかソレみたいに、最初に提示した構図からちゃぶ台返すような衝撃的転回・驚愕のヒキがある作品だという意味ではありません。
1話で定式を示されたとおりのラブコメです。(萌えもエロもこのくらいの強さなので、その方向で1話が受けつけなかったかたはこの先もきびしいと思います……。以下はこれが許容できるひとむけのお話)
ただ4話以降が面白いので、切るかどうかは第1巻まで買ってみてから判断しても遅くないのではないかなと思います。マンガ読んで噴きだしたのいつぶりだろう?
2巻は噴き出すほどのエピソードはないんですけど、1巻など前話で出たものを引き継いだり対比変奏したりする連載長編としての経糸をうかがわせて愛らしさがアップしてます。
なかなかウェルメイドなコメディ/青春ドラマだと思います。
巻ごとに一区切りつける構成のようで、一冊だけで買うのをやめても一巻物の中編として充実した満足感が得られる作品なのもオススメしたいポイントです。
ギャグのどこがどう面白いのかを説明してしまうことほどつまんないものも無いので、時間やお金や体力に余裕のおありのかたや積読の山に当該作品がおありのかたは、ブラウザバックしてぜひ作品本編をご覧になっていただきたい。
感想本文
なぜ私は積んだか?;1・2話の他愛のない「最近の萌えコメ」/安易なエロコメ感
ぼくと安田氏との出会いは、ミステリ作家青崎有吾さんのつぶやきからでした。
日常の謎といえば『じけんじゃけん!』第4話の「普段眼鏡をかけている女子が授業中に眼鏡を外したのはなぜか」という謎もすごく好き(じけんじゃけんは画像みたいな感じの漫画なのでミステリ好きは読んでください) pic.twitter.com/4Ra4ScpuBO
— 青崎有吾 (@AosakiYugo) August 5, 2017
『じけんじゃけん!』はかわいらしいラブコメ・エロコメ・へんてこ部活のほんわか青春モノ。わりあい楽しんだシリーズだったので今作の1巻も買ったんですが、永らく3話くらいまで読んだっきり積んでました。2巻が出たことすら気づかなかったし、知っていたとしても買わなかったでしょう。
TLでもあんまり話題になっていない気がします。
『信國さん』に手を出しにくい難点3つ
手を出しにくい難点として、とりあえず3点ほど挙げられます。
- 試し読みでよめる1話2話は、かわいらしくはあるけど他愛のない量産型萌え・エロコメという感じに見える。
- キャラ萌えで読もうにも1話2話では主役の魅力がつかみきれない。ルッキズムばりばりの意見としては、表紙の信國さんがちょっとぽっちゃり描かれていて微妙に人を選ぶうえ、選んだ人にとってもうれしい本編ではない(本編を読むと表紙ほどさえもぽっちゃりしていない)
- 作品の質とは関係ないけど、「白泉社なので電書半額セールまで待とう」という買い控えが起きがち。
試し読みできる『となりの信國さん』は、いかにも最近の萌えラブコメらしい、気になる異性同士2人の対決モノのように見えます。
ティーン誌のワンコーナー「今週も迷えるあなたを導く 羊飼めえ子の神モテク講座」の信者である信國さん vs 聞きかじりのテクで彼女からモーションをかけられる転校生の佐々木くん……という関係/ドラマを第1~2話で反復するからです。
複数人が織りなすウェルメイドなコメディ/関係性萌えドラマとしての4話以降
無駄ない脚本により初提示されたキャラの顔が意想外に増長する第4話
「おっ?」と見る目を変えたのは第4話。
扉ページにつづく冒頭2ページ*1で、佐々木くんの後ろをうろちょろする信國さんの姿を描写すると、次のページでその奇行の種明かしをします(この時点で小さな謎と解決があってちょっと楽しい)。
奇行の理由は例によって「めえ子の神モテク講座」の受け売り行動をしていたからなのですが、この第4話はそこについて信國さんのモノローグで済ませず、愛莉ちゃんという(信國さんの)幼馴染であるギャルら第三者とのダイアログをとおして明かす形になっており、別軸のコンフリクトが生まれてたのしい読み味でした。
「信國さんより恋愛経験の豊富な彼女らが、信國さんの奇行やうさんくさい知識をツッコむ形になるのか?」
と読みすすめるし、実際そうなるわけですが……
……恋愛経験はギャル>信國さんである一方、ティーン誌の隅っこ掲載のイケてる人が読み飛ばすだろう小さなコラムである必然として*2「モテク」をギャルの愛莉ちゃんは知りません。それゆえ信國さんがマウントを取りだすこととなる。(なんとまあこにくたらしい顔!)
愛莉ちゃんとそのギャル友をちょっと引かせたって、さらには彼女らから"モテク"の記述へ(常識的な)ツッコミを入れられたって信國さんのドヤ顔はとまりませんが、それはそれとして奥手な性格ゆえ、佐々木くんへのアプローチは赤信号。もじもじしてあと一歩が踏み出せない。
"モテク"をうまく使えないどころか挙動不審な幼馴染のために「一肌脱いでやろう」と愛莉ちゃんがギャルらしいフットワークの軽さで佐々木くんへ当の"モテク"を実行する……といった展開となります。
そこからさらに話は転がり、(じぶんのためとはいえ)佐々木くんのパーソナルスペースへいともたやすく入り込んでみせる愛莉ちゃんにジェラッ*3とした信國さんがふたりの会話に割って入り、さきほどのダイアログでギャルから言われた"モテク"のツッコミ所を素知らぬ顔であげつらい、愛莉ちゃんをけなしまくる……という綺麗な会話の逆転劇を披露、今回開示された信國さんの厚かましい人間性を(提示するだけにとどまらず)更にドライブさせてゴールラインを切ります(友だち想いの愛莉ちゃんを襲う、当の友だちからの理不尽な暴力!)。
{上(1:05:44~1:07:02)は、 進路に悩む受験生リスナー兄貴へ別のリスナー兄貴が真摯に応えたところなんか妙なかんじに顔が認知された、vtuberエルフのえるさんの年末雑談配信}
唐突な理不尽は笑いの定石のひとつだと思いますが、それは非対称な関係が生まれるということと同義でもあり、主役に好感をもちその恋路を応援したくなることで読者の関心を引っ張っていく萌え・恋愛モノではやりにくそうなものです。
(主役が理不尽にさらされたらかわいそうだし、する側だったら主役の性格の悪さに対してモヤモヤしてしまう)
"ドジはするし努力の方向性は妙だけど、頑張り屋さんの主人公"をしっかり悪者として立たせて笑いを攫うところが頼もしい。
そして、提示した情報を提示しただけにとどまらず、その回のうちに即座にエスカレートさせてみせる。読者の理解のちょっと先へ踏み出していくところに、エンタメとしてのたしかな背骨を見ました。
意想外の視点を放る;噴き出した5話7話の魅力
第5話では、信國さんを(ギャルの愛莉ちゃんが教室外で事前講義をしたのち)佐々木くんにモテクを披露するのですが、その実践で噴いた。
信國さんがまじめに咀嚼して正確に実践した結果として笑いがあり、漫画のカメラと信國さんの視点との差をうまく突いた作劇が面白い。
言ってしまえば大枠の型としては落語のあれのヴァリアント。王道も王道だしマンガへの落とし込みかただって光っており、これ単発でもじゅうぶん強そうだとは思うのですが、よくよく振り返るとキャラ萌え・関係性萌えの会話シーンをはさんだうえでコメディパートへ行く、その緩急のつけかた/読者の意識の外しかたがあってこそ大きな笑いに繋がったのだと思います。
ぼくは噴き出すまでこれがギャグマンガの一エピソードであることを忘れていた、というのも5話の展開は”『信國さん』という続き物のドラマ”の文脈として極めて自然すぎるんですよね。
今回なぜ、作戦会議/事前講義⇒当事者が実践、という手順を踏むようになったかといえば……
「…愛莉はさー 信國さんと幼馴染みじゃけ 色々助けちゃりとう なるんはわかるんじゃけど あのふたりはゆっくり 見守ってくんがえーんじゃない?」
「…んん そーゆーもんかね」
白泉社刊(ヤングアニマルコミックス)、安田剛助『となりの信國さんは俺のことが好きな気がする』1巻kindle版40%(位置No.165中 67)、「講座4 耳の裏の匂いで相性が分かる!?」より
……前話で愛莉ちゃんが出張りすぎて信國さんをジェラッらせてしまった(り、もしかすると信國さん自身ががんばる機会を奪ってしまった)ことについてギャル友達からやんわり諭されたからなんですね。5話で佐々木くんのもとへ信國さんが向かう背中を見送る愛莉ちゃんの姿は、前話をへた成長として読めるんですよ。
{会議をひらく導入も良い。3話で信國さんは、想い人の佐々木くんから「可愛い」と言われて調子に乗りそうになったところを「めえ子の神モテク講座」の一節を思い出して両手で頬をぎゅむっ!!と潰したり・ぎりぎりと伸ばしたりして自省するのですが、じっさいのところ信國さんのファーストインプレッションはまちがいではなかった。
この5話では、弱気なことを言う信國さんの頬を愛莉ちゃんが両手でぶにゅっ!!と潰したり・ぐにぐにと伸ばしたりして、「あんた 自分が思うとるより全然可愛いんじゃけ」と正しい評価に修正します。(愛莉ちゃんの言葉をふくんだやり取りが、神モテク講座の見出しとおなじくページ一杯に伸びる横長のコマで表わされて素敵)}
だからフリ⇒ボケが(こんなにまで基本に忠実なのに!)ちょっと見えにくい不意打ちとなり、読者であるぼくは噴き出してしまう。
キャラ萌えも真っ当にやりつつ、ギャグもがっぷり四つでやる、そういう強さが如実に見えてくるのがこの5話でした。
第7話でも同様に各キャラの世界観の面白さ、その呼吸の読みかたと話題の放りかたが確認できます。
まず冒頭、一目で笑える顔芸で一笑を獲って早々、カメラは信國さんから離れて、佐々木くんとその男友達の会話シーンへと切り替えるのですが、ここの話題がちょっと興味深い。
信國さんに寄り添うわれわれ読者からすれば(さらに言えばクラスメイトにとっても)バレバレな恋の矢印。これについて、その向けられた先である佐々木くん当人にとってどう思われているかのお話は、ちょっと予想外ですが付け加えられた理由を聞いて振り返ると「な、なるほどたしかに……!」という感じでした。
先述したとおり、安田氏は過去作『じけんじゃけん!』の一エピソードがミステリ作家の青崎氏から褒められていましたが、この第7話の佐々木くんの感想(アクションをおこす信國さんと、おこされる佐々木くんとの視差)や、あるいは第2巻の(この時点ではわりあいおなじみになりつつある)信國さんの奇行から彼女が「なぜそうしたのか?」理由を紐解き、さらにはそこから手がかりを別角度から検証して真相を解く安楽座椅子探偵劇へ変じた第15話を読むと、
「青崎氏が評価した目配りの良さは、今作でも健在だ!」
とうれしくなります。
{と言われてそれを期待して読むと、たぶんおもしろくない(笑)
過日も「本格ミステリだ」という評判を聞いて当のジャンルの第一人者が『僕の心のヤバイやつ』を読んでみて、「こんなのもうソフトポルノじゃないか!」と愕然としてしまうインシデントがありましたが、ゆるふわ楽しい萌えコメ/噴くほど笑えるギャグ漫画のつもりで読んでいたところいつの間にかこういった展開へスライドしていって意想外に脳を刺激されたのが大事なところのように思います}
……そんな挿話へ感心しているうちに、冒頭とおなじく画力の活かされるコマが忘れたころにやって来る。噴かないわけがないでしょこんなん!
***
漫画などでギャグ/コメディをやる強みって、この5話や7話みたいな形なのかなぁとも思いました。
プロの芸人さんのコントや漫才だと、「どうもー(任意の芸人名)です」やら、「コンビニ店員やってみたい」「わかったおれ客やるわ。ウィーン」「いらっしゃいませー」やら、レッドカーペットから流れてくるやらという宣言/開幕の合図がありますよね。あるいは米コメディ番組『フルハウス』冒頭の注意書きとか。
もちろんこれは一定の効果が期待できる大事なことでしょう。
僕は小さいときに『フルハウス』を見ていたのですが、冒頭でわざわざ"Filmed in front of a live audience"、つまり生のお客さんの前で収録していますよと断っていたのが記憶に残っています。(略)
でも見ていると、どこをどう聞いても嘘なのです。(略)けれど冒頭で「本当に笑っていますよ」と視聴者に印象づけることで、笑いやすい雰囲気をつくった。それがこのドラマの人気に一役買ったのではないかと思います。
NHK出版刊{2017年12月31日電書版発行(底本は2017年12月29日第一刷)、NHK出版新書}、チャド・マレーン著『世にも奇妙なニッポンのお笑い』kindle版17%(位置No.1918中 310)、「第二話 ツッコミは日本にしかいないんかい!」笑い声の効果音はツッコミと同じ より
お笑いにおけるツッコミが不在であると云うオーストラリアから日本へ来て芸人として活躍するチャド・マレーン氏は、日本のツッコミとコメディ番組の笑いに共通点を見出してそんな風に効果を解説します。
ある種の型を発信することで、受け手が迷いなく一定方向の受容をしやすいよう交通整理をする。
こうした手つきはほかのジャンルでも行われており、たとえばジャンプスケア(飛び上がるほどびっくりする視聴覚演出)などショッカー演出に対して、90年代ジャパニーズホラーの支柱である小中理論の提唱者・小中千昭さんは以下のように評価します。
ホラー映画を観客は「怖がらせて欲しい」と思い劇場の座席に座る。同時に、「多少の怖さじゃ驚かないぞ」という対抗意識もある場合が多いだろう。
ショッカー・シークェンスは、その観客の心理に応える為のサインなのだ。「これはホラー映画だ。怖がっていいんだよ」というメッセージであり、観客の鑑賞モードを怖がるものへと移行させる装置だとも言える。
河出書房新社刊、小中千昭著『恐怖の作法 ホラー映画の技術』kindle12%(位置No.5028中 596)、「第二章 恐怖の記憶――ファンダメンタル・ホラー映画史」スプラッター映画はファンダメンタルか より
でも、そう言う小中氏らが、柳の下に立つ青白い幽霊みたいな「いかにも」な幽霊像をきらってJホラーを打ち立てたように、興ざめしてしまう表現というのもまたある。
「ラストの衝撃にあなたは耐えられるか?」という文句に釣られてチケットを買って、途中でオチが読めてしまって拍子抜けしながら映画館を出ていった苦い思い出はございませんか。
またお笑い芸人さんの苦労話として、オチにたどり着く前に客席からそれを言い当てられてしまって空気が冷めてしまった……という話も割合聞きます。
受け入れる態勢が整いすぎて「身構える」レベルになってしまうと、それはそれで興がそがれてしまう。
現代日本における書評はネタバレ忌避傾向にあるそうなのですが、その理由について書評家の豊崎由美氏は、80年代90年代にミステリー小説ブームが起こってそのジャンルの作品が書評欄に多く取り上げられるようになり、ミステリー系書評家もまた重用されたためではないかと推察します。
経験談をひとつ。わたしは当時、早川書房から出ている「ミステリマガジン」で新刊レビュー欄を担当する書き手の一人だったのですが、その時、ジョン・ファウルズの『マゴット』が担当本として回ってきたんです。(略)当時のわたしは非ミステリー作品に関しては粗筋紹介にそれほど気を遣わなくてもいいと考えていましたから、「マゴット」の正体を明かしてしまったんです。それに苦言を呈したのが池上冬樹氏。「マゴットが何であるのかを書かれたら、読む気が起きなくなる」というのが理由でした。
光文社刊(光文社新書)、豊崎由美『ニッポンの書評』kindle版28%(位置No.2604中 695)、「第7講 「ネタばらし」問題 日本篇」より(略は引用者による)
受け手の意表をつく衝撃を与えつつも納得させる技巧が要求されるという点で、コメディはミステリとわりかし近しいジャンルなのかもしれません。
面白いミステリが描ける安田氏なのだから、そりゃあコメディだって面白いものが描けるだろうと。
以降、噴き出すほどの回はほぼ無いがしかし;連載長編としての経糸がたしかな青春ドラマの魅力が表われた2巻
反復変奏による連載長編としての味わい
ということで2巻も意気揚々と買ってみたんですが、こちらは1巻のように噴き出すほど笑った回はありません*4。他愛のない萌え/エロコメディという回が多い。1・2話あたりがデフォルトであり、5話7話はまぐれのホームランだったのか? もしかしたらそうかもしれない……。
でもこちらはこちらでしっかり別軸の面白さがあって、読んで満足いたしました。
上の項でも言ったとおり、1話完結のエピソードながら、各エピソードはきちんと前段の展開を直接的・間接的に引き継いだうえで展開されています。なので、他愛のないコメディ回だってキャラクター像が厚塗りされていく連載長編としての味わいがあって、素朴に楽しく読めてしまうんですよ。
2巻最初に収録の11話はこれ単体だとしょうもないエロコメですが、その起点は2話のドジが反復されるかたちとなっていて、「信國さんはこういう人」という印象をつよめます。そしてそのアプローチのかけかたの違いから、信國さんと佐々木くんの進展にもニヨニヨできることでしょう。
14話では4話とおなじく愛莉ちゃんへ対してドヤる信國さんの姿が拝めます。
15話では5話とおなじく信國さんの実践が大きく取り扱われます。
ケータイが生む多様な顔/青春ドラマとして映える強い顔
とくに面白いのがケータイをめぐるドラマです。
第5話「LINEを使ったモテク10選」では、佐々木くんのLINE IDを知らないので、そもそもテクを披露するためのステージに立てていないと嘆いていた信國さん。
第11話では自宅の猫の写真を見せる/画面の真横に自分の顔を置くことで、佐々木くんと見つめ合おうと小細工を練ります。
第16話「続・LINEを使ったモテク10選」では、ついに佐々木くんに初LINEを送り、ドキドキの夜を過ごしました。前段のネコ写真がここで佐々木くんに拾われたりします。
スマホによって/スマホを通して会話できるほどまで、想い人とつながれた/距離がちかづいた一方で、近くなったからこそ今まで見えなかった別の一面もまたあらわれたりする。
第19話では、佐々木くんが落としたスマホを善意でひろった信國さんの目から光がうしなわれます。
佐々木くんの待ち受け画面には、転校まえの都会の友だちと肩を組み笑いあう姿があったからです。しかもなんか美女が肩に手を置いてる!
第4話で佐々木くんの背後をうろちょろしたり、第16話でじぶんの写真を間違って送ってしまってドタバタした信國さんが到底踏み入れられない領域ですね。
マンガだということは一旦さておき、現実に「転校生」と云われれば当然それまで過ごしてきた地域があるはずで、そちらでいろいろと付き合いだってそりゃあありましょう。佐々木くんはなかなかの好青年ですし、かれの肩になかなかの美人が手を置いて笑顔を浮かべていたって全然おかしいことではありません。
おかしくはないかもしれませんが、信國さんがショックを受けるのもまたさもありなん。
さて4話で信國さんのふてぶてしさにブレーキをかけなかった今作は、ここでもまたブレーキを踏みません。ただ4話ではそれによって素晴らしいコメディを展開してみせたわけですが、はたしてそれは本当にコメディだったのか。
前述のとおり、安易なラッキースケベにさえ「このキャラなら」という妥当な文脈を築いた作品です、19話のこの場面においても、このスマホを見たこの時分の信國さんならこうするだろうという行動をとらせてみせます。
極端な乱行ではありません。乱行と言い表せるものでさえない。でも、「俺のことが好きな気がする」程度の微妙な関係の他人へ言えるものでは全くありませんでした。
時として「てオイイイイイ!」という銀魂ツッコミや「!?」マガジンヤンキー漫画のオノマトペが似合うような暴走さえする信國さんとしては控えめで、その意味ではブレーキを踏んでいるといえるかもしれません。
でもだからこそ、「ツンデレ」だの「ジェラっててかわいい」だのという属性萌えに還元できない、リアルな身勝手さがあります。30km/h道路を60km/hで走る車と対面してしまったときのような嫌さがある。そういう方向でアクセルを緩めていない。
ゆるふわ楽しい萌えコメ/噴くほど笑えるギャグ漫画のつもりで読んでいたら、いつの間にかべつの路線を走っていて、意想外にずーんと来ました。
汗など漫符は使われているけれど、複数コマを使ってあらわされた乾いた笑いにただよう空気は、誰しも味わったことのある苦さを帯びているのではないでしょうか。
(気心知れた友達が笑顔を浮かべる集合写真で真顔でピースきめたり、真顔で「可愛い」と言ったりしがちな佐々木くんが、マンガらしい笑顔でやんわり返すところもいたたまれなさをアップさせています)
なんか微妙に気まずくなって、そのまま関係がフェードアウトしていった付き合いってありますか? 「ある」? 話が合いますね。で、それってこんな感じの空気じゃなかったですか。
めえ子様のモテク講座が生む喜怒哀楽
めえ子様のモテク講座が作品に独特のトーンやリズムを築いているのはたしかなのですが、劇中での関係はかなり多様で、ここも面白いところです。
もちろん1話2話のような、めえ子様により指南された俗説の数々を信國さんが実践してみるというかたちは多くあり、これが主軸であることはいなめません。
ですがこの記事でもちょっとすでに言ったとおり、3話早々にして信國さんの浮ついた(しかし実際のところ正しい)見立てに待ったをかけるストッパー/枷の役割をしてみせますし、5話のようにそもそも実践に至るステージに達していない無用の長物であることもある。
17話ではコラム関係なしにふつうに生きてるだけなんだけど、それがなんか偶然かさなってしまった……というエピソードもありました。
めえ子様のコラムなんて存在自体知らなかった愛莉ちゃんがLINE交換のきっかけをつくってくれたとおり、あるいは第1巻を締めくくる10話11話の前後編エピソードのように、信國さん自身が独力でがんばり、功を奏す展開もある。
1巻だけ読むと、雑誌の雑でうろんなマニュアルなんて捨てて、自分で考え自分の足で毎日を生きよう……みたいなお話のようにも思えてきます。
でもそんな簡単に二分できるものなのか? そもそも「書を捨て、町へ出よう」というモットー自体がすでに誰かの唱えたことの受け売りなわけじゃないですか。
物語じゃない自分だけの人生、って聞こえはいいけど、ぼくが30年余そうなようにぼんやりずっと凪のような感覚で過ごしてしまっているような事態だったりしないだろうか?
一体どうすればこうならずにいられたんだろうか。人生のターニングポイントが一体どこにあったのか、全くわからない。
第二巻を読んでいくと、ちょっとそんな疑問が浮かんできもします。ぼくはなんかヘマをやらかしたりしてたまに「消え入りたい」「2,3日時間を巻き戻してやり直したい」とか思うでもなく思うんですが、そんなときケータイの黒画面に反射されるのは、まさに自己嫌悪中の信國さんが浮かべる以下のような無表情。
18話では、「フット・イン・ザ・ドア」について指南する講座内でその効力の証明としてめえ子先生が浄水器を買わされた失敗談も併記されたり、読者コーナーが紹介されたりします。
そうすることで、「講座」というかたちこそ取っているけれど、めえ子様自体も悩みの多い人生の先輩であり、このコラムコーナーはそんな悩める子羊たちが互いに相談報告しあい励ましあう自助会的な役割をもっていることが語られていきます。
そして19話。
信國さんはぱらぱらめくった雑誌のコラムが目に入って泣きます。その泣き顔は「死にたい」ぼくたちの無表情ではない劇的なもので、だからといって劇は劇でも7話などのような喜劇の主役のそれでもない。
彼女は人生のターニングポイントをコラムによって見いだして、"不器用な人生をおくる恋する女の子という物語"の主人公らしい顔を浮かべてみせる。
19話の不和は、後編の20話でなんかこうふわっとしたかたちで波風荒げることなくふんわり終わります。翌朝かわらず「おはよう」を言い合うだけで、明確なケンカもなければ、謝罪だってない。
「現実が往々にしてそうであるように」と言ってしまいたいところですが、着陸できずにぼんやりフェードアウトするのが現実であるとぼくは言いたい。
もしかしたら「出来のわるい脚本が往々にして」と言うひともいるかもしれません。
「窓辺系」と言われるようなお話なのかも。
正確な定義などは『スクリプト・ドクターの脚本教室』が家のどこかに隠れて見つからないので割愛し、各自おググりいただくようお願いしますが、スクリプト・ドクターという脚本を見直し推敲する仕事している三宅隆太氏が、新人賞に投稿されるダメな作品の一傾向として述べたものが「窓辺系」。"主人公が極端に内向的で、思っていることを口にしたり、問題を解決するための具体的な行動をとったりすることがなく、かわりに独りで「窓辺」に立ち、物思いに耽ったり、思い悩んだりする場面が繰り返し出てくる"作品をそう言うそうです。
でも、そうして軟着陸できた裏にはコラムをきっかけに露わとなった劇的な顔があり、そんな顔をうかべたことがきっかけとなり愛莉ちゃんが話してくれた他の恋のささくれがあって、そうしたささやかな積み重ねのうえに「おはよう」の一言があります。
ぼくはこの一言を、そんな風に切って捨てたくありません。
***
「そろそろどんな人か知ったつもりでいても 次の瞬間には知らない表情をしている… 何てミステリアスな人なんだろう…」
白泉社刊(ヤングアニマルコミックス)、安田剛助『となりの信國さんは俺のことが好きな気がする』2巻kindle版68%(位置No.165中 113)、「講座17 風を感じてミステリアスを演出♥」より
佐々木くんはさまざまな表情をうかべる信國さんに惹かれます。
これはそのまま『信國さん』という作品自体にぼくが思っていることでもあります。
コラムの先生やそこでつながった顔も名も知らない子羊たちと、幼いころから知っている友達と。両方と相談しながらうろちょろする『信國さん』という物語は、他愛もない萌えコメであるし、安易なエロで釣るエロコメであるし、話芸や顔芸で噴出笑いをもぎとる強烈なギャグマンガであるし、主役でさえもが卑劣に走って笑いをこそぎとる上質なスクリューボールコメディであるし、主役が醜い身勝手をさらして気まずい空気を生む青春ドラマである。
すでにいろいろな道をうろついてみせた『信國さん』は、今後はいったいどこへ歩いていくんだろう。そしてどんな顔を見せてくれるんだろう。
まだまだ見たことのない顔がいっぱいあるのではないか。
万人が読むべき世紀の大傑作、読む者の人生を変え社会に是非を問う重要作、みたいなアレではないでしょう。
でも愛らしい作品ですよ。