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だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

サミュエル・フラー自伝がkindleで安価/unlimited読み放題で流通していたことを知る

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 発売当初の定価でもなかなかのお値段(6600円? でも780ページの大著なのでむしろ良心的なお値段)で、古書だとさらに凄い値段(1万5000円くらい)になってしまった『サミュエル・フラー自伝』がkindleかつ安価で出版されていることを知りました。(3分冊で合計3600円。紙の本の半分・高騰した古書の25%)

 巻末訳注と本文とが相互リンクで行き来できるタイプの電書化なのもうれしい。

 映画監督として本格的に活動するのは2巻目以降から。フラーや彼の映画、映画製作の舞台裏に興味がなくても、1巻目は20世紀前半アメリカの暮らし(1巻前半部)、後半WW2アメリカ歩兵の行軍生活(1巻後半部)に興味があるかたであればお手に取ってみるのもよろしいかと思います。

 たとえば、ある時代のアメリカ映画を観ていると、子どもが街頭で靴みがきしたり新聞を売ったりしますよね。そこで「あの子らはどういう経緯でそういうことをしているの? ふだんどこで暮らしているんだろう?」と気になったかたなどよろしいかと。フラーはそんな少年のひとりでした。

 

 われわれ世代だと、スピルバーグ監督『マイノリティ・リポート』劇中で一部シーンがそのまま映写されていた京暗黒街・竹の家』が有名ですが……

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 ……フラー傑作選DVD-BOX2に収録された『アリゾナのバロン』と『パーク・ロウ』がとんでもなく面白くって大好きなんですよ。鑑賞メーターで書いた感想文がお蔵にあったのでそれをほぼそのままコピペします)

 リゾナのバロン』は、19世紀末、スペインの公文書等を偽造して男爵家を捏造し、アリゾナ準州を丸々じぶんの土地であると主張したジェームズ・リーヴィス。この実在人物の話の映画化です。

 上映時間90分(台)は傑作のあかしとえらい人はおっしゃいます。どなたがどの作品におっしゃったのだったか、商業的都合でみじかく刈り込まれた古典的傑作についての「それは不幸ではなく、映画の勝利だ」みたいな言も、ぼくのなかで記憶に残っています。

 こうしたことばについて、つい、「焦点の絞られた作品はすばらしい」という風な理解をしてしまいますが、『アリゾナのバロン』は97分という尺がどれだけ広大で豊かであるかを教えてくれる一作です。

 ジェットコースター的展開のジェットコースター部分についてネタバレしてしまいますが、目まぐるしい『パーク・ロウ』(後述)を上回る目まぐるしさで、不可能犯罪系潜入窃盗劇・光源氏タイプの教育劇・恋愛劇・国を相手どった倒叙系推理劇/法廷劇・南部村民からの反乱私刑劇などなどジャンルを横断していきます。

 本一冊一冊に鎖と鍵のついた保管庫、そこに収められた支払い文書をどう書き替えるか……とか凝った小道具と手際が拝めたりして、そこも楽しかった。

 

 『自伝』ではリーヴィスを知った経緯から、小説『暗いページ』から映画界へ引き入れ『地獄への挑戦』を撮らせてくれた(し『鬼軍曹ザック』などでも組んだ)独立系のプロデューサー・ロバート・L・リッパートへの打診、史実と創作との相違点などを語ってくれています。

 

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 ーク・ロウ』は1886年、グーテンベルクベンジャミン・フランクリンの像がならぶ新聞の町パーク・ロウを舞台に、古豪新聞社から解雇されたり無職だったりする人々が新たにペニーペーパー社(=1ペニーで買えるくらい安い新聞社)を起こし、古巣と報道合戦をくりひろげる映画ですップ記事は、月に人類発見!―十九世紀、アメリカ新聞戦争』とかお好きなかたは、この映画も楽しいんじゃないでしょうか?

 明確に劇中年代が指定されてる通り、アメリカのランドマークや印刷技術のブレイクスルーが描かれていきます。

 83分という尺のなかで活版時代の新聞づくりが丹念に描かれてる。イライラ箱(hell box)に一緒くたに入れられた字の海を、みんなで手分けして文字毎に整理し直す作業から、新聞構成練り、記事書き、挿絵指定と描き、整理した字を文章通りに並べる字組作り(ダンスを見るような熟練の技!)

 大人たちは社を出て肉屋や靴屋の包装紙を買いに走る(印刷紙に代用するために)――あるいは他社の新聞を(ネタをいただき、文章をより良いものにするために)。 社内ではオイルを挿したり何だりと大人たちの使い走りをさせられる少年の姿。 そして会話ができないほどけたたましく、ガタンゴトンと大きな音をたてて動く輪転機

 馬車の音やサンドイッチマン、屋台など……太陽が出て町がにぎわいを取り戻したころ、逆に新聞社社内は暗い沈黙につつまれている。社員みんなが寝静まってしまっているから。

 起きたらまた新聞づくりだ。絵(漫画)入りでやるか? 文字だけでお堅く真面目にやるか? 一面以外の記事はどうするか(4面など体裁だけ整えるためだけに前刊とまったく同じでよいか)

 他社の反応(古参紙による新参への目線)も幅広い。余裕の友好的目線から、競争、買収協議、ネガキャン、法にふれた妨害工作と徐々に暗いものとなっていく。 対する正義の新参新聞は、ペンで戦うことをえらぶが、それが更に古参紙との対立を深刻にしてしまい……。

 そんな具合にメインの新聞社仕事ももちろん良い。いいんですけど、社立ち上げ前の「脱線かな?」「雑音かな?」と思われた酒飲み場面で出てきた物事が、後半になってモリモリと活劇に活かされていくのがまた凄かった。最初にふれた立派なベンジャミン・フランクリンの像にしたって、この映画においてはケンカしている人が相手の後頭部をガンガンぶつける凶器となるために存在しますからね。映画のオープニングででーんと登場する、舞台を説明する背景は背景なんだけど、それ以上の存在感をだしてくるのがフラーのすごいところ。「これが"活劇"ってやつなんだな!」「おれはいま活劇を見てる!」て本当にワクワクします。

 また、終盤の絵ヅラのスチームパンクぶりといったらもう! (ちょっとググってみるに実物はあんな煙の出る代物ではないようだ) そうした趣味のある者として心底おおいに興奮した作品でした。

 

 学校からの帰り道で雨が降っていた場合、自宅アパート近くの地下鉄駅を出たところで大きな傘を携えて持ち、通勤者たちにその傘を差しかけて彼らの玄関先まで随行することで副収入を得た。ちくしょう、傘はわたしより大きかったのだ。玄関到着時に、その人たちは数セント(ペニーズ)くれた。場合によっては5セント白銅貨(ニッケル)をくれることもあった。帰宅すると、わたしは得意になって自分の稼ぎをすべて母に手渡したのだった。一セントに至るまで、一家がやりくりする助けになった。

 あの頃はありとあらゆる年齢の子どもたちが、繁華街で新聞の売り子をやっていた。この商売に関しては、すでにウースター時代にいくらか経験を積んでいたので、街なかである少年に尋ねてみた。売り子になって"新聞売り子(ニュースボーイ)"と記された公認の木製バッジを手に入れるには、どこに行けばいいのか、と。

「パーク・ロウ〔2〕さ」その子は言った。

   boid刊、サミュエル・フラー&クリスタ・ラング・フラー&ジェローム・ヘンリー・ルーズ著(遠山純生訳)サミュエル・フラー自伝 第1巻:わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか(boid/ Voice of Ghost)』kindle版10%(位置No.6526中 590 489ページ中47ページ目)、「第一部第四章 マンハッタンの探検家」より

 さて『パーク・ロウ』という映画製作は、BOX封入冊子でも新聞記者出身であるフラーにとって積年の夢だった旨がしるされていたのですが、自伝をちらっと読んだ感じ、本当にこう、フラーが子ども時代から過ごした故郷やたずさわった仕事の反映された題材だったようで。

 そして、『わが谷は緑なりき』『怒りの葡萄』そしてあのテクニカラーの美しい『モホークの太鼓』などフォード作品やマンキーウィッツ監督『イヴの総て』やエリア・カザン監督『紳士協定』など数々のアカデミー賞受賞作を手がけたハリウッドの名プロデューサーのダリル・F・ザナックへ打診して企画を立てて、紆余曲折の末ようやく撮れた作品らしかった。

 (頓挫した『赤い広場』、)ヴェネツィア映画祭銀獅子賞『拾った女』、『地獄と高潮』『東京暗黒街・竹の家』(、これも頓挫した『ティグレロ』など)などザナックとの付き合いは何作もつづきますし、『拾った女』公開時にはときのFBI長官J・エドガー・フーヴァーに立ち向かってくれさえしたそうですが、『パーク・ロウ』ばかりは雰囲気がちがった。フラー氏は自伝で明け透けに語ります。

 「ウチで一九三七年にタイロン・パワー主演の『シカゴ』ヘンリー・キング監督。原題は『古のシカゴにて(In Old Chicago)』〕という映画を作ったんだ」と彼は説明した。「大成功を収めた。サム、きみがつけた題名は忘れろ。パーク・ロウのことなど誰も耳にしたことがない。この映画は『古のニューヨークにて(In Old New York)』という題にしよう」

(略)

 「いいかサム、きみの脚本は素晴らしいものだ」と、ザナックはニコチン抜きの葉巻を吹かしつつ頭を振って言った。「だがこの映画の主人公は、ライノタイプ機に首ったけだ。そんなこと、観客には理解できまい。スター俳優が必要だ。撮影はカラーでなくては。シネマスコープである必要も。作るならこういうかたちしかないぞ。十字軍戦士的な編集主任役には、グレゴリー・ペックを起用する。それから主人公の恋人役にはスーザン・ヘイワードエヴァ・ガードナーでもいいかもしれない。ブルックリン橋から飛び降りる男の役はダン・デイリーでどうか。女性バーテンダー役はミッツィ・ゲイナーかな。歌を何曲か作って、ミュージカル映画として製作しよう!」

(略)

 わたしのなかで何かがプツンと切れた。ダリルが提案した俳優たちは大好きだったけれども、カラーおよびシネマスコープの大作ミュージカル・コメディとして作られた『パーク・ロウ』など、想像することができなかったのだ。そんなの駄目だ。自分独自のヴィジョンを巨大スクリーン上で目に見えるかたちにするため――こんな思いに駆られたのは初めてのことであったが――一本の映画に対する完全な芸術的コントロール権を手にしたいと願ってやまなかった。『パーク・ロウ』に関しては、妥協するつもりはなかったのだ。

(略)

 『パーク・ロウ』を作るには、自分のカネを出してみずから製作するしかないと決意した。厳密に言えば、二〇万ドルだ。ザナックとフォックスなんか知ったことか! スタジオ・システムなぞクソくらえだ! わが映画はアメリカのジャーナリズムへの個人的贈り物となるはずだった。自分が『パーク・ロウ』をどういう外観にしたいかは、それこそ最初のコマから正確にわかっていた。実在する無数の新聞紙名がスクリーン上を下方へスクロールしてゆき、次いでわれわれは太字体で記された以下の文言を読む。

これらは合衆国で発行されている、

一七七二紙におよぶ日刊紙の

名前である。

 さらなる新聞紙名がスクロールし、次いで、

あなたが読んでいるのは、

このうちの

一紙だ。

 さらに新聞紙名がスクロールし、次いで

以後紡がれる物語の

花形は、

この新聞たち全部である。

 さらに新聞紙名がスクロールし、次いで

アメリカの

ジャーナリズムに

捧ぐ。

   boid刊、サミュエル・フラー&クリスタ・ラング・フラー&ジェローム・ヘンリー・ルーズ著(遠山純生訳)サミュエル・フラー自伝 第2巻:わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか(boid/ Voice of Ghost)』kindle版25%(位置No.5589中 1332 423ページ中104ページ目)、「第三部第二十七章 小品白黒映画」より(略は引用者による)

 飛び降り自殺とカラーフィルムのミュージカル映画とが並ぶ会話が何ともすごい。(『バンド・ワゴン』なんかでも銃撃戦があった気がするし、『シカゴ』なんてのだって後々撮られたわけでもあるし、ミュージカル、というかあるジャンルの全盛期というのはすべてがそれでやろうとしてしまうような、そういう分厚い存在になりゆくものなのかもしれない)

 1950年アメリカの平均世帯収入が3300ドルくらいでアイロンが139ドルで24インチのテレビが254ドルくらいだったらしいので、20万ドルと言ったらそりゃあもうすごいですね……。

 

 理想に燃えるひとりの人物が、ザナックの仕切る大手スタジオから離れて、身銭を大きく切って、独立愚連する――映画か新聞社かという違いこそあれ、まるで『パーク・ロウ』の物語を文字で読んでいるかのよう。

 次なるわが物語は、新聞記事の見出しから思いついたものであった。一九五〇年、朝鮮で議論の余地のある戦争が猛威をふるっていた。第二次世界大戦における直接体験を利用しつつ、わたしがこの現在進行形の戦闘を背景とする話を考案したのも、無理からぬことではなかろうか。その対決がどのようなものであれ、またどこで起こっているものであれ、根底にあるストーリーはお馴染みの破壊と憎悪の一変奏なのだ。戦争とは新聞の第一面記事よりも複雑なものなんだということを、いつか観客に示してやりたいものだと思っていたのだ。映画のなかでは、友軍であれ敵軍であれ、兵士が味わう本当の苦難が描かれたことはなかった。まやかしの英雄的行為ではなく、戦争の混乱と残忍性が描かれなくてはならなかったのだ。「われわれは正しく、連中は間違っている」と繰り返し唱える連中の正体を暴露し、その嘘を暴いてやる必要があったのである。

   boid刊、サミュエル・フラー&クリスタ・ラング・フラー&ジェローム・ヘンリー・ルーズ著(遠山純生訳)サミュエル・フラー自伝 第2巻:わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか(boid/ Voice of Ghost)』kindle版13%(位置No.5589中 706 423ページ中55ページ目)、「第三部第二十五章 いくばくかの力を獲得する」より

 初期の代表作『鬼軍曹ザック』についてフラー氏はこう語ります。

 この自伝のなかにはインディペンデント映画を撮りつづけた作家としてジョン・カサヴェテス監督を称賛するくだりもあるみたいですが、彼がそうだったようにフラー氏もまた映画をつくるように現実を生きた/現実を生きるように映画をつくったかたなのかな……などとも。

 

***

 

 第一巻が映画監督になるまでの半生っぽい。WW2を歩兵として従軍した体験記が一巻の半分を占めている。オマハ・ビーチからの上陸が凄惨で、ちょっと「『プライベート・ライアン』は、フラーファンであるスピルバーグの映画化だったりしないか?」と思ったけれど、原書の出版は2002年。あの映画はこの本の4年前に公開されているということになる。

 『プライベート・ライアン』をよく見ると、ライフルに白い半透明のプラ袋をかぶせて防水・防砂対策をしている姿が確認できる。じっさい参加したフラーの部隊では、少し状況がちがう。

われわれの知らないうちに、オマハにおける敵の火力は侵攻計画をめぐる会合で説明されたものの二倍の強さになっていたのだ。

 全員が救命帯――われわれはこれを"メイ・ウェスツ[8]"と呼んでいた――を身体に結びつけ、ライフルの銃口にコンドームを装着した。次いで縄梯子を降りて車両兵員上陸用舟艇に乗り込む。舟艇は通常、一艇に着き三二人乗りであった。どんよりとした霧に、すべてが覆われていた。乗っていた舟艇が激しく縦揺れするため、わたしは片手で手すりを握りしめ、もう片方の手で重たい装備の入った背嚢を背負ったままぶつかってくる連中を防いでいた。波が舟艇に当たって砕け散り、甲板上の反吐を洗い去った。自分のブーツがまるでアイススケート靴になったみたいに感じさせる、あちこちにぶちまけられたこのいまいましい吐瀉物に、将来言及する歴史書は出てくるんだろうかと考えていた。

 連合国側の飛行機がイギリス海峡を渡って各々の本拠地へと戻ると、爆撃もやんだ。駆逐艦も静かになる。何もかも、気味が悪いぐらいにひっそりとしてしまったのである。"幸運を"も、雑談も、祈りもなかった。

   boid刊、サミュエル・フラー&クリスタ・ラング・フラー&ジェローム・ヘンリー・ルーズ著(遠山純生訳)サミュエル・フラー自伝 第1巻:わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか(boid/ Voice of Ghost)』kindle版65%(位置No.6526中 4217 489ページ中328ページ目)、「第二部第十五章 幸せを感じるのは無理」より(太字強調は引用者による)

 フラーの自伝を読んでいくと前線物語』('80)はフラーのWW2体験かなりそのまんまであったことが分かってきて銃口にコンドームだってあの映画で映されていたことでもある)、「え、映画のなかだけの出来事だと思っていたアレまで本当に起こったことなの」と驚かされる。あちらの映画を観て、そしてこちらで復習するのが個人的にはオススメの順序かも。