すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

たった3度の見開き特大ゴマの思慕と悪夢、ささやかな無数の小ゴマの日々の営み;河合克敏 『とめはねっ! 鈴里高校書道部』全巻感想

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 みなさん今年の書き初めはもうお済みですか? ぼくはお年玉袋に筆ペンを走らせて「こ、こんなはずでは……」となり、「来年はもうちょい綺麗に書けるようにするか」と思うも「去年もそんなこと思ったわ」とうなだれました。

 そんなわけで「虎」の字もえがかれる河合克敏 とめはねっ! 鈴里高校書道部』全巻読みかえしたので感想文です。

 1万6千字 2万字くらい。

 

※以下、当該作全巻と話題にした他作をネタバレした文章が続きます。ご注意ください※

 

約言

 とても面白かったし興味深いし凄まじい作品です。

 内容;書道部活マンガ。落ち着きとぼけた空気をまといつつも、真面目に取り組むタイプ。地味な作劇だけど状況設定がうまくて、無理ないかたちで対決に持ち込んで飽きさせず、しかもそのバトルのなかで書道初心者でも光る特殊ルールを盛り込んでキャッチーな物語的ピークをたびたび作っている。

 記述;天地左右に余白をもたせ、上中下段に2コマ以上ずつ並べた落ち着いたコマ構成。{ちなみにフキダシの大きさ、位置(概ねコマ上部に置かれる。)もかなり統一されている}

 なので余白をつらぬくコマに驚きの表情が載せられたりすると、意外なほど心動かされる独特の読み味があり。見開きページにまたがる大ゴマの破壊力はすさまじい。{全話のうち11コマしかなく(うち8コマはページ上半分を占めるだけ)、見開きページすべてを占めるような特大コマは3コマしかない}

 書が書としてある実直なつくり。(それを書いたり見たりした者が、夢想空間を爆発させたりしない。書の優劣も具体的な技術論に立脚している

 ここ好き;記述に書いたこと全部。「かな」の先生ふたりの女学生時代からつづく腐れ縁。

 

序文的なやつ

 『週刊ヤングサンデー』や『ビッグコミック・スピリッツ』で連載された今作は、一時はNHKにて池松壮亮さんと朝倉あき氏主演でドラマ化だってされもしましたが、その放送はもう12年も前のこと。池松氏が話題作『シン・仮面ライダー本郷猛役に大抜擢、朝倉氏が(もはや老舗といえる名劇団ヨーロッパ企画と縁深いスタッフによる)前衛的エンタメ映画『ドロステのはてで僕ら』ヒロイン・メグミ役をつとめるようになるくらいの歳月がたちました。

www.youtube.com

 劇中舞台である湘南にぴったりなサザンオールスターズの歌『希望の轍』を題材にした書道パフォーマンスで〆るクライマックスが、動画としてフルカラーの表現媒体として映えました。こちらはこちらで素敵でしたが、『希望の轍』がマンガに登場するのは前半も前半、折り返しもまだちょっとさきの第5巻の展開なんですよね。

 放送当時マンガは6巻が発売されたくらいで、TVドラマ版は後半からオリジナル展開が盛り込まれました。ふまじめだけど部のムードメーカーである上級生ふたりが退部しようとしたり、ライバル鵠沼高の男子部員がヒロイン望月さんに告白したり、望月さんの家族が不幸に見舞われ転校したりするなどなどは、実はドラマ版だけだったりします。

 

 そこからマンガ版は3倍ちかい14巻までつづいて、ドラマ版が先取りしたような展開も一部むかえだってしたのですが、どうしてそうなったかはかなり違いました。

 好きなことと得意なことってなんだろう、そもそも書をうまくなるってなんだろう? 電車に揺られ、駄弁り、寄り道をし、そしてじっくりと書にむかう……落ち着きとぼけたマンガ版ならではの答えが拝めました。

 

 

感想本文

  作中作がきちんと出てくるタイプの芸術モノ

   作中作がきちんと出る/書き手が書道家・書道部である取材量

―― その辺のノリは『モンキーターン』を始めようと思われたいきさつともちょっと似ていますよね。自分が新しい漫画の型を作るんだ、という。

河合 そうですね。それと「モンキー」で味を占めたんですけど、マイナージャンルを題材にすると、取材対象の方々がとても協力的なんですよ。

   小学館刊、『漫画家本vol.5 河合克敏本』p.70~71、「河合克敏 語り下ろし7万字超ロングインタビュー」第4回 とめはねっ! 鈴里高校書道部 より

 藤本タツキの姉』感想文でも言ったようなおはなしなんですけど、漫画家が主役のマンガや役者が主役のマンガなど、芸術内芸術をあつかう作品ってむずかしいところがありますよね。

 劇中現実で「すごい」と評価される作中作について、フィクションの作り手はぼくたち受け手にどのように提示するか? 実物は見せず受け手の想像に任せる? 作中作の具体を書いたうえで「これはそういう"すごい"(と劇中世界でとらえられている)ものなのね」と脳内補完をしてもらう? それとも……?

 ……こうした疑問は、書道を題材にしたマンガでも当然うかんでしまうわけですが、『とめはねっ!』はそこを地道なやりかたでクリアしています。

 今作は作中作について鼻白むことはない。というのも古典はもちろん、現代に生きるプロの書家や書道部へ取材をし、その道のかたがたの実作を作中作として提示するからです。

 過去にえがいたものを物語に合わせて提示することもあれば、このマンガのために新規に書き下ろしてもらうこともある。

 この取材力、その道のプロと呼吸を合わせた連携の取りかたは『とめはねっ!』の魅力のひとつです。

 

 演劇だとか料理や音楽あるいは詩作マンガなどではときどき、作中作によってめくるめくイマジネーションが溢れるような演出がありますが(=独り芝居なのに相手が見えたりとか、カレーを食べたら周囲がインドになってるとか、その場にはない幻想的な情景が広がっていくやつです)、『とめはねっ!』はそういう演出をもちいません。

 もちろん「書の本物のもつ力は、それだけ雄弁なのだ」という面も大いにあるでしょう。ぼくが今作を読んで思うのは、

「そもそもぼくら現代人にとって、プロであれ部活動であれその道を極めんとするひとの書は、夢想的なイメージよりもはるかに馴染みの薄い、珍しいものであったりするなぁ」

 ということです。そういう意味で夢想的な演出のある作品とおなじかもしかするとそれ以上に、『とめはねっ!』もまたファンタジックな読み味が得られました。

 

   作中作の創作過程・評価軸が具体的かつ現実的

 劇中たびたび石川九楊さんの書籍が参考文献として挙げられるとおり――「永字八法」で腕前をテストしたり、『九成宮醴泉銘』の「聖人之徳」や「其清若鏡」など――大昔の古典をお手本として反復練習したりと、丁寧にかつ落ち着いた調子でまなんでいく作品です。名書養成ギプスとか滝行とかなんかそういうスゴイ特訓とかもありません

 カナダの帰国子女の大江くん、柔道の実力者だが書道にはさっぱりの望月さんというふたりの初心者を主役として、文字どおり「一」から書道を学んでいくこととなります。

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 「一」を書くにもコツがあり、何度か練習してうまく書けるようになったら「十」を書く。

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 「十」を書くにもコツがまたあり、「十」でこまねいていると合格の出た「一」さえお手本のように書けてないことに気づいて……

 ……と三歩すすんで二歩さがる、書道をたしなむひとが普段やったりやってきたような地道~な練習があって、現実のゆるい部活道者がそうするような遊びやサボリがあって、ツッコミがある。

 第一作第二作がつづけて直木賞候補、のちの作品が芥川賞候補となり、近作が吉川英治文学新人賞三島由紀夫賞芸術選奨新人賞を得た作家の宮内悠介さんは『とめはねっ!』7巻までを読んでこうつぶやいています。

 「学べるニュース」みたいな今作は――学研が出してそうな学習マンガの地道さと、ゆるいボケとツッコミ、そして日常系のとぼけた調子をそなえた慎ましい物語が、天地左右の余白をきちんととった落ち着いたコマ構成でつづられた今作は、ひとによっては退屈に思えるかもしれません。{フキダシの高さ(大体コマ上部に置かれる。この視点移動の少なさはすごい)・大きさの統一もそんな読み味に貢献しているかも}

 雑誌で連載を追っていた当時は正直ぼくも今作を、良く言えばオアシス、悪く言えば凪の海のような作品だと思っていました。

 主な掲載誌である『ビッグコミックスピリッツ』で連載がかさなった作品は、(『ソラニン』にまぶされた毒気を煮詰めたような)浅野いにお氏の暗黒青春物おやすみプンプンやヤクザの潜入捜査マンガで生田斗真さん主演で映画化もされた土竜の唄』(これらは『とめはねっ!』ともども『週刊ヤング・サンデー』休刊にともなう移籍組)、ゾンビ物日本マンガの傑作で大泉洋主演の映画にもなった『アイアム・ア・ヒーロー』なぎなた部活漫画の傑作で乃木坂46の面々による映画化もされたあさひなぐ、熱い描線がほとばしる新ブラックジャックによろしく、こちらも熱い描線の――そして「さすがに主人公に対する先輩スタッフの仕打ちがひどすぎるだろ」とドン引いた――『バンビ〜ノ!』などなど……

 ……アクが強かったり熱かったり溌溂としたりするマンガがなんとまぁ色々あったことか。

 でも単行本で読み返してみると、むしろとめはねっ!』ほど瞬間最大風速がすさまじい作品もない

 そうした節度のある構成だからこそ会心の一筆の気持ちよさもとんでもない。

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 「一」さえうまく書けない望月さんのもとへ、上級生のイジリに耐えられなくて部室へ寄りつけなくなってしまった書道部顧問の先生がたまたま通りがかって、半切という書初めにつかうサイズの紙を横にし、"長ーい「一」を書いてごらん。"と提案して、望月さんが半信半疑のまま筆を走らせる。

 左ページをめくった途端にあらわれる望月さんの一筆。見開きページをまたいだ大きなコマによって表されたその姿の、なんとも鮮烈なことか。

 全14巻179話、トビラ絵を抜かして本編2600ページにおよぶ『とめはねっ!』という漫画のなかで、ページをまたがる大コマ*1はなんと実は11コマ*2しか無くて、上に引用した望月さんの姿はその貴重な1コマなのです。

 「十」を書く4話(ひとつ上に引用したページ)と長ーい「一」を書く5話(直近に引用したページ)とのどちらにもある、左右に残像ののこる姿や「あれ」という心の声をとなえる姿の静と動を比べるまでもなく、躍動感たっぷり。

 主観的に気持ちよいと同時に、つづくページでは顧問の先生によるこの「一」がなぜ良いのかという客観的な解説もつきまして。たのしく書のよさを知っていける作劇が、一巻から最終巻まで一貫して展開されます。

 

   地味な書道のなかに光る逆境と逆転;高校対抗「母」の字バトル

 河合氏は『週刊少年サンデー』で柔道漫画帯をギュッとね!』や競艇漫画『モンキーターン』などを長期連載し、さまざまな対決をえがいてきました。

 こととめはねっ!』においても、落ちついた文化系部活動モノの枠のなかで、自然なかたちで対立や対決、逆境と逆転を盛り込んでいます。

 鈴里高校書道部の部長・日野ひろみにはふたごの姉がおり、この姉のよしみは近隣にある書道に熱心な鵠沼高校で部長をつとめています。おっとりした性格のひろみに対してツンケンしたよしみがつっかかることで、たびたび高校対抗の書道対決が私的にくりひろげられることとなります。

 

 序盤で人間関係と書の魅力そして河合氏のエンタメ作家としての実力が爆発するのが、「母」の字リレーバトル(2巻12話~)

 部員がひとり一画ずつリレーするように「母」の字を書き継いでいき、両高校の「母」の出来を競うエピソードです。

 団体戦ですかっ!」と盛り上がる望月さんが言うとおり、個人技ではなく高校の総合力が問われそうな催しだ。

 知識と経験に秀でた鵠沼高校に対して、われらが鈴里高校は初心者2名をかかえて明らかに劣勢。望月さんは描線に勢いがあるけど文字自体はまだまだうまくないし、大江くんは文字のかたちをとるのは上手だけど線自体はよわよわしい。

 『とめはねっ!』らしいゆるい導入と空気に包まれつつも、燃えるエンタメの要素が総まくりされています。圧倒的な戦力差をどうするか? という問題もそうですし……

「わかりましたっ部長!

 部長が私に一画目を任せようとする意図が!

 見ていてください! しっかり先鋒をつとめてきます!」

   小学館刊(ヤングサンデーコミックス)、河合克敏とめはねっ! 鈴里高校書道部』2巻kindle版9%(位置No.223中 19)、「第十二話 母」より

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 ……望月さんが一画目をおねがいされた裏の意図を考え、わずかな修練と経験を実践に生かしてみせる初心者の躍動もまた熱い。

 運動音痴なガリ勉⇔筋肉バカ、みたいな単純な二項対立に収まらない、望月さんという個人の魅力もここでよく分かってくる。

 確信のもと描かれた「一」は、部長と望月さんのこれまでの関係が結実したすばらしい一筆となっています。

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 ただまぁふつうに間違っているのですが(笑)

 でもリアルな問題ですよねこれ……。形さえ合ってれば書き順なんて気にしないじゃないですか。「左」の一画目とかもそう。実は「右」の一画目は左とはちがうってご存じでしたか? ぼくは『とめはねっ!』を読んで知りました。

 

 こうしてリアルかつ『とめはねっ!』らしいとぼけた雰囲気がそのままエンタメの王道、絶体絶命のピンチを呼び込みます。

 あきらかに失敗なこの紙を見て、大江くんは「そのまま二画目を書きます。」と筆をとります。「どうするんだろう……」と読んでいくと見事なフォローをしてみせ、上級生がそれに応えます。

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 こうして、ふつうにうまい鵠沼と、見慣れたそれではないけれど味わい深い鈴里、それぞれの「母」が並び立つこととなりました。

 これは甲乙つけがたい! はたして勝つのは……? 結果は漫画本編を読んでのお楽しみということで。

 

   キャラの個性が作中作・創作過程ときれいに絡む

 母の字バトルの過程だけ見ても、その書に各人の性格がでています。この物語性もまた楽しい。

 本番一発勝負でばっちりキメてみせる望月さんは、その横一文字どおり思い切りのよいひとですし。

 それを失敗ととらえずフォローする大江くんは、彼の書いた二画目どおりの物腰やわらかいひとです。

 大江くんの筆は、しばしば書のなかに強弱などの起伏をつくれず凡庸に落としてしまう一方で、時と場合によりむしろ長所として活きることもあります。

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 廃部をふせぐため文化祭でおこなった書道パフォーマンスのなか、上級生と一緒に書いた共作希望の轍では、そんな大江くんの個性が、切ないフレーズをより一層きわだたせる役目をはたしてみせます。

(この采配の妙は、よくよくふりかえれば望月さんが「母」の字バトルで考えたような/しかし部長がそこまで考えきれなかった妙味であって、望月さんのあの「一」も無駄足ではなかったのだと思わされもして、そこもすてき)

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 その人の色が出るといっても技術なので、大江くんはやがてかれ個人の書のなかで描き分けられるようにもなります。

 たとえば9巻第百六話 「鈴里の大躍進」で全容が載った大江くんの書。

 劇中で取り沙汰されるのはその「あたたか」い筆致の巧みさであり、以下は劇中のひとびとが何も言わないポイントではありますが、ぼくやここまで読んできた読者がまず目に留めるのは、「寒いね」の一言目と二言目できちんと表現を変えているところ――線の細さ/太さや、字の丸み/角張り(=「ね」に顕著)を異にしているところ――ではないでしょうか。

 おなじ語句からそれぞれ別々のひとの声色が思い浮かんでくるような奥行きを感じさせてくれる、すばらしい書き分けです。

 5巻の51話で語られた「漢字かなをまたいだ字体の統一」や、55話で勅使河原くん(=上の画像で左下で「なるほど。確かに。」とうなづくひと。勅使河原くんは見開きページの左下にいがちで面白い。)が鈴里高の書道パフォーマンスを見て説いた「詞にあわせて変えられた筆致」に、あるいは、8巻90話の「かな」の講義でライバル鵠沼高の日野よしみ部長が(「できてない」と)指摘された「同じ字に変化をつける」こと・91話で大江くん自身が(「できてない」と)指摘された「文面に起伏をつける」ことに連なりむすびついた美点ですね。

 「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」と創作者を主役にした別のマンガは言いますが、読んでてそう思っちゃうのもおかしくないくらいの一貫性や、いちど出した事物を百話ちかくまたいだ後に別角度から再言及するようなロングストロークが今作にはあります。

 

   上手い書とは;作中「全国一の高校生書家」の歴史に裏打ちされた上手さ

 ゆるやかながらも一歩一歩書の楽しみを深めていく鈴里高校の雰囲気に大きなくさびを打つのが、全国一の高校生書家たちの姿勢です。

 5巻61話「本物の強豪」では、主人公の鈴里高校の面々が教室で牛橛造像記について座学をいつもの調子で(顧問が喜々として歴史解説を長々とし、それを大江くんがにこにこと聞き、ドヤる顧問に上級生が「とくいげに…」などとうんざりしたり、穏健な部長がこまった顔を向けるなど)しています。そこからページをめくると……

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 ……その空気を断ち切るように、プロのカメラマン三好和義さんの写真集から引用された中国・竜門石窟の異景がでんとページをまたいで上半分を占領します。

 さらにつづくページでは男子高校生が双眼鏡をのぞいてはしゃいでいます。「あった!「牛橛造像記」だーーっ!」「だって、本物だぜ、先生!」一条くんの喜びの声です。この記事の最上部で浜辺にさらさらと金文の「虎」を書いて見せたかれですね。

 この中国の場面は、一条くんの通う書道の名門校・大分豊後高校書道部が、その現物を見て回っているシーンなのでした。

(「牛橛造像記」をつうじて対照的な両高をぶつける作劇がたのしい)

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 そこからすこし時が過ぎて6巻66話、"書の甲子園"の受賞作展示会にやってきた鈴里の面々は、前述した大分豊後高校書道部の一条くんやその書などと出会います。

 創作作品部門で文部科学大臣(=書の甲子園でいちばんすごい賞)を受賞したかれの書は、現代詩を題材にした「漢字かな交じり書」でありながら、鈴理高のひとびとが書いたような親近感とはまったく別種の情感をいだかせます。厳かな崇高美がある。

 

 「詩がちょっとクサくね?」などと茶化しや脱力コメント、それにたいするたじたじのツッコミがつくなど鈴里高らしい落ち着きとぼけた空気をただよわせつつも、『星よ』がはなつ魅力の理由について大江くんが気づき、顧問がくわしく解説します。

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 クサいくらいに壮大な詩の内容にぴったりの、古典への深い造詣に裏打ちされた筆致。一条くんの書は、才能とたゆまぬ修練が物を言った傑作なのでした。

 

   中国古典から日本の「かな」、戦後の前衛、現代の「漢字かな交じり書」、日常にある美へ;さまざまな書の美しさ

 書けるものが広がっていくにつれ、『とめはねっ!』が見つける/見つめる書や美も広がっていきます。

 ぼくは鵠沼高校の「二軍」宮田さんから端を発して開かれていく、日常にある書の「美」がとくに好きです。

 宮田さんは書の大会で一番を獲ることを目的として書道部に在籍しているのではなく、実家のおそば屋さんのお品書きをじぶんで書けるようになりたくて勉強しているひと。

 ひょんなことからお品書きをお願いされた大江くんは、ふだん何気なく過ごしている日常のなかにも面白い文字、工夫をこらされた魅力的な書があふれていることに気づきます。

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 たとえば銘菓「ひよ子」はお菓子だけでなく、そのパッケージさえやわらかいなど。

 

 『とめはねっ!』をきっかけにしてぼくも日常をいくらか面白がれるようになりました。もちろん下手の横好き、「書」としての詳しい機微まではわからなくって、どんなデザインが選ばれているかの、もっと大まかな部分くらいの評価しかできませんが。

 たとえば『ブレンディ』

 原田知世さんが鼻歌をうたいながら野でたしなむCMでおなじみのインタントコーヒーですね。ングセラーパッケージ大全』によれば*3、朝の定番コーヒーが今こうして飲めているのも、実はそんな「字」をふくめた生存競争の賜物なんだとか。

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 米ゼネラル・フーヅ社による独自製法のブランド・マックスウエルを起源にもつブレンディはかつて、大型犬と遊ぶアメリカ人家族の登場するCMを打っていました。

 当初はパッケージも金・黒・茶の色づかいによる骨太フォントなもの。カジュアルなアメリカンファミリー」がブランドイメージだったのです。

 ただこの路線は「違いがわかる男」ネスカフェゴールドブレンドに後れをとってしまう。ということで『ブレンディ』は95年「リラックス」路線に方向転換、パッケージも自然を感じさせるグリーンに一新、ロゴも手書き風の「日本的な手作り感を表現」するものへと大胆に変える。そうして活路をひらき、数十年もの定番ブランドとしての地位を築いていったんだそうです。へぇ~!

 

河合 書道のことを調べていくうちに気づいたことなんですが、書道には会派がいろいろあるけど、会によって言ってることが全然違うんですね。それで、「書とは何か」という本質的な問題に悩んだ時期もありました。

   小学館刊、『漫画家本vol.5 河合克敏本』p.83、「河合克敏 語り下ろし7万字超ロングインタビュー」第4回 とめはねっ! 鈴里高校書道部 より

 ただその一方で、書の道について詳しくなったからこそ、袋小路もまた見えてきたりもします。

 たとえば先ほどの書『星よ』にしても、大江くんと顧問の先生の会話で取り上げられなかった創意工夫があって、それは大江くんを悩ませるものとなります。

 宮内氏が感想をつぶやいた7巻よりもあとの話をしましょう。

 『とめはねっ!』終盤、高校2年夏の"書の甲子園"への出展作品について大江くんはおおいに悩みます。題材えらびからして一進一退、短歌で書をかこうと練りますが、一条くんから「それは……「書の甲子園」には向いてないんじゃないかな?」と待ったをかけられることとなります。

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 "書の甲子園"は紙のサイズについて規定があり、あの壮大な『星よ』もまた、そうした枠内でもっとも映えるように題材全体の文字数やどの文字を大写しにするかセオリーに従い考え抜いた、戦略的勝利の産物「絶対"正解"のやりかた」だった……。

 

 人によって好きなことと得意なことが違っているように、紙や書によっても得意不得意があるのかもしれない。

 たとえば望月さんがいくら書道を好きで柔道が得意だろうと、「じゃあ一緒にやれば最好最高じゃないか」というお話にはならないように。

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 自分がその道をどれだけ好きで進んだところで、越えられない壁が待っていそうだと歴史が示唆するとき、それでもなおおしとおすべきなのか? 『とめはねっ!』を読んでいるとそんな疑問が、何度かうかびます。

 

 大江くんたちは2年生となり、8巻では新入生歓迎会を、去年部長たちがやってみせたようなパフォーマー側として参加します。上に引用した二重の「人」の字のようなおふざけ要素のつよいものもあれば、一目に素敵な書もしずかに発表されもします。

 生徒が一同に楽しむなか、仏頂面で眼鏡をくもらせる生徒がひとり。鵠沼の部長よしみでしょうか? いや違います。

 島さんといいます。このひとは顧問の影山先生のいとこで、ずっと書道教室にかよっている実力者でした。それも……

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 ……前衛書の

 キャッチーな書道パフォーマンスから始まったとめはねっ!』は、落ちつきとぼけた序盤の空気感を維持しながらなんと、前衛の領域まで――読めないけど伝わる凄みの領域まで――踏み入れていくこととなります。

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「この「品」に見えるカタチは、赤ちゃんがハイハイをしている姿を見て、桑鳩先生がイメージされたと言われています。

 その赤ちゃんは、桑鳩先生のお孫さんだったのです。

 つまり、これは桑鳩先生が一番愛を感じたカタチ、だからタイトルは愛でいいのです!」

   小学館刊(ヤングサンデーコミックス)、河合克敏とめはねっ! 鈴里高校書道部』8巻kindle版94%(位置No.214中 201)、「第百一話 これが前衛書」より

 書道家や書道部のひとびとに取材することで知った、げんじつの書道部員のかたがたの個性が反映されたと云う島さん*4は、前衛書の魅力をかたります。とくに部室で紛糾するのが、上田桑鳩『愛』。「品」にしか見えないこの字は、鈴里高のひとびとだけでなく、当時の書道界でも非難がおおきく、上田氏は日展を脱会することとなりました。

「でも、私の先生は、真の「前衛」とは、自分の心の中を表現することだとおっしゃってました。

 だとすれば、自分の作品を否定された桑鳩先生は、ご自身の心を否定されたも同然なのです。」

   小学館刊(ヤングサンデーコミックス)、河合克敏とめはねっ! 鈴里高校書道部』8巻kindle版94%(位置No.214中 202)、「第百一話 これが前衛書」より

 

「そう、しかし漢文で文章を書いていた昔の日本人は、だんだん漢文だけではもの足りなくなってきたんです。

 それは、ここ、心の中のことを書きたくなったからです。」

   小学館刊(ヤングサンデーコミックス)、河合克敏とめはねっ! 鈴里高校書道部』7巻kindle版18%(位置No.208中 37)、「第七十七話 高野切」より

 鈴里高で「かな」を教えてくれることとなった先生は、「かな」が生まれた理由をそうまとめます。つまり「話し言葉は日本語、書き言葉は漢文という時代」*5という言文不一致な言葉遣いを万葉仮名そして「かな」を生みだすことで変えた時代に、恋についての和歌がたくさんのこされていったことがその論拠です。

「金子鷗亭という人は、書家が作品に書く言葉は、書家本人が感動をもって、心から作品にしたいと思うものでないと考えたの。

 古い漢詩や漢文や和歌を書く現代の書家は、本当に感動をもって書いていると言えるのか?

 それよりもっと、自分自身が心から感動した言葉を書にして、書を知らない普通の人も感動できるような作品を書きたいと思ったのね。」

   小学館刊(ヤングサンデーコミックス)、河合克敏とめはねっ! 鈴里高校書道部』5巻kindle版13%(位置No.220中 28)、「第五十二話 雨ニモマケズ」より

 日野ひろみ部長は、金子鷗亭が書道パフォーマンスの先祖といえる「近代詩文書」を興して、『雨ニモマケズ』などを題材に書を記した理由をそう説明します。

 『とめはねっ!』は、一見どころか百見してもなにがなんだかむずかしい前衛書を、連綿とつづく書の道にあるものとしてまとめていきます。

 まぁ鈴里高のあの奇抜な「母」のドタバタかつやわらかな内幕に感動したぼくたちです、上田氏が孫に見たと云う「愛」がどうして受け入れられないことがありましょうか。

 

  3度しかない見開き特大ゴマで表された書の迫力

   情報開示の統御に見られる『とめはねっ!』というストーリーテリングの巧みさ

 さて、『とめはねっ!』劇中の書の魅力については上でけっこう書けた気がしますが、そもそも周囲の感想をめぐってみてもそこが興味深いことはわりあい話されているような気もします。

 この感想でもっとよく言うべきなのは、作劇の面白さなのかもしれません。

 

 さらさらと読めてしまうとぼけた調子のなかにも、廃部の危険であったり、兼部である望月さんの進退の問題だったり、望月さんが気になる大江くん、大江くんが気になる鵠沼の宮田さん、望月さんの幼馴染の一条くんによる恋模様であったり、さまざまな学園青春ドラマが盛り込まれていて。

 望月さんが書道部をやめることを決心するマンガ版独自の経緯については、TVドラマ版における家族のケガという偶然かつのっぴきならない不幸よりも、ある意味でより一層どうしようもないものとなっています。

 他人が原因の問題であれば本人だって心残りがあるでしょうし、「離れていても心はいっしょだ」「気持ちがあるならいつかまた合流することもあるかもしれない」トカナントカ、いくらだってなぐさめようがありましょう。

 でも、マンガ版のように望月さん個人がオリンピック強化指定選手に選ばれるほど圧倒的な柔道の才能の持ち主で、望月さん自身も「自分の力がどこまで通用するのか存分に確かめてみたい」と思っていて、「書道はここで全力を出し切って終止符を打つ」と決めてしまったなら、もう、どうしようもないのではないでしょうか。

 

 そしてマンガ版の大江くんが2年夏に経験する"産み"の苦しみは多方面におよんで、これまた地味にすさまじい

 大江くんのスランプは、うえで挙げたような学園青春ドラマ要素といった他者との人間関係のからんだ問題がいくつも重なってきているのはもちろんのこと、大江くん自身の技術や創作観さえ揺らがすような展開となっています。

 一条くんが伝える『星よ』の秘密にしたって、今作がただの「学べるニュース」的なトリビア充足作品であれば、6巻66話の初登場時にぽんと出してしまえばよいわけですが。

 でも、そこから100話ちかく跨いだ終盤13巻158話、大江くんの創作にかんする「ついで話」としてようやく明かすことで、大江くんのスランプをより深刻なものにしています。これによって66話で大江くんが気づいた『星よ』の魅力なんてその凄さの一面でしかないこと・一条くんの高みに大江くんがなおも達せていないこと、大江くんの創作自体への暗雲が、この『星よ』の秘密開示によって一気にあらわとなるわけですから。

 

 どんな要素をどこのタイミングで提示するか、その配分が抜群だし、そうした手つきはコマ割りにも及んで、すさまじい。

 とくに素晴らしいのは、見開きページ全体を占めるような特大コマの迫力です。

 全179話2600ページほどのこの物語のうち、見開きページをまたがるコマは11つしかなくて、そのうち8つがページ上半分ほどを占めるもの。全体を一コマが占めるような特大コマはたった3つしかありません。

 そうして溜めに溜めて放り込まれる特大コマは、黎明期の映画のつかいどころを絞りに絞ったアップショットのようにハッと瞠目する衝撃があります。

   2話の湘南・学生ならではのきれいだが儚い大字画

 最初の特大コマは1巻の若いエピソードに登場します。

 でも第1話ではない。新入生を驚かせ、書道ブームを起こした書道パフォーマンスは天地左右に余白をとった『とめはねっ!』おなじみのコマ割りのなかに収まっています。

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 右手を骨折した大江くんが、物思いにふけって流木を手に取り、「部長さんが新入生歓迎会でやったみたいに… 大きく書けば…… 左手でも書けるかな?」と1話で見た書道パフォーマンスをまねて描く。
 不慮とはいえ骨折させてしまった望月さんが、大江くんを探して通学路をふらつく。「大江くんの帰り道がどっちの方向か、わからないのに、見つかるわけないよね……」と出てきてから失敗に気づくが、ふと海を見たところ自分の名前が大きく書かれているのを見つけたその瞬間が、特大コマとしてえがかれています。

 望月さんにとっては誰が書いたかもわからない謎の書が、

「真上から見られないから今イチよくわからないけれど…… この字って……上手い?」

 と書に惹かれていく原動力となります。


 浜という巨大な面に、筆となる流木。書き手である大江くんが大それた行動に出れた「どうせすぐ波で消えちゃうんだし…」という理由、すべてが劇中舞台である湘南ならではのもので、ここもまた素晴らしいところ。

 

   165話の読めないけど読める・誰もが瞠目する現代ならではの書;湘南の書家・井上有一『噫横川国民学校

 もうひとつの特大コマは、現実の書家の作品にあてられています。

 『とめはねっ!』劇中地元の書の権威・三浦清風は古典につよい作家ですが、しかし古典にいちずだったわけではありません。女学校の教師時代は「かな」を独学ながらまなんだし、もっと若いころには当時の青年書家がそうであったように、前衛にだって興味を示した。

 大江くんは自身の祖母・英子から女学生時代の思い出を聞いたさい、当時は英子の学校の教師をつとめていた三浦清風が当時スランプに陥っていたことを知ります。「私なんかが一生かかって「書」を勉強しても絶対に辿り着けない境地に入る」書家による「真の"本物"を見てしまった」ことで意気消沈してしまったのが、その理由であると告白されたことも。(9巻収録のエピソード)

 

 そこから4巻を経た13巻収録のエピソード、『とめはねっ!』クライマックスとなる2年目の書の甲子園出展作を練りえがくために行なった夏休みの合宿で、ライバルである一条くんが研鑽をさらにきわめた労作を仕上げてもなお――というよりもその労作を見たからこそなおさら――自分が何を書けばいいか分からなくなってしまった大江くんはその思い出話をふりかえり、当の三浦師へ直接質問。

 三浦師は大江くんに、その書家がだれでどんな書をかいたのかを伝えることに決めます。百聞は一見に如かず、顧問の先生が調べたところちょうど展示が行なわれていることがわかったので、群馬県立近代美術館へと遠出します。

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 建物それ自体が額縁であるような磯崎新さんが設計した正方形を積み重ねた美術館が、見開きページの上半分余を占領し、おなじみのリズムを断ち切ります。ジーーーッシャワシャワシャワシャワとセミの鳴き声がひびき、うだるような夏が強調されます*6。アルゼンチン独立戦争を称える記念碑のための習作であるエミール=アントワーヌ・ブールデル氏による『巨きな馬』は、遠方で小さく映るのみ。終戦記念日を迎えて―アートが伝える戦争」の看板の骨太フォントが目立ちます。

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群馬県とか言ってたよね。」

「それって遠くね?」

(略)

「でも、このままだとユカリちゃん、合宿中には作品 間に合わないでしょうねぇ。」

「まだわからないでしょう? 合宿は明後日まであるし!」

「いや、間に合わんかもな。」

   小学館刊(ヤングサンデーコミックス)、河合克敏とめはねっ! 鈴里高校書道部』13巻kindle版86%(位置No.202中 173~4)、「第百六十五話 衝撃(ショック)」より(略は引用者による)

 美術館のまえに立った大江くんと並行して、合宿場でかれの旅先や書についての会話がおなじみの天地左右の余白の多い、おなじみの上中下3段組6コマ構成で挿し込まれます。ライバルである鵠沼高の笠置先生までツッコミ役として談笑にくわわって、いつものゆるい空気を醸成。ただ、三浦師だけは少しちがう。

「大江が見た書は、今日はおまえらには見せん。」

「えっ、なんでだよ!」

   小学館刊(ヤングサンデーコミックス)、河合克敏とめはねっ! 鈴里高校書道部』13巻kindle版97%(位置No.202中 195)、「第百六十六話 井上有一という書家」より

 大師匠はここでも、もう一度話題にふたたびのぼった夜でも詳細を語りません。見れば影響されてしまうからと。

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アメリカB29夜間東京空襲 闇黒東都忽化火海 江東一帯焦熱地獄 玆本所区横川国民学校 避難人民一千有余 猛火包囲 老若男女声なく再度脱出の気力もなし 舎内火のため昼の如く 鉄窓硝子一挙破壊一瞬裂音忽ち舎内火と化す 一千難民逃げるに所なく金庫の中の如し 親は愛児を庇い子は親に縋る「お父ちゃーん」「お母ちゃーん」子は親にすがって親をよべ共 親の応えは呻き声のみ 全員一千折り重なり 教室校庭に焼き殺さる夜明け火焼け尽き 静寂虚脱 余燼瓦礫のみ 一千難民悉焼殺 一塊炭素如猿黒焼 白骨死体如火葬場生焼女人全裸腹裂胎児露出 悲惨極此生残者虚脱 声涙不湧 噫呼何の故あってか無辜を殺戮するのか 翌十一日トラック来り一千死体トラックへ投げ上げる血族の者の叫声今も耳にあり

右昭和二十年三月十日未明 米機東京夜間大空襲を記す当夜下町一体無差別焼夷弾爆撃 死者実に十万 我前夜横川国民学校宿直にて奇蹟生残 倉庫内にて聞きし親子断末魔の声 終生忘るなし

     ゆういち

 井上有一(ああ)横川国民学校

河合 それについては偶然が大きくて、狙ってた話じゃないんですけど、井上有一が湘南に住んでたことがあったというのを知って、長いこと漫画を描いてると、時々そういう予想外の偶然みたいなものに出会うことがあるんですよ。

   小学館刊、『漫画家本vol.5 河合克敏本』p.85~6、「河合克敏 語り下ろし7万字超ロングインタビュー」第4回 とめはねっ! 鈴里高校書道部 より(略は引用者による)

河合 (略)文字というよりは絵画に近いとも言える前衛書はある時期、色モノみたいな扱いを受けていたこともあるんです。それ以前に難解なものだし読みにくいし、本来は商業誌の連載漫画に出すような書のスタイルじゃないかもしれない。

 でも取材していく過程で井上有一という存在を知ってしまったので……。彼の生きざまみたいなものを、僕も僕の漫画に刻み込みたいと思うようになったんです。

   小学館刊、『漫画家本vol.5 河合克敏本』p.85、「河合克敏 語り下ろし7万字超ロングインタビュー」第4回 とめはねっ! 鈴里高校書道部 より(略は引用者による)

 3度しかない特大コマを、『とめはねっ!』は河合氏が連載中に偶然出会ったこの作品にあてます。

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 つづく2ページでは、おなじみの枠構成をはみだして瞠目する大江くんの顔のアップから、カメラは斜めのバストアップ、真横の全身図、背中と回り込んだのちトラックバックする映画的なコマ運び。

 カメラが回っても回っても引いても引いても井上氏がえがいた東京大空襲にかんする荒々しい、それ自体が断末魔のような――所蔵するピカソ『ゲルニカ』のタピスリやオシップ・ザッキン作『破壊された都市』、空襲のため地下鉄構内に避難したロンドン市民の姿と結び付くヘンリー・ムーアの『奉献(三人の女性と子供)』などとともに企画展をひらいた同群馬近代美術館では、「悪夢のような」とも称される――書が延々とあり、コマの左右をはさむナレーションが、この書のうまれた歴史的悲劇について滔々と語ります。

 

 合宿場にもどった大江くんは筆をとりますが、しかし、井上氏のえがいた混沌に呑まれてしまって、文字どおり筆が止まってしまうのでした。そりゃあそうなってしまうよ……。

 

抑圧にもかかわらず小説の力のおかげで耐えられたのではない。抑圧されていたからこそ、小説は力を持ち、輝いて見えた。むしろ小説と抑圧は共犯関係にあるのだ。

 それはイランだけじゃない。ラテンアメリカ文学が驚異的な作品を機関銃のように量産していた時代――それはまさに、ラテンアメリカが政治的にひどい状況にあり、日常的に抑圧と不自由が存在していた時代だ。映画もそうだ。数年前に、奇跡のようなイラン映画が次々に公開されたのは、まさに本書と同じ環境でのことだった。抑圧が、小説を、映画を輝かせ、力を持たせる。逆にいえば、いまの日本をはじめ先進国で小説がかつてのような力を失っているのは、そうした場所で抑圧がすでに存在しないから、でもある。

 人によっては言うだろう。そんなことはない、いまでも抑圧はあり、不自由は存在するのだ、と。人々は強制的に君が代を歌わされるではないか、女性の地位は低いではないか、9.11以後の監視社会はどうだ、小説を読むことでそれに対する感性が養われるのだ、と。

 でも……この本の登場人物たちが体験しているようなイランでの弾圧と、いまの女性「差別」や君が代なんかの話は、とうてい同列に扱えるものじゃないというのは明らかなはずだ。前者は本物の抑圧であり弾圧。それに比べりゃ後者はままごと。それを同じ「抑圧」と呼ぶことが、ぼくは本物の抑圧への冒涜だと思う。、いまの先進国社会はそんな重箱の隅くらいしか問題が残っていない。そして小説は、そうした重箱の隅にしか奉仕できなくなっている。

   山形浩生「小説と抑圧の共犯関係から本書は目をそらしてしまう。」(『CUT』2006 年 10 月号初出、YAMAGATA Hiroo Official Japanese Page再掲)

 野村総研の研究員で翻訳家・批評家の山形浩生さんは、『CUT』2006年10月号に掲載されたコラム説と抑圧の共犯関係から本書は目をそらしてしまう。」で『テヘランでロリータを読む』を書評したさい、本物の抑圧に生み出された表現の迫力をそう語ります。*7

 井上氏の作品は、そうした主張の日本における証左といえそうな気がします。

 河合氏は前述の演出について、インタビューでこう自己解説しています。

―― あそこは漫画表現の極致というか、圧巻の描写ですよね。(略)並みの漫画家ならあそこで縁が衝撃を受けている表情を見せたり、セリフやモノローグを入れたりすると思うんです。あるいは、空襲のイメージカットを挿入したり。でも河合先生はそういう過剰な演出を加えずに、淡々と、縁の表情も見せずに、彼の背中だけで彼が受けている衝撃を描いた。これは漫画や映画にしかできない演出だと思います。
河合 ありがとうございます。でも実はその前に見開きで入れている井上有一の書とその内容自体がすごすぎて、もうそれ以上加えるものは何もないと言えるわけで。だから過剰な演出を加えずに、じっとそれを見ている縁の背中を描くだけで、読者にも何か伝わるんじゃないかと思ったんです。

   小学館刊、『漫画家本vol.5 河合克敏本』p.85、「河合克敏 語り下ろし7万字超ロングインタビュー」第4回 とめはねっ! 鈴里高校書道部 より(略・太字強調は引用者による)

 

 本人にとっては不幸ですがしかし圧倒的な"本物"の体験に裏打ちされた圧倒的な作品をまえにして、ほかの創作者ができることは何があるというのだろう?

 大江くんはいろいろと複雑なバックグラウンドを背負っていますが*8、『とめはねっ!』でえがかれる限りにおいては、きわめてごくごくふつうの平々凡々とした日常の住人です。

 本編の時間軸でえがかれた、たまたま先生にお願いされて行ったさきでたまたま異性の上級生の着替え現場とバッティングし、覗き魔扱いされそうになるとか、それをネタに書道部に入ることとなるとか、たまたま出くわした同級生のけんかのあいだに挟まって数週間のケガを追うとか、ひょんなことから雇われたバイト先で慣れない町並みに迷って出前を回り切れなくなりそうになるとか……そんなふらふらと流されに流されていく珍道中、ふわふわしたとぼけた日常から、突然こんな混沌に迷い入れてしまったら、立ち竦むしかないのかもしれません。

 

「俺、 そこまで語りたいこと自体 無くね?

 

 全部を見せるも

 何も、

 

 俺って

 なーんも

 無くね?

 カラッポじゃね?」

   小学館刊(ビッグコミックス)、ジョージ朝倉ダンス・ダンス・ダンスール』15巻kindle版14%(位置No.196中 27)、「第128幕」より

 『とめはねっ!』が連載終了した同年におなじ『ビッグコミックスピリッツ』で連載がはじまったジョージ朝倉さんによる傑作バレエ漫画ンス・ダンス・ダンスール』もまた、山形氏の提起した問題に直面します。

 カザフスタンの同世代のダンサーが、紛争さめやまない地域で両親を殺され別国に移り住んだような「生死が隣り合わせの場所で生まれ育った」*9からこそ出せる鬼気せまる舞踏に、主人公・村尾潤平は圧倒され、ひるがえって日本でのほほんと暮らしてきた自分の何もなさに悩みます。

 そこから潤平は、自分の人生を見つめ直すことで表現者として一皮をむけていくのですが、そうして改めて直視してみると、かれの半生もまたなかなか谷あり山ありでした。

 姉がやっていたバレエを自分もやってみたいと言った小学生時代に「男の映画」アクション映画監督であった父から否定され、「男なのに?」と同級生からもバカにされたこと。それでもやろうとしたけれど、父の急死によってそんなことを言ってられなくなってしまったこと(映像業界のブラック労働環境、たとえば『仮面ライダーリバイス』の製作現場の告発が先日も話題となりましたね)。「のほほん」とは言い条、潤平が学校で送る「スポーツ万能、トークも面白い陽キャ」という人物像は、刺傷沙汰までおきるレベルまで空気の張りつめたスクールカーストの檻に嵌まり込んで抜け出せないということでもあります……かれの鬱屈は、日本がかかえる男女観や社会の問題でもある。

(……これはこれで重たいですが、そうなってくると山形氏の言がこだまもするわけです……。

 バレエをする現代日本人少年の苦悩は、たとえば先行するバレエ映画で描かれた同性愛について強い偏見があった80年代イギリスの、そして男社会である炭鉱町と比べていかほどのものか? とか。

 あるいは、タリバン政権下で禁じられていた風習“バチャ・バジ”が復活し、伝統舞踊をおどる10代少年ダンサーがまたアフガニスタンに戻ってきた……と言えば聞こえはよいけど、それは「多国籍軍とともにタリバン勢力と闘う司令官」が「妻の許しを得て少年を競り落とした」と公言し、「少年が望めばセックスもする」と言い放つ」2010年代アフガニスタンの現実と比べていかほどのものか? とか)

 

 物語において、キャラの人柄・人生とキャラの取り組みとが重なり合うことでエモーションを生み出す展開はよくある王道で、すでに書いてきたとおり『とめはねっ!』もそこを大なり小なり歩んでいます。

 そういう展開に毎度のことながら感動しているとふと、「フィクションって何なんだろう?」と疑問に思うこともある。

 劇的な展開に見合うだけの、劇的な劇中現実をキャラが背負うこととなる作品ってすくなくないじゃないですか。そちらのマンガとかあちらのマンガとか死別をあつかう劇中劇の役者が実人生で死別の経験者である作品は枚挙にいとまがありません。

 このマンガかのマンガも、WW2の悲惨とそれにシンクロするような劇団の物語が載せられています。

 逆に、"本物"の側で大きくハンドルを切って、劇的なものへと寄せることさえおこりうる。

 現代の巨匠が近年発表した……つっても2014年公開なので十年ちかくまえになるのか……とある実在創作者を主人公とした大傑作ミュージカル映画を観ると、「名作誕生の裏に、そんな悲劇的な内幕があったなんて……!」と心動かされ・そして創作者の業のふかさに驚かされもしますが、これには関係者だってびっくりしたことでしょう。それはじっさいの時系列をいじくることであたかもそんな経緯があったかのように見せた、映画のなかだけの衝撃の「事実」なのですから。*10

 けっきょくぼくらが「すごい」と打ちのめされるのは、圧倒的な「劇」と圧倒的な"本物"との交錯だけなんだろうか?

 

  圧倒的な"本物"を目の当たりにして何が書けるか?

 苦境を打開するために行った旅で井上氏の世界に囚われ、よりひどい混沌としたドツボにはまってしまった大江くんがもう一度筆をうごかす過程は、もしかすると呆気なく映るかもしれません。

 でもだからこそぼくは、『とめはねっ!』という作品世界の真価を見た心地になります。

 ぼんやりしているところに望月さんから喝をとばされ、顧問の先生と書道オタク談義をする。

 いつもの落ち着きとぼけた営みのなかで筆をもう一度うごかしていく。でも、いつもとちょっとちがうんだ。

 

 その画は、一条くんのシビアだけど正しい競技書道の枠内の攻略法を聞いていなければ書けないものですが、井上氏のあの枠外の作品を見ていなければ書けなかった情念が渦巻くものであり、さらには『とめはねっ!』にここまで付き合ってきた読者にとってはなるほどとうなづくものでさえある。

 

 この感想記事でぼくは、『とめはねっ!』には見開きページ全体を占めるような特大コマは、3度しかないと言いました。

 一つは、大江くんが砂浜にたまたま書いた大きな字面を、望月さんがたまたま発見するコマ。

 もう一つは、河合氏が連載をつづけていく途中で知った、井上有一『噫(ああ)横川国民学校』。

 ではもう一つは?*11

 

 大江くんたちの2年半の集大成である作品たちのとらえかた。

 これこそが『とめはねっ!』の美点だと思います。

 この寄り道のおおい原作マンガがたどったドラマ版と異なる書の道は、望月さんが大江くんの足を筆にして共作したあのしょうもない二重の「人」の字さえもが、なんとも味わい深く見えてくる、なにげなくささやかな日常にたいする驚嘆があります。

 書道からはなれた合宿あいまのレクリエーション。そこで大江くんがひとりで興じた砂の城遊びさえ、なにやら意味深長に見えてくる不思議があります。

 

 鈴里高校の日野ひろみ部長は、書かれていない余白もまた字の一部なのだと言います。

 ひょんなことから「かな」の先生として立った大江英子は、字だけでなく、雲母や金箔などが散らされた書の紙にまでこだわります。

 ぼくには『とめはねっ!』という漫画が、"本物"の書の周辺に無数のコマと余白を配して連綿とつづく一幅の長い長ーい書に思えてしかたないのでした。

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更新履歴

(誤字脱字修正は適宜)

01/05 22時  アップ 1万6千字

01/06 朝頃  追記 1万8千字  前衛書「かな」「近代詩文書」の劇中での論じられかたの共通性について補足した。

同日  23時  補足  こちらで確認した大コマ・特大コマの内訳を最後の脚注にしるした。

01/07 朝頃  追記 2万字  「終盤の展開を示唆しすぎるかな?」とオミットした部分を、「いやそのオミットは焼け石に水的措置だな」「ぼくの思う今作の独自性が他者に伝わるようにすべき」と追加した。(『ダンスール』の話から「けっきょくぼくらが「すごい」と打ちのめされるのは~」まで)

 

 

 

*1:見開き2ページにまたがるコマのうち、見開き2ページ全体を占めるほどではない程度の大きさ・場所のものを「大コマ」、それ一コマが見開き2ページ全体を占めるようなものを「特大コマ」とこの記事では言うこととします。漫画学的に適切なタームを知らなくてスミマセン。

*2:zzz_zzzzが確認した内訳は記事末部の脚注に記しておきます。

*3:以下は日経BP社刊、日経デザイン編『ロングセラーパッケージ大全』kindle版48%(位置No.169中81)~を参考にしました。

*4:

河合 彼女のキャラについては、ホントに取材して得たもののひとつですね。あれはなかなか頭の中だけでは思いつかないキャラです。(略)松山女子高校などを取材する過程で、実際に書道部の女の子たちの姿を見て作りあげたのが島ちゃんなんですよ。要は、良い意味でいまどきの女子高生じゃないという。そういう子たちが書道を一所懸命がんばっている姿を見て、漫画に出したいと思いました。

   小学館刊、『漫画家本vol.5 河合克敏本』p.77、「河合克敏 語り下ろし7万字超ロングインタビュー」第4回 とめはねっ! 鈴里高校書道部 より(略は引用者による)

*5:小学館刊(ヤングサンデーコミックス)、河合克敏とめはねっ! 鈴里高校書道部』7巻kindle版17%(位置No.208中 35)、「第七十七話 高野切」より

*6:そもそも全体的に背景音自体が少ない作品なので、これだけでも充分に印象的なのですが、この擬音の書き味自体は、黒木貴啓さんが『漫画家本vol.5 河合克敏本』p.142「モンキターン作品論②知られざる競艇の世界を「朝ドラ」で開く」で「『帯をギュッとね!』から次作『とめはねっ!』まで通して見られる河合克敏ならではの表現方法」と注目した「シンプル」な「ゴシック体風の白抜き文字」であり、その後に出る書の混沌とした書き味を際立たせる、清潔なイメージを与えもするかもしれません。

*7:ただしぼく自身は、賃金だけとってみたって性別がちがうだけでフルタイム労働者の年収が25%ちかく違う(結婚出産育児で退職⇒パートへ転職/休職で管理職コースから外れてしまうかたなどを考えたらもっと違う)社会はおおきな不平等だと思いますが。

*8:母は喪っているし、子供時代はカナダで日本にいる祖母と文通をしたり図書館にこもったりするような日々を送っていたらしい。父は定職に就かず家にさえ寄りつかず借金取りに追われて行方をくらますこともある。でもそのくらいの境遇では、井上氏の体験した圧倒的な"本物"にはかすんでしまう。

*9:小学館刊(ビッグコミックス)、ジョージ朝倉ダンス・ダンス・ダンスール』15巻kindle版11%(位置No.196中 21)、「第128幕」より。

*10:いや実際の映画の当該シーンを観てみると、「事実」の強さだけに頼らない、映画ならではの妙な含みもあったりするのですが。

*11:見開きページをまたいで伸びる大コマ特大コマについて、ぼくが確認した内訳を書いておきます。(「・」はトビラ絵なのでノーカウント、太字が特大コマ)

1巻

・1話トビラ

①=2話後ろから3ページ目、浜に書いた想い人の名前(右上に小さなコマ2つ)

②=5話で望月さんが長い「一」の字を書く姿に。(ページ上半分)

③=10話で地方大会の展示会場に。(ページ上半分、フカン構図)

5巻

④=52話で金子鷗亭『雨ニモマケズ』に(ページ上半分)

⑤=55話で鈴里の文化祭出し物に(ページ上半分)

6巻

⑥=61話で望月さんの幼馴染・一条くんたちが在籍する名門校・大分豊後高校書道部の旅先である世界遺産竜門石窟に(ページ上半分)

7巻

⑦=65話で書の甲子園会場に(ページ上2/3、アオリ構図)

8巻

・100話トビラ(ゆかりと望月、新入生ふたり)

10巻

⑧=118話で鈴里の修学旅行・大江くん望月さんの自由行動さきである泉谷博古館の展示会場に(ページ上半分)

12巻

・145話トビラ

⑨=150話でビーチに立つ女性陣に

13巻

⑩=165話で大江くんが行く群馬県立近代美術館に(ページ上半分より少し多い)

⑪=同165話で井上有一『噫横川国民学校』に(ページ上から3/4)