すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

昨年秋~正月にアップした感想文の感想戦と、1月中に買いたいもの

 あけましておめでとうございます。

 去年は日記のアップもぐだぐだになってしまって恥ずかしい限りです。着々と放置・閉鎖の道をあゆんでいますね……。(ブログの平均寿命とか、一般的な更新頻度量推移グラフとかあったら多分こんな感じなんだろうな。いやその線上に乗れてれば万々歳だな。下回ってる可能性は大いにある)

 来週からは日記でもなんでも、毎週月曜になにかアップするようがんばっていきます。

 アップしてない日記はいまなお一向に未整理です。とりあえず日記以外の記事3本をアップした雑感や、itunesやAmazonPrimeビデオの1月セール品についてなどは考えがある程度まとまりました。

 2万7千 3万1千字くらい。

 

 

1022(金)

 ■書きもの■

  『訳文;「そこにはなんの報酬もありません。このゲームが何を為していてどう機能しているのか、ただただ見ていたかったのです」ジェンキンズ、カーソン、ホッキング、『Outer Wilds』へつづく2,3の論考』をアップしました

zzz-zzzz.hatenablog.com

 10/12くらいから訳文書きながら読んでいた3論考を勝手にまとめて引用紹介したうえで、アレコレ感想を追加した記事をアップしました。

(脚注を足したり訳文後の感想文などを書き足したりして、だいたい終わったのが10/28のこと。ちょこちょこ訳し間違いを直したりこなれてないけどそのまま放置した文章があり、11/25にもしょっぱなの文章が変だったことに気づいて直したりしましたが、まだまだあるんだろうな……)

 ちょいまえの記事から原文と併記しているせいもあり、記事はどんどんややこしくなっていて、タイトルの「訳文」がだんだん「呪文」に見えてきました……。

 

 訳し終わってから気づいたのですが、十年以上まえのそんな長くないエッセイです、ジェンキンズ氏の論考『Game Design as Narrative Architecture』は日本人研究者によるイベントや論文、blog、そして邦訳のある外国人研究者の書籍でなんどか紹介されていたらしい。そして知らないのは門外漢であるぼくだけのようでした。

(もしかしたらゼミとかクリエイターのあいだでは、訳したテクストが保管・共有されていたりするのかもしれない。また下記のとおり、「そもそも翻訳なんて不要・ふつうに原文で読める」という人も多そう)

 そうなってくると紹介する意義があるのか心配になりましたが、でも、その紹介は抜粋であったり、抜粋かつ批判的検討であったり、あるいは概観的な要約であっても抜け落ちてしまうものはあり、やっぱり本文全文を読むのとではまったくちがった印象をもちました。

 ということでそこは問題なさそう。よかったっすねぇ。*1

 また、そこがクリアされても、前回までの記事とちがって機械翻訳にかけやすい文章/掲載ページなので、ぼくの英検3級+Google翻訳の言語力が壁となります。

 元ページをGoogle翻訳ボタンを押してもらって読んでもらえばそれで事足りるんすよね。

 ということでblog記事自体になにか独自の価値を出すべく、文中に出てきた固有名詞などにかんする(原文にない)補足をおこえるところはおこなってみましたが……どこまでフォローできたかなぁ。

 とりあえず知らない分野の知らない本をそれなりに買って関連情報をつなげたので、それが正しいパースペクティブにのっているかどうかはともかくとして、個人的にはがんばった満足感があります。

 

 さて訳し読んだ順は、ジェンキンズ⇒ ホッキング⇒ カーソン氏という順。時系列順ならカーソン⇒ ジェンキンズ⇒ ホッキングです。

 けっきょく記事ではそのどちらでもない順番で並べましたが、これは……

 重たいけどトピックひとつひとつはわりあいコンパクトな概論的なお話(ジェンキンズ)⇒ 前話でなされたトピックのうちひとつにかんする詳細な知見(カーソン)⇒ 将来像をあれこれ提示する夢のある話(ホッキング)

 ……って形で進むようなイメージです。

 

zzz-zzzz.hatenablog.com

 記事タイトルは、『Outer Wilds』ならびにその制作論文(=まえに当blogで勝手に紹介した論考)にかんする前日譚的な思考の集積なので、前回の記事と関連性があったほうがわかりやすいし面白い。

 前回の記事タイトルに「報酬」という語がふくまれていた(というか論文の内容も、「今までにない特殊なタイプの報酬系から成るゲームを作ろう」というものな)ので、「(ゲームの必須クエストとしてではなく、)趣味で自発的におこなった冒険の"報酬"」にかんするホッキング氏の言(=というか前回記事の論文は、このホッキング氏が名づけられなかった上述の類の冒険が報酬系となるようなゲームを作ろうというものだった。)をひっぱりました。

 単純に好きな文章であれば、この一節がすきです。エモいものによわいですね。

 れはゲームのシステムやゲームエンジンが作り出す、このゲームの美です。プレイヤーが踏み入れるのはある種の未踏の領域です。午後6時のこの森のなかのこの岩のこの方角から、あの神の光を、時間をとって立ち止まって見た者はだれ一人としていないのです。

 It's the systems of the game and the game engine that have made this game beautiful. The player is kind of going into uncharted territory. No one ever took the time to stop and look in this direction from this rock in this forest at 6:00 in the afternoon and see the God rays.

 

 3論考を読んで目からウロコが落ちたのは、「(3DCG空間を動き回るタイプの)ゲームは、小説・映画よりむしろ、遊園地のアトラクションから学べるところが多いんじゃないか?」という知見!

 感想文ではつまみ食いだけして積んでた遊園地本をいくつか読んで、掘り下げることとしました。うまいことその後の文章につなげられた気がします(が、ちょっと拙速に結論へ飛びつきすぎてるかもしれない)

 また、ジェンキンズ氏のお話がいくら興味深くてもおもしろくても、ゲーム制作現場へじっさいに活きている足跡みたいなものが見えないのであれば、「それって結局机上の空論、的外れなアレなのでは?」みたいなお話になってきそうだという危惧もいだきました。

 そこで、なんかツイッターで詳しい方が「なんかそういうお話があるんだって」とつぶやいていたCONTROL』とブルータリズム建築のお話や、ゲームウォッチさんがGDC公演の聴取レポ記事を書いていたットマン』シリーズのゲームデザインを取り上げることで何とか線が見えないかなぁとやりました。

 つまりまるきり独力のdigではなく、継ぎ足し継ぎ接ぎの即席修理感のあるコピーキャットのスカベンジャーで、最悪ぼくが途中で力尽きようとゲームウォッチさんの記事を張るだけでカッコがつくという打算もある。

 でも『CONTROL』のほうは『OW』とおなじ賞レースを競っていたり、『ヒットマン』も関連インタビューを漁ってみたら、ジェンキンズ氏らが書いたのとかなり近い発言も見つけることができたりして、いい具合に収まってくれました。

 

 今回紹介した論考は、単体で読んでも面白い論考だと思うんですけど、それでも記事でわざわざ一緒くたに紐づけたのは、(論考によっては、うしろ二つは単体だとそこまでボリュームが大きくないということもありますが)この3つでそのまま、

まったくそうだと思わせずにDLCの感想を書く」

 みたいなことができそうだな~と思ったからです。

 今回の観点と関連しつつもまた別口で話せそうなことがあるので、いつか記事を書きたいですな。(とか言って3ヶ月そろそろ経っちゃうんですが……)

 

 

1108(月)

 ■読みもの■書きもの■

  伴名練エッセイ『幻の短編集』などから、じぶんの感想文をふりかえる

www.hayakawabooks.com

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 各人にそれぞれ、「語りたいラファティ」があったので、ど真ん中のほら話は他の人に任せて、「ファニーフィンガーズ」「忘れた偽足」「最後の天文学者」のようなウエットな作品、「おかしくてかなしい」ラファティについて語るのが私の役目だった。

   東京創元社刊(創元SF文庫)、『年刊 日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』p.305「一蓮托掌(R・×・ラ×ァ×ィ)」■著者のことば 伴名 練より

 かつて伴名氏は、エッセイ内でもふれられた『一蓮托掌(R・×・ラ×ァ×ィ)』にかんして以上のコメントを残されていましたが、ここで言う「おかしい」の意味するところは、既存のラファティ短編集裏表紙説明(「抱腹絶倒」)などから想像される「funny」ではなく(そういう要素があることは否定しないにせよ)むしろ「strange」とか「weird」とか「crazy」のほうだった……という感じに読めるエッセイでした。

 

 ラファティ氏に限らず、あるていど前評判が固まっている(古典的)作品について自分独自の意見をもつのはむずかしい。

 じぶんの価値観を正直に述べるというよりも、大きい声や多くの声に知らず知らずに従ってしまう部分がある気がします。

 

 zzz_zzzzはこのblogで伴名作品の感想をしたためたさい、引用・参照がなされたり関係しそうな『町かどの穴』などラファティ作品についていくらか書いたことがありますが。おなじくblogで取りあげたSFのうちイーガン作品(自分でそれなりに読んでる。)にかんして何か言うのとくらべて、ふにゃふにゃした部分がどうしても出てしまった気がします。

 ぼくが読んだいくつかの作品だけでも、ふつうに怖いとか不気味とか言っていいものがあれこれある。じっさい(スカイ)については「ただただ不気味でこわかった」と言い切りました。

 伴名氏や坂永氏が語っているとおりかどの穴』だって怖いし不気味です。

 読み始めはとくに光景や劇中人物のとらえかたにギョッとさせられるし、それをほがらかに述べる語り口の異質さゆえに「え、これどんなお話として読めばいいの……?」と途方に暮れるレベルの戸惑いがありました。

 でも、「繰り返しはギャグの基本」とえらいひとが言っていたとおり、ギョッとする異常も次第に(あるいは即座に?)繰り返される(異質な)日常に呑み込まれていくし、そして丸カッコやらのふんだんに盛り込まれた地の文をかんがみるに、身振り手振りつきの読み聞かせであれば/そのような話者が想像できれば、これはけっこう楽しそうだし実際たのしい「お話」として受け入れられる。

七転八倒ドタバタコメディや不条理喜劇とどこまで違うのか? という疑問もある。

 つまり落語の狗裁き』やあるいは(記事のラファティ別作にかんする話題でとりあげた)ルネ・クレール監督ごとの美女』だとか、あるいはチャップリンキートンマルクス兄弟によるサイレント映画の喜劇たちとどこまで違うのか? と。

 また、最近の/日本の作品でも、たとえば毎回初配信をして配信後に死亡フラグを立てるバーチャルYoutuberげんげんの配信は、笑えないかといったら普通に笑える。

www.youtube.com

www.nicovideo.jp

 まじに事故ってるであろうにじさんじバーチャルライバー文野環さんの卒業式配信は、当初こそアナウンサーのビル落下中継や田んぼ相撲中継などのような恐ろしさがあるものの、最終的には(恐ろしいのは恐ろしいままに)笑えてしまう。(繰り返しって本当にギャグの基本だな……)

 また、名作として知られる作品でも昔の喜劇やドラマのなかには、ぼくにとって笑えなかったりノレなかったりするんだけど、当時の人にとってポピュラーだったという事実をかんがみれば、受けとる側が変わったんではないか? じぶんの物差しで判断していいのか? という疑問も当然しょうじる}

 ……ということで、zzz_zzzzの『町かどの穴』の感想としては、

逆説ですが、不意打ちは「不意打ちで」と書くと読む側にとって不意打ちじゃなくなるんですね。ギャップのある文章間を、異常を伝えることばでつなぐと文の前後のショックがすくなくなります。たとえば……

 その夕方、ホーマー・フースは家路をたどり、金色の常套句へと帰りついた――無二の親友である駄犬、幸せなてんやわんやの毎日の舞台である完全無欠の家、いとしい妻(略)

(略)ホーマーはいとおしげにレジナを抱きしめ、組み伏せ、大きなやさしいひづめで踏みつけて、彼女を(どうやら)むさぼり食いはじめた。

    早川書房刊(ハヤカワ文庫SF)、R・A・ラファティ著『九百人のお祖母さん』p.415~6、「町かどの穴」より

  ……という文章がもし「組み伏せ、人外の怪物らしく大きなやさしいひづめで踏みつけて、」だったらどうでしょうか? 驚きもなにもなくなってしまう。前者に類するのが『なめ、敵』書き出し起床時の文章で、後者のように繋がれているのが登校の文章です。

 とショッキングな展開がいかにショッキングか、その一端を具体的に取り上げたうえで、「強烈な違和感を与えてくれ」る「ある種つき放したような視点の笑い話ホラ話」で、「これを受けて『なめ、敵』のような葉月らの心情に寄り添った青春ドラマが出てくる……というのはかなり不思議」というようなお話をしました。

 

 さて上の引用で省略したなかには、ラファティアンの心の文句だったらしい「ゼッキョー」場面があったりするのですが、伴名氏や坂永氏のエッセイとその反響を読むに、そこに対して、

「"妻がおかしなひとなのかな?"と一瞬思わせたうえで、ただ単に劇中現実がおかしいだけだったというもっと不気味な真実が即座に提示される、めまいのするような揺り動きがこの引用では味わえないじゃないか!」

 という不満をいだいたかたはいるかもしれませんし。この、異質な情報提示が(こちらの認識も未整理なうちに)有無も言わさず異様な速度で展開されていくところに注目して、『空(スカイ)にも通じる恐ろしさとして取り上げてもよかったかもしれません。

 また、そこを抜きにしても、

「たとえ見てくれが笑い話的な口ぶりだとしても、その語り手が読者と"一般的な感覚"を共有しているとは限らないのでは? ズレたセンスの人がズレたまま語ることだってあるのでは?」

 といった話もできそうです。

実際語り手も「××はさっき死んだはずでは?」とツッコミを入れるし、爆死したはずの人物が次の章では普通に復活している。ギャグ時空というわけであるが、笑っているのは悪魔のような気もする。

   呉衣悠介「宇宙舟歌」評(カモガワ編集室刊行・編集『かもがわGブックスvol.3 <未来の文学>完結記念号』p.13収録)(太字強調は引用者による)

 ……との、『かもがわGブックスvol.3 <未来の文学>完結記念号』収録「宇宙舟歌」評の呉衣悠介氏による反語的疑問は端的なまとめですな。

 

 もっと卑近な例だとたとえば、遠方でしかもオンオフの切り替えのむずかしい現場で単身赴任仕事をこなす若人が、そんな激務のなかでも上司が気を利かせてくれて新妻を呼び寄せ新婚旅行させてくれたり、つぶれそうな同僚を察して仕事をほかへ割り振れるようになったり、サボってばかりの赴任先の外国人労働者をうまく仕事してくれるようコミュニケーションを取れるようになった、充実した毎日のお話だけど。

 そうして語られる日々の手ごたえの詳細は、何<個>もの対象と面と向かっていたのを後ろを向かせるようになり、さらには最初こそ頭を撃って脳漿をぶちまけさせていたのが首を撃つことを覚えて周囲や自分を汚さないようにできるようになったとか、現地でこちらへ寝返った外国人「協力者」にそうした直接仕事を押し付けるようになった~とかいう――つまりWW2大戦下のナチスドイツのユダヤ人処刑業務に従事する警察予備大隊のひとりでした……とか。

(『普通の人びと』で、まじに「単身赴任」先でハネムーンしたかたが紹介されてます)

 そこまで来ればさすがにぼくだって、いくら語り手が笑い話として語ろうとも、ドン引く部分が出てきそうです。

 ラファティのえがきだすものは、そうして生み出される笑いは、『空襲と文学』でゼーバルトが言ったような表現と並べてみてもよさそうです。直視/理解するには難しすぎるゴロっとした不気味ななにかにたいして、笑って済ませるしかないというような感覚ですね。

 空襲やホロコーストなどにたいしてその被害者がユーモアなり諧謔なり皮肉なりへ転換してしまって直視しない(できない)傾向を、ゼーバルトは反面教師として取り上げたわけですが。ラファティ作品に対しても、ユーモアとしてとらえるのではなく、自分のファーストインプレッションを信じて真正面から「怖い」と言ってみる、それがどのように怖いか具体的に検討してみる……というのが大事だったのかもしれません。

 

 人を食ったようなお話として一部の映画ファンにとって有名なオリヴェイラニバイシュ』の結末は黒沢清さんらがどう言っていようともニヤニヤしながら観てしまいますが、『町かどの穴』をあそこまでのほほんと読んでいられたかというとそれは違う

 この辺のちがいに、もっと鋭く感じたり述べたりできるようになったほうが楽しい時間が過ごせそうではあります。

 

   ▽厭ミスはよく聞くけど厭エス(SF)特集はあんまり見かけない気がする。逆に……

 SFは物語的な気持ちよさにとらわれない、身もふたもない/過酷な現実をつきつけられるジャンルである(ありそうな)一方で伊藤計劃作品が売れたのは、「早世の/非業の天才」ブーストだけじゃないと思うんすよね)せつなかったり熱かったりするエモい作品も普通にオールタイムベストに名を連ねるし伊藤計劃作品が売れたのは、「早世の/非業の天才」ブーストは否定できませんよね)「Born sexy, Yesterday」という批判的言及が話題になったとおり、願望充足的な作品もまた他ジャンルとおなじく人気であったりする。(ぼくは快楽に流される人間なので、そういった作品が大好きです)

 

 後味のわるかったり厭な事実がどんどん明らかになっていったりするミステリー、「厭ミス」が一時期はやりましたね。

 湊かなえ作品の映像化ブームこそ小康となった感がありますが、でも『ライフ』などいじめ漫画や、『チャングムの誓い』やらの小公女系物語など、ストレスフルな物語はどの時代も割と人気があるように思います。

 

 ラファティに限定せずとも、厭なSF「厭エス」はわりと広い世代に手を取ってもらえそうな気がします。でも、そもそもそういう特集ってあったのかな? あんまりやられてないような……。ぱっと「コレあったよね!」ってのが思いつきません。

 そして逆に、底抜けに明るい「テクノロジー万歳!」「知識SUGEEE!」みたいな作品特集もまた、あんまり見かけたことがない気がします。

 

 ということで伴名氏の次のアンソロジーは、『日本SFの臨界点〔暗い未来ディストピア〕篇/〔明るい未来ユートピア〕篇』とニラみました。

(もっと実作を単著を出してほしい、長編が読んでみたいという声は絶対あるでしょうけど、今年の活躍から、その願いはべつにトレードオフではなく両立できる、つまり「アンソロ組みつつ実作もやる手足の速さ逞しさがふつうにあるぞこのかた」というのがわかったので、雑な読者としてはふてぶてしく望んでいくぞ!)

 『〔カスによる私利私欲の乱用篇/すてきな未来のための献身篇〕』とかでもよい。

 いや『〔厭SF篇/好SF篇〕』くらいのほうがスッキリしてるか――作家篇ではタイトルに「篇」は除かれてたのだから――いやいや、いっそのこと、『〔厭/好〕』でいい気がする。

 

 

 ■書きもの■

  『作品名』を「本作」にすると、意外と文字数節約になる

 はてなblogのひと記事当たりの文字数は17万字余(空白も1文字換算されるらしい)くらいらしく、ギリギリまで書くと追記や訂正事項があったときに困る。

 どこを削るかという問題がでてくる。文章内容を見直すのは経験や才能のあるひとのやることで、そういう実力がないから17万字まで嵩んでしまうひとに推敲は無理

 そこで単純だけど……

  • 引用・参考文献提示の作者名とかを削ってみる
  • 『(作品名)』を「今作」に置換してみる

 ……と、17万字くらい長い文章ともなれば、けっこう活きる。

{たとえば僕の記事なら、"『"で記事内検索をかけると、1500件ヒットする。「『何某か~』」が「今作」になった程度の節約、一件あたり4字くらい節約されるとしても、この件数だと6000字が削れる。

 面倒くさがって80件くらいでやめたとしても320字になる。案外でかい}

 問題点として

「"id."とか"op.cit."てなんだよ……? あっ"前掲書"のことか。……で、それはこの本のどこで掲示されたんだよ? こっちが探さないといけないんすか?」

 と硬い本を読むさいにストレスがたまるあの面倒が生じる。

 このへんのイライラをやわらげられるかもしれない対策としては、(僕の勘違いかもしれないけれど)はてなblogではhtmlタグとかの機械語は制限文字数のカウント外っぽいので、ザクザク省略した引用文献に対しては、出版元の商品ページとか国立国会図書館の書誌情報とかへのリンクを貼り付けておくのが良いかもしれない。

(ただし、ハヤカワオンラインのように、絶版・品切れの本を商品紹介ページごと削除するサイトも無いわけではなく、国立国会図書館が安定かもしれない)

 

 

1207(火)

 ■書きものと考えもの■

  過去にアップした『伊藤計劃トリビュート』感想文に追記をしました。

zzz-zzzz.hatenablog.com

 以前に書いた『伊藤計劃トリビュート』感想文に追記をしました。

 本編2万字に対し、今回の追記は7万字。柔軟に書き換えられるblogというメディアなんですから、そういう記事もたまにはあったって良い気はします。

(数字にするとイカついですけど足し算の妙ですね。

 19作の感想に6万字ついやしているので一作あたり3000字程度という計算となり、実はそこまで重たくない。

 2万字の『トリビュート』感想は8作だから割れば2500字で、そこまで大差がないらしい。追記のほうはあらすじを書くようにしたり、引用がおおく参照元の出典も明記したりしているから、むしろ感想パートの実質文量は本編よりもすくないかもしれない)

 『トリビュート』前後の文筆活動をフォローして、各作の紹介・感想文もいっしょに載せてみた感じですね。

 アクセス経路が作品ごとにバラバラなこともあって(また、それでなくてもなんとなく)「(序盤の)あらすじもきちんと書いておいたほうがよいだろう」と色々書いたら長くなり申した。

(過去の日記のどこかで書いたとおり、ある小説紹介ネットラジオを聞いてなにがなんだかボンヤリしてよくわからなかった経験から、どんな作品かあらすじとして一言でも最初に触れておいたほうが門外漢にとって入りやすそうだと感じたので)

 初投稿時の感想文本編が「一冊の本に載った作品の感想である」ということがきちんと念頭にあって一種のペース配分ができていたところが、追記の感想文は一作一作べつべつに出会って読んで都度かきすすめていったことで、そういう統制はあまりはたらかなかった感じがします。

 一部似たような感想が作品をまたいで登場してますね。ぼくにとっては自分の評価軸の一貫性がわかって悪くないですけど、ひとつの記事として読み通すのは冗長でかったるい部分が出てしまったかもしれません。

 

***

 

 期せずして時代風俗のスケッチ的要素が出てきたのが面白かったです。

 環境知能であったり、『艦隊これくしょん』であったり、『応仁の乱』ブームであったり、『フリースタイルダンジョン』などラップブームであったり、COVID-19であったり……いろんなことがあったんだなぁと思いました。

 

 境知能のすすめ』を知れた/読めたのは収穫でした。又聞きで知ってはいたけど、研究者当人がどう考えているのかわかってなかった当時のテクノロジーについていろいろ勉強できました。

 『虐殺器官』『ハーモニー』はフィクションであったり当時考えられていたことだったりから着想を得たり発展させたりするものが無数にある作品です。

 だからだれかが当時の文化やテクノロジーを取材したうえでなにか創作しようとすれば、たとえ伊藤作品を未読であろうとカブってくる部分が自然にでてきてしまうわけなのですが、しかし2021年の書店にいまもあるのは伊藤計劃作品だけ。

 そうした現状から手ごろなものをつかって考え事をすると、ぜんぶがぜんぶ伊藤作品の影響とするのがなんだか妥当に思えてしまう危険性がある。

 そうした早計な飛びつきについて「待てよ?」といったん立ち止まって見るようにしてみる機会がもらえてよかったです。

 

   ▽既読者向けの感想文か、未読者ふくむ不特定多数に見られてもいい書評・広告的文章か? 決めかねる記事のスタンス

 じぶんの「感想文」のスタンスが毎度てきとうで悩んでしまいますね。

 「未読者に万が一読まれても興をそがないように……」みたいな思考が不器用者のなかに浮かんでしまった結果、いったい感想なんだか紹介なんだかよくわからない文章がうみだされてしまった。

「これはこう書く!」と決めてそうしている分にはいいでしょう。

 でも、ただ単に指針をきめずにぼんやり書いてしまった結果だったり、あるいはコントロールがきかないだけだったりするので、困ってしまいますね……。

 既読者が読むとかゆいところに手が届かず、だからといって未読者がよんでもそれはそれで興をそがれるネタバレがあったり……と、帯に短し襷に長しなハンパな文章になってしまっている気がする。

 

 たとえばジェットコースター的な作劇だとか、ある事物について物語がすすんでいくと初めとは別の顔が見えてきたりする作劇だとかを褒めようとして、章ごとにトーンがどのように変化していくのかを書いてしまったんですが、ここはもっとうまいやり口を身につけないといけないなと思いました。

 この感想経由で作品本編を手に取ってくれたかたが万一でてくれたとしましょう。

 でも、ぼくがたのしんだ「どこからどこへ進むか分からない」変化は、その人は楽しめないものとなってしまう。

 「そのように楽しみました」と述べるzzz_zzzzの上の文章を読んでから言及先の作品本編へすすんだかたにとってそのパートは、「zzz_zzzzが言ったとおりにこれがこうなって、あれがああなったな」とうなづくだけの既知情報の「確認」になってしまう。

 この辺について、うまいやりかたを見つけないといけないなぁと思いました。

 ようやっと書評の指南書とか定石集とかを読む必要性をかんじました。

 

***

 

 ということでちょっと手近な指南書を読んでみました。

 そういった部分についていかに語るかは、プロの書評や、ネタバレしないよう気をつけている信条の書評家(たとえば豊﨑由美さん)でも難儀されているように見受けられ、「経験にとぼしく頭もわるい木っ端ブロガーではかなり難しいことなんじゃないか?」と悩みはいっそう深まりました。

(いや逆か? むずかしすぎるから、取るべきスタンスは明確になったかもしれない。

「一挙両得なんてムシのよい話は「ない」と考えてよい。ぼくが書きたいことの方向からすればやっぱり既読者向けのネタバレ全開の感想文となるのではないか」

 という感じになりました)

 

 たとえば豊﨑氏の『リンさんの小さな子』書評なんて、「鬼の目にも涙。落涙二段構えのする不思議な読後感をお試しあれ」が評の見出しですよ。涙するシーンが2段構えで登場するらしい。しかも「ベニーニは逝ってよし。でも、リンさんは逝っちゃイヤ!」とのことなんで、"生き死に"関係らしい。

 長いキャリアのなかで豊﨑氏の考えも変わっていったようで、ッポンの書評』を著した2011年ごろにはこのようなお話を述べ、過去の評の反省点を具体的に記しさえしてくれていますが……

「作者が読者のために仕掛けたストーリー上の驚きを、読者の注意を喚起するような書き方ならいざしらず、”オレはこの仕掛けに気づいたぜ”と手柄を誇示するがごとく明かすのはよくない。書評においては、読者から本を読む愉しみをほんのわずかでも奪うことがあってはならない」

 以前、わたしはロシアの現代作家ウラジーミル・ソローキンの大長編『ロマン』(国書刊行会をこんな風に紹介したことがあります。

     *

(略)

 舞台は一九世紀末ロシアの農村。主人公のプチブル青年ロマンは都会生活に見切りをつけて、画家としての第二の人生を送るために、この故郷の村に帰ってくる。容器に酒を酌み交わしながら美しい理想を語る親戚や知人に温かく迎えられたロマンは、やがて森番の娘と宿命の恋に落ちるのだが――。ⅠⅡ巻合わせて八〇〇ページ近くある大作、その六四一ページまでは先述した一九世紀ロシア文学の作法にのっとった行儀のいい、しかし二一世紀の今となっては少々退屈な物語にすぎない。でも、そこまで律儀にストーリーを追ってきた読者だけが特権的に享受できる驚愕の展開が六四一ページ以降に待ちかまえているのだ。淡々としているからこそ身も毛もよだつ超過激な筆致によって、ロシア文学とそのエクリチュールの歴史、小説(ロマン)の構造そのものを暴力的に解体していく。一〇〇ページ余りの描写のすさまじさといったら茫然自失必至! ポストモダン小説が生み出した鬼っ子ともいうべき忌まわしい傑作なのである。

     *

 すると、この原稿を読んだ友人に言われたんです。「ラストに驚きが仕掛けられてることは明かしてほしくなかったなあ」って。かなりショックを受けました。それも書いちゃいけなかったら、書評の"評"の部分をどうしたらいいわけ? 少しふてくされもしました。でも、今なら「そうだね。もうちょっとボカした書き方が出来るはずだよね」と答えられる自分がいます。

   光文社刊(光文社新書)、豊﨑由美『ニッポンの書評』kindle版22%(位置No.2604中 540)、「第5講 日本と海外、書評の違い」より(略は引用者による)

 ……この長い助走⇔終盤の語り/展開のコントラストが魅力であると読んだ作品について、どうやってボカすんだろう。かなり至難のわざなのではないでしょうか?

(「一見ふるきよきロシア文学に思えますが……」という類いの文言は、上の基準だとネタバレだよな。ロマンの解体とかポストモダン小説もダメでしょう)

「現在の豊﨑氏は、これについてどういう書き方をするんだろう」

 と気になりますが、『ロマン』書評のリメイクなどは収録されていないのでカンニングできない(苦笑)

 

 また、もっと物語物語した部分についても、同著を読むとむずかしさに頭をかかえてしまう。

 『ニッポンの書評』「第14講」で、豊﨑氏はある新聞に載った書評を批判します。

 それは続き物のシリーズについて、登場人物が2部(その時点では続刊の告知はない。)のラストで具体的にどうなるかを記した内容でした。

新聞書評を読むのは取り上げられている本を未読の方がほとんどです。(略。もとの文では登場人物の具体名が書かれていたので伏せました。)の関係やラスト(わたしはこの小説には絶対続きがあると思いますが)*2を知って驚いたり、悲しんだりする読者の初読の快感の権利を奪う書評を、わたしは良いとは思えないのです

   光文社刊(光文社新書)、豊﨑由美『ニッポンの書評』kindle版65%(位置No.2604中 1673)、第14講より(略・伏せた部分の補足は引用者による)

 ……というのが主な批判理由ですが、では豊﨑氏が、批判した評とおなじ文量でおなじ作品を書評するとどうなるかといえば……

(略)読んで面白い物語の中に、単純な善悪二元論では把握できなくなった世界に生きる困難という大きくて重いテーマを響かせる。(略)

   光文社刊(光文社新書)、豊﨑由美『ニッポンの書評』kindle版64%(位置No.2604中 1640)、第14講より(略は引用者による)

 ……となる。

 具体的にどう、というのを明かしたわけではないですが、この書評でさえも、

「"大きくて重いテーマを響かせる"……つまり、なんかメインキャラがひどい目に遭うってことか?」

 と論じられた作品がどんな展開をむかえるか書評読者の想像(予想)をある程度限定してしまう文章に、けっきょくなってしまっている気がしなくもありません。

 重いテーマを響かせる展開なんて多種多様なので、豊﨑氏みたいに質と物量をこなすプロのことばならそれで良いのかも。

 では、ぼくのようなボキャブラリーの貧弱なやからがその手つきを倣おうとしたら?

 「"重い読後感"……まえにも別の作品の感想でこのひと書いてたな。その時と同じく、人が死ぬってことか?」とより一層示唆的なものになってしまいそう。

 

***

 

 『伊藤トリビュート』の追記記事について話をもどします。今年の春ごろには更新できるだろうと思っていましたが、見通しが甘かった。

「初アップした8月に投稿すれば丸2年の節目だな。そこでなんとか……」

 とラインを引き下げましたが、ふつうにズルズル伸びてしまった。

 その混乱がアップした文章にも大なり小なり残っていて、初アップ月から4つも月の変わった時分を「※(投稿から)2年の節目」などと平然と言うところからしてそう。

(※『トリビュート』発表から10周年という、本当にきりのよい数字をあとから見つけたので、いまの文章はそんなに違和感ないはず……)

〔ゲーマー・ストリーマーチームZETA DIVISIONに加入することとなったk4sen氏が、同時期に加入したStylishNoob氏の発表配信{配信途中に「お腹へってきたな」と(ZETAのスポンサーであるカップヌードルを取り出し「ちょうど30周年だな」とお湯を注いで、湯気でホワイトアウトした直後に加入動画へと切り替わる}を完コピした結果、スポンサーであるモンスターエナジーを取り出したときに「ちょうど19周年だな」とすげえ区切りわるい数字にそう言わざるをえなくなったみたいな不自然な箇所が出てしまいました……〕

 更新時は『伊藤計劃トリビュート』参加者も書評や創作で参加したモガワGブックスVol.3<未来の文学>完結記念号』が増刷分についてBOOTHCAVA BooKSさまにて予約受付中の時分だったので、「それを逃してしまうよりはたしょう不細工でも仕方なし!」の精神です。

 

 はてなblogはリンクを張ると相手に通知が飛んでしまうらしいので、執筆者直営はてなblog記事へのリンクは一部削除しました。

 執筆者と相互ではてなblog読者となっている関係上なれあいのにおいがどうしても出てしまうのがアレかな~と思ったのと、わざわざ本人に「書きました」と知らしめるみたいなのもまたなんか気恥ずかしいので。

 ただ浅知恵むなしく、追記したその日のうちに気づかれたようで、

「パブリックサーチ(プログラム?)の力をおれは全然わかってなかった……! テクノロジーから取り残される底辺……!」

 となりました。

 が、結局これ、ぼくがリンクを削除しきれなかっただけっぽかった。

(知識とか関係なしに、ただただ凡ミスだった底辺中の底辺……!)

 

 

1110(水)

 ■読みもの■

  伴名練著「解説──最後のレナディアン語通訳」読書メモ

 それは何ですか;

 論文風小説アンソロジー『異常論文』におさめられた伴名錬さんによる短編です。

 読む人への注意;

 巻末をかざる作品であり、編者の樋口恭介氏のツイッターによれば意図してそこへ置いたとのことなので、順に通読して味わっていくのがよいかもしれません。

 

 読んでみた感想;

(伴名氏の過去作にかんする感想文をコピペしたりしたので、既読のかたは同じ話をまた読まされることになって申し訳ない)

 現代日本に生まれた人工言語レナディアン(劇中独自言語)。これによって描かれたテキストのアンソロジーを編んだ人による解説風小説です。

 ふつうの解説がそうなように、作中テキストの内容や作者の来歴、執筆経緯などが解説されていくわけなのですが(その点でオルタナティブな明治のSF作家の来歴とその作品を解説していった伴名氏の過去作「ゼロ年代の臨界点」にちかい)、論じる対象の使用言語が人工言語である関係上、このレナディアン語についてもその言語的特徴や人工言語の創造神「アル」、レナディアン語の栄枯盛衰がまた解説されていくこととなります。

 現代日本で生まれた人工言語といえば、セレン・アルバザードがつくった人工言語アルカなんてのがあり、アルカ語をもちいた自主制作映像作品なども拝むことができましたが、今作はそれが着想元のひとつなんでしょうね。観測圏内だと翻訳家の柳下毅一郎さん(だったか円城塔さんだったか……)が話題にしていたような記憶がありますが、そうした特殊な本や言語に興味のあるかた方面とは別口で、TVの全国ネットで話題にされたこともありました。

tanukipedia.fandom.com

 上述リンク先の解説によればアルカは一語一語の意味が限定的で、他言語話者がもちいても内容のブレがすくないのが特徴だといいます。

 しかし「全てのレナディアン人の父/母/恋人たる創造神アル」による作中の人工言語レナディアンはそうではない。一般的な自然言語がそうであるように変わりゆく世界に合わせて言葉もどんどん「改鋳」されていくそうで、そのせいかレナディアン語によることばのつらなりは、自然言語としてはありえないほど多義的な意味合いをふくんだものとなるらしい。

 そのちがいは、『解説――最後のレナディアン語通訳』にとってどんな意味を持ってくるか?

 今作は独自の物語や視点を提示します。

 

男性である自分が、女性主人公を書くことが増えてきたのも、年齢の高い主人公をあまり書かないのも、作者自身から遠い主人公に決断を託したい、マッチョイズムを少しでも減殺したいという意図もあるように思います

   RealSoundブック、『伴名練が語る、SFと現実社会の関係性 「大きな出来事や変化は、フィクションに後から必ず反映される」』(太字強調は引用者による)

男性作家ながら女性キャラクターをメインに据えた物語を多く書くことについて、自分自身が書きたいものを書いているのだから、「気持ち悪い」と言われることがあろうと気にしていないという点については、私も同じです。ただその一方で、後ろめたさを感じることもあります。私が多大な影響を受けている吉屋信子花物語』シリーズは、初期の作品では女性同士の憧れや思慕といった感情が暖かく描かれますが、後期の作品には、男性上位社会における抑圧によって女性たちの関係性が損なわれていく、という胸の痛くなる内容のものも目立ってきて、明確にフェミニズムの文脈でも評価されるべき作品が含まれてきます。そういった作品に思いを馳せるたびに、男性作家である自分が女性同士の関係性を描くことについて、ある種の略奪、倒錯した暴力と捉えられるのではないかという不安が浮かびます。

   note、Hayakawa Books & Magazines(β)『【往復書簡】伴名練&陸秋槎。SFとミステリ、文芸ジャンルの継承と未来について』(太字強調は引用者による)

 伴名氏の作品や「百合(SF)」ブームについて割合聞いた批判として、

「百合や女性性が、きもちよく消費できる"きれい"なものとして扱われているのではないか?」

「作中で扱われている問題は、現実の女性がおかれている困難とは程遠いのではないか?」

 という声があります。

 伴名氏による論文風小説の別作『ゼロ年代の臨界点』でも、そういう疑問がよせられていました。

 こうした声についてぼくが微妙にうなづけないのは、劇中SF作家の集いは、読者のどなたかが触れていたとおり青鞜よろしく治安警察法の弾圧を受けるし、悲劇的な展開へ推移した千里眼事件をモデルにした「福来派SF」作家は登場するし、現実の女性の苦難に対するトピックがないわけではありませんし。

 また、今作を現実の男女の性別を逆転させた作品だととらえてみても、ファイトクラブを参照していそうなこの劇中作家の集いが異性の作家をリンチしたりするところは、はたして何なのか? 現実世界の(SF)作家・ファンのホモソーシャルな排外主義に関する目配せ以外の何物でもないのでは? というような思いがあるからなのですが。

(じぶんの感想文はあんまりその辺を触れられてなかったので改めました)

 ただ、こういう反感をいだいたところで、「本題というよりもフレーバー的な扱いですよね?」と言われれば、「まぁでも……そうかも……」とすごすご情けなく口ごもるしかありません。

 そして上に引用したとおり、伴名氏自身もそこについて思うところがあるらしい。

 

 さて「福来派」って何よ? というと、個別に記事化した感想文にも書いたとおり十中八九「千里眼事件」――各地で現れた千里眼の持ち主について東大の福来友吉さんや京大の今村新吉さんらが「本物だ」と確かめ、メディアも喧伝。しかし追試は失敗して一転非難の的となり、千里眼者のなかには自殺者があらわれるなどした事件――の参照でしょう。

 「ゼロ年代の臨界点」の福来派がその後どうなったかは杳としてしれませんが、説──最後のレナディアン語通訳」そういう部分に真っ向から取り組んだ作品となっていました。

 男性を主人公とした近作帝戦始」(『異形コレクション49 ダーク・ロマンス』収録)でも、主人公の暴力性/加虐欲が明示的にあつかわれましたが、「主人公のそうした性格は男性性によるものか?」というと、そうでもなかった。

 主人公のそうした裏をあばきだす中性的な美貌の余所者ゲンキケイは、超然とした異様な風格の持ち主であり、エピグラフにした『成吉思汗ハ源義経也』でこの妙な響きの起源が明かされているとおり、だれかが想像した物語的な存在でもあります。

 さて義経ジンギスカン説という物語は、さまざまなイマジネーションを駆動させてきました。

 さらに日本国内では、義経主従による蝦夷地統一物語である永楽舎一水『義経蝦夷勲功記』(金盛堂、明治十九)、内田の著作を軍記物として増補した清水米州『通俗義経再興記』(東京文事堂、明治十九)などが続々出版された。これは大正期に出版されてベストセラーとなる小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』(大正十三)の種本となった。また、源為朝琉球王となる物語を描いた高木親斎『為朝再興記』(金鱗堂・真盛堂、明治二十)なども、同系統の本ということができるだろう。

    河出書房新社刊(河出ブックス)、長山靖生著『日本SF精神史 幕末・明治から戦後までKindle版34%(位置No.3229中1076)、「第三章 覇権的カタルシスへの願望――国権小説と架空私小説」内 捏造される「歴史」 より

 長山靖生さんがまとめたほかにも、横田順彌さんによればたとえば『豊臣再興記』では、世界征服しただけに飽きたらず地獄を侵略先にえらんだ秀吉のために、すでに地獄へ落ちていた信長や義経らが助太刀したと云います*3

 伴名氏が過去作『ゼロ年代の臨界点』作中作で義経を海底へ遷都させていたのもおそらくこうした想像力に乗ってのことなのではないかと思うのですが、しかしそこには長山氏が見て取ったような、「現実の日本の海外拡張に関連して架空戦記、特に対露戦争小説が流行し、日露戦争後になると対米戦争小説(あるいは英米との技術開発競争物)がしきりに書かれ」*4たキナ臭さはありませんでした。

(それは「ゼロ年代の臨界点』が政治や社会を無視している」という意味ではなく、作中作の書き手が立つ『ゼロ年代の臨界点』メイン舞台の「無臭」性を描いたものとして読める。劇中舞台が現実と遊離した存在であることは、冒頭の「伝説」によって印象づけられていますし、そして前半でその「無臭」があるからこそ終盤が映える大きなコントラストが生じていると思います)

 

 別口として――というかぼくの感想なんですけど――伴名氏の作品について、人物世界劇中独自ガジェットががっつり結びついた、雑味を排した作品構成と物語運びであるがゆえにか、劇中特異事象について「そういうものがある世界です、以上」という風に映っちゃう部分もあったんですよね。

 各作の虚構が「この世界にはこういう虚構があるのだ」と読者に思わせる説明は十分あるけど、「現実にもありえそう」と思わせるほど十二分にはないと。

 

 でもよくよく関連情報をあさっていくと、「意外なほどにしっかりしているな(自分の無知が思い知らされていくな)」と考えがかわるところがあって、それがよくうかがえるのが「シンギュラリティ・ソヴィエト」。

 短編集『なめらかな世界と、その敵』感想文では、『改変歴史SFアンソロジー』が初出ということを補助線にして、作品で明示的にモデルとされた人物やほぼ名前がおなじでモデルにしてそうに思える人物と、「シンギュラリティ・ソヴィエト」での相違点をくらべることで、

「これ良い感じにきれいな物語として〆られてるけど、ふつうにこわいよね?」

 というお話をしました。

 『シンギュラリティ・ソヴィエト』が端々から描きだすのは、暖かな物語の下の寒々とした世界です。

 ミクロな個々人の視点からは、迷いも疑念も不信も絶望も狂気さえもいだけたうえで「さまざまな選択肢から自分はこれを選んだのだ」と確かに(いや確かなんだか不確かなんだか、やはり迷い交じりに。いかにも生きた・現実の人間らしい、白黒つかない幅をもって)思える人生が、マクロな世々界の視点からすれば実はそうではない、じぶんの可能性がせばめられているなんて関知できないほど高度ななにがしかの決定的な力にながされている現実の一市民のありようです。

 ……という具合。

 

 「解説──最後のレナディアン語通訳」は、そのへんの批判点に応えたり、逆に武器として活かされたりする作品となっていて、ちょっとすごいことになってました。

 過去作同様に奔放なイマジネーションが飛び交いつつも、それとは別角度の面白味がある。それを想像した人の立つ地平がどういったものであるか、身もふたもない解像度から眺めていく視線がとにかく妙味。

たとえば表題作の「盤上の夜」では、言語を使って囲碁を強くしていく話が出てくるのですが、これは、人工言語ですとか、モノと言葉のかかわりですとか、言葉がいかに世界を変えていくかといった「言語SF」の流れを目指したものです。

   WIRED、KEI WAKABAYASHI取材『「かけがえのない錯覚」を求めて〜SF作家・宮内悠介インタヴュー:WIREDジャパニーズSFスペシャル【2】』

 言語にもとづく想像力の自由と拘束、教える男と教わる女、独特の領域に入ったひとびとの独特の交流……といったところから、伴名氏が過去作でオマージュをささげたことがあるらしい宮内悠介上の夜」とも重なる部分もあります。

 あちらの作品でも(現代においてもなお根づよい)男尊女卑の不幸に見舞われるわけですが、「盤上の夜」の土台が「(かつて纏足などが尊ばれた)中国なら旅行者へ毒も盛るし人さらいもするし四肢切断だってするかもしれない」というまた別種かつヨソにたいして(これをよむ日本語圏の)読者が持つ偏見・流布していた都市伝説に支えられていたのに対して*5、こちらの「解説 最後のレナディアン語通訳」は「問題は今作の読者であるほかならぬわれわれにある」として、ロマンを許さないところがあると思います。

 赤が印象的だった『なめらかな世界と、その敵』のつぎは、こういう作品をあつめた黒い本が出てきてもおかしくないですねこれは……。

(序盤だけ読んだだけだけど、「葬られた墓標」もこの方向にすごそうだ

 

 さて、そことはまた違った見方なのですが(なのか?)、パロディSF作家氏をはじめとした作中SFジャンルの反応がなかなか面白い。

 伴名氏が別のアンソロジーで寄せた通常解説説 最も冷徹で、最も切実な生命の物語──石黒達昌の描く終景」で引用した、石黒氏の出世作で94年110回芥川賞候補となった成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士,並びに,』にかんするレビューを思い浮かべてしまうような、「いかにも(SF者が)やりそうな上から目線のうざいアレだ」とニヤニヤしたりウゲ~ってなったり、自分もそのけがありまくるので反省しなきゃな……と一応思ったりしました。

 

 序盤と終盤とで、劇中SF者が作中作について「これは何某がすでにやってる」批判をしていくさまが登場するわけですが、序盤のそれが劇中作家の明らかな創作をさまざまな書評者がさまざまな形で叩いたかたちである「普通の批評」であるのにたいして。

 終盤のそれは、だれもが創作の領域であつかわなくなった「異常事件」を、ひとりのレビュアーがそれでもなお他と比較可能なテクストとして――そして前例なんていくつもある凡庸で陳腐な「異常でもなんでもない」「単なるしょうもない」代物として――捉えようとする孤軍奮闘、ある種の「異常読解」であるという点で様相がだいぶちがう。

 異常で否定すべき事物について直面したとき、どのように接するのがよいか?

 難しいトピックなような気がします。

 断固NO、理解の及ばぬ特例・例外の怪物として(=異物として)徹底的に退ける?

 それが正しそうな道ですが、ただ、理解不可能ということはどんな意味でも好き勝手に充填し得るということと意外に距離が近しい気もして、ジョブズなどがまとっていたと云う現実歪曲空間(ぼくは知らんかったのですが、ウィキペディアにも項目があるジャーゴン)のようなカリスマ化神秘化の道が開かれていそうな気もする。

 難しいところではありますが、もしかしてそうした神秘のヴェールをはぎ取る方法として有効なのはじつは、異質なものを内輪のパースペクティブのなかに乗せ(=自分たちと絶対的に異なる者として退けるのではなく、自分たちと同一線上の存在として扱い)、そのうえでそれがいかに陳腐なものかを示す――「ふつうのスケールで論じられる対象であり、そこから見てふつうに駄作・駄論・駄目人間である」と逐一とりあげ延々こきおろしつづけることかもしれず、こういう姿はオタクとしての一つの理想的な歩みかたなのかもしれないなぁと思った次第です。

 

 でもそういう見方からすると、最後の一文は"あれ"でもよさそうな気もしますが、"あれ"でなく"これ"なんですよね。

 それって結局なんなのか?

 さらには、この作品自体の立ち位置とは何なのか?

 ……じぶんのなかでうまく咀嚼できないまま年が明けてしまいました。

 

 拙速に飛びついていいものではない、危うい見方をどうしても否定しきれません。

 終盤のこき下ろしについて、ある種の人間愛みたいなものと見なしたくなる気持ちがもたげます。外に出たことばこそ正反対ですが、実はこれって「独りぼっちは、寂しいもんな」の精神によるものなのではないか……という見方です。

 これはたとえば、無視しても無視しても好き勝手デマをこかれた人が、デマゴーグにたいして本当にうんざりしたがために一から十まで反論しただけの光景を見て(これだけ明け透けに言い合える/隅から隅までよく知ってるのだから)仲が良い」と第三者が評価を下してしまうような愚を犯しているのかもしれない、危うい見方です。

 

 であれば、本書において発明された視点であり、本書のコンセプトの核心である「ジャーナリスト」の存在について、まず語らねばならない。(略)

 この「わたし」こそ、本書を書き上げる以前に宮内悠介が勝ち取ったもの、本書の言葉を借りるならば「完全解」へ至る道だったと私は思う。この「わたし」がなければ、灰原由宇のような人物を本書のような公平さをもって書くことはできない。この「わたし」は作家本人であって本人ではない。作家が見出した主題に輪郭を与えるため、作家自らが己の頭上に投射した存在である。万能の視点で主題を見つめるが、それ自体は主題の中にはない。主題に巻き込まれてはならないのである。

   東京創元社(創元SF文庫)、宮内悠介『盤上の夜』kindle版98%(位置No.4097中 4222)、冲方丁「解説」より(略は引用者による)

 冲方丁氏は、宮内悠介氏の短編集『盤上の夜』のジャーナリスト「わたし」の語りの巧みさについて弁舌を尽くします。

 「盤上の夜」と同年ほぼ同時期に伴名氏が発表し、作品の冒頭シーンが主役の逸話に関するデマの指摘であるという点でさらに重なるロ年代の臨界点」の語り手も中立的な立場でした。

 今ここで告白するが、私がかつて書いた短編のひとつ、「ゼロ年代の臨界点」は、この作品がなければ存在しなかったであろうものだ。小説の「形式」が持ちうる力というものを、この小説に教わったのだ。無機質な文体に無機質でないものをこめられる、という可能性を、私は石黒達昌の筆致から学んだ。

   伴名練氏運営『石黒達昌ファンブログ』、「雪女」(『人喰い病』収録)より

 伴名氏のそれが作品の味としてその語り口を選び研いだように、もちろん宮内氏のそれも作品にとって最適な解なのでしょう。

 ただ、どこまで書いたものと書いたひと・環境は切り離せるものなのか?

外に眼を向けようという姿勢と、ある種内閉した部分がいっしょくたに存在しているところなどは、身近なもののように感じます。例えば『虐殺器官』には、サラエヴォという地名が出てきます。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都ですから、そこから話を広げようと思えばいくらでもできそうですが、そこから先は踏み込まない。あくまでも地名止まりなんですが、といって、それを書かずにもいられない。世界に目を向けようとはする。そういったところに妙に共感してしまうんです。

   WIRED、KEI WAKABAYASHI取材『「かけがえのない錯覚」を求めて〜SF作家・宮内悠介インタヴュー:WIREDジャパニーズSFスペシャル【2】』

 たとえば『盤上の夜』次作ハネスブルグの天使たち』を宮内氏はアフガン現地をじぶんで旅して"書くべき"ものを決めた一方で、"「自分は見た」を特権化することは、知に対する裏切りであり、自分の想像力に対する裏切り"だからと、現地で体験したことについて封印し文献を頼りに記したと16年にツイッターで言っています。

 誠実な態度です。誠実なのですが、「現地まで実際に行った自分」や「旅中に書くべきものを取捨選択した自分」は歴としてあるよな、みたいな疑問もまたよぎる。

{そして宮内さんの実体験は、それ以前14年のツイートを見るに、前述作へ活かされていないわけではないようだ(ex)}

 

 語り手に固有の名がないけどときどき妙な鼻息のあらさが見える(SF研究者だろう人による)ゼロ年代の臨界点」から、語る対象の親族が語り手である「白萩家食卓眺望」、こんかいの「解説」など伴名氏のいくつかの作品の語り手ないし読み手は、対象と距離を置きつつも無私になりきらないところがあり、その存在感は近作になるにつれ、増しているように思えもする。

 それが作家性によるものなのか、時代的な変化によるものなのか――伴名氏にかぎらない、最近の創作・言論全般の潮流によるものなのか? 円城塔さんが「現代のアメリカ小説は、「自分のルーツ」について書かれた「長大な」小説に特化されつつある気配がする」と言ったのは13年のことだけど、ものごとの当事者性はより一層重視されているような印象が個人的にはあります――はよく分からないけれど、なんにせよここについて目をきちんと向けて、そのうえで創作物として何かしらの面白味を出している近作は、かなりタフなお仕事な気がするけれどそれゆえにスリリングで一層すさまじいことになっています。

 

 書いたものと書いたひと・環境がそう簡単に切り離せるものではないとしたら、それを読んで書いたこの文章もまた、ぼく自身と切り離せるものでもないのでは?

 「スリリリングですさまじい」というのは色んな考えがごっちゃになった解像度のひくい曖昧な表現で、これをよくよく分解してみれば、「ぼくの立っている足元が瀬戸際であり、そんな自分じしんのあやうさに気づかされる」という身もふたもないお話になるのではないか。

 

***

 

「その作家の作品ですごいもの・面白いものはどれ?」

 という質問にたいして迷わず最新作をオススメできる作家として、伴名氏の名前があげられそうだと思えてきました。

 

 

1216(木)

 ■読みもの■

  「爆発するまで書き、そして、」R・A・ラファティの創作法

 『カモガワGブックスVol.3』のラファティトリビュート作についてお話するタネになればと、『SFマガジン』をひらいてみました。

 もちろん参考になった部分もあったのですが、それとは別個に「おお~なるほどな!」と収穫がありました。

 200作以上も作品を記したというラファティ氏。作品数もすさまじいですが、一作品をみてみても「中編や複数の作品にできるのでは?」と思ってしまうほど、ラファティ氏の短編にはさまざまなアイデアが溢れんばかりに詰め込まれているのがまたすごい。

 そしてそのアイデアなどは1→2→3と段階を踏んでいくものではなく、一作品内で展開や語り口さえもが(読者であるこちらの整理がおいつくまえに)急ハンドルを切られて/時には車から飛行機など乗り物自体を替えるレベルでガラリと一変してしまうことがあり、それが独特のショックや気持ちよさを生んでいます。

 

 この独特の作劇はどうやって生み出されていたのだろうか?

 氏の秘密の一端は、じつはとっくの昔にラファティ氏自身の口から明かされ、日本でもとっくのとうに紹介されていたみたいなんですね。

Q:どういう方法で小説を書いていますか?

A:方法はいくつかある。ひとつの話を、それが爆発するまで書き続ける。それから半年ほど寝かす。その間に、その小説に対して思い浮かんだことを書く。それを一から繰り返して書くこともあって、再び爆発したものを半年から一年また寝かすこともある。二百篇ほど書いてきたけど、少しも爆発させずにできたものは一ダースもない。

 

Q:爆発したまま、二度と復活しなかった話の素材は再利用できますか?

RAL:ぼくの傑作の大半は一、二回爆発したものだ。ときに、いくつかの爆発した物語の破片からできたものもある。そういうものには、最初に書こうとしたときにはなかった衝突やコントラストが生まれていたりする。

 

Q:うまくいっているとか、爆発しないとか、どうやってわかるんですか?

RAL:話が爆発するときがわかるんだ。自分でうんざりしてくるからね。「こりゃだめだな」といって、それ以上悪化する前にやめることもある。

   早川書房刊、SFマガジン 2014年12月号』p.58~59、インタビュアー:ダレル・シュヴァイツァー(橋本輝幸訳)「R・A・ラファティ インタビュウ」

 なるほどラファティ氏の作品にしばしば見られるチェンジ・ペースは、こうした創作過程における物理的な断絶の挿入が関係しているのかもしれません。

 

 ここでふと思い返したのが、すこしまえに{だいぶまえにも(多分いつの日も)}物議をかもしていた、「いちど小説の新人賞へ投稿するも落選した作品を、べつの新人賞へ送るな、ちまちま細部を直しても仕方ないぞ」というお話です。

 投稿して、結果(落選)がでて、問題点などに気づく……ここまでの期間がじつは半年だったりしませんか? (いや、そうして多くの人が行えるのはせいぜい「ちまちま修正」レベルで、ラファティ氏のおこなう「爆発」レベルの書き足し・改稿では、別にないか……?)

 

 ラファティ氏の上述創作論はおおむね短編の書きかたについてのお話みたいで、投稿作品に多いだろう長編にそのまま適用することは難しいかもしれませんが、でも創作に限らずいろいろ参考にできそうな書きかた/物のかんがえかたに思えもします。

 ぼくもblogの記事を書くさいお手本にしてみたいですね。

{さて、いろいろな視点のある章立てられた作品として、最近ではリドリー・スコット監督後の決闘裁判』が話題となりましたが、企画をもちこんだマット・デイモン氏がベン・アフレック氏と一緒に脚本を書き、さらにニコール・ホロフセナー氏が合流して主に第3幕を書き(ほかの幕についても手を入れた)……みたいな製作過程らしく、「そういう構成といえば」なクラシックとして黒澤明監督生門』もまた、橋本忍さんが脚本化した『藪の中』に、黒澤氏が『羅生門』を足した具合(※)で、つまりどちらもそもそも複数人の共同作業的な部分があるらしい。(つまり独り者の作業がするうえで参考にできない……)

 その点ラファティ氏の書きかたは、独り身にもやさしい。

(※眼の映像 私と黒澤明によれば、橋本氏が『藪の中』を原作として脚本化したところを、「映画にするには短い」と黒澤監督に言われて「じゃあ『羅生門』を足しましょう」と返した。

 橋本氏はこう返したものの、特になにか具体的な勝算があったわけではなく、「『藪の中』の侍夫婦・武弘と真砂の前日譚を膨らませたほうがよかったのでは? なぜおれはそんなことを……」とか後悔しつつ、『羅生門』下人が『藪の中』多襄丸となるかたちで接続する第二稿を提示する。

 しかし黒澤氏の反応は芳しくなくリライトが求められるも、橋本氏が椎間板ヘルニアで動けず執筆もすすまないうちに、映画製作は進行。黒澤氏が現行のかたちでの膨らませ・合体=『藪の中』について死体発見者の杣売りの物語の追加したうえで、前後を『羅生門』でつつむ枠物語化=をおこなった。

 中身をぜんぶ話してしまうのはアレなので詳細についてははぶきますが、『藪の中』の武弘・真砂の前日譚ふくらませのどこが良いか・そしてその場合のダメなところはどこか? 下人=多襄丸とした橋本版『羅生門』がなぜダメか? そして黒澤版『羅生門』は橋本版よりどの点で優れているか・そしてそれでもダメなところはどこか? ……橋本氏による三者の比較もまた面白かったです)}

 

 ……と、じぶんの書きかけのまま放置した下書き記事の山を見て、このやりかたの問題点に気づきます。

 昔の人は「鉄は熱いうちに打て」と言いました。最近の人は「感情は双曲割引されていくものなのでは」と言ったりもします。

 ラファティという作家の異様さはもしかすると、アイデアの豊富さにあるのはもちろんのこと、関心の持続力・復活力にあるのかもしれません。

オーリャドは、教科書や宿題のプリントを家から持ちだす。そして、歌をうたいながら修理店のなかを通りぬけ、部品室をぬけ、その奥にある部品室をつぎからつぎへと通りぬけて、丘の底の底のトンネルをくだっていく。

 「おお、ケルミスよ、アクモンよ、ダムネイよ、

  ねえ、用意して。答えのはいった坩堝を」

 オーリャドはそんな風に歌う。つぎに、答えの坩堝から鉄の答えをとりだす。それから宿題の科目に応じて答えを組み立てる。それをプリントの上へまるでスタンプみたいに押しつけると、はい、できあがり。

   早川書房刊、『SFマガジン』2002年8月号p.12下段22行目~13上段9行目、R・A・ラファティ著「ファニーフィンガーズ」1より

 

 

0102(日)

 仕事休み日で宿直日。

 ■書きもの■

  『となりの信國さんは俺のことが好きな気がする』2巻までの感想記事をアップしました

zzz-zzzz.hatenablog.com

 ヤングアニマルで連載中のマンガの感想記事をアップしました。

 今年はいっぱい読んでいっぱい更新していくぞと奮起した一発目です。

 12月29日に読んで、完成がこの日。引用画像作成がいちばん面倒くさい。(だいたい出典表記をまちがえる)

 一読して思ったこととして3点ほど……

  1. 第5話7話が噴くほど面白い。
  2. 第4話もなかなかいい。
  3. 信國さんの顔のバリエーションが豊富。

 ……というような印象をいだき、そこからもう少し考えて、

 4.①②は要するに、今作はジャンル横断がうまいということなのでは? ③の豊富さも、それだけ作品内の物語が引き出し豊富ということなのでは?

 と定まりました。

 

 トーンチェンジのうまさを語るために、連載作品としての経糸についても眺めていくこととなったわけですが、これはこの感想文の美点のひとつかもしれません。

 作者の安田剛助氏のツイッターを見ると、おなじみのPR告知なしでマンガを連ツイしていくアレがあるわけですが、単話やへたすると途中までだったりするので、そういう良さというのはわかりづらい。

 出オチじゃないんですよ、という話をするのは大事なことのような気がします。

 

***

 

 ネタバレに気をつけてもバラしてしまうzzz_zzzzのような未熟なブロガーにとって、連載途中の(若い)作品の感想を書くのはなかなか良いやりかたなのかもしれません。読者の知りようがない将来ある(未刊行/執筆中/作者も構想中のエピソードがある)作品であれば、ネタなんて割りようがない。

 

***

 

 vtuberさんの配信ばかり見ているので、語彙がどんどんとvtuberさんの配信で構築されつつあるのですが、今回は意外とピッタリの引用なように思えます。今後もがんばっていきたい。……がんばりどころなのかそれは?

 

 

0104(火)

 仕事初め。

 ■書きもの■

  『とめはねっ!』感想文をアップしました

zzz-zzzz.hatenablog.com

 ヤングサンデービッグコミックスピリッツで連載されていた一昔まえの漫画『とめはねっ!』の感想記事をアップしました。今年は個別の記事をいっぱいアップするぞの第二弾です。

 1月の1日か2日ごろから再読をはじめて、3日に『河合克敏本』がとどきインタビューなどを読み、書き終えました。初アップが1万6千字で、6日に文章を色々追加して1万7千字に。7日までにオミットした部分を追加して2万字に。

 書きたかったこととしては4、5点。

  1. ほんの時折ほうりこまれる大ゴマの迫力について。
  2. とめはねっ!』がコマ割り・物語の雰囲気をいかに統御しているかと、その型を破るコマが投入されることで何てことない日常ドラマが意想外に心動かされる作劇となっているかについて。
  3. 劇中の「書」の評価軸が客観的・具体的で、私的なイマジネーション・比喩にたよらない「書」自体の面白さにふれられる魅力について。
  4. 一見「学べるニュース」的なトリビア充足劇に見えてしまうが、一度魅力が説明された「書」が再登場してほかの美点が明かされる/それを誰が誰にどのタイミングで提示するかが物語となっている、ストーリーテリングの巧みさについて。
  5. 山形浩生「本物の抑圧がある人が描いた芸術こそ本物」論とか、個人的に「そりゃあ心動かされるけど、"どうなんだろう?"と思わなくもない」創作物や事物の"生き死に"ネタなどすごい要素山盛り合戦とかに対して)しょーもない日常にしょーもないまま宿っている美を見る作劇の良さについて。

 

 書きたいこと③④はオーソドックスな感想だと思うんですけど、意外とそこに注力している文章って(とりあえず)アクセスしやすいところに無い。

 『とめはねっ!』にかんするメジャーな関連文献としては『河合克敏本』があり、作者インタビューにくわえて長文レビューが2本載っているんですけど、それぞれキャラ紹介と萌えしぐさ紹介みたいな評と、『嘻横川国民学校』をもってきた凄さを『モンキーターン』の劇中大事故などとつなげた評という2本で、劇中でえがかれる書の良し悪しのロジカルな明快さと、それが物語的に展開していくことの面白さは触れられていない。

 読書メーターのコメントなどもその辺について具体的にどんな感じか話すような感想はない(こちらは文字数的にしかたなさそう)

 ①②コマ割り・ストーリーテリングの魅力についてはざっと見た感じしゃべってるひとはいない。

 ……ということで、それなりに独自性のある感想文になるんじゃないかな~と思った次第。

 

 ⑤については最初から書いたものの、ごちゃごちゃして整理するのが必要(だけど面倒)なように思えたのと、「けっきょく結論的エピソードにかんするネタバレなんじゃね?」と思ってアップ当初は削除しました。

 ただけっきょく、「ほかの部分でどういう着地を見せるのかは察せられちゃうから、ここを削ったところで焼け石に水では?」と復活させることに。

 

***

 

 以前の感想記事からの変化としては、お話のきっかけをちょっと工夫できたこと。

 これまでぼくは『なめ、敵』感想文ではAmazonレビュアー、『イーガン勝手に翻訳記事』でははてなブックマーカー、『となりの信國さん』では即切りしたじぶんの浅はかさを引き合いに出してきました。でもこれ、

「傍目に間違ってたりなんだりするものを紹介してそれを正すって、"二歩下がって三歩すすむ"みたいなかったるさがあるのでは?」

 という疑問がわきます。

 今回やれたのは、実力が世に知れた識者の、決してまちがいではない評価に対して、「たしかにそうだけど、それだけじゃない」と別の見方を提示するような文章。建設的でよさそう。

 話のタネとして、連載シリーズの途中の巻の感想を取り上げるのは、いろいろと都合がよい気がします。先行レビューとそこまでの巻の感想がおなじであった場合、

「あちらのレビューとは違う印象をぼくはこの作品に抱いていますが、それはこの続きを読んだからなんですよ」

 と言うお話ができる。

 先行レビューを貶す以外の方法で異論を言えるうえ、「つづきはどんなものか」と興味を惹く要素をひとつ作れもする。

 

***

 

 甘えた部分としては2点。

  • ドラマ版をちゃんと観直すべきだが、おぼろげな記憶で済ませた。
  • ページ当たりコマ数と、定型からはみでるコマ数をかぞえて、登場分布とかも算出したほうがいいだろうけど、触れないことにした。(人力で1話かぞえただけでも疲れちゃいました。うまいやりかたがあれば再挑戦したい…)

「とりあえず書いてアップして、そういう比較とかをやりたくなったら、追記や別記事を立てればいいじゃないか」

 という気の持ちようになれたのは、前回の勝手に翻訳記事のおかげかも。

 

 また別件で、感想記事を書くとだいたい「これでいいのか?」と悩んでしまいます。

「ぼくが"感想"としてお出しするものは、"あらすじを教えてもらうスレ"の投稿文とか、ファスト映画的な、単なる要約なんじゃないか?」

 と。そこについて今回は(今回も)とくに落としどころをみつけられませんでした。これでいいのかなぁ……。

 

***

 

 『とめはねっ!』の作劇はすばらしいですが、他作へ参考できるかというとむずかしそうだなとも思いました。

 十数巻におよぶ長編だから作品をつらぬく作劇の"型"が生まれて、その型破りが活きた・読む自分としても長ーい一作を通しで付き合ったからそれにに反応できたところがあるので、読み切り・短編でおなじことをしようとするには工夫が必要でしょうな。{自然な定式といえば四コマ漫画ですが、その型を援用/破るにしても、やっぱりそれなりの助走があったほうがよさそう(若林稔『徒然チルドレン』も、長い積み重ねがあってこそ凄かった部分もあるだろうし……)}

 

買いたい・買ったもの

 itunes最近まで・AmazonPrime1/31までのセール映画まとめ

  itunes
マッド・シティ(字幕版)

マッド・シティ(字幕版)

 購入済み。

 『戒厳令』『Z』『告白』3部作や、73年チリ軍事クーデターで行方不明となったアメリカ人を米国からはるばる家族がチリへ踏み入れて捜しまわるノンフィクション原作の大傑作映画『ミッシング』、金融映画『ザ・キャピタル』など、ギリシャアメリカフランス複数の国を股にかけてさまざまな名作を世に送り出してきたコスタ=ガヴラス監督。かれがメガホンをとった、傑作人質立てこもり映画『マッド・シティ』のitunesHD配信版がセル価格509円になってました。

 上の作品群が冠するカンヌ審査員賞やらパルムドールやらアカデミー脚色賞やら{春に配信のセル&レンタルはじまった金熊賞受賞90年公開映画『ミュージック・ボックス』(AmazoniTunesやら}にくらべるとさすがに批評的評価は低そうですが、いやはや今作もすばらしいですよ。

 シドニー・ルメット監督の立てこもり映画『狼たちの午後』や、加熱するTV報道を扱った映画『ネットワーク』などを足して2で割ったような作品で、さらにポール・グリーングラス監督『キャプテン・フィリップス(=これはこれでitunesだかAmazonPrimeビデオだかで800円くらいとちょっと安くなってるっぽい)的なおそろしさも(活劇的な色合いを帯びさせたうえで)あります。

 値段の安さに気づいたのは12月前半でしたが、しばらく同じ価格なのかなぁ? いつの間にか取り扱い終了してたりするので、買っとくのが良いかと思います。

 

1917 命をかけた伝令 (字幕/吹替)

1917 命をかけた伝令 (字幕/吹替)

  • Sam Mendes
  • ドラマ
  • ¥509

 これは配信スタート時に買って観れてない作品。

 AmazonPrimeビデオでも同じくらいの値段でセールしてますが、itunes版は映像特典が見れるのでお得です。

 

許されざる者 (字幕/吹替) (1992)

許されざる者 (字幕/吹替) (1992)

  • Clint Eastwood
  • ドラマ
  • ¥713

  大傑作西部劇が713円に。イーストウッド監督の西部劇は、このほかの作品も独特の細部があってよい。

 AmazonPrimeビデオ版も同額だけど、4Kで字幕吹替えらべるからitunes版のほうがお得かな。

 『クライ・マッチョ』公開記念なのかなぁ? それともこれからセールが別に打たれたりするのか……?

 

 

  AmazonPrimeビデオ

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 『隣のお姉さんが好き』のお姉さんが好きな映画がレンタル100円セル580円に。

 うそだろお姉さん、まさかベゾスと……?

{お姉さんとベゾスはとくに無関係でしょうけど、でも、さまざまな創作物がキャラクターをその所持品とか愛読書とかで間接的に描写するのの応用として。たとえば古くて渋い映画好きのキャラクターのオススメ映画群を検索かけてみると、本屋さんで売られてる謎の安売りDVD群とおなじ(ただまぁ画質音質などはアレだけど掘り出し物がけっこうあると評判である)、とか、社会派な物知りキャラの知識をよくよく調べてみると『BS世界のドキュメンタリー』が大体ひっかかる(ただまぁ一概に「浅い」なんてことは無くて、18年に邦訳の出た本『「おいしさ」の錯覚 最新科学でわかった、美味の真実』で取り上げられた知見は、『BS世界のドキュメンタリ』で12年に放送されたものと結構かさなってたりする)、とか、なんかそういうサブテクスト自体にも含みをもたせる形で人物像を描く作品も、きっと色々あるんだろうな……

(物語上ではオシャレなはずのキャラがしまむらブランドである……とか、あるいは音楽初心者が異様に高価でめずらしい楽器を持ってる……とかみたいな製作上の都合をかんじさせる妙チクリンを、そこをふくめて意図的に物語・メインキャラの根にする作品も、きっと色々……)}

 

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 レンタル100円・セル780円。東ドイツの「実話をもとに」映画だそうな。

 おなじ実話をもとにした映画として、82年にディズニーが製作した『気球の8人』があり、dtvでレンタル鑑賞できるみたいです。

 またAmazonPrimeオリジナル映画として、それとは別に『イントゥ・ザ・スカイ ~気球で未来を変えたふたり~』もあり、気球映画を見比べるのとかも楽しそうかも。

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 傑作と名高い映画がワンコインで。

 

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 べつにそこまで格安ではないけれど、なんか取り扱い終了の前ぶれだったりしないかな……? と。映画館でチケット一枚手に入れるよりちょい安いくらいの値段でPrime Videoサービス終了まで観れるだろうと考えばわるくない。

(でもこの、「いつか観返すかもしれないから、とりあえず手元に置いておきたい」心性がきちんと鑑賞実態にむすびついた例ってどのくらいあるんだろうか。どれだけの作品を再鑑賞している?)

 

 

 

更新履歴

(誤字脱字修正は適宜)

01/12 0時  アップ 2万7千字

同日夕方   改稿  3万1千字  ラファティの創作秘話ばなしに、『羅生門』と『最後の決闘裁判』の制作過程の話を追加する。『解説 最後のレナディアン語通訳』読書メモを色々書き替える。(危うい見方をしてしまうのは、読者である自分じしんが危ういからなのではないか? という)

*1:そもそも一番の問題は、「勝手に全文翻訳アップロードしていいのか?」では? そっすね……。

*2:引用者注;このカッコ書き文章は豊﨑氏の文章。

*3:集英社刊(集英社文庫)、横田順彌著『日本SFこてん古典[1]宇宙への飛翔』p.351~2、「第19回 秀吉、地獄を征服す」より

*4:日本SF精神史Kindle版49%(位置No.3229中 1563)

*5:ただし「盤上の夜」は物語の後半で述べられるとおり、因果がねじれ絡まりまくっており、「ひどいおこないの起源はもとを辿れば日本のわれわれの側にあって、対岸の火事ではないのだ」という作品なのですが。