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だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

向き合う顔を漫画で描くこと;『妹の姉』感想

 ジャンププラスで5/16まで無料公開されているので『妹の姉』を読みました。

 ※2019年8月8日現在リンク先で再公開中です。公開は8/15まで? 『チェンソーマン3巻発売記念の、藤本タツキ氏読切&連載作1話一挙公開企画の一環とのこと。

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 以下、その感想。だいたい9000字超みたいですけど、まあ引用とかページ数表記とかがあるので、実際はもっと少ないはず。

 藤本タツキ著『妹の姉』についてネタバレをしていますので、ご注意ください。

 

 

ざっくり感想

 何気ないセリフや構図を意味ある形で反復変奏したりしていて、すごい漫画を読んだ。

 

 作者は藤本タツキさんは、『ファイアパンチ』(の第一話)で一躍有名になったひとで、現在ジャンプ本誌で『チェンソーマン』を連載中。ぼくはほかには読切『佐々木くんが銃弾止めた』を読んだことがあります。
 3作を読んだ感じだと、とにかくセンスがすごい人だという印象でした。
 共通しているのは、なまっぽいセリフ回し(どもったり言い間違えたり)や沈黙だとか些細な変化だとかを映した"間"のあるコマ使いで、じっとりと進めていく語り口や。かと思えば突拍子ない(と思えてならない)展開をもちこんで、大胆にお話を進めたりするところ。そして、それでいて最終的にはある種の爽快感あるクライマックスへたどり着く〆のうまさ……くらいなものでしょうか。


 今作を読んで、センスの良さに目がくらんで見落とした技巧がいろいろとあるのではないか、もう一度きちんと読んでみたいなと思いました。

 

 

 『妹の姉』の本編について話をもどします。
 主人公をモデルにした裸婦画が母校の玄関に飾られてしまうという冒頭にまずつかまれてしまいました。
 不条理劇っぽく進んでいく序盤のつきはなしかたがすごいし。そんな、いくらでも暗くなったっておかしくない起点から、主人公が復讐に燃えてくだんの絵を描いた妹がモデルの裸婦画をしたためんとすることで、シュールな悪夢を『トムとジェリー』みたいなドタバタ的ファンタジーにふる腕力もまたすごい。

 姉妹の情念と画家としての能力差があらわになる中盤も気まずすぎて見ていられない緊張感だし。
 妹の執筆経緯が明かされて、妹の絵について主人公側からの絵解きがなされ、主人公が画家としての能力や自分の汚い部分を見つめなおして、画家として家族として回答をだしてみせる後半……と、非常に面白く読みました。

 

 今作はネット公開されて直後、賛否両論まきおこってとてもバズりました。
 blog『ろくの日記』さんによる  「藤本タツキ『妹の姉』の問題点」、批判記事として有名なのはこの辺りみたいですね。なるほど確かに……ごもっとも……という感じです。
 『妹の姉』は、リアルな舞台でリアルな絵柄のキャラが動きリアルな発話をする作品で、現実に起これば炎上間違いなしのセンシティブな要素でツカんでおいて、そこについては「本題ではないので……」とブン投げるような思いきりよい取捨選択がなされてます。たしかに「これはいかがなものか」と批判が出るのもよくわかります。
 『妹の姉』は、うえの批判へ十全にこたえられるような作品ではない気がする。
 閲覧には注意が必要だと思います。

 いろいろ問題含みの作品だけど、他方で、ぼくにとっての趣味的な問題を解決してくれてもいる作品でもありました。この日記では、そこについて書いてみることにします。

 

 

複線的な展開のうまさ


(脱線)芸術内芸術のむずがゆさについて

 『妹の姉』はかゆくない!

 漫画家漫画的なメタ作品に強く出がちな、読んでいてムズがゆくなる部分、これを『妹の姉』はうまく回避してくれた作品でした。

 どういうことか?
 漫画というメディアは誰かがなにか絵を描かなければ白紙が広がるだけのメディアで、『妹の姉』は、劇中であつかう題材として画家やその絵{それも天才(!)画家の傑作}をえらんだ芸術内芸術、メタ的な漫画です。

 漫画の劇中にすごい絵を登場させるのは難しい。
「作者にすごい絵を描ける実力があるのか?」
 ということがまずあります。
 漫画作者が天才で、ほんとうにすごい絵をオリジナルで生み出せたとしても、問題は山積みです。
 その天才的な絵を劇中人物が「すごい」と惚けたり「この画家は本物だ……」とほめたりするシーンは、
「天才画家も、それを絶賛する鑑賞者も、双方ともおなじ漫画作者の手によるものなんだよなあ」
 と一度おもってしまうと、自画自賛が鼻についたり、一人遊び感にせつなくなったりする。

 描けなくても、その絵自体を写さないというやり方もあるでしょう。
 それはそれでむずかゆい。
 すごいかすごくないかを読者の側で判断できない以上、そのすごい劇中絵画を見た劇中人物の反応は(すごい劇中絵画という設定なので「すごい」と感嘆することになるのが当然の反応です)、その絵のすごさを表す指標的な情報となって、自画自賛の匂いは減じられるかもしれません。
 他方で、たとえば劇中の行動からすれば単なる凡人にしか見えないけれど「IQ300」「ハイパーメディアクリエーター」みたいな劇中の数値や肩書によって「この人は天才なんだ……」と納得しなきゃいけないみたいなせつなさは依然として残る。

 現実世界の天才画家ダヴィンチやピカソなどの絵を劇中人物が描いたことにすることもできましょう(。映画だと、傑作『ムーランルージュ』が既存の名曲を劇中人物が考えたことにしていましたね)。ただこの場合にしたって「偽者の借り物じゃん」という印象がついて回る。

 


『妹の姉』は劇中の傑作絵をどう評しているか?

 ってなところで本題です。
 『妹の姉』はすごい絵(=学内コンクール金賞)と劇中評される絵が2枚登場します。どちらも作者の手によるもので、漫画の絵がうまいのと同じくらい、この劇中絵もうまい。

 ただし、劇中クローズアップされるのは劇中絵画の上手い下手ではありません。
 描かれたものと実際のモチーフとの相違点であったり、なぜそれらの絵が描かれたのかテーマについてであったりします。

 

 視覚的な部分に伏線のはられたミステリーの様相さえある。

 物語の終盤で、主人公の絵が学校の玄関前に飾られるわけだけど、それにぼくが感動するのは、学内コンクールで金賞を獲ったからではありません。
 主人公がさまざまな習作を描き重ねたうえで、すでに金賞をとった妹の絵ともその後学校へ来たデッサンモデルさん*1とも異なる、まったく新たなポーズを描き出したことにあります。
 1年前「私のハダカの絵」が玄関に飾られたとき身をちぢこまらせて赤面した彼女が、かつて無神経な親類に流されて作り笑顔でその絵と並んだ彼女が、あらたにかざられた絵画にのぞむ堂々とした佇まい(絵のなかの彼女と同様に、胸を張って顔色を変えない)とのコントラスト。
 かつて自分の絵が金賞をとろうとも魂の抜けたような顔をしていた妹が、姉のことばかり見ているけれど姉の絵になると目をそらしていた妹が、すぐ隣に姉がいるというのに(しかも姉からひっつきさえするというのに)一瞥もくれず、絵を見つめたまま満面の笑みをうかべてしまうそのコントラスト。

 そういった対比や変化の大きさゆえに、感動したのです。

 

 

真正面から絵について触れない、ズレたダイアログのうまさについて


 ここまで書いてなんですが、劇中絵画そのものについて上手い下手が劇中で取り沙汰されないわけではありません。
 『妹の姉』はむしろそれについてたびたび様々な観点から触れられています。
 美しさにはさまざまな評価軸があります。描かれたもの自体の魅力だとか、色合いがすばらしいだとか、描線が美しいだとか。
 上に挙げた評価軸は『妹の姉』劇中ですべて出てくるんですね。
 しかし、真正面からそれについて触れるのではなく、

「あら 絵のほうが実物よりかわいいわね」p.10第2コマ
「光子 あんた乳首キレイなんだね」p.9第1コマ
「あれ……? 絵の方が胸もっとあった気が……」p.9第2コマ

 と、そう発せられること自体がセクハラである類の、主人公の容姿をけなす言葉や羞恥心を煽る言葉として重心をズラされています。
{ディスにしてもまたバリエーションがあって、これまたウマい!
 母校訪問するような年上の親類の無神経さの発露としてつい出てくる言葉だったり、親しい友人ゆえの茶化し(?)だったり。茶化しも二通りあり、実物をまだ見てない部分について褒める調子のもの(もしかしたら悪意なく素朴にそう思っているだけかもしれないもの)だったり、自問系のもの(芝居がかっていると言えるかもしれないもの)だったり}

 

「玄関っ!! 玄関に!! 私の!! 私の…! ハダカの絵が飾られてるんだけど!!」「今すぐハズしてよ!!」p.5第3コマ

 主人公が担任に詰め寄るシーンが早々にあるとおり、序盤のエピソードは、自分の裸体が他人に勝手に描かれてみんなに知られた主人公の四苦八苦不条理劇として素朴に読めます。じっさい私ははじめそのように読んだ。


 さきに引用した容姿やデリケートな身体部位にかんするセクハラ台詞。

 これも、第2ページを丸まるつかった大ゴマの金賞の絵(=両手を挙げて背を反らせ、その顔は物憂げに見下している)と対照的な、第3ページを丸まるつかった大ゴマの主人公本人の姿(=両手をたたんで背をまるめ身をちぢこませて、赤面し唖然としている)がならんで虚実のギャップがはげしい最初の見開きページ群から、自宅妹との対話に至るまでのあいだに出てくるものでした。

 

 真正面から画力について「うまい」「下手」と言うシーンがありさえします。
 けれどそれさえもが、主人公へのディスであり、姉妹の情念や主人公のシリアスな本音の発露なのでした。

「三年生の展示見たけど! お姉ちゃんが一番上手いもん!」p.21第2コマ

 という妹からの真正直な賞賛は、

「でも一年生のアンタより下手なの……!」p.22第1コマ

 という主人公の返事に負けます。

「そんなことない……ない……」p.23第2コマ

 それでも力ない反駁をうめくように言う妹へ主人公が返す、

「みんな知ってる」p.23第3コマ

 は、そうしたズレによる倚音を解決する、鋭いセリフ。

 

 主人公が気にしている一番の問題は、「私のハダカの絵」が他人に勝手に描かれて「玄関にかざられて」みんなに知られたことではありません。
 担任に直談判したとおり問題は問題だけど、彼女が口に出したダイアログと心の中で思うモノローグとには齟齬があります。

 たとえば裸の妹をデッサンしているさいに彼女へ言うことも、丸きり信じられるものではないです。

「乳首は真っ黒に描き 陰毛を腹まで伸ばしてやる」p.19第1コマ

 との主人公(姉)のきつい言葉とは裏腹に、同じページの最終コマに映された彼女のスケッチブックには、妹の乳首も陰毛もまだ描かれていません。
 頭身から推察すると、そもそも股まで描けるかあやしい構図でさえある。

 口で言うほどには、彼女は裸の自分が描かれたことを問題と考えていないみたい。

 

 じゃあ彼女の逆鱗っていったいなんなんでしょう?
 最悪なのは、「実物より良い」と被写体本人に言ってしまえるほど上手い、私の妹の画力がみんなに知られたことです。そして、妹に画家として劣る自分を、そこから目をそらし続けている自分をいやでも自覚せざるをえないことです。

 そのことを主人公ははじめから言っています。

「何より一番最悪なのが」p.1第3コマ
「学校主催のコンクールで金賞を取った絵が」「玄関前に一年間も飾られる事」p.2第1コマ(太字強調は引用者による)

 

 

 妹に本音を話したことで、主人公は劇中はじめて過去(自分のかけた後を追い見つづけてきた妹)を振り返り、そして現状と(金賞をもらった妹の絵と・妹の近過去に描いたものを見るしかできない自分と)文字どおり向き合う。

 

人物の見かけ上の距離・位置関係が、そのまま心理的な関係となる演出

 序盤で妹の絵をはさんで並び立った姉妹(p.11)は、幕引きで主人公の絵のまえで並び立ちます(p.41第2コマ)
 前者では"並び立つ"と言えないほど距離が空いていたけれど、後者では主人公(姉)が妹の肩を組んでひっついています。


 姉妹仲がこじれるまえ、妹が油絵をがんばるに至った過去のシーンでも二人はひっついていたけれど*2、その頃は机で本を読む姉(画面左)を顔だけ振り向かせて、妹(画面右)が後ろから抱きつく……というもの。姉妹の位置関係は前後で縦並び、一方通行でした。


 現在の時間軸の、主人公が文字どおり筆を折る(=鉛筆の芯を折る)に至ったシーンはどうでしょうか。
 姉{画面右(にいるだろう。p.15第5コマでは、姉が開けたドアが描かれているけれど、姉自体は画面外)}が妹のドアを開け、自室で本を開いて書き物をする妹(p.15第5コマ。画面左)を身体ごと振り向かせることではじまります。前後に近い立ち位置だ。
 「脱げ」と指図する主人公も妹も同じ部屋にいるはずなのに、距離は大きく開いていて、デッサンがはじまるまでの2ページ計9コマのうち、ふたりが同じコマ内に収まった構図はひとつもないのでした。


 第16ページからの妹をデッサンするシーンはどうでしょうか。
 始まりの1ページ丸まるつかった大ゴマに裸の妹がベッドへ横になった姿は、上述コマこそ第2ページ大ゴマによる裸の姉の絵と似たような構図ながらも、後の描写からじっさいの立ち位置としては別にふたりは正対しているわけではないとわかります。
 第19ページ6コマ目が位置関係をつかみやすいですね。ベッドで横になる妹(画面左)を、ベッドの長辺の真ん中より少し足側に置かれたキャスター付きイスに姉(画面右)が妹と90度ちがう向きで座ってスケッチしています。体勢こそちがうけど、ふたりの体の向きは前段の「脱げ」と指図しているときに近い。
 半分横を向いて、半分正面を向いた、前後とも左右とも言える位置関係となっています。
 妹をモデルにしたデッサンにまつわるシーン計8ページのうち、おだやかに進む前半4ページには二人が同じコマ内に収まる構図が3つあり、距離はちぢまっています。
 気まずい沈黙でおわる後半4ページには、ふたりが同じコマ内におさまることは一度もないのでした。

 そこから主人公が妹の画と相対したり、自室にこもったりなどの孤軍奮闘をへて、この章の最初の文でふれた、姉の画と相対するふたりが距離ゼロで横並ぶ構図をむかえることとなります。

 

 姉がさきを進み妹があとを追うことで近しい存在だった二人が、妹が追い越したことでいったん離れるも、姉がまた駆け出して近づく。
 元鞘に戻ったわけではない。追う追われる関係でなく、ふたりが隣り合い並び立つような新たなかたちへと変わっている。
 ……上記は、ふたりのその時々の物理的な立ち位置やその変化を追っただけなんですけど、そのまま心理的な距離感・関係性の言い表せているように思えます。

 


 漫画というメディアは誰かがなにか絵を描かなければ白紙が広がるだけのメディアです。
 心理というのは根本的には目に見えません。
 表情でわかる部分もあるだろうけど、わたしたちは本心を隠して笑顔を浮かべることだってできます。クレショフはかつて、同じ顔でも前後の描写の関係で、まったく違って見えることを実験で確かめました。

 描きえぬものをいかにして描くか?
 物語だからそうした部分を心の声として言語に起こし直截に説明することもできるし、あえて描かず含みを持たせてさまざまな解釈を内包することだってできる。

 心の声という表現は、じっさいぼくらも頭のなかだけで文章をこねたりするもっともらしい表現で、「IQ300」といった説明に反して天才的行動をまったく見せないキャラに感じる白々しさは覚えません。
 見えないものを見えないかたちで表すのは、白紙が広がるのとはわけがちがう。それはそれで現実的な、当然の回答です。

 一方、
「漫画は描かれた絵を見ていくメディアだ。絵による表現物という持ち味を活かしてほしい、文字だけで済なら小説を読めばいいじゃないか」
 そういう向きもある。無茶なことをおっしゃる。気持ちはわかるが無理難題です。

 そういった意味で、『妹の姉』は問題作です。
 描きえぬものを描こうとして、じっさい描きえているのだから。

 面白い漫画を読んだと満足しながらエンドマークを踏みました。

 

ここまででの感想でふれたことって、漫画以外でもできる表現じゃない?

 視覚による表現物はなにも漫画だけじゃないわけで、うえのような面白い表現は、映画を適当にポチってみても少なからず拝めたりする。
(じっさい上の文章も、識者の映画評を2,3思い浮かべながら書きました)

 もくもくと練習にはげむ主人公の姿にぼくが心打たれるのは、いくつかの絵がそれまでの主人公の姿と重なることで、酸いも甘いも乗り越えて糧にする態度を見出してしまうからでした。
(たとえば第31ページのベッド一面にひろがる紙束のなかで、いちばん手前にある中央の絵に描かれた、左ヒザをたてて抱え込むようなポーズ。これは第18ページ3コマ目で主人公の姿に似ているし。
 第32ページ3コマ目の、背中を丸めて床に両手をついた人のデッサンは、第24ページ1コマ目の机に突っ伏しだらんと両手を伸ばした主人公に似ている)
 だけどこれも、映画でだってできそうと言えばそうだなあとも思います。これは別の映画のネタバレなので脚注に隠しますが、書いていて実際こういった作品のこういった展開とかが思い浮かびました。*3

 

 

漫画としての強み。姉妹のデッサンシーンのコマ構成を主に

 

 漫画として面白かったのは、姉が妹をえがくデッサンシーンかもしれません。このシーンは、漫画ならではの強みを感じました。
 コマの構成によって調和と不和が、見事にコントロールされているのです。

 

 デッサンシーンの3~4ページ目である第19~20ページ、そこからページをめくった第21~24ページの対称性・対照性を書いていこうと思う。

 第19~20ページの見開きは、リラックスした空気があります。

「お姉ちゃん……」「と」「話すの…… 久しぶり……」p.19 3コマ目

 横長のコマいっぱいに妹のセリフ(フキダシ3つ)が広がるこのコマは、姉妹が一つのコマのなかに収まった構図となっている。
 このコマのうえに並んだ1~2コマ目も、見かけの位置どおりにページ右の1コマ目に姉の顔(画面左方へ顔を向けている)、左にある2コマ目に妹の顔が描かれてあって(画面右方に目線を向けるような顔)。
 横長の第3コマの下にある4~5コマ目も、同じサイズのコマを縦に並べて、4コマ目のきもち画面右側に姉、5コマ目の画面左側に妹を描いて、ふたりが向かい合うような構成となっています。
 見開き左ページの一コマ目、鉛筆を絵に向ける手から始まった第20ページの会話も、姉のハダカを想像で描いたと述べる妹へ主人公がかえす返事は「…キモ」と言葉こそきびしいが、フキダシに乱れはなく、どこか穏やかです。
(人によっては、嵐のまえの静けさととらえるかもしれません)

 

 第21ページ、姉の進路について妹が尋ねたところからこの構成は崩れ始めます。
 コマ内のイマジナリーライン※は乱れることなく、そのまま維持されている(※映像用語。ここでは画面右に姉がいて、左に妹がいる構図はそれまでとかわらず共通しているという意味です)のだけど、コマの並びによって、二人はそっぽを向いているように見えます。
 同じ段に横並びされた第1~2コマは、ページ右にある1コマ目に妹(目線は画面きもち右方)、左に姉(顔は画面左を向いている)が描かれて、その下の第3~4コマも同様。
 横に長い第5コマの下の、第6~8コマも同様でした。縦に長い第6コマ目は妹が描かれ、その横に積まれた第7~8コマは真左を向いた姉の顔が描かれています。
{この第21ページのコマ構成は、第19ページとよく似ている。
 どちらも見開き右のページで、まず横並びのコマが1組ないし2組あって(そのコマで姉妹の会話がなされ)、ページを縦に分割する横長のコマがあり(そこにはどちらも画面真左を向いてスケッチブックに鉛筆を走らせる姉の姿がある)、横長のコマの下には、横棒が半分欠けた「田」の字に組まれた3コマがある}

 

 見開き左ページの一コマ目、紙にむかう鉛筆からはじまった第22ページからも恐ろしい。
(このページからつづくページは第20ページを踏襲しています)

 「姉の絵を見た」という旨の妹の言葉の次のコマは、「パキ」と鉛筆が折れるようすの接写した大きなコマです。第20ページが無音で〆られたのに対して、第22ページは物音で〆られるわけです。
 第20ページで影のかかった3コマが横並びになった段のすぐ下にページ右のコマに姉・左のコマに妹が横並びで写された段があったように、影のかかった3コマが載せられた第22ページにつづく第23ページも、ページ右のコマに姉と左のコマに妹が横並びになっています。
 ただし、まえのページとちがって無音でもなければ無表情でもない。
 姉は眉間にしわを寄せて愚痴をぶちまけて視線をそらし、妹はぽかんと口を半開きにして目を見開いている。
 姉妹がコマを挟んで横並びになったあとは、第22ページでは無音無時間的な俯瞰ショットが待っていました。
 対する第24ページは、口数が徐々に減って気まずい沈黙が下りるまでをリアルタイムで描き出しています。

 調和と不和、穏やかさと騒がしさ、静と動……コマの組み合わせで生まれた強烈なコントラスト。

 そういったわけで、「すごい漫画を読んだ」と書きました。

 

 こうしたコマの組み合わせによる面白さは、終盤にも使われています。

 第39ページ、横並びになった第1~2コマ、第3~4コマは、ページ右の奇数コマに真左をむいた姉の顔があり、ページ左の偶数コマに画面奥を向いた妹の後頭部が描かれていました。

 第37ページ3コマ目で位置関係と体勢が示され、第39ページ1コマ目に写る肩の向きから姉がそこから動いていないことから察するに、本来であればふたりは絵のほうを向いて視線は平行線のはずなんですけど、コマの構成から、画面右にいる姉が左にいる妹へ向いているように見えます。

「妹よ 教えてあげよう」p.37第3コマ

腕を組み目をつむって言葉もえらそうな姉の姿が、なんとも優しく見えるのは、単にこれが姉がわざとそのようにふるまっているからというだけでなく、このコマ構成の妙による効果もあるんじゃないでしょうか。

 

 

 

蛇足・うまいこと文章に組み込めなかった感想

 日を置いて再読したとき、地味に「よい」と思ったのが、ディスコミュニケーションのシュールな不条理劇の担い手であった担任教師の役回り。
 担任がはたして愉快犯なのか、あるいは伝統を重んじる硬直した頭の持ち主なのか、それとも飾ったことの弊害を考えられないほどの鈍感(無能)なのか、初読時はよくわかりませんでした。

 読み返して、ようするにあれは、妹の執筆経緯を知っていたがゆえ、あれを倫理的によいもの(というか、敬意から生まれたエモいものというか。少なくとも被写体を傷つける意図のないもの)だとしか見れなかった人だということなんでしょう。
(あるいは、別のかたちで最悪な人間かもしれない。 姉妹間になにかあるのを察して、「妹と話してみろ」と投げかけたとか。これはこれで危うい、余計なお節介になりかねない)

*1:p.32第4コマ。ちなみに胸も下半身も水着を着用している

*2:p.27全コマ。くっついてると明示的なものは第1~4、6,8コマ

*3: フレデリック・ワイズマン監督『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』の幕引きで、死んだように眠る女がふわりと起き上がるところにどうしようもなく浄化されるのは、それまでの上映時間160分くらいを延々と地に足の着いた現場のもようを映しつづけてきたからだ。(長い長いストレッチをしたり、地べたに座って靴の手入れをしたり、休憩時間に壁の鏡を背もたれ代わりに眠ったり、メディカルコーチから整体を受けたり。人事が「いまは欠員はなく、募集はだいたい…」と繰り返したり、引き抜いた有望株と面談したり、事務が講演を巡って丁々発止の商談をしたり、指導者がインタビューに答えたり、そのなかで「体が動かないことへの不満はありませんか?」という質問が出て来たり、バレエダンサーが練習場室内を犬の散歩につかったり、公演先でその他大勢とおなじく観光してジャンクフードを食べたりビーチで遊んだりジェットコースターのつくりだす重力に振り回されたり……とても高尚とは言いがたい、下世話で、所々くたびれた、ふつうの生活がうつされる)