すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

手も足も出せない状況で動くということ;『ワイルド・アパッチ』感想

 先週平日はなにも映画を観ませんでした。休日についても、日曜は仕事があり帰宅後疲れて眠り、土曜日は日曜への準備に疲れて一日じゅう寝たために、なにも映画を観ませんでした。

 映画館はおろかコンビニへも足をのばさなければ、DVDを入れ替える手さえのばしません。

 上記について、ブログを始めてしまった手前、文章エディタを開いてみてなんとなしにたたいた結果、なにもしなかった理由が無理やりこねくり出されただけで、じっさいのところは意味もなくただただぼーっとしてました。


 過去メモ帳に書いてきた文章のなかから、再利用できそうなものを取り上げてお茶をにごすこととします。

 『名探偵ピカチュウ』の感想を書いた流れで、ぼくの好きな探偵映画の話をします。
 ロバート・アルドリッチ監督『ワイルド・アパッチ』。

 傑作西部劇として知られるこの映画をそんな理由になってない理由からそんな方向で紹介するあたり、ぼくの引き出しが残弾がどれだけ乏しいか如実に表れていますね。
 と言いながら紹介ではありません。
 紹介したい気持ちはあるんですけど、その辺の面白さをネタバレせずに伝える能力がぼくにはないからです。

 6000字くらいの感想です。*1

 

※以下、ロバート・アルドリッチ監督『ワイルド・アパッチ』のネタバレ感想です。ご注意ください※

 

 

 ざっと感想

 ぼくが『ワイルド・アパッチ』を観たのは、今年の1月20日のことです。
 『ワイルド・アパッチ』は、ロバート・アルドリッチ監督による西部劇で、居留地から逃げ出し蛮行をはたらくアパッチ族の集団を、騎兵隊が追いかける追跡劇/逃走劇です。
 今作の追跡は、若い将校が伝統的におこなってきた実績づくり的なお役所仕事で、それを補佐する中年のベテランカウボーイが主人公です。

 アルドリッチは『北国の帝王』や21世紀になってリメイクもされた『ロンゲスト・ヤード』や『飛べ! フェニックス』が有名ですが、日本のある方面の映画オタクにとって知名度が高いのは『ワイルド・アパッチ』でしょう。

 映画批評家蓮實重彦さんが西部劇50選にえらんだり、映画監督の黒沢清さんがオールタイムベスト映画として挙げたりした作品です。

 ぼくは聞きかじりばっかりのダメなオタクなので、彼らがどのような評論をしているのか、全く知りません。

 ということで以下は、先行文献をまったくふまえていないダメ人間の感想です。

 

 ぼくが『ワイルド・アパッチ』について知っていたのは、劇中先住民に襲われたひとが切り取られた「愛犬の一物*2」を口にくわえさせられて殺されている残虐なシーンがある、怖くて暗い映画らしいということだけです。
 なので、今作を観るまえの予想としては、「いくつか観てきたアルドリッチ映画の御多聞に漏れず、情念を爆発させた中年が脂ぎり汗だく目を血走らせるさまをどアップで長々と捉えるような、そんな作品なのだろう」とてっきり思ってました。

 しかし、 ふたを開けてみればどうでしょう、『ワイルド・アパッチ』はそうした怨念めいた情動をとっくのとうに枯らした中間管理職が、それでも湧く感情を渋面に閉じ込めて、淡々と目鼻頭を働かせ、老体に鞭打ち、わずかな痕跡をつかみだし相手の裏をかかんとするお仕事映画ではありませんか。
 話題のショッキングなシーンも、本編を見てみるとまったく印象が異なります。
 逃げ手の先住民武装集団は、痕跡が残る/追手に発見され得ることを大前提にして、それを逆手に取ったレッドヘリングをしかけるんですね。その一つが上のショッキングなシーンなのでした。

 アルドリッチ監督作品を(よくもわるくも)暑苦しい映画だと思っていたぼくのような輩にとって、『ワイルド・アパッチ』は蒙をひらくような作品でした。

 

さまざまな視差から描かれるさまざまな地獄

地獄めぐり? 探偵映画?

 『ワイルドアパッチ』は、ほかの人の感想でも言及されるように、センセーショナルな惨状を目にする地獄めぐりです。

 それと同時に、秀逸な探偵劇・追手と逃げ手が策を練り合う追跡/逃走劇でもあります。

犬の尾を口に含んだ開拓者について

 たとえばはげしい拷問を受けた結果として体を血や腫れで赤く膨らませ、さらには、愛犬の尻尾を咥えさせられて野ざらしにされた開拓者の死体。
 そんなむごい姿に新人将校が息をのむ一方で、中年カウボーイは開拓者に硬い表情で近寄る。
 死体を弔うためではありません。その股下の灰に手を当てて、先住民がここを発ってからどれくらいの時間が経ったか確かめるためでした。
 その前段なにもない荒野で、馬糞を手に取りその乾き具合からどれだけ時間が経ったかを推定したのと同様に、追跡術のルーチンワークを行なうために近づいたのです。

「まだぬくい……目標はそう遠くへ行ってないぞ」
 そんな西部劇などでよく見る紋切型を、『ワイルド・アパッチ』は異様な状況下で行うことによって、追跡者の異様な練度を描いてみせます。

 

水を口に含もうとした夫人について

 もう一例、強姦された夫人について。映画の後半で騎兵隊は、先住民武装集団から襲撃をうけたべつの開拓者一行の農場を訪れます。

 前半に登場した農場とちがって、こちらには生存者がいましたが、そのせいで騎兵隊員はさらなる地獄を見ることとなります。

 生き残った夫人は、大の成人男性が「死なせてくれ」と懇願するようなひどい拷問を夫が受けるのを目の当たりにしており、自身も暴行をうけたために「洗わなきゃ」とうわ言を繰り返して下半身を何度も洗い、しまいには顔を水につけて投身自殺をはかってしまう。

 フラッシュバック・記憶の再現というかたちで、過ぎ去ったはずの惨劇をいまここに蘇らせてしまう生存者のふるまいは、場合によっては物言わぬ死体よりも雄弁です。
 そんな彼女のいたましいようすに、新人将校は心を痛め、多数の人員を配置し護送を行なおうとします。
 これに異を唱えるのが、中年カウボーイです。
「死ぬまで慰み者にする先住民が、そのまま夫人を生かしておいた理由はなにか?」
 護送のため人員を割かせることで兵力を分断する作戦だからだ」
 中年カウボーイは喝破してみせます。

 

 人の心身をかきみだす無意味なまでに暴力的で無常な終末的風景と、そこから長年つちかった経験から論理を意味をみいだすプロの仕事。『ワイルド・アパッチ』はそうした展開の連続で、魅力的な謎とその解決をいくつもあつかったミステリの面白味があります。猟奇事件はミステリの華でもありましょう*3

 

 誰かにとっての地獄、誰かにとっての日常

 『ワイルド・アパッチ』はまさしく地獄めぐりでしたーーはじめて先住民追跡に参加するクリスチャンの新人将校にとってみれば。(もちろん、地獄になってしまったところの住人ーー開拓者一家やその護送に関わった騎兵隊にとっても、そうだったでしょう)

 砦から出発のさいは一歩一歩足並みそろえて行進させた将校の足取りは、追跡がすすむにつれて重くなり、態度や作戦は荒々しくなり、制服も汚れて着崩すようになります。

 他方で、追跡者のひとりであるベテランの中年カウボーイにとっては痕跡を探偵し逃走犯の知略を読み逆転の策をこうじる追跡劇でありました。

 

 彼らの態度を分けたのは経験や知識による差でしょうし、今作がお仕事映画として徹せられた(=アルドリッチ監督が何作も手がけてきたグツグツ怨念劇にいかなかった)のもまた、そうした視差のちがいが大きいのではないでしょうか。
 主人公の中年カウボーイができた人かつ浮いた人で、劇中主要人物と怨恨関係に(あまり)ないのです。
 中年カウボーイは騎兵隊と異なる服を着る部外者で、劇中騎兵隊とちがって、じぶんと同じ服装の仲間を惨殺されたわけではないから、劇中先住民がしたのの合わせ鏡みたいな残虐な報復に燃えることもないし。
 先住民を妻にもち(おそらく恋愛の発展として結婚した)、西部での生活も長い彼には、劇中先住民の暮らしについて良くも悪くも理解があるから、行く先々で遭遇する先住民徒党による惨劇に心乱されることもない。

 むしろ怨恨が生まれるとしたら味方である新人将校との間だろうけど、こちらに対しても両者の着ているものが違うように、心理的な距離があります。
 主人公の進言を(一部)無視して下策を講じたり、主人公へ八つ当たりをしてくる新人将校にたいして、中年カウボーイは一歩引き、年長者として教師的な立場で接せられてしまう。

 

 怨念グツグツ劇に向かう分かれ道は幾本もありました。

 たとえば新人将校の下策で相棒を亡くす軍曹だとかが主役だったら?

 あるいは、新人将校がもっといけすかないやつだったら?
 ……ちょっとした違いで、皮膚じゅうに汗を浮かべて瞳孔開きっぱなしのアップショットがたくさんの映画になったと思います。けれど、そうならなかった。
 劇中さまざまな人々が動いていて、それぞれの視差を同一画面上に収めた作劇が面白かったです。

 

物語なんて見出しようがない無常のなかで、かぼそくとも何かをつかみだすこと

 物語なんて見出しようない無常ぶりについて

 そうした状況とその対処から成る今作は、一見すると、ある状況下の人について取材したさまを並べたようなドキュメンタリーを見ているような、物語的な文脈なんてないナマの時間を切り取ったみたいな印象を抱きます。
 そうした印象をつよめる要因はいくつかあります。

 

 まず、さまざまな人や場を点描するような、群像劇的な側面も影響しているでしょう。
(中年カウボーイが主役の映画だけど、映画の冒頭はまず新人将校について時間が割かれるし。将校もカウボーイも絡まない、名もなき騎兵隊員と開拓者一家のようすにも映画の尺と製作費とがかけられている)

 まさしく点描といった映しかたで、そうして登場した人物は状況は、唐突に投げ出されたような〆を迎えることも多い。

(冒頭の、追跡劇がはじまるまえの劇中野球の模様からして示唆的です。騎兵隊の新人将校が審判をつとめる試合の模様は、かれが外を気にしてばかりいるせいで判定がめちゃくちゃで、あげく試合は先住民に関する急報が届いたことで打ち切られてしまいます)

 「こうしたからこうなった」「ああしなかったからああなった」というようなつよい因果関係や教訓的な何かを見出せるような取り上げられかたはしていません。

はたして、自分の守るべきもののために戦った結果死んだ犬の尾を詰められ殺された開拓者と、自分の守るべきもののために死んだ母の指をくわえた開拓者の息子と、何が違いがあったのだろう?

 そりゃあなにか理由を考えていけばなにかしらこねくり出せるだろうけど……)

 

 あとは、劇中行動が無軌道なものであると説明されたりするところも、そうした散文的な印象を補強しそうですね。
(先住民の暴力について劇中でナンセンスだと、「(我々には理由がわからないけど、本人たちは)面白いと思ってやってるんだろう」といった旨の説明が話される)

 上に書いたとおり中年カウボーイは、無情な地獄におもえる世界に意味を見いだしうる有意義な行動をとりうる存在ですが、彼のそうした達観がはたらくのは追跡者としての職分のかぎりにおいてで。新人将校のやることや命令については、それが無知で間違っていようと私怨で歪んでいようと手も足もだせず、上官にしたがう部下として控えめに口出しすることしかできません。

 将校が経験不足の若者ゆえにくだす考えなしの行動の弊害をもろに食う中年カウボーイ、その姿には肉を切らせて骨を断つ英雄的な恰好よさもなければ、尊い自己犠牲の抹香くささもありません。

対比変奏、前半と後半ふたつの籠城戦について

 しかし、よくよく振り返れば、映画のなかで中年カウボーイによって意味づけられる襲撃跡のもようだけでなく、映画劇中のいま・ここで映されていくアクションシーンについても、展開を並べて比べることができるくらい文脈だてられているのではないかとぼくは思います。(なので、文脈がないと気が済まないぼくのようなタチでも楽しむことができます)

 

 前半~中盤の見せ場である、名もなき居住開拓者vs先住民たちのシーンがどんなものか書いてみましょう。
 自分たちで建てた家にこもっての籠城戦で、開拓者は(先住民の鳴らす)偽の軍隊ラッパを聞くと神に感謝し、喜色で外に出た結果、先住民に殺されてしまう。
 彼を襲った暴力は凄惨極まり、オープンセットの大きな一軒家を丸々もやして燃えカスと化した柵に、もたれかかるみたく野ざらしにされた死体は、体中が赤く染まり、やけどと殴打との両面から膨れ上がっている。それだけなら痛々しいだけだが、おぞましいことに、その顔には白い犬の尾が咥えさせられている。

 

 こうした異様を、『ワイルド・アパッチ』はきれいに整理してみせています。

 終盤クライマックスのアクション・シーンを見てみましょう。
 中年カウボーイは馬車の下に隠れて即席の籠城戦をしている際、本物の軍隊ラッパを耳にして落胆してしまう。
(中年カウボーイが陽動し、若い将校たち騎兵隊が奇襲する作戦だったのに、わざわざ音楽を鳴らしたせいで先住民が逃げてしまい、目論見が台無しになったためだ)。
 映画は、首に赤い筋をつくるなど、息も絶え絶えの(そして劇中もう助かる見込みがないと説明される)彼が、騎兵隊らと別れてひとり崖にもたれて、隊員からもらった白い紙煙草をなめるさまを映して幕を閉じる。

 

 ……どちらも、籠城戦のすえ、外から聞こえてきたラッパの音に喜び/憂い、地面と壁とで「L」の字に座った赤い傷だらけの男が、白いものをくわえさせられる/くわえるかたちで展開していきます。

 

手も足も出せない状況で動くということ

 世に言われるとおり、暗い作品です。
 この映画の終わりもまったく嬉しいものではありません。

 上の対比を念頭にしてふりかえってみると、『ワイルド・アパッチ』の無残な死にまつわる光景について上の二者だけにとどまらず、何かを口にするアクションがほかにもアレコレ出てくることが気になってきます。
 映画の後半で悲惨な目にあった開拓者のある夫人は、前述のとおり水に口をつけて死のうとします。(が失敗する)
 序盤で、開拓者の疎開を護送する途中アパッチに襲われたとある騎兵隊員は、先住民よりはやく拳銃を手に入れるや否や口に咥えて発砲自殺し、口から紫煙をはきだします。
 地べたに座った開拓者の子供は、死んだ母の指輪を指ごと獲るべくナイフをふりかざす先住民にたいして、母の指をくわえて指輪を抜き取り渡すことで遺体をまもります。(が指輪は手元に残らない)

 何をしようと文字どおり手も足もだせず、のたれ死ぬばかりで満足な人生なんてろくすっぽ送れない世界です。

 

 ひるがえって今作の幕引きで中年カウボーイがむかえた最期はどうか?

 ぼくは、そんな身もふたもない世界のなかで――直近で挙げたひとびとや開拓者の父とおなじく、手も足も動かせないのは変わりありませんが、そんななかでも――なんとか自分の思い通りに動けた自由をとらえたように思えてなりません。

 あまりにもちっぽけでみすぼらしいけど、これを幸福と言うのは嘘っぱちの取り繕いで言ってるそばからむなしくなるけど、でも、そういう形の自由もあるのではないか。
 そんな風に思うのです。

*1:更新履歴;最初5500字くらい⇒5/25で6000字くらい。話題に出した『ドイツを焼いた戦略爆撃』の当該箇所の引用をしっかりしたり。

*2:と字幕で訳されていますが、原語はdog's tail。どっちなんだ。今回の感想では尻尾で統一します。

*3:……と言っておいてなんですが。

 夫人が置き去りにされた理由は、つまり現代でいうところの、地雷や手榴弾が用いられるのと同じ理屈ですね。


 馬の脚など兵站を気にしつつ、目標に向かって進む『ワイルドアパッチ』は、アルドリッチ監督による戦争映画よりも(上官からの無理難題を主要人物の英雄性や根性で乗り切るような『攻撃』や、異常者たちを前線に送り込んで案の定異常心理が爆発する『特攻大作戦』よりも)、はるかにシステマチックな戦争・戦術を描いているように思えます。
 『ワイルド・アパッチ』ではそのほか、追手が使えないよう水源を汚すなんて場面もありますが、これも――もちろん、植民者・先住民間の紛争から例を引くこともできましょうけど――戦争から類似例を挙げることができそうなトピックです。

(後年88年公開の戦車映画ケヴィン・レイノルズ監督『レッド・アフガン』にはそのものズバリなシーンがありましたし、『ドイツを焼いた戦略爆撃』によれば、現実のWW2の空襲では、消火に出てくる消防隊を見越した爆撃を仕掛けたそうです。

それに対して、攻撃側によく分かっていたのは消防隊の侵入による効果である。もし消防隊が到着すれば、炎は発火点から街区を越えることはできない。消防隊が来れば、火災は面となって広がることはない。消防隊は二つの場所に到達しなければならない。火元と水場である。爆弾はその行く手を阻む。前方に重い頭部、後方に軽い垂直安定板を取り付けた型の爆弾は地中深くまで入り込み、水道管をズタズタにする。さらには通りが穴だらけになり、もちろん短時間ではあれ、通行不可能となる。そうなると、瓦礫を片付け、川か、用心のために設けられた防火用池から水を汲み上げなくてはならない。時限信管を装着し比較的軽量な破片榴弾が地表に残り、周囲で攻撃を広げる。それは爆撃機が去って数時間してから爆発し、弾丸様の破片をまき散らすのだ。消防士たちはその間避難を余儀なくされる。

   みすず書房刊、イェルク・フリードリヒ著『ドイツを焼いた戦略爆撃』p.13「兵器」より