日記です。7000字くらい。久々映画館行ったり本読んだり。『日本SF精神史』おもしろい、『ヴィクトリア朝時代のインターネット』全編最高という感じの週。
※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※
0204(火)
■みた夢■
部屋にそれなりの埃がたまって怒られる/のどが痛くなる夢
あまり見かけない夢でした。
転居さきの家が夢の舞台で、じぶんの生活圏がついにここになったんだなと思いました。
日曜夜~月曜朝の宿直室で粘膜をいためた(月曜夜鼻水をかんだら鼻くそに血がまじっていた)のと、2/4(火)午前1時過ぎまで財布を探していたのと、部屋の掃除があまりできてないのと、あと火曜朝にゴミ出しをしなきゃいけない気持ちが絡まった結果のように思える。
■書きもの■
ちょい前に話題にした本の感想は、収録作2作の感想以外がいまだに書けていません。
ほか4作については別にとくだん変わった読み方をしていないので、さらっと流してしまうつもりなんですが。タイトルの元ネタやエピグラフの作品など関連作についてもせっかくなので読み、感想文にもちょっとした紹介的な文章を記したいなぁとやっていったら、計3万字になってしまった。
0205(水)
■読みもの■
長山靖生著『日本SF精神史』読書中メモ
それは何ですか;幕末から明治、戦後までの日本SF史です。
読む人への注意;現在は紙の書籍で【完全版】が18年3月より出版されていますが、電子書籍が出ているのはいまのところ旧版だけ。
なんで読んだ?;「某書再読・感想のための補助線的資料とならないかなな?」と思って読みました。
『日本SF精神史』は『【完全版】』が後に出版されましたが、そちらは某作の初出が2010年夏コミの同人で、商業誌再録が2011年7月のため、09年12月発表のこちらをまず読みました。(某書に再々録が19年8月なので、本当はどれも読まなければならないんだけど……)
読んでいる感想; 上述の理由のために読んだんですがめっちゃ面白いです!(毎回言ってるなぁ) 特別な事情がないかぎり【完全版】のほうを読んだほうが良い気がします。3000円出してもお釣りがくるような内容です。
文中にも横田順彌氏の名と仕事ぶりについて触れられているとおり(?)、横田氏が紹介した作品もかなりあり、要約もかぶる部分が出てきはします。作品についての同時代人の反応的文献さえ、同じ文献の同じ文言が引かれていたりさえする。
{個別の作品(の中身)紹介という意味では、横田さんの研究群のほうが、あらすじの文字数が多い}
ただ、横田さんの本は(ぼくは恥ずかしながら全部追えてないので、以下の印象は識者からすると「いやそんなことないよ!」とツッコミいただきそうですけど。2011年にピラールプレス社から明治編が出版された、SFマガジン連載『近代日本奇想小説史』は未読ですしね……)いくつか読んだ感じ、雑多であったり(『日本SFこてん古典』、雑多な明治ネタの一つとして『明治不可思議堂』)、あえてテーマ別で編んだり(『明治「空想小説」コレクション』『百年前の二十世紀』)……とされていた印象があります。
長山著『日本SF精神史』のように、時系列順に紹介し史的展開を追うかたちの本は、意外と無いのかもしれませんね。
また、同じ文献が引かれていても、横田さんの原稿とは引用文の送り仮名が違ったりするものもあり、長山さん自身が元の文献にあたって読み直したのだろうことを覗かせます。
(たとえばヴェルヌの『八十日間世界一周』については、横田さん『日本SFこてん古典』での紹介と同じく、"「ピンチの切り抜けかたが、神仏ないし妖怪の類にたよる中国や日本の小説とちがって『八十日間世界一周』は金で解決する展開だ」との旨を評した栗本鋤雲の評"を引いた木村毅の論考から孫引きがなされている。
けれど、横田さんの引用が「兎に角変つてゐて面白い小説だ。」なのに対し、長山さんは「兎に角変はつてゐて面白い小説だ。」となっている)
『日本SF精神史』で紹介される作品のなかには現代の第一線で人気を集めるような作品とおなじ線上にあるものも結構ある。
『はたらく細胞』のご先祖様と言えそうな作品があったり、『輪るピングドラム』のこどもブロイラーを思わせる辺りの人間観が見えるような社会派SFがあったり、作者の経歴がとにかくとんでもなくエラかったり、『Fate』シリーズ的な偉人大集合バトル物があったり。
また、コンテンツとしての雑誌展開もすくわれていて、雑誌の読者参加企画が双方的で(情報交換の速度を除けば)「いまの創作系SNSやTV番組・ネットラジオ配信企画がやってるのと、そう変わらないのではないか」と思わされたり……と蒙を啓かれる内容で、クリックするたび「はぇ~~」ってなってますし、ぼくのKindleには赤線引かれまくってマーカーの意味をなしてない。
義経=ジンギスカン説の根強さについてよく知らなかったので、長山さんの偽史にも手を出したいっすね。本の、というよりはそっから見た『ウィキペディア』の感想なんですけど、義経=ジンギスカン説が英訳されてて、ケンブリッジ大学の卒業論文として提出されていたとは知らなかった。つよい。
……しっかし、こうした本を読んでいてしみじみ思うのはーー円城塔さんが言ってたんだかどなたが言ってたんだか忘れましたがーー「本当」と「本当らしさ」はぜんぜん違うなあと思いました。
事実は小説よりも奇なりで、いろんなひとがSFを書いていることが(あるいは前述のとおりSFのつもりなく真面目に論文書いたけっか現在では笑ってしまう陰謀論・偽史であったりを書いていることが)記されていて、
「そんな社会の教科書に載ってないことがない国を動かすビッグネームが、まさしく国を動かすことと関係するものを、そんな語り口で!?」
と驚くばかりなのですが……その「本当」を小説内にそのまま・あるいはモデルにしてそれに近いかたちで書いたとしても、とても「本当らしい」こととは思えなさそう。そんなやついないでしょうと。妄想が過ぎると。
常ならぬことが多々ある現実と、読者の常識内とのあいだでうまい塩梅を見つけられるバランス感覚(やあるいは読者の認識を改めてしまう筆力)は、フィクションやフィクションの書き手にとって重要そうだなあと思った。
0206(木)
宿直日。
0207(金)
宿直明け日。
頭痛がひどかったので、0201に出勤したぶんの振り替え休日をここに振らせてもらって一日やすむ。9時~18時30分まで寝る。これはこれで健康にわるそう。
■探しもの■
引っ越しのさいに売るつもりのなかったものを売ってしまった
バクスター著『ゼムリャー』が面白かったので、『ジーリー・クロニクル』シリーズを本棚から探しましたが、 引っ越しに際し身軽になるためアレコレ売り払った本のなかに紛れ込んでしまったらしく、どうにも見つからない。マンガ以外はそんな詰めた覚えがないんだけど、どうして。
『ジリクロ』は未読のまま十数年単位で寝かしていたけど、表紙がかっこよくて好きなので断捨離対象には絶対いれてないはず。積ん読なら売るな、そういうことなのかもしれません……。
(2/8追記;勘違いでした)
0208(土)
朝~昼は遊んで、昼~夕は家で休み、夜は急な呼び出しを受けました。
■探しもの■
売ってしまったと思った本を売ってなかった
「見つからなかったので売ってしまった」と思ったバクスター著『ジーリー・クロニクル』シリーズがついに見つかりました! 開いてない段ボールがあり、そこに忍び込んでました。その過程でまたさまざまな本が見つかって「あれも読みたいこれも読みたい」となり、また新たな積ン読の山が生まれてしまった……。
■観たもの■
小島正幸監督『メイド・イン・アビス深き魂の黎明』鑑賞メモ
を高校時代の友人たちとぼく含め3人で観に行きました。 最高でしたね……。映画館の大音響でペンキン音楽が流される/大画面で『MiA』のけなげエピソードが映されると自動的に泣いてしまう脆弱性が判明した。
それは何ですか;つくしあきひと氏による人気漫画の人気アニメ化第2弾で、お話はTVシリーズ版からの続きですが、そちらのあらすじ紹介はまったくなし・OPアニメもなし、という作り。
序盤のあらすじ;「奈落の底で待つ」孤児院的なところで勉強したり島のお手伝いをして暮らすリコは、島の穴アビスの深層へ行ってみたい探窟家志望。リコの元に母の白笛とともに届いた謎の手紙をきっかけにして、リコはアビスへの探窟の旅に出る。相棒は未知の技術で作られた人造人間(?)で記憶喪失のレグだ。手紙の主は誰なのか? 凄腕の探窟家"白笛"のひとりであった母なのか? 母に近しい者か? レグははたして一体何者なのか? リコをつきうごかすものは色々あるが、なかでも一番おおきいのはあこがれだった。
誰も辿りついたことのない深層をこの目で見たい。
喜怒哀楽さまざまな経験をへてもこもこのナナチという仲間もできリコは第4層を降りていく。(ここまでがTVシリーズ第一弾)
リコレグナナチの3人組は第5層へと辿りつく。人が人の姿をとどめたまま帰ってこられる地上へ限界域だ。母はさらに下へと降りた。そして戻ってこなかった。
6層へ降りるための前線基地には、先客がいた。"白笛"黎明卿あたらしきボンドルドとその配下祈手(アンブラハンズ)だ。ボンドルドは浮浪児たちを集めては実験をしている狂人であり、ナナチをもこもこにし、ナナチの友達ミーティをどろどろにした張本人だった。さてどうなる!? というお話です。
観てみた感想;『MiA』との付き合いは、アニメ版総集編が公開されるまえ(たぶん一昨年の秋~冬あたりに)、友人宅で一気見したところから始まりました。(今回の鑑賞メンバーは件の宅のひとT氏と、先日スイッチを一緒にやったS氏)
ボンドルド編はTVシリーズ一気見したあと興奮したまま原作まとめ買いして読んだきりでしたが、改めて観て、原作のつくしあきひとさんのエログロにはかっちりとした文脈があり、うまいなあと思いました。
3層でリコが(上昇負荷により)前後不覚におちいって、さらには左腕を切りかけ折ったりし、そしてナナチが窮地を助けレグらが治すために献身的にがんばりましたが。この5層ではレグが右腕を切断され、ナナチが窮地を助け、リコ(ら)が右腕回収のためにがんばりました{その過程でレグは電力過供給により(?))前後不覚におちいりもします}。
5層から登場のプルシュカも、劇中回想されるメイニャとの冒険の日々で、リコが負ったように左手を折ってギプス生活をするなど、腕に傷をもった人物であったことが回想で描かれます。
{プルシュカの回想は、ロープで降下したり、お風呂でとろけたり、メイニャとの触れ合いによって力場が見えるようになったり……と、リコレグナナチがやってきたような冒険・知見を、彼女(とメイニャ)で孤独にやっていったような対照的な変奏となっていて……プルシュカ……うう……プルシュカ……}
腕の欠損でつながる絆、みたいな感じで、えげつなさもただえげつないだけでない、ライトモチーフとして響きあえるような整理が行き届いている。
{原作では6層に降りると、そこでもまたこのモチーフを感じさせるキャラが出てきて(7巻末部)……}
そうした意味では、前層でナナチミーティハウスで手術のためナナレグに見守られながらリコ、今層で前線基地の手術(実験?)室でアンブラハンズに囲まれながらレグと痛みのあまり漏らしてしまう場面があったので、次層でもやはり失禁でつながる絆が描かれるものと思う。
映画としても「しっかり絵コンテ切られてるなぁ」という感じで、画面中央を縦断するシンメトリックな構図が少なからず目立ち(前線基地の光の柱、室内の柱、雪原のおおきな岩など)、そこを画面左から右へ行ったり(低所から空を仰ぎ見る構図で、飛び石的な足場を飛び越えていく一行。部屋の暗所から廊下の明所をのぞむ構図で仲間たちのためボンボルドのいるほうへ歩むナナチ、誰もいなくなったなか仲間を探しに歩むリコ)、行こうとしたり、行けなかったり、逆に戻って来たりする(プルシュカ⇒ボンドルドへの抱きつきなど)。
本編上映前のオマケ短編は「その4」で、幼き日、モンスターに襲われた運び屋の船の閉所で閉じ籠もっていたマルルクが、モンスターではないが未知の存在(オーゼン。親的な存在となる。)のいる広い明所にでてくるまでの一編で、閉所にこもる(死した運び屋アンブラハンズの子)幼プルシュカ⇒明所にいるボンドルド……という本編の義親子関係を重奏的に彩っていました。
8時台という健康的な時間に上映の回を、上映時間20分はやい時刻上映だと謎の勘違いをして上映40,50分まえに到着。映画館もひらいていないので周辺をウォーキングして歩くというじつに健康的な過ごしかたをし、上映後、ファミリーレストランでアルコールを頼みながら昼飯。11時から13時くらいまで居たんではなかったか?
「平日ランチタイムだとアルコールが安いぞ!」というお得情報がテーブルの真ん中に貼りつけられていて、だいぶ深層感があってよかったです。
0209(日)
東京まで遠出してイベント参加するぞと思うが急用でキャンセル。委員長の有料配信のウェブチケットを買いにも行けず。
■建てもの■
昨夜から不調。フタを締めるネジが締まりきらず、水が漏れる(量はたいしたことない)。日がそれなりに高くなった時分に各方面に電話をかけるが、休日だから録音音声だったり、つながっても「今日は……」ということで、明日以降に持ち越し。祝日火曜はどうなるのか。潰れるのかなぁ。
0210(月)
宿直日。
■書きもの■
某作感想は3作目の感想へ。「どうすんべぇかな~」と思っていた作品について、ここのところの読書で作品の見方もかわり、アレコレ書きたいことも生まれましたが、書きものは進まず別にそこまで本文は増えてない。
先日の日記で言った通り、文中で名前に出した別の本の紹介も試みているのですが{1作あたり数百~千字ていどの、この日記の読書メモで書いているようなこと(というかそのまま載せるつもりのものもある)なのに塵ツモで}、本文あわせ4万字になりました。余談のほうが文字数が多い。
話をみじかくまとめられない知能なので、日記の読書メモを書いてしまうと、のちに投稿する感想記事の紹介文がダブついてうざくなるよな。困ったな。
■建てもの■
復調する。これであしたは休みを休みとして送れます。
■読みもの■
トム・スタンデージ著『ヴィクトリア朝時代のインターネット』読書メモ
それは何ですか;ヴィクトリア朝時代を主とした通信史を追った本です。
1746年パリのカルトジオ修道院での修道士200人が並んで鉄線をにぎりそこへ電池で通電させた実験で書き出して、通信の前史(都市伝説)を紹介し、1790年クロード・シャップによるテレグラフの語源で発明元である仏国から、1830年代の米国モールスと英国ウィリアム・フォザーギル・クック&チャールズ・ホイートストンが並行して発明した電気テレグラフの完成・普及までの試行錯誤、50年代海底の英仏大陸横断ケーブル敷設、60年代なかごろの大西洋横断電信網の完成、電信網完成と普及による通信量のひっ迫とその解消としての気送管の登場……といった発明史をながめていったうえで、電信網がもたらした時空間の変容をさまざま描いていきます。
そして刻一刻と価格が変化する証券取引所に対応する金表示器、株式相場表示機(ティッカー)の誕生。増大した通信量に対するマンパワー(熟練オペレーター)の不足を解消する、オペレーターいらずの自動電信機の発明、コスト削減のための単一ケーブルでの二重四重多重通信技術の発明と、その流れで生まれたハーモニック通信による音声の伝達=電話の発明とモールス式電信の衰退・転落で締めくくります。
読んでみた感想;むかしつまみ食いしたんですけど、頭から尻まで通読は今回がはじめてです。めっちゃ面白かったです。
現代社会では(ランドとかDARPAのイメージから)技術革新は戦争の最先端でおこなわれている印象をどこかで持ってしまいますが、ヴィクトリア朝時代の電信においては、政府や軍部は即時にやり取りできる電信のメリットにぴんとこず、鉄道など私企業・商業分野でまず取り入れられた……というのが面白かったです。
電信網の生成・発展によって、とにかくさまざまなことが変わっていったことがプライベートな人間関係から私企業商空間、国家間、戦場空間とさまざまな分野で描かれていて。列車に乗られてしまってその先で雲隠れされてオシマイだった犯人vs警察の関係が、電信の登場によって変わったり。電信を利用した犯罪が起こったり……と、細部の掬い上げが楽しい。
電信網完成時代の商人の愚痴は、生活サイクルが一変したのだということがよくわかってハッとさせられました。
電信登場以前であれば数ヶ月に一ぺん出港帰港する自前の船の積み荷を確認すればよかったのが、電信があればその場その時で逐一確認できてしまうし、港に着く前から転売さえできてしまえる。(p.168)じぶんが可能であるということはほかの人も可能であるということで、夕食の一家団欒どきも顧客から商取引の連絡が突然入って対応しなければならない(p.169)……とか。
字数で通信料が変わるので情報節約のためにジャーゴンや暗号が使われるようになり、また、意味をなさない文字の連なりだと送受信する人間のタイポが増えるので、それなりに単語として成り立つ言葉でやった結果、呪文めいたものになっちゃったり……みたいな、テクノロジーの登場による言葉の変容も面白いですね。
パラダイムシフトによって価値観が、文字通りスケールが変わってしまう(それは電信登場ビフォーアフターというところだけでなく、電信普及後の改良レベルでもとてつもなく差が出る)というのがよく出た別口のエピソードが、自動電信機登場後の一幕。
また自動電信機は1本の電信回線で送られる通信量を劇的に増やしたため、料金はそれまでの語単位ではなくテープのヤードあたりの長さで課金されるようになった。
物の数え方がワードからヤードに。
個人的に大好きすぎる細部として、気送管の詰まり対策。
しかし気送管のネットワークではいつも管の詰まりが問題になった。通常は管に空気をひと吹きすれば直ったが、たいへんな場合は道路を掘り返す事態にまでなった。パリでは詰まった場所までの距離を求めるのに、管の中にピストルを撃って運搬器に弾が当たった音が返ってくるまでの時間を測って計算していた。
NTT出版、トム・スタンデージ著『ヴィクトリア朝時代のインターネット』p.102、「第6章 蒸気仕掛けのメッセージ」より
距離を測る道具としての拳銃(!) 活劇ですねぇ。気送管の発明自体も、コロンブスの卵みたいな感じで良かったし、電話の誕生もこういう流れで追うと「棚ボタ発明じゃん! よく頭きりかえられたなぁ天才!」てなる、こちらも活劇的展開でした。