すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

日記;2020/02/11~02/17

 日記です。8800字くらい。長山氏『千里眼事件』黒岩氏『明治のお嬢さま』面白い、『花物語』よいし『彼岸花』すごい(詳しい感想はナシ)、『一蓮托掌』めっちゃ好き、伴名選ラファティ良い! という週。

 ※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※

 

0211(火)

 Amazon注文商品と公共料金の支払いを済ませてきました。

 

 

0212(水)

 ■読みもの■

  長山靖生著『千里眼事件―科学とオカルトの明治日本』読書メモ

 それは何ですか;千里眼事件を中心に、明治日本のうろんな科学研究やら科学的思想やらを振り返った本です。

 読む人への注意;のちの本を読むと、一部のお話について改められた部分があるようでした。

{『科学小説ラヂューム』の受賞取り消し経緯について、今著(2005)では「"未発表作品に限る"という規定に反し、別紙で既発表作だったから」という旨のことが記されていますが、『日本SF精神史』(2009)では、「他作家による作品の盗作だということがわかったから」という旨のお話がされています。(そしてその他作家というのが……と『日本SF精神史』では更なる興味深いお話がつづきます)

 外国人名を日本語化するうえで、ググラビリティの低い音が採用されていたりも。(ルネ・ブロンロが、今著ではルネ・ブロンドーと記載)

 読んでみた感想;どちらかといえば長尾郁子氏が主で、センセーショナルな死をむかえた御船千鶴子氏はページをめくっていくうちになんか気づいたらお亡くなりになっていて「あれ? 読み飛ばしたか?」と記憶をうたがいました。

 御船氏よりも長尾氏、おふたかたよりも著名な透覚者・念写者を発見・実験した東京帝国大学福来友吉氏やほか研究者・記者(の記事)がメインですね。

 京都帝国大学文科大学哲学科の学生・三浦恒助氏(=同大心理学教授松本亦太郎教授より派遣された人物)が、千里眼者の念写時についての発言(東京日日新聞報道/『千里眼事件』p.107)などから「念写時に光線がでているのだ」として、それを京大光線と名づけ発表すれば/東京朝日新聞で報道されれば(『千里眼事件』p.108)、福来氏も談話で「いやそんな直線的に伸びるものでもなければ物理的でもない、もっと精神的なものだ。精神線だ」(『千里眼事件』p.110)との旨の対抗談話をし、どちらにしてもなにかしらの線が出てることが勝手に事実化していく。

{ちなみにその千里眼者の発言自体も、べつにこの人が原点かというとそうでもないらしく。透視実験についての報のなかで「何か分らぬ光線の様なものが包んだ物体を透して目的のものと通ずるのではるまいか」ととある科学者(精神医学の泰斗・呉秀三が談話したあとに出た発言だったそう。(『千里眼事件』p.95)

 

 ほかの挿話として、『科学世界』誌の「日本のヴェルヌ」を探す新人科学小説賞の第1回受賞作科学小説ラヂューム』の内容ラジウムの発見者は日本人だったというもの。長山氏は劇中の"ラジウムをためこんだ人間が発光した"と云う場面をとりあげ、『ラヂューム』作者(など当時の人々)が放射線可視光線として捉えていたことに着目する}N線を発見したように思えたルネ・ブロンロらの顛末、鈴木梅太郎オリザリン発見と自論に固執した森鴎外らによる無視/無視したことによる日本軍での脚気蔓延……あたりが記されます。

 

 見えないものを見ようとした人によって、あるかもわからないことがそれについて様々語られていきいつの間にか"ある"ということになってしまうまでの経緯が――科学、学説、小説、説話、余話……事実はどうあれ根はどこであれいつの間にか植わった考えが(決定的な確証を得られる方法は無視されたまま)それについての言及数だけが増えて、いつの間にか本当のことのように思えてしまう。そんな共同幻想が生まれ育まれ固まるまでの推移が――とらえられていて、面白かったです。

 

 そのほか個人的な面白ポイントとして。

 他の研究者をシャットアウトして自分だけが功績を得ようとする福来氏の行動や、男女の仲を噂されるスキャンダル(ただし福来氏が、というわけではなく。福来氏が呼び寄せた第三者的催眠術師とのゴシップですが)、「ラジウム」「ラジウム」と風聞から地元の子供たちに石を投げられる千里眼の女性……と、石黒達昌著『雪女』序盤を読んでいるような推移で、意外なシンクロニシティに「へぇ~」となりました。(『雪女』は2000年刊『人喰い病』に収録)

 また以下は「長山氏の著作を読んで」というわけではなく、ググったら一番上にヒットした別のかたの記事を読んでのことですが。

 京大光線の三浦氏は下の名前についてツネスケorコウスケと二通り報道されていたそうで、「本人の論文のローマ字がこうだからこっち!」と判定しているかたがいて、「これまた『雪女』冒頭じゃん!!」となりました。石黒先生の想像力、解像度がたかすぎる。

 

 

0213(木)

 ■読みもの■

  黒岩比佐子著『明治のお嬢さま』読書メモ

 それは何ですか;2008年紙の書籍刊。明治のお嬢さまについてまとめた本です。就学前の寝食、学校の授業内容、就学後の人生、お嬢さまに対する人々の評価、当時の女性が読んでいた女性誌についてなど。

 読んでみた感想;面白い内容で、当時の華族について知れるのはもちろんのこと、比較としてそれ以外の階級のひとのことも書かれるので、ふんわりと間接的に明治全体の雰囲気についての知見も得られます。

(たとえば女性労働者の収入の少なさが主に伝えたいことだろう文章では、男性の収入も記される)

  華族の言葉遣いなんかは見当がつくところですが、同時代人の体験が紹介される『明治のお嬢さま』を読むことで、その言葉遣いがおこすカルチャーギャップとか具体例・細部を知れますし。

 また華族の食生活については、「豪華だろう」とか「冷めがち」だとか結果こそボンヤリ知っていたことでした。しかしそうなるまでの経緯はちがっていて(これを読むまでは「当人が食べるまえに毒見があるから~」みたいな印象でした……)、『明治のお嬢さま』に記された、冷やご飯に見る個人の身体⇔周囲の環境による相互影響は「SFじゃん」となりました。

(毒見云々ではなく、厨房から食卓まで100m以上あるのでシンプルな物理現象としてご飯が冷める。そうした冷やごはん生活を継続的に長時間、人生として送っているので、すき焼きなど鍋が熱くて食べられない)

 

0214(金)

 宿直日。

 伴名氏の『彼岸花』を読んでうちふるえたのち、『死妖姫』の古書値を見てこれまたふるえる。

 ■読みもの■

  吉屋信子著『花物語 上(河出文庫)』「名もなき花」まで読書メモ

 「はしがき」の

昭和十四年新春

     ──日支事変勝いくさの第二年目──

   吉屋信子著『花物語上(河出文庫)』(Kindleの位置No.30-31

  からして、力づよい。最初の7話までで一区切りがついていて、初夏のゆうべに美しい年ごろの少女が7人ある洋館の一室にあつまって、思い出話をするというもの。

 すこし脱線すると、ぼくが吉屋信子さんの『花物語』を読んだ経緯は、伴名練氏がじしんの作品で引用したりオマージュしたりしたから、そして伴名氏の『花物語』についてのお話から、「読まねばなるまい」と思ったからでした。伴名氏は『花物語』について、

初期の作品では女性同士の憧れや思慕といった感情が暖かく描かれますが、後期の作品には、男性上位社会における抑圧によって女性たちの関係性が損なわれていく、という胸の痛くなる内容のものも目立ってきて、明確にフェミニズムの文脈でも評価されるべき作品が含まれてきます。

   note掲載、Hayakawa Books & Magazines(β)『【往復書簡】伴名練&陸秋槎。SFとミステリ、文芸ジャンルの継承と未来について』

  と述べていて、『花物語 下(河出文庫)』の巻末解説もそういった論調ですね。

 他方で、偶然たどりついた『炬燵蜜柑倶楽部。』さんによれば、吉屋信子氏の作品のなかには、戦前と戦後で一部の場面・描写について(=中国を下に見た部分だったりアメリカ批判や共産主義への反感だったり戦争賛美だったりといった場面・描写について)、かなりガッツリ削除したり正反対の意味合いへ改変したりした箇所があるそうで、『炬燵蜜柑倶楽部。』さんの記事をいくつか読んだあと、「はしがき」を思い返して、「じつは眉につばつけつつ読む必要があるのかも……?」とふるえてもおりました。

(余談も余談だけど、しかも、著名な研究でもそのバージョン違いについて無検討のままーーそれどころかそんな改稿があるなど一言もふれられることなく、改変バージョンでもって論じられていることがあるとかで。こちらについては「ナカナカ大変だなぁ」と思いました)

 『花物語』7作を読んだところ、7話のうち一つは支那原文ママ)の美少女との思い出を語るというものがあり、別のひとつは部落的なお話もあり……西欧系だとか高貴な出自のひとだとかといった、世間一般的に美しい・善きものとされているものだけにとどまらない(世間的にはそう見なされないコミュニティを取り上げたうえで)さまざまな美・美の普遍性が描かれていました。

 

 

  伴名著『彼岸花』読書メモ

 ()の使い方……!

 まず、参照元である吉屋信子氏の『花物語』について。この作品群の最初の7作については、ここで一区切りがついていて、

 初夏のゆうべ。

 七人の美しい同じ年頃の少女がある邸の洋館の一室に集うて、なつかしい物語にふけりました。

   吉屋信子著『花物語上(河出文庫)』(Kindleの位置No.54-55)

  と書き出しにあるとおり、少女がそれぞれの思い出話をもちより、ひとり語りする形式でした。

 少女がひとり語りするようすは丁寧語の3人称でつづられ、少女の発話は二重カギかっこ『』でくくられます。その『』内は、発話者の1人称語りのいわば回想となっていて、くくられているのを忘れてしまうほど長文となります。*1

 二重カギかっこ内の回想のなかの人物がしゃべるときは、また二重カギかっこが使われてしまって意味不明とならないよう別のカッコがつかわれていて、それが丸かっこ()なのでした。

 

 『彼岸花』も少女たちが一室に集まって、物語にふけるところから始まります。集まった少女たちが語るのではなく、ひとつの手帳を手に取る。手帳は血塗られており、悲劇を予感させる。

 日記がひらかれてみると、モチーフから{ピアノ(『彼岸花』ではオルガン)とその鍵! 『鈴蘭』だ!}語彙・言葉遣いから{海杳か(『彼岸花』では海沓か)! これまた『鈴蘭』だ}、『花物語』を読み込んで読み込んで血肉となってなければ出来ない芸当で。

 また劇中、『明治のお嬢さま』で仕入れたこの近辺の時代のお嬢さま像からすれば「?」と引っかかった個所が、後々に「そういうことだったの!」と腑に落ちる回収がなされ、これはこの時代のことを取材して取材して20世紀初頭が血肉となってなければ出来なさそうな芸当だ……とうなりました。

 「うっ、うま……」と思うことの連続でした。

 

 『彼岸花』は最高でしたが、エピグラフにひかれた『合歓の花』は下巻収録。下巻の目次をみてみると、その最後は『曼珠沙華』!!

 『花物語』とくらべてどう、というお話はまだまだできないな……。とりあえず『花物語』を読み終えて、吉屋作品に琴が出てくるところがあるかどうか気にしていきます……。

 

 

0215(土)

 宿直明け日。帰って昼飯たべたところ18時まで寝てしまう。

 公共料金と通販の支払いと通販品の受け取りでコンビニへ行く。

 

 ■読みもの■

  R・A・ラファティ著『ファニーフィンガーズ』読書メモ

 それは何ですか;

 『SFマガジン』2002年8月号収録のSF短編です。伴名練氏の好きなラファティ短編ベスト3で、『一蓮托掌(R・×・ラ×ァ×ィ)』はこの作品にインスパイアされているとのこと。

 序盤のあらすじ;

 オーリャド・ファニーフィンガーズはおかしな指の持ち主で、裏山の奥の奥に行って、その山に住む3人のおじさんの助けも借りればその坩堝から何でも取り出すことができた。鉄の犬も学校の宿題もなんであれ。6年級になったオーリャドはシリア人のボーイフレンドが出来た。ちょっと鉄っぽい彼が気になる。かれはかれで、いつまで経っても小さいままのオーリャドやファニーフィンガーズ家を怪しんでいた。「きみが大きくなったら(ああ、オーリャド、いつになったら大きくなるんだい?)ぼくはきみと結婚するよ」

 読んでみた感想;

 これは面白かった。ラファティ氏の語りは童話のようにやさしくて、とぼけたかんじの親子の会話や、ほがらかでかわいらしい少年少女の牧歌的な交流からはじまって、そのままの調子で大学生になって関係がつづく。そうして読み進めていくと……。

 ラファティ氏は正直よさがよくわからない作家で、中高生のころ『太古の殻にくるまれて』を読んで「なんて最高の物語を書くんだ……」と感動し、そこから『九百人のお祖母さん』を読んだら、感じがちがくて「ほら吹きおじさん……抱腹絶倒……ナルホドナルホド……」と消沈した覚えがあります。

 今作は、そんな『太古の殻にくるまれて』方向の作品でとてもよかったです。(ラファティ意外とこういう作品も書いてるんだ!)*2

 また、今になって改めていくつかラファティ作品を読んでみて、「とにかく器用なひとだ」と感心しました。

 ほら吹きと称されるような、やわらかい語り口でも、いくつかのバリエーションがあって、これのような童話調もあれば、『町かどの穴』のような漫談調もある。もちろん『太古の殻にくるまれて』の地球規模の年代記調や、『だれかがくれた翼の贈りもの』中盤の学術論文調のような硬い語り口だってできる。

(……とか書いたあと『太古の殻にくるまれて』ちょっと読み返したら、「ここまで読んだきみは”えーまた大気汚染の話っすか~?"て思っただろうけど、まあ聞いてくれよ」みたいな文章があったが、さておき)

 語りたい物にたいして語り口をさまざま選択できる作家で、ほんわかしたまま読み終えることもあれば、いくつかの語り口を織り交ぜてショックを与えることだってできる。

 だから、

 ふたりはうまが合った。セリムは小さいオーリャドをいつもだいじにかばった。ふたりはおたがいが好きだった。人間がおたがい同士を好きになってどこがいけない?

   早川書房刊、『SFマガジン』2002年8月号p.14、R・A・ラファティ著「ファニー・フィンガーズ」1より

 といった具合に、急に読者のほうへ向いて断言することで、二人は好き同士なのだということを有無を言わさず描くこともできる。

 好きすぎる文章ですわ……。

 

 

  伴名練著『一蓮托掌(R・×・ラ×ァ×ィ)』読書メモ

 それは何ですか;伴名練氏による短編小説で、R・A・ラファティ(の作品)にオマージュを捧げたユーモアSFです。タイトルがミッフィーみたいでかわいい。初出は、坂永雄一さんが取りまとめた(らしい)同人誌R・A・ラファティ生誕百周年記念トリビュート小説集 つぎの岩』*3で、その後商業本『年刊日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』(創元SF文庫)に再録。後者のバージョンを読みました。

 この世界のありとあらゆる事物を半分こにできる手を持ったシャム双生児の姉妹をめぐるすこしふしぎな小説でした。

 読んでみた感想;

 各人にそれぞれ、「語りたいラファティ」があったので、ど真ん中のほら話は他の人に任せて、「ファニーフィンガーズ」「忘れた偽足」「最後の天文学者」のようなウエットな作品、「おかしくてかなしい」ラファティについて語るのが私の役目だった。

   東京創元社刊(創元SF文庫)、『年刊 日本SF傑作選 折り紙衛星の伝説』p.305「一蓮托掌(R・×・ラ×ァ×ィ)」■著者のことば 伴名 練より

 で、オマージュ元であるァニーフィンガーズ』とおなじく――坩堝のなかへ手をつっこんで、この世界のありとあらゆる機械のありとあらゆる部品を取り出せるおかしな指で、遊び相手の鉄の犬も、算数も作文も、「見つからなければこの世界を永久に終わらせたほうがましかもしれない」と超難解な講座の教師さえ悩む新しい概念さえをも取り出せる少女をめぐる、すこしふしぎなこの小説とおなじく――、まさしく「おかしくてかなしい」ラファティを掬い上げてみせた傑作でした。

 それでいて、双子姉妹を中心とした関係性の強さ、ドラマと劇中独自ガジェットとの絡まりなど、短編集『なめらかな世界と、その敵』収録作のそれぞれで見せてくれた伴名氏じゃなければ出せない味もある。

 

(前置き;ラファティ読者じゃないから全然まとはずれなことを言ってるかもしれませんが)

 『一蓮托掌』も、本物のラファティ氏が書いたような『太古の殻にくるまれて』『だれかがくれた翼の贈りもの』『田園の女王』のような、人間には変えがたい大きな力・運命的なものがはたらいている世界で、どうすることもできない人々のお話だった。

 ……のだけど、ちょっと違う。

 『ファニーフィンガーズ』の結末が、彼氏のことよりも{彼氏のセリム自体は、オーリャドに「だけど、それを発見できなければこの世界を永久に終わらせたほうがましだ、というのは本当じゃない。そこまで重要じゃないもの」(p.19下段5行目)と別に作らんでもよくない? と言うのに対し}、「みんなのためにいろんなものを作る」(p.19下段11行目)"おかしな指"として生きることを優先する・人間としては生きられないらしかったのと同じく/しかしある意味では対照的に、『一蓮托掌』の別離はやはりこれも――エピグラフに引かれるような・劇中の謎人物が言うような――世界の摂理にしたがった結果であり/ながら、それはそれとして、姉妹のある時点での思いをある意味かなえた結果ともなっている。

 無常は無常なのですが、まったくの無意味ではなく、「本当にわずかな部分とはいえど、ある意味どうしようかできた部分がある」という点において、たとえば『田園の女王』前半のチャールズ青年の選択とはまったくちがう。……といったところで翌日の『田園の女王』読書メモ。

 

0216(日)

 ■読みもの■

  R・A・ラファティ『田園の女王』読書メモ

 それは何ですか;

 R・A・ラファティ氏によるSF短編です。『世界カーSF傑作選』収録。伴名氏の好むラファティ短編ベスト3からこそこぼれていますが、自作『一蓮托掌(R・×・ラ×ァ×イ)』でオマージュした『ファニーフィンガーズ』と並べて、「これや「田園の女王」が『昔には帰れない』に入らないらしいので、ラファティ短編集はもう一冊出さなきゃいけないですね。」と述べた作品。

 序盤のあらすじ;

「わしは目はしのきく若者じゃった。目はしがきくため、自分がすべてをわきまえとるわけではないことも、ようくわきまえとった。そこで、物知りの人びとを訪ね、どんなふうに遺産を投資すればよいかと、助言を仰いだ」

 1907年新しく州制の敷かれたばかりで若く活気あるオクラホマで、成人し巨額の遺産を受け継いだC・アーチャー氏は、街の発展に貢献したくお金の使い道をなやんでた――自動車産業が栄えると見越してハーヴェイ・グッドリッチなる男による新興ゴム会社へ投資するか? それとも、支線拡大のため株主募集中のチンチン電車会社へ投資するか?

 アーチャーがそう話を聞かせるのは、ひ孫カップルだ。彼らはローカル線に乗って美しい準郊外の田園を回る休日を過ごしている。蜜蜂が黄色い雲をつくり2メートルを超すトマトが実り、さまざまな果樹園が広がる田園詩に甲高い音と異臭が入る――密造自動車が現れたのだ! かれを見て電車のなかのひとびとは……というお話です。

 読んでみた感想;

 かなりペシミスティックな作品で、いくつか読んだ作品どれもに共通するこの諦観はなんなんだろうなぁと思いました。

 邦訳作だけでも100を超えるラファティ氏だから、ぼくがたまたまそういう作品ばかりを読んでいる(それだけが記憶に残っている)/読むことになっただけなんでしょうか? そんな気がする。

 後編の世界のありようが、というよりも*4、前編から後編へのいきかたが。

 今作はどちらの未来にころぶのか岐路に立ったようなアーチャー氏の若者時代と、そうして選ばれたさきのアーチャーの老年時代との二部構成のような作品で、アーチャー青年は堅実で知的な銀行員・保守的で経験論的な酪農家・野心的で自由な石油王の3人からそれぞれ異なる切り口から、チンチン電車世界の良さ(/自動車の野蛮さ)を説かれる天丼芸をくらったうえで、どちらに投資するか宙づりにしたまま後編へ行きます。

 そこで描かれるのはローカル線の普及したif世界で、アーチャー老は密造自動車乗りの若者にたいしてライフルを向けるチンチン電車の乗客たちを「殺ったれ殺ったれ」的に応援する。

 『太古の殻にくるまれて』『だれかのくれた翼の贈りもの』のような、自由な(しかし抑圧されている)若者と抑圧する老い保守的な多数派の対立が今作でも見られるのですが、しかしアーチャー老は若者への共感は全くゼロ。

 だからといって、アーチャーが若き日に選んだのがローカル線だったかというとそうではなく、物語を読み進めていくと自動車投資だったことが明確になる。かれはその選択を100%後悔しており、いまでも「ローカル線へ投資していればいまごろ億万長者だったのに」とひ孫に愚痴をたれている。

 

 こういう2部構成のおはなしで、「前半で選んだ結果、後半こうなった」ではなくて、「前半でどっちを選ぼうが、後半はこうなる」という分岐ストーリーは、ぼくにとってかなり印象的でした。(それなりにあるものなんでしょうか?)

 ぼくが読んだ数少ないラファティ作品をふりかえると、地球規模の変動で抜け道のない『太古の殻~』や進化論的に抜け道のない『だれかの~』はもちろんのこと、諦めがよすぎるのではと思わなくもない『ファニーフィンガーズ』も、人間には変えがたい大きな力・運命的なものがはたらいている世界で、どうすることもできない人々のお話のように思える。

 

0217(月)

 ■書きもの■

 久々に自分の感想を読み返し、じぶんの『バビロンまで何光年?』感想のつまらなさ・話のわかりにくさにびっくりしてしまった。まじで何を言いたいのかよくわからない。(『バビロンまでは何光年?』自体はすごい作品です)

 いま書いている某短編集の感想も、現段階で頭がごちゃごちゃしたまま書いている自覚があるから、冷静に読んだら、これも何を言いたいのか分からないものになってるんじゃないだろうか……。

 しかし推敲はおろか、読み返すのさえ手間な文量に、すでになっている。

 「どうすんべぇかな~」と思っていた作品Aについての感想は、あれこれ読む本を増やすことで糸口が見つかり、スラスラ行けてしまった。手つかずなのはあと2作で、1作はどうすんべぇかな~という作品Bで、もう1作は大丈夫だろうと思っていたがそうでもない気がしてきた。

 そもそもほかの作品の感想についても、あとは詰めるだけな1作の感想以外は、どれも終わりまで書けてないのだけど……。

*1:つってもそんな感じなのは真ん中の数話だけで、試行錯誤の最中なのかなァというのがいちばん大きい。一作目『鈴蘭』は少女の語りも文頭をダッシュ(のばし棒)にするなど差別化されてはいるものの、地の文でかたられ、回想の人物のセリフが二重カギかっこでくくられています。中盤固まってきたなと思ったら、やっぱり終盤の作品も一話的なスタイルだし、まちまちだ。

*2:たぶんこれとあれとか、あるいは『田園の女王』や『だれかがくれた翼の贈りもの』とかを続けて読んだら、当時のぼくもラファティ作品もっと漁ってたと思うなぁ。

*3:2014年11月25日文学フリマにて発表

*4:チンチン電車世界のありようがひどいのは、含みをもたせた〆といいディストピア的な語り口なので、そこはマァそうさなぁという感じ。{とはいえ、あの世界がそれほど悪いものか(というか、こっちの世界がそれほど良いものか)は「?」で、ラファティ氏自身も織り込み済みだと思う}