すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

日記;2020/02/18~02/24

 日記です。9900字くらい。『催眠術の日本近代』心理学が医学になりたての時代の法の穴が熱い! 『小さな白い鳥』登美彦氏みたいで素敵、『行動原理』は読書経験積んだいま再読する楽しさがあった。

 ※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※

 

0218(火)

 宿直日。仕事がおわらず、徹夜仕事をする。1~2時間は寝ているはず。

 ■読みもの■

  一柳廣孝著『催眠術の日本近代』読書中メモ

 それは何ですか;明治~大正あたりの催眠術ブームを中心とした研究本です。

 「催眠術も動物磁気もないよ!」という本なので、催眠術をつかえるようになりたいかたにとっては期待をくじかれるでしょう。

 一柳氏が追いかけるのは、催眠術について「ある」{あるいは「(こういう理由で)ない」}と言っていたその時代時代のひとびとの思想基盤。今著はある種の文明批評本と言えそうです。

 江戸時代にキリシタンと結ばれがちだった「幻術」なども紹介され、近代の「催眠術」についての本の図像を比べる(表紙にえがかれる施術師のすがたが、明治中期の前と後では、太極拳など「気」の使い手を思わせる中国系のひとから、西洋人に変わっている)ことで、そのルーツを見出したり……と、面白い掘下げも随所になされています。

 

 読んでみた感想;

(動物磁気のメスメリズムから来る)催眠術というのが医学的にある程度信じられていた時代というのは、明治日本にもあったのだなぁと勉強になりました。

 1890年代前後にいちど大きな流行があるも下火になり、また1900年代にもうひと盛り上がりした……というかんじなのかな?

 明治十九年(一八八六年)、坪内逍遥は「今日新聞」を主宰していた小西義敬に招かれ、当時「今日新聞」に勤務していた斎藤緑雨とともに、宴席の場にいた。宴たけなわ、座興として場に持ち込まれてきたのが、三脚と円盤。「こっくりさん」をやろうというのだ。

(略)まもなく、最初は半信半疑だった者も、あまりに当たるので不気味に思いはじめていた。その一人が、緑雨。彼はむりやり盆の上に手を載せられ、しかもいちいち盆が彼のほうに傾くので、最後には顔面蒼白におちいった。

 一方、その場面をおかしそうに眺めていたのが、逍遥。(略)

 心意生理学の知識を外国から伝えたは、多分、東京大学の医学部と文学部が真っ先であったろう。私がカーペンターの Principles of Mental physiology で無意識脳作用(アンコンシャス・セレブレーション)という事を初めて学び、(略)カーペンターの解釈では、卓子転は期待注意 expectant attention の作用だとなっていた。

   一柳廣孝著『催眠術の日本近代』Googleブック版p.15~16(紙の印字で13~14)

 また、流行ったその当時においても、「もしかしたら医学的にも効果が認められるかもしれない新しい知見・技術」と期待できる "思い込みなどを利用した心理誘導術としての催眠術" と、 "オカルト的な催眠術" とは峻別されていた……というのが現実っぽいですね。

 興味ぶかいのはエルウィン・ベルツの話です。

 ベルツは明治9年に来日後、明治38年の長きにわたって東京大学内科教室などに在籍し、西欧近代医学を日本に紹介・導入したドイツからのお雇い外国人で、ベルツはなんと明治22年3月7日に、フェノロサの紹介の元で神智学協会幹部オルコットと面談したことがあるそう。ベルツはオルコットについてかなり好印象だったなんですが……。

 「品のある立派な老人で、堂々たる白いひげと髪を持ち、洗練された社交的の外形を備えている。師の話し振りは落着いていて、明瞭で、理性的ではある――がしかし、話がブラヴァツキー女史のことに及ぶと、もういけない! そうなると、何もかもおしまいだ」「専門の領域に触れない限り、師の話ははっきりしていて、事実また面白い。ブラヴァツキーに対する、まさに正気ざたではない奇蹟の信仰は、病的のものだ。師は仏教徒ではなく、ブラヴァツキー信者だ。

    一柳廣孝著『催眠術の日本近代』Googleブック版p.20(紙の印字で18)

 オルコット氏はともかく、ブラヴァツキー(を信じるかれ)については……という感じで、この辺のグラデーションも面白いですね。なんかこれは人生に活かせそうな逸話です。

 たとえば「おお、なるほど!」とたびたび思いながら読んでいた論考について、ページをめくっていったら一部「えっなんぞこれ?」という部分に出くわしてしまい、

「ここまで興味ぶかく読んできたアレコレも、もしかしたらこのくらいの精度なんじゃろうか?」

となったりだとか。

手堅いところだけでまとめてくれれば説得力ある論なのに、無暗に戦線を拡大した結果、論点が拡散してよくわからなくなったり何だりすることは自他共にあることです。

{ぼくがいま書いている某書の感想(本文5万字、余談3万字の8万字書いたけど終わらん……)はまさしくそんな感じで、暗礁に乗り上げています。

 このブログでいくつか挙げた感想は、①内容紹介・書かれたこと以上の読み解きをしないもの(=『ペンタゴンの頭脳』感想とか、『カイジ』感想とか)、②ちょっと遠出して、作品外の(一部情報の一致など、関連が高い)別作の紹介・比較(=『Artiste』感想とか)……という、他の人が読んでも納得してもらえそうだと自分でも思える範疇にとどめてたんですが、いま書いてる感想では③さらに遠出した結果「ぼくがそう思っているからそう思ってるんです!」としか言えない話をするんですよ。そこまでは「※ぼくが勝手にそう連想したり思ったりしただけですけど?」と留保つけたあくまで個人の感想なら、個人的にはオッケーだと思うんですよ。『インマイカントリー』感想もそんな感じでしたし。

 もっと踏み込んで、④「ソースはぼくだけど、作品が作者がそう思ってるに違いないんだよ!」とまでやるのが今回の感想。言ってるのお前(ぼく)であって、作者ではないでしょ……と書いてる自分でさえ思ってしまう。

 ①②③④と段階を踏んで話をしていくことで、ここまで書いてきたような感想と同程度の読み味は確保するつもりなんですが、「段階なのかな?」ってあやしい。①からぽんと④行ってない?行ってるかも……みたいな。

 あと単純に別個のABCDを並べてるだけな気もする……}

 

●●●●

 

 で、千里眼事件{明治42年(1909年)}にさきがけた明治36年(1903年)に催眠術ブーム再燃。

 『学理応用催眠術自在』『実用催眠学』『心理作用読心術自在』などがベスト・セラーになり、二匹目のドジョウ本も続々出版、大日本催眠術奨励会やら精神研究会やら帝国催眠学会やらといった組織的な通信教育を軸とする民間団体の活動も活発化したそうな。p.66~(紙の印字でp.64~)

 アカデミアの世界でも、東京帝国大の福来友吉氏が神経学会総会で「催眠の心理学的研究」を発表し、同時期に大阪で開催された歯科医総会では塚原伝氏が催眠術の講演を、同年秋から「国家医学会雑誌」に催眠術関連の論説が……といろんな所が盛り上がったみたい。p.106(紙のページでp.104)

 最後の国家医学会雑誌に掲載の論説をまとめが『催眠術及ズッゲスチオン論集』で、これには法典調査会刑法起草委員などもつとめた古賀廉造氏の論考もあるそうな。

 明治38年2月に医会と法理研究会が催眠術に関する共同研究をおこなう決定をし、同年3月には警視庁での講演をおこなったそうな。

 

 『催眠術の日本近代』p.114(紙の印字でp.112)から「犯罪としての催眠術」と題した項で、上述『ズッゲスチオン論集』の催眠術と犯罪・法制に関する論考を、本業医学で法学関係の識者に意見を仰いだ大沢謙二の論考・前述本業法学の古賀氏の論考ふたつをそれぞれ一柳氏は紹介していきます。

 大沢氏の論考は、さまざま取り上げられているなかで……

①「官許ヲ得ズシテ医業ヲ為シタル者ハ、十円以上百円以下ノ罰金ニ処ス」(旧刑法256条)をどこまで適用するかという問題。

②興行としての催眠術を禁止するにはどうするかという問題。(ドイツでは警察令、仏墺では省令で禁止されてたそうな。しかし日本で警察令でやると、私的な会合を警察官が立ち入ることはできないのでこれはこれで問題がある)

③催眠術により犯罪が起こされた場合、催眠術にかかった者、施術者それぞれの待遇について(前者は精神障害のため無罪・後者は有罪が望ましい)

④催眠術にかかっている間の人の発言の信ぴょう性は?

 ……などが考えられてていて、面白かったです。

 ただし①について古賀氏の論考では「催眠術の範囲はめっちゃでかいから、この条項だけでどうにかするのは難しいんじゃない?」と云う。

{②的な範囲で、ということではなく、医療っぽい催眠術でも、「いや医療じゃないです。本人の精神を鍛錬してるんです。結果として肉体もよくなってるだけ」と言われたら難しくない? と云う。(当時は心理学・精神医学は発展途上で、医学はおもに身体を治療する学問でした。)

 

 で、ここで問題としていたような事件がじっさい明治36年(1903年)10月、宮崎県で起きてしまった……と一柳氏は紹介していきます。p.118(紙の印字でp.116~)

 小学校教員が休職中にはじめた「息救術」について、宮崎郡医会が裁判を起こしたというもの。一審では上述256条で罰金刑判決、しかし第二審では無罪判決(!)

 刑法における医術とはなにか、医術開業試験規則に規定される(その当時の)医術とは……というお話になってきます。

 世俗的には「う~~ん……」てものですが、解釈自体は「法のひとはキッチリカッチリして偉いなぁ……」というような納得いくもので面白かったです。

(その直後明治37年東京帝国大学に医学者法学者があつまり、催眠術取締法の相談会がひらかれ、明治41年に催眠術の取り締まりを盛り込んだ「警察犯処罰令」が施行されたそうな)

 

 法解釈さえもが揺れ・追いつかないような最先端であれば、平時であれば共通理解を得られないような単なる妄想の類いが入り込む隙というのはあるのかもしれないなぁ……などと思いました。

{もちろん、あれやこれや旧態依然とした迷信はいつまでもはびこったりもするものから分かる通り(催眠術だって明治よりはるか前から似た形式の迷信はあった)、人間には信じ込みやすい型というものがあり、それに則ってないとうまく信じてくれない、とかもあったりするやも……}

 

●●●● 

 

 うえではその辺の市民による催眠術でしたが、なかにはこんなすごいニュースもあったそうな。

 たとえば、明治四十一年八月二十八日の「万朝報」には次のような記事が掲載されている。

第三師団騎兵第三連隊の将校間には近来催眠術大流行にて日下同隊が岐阜県稲葉郡富村木曽川南岸へ水馬演習に赴き居れる内将校連は蓄音機にて村の子供を呼寄せ盛んに未熟なる催眠術を掛け散らしたる共為同村三輪換(十五)の如きは某少尉の為に掛けられし仮酒席に連れられて様々の動作をさせられたるが覚醒法の不十分な為甚しく脳を狂わせて殆ど白痴となれりとは人道問題也

国家権力と直結した「軍隊」が催眠術を悪用しているという告発記事だが、この事件はすでに「象徴」の域に達しているといってもいい。他者を自由自在にコントロールするというイメージが、そもそも絶対的な権力の発動から生じているとすれば、この記事は、催眠術が国家権力のメタファーの域にまで到達していたことを暗示している。まるで、国家が国民を統制するシステムを戯画化した、プラック・ジョークではないか。

   一柳廣孝著『催眠術の日本近代』Googleブック版p.126-7(紙の印字で125-126)

 

 

0219(水)

 宿直明け日。

 ほぼ寝てないけど、元気だった。22時すぎには寝る。 

 

0220(木)

 ■身の回りのこと■

  風邪をひいたかも

 朝不明、昼37.5℃、夕方~夜36.7℃。

 一昨日~昨日にかけての徹夜仕事がたたったのだろうと思われる。

 寝不足&水分不足でもこんなかんじになるので、そっちだといいなぁ。

 

 ■読みもの■

  松田裕之『明治電信電話ものがたり』読書中メモ

 それは何ですか;出版当時甲子園大学経営情報学部助教授の松田氏による題名通りの本です。面白いんですけど、それはそれとして……

同時に、記述にさいしてはできるだけ具体的で、ときには叙情的な表現もこころがけたい。本来、歴史(history)とは、「物語(story)」を意味するのだから……

   日本経済評論社刊、松田裕之著『明治電信電話ものがたり』p.4、プロローグ≪原風景≫の旅へ

 ……ということで、松田氏によるよく分からない表現が宣言どおりに入ってきます。序文でも「パンドラを開ける」と言っていた松田氏の筆は本編でも健在で、

 幕末史を飾るふたりの決死行は、或る意味、ユリシーズギリシア神話の英雄)の冥府くだりに比すべき狂的行為であった。

   『明治電信電話ものがたり』p.10、<風景ノ1>電気通信の黎明「1 信を伝ふる電気」より

 松田松陰らのペリー黒船密航騒ぎはこうなる。しかも十ページと進まないうちに……

「外敵を制するには、外国の事情を知ることこそ肝要だ」と説いて、愛弟子吉田松陰に密航を教唆し激励をあたえたのは、その師象山だった。

   『明治電信電話ものがたり』p.18より

 ユリシーズ増殖!

 読んでみた感想;上では難点をあげましたが、すごく興味ぶかいんですよ!

 「へぇ~」っという史実や知見の数々で、たとえば電線への忌避も、いくつかの文献で言われるような西洋忌避から来る迷信説よりも(それもあっただろうと松田氏は一定の肯定をしつつも)、

「電線敷設に際しての動員・無給労働から来る、お上への反発だ」

「この動員に対しての労働時間がこれくらいで、お上からの賃金・その間農作業をできないことへの補償がこれくらいだった」

 とする松田氏の考察・提言は、なるほどそちらの方が正しそうだと納得がいくものです。まだまだ序盤も序盤しか読めてませんが、この先の話もとても面白そうだ。

 

 ただなぁ。よくわからない「ストーリー」のせいで、どこまでソースがあることで、どこまでが違うんだか、よくわからないんだよなぁ……。

 

 

0221(金)

 ■身の回りのこと■

  風邪をひいた(と自覚した)

 朝36.7℃、昼38℃~37℃、3時ごろ37.8℃。

 昨日にひきつづき体調をくずし、病院に行き、薬をもらった。

 吸い薬ははじめてだったので面白い経験だった。(一度むせてしまった)

 解熱剤を飲むと36℃台になるものの、飲まないと出ますね……。

 鼻水関係の薬は出てないんですが、病院に行ったあとの夜から、さまざまなアレが死んでいるようで、鼻水が出るようになり自然と咳もしたくなる。

 その結果として、吸い薬への不安が募る。昼もきっとのどにはそれなりに痰はついていたはずだが、吸った粉のうちそこに着いて体内に吸収されなかった量はどれくらいなのか? 一度咳き込んでしまって、粉だと分かる量を吸えなかったが、本当に大丈夫だったのか?

 

0222(土)

 ■身の回りのこと■

  風邪をひいている

 朝36.6℃、昼37℃、27時ごろ36.5℃。

 ひきつづき体調をくずしています。解熱剤を飲まなくても平熱なのだが、解熱剤を飲んでないと頭痛や、頭が熱いかんじがする。

 「つらいときに使用を」とわたされた解熱剤を昨日は切らさず飲んだけれど、すこし余裕が出てくると、「切れたあとで"ツライ!"て時が来てしまっても怖いから」と何とか使わないようにしたくなる。

 そうすると氷枕に頼ることになるのだけど、氷枕が凍りすぎて固さと冷たさで眠れない。どこからともなく寝れたと思ったら硫黄臭みたいなのを感じてしまって眠れない。「卵を食べたじぶんのよだれか?」と思ったが氷枕の臭いっぽい? 「氷枕 硫黄」で検索かけても同じ悩みをかかえているひとはいない。

 冷蔵庫の臭いが移った? べつに卵を入れてたところではないのだが……。

 

 起きてるとへそから下に脱力感があり、頭もまたくらくらしてくるので、読書も進まない。

 なんとなく元気になったので、夕べ入れなかった風呂に入る。すると、夜の光源だと気づかなかった風呂椅子の水垢に気づき、ハッと棚下を見てみると、微妙に黒カビが湧き始めているのが見えてしまう。裸のまま風呂掃除を始めてしまい、寒気に襲われる。

 昼の体温上昇で、別の風邪をもらってしまったのではないかと不安になる。

 

 ■読みもの■

  グレッグ・イーガン著『行動原理』読書メモ

 それは何ですか;イーガンの筆による脳いじりSF短編です。短編集『ひとりっ子』収録。(今作の原語版は1990年初出)

 序盤のあらすじ;

 これはエイミーのための行為ではない。わたしがいまなお妻を愛し、いまも悼んでいるからといっても、この行為が彼女のためだということにはならない。『幻覚体験』『瞑想と癒し』『動機づけ成功』さまざまな表示と「神になれる! 宇宙になれる!」「このインプラントで人生が変わった!」さまざまな宣伝文句をかきわけ、この分野の老舗『性愛』の棚も見、A(アーミッシュからZ(禅)まで様々ある『宗教』の棚でカトリックだった子供時代をかえりみ1,2分悩んだのち、わたしはどれからも後にした。目指すはカウンター。

「特注品を受け取りにきたのだが」

 読んでみた感想;

 コンパクトにまとまっていて面白かったです。

 銀行強盗犯に殺された妻の敵討ちをするため、脳をいじくるインプラント≪行動原理≫に頼る男のお話で。理性的な現代社会に生きる理性的な普通の現代人の当然として、(たとえ妻を殺した悪人相手であろうと)殺人といった暴力には移れないから、そのような非道を行えるよう脳をいじくるインプラントを投入するのですが、そこに至るまでの過程が長い長い。

 まずインプラント店で、特注品を頼んでいるというのに周囲の市販品を見て回らざるを得ないし、べつに振り返る必要もないし誰も説明なんて求めてないのに、勝手に自分の心の中でインプラントの歴史なども振り返ってしまう。宗教の棚にも目を向けて自分の過去をかえりみてしまう。

 あれこれ描かれる店内描写・世界設定説明が、『行動原理』という作品においては、"殺人をする、という非道を行なう、よう意思決定をする、ような脳の行動原理を持ち得る、ようをいじくるナノマシンを作動する、前段階として体内に注入する、インプラントを買う"まえの男(まえまえ尽くし!)によってなされることで、とにかく非道なんてはたらきたくない理性的な現代人の逡巡(と言うとカッコイイけど。うだうだとも言う。)として受け取れます。

 

 ちょっと小粋なこと(それこそ初読時から覚えていたAtoZとか)もチョコチョコ出てくるようなある種のハードボイルド(?)な文体で進みながらも、行動している本人についてはけっこうにインドアな(この段になってようやくスポーツクラブで銃の練習を黙々したりするような)小市民らしい小市民的な顔が思い浮かんでやまない、そのような文体で自分を取り繕わなくてはならない語り手による、変な読み味の犯罪劇だと思いました。

{でも終盤のアレみるとそれなりにジョックスなんだろうか? いくらムカついても蹴りはできないですよさすがに。投げはする(勝手に向こうが着地するから) 『行動原理』が執筆された90年当時オーストラリアの成人男性一般(の倫理観)はどんなもんなのか……}

 

 ペラペラっと広告が多量にのぼる感じ、殺人(に代表される非道と思われる行為)への自意識など、エリスの『アメリカン・サイコ』が1991年出版……と考えると、同時代性という感じもする。

 

 作品と関係ないところですが、イーガン信者のつもりながらそのイーガン氏の文庫本でさえも積んだままにしてたりもする不届キ者なので、『ひとりっ子』もどこまで読んだか心配だったんですが、AtoZのところで「アッおれコレ読んだわ!」となりました。つってももう14年まえの本なので前回の記憶はAtoZだけ。初読みたいなモンですね。

 刊行当初の高校生時代では気にしてなかった部分を楽しめた読書でした。

 

 

0223(日)

 ■見た夢のこと■

 あまり見ない類いの夢を見たので、それについてメモしたことを思い出したので、メモを頼りに記録を残しておこうとおもいます。(正直すでにどういう夢を見ていたのか、よくわからないところがある)

 

①実写の夢。眼下にひらけた眺望がたのしめる山道のなかの一時休憩所的なところにいます(。山小屋があるわけではない。ベンチだけある、みたいな)。

 この夢の世界設定としては、『FF10』的なスキルボード・スキルツリー的な概念(信仰? 自己啓発的価値観?)があって、ボードに記載のものごとをマスターすると次のステップが開けるというようなルールみたいです。

 で、スキルボードはさまざまあって、それをつかさどる管理者(の一体)として、山の神というのがおり(どんな外見かは覚えてないです)、ぼくはそれと繋がっています。

 山の神管理下のスキルボードの特色として、"なんかすごい技能"を習得できるというものがあります(。山の神から伝授される)

 「これはすごいメリットだよなぁ」なんてぼくがいつか授かれるだろう恩恵にニヤニヤしながら、その"なんかすごい技能"取得のために必須条件をこなすよう動こうとしたところ、山の神から「山っていうのはそういうもんじゃない……」「資本主義者め……」とため息をつかれ、ぼくは破門されてしまいます。

 という夢でした。

 

②実写の夢。

 その夢のなかではぼくはホスト・バー・クラブの店員みたいな業務に就いているのですが、ここのぼくも①の夢同様なぜか破門されています(。後のメモを見ても解雇だったんだろうと思うけど、ここについてケータイのメモには「はもん」とある)。一般的な会社の常識どおり、解雇通知みたいなものが出されていて、ぼくはそれを持ってふるふるとふるえています。しかしそういったものを見たことがない自分の想像力の限界で、文面はあきらかにおかしく、なんか契約書にしるされたぼくの名前が小学生が書いたみたいなひらがな書きだったりして、ぼくは「契約無効!」「はもんむこうです!」と叫んでいる。

 という夢でした。契約の不備は夢をみているぼくの想像力の無さのなせるわざなのに、それを夢のなかのぼくが逆手にとっているのは、改めて振り返ると面白い。

 

③実写の夢。

 どこかのカルチャーセンターの一室で、室内の壁の一面は鏡でもう一方は窓、床は体育館のように木板張りの空間。部屋の中央ではひとびとが輪になって、ヨガ的な体操教室がひらかれています。

 人びとはいわゆる猫のバランスポーズ(=四つん這いの状態から、たとえば右手と対角線の左足を地面と平行になるように上げて、そのまま維持するポーズ)を、接地した側の手足について膝を付けず伸身状態にして手も掌全体をつけるのではなく指の平だけで取っています。

 べつにすごい筋力があるわけではなく、勝手に体が宙に浮いていくので、むしろ接地した手足は飛ばないように床をつかむ最後の安全装置みたいなもの。

 ポーズをとるひとのなかにはなぜか和田アキ子がいる。

 そうしているうちに、そのポーズのまま飛行具的なものを装備している(上げた手と挙げてない足にかけて&上げてない側の手と挙げた足にかけて、モモンガ的なかたちで羽布製の飛膜がそれぞれついている)。

 夢の中のぼくがその装備とポーズについて「螺旋状に羽がついた、ダヴィンチのヘリコプターみたいだ」と思っていると、じっさいその姿勢のまま、緩やかにくるくると浮いていくひとのすがたが出てくる。そしてどこからともなく聞こえる「よーろれりひー」という歌声。(べつに和田アキ子が歌っているわけじゃないけれど、歌がかかわるから和田アキ子が登場人物に現れたのだろうかと思う)

 「よーろれりひーで飛ぶ機械なんですよ」「さあ皆さんもよーろれりひー」とインストラクターが訴えている。

 という夢でした。

 

 ③については、ここのところの就寝で、頭の痛さや防寒による寝汗の増加や寝すぎたことによる関節の変調(電車で立ちんぼしていたら関節が固まるあの感じ)などから、意識的・無意識的に体位変換をしていることが反映されたのではないかと思う。

 ぼくの夢の傾向は、「なんか"夢は記憶の整理"という話も聞くけど、まさしくそれだなぁ」と思わせるものが多いのですが、それらはあくまでも「遠~近過去のエピソード記憶が、就寝時の脳の変調によってへんなふうに変換されたのだろうな」というものでした。

 今回のように、エピソードを伴わないが現実の反映だと思われる夢(=謎のポーズを取っているという現状のからだの様態にたいして、脳がなにがしか整合性をとろうとして謎の情景を捏造した……みたいな夢)は、見たこと(味わったこと)がありません。こういうパターンもあるのかとナカナカ面白かったです。

 

 ■身の回りのこと■

  風邪がひいていく

 朝36.6℃、昼36.2~9℃、21時ごろ36.6℃。

 ひきつづき体調をくずしています。しかし退いていってる印象があります。

 解熱剤を飲もうが飲むまいが平熱。へそから下の脱力感もなくなった。しかし頭痛がするし、起きていると依然として頭がくらくらしてくる。

 これが風邪のせいなのか、寝すぎたせいなのか(頭を地面につけすぎたことによる痛みなのか? 頭を横にしすぎたことで立ち姿勢にびっくりしているのか?)、よくわからない。

 

0224(月)

 ■身の回りのこと■

  風邪は治った

 朝昼夕平熱だった。これまで悩まされてきた、起きていると頭がぼーっとしてくる・頭痛がするのはほぼ収まった。

 しかし寝てしばらくする~起きてからいくらかの間の、頭が痛いのは治らない。数日まえの氷枕で何か変な風に頭を圧迫してしまったのかもしれない。

 横になってから十分としないうちに、頭が痛くてどうにもしようがなくなってしまう。後頭部、耳以下から顎上くらいまでの高さの範囲が右左問わず全面的に鬱血していくような感じ。

 朝は頭がいたすぎて薬を飲んだ。起きていると頭の痛みはひく。薬が切れるだろう6時間後も痛くない。しかし寝ると頭が痛い。こうなると寝たくないまである。

 

 

 ■読みもの■

  ジェイムズ・M・バリ著『小さな白い鳥』読書中メモ(6章まで読んだ)

 それは何ですか;『ピーターパン』の作者として知られるJ・M・バリ氏による長編小説。『ピーターパン』の元となった『ケンジントン公園のピーター・パン』は、出版社が今作の一部(13~18章)を抜き出し、単体で読めるよう固有名詞などを改めたものだったそうな。

 序盤のあらすじ;「私どものところへお越しくださいませんか」母親からの言伝をもってくるたび私は少年にこう言ってやる。「折角ですが気が進みませんので」

 しかしその日のデイヴィドは強くそれで引き下がらなかった。「母さんの誕生日なんだ、今日は来てくれなきゃやだよ、父さん」

 メアリ・Aという貞淑で心優しい女性に、私が望みの無い愛を捧げていると思い込まれ、有難迷惑な同情を寄せられて数年が経つ。私は店の中など人前で、メアリの息子に『父さん』と呼ばれるのが好きだ。この子は店員にいろんな質問をする。一日の儲けはいくらかとか、アキレスは好きかなど。デイヴィドはアキレスに会うためなら死んでもいいとさえ思っている。もしその夢が実現したならきっとアキレスの手をとって『父さん』と呼び、どこか『円池(ラウンド・ポイント)』のようなところへ引っ張っていくに違いない。

「デイヴィド、もしきみがどんな巡り合わせで生まれてきたのか知りたかったら、今日のお昼を食べに私と一緒に『夏』へ行こう」

 立派な外套を着せられた幼い男の子なら皆そうなように、普段には見られない真剣な顔つきをしたデイヴィドは、ことの重大さにふさわしい畏敬の念に打たれて私に訊ねた。

「ぼくたち『夏』へいくの?」

「そう。何度も何度も、たくさんの『夏』へね」私は辻馬車を止めた。「六年まえに戻って『保守青年クラブ』に着けておくれ」

 読んでみた感想;

 めっちゃ面白いです。

 はやい話が足長おじさんのおじさん視点という感じっぽいのですが。

 お話を時系列順に語らず、まずデイヴィドが5歳のころの話をして、 退役軍人の中年~老年紳士「私」と26の淑女メアリ、その子デイヴィドの関係がよくわからないままお話をすすめ、読んでいるこちらの興味を持続させたまま辻馬車でタイムスリップ(!)して、物語の発端である6年前の「私」とメアリの出会いへと移ります。この辺の情報提示が楽しい。

 5歳時点では上述の三者だけだから「登場しなかった父親はどうしたのだ?」という疑問は依然としてのこりますし、デイヴィドの笑い声は5歳時点では母譲りと言われているけど、過去の語りでは父親そっくりと言われている。この先も気になります。

 

 ぼくの語彙でいえば、ヴィクトリア朝ロンドン版森見登美彦氏という感じです。

(ただし怨念のこもった『太陽の塔』や、同じく怨念はあるだろうけど語り手の性質から抑え気味だった『四畳半神話大系』の頃ではなく、『夜は短し歩けよ乙女』以降のほんわかした森見氏です。でも「おともだちパンチ」とか言い出さないぶん、『乙女』より好きです)

 当時の英国紳士らしい女性蔑視的なモノローグは、偏屈なこじれた独身中年男性が、女性とその恋人へ(紳士自身にはなんの得もないというのに)働いてしまうおせっかいに対する言い訳であって、ほほえましく読んでいられます。

 ジブリヒロインさながら借り家を自分の居場所へと作り変えていく強い女性メアリに、『わっはっは』の絵描きの人の好さそうな感じ、どんな子供かありありと想像できるデイヴィドのガキんちょエピソード。「私」のおせっかいっぷり、どれもがかわいらしい。

 店の窓ガラスを鏡代わりにして身だしなみを整えるとか、いまでも見られるしぐさが今作時点でも見られて、へぇ~~って感じなのですが、ちょっと笑ってしまったのはこんなしぐさ。

私はすっかり良い気分で鼻歌を続けた。楽しさのあまり、ステッキをフェンシングの形に構えて街灯の柱に"お突き"を入れたが、見事に外してしまった。浮浪児が一人それを見てにやにやしたので、私はその子に片目をつぶって見せ、背中に二ペンス銅貨を一枚滑り込ませてやった。

   ジェイムズ・M・バリ著『小さな白い鳥』p.82、第六章 ショック! より