すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

日記;2020/02/25~03/02

 日記です。9400字くらい。『空(スカイ)』好きすぎる、『フラジャイル』やっぱすごい、『宙に参る』すごい、18禁の話題。

 ※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※

 

0225(火)

 元気になりました。とはいえ数日間寝てたせいで疲れがはやい。

 ■読みもの■

  R・A・ラファティ『空(スカイ)』読書メモ

 それは何ですか;ラファティ氏による短編SFです。山岸真氏の編んだ『20世紀SF4 1970年代 接続された女』に収録されています(原語版は1971年『New Dimensions I 』収録)

 読んでみた感想;"スカイ"と呼ばれるドラッグを服用したうえでスカイダイビングをする若者たちを描いた作品です。地底で採れる素材をつかったドラッグがあれば、飛行機も空気のない高所まで飛ぶことができ、人々は哲学的で明晰な思考もできるし、それ以上のことだってできちゃいます。

 一瞬のスカイダイブを"スカイ"が永遠に変えるさま、若者たちのあじわう目覚ましい気持ちよさ美しさを今作はえがきだします。

 そして冒頭の"スカイ"を用意するドラッグの売人の薄汚さが予感させるように、若者は圧倒的な勢いでみじめに潰えます。あまりに圧倒的なのでスラップスティックでさえあります。ぼくにとってはスラップというかスプラッターで、現実がそうであるように容赦がなさすぎて、ただただ不気味でこわかった。

 

 もしかしたらこの辺の記事を読んだばかりだったので、なおさらこわかったのかもしれない。

 事故映像さえ上がっているけれど、伏せといたほうがよいでしょう。

 

 ただ、そもそもぼくは落下について快不快どちらへもオブセッションがある人間で。

 ぼく自身は自分の背丈を超える高さの塀からジャンプし着地してみたりなんだりするのが好きな人間です。

 その一方で、小学生のころ、町内会でどんど焼きをしていたら何か知らんけど橋の下にずり落ちたことがあり(。とはいえ、これについては気づいたら落ちていたし、痛みがあった覚えもないのでトラウマでもないのですが、落ちたなぁという記憶だけがある。あまりにぼんやりとしていて、ぼくが夢で見たことを現実だとごっちゃにしているのではないかと思っていたほどです)

 

 中学時代、失神ゲームというのが流行ったときに、先輩に言われるまま馬鹿正直に息を吐いた状態で心臓を押された結果、(くらっときたことも認識できたし自分が倒れているのだって分かっていたけど、立て直すことなどどうにもすることができず)そのまま地面に頭からぶつかり倒れて、鼻や口から血を出したことがあります。

 

 ブランコをこいでいて何の拍子か――手を放してしまったんだったか、上半身を倒してしまったんだったか――、背中を地面にこすって大きな擦り傷をつくったこともあるし。

 スキーのリフトから降りようとしたとき、スキー板を下に向けてしまっていて地面をえぐってそのまま片足の板が外れて怖い思いをしたことがある。

 

 成人になってからも、車庫入れで何度も車体を前後させていたときにブレーキ・アクセルを踏み間違えてしまって自損事故したことがあります。

 このままバックすればサイドミラーが壁に当たってしまうとはっきりわかったので「ここはしっかり止まってからギアを切り替えるぞ」とぎゅっとペダルを踏みこんだ時に感じたモーメントとはっきり聞こえたエンジン音の高鳴り、ミラーがもげる衝撃。これらを認めながらも足はすぐには動かず、後ろの壁にもぶつかってしまったときの、物理的な衝撃と「わかっているのに(動けなかった)!」という落胆と「そりゃそうなるよね」という納得。

 

 ダメだと分かっていてもどうにもできない、容赦ない急制動・大きなモーメントに対してオブセッションがある。

 『空(スカイ)』は、そうした恐怖が思い起こされる作品でした(……いやラファティがそのような実感を追体験させようと思って書いたかどうかは存じませんけどね……)

 ぼくが文章(だけ)であのどうしようもない意識状態にいたるためには、これくらい容赦ない強引な展開を読まなければそうならない、そのような情動は喚起されない……という点で、「はぇ~」と勉強になりました。

 

 ヴァーホーベン監督作品には過剰なまでのスプラッタがあり、中学生時代のぼくは無邪気に楽しんだわけですが(そして作り手にエログロ趣味がまったくないとは思いませんけど)、その苛烈さには監督自身の子供時代の戦争体験も関係していると聞きます。

 ほかの人からすればまじめに受け取りようがない、単なる嘘としか思えないもの。でも作った当人からすれば切実な、じぶんにとっての「本当」にただ忠実に向き合った結果でしかないもの……そういうものへの関心が再燃した一作でした。

 

 

0226(水)

  数日間寝てたせいで、疲れがまだまだはやく出てしまいますね。

 

 

0227(木)

 このころには8時間労働したあともしっかり元気になっていたと思います。

 

 

0228(金)

 宿直日。

 ■身の周り■

  トイレ・ティッシュペーパーについて

 デマだなんだと言われても、じっさい市販店レベルでは無くなっているし、「切れてから買いに行って"ない"では困る」というのはあるよなァとなりました。(家の貯蓄はとりあえず大丈夫だろうけど、それも風邪一回引いたら尽きる程度にしかティッシュ類たくわえてないからな……)

 

 

0229(土)

 宿直明け日。帰宅後10時から夕方くらいまで寝たり起きたり。

 ご飯を食べて風呂に入って寝ようかという時分に、未読巻のたまってきた『フラジャイル』を、いい機会にと1巻からまとめ読みしたら止まらなくなって朝をむかえてしまいました。

  原作原案;草水敏、作画;恵三朗『フラジャイル』16巻まで読書メモ

 最新刊16巻でも「鬼だ」と評判の岸先生は、さいきん顔が後藤隊長に見える瞬間がありますね。

 12巻の宮崎先生ひとり立ちエピソードがすごいですね。

 序盤の「ドクターズ・ドクター」である天才病理医・岸先生vs同じ病院の別科のひとびとのエピソード(岸先生が、ほかの先生が思い込んだ誤診を否定するといった展開となりがち)や、宮崎先生が病理診断を一人で任されたときに指導医である岸先生の診断を参考にしようとして岸先生の師匠から怒鳴られた過去エピソードなどから、「病理医が自分の診断に自信をもてなくてどうするんだ」という価値観を(読者である)ぼくがいだいてしまっていたところで、宮崎先生のひとり立ちかたは面白いですね。

 個人に限界がある(=わからないことがある)のは当然のこととして、自信をもって「わからない」と言えるまで突き詰める、そしてそこからさらに「どこがどうわからないのか」について他医と共有し一緒に考える……というのは、序盤も序盤で宮崎先生が病理医について学び始めたさい岸先生から初めて出された宿題の取り組みと似ていて(そこでの結論も「わからない」でした)、それでいて、さらに一歩踏み出したアクションで、非常に面白かったです。

 そもそも病理医に転じる前の宮崎先生は、カンファでじぶんが「おかしい」と思っていても言えないという人物であったわけで、隔世の感があります。

 限界はあるけれど自信をもって限界まで(=「わからない」と言えるまで)つきつめられるようになった・そしてその限界のなかで個人に手の届く範囲以上の解をだせるようになった宮崎先生の成長をえがきつつ、失意のなかでの剖検シーンで(読者である)ぼくも宮崎先生の悲しみ・悔しみに同調していたところで……「診断に10割の自信」があるベテラン岸先生による二重解決。

 たぶんぼく以外の読者だって抱いているだろう「努力家だけどまだ至らぬ点もある新人」宮崎先生というキャラクタのイメージ。それさえも利用した作劇に、ゾクっとしました。第一線の作家は、筋書とかキャラ設定とか書き手がじぶんだけで構築できる部分についてはもちろんのこと、作品を読んだひとの印象まできっちりエミュレート・コントロールすることでき、その時点での読書感を演出材として作品に活用できてしまえるんだなぁ。

 これはすごいエピソードでした。

 

 最新刊ちかくの巻について。

 先日読んだ『催眠術の日本近代』の明治時代の精神医学とその法整備についてふれられた部分でも「おっ」となりましたが、『フラジャイル』も同じような興奮があります。

 最前線の領域をあつかった作品なので、人々の意見が割れ、ときには「法的に問題ないか否か」が取りざたされ、さらには「そもそも法は現状に対応できているのか」という問題も取りざたされ、お上とも軋轢がうまれてしまうような展開だって出てきます。そういった意味でもゾクゾクくるおもしろい作品です。

 

 ■書きもの■

  先週の日記に見た夢を追加しました。

 先週かぜでうだうだ寝たり起きたりしていたときに見た夢について、メモをしていたのを思い出したので、こちらの日記にも追加しました

 

 

0301(日)

 宿直日。『フラジャイル』読了後眠り、13時ごろ起きる。

 

 ■読みもの■

  『線は、僕を描く』漫画;堀内厚徳、原作;砥上裕將1巻読書メモ

 それは何ですか;砥上氏の小説を原作にした堀内氏の漫画です。公式サイト『マガポケ』にて、最新話あたりの数話と最初の1話をネットで読むことができます

 序盤のあらすじ;友人から紹介された展示設営のバイト先で、水墨画とその巨匠に出会った主人公は、誘いどおりに巨匠の家へ行き、そして弟子入りする。巨匠には孫娘がおり、彼女は主人公が展示でいちばん惹かれた花の画の画家でもあった。誰とも知れない馬の骨に敵意をむける孫娘に対して巨匠は言う。「かれは大きな水墨画コンテストで獲るよ」

 読んでみた感想;水墨画描きの漫画です。作中作でその描き手の精神分析するタイプの作品。

 今作においては、絵=描いた当人の性格・感情・人生を反映したものというような位置づけになっているようで、ある花の画について主人公が「これを描いた人はきっとこんな人」と想像したとおりの人物が画家としてあらわれ、さびしい画を描いた主人公は親を亡くし段ボールで梱包されたままの部屋で暮らしています。

 

 

  肋骨凹助著『宙に参る』1巻読書メモ

 それは何ですか;肋骨氏によるwebトーチ連載漫画です。最新話のほか、1~3話まで読むことができます。未来を舞台にした旅漫画で、1話完結的なエピソードもありますから、試しに数話読んでみるのがよいかと思います。1巻に収録されたのは1~8話(3/1現在掲載中の最新話)まで。いま読めば連載追っかけ組になれる。

 序盤のあらすじ;夫を亡くしたソラが、遠方で式場にこれない祖母に代わって喪主をつとめ、子供の宙二郎と一緒に葬儀を取り仕切る。並べた椅子にタブレットを置き、焼香のときに参列希望者の顔が表示されたタブレットをロボットの頭へ挿げ替えさせる自動運転プログラムを組む。

 式を終えた母子は夫の実家へ里帰りすることとする。役所への手続きはまだまだあるが、連絡船は直近の便をのがすと1週間さきまでない。宙二郎に居残りして役所で手続きしてもらうことにして、宙二郎とソラは一緒に故郷へ向かう。機械の脳と体をもっている宙二郎を、親機と子機に分離させたのだ。スペースコロニーからスペースコロニー型宇宙船へ、宇宙船から義母の待つ地球へ。宙を参るのだ。

 読んでみた感想;未来を舞台にした旅漫画で、とんでもなく面白いです。

 2話がエモくて大好きなんですが、そのエモさが"その時代の一般的なメカの一般的な人工知能・自己学習フィードバックシステムのクセ"を手掛かりにした推察からくる、「このケースではこう(考えるのが妥当)」という単なる事実の指摘でしかない……って距離感・温度感がすばらしい。

 

 

0302(月)

 宿直明け日。

 ■読みもの■

  内田静枝編『女學生手帖: 大正・昭和 乙女らいふ (らんぷの本)』読書メモ

 それは何ですか;大正~昭和初期の女学生についての本です。新装版を購入。

 読んでみた感想;『少女の友』や『少女倶楽部』などの4大少女雑誌の紹介からはじまり、当時の人気作家・人気画家の紹介といったところは勿論あるんですけど、実際の女学生の生活が垣間見られるのがとてもよいです。

 人気の趣味”手芸”の当時の雑誌におけるカラー特集の採録p.32、『少女画報』昭和5年2月号掲載の女学生(寄宿生)の一日を写真に収めたものの採録p.36、大正14年『新緑のたより』からおたより例文の紹介p.40、『少女倶楽部』昭和11年1月号掲載の女学生のためのマナー記事(写真付き)の紹介p.42、『少女画報』昭和3年10月号から女学生言葉事典p.85……などなど。

 「え、"オジャン"て女子学習院のお嬢さま言葉だったんだ(=授業終わりの意)」とか今となっては驚きの出自がチラホラ。

 

  とくに面白かったのは『少女画報』や『令女界』からお悩み相談コーナーの抜粋。明け透けすぎるくらいに明け透けな身の上相談がなされているんですよ。

 また、投稿者の相談ごとに「はえ~」、そしてその回答に「へぇ~!!」て読んだように思います。常識人・識者が当然顔で唱える正解が、それを聞いたじぶんにとってはそうでないときにこそ、頭がよりクラクラするのでしょうね。

 キッスなんかということは第一衛生的によくありません。そのために結核が感染したりその他の病気がうつったりすることは随分多いことです。

 たとえ婚約者の間でもあんな非衛生的なことはやってはならないと思います。活動写真やその他に影響された外国人の悪風などまねるのは猿真似にも等しい愚な事です。

   河出書房新社刊、内田静枝編『女學生手帖: 大正・昭和 乙女らいふ (らんぷの本)』新装版p.97、『令女界』昭和9年4月号掲載記事より

 

 最近のマナーでは「つまらないものですが」と差し出すのはダメだと聞いたことがありますが、昭和11年当時は「粗菓ですが」と出すとよいよという記事があったようですね。時代時代でいろいろルールが変わるものですねぇ。

 

 

 

 ■18禁のはなし■

 スルーしやすいように最下部に置いただけで、じっさいに観たのは2/27(木)です。

  矢澤レシーブ監督『【VR】修学旅行に片想いのあの子と王様ゲーム 見回りが来たので一緒に布団に飛び込んだら… 桜井千春』感想

 それは何ですか;SODクリエイトから出ている、矢澤レシーブ監督によるポルノビデオです。『FANZA』で購入。

 序盤のあらすじ;修学旅行の夜。同じ部屋の陽キャの友だちと「誰が好きなんだよ」と盛り上がっていたところ、かれの友だちの女がぼくたちの部屋に遊びにくるという。ひとりだけではなく、さっき話題にしていたぼくの好きな子も! ちょっと談笑したのち、陽キャくんが席を立ちじゃがりこをすごい勢いで食べ始めた。そうして高速で空けた容器とわりばしで王様ゲームをすることになる。

 観てみた感想;面白かったです。AVをしこたま買えるような富豪ではなく、先行作についてあまりに疎いのでほかの王様ゲーム物と比べてどう、AV全般とくらべてどう、という話はできませんし、ヤることヤるだけのポルノはポルノなので余人におすすめするものでもありませんが(ぼくの感想を読んで、「なるほど日活ロマンポルノとか黒沢清などが頑張っていたようなそういうアレですか」などと期待されても困る。面白い物語をお求めなら、本屋なり映画館なり、今作へ手を伸ばすまえに訪れておくところはたくさんあると思います。ぼくは値段ぶん楽しみましたが、ほかのひとにとってそうかは分かりません)、個人的にいろいろと感心する作品でした。

 陽キャくんがじゃがりこを爆食いして王様ゲームのくじ(割りばし)を入れるための即席容器をつくる活劇ぶり、即興感の演出がよい。

(爆食いといっても普通の人なので限界があり、モタついていて、そしてたぶん中身の半分くらいは画面外のスタッフに渡したものと思うけど)

 そりゃもちろん撮影前からやることはある程度きまっているでしょうから、前もって小道具を用意しておいたうえで「こんなこともあろうかと……じゃーん!」とやることだってできるわけです。

 市販の(?)しっかりしたパーティグッズを用意しなくても、「あっ、さっき食べ終わったじゃがりこの容器を使って……」とテーブルの上やゴミ箱から取り出すんだってできるわけです。長回しで、モタつきをカットできない以上、こういうのも有効な手なのではと思います)

 できるわけですが……しかし、陽キャくんがその場でじゃがりこを食べまくりゲーム用の容器として転用したからこそ、ぼくは、

「女友達がほんとうに偶然のなりゆきで部屋に訪れてくれることになったんだ」

 ということが真に感じられ、

「今まさにこの場ですごい事態が動いている!」

 という臨場感をここまで味わえたのだと思います。

 

 そこ以外にもやたらと気が利く作劇で、陽キャくんのキャラ付けが童貞にやさしい。聖人君子かと思いました。

 男2人女2人の4人のドラマで、ヒロインのまじめ女子も主人公(VR視点人物)が好きで、陽キャくんも陽キャ女さんもそれぞれの友だちで両想いのふたりをくっつけようと動くだけの八百長ゲームだというやさしい世界(?)でよかった。

 陽キャ女さんもサービスショットがあれこれあるものの(やたらとパンツが見えたりとか。胸を触らせてくれるとか。余談ですが足を開いて座る陽キャ女子さんの姿は、濡れ場目的に見ている我々アダルトビデオ視聴者にとって視聴継続するための牽引力になると同時に、足を閉じて座るまじめ女子のキャラづけに一役買っています)、濡れ場自体はゼロ。ポッキーゲームでも唇同士がくっつくまえに折って終わらせる。

 これはよい塩梅だなぁと思いました。

 とくにポッキーのくだりはかなり重要な気がしました。

 あのアクションのおかげで、

「なんでもかんでもポルノ視聴者のためにエロいことをしてくれる、男性向けポルノの女優さんのひとりではない

 と言いきってしまったらそれはさすがに言い過ぎですけど、

「自分の意志・裁量でどこまでやってどこまでやらないか決める一人のひとなんだ」

 という風にうつる部分が、何割かは何パーセントかは出てきてくれます。{いくら陽キャだからって、お遊びで・場の空気をこわさないよう胸を触らせること(※1)や、友達が想い人とくっつくための後押しはできても、好きでもない人とヤるのはおかしいんじゃないか……という当然の(しかしポルノの世界では平気でやぶられる)ラインが守られている。(「※1の時点でおかしいよ!」という話ももちろんあるでしょう)}

 

 パロ画像も生まれた過去のえらいひとの言葉に「かわいそうなのは抜けない」というのがありますが、今作はそれに代表されるような"それがあると抜けなくなる地雷展開"をうまく回避してくれている作品だと思います。

 

 そしてひさびさに「VR・3D映画の表現って一時のにぎやかしで終わっていいものではないよな」と思うシーンもありました。

 さて3DVRエロ動画は、定点FIX長回しになってしまいがちです。それはなぜかといえばセッティングの難しさ(面倒)もあるんでしょうが、いちばんは「VRカメラ映像=鑑賞者自身」というていの作品が多いので、カメラが勝手に動かれてしまうとその体裁が崩れ、興ざめしてしまうからだと思います。

 いろいろ制約のおおそうな3DVRエロ動画で採りうる構図のなかで、今作は複数人いるひとが画角いっぱいに配置され、コミュニケーションが演者⇔視点人物だけでなく、演者⇔演者間でも取られるので、見ていて飽きないシーンが多い。

 陽キャくんと仲が良い陽キャ女子とポッキーゲームをするときの、画面中央前景に陽キャ女子・画面左後景に陽キャくん・画面右後景にVR視点人物の想い人のまじめ女子が位置する構図と、映像の展開がよかった。

 陽キャくんが笑顔で囃し立てつつも途中から息をのむ顔、まじめ女子の不安・不機嫌がにじむ顔(え、実はVR視点人物の片思いではなく……?)といったところがとても良い。

 

 視点人物以外の3人が横並びになって喋る非濡れ場のシーンも案外おもしろい。

 作り手が意図してか意図してなかったのかよくわからないけど、画角的な関係で3人全員を視界に収めたスリーショットとして見るには難しい配置となるときもあって、そういうシーンではだれかを画面端・外にしなければならず、観客がある種のかめらじぶんでフレームを決める面白さがある。

 

 こういう視聴者側の自主的なフレーミングについて、作り手の側でコントロール(注視点をつくって視線誘導)することでそれを物語に取り入れて、視点人物と視聴者とを同期させ、より没入感を味わえる作劇というのも展開できそうだなと思いました。

{たとえばポルノVRなら、視聴者の関心事は卑猥にありますよね。

 前景で視点人物の所属するグループの人々(誰でもいいですが、とりあえずこの話では美人だけどキッチリカッチリしたまじめな彼女にします。)がしゃべってるのと同時に、そこから少しズレた位置にいる別コミュニティ(派手な色合い。教室のなかでひとりピンクのカーディガンとか着ていたりとか)のボタンいくつか開けて胸元ゆるめのミニスカートの美女が談笑し、足を組み替えたり、大きく前にかがんだりする。

 しばらしくして前景の会話が終わると、美女がこちらに目線を向けて「さっきからこっちチラチラ見てただろ? あんなきれいな子が彼女なのにお前も悪いやつだな」とニヤニヤ言ってくる……みたいな}

 

 一般年齢向けのエンタメとしては、VRの存在感が皆無なのはもちろんのこと、『アバター』で盛り上がった3D映画も完全に下火で(実写では後加工の3Dがある程度)、その媒体ならではの表現などはあまり追求されなくなってしまいましたが、やっぱりまだまだもっといろいろなことができそうなメディアだよなぁと思いました。

〔まぁそもそも「全盛期でもどうだったのか……?」というところはある。

 『アバター』のあの09年段階で色々なエンタメで参照されまくりすでに見慣れたはずの9.11的な光景が、3D映像として現れたことでわかった異様さ――大木が崩れるところが、というよりもそのあとが。煙がたんなる視界を不透明にするものとしてではなく、ただ見ているだけなのに息詰まり苦しくなってしまう"ひらけた空間にぎっしりと満ち満ちる粒の膨大な集合体"として現れたさいの、視覚的な圧倒的圧迫感――に魅了されたぼくにとって3D上映は率先してチケットやビデオを買う対象でしたが、「3D映画だからこそ!」という面白さを感じさせてくれる作品がいくつあったかというと、数えるほどしかないんですよね。

{パッと思いつくなかで強烈に印象的だったのはピクサーの3Dアニメ『トイ・ストーリー3』(=現代の幼稚園での遊びシーンに代表される立体的で動的・脅迫的な"いま・ここ"と、子供時代のアンディとの遊びシーンに代表される平面的で静的・ノスタルジックな"かつて・そこ"の場面とを使い分け。両目の距離がひとよりも近しいおもちゃの目線を再現した結果、おもちゃの目線自体が本質的に立体感のとぼしい、後者に近しいものとし、アンディのもとに戻るというおもちゃのリーダー・ウッディがかかげる目標を生理レベルで納得させる怪作、とその併映短編『デイ&ナイト』。『ファインディング・ドリー(=立体的で動的・水流も水のないところも自由なカートゥーンらしい擬人化された魚キャラが絶望したときの主観ショットとして、ただの魚の身体的当然として目が離れすぎて映像は立体視を成立できず像は二重にブレて、水のないところでハネ回るどころか水のなかでさえ思うようになど動けずただただ世界に流されるだけとなるのを長回しする……なんて前衛アート映画がやるような演出を、キャラ的物語的必然として導入してしまった怪作

 そして実写映画だと『エクソダス 神と王』(=ほぼ同ポの遠景ショットの立体感をそれぞれまったく違えることで、それぞれのシーンで主人公がエジプト側かユダヤ側かどこに属しているかを表してしまった作品、『オデッセイ』(=痛みに顔をゆがませる立体の"わたし"の場面と、基地のカメラで自撮りしてサクセスストーリーを語る平面の"わたし"の場面とをつむぎつつ、立体平面凹面の混然一体となったクライマックスを迎える……映画としても独自にすごい作品、あとは一部「おっ」となったので再検討しなきゃならないなと思っている『ジャックと天空の巨人』『X-MENフューチャー&パスト』(=巨人よりも圧倒的に小さなはずの人々の、2D上映であれば遠近のつぶれた真上からの俯瞰ショットが、3D上映により立体感が強調され不思議な存在感を覚えるでしょうか。

(後加工3Dでも、作り手が演出材として意図したかしてないかわからない作品でも、『SW7フォースの覚醒』など「おっ!」となれるような、お気に入りの作品はありますが)

 最前面でナメた海藻や泡や光の矢が目に痛く、「水中というのは人間が暮らせるところではない異界なのだ」と生理的なレベルから描き出してしまう……そんな3D映画として傑作だった『大アマゾンの半魚人』が、おだやかで夢想的な水中ラブシーンが印象的な2D映画の傑作『シェイプ・オブ・ウォーター』になってしまったことへ落胆の声がまったく聞こえないあたりも、3D映画にひとびとがどれだけ興味ないかという一つのあらわれのようにぼくには思えてしまいます}〕

 

 まあ商売なので、実写の3D映画について新作はほぼつくられなさそうだということや、1950年代ごろにいくつも生まれた3D形式で撮られた映画の、3D上映形式での再発掘というのもまた期待できないというのはもう仕方ないことと思っていますが。

 ……せめて『アバター』以後の3D映画の再生環境はもう少しどうにかなってほしいというのがあります。

 一昨年冬にPSVRゲームや3DBD映画やVRエロ動画をプレイして落胆したものの、最近のストリーミング形式のHDVRエロ動画を見て思うのは、

「じつはPSVRってそこまで性能わるくないかもしれない」

 ということと、

「一昨年冬にかんじたPSVRの映像のおもちゃ感というのは、じつは、3DBDで観る3D映画の容量的な問題も結構大きいのではないか?」

 ということです。製作費何百億円の3D映画(のブルーレイディスク)より、日本のマイナーポルノレーベル製のHDVRエロ動画のほうが、くっきり見えてる気がする。