すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

日記;2023/11/01~11/30

 以下、日記です(12万8千字くらい)

 1クール分の日記は文量オーバーで半分にしたらそれでもオーバーしたのでひと月ずつの投稿です。大半は一度UPしたものですが結構書き足しもあります(7万字くらい)。そのなかでのハイライトは……

・『Dead Tech』原著が言いたいことは『廃墟大全』で言及された価値観とたぶん逆なのでは?

・『戦災殃死者改葬事業始末記』すごい。

・「生きて帰ってこい」と手紙に口にと特攻隊に言う家族は最低でも4組はいる。

・記録・日記にでてくる立小便の頻度解析で東京の焼跡・復興度合いが調べられないか? ノーベル文学賞受賞の立小便。夢声が見た便所の中という国家安泰とその破綻。

 

 ※話題にしたものごとへのネタバレがあります。ご注意ください※

 

この時期にやったゲーム

 PS5『ARMORED CORE Ⅵ』プレイ中。(50時間くらい)

 35時間で1ルートクリアしました。進捗などはこれまでのブログでいくつか残しました。全ルート回りおわったら、プレイ日記をまとめることでしょう。

 

文字色分けまとめ

 ないし灰色の字は一度アップした記事であればその当時とおなじ文章、そうじゃないものはその日にちで書いた日記。

 薄紺色の字(一部で)書いたものはアップした記事にはなかった新規追記部分。項題の(N)は完全新規で、(+)は追記箇所がある項。

 また、引用文中の略、太字強調、文字色変えなどは、ほぼzzz_zzzzが勝手につけています。

 

1101(水)更新ぶん(書き足しアリ)

 ■読みもの■建てもの■

  写真集を後追いする大変さ

 先日から建築・廃墟熱がたかまっているんですけど、いわゆる写真家の写真集も趣味人系写真集も、電子書籍はもちろん紙の本でだって和洋問わずなかなか流通がないみたいで、後追い者のつらさを味わっております。

 日本語圏の廃墟本の電子書籍化状況ってかなり優秀だなぁ、とくにグレッグ・ジラード龍城探訪 魔窟で暮らす人々(City of Darkness)が安価で紙も電子書籍さえ(!)流通しているのはかなり凄いことなんだなぁと、他の本の流通状況や古書価格を見て思ったり。

(ジラード氏のほかの写真集は『City of Darkness』含めて古書価高騰してて、「ほかの読みたいな」と思っても一冊5万円とか普通にする……)

 

  (N)類型学、的視点によって現代産業を一貫した美学へのせる;ベッヒャー夫妻『給水塔』『溶鉱炉』『Stonework and Lime Kilns』読書メモ

 それは何ですか;

 ベッヒャー夫妻水塔』『鉱炉』は、表題をそれぞれ被写体にした写真集です。

 読んだ感想;

 曇天で影の強く出ないところで、一定の構図・画角で対象をモノクロフィルムにおさめつづけるタイポロジー(類型学)的作風で知られるベッヒャー夫妻の邦訳単著。かれらは1975年ニュー・トポグラフィクス(展参加者)の一組で、収録された写真は1960年代~70年代に撮られたものだそう。

 巻頭に多木浩二氏の解説<ベッヒャーのアルケオロジー>がそれぞれ収録され、『給水塔』ではさらにレイナー・バンハム氏による「ベッヒャー夫妻の視覚」も掲載。そしてベッヒャー夫妻による序文がつづきます。

 「給水塔の機能」あるいは「高炉頭部の形態」「溶鉱炉の機能と構造」「溶鉱炉の歴史」と無骨な章題のとおり、被写体にかんする素っ気ないもので、取材地へ行った道中の話も撮影のトライ&エラーやノウハウ的なお話もまったくありません。

 ただ溶鉱炉』のほうは、

 「ぱっと見は無骨な現代産業物をベッヒャー夫妻はどのように見えているのか?」

 が結構に語られていて興味ぶかい。

 溶鉱炉は鉄工所の中枢である。そこで作られる粗鉄は、その後の精錬や製鉄の素材となる。溶鉱炉は一目でそれと分かる姿をしており、鉄工所や製鉄工場地帯のシンボルとなっている。ちょうど中世都市では教会建築ばかりが目立つように、ピッツバーグバーミンガム、シャルルルロワ、ロングウィー、デュースブルクなどの町の光景には溶鉱炉ばかりが目立つ。

 溶鉱炉がでんと大きく構えて周囲にコミュニティが形成されているような工場と街の関係は、昔の教会と町村みたいだとか。工場は教会とちがっていまのところ美学の対象となることはないけれど、装飾なき装飾の構造物で、皮膚を剥いだ剥き出しの身体のようだとか……そんな旨の比喩や比較がなされています。

 掲載写真についても『給水塔』は完全に1ページ1枚の外観図版集なんだけど、『溶鉱炉』は1ページに同一構図でとった複数枚を並べる類型学的なくだりがある一方、なかほどでは影がくっきりでる晴天時に溶鉱炉とその周辺を一枚におさめた風景画的構図をならべたくだりもあり。

 画面下に墓地の十字架群、中央に工場、画面上に墓地群とおなじくらいのスペースの空とをおさめた構図は、ベッヒャー氏が教会にたとえていた理由がうかがえるもの。

「類型学的アプローチってなるほどこういうことか」

「"じゃあ私見を完全に配した素っ気ない感じなのか?"といったら、それもまた違う」

 と一つぶで二度おいしい作品集ということで、溶鉱炉』がオススメかな。

 

 Stonework and Lime Kilns』も、石材加工・石灰窯(キルン)工場を題材にしたベッヒャー氏の作品集。

 今日にいたる何千年ものあいだ人々は岩を抽出、採掘、精錬し、岩を材料として用いてきた。とりわけ建物や道、港の埠頭や壁を建てるために。

  For thousands of years now people have extracted, mined, and refined rocks, using them as materials, aboveall, for constructing buildings, roads, and harbor quays and walls.

   Aperture Foundation books刊(2013年)、Bernd&Hilla Becher『Stonework and Lime Kilns』p.5、「Rocks」{Jeremy Gaines氏の英訳版から引用者が重訳(英検3級)}

 石灰石焼成・消和することにより多目的建材へと変える技術はとても古くからあるものだ。紀元前9世紀のはるか昔アナトリアでも使われた証拠がある。

  The technique of transforming limestone by firing and slaking into a versatile building material is a very old one. There is proof of it having been used in Anatolia as long ago as the ninth millennium BC.

   『Stonework and Lime Kilns』p.7、「Lime―Lime kilins―Lime Slaking」{Jeremy Gaines氏の英訳版から引用者が重訳(英検3級)}

 題材となる技術・事物じたいが昔からあるものだから、被写体もおそらく建立時期にバラつきがあり、その建材もよそおいもかなりの自由度があります。

 「これ!」と一目でわかるかたちで「基本形(basic form)」が抜き出せた給水塔や溶鉱炉とちがって、各工場はそうした最大公約数・最適解がピンとこないハンドメイド感があり、結果として牧歌的なよそおいとなっておりました。

 ふぞろいの石を積んだもの、直方体のレンガを組んだもの、鉄だろうもの……窯もさまざまだし。それをとりまく建物も、板張りの家屋風のもの、トタンの箱型のもの、コンクリの箱型のもの、尖頭アーチを連ねた城塞風のもの(142・143)、丘に小さい家が密に建ち並ぶ集落といった感のものなどなど、本当に多様。

 この写真集にはめずらしく室内ショットなどもあって、そこも含めて本当にいろいろですな。

 まったく装いが違うように見えて、しかししばらく眺めているとどこか統一感がおぼろげながら窺えてくるという点で、タイポロジー的な楽しみはじつは一番つよいのかも。

 またこの本は序文のフォントがけっこう大きめで、「ベッヒャー作品のつつましい印象って実は、字組から受けたものもちょっぴりあったりするのかな?」と思ったり。

 

 

  (N)撮りかたと捉えかたとの相互関係。東海岸者が見た平原観察学;Frank Gohlke『Mesure of Emptiness - Grain Elevators in the American Landscape』読書メモ

 それは何ですか;

 1975年ニュー・トポグラフィクス(展参加者)のひとりフランク・ゴールケ氏による穀物サイロ(Grain Elevator)の写真集。ジョン・ホプキンス・ユニバーシティ・プレスから1992年から出版された本ですが、掲載された写真は1974・5年あたりを主として1972~1979年に撮られています。

 読んだ感想;

 前項で話題にしたベッヒャー夫妻もあつかった穀物サイロですが、その撮り方はかれらと違ってさまざまです。発表年に注意をむけると傾向が見えてくるような無いような。

 まずドンと目に飛び込んでくるのは、画面いっぱいに立つ円柱のつらなりです。黒がよく出て明暗のついたその表面には周辺物の影が乗ってその凹凸にあわせて大胆に歪み、サイロの巨大さがうかがえます。

 1971年秋のこと、ニューイングランドに七年暮らしたあと、わたしは家族とともにミッドウェストへ引っ越しました。丘上のアパートの窓からミッドウェイが一望でき、穀物サイロと列車の線路がミネアポリスとセント・ポールの境で一マイルつづいているのが見えました。引っ越しして土地勘のない数ヶ月間、しばしばわたしは窓の外をぼんやり眺め、東海岸の込み入った風景を心の中で経験したあとで、じぶんの目で現実の距離をつかめるこの場所へ戻って満足しました。

 土地勘を得ていくにつれ、ミッドウェイの穀物サイロが注意をひきはじめました。そのスケール、特徴のない表面、型の単純な繰り返しがわたしをつかんで離さず、どれだけ想像しても完璧には理解ができないのでした。

  IN THE AUTUMN OF 1971, after seven years in New England, I moved with my family to the Midwest. The windows of our hilltop apartment gave onto a comprehensive view of the Midway, a mile-long stretch of grain elevators and railroad tracks on the boundary between the cities of Minneapolis and St. Paul. During the months of disorientation following the move, I would often stare idly out the window, content, after my experience of the intimate, crowded landscapes of the eastern seaboard, to be once again in a place where my eyes could find real distances. As I gained my bearings, the grain elevators of the Midway began to draw my attention. Their scale, featureless surfaces, and simple repetitive forms gained a hold on my imagination that I could not fully comprehend.

(略)

  はじめはその土地が刺激する強い感情をただ味わうだけでした。記念碑的建築の存在に感じる畏敬と、新天地にきた考古学者のおさえきれない好奇心とが混ざった感情ですね。失われた世界や消えた帝国への幻想(ファンタジーをうながすような場所で、その都市が作り手から放棄された意図はこちらじゃすっかり探れません。

 穀物サイロは居住可能な建築に似ていますが、しかしそれは両者の違いを劇的にすることへ奉仕しているだけです。窓のない、ほぼ壊れていないコンクリートないし波型鋼板の十階以上にも伸び何百フィートにも広がる空間に近づくと、転移したような奇妙な感覚が生じます。

 コンクリートのサイロの湾曲部は影に思いもよらない作用をもたらし、直線は円弧へ変わり、垂れ下がったワイヤーを直線にもどします。サイロがうなったり、コツコツと音を立てたりという、一般的な機械の立てる雑音が、ゴミ箱が列をなす路地裏の奥深くまで反響します。光ははるかかなたから来ているよう。ひとは他にめったに現れません。

    At first I just savored the strong emotions the place provoked, which mixed the awe one feels in the presence of monumental architecture with the impatient curiosity of an archaeologist at a new site. The place encouraged fantasies of lost worlds and vanished empires, of abandoned cities whose makers' intentions were utterly inscrutable to me. The grain elevators' resemblance to habitable architecture, however, only serves to dramatize the differences. The windowless, largely unbroken expanses of concrete or corrugated steel ten or more stories tall and hundreds of feet long produce a strange sense of dislocation when one is near them. The curved sides of the concrete elevators do unexpected things to shadows, transforming straight lines into arcs, drooping wires back into straight lines. The sounds that come from inside the elevators-whining, thrumming, generic machine noise-reverberate in the deep alleys between rows of bins. The light seems to come from far away. Other people are seldom seen.

   The John Hopkins University Press刊(1992)、Frank Gohlke『Mesure of Emptiness - Grain Elevators in the American Landscape』p.15~16{略・訳は引用者による(英検3級)}

 冒頭にゴールケ氏じしんのエッセイが掲載されており、穀物サイロとの出会いから興奮、幻滅、再評価まで順を追って丁寧にしるしたその回想は、実作にたいする有用な副読文となっています。

 じしんの実感や他者の批評などを渉猟するフィールドノートめいた歩みとともにゴールケ氏は、併載された写真がなぜそのような距離からフレームングでピントを合わせられたのか、技法とその理由を開陳していきます。

  初期にじぶんで撮った穀物サイロの写真は多くがある意味クローズアップ・ショットでした――サイロやそれに付随する構造物がフレームいっぱいを占めていた、という意味で。五十から百フィート離れた対象からこの「クローズアップ」が得られたという事実は、写真のなかでその物理的スケールを正確にえがく難しさについて最初の洞察をあたえてくれました。これらの写真は現像したとき本質的にスケール感をうしなってしまいましたが、それでもなおカメラを構えた当時強烈にいだいた、自分がまるで小人(ドワーフになったかのようなあの身体感覚もあらわれています。

 この矛盾は、写真を完全にフレーム内で生じたものとして考えていることが原因の一部で、わたしが透明なフィルムの周囲の黒枠も現像していたことでそんな印象が強調されてしまっていました。これはカメラ越しに見たものにたいしてわたしのコミットメントが純粋である表れでしたが、絵画的空間と三次元空間とのあいだで引き出されるもののつながりを薄めもしました。

 プロジェクトをはじめた当初はこれを問題視していませんでした;わたしはミッドウェイを、自分が興味をうしなうまでのあいだ見目のよい写真を引き出せつづけるくらい無尽蔵の鉱脈をもつ、ちょっとした鉱山だと考えていたのです。

 しかしながら、その場所それ自体についてや、その特色を作り出すものについてやそれをどう写真に反映させようか思案をはじめてみると、問題は変わりました。

 ミッドウェイを構成する構造物の形状や表面を撮る喜びはこちらの好奇心を増加させ、人生が往々にしてそうなように、わたしを予期せぬ方向へと導いていきました。

     Many of my earliest grain elevator photographs were close-ups, in the sense that the elevator and its attendant structures would fill the frame. The fact that these "close- ups” were often made fifty to one hundred feet away from the subject gave me my first insights into the difficulty of accurately describing physical scale in a photograph. These pictures when printed appeared essentially scaleless, and yet my strongest physical sensations when taking the picture had to do with feeling dwarfed by the elevators' size. The discrepancy stemmed in part from thinking about the photograph as something that took place entirely within the frame, which I emphasized by printing the black of the clear film around the image. This was a sign of the purity of my commitment to what the camera saw, but it also diluted the connection between the pictorial space and the three- dimensional space from which it was derived. At the outset of the project I did not see this as a problem; I thought of the Midway as little more than a mine with an inexhaustible vein of good-looking pictures that I could extract until I lost interest in them. When I began to wonder, however, about the place itself, about what created its character and how the photographs might reflect that, the issues changed. The pleasure I took in the forms and surfaces of the structures that comprised the Midway was augmented by curiosity, which, as it often does in life, led me in unforeseen directions.

   『Mesure of Emptiness』p.16

 エッセイは初期の喜びから幻滅へとかわっていくさまを正直に記します。はじめこそ畏れの念をもって接した異形は、どこでもおなじ繰り返しパターンに過ぎず、そこではたらく人の話もかわりばえがしないのだと。

 そんなゴールケ氏にひとつの転機がおとずれます。

 何人かがわたしにフランスの建築家・理論家のル・コルビュジエを教えてくれました。アメリカ南北の穀物サイロの写真を見ておおきな感銘を受けたコルビュジエは、大きな論争を呼んだあの著書『建築をめざして』(1923)で一章をささげました。

 穀物サイロは重要な教材として教示できる建物なのだという確信をいだいたのが自分ひとりだけじゃないとわかって元気づけられましたが、コルビュジエがわたしとはまったく異なる理由で関心をもったことも即座に明らかとなりました。

 『建築をめざして』ではたった一枚掲載されたにすぎない穀物サイロが中央平原にある挿絵は、早速わたしにとって建物それ自体と同じくらい重要な舞台設定(setting)となりました。

 『北米の穀物サイロ5』(1942)と云う技術的歴史的記事や宣伝、商工会議所の広報の大選集で興味をそそられるふたつの提言をみたときのほうが幸運でした:

      Several people directed me to the work of the French architect and theorist Le Corbusier, who was so impressed by photographs he saw of North and South American grain elevators that he devoted a chapter to them in his influential polemic, Vers une Architecture (1923). Although it was heartening to discover that I was not alone in my conviction that grain elevators were buildings with important lessons to teach, it was immediately clear to me that Le Corbusier was interested in them for reasons that were very different from my own. Only one of the illustrations in Vers une Architecture depicted an elevator located in the central plains, a setting that was quickly becoming as important to me as the buildings themselves. I had better luck when I found two tantalizing statements in a large compendium of technical and historical articles, advertising, and Chamber of Commerce publicity, called Grain Elevators of North America 5 (1942):

 最小の資金で莫大な容量を得ることを第一にしているとはいえ、オグデンやユタの新しいサイロは、そのほかの都市のスペリー小麦会社の工場とおなじく、芸術的外観が適切に評価されている。(217)

  While designed primarily to get the greatest capacity for the least money, the new elevator at Ogden, Utah, like plants of the Sperry Flour Co. in other cities, shows a proper appreciation of artistic appearance. (217)

 サイロはいつも芸術性よりも実用性を主眼に建造されてきた。しかし黒い絵の具を懸命に用いてコーニスや基礎ラインへ厚塗りをほどこしたチャルマーズ&ベントンは、単調で鈍色のコンクリートへ芸術的なタッチをくわえ、西部の空にたいしてその建物を魅力的に目立たせている。(『バイソンやオクラホマにあるサイロの星』、338)
  Elevators have always been constructed with an eye to utility rather than art. But by the judicious use of black paint, brushed heavily on cornices and around the foundation line, Chalmers and Benton have added a touch of artistry to the toneless, dull concrete that makes the building stand out attractively against a western sky.
("Star Elevator at Bison, Oklahoma," 338)

  「西部の空にたいして」。このフレーズの余韻はすぐ本質を見せてくれ、1973年の早春、わたしはある会合に参加するためミネアポリスからニューメキシコ州アルバカーキまで友人とドライブにでかけました。わたしたちが取った道程は、カンザスの南西の隅、とりわけ「小麦の田舎(カントリー)」と自薦する地域をすすむもの。

 国道56号線でグレートベントからドッジシティを通ってサブレットへ行き、そこから南下してカンザスオクラホマの境にあるリベラルへ行き、ニューメキシコのトゥカムカリへむかう54号線に合流します。

 道なりにすすんでいくわたしたちは十マイルかそこらごとに、穀物サイロから穀物サイロへと通り過ぎます。大半は白く塗られ、そしてどれもが町や周囲の風景を支配していました。トスカーナの丘上の城塞やニューイングランドのコロニアル教会のような、有無を言わさぬ威厳です。

 わたしのプロジェクトのコンセプトを根本から変えることが、重力の中心を都市から田舎(カントリー)へ、フレームによってしばられた絵画的空間からフレームが戸口のように奉仕する自由な空間へ移すことが;この旅で明らかになりました。

     "Against a western sky." The suggestiveness of that phrase was soon given substance when, in the early spring of 1973, I drove with a friend from Minneapolis to Albuquerque, New Mexico, to attend a conference. Our route took us into the south- western corner of the state of Kansas, which advertises itself as, among other things, "the Wheat State." We traveled on U.S. 56 from Great Bend through Dodge City to Sublette, where we turned south to Liberal, on the Kansas-Oklahoma border, and joined U.S. 54 heading for Tucumcari, New Mexico. Along the way we passed grain elevator after grain elevator, one every ten miles or so. Most of them were painted white, and all of them dominated the towns and surrounding landscapes with the irrefutable authority of a hilltop Fortress in Tuscany or a colonial church on a New England common. The trip was a revelation; it altered my conception of the project in fundamental ways, moving its center of gravity from the city to the country, from a pictorial space bounded by the frame to an unbounded space to which the frame served as entrance.

 (略)

  穀物サイロに初めてわたしが反応したのは、光のなかの形としてでした。

 光を部分的に留めたり返したりするさまは写真としてすばらしく、皮相な空間で光と影にたわむれることは探求の余地が十二分にありました。けれど光の活躍の場は表面にとどまりません。光は体積(ボリューム)や質量(マッス)にかんする写真の錯覚(イリュージョン)をつくりだし、強烈にします;カンザスオクラホマの小さな町の端に立ったとき、穀物サイロの質量や空(から)の空間の体積は、コンクリートの表面の影の美しい模様(パターン)より、じぶんの企図の中心となるものだと気づきました。

 穀物サイロはただ大きく重いだけではありません;背も高く、周囲の風景がとりまく果てしない水平線がその垂直方向への押上げを強調しています。

 長身の建物にわたしたちが仰天するのは、一重に自他のスケール差ゆえであり、一重にそれが立つために克服しなければならない重大な力が直感的に理解できるからです。一様な表面や窓の欠如が穀物サイロを堅固(ソリッド)に見せ、ほかの建物よりも重たく見せ、だからこそ重力への抵抗がより劇的に映えます。

 穀物サイロの重量はイリュージョンではありません;円柱(コラム)を満たす穀物の力をおさえるべく建てられた壁面は、最低でもしばしば二フィート以上の厚みとなります。その堅個性はしかし一目瞭然。穀物サイロは事実上コンテナであり、満たされるための体積(ボリューム)であり、より空虚な空間にとりかこまれた殻(シェル)なのです。

    It was as forms in light that I first responded to grain elevators. Their surfaces held and returned light in ways that looked wonderful in a photograph, and for a time the play of light and shadow in a shallow space provided ample scope for exploration. But light can do more than activate surfaces. Light creates and intensifies the photograph's illusion of volume and mass; and when I was standing on the edge of a small town in Kansas or Oklahoma, the mass of the grain elevator and the volume of the empty space around it seemed much more central to my enterprise than the beautiful patterns of shadow on a concrete surface. A grain elevator is not only massive; it is also tall, and the endless horizontals of the surrounding landscape underline its vertical thrust. Tall buildings amaze us in part because of the difference in scale between them and us, and in part because we understand intuitively the magnitude of the force that must be overcome in order for them to stand. The grain elevator's uniform surfaces and absence of windows make it look solid, heavier than other buildings, and thus its defiance of gravity seems more dramatic. The weight of the grain elevator is no illusion; its walls, built to contain the force of a full column of grain, are often two feet thick or more at the bottom. Its solidity, however, is only apparent. A grain elevator is in fact a container, a volume to be filled, a shell surrounding more empty space.

   『Mesure of Emptiness』p.18~9()

 ゴールケ氏はもっと引いた構図から穀物サイロをとらえるようになります。道路や線路、平原、空とともに。

 鳥観ショットでは画面上にひかれた水平線に、穀物サイロだけがそこからはみだす構図がとられ。平原と空を大写しにした風景ショット(として傍目にはうつるもの)へよく目を凝らすと、地平線のはるか奥で白く米粒大のなにかがちょこんと空に突き出ていたりする。

 サイロとそれをとりまく周囲との関係性が主題となっていくのです。

  ル・コルビュジエ穀物サイロを「大草原(プレーリー)の大聖堂(カテドラル)」と呼んだとき、かれはじしんが知っていた以上のことを語っていました。テキサス州プレインビューに住む女性がわたしに語ってくれた「ここの教会には高い尖塔なんて必要ありません――わたしたちは穀物サイロがありますからね」ということばは、コルビュジエの直感を裏付けし、アメリカの大衆神話にとても特徴的である精神(スピリチュアル)と物質(マテリアル)の混合物(アマルガム)――混乱と言うひともいるかもしれない――を照射(ハイライト)しています。

 もし穀物サイロが世俗の聖堂であるとすれば、それは精神が物質的な領域を侵略し、滓(ドロス)を金へ溶かし変えたということなのか? それとも物質が精神へ着服し、富の追求や土地の搾取を偽善的な正当化へと貶めたということなのか? 穀物サイロが垂直方向に伸びることは人類の産業と大地の賜物そして神の恵みとのつながりを示唆するのだと認めるために、そこまで批判的な文句でこの問題を描く必要はないでしょう。

 この主張が感謝か自己満足どちらの精神によるものかははっきりせず、この両義性がこうした建築を豊かな黙想の対象としています。

    When Le Corbusier called grain elevators the "cathedrals of the prairies,” he was saying more than he knew. A woman in Plainview, Texas, told me, “Out here the churches don't need to have tall steeples—we have the grain elevators," confirming Le Corbusier's intuition and highlighting the amalgam-some would say confusion-of the spiritual and the material that is so characteristic of American public mythology. If grain elevators are secular cathedrals, is it because the spiritual has invaded the domain of the material, transforming dross into gold, or has the material appropriated the spiritual, reducing it to a hypocritical justification for the exploitation of the land and the pursuit of wealth? It is not necessary to portray the issue in such judgmental terms to recognize that the vertical reach of the grain elevator proposes a connection between human industry, the land's bounty, and divine favor. Whether that claim is advanced in a spirit of thankfulness or of self-congratulation is unclear, one of the ambiguities that makes these buildings such rich objects of contemplation.

  わたしにとって穀物サイロに欠かせない眺望は、カンザスオクラホマないしテキサス回廊地帯(パンハンドル)のハイウェイを旅している車やトラックのフロントガラス越しに得られるものです。静止した光景ではなく、町から五マイルほどすすんだ中央線の上からサイロが顔を出したところから始まって、震えるリアウィンドウから姿を消すまでの光景です。点がとてつもないサイズへ育ってそして縮んで水平線と再会する数分間に、たくさんの矛盾したメッセージがうまれます:わたしたちはパワフルだ、何世紀も築いた、われらが記念碑はほかの英雄時代に匹敵する;わたしたちは取るに足らない、薄っぺらい風景にしがみついている、自然と時間がわれらが偉大な創造を侵食してまるで塵のよう。記憶のなかにいつまでも残るものは、けれど、ひとりぼっちのイメージで、果てしない平原の中景で直立した姿。

 これをホピ族の村やニューメキシコのプエブロといった広大なスケールの場所に暮らすひとびとの築いたものと比べてみると、個人のアメリカ式賛美の象徴と化しており、ほとんどパロディまで誇張されてしまっています。しかしこの視覚的連想は事実と共に共存していることには違いなく、とりわけミッドウェストの小さな町では、穀物サイロはその社会や経済生活の中心であり、その永続性や遠方からで見える存在感によって住民から一貫性や活力(バイタリティ)、共同体の連続性の象徴となっています。
   For me, the essential grain elevator view is obtained through the windshield of a car or truck while traveling on a highway in Kansas or Oklahoma or the Texas Panhandle. It is not a static view, but one that begins just as the elevator becomes visible above the center line, about five miles out of town, and continues until it disappears in the vibration in the rearview mirror. In the minutes that pass as the speck grows to colossal size and then shrinks to rejoin the horizon, many contradictory messages are created: we are powerful, we build for the centuries, our monuments rival those of other heroic ages; we are insignificant, our hold on this landscape is tenuous, nature and time erode our greatest creations as if they were dust. What lingers in the memory, though, is the image of at solitary, upright form in the middle distance of an endless plain. Compare this to a Hopi village or a New Mexico pueblo, also built by human beings who inhabit places vast in scale, and it becomes an emblem, exaggerated almost to the point of parody, of the American glorification of the individual. But this visual association must coexist with the fact that, particularly in the small towns of the Midwest, the grain elevator is a center of social and economic life and, by its constant, far-flung visibility, symbolizes to the inhabitants the coherence, vitality, and continuity of their communities.

  前節は過去形で記したほうが書いた方がよいかもしれません。
   The previous sentence might well have been written in the past tense.

   『Mesure of Emptiness』p.23

 『MoE』最後の都市景となるテキサス州ハッピーの眺望は、穀物サイロはフレームの外で、そのおおきな影がトラクターなどのとまった空き地に落ちるのみとなり。

 その後は大地と空とがほぼ二分する風景写真となります。これまでも風景ショットは掲載されていましたが、巻末の風景にははたして穀物サイロはうつっているのかいないのか、よくわかりません。

  ミッドウェイの悪化していく運命は、加速していく1970年代の穀物貯蔵と市場売買の変化の前兆でした。これらの構造シフトが80年代の穀倉地帯の恐慌とあいまったとき、あまたの穀物サイロは、それを生み出した文化よりも長生きするかもしれないほど堅固な建造であるという事実に無頓着なことに、田舎でも都会でも両方とも廃れてしまいました。

 当初は大草原(プレーリー)風景の重要かつ永続的な特徴を祝うものであるかのように見えたサイロは、いまでは哀歌(エレジーとして現れつつあります。

   The deteriorating fortunes of the Midway signaled changes in the marketing and storage of grain that accelerated during the 1970s. When these structural shifts combined with the farmbelt depression of the 1980s, many grain elevators, both in the country and in the city, became obsolete, regardless of the fact that their solid construction may enable many of them to outlast the culture that produced them. What had seemed at the outset to be a celebration of a key and enduring feature of the prairie landscape now appears to be an elegy.

  「合衆国には誰かいるよりも誰もいない空間のほうが多くある。それがアメリカをアメリカたらしめている」。1974年にわたしが出くわしたガートルード・スタインの格言は、じぶんが写真に求めているものがなにか見極める助けとなりました:「誰もいない空間」は、大草原(プレーリー)の空虚だったのです。

 穀物サイロはその空虚にたいする物差しとなりうる存在であり、歴史も伝統もほとんど備えとならない広大さにたいして人々がとれた物質的な反応でした。

 この本を構成した1978年、セットに対するよりクリアな視点を得るためにわたしは最後、舞台から穀物サイロを取り除きました。寝かせていた十年の月日はこの決定に意図しない予言的で皮肉的な転回をもたらしましたが、時事的話題性は当時も今も要点じゃありませんでした。

 哀歌的な調子は、穀物サイロの最終的な運命にかかわらず適切でしょう。なぜならこれらの記念碑的構造物は、どの時代の偉大な人類の達成と同様に、なにが過ぎ去り何が耐え忍ぶのかを思い出させるからです。
   "In the United States there is more space where nobody is than where anybody is. That is what makes America what it is." When I happened on Gertrude Stein's dictum in 1974, it helped me to identify what I wanted to photograph: the "space where nobody is," the emptiness of the prairies. Grain elevators were the presence against which that emptiness could be measured, the material response of a group of people to a vastness for which their history and traditions gave them little preparation. When I structured this book in 1978, I removed the grain elevators from the stage at the end in order to get a clearer view of the set. The intervening decade has given that decision an unintentionally prophetic and ironic turn, but topicality was not then the point, nor is it now. The elegiac note is appropriate regardless of the ultimate fate of the grain elevator, because these monumental structures remind us, as do the great human achievements of every age, of what passes and what endures.

  マサチューセッツ州アッシュランド、1991年

   Ashland, Massachusetts 1991

   『Mesure of Emptiness』p.24

 

***

 

たいへん面白かったんですけど、ゴールケ氏のエッセイの引用箇所・コルビュジエ理解は正直よくわからない……。

 すくなくとも鹿島出版会SD選書21『建築をめざして』には、①平原の上に立つ穀物サイロの挿絵は見当たらないし、②穀物サイロを平原の大聖堂だと呼んだ記述も見当たらないサイロと大聖堂とはむしろ正反対の趣向の評価がくだされている。前者は……

『<建築的な考えを追ってはいないが、単に計算の結果にだけ導かれて(この宇宙を支配している原理に基づいて)、「役に立つ器」という概念から、「工学技師たち」は今日初原的な形を利用し、ある基準に従ってこれらの関係を定めているが、そこには建築的な感動を起させ、人間の作品と、宇宙の秩序とを共鳴させるものがある。>

<ここにアメリカのサイロや工場を示したが、新しい時代の素晴らしい「端緒」がある。>p.40

 ……と称賛する一方、後者については……

「ゴシックの建築は、球、円錐、筒などを根底としてはいない。教会堂の身廊だけが単純な形を示す。ただし二次元的には複雑な幾何学(尖弓形の交叉十字)である。それゆえに大聖堂は大変に美しいとはいえず、その埋め合せを主観的な造形外の要素に求めることになる。大聖堂は難問の解決案という意味で興味を惹くが、問題設定がまずかったのだといえる。初原的な形を用いていない。<大聖堂は造形的な作品ではない。一つの劇である。重力との闘いといった情に訴える種類の感覚によっている。>」p.39

 ……とほぼ正反対に位置づけている。

 鹿島SD選書は抄訳版なので、①については「図版漏れとかがあるのかな」と思うけど、②については「この論旨が全訳版になることで変わるなんてこと、ありうるのか?」と疑問。中央公論美術出版からでている『建築へ』も見るべきかなぁ……気が進まないなぁ}

 

 

  (N)波のキメと撮影者の実感;『軍艦島 棄てられた島の風景―雑賀雄二写真集』(1986)読書メモ

 それは何ですか;

 1986年に出た、雑賀雄二さんによる写真集&紀行文。

 読んだ感想;

 光を白く影を黒くパキッと出したシャープな写真集で、非常にすばらしかった。剥がれ崩れる内壁、波打つ畳などなど、風化のディテールを注視した写真集。

 先述のゴールケ氏ともども、撮影者の実感と、シャッターをきられた実作との関連がおもしろかった。

 はじめは軍艦島の鳥瞰的構図で、被写体は軍艦島というよりも、そこへ打ち寄せる波。飛沫がひとひとつ見て取れるような細かく粒だった波の荒々しさへフォーカスがあわせられています。

長崎港を抜けると目の前に細長く伊王島が横たわっている。その先端をかすめて船は高島に着いた。ここも炭鉱の島だった。目指す軍艦島はこの陰にあるという。船が桟橋を離れると吹きっさらしの二階甲板へ出て島の姿を待った。

高島を出ると外海になる。冬の海は荒れに荒れた。大きなうねりの頂点に上り、空しか見えないかと思うと、次の瞬間には身体が浮いたようになって、うねりの谷へと船はすべり落ち、今度は見上げるところに海があるといった具合であった。

あまり泳げない僕は、ただ怖いだけでどうしていいのかわからずに、必死で鉄の棒にしがみついていた。

北西の潮風が目を刺して涙がにじみ、その上食べたものを吐いた。涙と鼻汁で最悪の顔だった。その顔で僕は初めて軍艦島と対面した。

   新潮社刊(1986年8月25日発行、1994年1月10日 3刷)、雑賀雄二&洲之内徹軍艦島 棄てられた島の風景―雑賀雄二写真集』p.98~99、雑賀雄二「錆びついた時間」追想軍艦島 より

 雑賀氏は閉山間近である74年初来訪時の回想録として、とにかく船酔いしたことを取り上げていて、そう云うかたがこういった波へフォーカスした写真を撮るのはよくわかる。

 

 

  (N)なんか燃えてる荒野、弾痕だらけの『プレイボーイ』ガール、遺棄された家畜。核実験場の詩情;リチャード・ミズラック『狂気の遺産』読書メモ

 それは何ですか;

 リチャード・ミズラック氏の写真集気の遺産』は3篇から成る写真集で、まずスーザン・ソンタグのSSから幕を開け、そこから本篇であるWW2当時に第三の核爆弾が用意されていたとのうわさがあう荒野の核実験場を被写体とした「W-47計画」篇がはじまり、さらに核実験の余波が噂されるネバダの荒野にいまなお打ち棄てられた家畜廃棄現場を被写体とした「墓穴」篇がつづき、そして最後に射撃訓練場の的となった『プレイボーイ』誌を被写体とした「プレイボーイ」篇でしめくくられます。

 読んだ感想;

 晴天がつくる濃い明暗、板張りの小屋のなかにさす木漏れ日、なんか燃えてる荒野などなど……その荒涼や不気味・グロテスクは詩情をはらみアレハンドロ・ホドロフスキー監督『エル・トポ』を想起しました)、単なる雑誌の一ページだというのにひとが弾痕でズタボロになった様は痛ましく、無傷のページがなんであるかを突き止めた写真を見ればそれをとりまく社会へ思いをはせずにはいられません。

 序文としてスーザン・ソンタグ氏が創作SSを寄せたりしています。

R.M. 「砂漠編」にとりかかったのは1979年ころだから、かれこれ10年というもの、「文明」と自然の衝突を連想させるイメージを求めて、アメリカの砂漠を捜しまわってきたことになる。三つの篇(カント)からなる「狂気の遺産」はこの大きなプロジェクトの一部で、テーマを軍国主義と文化の暴力に絞ったものだ。

「篇」と名付けた理由はじつはしごく簡単でね。このことばは、長い歌や詩を小さく区分したものを指す述語なんだ。文学の世界では、昔からよく使われてきた。エズラ・パウンドの長編詩「カントス」は有名だし、ダンテの「神曲」もやはり「篇」を集めた構成になっている。

   宝島社刊(1993年7月15日発行)、リチャード・ミズラック(写真)スーザン・ソンタグ(文)(木下哲夫訳)『狂気の遺産』p.83、メリッサ・ハリス取材「あとがきに代えて リチャード・ミズラックとの対話」(「砂漠」が原文ママ

 原書の副題「Three Cantos」そしてこれらをくくるシリーズ名<砂漠の詩編(Desert Cantos)>の「詩篇(Canto)」についてミズラック氏は、ダンテらの詩がそう称されることなどにならった、と巻末インタビューで答えています。

陰気な詩が「贖罪」になるとすれば、それは既存の神話や考え方の枠組みに亀裂を生じさせることが出来るからだろう。たとえば「狂気の遺産」は、これまでアメリカのアイデンティティと同義語のように思われてきた西部のステレオタイプ化されたイメージとは、大きく隔たったものを写しだしている。西部といえば、英雄的な白人の男に象徴されてきた。(略)歴史的に見れば、これが十分に真実を伝えるものでないのは明らかだし、1990年代の西部とはおかしくなるくらい似ても似つかないものなのに、効力の高い文化神話としていまだに機能している。おもしろいことに、カウボーイ神話はどうやら、強力な神話上の人物、ホーマーのオデュッセイからじかに引きだされたものらしい。

「狂気の遺産」に収めた写真は、西部をより正確に理解する、これまでとは違った方法を提示しようとする試みと言っていい。そこに写し出された西部の大地は、果てしない荒野でもなければ、自然の恵みのみによって生きる一匹狼たちの土地、西部を「文明化」しようとする英雄的な奮闘努力が行われる場でもなく、軍や政府機関が大量破壊兵器の開発に利用する土地(「W-47計画」)、自然の資源が汚染される土地(「墓穴」)、あるいは狂暴になった文化の本性を如実に示す、銃に象徴される暴力的な行為の場(「プレイボーイ」)になっている。いまの西部には、フランケンシュタインの神話のほうがずっとふさわしい。西部の大地は、いまや科学者たちが森羅万象の力を相手に――化学、生物学、電子工学、そして核の――実験を行う試験所になり、そこで人類の手では抑えようもない危険な物質や技術が作りだされている。ぼくらの社会は根底から軍国主義化されているのに、このことにだれも気づいていないようだ。

   『狂気の遺産』p.89~90

 土地とそこでなにが起こったのかを記したミズラック氏の文章と、ミズラック氏が撮った写真とには歳月的な断絶があるんですけど、一緒くたに並べられたことで全く無関係のはずの事象があたかもそのその当時撮られた実景であるかのように見られてしまう部分があり、そこはかなり危ういことをやっているのではないかと思ったり。

{畸形・生育中の突然死は放射線関係ナシに一定数おこるはずのもので、じっさいには割合的になんら普通のものだったりしない? という疑問(「地震雲」とか「311後の畸形植物」とかの分母を無視した都市伝説群とおなじ問題)

 

 

  (N)『廃墟大全』が見た美とは逆のことが言いたいのでは?;Manfred Hamm(写真、Rolf Steinberg文、Robert Jungk序文)『Dead Tech: A Guide to the Archeology of Tomorrow』(1982)読書メモ

 それは何ですか;

 写真家とおなじ20世紀うまれの人工物が現在進行形で朽ちていっているさまを捉えた写真集。WW2マジノ線のトーチカから、英国ブライトンのパレス・ピアアリゾナの航空機墓場(ボーン・ヤード)、水辺に沈みつつある廃工場、アポロ計画のケープカナベラル空軍基地第34発射施設などなどをめぐります。

 読んだ感想;

 廃兵器が鳥の巣になる光景など、ハルトムート・ビトムスキー監督のドキュメンタリー映画B-52』(2001)でおがめたような模様がこの時点ですでに拝めるんですけど。

 1944年生まれのHamm氏より二歳年上42年生まれのビトムスキー氏もかれはかれで、ナチスの実用的発明とされる"アウトバーン"のうさんくささを当時や現在の取材など多数のフッテージを重ね書きして突く『第三帝国アウトバーン(1985)を発表しており、未鑑賞の『ハイウェイ・40・ウエストーアメリカの旅』(1980)は「国家の痕跡」なんて章からはじまるらしく、共通する問題意識から生まれたものって感じがしないでもありません。

 『廃墟大全』「死せる視線――写真の廃墟解剖学」の「デッド・テック」の章で話題にされた一冊で、そこでの印象・期待にそぐう光景……

3.デッド・テック

 近代産業の発展は、不可避的に新しい廃墟を生み出していく。新しい製品や建築物の登場によって、次々に打ち棄てられていく産業廃棄物の集積(デッド・テック)である。これら見捨てられ、到るところに堆積していくゴミの山は、静まりかえった、不思議な安らぎさえ感じさせる眺めを作り出す。それまで人間の欲望に奉仕させられてきたモノたちが、少しずつ自然に還っていく時、風景の中に凍りついていた時間が、ふたたび緩やかに流れはじめるのである。

   中央公論新社刊{2003年3月25日初版発行(改稿元は1997年3月トレヴィル刊)}、谷川渥編『廃墟大全』p.61、飯沢耕太郎「死せる視線――写真の廃墟解剖学」より

 ……なんだけど、写真集に付されたコラム(ロベルト・ユンク氏の序文)は、斜め読みした感じ、じつはそれと決定的にたがえているように思えてならない。

ロベルト・ユンク『廃墟コンプレックス』

 THE RUINS COMPLEX

 ヒロシマ(広島)が再建に苦労していた数年間、はじめて原子力爆弾の落とされたこの地で全壊しなかった数軒のうちの一軒が熱い口論の対象となった。

 かつて産業製品(industrial products)の展示ホールだったその剥き身のドームは、この廃墟と瓦礫の荒野におけるランドマークとなっていた。他の街からあぶれてきた新入りの多くから成る市民の多数派は、1945年8月6日にこの都市をおそった特異な大惨事(ディザスター)のことなんて早く忘れるのが最善だと意見する。焼けつくされた巨体が常に見えるのは看過できないと。まさしくその理由によってヒバクシャ(被爆者)は、放射能による死が踵まで迫ったことで形骸化した人々の残りものは、この石の証人の保存をもとめた。

 煤煙で黒ずんだホールは、WW1の直前という人類が進歩をその帰結について盲目なまま信じていた時代に建てられ、10万人近い死者のための灰色の墓碑に刻まれたこの言葉をたしかに心にとどめている:「二度と起こしてはならない」。
  During the years when Hiroshima was being laboriously rebuilt, one of the few buildings not razed to the ground by the first atom bomb became the object of a heated quarrel. This was the former exhibition hall for industrial products, the bare dome of which had become a landmark amidst the desert of ruins and rubble. The majority of the citizens, many of them newcomers from other overcrowded towns, were of the opinion that the singular disaster which had struck the city on that 6th of August 1945 should best be forgotten as quickly as possible. The constant sight of that burnt-out hulk would not allow that. For that very reason the hibakusha, those leftover human wrecks, with death by atomic radiation close on their heels, wanted the stony-witness to be preserved. The smoke-blackened hall, built in the years just before the First World War when people still believed in progress but were blind to its consequences, does indeed keep in mind the words chiseled into a gray tombstone for the almost 100,000 dead: "It must never happen again.”

 この独特な記念館の擁護者が最後まで勝ち抜いたにもかかわらず、かれらの目的は達成されなかった。「原爆ドーム」、ガイドや世界中の観光客からそう呼ばれるこの古い廃墟は、抑止の役目をしていない;単なる一ピクチャレスクだ。この眺望は死者の記憶を呼び起こさないけれど、覗き魔の感傷のエサとなり、墜落した飛行機の残骸のまわりへブンブン群がる他のディザスターで見かけるような何千もの人々の好奇心を刺激し満たす倒錯的なスリルとなるだろう。
  Though the defenders of this particular memorial won through in the end, they did not achieve their purpose. For the "atomic dome," as those old ruins are called by guides and sightseers from all over the world, does not act as a deterrent; it is merely picturesque. Its sight does not evoke ghastly memories but feeds the sentiments of the voyeur, providing those perverse thrills that will prompt thousands of people to satisfy their curiosity by crowding round any scene of disaster as they might buzz round the wreckage of a crashed plane.

   Sierra Club Books刊(1982)、Manfred Hamm『Dead Tech』p.7、Robert Jungk「THE RUINS COMPLEX」{訳は引用者による(英検3級)}

 都市の一風景としてあるいは牧歌として馴染んでいるようでまったく馴染めていない偽の調和、それを良しとしてしまったり他の惨事や名所旧跡のようにエモがっちゃったりしてしまう我々の感性が問題視されているっぽい。

 遺構はあくまで遺構であって「かつて・そこ」にあった本来の死臭は風化・忘却されてしまうこと、原発事故が「(発展のために)必要な失敗」などと成功の一要素へとりこまれてしまう官僚のレトリックなどを取り上げ、その心性の奇妙さに注目したあと、警鐘を鳴らします。マジで鳴らしまくる。

 人類を脅かす全く新形式のディザスターだ:原子力的破滅(アトミック・カタストロフィーズ)に襲われた地域は全滅するのみならず、長期間にわたって居住不可能な状態におかれる。(不格好な防護服を着ない限り)だれもお咎めなしに訪れられない廃棄区域となるだろう:放射性廃墟だ!

  It is an entirely new form of disaster that is threatening mankind: the regions struck by atomic catastrophes will not only be annihilated, they will remain uninhabitable for a long time. They will become waste areas that no one will be able to visit with impunity (unless he were to put on a clumsy protective outfit): they will be radiation ruins!

 

 前代の崩壊はみんな草に覆われていき、そして生命の損失は一世代のうちに誕生した新顔で埋め合わせられていった。これまでの歴史では、戦争ないし災害の悪影響に取り返しのつかないものなどなかった。どの躓きにもそこから学べるものがあり、どの間違いも後に回復が試みられた。

 現代はきっとちがう。だって最新のエネルギーや軍事テクノロジーは、それが使用される時代のはるかにさきの、将来の世代の哀れな運命へまで及ぶのだから。それ自体もその創造者もどちらもその時が来るまで生き残るだろう。平時は意図せず、戦時は意図的に置かれた放射能は何十年何百年、場合によっては何千年何十万年と放たれつづけ、人類の形骸を大量に生産する――まず初めに身体障碍者を、つづけて多分、遺伝的奇形を。デッド・テクノロジーから、熱と毒とによる死をもたらす放射能を遺す世代を超えたひとつのテクノロジーへ――なんて一歩だ、なんて前のめりだ!

  All previous ravages had grass growing over them, and the loss of life was made up within one generation by new births. Never before in history have the effects of war or of catastrophes been irreversible. Each blunder was something one could learn from, every error one could afterward try to repair. This time it will be different. For the latest energy and military technology reaches far beyond the time of its application, affecting the fate of future generations. It will survive both itself and its creators for years to come. The radiation set free-unintentionally in times of peace, deliberately in a war - will go on being active for tens and hundreds of years, in some cases even for thousands and hundreds of thousands of years, producing masses of human wrecks - at first people who are physically disabled and subsequently, in all probability, genetic freaks. From a dead technology to a technology that over generations remains active as a bringer of death by heat and poisons – what a step, what a fall forward!

   『Dead Tech』p.10、Robert Jungk「THE RUINS COMPLEX」5{訳は引用者による(英検3級)}

 zzz_zzzzにとってユンク氏の危機感は、――半減期』展(1995、東京都写真美術館の飯沢氏による言及と、図録をじっさいひらいてみた印象(後述)とのギャップを具体的に掘り下げたようなもので、なるほど納得の内容でした。

 あの展では廃墟の写真はそこそこに、被爆者の治療やその後の生活苦へ画量も文量も割いているんですね。ユンク氏は墟の光―甦えるヒロシマとルポも残しているそうで、さすがに読んでおきたいな。

 

 

  (N)『核――半減期』展図録読書メモ

 それは何ですか;

 ――半減期展図録は、東京都写真美術館でひらかれた同名の写真集の図録です。『廃墟大全』「死せる視線――写真の廃墟解剖学」で話題にされた一冊。

 読んだ感想;

 図録をじっさいに開いてみると、被爆者のケガや治療風景、検体として取り出された脳、後遺症をかかえたその後の暮らしなどが重点的にとらえられ、読んでいてツラい。

 「死せる視線」で取り上げられた写真も、図録の説明を読むと、原爆の直撃をうけてそうなったのでなく……

46 側溝で火葬された遺骨

  爆心地、松山町、住宅地の側溝を利用して遺骸を荼毘に付した。後にトタンをそっとかけてあった。被爆後2ヵ月、撮影した時、溝の縁から発芽した朝顔の花が安らぎを与えていた。

1945年10月

   財団法人東京都文化振興会 東京都写真美術館刊(1995年)、『核――半減期』展図録p.66、林重男氏撮影

 ……そこいらの側溝が荼毘にふす火葬場としてつかわれた光景だ(p.66)ということがわかり、非常に重たい気分になる。

 屋外にそのままある遺体写真は大体そういう経緯で意図してそこへ移され(そして火葬され)たものらしい。荼毘関係ではそのほかにも、距離の関係で爆発・火の影響が軽微だった小学校が、そうであるがゆえに荼毘に付す場として最適だった……

40 城山国民学校校庭にのこる遺骨

  城山国民学校の校庭で集団荼毘が行われた。遺骨から判断すると当時三菱関係の伝票整理に動員された女子中学生のものと監督指導に当たったと想像される男性の遺骨が混然としていた。城山国民学校の内部(教室、机、椅子、黒板、床)は火災が起きなかったため荼毘の格好の材料であった。

1945年10月

   『核――半減期』展図録p.63、林重男氏撮影

 ……という話なども掲載されていて、いっそう気は沈みます。

 

 『Dead Tech』ユンク氏の序文もそうですが、こういう文章や写真を見ると、「廃墟はあくまで廃墟に過ぎず。地味で辛い、絵にならない"いま・ここ"(で当時あったはずの、そして今なお展開中)のケの日々とは別種のものだよなぁと思ったり。

 福島菊次郎さんが取材・撮影した広島江波の漁師・中村杉松さん家族の1951年~1961年の写真(『ピカドン』抜粋)の荒廃はすさまじい。

 切れたままの障子、波打つ畳のうえに物が散乱した部屋に、行商をしていた妻が亡くなった父ひとり子ども6人の寡夫家庭を見てしまうわけですが、その大黒柱の父も……

61 悶絶した父親

 1960年中村さんは念願の原爆病院に入院できたが一ヵ月後にギプスを一つ貰って「治療法がないからこれに入って寝ておれ」と言われました、と我が家に帰ってきた。

   『核――半減期』展図録p.78、福島菊次郎氏撮影

62 発作

 突発的な発作が度々襲った。全身が激しく痙攣し皮膚が震えて波打った中村さんが苦しみ始めると子供たちは裸足で外に逃げだし、お婆さんは戸口に立って一心に念仏を唱えた。誰にもどうすることもできなかった。

   『核――半減期』展図録p.78

 ……やせ細りアバラの浮き出た半裸をカメラに晒して苦痛に喘ぐ、極限状態にあります。

 外の枝が白く光る屋外から、窓辺に座る美しい長女・蓉子さんのつるんとした肌と真っ白の服をとらえ、画面中央でほぼ黒の影の差した部屋で仰向けに寝る中村さんをとらえた「蓉子の青春」が、写真も説明文も明暗のコントラストがくっきり出ていて二重につらい。

60 蓉子の青春

 一家の生活を支えたのは学校にも行かず働き続けた長女だったが、6人の子供たちは中学校を出ると暗い家庭を嫌がって次々と家出をし、一家は際限もなく崩壊していった。中村さんはその病状さえ疑われた。

   『核――半減期』展図録p.77

 zzz_zzzzの品性的な問題からついつい上のようなツラい光景・ツラい周辺情報ばかりとりあげてしまいます――し、『ピカドン』と読み比べることでこの展図録もそのセンセーショナリズムに傾いている感が見えてくるものの{。図録の構成・まとめかただと蓉子さんも家出したように読めるけど、すくなくとも『ピカドン』に蓉子さんが家出した話は載ってないし、家出したまま出てったきりなのは光関さんだけで、美鈴さん司さんは戻って来た(ただし司さんは同宅敷地内にハト小屋を建て、ハトに全収入を注ぐようになり……)とある}――図録では被爆者同士が結婚し幸せな家庭を築いているようすや、それぞれの「現在」のようすをインタビューとともに掲載したポートフォリオ、取材に拒否して背中だけで応えた匿名のかたなど、つらいだけじゃない生活の機微や写真の限界がおさめられています。

 とにもかくにも偉い図録でした。

 

 

  (N)福島菊次郎『ピカドン ある原爆被災者の記録』読書メモ

 それは何ですか;

 福島菊次郎氏による、広島の被爆者中村さん家族の長期取材・写真集です。

 読んだ感想;

 急性の放射能症状がつづいた。生死の境をさまよいつづけながら、断続する意識の中で、中村さんはあかあかと燃える市街の火の色を見つづけ"これでオレも死ぬのか"と何度も思った。

 火傷は見る間にウミになった。流れ出るウミは、フトンを通し畳にまでしみこみ、髪もズルズルと抜け落ちてきた。すべての医療機関が全滅し、治療を受けることもできなかったので、雑草や野菜のシルまで傷口につけ、ピカの毒をくだすと聞いて、ドクダミ草をせんじてはあびるほど飲んでもみた。これは単に中村さんに限ったことではなく、被爆後4ヵ月の間に、なんらの手当てを受けることもなく、こうして7万人が狂い死んだのであった。

 だが中村さんは死ななかった。

 手の施しようもなかった火傷も、牛のフンをぬってなおし、秋のころには床の上に起きあがれるようになり、一家はやっと愁眉をひらいた。しかし戦後のインフレ時代を、働き手を失った10人の大家族が生きて行くことは、とうてい不可能であった。女手ひとつで生計を支えて、働きつづける奥さんを見かねて、両親は別居し、長男と次男は親類へもらわれていった。

(略)

 しかし24年ころから、中村さんの健康は目に見えて衰えはじめ、漁に出ることもできなくなった。(略)

 ピカをのろう声は次第に高まっていったが、政府は被爆者の救済にはなんらの手を打たず、アメリカ政府は"原爆患者は現在完全に治癒し認むべき影響は残っていない"とさえ発表し、こと原爆に関しては、医学的な見解さえ発表することを厳禁した。(略)

 こうして完全に目隠しされたヒロシマの一角で、中村さん一家の恐るべき崩壊がはじまったのであった。

   復刊ドットコム刊{2018年8月29日第二刷(1961年中日新聞社版の増補・再編集)}、福島菊次郎ピカドン ある原爆被災者の記録』(略は引用者による)

 白状すると学校の図書室や図書館に置いてあっただろう区域について「あ~反戦反核っすよね~」て感じで遠巻きに見て素通りしていたため、読んでなかった一冊です。

 白黒の利いた写真に、あれこれ取材した文章が少しずつ添えられた写真&ルポ集で、『核――半減期』展図録ではおがめなかった家庭生活と親子の仕事が写されていてとてもよかった。

 本はページを進めるごとに時間も経過する構成で、本=取材序盤では中村さんがいくらか元気だったころの、貧しいながらも子を想いがんばる家族の柱としての姿が映されています。三男・光関くんを夜つれだしての漁火漁に出たり、家のタンスをあさって老眼鏡をかけながらズタ布を補修したり、桶で衣類を手洗いしたり。

 中村さんが洗濯するうしろで裸の少年が走り回っているとおり、一家は着るもの一枚で生活している困窮ぶりで、子供たちが干潟へ貝をとっている最中の写真なども収められています。

 シケで船をうしない家外に立てかけた銛が錆び朽ちていったり中村さん自身もさまざまな受診するも打つ手ナシで改善されず症状が重くなっていく中盤を経ると、カキ工場などで働く長女の蓉子さんが家庭を支える姿が大きくあつかわれ、効率化のため左の手袋の指部分を切った仕事道具の接写とそれを用いた冷たそうなカキ剥きの接写が写されたり、家でおこなう内職のマチ針山サイコロが写されたりします。

 漁/私的な貝漁りから雇われカキ剥きへ、あたたかみある手縫いから無機質なマチ針山へ……と対比がすごい。一面5*4の120本のマチ針山サイコロは、1000本刺して5円にしかならないのだと云う。

 終盤 昭和30年(1965)8月、原爆被爆者医療法が改正され、やっと中村さんもその恩恵をうけられるようになります。

 蓉子さんがあたらしく布団を買ってやり繕い仕事をし、ちゃぶ台に白米・お酒を載せた笑顔の晩餐がなされ、海の見える港から中村さんが病院へむかう姿が写されます。

 しかしその結果は……。

 中村さん家族の姿は海辺で佇みうつむく蓉子さんの姿(舟のなくなった海辺で佇む中村さんと重なるような。そしてティーン時代の美しい髪型や衣服と正反対の、こんもり割烹着という年季を感じさせる姿)で、江波の街並みからはじまったこの本は夜の原爆ドームのモニュメントとその石碑「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」で締めくくられます。

 のちに『Dead Tech』へ寄せられるムンク氏の序文そのままの無視と忘却がここにはあって、(素通りしていたじぶんも相まって)あまりに重たい。

 

 

  (+)素晴らしいリマスタリング;グレッグ・ジラード&イアン・ランボット『九龍城探訪 魔窟で暮らす人々』電子書籍

 それは何ですか;

 グレッグ・ジラード氏による写真集です。

www.eastpress.co.jp

 電書版もきれいなリマスタリングで良い良い!

 小学館文庫から出てる土門拳さんによる紀行写真/文集の電子書籍版の図版がけっこう終わってることは前に述べましたが(ノドの処理が適当・取り込んだ画像のホワイトバランスが適当なので、見開き2ページに一枚の写真が載ると、画面中央のひとが隻腕になったり隻眼になったり。あるいは、同じ一枚絵とは思えないほど色調が変わる)、『九龍城探訪 魔窟で暮らす人々』はそういう明らかな失敗はごくごく一部に抑えられています。ありがたい。

 読んだ感想;

 この本がほかの写真集とちがうのは、『魔窟で暮らす人々』の副題のとおり当時くらしていたりしているひとの姿がそのまま活写され、そのひと達のお話も多数載った聞き書き集でもあること。それにより、

九龍城砦はただいっぱいの部屋がありたくさんの人が暮らしていたっていうんじゃなくて……

  • 飲食業(カフェ・製麺2・製飴・肉加工・魚肉加工)
  • 商業{商店2・織物・ゴム加工・定規製造・ゴルフボール製造(,金物加工,プラスチック加工)
  • 医療{歯科医・医師・漢方医2(・薬物中毒者リハビリ施設)
  • インフラ(郵便配達・)公共上下水道(と配水難を補う民間井戸水/人力水配給業)・電気工・清掃・不動産業}
  • 福祉宗教{牧師(福音自伝会リビングワード・教会。小学校や薬物中毒者リハビリ施設もつくった)・宣教師(聖スティーブン教会)・城砦福利会(消防/防犯パトロール・清掃・街路表示/街灯敷設)
  • 警察、
  • 文化興行救世軍幼稚園(・小学校)・音楽クラブ・鳩ブリーダー(・賭博・麻雀・薬物)……

 ……さまざまな人々が暮らし営んでいた、室内立体構造の"街"だったんだよ」

 というのがわかるんですよね。

 また、元ヘロイン中毒者氏の話ででてくる麻雀について、むこうのひとがどれだけ好きかは香港ビルの屋上違法家屋についてあつかった港ルーフトップ』がもしかすると補助線になるかもしれない。自動麻雀卓2台常設された計6台ぶん置ける余暇スペースをもうけた豪邸屋上家屋がでてきたりする(とおもったが、2014年販売の本がすでに古書7000円超え……。ぼくが買った&読んだ2020年ではたしかまだ定価orちょい割高くらいだったはず。海外作家の写真集関係はさすがに積み得か~?)

zzz-zzzz.hatenablog.com

 

 

  ブレラン/ブラレイ大阪の猥雑とも、バートン版ゴッサムキッチュとも違う、ポップで鮮やかな70年代日本;Greg Girard(グレッグ・ジラード)『JAL 76 88』読書メモ

 それは何ですか;

 カナダの写真家グレッグ・ジラード氏による1976年~1988年日本の写真集。

 『九龍城探訪』同様に色彩にあふれているけど、うってかわって文字がなく、美的に寄っています。

www.cnn.co.jp

 読んだ感想;

 PARCOのTVCM(B-52s, Parco Dept Store TV Commercial, 1980)、信号機と街灯だけがついた夜の東京(Shinjuku, Pre-dawn, 1979)。ブラウン管のなかの「時代が変わればロックも変わる」の日本語と一緒にうつったデヴィッド・ボウイ宝酒造 焼酎「純 」CM)(David Bowie, Sake TV Commercial, 1980)

 瀟洒なホテルの一室にでんと鎮座する赤い「避難はしご FIRE ESCAPE」の箱Hotel Room, Fujinomiya, 1983)。都会のなか、影まったマンションの外階段をフレームインフレームにした向こうで数軒だけたたずむ瓦屋根の民家(Tokyo, Shin-Okubo, 1982)。高層ビルが建ち並び高速道路の高架が走るなかぽかんと空いた工事現場の盛り土の山(Dirt Pile, Hamamatsucho, 1980)

 看板電飾が積み重なる高層ビル、の下のくらがりの路上占いに並ぶサラリーマン(Tokyo, Shibuya, 1977)。出口の見えない新宿高架の長いトンネル通路と、その口の手間脇でひらかれたサングラスの露店(Sunglasses and Pedestrian Tunnel, Shinjuku, 1977)映画館のロビーの")("型の灰皿の奥の赤い革のソファに敷かれた新聞紙からわずかに覗く、その下で横に寝る人の指(All-night Cinema Lobby, Ikebukuro, 1977)

 

 リドリー・スコット監督/ローレンス・G・ポール美術監督(Production Design)ブレードランナー(1982)や、ノリス・スペンサー(『テルマ&ルイーズ』、『1492コロンブス』、トニスコ『スパイゲーム』)美術監督ブラック・レイン(1989)がそのイメージを席巻する前後の、未来と過去/清浄と猥雑がいりまじった日本の光景が写されていて。

(作家の中島らも氏は『ブレードランナー』的猥雑をふるさと大阪のハチャメチャに見出しており、『ブラック・レイン』の日本ロケ地が大阪であったことを鑑みるにこれはこれで卓見ながら……

その意味では大阪という街はおしゃれ幻想を満たしにくい所だろう。

 どんなにロマンチックな気分になっていても、目の前を天井にカニをのっけた「かに道楽」の宣伝カーが走ったらスーッと気持ちが醒めるかもしれない。道頓堀の橋の上で、水に映るネオンを見ていたとしても、その眼下の川というのは阪神が優勝したとき六十一人の酔っぱらいのおっちゃんが飛び込んだ川なんである。(略)

 その橋の上から目を転じて上を見ればグリコの看板。その横には避妊具の看板。これはもう日本の香港というか、ほとんど「ブレードランナー」の世界なのだ。もしこの光景の中に「おしゃれさ」を求めるなら、このハチャメチャぶりを丸ごと受け止めて、「世紀末的でエスニック」な混沌だと感じるしかない。

   集英社刊{2016年4月30日発行(底本は2007年3月25日刊第11刷の集英社文庫版/大元は1991年7月飛鳥新社刊)集英社e文庫}、中島らも『西方冗土』kindle59%(位置No.1642中 959)、「第2章 考えるカンサイ人」内「関西の「それっぽい」とこ」(略は引用者による)

 ……ジラード氏の写真をみると、大阪以外の日本もなるほど)たしかに源泉へふれている気分にはなりますが、いま見て驚かされるのは、当時のプロダクトのポップなセンスですね。

 ポップだけど、だからといって高松伸ポストモダン建築にも取材したティム・バートン監督/アントン・ファースト美術監督(Production Design)バットマン(1989~)二部作みたいなキッチュゆえの)バタくささ・下品さともちがう、もうひとつの70年代日本。

 

 映画館の")("型の灰皿と革ソファとか、NTT東日本『公衆電話機のうつりかわり』でいう"大型赤公衆電話機(1966)""新型青電話機(1973)"とか、朱色・水色の明るさ鮮やかさといいフォルムのかわいらしさといい、なんともポップで未来的に見え、すばらしい。

 ホテルかなにかの駐車場出入り口の目隠し用かなにかだろう、ビニール製の黄色いウニョウニョした暖簾でさえなんだか妙になまめかしい(Love Hotel Parking Garage, Nagasaki, 1985)のは、さすがにグレッグ・ジラード氏の撮りかたが大きいんだろうけど、このピックアップ・編集はすごい。

 

 ぼくが生まれたのはこれらが撮られた翌年1989年のこと。

 ぼくにとって公衆電話は蛍光黄緑の四角いものだし、地元海老名の映画館(サティのマイカルシネマ、他県・他運営母体だけど)内に灰皿ははたしてあったかどうか? まったく覚えてない。

 財布の中には出生当時のじぶんが被写体となったテレフォンカードがあり、家のどこかには小学校だかのクラスメイトが全体集合したカードもあったはずで、親に連れられて行った映画館には客が自由に盛れるトッピングコーナーがあり、ピクルスとそして刻み玉ねぎをたくさん入れてもらうのが楽しみだった。

 O-157が話題になったころにはトッピングコーナーはなくなっていて、そのうちビナウォークができTOHOシネマズができ、サティはイオンへ・マイカルシネマはイオンシネマへと変わってしまった。こういうディテールも、海老名の映画館といえばTOHOが出てくる年下世代にとってはまた異境の風景かもしれない。

 

 写真集には(同写真家の『九龍城探訪』とちがって)被写体へのインタビューもなく、拠りどころがない。ともすれば40~50年代の昔の写真よりも、『ブレードランナー』の日本語がちらつく未来のロサンゼルスよりも、はるかに隔たりを感じる日本がそこにはある。

 

 

  「絵にならない」と評判の911も撮る人が撮ればまぁ絵になるが……;Joel MeyerowitzAftermath: World Trade Center Archive』読書メモ

www.joelmeyerowitz.com

 それは何ですか;

 911が起きてからの対応の日々を、翌年6月まで(最後の柱撤去作業の翌月まで)取材した写真集。

 電子書籍はないですが、立派なつくりの本です。とにかくビッグサイズで、横11.5inch(=29cm)×縦15.5inch(=35cm)の重量感がすごい。そうして載せられた写真は見開き2ページ(58cm × 35cm)もあれば、折り畳み式で見開き4ページ相当(116cm × 35cm)の大パノラマもあり、その物理的インパクトによって圧倒されます。

 

 読んだ感想;

 まず、対応に当たっているかたがたへの敬意がある写真集なんですけど、それぞれへの敬意が衝突事故をおこすような構成でもあり、本をつぎつぎめくってしまいました。

 たとえばバイザー付きヘルメットをかぶり、腰に拳銃を提げるみたくピンクの防塵マスクを吊るしたNYPDの人々がカメラ目線で「いい顔」して並んだ入学・卒業式構図のページ(p.98~99)。ここから2つめくると、ショーウィンドウ一杯に貼られたFDNY(ニューヨーク市消防局)の死者の顔写真一覧へ、顔を間近まで寄せる中年夫人の後ろ姿をとらえた写真があり、行方不明者の張り紙があり、クレーンに貼られたメメントをとらえた写真があり。そしてさらにめくると、FDNYの人々がバラバラのイスやバケツを裏返しにしただけの即席イスに腰をどっしり落とし重心をぐったり尻や背もたれにあずけ、真っ白にすすけたブーツの底を浮かせつつ座って休憩するもようが大写しにされたりする。カメラへ目を向ける消防局員もいるけどその顔は険しく、「目を向ける」というよりこちらを見咎めているような、野次馬のじぶんが目をそらしたくなる硬さがあります。

 

 さて911について、

911衝突・倒壊のもようは巷で"映画のよう"と表されたけど、実際のところ光景としては凡庸でまったく"映画的ではない"」

 なんてお話が美術や映画につよい識者からありましたよね。

 じっさい写真家のとった余波のようすを見てみたらどうでしょう、普通に「絵に」なっておりますわ。

 たとえばウィンターガーデン・アトリウムの、全面ガラス張りで屋内にヤシの木だって生やされのびのびしている横のカフェスペースが、粉塵を積もらせ、ヤシの木もまた灰色にそまって遺跡じみている黄金色の夕景。これなんて、マイヤーウィッツ氏じしんが「倒壊した天蓋に、ロマン主義の画家により描かれたローマのカラカラ浴場の残響を見てしまう」p.59やら「ポンペイみたいだ」やらと述べているとおり、まんま「絵画的」でした。

 ただ……

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/Canaletto_%28I%29_013.jpg

de.wikipedia.org

 ……ベルナルド・ベッロット(甥カナレット)レスデン─クロイツキルヒェの廃墟』が話題にされるさい、健在である周囲の建物を前景に描いた右半分について省かれがちなとおり(小澤京子『都市の解剖学』オモテ表紙など)、廃墟だけを目立たせることは産業革命前の18世紀ヨーロッパでさえむずかしく。

 21世紀の摩天楼となればなおさらなんだな……

https://images.squarespace-cdn.com/content/v1/58adfb9237c581abe8c7e5fb/1629753056947-0SLJPCH79QHTJZAT77L6/WTC+rescue+teams+on+the+plaza.09.27-04.jpg

(Joel Meyerowitz公式サイトより、『Aftermath: World Trade Center Archive』の一枚)

 ……という意味で「絵にならない」ものもあります。

 上に貼った2枚とも、クロイスキルヒェ/WTC跡を画面の(ほぼ)中央に置いてメインモチーフとし、そして、画面右にカメラ遠近方向に立つ建物が奥行き方向のパースペクティブを補足、画面下・前景では跡地でなにがしかの作業(解体か復興か、救助か)をする人々が米粒大でとらえられる……という一点透視的構図です。

 WTC跡のほうは、周囲の背の高さゆえメインの被写体があんまり目立たなくって、かといって「巨大だったものがひとつだけ沈んでしまった」という舵取りができるほど跡形もないわけでもなく、むずかしい……。

 

 でも逆に、「周囲が高くそびえてほぼ健在に見える状況・現代都市だからこそ成立する異様」もいろいろあるのだなぁということに気づかされもします。

https://images.amazon.com/images/G/01/books/a-plus/Aftermath_P54_bottom_300.jpg

(↑『lens culture』書評より)

 パラパラとめくっていくと、窓のことごとくを割られたビルの屋上から巨大な星条旗がおろされて、6階ぶん(18mくらい?)の窓を覆い隠したり。あるいは百mクラスの摩天楼が頭からつま先まで赤く染まり始めたりするさまが写されます。

 建築用保護ネットの赤い網が全面をおおった結果なのだと思われますが、説明なしに光景だけ出くわしてギョッとしました。

 そのほか、周囲のビルはもぬけの殻となってているなか、暗い夜中でも作業用照明によって煌々と照らされ輝き、結果としていちばん背が高く見える夜の廃墟とかもつよかった。{21世紀の怪獣映画が、EMP(的異能)をつかったり地力をふるったりして都市の電飾を落としてから本番をむかえる……のと重なりますね}

 

 細部もまた面白い。

 聖ポール墓地の、墓石を半球アーチの骨組みによる半透明ホワイトのカバーで覆ったさま(p.225)は、だいぶ未来未来している。

 PATH(パス)トレインの駅の端にころがる縫いぐるみの写真(p.309)はわりと謎。捜索隊がどこかで見つけてきたのをそこへ持ってきたのだろうか。アヒルにクモ、面子も謎。

 ビル倒壊まえは火の高さによって・倒壊後は水不足と消防車自体の故障によって無用の長物となり、街路へとぐろ(coil)を巻いてツバを吐くしかない消防ホース群(p.76~77)も物量におどろかされる。

 即席本部群も興味ぶかい。(p.78~79)

 Wash Stationの多さ。洗われるレスキュードッグ。タージ・マハルと呼ばれるシャワーテント。

 トレイラ―に載せたままの移動式家屋なんてアメリカらしく映るけど、日本でもあったりするんだろうか。

 

 建物の壁に直書きされた「9-15-01 / MOTF1*1 / / Not Search」「9-16-01 / OHTF1 MOTF1 FDNY / SOME FLOORS COLLAPSED / 0 VICTIMS」p.118「SERCHED」p.119「9-18-01 / PATF1 / ○ / SEARCHED」p.150「9-15 / MOTF / ○ / 0」p.151の"X"字の四象限書き*2された捜索救助状況あるいは、「EVACUATE ←」P.116「TRIAGE→」p.119「EATORY←」P.123など各種地域の案内といった(蛍光スプレー)サイン。

 あるいはもっと私語の「呟き」っぽい、事件現場周辺の窓や壁をなぞるだけで生み出せる「埃による落書き(Writing in the dust)」群。

 「ヴェンチュリーノはネズミだ」「神の恵みを」「お祈り」。

 

 うえでもちょっと触れた、膨大な行方不明者や死者一覧の写真・張り紙みたいなものはフィクションの世界にも落とし込まれている印象ですけど。実際みてみると、「それでもなんか、かかわった人やコミュニティあるいは時期? によってそれぞれ違った弔いになるっぽいな」と思ったりする。

 ウィンターガーデン裏にNYPDの追悼場をおさめた写真(p.129)があるんですけど、「HERO of GROUND ZERO」と印字された等身大テナントが掲げられて、なんか勇ましい。{先述した死者一覧(新聞の切り抜きなのかな)とはムードがちがう}

 フィクションのネタになれるようなもののほか、不格好な「手作り応援バナー」集だって写されていてほほえましい。

 

 "最後の柱(last column)"も、正直知らなかったので「こんなものがあったんだ」となりました。

 グラウンド・ゼロの無数にある瓦礫のひとつにすぎなかった梁へある日、(捜索作業の指標として、だったが)落書きがほどこされ。また別のある日、天頂に星条旗が刺され。次第に故人の写真や思い出の品が寄せられる磁場となり、フォトスポットになり、撤去が最後へと回され、撤去作業終了セレモニーの主役となったんですって。はぇ~。

www.911memorial.org

 

 

1114(火)更新ぶん

 ■身の回りのもの■読みもの■

  書名検索開始時期がカスになった日本語版kindle for PC現バージョンの仕様

 kindle for PCの仕様を考えたひとは、とくに現バージョンを考えたひとは、絶対にkindle for PCを使っていない。

 kindleのひどいところはさまざまありますが、本の書名検索がちょい前の大規模バージョンアップによって更に使いにくくなりました。

 一文字一文字を打つたびにクルクルと検索がはじまるのです。

 たとえば高見 順『敗戦日記(新装版)(文春文庫)』を読みたいとしましょう。

 takamijunと打ち込むと「た」だけが検索欄に表示され、描線が円軌道にうごくおなじみの更新中マークがクルクルし、クルクルが止まるとkamijunはどこかへ消えてしまう。

 「たかみ」くらいまで一気に入ったらナカナカすごいほうで、そうなると前バージョンまでの活躍もまた健在であることがたしかめられます。

 クルクルが終わって提示されるのは『八月の路上に捨てる』『百万畳ラビリンス(下)(ヤングキングコミックス)』『百万畳ラビリンス(上)(ヤングキングコミックス)』……

 ……それぞれの著作者は伊藤たかみ氏、たかみち氏であり、高見順さんの本はありません。よみがななんてものは無いんです。字ヅラを完全一致させなければならないわけです。

 「じゃあ漢字変換すればいいじゃん」、うん、できることならそうしたい。でもエンターキーを押して確定する前、文字列の下部に点線がひかれてる段階で検索がはじまるから変換しようがありません。

 

 そもそも「た」が入ったことさえ好調という見方もあります。

 「t」を打った時点で検索が始まっちゃうんですよそもそも。とにもかくにも最初の入力にたいするリアクションがやたらと拙速なのです。他方で一文字うってしまえば、検索がはじまるまでの猶予時間がのびるので……

  1. さいしょに適当な文字をいくらか打って、そこから自分の目当ての検索ワードを打ち、さいしょの適当な文字を削る
  2. メモ帳に目当ての検索ワードを打ち、kindleの検索欄へコピペする

 ……などを適宜つかうかたちになります。まぁ前者のほうを常用しますかね。

 コピペすれば速いし、みょうなラグ・処理落ちによる打ち間違いも防げるじゃないか? はい、「高見順」をコピペしてみましょう。

「ライブラリに一致する結果が見つかりませんでした。」

 字ヅラを完全一致させなければならないわけです。「高見 順」じゃないと出てきません。「高見 順」でもダメです。

 

   ▼日英二語の仕様に対する悩みは今に始まったことじゃない~GHQ統治下の番組編成~;『菊田一夫「芝居つくり四十年」』より

 ヤキモキする日々ですが、ふと、「この仕様でもAmazonの総本山である英語圏などでは問題ないんだろうな」と思うわけです。

「斜陽の国に生きているなぁ」と。

 放送会館内にあるCIE放送課で、ハギンス少佐に会う。巻き舌の江戸ッ子ような日本語をペラペラと喋舌るアメリカ人である。

 七月初旬から始めたいと思っている連続放送劇「浮浪児物」に対する彼の希望(企画)は次の如し。

 一、毎週土曜日と日曜日の二日間、午後六時四十五分より七時までの十五分間。

 二、はじめは週二回であるが、時期を見て、毎週五回、月火水木金の同時刻にしたい。

 三、聴取率がよければ、五年でも十年でも続けてゆきたい。

 四、ラジオ・コードに外れぬこと。

   日本図書センター刊(1999年12月25日第1刷)菊田一夫菊田一夫「芝居つくり四十年」』p.246、「敗戦日記」、「垢のかたまり 昭和二十二年四月三日」より(「江戸ッ子ような」原文ママ

 終戦から丸2年が経とうとしている昭和22年(1947年)4月、菊田一夫さんはNHK連続放送劇『天使と海賊』を予定していた半分の3回でGHQ放送課放送班から打ち切られ、その枠で戦災浮浪児を題材にした新番組の脚本執筆を打診されます。

 菊田氏は、孤児であったじしんが発案し脚本をてがけた戦災浮浪児モノの舞台劇『東京哀詩』を新劇薔薇座とともに日劇小劇場でヒットさせたばかり。ですからお手の物だろうと思われたこの企画に、しかし菊田氏はさいしょ難色をしめします。

「一回十五分では、とても話を盛り切れません」

「なぜ盛り切れない。アメリカでは、ソープ・オペラはすべて十五分だ」

「日本語と英語の長さの問題です。英語なら、アイ・ラブ・ユウが日本語では私はあなたを愛しています。倍の時間がかかります。(略)あらゆる言葉が日本語は英語よりも長い。同じ事件を書いた英語の短文を日本語に翻訳してみれば直ぐに判ることです。私は一回二十分いただきたいと思います」

アメリカでは十五分でやっている」

   『菊田一夫「芝居つくり四十年」』p.246~7(略は引用者による)

 敗戦国のたいへんさは、こんなところにも出るんですなぁ。

 

 

1126(日)

 ■観た配信■

  vtuberにじさんじ『【公式】KZHCUP in STREET FIGHTER 6 本配信【#KZHCUPinSF6】』

www.youtube.com

 にじさんじ所属の石油王のヒモになりたい吸血鬼系vtuber葛葉さんが主宰する箱内大会「KZH CUP」、その第二回大会がひらかれたのでリアタイ視聴しました。

 『スト5』でもカプコンさんはにじさんじライバー用のタグをプレゼントしてくれたりしましたが、今回もまた『ストリートファイター6』公式協賛! 公式サイトにもイベント告知ページが掲載され、出場ライバーにはそれぞれ固有のグラフィティアートがプレゼントされました。カプコン様様すぎる。

 

 4チームがその勝敗と勝ち点を競う総当たり戦で、それぞれのチームの先鋒・中堅・プロ・大将が2本先取のファイトをする……ということで、葛葉叶らも参加した『CRカップinストリートファイター6』の構成と似ていますが、前3者が勝つと1ポイント・大将が2ポイント得られるところが相違点。CRカップの打点が高い暴れキャラによる一発逆転・番狂わせがワンチャンおがめるプロ挑戦試合も面白かったですけど、総合力が試されるようなこちらのルールも面白いですね。

 

 キャミィ全一かずのこ氏をプロにむかえ、CRカップ優勝メンバーのひとり叶(モダン・キャミィが大将、安土桃ちゃんが中堅(クラシック・春麗、笹木咲やよが先鋒(モダン・JP)をつとめ、練習風景がなんかねっとり空気がほわほわ安らぐチームA「かずのこ∞(エイト)」。

 プロ最強のひとりふ~ど氏をプロにむかえ、大将にイブラヒム(クラシック・ジュリ)、中堅に神田笑一(クラシック・JP)、先鋒のソフィア・ヴァレンタイン(モダン・ブランカがなんだか怪しいチームB「 熱いにじストの始まりだぜ!」。

 ハイタニ氏をプロにむかえ、大将にゲーム巧者で努力家の奈羅花(クラシック・ジュリ)、中堅にこれまたなんでも卒なくこなす社築(クラシック・ケン)、そして意外とこれまたこれまたなんでもできる椎名唯華(モダン・ルーク)が先鋒をつとめ、オタクくん(社)が延々ハイ!ハイ!往年のゲーセン的応援をしていて賑やかなチームC「†椎獄谷社†」。

 "ザ・ビースト"梅原大吾とそのファンボーイ{大将・伊波ライ(クラシック・ケン)、中堅・渡会雲雀(クラシック・ケン)}に紅一点壱百満点原サロメ(クラシック・ザンギエフをかかえたケン&ケン&ケン&ザンギエフのイケイケドンドン熱血なチームD「上からドン!」。

 

 練習配信期間もサックリ1週間と付き合いやすいサイズながら、格闘ゲーマーらしいエッセンスが充満。

 プロゲーミング・ストリーミングチームクレイジーラクーンが主催するCRカップでは、葛葉&叶のチームメイトk4sen(かぜん)氏が……

 ……コーチ大須さんぷげら氏から、妙な薫陶・改造をうけ。大会本番では他チームメイトさえもが困惑・セコンドの応援画面がかれらの会話の意味考察に費やされるコミュニケーションがくりひろげられ。

youtu.be

 これは観ていて非常に面白かったですが……

 ……今回のKZHCUPでは、ソフィア・ブランカの改造ぶりがすごかった。

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 前歩き・後ろ歩きを禁じられ、その場でしゃがむ以外許されないコーチングに始まり……

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 ……「幸せになれてないじゃないですか」と『SF6』の新システムであるドライブインパクトも禁止。

 ことしデビューしたばかりの新人ライバーは、待ちに待ってローリンローリンし続ける、ふ~ど研究所の実験生物兵器として「「完成」」していきます。

 

 そんな兵器に対して、「かずのこ∞」のいやらしいメガネかずのこ氏もだまっていなかった。大会当日の早朝5時、先鋒笹木をピョンピョン飛び跳ねるバッタ人間へと突然改造します。

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 これがカプコンストリートファイター6』公式協賛! 公式サイトにもイベント告知ページが掲載されたエンジョイ大会の姿なのか……(笑)

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 勝つための汗と涙のしょっぱさも、よき師と巡り合い仲間でワイワイ切磋琢磨するたのしさも、格ゲーの魅力がいっぱいつまった良いイベントでした。

 

 

1127(月)更新ぶん

 ■観たもの■

  (+)『ゴジラ-1.0』について

 なかなかバランスのよい大衆娯楽映画で、シリーズのうち五本の指に入る出来だったと思うんですが、2点気になったところがあります。

 一点目は、導入となる「大戸島をアジアに設定したり、ゴジラと共生できている現地民の伝承を設定したり」して「主人公たちが要らんちょっかいをかけたから悲劇が生まれた」構図を明確化したら、もっとバランスがよくなったんじゃないかと。

{監督によるノベライズを読むと「深海魚がゴジラのおかげで食べられるご褒美料理みたいにふるまわれている」ので、そういう方向も当然かんがえたんだろうけど、テンションがゆるくなって映画はつまらなくなるかもしれない。

(1231追記;当然のことながらフター6ジャンクション』「ムービーウォッチメン宇多丸さんの評など、そういう話をされているかたはいましたね。

www.tbsradio.jp

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 二点目として、あのオチは「なんだそのとってつけたようなハッピーエンドは。『シン・ゴジラ』の"謎物質のおかげで放射線被害ゼロでした"みたいで、うれしいけどあんまりよろしくないな……と思いきやそうじゃなかった」ので「ほぉ~!」となったけど、むしろより「嫌な問題」ができてると思う。「ああいう描き方では、放射線被害を漠然としたケガレとして再糊塗しエクスプロイトする結果になってしまってはいないですか?」って。

 そもそもこのシリーズ自体が「50年代の放射能にたいする漠然としたネガティブイメージ(巨大化するとか、なんかすごい変異をするとか)の産物(※)で、今回のはさらにその方向にパワフルなので、あの落としどころにもっていくのであれば、実際の「放射線障害がいかなるものか、尺をさいて」描くしかないのではないか……と思いましたね。

 

(※)

 や、こまかくは違うんですけどね。第一作劇中で話題にされるのは、あの怪獣はそもそも太古からあんな怪獣でありそれが「水爆実験によって目覚めたのでは」という話以外にありません。

 ただ、あの造形じたいには原爆が明確に参照されている。

 ゴジラは原爆がイメージソースである。ある時期なら小学5年生でも知ってる常識ですね。

円谷 あの映画で、いちばん、くろうしたのは、ゴジラの正体を、どんなかたちにしたらよいかということですね。

 まず第一に、かたちが、あまりでたらめであってはならないでしょう。大むかしの海じゅうのようなものにして、学問てきなものに、あるていど、近づけなければならないし……。

 つぎにこどもさんが、いちばん、こわがるものでなければならないし……。

 つぎに、そうかといって、いやな感じのするものであってはいけない…。

(略)

 この時、原ばく雲から、ヒントをえて、考えだしたかおがあって、これはおもしろい、あまりにくめないかおだというので、そのかおににせて、つくることにしたのです。

   ワイズ出版刊、円谷英二著・竹内博『定本 円谷英二随筆評論集成』p.271、「座談会 映画のかげではこんなくろうが 日本のトリック王・円谷先生をかこんでお話を聞く」より(初出;「5年の学習」昭和31年4月)(略・太字強調は引用者による。「海じゅう」は原文ママ

 特撮技術担当の円谷英二さんは『5年の学習』誌でそう解説します。

 原爆が参照されている。されているんだけど……はたしてどこまで? 度合のはなしになると、これがなかなか難しくなってくる。

 企画から完成までのながれとしては、もとは原爆と無関係の、『キング・コング』などのエキゾチックな冒険モノなんですよね。

 怪獣映画は、いまでこそ珍しくなくなった。しかし、怪獣第一号「ゴジラ」(昭和二十九年)を世に送り出すまでのいきさつは、そう簡単ではなかった――。

 戦争が終わったとき、私はホッとした。明けても暮れても、飛行機と軍艦のトリックに追いまくられ、いささか、あきがきていたからだ。特撮ものの新しいあり方が、いろいろ論議されだしたのは当然だが、私はひとり、ひそかに空想映画の製作を考えていた。

 ある日、佃血秋というシナリオ・ライターがたずねてきた。大正十三年にヒットした「籠の鳥」という映画のシナリオを書き、一躍有名になった男である。旧友をあたためているうちに、彼はこんな話をはじめた。

 インド洋にはむかしから、よく船が沈没する海域があって、人々に怖がられていた。いわば魔の海域である。ここで沈んだ船には生存者があったためしがない。ところが、こんどの大戦中、ここを通ったある国の船団の中の一艘が、犠牲になった。あっという間の出来事だったけれども、さいわいなことに、僚船が近くにいて、数人の乗組員を救い上げることができた。かれらは口をそろえて、「大ダコにやられた!」と告げた……。私は「この話はいける」と思い、さっそく大ダコを空想の原始怪獣におきかえ、一編のストーリーを書き上げた。が、自分の企画として提出する段になって、ためらってしまった。

(略)

 そうこうしているうちに、半年もたったろうか。プロデューサーの田中友幸さんが怪獣映画制作の話をもってきた。私がだしそびれていた企画を語ったことはもちろんである。

   ワイズ出版刊、円谷英二著・竹内博『定本 円谷英二随筆評論集成』p.349~、「第四章 忍術から宇宙まで」より(初出;『毎日新聞夕刊 昭和三十七年四月十日』「忍術から宇宙まで⑧ 怪獣第一号「ゴジラ」二十年ぶりに実現したチャンスだった」)(略・太字強調は引用者による)

 円谷氏は、『ゴジラ』誕生秘話を何度か語っていて、「南極捕鯨船団が怪獣を」という話だったりブレはあるけど*3まぁ大枠はおなじですね。「海じゅう」と円谷氏が説明するのは、おそらくこの大元の企画があってのことなんでしょう。

 

 初夏の某日、東宝プロデューサー田中友幸さんが、わざわざ訪ねてこられて、小生にひとつ映画の原作をお願いしたいと仰言る。

 むろん、ぼくに白羽の矢が立てられた以上は、一筋縄でいくストウリーでないことは自分でもわかっているものの、何か水爆を象徴するような大怪物を、おもう存分あばれさせてみたい、という提案には、さすがのものおじしないぼくも、一時たじたじとならざるを得ませんでした。

   筑摩書房刊(ちくま文庫、2018年6月25日第三刷)、香山滋ゴジラ』p.253、「ゴジラ刊行に就て」より(初出;『日本探偵作家クラブ会報』昭和29年10月号)

 円谷氏の怪獣映画を聞いた田中友幸プロデューサーが香山滋さんに脚本を依頼し、本多猪四郎さんに監督のはなしが回ってきて……と本腰がはいると、原爆要素がくわわってくる。

――初めて『ゴジラ』の話がきたときにはどう思われましたか。

 

 これがきたときには、ぼくは絶対面白いものを作ろうと思いましたね。

 原爆については、これは何回も言っているけど、ぼくが中国大陸から帰ってきて広島を汽車で通過したとき、ここには七十五年、草一本も生えないと聞きながら、板塀でかこってあって、向こうが見えなかったっていう経験があったんです。その原爆によってゴジラが生まれたってことね。

   ワニブックス刊(ワニブックス【PLUS】新書)、本多猪四郎『「ゴジラ」とわが映画人生』p.90、「第一部 わが映画人生」3『ゴジラ』より、本多氏の言(太字強調は引用者による)

 『ゴジラ』本多監督はそう振り返ります。

 ゴジラといえばあの火炎だか熱線だかビームだかですね。この放射火炎の立ち位置はなかなか難しい。円谷氏は「トリック映画の楽屋裏」でこの誕生について話します。

円谷 ゴジラがグーっと火を吐くと家が焼けるという設定は、華々しくっていいから、火を吐け、というんですがね、火を吐いちゃおかしいから、放射能の息を吐くということにしたんです。

   ワイズ出版刊、円谷英二著・竹内博『定本 円谷英二随筆評論集成』p.262、「第四章 忍術から宇宙まで」より(初出;『オール讀物 昭和三十年八月』「トリック映画の楽屋裏」)(太字強調は引用者による)

 見世物映画らしい誕生と理屈付けですな。身もふたもない。

 いっぽう本多監督の発言をみると、氏のかんがえはもっと慎重。

――広島、長崎の原爆のイメージはあったんですか。

 

 『ゴジラ』を撮っているときには、頭の中にそんなにおいていないんですね。結局ね、放射能の怖さみたいなものを、どうしたら一番わかるか。それを人間の小ささ、弱さというかたちでシーンを考えたんで、広島、長崎の悲惨さなんてあんなものじゃない、もっとすごいものだと思うし、それはあまりにもすごくなりすぎると。

 ゴジラってぬいぐるみだから視覚的に負けると思ったんですよ。それだから、放射能を口から吐くというところにもっていったんだね。原爆でやられた人間をあそこにもっていったら、ゴジラ自体が、とてもじゃないけど負けちゃいますよ。

 だから、ゴジラゴジラっていう映画の中のリアリティー、それを探してイメージ化したんですけどね。

   ワニブックス刊(ワニブックス【PLUS】新書)、本多猪四郎『「ゴジラ」とわが映画人生』p.91~2、「第一部 わが映画人生」3『ゴジラ』より、本多氏の言(太字強調は引用者による)

 シリーズ最新作は、怪獣それ自体が(『シン・ゴジラ』同様)着ぐるみをやめフォトリアルになった以上、それによってもたらされる現象の描写・リアクションの解像度もたぶんそれ相応のものに変えなきゃいけなくなって、その結果があれなんでしょう。

 でもそうして要請されたものがはたしてアレでよかったのか?

 zzz_zzzzにはちょっと疑問なのでした。

 

   ▼(n)原爆とその余波への当時の日米の反応、死した東宝舞台映画出演者のようす;『原爆初動調査 隠された真実』『夢声戦争日記』読書メモ

 都築が被ばくの実態を初めて知ったのは、終戦直後の八月一六日。一人の患者が訪ねてきたのがきっかけだった(47)

 患者の名前は仲みどり。移動演劇「桜隊」に所属していた女優で、広島には公演で訪れていた。被爆したのは、爆心地から約七五〇メートル離れた宿舎でのこと。命からがら列車で東京に戻ったものの、体調に異変を感じていた。

 診察では、背中にかすり傷がある程度で一見変わったところはなかったが、疲労を訴え、極めて衰弱していた。

 いろいろと検査をしてみたところ、衝撃的な結果が出た。普通は一立方ミリメートルの血液中に六〇〇〇~七〇〇〇ある白血球の数が、四〇〇しかないのだ。(略)

 八月二二日。東大病院に入院していた仲の症状を深刻に受け止めていた都築は、東京陸軍軍医学校校長の井深健次中将のもとを訪れ、アメリカに留学中の放射線の実験データを根拠として、広島・長崎での放射線の影響を徹底的に調査研究すべきであると主張した(48)

 仲は、入院からわずか八日後に死亡した。遺体を病理解剖したところ、内臓に著しい変化があり、かつての研究でウサギに起きた結果と、仲の症状が同じであることに驚かされた。そして原爆による放射線が仲の全身に浴びせられていることを確信し、都築は世界で初めて、死因を「原子爆弾症」と記した。

   早川書房刊(2023年8月25日電書版発行、ハヤカワ新書)、NHKスペシャル取材班『原爆初動調査 隠された真実』kindle42%(位置No.2395中 966)、「第6章 日本の原爆初動調査 苦闘する科学者たち」より(略は引用者による)

 ……桜隊=苦楽座の女優の受診とその数日後の死から事態の深刻さに気づき電力不足のなか測定ノウハウも整ってないなか(311での混乱おぼえていますか?)測定をしようと努める地元医師、放射線を低く見積もりたいアメリカ側と……

マンハッタン計画」で機器部門のチーフを務め、特に放射線の計測に詳しかった彼は、総責任者のレスリー・グローブス少将から「原爆初動調査」への参加を命じられた。任務は、広島と長崎の爆心地とその周辺の放射線を測定することだった。

 原爆投下の作戦基地となっていたテニアン島。ここで調査の要旨を説明したのは、「マンハッタン管区調査団」の団長トーマス・ファレル准将だった。「マンハッタン計画」のナンバー2で、グローブス少将の副官だった人物だ。

 そのファレル准将が開口一番に伝えた「指令」に、コリンズ中尉は耳を疑った。

「君たちの任務は『ヒロシマナガサキ放射能がない』と証明することだ」

 初めから結論ありきの調査など、調査ではない。彼はすぐさま質問をぶつけた。

「失礼ですが准将、我々の任務は残留放射線を測ることだと命令を受けたのですが、残留放射線は至る所にあるのでしょうから」

 するとファレル准将は、興奮して唾をとばしつつ、どもりながら次のように答えた。

放射線が高くないことを証明しろ!」

 同席していた「マンハッタン管区調査団」の班長であるスタッフォード・ウォレン大佐からも、調査を受けた。

「お前は上官に向かって言い返すような口の利き方をするという悪い評判がある。プロの軍人と問題を起こさないように、今後十分気をつけるように」

   『原爆初動調査 隠された真実』kindle9%(位置No.2395中 188)、「第1章 「結論ありき」だったアメリカ軍の調査」

  その後、都築は、ワシントンの総合参謀本部と交渉するなかでも「毒ガス」という表現を絶対使ってはいけないと注意を受けた。(略)

(私が作った表に)「原子爆弾毒ガス傷(?)」というの(言葉)があります。これは私その当時非常に疑わしかったので、疑問符をつけて置いて、毒ガス傷とやったんですが、それでアメリカに叱られまして、毒が明日なんて言葉は絶対に使ってはいけないんてんで、ワシントンの総合参謀本部となんべん交渉があったか知れませんが、結局そういう言葉を使っちゃい(か)んからやめろと。(中略)

 毒ガスという言葉を使うとアメリカが国際法を違反したと考えられる、毒ガスというものは使ってはいけないと、細菌兵器も使ってはいけないという事が国際法に明記してある。アメリカは国際法に従って戦争をしているのである、従って1人も戦犯はいないはずであると

   『原爆初動調査 隠された真実』kindle47%(位置No.2395中 1098)より(中略は原文ママ)。都築正男氏の発言は1955年9月『保健衛生』第2巻第9号pp.371~393「特別講演 原子爆弾災害の防護と救護」からとのこと

「広島には原爆ドームが(世界遺産に指定され)一種の歴史の記録となっているが、長崎には被爆した天主堂を「残す」という考えが通らなかった。浦上地区はカトリックの信者が多いところで、ぜひ残すということだった。だが市長が米国に呼ばれて帰国したら取り壊すことになってしまった

   勉誠出版刊(2015年8月9日初版、23年8月25日第三刷)、小松健一&新藤健一編『決定版 長崎原爆写真集』p.251、東松照明の言を引用する新藤健一「解説 長崎の原爆を撮った男」

 広島の原爆については、いろいろな人の手によって、記録が書かれ、詩に歌われ、絵画に描かれ、映画も作られたが、そのいずれもが、わたくしたち、直接原爆を体験したものから見れば、実感にほど遠いもののようにさえ思われた。(略)

 それにもかかわらず、わたくしたちは、この事実を、できるだけ広く人々に伝えなければならないと思う。(略)時移れば、その人たちも次第に世を去って行くからである。(略)

 この手記は、去る原爆五周年に当って、その一部を小冊子にまとめて一度印刷したのだが、占領政策によりついに世に出すことができなかった

   朝日新聞出版刊(1975年7月20日第一刷、17年1月10日第二一刷、朝日選書42)、広島市原爆体験記刊行会編『原爆体験記』p.5、広島市長(当時)浜井信三「はじめに」

 八月八日

 広島爆撃に関する大本営発表が朝刊に出ている。例の如く簡略のもので、「損害若干」である。今度の戦争でV一号とは比較にならぬ革命的新兵器の出現だということは国民は不明のまま置かれるのである。(略)正午のラジオも広島に触れず、小型機の持って来るロケット爆弾がそう大した威力のあるものでないと云う説明。警戒は必要だが安心しろというわけである。(略)

 八月九日

 (略)話の中心は新型爆弾のことで持ち切り。真相を隠蔽してあることでさまざまの形で喧伝せられている。鈴木君の話だと大阪の飛行場にも投下、広島へ来たのは一機である。四粁平方が形もなく溶け、コンクリート建も鉄骨だけ残る。紫色の火焔が三千呎(フィート)立ちのぼり、六七粁遠くまで中心に近いのはこなごなとなり、外延は強震で建物が倒壊するという。夏目君の話では米議会で新発明を使用するかどうか討議し日本に一応警告した後使うことにした。日本はこれを一片の威嚇と聞いたというのである。(略)七時のニュウスで五時の大本営発表を伝える。新京ジャムス吉林など爆撃せられ、満洲三河、渾春附近の両方面から侵入して来ているらしい。そのニュウスのあとで新型爆弾に対する昨日と同じ注意、毛布などかぶれを繰返す。国民を愚にした話である。真偽は知らず、今日は長崎に同じものを投下したというが一切発表はない。隠すつもりらしいのである。

   文藝春秋刊{2007年7月10日第一刷、文春文庫(1995年4月草思社大佛次郎 敗戦日記』を増補改題)}、大佛次郎終戦日記』p.323~7、昭和二十年(1945年) 八月八~九日の日記より

 ……自国民のパニックをおそれて低い数値で陸軍側の挙動などを追ったNHKドキュメンタリー取材班による番組・書籍化爆初動調査 隠された真実』やら長崎天主堂の顛末などを参照すれば、「情報統制はこの国のお家芸だ」というセリフや終盤の展開ももっと意義ぶかいものになったのではないか……と思いますし。

 

 苦楽座の座員のなかには、戦後直後に発表された黒澤明さん達による映画『明日を創る人々』出演俳優である薄田研二(=高山 徳右衛門)さんや……

「菊田は、宝塚からスターを引抜いてばかりいて、じつにけしからん」などとよく人からからいわれる。(略)

 そのことで悲憤慷慨される方も、じっさいにいたのだが、いつも私は同系の東宝重役という立場から許してもらってきた。

 ずいぶん宝塚をかきまわしたようだが、じつは私が本当にうまいと思って引抜いたのは園井恵子さんただひとりなのだ

   日本図書センター刊(1999年12月25日第1刷)菊田一夫菊田一夫「芝居つくり四十年」』p177、「宝塚随筆<その3>」

 ……東京宝塚劇場運営の有楽座で現役生徒初の外部出演をはたした園井恵子さんなど、東宝とも関係のあったかたがたもいたわけですが、かれらから伝え聞いたものと比べてしまうと、

「『ゴジラ-1.0』のここ関連の描写は、もっとなにか違う形にしなきゃいけなかったのではないか?」

 とどうしてもやるかたない気持ちがフツフツとわいてしまう。

 弁士の徳川夢声さんは、現地で被爆した仲間やその家族から聞いた体験談を日記に数ページかけて詳細に残しています。

 原子爆弾の恐ろしさを、今日また新たにした。

 高山徳右衛門君が、息子さんと、園井恵子嬢の遺骨を持って駅まで帰り、雨が降ってるので私の家に傘を借りに来た、――その時の報告は正しく戦慄すべきものであった。

 この遺骨の当人たちは、自分たちは助かったと思い、対した元気で神戸までやって来たらしい。息子さんの方は、手の指に少々傷があり、園井嬢の方は足の方に少しの傷がある程度で、あとは全身何ともなかったという。

 それが、だんだんとヘンになって、まず息子さんが死に、続いて園井嬢が死んだ。

 この二十日に高山夫妻は出発したのだから、神戸着は二十一日であった。その時は既に息子さんは死んでいた。二十日に死んだとして、六日のピカリに打たれて二週間生きていた訳である。

 園井嬢の方は、夫妻が到着した時分は未だ比較的元気であって、高山君の顔を見ると、高山サン京都ニ居タノ? など口を利いたそうだ。彼女は左の腕に自分で注射をした針の跡が、そこを中心にして紫色に壊疽を起していた。

 死ぬ前には両人とも血便を洩らした。

 高山君は両人のデスマスクをとるつもりであったが、息子さんの方はもう焼場に廻っていて、焔がかけられ肋骨が見え始めていたので諦めた。園井嬢の方はちゃんと採ることが出来た、と言う。(あとでこのデスマスクは石膏でなく鉛筆のデッサンと分る。)

 邦楽座の「夢の巣」では、私の扮する卒倒した爺の看護を、彼女は木賃宿の娘に扮して、毎日熱心にしてくれた。築地では私の扮する宮崎滔天に、彼女の扮する下谷の芸妓が、濃厚な悲恋を毎夜捧げてくれた。邦楽座及び地方巡業の「無法松の一生」では、彼女は吉岡夫人に扮して、匂うような美しさを数カ月に亘り見せてくれた。

 その彼女が、今や白骨となり荻窪駅に到着したのである。

 両人とも一旦助かったつもりで、大喜びであっただけに一層あわれ深い。

 仲みどり嬢は東京まで帰り寝込んでいたそうだが、恐らく今頃は死んでいよう。

 仲嬢は台所で食事の支度か何かしているところを、やられた。背後にあった明りとりの窓ガラスが微塵に砕けて、彼女の背中に叩きつけられたのである。わっと驚いて両手で顔を押えたので、顔は唇が裂けたのみであったが、殆んど全身に無数の傷を負うた。

 高山君が見舞に行くと、背中の傷痕がザクロのように開いていた。

「でも、斯んな傷は何んでもないんですよ。それよりも此所のところが……」

 と、腹部を堪らなそうに押えていた。

 余程苦しいものらしい。

 丸山定男君は、後頭部から肩へかけて、大きな打撲傷を受け、病院で起き上る時は両手で自分の頭を押さえ、動かないようにして歩いたという。

「いかにもガンさんらしい話ですが……」

 と高山君の語るところによると、もう死も間近に迫り、非常な重態であったのに、丸山君は立ち上り湯殿に行って、冷水を浴びたという。身体中が焼ける感じで、そうせずにはいられなかったのであろう。

 私は思い出す――小暮でガンさんが歯を腫らし、顔は半分腫れ上がり、熱は四十度近くもあるのに、皆が止めるのも聴かず、舞台を勤めた頑張りを。その頑張りで、水を浴びたに相違ない。

 原子爆弾のピカリを、ガラス越しに見たものは焼けなどしなかったが、これもやはり暫くすると身体がヘンになってくるという。

 その日ピカリに触れたものは全部、あとで死ぬらしい。凄い殺人光線である。

 いや、その日だけでなく、それから後の日でも、太陽の光に照らされると、地面から再び(地中に含まれた)放射線が逆に出て来て、これにあたると、いけないらしい。

 何にしても大変なものが、現れたものである。

(略)

 夕方、高山家に行き、二ツ置かれた遺骨に慎んで焼香した。

 ショーちゃんと呼ぶだけで、ショーは正なのか庄なのか分らずにいたが、始めて「象」という字と分る。背後に白象に乗った菩薩の軸が懸けてあった。

 園井恵子の遺骨には「袴田トミ子」と本名が書いてあった。高山君が鉛筆で写した死顔の画が立てかけてあった。髪の毛が脱落して所謂オイワ様みたいになっていたのだが、それではあまりに悲惨なので、毛は適当に描いておいたという話。

   中央公論社刊(1977年11月10日発行、中公文庫)、徳川夢声夢声戦争日記(七)』p.154~157、8月24日の日記

 もちろん、傍目にむごく見えても、そこからある程度回復されたかたもいらっしゃるでしょう。

 夫の顔の皮は、桃の皮でもむく様に、くるっとむけてしまい、赤い生身が痛々しく、次から次と悪臭の膿汁が流れるのです。両手も一皮むけて赤く腫れ上り、布団の上に置く事も出来ず、蚊帳の天井から紐を下げ、それに両手を吊下げて寝なくてはならぬ様は、見るも憐れでした。殊に空襲警報中の真暗やみの中で、吊下げられた両手が白く光る、なんとも云えぬ不気味さは、今思出してもゾーとします。本人はどんなにかつらく苦しい事だったでしょう。

(略)

 現在は、用心に用心を重ねて原爆症と闘いながら、一家の柱として働いています。外傷の方はすっかり快くなりましたが、貧血の方は相変わらずで困っています。

   暮しの手帖社刊(1969年8月15日初版第一刷、2018年8月15日電書版)、暮しの手帖編集部編『戦争中の暮しの記録』p.167~9、橋本朝江「やけど」より(略は引用者による)

 たんなる負のイメージの再生産とならないよう慎重をきす描写が必要となり、それは一本の劇映画のなかで扱いきれるものかどうか怪しく、ましてや「ゴジラでやる必要あるの?」と疑問視する人もいることでしょう。

 でもぼくはゴジラで、東宝でやってほしかった。

 夢声氏が東宝のご歴々に原爆映画製作を直訴して、その結果を知ったいまとなっては、なおさらに。

 都電ヲ築地終点デ降リ、始メテ移動演劇(移転後ノ)事務所ニ行ク。伊藤熹朔氏ソノ他ニ会イ、さくら隊慰霊祭ノ件ニツキ相談ス。会場ハ築地本願寺ガ適当ナラント。

(略)

 東宝社ニ寄リ秦、那波、寺本、坂間ナドノ重役連ト大イニ語ル。原子爆弾映画製作ノ事ヲ話シタルモ、コノ重役タチハ相手ニシテクレズ。

   夢声戦争日記(七)』p.158~9、8月25日の日記(略は引用者による)

 

 

 ■読みもの■観たもの■

  (+)平和博物館を創る会編『東京復興写真集1945~46』『決定版 東京空襲写真集』読書メモ

 話題のあのゲームやその映画のおかげで趣味的な欲望が高まり広がりつづけ、戦前~戦後の本もいろいろ買い漁っております。

  山辺昌彦&井上祐子編集/東京大空襲・戦災資料センター監修京復興写真集1945~46』は11,000円と値はなかなかですが、2年間(1945年11月からの1年半)の東京の写真が850枚収録されててお買い得。

 

   ▼(+)二冊計2812枚、圧巻の情報量

 作り手が一部かさなる、東京大空襲・戦災資料センター編集/早乙女勝元監修定版 東京空襲写真集』も欲しくなり、ポチりました。

 空襲中・直後の光景がほとんどで、しかも「建物にどんな損壊をあたえたか」にフォーカスがあわせられてて。じぶんの関心に沿う写真は――消火のようすとか、避難・退避壕や防空壕でのようすとか、空襲に対するひとびとのリアクションをうつした写真は――どうしても割合がちいさくなりますね。

 ただし収録枚数1962枚の大著です、割合として小さくても色々おがめました。

 罹災者用タクシー「臨時輸送救護車」にのる人々のようすp.304~5だとか、国民学校の室内であぐらをかいてじっとするしかない罹災者p.125、救護所でおにぎりを配りもらう罹災者のようすp.79、担架で外科医院にはこばれ鉄兜&軍服/防災頭巾のひとに処置される救護もようp.17、警視庁まえでの罹災者の洗眼p.362

 東京鉄道教習所焼け跡で上半身裸・鉢巻をした青年たちによる体操の連写p.384~6、「職場死守!!!」と張り紙された骨組みだけになった工場焼け跡での作業風景p.414~20。焼け跡にトタンで屋根をかけた小屋やべつの小屋でそれぞれ仮設理髪店が営まれるようすp.374・392~3、葦簀の屋根と布の壁をかけた仮設花屋のにぎわいp.400、一間180cm以上に遊びのない高さの平たく小さいバラックの店とその敷地内につくられた(即席だろうに、まったくそんなにおいのない)日本庭園p.387神田区須田町焼け跡(?)のバラックp.395~6、芝区本芝のバラック集落p.412~3などなど。

(戦中の日記・記録を読んでいると、防空壕にほどこされた彩りについて触れたものがいくらか出会いますが……

 庭を見て感あり。防空壕掩蓋の盛土に、何所から来たのか、実生の雁来(はげいとう)が、黄と紅のだんだら模様を、美しく見せている。ちゃんと造られた庭にも美あり。殺風景な土の盛上げにも自然は美を惜しまず。

   中央公論社刊(1977年11月10日発行、中公文庫)、徳川夢声夢声戦争日記(七)』p.75、8月9日の日記{なお日記ではさらに庭に南瓜の葉が「君臨」するのを見て、「いざという場合には、草花よりも野菜が大切、即ち浮華より誠実が大切、という月並の教訓」「即ち精神よりも物質が勝つ、という暗示」の二感がつづく。(終戦時「その"仁君"の御宇、唯物的国の使用した原子爆弾で、日本は戦争に敗れた」p.117、「十三日夜の放送を聴くと「忠臣蔵」をやっている。(略)こんなことだから近代兵器で日本は敗かされたのだ。(略)武士道武士道と一人で偉がっていたのは好いが、つまり精神上の鎧甲であった訳だ」p.143と日記をのこす)}

午後物買ひにと銀座に行く。路傍に土俵を積みまたは土を積みたる上に草を植ゑたるものもあり。この頃の雨に土流れ出で泥濘沼の如くになりし処もあり。

   岩波書店刊{1987年8月17日初版(2023年4月24日第49刷)、岩波文庫}、永井荷風著(磯田光一編)『摘録 断腸亭日乗(下)』p.207、昭和18年(1943年)9月29日の日記より

 ……おなじ意識がバラックの庭園にも拝めますね。

 もちろんもっと実利的な空間として活用した家族もおり、横浜在住のかたによる『戦争中の暮しの記録』への寄稿なんて……

「土の中に壕舎を作るんだ。どんな焼夷弾が落ちても大丈夫なように、屋根の上に、土をたくさんもっと壕舎をたてるんだ。地上にたった家など一たまりもない。土の中で活きるんだよ、栄子」

 父は一週間かかって、一間半も深く掘り、六畳一間、押入れと反坪の台所をつくりました。明りとりの窓一つだけ明け、屋根の上には、こんもり土をもって、カボチャの菜園にしました。

   暮しの手帖社刊(1969年8月15日初版第一刷、2018年8月15日電書版)、暮しの手帖編集部編『戦争中の暮しの記録』p.192~3、「防空壕と壕舎」章内、松本栄子「屋根上のカボチャ」

 ……夢生さんが花=浮華と対比させたカボチャ=誠実を防空壕の屋根で育てて好対照)

 浅草寺の焼け跡でトタンを被せて地べたに直置きされた「小さい庫のようなもの」へ拝み並ぶ人々(p.300。高見順さんの『敗戦日記』を読むに、これが何とか無事だった本尊らしい)だとか、教会跡、水場に無数のご遺体がただよい水揚げされるさま、焼死されたご遺体が一箇所に集められるさま、焼け跡での告別式だとか、間接・直接的な死の光景も多数おさまっているので、その辺はご注意が必要でしょう。

 

 張り紙関係もけっこう色々収録されています。

 罹災勤労者相談所の告文に……

  檄!!

罹災区民を各家庭

引とり温く世話せよ!!

各方靣と連絡し团員

の奮起と活動を求む

 ……翼賛壮年団の檄文、記者会社の告文p.276やら……

示公廳視警都京東

四月十五日 時 分(第 号乕)

罹災勞報會員ニ告グ 警視廳

          東京労務報国会

一、労報会員諸君!!

  勝ツ為ダ起チ上レ、帝都ヲ守ラウ

一、諸君ノタメ左ノ温イ宿舎ヲ用意シテヰル{以下略。一行目は横書き(ママ)で、ほかは縦書き。「号乕」は実際には一字(「號」の異体字

 ……云々という罹災労務国報会むけの警視庁告示p.349などなど。

(旧字・異体字を調べつつ引き写すのがナカナカ骨で途中でやめちゃいましたが、なかなか興味深かったです。「避難所があります」じゃなくて、労務し国に報いる場を提供するよ」という掲示なの、すさまじい

 

 また、本題である(けど本を買った当初のzzz_zzzzとしてはあまり関心事でなかった)被害写真も、緑ある民家から石造りの都会、学校や工場、橋などインフラ、軍事施設さまざまな場所がおさめられて、とにかくすさまじい。

 「空襲下の日本」の光景として思い浮かべてしまうのは、ジブリ版『火垂るの墓』などの燃えさかる街並みなんですけど(『争中の暮しの記録』なんかでも、すごい燃えた/燃えるのを見た話がいっぱい載っていますけど)、写真をじっさいに見てみて蒙が啓かれるのが、いかに爆風が強力であったかということです。緑のおおい地域で被害に遭った民家は、屋根の隅々まで土と瓦礫が降り積もっていますp.33し、背のそう高くない平屋だからそうなったのかと思いきや、石階段のうえの東郷神社の屋根うえだって土が溜まっていますp.49

(後述『銀座と戦争』では、川に落ちた爆弾が水を飛び散らせ、朝日新聞社の壁を汚したという目撃談が寄せられているのですが。こういう写真を見ると、「なるほどそういうこともあったのだろうな」と納得いきますね)

 もとの街並みが想像できないくらい崩れた神田区美土代町では、防火用水の石の水槽が瓦礫でうもれp.66、ガス管が首をのばして火を噴きつづけていますp.67。日本劇場まえの通りを抉る穴は、敷き詰められたレンガがいかに整然としていたかを浮き彫りにしp.128。丸の内橋の被弾穴は、石畳のしたで縦横にはしる鉄骨をあらわにしますp.139

 

 民家や庭・畑に落ちた焼夷弾などがどれだけ巨大かつ深い穴をあけるか、退避壕内から貫通して光挿す天井を仰ぎ見る写真もからめて紹介したページとかp.88も興味ぶかい。

防空壕のなかのもようを、zzz_zzzzは地震の延長線上みたく思いがち)

 

 銀座四丁目の教文館ビル横の通りで40人くらいが並んで被害現場でバケツリレーするようすを俯瞰した写真p.137とか、数寄屋橋に消防車が何台も留まり、その下の材木の浮く川(外濠川。戦後の復興時に埋め立てられた。)へホースが何本もおろされ水を吸い上げられるさまp.128なんかも、じっさいに写真を拝まなければイメージしにくいですね。

{大規模な火災現場の記録を読んでいると割合でてくる「すぐ水源が枯れて消防車が役立たずになった」という話や、第二次大戦下日本の銃後の、とにかく割に合わない無意味な訓練をした「竹槍」文脈にひっぱられてしまう。(ちなみにこの現場でのバケツリレーも数寄屋橋での取水もようも、後述『銀座と戦争』でもおがめない写真群だったりして、そこも嬉しい)

 

   ▼「制空」碑の後ろで割れ汚れた海軍館の壁~写真の向こうに見てしまう撮影者の心情~

 豊富な写真から窺える対処の異なりであるとか、どうにも滲んでいるように思えてならない撮影者の心情などもまた、かなり興味ぶかかったりします。

 

 たとえば1944年12月3日の空襲から明後日経った同月5日に撮られた、東京師団司令部被害にかんする写真。

 投下された爆弾の各部をモノサシかなにかと一緒に収めたブツ撮りがあり、「焼夷筒信管断面圖」という筆書きのポンチ絵のうえに実物部品を置いた写真などがあったりして(p.86)、検証・解析資料のおもむきがあります。

 1944年11月27日の空襲の対象となった海軍館のようすとして、屋外展示の戦車がぼろぼろになっていたりp.57、彫像が倒れたりp.58、そしてとくに、「制空」と銘打たれた石碑やその後ろの海軍館の石積みの壁が割れゆがみ黒く汚れていたりp.61するさまが写真に収められているのは、かなり哀愁や皮肉をかんじます。

 

 

  (N);小松健一&新藤健一編『決定版 長崎原爆写真集』読書メモ

 『決定版 東京空襲写真集』がよかったので、おなじ勉誠出版による長崎原爆投下後数ヶ月間のこちらの写真集も買いました。『決定版 広島原爆写真集』は明確にこの姉妹編。

 『核―半減期』展図録といくつか重複しつつも大写しにされる写真が変わったり、写真家・松本栄一さんと林重男さんへの10ページにおよぶインタビュー(ただし『広島原爆写真集』収録のものと同文)や、新藤健一さんによる13ページにおよぶ(今回未収録の写真家もふくめた)各人の当時の活動紹介「解説 長嶋の原爆を撮った男」がついたりして、前述図録の意識的・知識的な隙間を埋めるような情報がえられました。

 p.72掲載の、爆心地から北方3.6km=1945年8月10日15時過ぎに山端庸介さんにより撮影された写真がすさまじい。

 その写真では、ゴザを敷いたリヤカーの上に、片手で足りそうな齢の子供が横臥し、そのとなり画面中央に10歳前後の少年がうつ伏せに寝て足の指が車からはみ出て地面についています。ちいさい子は顔こそやけどか灰かチンク油かで痛々しいものの縞模様の服を着て、膝や足首に白い包帯が巻かれているのだけれど、大きいほうの少年は全裸で寝ている。その肌はつるんとしていて、しかしその色だけは黒に近いグレーからグレーそして白とさまざまな階調がザクザクとつけられており、ルックスとしてはパーツパーツの素材が微妙に異なる塩化ビニル人形のように見える……(水ぶくれやケロイド、表皮が剥がれて体組織が見えている、焼け縮んでいる、炭化しているなど)知識として頭にあるヤケドの症状はさまざまあれど、こういう様相は寡聞にして知らなかったので、生気の無さにおののいてしまった。

 市街で荼毘にふした写真もさらに増え『核―半減期』展のような側溝とかではなく、p.100~3の5枚つづく「瓦礫と化したけっこうな範囲の平地でぱらぱらと白骨が散らばっている」、それが5枚それぞれ別々の場所で撮られたものらしいことにゾッとしてしまう。

 展図録からの流れでほかに驚いたのは、図録では火事がおきなかったがために教室内の机や椅子などを焚きつけとして集団荼毘場となった……と説明されていた城山国民学校跡の写真。たしかに焼けてこそないかもしれないけれど、爆発の衝撃で窓は全部なくなりコンクリの構造部しか残されてなく、その構造部でさえ三階部分は一部崩落、階段なんて傾き壊れて、段々のついた壁にしか見えなくなっている。(そして2・3階部分は全焼したらしい)

 教師32人中28人、生徒152人中133人が爆発により逝去されたそう。

 

 者以外の物の写真もおおく、とくに熱線が影の痕を遺した例として、あのいつものハシゴとそこから降りて羽目板に帯剣をかけ休憩してた監視兵らの影部だけがタール塗料の焼けのこった長崎要塞司令部構内の写真(松本栄一さん撮影p.132)以外のものをこの本でzzz_zzzzははじめて見て、その写真の奇妙さにおどろかされました。

 林重男さんが撮影した、西部瓦斯長崎支店八千代工場にあるガスタンクの踊り場p.200

 菱格子の凹凸がついた鉄の床に、周囲の柱の影が交錯するさまを画面いっぱいに写した写真で、画面右上から左下へ伸びて写真を縦断する影と、それと90度交錯するかたちで薄い影が右下から左上へ伸びて写真を横断するさまが美しいんですけど、よくよく見ると妙なところがいろいろある。

 前者の影はくっきり伸びているいっぽうで、後者の影は途中でぼんやりうすまり消えている。それぞれ別の光源による影なのかと思いきや、後者の方角にハイライトはまったくない。……じつは自然光によるほんものの影と、かつてそこへ投射された熱線による偽物の影(黒が地の色で、明るい床が熱線で表面塗装が溶けて光っている?)との交錯をおさめた錯視的にシュールな写真なのでした。林氏はガスタンク自体も接写していて、塗装が溶けて白く輝くその表面の奇妙を克明にとらえています。

「広島には原爆ドームが(世界遺産に指定され)一種の歴史の記録となっているが、長崎には被爆した天主堂を「残す」という考えが通らなかった。浦上地区はカトリックの信者が多いところで、ぜひ残すということだった。だが市長が米国に呼ばれて帰国したら取り壊すことになってしまった。

   勉誠出版刊(2015年8月9日初版、23年8月25日第三刷)、小松健一&新藤健一編『決定版 長崎原爆写真集』p.251、東松照明の言を引用する新藤健一「解説 長崎の原爆を撮った男」

 取り壊された浦上天主堂のすがたとその舞台裏は存じておりましたし、鳥居の焦げ跡が接写されたように西洋の聖像や装飾が黒い火傷を負っているところが接写されるのもまぁさもありなんと眺めていたのですが。

 しかし、爆風により荒らされた墓地のなかで見慣れた墓石p.155とともに国産墓石材による十字架もいっしょに倒されていたりp.154、爆風でズレた和式墓に日本語で「ウルソーの墓」と刻まれていたりp.185するのは正直頭になかったもので、こうしてクローズアップされてはじめて、「日本という土地・文化でたしかに生活し人生をおくったキリスト教徒」のかたの像が多少なりとも自分にもつかめて、妙に動揺してしまった。

 

 中・戦後の暮しの記録 君と、これから生まれてくる君へには、天主堂ちかくの三菱工場へ勤労奉仕にかりだされていた女学生(当時)の聞き書きが掲載されています。工場のひとびともかなり世知辛い。

 どのくらいたったでしょう。工場の前を走っていた線路に貨車がとまり、そこに乗せられると、諫早海軍病院へ運ばれました。ぱっくりわれた頭と顔を縫ってもらいましたが、普通の木綿の糸でしたので驚きました。お尻にリンゲル(編注;大量出血や脱水状態の時に用いる輸液)注射も打ってもらえました。(略)近くのベッドで、高等小学校の生徒が一日中『ラバウル海軍航空隊』の歌を大きな声で休むことなく歌っていました。かれは二日間歌い続けて亡くなりました。

 何日かして、「海軍の兵隊を優先的に入院させるから、海軍病院から出るように」と言われました。血だらけのまま下着の上に、甚平とトイレ用の薄い履物を与えられました。一緒に助けられた友人は紐のない浴衣でしたので、絶えず前をかき合わせていました。(略)一緒に助かった友人は、九月に亡くなったとききました。

   暮しの手帖社刊(2018年7月24日初版)、暮しの手帖編集部編『戦中・戦後の暮しの記録 君と、これから生まれてくる君へ』p.172、深見ミカエ(比企美弥子さんによる聞書き)「生き残りは三人」

 

 

  (N);小松健一&新藤健一編『決定版 広島原爆写真集』読書メモ

 広島原爆投下後数ヶ月間の写真集で、おなじ勉誠出版『決定版 長崎原爆写真集』は、この姉妹編。 『核―半減期』展図録といくつか重複しつつも大写しにされる写真が変わったり、写真家・松本栄一さんと林重男さんへの10ページにおよぶインタビュー(ただし『決定版 長崎原爆写真集』収録のものと同文)や、新藤健一さんによる9ページにおよぶ(今回未収録の写真家もふくめた)各人の当時の活動紹介「解説 広島の原爆を撮った男」がついたりして、前述図録の意識的・知識的な隙間を埋めるような情報がえられました。

 

 爆発範囲内で上半身血だらけになりながら撮影した地元新聞記者による写真がふんだんに掲載されていて、その関係か目に見えて痛々しく計り知れない辛苦にみまわれているかたの写真が並ぶので、精神が参っているときにこの本はひらけません。

 着物の十字模様が肌に焼き付いてしまった女性、軍帽をかぶった額から上と下で肌の色がまったく異なる軍人など、ほんの少しの違いが途方もない影響をおよぼしてしまったさまが捉えられています。

 そんな克明な写真集でも解説の新藤氏は、リアルタイムで被害現場を取材した記者が「1枚は撮ったけど正面から2枚目は無理だった」と吐露した資料をピックし、これだけが全てじゃないことを注記します。

 それぞれの撮影者がどんな経緯でどんな立場からどういった写真を撮っていった/撮れなかったか・そして今に残ってきたかを新藤氏は解説されていて、たいへん興味ぶかかった。

 長崎版解説では工場付カメラマンだったゆえにカメラをかまえたし資料的価値ある立派な写真を撮ったけどそれゆえにお蔵入りとなった経緯を掘ったり(この写真を公表することで被害にたいするマクロな視点をもたれることで、「真珠湾侵攻の兵器がこの工場でつくられたから長崎が原爆投下対象になったのでは?」と疑問視する市民から更なる怒りを買うのでは? と工場側が危惧した)されていたけど、広島版解説では、(個々人へ功績を還元するのはすごいけど)歴史的ネガをカメラマン本人の私物として贈る新聞社や、社に残され定期的な洗浄・保管がなされていたもののそれゆえに乳剤がボロボロになったネガなどを取り上げたりしていた。

 広島の写真はけっこうな数が、長崎版では感じなかった画質的な微妙さを感じるもので、「これが保存のための洗浄が逆に乳剤を……てやつなのかな?」と思ったり。

 新藤氏はほかにも、患部を克明に客観的に撮っていったカメラマンがレントゲン技師でありその職務として直視せざるを得なかったこと・そうでなければ逃げ出したかったとの回想を掘り起こしたり、あるいは小松氏はインタビューをつうじて別の記者がプロパガンダの捏造大本営発表の過去を悔いて「たとえ新聞に使えなくても現地の人がいま味わっている痛みを」と交渉のすえ撮った証言を聞き出したりしていて、写真家おのおのがとったそれぞれの写真を見比べるのも、興味ぶかかった。

 

 さて広島市原爆体験記刊行会編爆体験記』などでは、写真家がカメラをむけられなかった悲惨が語られていたり、あるいは写真に収められたような被害状況のちがいがその後のリアクションにどんな変化をもたらしたかもまた記されていて、両軸で情報を得ていくべきなんだろうなぁとあらためて思いました。

 黒い雨が降った{もっともこれは原爆に限らず空襲全般でおこることですが。(雨雲・雨の形成原因である上昇気流と吸湿性のある微粒子がもたらされるなら何でも良いわけですね)}とか、衣服が焼けてしまったがために裸となった人らが屋外をさまよったとか、ガラス片などで身体がズタボロになったとか、そういう概要は知っていても……

先ほどから遠くや近くで石油罐が爆発したような音を十数発聞いた。時限爆弾ではないかと、ひやひやした。そのうちポツリポツリと大粒の雨が落ち始めて、次第に烈しくなり、ついにドシャ降りになった。一同われがちに雨宿りの場所を求めてそれぞれに身をかくした。しかしほとんど皆がズブ濡れになってしまった。

 雨が止んだ頃には、寒さのためにふるえだして歯の根も合わない。で、そこでまた火の方に近づいて体を温め、二、三十分もしたらやっと人心地がついた。八月の盛夏、大火事の中心にいて寒さのために火に近寄るなどとは何ごとだろう。

   『原爆体験記』p.27~8、野村英三「爆心に生き残る」

 ……黒い雨のために危険な炎へ逆に近づくひとびとがあらわれたとか(この辺はまだ考えれば考えつきそうなことだけれど)……

私は横になって少し休んだ。祖母も今まで私に心配させては、と思って隠していたらしいが祖母は腕に五ヵ所もガラスの傷をしていたという。

「ここから広島の街は全部見える。まだまだ煙や火の手が立ち上っている。大ごとだよ」

と心配そうにつぶやく。「お前その服は痛いだろう。ちょっとの間ぬいでいなさい。洗って来てあげるから」血で糊付のようになっているアッパッパとパンツを洗って来てやるという。祖母の来ておられた上衣を私にかけ、「恥ずかしいなど思わんでよいよ、みんな裸同様の人ばかりだから」と諦めさせて下に洗いに行って下さった。

   朝日新聞出版刊(1975年7月20日第一刷、17年1月10日第二一刷、朝日選書42)、広島市原爆体験記刊行会編『原爆体験記』p.89、沖土居春子「「失明」の悲しみから」(来ておられた上衣は原文ママ

 ……目を傷つけられ失明状態に陥ったひとが、そうであるがゆえに平時の常識にもとづき"現在の余人にとってのあたりまえ"を躊躇するとか、そういう入り組んだ混沌はなかなか自分独力では想像しづらい。

 

 

  カフェ店内一杯に張られた枢軸国提灯、銀ブラ通りの軍艦雪だるま;『銀座と戦争』読書メモ

 古本しか手に入らないけど座と戦争』もすばらしい。

 古書価1,500円くらいなのだけれど、戦前~戦後の写真が350枚くらい収録され、さらに銀座民75人ほどの思い出寄せ書き・座談会パートもあります。

 

 日本の文化風俗が軍国主義とからんで奇習化した部分が銀座相当にリッチな収められてて良い。

 戦勝・出征パレードで「万歳三唱・提灯行列が出たよ」という話・写真は見たり聞いたりしたことあると思うんですよ。{『昭和の記憶 写真家が捉えた東京』とか。永井荷風さんの昭和十二年(1937年)の日記とか。

十月廿七日。晴れてよき日なり。鄰家の柿樹その葉いまだ霜に染まざるに早く落つ。桐の葉頻に落つ。どうだん少しく黄ばむ。終日庭の草を抜く外為すことなし。燈刻夕餉を喫せむとて銀座に徃くに上海戦勝祝賀の提灯行列あり。喧噪甚しきをもって地下鉄道にて雷門に至る。町のさま平常に異らず。

   岩波書店刊{1987年8月17日初版(2023年4月24日第49刷)、岩波文庫}、永井荷風著(磯田光一編)『摘録 断腸亭日乗(下)』p.25、「昭和十二年(一九三七年)」10月27日の日記より

 『銀座と戦争』では、1938年の漢口陥落パレードのもようとしてあの銀座の背のたかい建築群のうえからあるいは大きなカフェ(本の解説では「銀座会館か?」とある)の上から旭日やナチスハーケンクロイツに彩られた枢軸国の旗や提灯(提灯風飾り)が吊るされたり(p.39)

 コロムビアの戦記レコードが大きな看板広告で喧伝され店頭で販売されたり(p.99)……という光景が拝めます。

 

 七五三の子供が、児童用に仕立てた陸海南方方面軍の軍服をきて記念撮影したり。 銀座に雪が降れば、銀ブラの通りに市民が軍艦型雪だるまをつくったり(p.101)

 防空訓練も、二丁目越後屋ビルの迫り出した一階部へハシゴをかけ上へ登ったりそこへ両端を綱で縫った布製の避難用スロープで滑り降りたり(p.110)など都会仕様となっていて。あるいは担架による人運びやバケツリレーが、イヤイヤこなさにゃならん修練としてじゃなくて(そういう写真もある。)運動会の演目というレクリエーションになり(p.115~)、べつの運動会では手製の各国首脳かぶりものによる仮装が催されたり(p.116)……という写真などもまた興味ぶかかった。

(この時期の芸ごとで自主的に他国イジリをやった例として、永井荷風氏の日記や……

停車場前の路上には新聞の売子大勢号外を配布せんとしつつあり。平沼内閣倒れて阿部内閣成立中なりといふ。これは独逸国が突然露国と盟約を結びしがためなりといふ。通行の若き女等は新聞の号外に振返るもの一人もなし。夜浅草オペラ館に行きて見るに一昨日までヒトラーに扮して軍靴を唱ふ場面ありしが、昨夜警察署よりこれを差留めたりとの事なり。

   『摘録 断腸亭日乗(下)』p.75、昭和14年(1939年)8月28日の日記より

 ……真珠湾攻撃のちょいあとの徳川夢声氏による日記にでてきましたが……

 羽左衛門めっきり萎びたり。権九郎のカッポレなど見ていて気の毒になる。あとで聴くと、この権九郎がアメリカ国旗を踏んづける仕草があり、それで警視庁から叱られたのだそうだ。

   中央公論新社刊(2015年9月25日発行、中公文庫プレミアム)、徳川夢声濱田研吾編)夢声戦中日記』kindle3%(位置No.6144中 138)、昭和一七年(1942年)2月13日

 ……市民レベルで仮装がやられてるとは知らなかったし、写真を見なければここまでしっかり手の込んだものとも思わなかったでしょう

 

 

   ▼地域密着ならではの写真群・補足情報のこまかさ

 注記による補足情報もまたありがたい。

 銀座四丁目出口でメガホンもった人が指揮する「地下鉄の防空訓練」p.111も、これ単体でいえば和の記憶 写真家が捉えた東京』p.30で別の写真家による同シチュエーションの写真が紹介されていたりするんですよ。なんなら『昭和の記憶』のほうは背景の注意書きを読むことのできるピントで、こちらを推すかたもいるやもしれません。

 でも、地下鉄構内で担架運んだりバケツをかけたりという訓練の続きの写真は『銀座と戦争』でしか拝めませんし、また、訓練した避難先の地下鉄がのちの空襲でどうなったかという補足説明(空襲で潰れました)も、『銀座と戦争』でしか聞けません

 

 補足説明・解説のたぐいってありがたいですね。

 写真として残されたからこそzzz_zzzzは今こうして当時の模様を拝めるわけですけど、その写真だけを見ても、こちらの知識がとぼしすぎて、そこへ意味・文脈を充填できないことが多々ある……。

 たとえばちくま文庫村伊兵衛 昭和を写す>シリーズは写真尽くしでよろしいですが、でもそれだけを見て「あぁこの花火の写真は久々の復活で、しかも両国では昭和三十年にやった限りなのだ」とか、「おっその雑貨販売の写真は、マル公がはずされ自由販売となった年のものじゃないか」とかって合点がいくかといったら全くそんなことはありません。巻末の解説によってzzz_zzzzはようやく「へ~そうでやんしたか」と頷けるわけなんですよね。

 数ページの解説で「ははぁ~」と感心してしきりなので、これが倍あったらまた違った景色が見えてくるにちがいありません。

{全集の解説なんかを読むに、木村氏の作風・見られ方がそういう「個」を排したものであった部分もあるんでしょうけど。

 同時代の写真家一個人の写真集という点では、林忠彦ストリ時代 レンズが見た昭和20年代・東京』朝日文庫は、写真とそれを撮った時分の林氏なり共同体なりの状況を記した文章とが併載されていて、ぼくの関心にかさなっていました。地面に捨てられた新聞紙の文面が一部読めるくらいローアングルから捉えた上野駅(p.118~9)のようすとか好きですね。

 "目は口ほどに物を言う"雄弁な写真の数々が掲載されつつも、それと同時に、こういう企画によりこういう経緯で役者を用意し撮った「完全演出の写真」(p.79~80)などと注釈を入れる"目ではわからぬことを言う口"もあり、そこも嬉しい}

 

 

   ▼「画になった」人の、ならなかった市政の実際の声;後半の寄稿集の素晴らしさ

 写真でのこされたものでさえ上のようなていたらくですから、写真をかまえなかった人の頭のなかにだけあるものなんて、もぉ~どうしようもありません。

 銀座に暮らしていた人の寄稿集はその意味でたいへんありがたい。

 

 たとえば空襲のようす。

 写真の被写体として選ばれるのは、燃え壊れる建物じたいや、炎と煙のむこうで屋上に立つ市民の姿、放水する市民が伸ばし地面をつたわせる消火ホース群の複雑な巡りといった、「絵」になるものです。

(先述したように『決定版 東京空襲写真集』ではさらに豊富に、そうしたホースが取水する源流のようす――在りし日まで数寄屋橋の下を走っていた外濠川へホースを幾本も垂らすようすとか、空襲本番でのバケツリレーのもようなどが拝めます)

 『銀座と戦争』末部の寄稿集では、学校のなかにいた教師のかたがた(医療物資の乏しさから、寄稿者のひとりは雑誌を包帯代わりにあてられたそう)や、学校にいかなかったかたがた(休日だった)、その場に居合わせたかた(休日で、家に帰るふりして銀座へ遊びに行っていた。写真記者だったので駆けつけた)、店舗ビルのなかにいた商人・勤め人のかたがた、家族が現場にいて被害の連絡をうけたかた、あるいはそこでは被害をうけなかったけど建物疎開(防火帯作成のための一部建物打ちこわし)により家を失うこととなったかたの話などなど……

 ……そこにいたけれど/いなかったがゆえに被写体とならなかった人々の姿がそれぞれ振り返られ言語化されています。

 

 あるいはもっと地味なよしなしごと。

 意外と写真が無い(少なくともこの本に収録されてない)のが、闇市ではなく「(銀座の)ふつうの営み」の写真。枢軸三国旗や提灯型装飾のした、カフェや百貨店でふつうに売られていたもの嗜まれていたものが寄稿文によってふれられています

 中川清一さんは「エスキーモのアイスクリームが四〇銭。銀座で一番うまいというので、いつか金が出来たら食べて見ようと二人で話していたが、とうとう食わずじまいだった」p.364と述べ、医師の鬼海照子さんの「銀座随想」p.358でもまた想い出の一品として「エスキーモ」の新橋ビューティーが話題にされます。

 面白いのが、鬼海氏が具体化するのはべつのアイスだと云うところ。

 医学部学生時代の思い出は、並木通り「耕一路」のコーヒー、「エスキーモ」の新橋ビューティー、そして「冨士アイス」のボルケノアイスクリーム。火をふっと消して食べる演出がしゃれていた。

   株式会社平和のアトリエ刊(1986年3月10日、第一刷)、平和博物館を創る会編著『銀座と戦争』p.358、鬼海照子「銀座随想」

〔ちなみに"新橋ビューティ"は本当に有名なスイーツだったみたいで、国立国会図書館デジタルライブラリで検索かけたらそれを話題にした書籍も複数でてくるんですが、富士アイスのボルケノはひっかかりません。

ameblo.jp

 「新橋ビューティについて詳細が知れる本」だと取り上げていた識者のblogがあったのでポチってみた 三宅艶子イカラ食いしんぼう記』にも、富士アイスについて語った回もあるんですけど、やっぱりそこでもそのアイスの話題はない。

{ナナメ読みしたところ三宅氏にとってあの店は、そば粉のホットケーキやワッフルの店、そして紫無地セルの着物をきりっとしめたウェートレスさんの店らしい。(なんか、夫が店員さんのひとりと浮気して、新聞にスッパ抜かれたとのこと……)}〕

 百聞は一見に如かず、目は口ほどに物を言うなど格言はさまざまあれど、その画角は360度のパノラマではなくフィルムにだって限りがあるのだと思わされるエピソードです。

 

 寄稿集では、客として見た銀座の顔もあれば、内部で働く店員が見た銀座の顔ものぞけます。

 二丁目米田屋ビルの「柴田商店」の娘・柴田和子さんがビル内で空襲に遭った体験にオマケのように書きくわえた、羅紗が統制品で売れなくなったGHQ統治下での経営再開記「戦中戦後の米田屋ビル」p.361すずらん通りJ・B・A・BAR経営者で日本バーテンダー協会理事長もつとめた鈴木昇さんのGHQ統治下でのバー運営記(「GIの真似なんかして、そんなアメリカ物は作らないよ、バーテンダーは凄ん」で、スコッチやコニャック、シャンパンを集めた。しかし、それらも米軍の横流し品だからMPにバレると取り締られてしまう。さぁどうするか? やら、品薄のバーでどう「バーらしい賑わい」を装うか? やら企業努力を記した)「闇でも洋酒が欲しかった」p.361宝塚歌劇団の一員のかたなどなど、その場で生き営んでいたひとならではのお話が聞けます。

 洋装店ノーブルパールの勝又康雄さんが1946年の周辺の「店」「職人」を概観する「汐留川の戦後」p.357では、ミスズ産業のまえで日向ぼっこする「私設専売局」と「シューシャインボーイ」といった新興事業が紹介されたりもしました。

戦災孤児や定職に困ったひとびとによるシケモク収集・再生業とクツ磨きのことですね。

 勝又氏によるかれらの仕事ぶりは、石井光太『浮浪児1945‐: 戦争が生んだ子供たち』でも語られたものですが、当事者とそうじゃない人のちがいなのか地域差なのか何なのか、ちょっとした差異がまた興味深い。

 さて戦中・戦後の記述として一番とっつきやすい文献のひとつとして、作家の山田風太郎さんによる<戦中派不戦日記>シリーズが挙げられるんじゃないかと思います。文庫も流通しており、電子書籍化もされています。

 山田氏は一連の日記のなかで、渋谷駅から上野駅へ行くまでの一番電車でみかけた浮浪者について記しています。

 いたるところ座席に浮浪者眠る。みな一様にカーキ色とも灰色ともつかぬ服、物持ちの方はボロボロの毛布をかぶって、どの車輛の座席にも横たわっている。座席はことごとくもうふさがれて、吊革にぶら下がって、ふらふら眠っているやつもある。落ちくぼんだ眼窩、土気色の顔色、骨はつっ張って、しかも骨軟化症みたいにみなグニャグニャしている。

 中に三十あまりの浮浪の男あり。口の傍に泥色のパンが二つころがり、傍に七、八つの男の子が座って、コクリコクリ眠っている。

 蓬々たる髪に頬かむりして、無意識のうちに股ぐらに手をつっこんでは虱をつまみ出している。

 彼らは夜はガード下で焚火をして暖をとり、省線一番電車の音をきくとただちにこれに乗り込んで、山の手線をぐるぐる回りながら、朝のラッシュアワーまでしばしのまどろみをとるのだという。

 そして、布を切り取られて藁のはみ出した座席に虱を残し、これを都民に配給してゆくという。

   KADOKAWA刊{角川e文庫、平成26年7月25日発行(平成22年10月25日初版の角川文庫本を電書化)}、山田風太郎『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle98%(位置No.7976中 7737)、「昭和二十年 十二月十五日(土) 晴」より(太字強調は引用者による)

 当時医学生であった氏らしい所見と、のちに伝奇作家として目覚ましい活躍をみせるユーモアとがのぞく記述のなかに、「布を切り取られて藁のはみ出した座席」という一文が気になります。

 なにが原因でそんなことが? 焼夷弾で焼けたとか? いえいえもっと入り組んだ過程があるらしい。

 電車が滅茶々々にこわれている。窓ガラスはなく、腰掛けの布がない。窓は乘客がわざとこわすのであり、布は盜んでいくのである。電車が遅いといっては、やけくそに窓を破壞するといった調子。敵に対する怒りが、まず内に向っているのである。

   青空文庫、  清沢洌『暗黒日記』 、「一月十七日(水)」より(太字強調は引用者による)

 記者畑の出身で評論家をしていた清沢洌さんはじしんの日記で、座席の布地が乗客から盗まれているのだと書き残しています。

 いったいどうしてそんなことを? 暖をとったり、売ったりするためなのか? いえいえもっと入り組んだ過程があるらしい。

 他に必要な道具といえば靴をみがくための布やけど、あれはタダで手に入ることができた。もう時効だからはなすけど、汽車の座席のクッションを切り取って、つかっとったんや。当時の汽車のシートはラシャっていう軍服などにも使用される丈夫な布でできとってそうそう簡単には破れん。俺たちは無賃乗車した際にそのシートをナイフで四角く切り取って持ってかえり、『てんぷ』と呼んで靴みがき用の布にした。

   新潮社刊(平成29年12月第二刷を底本として電書化)、石井光太『浮浪児1945‐: 戦争が生んだ子供たち』kindle20%(位置No.3780中 735)、「第一章 上野と飢餓」商売の開始 より、上羽秀彦さんの体験談(太字強調は引用者による)

 

 もちろん住民の顔だってある。小川商店・小川利夫さんの筆による、都電で遊び道具をつくるDIYとか、埋め立てまえの川をすすんだダルマ船について具体的に書いた「戦前の子どもの遊び」p.357なども面白かった。

 そのほか時計塔ショーウィンドウの手すりのパイプの歪み(みんなが腰かけるから歪んでいたらしい)を実地確認にいく冒険(しかしそのパイプも金品供出でのけられて……)、宝塚に在籍されていた若人がショー(だか稽古だか)の帰りのタクシーで運転手さんにせがんで車窓ごしに見た夜の銀座のきらびやかさ、地元の子どもが宝塚や芸者のおねえさまがたなどの艶やかな姿にドギマギした銭湯のおはなし、海の向こうのおしゃれな装いをしたままの女性へ石炭を投げる小さな愛国者などなど……

 ……ほほえましいものから今となっては厳しいもの、どうしようもないものまで、いろいろなお手紙が寄せられていました。

 

 

   ▼もちろん銀座以外、戦争付近以外の時代の妙はわからん;林忠彦氏が撮影した甲府の畑で刀を掲げる「増産案山子」(『「昭和」写真家が捉えた時代の一瞬』)、三十年代銀座の「脚線美コンクール」

 ことほどさように『銀座と戦争』は面白かったのですが、当然のことながら全国の写真をあつかうクレヴィス刊『「和」写真家が捉えた時代の一瞬』にあったような、稲畑から日本刀をかかげた軍服のカカシが立つ甲府「増産案山子」(p.31 林忠彦撮影)などは拝めませんでした。

 また銀座は銀座でも、もっと時代がくだって景気がよくなってきたであろう昭和三十年代の東邦レーヨン 脚線美コンクール」(p.116 林忠彦撮影)なんかもまた取り扱われていません。このコンクールもなかなかの奇習・奇祭で……

museumcollection.tokyo

 ……コンクールの幕に頭から膝上10cmくらいまでが隠されて、その下だけが公衆の視線にさらされた光景は、かなりギョッとさせられます。

 2020年代では時代遅れとなり絶滅危惧種の感がある美女コンテストのうち、水着美女コンテストの写真も同書にはおさめられているんですけど、そちらが「まぁこういう感じだよね」って想像の枠内であるのにたいし、脚線美コンクールの先鋭っぷりはすごい。

 

    ▽(N)写真に残せぬ領域もある;荷風が又聞く二十三年(1948)の新宿帝都座エロレヴュー、戦中の閨中秘戯「スモーキング」

 また、範囲だろうとなかろうと写真に残しづらい題材もあるでしょう。

浅草某生の手紙に

先日新宿帝都座のエロレヴューを見た人の話に裸踊の他に西洋名作物語とか申すものありゴーガンのタイチ島の娘とかセザンヌの何とやらと題を書いた紙を一人の踊子が見物に見せた後幕をあけると額縁の中に裸の女がそれらしき形をしたポーズをなしまづ一分位は動かずにをり申しИ(そうろう)。ジャズ踊とはちがひぢつとしてゐるだけ昨今の寒さにはいかにも気の毒にて一向に挑発的ならずつまらきものに御座候。云〻

   『摘録 断腸亭日乗(下)』p.320、「昭和二十二年(一九四七年)」二月二十日の日記より(ゴーガン、タイチ原文ママ。候の変体仮名はИを代用した)

 永井荷風さんは日記に、戦後の新宿帝都座のエロレヴューにかんする又聞きを記したり、戦中の路地の女の相場やその戯れの内容を記したりします。

公園の某人より玉の井の噂をきくに、例の抜けられますとかきし路地の女の相場まづ五円より十円となれり閨中(けいちゅう)秘戯に巧みなるもの追〻少くなれり。花電車といふ言葉も大方通ぜぬようになりたり。お客に老人少くなり青二才の会社員また職工多くなりしためなるべし。されど七、八百人もゐる事なれば中には尺八の上手なものもなきにあら。この土地にて口舌を以てすることをスモーキングといふ。一部賑本通西側なる大塚といふ家には去年頃まで広子月子なな子勝子といふ四人いづれも五円にてスモーキング専門の放れわざをなしたり。(略)市川といふ家にも同様の秘術をなすもの一人あり。されどこれはお客にもおのれのものを甞めさせねば承知せぬ淫物なり。桑原の店には金さへ出せばのぞかせる女あり。無毛の女はこの土地では案外いそがしくその数も随分あり。一部広瀬方、四部長谷川片にゐる女は無毛を売物となし曲取り至って上手なり。云〻。

   『摘録 断腸亭日乗(下)』p.194~5、「昭和十八年(一九四三年)」六月初二の日記より(略は引用者による)

 

 

  高見順『敗戦日記<新装版>』と山田風太郎<戦中派不戦日記>シリーズ読書メモ

 写真ではわからない細部といえば、うえで話題にした浅草寺の写真。高見順さんの戦日記』を読むと、その哀愁はよりいっそう強いものになります。

 観音さまへ行った。仁王門もない。五重塔もない。焼けた本堂の前には、人がたまっていた。小さい庫のようなものがひとつ焼け残っていて、その前に「本尊御安泰、金龍山浅草寺」と書いた札が立ててあった。それに向って、人々は手を合わせ、ありあわせの賽銭箱に銭を投げている。(略)

 愛する浅草。私にとって、あの、不思議な魅力を持っていた浅草。山の手育ちながら、なんとも言えない愛着、愛情の感じられた浅草。その浅草は一朝にして消え失せた。再建の日は来るだろうが、昔日の面影はもうとどめないに違いない。まるで違った浅草ができるだろう。あのゴタゴタした、沸騰しているような浅草、汚くごみごみした、だからそこに面白味があり、わけのわからぬ魅力があったあの浅草はもうない。永久に、ないのだろう。震災でも残った観音さまが、今度は焼けた。今度も大丈夫だろうと避難した人々が、本堂の焼失とともに随分沢山焼け死んだという。その死体らしいのが、裏手にごろごろと積み上げてあった。子供のと思える小さな、――小さいながら、すっかり大きくふくれ上った赤むくれの死体を見たときは、胸が苦しくなった。

   文藝春秋刊(文芸ウェブ文庫版、2002年11月30日第四版)、高見順『敗戦日記<新装版>』kindle27%(位置No.5150中 1381)、「昭和二十年三月十二日」より(略は引用者による)

 

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 闇市だって、高見氏が見た新商品なんてこれまたすごかったな。

トタンの樋(とよ)を短く切ったようなものを売っているので、何かと思ったら、筒形の弁当箱だという。短い樋を合わせて筒形にして、それにめしを入れ、めしを食ったら筒を割って半円形にする。便利な組合わせ式弁当箱だというが、そんな大きな弁当箱に入れるほどの米は配給されてない。と呟いたら、ナニ、サツマイモを入れるんですよ、だから大きくないと……。

   高見順『敗戦日記<新装版>』kindle84%(位置No.5150中 4293)、「昭和二十年十月二十五日」より

 高見氏の日記は、書いた本人以外にはあまりよくわからない(というか、読めるけど、バックボーンを共有してないからノリが合わない)とりとめもない連想メモ書きみたいな日もいくらかあるのですが、そうした思索ぶぶんを除けば……

『日記』は事実を書いておく方がいい、と花袋は言っている。(『花袋文話』)(「こう思ったとか、ああ思ったということよりも、こういうことをした、ああいうことをしたという行為を書いておく方が『日記』というものの本来の性質にかなっている。自己の後年の追懐のためにする上から言ってもその方が便利だ」

 私もそのつもりでいたが、事実だけだと何か味気なく、「こう思ったとか、ああ思ったということ」を書き出した。そこに面白味が出てきたが、先日、日記がさっぱり書けなくなった。その原因は、思うにその「面白味」に対する嫌悪にあったのだから、おかしい。

 小説と同じだ。事実だけ書くのが、小説の究極の姿だろうと考えられるが、若いうちはなかなかそれができない。そのきびしさにたえられない。

   高見順『敗戦日記<新装版>』kindle33%(位置No.5150中 1656)、「昭和二十年四月七日」より

 ……自分が見たことや面白く感じただろうことをピックアップしていくような書きぶりで端的で面白いし、他人の目を気にしていない思索的な記述があるからこそ「素の構成力がすごいんだな」とか感心したりする。

 

 地下鉄横町から仲見世へ出たのだが、途中で、「ボン・ソアールはこの通りだったな」と寺沢君の感慨をこめた声。その焼跡にはソバが白い花を咲かせていた。

   『敗戦日記<新装版>』kindle84%(位置No.5150中 4275)、「昭和二十年十月二十五日」より

 終戦から2ヶ月経った1945年10月25日。仲見世闇市へ向かう道中で、高見氏は人だかりに遭遇します。

 人々が手に紙幣を持っているので、何か売っているらしいと察せられたが、売り手がどこにいるのかわからない密集で、もちろん何を売っているのかのぞけたものではない。人々はお互いに押し合いへし合いで、円を描いた人々のかたまりがゆらゆらと右へ寄ったり左へよろめいたり、――そのうち、円の中心から悲鳴が挙った。「もう中止! そんなに押しちゃ、とても駄目だ!」 売り手の声だ。周囲から押されて、まごまごすると全く押し殺されてしまう。

   『敗戦日記<新装版>』kindle84%(位置No.5150中 4277)、「昭和二十年十月二十五日」より

 なんともすごい喧騒と殺到だ。それだけの代物ってなに? 読んでるだけで光景が思い浮かぶ上の描写からそのまま、高見氏はこう続けます。

「イモらしい」

 と寺沢君が言った。

   『敗戦日記<新装版>』kindle84%(位置No.5150中 4282)、「昭和二十年十月二十五日」より

 日記なので(あるいはぼくが勝手に見出しているだけなので)雑味は前後にあるわけですが、盛り上げに上げたうえで「イモらしい」で(事物と書き味その両面で)鎮火させるフリオチの語りがここにはあって、読んでいて素朴に面白い。

 ここを通過して高見氏は、zzz_zzzzがこの項の最初に引用した例の新商品を拝みます。そこまで読み進めると、素朴に楽しんでいたイモに深味がでてくる。

 道中のイモの挿話全体が、新商品の真相でオチるためのフリであったようにしか読めなくなり、また一段とにやけてしまう。

 

***

 

 高見氏の上述のような構成力は、同時代の日記としては、医学生~若手作家時代の山田風太郎さんが私的にしたためた中派不戦日記>シリーズなんかと違うなぁと思うわけです。

 本殿の屋根や土塀の屋根の苔が美しい。――と思ったが、ふと絵などで古木や木塀には必ず黒い地にこの青白い苔が描かれているのを思い出したら、急にいやになった。絵はもちろんもとは現実から描写したのだろうが、それがだんだん技巧上の慣習となって、今では実際には見えなくとも、梅など書くとこの苔を描く。するとこういう神社でもその絵の真似をして、わざわざこの苔をとって来て屋根に植えつける。天満宮の苔がそうかどうかはもちろん詮議する必要はないが、この青白い苔が黒い屋根に浮かんでいるのを見たら、いかにもわざとらしいものに思われて来た。

   KADOKAWA刊(平成26年7月25日、角川e文庫)、山田風太郎『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle70%(位置No.7976中 5567)、「昭和二十年 九月三日」

 <戦中派不戦日記>シリーズは、その後の創作でも拝めるような詩情をはらんだ情景描写、多作家らしい筆マメな具象描写、教養や内心の含みを大いにはらんだ人生らしい厚み・雑味が拝めて大変おもしろいわけです。思索それ自体が面白いというか。

kindle版は、KADOKAWA版がちゃんと目次がしっかりしててオススメですね)

 ただ「話」という観点では往復がおおすぎ、要素もいろいろと詰め込まれ過ぎてスッキリしない。

 京都の東本願寺で雨宿りをしている夜に出会った話はたいへん興味深いもので、場面場面は面白い。

 真っ暗な門の下で、二人は何か腰かけるものはないかと屋根の下に沿って歩き出した。扉はまだ閉じられていた。手さぐりに撫でて戻りながら、自分は「何もないや」といった。「じゃ、いいや、地面に腰を下ろそう」と鈴木が答えたとき、どこからか、「にいちゃんや。……」

 という小さな声が聞えたような気がした。二人は急に口をつぐんで顔を見合わせた。するとまた、

「にいちゃんや。……」

 というかぼそい声が、陰々滅々たる風にのって流れて来た。二人は棒立ちになったまま、のどの奥で(――ぎおっ)と叫んだ。

「何だ!」

 と鈴木がかすれた声でいって、僕の顔を見た。

「出たかね?」

 といって、僕も鈴木の顔を見つめた。

「にいちゃんや。……兵隊さんかな。……なんぞたべるものをもっておらりゃせんかな。……あたしゃ、腹がへって……」

「なんだコンチクショー、びっくりさせやがって」

 と、二人は笑い出した。乞食の老婆らしい。

   『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle69%(位置No.7976中 5462)、「昭和二十年 九月三日」

 ここだけ切り取れば怪談調ではじまって、幽霊の正体みたり乞食婆でおわる挿話なんですが、ここからどんどんと続いていきます。

 東京で大阪で二度の空襲にあって父子親戚を亡くし、伝手をたよって京都へ行けども知り合いは行方不明で、罹災者だからと警察にたよるも「そんなものあらへんわ」と追い出され、こうして浮浪に……と七転八倒の半生を、山田氏らとのキャッチボールのなかで老婦は語っていきます。

「いつ?」

「十三日。……三月の十三日どす。……」

 これはほんとらしい。

   『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle69%(位置No.7976中 5488)

 パンを施したりしつつも会話には老婦への疑念がにじみ、独特の緊張感があります。老婆は米飯の話題がでれば「二十日ほど、ごはん一つぶも食べたことおまへん」と眼を光らせるし、ぎゃくに山田氏も十割すべて善意でほどこしをしたわけではないことを日記に述懐します。

「にいちゃんや。……お父さん、お母さん、おあんなさるかな」

「あるさ」

 と、自分はいった。自分にはない。しかし自分はぼんやりと残酷な心持を感じている。心の一部にこの年老いた乞食を意識していて、友達と歌をうたい、恋の話をし、笑い声をたてているところがある。

   『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle69%(位置No.7976中 5499)

 山田氏は幼き日に父を亡くし母も亡くし、母の二番目の夫であり父の弟の叔父とその後妻とのあいだでこども時代を過ごした自身の暗い情念を隠しているし、いっぽうの老婦はいっそうの同情をひこうという気配が見える、仮面劇がくりひろげられます。

 瑞々しく生き生きとしたサスペンスフルなやりとりで、これはこれで面白い。

 省略しますがここでまたオチがひとつついて、夜が明けます。

 門前の芝生に公孫樹が銀色の露をしたたらせ、噴水がキラキラとかがやく光の糸をあげているのが見えて来た。雨は止んでいる。門の陰も仄白い光が次第に漂って来て、そこに何かぼんやりと人間のかたちを現わしてくるようである。

「おい、もうゆこうや」

 と、なぜかそれを見るのが恐ろしいような気がして、自分は鈴木を促した。

   『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle70%(位置No.7976中 5508)

 日が現れはじめた夜更けに山田氏はまた急なおぞけに襲われ(シチュエーションが舞台効果となってこれまた良い)、学友と二人して門を離れます……と思いきや「ねえ、こっちにもいるかも知れないぜ」とぐるりと東本願寺をまわり、別の老婦がおなじようにうずくまっているのを見かけます。

 駅へともどる道程につき、山田氏は京都が空襲に遭わず無事だった理由へ考えをめぐらしアメリカへの苛立ちを語ります。

 すると駅へ向かっていたはずの足取りがまたあやしくなります。

「おい、あの婆さんを見てこようじゃないか? もう見えるだろう」

 と鈴木はいった。自分は首を傾けて、しばらく逡巡していた。それからやっと肯いた。

「俺たちが芸術家だったら、あれは暗い中で――少くとも夜明けのぼんやりした中で別れるのが一番いいのだが――しかし、俺達は医者だ。うん、見てゆこう」

 二人はひきかえして、東本願寺前を通り過ぎていった。しかし老婆の姿はどこにも見えなかった。

 だいぶ歩いてから、またもと来た道を帰ってみると、門のつき出した壁の陰で依然ぼんやりとした影が、立ったまま何か身づくろいしていた。この年老いた乞食は、おそらく夏の白日の下でも、やっぱりぼんやりと見えるであろう。――そこが彼女の楽屋であろうと思ったら、ちょっと可笑しくなった。

   『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle70%(位置No.7976中 5527

 幽霊かと思ったら乞食で、しばらくするとやっぱり幽霊に思える。けれども三度みれば役者な乞食で……という認識の往復は、その後ももう一往復なされます。さすがにくどい。「こんどはほんとうに駅にゆく。」と山田氏当人が書くくらいの道程でした。

 

 駅へついた山田氏は……

 この六月に見たときは、勝利の日まで戦え! と絶叫していた丸物百貨店の飾窓のポスターはことごとくはぎとられて、壁にこびりついた紙のあとが、白々とした朝の光の中に哀れである。

   『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle69%(位置No.7976中 5544)

 ……戦中・戦後の心変わりを見、二条城を歩き、天満宮へとくぐって、最初に引用した「苔のわざとらしさ」をみとめます。

 

 あまたある日々の一日だけを見てみても、山田氏が暮らし見てきたものやことは、じしんが予言していた「仮面の舞踏」であるとか……

 何が「平和な法治国」であるか。全世界がそうなったらどんなに美しく愉しい世界であろう。しかし連合国は強大な軍備をさらに拡張しつつあるではないか。これは彼らの信じる動議をつらぬくにも武力あってのこと、また文化も富あってのことと確信しているからだ。これを云々するのは引かれ者の小唄という奴で、吾々は沈黙するよりほかはないが、勝利者側が敗れた方へいう「真理」は信じない。

 日本はふたたび武力を確保する必要がある。断じてある。

 叔父のような人間は今全日本に充満している。これが十年後にはどうなるか。今考えるのも可笑しいような「アメリカの真理」の中に日本は溺れつくしていることであろう。自分は予言するが、しかしそのとき断じて自分だけはこの予言の外にありたい。

 ともあれ、本人が意識するとしないとに関せず、またもいままでとは違う種類の「仮面の舞踏」が日本人によって行なわれるのである。

   『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle版66%(位置No.7976中 5241)、「昭和二十年 八月二十八日」

 ……振り返ってみるとなぜそうしていたのかわからない、虚無的な夢まぼろしの世界であるとか……

 今になってみると、自分にしても、すべてを「運命」にかけて、連日連夜爆撃の東京に平然と住んでいたことがふしぎである。凡らく夢中だったのであろう。もっとも人間というものは、熱中していた過去を振返ってみると、それがいかに冷静な判断の中に動いていたつもりであっても、後ではまるで「夢中だった」ように感ずるものである。実際過去は、いまその連続で自分がここにいるという自覚を除いたら、すべては夢である。

 暗澹とした雲に、時々かっと青白い物凄い十字架がきらめき浮かぶ。列車の光が空中に外の電柱を照らし出すのだ。

   『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle版68%(位置No.7976中 5405)、「昭和二十年 九月二日」

 ……の証左として束ねられるような、一貫した不安定性があります。

 当時の諸相の素描として一等おもしろいものの。ワンテイクこっきりで撮り直しナシである、人生の難しさをどうしても感じてしまう本でした。

 

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 高見氏にせよ山田氏にせよ、アクセスしやすい状態にある長い文章って(その前後で文筆業で功績をのこした)文学畑のインテリ男性のものにどうしても寄っちゃうので、それ以外の階層のひとびとがどうやって生活費を稼ぎ寝食を送ったかというのは、なかなか見えづらい面がある。

(山田氏も、故郷にもどったさいは村の共同発電所へ出かけて精米・糠取りをしたり*4、炭焼きをしたり*5、いろいろしますし。

 医学生であった氏の都会における生活のディテールもまた、すさまじいものがあります。戦中は空襲下で医学生がどんなはたらきをしたか(できなかったか)が描かれますし『戦中派虫けら日記』*6、戦後は敗戦後の混乱・困窮が氏のバックボーンならではのかたちで視界に入ってきたりするわけです――つまり餓死者が解剖実習のご遺体として現れる*7

 

 『銀座と戦争』寄稿も一通一通がそこまで長いわけではないので、空腹感をおぼえないわけでもない。そこで争中の暮しの記録』なども手を出してみると、良い感じがしますね。

暮しの手帖編集による戦中戦後の寄稿集はいくつか出ていますが……寄稿ひとつひとつの長さや詳細さは『戦争中の暮しの記録』が良いし、最初のアンソロジーということでとにかく凄い寄稿集なのけれど(出産間近にひかえた女性がついに産気づく。しかしそのときちょうど空襲が……とか、とうとう犬供出令のでた故郷で、いかにして愛犬を隠し守り通すかのサスペンスとか。町から海へさまよう薪探し譚とか)、字組の問題で電子書籍としてPC画面で読むにはつかれてしまう。

 それ以後のシリーズは読みやすい体裁だし貴重な体験談の数々なんですけど、ただしちょっと一つ一つが短かったりちょっと地味だったりとりとめなかったり――投稿者さんにゃ悪い言い方ですが――落穂ひろいのおもむきがあります}

 争体験 朝日新聞への手紙 (朝日文庫)』は、新聞への投書だからか一人一人の寄稿がちいさめではある。

 戦争を体験したひとによるお話ばかりじゃなく、戦争体験者を父母祖父母にもつ人からの寄稿がけっこうあって、結果的に「戦争を体験したひとたちは"終戦直後から今の今まで"どうやって銭を稼ぎ暮らしたか?」という、戦争体験をダイレクトにあつかったものでは画角から外れてしまうところが覗けて、「へぇ~!」となったり。

anond.hatelabo.jp

 上のはてな匿名ダイアリーは、いくつか「いや違くね?」と思うところがあるわけですが(※1,2)……

戦後間もない人たちが「いのちだいじに」が基本指針なわけないじゃん。

戦後復興のためにどれだけの人間が命を賭して頑張ってきたと思ってるんだ。

東海道新幹線首都高速黒部ダム、その他数多くの現代社会を支えるインフラは戦後の人たち、戦争を生き残った昭和の人たちの犠牲の上にある。

(略)

戦争が終わったからって人間が入れ替わるわけじゃないんだよ。

メンタルは戦前戦中のままに武力に費やしてたリソースを経済活動に全ツッパして走り抜けたのが昭和という時代だよ。

 ……登場人物のメンタリティが現代人すぎるみたいなお話は、実はこの『戦争体験』のなかに補助線として引ける寄稿があります。(寄稿者のひとりは、戦争から帰ってきて工夫となり黒部ダム建造にかかわった父を持っていたのだそう)

 また、ここにかんしては澤地久枝の青春日めくり』も補助線とできるでしょう。

 満州で敗戦をむかえ2年後1947年から東京で暮らし始めた澤地氏は、社会人一ヶ月目(wikipediaみるに1949年?)メーデーに参加します。そこでカルチャーショックを受ける……

 弁当ももたず、ただそこへ行った私におにぎりをわけてくれ、この日が労働者の日であることを教えてくれたのは、東大国文科出身の編集者である。「インターナショナルの歌」などを耳にし、みんなとスクラムを組んで合唱するのも生れてはじめてのことだった。

 この日、私にとって不思議でならなかったことは、戦争中の「軍歌」がうたわれていたことである。

「万朶の桜か襟の色 花は吉野にあらし吹く……」

 軍歌にも、音楽的に文学(?)的に、いい軍歌とよくない軍歌があった。戦争がおわり、私が信じ、私が十分理解していたと思っていたものが泡沫以下のものであったと知った日から、私は軍歌をうたうことをやめた。

(略)

 おなじ経験は、私のような学徒動員世代や戦中派世代の人々にかなりあるらしい。なぜなのか、軍歌と労働歌はまったくおなじメロディーをもっていた。

「開け万国の労働者 轟きわたるメーデーの……」

 この労働歌は、兵士たちが軍靴をひびかせて行進するときにうたう「万朶の桜」とおなじ曲なのである。「軍歌つきメーデー行進」などいただけない。しかし、私は用心深くなっていて、誰にもその疑問を明かさなかった。「御油断めさるな」と私のなかの虫がいった。

   講談社刊{2019年7月1日発行(底本は1990年9月刊の講談社文庫)}、澤地久枝『私の青春日めくり』kindle30%(位置No.2229中 645)、「初月給のころ」より(略は引用者による)

 ……赤旗のたなびく労働者の日に、軍歌が労働歌へと転用され行進の音頭をとっていたがために。

 

 とにかく色んな人が色んなことを色んなかたちで表に出せるのが大事だなぁと思ったり。

 

    ▽(+)「兄さんが元気で帰ってくるように祈るのだよ」「どうして長男を志願させたの! 死ぬとばい!」「元気で帰ってくるんだよ」「いきなり特攻とは酷い。お母さんはそんなの嫌だ」手紙でも口頭でも、終戦間近3ヶ月まえの1945年5月でも生還を願った陸海軍親族

〔※1

 たとえば『特攻に子をやる両親が「生きて帰ってこい」などというはずがない』との増田氏のツッコミ。

 幾分人間らしい暮らしを取り戻してきた夕暮れの喧噪の中で、敷島は母親からの手紙を取り出した。

『必ず生きて帰ってきて下さい』

 そこに記された一文を守ること……それを理由に自分の卑怯な振る舞いを正当化してきた。しかし今、その根本の部分が崩れてしまった気分で敷島は恨み言をつぶやいた。

「生きて帰ってこいって……そう言いましたよね」

 もちろん、誰もそれに応えてはくれない。

   集英社刊{2023年11月13日発行、ジャンプジェイブックスDIGITAL(底本は同年同月第1刷発行の集英社オレンジ文庫版)}、山崎貴『小説版 ゴジラ-1.0』kindle14%(位置No.1768中 216)

 正確をきすなら劇中の描写は手紙での文言で、手紙となると検閲も入るでしょうから難度が高そうに思えるのですが、しかし手紙でも口頭でもまぁ「生きて帰ってこい」と言う親兄弟はいたらしい。

gendai.media

敷島少尉は「少尉」という階級から、海軍兵学校出身ではあり得ない。また、模擬空戰の成績はよかったが実戦経験がないと自ら語っているということは、兵から累進したベテランの特務少尉でもない。学窓から海軍に身を投じた予備士官の少尉であることは間違いない。

当時、予備士官の少尉といえば、海軍飛行専修予備学生十三期(昭和18年10月入隊、志願)、十四期(同年12月海兵団入団、徴兵)の両方の可能性があるが、整備員に訓練部隊である筑波海軍航空隊での腕の確かさを記憶されているということは十三期だろう。

 特攻にくわしい神立尚紀さんは『ゴジラ-1.0』主人公を1943年10月入隊だろうと推測しています。争が立っていた 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦中編』では、1943年10月に太刀洗陸軍飛行学校へ少年飛行兵十五期生として入校したかたが寄稿しています。末吉初男さんは、家族からこんな手紙をもらったと云います……

 飛行機学校時代に初男の届いた母親からの手紙がある。表書きに「毎日忘れん初男さんへ」とあり、その横に初男の字で、「軍隊ニ入リテ母上様ヨリ頂イタ嬉シイ初便リ、毎日〳〵読ミカヘシテ」と書かれている。

「貴方が行った夜は、忠とサツキちゃんに、兄さんが元気で帰ってくるように祈るのだよと言ったら、二人で頭をそろえて神様に拝みて、しばらくして頭を上げたから、私も涙が出ました」という一文には、子を想う親の気持ちが溢れている。

   暮しの手帖社刊(2019年5月24日初版第一刷発行)、『戦争が立っていた 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦中編』p.213~4、末吉初男(寺原裕明さんによる聞き書き)「無事生還を遺憾に思う」より(※章末に手紙の実物が掲載されており、引用箇所を正確に写すと「貴方が行った夜わ忠とサツキちやんが私の言ふ通り兄さんのサカしくて帰る用に祈るのだよと言ったら二人であたまをそろへて神様におがみてしばらくしてあたまを上げたから私もあり様を見てうれしなみだが出ました」となりそう。健康の方言としての「さかしい」ですね)

 ……神風特攻隊が戦果をあげる1944年10月の一年まえということで、空気感がちがうのでしょうか、なるほどこの時期の兵隊さんとその家族の反応としてはこんなものだったのかもしれません。

 

 時代はくだって東京大空襲ごろの1945年3月でもどうやら家族は「逝ってこい」と送り出すばかりではなかったようです。

 『戦争が立っていた』では、つづけて1945年3月、海軍佐世保鎮守府へ入隊したかた、同年同月に熊本の陸軍部隊へ入隊したかたの寄稿を掲載しています。

 また、隣村に嫁いだ母の妹が「どうして長男を志願させたの! 死ぬとばい!」と、泣きながら、何回も家を訪ねてくれていた事を知りました。

 特別攻撃隊だったため、所在も極秘だったのでしょう。

 今でも、家に着いた時の安堵感と、父母のくしゃくしゃさせた涙顔を忘れられません。

   『戦争が立っていた 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦中編』p.220、深川不元(長女・犬塚京子さんによる聞き書き)「特別攻撃隊

 出征当日母校の国民学校で、小学生や大勢の学区の人々の前で壮行会が行われ、西大寺駅では万歳万歳の歓呼の声に送られ汽車に乗った。

 母が涙を流しながら「元気で帰ってくるんだよ」と手を固くにぎりしめたことは、今でも忘れることはできない。

   『戦争が立っていた 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦中編』p.221、河本富夫「陸上特攻の記憶」

 もっと遅い時分ですと、終戦まで1クールをきった1945年5月22日、陸軍主計中佐夫人である母に、特攻隊長就任を告げたら「いきなり特攻とは酷い。お母さんはそんなのは嫌だ」と泣かれ,毎週帰宅し洗濯物を預け{毎翌週生存を約束し}た堀山久夫氏のような例もあります。

 父はただ『しっかりやれ』と言いましたが、母は『一度も要撃に上げず、いきなり特攻とは酷い。お母さんはそんなのは嫌だ』と言いました。母は宇治山田の女学校出で、同じ三重県の明野が戦闘機の飛行学校で、殉職者の多いことを若い時に知っていました。(略)成増から館林に移動後は、毎週金曜日に自宅に帰れて、突然いなくなって心配させないよう『来週も帰るから、この靴下を洗っておいて』と預けて帰っていました。母は井戸端で私の靴下を洗いながら泣いたそうです。(略)

 陸軍の主計中佐夫人でもこれなのに、一般の家庭の母親は息子が特攻隊員になって、爆弾とともに敵艦に体当たりして、木っ端微塵に砕け散る運命を悲しまぬ母親はいなかったでしょう。

   文藝春秋社刊{文春文庫、2019年8月20日発行(底本は2019年8月10日発行)}、「特攻最後のインタビュー」制作委員会(神崎夢現&長尾栄治)『特攻 最後のインタビュー』kindle83%(位置No.5793中 4779)、「陸軍航空特攻インタビュー 2010.04.10 堀山久夫」より(略は引用者による)

母はそれを根に持っていて、戦後に『あのまま、お前が死んでいたら、お母さんは一生、お父さんを恨んだ』と言われました。

   『特攻 最後のインタビュー』kindle82%(位置No.5793中 4734)

 

    ▽(+)空襲から半年たっても瓦礫の山;『焦土からの再生―戦災復興はいかに成し得たか―』

 ※2

 あるいは「45年12月の東京は瓦礫の山ではないし(東京大空襲から半年以上経っている)」。

 ○午後、松葉、納富らと神田に、今度使うことになった英語の教科書を買いにゆく。途中雨。暗雲に冷たくひろがる四谷区役所附近――塩町、本塩町、四谷駅近傍、いずれも惨たる焦土。トタン張りの小さな掘立小屋のむれが風の中に悲鳴をあげている。

 雨にぬれた道を細帯一本の気のちがった女が裾をひきずって歩き、それをジープが追い越す。ジープの中のアメリカ兵は暖かそうな帽子の中から煙草の煙をなびかせている。

 市ヶ谷駅は石垣の間に屋根をかぶせ、その上に土を盛りあげた原始的な姿である。街路樹の美しかった一口坂(いもあらいざか)もただ灰燼。真っ黒に焦げた電柱が二つに折れて、上の柱は電柱にひっぱられて宙に浮かんでゆれている。靖国神社は雨の中に人影もない。先日アメリカ人記者が報道していた。「靖国神社明治神宮などに参詣する日本人はいなくなった。この神道の壊滅こそ日本人の天皇観の革命的変化の先駆となるものである」果してそうなるか。

 神保町は残って、学生群が出入しているが、本屋の本は寥々として、並べてある本もボロボロだ。まるでパンフレットみたいな、いや新聞紙を四つにたたんだような新雑誌がチラホラ見える。色々な日米会話のチャチな謄写本がある。進駐軍をあてにしたらしい店々が、ヘンな浮世絵や人形や陶器や提灯や数珠などを貧しげにならべて、その一軒から黒人兵が日本娘をつれて出て来るのが見えた。

   『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle92%(位置No.7976中7253)、1945年11月14日(水)曇時々雨の日記より

 文化社が京 一九四五年 秋 / Tokyo Fall of 1945』という本を出した関係もあり45年11月撮影の写真がかなり現存していて、それから言えば『ゴジラ-1.0』劇中のようながれきのままの区域はけっこうあります

 具体的な数字としては「戦災復興院の調査では、焼け残った材木や古トタンを集めて建てた一時しのぎのバラックは、一九四五年十二月末に全国で約十四万戸とされていた。未調査の地域もかなりあったため、実際には二十万戸以上であったとみられる」『焦土からの再生―戦災復興はいかに成し得たか―』kindle14%(位置No.4903中 635)、「第一章 官僚たちの百年計画――戦災復興院」より}状況。

 上に引用した土からの再生』によれば、49年ドッジラインの財政引き締め策以後の戦災復興院の課題として、がれき問題を挙げています。なんでも……

 東京には約三千万立方メートルもの焼けガラ(五トントラックで十六万台分に相当)があった。これら大量のがれきは捨て場所がなく、やむなく幹線道路にうずたかく積み上げられていた。

 東京都が一九五三年に刊行した『東京都戦災誌』(二〇〇五年復刊)には焼け野原の市街やバラック密集地など、復興期の東京の写真が数多く掲載されている。

 そのなかに昭和通りの写真もあるが、中央にがれきの山が延々と続いており、道路幅の八割近くを占めている。車や人はがれきの山脈の狭い裾野を通らなければならず、はなはだしく交通の障害になっていた。

 このがれきの山にはさらにゴミが捨てられ、大小便をする者もあり、悪臭が漂い不衛生きわまりない状態だった。悪疫の温床にもなりかねず、GHQからは「早くかたづけろ」と厳しい督促が続いていた。

   『焦土からの再生―戦災復興はいかに成し得たか―』kindle版78%(位置No.4903中 3791)、「第五章 首都計画のロマンと挫折――東京都」より

 ……GHQからの督促がくるほどのがれきがあり。三十間堀川や東堀留川、竜閑川、新川、真田堀などなどをがれきで埋め立て二十四万四千平方メートルの造成地を確保、その土地を売ることで財源も確保するという一石二鳥{?}の奇策が編み出されることとなったそうな。

 

     ○(N)インテリもノーベル文学賞作家も国民的スターさえ立小便をした戦中戦後

 さて大小便ですよ。

 いまでも駅のホームとか歓楽街の路上、あるいは電車車上に吐瀉物が見かけることはあるように、当時も……

 九月念五。晴。晡下(ほか)土州橋より浅草に徃く。帰途電車の内にて酔漢の嘔吐するもの二人あり。女車掌これを見るや直様(すぐさま)袋に入れたる砂を持来りて汚物の上にまきちらすなり。袋入の砂は平生(へいぜい)車中に用意してあるものと見えたり。世界中いづこの街にもかくの如き乗客を見ることは稀なるべく、かくの如き準備をなせる車を見ることも絶無なるべし。

   『摘録 断腸亭日乗(下)』p.79、昭和14年(1939)年の日記

 ……永井荷風さんが嘆いていたわけですけど、大小便とは。

 

 当時の日記や記録をひらいてみると、市井から名だたるインテリ・文学者まで立小便の目撃談をのこしており――自身の立小便歴さえ開陳されております。

 よく登場するのは、駅構内と、電車内外。

二月

一日(木) 曇寒

 ○午後三時より鈴木文四朗氏の「敵の国民性」なる講演あり。

(略)

 三、清潔なることなり。フォード会社のごとき八人に一人の割に手掃除人つくという。しかもその工場の清潔爽快なるに因する工員潑剌の心は、この負担を補いてなお余りありと。日本はなるほど自らの家庭は茶室的にこまめに磨き清む。しかしひとたび社会に出ずれば実に痛嘆の極みなり。街頭に痰を吐く、鼻紙を捨つ、甚だしきは――先日東京駅地下道にて見たることなるが、大の紳士の堂々と立小便しているにはかつ呆れかつ憤激にたえざりき。

   『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle9%(位置No.7976中633)、1945年2月1日(木) 曇寒 の日記より

 医学生時代の山田風太郎さんは朝日新聞ジャーナリストの鈴木氏の講演を聞きます。

 駅地下道で立小便をする紳士に憤慨する鈴木氏とおなじく、山田氏じしんも前年12月27日に「男はみな地下廊の壁際に小便をたれて、流れて、靴の下はぴちゃぴちゃに濡る」*8上野駅の不快な様子を記されています。

 作家・大佛次郎さんは1945年4月27日にひさびさ上京したさい、その惨状を以下のようにまとめます。

 晴。十一時近い汽車でフクちゃんと東京へ行く。上野の精養軒で週刊少国民が募集した敵機のあだ名の撰をするのである。鈴木文史郎小倉、安田とかいう航空本部の中佐ら。食堂の外に藤棚があり紫の房をくぐって八重桜が散っている。昔の姿がどことなく残っているが外へ出て見ると不忍の弁天が焼あとだけになっている。蓮はまだ枯れた茎を並べている。西郷の銅像の前に坊主が一人たち演説している、あまり勢のない調子である。我々が悪いのでなくてこう焼野原になったという意味が通りすがりに耳に入る。地下鉄の駅、小便など垂れ流しあり掃除もせずきたない人心が荒むのに一つの役をつとめているわけである。

   文藝春秋刊{2007年7月10日第一刷、文春文庫(1995年4月草思社大佛次郎 敗戦日記』を増補改題)}、大佛次郎終戦日記』p.221、昭和二十年(1945年) 四月二十七日の日記より(文字色変え・太字強調は引用者による)

 1946年3月28日、宝塚・東宝で活躍した脚本家・菊田一夫さんは孤児だったじしんを重ねて上野駅の浮浪児のもとをおとずれたさい以下のような日記を残しています。

 上野駅地下道に浮浪児のくらしを見にゆく。薄暗い電灯に照らされて、水溜り、人ぷん、食べ残しの弁当を持ってきたらしい残骸。その他のすべての隙間はぼろ屑の塊りのような浮浪者と浮浪児によって埋めつくされている。動かないで光っているのが水溜りと人ぷんで、もごもごと動くのが浮浪児である。

   日本図書センター刊(1999年12月25日第1刷)菊田一夫菊田一夫「芝居つくり四十年」』p238、「敗戦日記」垢のかたまり、昭和二十一年(1946)三月二十八日

 その翌月4月浦賀に復員しもとの職場を休職・かわりにヤミの塩と米の交換へと精をだした男性は、上野からの夜行列車でさらなる発展形をみます。

 一番困ったのがトイレ。恥も外聞も捨てて必死の想像以上の姿に、これも敗戦での惨めさか頭の良い奴が一升瓶を持って金を取っているのにびっくり。

   暮しの手帖社刊(2019年7月20日第一刷)、暮しの手帖編集部編『なんにもなかった 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦後編』p.19、Ⅰないないづくし、柴田敏次「まさに殺人列車」(文字色変え・太字強調は引用者による)

 一升瓶による簡易トイレ貸し業! たくましい経済です。

 この問題は男性にかぎったことではなく、1946年12月、海軍大佐だった父の復員とともに上京した女性は当時を以下のように振り返ります。*9

 当時大田町より東京への旅は、京都で乗り換え三日くらいかかった。父が苦労して手にした切符でやっと乗車した列車は超満員である。デッキの上、屋根にも人々がいた。中に入ると通路も人がいた。新聞紙を敷き、夜になるとその上で眠った。

 困ったのは用を足すということであった。男性や子供は途中の停車駅で窓からホームに降り、用を済ませた思春期の少女であった私は、衆人の目を気にしながらも、恥も外聞もなく用を足した

   暮しの手帖社刊(2019年7月20日第一刷)、暮しの手帖編集部編『なんにもなかった 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦後編』p.105、Ⅲ未来をさがして、「東京駅で」(文字色変え・太字強調は引用者による)

 山田氏の日記へ目と時計の針をもどすと、講演受講から9ヶ月経った1945年11月になるとどうでしょう、山田氏みずから廃墟でご学友と仲良く立小便をしている。それどころか……

 ○冷やかな血のような夕日が、それでなくとも赤い廃墟を照らしている。茫々と枯れ草がなびいている。一年前までここに町があったのだと誰が想像出来よう。強いてその幻を夢みれば人は戦慄せざるを得ない。しかし人々はそんな回想に沈むより、ただ飢えに戦慄している。

 曾てあったその町を想わせる、ただ一つの荒原の中の大河にも似た大通りに、何千という群衆が、飢えて、叫喚して流れている。(略)

 ひびの入った半ば崩れたコンクリートの壁は夕陽をさえぎって、そこに暗い陰を倒していた自分たちはその壁の下で小便をして、路傍で買った二個五円の小さな林檎をかじった。

(略)

 そこへ右肢の股のつけねからない青年が松葉杖でとことこやって来て、やっぱり立小便をして、片手で懐から黒い皮の薩摩芋をとり出して、ガツガツ食い出した。自分たちとふと眼が合うと、

「高いですなあ、何もかも。芋一つが一円ですからなあ」

   『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle91%(位置No.7976中7232)、1945年11月13日(火)快晴 の日記より

 ……小便をしたその手でリンゴを食べ、次いで現れた赤の他人の立小便者とその場で談笑(!)したりさえする。

 『戦中・戦後の暮しの記録』をひらくと1945年の4月、東京滝野川区の実家を焼かれて家族とともにリヤカーにつかまり歩き、焼け野原で用を足した少女の回想が寄稿されています。

翌朝我が家の焼け跡に立った。一面焼野原でまだ火が燻っていた。父がどこからリヤカーを引いてきて仏壇やら何やらを積み、私たち一家は無気力に歩き出した。(略)私は頻繁に「おしっこ」と訴え、「今したばかりじゃないか」と叱られ、野原にしゃがんで用を足した

   暮しの手帖社刊(2018年7月24日初版)、暮しの手帖編集部編『戦中・戦後の暮しの記録 君と、これから生まれてくる君へ』p199~200、「迎えのこない日々」

 これだけだと子どもゆえの仕方なさや、若い世代の無軌道の可能性もいなめません。

 もっと歳のいった紳士の記録をみてみましょう。

 近頃では立小便は罰金をとられるけれども、あの当時は、焼け残つた家の便所で尤らしく小便するのが奇怪なほどで、遊びにきた人に、オイ〳〵、君、外へ行かなくつても家の中に便所があるよ、と言つても、イヤ、面倒だよ、と云つて、わざ〳〵下駄をはいて外へでゝシャア〳〵やつてゐる

   青空文庫再録(2016年4月15日修正、tatsuki氏入力・oterudon氏校正)、坂口安吾『わが戦争に対処せる工夫の数々』(ただし踊り字だけ置き換え)(文字色変え・太字強調は引用者による)

 作家の坂口安吾さんは、家の便所をつかわずわざわざ下駄を履いて外で立小便をしたと回想します。

 高見順さんは戦日記』で何度も立小便し、そうした心情もしるされています。

 奥山の焼跡へ行った。「岡田」の跡らしいところに石燈籠が立っている。石燈籠だけが残っているあたり、無慙な印象のなかに一抹の日本的なすがすがしい感じが漂っていて、見ている人の心を救うのである。

 名物の露店の占い師が、何事もなかったかのように、焼跡の近くにすでに出ている。女学生とも女工さんとも、服装だけでは見分けのつかない若い女連れが、布の扉(?)をあけて、入って行くのが見られた。結婚の占いででもあろうか。

 観音様はやはり参詣人がすくない。裏へ廻って映画館街へ出ようとして、楽天地のあたりに来て驚いた。楽天地はもとよりその辺一帯がことごとく取り払いになっていて、『如何なる星の下に』に書いた「びっくりぜんざい」も「大善」もない。「米久」もなければ「昭和劇場」もなく、そこから入谷に突き抜けて広い通りができ上っている。

 感慨無量で、楽天地跡で立ち小便をした。鉄筋コンクリートの建物はまだ残っており、コンクリート製の山もまだ残っていて、「鳥獣供養碑」というのが、こっちに向いて立っている。花屋敷の名残りと察せられる。

   文藝春秋刊(文芸ウェブ文庫版、2002年11月30日第四版)、高見順『敗戦日記<新装版>』kindle15%(位置No.5150中 711)、「昭和二十年二月十三日」より(文字色変え・太字強調は引用者による)

 感慨無量で立小便! 墓石にお水をそそぐ要領なんでしょうか? これだけだとなんともですね。ほかの例もほしい。

 高見氏は連れションだってします。それも……

 九月十二日

 雨。十時の電車に乗ることを川端さんと約束した(註=この日、川端氏と志賀直哉宅に行くことになっていた。)

 地下鉄に乗った。切符売場に

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 と大きく書いた紙が貼ってあった。今にこういう英語は、到るところに氾濫して、眼になどつかなくなるのであろうが――。今はヘンに生々しく眼に迫った。心に迫った。

 地下鉄の線路の壁に大きな硝子の広告絵が並べてあるのだが、黒く汚れたその表面に膏薬でも貼ったような白い紙がベタベタと附けてある。その白さが眼立った。「驕敵撃滅」とか「必勝不敗」とかいうような文字をそうして隠したのであろう。

(略)

「あの家が、たしか志賀さんの……」

 川端さんが言った。左手に屋根が見える、その家のことだった。道はすぐ行きどまりで左にそれる。そこで川端さんは小便をした。私も真似をした

   高見順『敗戦日記<新装版>』kindle77%(位置No.5150中 3902)、「昭和二十年九月十二日」より

 ……ノーベル文学賞作家・川端康成さんと立小便。ググったら横光利一『川端康成三十講』にて「立小便の名人」とか言われていたらしく、川端氏は別格かもしれない。安吾氏にしたって「偉大なる落伍者」、戦中は水風呂に浸かるようになり自らをドンキホーテとたとえたさかしま具合なので、これまた違うかも。

 では高見氏にとってはどうだったか?

 寒くなって小便が近くなった。駅前で尿意を催し、焼跡で立小便をした。焼跡の何もないところではやはりちょっと工合が悪く、焼壁を探した。そうして私は、電信柱を探して、それに片足をかけて小便をする犬を思い出した。人間も犬も、あまりかわりないなと思った。人間も? 否、私も! だ。この頃の日本人も! だ。

 全くケダモノだ、我々は。まるでケダモノみたいな生活に堕ちている。それが頭にあるので、犬とあまりかわりないなというようなことを考えたのだ。人間としての高い誇りを持っていたら、そんなことは考えまい。立小便を第一、恥じるであろう。

 街に共同便所が全くないケダモノ扱いである。電柱に足をかけて立小便をしろと言わんばかりだ。

 東京駅から白木屋へ行く道、毎日の道路が、これまた森のケダモノの道と同じく、いつの間にかきまってしまった。自然に、本能的にきまった道を通る。全くケダモノとかわりない。

 焼跡に何もないからだ。ちょっと道をかえて、知らない通りの店でものぞきながら歩こうかと、心をひくような何もない。森と同じなのだ。だから自ずと森を行くケダモノと同じように、きまった道を行く。味気ない顔をして、トボトボと歩いて行く。人間の心を踊らせるような何もない。好奇心をそそる何もない。目を楽しませる何もない。精神を喜ばせる何もない。

 あるのは屈辱感。暗い敗戦感。

   高見順『敗戦日記<新装版>』kindle94%(位置No.5150中 4790)、「昭和二十年十一月十六日」より(文字色変え・太字強調は引用者による)

 高見氏の自認としては、日本が焼跡に――ケダモノの森になってしまったがゆえの行動でした。

 大佛次郎終戦日記』のほうをくわしく見ていくと更なる大小便情報がうかがえ、そもそも大佛氏も東京の市街で立小便していることが見えてきます。

午後大東亜会館へ出かける。翼賛会の戦意昂揚運動で映画を作る相談。島崎新太郎の司会である。白柳秀湖久生十蘭木村荘十中野実など。それに交換船で帰って来た人々が加わったがこの側からの話は具体性に乏しい抽象的なものが多い。作家側からは検閲制度がこう云う企画の支障となっていることを指摘する。困難は役所仕事が戦時体制に成っていない点に在る。白柳氏の話は問題を広く捕えているが具体性をひどく欠いている。(略)中座して羽佐の権上を見に行こうとしたが明治座へ行く電車がどれか判らなっているのを発見、ままよと乗ったら永代橋へ出て了ったので降りて路地で小便する。街はひどく暗い。大手町行が来たので乗ったが暗くて明治座を発見出来ない。

   終戦日記』p.56~7、1944年10月26日の日記より

 門田君の話。ニュウグランドホテルロビイの戦災者を収容、電灯なきことにてこれが柱の蔭階段などに大小便し、玄関から入るとむっと臭う。ホテルでは湯が沸くようになったら熱湯で洗うより他なしと話している。

   終戦日記』p.251、1945年6月3日の日記より(文字色変え・太字強調は引用者による)

○町で作った防空壕、電球を盗まれる。いつも暗い。それと便所を作らなかったので小便勝手で不潔、便所を作るから前の寄附の四割を出してくれという。(略)支那よりも悪い話である。共同生活が常に個人生活の下に置かれる悪癖。

   終戦日記』p.313、1945年8月4日の日記より

 大佛氏の視界では、どうにも暗く抽象的で盗みや私欲など荒んだ人心のうずまく時空間に大小便がちらばっているようだ。

blog.goo.ne.jp

 上記リンク先のblogが引用紹介されたのを又聞くと、1946年6月2日の『週刊朝日』で屋外での立小便がおおきくあつかわれていたそうで、「たまに共同便所があっても、黄金水の洪水で、底に穴の開いた安靴では踏み込むことは愚か、近寄ることすら出来ぬ。焼け跡の立ち小便こそ便利なれ、よくぞ男に生まれけるだ」なんてさらりと川柳さえ詠まれているんだとか。

 山田風太郎氏は立小便の理由をとくに語っていませんが、行為自体はざっと見たかんじ1946年1月11日の『戦中派焼け跡日記』にて浜松駅で電車を待つあいだ駅外で立小便をした・群衆の立小便姿を確認した記述をのこして以降、なさそうです。

 

      ・(N)徳川夢声が見た便所の中という国家安泰とその破綻

 弁士・徳川夢声さんの大小便の記述もおもしろい。

 昭和16年12月8日真珠湾侵攻)~昭和20年3月31日東京大空襲までの日記をギュッと一冊に抜粋収録した中公文庫プレミアム夢声戦中日記』(21世紀になって『夢声戦争日記』から1945年4月~8月31日までを抜粋した『夢声戦争日記 抄―敗戦の記』が出て、『戦中日記』は前述抄録で扱われてない期間を抄録したもの)と、前述本の全録版のうち昭和20年1月1日~同年10月18日までを収録した中公文庫夢声戦争日記(六)』『(七)』をひらいてみても、トイレに籠っている姿は日本や遠征慰問の南方(ゴリゴリに体調を崩した結果)などあまたあれども、比喩表現として駅なかでウンコを踏む不快感が表明されることはあれども……

 放送を終り(宮本武蔵が二刀の原理を把握し梅軒を斃す条)比較的好い心もちで、寒月の美しさを楽しみつつ、新橋駅へ来ると、出札口の少女にすっかり腹を立てさせられた。実に無礼千万な口の利き方をするのである。(略)

 癪に障る言葉を打ちつけられて、腹の立つという事は、ウンコを踏みつけて、ウワーッと厭な気もちがするのと同じようなものである。これは感覚的なものだ。つまり私は、今日運わるくも、出札少女の言葉のウンコを踏んだ訳である。(略)

 なアに、ウンコだって、分析して見れば、皆綺麗な元素の集りだ、などと私には済ましていられない。ウンコはウンコである。肥料にでもする場合の他は、汚ながるのが当然であろう。

   中央公論社刊(中公文庫)、徳川夢声夢声戦中日記』kindle83%(位置No.6144中 5092)、昭和十九年(1944)12月30日の日記より

 ……野便と断言された記述はありません。

 時々ウトウト眠ル。尻ノ痛イコト。一時間半延着シテ十二時頃上野駅下腹キリキリ痛ミ駅前ノ井筒屋ニ飛ビ込ム。十四時頃帰宅。

   夢声戦中日記』kindle74%(位置No.6144中 4496)、昭和十九年(1944)9月29日(文字色変え・太字強調は引用者による)

 丸ビルの地下室で小用を足し、地下道を通って東京駅前に出る。団員が棒をかまえて、乗車口をかためている。仕方がないから地下道の石段に腰をかけて一服やり、岩波文庫の「人文地理」を読み出した。丁度それは交通に関するくだりであった。

   夢声戦中日記』kindle77%(位置No.6144中 4688)、昭和十九年(1944)11月1日(文字色変え・太字強調は引用者による)

 ……便所まで我慢できていそうな感があります。

 以下の、昭和二十年(1945)7月10日の以下の記述に如実ですが……

 右の如き状態が、十七時頃まで続いた。朝から十二時間連続の空襲である。

 午後になると、子供たちは平気で大通りに遊び、大人は平常の通りに用を足す。ラジオは絶えずジャーとブザーを響かせ、刻々と戦況を放送しているんだが、気のぬけた野球放送ぐらいにしか、関心を持たないようである。

   夢声戦争日記(七)』p.19、昭和二十年(1945)7月10日(文字色変え・太字強調は引用者による)

 ……「便所に入れた」という記述ってこれはこれで平常や秩序の感があり、夢声氏のそれに至っては外と隔絶された安全な映画館、果ては国家安泰の意味合いさえ帯びています。

 あとからあとからとやってくる編隊。いずれも防空壕に入らねばならないような進路ではなかった。私は二度ほど危険を感じて、防空壕に飛びこんだ。もっと馴れていたら、これとてもあわてる角度ではなかったかもしれない。

(略)

 第七編隊の来る時など、私は便所にしゃがんでいた。ラジオによって、それが間もなくくることは分っていたが、どうも入りたくなったので構わず入厠した。すると半鐘が忙がしく鳴り出した。中途で出るわけにもいかないので、私は手をのばし頭上前方のガラス戸を左側に寄せた。とたんに美しいB29の編隊が、区切られた青空の部分を通った。(略)

 頭上ニ編隊ガ来タ時ハ、少々ハラハラスルガ、コレトテモ、映画ヲ見テイテ、ハラハラスルノト大シテ変リハナイ。ソレガアルカラ一層面白イワケダ。

   夢声戦中日記』kindle82%(位置No.6144中 5029)、昭和十九年(1944)12月27日

 紅い鉛筆を便所に持ちこみ正面の壁に貼り付けてある世界地図の、フイリッピン、スマトラ、ボルネオ、ニューギニアビルマ、マライなどに色をつけた(略)

 やっぱり濃い水彩絵の具でないと駄目だ。それなら予想していたような、日本領土拡張の壮観となるであろう。殊にフイリッピンなどは意外に小さな島が無数にあって、とても先の円い鉛筆の芯では駄目だ。

   夢声戦中日記』kindle38%(位置No.6144中 2303)、昭和十八年(1943)6月26日

 

 夢声氏の日記に糞便が実体としてよく出てくるのは、自宅菜園の周辺です。

  九月

 二日(土曜 曇 爽涼)〔放送「勝利の日まで」〕

(略)

 肥料運ぶ足に邪魔なり友禅菊

 下肥てふもの始めて汲むや秋曇り

 オワイ屋を終へて茶を入れ甘納豆

 焼物の如き南瓜の蔕(へた)の艶

(略)

 生れて始めてオワイ作業をやる。別に命じた訳でないがと妻と明子が手伝う。妻が汲み出す、明子が運ぶ、私が畑へあける、笑い声が絶えない作業だ。雨水が混ってるせいか、意外に臭くないドボドボとあける時、ハネかるのが一番苦手である。一気に約一ヶ月分を処分して了った。案ずるより産むが安く、なんだこんな事かと、聊張合いぬけを感じたくらいだ。

   夢声戦中日記』kindle73%(位置No.6144中 4435)、昭和十九年(1944)11月1日の日記より

 夢声は糞便に慣れ、堆肥として馴らしていきます。

 堆肥仕事へ従事したひとびとの記録はあれこれあって*10夢声氏の悪臭にたいする慣れと工夫はzzz_zzzzが知るなかだと『戦争が立っていた 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦中編に寄せられた神奈川県横須賀市から同県高座郡小出村のお寺へ疎開した少女も似た感覚ですが……

 畑の作業の一つに肥料まきがある。(略)肥料はもちろん下肥。長い柄のついた大きなひしゃくで、トイレの中をかき回し、三つのトイレから汲み取り用の桶に汲み取るのである。

 それを棒の真ん中にぶら下げて担ぐのである。九つや十の女の子が、下肥を入れた桶を二人で担ぐ。都会育ちの私達にはもちろん初めての経験である。汚いとか臭いとか、そんな感覚はとうに麻痺してしまい、どうしたら無事に畑まで運べるかで頭は一杯であった。

 畑までは、急な坂道を登らなければならない。背の高い人と低い人が組み、坂道で平均がとれるように知恵を出した

   暮しの手帖社刊(2019年5月24日初版一刷)、暮しの手帖編集部『戦争が立っていた 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦中編』p.124~5、木村節子「おこげにぎりを頬ばりて」

 ……さすがに夢声氏のようなさかしまな変容は見せていません。

 氏は悪臭について「鮮やかな臭い」だと方便を垂れて隣人の笑いを獲り夢声氏は出演舞台のウケ具合を都度書いている人です)、それどころか「芳香だ」と感じるようになります。

 下肥を汲むつもりで、掃除口を開いて見たが、きれいに汲み取られている。失望した。人参の種、胡瓜の種を播くのに、どうしても要る(と独りぎめでそう思ってる)。孟宗竹の林(七本しか立っていないが)の傍に、埃捨用の大穴があり、そこに黄色い蠅が沢山とまっている。一昨日だったか汲みに来た爺さんが、この穴に捨てたらしい。シャベルを入れると、夥しい糞塊がある。これを掬って、堆肥の泥とこねこね合せる。妻がそこへ来て「凄い臭いね」という。「まったく鮮かな臭いだ」と私も言う。生垣の向うで高崎の婆さんが、このアザヤカで笑い出した

   夢声戦争日記(六)』p.195~6、昭和二十年(1945年)4月16日

 肥壺には、たまり水に鰊を入れ、池に浮いてた小猫ほどある鼠の死体を入れ、小便をたらしこみ、小雀の死体を入れ、それに先日のこと汚ワイを大バケツに二杯ほど入れた。汚ワイを入れるまでは悪臭鼻をついて不愉快になった。だが、汚ワイを入れると悪臭でなくなった。健康な肥料の香りとなったのである。(略)先がぬらつき、あとで洗濯󠄁石鹼で洗っても、中々臭いが落ちない。昔なら不潔感でうんざりするところだが、近来はまず平気である。便所に入っていて、糞の香りを快よく味わうようになった。健康なる糞臭は芳香である。

   夢声戦争日記(六)』p.246、昭和二十年(1945年)5月23日

 夢声氏は糞便から堆肥への変換に幾何学的な秩序を見出しさえします。

 午後ハオワイヲ汲ミ、壺ノ腐水ト混ゼテ、大根、馬鈴薯、トマト、春菊、胡瓜苗、菁ナドニ肥料ヲヤル。オワイガ手ニツイテモ段々平気トナル。足ヲ洗ワヌウチ風呂ヲ沸カス。

(略)

 桜樹の根元の肥料壺には、鰊のプンと来たのや、池に浮いていた鼠の死骸など投げ込んであるが、この汚水の臭いたるや全く鼻が曲がりそうである。所が、この臭くて堪らぬ汚水と、汲みたての臭くて堪らぬオワイを混ぜるとピタリと厭な臭いが止る。私の鼻が馬鹿になってるせいでなく、庭に出て来た富士子が「あらちっとも臭わないわ」と感服したのが、その証である。

 人間の組み合せも斯のような場合があるようだ。厭な奴と厭な奴とが二人一緒になると、その厭な感じが消える時がある。

 代数のマイナスとマイナスをかけると、プラスになるのと何所か似ている。毒を以って毒を制すという言葉もこれに関連がある。

 便所に安線香を焚くと、自分の便が芳香を放つ。

   夢声戦争日記(六)』p.266~7、昭和二十年(1945年)6月1日(略は引用者による)

 この堆肥と人生にたいする夢声式掛け算はすさまじい。

 昭和十九年の年末に出札少女の概念的ウンコについて「厭な気もち」となり汚ながっていた夢声氏は、それから半年してついに全ての「厭な感じ」を御す心のすべを体得してみせたのです。

 

 そんな便所の秩序が、終戦間際になると揺らぎはじめ……

 便所に這入る正面の壁にある世界地図、ビルマフィリッピン、マレイ、スマトラ、ジャバ、セレベスなど、赤線の輪郭がつけてある――吾が占領地帯である。未だこれらの地方には、吾軍が頑張っている。妙なものだ。嘗ては毎日好い心もちに眺めていたこの図であるが、そのうちに見るに忍びない日が来るであろう。

   夢声戦争日記(七)』p.98、昭和二十年(1945年)8月13日

 ……堆肥への信頼が、その二日後「正午、天皇陛下ノ御放送アリ」p.110の8月15日終戦日、脆くも離れ落ちてしまいます。

 数日前から、急に艶を消して了った、吾が菜園唯一の日本南瓜の、径二寸ほどになったウラナリの実が、今朝見るとホロリ、地に落ちていた。その上の方についてる、同じくらいのウラナリの実も、色が悪くなっているから、試みに少しく揺すぶってみたら、脆くも蔕(へた)から離れ落ちた。

(略)

 この日本種南瓜は、私が播いた種から生じたのでなく、おそらく去年、拙宅で食べた南瓜の、種が自然とここへ落ちて、芽を出したものであろう。一時は十個以上も生(な)りそうな勢いで、他の西洋南瓜を尻目にかける景観だったが、それが結局、どの雌花も成功せず、竟にモトナリ一つと相成った。

 時も時だ。日本は結局、本州、四国、九州、北海道とモトナリだけになって了ったが、吾家の日本南瓜も、今朝、台湾、樺太のウラナリが落ち、その前に満州、北支、中支、南支、仏印、マレイ、ビルマフィリッピンスマトラ、ジャバ、セレベス、ボルネオ、ニューギニアなど、雌花はつけたが、結局、モノにならず散り去った

 さて問題は、あれほど勢威隆々たるかに見えた日本南瓜が、なぜ急にヘナヘナとなって、あわれモトナリ一つになったかという、その原因である。

 第一に、生る上に鈴生りにしようとて、八月四日に追肥をしたが、これがいけなかったか?(アンマリ戦果ヲ慾張リ過ギタノガイケナカッタ。)

 第二に、数日前のこと、根元の方から出ている蔓を全部切ってしまったが、これがいけなかったか? そうすれば実の方にだけ養分が行ってよかろうと私は思った。(軍ダケニ養分ヲ集中シタツモリ、コレガイケナカッタ。)

 第三に、モトナリ南瓜があまり大きくなったので、自分の蔓の力では持ちきれまい、と思ったので植木鉢の上に据えてやった。それがため、彼自身を支える力が無用となり、その力を急に他へふりむけた、それがいけなかったか?(特権ニ甘ヤカサレテ、軍ガノサバリ、ソレデ他ノ機関ハ駄目ニナッタ。)

 まア、素人百姓が考える理由は、右の三ヵ条ぐらいだが、実はこの三つとも真の原因でなく、もっと重大な理由が、隠れて存在するのかもしれない。

 そこで私は気がついた。たかが南瓜のことさえ容易に分らない。況んや一国が敗戦におちこんだ理由など、却々もって分る筈がないではないか。

   夢声戦争日記(七)』p.111~113、昭和二十年(1945年)8月15日

 終戦をむかえ、大本営発表の噓八百噓四百に憤り*11日米の物量精神にかんする夢声式掛け算でもって負けを納得痛罵した翌9月*12夢声氏はこれまでどおり仕事に出ます。その日の職場・新宿松竹は焼跡小便をするひとびとと目と鼻のさきの空間でした。

 九月

 一日(土曜 時雨 涼)〔新宿松竹第二日〕

 南瓜ノ雌花、廂ヨリ数条垂れし蔓ニ、二輪咲ケドモ雨デハ流レテ了ウベシ。一寸風流ナル眺メ也。

(略)

 十四時半楽屋入リ。浪曲ノ男、私ノ煙管ヲ奇麗ニシテクレタガ、ツマラセテ了ウ。貞鏡君ハ義士伝ヲヤッテ居ル。義士伝ノ中デアマリ忠義忠義トイウ言葉ガ出ルト変ダト当人言ウ。二階三階ノコンクリート席カラ、楽屋ガ見エルノデ、ソノ空所ニ代ル代ル自分ノ洋傘ヲ展ゲテ視線ヲ防グ。便所ノ焼跡ヘ来テ客ノ一人ガ小便ヲスルソノ間吾等ハ横ヲ向イテイル

   夢声戦争日記(七)』p.178、昭和二十年(1945年)9月1日

 10月の福島から仙台までをまわる地方巡業の序盤の宿で、自分も共演経験がある名スターたちの写真と思わぬところで再会します。

 風呂ト便所ノ入口ニ双葉山山田五十鈴長谷川一夫ト各々、座主ガ並ビテ撮リタル写真、額ニ入レテ掲ゲアリ。風呂モ炊クバカリニシテアリシヲ、意地悪ク止メニシタル様子。

   夢声戦争日記(七)』p.265、昭和二十年(1945年)10月8日

 夢声氏のその後の日々は声自伝(下)昭和篇(2)』でいくらか知ることができ、そこには10月30日の帰路が記されています。

 もう、金輪際貨物列車には乗るべからず、私はかたく心に誓ったことである。

 暗やみ地獄、塵埃地獄、毒ガス地獄(アンモニア瓦斯、メタン瓦斯、それに煙草のけむりが飽和状態)罵倒地獄、毒舌地獄、愚痴地獄、悲鳴地獄、突き合い地獄、踏みっこ地獄、そして尻痛地獄である。

 (略)そのうちに夜が明けたので、私は小便をするため線路へ飛び出した

   講談社刊〔2020年5月1日電子版発行、{底本は1978年の紙版(さらに元は1963年早川書房版)}講談社文庫}、徳川夢声夢声自伝(下)昭和篇(2)』kindle版39%(位置No.4834中 1831)、「人間貨物車」より

 行きの旅中で風呂便所の入り口の住人となった仲間の写真を見、そして帰りの旅中では馬用の貨物列車を改編した臨時列車に揺られた夢声氏は、ついに野便の行動を記すのでした。

 

 そもそもどうして都会のひとびとも堆肥をつくる日常をはじめたんでしょうか? いちばんは食糧不足の解消なんでしょうけど、場所によってはインフラの破綻*13への対処としての面が見えもします。

 妻が「お父さん、その側溝の上を利用して野菜を作ろうよ」(略)妻は農家出身だったので「土をたっぷり盛って、土のなかへ肥料になりそうなごみなどをなんでも混ぜれば、なんとかなるでしょう(略)」といいます。そういえば、近頃ごみやさんもめったに来ないし、ごみ箱の中はたまる一方だから、ごみも減り、堆肥の代りになるなら、こんなことはいいことはない

(略)

 木枯が吹いて寒くなってからは、冬眠状態に入りました。汚物の汲取りやさんも、来る日がだんだん遠のくようになり、農家は別として、一般家庭では大変困っていました。私の家も例外ではありません、時々あふれでるので、ほんとうに困りましたこれをなんとか処分しようとおもい、春になったら、家の西側にある防空壕の上から、物干場まで菜園にしようと考えました。

   暮しの手帖社刊(1969年8月15日初版第一刷、2018年8月15日電書版)、暮しの手帖編集部編『戦争中の暮しの記録』p.146、「路傍の畑」章内、埼玉県・内田長三郎「どぶ板の上にも野菜はそだつ」

 こうやっていくつかの述懐を読み並べてみると、たしかに、立小便とは焼跡や戦争の荒廃がもたらした一現象だったのかもしれませんね。

 

      ・(N)猫の大虐殺と15~18世紀仏人のマンタリテ、ポルノサイト検索数と21世紀米人の失業率;『猫の大虐殺』、『誰もが嘘をついている~ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性~』

 の大虐殺』を著した歴史学者のロバート・ダーントン氏はその一編「農民は民話をとおして告げ口をする」で、後世に流布したバージョンであることも気にせず解釈対象として取り上げた精神分析学者エーリッヒ・フロム氏とブルーム・ベッテルハイム氏らが『赤頭巾』にみられるとする「原始社会の集団的無意識」「存在しない象徴を超人的敏感さで嗅ぎとっ」「架空の」創作であるかを述べ*14、フレーザー氏やユング氏あるいはストロース氏らの信奉者が活気づく時空間性を欠いた<原物語>の類いへの愚痴を述べたあと*15、出所のはっきりしている近世初期フランスに伝わっていた民話の独自性を掬ったうえで、「疫病と飢饉がフランス北部の人口を激減させ、貧民は皮なめし業者が通りに投棄てた屑肉を拾って食い、草を口に含んだ死体が幾つも発見された。母親は養うことのできない幼児を<風雨にさらした>」p.37アナール学派が掘り起こしたその時空間の農民社会と照らし合わせ、そうした細部から、「謝肉祭のあいだは社会秩序を逆転させて浮かれ騒いでも、四旬節に入れば再び古い秩序が力を取り戻す」p.90世界で潜在的な急進主義の兆候というより、むしろ体制内で生きるための道案内」p.90としての「詐術」p.90によってラブレー流の哄笑」p.90をおこなう、15世紀~18世紀末のフランス農民の<精神世界(マンタリテ)を見出し。

 つづく「労働者の叛乱」で、ニコラ・コンタ氏が体験記をのこした1730年代後半パリのサン・セヴラン街印刷工場でおこった「猫の虐殺」に、それと同じマンタリテを見出しています。

 「靴直しが質の劣った肉片を食べ、石工や大工が喧嘩に耽っているあいだ、(略)田舎の居酒屋へと日曜日の散策に出かける」p.135印刷工がおこなったその所業を、「謝肉祭と四旬節p.127の祝祭の儀式・(印刷工の守護聖人である)ヨハネの祝祭にも登場する」p.129猫の焼き打ちと重ね、ラブレー的な笑い」p.149と表現してみせます。

 

 また、もが嘘をついている~ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性~』著者セス・スティーブンズ=ダヴィドウィッツ氏は、インフルエンザについて"「風邪 症状」とか「筋肉痛」などの検索は流行拡大の勢いの重要な指標であること"*16をつきとめたGoogleの技術者ジェレミーギンズバーグ氏の研究に触発されて、失業率と関連する検索ワードがないか調べました。

 その結果、ギンズバーグ氏の研究結果やダヴィドウィッツ氏がGoogleチーフ・エコノミストであるハル・バリアン氏との共同研究でつきとめた住宅相場の上下局面でそれぞれアメリカ人がよく検索かけるワードとは一風ことなる意外な(しかし言われれば名徳の)ものが失業率と相関ある語として浮上させました。

 私が調べた期間で最も多かった検索ワードは――そしてこうした単語は移り変わるのだが――「スラットロード(Slutload)]だった。そう、最も検索された語句は有名ポルノサイトの名前だったのだ。意外かもしれないが、失業者はおそらく暇を持て余している。多くは家に閉じこもり、一人で退屈しているのだ。他に失業率と相関性が高かった検索語句は「スパイダーソリティア」だった。これも暇つぶしを求めている人を思えば不思議ではない。

   光文社刊(2018年4月27日刊)、セス・スティーブンズ=ダヴィドウィッツ(酒井泰介訳)『誰もが嘘をついている~ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性~』kindle20%(位置No.4896中 919)、「第3章 何がデータになるのか――驚くべき新データの世界」、失業者が検索してる意外なワード より

 立小便や野糞の行動・目撃記述を場所と時間ふくめてプロットしたら、写真のないところまでカバーした(駅と)焼跡の地図ができそうな気がするんですけど……

 ……実際どうでしょうね?

 

 

  黒澤明素晴らしき日曜日』を観て『戦災殃死者改葬事業始末記』を読みたくなり……

 黒澤明晴らしき日曜日』(1947)は、オールロケ映画だそうで、終戦直後の混乱・困窮がおおきく扱われている。主役である若い男が街で待ち合わせをしている途中、街頭におちたタバコの吸い殻を拾うところから始まるところからしてオッと思う。

 過日、芳町の家からの帰り、東京駅で中年の男が歩廊に眼をキョロキョロやって、煙草の吸い殻を探して拾っているのを見かけた。

 戦前にはなかったことだ。乞食が木片や吸い殻を拾うのは戦前でもあったが、乞食ではない者が乞食のようなことをするに至ったのは最近の現象だ。

   文藝春秋刊(文芸ウェブ文庫版、2002年11月30日第四版)、高見順『敗戦日記<新装版>』kindle81%(位置No.5150中 4157)、「昭和二十年十月十八日」より

 作家の高見順さんが『敗戦日記』のなかで、ふつうのひとが道端に落ちたタバコの吸い殻を拾うさまを以上のように「戦前にはなかった」「最近の現象だ」と記していたからです。

 

 途中、子供にまじって野球をするシーンがあるんだけれど、周囲にはくずれた石壁の見える建物跡があったりして、この平地はいかようにして生まれたのか、ちょっと気になったりもしましたね。

 野球といえば、戦時下の埋葬・戦後の公共空地整備事業(戦災死体改葬事業)にたずさわった公園課の役人さんがたによる回顧録・東京都慰霊協会災殃死者改葬事業始末記』には、東京で野球をする危険性がかたられているらしい。

kmoto.exblog.jp

 敵性娯楽だから、みたいな話ではなくて、被害者の埋葬地にこまった都が公用地や公園を埋葬場としてえらんだものの、量が量のため地中へ収容しきれず、地面から骨が出ていた、そのためスライディングなどをすると引っかかってケガしてしまう……というおはなしみたい。

 

   ▼(N)……読んだ。バーホーベン的な身も蓋もなささえ出る、そうならざるをえない慰霊する暇のない死屍累々

 回顧録を読みました。

 公園とスポーツ、そこから露わになる過去……という点では、錦糸公園のトピックも印象的だった。1951年よりさらにあと、改葬が全部おわった時分に、くだんの公園ではローラースケート場ができあがる話がもちあがったものの、造成途中で取り止めになったのだと云います。

 小栗 (略)それから錦糸公園ですが、既に仮埋葬してあった跡地にローラースケート造成工事するため、8トンのローラーをかけていた所、ローラーがストンと落ちて動かない。"おかしい、この下を掘ってみて下さい。このローラーは故障するようなシロモノではないんです"というので、掘ってみたら遺体が出て来て、冷汗をかいたことを覚えてます。(略)

 北村 私にも覚えがある。二十六年頃でしたか。

 小栗 もっとあとです。改葬が全部終ってからです。改葬の時、わからないで堀り残したものです。掘り残したとしてしまうと問題があるので、何となく処理しました。(略)

 野崎 それは仮埋葬の時、遺体を納れてすぐ土盛りせずに、あとから土盛りしたため、前に納れたのが落ちて平らになってしまったんです。アトの人が盛土する時もわからないんです。

   東京都慰霊協会刊{昭和60年(1985年)8月発行}、『戦災殃死者改葬事業始末記』p.12、昭和57年1月26日・後楽園 涵徳亭開催の座談会聴取録より、慰霊協会常務理事北村氏、北部公園事務所(上野)小栗氏、南部公園事務所(日比谷)野崎氏の言(略は引用者による)

 

 読んでいて重たい気分になるのは埋葬・改葬の身も蓋もない作業ぶり――というか、そうせざるをえない環境ですね。

 さきほどリンクを張った『私の引き出し』さんでも触れられていたけれど、埋葬の人足はおもに失業対策事業によって確保した雇われ人夫で、「一人当たり一日〇・〇一勺ときめられ」*17た配給の「焼酎が貰えるというので人夫が集ったこともあります」*18。そして失対人夫が目当てにしたのは焼酎だけではなかったんだとか。

 北村 金歯があった筈だとか何とか、文句はなかった?

 小林 遺骨を引渡す時は、そうしたトラブルは余りありませんでしたが……。

 小栗・野崎・青木 金歯では困りました。何回警察に呼ばれたかわかりません。改葬工事の最中に……。

 北村 後の事ですが、都議会で、瑞江ではどうしているか、と問題になった事があった。

 新堀 瑞江ではなく、改葬工事の時です。(略)失対人夫がやったことだろう。

(略)

 山中 大空襲のあと、仮埋葬するのに挺身隊の方々などに手伝って貰ったんですが、相当の札束を持って死んでいる人がいました。それを目当てに来る連中もいたので、仕方なく警察に立会って貰いました。時計や位牌、札束などを背負っている人が沢山いました。

   『戦災殃死者改葬事業始末記』p.18、慰霊協会常務理事北村氏、公園緑地課・小林氏、北部公園事務所(上野)小栗氏、南部公園事務所(日比谷)野崎氏、青木氏、西部公園事務所(井ノ頭)新堀氏、瑞江葬儀所山中氏の言 (略は引用者による)

 とりわけ興味ぶかかったのは、「コンビーフ」に対する扱いについて。「まさに缶詰のコンビーフそっくり」だったからそう呼ばれた「半腐れの肉片」*19により、小林氏はお香のありがたみを知ったのだとか。

 小林 穴を掘っていると、自分の横に屍体の顔がヒョイとのぞいている。あれをみると、この仕事は並大抵なことじゃあないと思いました。何とも言えない異臭のため気持がわるくなって倒れそうになる。そのとき、お線香を立てると、その臭いが消える。私は初めて線香の効力の大きなことを感じたものです。

   『戦災殃死者改葬事業始末記』p.15、公園緑地課・小林氏の言

 悪臭消しとしての線香の有用性。同時期の家屋では芸人の徳川夢声さんがじぶんの糞便の臭い消しに安線香が有効だという日記をのこしていたりしていたものの、ここまでくるともうポール・バーホーベン監督作のひとネタという感じに読めますが、じっさいの座談会の空気が気になる。

 そのほか、警官さえ職務放棄する心霊騒ぎ、官民による米軍兵の遺体処理についてなど、興味ぶかいお話がいろいろありました。

 

 

 ■ネット徘徊■読みもの■

  春樹は道頓堀に飛びこむか?

 宮崎駿さんとおなじくらい、村上春樹さんもまた公共財(おれやおまえのおもちゃ)にされている気がしますね。

 

 ***

 

 ノーベル賞が発表される夜に道頓堀で待機する村上春樹さんが、面白𝕏ユーザーの皆さんがたのあいだで話題で……

 ……「道頓堀へダイブした村上春樹のパンパンに腫れた陰茎からこぼれる謎の緑色の膿、まできたら文学なのではないか」と大盛り上がりでした。

 あれあれ(やれやれの語感で)とか言うんだろうか?

 

www.yakult-swallows.co.jp

 僕は子供の頃、阪神間に住んでいたので、暇があれば甲子園球場に試合を見に行きました。当然ながら小学生の頃は「阪神タイガース友の会」に入っていました(入ってないと学校でいじめられる)。

   東京ヤクルトスワローズ、『名誉会員・村上春樹さんメッセージ』、第1回「球場に行って、ホーム・チームを応援しよう」

「長年のヤクルトファンであり、少年時代は阪神が負ければ父が荒れ、阪神友の会に入ってなければ同級生からイジメられてしまう地域で育った村上氏にとって、甲子園球場の蔦だらけの壁は、一見、やわらかく小さな卵を砕く"硬い大きな壁"だったのではないか?」

 なんてちょっと疑問に思うわけですが、直上で引用したスワローズ公式に載せられたメッセージは……

入場券を手に握りしめて球場に入り、階段を上っていって、目の前に外野の緑の芝生がさっと鮮やかに開けるときの感動は、何度経験しても素晴らしいものです。

   東京ヤクルトスワローズ、『名誉会員・村上春樹さんメッセージ』、第1回「球場に行って、ホーム・チームを応援しよう」

 ……とつづく。エッセイ集上朝日堂の逆襲』をひらいてみると、その情景が読んでいるこちらの脳裏に浮かぶような「天国」ぶりが振り返られています。

 子供の頃、家が甲子園球場からわりに近かったので、夏になると自転車に乗ってよく高校野球を見に行った。高校野球の外野席はただだから、子供にとってあれは天国のようなものである。ビニール袋に入ったかちわり氷をなめたり、溶けた氷をストローで吸ったり、頭にのせて冷やしたりしながら、丸一日飽きもせず野球を見ていたものだ。

   新潮社刊(新潮文庫)、村上春樹『村上朝日堂の逆襲』kindle48%(位置No.2719中 1281)、「夏の終わり」より

 現実はなんとも複雑だなぁ。

 

 大人になった村上氏にとっては更なる憩いの地になっているようにさえ見えます。

 境・近境』をひらいてみましょう。

 海外旅行が特別でなくなり、"過度の思い入れとか啓蒙とか気負いとかを排して、いわば「いくぶん非日常的な日常」として旅行を捉えるところから(略)始まらざるを得ない"*20時代のこの旅行記は、ひさしぶりに故郷をあるく章によって幕を閉じられます。

かつてよく歩いたはずの道なのに、さっぱり記憶がないのだ。「どうしてこんなに見覚えがないのだろう?」と僕は不思議に思う。いや正直なところ、混乱したといってもいいくらいだ。まるで家に帰ってきたら、家具が全部入れ替わっていたみたいな感じだ。

 でもその理由はすぐに判明する。空地の場所がネガとポジみたいに入れ替わっているのだ。つまりかつて空き地であったはずの土地がもはや空き地ではなくなって、かつて空き地でなかった土地が今では空き地になっている。だいたいにおいて前者は空き地が宅地に変わったためであり、だいたいにおいて後者は大震災によって古い家屋が消滅したためである。それら二つの作用が(前後して)重なり合うことによって、僕の記憶の中にあった過去の町の光景はいわば相乗的に架空のものとなってしまったのだ。

   新潮社刊{新潮文庫、2012年4月発行第18刷に<新装版>(1996年2月)掲載の写真を一部追加した電書版(2016年12月23日発行)}、村上春樹『辺境・近境』kindle91%(位置No.3065中 2785)、「神戸まで歩く」

 記憶とさかしますぎてあたかも「架空のもの」となってしまった町の衝撃を、村上氏は野球をからめて語ります。

 僕がかつて住んでいた夙川近くの古い家もなくなっていた。あとにはタウンハウスのようなものが建ち並んでいた。近くにあった高校のグラウンドは、地震罹災者のための仮設住宅になっており、僕らが昔野球して遊んだあたりには、そこに暮らしている人々の洗濯物や布団が所狭しという感じで干してあった。じっと目を凝らしてみても、かつての面影はほとんどない。川の水は以前と同じように澄んで美しかったけれど、あまりにもきちんとコンクリートで川底が固められているのを見るのは、何かしら奇妙なものだった。

   『辺境・近境』kindle92%(位置No.3065中 2792)

 川や海さえ変えてしまった列島改造ブームなどを「暴力装置」と、芦屋の浜にできた高層アパートを「モノリスの群れのようにのっぺりと建ち並んでいる」と形容する異境にあって、村上氏はついに永遠を見つけます。

 甲子園球場は僕が子供だった頃とほとんど同じだ。まるでタイムスリップしたみたいな懐かしい違和感――奇妙な表現だが――を、僕はひしひしと感じることになる。(略)グラウンドの土の色も同じ、芝生の緑色も同じ、阪神ファンも同じ。地震があっても革命があっても戦争があっても、何世紀たっても、阪神ファンの姿だけはおそらく変わらないのではあるまいか

   『辺境・近境』kindle93%(位置No.3065中 2835)(略・太字強調は引用者による)

 阪神ファンに対するブ厚すぎる信頼感。

 阪神ファンの不変性を利用した形状記憶素材とか、なんかそういったものによるハンシンパンク作品がいけるのではないでしょうか。

 ワイド・スクリーン・バロックでも可。涙を誘発させれば必ず甲子園の土を持って帰る高校球児の帰巣性を利用することでワープ航法が可能となった世界のはなし――なづけて『虎よ! 虎よ!』とかいかがでしょうか。

 

 

 ■読みもの■

  春樹の歩き寝転がった、「南部高速道路」めいた国鉄中央線

 以前国鉄中央線の線路わきに住んでいたことがある。それもちょっとやそっとのわきではなくて、裏庭を電車が通っているといってもオーバーではないくらいのわきである。

(略)

 だから我々(というのは僕とつれあいのことですけれど)は毎年の交通ストがすごい楽しみだった。

   新潮社刊(新潮文庫)、村上春樹『村上朝日堂の逆襲』kindle7%(位置No.2719中 171)、より(略は引用者による)

 村上春樹さんによる異国でのエッセイも、地下鉄サリン事件関係者に取材したンダーグラウンド』も読んだことがあるけれど、氏の日常をつづったものは読んだことがないな。

 てことでポチッてみました。

 『日刊アルバイトニュース』やら『週刊朝日』やらでの連載コラムということで、文量の関係からか一コラム一コラムはあっさりしているのですが、とぼけた語り口や視点に合っていて。そして、のほほんとしながらも注視すべきときが来れば精細になり、外の世界を覗きたい知識欲も満たされ、良い塩梅。

 

 ただ、そうしてフォーカスが合わせられた事象は、先述した甲子園観戦のくだりのような地に足のついたものもあれば、これまた先述した放浪の果てにたどりついた甲子園球場のようにその足や地がいかに浮いてるかが際立つものもある。

 上朝日堂の逆襲』所収の「交通ストについて」は後者の代表例。

 「こういう発言をすると電車通勤をされている方はあるいは不快にかんじられるかもしれないけれど、」と前置きしつつもはっきり交通ストが好きだと開口した村上氏は、「以前商売をしていた頃、交通ストがあるとほとんどお客が来なくて営業的には迷惑した」とつづけ、さらに新聞に載る声の一例としてホカホカ弁当屋さん(45歳)「商売にならなくてメシの食い上げです」を重ねることで、大勢の感覚にあるていど同意してみせます。

 

 そういった実務面での迷惑についての理解をしめしたうえで、でも、いつもとは異なる視点が得られて、偶(たま)のストは楽しい……と自論を述べます。そこで回想される実体験はたしかにたのしそう。

ストが始まって列車がレールの上を走らなくなると、我々は線路わきに寝転んでのんびりとひなたぼっこをした。線路わきにはけっこういろんな野草がはえ、鮮やかな色あいの花が咲いている。頭上にはヒバリが啼き、あたりはノアの洪水が引いたあとみたいにしんとしている。このまま新石器時代に戻っちゃうのも悪くないな、という気さえするほどである。

   新潮社刊(新潮文庫)、村上春樹『村上朝日堂の逆襲』kindle7%(位置No.2719中 175)、「交通ストについて」より

 「以前商売をしていた頃」あるいは「以前国鉄中央線の線路わきに住んでいた」頃。おなじ一語でもって括られた「以前」の村上氏は、新聞へ載るような「ふつうの市民」に見えると同時に……

 (あたりがだんだん薄暗くなり、地平線まで延々と続いている車の屋根が薄紫色に染まりはじめた時、)一匹の大きな白い蝶がドーフィヌの風よけガラスの上にとまった。若い娘と技師は、ほんの短い間だがみごとなバランスを保って羽を休めている蝶をうっとり眺めた。自由な世界を懐かしく思い返している二人の目の前を蝶はふわりと飛び上がり、タウナスと老夫婦の乗っている紫色のIDの上を越えてフィアット600のほうへ飛んで行ったので、404からは見えなくなった。

   岩波書店刊(1992年7月16日第1刷、13年4月26日第13刷)、フリオ・コルタサル木村栄一訳)コルタサル短篇集 悪魔の涎・追い求める男 他八篇』p.184、「南部高速道路」

「南部高速道路」は、現代文明の隙間に生まれた束の間の原始共同体の夢を描いている。

   コルタサル短篇集 悪魔の涎・追い求める男 他八篇』p.298、木村栄一「解説」

 ……コルタサルの奇想文学部高速道路』の登場人物に見えもします。

 

 しかも後者のファンタジックな思い出のほうこそ、視覚・聴覚・触覚・温度感覚など体性感覚の描写があり、身体運動がある……という意味で地に足がついている。

 

 なんともふしぎな体験談で、氏はじっさいこれを基に短編小説も書いているのですが(『チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏』)。とはいえ村上氏が話題にしたころはこうやって世間話にするくらいストも年一くらいで起きて新聞に世論のアレコレ載る時代だったはずでもあります。

 このエッセイにかんじるふしぎさのいくらかは、どれだけ「以前」にさかのぼったってそういったものと無縁(ではないにしても、きわめて珍事)になってしまったじぶんだからこそ感じるエキゾチズムなんでしょうね。

 

 もちろん、がんばってるかたがたは今だってがんばっているわけですし、村上氏がこのコラムでしたほかの前置きを見ていくと、氏のスタンスがどれくらい普通であったかはよくわからない部分もあるんですけど。(ストが好きと言っても労働者を応援する左翼でもないし、ましてや無政府主義者でもないですよトカナントカそういう旨の話もされています。そう前置きする程度にはやっぱり、当時でも「当たり前」じゃなかったんでしょうね。

 当該コラムの雑誌掲載時期がいまいちわからないけれど、コラム掲載後半年と経たずストをきっかけとした国電同時多発ゲリラ事件がおこり、その翌年そのまま単行本収録……と考えると、のほほんとした語調とは裏腹にかなり強い主張なのかもしれない)

 現況としては、年一でさえストが行われなくなってますよね。違法労働について個人個人が訴える、位であるような。

 こういうものがたまにあった時代のひとびとから見て、今の世は/現代人はどれだけ奇妙にうつっているのかなぁ。

 

 

  『いい加減「南部高速道路」以外の話をしよう ―邦訳コルタサル短篇総解説―』ほか読書メモ  

hanfpen.booth.pm

 BOOTHでポチったモガワGブックスVol.4 特集:世界文学/奇想短編』が届いたのでちょぼちょぼ読んでいます。

 レビュー、未訳インタビュー・コラムの訳文、カモガワ編集室主催の奇想短編コンテスト受賞作と

 前半は《池澤夏樹=個人編集 世界文学全集》の叢書30冊42本のレビューがそれぞれ三段組1200~1400字くらいの分量で42ページ並んでいます。

 このボリュームのレビューを読むとですね、「やっぱりこれくらい読めると嬉しいよな」と思いますね。{『ハヤカワ総解説2000』とか『SFマガジン2019年10月号』掲載の『伴名練総解説』などメジャー誌(早川?)の"総解説"のフォーマットである400字(340~380字)は、やっぱりやれることが限られているな~と}

 あらすじ、作品評、翻訳・収録解説のバリエーションの紹介などが浚われて読みごたえがある。ぜんぶ読んだわけじゃないですが、約20名の評者がそれぞれ仕事をしている総力戦ってかんじですね。層が厚いぜ。

 

 つづいて伴名練さんによるい加減「南部高速道路」以外の話をしよう ―邦訳コルタサル短篇総解説―』が掲載されています。

「南部高速道路」には、忌まわしい思い出がある。

 というおもしろい書き出しの「前書き コルタサルとわたし」から10冊のレビューへ移っていくのですけど(「わたしがコルタサルの当該短編『南部高速道路』にまつわる苦い経験をもってる」って話なんですけど、なんか「南部高速道路」がいわくつきの作品みたく読めもする。日本語のおもしろいところですね)、BOOTHや𝕏で読めるページ以降の構成に変な笑いがでちゃいましたよ。

 コルタサルとわたし」が2段組の文章なので、つづくレビューもそれと同じ形式である程度さっくり述べていくかたちなのだろうと思いきや(文庫本の巻末解説にあるようなアレですね)さきほど見た3段組の一冊一ページ式のレビューがまた始まりだすんですよ!

 10冊10ページあるので、つまりひとりでさっきの池澤世界文学全集レビューの1/4の仕事をしてる。こわいね。

 最後をかざる『コルタサル短篇集 悪魔の涎・追い求める男』解説は、「名作選ということで(収録作についてすでに語ったあとだし)、じゃあじぶんならどんなアンソロジーを編むかを書いてみよう」とかなんかそんなかんじの旨で、存在しないアンソロジーを提示して終わります。永久機関が完成しちまったなァ) アンソロジストとしても活躍する伴名氏らしい仕事ぶり(ファンサ?)で面白かったですね。

(ちなみに次回作への言及もあり、今後の動静を知りたいかたはおポチリになられてもよろしいのではないでしょうか)

 

 字組のはなしばっかり言っちゃうと……

 ……蟻塚とかげーマック・マッカーシー全長編レビュー」など上下2段組のコラムは力入ってねーのか、みたいな疑問がうまれてしまいますが、そちらも面白かった。

 既読の作品のレビューだけさらっと読みましたが、ある作品のシーン描写を引用しそこへ被写体の重なる未訳作のシーン描写を引用比較することで、それぞれの表現・趣向のちがいをピックアップする……というたいへんな仕事をされてました。

 木村夏彦「"進作家"、レジェンド・エリスンに噛みつく? ――ハルキムラカミによる若干のSF批評に就いて」は、村上春樹さんの作家個人の本に未収録である掌編コラムを掘り出した木村氏がその内容を引用紹介し、そこで提示された価値観から村上氏のSF趣向のつよい作品への導線をつけるというもの。

 さてzzz_zzzzはこの項の上の項で、予防線をはりかさねる「交通ストについて」の書き味を語りましたが。エリスン作品評は、それと同じ人が書いたと思えないほど、たしかに「噛みつく」としか言いようがないほど牙がむきだしだし、春樹氏のSF観にも「へぇ~!」てなったし、これまた面白かったです。

 (2024/01/24追記)

 百聞は一見に如かず! ちょうど木村氏の別論考がネットで以下の通り再公開されたのでこちらをご参照ください。

air-tale.hateblo.jp

 中国の作家・残雪さんの日本での評価を振り返るとともに、翻訳・通訳近藤直子さんの足跡をたどることで残雪氏の日本じゃあまり知られていない一面――その創作プロセスや、評論などなど――を紹介するコラム。こちらの調査もまたすさまじく、『残雪研究』誌の近藤氏著訳一覧からも漏れた雑誌記事を掘り起こしたりしています。

 

 編者の鯨井久志さんは、ジョン・スラデック『チク・タク(以下略)』を訳した気鋭の翻訳家。

 今週末の土日12/2~3に開催(オンライン中継も!)される京都SFフェスティバルでは、しょっぱな『海外SF紹介者というお仕事』のコマに登壇予定。

 そのほか、『ARMORED CORE VI』『機動戦士ガンダム 水星の魔女』などでSF考証をつとめた作家・高島雄哉さんの登壇『SFをSF考証する』やら、気になる企画が目白押し。

 こちらもなんとか見てみたいところです。 

 

 

1130(木)更新ぶん

b.hatena.ne.jp

 このブックマークコメントをいただいた記事。

 ■ネット徘徊■読みもの■

  テッド・チャンガイナックスの相思相愛~チャンがその世界構築に最も感銘を受けた作品は、実は~

 『葬送のフリーレン』劇中にハンバーグが出てきたことにより、ネットで創作論がワイワイと盛り上がっておりますね。そんななかで……

 ……うえのようなポストを見かけました。

 これで思い出したんですが、ガイナックス立宇宙軍 オネアミスの翼の世界描写って、海を越えて高い評価をうけているんですよね。

エズラ・クライン:

 わたしもジョージ・ソンダーズ『CivilWarLand in Bad Decline』もジェニファー・イーガン『ならずものがやってくる』も両方とも大好きですね。リスナー向けに付け加えておくと、ソーンダーズは二週間後またこの『エズラ・クライン・ショー』に帰ってきます。素晴らしいエピソードだし、皆さんチェックすべきでしょう。

 世界構築(world building)についてあなたが一番印象に残っている作品はなんですか?

  EZRA KLEIN: I love both of those, and I’ll note for listeners that George Saunders was on the show a couple of weeks back. And it’s a great episode, and people should check it out. What book or film to you has the most impressive world building?

テッド・チャン

 『王立宇宙軍 オネアミスの翼』という80年代後半の日本のアニメ映画ですね。ストーリーの題材はとある国の宇宙計画で、そこは日本じゃありません。わたしたちの世界でもない。その国の技術発展レベルはこちらで云う20世紀半ば辺りにあります。そして宇宙へ行こうとしています。

 この想像上の国の物理的文化(physical culture*21のあらゆる細部がとにかく大好きなんですよ。貨幣は金属製の平たい円盤じゃありません、金属の棒なんです。そしてテレビは長方形じゃありません。陰極線管(訳注;ブラウン管。*22は完全な円形で、だからかれらは円い画面のテレビを視聴することになるんです。

  TED CHIANG: There’s this Japanese anime film from the late ’80s called “Royal Space Force: Wings of Honneamise.” It’s the story sort of a space program in this country which is not Japan. It’s not in our world. But it’s a country that is at a somewhat mid-20th century level of technological development. And they are trying to get into space. And I just loved all the details of sort of the physical culture of this imagined nation. The coins are not flat metal disks, they’re metal rods. And the televisions, they’re not rectangles. Their cathode ray tubes are completely circular, so they’re watching TV on circular screens.

 そうしたささいなディテールのすべてに――新聞紙の折りかたなんてまさにそう――わたしは本当に感銘をうけたんです。今作のアニメーター達がこの映画のために発明した、あらたな物理的文化のことごとくに。

 映画はそういった事柄が主題じゃありません。しかしアニメーターはかれらが伝えたいストーリーのための背景にすぎないものを、このような別世界として真に肉付けしてみせたのです。

*23

  All these little details, just the way their newspapers fold, I just really was impressed by the way that the animators for that film, they invented an entirely new physical culture for this movie. The movie is not about those things, but they really fleshed out this alternate world just as the backdrop for the story that they wanted to tell.

   The New York Times(2021年3月30日)、『Transcript: Ezra Klein Interviews Ted Chiang』より、エズラ・クライン氏とテッド・チャン氏の会話{訳は引用者による(英検3級)}

 ポッドキャストエズラ・クライン・ショー』に出演したなたの人生の物語』の作者テッド・チャン氏は上のとおり「世界構築(world building)について一番印象に残っている作品」として『王立宇宙軍』を挙げ、その細部を紹介、愛をかたります。

 工夫の視点をとおしてバベルの塔の特異な暮らし・光景を描いた『バビロンの塔』、子供のころから児童用ゴーレムで遊んでいた若者がゴーレム製造会社に入職、その命名(≒プログラミング)生活をとおして、前成説の世界の大騒動をえがく『七十二文字』などなど……特異な世界とその細部を描いてみせたら特級のチャン氏が讃えたとなれば、それはもう世界一の作品ってことっスよ。すげえぜ。

 

 さて『あなたの人生の物語』といえば、ガイナックスによる名作『トップをねらえ2!』最終話の引用元でもあります。

 こういうガイナックスの系譜*24の引用について……

そもそもエヴァで「世界の中心で〜」と出てきたときもちょっぴりイヤだったのだ。「かっこいいし、みんな知らんだろうから使っちまえ」的卑しさが微妙に漂っていたから。でもまあ、庵野さんSF者だし、そうとばかりも言い切れんだろう、ということでスルーしていたのだけど。

   hatenablog、伊藤計劃伊藤計劃:第弐位相』2004年6月12日「蹴りたい田中」より

 ……ぼくら(平成元年生れ)の上やらそのまた上やらの世代のオタクのお兄様お姉様がたは「気に入らない」「いやアレはいいのだ」とかなんとかワイワイされていた記憶があります。とりあえずzzz_zzzzの観測範囲では前者が優勢で、

「『エヴァ』のあのフォントは市川崑が、あのレイアウトは実相寺昭雄がえらいのであり、最終話の混乱も『プリズナーNo.6』があるなかで別に~」

 みたいな先輩風がびゅうびゅう吹き荒んでいた記憶があります。

 三つ子の魂百までとの格言のとおり、zzz_zzzzも幼き日から知ったかぶりをして長いものに巻かれて「浅いよね~」と上に立った気になり悦に浸っていたわけですが(害悪すぎる~)……まさか両者が相互に影響を与え合っていたとは。

 

 うえで参照したポッドキャスト(の書き起こし記事)ではそのほか、チャン氏は小説などを話題にしたり、はたまた『CONTROL』と『Return of the Obra Dinn』などゲームをオススメしたりもしてます{ただ、こちらの話題は、まぁ月並み。(いや、「これ一人で作ったのスゴい」みたいなお話を、チャン氏が言う重みはあるか?)

 ピクチャレスクを題材としたコラムで庭門の蝶番を楽器としたインディーズ音楽やSteamで流通してるインディゲーやらを紹介するチャイナ・ミエヴィル氏といい、アンテナが幅広いぜ。

 

 アンテナが広いというか、それぞれの作品がそれだけ射程が広いんだ、という話なのかもしれません。

 おれにとっては大事な作品だけど、さすがに万人が知ってたり俺くらい影響を受けてたりみたいなことはしないだろう……という考えは、はたして身の程をわきまえ謙遜したかんがえかたなのか? 見識不足による不遜だったりしないだろうか。

 

 

 ■ネット徘徊■

 前回更新した記事で一度はそれを挿入した形でアップしてたけど、省いたほうがチェインボーナス稼げそうだからオミットしたもの。

 

  (+)メモらなければ消え去りそうなよしなしごとについて

 先日の日記で話題にした写真集やら他者の日記やらを見ていると、昨今物議をかもしたり何だりしたよしなしごとについて、アーカイブ化しておくべきなんじゃないか、みたいなことを思ったりします。

 「美しすぎる(任意の職業)」とか、「(女性有名人)ノーバン始球式」とか{最初「ノーバン投球」て書いたけど、たぶん「始球式」だと更にバフがかかる(デバフでは? メダパニなんだから)、ご当地ゆるキャラ群、駅広告群、フジテレビ系のバレー中継で付される「二つ名」とか、最近の日本の野球中継の『パワフルプロ野球』的ステータス表示とか、ジャニーズの写真が電子メディアで収録されるさいの『かまいたちの夜』化とか。

 

   ▼(n)そしてメモるべきは多分「思った」ことも含め、高見のように。荷風のように;戦後の曲線美コンクールやエロレヴューを、荷風の戦時下の節制・抑圧嫌悪、『東京闇市興亡史』から再考する

 そして多分、メモるべきは田山花袋さんが至上とした「起こった」ことにとどまらず、高見順さんのように愚直だろうとそのとき自分が「思った」ことまで書くべきなんでしょう。

 奇怪に見える曲線美コンクールや美女コンテスト、新宿帝都座の「西洋名作物語」エロレヴューは、はたして当時のひとはどういった思いで迎えていたか? その補助線となるかもしれない日記を永井荷風さんは残しています。

三越店頭にて立ちて電車を待つ。女の事務員売子ら町の両側に群れをなして同じく車の来るを待てり。颯〻(さっさっ)たる薄暮の涼風短きスカートと縮らしたる頭髪を吹き飜すさままた人の目を喜ばすに足る。余は現代女子の洋装を以て今は日本服のけばけばしき物よりも遥に能(よ)く市街の眺望に調和し、巧に一時代の風俗をつくり出せるものと思へるなり。見るからに安ッぽききれ地の下より胸と腰との曲線を見せ、腕と脛(すね)とを露出して大道を濶歩するその姿は、薄ッぺらなるセメントの建物、俗悪なるネオンサインの広告、怪し気なるロータリーの樹木草花などに対して、渾然たる調和をなしたり、これを傍観して道徳的悪評をなすは深く現代生活の何たるかを意識せざるが故なり。

   『摘録 断腸亭日乗(下)』p.77、「昭和十四年(一九三九年)」9月15日の日記より

 ここだけ引用するとなんだか褒めてるのか無いのか判然としませんね(苦笑)

 荷風氏はたとえば金品供出令にさいし「表の金具はもとより金ぴかの物を忌み、素赤また四分一銀などを選みしがその裏座の周囲には幅輪とか称して十八金を用ひしものなきにあらず。故にこれを剝取り紙に包み晩間再び吾妻橋の上より浅草川の水に投棄てたり。むざむざ役人の手に渡して些少の銭を獲んよりはむしろ捨去るに若かず。」p.73とお上の風潮へさまざまな角度から反感をばりばりに抱いていたかたなので、たぶん褒めてる。

 戦時下の内へ内へ取り締まる節制・抑圧からの解放感とか、あるいは大量死をへて物はおろか者にも価値をみいだせなくなった無常観とか、いろんな文脈で実はくくれたりするんじゃなかろうか?

   額ぶちショーの出現

 後退する実演興行界の起死回生。混乱期に生きる庶民のカンフル剤ともいえる話題作が、昭和二十二年一月十五日、帝都座五階の小劇場に登場した「額ぶちショー」である。

 その出現は、映画におけるキス・シーンの登場も及ばぬほど大きなショックを観る人に与えた。

 その後、この種のストリップ・ショーは燎原の火のように全都を覆う。プロデュースは戦前、東宝の重役だった秦豊吉。演題は『ヴィナスの誕生』だった。(略)支持層は「進駐軍やインテリ」(芳賀善次郎『新宿の今昔』)で、"美しい裸"を観念の中で"鑑賞"することを主眼にしていた。

   双葉社刊{1999年10月5日第一刷(もとは昭和53年8月15日草風社から出版)、ふたばらいふ新書024}、猪野健治『東京闇市興亡史』p.186~7、佐藤文明闇市に「リンゴの歌」流れて」(略は引用者による)

 『東京闇市興亡史』収録の「闇市に「リンゴの歌」流れて」で佐藤文明さんは戦後GHQ統治下に解禁されたキス・シーンと並べて、荷風氏の聞いたエロレヴュー=額ぶちショーの衝撃を語ります。そしてつづいて、8月におなじ帝都座5階での初演以降1年で700余回もの公演された空前の大ヒット演劇体の門』を取り上げます……

「大衆は特別席からの訓戒や激励はきらいである。自分たちの胸の底からうめきだそうとしているものがなんであるかを知らせてもらいたいのである」(田村泰次郎『生きたいという意欲』)

 戦後、新宿の赤線近くに住んでいた田村は、女達の凄惨な、しかも力強い生き様に胸打たれた。昭和二十二年三月、『群像』に発表された小説「肉体の門」は、パンパンの生態を通して、戦後の風俗をリアルにえがき、さまざまな社会矛盾をついて人間解放をよびかけたものとしてベスト・セラーになる。

「私には帝都座五階の小劇場にいっぱいあふれていた観客の、まだ不揃いで、カーキ色の服もまじっていた光景がうかんでくるのといっしょに、女優が上半身裸になってリンチを受けるシーンで、掟のむこう側に小さな愛の灯をみる芝居の筋にひっぱられていく、意外にも静かな雰囲気があったことが思い出されてくる。私は『肉体の門』をみながら口笛ひとつきかなかった。いまから考えると、人びとはあの芝居に殺到したとき、叫んでもよかったのではないかと思うのだが、まだ、『人間!』という言葉が口ぐせのようになる前の、ふしぎなショックというところにとどまっていたのかもしれない」(尾崎宏次『戦後演劇の手帳』)

「その場面だけもう一度見たい!」真剣にそう叫んで席を立たない人もいた。芝居は一種のヌード・ショーでもあったが、それ以上に"いかに生きるか"を一人ひとりに問いかける鋭い刃でもあった。観客はそれに呪縛された。

   『東京闇市興亡史』p.189~190

 ……ただエロを求めていたのではないのだと、「いかに生きるか」を観にきていたのだと。へぇ~!

 その「生きかた」とは具体的になに? 作家・大佛次郎さんは戦後「世の中はパンパンに追落された」と日記にしたためています。

手あたり次第雑誌の小説を読み一日を暮らす。田村泰次郎肉体の門」真杉静枝のものなど。真杉は義秀と分かれた話を書いてゐる。嫁いで行く娘にはちと気の毒である。肉体の門は若さにまかせ乱暴である。いつまでこの種類のむくつけき仕事に生命があるか疑問なり。しかし今のところは読者は鮮明な原色に惹かれるらしい。

   未知谷刊(2023年8月30日発行)、大佛次郎著(大佛次郎記念館編)『南方ノート・戦後日記』p.188、1947年3月21日の日記

しかし考へて見ると自分の文名が何だらうと思ふ 自らの意欲なく仕事に追はれてゐるなど愚の沙汰であと二十年続くかどうか考へてもぞっとするくらゐのものだが快心の仕事が出来るならば別 オネェトオム[正直者]として碌々として暮らす工夫の方が馬鹿働きより大切である 京の寺の写真見てゐたら時候のよい頃にぼんやり町を歩いて暮らして見たくなった ついでのことに悪口を云へば近頃の文学と云えば林房雄船橋聖一などの無恥でおくめんない面々の仕事なのである 文学こそはそんなものでないのだが世の中はパンパンに追落されたと云ってよい 太宰の「斜陽」が同じことだ 安手にしか書けてゐない

二月二十四日

(略)昨に引続き仏教史料史跡の写真を見てゐて甚だ興が深い 実に変な部厚い時代が日本の過去にあったものだと思ふ 今の坊主は全部あさはかのやうだがこゝに現れてゐる木彫の悍しき面々が当時の民心のミラージュで装飾せられ結晶しただけのものとは思はれぬ 信仰と離れ単なる史実としても彼らが何かであったことは疑ひを許さぬ (略) 考へるとバカな話だ 文学とは何であらうか いやそれよりも小説書きとは? 文学とは誰れも申せぬ

 ○ 文覚上人

 ○ 室の津のパンパンに法然上人

 もしかゝらず世をわたり給ふへきはかりごとあらば すみやかにそのわざをすて給ふべし もし余のはかりごともなく又身命をかへりみざるほどの道心いまだおこり給はずば たゞそのまゝにてもはら念仏すべき弥陀如来はかゝる罪人のためにこそ弘誓[ぐぜい]をもたてたまへることにて侍れ たゞ深く本願をたのみてあへて卑下することなかれ 本願をたのみて念仏せば往生うたがひあるまじき――[法然上人説話より抄出]

   『南方ノート・戦後日記』p.235~6、1948年2月23・4日の日記(略は引用者による)

「じゃあ"スモーキング"はどんなコンテクストがあるんでしょうか?」

 ……それは、その……。

 

 

 

{実際まじめに考えればなにかしら形になりそうな気はしますが。

 『超ヤバい経済学』では立ちんぼとその商売について項目別価格調査をしたり{「手コキ$26.7、フェラチオ$37.26、本番$80.05、アナル$94.13」*25、過去の同職との価格変化なども調べ(1900年代初頭の高級娼館エヴァリー・クラブの客は、フェラチオに本番の2倍3倍のお金を出していた、その違いがどうして生まれるのかなども考察エヴァリー・クラブ時代は「フランス流」との隠語がついた裏メニューで*26タブー税が含まれていたのではないかと/「当時、フェラチオはヘンタイのすることだと思われていた。とくに信心深い人たちはそう思ってた」*27されていました。

 おなじように日本の戦中戦後の料金設定とか比べたりしたら何かしらの見通しも立ちそう}

 

 

 ■18禁の話■

   AIイラスト/大多数のポルノで味わいにくい旨味について

 AIによるイラストも近頃またブレイクスルーを迎えたらしいですね。

 もちろん一年前の時点で、「マスピ顔」(生成の呪文にデフォルトで入っているmasterpieceの語句によって定まった、なんかいい感じの画風)などと揶揄された頃でさえ、「指や耳を見ろ」などと『耳なし芳一』みたいな見分け方を伝授されてようやく区別がつくほど優れていたわけですが。そのころであればまだなんとか、生成AIが数秒~数分で生み出すイラストに対して、ぼくクラスの"趣味がお絵かきの人"だって数十時間かければ「まぁこっちのほうが味あるイラストでしょ」と自尊心をギリギリたもてる程度の違いはあったものです。

 それがいまや、「まぁ……普通にこっちの負けですね……」となる。かがくのちからってすげー。

 

 ここまでのクオリティになると、

「じゃあそろそろFANZAできるのでは!?」

 と思うのですが、「まだちょっと難しそうだな」ってFANZA同人欄を占拠するAICG作品を見ると感じますね……。

 

 生成AIは、それでもなお唯一性・一貫性・連続性が低めみたいで、ここに大多数のAVと同じむずかしさを見てしまう。

 「例のプール」と一時期ネタにされたりしたとおり、AVは撮影場所・大道具小道具が限られていて、そこへ目が行ってしまったら最後、途端に"これがどういう作り物であるか?"ひいては"これにオレはなぜ接しているか?"が露骨に感じられてしまい、

「モニタの前でひとりナニを握る俺の人生っていったい……」

 と興ざめ、人生の虚無にとらわれてしまう。

 電動オナホ(サイクロンX10)の、ヘッドフォンを貫通するモーターの駆動音と灼けた匂いから溢れ出るもの悲しさと同じですね。

 

 この辺の虚無感をいだかないようにするには、濡れ場以外のドラマの積み重ねであるとか、プロフィールの作りこみであるとか、濡れ場におけるちゃんと設定された建物や小道具との絡みが必要である気がして。

 そこを詰めるにはなおもまだ人間の創意が要求されるのではないか?

 とか思っていたら……

 ……なんともすごいプロフィールの登場人物が出てくるAV情報がながれてきました。

 これ、演者さんの私物であるのだと云う。

 すごいはなしだ。アンテナが幅広いぜ。

 

 ■18禁の話題ここまで■

 

 

*1:特記はないし「MOTF rescue」とかでググってもいまいちよくわからない。消防救助隊「ミズーリ・タスクフォース1」がおなじ略称らしいけど、これだろうか?

*2:上から時計回りに、「日付 / 捜索さきの被害状況/ 被害者数・状態 / 捜索(サイン記入)にあたった部隊」みたいな感じか? 

*3:

ゴジラ」の誕生

 このあと「間諜海の薔薇」「加藤隼戦闘隊」「雷撃隊出動」とか「アメリカようそろ」(未完成)などをやり、大映の「かくて神風は吹く」に協力したりしましたが、やがて私たちの課は軍需工場化し、終戦直前ごろは特攻隊の訓練用に米機動部隊の艦種識別模型を作らされていました。

 戦争が終って「海賊船」「南国の肌」「赤道祭」などの特技場面をやりながら、私は何とか特技そのものを売物にした作品をやってみたいと思い、南極捕鯨船団が怪獣を仕留めるというストーリーを考えていました。しかし、いかにも子供だましみたいな話だし、幼稚だと一笑に付されはしないかと、さすがの私も森さんにはなかなかきり出せなかったのです。「キング・コング」の製作者メリアン・C・クーパーも、あのアイディアを私と同様の気持ちから三年間もあっためていたそうですからね。

 たまたまプロデューサーの田中友幸が、トリック映画の企画を森さんにもらしたら、森さんは即座に、すぐやろうと大乗気だというんです。三人とも同じようなことを考えたんですね。さっそく香山滋氏に原作を頼み、ここに「ゴジラ」が誕生したわけです。

   ワイズ出版刊、円谷英二著・竹内博『定本 円谷英二随筆評論集成』p.291、「第四章 忍術から宇宙まで」より(初出;『東京新聞夕刊 昭和三十二年 十月二十三日』「トリック撮影とともに二十七年 東方特技監督円谷英二㊦ "真珠湾"から"宇宙" 一段と難しくなったワイドもの」)(「南極~」太字強調は引用者による)

*4:山田風太郎『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle版99%(位置No.7976中 7857)、「昭和二十年 十ニ月二十三日(日) 晴」より。

*5:山田風太郎『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle版99%(位置No.7976中 7875)、「昭和二十年 十ニ月二十五日(火) 曇」より。

*6:たとえば『戦中派虫けら日記』に掲載された1944年5月31日の日記では、医学校での月例防空訓練のもようが記されています。「指、腕、足の止血法を教えられ」たり、担架を運ぶにしても、要救助者の状態として……

負傷者は二年の連中で、胸に「大腿部貫通出血多量」とか「上膊部切断」とか書いた図入りの紙片をつけている。

 最初の人は上膊部の軽微な負傷だということで両肩にかついで事務所の前につれてゆく。二人目、三人目は担架で運ぶ。

   筑摩書房刊{筑摩eBOOKS、2002年1月25日初版発行(底本は1998年6月ちくま文庫版)}、山田風太郎『戦中派虫けら日記 ――滅失への青春』kindle58%(位置No.7072中 4080)、「昭和十九年(1944年) 五月三十一日」より

 ……容体がこまかく設定され、それに応じて誘導法を変えるという、トリアージ的なプロセスをおこなったりするさまがうかがえます。

 同年11月7日では、ついに実機を肉眼におさめた空襲本番のもようが記されていますが、まだ恐怖の実感ともなわず牧歌的。

 解剖実習室の方に廻りて地下室に入り、ようやく救護の準備万端を整う。中山先生に消毒液を作るための燃料の炭を事務所よりもらい来れと命ぜられ、吾校庭を横切りかけたるに、事務所横の防空壕にありたる奥野中尉に大喝して追い返さる。されどみな、地下にあるも敵機来襲退避の警鐘聞ゆれば、かえって敵機を見んと校庭に走り出て天を仰いでひしめく。奥野教官遠くよりこれを叱れば「奥野来襲」とさけび、敵機よりもこれにあわてて地下に逃げ込む騒ぎなり。

   『戦中派虫けら日記 ――滅失への青春』kindle83%(位置No.7072中 5837)、「昭和十九年(1944年) 十一月七日 晴」より

 そのほか1942年12月13日の授業では、空襲時に学校へ駆けつけた学生が10人しかいなかったことを説教されたりも。

*7:

二十八日(水) 晴

 ○解剖実習室に屍体二十余来る。すべて上野駅頭の餓死者なり。それでもまだ「女」を探して失笑す。

 一様に硬口蓋見ゆるばかりに口ひらき、穴のごとくくぼみたる眼窩の奥にどろんと白ちゃけたる眼球、腐魚の眼のごとく乾きたる光はなてり。肋骨そり返りて、薄き腹に急坂をなす。手は無理に合掌させたるもののごとく手頸紐(てくびひも)にくくられぬ。指はみ出でたる地下足袋、糸の目見ゆるゲートル、ぼろぼろの作業服。悲惨の具象。

   山田風太郎『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle93%(位置No.7976中 7388)、「昭和二十年 十一月二十八日(水) 晴」より

 上に引用した1945年11月28日のこの記述、中派焼け跡日記』掲載の翌1946年2月4日の解剖実習でも、これをほぼ引き写したもようが描かれています。餓死者が拡大しているのでしょうね。

四日(月)晴 

(略)

 ○解剖実習室に屍体二十余来る。上野駅頭の餓死者のごとし。それでもまだ「女」を探して失笑す。

 病理解剖の室(へや)にも四個隅に重ねられあり。油紙かぶせあれど、紫色のHoden(*)、くびれたるpenis、滑稽凄惨を極む。一様に硬口蓋見ゆるばかりに口ひらき未だ桃色の歯齦(はぐき)いやらしく、穴のごとくぼみたる眼窩の奥に腐魚の眼のごとくどろんと白ちゃけたる眼球、乾きたる光はなてりそり返りて死せるもの肋骨ふくれ、薄き腹に急坂をなす。手は無理に合掌せしむる為か手頸紐(てくびひも)にくくられぬ。指出たる地下足袋、糸の目見ゆるゲートル、ぼろぼろの作業服。悲惨の具象。

   小学館刊{小学館ebooks、平成23年10月21日電子書籍版発行(底本は2011年8月10日初版第1刷)}、山田風太郎『戦中派焼け跡日記』kindle93%(位置No.6327中 1003・1009)、「昭和二十一年 二月四日(月)晴」より

(略、文字色変更は引用者による。KADOKAWA『戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション』kindle17%(位置No.7976中 7388)、「昭和二十年 十一月二十八日(水) 晴」の記述とくらべて新出描写は赤字、並びを入れ替えるなど改稿描写は紫字とした)

*8:ちくま文庫山田風太郎『戦中派虫けら日記』kindle版98%(位置No.7072中 6892)より。

*9:そのほか、1946~7年の両国駅から乗った電車で尿意をもよおした4~5歳の少女がリフトされていく『戦中・戦後の暮しの記録 君と、これから生まれてくる君へ』「ボール送り」なども確認してます。

*10:『戦争中の暮しの記録』p.201「カラフトのいも作り」、『戦争が立っていた』p.19「ダラ汲み糞闘記」p.124「おこげにぎりを頬ばりて」、『戦中・戦後の暮しの記録 君と、これから生まれてくる君へ』p.128「パンを持って帰れる日」(「授業の代わりに、防空壕を掘り、肥やしに使う馬糞拾いをした」)

*11:

 大本営発表が噓八百だったという話、――こんな話は信じたくないが、そうかもしれないという気がしなくもない。噓八百とまで行かないにしても、噓四百ぐらいには行ってるかもしれない。

 なるほど噓は報道されないにしても、報道すべき真実を、半分しか言わなければ、やはり噓四百(消極的嘘だが)である。例えば、敵艦八隻轟撃沈と発表して、これは真実としても、吾方損害八隻を黙っていれば、やはり半分噓みたいなものだ。(略)発表して軍艦マーチを全国に放送し、国民を有頂天にさせる以上、味方の損害を比していることは罪である。

 それでも、発表された数字が、敵の損害に関する限り正しければ、まだしもよろしい、――(略)まだ宥すべき点がある。

 この数字にサバがあったとすると、吾々は実に白痴扱いにされていた訳で、腹の立つこと夥しい。

   中央公論社刊(1977年11月10日発行、中公文庫)、徳川夢声夢声戦争日記(七)』p.173、昭和二十年(1945)、8月30日

*12:

 日本の指導者どもは、何かと言うと、日本は精神の国アメリカは物量の国、精神が勝つか、物量が勝つか、などと神がかりみたいなことを言って、国民を鞭打っていたが、この鞭打ち方に飛んだ誤りがあったのである。彼等の言うところによると、まるで精神関(ぜき)と物量関とが、土俵の上で角力をとって、勝負が定るような印象を与える。

 日本精神がこっちにあれば、先方にはアメリカ精神があるのである。なるほど、物量の多寡で勝敗は定らないだろうが、精神だけで勝敗の定るものでも勿論あるまい。それを精神だけで勝てるというような、馬鹿げたことを飽きずに叫んでいた、日本の指導者たちなのである。叫んでいただけならまだよろしいが、原子爆弾が使用された当日、某隊では竹槍の猛訓練をやっていた、という始末だ。斯んな部隊長は竹槍も物量だということすら念頭になかったのであろう。

(略)

 で、仮りにこれを数字に現わして見て、

 日本精神…………百 点

 アメリカ精神……五十点

(略)

 次に、物量を数字に現わして見て、

 日本物量…………三十点

 アメリカ精神……百 点

 ぐらいとする。(略)

 さて、戦争の勝敗は、精神と物量の総和であるとすると、

 日本…………百三十点

 アメリカ……百五十点

 で、明らかに敗けである。況んや、戦争というものは、寄せ算でなく、掛け算でやるべきものと考えると、

 日本…………三千点

 アメリカ……五千点

 で、まるで勝負にならない。 

 この勝負にならない戦争を、とにかく最後の御詔勅の日まで、日本が勝つと思いこましていた(国民の大多数に)腕前は、まさしくエラいと言えばエラい。がまた、ヒドいと言えばヒドい。そのインチキさ加減は、大道のテキ屋以上である。

   夢声戦争日記(七)』p.174~6

*13:本文で話題にするような肥料への活用まではいきませんが、『なんにもなかった 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦後編』にはここで話題にするなかじゃもっとも後年である1953・5年~、大阪布施市の引揚者住宅についての寄稿があります。

 昭和30年には弟(豊)も引揚者住宅で、自宅出産。汲み取り便所に、産後のえな(編注;胎児を包んでいる膜などの総称)や血があり、それを見た3歳の私は、母が死ぬのではないかと、恐れた記憶がある。

 当時は、便所はどこも汲み取りで、誰が取りに来ていたか不明だが、物心ついた頃は、バキューム車が月1回程は来ていたと思う。便がたまると、そろそろかなと思った。臭くてたまらなかった。

 ゴミ箱は木のリンゴ箱で代用していたので、ウジがわいている。(略)

 一番の難儀は、住宅が早い時期に作られたので、周囲に次々と建つ建物の土盛りのため、一段低地になったこと。台風の季節には水がたまり、子供の長靴は用を足さない。便所の汚物とともに、黄色泥水がなかなか引かず、ヒルもうようよ。

   『なんにもなかった 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦後編』p.101~3、今井和子「引揚者住宅の暮らし」

*14:

 フロムはこの民話を原始社会の集団的無意識に関する謎と解釈し、その<象徴的言語>を解読することによって<苦もなく>その謎を解決した。フロムによれば、この物語はセックスに直面した思春期の青年の問題を扱っている。その隠れた意味はその象徴に表われているというのである。だが、彼の発見した種々の象徴は、一七世紀および一八世紀の農民が知っていた物語には登場しない細部に立脚したものである。たとえばフロムは赤頭巾を月経の象徴、少女の抱えている壜を処女性の象徴と解釈した。それゆえに、脇道にそれてはいけないという母親の戒めがあるというのである。だが、この民話の原初版には、赤頭巾も壜も母親の戒めも存在しないのだ。狼は少女を凌辱しようとする男子を表わしている。狼の腹から少女と祖母を助け出したあと、猟師が代りにその腹に入れる二つの石は、不妊の象徴である。性的タブーを破った罰というわけだ。だが、猟師も二つの石も、やはり原初版には登場しない。すなわち精神分析学者フロム氏は、存在しない象徴を超人的敏感さで嗅ぎとって、架空の精神世界へと我々を導こうというのである。少なくとも、精神分析学者が出現するまでは存在しなかった世界である。

   岩波書店刊{2007年10月16日第一刷、岩波現代文庫(1986年の単行本版から1・2・4・6章抜粋し、4章を90年同時代ライブラリー版をもちいた新編集版)}、ロバート・ダーントン『猫の虐殺』p.6~7、「農民は民話をとおして告げ口をする」

*15:

 レイモンド・ジェームスンは九世紀以来の中国版シンデレラの研究を行ったが、中国版では女主人公は妖精の代母からではなく、魔力を持つ魚から靴を贈られる。靴の片方を失うのも、王宮の舞踏会ではなく村の祝祭においてである。だが、彼女がペローの灰かぶり(サンドリヨン)に酷似していることは疑い得ないこれまでの民俗学者たちは(略)文字通り世界の各地から民話の収集に努めてきた。これらの物語はすこぶる印象的な分布の仕方をしており、その結果、すべての物語の原形、すなわち<原物語>の存在を想定し、神話と民話のインド・ヨーロッパ体系といったものの構築を試みる者さえ出現した。こうした傾向は、J・G・フレーザー、カール・ユングクロード・レヴィ=ストロースらの壮大な完全体系理論に活気を与えはするが、近世初期のフランス農民の精神世界を探ろうとする者にとって、なんの助けにもならない。

   岩波現代文庫版、ロバート・ダーントン『猫の虐殺』p.22~3

*16:光文社刊(2018年4月27日刊)、セス・スティーブンズ=ダヴィドウィッツ(酒井泰介訳)『誰もが嘘をついている~ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性~』kindle19%(位置No.4896中 902)、「第3章 何がデータになるのか――驚くべき新データの世界」、失業者が検索してる意外なワード より。

*17:『戦災殃死者改葬事業始末記』p.6より。小林氏の言は「竹橋に国税庁があって、そこで配給券を貰い、供養したというわけです。」とつづく。

*18:『戦災殃死者改葬事業始末記』p.6、小栗氏の言。

*19:

 小栗 初め竹内(敏雄)所長から、これは企画の仕事だからお前が受け持て、と言われました。そこで(略)三人コンビでやることにしました。"何か手当でもつきますか"と聞いたもんです。最初に手をつけたのは十二月末(二十三年)に今戸一丁目の本竜寺(一六六体合葬)を着手したわけでしたが、半腐りで、臭いといったらない、二日ほど私はメシもたべられない。顔はギラギラするし何ともしようがないんです。"こんな仕事をして手当もない、馬鹿なことがあるもんか"と文句をつけ、"なんならあんた達ちが現場でやってみなさい"と。第一素手ではかなわない、そうかと言って当時ゴム手一つとして無いんです。お国のためとは言わないが、"第一公園がこのままではどうにもならない、公園はともかくとして民有のお寺に埋めたものは何とかしなければ……"。すったもんだの言い合いをしても結局何も出なかったんです。労務配給の焼酎もあの頃はなかった。とにかくあの半腐れの死体の臭さといったら……、我々はあれをコンビーフといってました。半腐れの肉片はまさに缶詰のコンビーフそっくりでしたからね。しかし、本竜寺の坊さんは、文句も言わないで、棺箱をつみ上げて供養をしてくれました。その時警察官がやってきて、"何の権限があってこんな事をやるんだ、チョット待って"と言う。"権限もクソもない、書類も持っているんだ"といってやったんですが、改葬許可書があるのか、と切り返してくる。"イヤこれは改葬ではない、死体を掘り返すのでもなければお葬式をやるのでもない。詳しいことはこういう所へ行って聞いてください"と言ってやりました。供養をしてる坊さんにも文句を言ってましたね。

   『戦災殃死者改葬事業始末記』p.11、北部公園事務所(上野)小栗氏(略は引用者による)

*20:新潮社刊新潮文庫、2012年4月発行第18刷に<新装版>(1996年2月)掲載の写真を一部追加した電書版(2016年12月23日発行)}村上春樹『辺境・近境』kindle99%(位置No.3065中 2987)、「辺境を旅する」より(略は引用者による)。

*21:辞書を引くと「体育」を意味する熟語らしいが違うよね。とりあえず「物理的文化」と直訳しましたが、これもなんだかなぁ。物質文化のほうがしっくりくるけど、そっちはmaterial cultureらしく、なんか取りこぼすものがあったらイヤ。なにか良い言い回しご存じのかたいらっしゃったらお手数ですがご教示ください……。

*22:こういうのに遭遇すると「ハンバーグを語句に使わないのとか無理じゃね?」ってなる~。

*23:「just as」以降が迷子になった。初アップ時ぼくは「just as ~ for …」を、「just as ~, so…(~と同じように…)」みたいにとらえて、

「映画はそういった事柄が主題じゃありませんけど、アニメーターはかれらが伝えたいストーリーへそうしたのと同じように、物語るための背景をこのような別世界として真に肉付けしてみせたのです。」

 と訳しました。機械翻訳さまとだいぶ違う方向性です。

  • Google;「この映画はそれらについてのものではありませんが、彼らはまさに彼らが伝えたかった物語の背景として、この別の世界を具体化しました。」
  • DeepL;「しかし、彼らはこの別世界を、彼らが語りたかったストーリーの背景として描き出したのだ。」(最初の読点前総スルー)ないし「この映画はそういうことを描いているのではない、しかし、彼らはこの別世界を、彼らが語りたかったストーリーの背景として、本当に肉付けしたのだ。」

 寝て起きてみたら「いややっぱり機械様のほうが正しい」となり再出発しました。

実際のところ、それについて物語を書きたいと思えるほど充分な興味をひかれるアイデアを私はそう沢山はもっていないんです。

 執筆はわたしにとって大変なことで、だからアイデアは、その努力をつぎ込むに値する、じぶんが思考力を本当に刺激されるものでなければなりません。

 ときおりわたしは数ヶ月、数年と頭に残りつづけるアイデアを得ます;じぶんが強く動かされる何かがあるのだと、その正体をきちんと把握する必要があるのだと伝えてくるようなアイデアです。それについてどう物語を構築すればよいか、ブレインストーミングや別角度からの確認、異なる方法からの熟考をわたしは時間をかけておこなっていきます。ついにストーリーラインとエンディングまでたどり着いたら、執筆へと入れます。

  The fact is, I don’t get a lot of ideas that interest me enough to write a story about them. Writing is hard for me, and an idea has to be really thought-provoking for me to put in the necessary effort. Occasionally I get an idea that sticks in my head for months or years; that tells me there’s something about the idea that’s compelling to me, and I need to figure out precisely what that is. I spend some time brainstorming, looking at it from different angles, and contemplating the different ways I might build a story about it. Eventually I come up with a storyline and an ending, and then I can start writing.

  『ASIAN AMERICAN WRITERS' WORKSHOP』掲載、Vandana Singh取材「The Occasional Writer: An Interview with Science Fiction Author Ted Chiang」におけるテッド・チャン氏の発言より。

 『ASIAN AMERICAN WRITERS' WORKSHOP』の取材にテッド・チャン氏は、何度もブレストを重ねてストーリーラインとエンディングまで考えてからようやく執筆へ移れると答えています。物語に必ずしも奉仕しない(けれど、そうした集積によって、もうひとつの別世界があると感じられる)要素は、チャン氏にとって隣の青い芝だったりするんでしょうか。

*24:……いや、あれやこれやの後となっちゃ、現ガイナ組以外のスタープレイヤーのかたがたはそんな風にくくられたくないんでしょうけど……

*25:東洋経済新報社刊(電子版2013年11月1日Ver.1.0)、スティーヴン・D・レヴィット&スティーヴン・J・ダブナー(望月衛訳)『超ヤバい経済学』kindle16%(位置No.5571中 835)、第一章、「立ちんぼやってる売春婦、デパートのサンタとどうしておんなじ?」

*26:

『第二の都市の罪悪』でカレン・アボットは、エヴァリーは他のところではメニューに載っていないプレイも提供していたと書いている。たとえば「フランス流」がそうだ。いまどきの世間ではフェラチオと呼ばれている。

   『超ヤバい経済学』kindle13%(位置No.5571中 663)

*27:『超ヤバい経済学』kindle16%(位置No.5571中 846)