すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

日記;2018~19

 ぐだぐだで最近の日記はぜんぜん書けてないので。

 また、あらたな3D再生機器を手に入れる未来が近づき過去の3D体験に対するじぶんの所見が気になりもしたので、古の日記をちょっと掘り返してみました。

 「昔にくらべ元気がなくなった」と思うたび、「いやそれ、じぶんを高く見積もりすぎた歴史修正主義者の思い出補正だ」と戒めてきましたが、「いや間違ってない。その考えこそ怠惰な現状肯定だ」と更なる戒めをいだく程度にいろいろ書いてますね。

 ある作品について"こういう展開が見たかった"という妄想話をするさいに、「もちろん素人考えです、それで面白くなるかはわからないですよ。でも今だって面白くないんだからいいんじゃないスか?」と言うあたりとか、やっぱり昔のぼくは元気があったんですよ。(そこまでの元気は無いほうがよくない?)

 

{映画の感想は、もともと『鑑賞メーター』という映画感想SNSに投稿するために書き連ねたものですね。あらすじとかは極力とばして、とにかく映像や演出について書き留める方向性でした。

 一コメントあたりに文字数制限もあったので、▼▽○をもちいて話題転換などをしました。(▼は大見出し、▽は中見出し、○は小見出しないし改行の代わり……みたいな感じだったはず)あと、「⇒」で大きな展開変化、「→」でちいさな変化、「⇔」でオポジットの記述とか。そのへんの自分ルール記法を解読したり直すのが面倒くさいので、鑑賞メーターの記録は作品数をかなり省いてます。ぜんぶ載せてたらはてなblogの文字数制限17万字を超過しちゃうしね。

 たぶん鑑賞済み作品にたいする文章を読んでも「わかるような、わからんような……」て感じだと思うんですけど、だいじょうぶ、今となっては書いた本人も何言ってんだかわりと結構よくわからんです}

 

■2018■

01/09

 3D字幕『大アマゾンの半魚人』

 3D字幕をPSVRで。3Dカメラで撮られた映画。

 すごかった。3D上映を主眼にした画作りで、前景が静物であろうと異様に(目が痛くなる位)浮き出て・遠景も遠い。現在の方向性(奥行きを感じさせる画作り)がことなることを考慮しても、ハッキリ面白い空間が拝める

 3D映画における塵の存在感も54年の時点で分かっていて、「ゴミや気泡が散在する立体的な空間としての"水中"も既に登場していたんだなア」と驚いた。

 

  ■ヒトと半魚人の圧倒的距離を伝える3D演出■

 そうした立体を把握しやすい空間によって何が描かれるのか? 群れるヒトと、彼らの輪の外にいる孤独な半魚人との圧倒的距離感だ。

 

 たとえば研究者の男ふたりが潜水する場面。

 おはなしとしては、研究の方向性のちがいなどからいがみ合う男ふたりが一緒に仕事するという所が主眼にあるシーンのはずなんだけど、映像はそうなっていない

 両者の全身が悠々どころか余裕も余裕で収まる位置からカメラを回して、ふたりの姿は小さいし3D的にもちょっと平板なっている。しかも彼らがいるのは画面の上っ側とか脇とかで、中央に捉えられていない。

 

 もっぱら画面中央に大きくうつされるのは、前景の水草で、これは像もクッキリしているし色も黒いから「2Dで見てもかなりすごいものがあるのでは?」と思うけど、3D版は凸凹と存在感をさらにつよく主張してくる。

おはなしの発端であり3D映画を主眼に置いているだろうショットのひとつである冒頭の、土から飛び出した半魚人の手の死骸。それよりも、この水草のほうがが飛び出ているくらいだ)

 

 ……そうした水草のあいだから、半魚人が顔をだすのだった。

 もしかすると半魚人の主観ショットというていなのかもしれないが、そうでなくても、圧迫感を感じるくらい飛び出させることで水草を印象づけておくというのは面白いなと思った。

 

***

 

 また、水中のシーンでは水面から注がれる入射光の群れも画面いっぱいに広がっていて(いやたんに撮影機材ではそうとし撮れなかった、作り手の意図的な演出じゃないかもしれないけど、でも)水中を白い半透明のヴェールの向こうにある光景のように見せていて。中盤の地元民の休むテントの襲撃、半魚人が執着する美女の寝床(白い半透明のカーテンが画面前景をナメる)とつながっていく。

 

 美女が半魚人に狙われる直前のショットも、の距離感を強調したコンポジション

 中景で画面水平方向に船体を伸ばした船のはるか手前で、画面下近方へむかってポツンと波紋を立て泳ぐ美女の小さな姿が心もとない。

 その前段、沼へ調査まえにした研究室(画面奥には水槽があり、魚を御した空間である)での落ち着いた会話が、ひとびとが横並びになってその手前に半魚人の死骸の手という構図だったので(このシーンでは人々と半魚人の手とに距離感はほとんど感じないけど)

(横並びになったモノ)のなかからひとつ(美女)浮きでた構図」というのは、不安をあおる。

 

 こうした構成は、後半でも受け継がれることとなる。

 たとえば犠牲者をだした一行が「いったん帰って装備を整えてからまた挑もう」と来た道を引き返すと、帰路を倒木にふさがれていたシーン。

 中景に人々の乗る船があり、前景に倒木がある。調査隊の男が前景の倒木(をどかそうとして、そこ)へ潜水すると、半魚人に襲われる。遠くにヒトの群れ、近くに孤立した人とそれを襲う半魚人……という、前述美女襲撃シーンと同趣向だ。

 ただし、船は奥行方向に船体を伸ばしカメラ真正面に顔を向けていて、前述美女のシーンの船より心もとない。

 いっぽうの倒木は川の横幅いっぱい(=画面水平方向いっぱい)に幹を伸ばして、どっしりと存在感がある。

 

***

 

 映像はおもしろいのだけど、ただ、似た構図がいくらか出てきて、ちょっと飽きを感じた。

 

  ■おはなしについて■

 おはなしについても、佐藤哲也先生の映画評に全幅の信頼をおくじぶんとしては……

home.att.ne.jp

 ……氏の低評価をみて不安だったけど、登場人物それぞれが仕事をしていて、それほどわるくないんではないかと思った。

 イザコザが起こったりするけど、79分の尺らしい短さで流されていく。

・半魚人は美女に劣情をいだいているようにしか見えない(男どもは初手を顔に行く必殺スタイルなんだけど、美女に対しては横抱きにする)

研究者肌の学者ハンター気質の学者とが半魚人の処遇をめぐって対立したり「生け捕りにしよう」vs「殺そう」、心もとない装備を鑑みて対立したり「いったん帰って仕切りなおそう」vs「このまま戦おう」

・ガイド役の現地民が、現地に伝わる伝説をはなしたり、秘薬をつくったり。

・助手の美女は、男たちの仕事をよそにひとり水遊びしたり、シーンをある程度またぐたびになんかやたらと別の衣装に着替えていたり……

 ……それぞれ思い思いの活動をしてくれるのである。

 

 半魚人を生け捕りにした一行は、いけすに枝の檻蓋をつくって閉じ込め、さらに銃をもった見張りを立たせて警戒する。するのだが、モンスター映画のご多分に漏れず、見張りがよそ見をしているあいだに脱獄されたうえに反撃されてしまう。

「すでに怪力が知られる半魚人に、拘束がゆるすぎるのではないか?」

 とはさすがに思った。

 

 生きた半魚人(/犠牲者多数の怪物)という驚異(/脅威)の存在を見張るヒトが、目先のどうでもいい話(美女がどちらの学者とついていくか?)に気が向かうのは、問題を先延ばしにしがちで注意も散漫なじぶんとしてはとっても共感できる。できるのだけど……無駄は無駄だけども、せめて鈴とかつけておいたほうがよかったかもしれない。

 

 3D字幕『オデッセイ』

 3D字幕をPSVRで。3Dカメラで撮られた映画。

 劇中の単眼カメラで撮ったていのカットは徹底して平面だが、心拍などのインジケータは浮き出、そのほか一瞬の映像乱れも――取り残された後の初自撮りの途中や、渋い顔でカメラセットしてから「数学をしよう」とカメラ目線で話すまでの間に入る、横線(しばしば赤線)が入って画像が彩度をうしない波打ちブレるノイズも――また同様に浮き出ていた

 つまりワトニーが感情を露わにするとカメラは彼から離れて膜を一枚挟むことが劇中いくつかあったけど、3D版ではその演出が更に増えてる……ということみたい。

(2D版でも分かりやすかった例としては、意識ある状態で一人で過ごす夜のシーンで、室外に置いたカメラから吹きすさぶ塵が積もりゆく窓越しに室内のワトニーを撮ったショットや。

 あるいは、中盤クルーに自分が無事だと報せてないことを知ったワトニーがファックと口走るところを、室外から窓ごしに捉えたりしたショットが挙げられる)

 

 クライマックスの(宇宙船の一部を意図的に爆発させ、室内に減圧の風が吹かせることで船を制動したあと)画面横方向にのびる橙色のヒモを、スーツに穴をあけたワトニーが掴み・たぐる場面の快さは、物語的なきもちよさのほかに、前述した序盤の映像乱れの(突如赤線が最前面に浮かんで消えて、人物像も彩度をうしない波打つ)不快さとは対照的な、おちついた表現であること{カメラこそぐるぐる回って白黒の星空は瞬きつつも、前景の橙色の線は恒常的で人物もブレない明瞭な光景であること}も影響しているのかもしれない。

 物語的なきもちよさとは?

 ①序盤・後半の失敗シーンと連関した・オポジットであったり。②中盤の成功シーンの変奏であったりすることを言っています。

〔①序盤の遭難シーン{ワトニーが扉を閉め(ワトニーのヘルメット据え付きカメラの記録映像2D)、戸のインジケータが緑から赤になったあと、べつの扉を開けたことで室内に減圧の風が吹きこみ白黒の塵嵐がすさび(脚本にないくだり)一同が倒れたり、嵐に巻きこまれワトニーが飛ばされ彼のスーツに穴があく(大きな機械とワイヤでつながった金棒が刺さる)。目覚めたワトニーはワイヤをたぐって切る}や。

 中盤の畑不作シーン{ワトニーが扉を閉め(ヘルメット据え付きカメラの記録映像2D)、戸のインジケータが緑から赤になったあと、別の側がやぶれ爆発が起き室内に減圧の風が吹きこみ白黒の塵がすさび、ワトニーが倒れ、スーツに穴があく。ワトニーはダクトテープをひっぱり切って補修する}……といった、失敗シーンとの連関・オポジットであったり。

②中盤の成功シーン{古の火星探査機パスファインダーの大きな本体とつながったワイヤを引っ張りたぐり寄せる(。映画独自の演出で、原作はおろか、脚本にもないくだり)。あるいは、爆発した基地を覆いと銀~灰色のダクトテープで補修し再与圧したときの、テープが陽光を浴びて橙色に輝きはためく}の変奏であったりすること〕

 

***

 

 ワトニーが自撮りだと意識している場面であればなおさらだけど、劇中舞台にあるカメラで撮られたていの2D映像のショットは、ワトニーの感情は埋没しがちで。

 いっぽう、彼が不満を言ったり表情を曇らせる時分はカットを割って3Dの現在の時制の映像としてとらえられているようだ。

 

 2Dの記録映像カットと3Dの実際のカットは、序盤こそ交互に映されるけど。

 基地から出る後半のいくつかの自撮りシーンでは、記録映像をモニタに生中継表示しそれを見ながら口述記録する姿が登場し、映画のカメラには自撮り撮影中のワトニー当人の影が濃く出た斜め後ろ姿(3D)とモニタに表示された記録映像のワトニーの明るい正面顔(2D)とが同一フレーム上に映されるようになる。

 ……こうなってくると観ている側としては、すでに記録済みの素材を組み合わせ編集されたものを観ている感覚から、カメラを回しているイマココに立ち会っているような臨場感ある方向に転換されて、緊張してくる。

{まあ大転換というわけではなく、このあともカットはザクザク割られるし、記録映像だけがショットに出てくることもしばしばだし、(ほんとうにイマココの光景であれば有り得ないはずの)「火星日何日目」というスーパーインポーズも出てくる。だから、上述したことは受け手が勝手に受信した緊張であるうえ、それさえ霧散してしまうものでもある}

 ワトニーの姿としては外に向けて発信していた彼が自分で自分を慰めているようにも見え、孤独がつよいし。カメラ映像を鏡のように扱う姿は、映画序盤で拝んだ(本物の)鏡で患部を確認しつつの異物摘出・縫合手術シーンと重なり、縫い合わせる対象が肉体からこころへ変じた一種の治療シーンのようにも思えてきて、つらい。

 

 今回みなおしたことで、『オデッセイ』は、目に見えないものを目に見えるかたちで扱う映画のように思えてきた。

 

***

 

 そのほか3D版の演出でおもしろかったのは、NASA長官の初会見

 長官のアップ(だけど平面的というか平面?)からはじまって……カメラが引いて(ズームアウトして?)スーパーインポーズが画面に入ることで報道番組の一幕(2D)とわかった、なんて思ったら……さらに引いてカットを割らずに現場(3D)の光景に切り替わる……のだが、その頃には長官はカメラから距離がありすぎてやはり立体感がないのだった。

 

 そうした平面と立体とが混交された演出は、その前段の火星探査員一行が基地内の空気に満ちて宇宙服も脱衣可能な区画と火星へつうじる外扉とをつなぐエアロックに入った場面やつづく嵐の中の火星を進むシーンなどでも感じられる。

 一行がエアロックに入ると、先頭のルイス船長が火星に出る外扉をひらくまえに、最後尾のワトニー(="火星から去らずもう少し待とう"派)が脱衣可能区画とのドアを閉めたかどうか確認を取る。ワトニーは返事をするけど、その姿は3人をあいだにはさんだ一番後ろにいるためか立体感がつぶれている

 

 嵐のなかの火星をすすむ一行の姿も、彼らが水平に並んだ構図より、遠近に並んだ構図が多く見られたように思う。ワトニーがアイデアを思いついて声高にしゃべるけど、その姿は遠方でつぶれている

 

***

 

 文字メッセージを打つ側も読む側も声に出して、さらに画面でメッセージウィンドウまで映す演出

 これはもちろん削ることだってできただろうに、後半の1ショット{火星探査責任者のカプーアが直面させられる、黒背景に白字がでんと出されたワトニーからのメッセージ(ワトニーのセリフはなく、無音)のこわさのために、律儀に積み重ねていて、大変だなあと思った。

(もちろんこれがダメだという人がいるのはわかります。ぼくもH・ハサウェイ監督『黒ばら』の復唱はだめだし)

 

 感情のみえない平板な像(文字)と、感情が見える立体的な像

 そうした演出の果てに出てくる、「アイアンマン」のアイデアを話すワトニーの姿はすさまじい。

 ヘルメス号クルーがワトニーとの距離に消沈するなか、ワトニーは沈黙をやぶって楽しいアイデアを述べる。

 宇宙空間にある宇宙船は空気のない場の当然として、回転をつづけ、宇宙の闇や太陽の光や火星からの反射光を目まぐるしく挿し込ませる。

 宇宙空間で生きられない人間の当然として、ワトニーの着ている船外宇宙服のヘルメットは、そうした明暗を受けて透明になったり真っ白になったり真っ黒になったりして、その球面のなかのトニーの顔を真っ白にしたり真っ黒にしたりワトニーの顔(実像)をそのまま見せると同時にヘルメットの曲面に沿って平面的な影(とはいえ凹にさえある、妙な影)を落として二重写しにしたり……と、千変万化する。

 それまでの2時間でさんざん見てきた、映画だからこそできた2Dモニタで記録された彼3Dのいまここの彼とをないまぜにしたワトニーの人物像が、後加工の結果としてでなく、1ショットのなかに・いまここの時空間に現前する……

 ……ワトニーらしい、不安を楽観で覆い隠すようなあのユーモアあふれる言葉をともなって。

 

  ■3Dと関係ないところで■

 飛び立つため船内に格納されていく宇宙船のはしごや、宇宙に出たことで自分の力で降りる必要がかならずしもあるとはかぎらなかったりするはしご、疑似重力をつくるために回転する宇宙船、そしてもちろん火星の嵐。あるいは基地の灯台的回転灯雷光、重く強固な資材を持ち込めないがゆえの施設が嵐で揺れること。火星や宇宙の寒さ……

 ……劇中独自のメカや土地の独特の挙動。これらを映像的なモチーフとしてドラマをつくるところがすばらしいなと思った。

 

 宇宙船ヘルメス号の船長ルイスが、ワトニーの捜索をあきらめ船内にもどる姿。

 ルイスも他の船員とおなじくハシゴを手と足でのぼるのかと思いきや、「すぐ飛び立たなきゃいけない(=外界へ伸ばされたこのハシゴも格納してなければならない)」ということで、彼女だけは(自分の手足で何段かはのぼるのだけど)自分が主体的に動いたためでなく受動的なかたちで、はしごじたいが機械の力で動き昇っていくかたちで、画面から去っていく……

 ……火星の嵐に吹き飛ばされたアンテナの巻き添えになって画面奥に去っていったワトニーが、自分からそうしたのではないのとおなじく。

 

 宇宙飛行士組の管理職パーネルとのテレビ電話で、ワトニーの生存を二か月後に知らされるくだりで、モニタのある部屋にルイスが来るときも、はしごを自分でくだらず、回転する宇宙船内の重力を使って滑り落ちてきたさまが描かれている。

 いっぽうパーネルが独断で、ヘルメス号乗組員へ(乗組員の家族を騙って)暗号化された情報を送って、その解読に乗組員のフォーゲルが別乗組員のメカ技術者ヨハンセンを頼るくだりでは、フォーゲルが自分の手足を動かしはしごを降りて、彼女のところまで歩いていくさまが描かれる。

 ヘルメス号乗組員ベックがドッキングを間近で目視・指示するとき、同僚で恋人のヨハンセンが窓越しに彼をすこしでも長く見ていようとして、回転する宇宙船居住スペースを逆走するところでも、彼女ははしごを自分の手足を使って降りているみたい。

 ヨハンセンが逆走したあとは、予告にも使われたあの、回転する宇宙船居住スペース内から船外を見つめる彼女、そして見つめるさきにいる船外活動中の彼氏がデカブツの動きによって徐々に離れ見えなくなっていくさまを切り返し映していく数カットになる。

ヨハンセンが見つめることは脚本にも書かれているけど、そこが回転していることや彼女は逆さになることは描かれておらず、ベックからの反応もまた記されていない

 

 ディスコミュージックのドラマへの活用

 ISSや宇宙船に、船員お気に入りのさまざまな地球の音楽が持ち込まれていることは、番組で特集されるくらいに有名で(山崎氏の家族による希望で、ディスカバリー号の起床音楽として『天空の城ラピュタ』の挿入曲が流れたことは記憶に新しい)、現実を反映したもっともらしい書き込みだ。もっともここまでは、原作に準拠しただけのことだ。(ルイスのディスコミュージック趣味やそれにワトニーの気をやわらげ励ましたらしいことは原作にも描かれている)

 だけど、ワトニーがひとり過ごす火星のこわさを、基地の灯台的な回転灯や雷光のまたたき、基地の簡素な建物をゆらす嵐の振動といったイメージ(後者はちょっと怪しいが、たしか前者の光は原作にない表現だと思う。そして回転灯の光線は、場合によっては『火垂るの墓』の清太が家族の健在だったころの在りし日のこととして回想したように『この世界の片隅に』のすずが嫁いだ夜に感心したように、輝かしいものにも映りうる)として具体化したことは――つまり恐怖の光景を、ミラーボールがつきものでその流れる光の下では体を揺らしてリズムをとって踊る(映画では実際に、ワトニーが音楽にあわせて体を揺らして拍を刻むようすが映されていた)ディスコ的光景として上書きできやすそうなイメージでまとめたことは――映画版の独自の要素だ。

 

 あるいは白い息、これも意外なところを結びつける映画版の演出が冴えた一例。

 ワトニーのサバイバル描写で何度か放射性物質を積む前のローバー車内など)、寒さを白い吐息や風で表すシーンがあり、ポテトを育て食べるところでそれが白い湯気として昇華され反転したり、基地の爆発で冷気が吹き込むところでまたひっくり返され、出番が終わりかと思いきや。

 ヘルメス号内の爆弾授受シーンで管制室から船外宇宙服を着ぬままエアロックまで下りてきたヨハンセンが、船外からエアロックへやってきたベックと会ったところ。ワトニーを助けられるか否かの時間制限サスペンスからはみ出ないよう、それなりに尺を取りつつもあっさりめにまとめられているのだが、結構に印象的だ。なぜなら彼女は白い息を吐いているから。

 寒い空間にとどまりつづけたうえにそれどころか仕事を終えてもさらにとどまり続けたヨハンセンが、どれだけベックを想っているのか? それを伝えるのは、映画の前半で、彼女とおなじく白い息を吐いたワトニーにとって「寒い空間がいかに耐え難くサッサと立ち去りたいものだったか」だ。

 他者に見られることを念頭においてネガティブな感情を隠しがちなワトニーが自撮り記録パートでも、作り笑顔をこわばらせて弱音も吐いてそそくさと切り上げてしまったことが、クリステンセンの姿を際立たせるのだ。

白い息・煙についてもまた、脚本に記載のない部分だ。

 『エイリアン』などリドリー・スコット監督が過去にどういう風に宇宙を描いてきたかきちんと覚えてないから、詳しい人からしたら「またやってるよ忘れちゃったのおじいちゃん?」という飽き飽きする手癖かもしれないけれど、そうじゃなかったらなおさらえらい)

 こうして、"誰かと(手を繋ぎ、線を繋ぎ、そして来た道を引き返して顔と顔を)コンタクトするための奮起"としてたちあらわれた白い噴流は、ルイスの操るメカの制動用ガスや、ワトニーが自分で穴をあけたスーツの左手から噴き出すガスへと――その先に待っているのは、もちろん一瞬の手繋ぎ(とその失敗)であり、通り過ぎたさきでのロープ掴みであり、顔と顔ヘルメット同士をコンタクトさせる姿である――結実していくこととなる。

{ヨハンセンとルイスの間にはもちろん、ベックの設置した爆弾のおこす白い減圧の風があり。ヨハンセンのまえには、フォーゲルによる爆弾づくり(そのさいヨハンセンが手を貸している)白い煙があり、さらにまえにはマルティネスによって計算され帰るための燃料ギリギリまで吐きだされた逆噴射の白い煙がある。白い煙のリレー!}

 

 とはいえこうした描写は、リドリー・スコット氏の美点として旧来有名だった、面白かったり異様だけどそれがドラマにとってどんな意味があるのかよくわからない(し実際、主人公たちのおはなしとは無縁だろう)書き込み(※)とは、トレードオフな関係だろう。難しいところではある。

グラディエーター』について伊藤計劃さんがほめたような点やら。近年の作だと『ロビン・フッド』冒頭の城攻めで主人公らがひーこら押す攻城兵器の、逆走防止用のロープと歯車がついた機構やら。

グラディエーター」の「野蛮さ」とはなにか。それは、目的や物語を逸脱し、制作中のある時点から止めようが無くなってしまった、「世界全部」を細部まで構築する意思にあります。
ローマ帝国全部作る」
 これを聞いて、ほとんどの人は馬鹿だと思うでしょう。どんなにふんだんに予算が与えられていても、多くの映画は物語に必要なセットだけを組み、物語に必要な人数のエキストラだけを雇います。そうした映画は、知らず観客にと「物語に奉仕している映像」という印象を与えます。
ブレードランナー」以降、大予算で退廃した未来都市を描いた映画はいくつも作られました。しかし、それらの映画が「ブレラン」と違うのは、物語に関係しないオブジェの完全なる欠落です。ブレランでは、物語に関係しないものが物語に関わるものを圧倒していました。市場の人ごみ、動物市場の動物たち、セバスチャンの部屋の人形たち。ブレランの画面は、物語に関係のないオブジェで埋め尽くされていました。
 必要性を遥かに超えた、画面を過剰にすることへの意思。フレーム内に物が横溢していないと不安に襲われるとでもいうかのように、画面を何かで埋め尽くすことへのフェティシュ。それは単に物語からの逸脱であるどころか、物語をおびやかす行為に他なりません。なぜならば、そこにはメインの物語を単なる「この世界の1エピソード」に矮小化せしめる「物のレジスタンス」があるからです。
 だから、リドリーは「ローマを描く」ことをしません。「ローマを全部作ってしまう」のです
 この野蛮さ。この、アホと呼ばれても仕方のない過剰さ。我々は「グラディエーター」を観て、画面内における、物語に関係のないオブジェのあまりの多さに驚きます。装飾品が人間の顔と等価となるような、「モノ」や「ヒト」の氾濫に呆れます。そこには物語を大きくはみだした、過剰なる意思がはたらいているのが明らかです。主人公の物語をおびやかす、千個のモノや通行人それぞれの物語の存在。過剰さとはすなわち、モノやヒトを主人公の物語に従属させないという意思であり、それはつまり「世界」を創造するということなのです。
 「異世界」を描くとはそういう過剰さを作家として「生きる」ことなのです。

   伊藤計劃『SPOOK TALE』、「グラディエーター」評より

 ひさびさに伊藤氏の『グラディエーター』評を読み直したけど、一息で聞ける「お話」のなかで……

  1. 「映画における"過剰"さとはなにか? (ドラマの奇天烈さ? 違う)
  2. 「ドラマをやろうとして失敗した、最近のR・スコットの作品回顧」
  3. 「『グラディエーター』のローマのR・スコット原点回帰的な魅力(舞台の・画面の物量的すさまじさ)
  4. 「『グラディエーターコモドゥスとのコスチュームデザイン(黒の迫力。この演出の直近の源流が、最近のR・スコットの迷走作にあることを指摘)
  5. 「③と④との違いからくる、『グラディエーター』という映画の色彩設計の魅力」
  6. 「魅力的なのは"世界"だけじゃない」

 ……を語っていて、すさまじい)

 

***

 

 3D映画の演出としては、ぼくのなかでトイ・ストーリー3』や『ファインディング・ニモ』のピクサーが最強で、『オデッセイ』の演出は『TS3』の立体(=イマ・ココ)⇔平面(=かつて・そこ)の使い方にちかいうえ、『TS3』はそこからさらに一歩進んで変なことをやっている(※)と思うからその気持ちは変わらないけど。

 新たなテクノロジーに手を出して自分の映像を更新しつづけるリドリー・スコット氏はすごいなあと思う。

 

 3Dカメラで実写映画を複数本撮った(撮る予定ある)監督は、P・ジャクソン氏やアン・リー氏のほかM・ベイ氏、P・W・S・アンダーソン氏にB・シンガー氏くらいなものだろうか?

 短編も含めればゴダール氏も2本。

 スピルバーグ氏もジョージ・ミラー氏もゼメキス氏も3D映画を(実写はともかく)アニメで撮っているし、脂ののった若く体力のある監督や撮影監督たちにも取り組んでほしかったなあ。

{時代の流れはおそろしいもので『アバター』公開から10年と経たないうちから3D映画はもう2D映画を変換しただけの映画ばかりになってしまった(僕の部屋にあるモノもそういうのばかりだ)……}

目と目の距離がヒトよりはるかに近いおもちゃの視点をエミュレートして、キャラ自体が平面的な"かつて・そこ"の視点をもつ存在としている。

 そして、理屈でいえば"かつて・そこ"のはずなのに"イマ・ココ"に見えてしまうというMr.ポテトヘッドの単眼視点

 

 3D字幕『ゼロ・グラビティ

 3D字幕をPSVRで。元は2D映画で実写部分はView-D方式で変換だけど、CG部分はステレオレンダしてるそう。

 

 冒頭の宇宙船が異様に平べったく見えてしまった。ここはいかにも平べったいデザインだからよいとして……

youtu.be

{↑わかりにくいので当該シーンについて権利不明の切り抜き動画。(3年前にアップロードされたものが消されてないからとりあえず大丈夫か? とリンク張っちゃいますが、大丈夫かなぁ……)}

 ……では「ひらべったい翼の下の、円柱やら(ここは立体的じゃないとさすがにおかしいはずだ)がどうか?」「接写されるマーシャン・ザ・マーシャンなどがどうか(これだけ近ければ/そしてどうせここはたぶん3DCGモデルだろうから、左右の映像で違う角度の光景がレンダリングされていてよいはずだが、実際どうなっているか)?」というと……あんまりよくわからなかった。

 なんというか、「普段から襖に小指をぶつけてしまう僕のような空間把握力のとぼしい人間には、そもそも3D上映の恩恵ってさずかりにくいのでは?」

 ……という疑問にそろそろ向き合わないといけないかも。

 もう少し詳しく説明すると、位置関係(どこが引っ込んでいてどこが浮いているか)はわりあいわかるのです。

 デブリ初観測シーンの、宇宙の星々にまぎれてデブリが動くときはきちんと浮き出て見えたし。カメラ近くをとびぬけるデブリとかも(おもわず顔をそむけたくなる)圧迫感がありました。たいていのシーンでは漠然と広い宇宙空間が、ISS側から宇宙にカメラを向けてふたりの顔を大きく映した時分では背景がやけに近く見えるとかも、わかる。

 ただ、左目映像と右目映像とでちがうものがレンダリングされているのかが、よくわからない

ひどく近方にあるときは、それなりにわかる。たとえばロシア宇宙ステーション到着時に、ストーン女史が太陽電池パネルにぶつかるさまをカメラ間近で映したときの、画面下でナメる太陽電池パネルの格子模様が左右の映像それぞれが異なる消失点で演算されているのだとか。 そういう極端なモノ以外は、なんだかよくわからない)

 

 たぶん劇場から2度目の3D版鑑賞だと思うんだけど、3Dであることが演出としてどう、というところは、あんまりよくわかっていない。漠然と広い空間に小さい人がぽつんといたりすることによる心細さは、もちろんあるけど。

 

 3D字幕『タイタンの戦い

 3D字幕をPSVRで。元は2D映像をView-D方式で変換した映画。

 図らずも同方式の変換作を続けて鑑賞したが、今作は『ゼログラ』と違い"動く浮彫彫刻"な感触。遠近の異なるモノのあいだに物が詰まって見える(。隙間がない)。

 

 (現実で自分が見ている視界よりもおそらく)物の凹凸がよく出ていて、胸の厚みやおでこの出っ張り鎧の曲面などがよくわかる。

 後述するように短所もあるけど、襖に小指をぶつけがちなぼくとしては、このくらいハッキリしているほうが面白いし、よくあるセル画を並べたみたいな立体感の他映画よりもはるかに好きだ。

 一方で、範囲はざっくりしていて、もじゃもじゃの髪と一緒に遠くの空まで浮き出ていたり、逆に髪の毛が頭の遥か遠方にあったりする。

(たぶん後者のパターンのほうが多いかな。意図的にやっているのかもしれないとも思う。今作の物者のフチだけ奥まる処理は、2Dデッサンにおける回り込み線みたいな効果を発揮して、モノに異様な厚みを与えている)

 背景でボカされた木の葉々も、ザックザックとした範囲をモッコモッコと凸凹させていて、浮彫版抽象派という感じ。これ自体は非常に面白いんだけど、本来の被写体である(ピントを合せられた)モノに目が向かないくらいさわがしい。

 

01/15

 3D字幕『エクソダス 神と王』

 風邪もひいたことだし、3D字幕をPSVRで再鑑賞。3Dも劇場で一度みてたのだが、3Dについて「こんな用法だっけ」と驚いた。初見時はこの作品が(3Dで)何をやっているのか、ぜんぜんわかっていなかったんだな……。

 

 ほぼ同~類似ポジ・カメラワークなのに、立体感がまるで別物なショット群

 序盤と中盤で二度ある、ヘブライ人が酷使されるピトムの谷間じみた採石場の風景ショットがすごい。

 モーシェがエジプト人として初訪した時だと、奴隷の転がる崖上の前景のさきは一枚絵じみていたが。いっぽう、かれがヘブライ人として再訪した時はきちんと立体として映されている。

 ヘブライ人街も同様の立体感演出がなされていて、初訪時は平面的だが、報復で家探しや放火される時は立体的


 平板から立体へとかわっていくヘブライ周りの立体感は、土地→建物……とすこしずつ対象をせばめていって、処刑場にあつまった彼らとつづくモーシェのもとへの集結シーン(画面近方にくるヘブライ人!)でついに、ひとびと自体にまでおよんで最高潮となる

 なるのだがしかし、エクソダスが始まるとまた逆転する。

 遠景まで荒野にだだっと伸びるヘブライ人の行列は平板で、たいていの場合は前景にいる(道をただひとり知る先導者だし、物語的に当然だ)モーシェとの距離感、立体感のちがいがかなりこわい。ここから思い返すと、追放されて一人で荒野を歩いていた前半のほうがよほど安心できたんではないか。(前半のこの場面はこれで、地形の凸凹が強調されたりして、モーゼの小ささを際立たせていたけど)

 この終盤のシーン(モーシェが先導するヘブライのひとびとのエクソダスや、ラムセスが先導するエジプトのひとびとの追跡)の3D演出は、『大アマゾンの半魚人』に見られたような、対象の距離感を際立たせるための表現としてふるわれているように思う。「前景で孤立した個人vs背景の平らかな群れ」というような構図。

 (モーシェ自身だって行ったことのない)石積みの道標にしめされた狭く険しい山道を過ぎたところで迷子になったモーシェが、しばらくして「こっちだ」とヘブライのひとびとをまた動かすショットは、ヘブライのひとびとはその顔が判別できるくらい近くにいるけど、画面右下に顔を出したモーシェ異様に距離がひらいていて、モーシェは文字どおり浮いている

 海岸にたどり着いた翌朝、ひとり海に入るモーシェのショットもまた同様だ。

 

 3D映画としての立体感のつかいわけがすさまじい今作だが、R・スコット監督は2Dで見てもその辺の意味をそう取りこぼすことないような絵作りをしてもいた。

 エクソダスのモーシェとヘブライの人々の距離感も、2Dで見ると、がちがうだけでなく、立ち位置の粗密がまったくちがっていてモーシェと人々とのあいだには地面が分断線をひくみたいな広いスペースがあけられている。

 感想のさいしょにふれた採石場のショットだって、再訪時は2Dで見ても火と煙があって鳥が無数に飛び……と、冒頭のヒッタイト(そして終盤の岸辺で具体化される)悲惨再び、死臭漂っていて。そこからつづくショットでは、モーシェが共感している風な顔もある。(初訪時では悪臭に鼻を外套で覆ったかれは、今回はそうせず、素顔で立ち会う

 ただ、こと景観についてだけ言えば、2Dと3Dとでそれぞれ別物の要素を扱っているように思える。2Dの景観の変化は客観的な変化(ヘブライ人の酷使がすごい⇒さらにすごい)であるいっぽう、3Dの景観のちがいは主観的な評価(誰かの目にそうした光景が単なる遠くの一枚絵にしか見えない⇒いまここにある現実らしい立体的なものとして見える)があつかわれているように思える。

 

 エクソダス周りについても、3D版と2D版とではだいぶ評価がちがってくるように思う。

 海を渡るさい、あるヘブライ人がモーシェに言う「お前のやってることはエジプト人の鞭と変わらない」

 このことばは、(前段の対エジプトテロ時ならともかく)エクソダス周りで脱落者がうかがえないから、2Dだとモーシェの苦労も知らないエジプト人に難癖つけられているような気持になるけど3D版だと素朴に響くのだ。

 だってモーシェは見ていないからじぶんとおなじ、いまここに血肉を持って生きている厚みある生物として、彼らを

 だって、おなじに見えるから――ついてくる人を平らかにしてまで突き進むという点で、鞭をふるうエジプト人の王たる幼馴染ラムセスモーシェは、たしかにおなじに見えるから

 

 今作のモーシェとラムセスについて、知将と暴君というイメージがどうしてもいだいてしまう。はじめ、

「『グラディエーター』『KoH』『ロビン・フッド』と(『1492 コロンブス』も含めてもよさそうだけど)どうして毎度こうなんだ。同じリドスコ監督でも『アメリカン・ギャングスター』の主役二人みたいなあんばいにはできないものか」

 と思っていたんだけど、今回観たらその思いが薄れた。

 運がよかったかわるかったかだけ違う、余人にはわからない考えをかかえた孤独なひとにどちらも見えた

 

 この平面立体の演出の使い分けがつきすすんでいった結果が、『オデッセイ』でワトニーがしばしば平面になることや火星でいま・ここで撮ってるはずの光景でも鳥観図的なローバーがたまに立体感ないこと……

 ……それらを経ての、平面的な惑星からワトニーを乗せたロケットとそこから棚引くロケット雲が文字通り浮き出ていく"俯瞰でとらえた離陸ショット"になるのかなと思った。

 

   ■スペクタクル描写について■

 災厄描写は、2Dでもすごいけど、3D版だとなおさら楽しい

 ほかの災厄にくらべると地味な印象があったカエルの場面、3D版はこれがすごく良い。

 実際の撮影時は生き物のカエルはあそこまでいなくって、CGでかなり多量にしたそうなのだけど、跳ねるカエルが描く軌道が立体感あって、観ているこちらの頭に妙にのこる。

 2D版で観直したとき、物足りなさをいだいたイナゴが飛来する場面も、やっぱりすごい。2Dで見直すとイナゴの勇ましい動きに対して、実景だろうぶぶんの一部の微動だにしなささ具合が気になっていたのだけど。

 3D版だと、空間を満たすイナゴの一体一体が厚みのあるモノだという実体感がとにかくすごいので、そんな思いはこれっぽっちも抱かないのだった。

 

 海が寄せる描写も、断然3D版のほうがすごい。ポスターにも使われた海と馬は、2Dだと「あまりに巨大なので馬が小さく見えるショット」に思える。それは間違いではない。

 3Dで見ると「あまりにも小さく見える馬がとても近く、あまりにも大きい海がとても遠い。そしてその差がすぐ埋まるくらいに海が速いショット」なのだった。

 

 そういう点で意外とよかったのが、前段のテロvs制裁シーン

 火だるまになった人が前景に映されると、炎がトゲトゲしくて目をそむけたくなる。ぼくはこれまで、

「光とかの非物質的なものが厚みをもって見えるのが3Dの面白さだ」

 と思ってきたけど、意外と炎のエレメントは見る機会が少なかったように思う。面白かった。

 草むらから火矢を放つシーンの草むらが立体的でたのしい。ジャングル追いかけっこ(『ハンテッド』のようなトラッキング映画や、『アポカリプト』のような原住民狩り映画、ベトナム戦争モノとか)を、3Dカメラで撮った映画なんてたいへん面白いんじゃないかと思った。


   ■3Dと関係ないところで■

 照明の揺らめきを活かした作劇で面白かった。もちろん主な道具は(この時代特有の)燃える照明によるものだけど、ヘブライの神の災厄も、たんに人々を苦しめ地を臭くするだけでなくて、そうした面白い照明をもたらす存在として登場している。(雷や闇みたいなもの以外も、そういう役割をはたしてくれる)

 イナゴ襲来後、文官が「国庫一部還元を」と王にもちかけるも否定される会話劇シーンについて。文官の顔の明暗は、イナゴのたかった窓からの採光によって揺れているのだが、いっぽうの王のほうは日陰で安定している。

 

   ■役者の顔の血管について■

 ラムセス演じるJ・エドガートン氏は、冒頭から顔はリラックスした場面でもシリアスな場面でも常時こめかみ~おでこに階段型の血管を変わらぬ太さと凹凸でたずさえていて、肉体・存在の太さと才能と人望の乏しさからくる寄る辺ない不安定な細さとをかね備えたこのキャラに合っていたし。

 この血管によって、看板としてはリラックスした状況下のはずのシーンでもよくわからない緊張感をたずさえていたけど。一方で、本当に緊張感があってほしい「シリアスですよ」という場面は、階調がにぶくなるかもしれないなと思った。

 

 たとえばモーゼの出自をめぐる、かれの(育ての)母や乳母(実は姉)を呼び寄せての会話劇シーン。

 ここでは、ラムセスが容疑者の顔を手でぎゅっと掴んだり最終的には腕を切ろうと剣をふるったりと物騒な空気になるが、顔つかみにしてもあくまでジワジワという感じで。会話劇のテンションも、感情がじわじわ乗ってきて最後に爆発するという流れだ。

 疑う側も疑われる側も眉間にしわを寄せたりせず、「なんてことないような顔」をつくりつづけ、映像はそれらをアップにして交互に映す。よって結果として同じ顔がならぶ(観ていて「足踏み感」をおぼえる)、変化にとぼしいショットがつづいてしまうことになる。(話してることは不穏だし、映像も燃える照明の揺らめきで不穏だが)

(ぼくの好みとしては、T・クルーズ氏が『マイノリティ・リポート』で見せたような浮き沈み自在な血管のほうが、画面に変化があって飽きないなと思った)

 

 3D字幕『ズートピア』(3D演出に関する感想はナシ)

 3D版の妙味の有無~あるとしたらどんな演出か~を確認するための再鑑賞だったが、久々だったので出来のよさにまた素朴に感心してしまって、そこまで気が回らなかった。でもさらに見たところで僕には分からなそう。

・公開当時、飢えに飢えた伊藤計劃おじさんが今作にもネタで『虐殺器官』認定をだしてたけど、いまとなってはまじめに「ぼくがあの映画で観たかった光景はこれでは」と思えてきてしまった。

 国立博物館の展示に警察など公的機関の発表、メディア報道(TVや野菜を包む新聞の文面)、ご当地看板ウサギが多く暮らす街の、電車用看板の、コンマ秒単位で増え続ける町民人口カウンタとか)や建築、子供の劇中劇、大人からの諭し、マフィアのドンの経験に基づく重々しく説得力があるかっこうつけた言い回し(だが専門外でエビデンスなんて一つもないもの)や、当人の趣味(先祖返りして見える異変を被ったひとのヌーディスト/自然回帰趣味)、個性(ゾウの着ぐるみを脱ぐとドスのきいた野蛮なおっさん声)、冗談、何気ないことば……

 ……舞台や小道具から単語レベルにまで及ぶ細かな転がしによって映像化された、観念が無意識下に植えつけられ、固定化し、まったく別の事実と誤結合し偏見が強化され、常識のように顕在化する過程。

(この転がしについてはブログ『名馬であれば馬のうち』の記事ttp://proxia.hateblo.jp/entry/2016/05/01/131333の、Sly FoxやDumb BunnyやBiology.などの語彙についてがとても参考になる)

 

 上とはまったくべつのはなしなのだけど、村瀬監督版『虐殺器官終盤などの、月光ギラーン、は、ぼくにとって観ていてけっこうつらくって。

 対して『ズートピア』後半のトンネルから野外へ出た電車の車内で、肉食と草食が乗り合わせるひとつの座席を窓からの採光と窓枠の影とが分断、は好きなのだけど。このへんの理由がちょっとよくわからない。

〔理由について一瞬、「表象が表象として前面に出るとクドいダサい」と思えるということかと思った。

{前者『虐殺~』のカットは、画面に起こるのがもっぱら月光ギラーン。

 後者『ズートピア』のカットにとって窓による明暗はあくまで画面の要素のひとつであって。 前景には、乗り合わせた動物たちの動き(タブレットを弄りながら座り足をくむトラ男の大きな動きと、真ん中に座って『ボルト』のニンジンぬいぐるみをいじる子を自分のほうへ引き寄せ、トラからはなす親ウサギ、その行動に目を丸くし親そして隣のトラを見やる子ウサギの姿)があり、背景はトンネルから屋外(トラ着席後)へぬける動きがあり、車内にさす明暗もトンネル時代の真っ暗から~陽光と窓枠の影~またたく建物影、トンネルみたく長い建物影(子を引き寄せる親ウサギ)~陽光と窓枠の影(引き寄せた直後)とさまざま変わる}

 ただ、『ズートピア』のカットは、こちらはこちらでカキフライをオイスターソースで食べてるみたいでもあり{前景も分断する動物、後景も分断する明暗}

「それはそれでクドいのでは?」「ダサいのでは?」

 という気がしたってよいのだが、そんなこと思わないのだった。なんでだろう?〕

 

01/19

 3D字幕『プロメテウス』

 3D字幕をPSVRで。

「3Dで色々やってやるぞ」って気合満点で、色々とやってくれている。続いて3Dカメラで撮った2作よりも画が立体的で面白いんじゃないかとさえ思う。

 ただ色々やったものが作劇としてどう活きているのかはよく分からない。3D映像の見本市みたいと思った。

 ロボのデビッド君が覗き見する主人公の夢が異様で凄い

・3Dと無関係な所では、OPクレの風景ショットは異質で凄いし、後半の船長にかかるホログラフの光も異質で凄いし、序盤のデビッド君の生活~船員が目覚めゲロ吐く所は筋が見えず、生っぽい感触だけあり、良い。

 

 3Dでやっていた色々について

 赤い光を面状に(はな)って回り浮遊するドローン"仔犬(パピー)"に。

 宇宙船プロメテウス号操舵室で、"仔犬"のデータをもとに徐々に形ができあがっていく異星の三次元地図ホログラム。

 主人公がみている平面ホログラムをつきぬけて顔を出す恋人。

 異星のハイテクノロジーによる、散在する粒子状の光による過去の記録ホログラムとか、異星のハイテクノロジーによる、はっきりと見え手に取れる星々のホログラムとか。

 飛来物の粒のおおきな嵐。

{こうした"粒の大きな嵐"は、3Dカメラで撮影されたつづく2作でもでてくることになる。(『エクソダス』では粒の小さな、視界を悪くし被写体だけを浮き上がらせるようなものと使い分けつつ。『オデッセイ』では、回転することで砂嵐じみて見える星空の背景と使い分けつつ)

 

 お話について

 佐藤哲也氏の評にも……

home.att.ne.jp

 ……「およそ科学者らしくもなくすみやかに関心を失い」といった表現があったけど、こういうオチにするのなら、アホらしい死に方をするにしても科学者がまじめに仕事をして科学者らしいアホらしさを発揮していたのなら、ぼくは素朴に感動できていたのではないかと思う。

 「おれは地質学者なんだエンジニアなんて興味ねえ」までは良いとして「宇宙船帰る!」はいただけない。そうじゃなくって、そのまま「地質調査してきますわー」してるうちに出遅れ、砂嵐がやってきて出られなくなる……でもべつによいじゃん? という。

{もちろん素人考えです、それで面白くなるかはわからないですよ。でも今だって面白くないんだからいいんじゃないスか?(もちろんこうしてしまうと、「先帰る」って言ったやつがまだ穴の中いるというお笑いぐさはなくなるけど、むしろ無くなってよくないスか?)

 

 ぼくがポール・W・S・アンダーソン監督に「『イベント・ホライゾン』を作っていた頃を思い出して!」と何度か悲しくなるように。リドリーへ「『1492コロンブス』を作っていた頃を思い出して!」とかそんな感じに悲しむひともいるんだろうな。

 

 3D字幕『ジャングル・ブック

 3D字幕をPSVRで。

・面白かった。マルチプレーンな会社ロゴ、飛び出す上に動く絵本のEDが楽しい。

・3Dの作劇的機能はよくわからない。

 ヘビの瞳の球体(凸)から、その瞳に映る洞窟(凹)で火を持つモーグリ父が虎のカーンと戦う回想につながれるシーンはすごかった。(ああいうひっくり返しをもっと観たいなと思った)

・3Dと無関係なところでは、モーグリが火を持って虎のカーンを倒そうと走る場面が、水面に映る彼と火の鏡像から始まっていて(前述したシーンつなぎの変奏だ)、文脈の整理が見られる。

・虎のカーンがかっこいい。幼狼を自分の獲った骨で引き寄せ、狩猟動物としての見地で動物の講釈を垂れたり、カッコウの托卵について話す(ことでモーグリへの敵意を植えんとする)。

 

01/20

 3D字幕『47 RONIN』

 3D字幕をPSVRで。3Dカメラによる作品。

・前景~後景に者物が配された構図で見た目に面白い。

 ただ3Dであることがどう作劇に活きるかはよく分からず。

 冒頭の世界観説明で将軍は3Dだけど四七士は2Dなのは面白かった。本編にこういう表現はなかった気が。

  ■3Dと無関係な部分■

 イデアの所々の冴え

 面頬まである和甲冑を、正体を隠す変装具に(和甲冑なので劣勢で剥がれる)。

 扇が光背に(骨が集中線代りに)

 和傘がレフ板/ストロボに。

 豪華で複雑な欄間が、龍じみた妖怪が複雑に飛ぶための地形に。

 

 各舞台も見ごたえがある。

「日本じゃない」などの声も聞こえ、それは確かにそうなのだけど、現実世界と比べどれだけ再現できているか、と、作品世界自体のリアリティはどれだけか・作品のなかで統一感があるかといったことは、別問題だなあと思った。

 「日本じゃない」という気持ちをいったん抑えてそういうものとして見れば、どの舞台も美術の出来はよく、一つの世界にあるものとして統一されてもいる。すでに言ったとおり、手前から奥まで者物が配置されて画面はブ厚いし。そのうえ「日本じゃない」デザインにした所のいくつかは、きちんとアクションなど作劇に活かされていたりもする。

 水平移動ショットで竹林や林や鬼子の住む林(倒木いっぱい)や稲ムラの並ぶ畑、屋敷の柱、祈祷する天狗たち……といった"林立するもの"を映していくリズムもよかった。

 

 「まるで『PotC』のカリブ」と評判の出島(ダッチ・アイランド)は、加えてNYの高架みたいだという印象を持った。

 高い桟橋(というのか?)の上と下とで、逃げる人と追う人とがそれぞれ走っていって、両者を同一画面上に収めたりしていた。先輩武士オオイシが落ちたりするので、主人公が助太刀にじぶんも落下したり……というアクションをする。

(ここについては、映画が"下に落ちた者"を助ける主人公の姿に、前段でそもそもの序盤が地に伏せた主人公を、オオイシが仕えるクニの長アサノが助けたところに始まって。 前段でオオイシや主人公のクニの長アサノが、キラの側室の妖怪に毒を盛られたとき、天から地へクモを垂らすことで行われたことや。オオイシがキラに井戸に蓋したような地下牢へ落とされていたから、一瞬「"落ちる者"を助けるのはすごく良い」と思ったが、キラの城でそういうアクションがないので、勘違いらしかった)

 

 ヤミ闘技場も、鎖付き鉄球をふるうと家屋の木の柱や木板の床が壊れ、人が巻き込まれてフッ飛ぶので、見ていてたのしい。

 ここで見せる主人公カイ(演キアヌ・リーヴス)の剣だけでなく手も足もでる殺人剣法、その相手をするオオイシ(演真田広之)の正統派剣法がたのしい。

 

  ■映画と無関係な部分■

 米本学仁さん演じる侍バショウが、作家の柴田勝家さんに似ていて、しかも女優が脱がないなか黒一点ヌードまで披露するので、なんか見てはいけないものを見た気分になった。

 

01/21

 3D字幕『サンクタム

3D字幕をPSVRで。3Dカメラで撮った作。

 『キャメロンの深海への挑戦』共同監督A・ワイトの実体験(死者0)を着想に絶叫怒号死屍累々の映画化。

 

  ■3Dと無関係のところで■

 照明=心境な作劇が面白い。

 冒険心一杯の素人は陽光にいて、玄人は日の光と無縁の人工灯の場にいて、玄人同士でも不安な人は水面の揺らめく明暗が差し、同じ場の人でも危険な心の人は蛍光緑が差す。

 

  ■お話について■

 お話はパニック映画――それも、状況のひどさよりも登場人物のひどさが気になる類の、素人玄人も感情に振り回される類の路線。つかれる。

 その辺の私情のぶつけあいを抜かせば、前人未踏風の漠然と広い洞窟から徐々に顔を見いだしていく作劇で、舞台の活かしかたは大評判の『火星の人』('9~'11)と重なるところがある。

 泥と糞とを区別し生物の痕跡をたどったり、過去の社会史的遺物と遭遇したり

 

***

 

 今作の人間ドラマがいかにつかれるかについて。

 主軸は、玄人(父)の仕事を感情的に批判する新人(主人公)が玄人(と同じことをするよう)になる話……なのだが、父子を除いた主要人物にも素人がいて、この外野が騒いだり軽率にはしゃいだりとつかれるし。

素人的行動は甘ちゃんゆえ、女性ゆえ(?)、軽率坊ちゃんゆえとそれぞれ違いがあって、そこはエラいと思う}

 玄人も玄人的勘定だけで動くことはできず、感情に振り回されたり、よくわからないカッコつけをしたりして、これまたつかれる。

 

 カップルの彼女は、"エベレスト探検がなれそめ"と云う人物背景に反して「死人のウェットスーツなんて着たくない」などの駄々をこね、後に寒さで手をこねたりヘイトを稼ぐだけ稼いで亡くなってしまうし。

{ただぼくが勘違いしてただけで、もしかするとここで彼氏が得意げに言うエベレストは、金持ちのガキが道楽でやってる"エセ冒険家"の一ディテールとして――『エベレスト3D』('15 ぼくは未鑑賞)で描かれているらしい"商業化されたエセ冒険地"として挙げられてるのかもしれない}

 カップルの彼氏は彼氏で、遭難中もカメラをパシャパシャ撮ったり、空気ボンベなど資材を節約しなきゃならないところでレジャー的に潜ってみたりと、別方向につかれる行動をしてくれる。

 最初の死者が玄人の一人(女性ダイバー)の平時でのパニック死(空気ボンベ・呼吸器の破損で、相棒から一つしかない呼吸器を借りつ返しつしたが数往復でパニックになり……)であった辺りから察せられるとおり、遺品を再活用しようとしたべつの玄人(父)もまた、感情に任せてカップル(の彼氏のほう)のカメラを捨てたりするから、手持ちのライトが無くなって困ることになる。

(照明=心理状況の演出はここでも機能していて、感情を荒げた玄人は、カップルの彼氏によるフラッシュにより明滅する照明の時空間にさらされている)

 

 声を荒げない玄人は玄人で、潜水病が再発しケガもし足手まといなので自殺的に雲隠れを選ぶ人がいるのだが、前述した素人の女が薄着で寒さにふるえているのを知りながら、ウェットスーツを着たまま雲隠れするのだった。(サイズが合わないから脱いでも仕方ないと判断したのかもしれませんが……)

 

 さて玄人同士のパニック模様は――クライマックスで新人の主人公が洞窟の天井にたまった空気で呼吸して進んだシーンのように――この玄人たちも狭所まで戻って、天井のくぼみに空気をためたり袋などをあらかじめ用意して即席呼吸器化(劇映画『ポセイドン』でやってたアレですね)すれば、自分の肺活量以上の空気を用意できるのではと思うし。そうしていれば一方の手も空いて、損傷状況を見て可能であればリカバリするというようなこともできそうなものだけど、邪推しちゃうとクライマックスを際立たせたいがゆえにか、ここではそういう対処は登場しない

 

***

 

 実体験のほうは89年に『Nullarbor Dreaming』というTVドキュメンタリとしてまとめられていて、2DBDの映像特典『ナラボーの洞窟探検』が邦訳みたい。

 『ナラボー~』によれば、生き埋めとなった16人のチームは、地上のひとびとと地下生き埋めチームとでそれぞれ穴を掘り、横穴を開けることで脱出したのだという。カメラマンのひとは、持ち込んだカメラで状況を記録したのだと云う。ぜ、全然違うじゃん……。

(『ナラボーの洞窟探検』自体はあまり面白くない。洞窟ダイバーがどんな仕事か概要という感じの内容で、さらっとしている。尺の1/4くらいを占める事件については見たい画が全然登場しない。『NHKBS 世界のドキュメンタリー』は選別がきいているのだなと思った)

http://www.abc.net.au/7.30/real-life-story-inspires-big-budget-movie/2669990
http://adventureblog.nationalgeographic.com/2011/02/02/cave-diving-making-sanctum-a-3-d-adventure/

http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-40714886

 

01/24

 3D字幕『ブルー 初めての空へ』

 3D字幕をPSVRで。

・凄まじい。

絶滅危惧種のオウムから、無数にいて観光客から食物を貰い金品をスる猿まで。リオのコロニアルな建築で働き動物愛護する知識層から、マッチ箱住いで動物を密猟売するギャングまで……サンバからラップまで総出の歌付きスクリュボールコメディで、しかも非・歌パートも劇中の音が劇伴ライトモチーフ的に機能する。

3D演出は、ここぞという時の平面・遠景で、圧倒的な距離感を創出していて、これまた素敵だった。

 

***

 

 人々がサッカーのTV中継(平面)に夢中になる。

 ブルーと別れた飼い主が張り紙(平面)を貼る。

 浮浪児が一人、窓向こうの室内の一般家庭(中景)を見下ろす、リオの夜景(平面)にそっぽを向く。

 「こんな景色見たことない」主人公がリオの遠景(平面)を見下ろし驚嘆。

 鳥たちが四角い天窓の奥の空へ飛んでいき遠景で舞い歌うのを、ブルーはただ見上げることしかできない。

 鳥を乗せた密輸飛行機が遠景へ飛んでいくのを、飼い主はただ見上げることしかできない。

 

 ほんらいは自由に飛び回れるはずの鳥を、同一フレーム上でしかも近くに収める展開をアレコレこしらえていて(、いちばんの理由は、会話などドラマを展開するにあたって二者が近くにいたほうがよいからだと思うのだけど)これが先述した"二者が遠く離れたショット"を際立たせている

 知識層らしい絶滅危惧種の保護策としての(それなりに大きいが)閉所でのメイティング、無法者らしい希少種のつがいセット売りするための狭く小さな檻籠と足錠つなぎ動物らが自発的にする(リオらしい)ダンス

 リオ貧困層の狭小住宅群や観光客でいっぱいのビーチなどなどを飛び回る、さわがしく物が間近に迫ってきてアトラクション感あるドタバタチェイスもまた、シーン単体として面白いというだけでなく、ふたりが遠くにいるショットの寂しさ・静けさを際立たせているように思う。

 

  ■3Dと無関係のところで■

 

 ライトモチーフ的に使われる、打音の連続

 メイティングの密室に閉じ込められたブルーがドアをコンコン叩く・ヒロインの鳥ジュエルが換気口の鉄格子をドンドン叩く。

 鳥vs猿の場面で、両者がにらみあうなか太鼓(劇中にあって、劇中動物が鳴らす)が連続的に鳴らされる。

 飼い主のヒロインが不慮のなかで山車(フロート)に押し込まれ、壁を叩くなか、サンバの楽器隊をドラムを鳴らすなか、主人公ブルーらが別のフロートの中の鳥のヒロインを探し走る。

 悪玉が扉を無理やり開閉し、扉がその前に散らばった物とドンドンぶつかる連続的な打音がひびくなか、ブルーらが籠から出る。

 

***

 

 展開はところどころ変な方向にころがって、終盤の主人公ブルーの成長についてこそストレートだけど、こまかい場面はそうじゃない。楽しい展開・面白い画のために倫理もたやすく放られている

(悪玉は鳥を盗んだり金品を盗んだりするのだが。善玉飼い主カップルも、こちらはこちらでカルナバルの衣装を盗んだり、立派なフロートを奪って追走・破壊したりとひどいことしている)

 

 へんな方向に転がる一例として、ブルーらが後半、足錠をはずすため機械屋さんの犬に行って丸鋸で切ろうという場面

 結果としては、ブルーら鳥カップルは拘束から自由になるのだが、足枷が切れたからという素朴なものではないのだ。犬は安全マスクで視界不良になり足元おぼつかず自分のよだれに足をすべらせ、鳥は恐慌し逃げ、飛べないブルーはさらに恐怖に震え……とドタバタがあり、けっきょく切れるのは犬のかぶったマスクだけで鳥の足錠は切れない

 犬の口に鎖がからまり、しかし仰向けに倒れた犬のよだれが鎖を伝って鳥の足に垂れてすべりがよくなったので、足錠からスッポ抜ける……ということになっている。

 

 ほかの例としては、前述「打音」の話で出た「悪玉が扉を無理やり開ける」シチュエーションも、べつにブルーらが悪玉の侵入を防ごうと思って意図的にふさいだわけではないのだ。

 籠のなかの鳥を開放したら、歓喜で勢いよく飛び出たその付随的な効果として檻が転がり散らばった……ということになっている。

 

***

 

 雪国ミネソタの書き込みも素晴らしい

 人語を解す(=オウムなので)飼い鳥ブルーが、飛行機のアナロジーとして飛行をこころみて、クリスマスのカラフルな電飾チューブを滑走路にする……といったアイデアが投入され、そこからつづくアクションは、冒頭から終盤まで変奏される重要な文脈のひとつになっている。
(もしかすると、リオ到着初日で車を足止めするのがカラフルなカルナバルの一団なのも、舞台説明・映画後半のイベントの事前紹介というよりも、ブルーを宙づりにしたのがカラフルな電飾だったからかもしれない。)

 

  ■飛ぼうとして尻ごむ/紐が絡む■

ミネソタの本棚のお手製滑走路からブルーが飛び立とうとして走るも、〇ためらい急停止したら、勢い余って口にチューブが絡まり高所から落下し、〇電飾チューブに縛られ宙づりになる。⇒場面かわって、飼い主のヒロインと抱き合う。

▼OPクレジットの、色とりどりの鳥が飛び立ち、ひな鳥のブルーが木の穴から飛ぼうとするも、尻込みしていると逃げる鳥にぶつかった拍子に落ちる⇒密輸飛行機で飛ぶ⇒ミネソタの、赤信号の切り替わる交差点で密輸トラックが急カーブ、飼い主のヒロイン(少女時代)が箱をあけ、ひな鳥ブルーを両手で抱く。

▼中盤のギャングのアジトから出るシーン。▽飛び立つジュエルを足止めして窓の鉄柵とさっきまで閉じ込められてた檻を口で咥え、悪玉鳥の接近におどろき離して(檻の位置エネルギーが運動Eに変換・悪玉鳥がぶつかりノックバック)落下し、貧困街らしい建物と建物のあいだに通された洗濯ヒモにひっかかり色とりどりの洗濯物を横切りつつ(ブルーの顔にひっかかるピンクのブラジャー)壁に激突、洗濯ヒモを留める杭がスッポ抜けて落下、ブルーはジュエルともども地面にぶつかる(飛び散るピンクの包装スチロール)。

そこから更に、徒歩で逃げつつ(ブルーがジュエルに足運びをレクチャー)トタン板をスケボー代わりにしてサッカー中継に夢中の人々のうえ貧困街の屋根をバウンドしながらすべり落ちることになる。

▼一夜あけて丘から降りるシーン。▽ジュエルが前段のアジト脱出時にブルーから教えてもらった足運びで先行しながら飛び立って、色とりどりのハンググライダーにぶつかりながら落下、パラソルだらけのビーチに落下(飛び散る赤いパラソル)、そこから更に、水着の人々を横切りながら(ブルーの頭にぶつかる赤いビキニのナイスバディ)ボールと合体しビーチフットバレーなどをやる一団に蹴られ、ブルーはジュエルともども地面にぶつかることになる。

▼鳥vs猿のバトル~高架を走る市電に乗る。▽ブルーとジュエルが足並みそろえて猿を避け、鎖で転ばせたり、猿の親玉に襲われたブルーを助ける武器になったり(足錠を引っ張り、持ち上がった鎖で股間を一撃)する。 高架をいく路面電車に乗るための一助にもなる(鎖を仲間の鳥①にもってもらい飛ぶ)。

▽ヒモについて付記。二羽にとって枷でしかなかった鎖付き足錠が、ここで偶然・敵を拘束する道具になりジュエルが使いこなせる武器になり、この条件下で飛ぶためのメリットにもなっている。 そのためここまで鎖付き足錠がやってきた役目はこのシーンだと、悪玉(ブルーをつかまえ次々つらなるサル)が担うことになる。〇もちろんジュエルにとっては不自由な飛行だし、ブルーにとってもこの飛行が正解じゃないことは、飛行に適した姿勢がとれず逆さ吊りになってしまった彼の頭にサルがつかまることで、明らかだ。

▼後半、犬に足錠を切ってもらおうとするくだり。▽犬は安全マスクで視界不良になり足元おぼつかず自分のよだれに足をすべらせ、鳥は恐慌し逃げ、飛べないブルーはさらに恐怖に震え……とドタバタがあり、けっきょく切れるのは犬のかぶったマスクだけで鳥の足錠は切れない。

犬の口に鎖がからまり、しかし仰向けに倒れた犬のよだれが鎖を伝って鳥の足に垂れてすべりがよくなったので、足錠からスッポ抜ける。 

▼終盤、密輸飛行機内のクライマックス。▽密輸空港で密輸飛行機にカラフルな鳥型のフロートの頭がぶつかる。場面かわって飛行中の密輸飛行機内で、ブルーが結線した消火栓を落下させることで檻を無理やりこじ開け、色とりどりの鳥を飛び立たせる。〇悪玉鳥にのしかかられるも、死角からロープを繋げ攻撃・ノックバックさせるたうえで、〇閉所から落下し、鳥のヒロインと抱き合う。そして海面にぶつかるスレスレで飛ぶ。

▽ヒモについて付記。紐状のものはブルーを縛るものではなくなっている。そして、ブルーが自由につかいこなせる道具・悪役を拘束し倒す武器になっている)

 

***

 

notevenpast.org


 イェール大のセス・W・ガーフィールド教授による『ブルー』批判。ごもっともなんだけど、「わざわざ言う必要あるのか?」とも思い、ネガティブな人間として反面教師的に勉強になった。

「ウェルズ『It’s All True』やヒチコック『汚名』、『007ムーンレイカー』、あるいはRKOの『Flying Down to Rio』やS・ドーネンら『Blame It on Rio』のような作品であろうと、リオは"社会的狭窄にしばられない場、モラルの崩壊を許す場"として映画の主役であり続けてきました。

 監督のカルロス・サルダーニャはブラジル人だけど、『ブルー』で描かれるリオやそこに住むひとびとは依然としてステレオタイプから出ていません。

 リオのひとびとは、カルナバル参加や、ビーチやハンググライダー遊び、泥棒することに夢中なので、誰も仕事をしていません。

 そのことについて批判したブラジル人は一部の批評家だけで、大半のブロガーは『ブルー』を歓迎、ブラジルでもヒットしました。

 ステレオタイプに魅了されたり当然顔で受けとめるこうした観客の存在が、この国民性についての神話がブラジル本国においてもいかに根深いかを強調しています」

 というようなことをガーフィールド教授は言ってるっぽい。

 

 『ブルー』にもセリフの乏しい・ない背景人物としてなら、上記に当てはまらないひとも少し出てくる(。レストランで料理・給仕するひと、早朝に街路を清掃するひと、南国の代物をトラックで運ぶひと、警察官など)けど、メインキャラへの批判はおっしゃる通りで、社会学の専門家からそういう声が出るのはよくわかる。

 ただ、出ただけで終わってしまった簡単なエッセイで、あまり興味深くなかった。

 

 『ブルー』が記号的なデフォルメがきいている作品だなんてことは、べつにブラジル人じゃなくたって分かる。

 そんなこと、ブルーらがブラジルに行くまえ、雪国ミネソタに住む(劇中アメリカンガールだかと称される)飼い主の眼鏡で・本屋で・地味で・インドア派の女性を見た段階でわかりきったことじゃないか。

 そんな現地を知らなくたってわかる指摘や、ハリウッドによる百年ちかくまえからの前例紹介に紙幅を費やすんじゃなくて。他のこと――たとえばステレオタイプではない多様な、しかしブラジルじゃなければ成立しないような、独特の味がある映画・作品・文化の紹介とか――に文を重ねてくれたほうがありがたく思った。

 

 この批判に襟元をただしても、つぎに向かうべきただしい道しるべが示されてないから、どこにも行けないのだ。

 なにせハリウッドでも活躍している現代のブラジル人監督フェルナンド・メイレレスや、ジョゼ・パジーリャ)も、映画史的に有名なシネマ・ノーヴォの代表的人物たちネルソン・ペレイラ・ドス・サントスヴェネツィア国際映画祭審査員も務めた)ジョアキン・ペドロ・デ・アンドラーデグラウベル・ローシャも出てこないので。

 この評をよんだひとは、ハリウッドによるステレオタイプ(しかし魅力的なエキゾチズム溢れるらしい)ブラジル描写にふれる道は進めるだろう。

 でも、サントス監督『リオ40度』『乾いた人生』の実録的な生活のつらさ(キイキイうるさい台車の音。貧しい農家が一家で町にやってきて品物を売るも安く買いたたかれそうになるので、農夫がおそるおそる「おれの嫁は算数ができるんで、やってもらったんですが、これはたぶん間違ってますよ」ともごもごと異議申し立てをするも、聞く耳持ってもらえず、すごすごと帰るしかない、やり切れなさ)、 ジョアキン・ペドロ・デ・アンドラーデ監督『マクナイーマのアニメ以上にファンタジックな異世界ぶり(大規模な現地ロケと、ロケ地の魅力に上乗せするかたちで投入された物量がもたらす異界ぶり)にふれることは、なかなか難しいのではないかな。

 

「"批判するなら代案をだせ"と言う人、なぜそこまでこちらがやらなければならないのか?」

 という声はあるしそりゃそうですよねと頷くけど、じぶんの好き嫌いで関して言えば、批判だけで終わるうえにその批判自体が読みでのないものであれば、あまり面白くない。ひとに押し付けはしないけど、自分が書くうえでそういう書きかたは避けたいなと思った。

{だからって、「××はダメ、〇〇は良い」って簡潔に言われるのも、それはそれで(ダメだとされたものが自分にとって"良い"と思ったものだったら尚更だけど)、「具体的にどこがダメでそれと比べて何を良いと判断してそう言ってるのか?」と反感いだくから、批判自体が読みでのあるものが大前提になるんだろうか? 「ひとに押し付けはしないけど、せめてじぶんの書く感想は……」とか考えていたが、そういう長くよく考えた出来の良い感想を書くのはたいへんなので今以上に投稿しなくなるにちがいない。

 こうして自分で自分の首を絞めていくんだな、意識高いが実力ともわない系の典型パターンだな……と物悲しくなった}

{2023/02/14追記;

 ダメだと思ったものをどのように語るか? これについては現在、ちょっと考えがゆらいでいる。(自分が美点を見いだせなかったものについていくら語ろうが、「虚無」を連ねていくだけの報告になってしまうのではないか? と思うようになった)

 今となっては、「n分で退場した」がいちばん潔いんじゃないか、とさえ思うようになってしまった(物足りない気持ちはいまだに生じるけど)

 

01/26

 3D『Cease fire』

 3DをPSVRで。

 陸軍大将マーク・W・クラークの前説・前口上によれば、朝鮮戦争の現地で実際の兵士を起用し撮られた映画だと云う。米wikipediaによると実弾で、3Dカメラで撮られた最初の戦争映画の一つ。

 今作の3D表現は臨場感を与えてくれる感じだ。『大アマゾンの半魚人』同様に今作の3D映像は立体感がはっきりしていて面白い。

(2D)映画で見慣れているはずのモノが、こんな面白いかたちをしているのか」と気づかせてくれるのは勿論なんだけど、とりわけ爆発が衝撃的だった。他の3D映画にでてくる爆発と別物に感じられたのだ。

 一瞬では生まれえないだろう三次元的に巨大なものが一瞬で生まれてしまう異様さ。(高fpsでゼロから仔細に写されると逆に微妙かも)

・冒頭のカメラ正面を向く高射砲にギョッとした。真っ黒な砲口が向きを変えるうちにライフリングとその奥の人が見えてくる

・稜線に沿った形かクネクネの塹壕が面白かった。

遠近感つぶれがちな鳥瞰的な引きのショットで立ち上る爆煙の柱が凄い。

 

 今作も『大アマゾンの半魚人』も、体感としてはカメラから2m~10mくらいの空間を、30cm~3mくらいの立体感で表している感じがある。モノのかたちがよくわかって、実体感をありありと感じる。

 現行の"奥行きを感じさせる"類の3D表現は、それだけ画面に映るものが遠くにあるみたく写されているということで、現実の遠方にあるモノがそうであるみたく遠近感がつぶれてミニチュア感(というか、平板であるがゆえの張リボテ感)を覚える。

 もちろん『Cease fire』等にみられる――現実の空間と照らせば違和感のあるだろう表現のほうにこそ、ミニチュア感やチャチさを感じる人もいるだろう。

 ただし「そういう人が多いからこそ、現状のトレンドがあるのでは」という向きには疑問を投げたい。

昨今の3D映画を両方見たうえで現行が良いと言ってる人がどれだけいるのかという疑問でもあるし、「奥行きがあるからドラマに没入感が」みたいな話への疑問でもある。

 奥行きある空間がドラマを生むなら、どうして映画は舞台劇的なショットから顔だけを切り抜いたアップショットが生まれたんだ? という)


  ■3Dと無関係なところで■

 無駄口を最小限に、行軍と戦闘を繰り返す作劇で、かなり好ましかった。

 丘上の堅牢な陣地にこもって、遠方にいる見えない敵と塹壕戦。(衛生兵を呼ぶ声) 

 「休戦」の通達でリパブリック賛歌を口ずさみながらの山下り。

 丘を攻める命令が下り、志願者2名と上が選んだ人の10名くらいによる少数部隊が行軍。(在韓兵が地元の老人を見つけたり。地雷原をナイフで刺し刺ししながら進んだり)

 丘下に10対丘上に2の数的有利な少人数戦。

 丘上に10対丘の更に上にα+丘下遠方に300の戦闘。軍曹が被弾し倒れ、助けに在韓兵が立ち上がる。……という感じになる。

 

 作戦模様に、起伏ある地形効果がアレコレ出ている。

 10対2の戦闘で、砲弾や銃弾の雨をふらせる高所の敵にたいして、本隊を固定し膠着状態を演出しつつ死角の険しい道から別動隊2人をだしそちらに反撃させるさい、別動隊の行軍によって険しい傾斜という地形の当然として、石が転がりおちる。

 転がることで出た音が、敵に別動隊の存在を悟らせてしまうのだ。

 行軍中、傾斜に足をすべらせるひとがおり、転げたさきで爆発するひとがいて、落下=危険という文脈ができている。

 

***

 

 在韓兵士の知りあいの老父がなぞの存在感を発揮していた。

 老父は砲音にもどうじず田んぼにひとりぽつねんといて、在韓兵士が駆けより韓国語で会話(字幕なし)し、動きだすのだが、慌てて逃げかえるような感じではない。

 兵隊が去ったあと、老父がダッシュで山を下るさまが映され。ハングルの見える基地を走るさまが映され(通り過ぎるだけ)。村を走ってさらに民家に入って、在韓兵士の身重の妻と話すことで、「ああ、このひとは本当に近所の、やさしい性格ゆえに走っていたんだな」となるのだが……

 ……今作の丘戦・現地民とのかかわりあいから山岳戦映画『ローン・サバイバー』が想起され、走る老父の姿に、なぞの不安に駆られたのだった。

 「民間人がじつはそう装っただけの敵だった」という展開はこの時点でどれくらい一般的だったんだろうか? 今作がそれを踏まえたうえでの変化球だったとしたらなかなかだなあと思った。

(J・フォード監督の『真珠湾攻撃』で床屋などふつうの生活・仕事をしてるように見せかけてスパイである日本人の姿が描かれていたし、ありえないことではなさそうだ)

 

03/09

 『イン・マイ・カントリー』

 このとき鑑賞メーターにしたためたことが、1.5年後に当blogの感想記事の元となりました。

zzz-zzzz.hatenablog.com

 

03/20

 ダメ社会人記

 伝えるべきことを伝えるべき人が不在の時に聞き、
「まだ余裕あるしあとで伝えればいいや」
 と伝えずにいたところ締切を勘違いしていて予想外にはやく締切がきてしまい、間際になって伝えた当然の結果として怒られる。

 こんなかんたんな報連相ができてないなんて社会人失格だおれは。

 

03/24

 ダニエル・エスピノーサ監督『ライフ』

・美術周り素敵

・真面目なお仕事映画

・尺短め。

・何より「絶滅の危機」と識者に嘆かれるタコ足火星人を現代に出す志……と好感。

小川哲さんの論考『タコ足の火星人はなぜ絶滅の危機に瀕しているのか?』(『ユリイカ』16年1月号)}

研究機器や粘菌の接写。ISSのスプリンクラのデジタル計器やスラスタの原始的な計器などが拝める。「削除場面」では、中の詰まった冷蔵庫やプリン状宇宙食なども。

・所々のイメージも良い。気絶者へ伸びる無人のゴム手袋、のホラー具合。安全な宇宙服で溺死。最後の脱出ポッド内。

・展開の変奏もある。

長回しは空回りしてるように思えた。作劇への効果がよくわからない。

 

 エスピノーサ監督作は初鑑賞なので、作家的にどうということは何とも言えないんだけど、まじめな作品だと思った。もしかしたら極端に走らないと言うのが正しいかもしれない。(過去の監督作チャイルド44 森に消えた子供たちの興行的失敗を受けて、"置き"にいったのか、もともとそういう性分のかたなのかわからない)

 ピルグリムが上陸しただか何だか言うものの、だからといって「『エイリアン』『イベント・ホライゾンのように宇宙空間で怪奇映画をやろう」という舵切りはしないのだ。

 『エイリアン』が静かで白く清潔な宇宙船で始まって、次第に、騒がしく蒸気が噴出しじめじめと暗く汚れていく空間へ向かうのと違って『ライフ』の舞台はそうした変化が少ない。あれこれ照明が変わるのだが、よく意味がわからない

(いや、「赤になると危険である」というのは徹底されていたように思う。

 ただ、照明の明滅やブロックノイズなんかは、序盤の、なんてことない――というか、劇中で輝かしい時分の――地球とのTV中継のところでも登場していたように思う) 

 だからといって、アメリカの伯父さん』(階級を違えた男女3人の人生が、スキナー箱の中のネズミの行動の場合分けでしかない映画)や、有名俳優だろうと死ぬときはさっさと死んで臓器を見せていくコンテイジョンのように、生命を単なる物体として見るような、つきはなした視線があるわけでもない

  ■好ましさと面白さと凄さについて■

 以上のとおり、「非常に好ましい作品だったが、好感は興奮ともちろん違うし、好ましさは面白さとは違うし、凄さとも違う評価軸であるなあ」という感想をいだいた。

 

 たとえば、『プロメテウス』はぼくにとってとてもつまらなかった作品だ。バカなキャラばかりで疲れた。

 あるいはインターステラーは、作品全体としては大部を占める会話劇が棒立ちとか座りっぱなしとかで非言語アクションが少なく、それを抜きにしても尺の長くて疲れた。

 どちらの作品も鑑賞中にいだいた不満は『ライフ』より大きい。でも(製作費が違うとはいえ)ギョッとさせられたりハッとさせられるイメージが出てきたりしたのは、『ライフ』ではなくそれら2作のほうなように思う。

 

 作り手の発言を追ったわけではないから確証はないけど、『ライフ』自体も、見たことのないイメージ・すごい光景で観客をどうにかしてやろう、という類の気持ちは別にそう大きくないのではなかろうか?

 『ライフ』の動く宇宙船を船体後部につけたカメラでとらえたショットは、インターステラーのそれを参照しているだろうと思うし。

 『ライフ』冒頭の静止画みたいな宇宙の背景ショットをじっと見ていると、遠方から人工物が迫ってくるショット、ISS内の狭い通路内を行ったり来たりして船員の仕事を追った長回しなどは、ゼロ・グラビティを参照にしているのではないかと思う。

 ただ、『ゼロ~』と比べて、長回しで撮ることによる演出的な効果はよくわからなかった。

 冒頭以外で長回しが用いられない理由はなにかあるのだろうか?

 『ゼロ~』や同じ監督の『トゥモロー・ワールド』ではおおむね動く被写体に付き添ったカメラワークだけど、『ライフ』は40秒も無人の空間を漂いあちこち見やる何者かの視点となっていて、人が画面に映されてからも、動く人を追いかけているようでたまにそれを無視して窓外を見たりする。

 CG発展目ざましく「あれがあれば何でも撮れてしまう」というような誤解をいだきやすいこちらとしては、物語に無関係の美術だけをぐでーっと眺めている時間は、(タルコフスキーやらソクーロフばりに長尺を取る過剰さがあるならまだしも)尺を無駄にしているようにも思えた。

 

 わからないといえば、無重力空間の映画全体での効果も、よくわからない。たとえば『ゼロ・グラビティ』であれば無重力表現はラストを際立たせるためにある……これはだれにでも分かるじゃないっすか。

 じゃあ『ライフ』はどうか? 今作では、下半身不随者がいたり(宇宙で動き回れることを鳥のようだと喜んだり)、腕力が試される場面もあれこれある……というか、ピークといってよい場面である。

(宇宙人に掴まれた黒人船員が、手を抜こうとがんばるも、ベッキベキにされる場面とか。

 船医が扉を開けようとする一方で、宇宙人につかまれた船長が逆回しにし画面遠方へ消えていく場面とか。

 減圧に吸い込まれる日本人船員と、それを防ごうと彼の手を掴む女性船員、そこで自己犠牲で振り払い画面遠方に消えてく日本人船員のくだりとか。

 宇宙人と船医が、脱出ポットの操縦桿を争って押し問答する場面とか)

 にも関わらず、「じゃあそれらを貫く何かがあったか?」というと、見当がつかない。

 

***

 

 ぼくが二手に分かれた宇宙船の進路について『ライフ』がとった誤解をさそうカッティング{室内の操縦士Aが操縦桿を引く⇒脱出ポットのひとつが上昇する→脱出ポットのひとつが宇宙へ消える⇒ガタガタ震える室内の操縦士Bが操縦桿を一定方向に固定するように少し倒しつつ握る⇒脱出ポットの一方が大気圏内に入り燃えつつ震え直進する。→地球に落下したのは飛行士Aのポットでした}に訳わからなさと不快感をもっていて、坊主憎けりゃ袈裟まで憎し現象がおきてるだけかもしれない。

 

 『ザ・サイト』ポール・W・S・アンダーソン監督の傑作のひとつ

・TV映画だが安さは感じない。ロケ地が魅力的。

・ドラマ化が目論まれてたらしく謎のヒキで終わるが、悪くない。

 ベビーカーの沈むの玉を取ろうとする少女が襲われる過去の夢から始まり(主人公はインターホンで起床。車も電話BOXも埋もれ信号が黄色く明滅する浜辺じみたニューヨークを自分が歩く未来の夢で終わる。

中盤の山場も文脈が。

 都市に空いた下水道の真っ黒な穴へ向かう。黄色く明滅する作業車を横目に奥へ進み、携帯電話の通じぬ奥(ちなみに電話の相手は、冒頭のインターホンの相手である)、主人公は犯人と格闘、気絶させられる。

 目覚めたあとの展開もよくまとめられている。

 序盤の夢の終りは、主人公が寝ぼけて触れた写真の束とその上に載ったワイングラスの落下→インターホンの青い画面→主人公が窓向こうを見つめる先にNYの摩天楼とそこを飛ぶヘリコプターの白い粒だったが。

 中盤の山場では、気絶から目覚めた主人公は白い円形の電灯を見る。そこでピンク色の鎮静剤を注入される。ガラス窓に区切られた空間で、その奥の青みがかった暗がりには刑事たち

  ■土地の魅力■

 物語自体が、過去に起きた事件の内幕を知る過程で土地の歴史に触れるというものだからか、さまざまな舞台が拝める

 曲線的な壁がガラスで覆われたカーテンウォール建築や、主人公の借家のポストモダンな様相(白を基調としたシンプルな壁はジェームズ・タレル的にカラフルに染められ、エントランスにあるバーの入り口両脇を赤と白のデカいチェス駒モニュメントが立ってる)から。背が高い開けた大理石の柱が並ぶ警察署オフィス(本当は何の建物なんだろう?)と、狭く暗い配管丸見えの資料室。駐車場などの、なんてことない50年代建築。川岸の壁が苔むした桟橋下新旧電車内。燃えて真っ黒な廃墟、墓地下水水道などが拝める。 

 

 地下水道は中盤終盤と訪れる場で、描き込みが厚い

 赤い二階建てバスがはしる四車線の道路のあいだを割いて二車線ぶんの幅を陣取った下り坂を降りたさきにぽっかりと開かれた黒い穴……という立地が素敵だし。

 入り口付近には人気(ひとけ)があって作業員と作業車が行き来し、プレハブのオフィスもある。奥に入っていくと、携帯が通じなくなり、廃墟じみた穴があれこれ現れ、息が白くなり、水流の壁がある。

 事件発覚後は青と白の規制線が張られそのさきを(15:01)赤いコーンなどでふさがれ(14:38)主人公らは車でそれをちぎったり車から降りてあいだを歩いたりすることになる。

 

  ■土地の魅力・背景小物の使い方■

 背景小物の使い方もよかった。

 わずか1分あるかないかという短尺である、戦時下の列車内シーンも抜かりない。赤ん坊用のガスマスクを着せられた赤子を膝に乗せた若い女性が手押しポンプをしゅこしゅこやる様子が見られる。

www.bbc.co.uk

 

 上の例はトリビアルな楽しみだけど、映画の序盤から中盤後半周半までころがされるモチーフもある。

 とくに気に入ったのは、ごおぉと唸る上に白い煙さえ吐くダクトの音の直上で殺人事件の推理を深めたるところ(40:00)。

 ちょうど再読していた伊藤計劃『From the Nothing,With Love.』(『The Indifference Engine』ハヤカワ文庫p232)の殺人事件について推理を進める諜報員も「英国は、ダクトの国だ」と評していて、妙なシンクロニシティを感じた。

{『FtN,WL.』ではそう言い切りながらも劇中の饒舌な語り手には珍しく具体例がないので、てっきり「実際の参照元(伊藤さんが尊敬していた)黒沢清の演出じゃ?」とも思っていたのだけど、イギリス関連で何か元ネタがあるのかもしれない}

 

 その前段では、ふるい洋館のセントラルヒーティングが白く煙を出すなか推理が行なわれたり。(11:01、12:04 ただ噴き出すだけでなく、蒸気が器具にたまって滴がぷるぷるする)

 幽霊が車の天井を焼き文字を描いて、白い煙上げさせたり。{23:19 駐車場エレベーターから出る主人公を画面奥に捉えて、彼の下半身を隠す中景の車のさらに前に白い煙を流して、彼がその煙の発生源である高級車まで近づく二十歩・十数秒までじっと待つショットのコンポジションが素敵。

 主人公は怪しい男を追いかけるも、車に轢かれ(画面右から左にバックする。急ブレーキの甲高い音)車体とタイヤと路面とがつくる画面内画面の向こうに、逃げ去る男の姿を見る(24:00)

 

 シーンをうしろへ進めて地下鉄で出会った幽霊と手を握り、彼女の過去を覗いたシーン。そこでは、川向うに煙を上げる戦時下ロンドンの夜景が見えたり。{46:52ら辺。画面右の、灯火管制された窓に一部空いた横長ののぞき穴からのぞむ光景)

 

 下水道で、シリアルキラーに出会う直前のシーン。そこでは主人公が白い息を吐き、煉瓦壁の円形アーチから滴が垂れる。(56:51 57:04)。

 女性刑事が画面右にあいた穴を覗いて、そこから現れた電車にあわや轢かれそうになる。{線路と擦れる甲高い音、ごおぉんという唸るような音、水音(58:01)}

 

 主人公が男性刑事の運転する車にあわや轢かれそうになったあと(1:16:04)のクライマックスでは、地面に空いた排気孔(か天窓かという穴)音を立てて光ることで主人公は事件の現場に近づく(1:16:40)

 

  ■活劇的なところ■

 基本的には、ジャンプスケア・ショッカー・ホラー演出は、劇中の音で処理できそうなものも劇外からさらに驚かし用の音や音楽を足したり。あるいは、被害者が襲われるところとかはカメラの側でギョーンと高速ズームして恐怖を煽ったりするのだけど……

 ……一部シーンでは、「劇中のキャラの自然な動きとして(ショッカー演出的な)過激な映像演出が生まれたのだ」と劇中現実として理屈づけられていて、ここは「(『ザ・サイト』製作陣の)頭がおかしい」と思った。

   ●劇中現実を忠実に映した結果としてのジャンプスケア、ホラー演出

 たとえばホテルのガードマンから「昼間に郵便が届いてました」とホテルから帰る夜になって渡された主人公は、自分が運転する車内で郵便の中身を確認する(!)

 これだけでも驚きだけど、そして写真を一通り確認し終えた主人公がふと顔を上げると、老婆が車道に立っているのである。直進する車におかれたカメラの当然として、彼女を高速でトラックアップする。

 鑑賞者にとって衝撃なシーンは、劇中の主人公にとってもそうなのだ。

 

写真を確認するシーンも(上のような意味で)面白かった

 写真はホテルの"開かずの扉"のおどろおどろしい鍵穴の装飾であったり、(のちに死者と判明する)子どもたちの写真であったりと様々ある。

 被写体じたいがなかなかおそろしいんだけど、『ザ・サイト』はそこへさらなる恐ろしい演出を文字どおり上塗りする。その写真のうえから雨水に濡れた車窓の外から差し込む、白い街灯信号か何かの赤い光などが瞬いて投射されるのだ。

(ちなみにこうした赤と白の光の明滅は、後半の護送車両内のシーンでも登場し、車が止まって照明が安定したところで、車内に集まった幽霊の子どもたちがじっくりと映されるところで、解決を見せる)

 

 主人公が老婆を轢いてしまうこの交通事故は、犯人の造形など根幹設定をふくめ様々な場面がこれ無しには成立しなくなるような、かなり意味のある展開だ。

(余命いくばくもない老婆がここで亡くなり幽霊になったことで、時間も場所も体力も問わず自由に主人公と話せるようになるとか。

 この事故により事情聴取を受けたことで主人公は事件を一緒に捜査する警察とのかかわりができたとか。

 老婆を殺した主人公に彼女と懇意にしていた幽霊が恨みをもつことで、終盤にある幽霊との和解・団結の感動は大きくなるとか)

 『ザ・サイト』の犯人像は、もともと本物のシリアルキラーに巻き込まれた被害者であったものの彼に感化され、そのおこないをなぞるようになってしまった二代目キャラなんだけど、対する主人公は(この事故もふくめ)先代霊能力者(老婆)の思惑に巻き込まれた被害者だったが、自分から彼女と同じく幽霊の手助けをするようになる二代目キャラきれいに対になっているのだ。

 ……だからといって、この展開をするためには、乗り越えるべき常識の壁ってかなり高い。

 ふつう、じぶんが車を運転中に(しかも夜に)よそ見して書類を確認するひとはそうそう居ない(。いやまあ「それはそれでひとつのリアリズムだ」という見方もあるだろうし、実際そういう不用意なひとや瞬間もありますが)。物語へ採用するしない以前に、そもそも思いつかない。

「すごい絵を思いついちゃったから、映像化した」

 というような部分が、少なからずあるんじゃないだろうか?

 

  ■活劇的なところ■こんな『不思議のアリス』オマージュうさぎ、アリっすかww?

 たびたび登場する思議の国のアリス』モチーフについて。この感想でも前にチェスの駒を話題にしたけど、なんか色々あるんです。

 途中まで「?」という感じだったのだけど、終盤の怒涛の活用で大笑いした。さすがまじめなベント・ホライゾン』で宇宙船お仕事映画と古めかしい怪奇映画を同時並行して達成させたW・S・アンダーソン監督である。

 幽霊の神出鬼没な設定を、まるで木の上で寝転がるチェシャ猫みたいに、持ち上げられたショベルカーの上で寝転がってどうでもよいことを言うかたちで活かしたりとか。

 『ザ・サイト』の殺人鬼の設定として、歴史にそって殺人を行なうという人物とすることで(そのためにわざわざWW2英国の赤子用ガスマスクまで持ち出して真面目に歴史をえがいたうえで)、まるであの話のウサギみたいに、(目論見どおりに事件を行なえるよう)時計を見ながら(車を猛スピードで)走らせる姿を出すというかたちで活かされたりする。

 

 い影』からの引用(主人公が夢にうなされ、建築写真が赤い液体に染められる)は、そこにとどまらず独自の文脈を築いている。

(今作では犯人がそのオポジットとなるイメージをもたらしている。つまり犯人は主人公を隠し撮り、そして暗室の赤い照明で染め上げるのだ)

 欲をいえば、終盤でこの"赤"をもうひと転がししてほしかったですが、もしかすると、"赤い壁と照明が輝く街路を主人公が走っていると、犯人の車に轢かれそうになる"シーンがそれにあたるのかもしれないとも。

 

 会話劇も、長すぎず棒立ちにならず素敵だ。

 たとえば終盤の女性刑事と上司との会話では、水の垂れる奥に場所を移しながら/歩きながらの会話となり。雲行きがあやしくなると、女性刑事が立ち止まり。さらにあやしくなると、拳銃を握りなおす(引き金に指をかける)。

 

 ■お話もすき■

 変なシーンや映像的に面白いところについてばかり書いたけど、お話はふつうに面白い。思いついた絵になる場面を適当につないだというわけではなく、ほどよく劇的で、ほどよく真っ当で、とてもよいバランスの脚本だと思った。

 この作品がたどる……

・初代霊能力者の罠により

⇒幽霊と対立というかたちで大きくかかわりをもつようになり

⇒幽霊化した初代に、幽霊たちを助けることを命じられる

⇒幽霊と和解

⇒幽霊とともに活動する・むしろ幽霊に助けてもらう(そのさい対立していた時分にやられた霊障が、窮地脱出のカギになる)

 ……という流れは、なかなか面白いと思う。

 

 霊能力の物語的立ち位置もなかなか素敵だ。

 事件の被害者たる幽霊からヒントをもらうことで、警察でも気づかないような域に捜査をすすめたり。幽霊に請われるという超自然的な動機によって、外国人の門外漢がうごいたりしたことで、「こんなことを知りうるのは犯人以外にない」というような感じで警察に不審がられ犯人扱いされる。

 そして犯人からは、罪をなすりつけられる良い隠れ蓑にされる……というあたりの流れも、なかなかうまいと思う。

 

 現行のかたちで満足しているけれど、個人的に「もしこうだったら面白そう」と思ったのが、「犯人の出番がもっと多かったら?」ということで。

【事件の犯人に触れたネタバレ】

 療養所で隠遁する盲目の重要人物(初代犯人の事件を担当した元刑事)に当時の話を聞きに行く場面で、捜査に当ったのは『ザ・サイト』本編では女性警部と主人公の相棒だったけど、

「もし相棒が男性刑事(犯人)だったらより面白かったんじゃ? あのとぼけた会話や、重要人物の話を否定するような口ぶり、女性刑事に比べ身じろぎや手をこねることの多い聞き姿も、一層味わいぶかかったんじゃないか?」

 とは思った。

 シリーズ化しなかった単発作品で、コメディリリーフの相棒の性格描写に時間が割かれるのはちと邪魔っけ。

【事件の犯人に触れたネタバレ終わり】

 

 シリーズ化してほしい出来だった。そう思うのはぼくだけじゃなくて、wikipediaによれば実際そういう動きもあったみたい。(頓挫した理由はよくわからない)

 ただ、大人気だったとしても難しかったんだろうなと思う。主人公が救うことになるだろう未来の終末風景として、頭のもげたWTCがでんと佇んでいるのだ。00年10月に公開された作品なので単なる偶然だけど、まさかその11ヶ月後に現実に倒壊し跡形もなくなるとは、思っても見なかったろうな……。

 やっぱりすごい監督だなあと感動したので、「シリーズ化など関係ない企画を、腰を据えてしっかり時間とお金に余裕あるなかで一本撮ってほしいな」という思いを改めてもった。 Netflixさんが拾ってくれたりとか、しないだろうか。

 なんというかこの辺のひとびとがいちばん不遇な気がする。

 

 

03/26

 vtuberにハマりだした

 夜勤明け。
 出かけるつもりだったが、家に帰ってちょっと睡眠時間を稼ごうとしたら起きたら夕方になってしまった。
 引き続き、にじさんじ(2023/02/10注;この頃は「にじさんじ」が社名だと思ってたんですね)のバーチャルYoutuberにハマっています。
 バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberのねこますさんからアレコレ見ていたほかの人々にくらべると、にじさんじ社さんは所属のひとびとが沢山おり、横のつながりが強調されていて、箱推し※が発生しやすいみたいですね。
 気に入ったひとの配信のなかであれこれほかの人の話題が出るため、そちらも追うなどしていると映画数本分の時間がかんたんに持っていかれてしまう。おそろしい。


※耳にした用語を、意味もろくすっぽ調べずにうろ覚えですーぐ使うおじさんになってしまった……。(2023/02/10注;この頃は「箱推し」も知らんかったんだなぁ)

 

03/30

 終日お仕事、オフはいつもどおりネットサーフィンの予定が、PCは回線が不通になっていた。

 

03/31

PCの回線は不通のまま。

 

 『ペンタゴン・ペーパーズ』

 凄かった。

 

・緊張した会議模様を、比喩でなく具象にしちゃう腕力。

 電話コードをピンと伸ばす=緊張させる。更にぶるぶる震わす。

 富裕層らしい電話置き用小机上の据置電話をつかわせ、卓上の電気笠のヒモ飾りをぶるぶる震わす。

 

・皆が騒がしく作業中に、暗がりで一人かけさせる。(リーダーに、人波をかき分けて探させる)

 そしてリーダー(家主)の話を無視し電話をかけ続け、リーダーを部屋を複数またいだ厨房の壁掛け子機へと走らせる。

 みんなを庭にあつめ家主にそこでスピーチをさせ、その人波を召し使いが緊急電話を伝えるためにかきわけ、家主の話を何度か遮るよう演出する……そうして電話会議を、冒頭のマクナマラがそうしたように、扉を締めさせて密室にさせる

 冒頭の霧中の戦いで、男たちのハンドサインのこだまを爆音が切り裂き、銃の連射音やヘリのプロペラ音に交じって長髪の記者のタイプ音が連打されたのとおなじように。タバコの紫煙が充満して窓からの日の光がヤコブのはしごをつくった、これまた霧の中である*1誰がいるかもわからない電話会議で、そこへこだまする男たちの「反対です」を、彼らより長髪の女に「そうねそうね」と交じらせ「掲載しましょう」で切り裂かせる。

 

 電話会議の場面をのぞくと、公衆電話でコインを落とすとか書き物を落とすとか、そういうのもある。

 レストランで食事中に、他社の新聞差し止めを聞いたポスト紙社長が会計を済ませるていで部下に電話を掛けるシーンでは、巨大な絵画壁画とそれに見合うウッドの室内装飾で、料理は赤いデザートの暖色系の照明の食卓から。レジ卓内の青白い蛍光灯が下から照らす空間へ移る……なんてのもあった。(さながら冒頭の警備員の目を盗み人目を気にしながら複写した、映画館内のコピー機の青い光のよう) 

 資料整理にあつまったベンらがミートかトマトかのスパゲッティを食べていたのは、これってようするに、赤い食べ物だからなのだろう。
 赤い食べ物を食べ終わったあとに、人波をかきわけ(結果として後追い)、人気ない暗い別室の電話にたどりつく……つまりベンは、中途退席者を後追いし、タイムズ差し止めの電話をベンにかけたポスト社長のレストランでの動きを変奏しているんだ。

 

  ■遠く離れた平板な動きと、いまここの立体な動き。ニクソンマクナマラ、ふたりの悪役像■

 ここまでの感想は、南禅寺の小僧さんの感想(2023/02/14追記;映画感想SNS『鑑賞メーター』の一アカウント。どんな文面だったか今となっては思い出せない。)を読んだうえで、かぶらないところを書いてきたつもりだけど、この項は、

"ニクソンはシルエットとしてしか登場しない、観客にさえその意図が分かるレベルで戯画された悪役になっていた。教養深そうなマクナマラの「ニクソンはクソだ!」発言にはかなりインパクトがある。"

 と重なるところも多い話。

 

 ・ニクソンマクナマラ、自分に不利な報道へ対処をするふたりについて。

 「遠く離れたどこかのだれか」を「いま・ここ」へ

 悪役として登場するニクソンの平面ぶり抽象ぶりがすごい。発言に裏表がないというか裏ダダ流しですごいし、自分に不利な報道への対処も、とても直線的だ。「まるでアニメの悪の親玉みたい。でもアニメここまで徹底されているのはなかなかいないんじゃないか?」と思った。

 だいたいの場合ニクソンは、庭を挟んだ奥にあるホワイトハウス(カメラと正対する構図)の白い壁にいくつか空いた四角い窓越しの奥でぽつんと、顔も見えずに立っている者として描かれる。

 劇中の終盤で、タイムズの後追いしたポストの後追いした各紙一面をならべるとき、ぼくが感動したのは2種類の意味によるものだ。歴史的な意味、そして、作劇的な効果だ。新聞という白い紙面に空いた四角い写真にニクソンの顔やらが並ぶさまは、それまでの彼の描かれ方との対置だ。

 そのさきの幕引きのショットがワクワクするのも、それがウォーターゲート事件のようすを描いたものだと知らなくても、そうなったんじゃないだろうか?

 つまり、ウォーターゲートの外に置かれそして建物と正対する位置に置いたカメラが、壁に空いた四角い窓越しの奥に、怪しい人物ニクソンの手勢)の影と彼らがもつ光をとらえる平面的で閉鎖的な構図に(つまりそれまでのニクソンの姿と同様の構図に)、警備員(非ニクソンの手勢。その直前に映された、奥行方向へトラックバックしていく被写体だ)の光が加わるからなのではないか。

 

 立体的な悪役による、立体的な対処。

 マクナマラの悪役ぶりも面白い。こちらは立体的な動きとして登場していて、別種の面白さだ。

 ホワイトハウスの室内にいてばかりのニクソンとちがい、マクナマラは民間のパーティにも出るし食卓にもつくし、冒頭の航空機内の場面のように市民の声も聴き、オフレコとはいえベトナム戦争アメリカの状況も批判的・客観的に見られるひととして描かれる。

 自分に不利な報道にたいして取るマクナマラの行動も、立体的で多義的なものとなっている。かれはワシントンポスト社長のプレイベートなパーティに出席したうえで、客間から廊下に出てふたりで対面でコソコソ話として「お願い」をするというような、非常に迂遠なやり口をとる。ニクソンニクソンの手勢がと平面的な空間にいたのとはちがい、かれは脇道も行けるし、顔で訴えることもできる、ということだ。

「話のわかる、穏やかな、上流階級の知識人マクナマラ

 そういった様子のかれが、自宅に訪れたポスト社長と話しているなかで「ニクソンはクソだ」とぶちぎれるところは、たしかにインパクトがあった。 というか、こわかった。

 ぼくにはこれも"自分に不利な報道への対処"の別パターンに思え、ニクソンでなく、この人自身のこわさに衝撃を受けた。

 立ったままのマクナマラが、座したワシントンポスト社長を見下ろして、彼女へニクソンがいかにクソであるかまくしたてる。ニクソンのクソさを伝えるかたちで、それに自分も非常に憤っているのだと示しつつ(いや本心も10割近くあるし、話しているうちに本当に怒りが爆発したのかもしれない)あなたの安全も心配なんですというていで(いや本当にそういう気持ちもあるんでしょうが)、ポスト社長へ「(自分も関わった)ペンタゴンペーパーについて報道するな」と脅す……

 ……教養人の恫喝は、なんておそろしいんだ。

 作劇としても、真正面から思惑を伝えるかたちでない複線的な時間で面白い。(すでに書いた通り、ぼくが感じたように教養人の恫喝かもしれないし、それはうがった見方で、もちろん素直に素朴にニクソンについて怒ってるのかもしれない)

 いま無料配信中(2018年4月16日まで)の『デジタルモンスター ぼくらのウォーゲームhttps://www.youtube.com/watch?v=DOCXY6PsCVYでIT天才少年コウシロウ君が迂遠な口撃をする場面もそうだけど、こういう作劇にぼくは心底よわい。

 

  ■見下す、立ち上がる■

 ポスト紙社長は、男社会のなかで肩身の狭い思いをしていることが様々なかたちで描かれていて。そのなかには、上から物を言われたり、立ち上がろうとして座らされたり……というものがあったように思う。

 株式上場まぢかの会議で、たくさんの書類を机に置いた社長が、ほかの人の机を見て書類を下ろし、そのあとで席に座ろうとする男を見て、書類を卓上にもどすところもそうだし。

 株式上場の席でスピーチをしようとして「まだです」とくじかれたところもまた一つ。

 ポスト社長がマクナマラから見下ろされながら、ニクソンのこわさを聞かされることはすでに書いた通りだ。

 

 そんななか、それぞれがべつべつの電話を使っての電話会議を終えたあと、関係者がポスト社長宅にあつまってもういちど仕切りなおされた対面での会議で、話し合いの途中で、ポスト社長は立ち上がり、自分の意見をのべるところは、とても感動的だ。

 勇ましく自分の主張を話したかったのかもしれないし。椅子の背もたれを触ったり離したり手元は落ち着かないようすを見るに、そうでなくて、(マクナマラ邸での話し合いのように)この場からはやく逃げたくて反射的に立ち上がり、席に座ろうにも座れなくなっただけなのかもしれない。真意はよくわからない……

 ……裏はどうあれ、みなが座ったなかひとり高みへ立ったところに、演出的なコントラストがあり、感動がある。

 

 退室も見事で。やはりというかなんというか、階上へと去っていく。

 株式上場まえの会議がおわったあと同じ階の隣室の男たちのヒソヒソ話に聞き耳を立てたシーンとちがって、掲載にGOサインを再びだした彼女は、最早そんなことをしないだろう。

 もう彼女は、自分の行ないがほかの人と比べどうかなんて気にしない。……新聞の刷り上がりを確認しにきた彼女が腕組をしたとき、付き添ったベンが彼女をマネして腕組しても、彼女自身はまったく気にもとめなかったように。

 

  ■そのほか雑感■

 ペンタゴンペーパーズという言葉にまったくピンとこないままスピルバーグ監督作ということでチケットを買ったら、マクナマラがメインキャラだわランド研究所が出てくるわベトナム戦争の官僚的仕事が問題の焦点だわでひじょうに興奮した。

 伊藤計劃さんやその書き物(『フォックスの葬送』における"前線ではお笑い種"としてのイグルー・ホワイト作戦というまとめ)にズブズブ浸かってその外に出てこれないダメなオタクからすると、マクナマラ(やカーン等々)や冷戦期のシンクタンク発の作戦は、大なり小なり「理論的な正しさはすさまじい象牙の塔の産物」「そのため数字のうえでは正しくても、実態とはかけ離れる可能性もある」というような印象を抱いてしまう。

 『ペンタゴン・ペーパーズ』のマクナマラが見せる、メディアと家族ぐるみで付き合ったり根回ししたりなんだりと地道な地盤固めをしてきただろうさま、失敗作戦と知りながらも先達への忖度などから続けてしまうさま……といった、生温かい俗人的きわまりない普通の世界は、ぼくが勝手に抱いてきた"理論的な正しさ以外の評価軸がない、スーパー理論家の渦巻く極寒の象牙の塔イメージ"・"理論の正しさゆえに色んな大きなシステムを動かしてきたイメージ"を崩すもので、「現実は世知辛いのじゃ……」と悲しんだ。

 

 『シェイプ・オブ・ウォーター

 綺麗にまとまってた。『サムソンとデリラ』の活用は意外だし、凄かった。教養ネタ・頭の良さも度が過ぎるとこんな域に。

・ただ、求めてた異形との恋愛・同棲描写じゃない

 部屋中を水で満たしつつの情事で、半魚人の昂りとは反対に、ヒトの女が酸欠で死にそうになるとか。

 魚と人とで適温がちがい、気まずくなるとか。半魚人臭さに他人から鼻をつままれるとか…を求めてた。

・作り手の考え不足でなくヒネった結果で、この方向は「米国の見本」ストリックランド氏に振られている。(妻の口を抑え、自分は痛みをこらえる情事とか。臭がられるとか)

 

・ストリックランドの撃ち方が面白かった。(逃げる車を撃つシーンでは両手撃ちだけど、以後は片手撃ちとか)

 

  ■『大アマゾンの半魚人』と比べて■

 『大アマゾンの半魚人』からコレになった……というのは言われなきゃわからないくらい大きな改変だ。

 殺害派と保護派で対立するのはおなじなのだが、『大アマ~』がけっきょく保護派も殺害に回るのに対して、『シェイプ~』は対立がきちんとしていて殺害派は死ぬまで殺害派だし保護派は死ぬまで保護派である。また殺害派は、『大アマ~』では粗暴さが問題視される無頼の若者学者とされていたが、『シェイプ~』では軍属で"(強い)アメリカ"の見本とされている。

 

 距離感の演出や水の演出は、『大アマ~』の3D演出もあいまった異様な距離感、光が幕じみた目に痛い空間描写はまったくない

 

 怪獣描写は、『大アマ~』は(小規模な)災害だった。

 テントを揺らし複数人を殺したり、船も壊す勢いで揺らしたり、大木を倒して川をふさいだりする。

 『シェイプ~』の半魚人は、非常にやさしい

 敵意を向けた生物にたいして、正当~過剰防衛するくらいで(最後をのぞけば、指を食いちぎるくらい)。猫を一匹殺したことをのぞくと、ドン引くような暴力というのはしてないし、これに関しても猫が威嚇してきたのを受けてのものだから、手酷いしっぺ返しというようなところだ。

 

  ■怪獣というか……■

 『シェイプ~』の半魚人は見た目と呼吸能力こそ大きく違うが、膂力も知力も人並みかそれより少し上な程度の存在で、つまり人間が御しきれる

 映画で扱われるのは、怪獣の問題というよりも、人種(差別)の問題のように思えてしまった

 実際、口のきけない主人公をはじめとしてゲイや黒人などの仲間として今作の半魚人は扱われる。

「見た目がちがうだけの人に、人を人と思わないようなひどいことをするのは、ひどいよね」という正論については「あっはい、それはもっともですよね」と思うし、

「こんな90%くらい(10%は猫かわいそう)賛同できる倫理的に正しい物語が、中規模予算の映画というだけで、どうしてGOサインが下りなかったのか?」

 と首をかしげざるをえない。

 だけど、映画賞各種受賞にたいし映画評論家町山さんだとかジャンルファンが「怪獣が」「怪獣映画がついに」と喜ぶ声に対しては、よくわからないのでした。

 

 だってこれ、いわゆる怪獣映画じゃなくね?

(2023/02/14追記;うまい言い回しがおもいつかないのでそのままにしちゃいました。悪いひとの悪い言い回しだ

 

 今作の絶賛をみていると、どうしても以下のような疑問がわいてくる。

 はたして怪獣がちゃんといわゆる「怪獣」であった場合はどうなったんだろう?

 つまり、「ヒトとのちがいが人間社会にとっておよそ受け入れられないものであり、しかもそのちがいが、怪獣にとって変えられないものであった場合」は、どうなったんだろう?

 ぼくには、「(今作的な)怪獣をどうするか」という物語よりも、たとえば『意識は傍観者である』で考察されたようなアルコールにおかされ社会的に許されない暴言を吐いてしまった「"単なるヒト"(だがぜんぜん御しきれない)メル・ギブソン氏をどうするか」……といったことのほうが、怪獣とその周囲との関係について想像するさい、はるかに重要なことのように思えるのでした。

【以下、『ニュー・シネマ・パラダイス』のネタバレ】

 どなたがか(ちょっと誰がいつ言ったのか忘れちゃって、参照元を明示できません)が「ニュー・シネマ・パラダイスで少年のために老映画館主が遺していたのが、キスシーンの集積といった"いわゆる素敵なもの"でなくて、スカトロとか児童強姦とか獣姦とかヘイトクライムとかスナッフとか"いわゆる生理的に倫理的に悪いもの"だったら、はたしてみんな感動しただろうか?」という旨のことを言っていたけど、それと似たようなことを『シェイプ・オブ・ウォーター』を観ていて思った。

【以上、『ニュー・シネマ・パラダイス』ネタバレ終わり」】

 

   ■その他雑感■

 これは直前に、『ペンタゴン・ペーパーズ』でうつされた、主人公が男性社会でびくびくし一挙一動がままならない生活をおくるさまであるとか、緊張する会話劇では小道具が文字通りピンと緊張しブルブル震えるさまであるとかを観ていたせいだと思うのだけど……

 ……『シェイプ~』の男性社会の横暴にたえる、女性労働者かつ身体障碍者である主人公の生活描写のつつましさや、今作の小道具の活かし方やサスペンスに、いまいちノレなかった。『シェイプ~』だって、水準以上のはずなのに。

(ただしサムソンとデリラ』の逸話はものすごい! 鉄枷をはめられた半魚人のレッドヘリングに、"柱"についての発想の飛躍、すばらしい)

 

 主人公の「マイノリティらしさ」の微妙さ

 話せない彼女が、自分の心を思うがままに歌いだしてしまう……というのが大きなコントラストであり、変化であるはずではないかと思うんですけど。実際本編を観てみると、そんなにコントラストは大きく感じられない。

 ミュージカルシーンに至るまでに、主人公が自分の思いを口語で伝えられないために困ることってほとんどなかったし、自分を出せないことで困る姿もぼくはほとんど観てこなかったからだ。彼女は赤い衣装を身に着けるはるか前から、思うがままに生活している

 

 主人公がやり取りするのはほとんど手話の通じる黒人同僚や、隣室の画家とだけなので、彼女が口がきけなくて困る場面って、劇中でほとんど見ることがない。傷もべつに隠すわけでもなし、鬱屈したようすってほとんど見られない。

 劇中のようすだけなら、主人公は、自分が口がきけなかったりなんだりという"ふつうの人と違うこと"に、引け目を感じて背をちぢこまらせて社会の隅を生きてきた人ではないと捉えることだって的外れでないはずだ。

 だって冒頭で示されるルーティンワークからして彼女は行列割込み常習犯だ。

 毎度憎まれ口をたたかれるが気にした様子はまったくないことや、擁護してくれる同僚に申し訳なさを感じている素振りをみせないこと。これらが主人公にとってその場の強がりでなく本心だってことは、中盤で割込みが繰り返されることから明らかだ。

 

 だからつまり、今作は思うがままに生活していた人が、思うがままを歌にする映画である。

 ……うーん、コントラストはぼんやりしている。

{『シェイプ~』とおなじく、歌うことが終盤で大きな位置を占める作品で、『シェイプ~』と違ってそれがとてつもなく大きなコントラストを生む作品として、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は有名だ。

 そちらはそちらでぼくにとってノれない部分はあって、『ダンサー~』は主人公の不自由な生活が主人公の鬱屈があんまりにもあんまりなので「それはそれでやりすぎ」と思ったりもしたものだが……でもどちらかというと『ダンサー』のほうが、ぼくは観ていてより大きなカタルシスを得た(ような覚えがある)}

 

 「FUCK」についても同様にぼんやりしたコントラストだと言える。

 その前段からして、しっかりセクハラパワハラ性暴力に対してNOと言えるひとが、そのNOを突き付けた相手に対して「FUCK」サインを送る

{前段は相手に背を向けておびえ逃げる形で彼から離れ、後段は相手をガンつけて(黒人の同僚に動かされるかたちで)後ろ歩きで彼から離れる……というような違いはあるけど、「大枠がそもそも」と感じてしまう}

 

***

 

 小道具のつかいかた(のノれなさ)

 たとえば黒人清掃員(口のきけない主人公と仲良しの面倒見のよいひと)が、"本物の男"ストリックランドに詰問されるシーン。清掃員は壁にかかった鏡に背をくっつけるほどに追いつめられるのんだけど、ここでの怖さは「ストリックランドを演じるマイケル・シャノンの演技がどれだけこわいか」に任されるかたちになっている。

 かれが壁を脅しで叩いて鏡が震えたりはしないし、ましてや割れたりだってしない。投げられた指が、鏡を汚したりとかだってしないのだった。(指は、なんだかよくわからない色合いの床に投げ捨てられる)

 作中でたびたび出てくる「水」の混沌・制御は、このシーンではうかがえない。たとえば博士の殺人が大雨のなかで行われたように、あるいは喜びあふれる主人公が雨粒を見事に統御してみせたのの逆をいくように、このシーンで「黒人清掃員によって料理中の鍋が沸騰して湯をこぼしたり(もしくは洗い中の食器の蛇口を締めないままで流しに充満、台所からこぼれたり)して、カオティックな状態になったりしても良いはずだ」とぼくは思うんだけど、そういう事態には発展しない。

 

 サスペンス(へのノれなさ)。

 たとえば偽造身分証を見せる/バレるくだり。

 長年絵筆で生計を立ててきたプロ中のプロが、指でさわっただけでこすれてしまうような画材をつかうものだろうか?
 なにかワンクッションあったってよさそうなものだとぼくは思った。

(完璧な準備をしたが、緊張で汗だくの画家が偽造身分証を触ったらにじんでしまった、とか。駐車場天井に張られた配管から一滴落ちてきた、とか。

 警備員が「This is future」なライムのケーキやらを食べていて、指についたその脂がインクを溶かした、とか)

 

 あるいは、さいごの別れのシーン。

 半魚人を殺すことに命をかけている"本物の男"ストリックランドが迫っていることを主人公たちが知ったうえでの時間制限サスペンスであるはずなんだけど、主人公もその友人の画家も、半魚人をせかす素振りがない。

(近年の話題作『君の名は。』も「時間制限サスペンスが微妙だ」と批判されたけど、あちらが有していたような、想い人のことでメソメソするヒロインを一喝する協力者で友人の姿は『シェイプ~』にはいない)

 そして別れのシーンにおいて、言葉が通じないがゆえの悲しいディスコミュニケーションなどもまたない

{どんなディスコミュニケーションが生まれうるか? 状況つかめず立ちんぼする半魚人が故郷へ帰ってもらうには、語彙も理解を得られるだけの時間もないため、力づくで海に落とそうとするしかなく、その結果として半魚人の特性(あの猫を殺した過剰な防衛本能)を刺激してしまう……とか}

 

 いや、しっかり描かないことが悪いわけではないですよ。もちろん。

 『シン・ゴジラ』がそうだったように、盛り込めば大なり小なりクサくなる部分(上の例で言えば『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や、『ペンタゴン・ペーパーズ』の主人公が置かれた抑圧)をザックリ省くというやり方もあるし。他方で、円城塔氏が『影裏』について評したような「嫌なのだとわざわざ言わなければいけないということさえも嫌」というようなスタンスの作品だってあるだろうと思います。

 もしくは、"声を発せられない人・女性・労働階級のひと"が(冷戦期アメリカで)被っている差別的・抑圧的な状況というのは、この映画を観るひとびとにとって耳タコな常識だから、具体的描写がはぶかれているだけなのかもしれません。(ぼくは世間にうといので、その可能性は大いにある)

 

 どういった経緯でこのようなシーンや演出になったのかはわからないけど、なんにせよこうして観られた映像は、ぼくには合わなかったし、そうした部分を描かないことによってもたらされる良さが何なのかわからなかった(とりわけ「怪獣が云々」について)。

 

***

 

 最初に述べたとおり"ふつうのひと"の(とくに"ふつうの情事"の)異形性は面白いし。

 ぼくの視野が狭いせいで、「『大アマゾンの半魚人』『美女と野獣』の変奏だ」という前情報に引きずられすぎて"ヒトの女と怪獣の男"という構図にばかり注目したけど、"怪獣とその恋人vsその他大勢"という風に見れば、あの情事もとても面白かったようにも思う。

【以下、フランク・キャプラ監督『素晴らしき哉、人生!』ネタバレ】

『シェイプ~』の情事のシーンを、以下のようにまとめてみる。

 上では男女が自由に動ける(半魚人の男はもちろん、女も。前述のとおり酸欠になったりしない)水中で交流し、その下では床の隙間から水が垂れて(綻びがあり)他者が驚き怒るような、通報=死につながる混沌が……というシーンであると。

 そうまとめてみればこれは、フランク・キャプラによる素晴らしき哉、人生!の1シーンと重なってくるものがある。『~人生!』では、プールの上に築いたステージで男女が踊るシーンがある。その前段では、薄氷のうえで子供たちが遊んでそのうち一人が極寒の水中に落ちたり。その後段では橋の上から投身自殺をしようとしたり・他にもそのような人がいたり……

 ……と、『~人生!』では、三途の川へ転げ落ちそうな綻びと隣り合わせの(文字通りの)薄氷を踏む日々が延々えがかれていく。

 さて『~人生!』のシーンは、ふつうの人がふつうの生活を営むということが、どれほど心もとない薄皮一枚の上の出来事であるかを描くためのものだけど。

【以上、フランク・キャプラ監督『素晴らしき哉、人生!』ネタバレ終わり】

 『シェイプ~』のあの情事のシーンは、"ふつうでない"ふたりが"彼らにとってふつうにいること"(水たくさんの空間をつくる)がどれだけ"ふつうの人"にとって迷惑であるか……を描いたシーンということになり、そうまとめると、zzz_zzzzが求めるような"怪獣がいることの難しさ"を描いているようにも思える

{ただまあ、それがどのくらい迷惑かといったら、「(上映一回ぶん払い戻しする程度の)厄介な客の所業程度のしょうもない迷惑」とも言え。

 ぼくとしては、「そこにもっと取り返しのつかない暴力性があったら、より一層じぶんのもとめる描写であり、怪獣との関係性となっていただろう」と思う。

(たとえば浸水の状況を確かめに来た画家が、ドアを開けたときに水流・水圧で吹き飛ばされて、利き腕がしばらく使えなくなるとか。

 画家の書いていた絵が水に濡れてめちゃくちゃになるとか、そういうことが)}

 

 また、異形の情事・同棲の面倒は"ふつうのひと"の異形性によって端的に示されているわけだし。半魚人と主人公の情事・同棲において、その面倒が描かれてしまったら、それはそこまでの流れを無視した展開で、ぎゃくに作品をぼんやりしたものにしてしまったかもしれない。

(今作はべつに、二人の紆余曲折話ではない。あの情事はおそらく、これまで自由に身動きとれず息苦しさを感じてるふたりがついに自由に動けるというシーンだ)

 

   ▼ぼくが妄想する「半魚人×ヒトならではのセックス・トラブル」

 その辺をはき違えてしまったぼくは、見当外れの疑問やうっぷんをため込んでしまった。

「主人公が、半魚人の常識外れの生殖器を見てしまった当然の反応として、水中で"エッ!?"と驚き口を開けてしまって、空気を吐き出し苦しくなり、空気を得に水面へと一時浮上し。半魚人はひとり手持無沙汰になって気まずい時間を味わったりとか見たかったな……」

 とか。

「"おなじように口が利けないといっても、向こうはエラ呼吸こっちは肺呼吸、ぜんぜん違う人物だな"と距離を感じてしまったりしないんだろうか……」

 とか。

ヤったらヤったで、"十分に水に浸かったチンコまじで寒すぎる"となったり」

 とか、

「あるいは逆に(半魚人がヌルヌルの皮膚だって劇中描写を反映して)"前戯いらずだわすごい"となったり」

 とか、

「いや主人公は意思のつよい自立した女性だから、"前戯いらずだからって何でもかんでも入れやがって。こっちの気持ちはノってないんだよ"となったりしないのか?

 とか。

 

 怪獣も怪獣好きもさまざまあるように、怪獣描写もさまざまなものがあって、『シェイプ~』の怪獣描写もいろいろなことをやっていて、だけど僕のアンテナにピンとこなかった、という感じなんでしょう。めっちゃくちゃヒットしているし、『シェイプ~』を怪獣映画として評価する人による見どころポイント解説みたいな文章やらがどっかで読めるとよいなあ。

 

 好きだし面白いし良いとも思うけど、なんだかノレない……そういうこともあるんだなアという作品でした。

 

04/01

 電子書籍に切り替えだした

 午前中にカルチャースクール、400ml献血、昼に五右衛門、午後ぐだぐだ。夕飯まで昼寝したり。
 PCの回線は不通のまま。
 kindleの積み本を消化した。つまり電子書籍に切り替えた。

 理由は3点。居所が明確な点とかさばらない点、たまにセールをやってくれる点である。
 本に限らず、ものを適当に置いて、使いたい頃にはどこにやったか分からなくなるずぼらな性格なので、電子書籍の便利なシステムはありがたい。
 検索かければ目当ての代物がすぐ出てくるこのシステムを導入したおかげで、紙の時代にかかえていた、本を読む以上に本を探す時間的労力的コストが大きい問題も解決できた。
 べつに根本的な問題(ずぼらな性格)が解決されたわけではないので、紙の時代とはまた別のところで新たな問題も生まれるのだが、しかしそうした電子時代の問題が、今回は幸いした。
 かさばらない点・セールがありやすく買える点は、つまり経済的問題で、電子時代もまたPCの記憶容量を圧迫する・記憶用の外付を買うほどの金はないという問題がある。
 ので、kindleの基本的な運用は、読む本だけダウンロードし読み終わったら削除するということをしている。

{2023/02/10注;あまりに自分を高く見積もっている行動だ。こんな運用ができるなら紙の書籍もかさばらないはずである。

 けっきょくむやみやたらとDL本を(購買本も、試読本も)ふやしていき、HDDがカッスカスになってようやく事態に気づき、大量削除をする……というしょうもない運用をしている}
 ただこうすると、ネットがつながらないと何も読めなくなってしまう事態が起こる。

 今回は、すぼらな性格がダウンロードしたきり放置した本、というのを生みだしていたおかげで、未読の『海街diary』シリーズを読むことができた。
 ほかに読んだのは、『ちちゃこい日記』1巻、『決してマネしないでください!』{2023/02/10注;円城塔さんがおすすめしていたマンガ。面白い}1巻あたり。

 『ちちゃこい日記』

 村から都市部の団地に越してきた母子家庭の中学生による生活が、とてもとても丹念に描かれている。
 雪のように無数にあるディテールの集積で、細部のちがいに忠実な結果読んでいるこちらがいたたまれなくなるような、マクロな関係性、各家庭の所得格差なんかもいやおうなく描かれてしまっている。

 主人公の家にあるのは灯油ストーブで、日ごろ灯油タンクを家族でえっちらおっちらはこばなければならない。そんな苦労話を学校で話してみると、彼女がクラスで話す"町の子"たちが持っているのは"それじゃない"ストーブであることがわかってくる。
 ……この時点でもう、だいぶ体がむずむずしてパソコンの椅子から立ちたくなってしまうのだけど、話はこれで終わらない。
 "町の子"もみなが"じゃない"ストーブを使っているわけではない。
「うちは薪ストーブよ」
 と言う子がでてくる――それも、クラスでも一二をあらそうあか抜けた子が。「わたしの村でも使ってた!」と元気になる主人公。小学校のころ、薪ストーブでついでに作られた料理などの、なつかしい記憶がよみがえる。

 さて放課後、クラスのほかの子と一緒に、彼女のお家にお呼ばれしてみたら、薪ストーブは薪ストーブでも、ヨーロッパから輸入した、村にはないハイカラな代物だったと分かる。
 そうしてハイカラなストーブで、ピザとかいうハイカラな食べ物を口にするのだった。いたたまれない。

 

04/02

 PCの回線は不通のまま。

 『海街diary』を8巻まで読んだ。


04/03

 PC回線が復旧した。
 ルータが固まっていたらしい。
 頼んでいたHMVからの通販も届いた。
 そちらや以前から積んであるものを崩すべきなのだけど、バーチャルYoutuberに時間が溶けていった。

 

04/08

 大体だらだらして過ごした。
 映画館ではチャーチル』『トレイン・ミッション』『ジュマンジなどが公開中だが、来週の資料がまだできていないので遊びにはいけない。
 そんなことを思っていたんだけど、けっきょく一日じゅう家にいた。
 午前中にお菓子当番業務を済ませそう、寝過ごした昼飯食ってからにしよう、すこし休んでからにしよう……と、いつもの先送り精神が十二分にはたらいた結果である。
 3時ごろにお菓子を買いに行くついでにコンビニ払い・Amazonギフト券補充を済ませた。お菓子の購入経緯は、職場のお菓子当番が今月まわってきたため。
 補充したギフト券で、nemanocさん〔2023/02/10注;ブログ『名馬であれば馬のうち』運営者。マンガやゲーム、映画、文学さまざまなことについてレビューを記されている有識者。千葉集というペンネームで翌2019年、東京創元社が主催する第10創元SF短編賞宮内悠介賞受賞。講談社『tree』でリレー書評コーナーを持ったり、創元note部へ創作を寄稿していたりした{ちなみに創元note部は東京創元社と関係ない創元社という別の出版社のセクションで、千葉集というペンネームも千葉集;千葉いいものセレクション(2020年開設?)とは多分関係ない}が話題にしていた『ママの推しは教祖様』を読んだ。

 

 『ママの推しは教祖様』

 前評判通り、巻末をかざる書き下ろしが非常に面白かった。
 リアリティを排してると言われるネット連載分も門外漢にとっては知らない世界が描かれていて興味深かったし、おはなしも出来がよい。脳内基準も指針もゆるゆるなママがおこすアレコレに、主人公やそのほか家族(みな非カルト信者)がツッコミを入れる形式のマンガで、お日常4コマ的な感じなかわいらしさと面白さがある。
 書き下ろしのすごみは、このネット連載分の文体のキッチリ具合と、ストーリー的な面白さがあってこそ、そして連載分である程度きれいに〆たからこそ、出たんだろう。
 すごいすごいと聞いたうえで読んだというのに、連載分と書き下ろし分とでまるきり変わってしまった文法(画風)に、飛び越えられてしまったジャンルに、頭がゆさぶられて動揺した。

 そもそも書き下ろしエピソード単体だけでもショッキングなところがあって、混乱は二重にも三重にもなる。明らかにサイコホラーの画風なのに――つまり受け手が恐怖するよう演出されたもの、(フィクション)的なものなのに――、劇中の扱いとしてはそれこそが「(ネット連載分では書かなかったり軽く流さざるをえなかったりした)、筆者の体験したほんとうのこと」なのだ。
 語り手のほうは連載分とちがって小粋なツッコミもできないいっぽう、向こうは劇映画の怪物のように自由に動けてしまう。
 その力関係に、抱いてしまうどうしようもなさ・絶望感はすさまじいものがある。
 都市伝説や怪談を見たり聞いたりしたあとの夜道をひとりで歩いているときにふとよぎる、
「あの暗がりからあのとき聞いた怪物が出てきたらどうしよう」
 という感覚。恐怖。
 そのときの気持ちがよみがえる――いやもしかするとより強い形で沸き起こされたような、そんなような読書だった。

 もちろん、作品内で絵柄・語り口が変わるなんてザラにあり、すくなくとも『落盤』などをえがいた手塚治虫の時代には漫画というメディアのひとつの武器として用いられてきたものなんだろう。
 これだけ動揺するのは、ちょっとふしぎだ。

 

 若気の至りのアーカイブ

 委員長(2023/02/10注;月ノ美兎委員長)の配信から元ネタあさりということで、『ピネガキ』動画、『XXハンター』動画を観た。
 ゲーム実況動画のなかでも、若気の至りの痛々しい部分が収められていて、晒し上げにされいわゆる"ネットのおもちゃ"にされている。
 大体の場合がここまで如実に記録として残されえてないだけで、ぼくも中高時代には(場合によっては今でも)、こういう見当違いの暴走をしてしまい、さまざまなことで後悔している。
 自業自得といえばそうなんだけど、つらいものはつらい。もしかすると、それだからこそより一層つらいのかもしれない。
 やらかしの原因が自分になければ、どれだけよかったことか。
 どうすればよいのか(少なくともこうはならなかったか)もわかっているにもかかわらず、理性のブレーキが利かずやってしまった情けなさ。
 記憶のなかのそれを思い出すだけできびしい心境になるのに、記録としてのこり現在に至るまで(そして多分これからも)晒されているとなると、かれらはどれだけつらいだろうか?
 心境ははかりしれない。


 お絵かきの森

 『お絵かきの森』に手を出した。自分があまりにも下手なのでびっくりした。
 『お絵かきの森』は、ハンゲーム社の運営するインターネットお絵かきゲーム。
 僕がティーンエイジャーのころに慣れ親しんだ『お絵かきBBS』『お絵かきチャット』みたく、時間のゆるすかぎり気のすむまで描くこともできる。
 だけどそれはオマケで、お絵かきBBSから20年とかそのくらい経った現在、ゲーム機能なども実装されている。
 というかむしろそれが本題、『お絵かきの森』はお絵かきクイズを楽しむプログラムらしいのだ。
 あるひとがお題に従って絵を描いて、べつの誰かがお題がなにか答える……そんなゲームが設定されていて、プレイヤーはお題を当てたり当てさせたりすることで、さまざまな絵の具を手に入れてゆく。そんなシステムになっている。

 ルールもさまざまで、描き手1人が描く絵のお題をその他の参加者が早い者勝ちで答えるオーソドックスなものもあれば、回答者1人がその他の参加者が絵を描き継いでいくリレー形式・伝言ゲーム形式のもの、福笑い的に目隠しで描くものなど、さまざまある。
 ルールによって絵を描くことのできる制限時間も変化し、3分だったり1分だったり30秒くらいだったりさまざまある。
 短い30秒などは無理にしても3分でも描けないこと描けないこと。

 知識がないから、参考なしに描けるものが少ないのはわかっていた。
 参考いらずの、とんち的な発想で正解へと導かせるほうも、全くできなかった。
 知恵がないのもわかっていたけど、それが必要とされる局面がこのゲームであるとは思わなかった。
 顔見知りのひとびとが、それぞれ楽しそうに内輪話をしたりするトンチ部屋に入ってしまった時のいたたまれなさったらなかった。

 また、検索画像を横目に模写してみても、時間内に「うまい」と思えるレベルまでいかない。これはけっこうショックだった。

 

04/09

 『お絵かきの森』に入り浸っていた。ゲーム無しで時間に制限をかけず気のゆくまま描きつづける部屋を巡回したり、自分も部屋をつくってこもって落書き・練習するなどした。

04/19

 『ショッピング』(英国のアート青年だった頃のW・S・アンダーソン)

 W・S・アンダーソン監督なので観た。

 盗難車で店に突っ込み金品を奪う"ショッピング"ティーンが夢中な架空の都市で、やからがぐだぐだする映画。

 やからも十人十色で、主役は名声やスリル欲しさに"S"をやるが、ビジネスとする大人なやからもおり、ヒロインは名声も金もどうでもよくて「この街から出よう」と促す。やからに怒る警察、やからを勘当する労働者などが脇にいてアレコレ動く。が、被写体はぐだぐだするやからのぐだぐだな日々で、そこが映像的に凄く面白いという訳でもないので、体力のない日に見ると少しつらい。

 "ショッピング"はどうにも、モラトリアムのはっちゃけや行き詰まった若者の非行みたいなモノのようで、劇中舞台より恐ろしいらしい(社会派的な問題がありそうな)アイルランドから来た22歳のヒロインは主人公に(プライドを捨て町を出ようとか、ヤろうとか)大人になることをしきりに促す

 1994年に発表された今作をもっと地に足をつけさせるとトレインスポッティング('96 今作の2年後発表の映画。監督のダニー・ボイル氏は56年生れ)、もっと面白怪人物にすると『ロック、ストック&トゥ・スモーキング・バレルズ』('98 監督のガイ・リッチー氏は68年生れ)になるのかもしれない。

{W・S・アンダーソン監督は65年生れ。ボイルより若いがリッチーより年上。デレク・ジャーマン氏とピーター・グリーナウェイ氏は両者とも42年生れで、ジャーマン氏が『ラスト・オブ・イングランドとかグリーナウェイ氏が『ZOO』とかを撮っていたのは80年代のお話らしい}

 ぐだぐだな生活を観るためには、なにかしら牽引力がないと、僕にとってきびしい。 お話自体語り自体が「老獪な悪党にハメられ一文無し、一攫千金逆転をしなきゃ!」とかキャッチーで面白い『L、S&2SB』とか、映像が面白い1ショット長回しのなかでキレキレの技巧を凝らしフォローショットでありつつfixショットであるような瞬間を持ち込んだりして目が離せないスコリモフスキ『不戦勝』とか。あるいは、恋人の不貞を疑い、カフェのガラス窓の向こうを見ながら室内ではかわいい子と駄弁りつつ探偵する(だっけかな?)ロメール『飛行士の妻』とかも、その方向性かもしれない}とか。

 『ショッピング』は、キャッチーなどん底はなく(いや振り返ってみると大分ひどい状況なんですよ。刑務所から帰ると勘当され、実家の自室は空っぽにされて団地外の空き地のトレイラーハウスに捨てられ。そこで暮らすも、警察に荒らされ大人なやからに荒らされほかの場所へ逃げ込むもそこにも大人なやからがやってきて……と踏み込まれ放題なのだった。でも主人公を問答無用で逮捕したり痛めつけたりというようなことは終盤まで無くて)無軌道にだらだらしているように見えて徐々に着実に煮えていくというお話なのだった。

 たぶん最初からそういう方向を目指して作られたもので、べつに"それぞれの一挙一動が緊密に絡み合って事態が進行するタイプの作品"をやろうとしたものの力が及ばずそうなったってわけではないだろうから、これについてはあとは受け手がこういう作品を好むか嫌うか趣味の問題なのではないかと思う。

 

***

 

 映像は、鳥瞰的なショットで芝居をさせてみたり(「NO PARKING」の道路の文字が、主役の車が止まったことで「KING」みたいな感じになる)、人が米粒みたいなロングショットで会話させてみたり、車と人がいっぱい集まったやからの集会場の広さをステディカム長回しで描いてみたり、接写してみたり……などなど、ぼくのイメージするW・S・アンダーソン監督作とはだいぶ色がちがっていて、若い人(製作当時は27~29くらい?)がなにやらいろいろなところで「凝ろう」「がんばろう」とする姿を想像してしまう。

〔演出も、物の投げ捨てや投げ渡しの多さとか、一粒一粒ことなるメッセージが刻まれたお菓子で会話させてみたりとか、ヒロインとの会話劇をしているといつの間にか背景が真っ黒になったりとか、「なにやらいろいろやってるなあ」という感じだ。

{ただし"お菓子で会話"は、刑務所帰りの主人公がずっと持ってた古いお菓子らしいのだが、序盤の1シーンで登場して以降、出番がなくなってしまう。この辺の適当さも、「なにやらいろいろやってるなあ」という感じを一層つよめた。

(いや観ているzzz_zzzzの受け取りミスなのかもしれない。

 主人公が最後に狙う大物が、英文の電飾広告のある建物なので。自分で物を自在に操りメッセージを発信していた主人公が、終盤受け取る側になってしまう……ということなのかもしれない)}〕

 

***

 

 作品独自の出来事"ショッピング"にいきる人の生活がどんなものかエミュレートする具合は、各人の大枠の意識の違いから、細部までとても良かったと思う。

 盗んだ車のなかを物色して車窓から物を延々捨て続けるヒロインが、パトカーから追われているさい、車の本来の持ち主がラジカセにセットしていた音楽テープを引き出し「エルトン・ジョンは糞だ!」「ホイットニーも!」と叫びながら追っ手へと投げつける序盤とかは好きだし。持ち主の音楽の趣味に難色を示し、自分のテープを挿し直す主人公の車泥棒慣れっぷりもまた素敵だ。

 

 やからのうち新米は見栄え重視である一方、先輩は実益重視する差別化がおもしろかった。

 たとえば"S"をするための道中("S"につかう車を物色する駐車場? だかアジト? だかのエレベーター内だか)で、新米やからに先輩やからが「電柱を見るんだ、するとカーブがどこか分かる」とコースを読むコツを教えるものの、新米やからはエレベーターがのぼるにつれ徐々に差し込む光をワクワクした顔つきで見て全然聞いてない

 逆に新米やからが車のスペックをだだだっと列挙したところでは、先輩やからがどうでもよさそうにするところとか。

 

 大人なやからになるともっと血も涙もなくて。

 若者に"S"をさせ戦利品を買い上げる大人なやからは、仕事前に約束したお金を現金では全額渡さず何割かをその相当額(以上の)ドラッグで現物支給したりする。

 

 そんなもんだから、"S"がめちゃくちゃ好きというわけでもないヒロインが、なんだかんだで最後の大一番も手伝って、しかも主人公が地味な車で"S"に行こうとしたら「最後なんだろ?」と派手な車を得物にしようとするところとか、なんかじんわり来た覚えがある。

 

***

 

 こうした劇中人物の劇中独自の生活から、映画的に映える演出や面白いイメージを生み出してもいる。

 ノリノリの音楽がかかっての"ショッピング"模様が、(警察の無線などを傍受するために)音楽を中断することで緊張が走るところとか。幕引き直前のショットの、クラッシュした車を映すさいに(顔やらから流れる血は止まっているのに)ラジカセの橙色の磁気テープが血のようにじょろじょろ吐き出されつづけるとかの書き込みが素敵だ。

 

***

 

 映される景観もまたとても魅力的だ。巨大だったり清浄だったり美的だったりする建築と、それを乱す異物的な小さながれきの組み合わせがアレコレ登場する。

『ソルジャー』ウェザリングは、こういう蓄積があってのものだったんだなあと思った)

 巨大な団地のそばを流れる人工川を挟んだ手前にトレイラハウスがぽつねんとあり、夜になると地面にはよくわからない焚火がポツポツと出来、地下から?よくわからない煙が立ち込める。(その団地の各部屋はやから対策の鉄柵が設けられていたり)

 あるいは巨大なショッピングモールの手前に原っぱと廃車やら燃えない粗大ゴミが散乱してるとか。

 以下は「美=古めかしいもので、異物=未来のもの」という感じで、上の例とはちがうけど。煉瓦造りの交差ヴォールトの商店街(?)的なところに、無骨な白い監視カメラが設置され、鉄のシャッターが次々に下ろされたりするのも素敵だった。

 

 大人なやからのアジトは壁に穴を開けた建物で、物にあふれ、お札や車の部品が室内装飾としてあしらわれ、なかなか面白い。

 後半で主人公(つまり若いやから)が隠れ住むところは、やからのストリートペイント版『機関車トーマス』。前半でヒロインと天井のない廃車に寝そべり空を見ていた主人公が、この後半では天井のない列車内でヘリのサーチライトから隠れるさまが描かれている。

 

***

 

 W・S・アンダーソン監督らしいなと思ったところとして、シンメトリな一点透視的構図は今作でも登場する。

 また、廃車で仰向けに寝そべり雲一つない真っ青な空を見て、そこへ飛行機が通り過ぎるところは、『ソルジャー』のごみ捨て惑星のうえを飛ぶ宇宙船を連想した。

 

 アクションも『ソルジャー』などと同様に工夫があって、トンネルの中央線に赤いコーンを無数において、反対車線の地面すれすれに位置するカメラでチェイスを撮ることで、前景に高速でうごくコーンをナメてスピード感を出している。

 爆発シーンは『ソルジャー』同様、同一フレーム内にそれにたいしリアクションをとる人も映している。

 これまた『ソルジャー』の爆発シーンみたいに、人に当たったらヤバいだろうと思わせる巨大で重く硬そうなモノ(実際、パトカーをつぶせる程度のエネルギーがあるモノ)を人の近くに落っことしている。(今作ではやからが車をこわすためにモノを落とす、ということになっていて、その直前で同じやからたちが警察に投石をしているので「それぶつけるの、死ぬじゃん」とこわかった)

 

 主人公がケトルを"ショッピング"して、後日トレイラハウスに戻ったさいにお茶を淹れてヒロインと一緒にそれぞれ飲み物を手に持つけれど、飲むためじゃなくてじぶんの生活圏に部外者が現れたことで驚き中身をぶちまけるリアクションを後々とるためにそうするという辺りは。『ザ・サイト』の、パソコン仕事中に持たれたものの、口をつけずにそのまま置かれるマグカップとか(もっと過激な、運転中に書類確認がみちびくアレとか)を思い出しもした。

 アンダーソン氏が監督予定の『モンスターハンター』映画版では、肉を食べるためでなく、竜との突然の遭遇に投げ捨てたり、唖然として焼きすぎ消し炭にするために肉を焼く場面があったりするのではないか? と期待がたかまった。

{2023/02/18追記;『モンスターハンター』は……ううう……}

 

〔あと、個人的な好みからすれば、あれだけ話をしたし主人公からもらった服装も着なくなったのだから、ヒロインは去ってくれてもよかったんじゃないかと思うし。

 一緒に行くなら一緒に行くで、グダグダ話しているうちにヒロインも最後の"ショッピング"に踏み出すよりは。主人公が最後の"S"にダサい車で行こうとしたところでヒロインがこれまでの不満を爆発させてフレーム外へ去り、しばらくしてかっこいい車が猛スピードでターン&停止をして「大一番だぞふさわしい車に乗らなきゃ」と劇的にしたりしてくれるほうが好きだけど、劇中人物がそういうことをするキャラじゃないからそれは仕方ない

 カッコいい劇的な何かはない。その代わりにこの大人になれない劇中人物らしい{=タバコを吸う吸わない"ショッピング"するしないと延々やってきたうえでの、キスでさえもドギマギに拒んできたうえでの}"事物を本来とは異なる役割で活用"した接近・和解{=タバコをライトセーバーに見立ててそれを手に取ってくれと差し出す『SW』を諳んじた(ヒロインが主人公のトレイラーをあれこれあさっていくなかで見かけた『SW』の!)}があるのである。 これはこれで素晴らしいと思う〕

 

04/14

 『ソルジャー』W・S・アンダーソン監督の佳作

 十数年ぶりに観たけど、昔観たときより感動した。

青白い人工灯に照らされる兵士の道へと無理矢理に運ばれた親知らず(達)が、大人になり、誰かを青白い星雲へ運ぶことを無言で買って出る

 命令に従い(画面左から右へ)銃を連射し攻め歩いた兵士(06:21自分の起した爆炎を背に仁王立ちが、元兵士になり。(画面右から左へ)逃げ走り、次代の兵士の爆炎に吹き飛ばされる(54:55)

・子どもと初めて交流の機会を得るも、兵士仕事以外教えられてこなかったので戦う術を教える他なく、親に咎められ不通に終わる主人公トッドがつらい。

 自分の人生を否定したひと(ゴミ捨て惑星不時着者コミュニティのホームステイ先の亭主)に、トッドが攻撃とは真逆の治療を試みるも、甲斐なく失敗するのもつらい。

 後のスピルバーグ監督『宇宙戦争』の食事シーンとかもそうだけど、こういうのに自分はとても弱いようだ。

 

 主人公トッドは、不時着民と関わることで自分の半生を振り返ったりすることになる。

 なるのだが、でもたとえば近年のアカデミー賞受賞作ハート・ロッカーは終盤で、まだ言葉のわからない赤子に自分の心情を吐露したりなど、兵士の仮面の下の「人間」をのぞかせたりするのだが、だからといって今作は、そういう感謝したり少年に愚痴を言ったり……といったになったりしないし、兵士の仮面のもしない

 トッドはあくまで真っ黒の線を顔にペイントする「兵士」として(=上官に話しかけられるまで喋らない人として)生き続け、ディスコミュニケーションを重ねていくし、ゴミ捨て惑星不時着民もかれのバックグラウンドを知って同情したりすることもないのが凄かった。

は描かない、だってトッドの人の好さや境遇ゆえの失敗は、作品を見ているぼくたち観客には十二分に伝わっているから」

 ……という作劇は、自信がないとできなさそうな怖いもので、日和って安全策をとりたくなりそうなものだけど{オーディオコメンタリを聞くと、じっさい製作者からはという指図を受けた(がしかし監督は拒んだそうだ}、「『ソルジャー』は自信をもって当然だ」というくらいに成功している。 

 

***

 

 イメージの変奏がきもちよい

 最初に挙げた変化のほか、14:23では新兵士に倒され、宙に逆さ吊りになった旧兵士の死体が登場するけど、1:04:15新兵士の砲撃により、ゴミ捨て惑星不時着民アジトで宙に逆さづりになった現地民の死体が登場する。

 

 あるいは14:41では主人公トッドが首絞め攻撃をしかけるも、新兵士が二の腕に噛みつき応戦する姿があったけど。その後に登場する、足のなくなったホームステイ先の亭主を治療中のトッドが、痛みに叫ぶ亭主のために自分の手を噛ませる姿はそのオポジットといえる。

 

 14:30では新兵にトッドが飛び乗り攻撃をし、首絞め・目をひっかく。

 1:00:46ゴミ捨て惑星不時着民アジトを襲う新兵士に、トッドがアジトの天窓を割って飛び降り攻撃。そして1:00:50首をかき斬る。

{この攻撃はなかなか感動的だ。

 というのもその前段、トッドの不時着民とのかかわりは22:11突風にとばされ、階段から下へ転落する……という不慮のものだった。

 またこの天窓は、0:40:08クリスマスの宴からトッドが退室し外から宴を見下ろしたときの天窓だ。この場面では白い天井に影が明滅し、主人公の顔や襟が風でなびく、不安を煽る演出がなされている……

 ……それが、明滅を伴わない空間へトッドが(アジトの人々のため)自分からコミットするアクションを行なえるようになるわけである}

 

***

 

 事物の本来的な役割とは異なる用法で再活用もまた面白い。

 たすけた不時着民にもらったマフラーを砂塵から鼻口をまもるフィルタにしたり、55:39止血帯にしたり。

 ストーンヘンジならぬ)ティールヘンジがある宇宙船廃材モニュメントのしたの十字架墓と、嵐とを組み合わせて、手裏剣じみた武器にしたり。

 1:00:19(飛行機の翼をリサイクルした)食卓を飛び越し(卓上の料理を台無しにしながら)走り逃げ、1:00:24卓を横倒しにして盾にする。(卓上の料理は当然地に転げ落ちる) 

 新兵士との競争で、トッドの性能を伝える垂直方向ののぼり(=軍隊の基礎訓練シーンで見かけるアレ)が、その後、ゴミ捨て惑星にふく嵐とワイヤにつながれてはいるが流されている住民を手繰り寄せ助けるという形で水平方向の(そしてトッドの有能性をつたえる)アクションとして変奏されたり。

 

***

 

 1ショットの完成度もたかい。画面の遠近にモノが配された、空間的に充実したショットがおがめる。

 0:54:55画面奥に爆発、画面中央に倒れる主役ら、一テンポ遅れて前景に巨大な破片が落ちてくるショットが素敵。

 0:56:03前景右端に装甲車(の車輪)、後景左に装甲車が等速で動くのをフォローしていくと、中景の鉄屑の陰に治療の最中の主役らが小さく映るショットも、心細くて素敵だ。

 

04/20

 『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白 』

・老いたマクナマラが、「WW2でルメイの下に就き空襲の効率化を図った」こと「ルメイはやばい奴だ」という話、「フォードに就職し経営改善をし社長に上り詰めたがケネディに引き抜かれて5週間でやめた」話、「ベトナム戦争の効率化を図ったがうまくいかなかった」話と「ジョンソンはやばい奴だ」という話をする。

録音テープの雑音(? 巻取りグセ?)が一定リズムを刻んで面白かった。

・これ、回顧録を買った方が良かったんじゃないかな……。

・削除シーンは38分あり、64年大統領選の核戦争煽り選挙広告が高画質で拝めたりする。

 削除シーンの35分あたりで、マクナマラ回顧録とかその他の本計3冊の自著を「この映画が面白かったひとはこっちも買った方が良いよ」とオススメしだしたので、なかなか強かった。

 

05/19

 『マングラー

 明日は伊藤Mとして知られたかたの月命日なので観た。

・面白かった。ただ同監督なら『ポルターガイスト』の方が良いとは思う。

・後世の他監督との共通点をあれこれ感じた。

 1ショットで人が人を角材で殴り倒すさまやら(二つに割れ弾ける勢い!)。悪魔の機械の、動きだしたら悪の親玉であろうと止らない暴力ぶり(ここのロジックが凄い※)やら。異界へ繋がる時空間やらに「なるほど清監督が好むわけだトビー・フーパーと思った。

 情報提示にシャマラン監督作(彼は『シックス・センス』で『ポルターガイスト』を引用してる)の語り口を少し思い起こしもした。

 

悪魔の機械を止めるためには、悪魔祓いの儀式をおこなう必要があるのだが、行ない手はオカルトマニア(主人公の義弟)で、マチュアの当然としてその仕事ぶりは覚束ない。義弟が聖句をたどたどしく唱えているうちに、悪魔の機械は着々と人間を折りたたみ続けそしてすっかり肉塊に変えてしまう。

 義弟(ら)がどれだけアマチュアかは、ヒロインが角材で張り倒され薬で失神させられ悪魔の機械に載せられるあいだに並行して映される、現場に駆けつける主人公らのシーンで描かれるのだけど車を止めてまで予行演習し、手順を確認・伝授しようとする義弟と、途中まで聞いてしまう主人公の姿)、このときは悪玉に利する(ヒロインに対して不利な無駄足となる)と思われた"観客へのじらし"が、じっさい主人公らが現場にきて悪玉と戦うくだりを迎えてみるとむしろ悪玉を倒す一助となるのが面白かった。

 ――義弟らのぐだぐだ聖句で機械がすぐ止まらなかったせいで折りたたまれるのは、悪玉なのだ。

{ただしヒロインを助けるという視点からすれば、すぐ悪魔を祓えなかったことは不利に働く。悪玉に悪魔の機械を強化する呪詛を吐かれる時間も与えてしまうし、義弟の予行演習をまじめに聞かなかった主人公は(悪魔の機械の好物である=)ベラドンナ入りの胃薬を飲んでしまう}

 

05/26

 故郷を歩く

 高校時代の友人S氏がわが故郷の山を登る(イベントに参加する。参加費7500円)と云うので、S氏が暇をしている時間帯にちょっと遊ぶことになった。わが家と山とのあいだにある、わが故郷のおさななじみ家族のいとなむ御食事処に行った。

 

 S氏は、人や人と関わるのが好きなんだろうという性格で、オフのようすを見るに「オンもきっと、とても丁寧で意欲的に物事を取り組んでいるのだろう」というまじめな仕事人でもある。
 今回もS氏の勤勉さがこうじた結果である。なんか街が良くなるよう色々したいらしい(へんなアレではなく、実際そういう仕事についている)。そのために街を知り、人を知りたいみたいな、なんかそんな感じの思惑があるらしい(勤務時間外でよくそんなことを)。すごいことだ。

 

 食事処のおさななじみ氏とは、経歴だけ見れば保育園から高校まで学び舎をともにした長い付き合いである。とはいえ、小学校卒業とともに実際的な付き合いはほぼゼロとなった。顔をあわせれば会釈をして、会話をすることだってある。でもそもそも顔をあわせる機会がない。
 あまりに会ってないせいで、10年ぶりに見たかれと、記憶のなかのかれとが自分のなかで結びつかなかった。
 そういう人はほかにも両手の指でたりないほどおり、自分のコミュニケーション能力がいかに低いかを物語っている。

 

 代替わりし今はおさななじみ氏が切り盛りしているのだと云うお食事処は、椅子や机がたいそうすてきだった。
 かれらは、材木屋さんの家系でもあったので、そちらの手腕が発揮されていることと思う。
 テーブルは料理を置く面こそ地面と平行するよう整えられているけれど、木の曲線がそのまま出た"味"のあるもので、脚は細木を寄せ集めたものだった。
 オシャレで、実用面もよい(安定感がある)、絶妙なバランス。

 イスは直線で構造された「人の手によるものだな」という感じの代物だ。ただ大量生産される既製品とちがうのは、それが直方体であること。
 このイスがなかなか汎用的で、外の席ではそれをいくつも並べることでお座敷みたいなくつろぎのスペースを形成していた。小さな子が"お座敷"に靴を脱いで上がり、そこへ置かれていた木のパズル(やっぱりこれも、このお店独自のものなのだろう)で遊んでいた。

 

***

 

 かき氷がとどく。S氏は練乳いちごか何かで、ぼくは黒蜜きなこ。

 垂直方向に立派なかき氷で、ほかのお客さんのまえに立つ氷の塔を横目にわれわれは「食べきれるのか……」とおそれおののき、実際S氏はウェイターさんに「食べきれますかね……?」と聞いたほどだったが(いま振り返ると、そんなこと聞かれても困るだろう)、杞憂であった。

 ふわふわで、すぐに難なく食べきれてしまった。
 いくらふわふわでもこれだけ大きいと食べていくうちに溶けてしまいそうなものだけど、そこらへんはいろいろと考えてあった。
 渡されたのは厚みのあるプラスチックのスプーンで、持つ手は平熱のまま、氷も溶かさない。
「食器までよく考えられている」
 S氏はさまざまなところへ目を光らせ、輝かせていた。

 かき氷がどれだけふわふわだったか。
 これは黒蜜きなこを頼んでもらうのがわかりやすいのではないか。
 溶けづらい工夫がなされているとはいえ、もちろん氷なので溶けていくのだけど、そこでカルチャーショックに見舞われた。
 「溶ける」という語から連想されるのは「雫となって垂れていく」というイメージだろう。でもこちらのかき氷は、粒があまりにきめこまかいために、気化・揮発していくみたいに溶けるようなのだ。
 テーブルに置かれて「さあ食べよう」とスプーンを伸ばした束の間に、きな粉が花火のように弾(はじ)けて舞った。
 インスタ映えやらなにやらがはやりの昨今、これはもうぜひとも動画で撮りたい代物だった。

 

***

 

 おさななじみ氏は「Sくん」とS氏に名字で呼びかけラインを交換したのち、「zzくんも」とぼくのパーソナルネームzzzzの上半分にくんをつけて呼びかけ、ぼくはぼくで「うんTっちゃん」へ首肯しラインを交換した。
 zzz_zzzzという名前のうち「zzz_」のファミリーネームで呼ばれることのおおいぼくを下の名前で呼ぶおさななじみ氏とぼくの関係について、はたしてS氏は近しさを感じただろうか。

 「zzっち」。
 それがぼくのニックネームだった。
 ぼくらがよく遊んだころ、二十年近くまえ。あの頃は『たまごっち』がブームを迎え、小学校低学年のぼくらのクラスではクラスメイトを「何某っち」と呼びかけることが流行った。
 ブームが早々に去ってからもなおぼくは「zzっち」と呼ばれつづけた。
 白いボンバーマン型のスーファミのマルチタップをよく持ち運んでくれていたTっちゃんの家には、今では赤いだるまの絵が描かれたおおきな凧が飾られている。

 

*** 

 

 食後は、イベントの集合場所の高所を目指した。S氏は古い街並みへカメラを向けてパシャパシャ撮っていたのだが、
「電柱が電線がジャマだ」
 と不満げである。S氏の批評はさらにつづき、
「地中化すればよかったのでは」
 などなどあれこれ言っていた。できた人なので対案も出してくれる。

 この辺について、S氏がどういうベクトルで話をしているのか突っ込めないまま別れる時間を迎えてしまったので(午後4時だと思われた登山の集合時間が14時云分だったため)、真意はよくわからない。

 土地のウリとそぐわず醜い――という主旨なのかしらん。
(たぶん、電柱電線が素朴に醜いということではないだろう。『エヴァンゲリオン』が登場してから四半世紀が見えてきた時代である)

 

***


 土地のウリとのギャップとは?
 話題とした地域は、ふるくから参詣者のいるような歴史的な名所であり、いま現代の観光客へのウリもその歴史性にある。なので、そうした歴史的な雰囲気を大なり小なり味わってもらうには、電柱や電信柱は要らないのでは――と。そういう向きだ。

 

 そうなってくると「並ぶ街並みもまた、電線がない頃のような古めかしいよそおいでなければ、様式の面でちぐはくではないか?」という問題が出てくる。
 「小江戸 川越」みたいな、「和モダン」と称賛されるような一戸一戸が統一されたデザインのゆきとどいた街並みには、たしかに電柱電線がいらないけれど、しかし、もっと混然とした土地では――つまりわがふるさとだ――、必ずしもそうではないだろう。ここは、屋根壁がトタンだったり、その隣はALC外壁のヘーベルハウスだったりと、昭和平成がないまぜになったりするような、それぞれの戸がおのおの自由に生活している土地だ。

 だった。

 しかしこれについては、そう大きな問題でもないように思われる。
 しばらく来ないうちに建て替えがすすみ、通りの半数くらいは電線が似合わない擬古風な見た目になっていた。
 ほかの家々もそれに追従したとき(するだろう)、電線電柱地中化のアイデアは、たしかによいアイデアと思えた。

 

***

 

 この辺を歩いたのはもしかすると、ぼくが高校3年の冬、兄に尻を叩かれて正月詣でをしに行った以来なのではないだろうか。

 

***

 

 清潔感のあるシックな豆腐屋さんのまえを通りすぎる。
 あまりに足を運んでないせいで、十数年ぶりに見た通りと、記憶のなかの通りとが自分のなかでいまいち結びつかなかった。

「zzっち」
 そう呼ばれていたころのぼくにとって、ここは冒険の舞台だった。zzっちはお豆腐屋さんの脇腹の湿った敷地をすすんで、店主家族の暮らす裏口をくぐったすぐさきにある階段をのぼったむこうの、4人きょうだいの2番目の長男坊の部屋に行くのを楽しみにしていた。
 二つ年上のかれの部屋には、さまざまなゲーム機が乱雑に置かれていて、先述のTっちゃんやら同級生である旅館の次男坊やらと集まって遊んだ。一番人気は『ガーディアンヒーローズ』だ。

 巨大な天上神のおこす天変地異みたいな高範囲高威力攻撃を、数ドットの小市民で避けてるんだか隠れてるんだかやり過ごしたり、スーパーズルの下品な光線に爆笑したりした。
 そしてひとしきり遊んだ夕暮れどきに、お店でできたての油揚げを買ってしょうゆをちょっと垂らしてもらって、食べ歩きながら帰路へついたものだった。

 あの部屋に向かうための脇腹からは、調理の途中で要らなくなったんだろう液体やらがこぼされていて、そして豆腐が豆腐になるまえの「香ばしい」と言うにはちょっと刺激的な匂いがあったものだ。

「zzzzくん」

 S氏にうながされ、かれのあとをついていく。坂道をのぼっていると、冬の冷たく乾いた空気がおいしい。

 

***

 

 豆腐屋さんの向かいにある老舗の旅館は、記憶の通りのよそおいだった。

 しかしあの、狙ったわけでなく年月を経て渋い黒色となっただろう木の旅館の奥にある主人家族の寝食するスペース、その一室にはいまでも原色のジャンプの塔が建っているだろうか?
「『ワンピース』? アニメじゃなくて原作で追ってるから」
 そう鼻で笑った同級生Wくんのふてぶてしい顔が思い起こされる。いまかれはどこにいるんだろう。Wくんの名前はぼくの電話帳にもLINEにも無く、聞くすべはない。

 

***


 「小江戸 川越」が一息おちつき、「小「小江戸 川越」」や「小々川越」がTVで話題にされるくらい月日が流れ、人々が入れ替わり建物がたて替わっていけば、そのうちこの通りだって電線が地中に埋められて、現時点基準でのシックな街並みが出来あがることだろう。

 そうして埋められるのは電線だけなのだろうか、とちょっと思う。
 線を引っ張ってみたら、セガサターンがつながってはいやしないだろうか。
 あるいは白いボンバーマンとか。


05/28

 PCからインターネットにつなげなかったので、積み本を消化した。
 ネットはおそらくルータだか何だかの電源を消して入れ直せば済みそうな気がするよいのだけど、こわくてできない。
 できないじぶんを振り返ってみると、発展途上国支援のクリシェを思い出す。井戸を掘ってもらったのに、井戸の直し方を教えてもらえなかったひとびと。

 

 『ゴルゴダ深見真

 やることは多いのにコンパクトですごいなと思った。
 妻子と義母を殺した5人の若者らへの復讐を通じてヤクザも警察も自衛隊も一網打尽にするうえ、プロローグとして北朝鮮密入国テロリストとの戦いや基地内での師匠との試合形式の格闘訓練もえがき、鏡像的なライバルキャラの試合形式の柔道訓練模様なども描く。
 章がかわるごとにキリスト教聖書から一節がひかれる作品で、さいごのひとりを倒すところでは戦地として交差点(たぶん十字路なのだろう)がえらばれていた。


 『ちちゃこい日記』続刊

 無料配信(かセールか)していた1巻を読んだら非常に面白く、その勢いですぐ2巻も読みたくなったのだけど、その時お金がなくて買えずにいて、買ったころには積読の山に入れていた。
 続きものだけど1話ごとに区切りがついていて、生活の機微がじっくりじっくり描かれている。読む側としても1話ごと、ゆっくりゆっくり味わいたい作品でもある。

 新学期になり席替えもなされ、新たなキャラと交流をもつ。

 1巻は村と町、団地と戸建て家庭というちがいによる身につまされるエピソードが主だったように思うけど、2巻は男女の問題が多いように思う。むやみやたらと威圧的な男子中学生の立ち振る舞いに、主人公がまきこまれてしまう。

 2巻もとにかく雪の描写や雪をからめた人々の動きを丹念に追っていて、幕引きの1コマがすさまじさはこうした地道な積み重ねがあってこそなのだとふるえた。


 『丁寧に恋して』

 おそらく台湾人の母とたぶん日本人の父をもつ丁寧さんが気になる、彼女のクラスメイトの男子高校生のはなし。
 そこへ台湾現地の丁寧さんの女友達や、丁寧さんらのクラスを担任する中年男性の教諭が挟まれる。
 
 『ちちゃこい日記』サワミソノ先生の次回作である。
 『ちちゃこい日記』で、雪国の町の一戸建ての家と団地住まいの子との違いを、衣食住という目に見えるモノや行動のちがいを丹念にすくいあげて描いてみせた筆致を期待する向きからすると、1巻の時点では「あまり面白くない」と言わざるをえないのが正直なところです。
 方向性が変わったように思えます。もしかすると、方向性が深化し、難しいものをモチーフとして取り上げているのかもしれません。
 なんにせよ2巻目以降が楽しみです。

 『丁寧に恋して』は人々の関係性に重きが置かれているようで、台湾(人? ハーフ?)だからどう、という描写はことさら目立たちません。
 丁寧さんが修学旅行にひとり行けないので、不憫におもった男子高校生がじぶんのバイト代を担任に渡して彼女の旅費にしてほしいと頼む話や。
 男子高校生から渡されたバイト代が旅費には足りないので、担任が足すまいか足さぬまいか悩み、更には「そうして足したところで全部この男子高校生がえらいということになるんだろうか、足した私の立場は?」などと悶々とする話。
 丁寧さんが手紙を送った地元の女友達が、彼氏といっしょに消毒液などを買い、ピアス穴を開けてもらう話。
 丁寧さんの授業ノートが無断コピーされて第三者が転売しているので、不憫に思った男子高校生が丁寧さんへ利益をリターンする話、などが収録されている。
 上に挙げたとおり、いまのところは、丁寧さんのまじめだが悪意にうとい性格やら男子高校生の正義感、成人男性の担任の"良い大人"になりきれず非モテをこじらせた日陰者という性格さえ同じであれば、たとえ丁寧さんがフィリピン人を母にもつひとだろうと、日本の低所得者層のひとだろうと、充分おはなしは成り立ちそうにも思えてしまう。
 次巻以降でえがかれるだろう修学旅行でどうなるのか……という感じ。

 

 決定的な差異はないように見える。
 けれど表立ってトピックとならないけれど、ささいなところでささいな差異が描かれていて、これがチクチク刺さります。
 いまのところは歯茎に小骨が刺さるような感じだけれど、もしかするとこれは、かなり大きく深刻な氷山の一角を覗かせているのではないかとも思うのです。

 それまで修学旅行の金を用意できてなかった丁寧さんがある日突然じぶんで返済してみせたことについて、担任は「水商売・風俗で稼ぎ出したのでは?」と的外れな心配をする。顔は吃驚仰天あわわわわ……という感じにデフォルメされ、このコマ自体はギャグのていで描かれているけれど、それを差し引いてもかなり気持ちわるい発想の飛躍だ。
 この担任氏の胸のうちについては、そこに至るまでにもあれやこれや重篤非モテぶりが描かれていて、それはそれで気持ちわるい非モテをこじらせている者として非常にわかる考えであり、自分の見たくない部分を指さされて見る思いで、つらくもある)のだけど、これはそれとはまた別の方向性の気持ち悪さなのではないか。

 べつに担任氏は、そんな心配するに値する決定的な場面と出くわしたわけでもなければ、そう思っても不思議でないような場面を見たわけでもない。
{学校外で、そうしたお店のあるところでそれらしい人と一緒にいるところが確認されたわけではない。(……それにしたって飛躍があるけど、さておきます)}
 それどころか丁寧さんは、学校生活のなかで、そういう無法をしでかしそうな素行不良を見せたわけでもなければ、スカートの丈が短いやらシャツのボタンを開けている数が多いやらといった程度の色気を見せたわけでも、まったくないのだ。

 勘違いコメディであれば積み重ねるだろう段どりを踏まず、唐突に登場した笑えない発想の飛躍。
 サワ先生が定石を指せる実力の持ち主であることは、『ちちゃこい日記』のストーブをめぐるくだりを読めばわかる。


 なにかコメディ以外の別の文脈を踏んだのではないか……そう考えると、かろうじて使えるかもしれないステップがある。
 妄想の対象の丁寧さんが、アジア系の外国人であるということだ。

 外国人や2世以降のひとに対して多数派のひとが接するさい、大なり小なりかけてしまう偏見のフィルター。この笑えないくだりは、これが露になったシーンなのではないだろうか。

 

***

 

 逆もある。丁寧さんに男子高校生は2度封筒を渡す。一回目は恋慕から自分のバイト代を、二回目は知らぬ間にじぶんのノートが無断コピーされて転売される丁寧さんの不遇にたいする正義感から正当な報酬を……というところだけど、どちらも理由を説明しない。
 説明しないで誰とも知れないひとからお金を送られた丁寧さんは、「施しはやめて!」とブチ切れてしまう。
 丁寧さんがそのように怒った胸のうちにあったのは、「自分が多数派から、外国人やらなにやらフィルターをかけられたうえで見られている」という自意識なのではないだろうか。

 

***

 

 『ちちゃこい日記』で目に見えるものを丹念にすくいあげたサワ先生が、今作では目に見えないものを可視化し具象として扱おうとしているとしたら……。
 2巻からさきも楽しみにしたいと思います。


05/29

 『堀居姉妹の五月』

 作者の御徒町鳩先生のお名前とお人柄はいくらか知っていて、いつかなにか読もうと思っていた。腐女子ッス』連載当時、ラジオ『ディア・ガール・ストーリーズ』に先生は何度か登場していたのだ。
 堀居家の4人姉妹の恋愛にまつわるオムニバスで、おのおのの性格はバリエーションがあり、読んでいて飽きない。他人に流されやすい静かなひとから、ゴリラと陰口を叩かれるアスリートまで、さまざまいる。

 

***

 

 4人目に語られる長女のはなしが一番おもしろかった。姉妹のなかで唯一の既婚者で、暮らし始めてから相手のイヤな点が目につき、不満が溜まりに溜まっていて別居する……という導入。


 そこで大きく扱われるのは、妻のディズニーランド(的巨大遊園地)趣味で、夫がその趣味に無理解であることが別居の決定打となる。
 「妻に趣味のコレクションを捨てられた男オタク」の寓話じみたはなしについて、ぼくはこれまで何度か見聞し(、「たいへんなことだなー」と流し)てきた。
 これはその女性版というところだけど、
「むしろ女性のほうがこういうたいへんな目にあってるのでは?」
 と思うような説得力があった。

 今作では上の挿話が、"自分の意見を聞いてもらえない妻"の一要素として、義母らから言われるマタハラやら、妻のおこなうパートタイム仕事について「誰にだって務まるような簡単な、いつでもやめられる仕事だろ」とクールに扱うところやらなどと並べて描かれている。これらをつなげる視点がなかなかにもっともらしい。

 

 面白いのは、そういう社会派な視点だけでない。物語的な膨らませかたがすごいのだ。
 義母との関係や正職とパート職との関係などとならぶ、現実的な夫婦の悩みのひとつのように思われた"じぶんの関心事と配偶者の無関心"。これは、発端の細部に妙な部分をうかがわせ、それが根となり幹となるほど展開されていく。

 情事のさいに、趣味の空間とを仕切るカーテンがめくれていることに妻が気づき、夫に声をかける。夫が無視したところ、ディズニーランド(的巨大遊園地)のミッキー的スターキャラが覆いの向こうから落下し顔を出す。そこでまた妻が夫に声をかけるものの、これまた無視をされ、妻は夫に愛想をつかしてしまう……
 ……長女のエピソードは、妻と夫、そして(妻が年間パスを持つ)遊園地のスターキャラの三角関係のはなしなのだ。

 

06/10

 卯月コウの配信を観た

 杉ノ美兎さん{2022/02/10注;にじさんじリスナーのうち当時有名だった固定ハンのひとり。顔が売れていくにつれ一部のリスナーから不評を買ったらしく、アカ運用休止。匿名の海に消えていった。自制心がすごい。(ニコニコ大百科に記事さえ出来ていて、そのコメント欄をのぞけばアンチの存在が確認できる)によるツイートから飛び、Vtuberの卯月コウくんの配信を聞く。
 ツイッターではかなり貫禄ある立ち回りをしているvtuberさんで、同じにじさんじの先輩である月ノ美兎委員長のアカウントをフォローせずその熱狂的ファンの杉ノ美兎さんをフォローしたり、Vtuberとしての第一声が、杉ノ美兎さんのツイートのリツイートではじめたりされた。インターネットのオタクはインターネットに弱いので、そういうかたがやっぱり気になってしまう。

 配信をみてみる。
 ツイッターの強キャラムーブからすると、もっと余裕のある感じのかたかと思いきや、陰キャきわまりないひとだった。(2022/02/10注;いまとなってはこういう「お仲間」という印象はそこまでつよく抱いていないな)

 百合について聞かれ「ぜんぜんわからないんだけど」と前置きしつつ、

「最近の私モテとかいいよなあ。修学旅行編からずっといいんだけど。オタクは何某ちゃんとか好きだよなあ」

 と陰キャトークを一通りする。そのあと思い返したように、

「あっ好き"そう"だよな。陽キャであるおれにはオタクの気持ちは分からないけど、お前らオタクたちがそんな風に考えていそうだと推察することはできる」

 みたいな陰キャへマウントしたりと、なかなかかわいらしいキャラである。
 かわいらしい外見に似合わず低めの声で、声質は「かっこいい」というよりも、委員長がボイスチェンジャーつかったときのキモオタ声に近い。(2022/02/10注;マイクの調子もあって、本当にそんな感じに聞こえたんですよ!)

 語り口は、スラスラ喋るというよりは言葉をえらぶところがあって、配信したばかりだからかもしれない(たとえば一人称の言い間違い・言い直しは明らかに不慣れゆえだろう)けど、ぼくのように器質的な問題から言い直したりどもったりしながら喋る発話を思わせ(いやぼくほどひどくないけど)、なにやら親近感がわきました。

 リスナーとのからみも現時点ですでに面白くて、
「おれリトバスではじめて感情を知ったんだ」というエピソードトークをした返す刀で「Keyで感情を知ったって人いる?」つって問いかけたりする(いないよ!)

 

06/11

 『ダンスイカスミダンス』

www.youtube.com

 http://www.nicovideo.jp/watch/sm33347580 からMirekさんの音楽にハマる。
 月ノ委員長を題材にした懐古厨歓喜のMADから入ったため、VtuberさんMADは、配信動画の中から面白名場面やら文脈やらをピックアップしたタイプのものから入っていき、MADからVtuberさんの本編配信を見て⇔VtuberさんからMADへ行き……というサイクルを繰り返していたが、

(2022/02/10注;日記はここで途切れている。このさきをなんと続けるつもりだったのか、正直もはやわからない。逆接の「が、」なのか、順接の「が、」なのかさえ不明だ。

 Mirekさんの音楽そのものの良さについて触れるつもりだったのかもしれない

 夕方。Amazon注文商品がひととおり届く。開封もほどほどにさっそく積む。

 

06/12

 グダグダしているうちに1日がおわった。
 ゼロ年代中頃のコーカサスやらチェチェンやらの情報を知りたいなと思い、またAmazonで散財する。
 Amazon注文商品が残りも届く。これまた積む。


06/13

 『ダークソウル』トリロジーBOXが届く。重たいとは聞いていた。でもこんなとは思わなかった……。大荷物が届くことをなにも伝えていなかったんだけど、受け取ってくれた家族に申し訳ないことをした。


 『あげくの果てのカノン

 を読む。だいぶ前に無料配信されて(積んで)いた1巻を読んだら、面白いしヒキが強く、「これは大丈夫だろう」ということで全巻買ってしまった。
 「カノン」という題名や主人公の名前や想い人の十八番の曲がピッタリ合う、堂々巡りで足踏みしてばかりのひとや動きの話だ。
 反復変奏を明示的にせざるをえない作品のいくつかは、(構造的にまとまりがよい、良く構成された作品だとは思いつつも)受け手の体感としてはダレてしまうものもあるのだが、今作はそんなこともなくページを進める手がとまらなかった。
 堂々巡りする主人公に、彼女と関わる人がやきもきさせられ失望して彼女に負の感情をぶつけるまでが1サイクルで、エピソードによって関わる人が近しい人から遠い人へと変わっていくし人物のバックグラウンドの提示も散らされている。そのうえ、外の世界の動きはスピーディで事態がどんどんエスカレートしていく。

 ポスターなど広報写真が劇中独自のもので、ぼくはこういうところに弱いので非常によかった。


06/14

 『デモン・エクス・マキナ』の実機プレイ映像を何度か見た

 ような気がする。巨大なビルを壊せるところや、車を重力ビーム的なパワーで飛ばせるところ、壊したビルから手に入れた鉄塊を武器として振り回せるところに感心した。
 しかし、木はブレードを素通りしていたので、
「どれが被破壊オブジェクトでどれがそうでないのか。一つのオブジェクトに役割をどれだけもたせるか……というのはは、永遠の問題なんだろうなあ」
 などと思った。


 アニメ映画版『聲の形

 劇中うつされる不気味な動きはいくつかあるけど、ゆづるによる死体撮影趣味(というあからさまに不気味な行為)については、因果がセリフでも説明されるし。そもそも、理由が明かされるまえの時点でも「うげっ」と引く不気味さがない。

{写真を撮る姿に奇妙さがない、被写体に死臭がない辺りが関係してる気がする。これはおかしなことで、ゆづるによる説明からすれば「うげっ」な写真であってこそ意味があると思うのだが。(原作の時点でこうだったんだろうか……?) 死に惹かれる石田視点の物語だからだろうか?}

 死は穏やかな一方で、生の不気味さが描かれていて、(川井さんの強力さはもちろん)植野さんのキャラもそういう方向に純化された印象だ。「少年漫画的な要請とか、長期連載で興味を持続させるための要素なんじゃないの?」と思われたものが結構オミットされて、これはなかなか「おっ」と思った改変だった。

{唐突ではあるけど不気味と感じず"萌え"の文脈に回収できる猫耳装着会話(補聴器やピアスが小道具として登場する作品で、耳型の装具を着ける面白さはわかるけど……)やら、攻撃として放たれる嘲笑をした植野さんが誰も見ていないところで泣きに移るところやらがオミットされていたと思う。原作読み返してないので確認できないけど……}

 この辺の突き放し方は、ちょっとすごいものがあると思うし、有名な原作とはいえこれが国内興収20億円余(世界なら30億余)というのもまたすごい話だと思う。

 

***

 

 京アニの技術力でもって、作画の大変そうな"人がいっぱいいて、しかもそれぞれがきちんと動く"文化祭が描かれるわけだけど、最後に石田の心が晴れる場面では、その作画力がゆえに妙なこわさを抱いた。

 人の顔を見れなかった石田の心が晴れて"見る"ということができるようになった……という心象を「これでもか!」と描いた結果、あれだけ人がたくさんいるのに石田に目を向けたり近づいて触ったりする者がひとりもおらず、群衆の中で彼がひとり佇むということになっている。

{文化祭だから、フランクフルトを買ってもらって渡されるとか(序盤のパンの交換の逆として)、なんかありそうなものだと思うのだが。(じっさい石田のクラスは喫茶をやってたわけだし)

 

 『君の名は』(同年公開の大傑作)で明示的に幽世やらなにやらとして描かれる場より、よっぽど「あの世っぽい」というような印象を受けた。いいんだろうかこれ。

 

***

 

 やっと感想巡りをして、自分の周回遅れぶりをしみじみ確かめている。{キャラの変わらなさ(特に川井さんが凄い、植野さんがよい)というのは、最近のぼくの感想欄でもおなじみのこちらでも触れられていた。
 ttp://d.hatena.ne.jp/clementiae/20160923/1474652212 }

 

 古谷利裕さん『偽日記@はてな』による映画と原作漫画との比較。
 ttp://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20161127
 ttp://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20161128

 (1)(2)は有無でなく程度問題のお話のようにも思うけど(リンク先文中でも「まったく十分ではない。」など、"程度"の評価がある)、そうであるがゆえ難しいなあと思った。 

 (1)について、西宮さんに対する不満・いじめが女子→男子(石田)へと波及していくことは、映画版でも描かれていることだし。

 (2)についても、状況を改善するための手段としてノートでやり取りするだけでなく⇒手話を習おう……という流れは、映画版でも描かれることだ。

 ただ、たしかに、「その辺を(原作未読の)受け手が汲めるほどの描写があったか?」と言われれば充分でないように思えるし。

 あるいは――これはリンク先の話とは外れるけど――「そこに思いを馳せられるほどの"(シンキング・タイム的な)ダレ場"があったか?」というと、そんなヒマもない。


06/15

 820起床、14時頃寝て、16時30分に起床、夜勤へ。
 ゲティ家の身代金犬ヶ島も、観ようと思っていた映画はすでに終了していて、ニンジャバットマンは近隣でやっていない。
 ということでぐだぐだ過ごした。

 

06/30

 『ウィンチェスター・ハウス』

・チケ代分は楽しんだ。当然ながら建築が面白い。他風俗も良かった。(カタログ通販!)

・ラストの生前の本人写真が一番怖くて「いいの?」とは思った。

 霊に顔があり時代性土地性が絡んでくるのは面白いけど、王道なのかな?※

・死者は設定上ウィンチェ銃絡みで固定され飛躍はなく、掘下げもそこまででは……。

"迷わない迷宮"が皮肉でなく興味深く、ジャンル映画の蓄積と飛躍について思いを馳せた。

・銃を槌の代用とする所は良いし。

 ウィンチェスター邸らしい入り組んだ階段越しの銃撃戦も面白いが、色々と疑問もある。

 

  ■ジャンル映画の蓄積と飛躍■ホラー演出について■

 今作は、いわゆるジャンプスケア(大きな音で生理的にビックリさせたりする類)の演出が結構あって、しかもその音の出所が劇中世界にない後付け演出で、「驚くし冷めるしやっぱりこれは好きになれない」と思いながら観た。

 これが嫌いでホラーはほとんど観ないんだけど、作り手にジャンル的な蓄積があり受け手もジャンル的な了解をしたうえでこそ生まれるだろう演出もあれこれあり、食わず嫌いはいけないなと反省した。

 

 ホラー演出のなかで良いなと思ったものは、ウィンチェスター家側が精神科医のために用意してくれた部屋の鏡が勝手にズレるので、精神科医が直していくうちに幽霊が……というシーン。

 大きな音を後付けでつけたりしてるけど、なくても驚いたと思う。"観客の注意をどこに向けさせるか/そらさせるか"が巧みだった。マジシャンの技巧だ。

 どんなシーンかさらにくわしく言うと……

 精神科医が部屋の鏡でじぶんの顔を見ていると、鏡がポイルターガイスト的に動いて、映す対象をかれ(生者)から無人の椅子のほうへと向きを変えてしまう。精神科医は鏡をもとの位置に戻すも、戻したそばから無人の椅子のほうを向く。精神科医は懲りずに戻す、と鏡がまた無人の椅子を……というのを繰り返したら、幽霊があらわれて精神科医がビックリする……というものだ。

www.youtube.com

 観客(ぼく)はてっきり鏡像の椅子上に幽霊が現れるのだと思った。

 でもじっさいには、向きをなおした鏡のうしろに幽霊の実像が現れるのだ。

 鏡が精神科医の手で角度をかえていくうちに、カメラとの角度が平行に近くなって、鏡のうしろにある空間が見通せる角度になったとき、バァン! とグロテスクな幽霊がでてくる。 

 何度も何度も向けられた無人の椅子に観客の注意をひきつけ、実際にでてくる場所から意識をそらさせる。そしてその登場位置は、前触れの怪異を考えると、むしろ自然だ――鏡が動いたということは、鏡を動かせる位置に誰かがいるわけなのだから。(いや終盤、幽霊は念動力――モノをさわらずに動かせる能力――をつかっているけれど) 

 

 さて、不可視の幽霊が鏡を動かす、生者の精神科医が鏡を戻す……という繰り返しは、物語効率からすると無駄だ。何度もしたからといって物語が進むわけではない。

 ホラーというジャンルであるからこそこの"じらし"が成功するのだし、心霊写真心霊映像文脈の"幽霊が出てくるのだろう""鏡像で枠どられた向こうになにか映るのだろう""無人の椅子があやしい"という了解があるからこそ、フレームの外に幽霊が現れることに驚いてしまう

 

  ■ジャンル映画の蓄積と飛躍について■迷わない迷宮について■

 良くも悪くもストレートだなあと思ったのは、ウィンチェスター邸とそこで行われる人々の動き

 入り組んだウィンチェスターハウス、家の構造を精神構造にたとえるセリフ、幽霊と交流できるが認めない精神科医……という要素から、

「ははぁ、さては物語的な袋小路におちいったところでキャラも"迷子になる"展開とか、心理的な問題が解決されたときに"幽霊と和解し順路を歩める"展開とかがあるか?」

 と思ったのだが、後者はともかく、前者に相当するようなシーンが傍目になかった。

 これには「えっ?」と思ったけど、しばらくして、これはかなり凄いことをやっていたんじゃないかと考え直しました。

 

 意識のそらしかた/転換がうまいなと思ったほかの場面が、"のぼったさきが天井である階段"の展開。
 この"天井につづく階段"は、冒頭で幽霊に取りつかれたウィンチェスター孫が指さす、今作の舞台であるウィンチェスターハウスの特異な面のひとつで、終盤、精神科医の主人公が再訪する場だ。

 少し上で言った、設定から予想される"幽霊と和解し順路を歩める"展開なんだけど、処理がかなりスマートだ。

 『ウィンチェスター・ハウス』には、"迷子になる展開"こそ一つもない。中盤、精神科医はウィンチェスターハウスや夫人の秘密をさぐって屋敷をひとり歩き回る。複数ある夜のどちらも、きちんと自室に帰れる。

 この作品が描くのは、ともすればもっと難しい問題だ。

 "幽霊と和解"した精神科医がたどりつくのは、家を自由に歩き回れているという認識がじつは間違いだったということであり、選択肢はもっとさまざまあったということであり、その選択肢は何も与えられるものだけでなくじぶんでつくりだせるということだ。

(友好的な幽霊にオノをもらって別の友好的な幽霊に杭をもらった精神科医は、またまた別の幽霊が指をさした方向へ歩みを進めたところ、"天井につづく階段"へたどりつく。

 指さした幽霊は、精神科医の亡くなった妻であり、死因は本人の反意も聞き入れず彼女へ彼が精神病だと診断したことにあった。男は今度は妻の言うことを無言で聞き入れる。どこへもいけない階段をのぼるっていき、オノをふるう。……天井は、ウィンチェスター夫人と彼女を殺さんとする悪い幽霊が閉じ込められた部屋の床だった。

 あの階段は行き止まりでなくて、ゴールまでの順路だった! ということが、主人公が幽霊を信じたことでわかる……という流れ)

 "「気のせいか? それともマジモンで霊のせいか?」で迷う"という"心霊モノ"におなじみの部分と、舞台設定上そこに付随するはずのアクション(迷宮に迷う)を咀嚼して、そのさきを考えた結果が、"迷っていることにさえ気づかない迷宮"なのではないかと思う。

 古い言い回しなら"知者が間違う時は恐ろしいほど根本的に間違う"というやつが近いだろうか。

 そんな言い回しを諳んじその言葉の意味することがどんなものか一例を詳述する傑作コン・ゲーム漫画喰い』では、奇しくも『ウィンチェスター・ハウス』同様に主人公の訪れる建物がたくさん部屋のあるオモシロ迷宮だったという"ラビリンス"編というシリーズがある。そのシリーズでは、ドラマが進むにつれ迷宮に迷うひと ⇒ 迷宮の構造がわからず自分が迷ってるかどうかさえ分からないひと ⇒ 迷宮の構造が分かっているという確信から迷わずドンドン歩みを進めるひと……と段階を踏んでいくので、スムーズに感情を動かされるけど。

 けど『嘘喰いラビリンス編みたいな流れは長期連載漫画だからできることで、尺のかぎられた商業映画ではそうもいかないだろう。なので削る(削ったみたいに消化する)というかたちがとられた……というわけだ。(推測に推測をかさね、さらに断定にしてしまうダメ感想)

 

 ここのところ自分の観るようなジャンル映画のなかには、究極の一見さん向け映画というかジャンル版百科全書的な作品がいくらかあったように思うけどジョセフ・コシンスキー監督オブリビオンや、映像特典で参照元が元映像付きで逐一明かされるジョー・ジョンストン監督『ウルフマン』、同じくジョンストン監督のWW2総まくりでアメコミヒーロー総まくりみたいなキャプテン・アメリカなど)、面白いは面白いと思っていたけど、「ジャンルファンにとっては定石集みたいで退屈」という感想も聞いた。

 『ウィンチェスター・ハウス』の迷わない迷宮(定石外しに思えるさらっとした展開)は、そうしたジャンルファンのための、定石を踏んださきにある未踏の地へジャンプするためのホップステップなのかもしれない……なんてことを思った。

 

  ■幽霊とのバトルについて■

 ウィンチェスター邸の入り組んだ階段でのバトルは、標的があれだけ声を出してしまうと、弾が当らないことに幽霊の憑依が完全でない以上の理由が欲しかったな。

{一瞬「射ち手が子供(低身長)であるせいで手すりが目隠しになってるのか?」と思ったけど、弾切れとそこから鈍器代わりに銃で叩くシーンから察するに、それは関係なさそうだった}

 家族愛が勝つ布石として、(銃の代わりに製作販売をはじめた玩具の)ローラースケートを階段上に転がすとかがあっても良いかもしれないと思った。

 

 クライマックスまで出てくる、よくわからない舐めプレイがあるところが好みじゃないけど

{斉射はまあわかるし。

 せっかく幽霊ががんばったのにウィンチェスター息子娘が病死認定されてしまうやら、劇中時間軸でえがかれるウィンチェ孫息子の飛び降りが夢遊病認定されてしまうところで「ぐぬぬ……」「血塗られた武器商人ぶりがいかんのじゃとハッキリわからせたらあ!」と武器庫を描いたりなんだりする幽霊兄弟の姿を思い浮かべるのはわりと楽しい。

 ……ただ、空中にあれだけフヨフヨ浮遊させる必要はあるのか?}

 でも、中盤のつづら折り階段での攻撃はこわかった

 中盤のシーンはたしかに殺せはしなかったし発砲も生ぬるいけど、弾切れから即座に銃を鈍器として転用するあたりがすごい。殺意の表象として素晴らしいと思う。

 銃を銃として扱うほうが、現実的には殺傷能力が高いし殺意だってあるだろうと思うんだけど。銃が銃として扱われずに、銃としての機能を失ってもそれでもなお凶器としての活路を見いだされるほうが、よりつよい殺意・狂気を感じる……コロンブスの卵を見る思いだった。

 

***

 

 サイコな殺人犯がウィンチェスター夫人と精神科医と戦うシーンと、殺人犯の弟コンビがウィンチェスター息子嫁&孫息子と戦うシーンとが並行して描かれる。

 幽霊にとりつかれがちな孫息子と、その母(ウィンチェスター夫人からすれば息子嫁)とのあいだに確執はなく、母子愛が貫徹されることでハッピーエンドとなる(冒頭と同様に、終盤も息子嫁は、とりつかれた息子を追いかける)。この辺も先行作からするとストレートだなあと思った。

〔ホラーよりも多く量をこなせている怪獣映画について、人類が無能を発揮して自滅してしまうタイプの、怪獣が強いんだか人類が弱いんだか分からない映画がぼくは好きじゃない。{人類が最善手をうつ、打ち続けて失策を全くしないというのに、しかしそれでも破壊の限りを尽くす超然とした存在として怪獣に君臨してほしい欲望がある}

 そんな自分としては、

「ホラー映画ファンも、幽霊の怖さ{強さ}について同じようなことを考えるひとがいるのかなあ」

 と思った。

{ただまあ今作は、べつに息子嫁は、対幽霊用の装備が整っていないことはもちろんのこと、対夢遊病の施策が充実しているわけでもないので(扉に鈴をつけるくらいはしてもよさそう)、贅肉をそいだ構成を目指した結果そうなったというだけなのだろう(。科学的・オカルト的な手続きを経てもなお、解明もできないし祓われもできない超然とした何かを描くためにそのようになったという訳ではない)。

 無駄道せずスッキリした90分位の作劇は、もちろんそれはそれで好ましい。}

 

  ■死者の掘り下げについて■

 霊に顔があり時代性土地性が絡んでくる作品といえば、『IT』もそうだし『シックス・センス』とか『ザ・サイト』もそうだし、『ポルター・ガイスト』もその土地ならではの歴史性が描かれている。

 

 死者の掘り下げ(の物足りなさ)について。

 南北戦争期といえば死とアメリカ』曰く「男たちは、人間性の皮を脱ぎ捨てた……顔には悪魔の霊が乗り移りギラギラと脂ぎっていた。したいことはただ一つ。破壊することだ」(p51)と『NYトリビューン』紙に報じられた兵士らが、泥や弾薬の煤で顔を先住民のごとく塗り(p51)ダムダム弾を放なって身体をえぐり、敵軍の死体の周りで先住民風に踊り(p52)、自軍の死体を地面に「死んだ鶏を始末すように、いっしょくたに」(p15)埋めながら戦った時代だ。

 家族の写真を握り死ぬ者(p25)看護婦を家族と勘違いし安らかに死ぬ者(p26)……今では耳タコの場面が(歌となり返歌が作られ物語の紋切型として未だなっていない「いま・ここの」単なる事実として存在した時代だ

南北戦争末期の政争をおったスピルバーグ監督リンカーンで、長男ロバートが、真昼間に真顔で目の当たりにしてしまった死体の山のように。{中年たちが夜に喜劇的で牧歌的な喧嘩をする(いや、やってることは『アミスタッド』で緊迫したサスペンスの道具とされた、フリントロック式銃の特徴をいかした中々こわいものだが)のは、そうした時代の違いが意識されているのかもしれない)

 たいする『ウィンチェスター・ハウス』に登場する死体は、五体満足でうつくしい映画では先住民やムチ打たれた黒人奴隷の死者などさまざま出てくるが、歴史の醜い部分を掘り起こしたという感じがない。せっかくだからいろいろやってほしかった。

{ただ、作り手の知識や意欲があったとしても(もちろん無いわけがない)、できなかったりしなかったりするかもしれない。ぼくがぱっと思いつくのは2点。

 1点目、五体満足でない死体は、ステレオタイプでない死は、製作費がかさんでしまうわけで、むずかしいのかもしれない。

 2点目は倫理の問題で、現実にあるもの(あったもの)を被写体とするさいの態度というのは考慮しなきゃいけないことが様々あって、そうした配慮の結果かもしれない。

 チェーホフの銃」なんて概念が好まれるように、壁にかざられた銃はドラマのどこかで発砲されてほしいし、「なにかを題材とするのなら、その題材の固有の事象を、その題材だからこそできることを拾い上げてほしい」と願ってしまうけど、たとえば今作なら、現実に傷つき亡くなった人がおり、それを直接書いてしまってよいのだろうか? という問題がある。

 また、ぼくがそれを知っているとおり、それを報じた人や論じた人がいるわけで、題材に固有の事象を忠実に描くということは、そのテクストを大なり小なり利用するということで、彼らに許可を取らなくてよいのだろうか? という問題がある。

 そうした考慮の結果として、固有の部分でなくもっと普遍的で抽象的なかたちへ表現を変更するということをえらんだ作家(・作品)もいる(・ある)だろう。そういう意味では、これはこれで題材と向き合った結果なのだが、傍目には向き合ってないのと変わらない表現に見えてしまい、「踏み込みが足りない」といわれてしまったりするだろう。

 ぼくがここでしてしまっているのは、訳知り顔の半可通しぐさだったりしないだろうか}

 

***

 

 分からないといえばウィンチェスター夫人の動きもよく分からなくて、精神科医を閉じ込めようとしたのはどういう流れなんだろうか?
 憑依されたさいの奇行を見られないため? 幽霊被害をふやさないため?
 彼女の行動指針は……

  1. 悪霊を外に出さないこと
  2. ①を守るために屋敷を作り続けること
  3. ②をするための財力を確保し続けること=ウィンチェスター社重役であり続けること
  4. ③を否定しようとする他重役の目論見を阻止すること=かれらが送り込んできた精神科医に精神病診断されないこと

 ……というところだろう。

 そうすると、精神科医に心霊現象を信じてもらうことが大事になるということで、彼女はかれを閉じ込めようとしたけど、むしろそれは逆効果なんじゃないだろうか。

 かれが屋敷を自由に動き回ってもらうことは(映画本編で描かれたとおり)幽霊と遭遇しやすくなることで、彼女にとって益することであるはずだから。

 

 

07/01

 『嘘喰い

 が期間限定で全話無料配信されていた。電子書籍版が1巻無料配信されたことがあり、そこまでは読んでいて、ちょっとノリが合わなくてそれ以上手を出さずにいたのだけど、よい機会だと思って読んでみたら、2巻以降でだいぶ色合いが変わっていた。


 性格はよいけど頭はわるいので消費者金融などにいいようにカモられていたひとが、ひょんなことから闇世界の天才と出会い彼に助けられ、大金や命をかけた闇のゲームに身を投じていく……という筋書きで、ぼくはてっきり同じ『ヤングジャンプ』掲載の『ライアー・ゲーム』路線の漫画なのだと思っていた。

 1巻時点ではたしかにそんな感じなのだけど2巻の時点でだいぶ違う方向に舵を切っていき、甲斐谷作品で比べるなら『ライアー・ゲーム』より『ワンナウツ』のほうが近いテイスト、ほかの作品も引き合いに出すなら『ジョジョ』のスタンドバトル、ジャンプにとどまらないなら山田風太郎のびっくり人間忍術大集合伝奇アクションや大がかりな館トリック推理小説を読む楽しみがより近い。

 ゲームのトリックはとても大がかりで、プレイヤーは対戦相手をだますために、じぶんの特異な身体能力や舞台装置を駆使し"ワカラン殺し"をする。
 現実にはお目にかかれないようなビックリ能力のオンパレードなのだけど、プロのミステリ作家が『嘘喰い』愛を公言するとおり、その驚きの答えに至るための糸口を丁寧に小出しししてくれる。

 そして"わからん殺"される側は、ゲームの最中にそうした些細な違和感を掬い上げて、そのからくりを見抜こうとがんばる。

 このコン・ゲームがそれぞれ面白いし、さまざまな縦糸があって通し読みするとさらに面白い。
 前のゲームがこうだったから、後のゲームはこう……みたいなゲーム発展の縦糸であるとか。各人の勝ち負けをとおして一定の世界観・価値観みたいなものが見えてくるといった……物語の縦糸であるとか。

 

07/11

 セールになっていた

 『地球へ…

 を購読する。
 意外と手塚治虫さんを思わせる絵柄なんだなと思った。ベタの強い絵柄で、白黒ハッキリした画面は
 宇宙とそこにつくられた人工構造物を描いたコマのいくらかは、『2001年宇宙の旅』的な一点透視性の強い画で、『2001年~』の終盤のショットを思わせる3巻の表紙を見て、{2023/02/14追記;日記はここで途切れている}


07/12

 インターネットが通じなくなってしまった。
 なにか読んだ気がするけど、なにを読んだったんだか、よくわからない。なんも読まず、ただただぼーっとしていただけかもしれない。

 『《このラブコメがすごい!!》堂々の三位! 』試読増量版

 を読んだことは覚えている。 
 月700万円を稼ぐライトノベル関連のまとめブログ管理人(語り手)と、そこで晒された素人投稿小説執筆者とがおなじ高校の同級生であるとわかっててんやわんやするラブコメのようだ。
 ガガガ文庫に出てくるような、プライドが高くひねくれていて友達がいない男の視点から、「本当にそんな儲かるの?」と思うようなまとめブログ運営事情と、"最近のラノベ"が解説される。

 ここでいう"最近のラノベ"とは"最近の若者"のようなもので、よくある固定観念や常識にねざした雑なもの。じっさいのライトノベルやそれを読むシーンへの評価としてどれだけ正確かはけっこう疑問がある。
 毎週ジャンプを買っているファンからすれば主人公らが努力をかさね友やライバルと交流シーンなど山ほど見ているというのに、読んでない人が「"最近のジャンプ"って友情・努力・勝利っていうより、金・血統・勝利って感じだよな」みたいなことを言ったりするアレである。
 ひと昔まえではクールジャパンな漫画に対する"アメコミ"解説がそれにあたる。

 タイトルの元ネタであるところの『このライトノベルがすごい!』ランキングを開いてみれば分かる通り、人気のライトノベルには読者のストレスとなるような暗く醜い展開はそれなりにあるのだ。
 ここからは例示なので、ネタバレを気にするひとは飛ばしてください。
 2017年度1位の『りゅうおうのおしごと!』には、主人公が落ち込み当たり散らしてヒロインと仲たがいしたり、ほんわかやさしい年上のお姉さんと思われたキャラが早熟の天才たちに嫉妬し自分の才能の無さを言い訳に怠惰し人生を無為にしたり、プロになる限界の年齢になって搦め手の盤外戦術でなりふりかまわず勝ちをもぎ取りに行ったりするようなシーンがあるし。
 次点の『Re:ゼロからはじめる異世界生活』だって、ループ小説で、主人公は文字通り死ぬほどがんばったけれどそれでもあんまりにもうまくいかないので廃人みたいになってしまう。

 

07/21

 『ハン・ソロ

 MX4Dで。面白かったが『SW』は足枷のようにも。

 

***

 

 思想や身体の異なる人々が動いている作劇で、俺の好きな類のSFだった。

 ロボが傷つき倒れ、相棒の黒人がうわ言を述べるロボを抱いて逃げようとするも、ロボの下半身はもげてしまう……それでもなおうわ言は続く。ヒト型の相棒に機械の体は重くて運べず、ヒトより膂力ある獣人の別キャラが二人を抱き上げ逃げる。母艦に戻ったロボは絶命するが、データを別の機械に移される。

 四肢がなくなろうと意識が保て、絶命しようと記録・演算能力は別機に転用できる……もちろんメカなら当然の挙動ではある。

 ではあるが、じゃあ同シリーズの『ローグ・ワン』はどうだったか? 五体満足で(撃たれ穴が開いてはいるが、手足はもちろん目インカメラさえある状態で)なぜだかヒトと同様の苦しい声色を出し、別の機械を操作するためにじぶんの両腕を振り上げ下ろし台パンして、そうしてバタンと倒れ絶命した(という、ロボ性がまったく感じられない挙動をしてみせた)のが同シリーズ『ローグ・ワン』のメカキャラだ。

 

 『ローグ・ワン』は主要キャラも件のメカをのぞけば特殊メイクや着ぐるみやCG等を必要としないようなヒト型だから、『ハン・ソロ』の獣人キャラがふたりを抱きかかえ進む前述シーンみたいな、別種の種族の身体能力のちがいもまあ目立たなかったけど。

 ハン・ソロは、(別種の種族のちがいが目立つのはもちろんのこと)同じ種族の者についてもひとりひとり特徴的な動きを(繰り返し)させるようなところがあって、キャラ付けが巧いなあと思った。

{ソロの兄貴分トバイアス・ベケット(演;W・ハレルソン)は何度も何度も拳銃を回すし。

 ソロの恋人キーラ(演;E・クラーク)前半と後半二回ソロの助手席に座り、ミレニアム・ファルコン機内でマントを選びマントを消火に使い、宇宙ヤクザのアジトでマントを脱ぎ漁って得物を取り出す

 

 『ハン・ソロ』の各キャラは行動についても一貫していた。歴戦の兄貴分ベケットはもちろんヒロイン・キーラにしても、情に流されず自分を曲げない(ように見える)。

 とくに強烈なのはメカキャラで。酒場でもなんでも権利平等を求めて演説するキャラで、鉱山での一世一代の強盗作戦の途中でも、そうしたじぶんの趣味を赤の他人のメカに一貫して述べ、それが鉱山崩壊につながる革命劇へ発展したりする。

 ベケットだって後半からチームを組む黒人荒くれ者カルリジアン(演;D・グローヴァー)だって、たとえ恋人も旧友も死んだところでそうなった一因に対して怒りをぶつけたりもしなければ、恨みを持つとかってこともなく、後に引かない……みたいなタフガイ。(少なくとも、セリフで明示されない)

 これはなかなか凄いと思った。

 

 所々その場のノリでチームプレイをするしその協同はすばらしいものの、根本的には固有の価値観をもった人々なので、エンタメ映画であれば(現在ではなおさら一般的な感のある方向性のエンタメなら)「こりゃもう一致団結、玉砕覚悟で死地に赴くしかないっしょ!」という場面でも、この映画『ハン・ソロ』では人々がハシゴを外して独立独歩に動きうる余地を残している
 作劇が全編ポーカーのような具合となっていて、とても面白い。

 『ローグ・ワン』とは真逆の印象をいだかせる作品で、このシリーズは振り幅がすごいなあと思った。(ただし『SW』本編の固有の顔をもったスターの扱いに関しては、『ローグ・ワン』のほうがすさまじいと思う)

 一方、劇中のポーカーはたいして面白くない。ギャラリーはどこに陣取るのも可能で、前段で獣人(チューバッカ)の言葉を理解できる人がほとんどいないこととハン・ソロはその言葉を理解できる数少ないキャラであることを描いているのだから、そこを利用したコンビプレイがあっても良いはずだと思った。

{さらに欲を言えばそのトリックのまえに他にも仕込みを入れておいてくれるような、フェアプレイだと嬉しい。

 たとえば、そのさらに前段で(檻内でもいいし、列車バトルの難局面でもよい)チューバッカが放送禁止ワードを叫びハン・ソロが「そんなこと言うな!」と口喧嘩するシーンをえがいたうえで、賭場にきて早々チューバッカが楽しそうな感じの声色で一発退場ワードを叫び、誰も反応しないことをたしかめてからトリックを行なうとか。

 それはそれで尺がかさんでダレそうな気はする}

 「ハン・ソロの記憶力がすごい」ということであるなら、前段で提示されてるかどこか別の場面でそれが活かされたりしたらうれしかった(。たとえば残弾数を読み切ったりとか、なんかあったら……)

 あるいはこのシーンで描かれた、イカサマ賭博師カルリジアンのタネ(手首に隠蔽アイテム)が(、たんに幕引きのカジノシーンで、タネを見抜いたソロが逆に罠にハメるのでなく)、鉱山戦やらの賭博と関係ないシーンの窮地をそのタネで乗り切るとか(。たとえば、彼らが手足を縛られ拘束されるも、イカサマアイテムに仕込んだ刃物を取り出し自由になるとか)

 なんか……なんかあるとよいなと思った。

(まぁ「クライマックスの乱闘で、武器を衣類のなかに隠し持って取り出すところがあの変奏だ」、と言われたら、「まあそうなのかな」とも思う。ぼくが望むものを実際つくってみたら、クドい味になるかもしれない)

 

***

 

 色恋やら怨恨やらといったふつうのエンタメらしい人間ドラマを読み込むこともできなくもないけど、そうしたものとは別種の行動原理に従って動いていると考えたほうがスッキリするように思う。

 とくにベケットの転身につぐ転身は、列車強盗が情婦も旧友も金品もうしない目をかけてやった新米は自分の言うことをきかないという大失敗に終わったあとであっても一発なぐればクールダウンしてしまうといったアッサリしたふるまいを見てきたからこそ納得いくものだと思う。

 ただまあ、シーンをまたいで個性をアクションで見せてくれる作劇が、「アイテムについても同様だったらぼくはかなり興奮したのではないか」と思った。

 冒頭から終盤まで獲ったり獲られたりアレコレ悶着するアイテム"コアクシウム"は、水色に発光するエネルギー物質で、きれいなだけでなく資源としてとても優秀な"ハイパー燃料"なのだが、(精製済みのものでも)不安定で爆発物と化す代物。

 でも、その辺の特性についてハッキリと活かされてると感じられるのは後半のコースをはずれた危険宇宙空間で航行するところ位しかない。

 冒頭のチェイスのところで片輪走行したときに(フロントガラスに下げたサイコロのペンダントが傾き振り子したように)アイテムもヒロインのポケットからぽろっとこぼれてコロコロ車体を転がりあわや大惨事になるとか、そういう場面が(始終)えがいていてほしかったなあ。

 

***

 

 役者の顔が影がちで、3Dメガネだと見づらい場面が多かった(最初が特に酷い)。

 

07/26

 前情報なく「特報」に出遭いたい

 製作中だという話だった片渕監督『この世界の片隅に』のシーン追加再編集長尺版が、タイトルをあらたに『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』として年末に公開されることが報じられた。
 この特報映像といい劇場で流れている『シン・エヴァンゲリオン劇場版』特報といい、ぼくがそれを最初に知ったのは第三者による文字情報で、まっさらのまま特報に遭遇したことがない。
 一度でいいから、遭遇してみたいもんですね。

 

 船戸明里『Honey Rose』

 を読んだ。面白かった。
 評判のよい『Under the Rose』が幻冬舎半額セール対象となっていて、『UtR』連載にさきだって発表されたこちらが1巻にまとまっていて読みやすそうだったので、試しに読んでみたのだけど、じつは作品の発表順とは裏腹に、劇中の時系列としては『UtR』の後の時代を描いた作品だったみたい。
 下層階級の娘が「じつは君は貴族の子だ」ということで、浮気性の亡き父がこしらえた本家やら庶子やら腹違いの兄たちから冷たい目で見られながらも、一族に認められるために勉学歌の稽古に励む。しかしけなげな娘の心をくじくように、何者かが娘をいじめ、視界の隅には女性の幽霊が見え始め……

 ……というお話。
 これ一本で独立した作品として読めるものの、『UtR』のネタバレ的部分も大いにあるようだった。
 ただ、よそさまの感想では『HR』から『UtR』へ読むことの弊害が言われがちだけど、逆だってあるんじゃないだろうか?
 『HR』の作品内で描かれたひっくり返し(序盤でとあるキャラをああいう性格だと思わせておいて、終盤「じつは真逆の性格で、以前の行動の真意はこうだった」と明かすみたいなこと)は、『UtR』から先に読んでそのひとの性格を知っていたら通じないかもしれない。

 ……などとモニャモニャ考えているうちに、セールが終わってしまって、『UtR』のほうを買い忘れてしまった。

 

07/29

 台風一過、中学時代の友達とご飯を食べた。前回(1月ごろ?)も行ったとんかつ屋さんで、ジャンボロースかつ定食。ジャンボは多かった印象。
 悪い癖が出て、ひとり話を延々してしまった気がする。話したことは『ジュラシック・ワールド』の感想に、PSVRの所感。VRは前回も話したことで、二度聞かされた陣営についてはかなりつらかったのではないかと思う。

 

07/29

 『コネクト』

 音楽のプロの家庭に生まれ、容量の良い長男坊に比較されながらそだったため自尊心のいまいちひくい次男坊が、ひょんなことからクラスメイトが漫画家と気づき、彼女の漫画を読んだところ、詩神が宿るほどよい漫画でその興奮のままに音楽を一曲完成、悪友に聞かせたところ好評で悪友は奥手な次男坊にかわってその曲をニコ動にアップロードする。"歌い手"のトップランカーがそれをたまたま聞いたところ眼鏡にかない、次男坊らは彼女と交流をもち音楽チームを結成、アニソン界で活躍していくという漫画。現在5巻まで刊行。

 山あり谷少なめのサクセスストーリーで、作曲のスランプとか学生の主人公らに対する大人の業界のビジネスライクな注文などに悩みつつも、なんのそので乗り越えていく主人公の活躍を楽しむことができる。
 谷はけっこうな谷で、業界ゴロという感じの見た目のひとから、不人気キャラで役者も若いアイドル声優におされてフェードアウト気味という二重苦の埋草的キャラクターソングを投げつけられたりする。

 

08/05

 kindleで秋田書店の半額セールなので、ふだん手を出さないようなものを買って読んでみようとしている。

 小沢としお著『Gメン』

 を読んだ。不良漫画で、主人公がとにかくモテたい男ということで下ネタもあれこれあるのだが、かわいらしい感じでとてもよかった。

  ゲイの描きかたに好感をもった

 上級生にゲイのひとが出てくるんだけど、とても良いキャラだし、そうしたひとを扱う手つきが丁寧だと思った。(あとがき漫画によれば、モデルとなった人がいるようで、だからなのかもしれない)

 

  (脱線)「なんだかなー」と思った『エロマンガ先生』のゲイ嫌悪ネタ

 読者層としてオタクが多いだろう『エロマンガ先生』で、主人公と同世代・同性の友人作家キャラからの厚意・趣味を勝手に「ほもか?」と疑ったうえで勝手に退くみたいな展開が何度も出てくる鉄板ギャグみたいになっていて、読んでて「なんだかなー」と思ったおぼえがあるけど。

{べつに、そうした偏見によって、メインキャラの関係性が掘り下げられたりもしなければ、ドラマが盛り上がったりとかするワケでもないのだ。(少なくとも、ぼくが読んだ巻数まではそうだった)

 主人公らでさえ抱くそうした無理解が、ひるがえって「エロマンガ先生」というペンネームでエロい絵を描くヒロインや、そのエロマンガ先生と義理の兄妹で、挿絵が彼女だとわかっているうえで妹萌えの小説を書く主人公が"身バレ"したときどうなるかを暗に示す……とかそういうアレではない

 ギャグのひとネタとして登場する。

 『ハルヒ』で古泉くんと対話してキョンが「距離が近い!」みたいになるくだりを、もっと色づけした感じというか}

 

  (閑話休題)サービスシーンがほとんど無いのもすごい

 さて『クローズ』などの印象から自分にとって『チャンピオン』って荒くれものの愛読書というイメージがあったし、さくっと『クローズ』やら『バキ』(『チャンピオン』連載作)やらがサンプリングされるヒップホップラッパーがだいぶマッチョなのでやっぱりそういう印象をつよめていた昨今だったが……そんな漫画誌に掲載された今作のほうがよほど配慮が利いているというのは、自分の視野の狭さをつきつけられるような思いだった。食わず嫌いはよくない。

 次の日に読んだ前作も今作も、いわゆるサービスシーンがほとんどないのも印象的だった。
 『チャンピオン』といえば『エイケン』とか『スクライド』とか、乳首券発行し放題の無法地帯だとばっかり思っていた。やらしいのはそうした作品ばかりを読むおれだった……。

 

 非戦闘員的な人物とのかかわりあいについて。

 『ナンバ』シリーズだと主人公難波くんとイケメンと田吾作の3人というか2人との仲がつよめだったけど。『Gメン』では出番がもっと割り振られていて、とくにオタクキャラは『ナンバ』シリーズでは出番が少なめで固有台詞を毎度連呼する程度だった(とはいえ、そのセリフでもって最後においしいところをもっていく)けど、こちらではバックグラウンドが描かれるような、メイン脇役として活躍していた。

 

07/31~08/01

 『生き残り錬金術師は街で静かに暮らしたい』

 第四部途中までまで読んだ。
 第一部あたりは途絶えた技術をただひとり知る主人公のチート+スローライフという感じなんだけど、第三部終わりには、だいぶ重たい話が出てくる。
 最序盤から出ていた暗い面(上下の階級意識、奴隷の置かれたつらい境遇)について一つの区切りがついたり、善人の平穏な未来を願う言葉がちょっとした言葉の綾で真逆の呪いになってしまったりする展開がでてくる。
 この時点で、立派な作品だなあと感動していた。

 本当にすごいと思ったのはここからで、バランス感覚がとても秀でているのだ。
 第三部終盤の暗い展開をうけて悲壮な決意のもと動き出した主人公らについて、第四部がはじまって早々、第三者の視点から

けれど、何時までも悲しみに浸って、二人で傷を舐めあうように自らを酷使するようなその有り様は、些か悲劇の主人公を見ているような気持ちにさせられた。

 ありていに言えば、うっとおしい茸栽培コンビが誕生してしまったのだ。

 と相対化される。(別に、こうした相対化が主人公らへのヘイトを呼んでさらなる悲劇の連鎖を連ねていくとかそういう展開にもならない)

 

 『聖贄女のユニコーン 〈かくて聖獣は乙女と謳う〉』

 面白かった。
 世界を覆いつくさんとする怖い霧"雷霧"に世界で唯一対抗できるユニコーン騎士からなる騎士団に、ユニコーンと仲良しの主人公が指導者としてやってきて……という作品。
 ユニコーンが好むのは若くて処女で美女! しかもこの騎士たちは「自殺部隊」と悪評の騎士団にわざわざ志願して入ってくるひとびとだから性格もよい! という天才すぎる設定。

 「歴史家が云々事件や何某を振り返って曰く」みたいなのがあったり司馬遼太郎作品とか田中芳樹作品などなどでよく見かける、歴史小説的なアレです)、かと思えば、やたらテンション高い古館煽りみたいなものがあったりする。

(2023/02/16追記;さいしょ『ユニコーン騎士団』ってタイトルにしてたくらい、どんな作品だったのか、正直いまとなっては覚えてないのですが。

 他方で過去の自分がした作品の設定についての称賛は、とくに皮肉で言ったものではないでしょう。あらためて自分のメモを読んで「天才じゃんその設定!」と感心しました)

 

08/06

 kindleで秋田書店の半額セールなので、ふだん手を出さないようなものを買って読んでみようとしている。

 小沢としお著『ナンバMG5』『ナンバデッドエンド』

 を読んだ。
 おなじ小沢さんによる『Gメン』が面白かったので、遡ってこちらに手を出した。
 こちらのほうがより好みのお話だった。

 一言でいうと覆面ヒーロー不良版だ。
 父母ともに気合の入ったツッパリ一家の二男一女の真ん中にうまれたサラブレッド難波つよしが、家族(や地元の仲間)に内緒で中くらい(?)の高校に進学、通学2時間くらいの遠方で、公衆トイレの天井裏に特攻服を脱いでかくし髪を下ろして普通の高校生となる二重生活をえがく。
 難波つよし本人にその気はないものの友達を助けるためなどの理由から不良と戦うこととなり、難波くんがなし崩し的に隣の学校の不良たちを倒し関東の不良たちを倒し果てはハワイの不良たちをも倒していったり、かわいい女の子と仲良くなったりすることになる痛快劇……という感じで読み進めていくと、『ナンバMG5』の中盤以降から話が重たくなって、難波つよしが3年生となってからを描いた『ナンバ・デッドエンド』は全編シリアス、題名にふさわしい面倒な展開になっていく。


 『週刊少年チャンピオン』で05年から11年まで連載された作品で、計33巻。
 『チャンピオン』では『バキ』シリーズや『みつどもえ』(06年~)、『イカ娘』(07年~)、『弱虫ペダル』(08年~)、『ハンザスカイ』(10~12年)だけ追っていたのだが、『バチバチ』シリーズやらこれやら、ほかにも面白い漫画が載っていたのだなあと思った。
 『ハンザ』『バチバチ』今作と、主人公が追い詰められたり、先の見えない展開がつづいたりするので、「『チャンピオン』読者は心が強い……」と思った。

 設定について色々ツッコミどころがあるだろうと思うけど、たとえば「親に内緒で……って願書出すのにも親の署名やらが必要だろ?」とか当然出てくるだろうツッコミは、作り手の側でも想定済みで劇中に回答があり(中学時代の熱血教師が意を汲んでくれた)、その回答のツッコミどころ(熱血だからってやっていいのか?)もまた回答がある。

 

 その後に小沢さんが手がけることとなる『Gメン』も、つよい男が新天地で高校デビューするも過去の因縁がよみがえったりするけど、あくまで1エピソードで、新天地の高校の上の世代の話とか、主人公は関係者だけどから微妙に外れたところにあって、今作はその因縁が足を延々ひっぱりつづけるというような作品で、味つけがやさしいものから濃いものへと読めたのは逆によかったかもしれない。


 『望まぬ不死の冒険者

 万年ボンクラ冒険者だった主人公レントは、ある日《竜》と出会い食われるも不幸中の幸い、骸骨モンスターとして第二の人生が始まった……という作品。
 主人公が美女と関わって好意を向けられたり、主人公SUGEEEされたりするセオリーを踏んでいく作品だけど、恋愛的な意味で好意を向けられるとは限らず、お話がクサくなりすぎてないところがよい。
 持ち上げられる主人公のほうもモンスター化により人間的な感情がうすれてるという設定もあってか、文体がクサくない。


0809-10

 『エリスの聖杯』

 面白かった。文体がしっかりしているし、お話もよかった。
 登場人物紹介ページがありがたくなるような群像劇だけど、ちょっと顔出ししただけの人もきちんと印象に残る筆力もまたある。
 主人公にとりついた美女の姪っ子レティがめっぽうかわいい。

 ほかのキャラで気に入ったのが、女王様に忠実な放蕩僧侶がとてもよかった。この豚僧侶と美女幽霊との関係は、『妖異金瓶梅』の応伯爵と潘金蓮を健康的にしたような感じで、なかなかよいコンビだなあと思った。

 "なろう小説"では少なからず見かける、公衆の面前での糾弾と婚約破棄から本編が始まるのだけど、そこから主軸は10年前と現在とで国をゆるがすような陰謀劇の真相を追うサスペンスとなり、あれやこれやと謎が謎をよび複雑な構図となっていく。
 明らかとなっていく構図は、複雑は複雑だけど、「きちんと終わりまで物事を考え細部を詰めてから描いたんだろう」というような整理された複雑さだ。
 登場人物紹介ページを見てみてもそうした作者の抜け目なさがうかがえて、それぞれの人物に初出回がいつだったかまで記されている。

 

 そんなわけで、きちんと複雑な陰謀劇なのだけど、作者が決めたジャンルは「恋愛ファンタジー」。

 「どういうことかな」と読み進めていったら、探偵劇の過程で、主人公がヒーローと出会い距離が縮まっていくこととなる。
 ある種の距離感の創出に、陰謀劇探偵劇のまなざしが一役かっていると思う。
 恋の相手は、誰が悪者かわからない陰謀劇のなかで、まず味方らしき人と結婚するも不審死された人物として劇中で話題にだされ、そして本人が登場するのは主人公がかれのお屋敷に不法侵入しさらには窃盗したところへ現れ、彼女へ疑惑のまなざしを向ける者という立ち位置だ。(と書くとちょっと、ヒッチコック『マーニー』みたいだ……)
 主人公にとりついた美女幽霊も「手ごわい相手」扱いで、それが味方だとわかり、距離がちかづいたあとは、出会いのときは隠した"何をしていたか""何を手に入れたのか"を明かす秘密の共有者となる。

「恋愛劇だと分かってる物語で、主人公にそっけない堅物と出てきて結びつく」
 ……これよりも、

「サスペンスの語り口で、主人公に疑いを目を向ける上にそっけない謎の堅物として出てきたうえで、彼と結びつく」

 ……こちらのほうが、なるほどたしかにもっと高いハードルを飛び越えた感がある。

(2023/02/16追記;これはかなり面白い作品だった。オススメです)

 

08/11~12

 『悪役は二度目も悪名を轟かせろ!』

 第二章まで読んだ。面白い。
 勧善懲悪のストーリーなら勇者に倒される側の高飛車な天才キャラが主人公で、学校デビューに失敗し卒業後もこじらせつづけライバルの勇者に無謀な戦いを挑んだところ、なぜか時間が10年前のライバルキャラが入学した直後まで遡ったので再挑戦する、するとなぜか状況が明るいほうに動いていき……という作品。
 うじうじしたところがなく明るくて、熱いし、そうして熱血したところの茶々の入れ方も面白い。

 

 ただ、そこまで読んでようやっと気づいたんだけど、主人公10歳ライバル9歳のお話だった。
 "なろう小説"のなかには上には上がいて、生後間もない時分から周囲を圧倒し美女に恋心を抱かれ世界を手中におさめる話もあって、今作『悪役は二度目も~』はそこまでじゃあないにしても、やっぱりそれなりに違和感がある。
 精神年齢20歳ヘテロセクシャルの男が、見目美しく中性的とはいえ年齢一桁の少年の行動にドギマギしたり、結婚する夢を見たりするというのは、だいぶインモラルな感じがする。(いや中世くらいの世界だから、もう数年したら適齢期だろうと考えれば、そうでもないのか?)

 

08/11

 『勇者のお師匠様』

 第一部を読んだ。面白い。
 第一部については以前読んだのだけど、再読でも面白かった。

 圧倒的な体技をもつものの、階級差別によって留年を繰り返す平民の若者が主人公で、幼馴染だけど魔王退治のため数年世界を旅していた貴族のお嬢様がおなじ学校に入ってきて……というお話。

 前回は第二部の途中まで読んで、その先を読まなかったような記憶がある。
 面白いのだけど読んでいていやになってしまうのだ。
 なぜか?
 主人公らが守ろうとしている世界が、守るに値するものとまったく思えないからだ。

 第一部にかんして言えば、主人公は村で義家族(というか義母)に面倒ごとを押しつけられる様子がさんざん描かれ、貴族社会では出る杭を打たれ続けるさまが描かれる。
 ヒロインのお嬢様も同様で、『レティシアの思い』の回想では、勇者としての力が万人を恐怖させるさまが描かれる。お嬢様におびえる人々はさまざまで、暴力沙汰と縁遠いだろう家族や貴族はおろか、魔と対立する存在だろう教会幹部や、前線で魔物と戦う要員だろう騎士団幹部らまでもが(指折りの実力者である騎士隊長さえ!)、それどころか彼女に助けられた村や街の人だろうとも(ここにかんしては第二部『居場所』で詳述される)、みなひとしくお嬢様におびえるのだった。

 主人公やお嬢様の才能や人格を素直に認めるのは、第一部においては彼のルームメイトである商人の息子と後輩の王女を除けば、第一部の敵くらいしかいない。
 第一部の敵となる人々は、腐敗した貴族を憂いクーデターを企てた非貴族出身の騎士団員で、読んでいるとふつうに騎士団員へ肩入れしてしまうのだった。

 主人公は、騎士候補生まで貴族非貴族問わず十把一絡げに排除せんとするクーデター犯にたいして、
「俺がなりたかったのは、力無き者を守れる騎士だ! 力だけで解決を目指すあんたたちのような騎士じゃない!」
 と反論し、これはこれでもっともなんだけど、読んでいるこちらの気持ちが微妙にズレている。
 そもそも首謀者である将軍らが、"力無き者を守る"ために40年以上も勇者なき世で魔族と戦い続けてきた騎士で、そうした結果として子も孫も失ない自分も死んでいった"力なき者"である。
 騎士候補生については、主人公らとかかわりある2人を除けば、彼を素直に認めるような人が誰も描かれていないから(そして、その2人でさえ、主人公と偶然かかわりを持たなかったらその態度がどうだったかわからない)、「クーデター犯的に言えば、すでに腐敗した思想の持ち主たちなんじゃないの?」という風に思えてしまう。

 クーデターという実力行使にでたことはそれはもちろん悪いのだが、はたして主人公は、自分が貴族から冷遇され(そしてその対処としてはただ愚直に鍛錬するだけしかしていない)4年間の10倍以上の歳月も愛する者の命も無駄にしてしまっても、同じ態度がとれるだろうか。
 主人公はちょっと揶揄されただけでヒロインと距離を置いちゃうし、ヒロインがいなければここまで騎士を目指していなかったようでもある。
 主人公が周囲に認められ始めたのも、偶然ヒロインや王女と出会い、彼女らが公の場で自分を評価していったことによる。

 事件解決にしても、主人公は階級差に引け目を感じていたのもなんのその、国の最高権力者である国王に「(クーデター犯たちが)何を憂いて行動したのかをうやむやにせず、調査していただけますようお願い申し上げます」と進言することで、武力行使以外のかたちで犯人の思いを無駄にしないようにするのだけど、事件にいちばん詳しいだろうクーデターの首謀者や事情をよく知ってそうな副官的人物を主人公も(万人に恐れられるほど強い)ヒロインも殺してしまっているのだった。
「たしかに力だけで解決してないけど、解決につかった力はこちらはこちらで過剰だよな……」
 と思ってしまうのだった。

 

 今作については作者が自覚的にそうしている面もかなり大きいんだろうけど、これは扱いが難しい要素で、世界の最前線をゆくプロであってもハマってしまうことだと云う。{たとえば、『名馬であれば馬のうち』さんでまとめられた『ズートピア』の製作変遷(ttp://proxia.hateblo.jp/entry/2016/05/05/155247)など}

 一口で飲み込めない、モヤモヤした要素を扱って、それがしっかり評価されているというのは『小説家になろう』書き手も読み手もすごいなあと思った。

 

08/13

 『ラピスの心臓』

 第一部から第四部『初陣編』はじめまで読み(0813)、帰宅後さらに読み進めて最新話である第七部『開戦編』の『いくつかの夜 <前>』を読み終わった(0814)。
 第二部と三部のあいだ『息抜き編』まで読んでいて、「面白いなあ」と思った作品だった。
 人々の手の甲に石がはめこまれ生まれてくる世界で、石は血によってさまざま異なり、高貴な石をもつ者は魔法を使え、高貴な血筋=石がそのまま階級へと当てはまる。最上流階級が上流階級をそして上流が下層を押さえつける理不尽なまでにひどい社会構造があり、才能をもった魔法使いでもたやすく死ぬ魔物が跋扈している。
 平民階級だが反射神経に優れていた主人公は幼き日に、凄腕の武芸者に拾われ十数年魔物のすむ森で修行にあけくれ、成人し独り立ちし世俗と関わり合いを持つようになる……という作品。

 前述のとおりひどい社会で、冒頭の冒険を主人公とともにするヒロインふたりも、出会った当初は下層階級への蔑視をあらわにする。
 昨日読んだ『勇者のお師匠様』とちがってそこまで嫌気がささないのは、貴族の中にもそうでない派閥も少数派らしいけどある、というのが描かれているからだろう。
 木っ端貴族が無法を働く一方でそれを厳しく罰する最上流貴族の存在がまず描かれ、ふつうの貴族がふつう(以下)の下層民に対して態度を改める場面もまた、第一部のなかで描かれる。
 主人公が最初の冒険で組むのは、前述のとおりヒロインである貴族(それなりに上流と、そうでもない所とのふたり……主人公と関わりを持った以外にはとりわけ個性のないひと)のほか、平民(それも平民の中でも蔑まれるイロモノ)も混じっていて。
 貴族であるヒロインは、旅に戦闘にと知識才覚を魅せつけるTUEE主人公を素朴に「すごい」と認めるうえ、冒険にはたいして役の立たない(人柄だけが売りの)そのほかの平民ともうちとけて、「理由もなく下層階級を見下す貴族ムーブをとってすみません」というような謝罪をしたりする。
(かしこまった反省と謝罪をするのは優等生の、それなりに立派な家のお嬢様のほうだが。 無口で周囲への反応もとげとげしいもうひとりのほうもまた、平民がひらいた飲食店にたむろしていることが描かれたりと、彼女なりに打ち解けている)

 こういうのがあるのとないのとではだいぶ違いが出てくるなあと思った。

 連載が2年あまり途絶えたこともあるようだけど、それも納得の内容なのだった。当初、5人程度の小隊のダンジョン探索から始まった作劇は、部を重ねるにつれ登場人物が増え、あつかわれる戦闘や事件の規模も大きくなっている。これだけさまざまな陣営の動きを描いていくのは骨だろうと思った。

 

08/14

 『願わくばこの手に幸福を』

 まえに読んだとき面白いと思った作品で、第三章くらいまでは読んだ記憶がある。


 『ライブダンジョン!』

 面白い。第一章の、攻略組にとっても難関ポイントを突破して名誉が回復された40話まで読んだ。
 主人公が現実世界でゲームをクリアしたところ謎のアカウントから「お祝い品をあげます!」と申し出があり、受けたところ自分自身がゲーム世界に飛び込んでしまった……という設定で、謎のアカウントがクリア特典的につけてくれたらしい優遇措置が、ゲーム世界の住人から不興を買ってナメられ、ゲーム世界で暮らす一部の善玉が主人公にやさしくしてくれたところそれが更なる不興を買ってゲーム世界の報道機関のゴシップネタとなり、主人公は万人から白い目で見られ、外を歩くのも難しい状況になってしまう。それでもダンジョン攻略をがんばるという感じのはなし。

 前述のとおり「舞台はゲーム世界だよ~」と明示されているけど、劇中にメニュー画面がでてきたりはしないし、システムメッセージが出てきたりもしない。

(身分証というかたちでレベル表示、ステータス表示は出てきはする。

 でも、エピソードの終わりに、たとえばダンジョンの階をまたぐごとに地の文へステータスを書いて、変遷を伝えるみたいなことはしない作品だ)

 

***

 

 帰ってきてから115話である第3章『龍化の成長』まで読んだ。
 どうやら第1章はこれ自体がチュートリアルみたいな内容らしかった。
 第1章でパーティの信頼を勝ち取り難関を突破した主人公は、強キャラたちと別れ、新メンバー探しをすることとなる。どんな冒険者がいるのか知らないので、ゲームで得た攻略ノウハウの提供・指導をするというかたちで、有名クランと知己を深めていく。
 2つのクランを巡った主人公は、2人の白魔導士を中心に育てていく。ひとりは人望と才能あるリーダーのハーレムクラン"金色の調べ"に所属するユニスという、実力ないのに自信家で。
 もうひとりは際立った天才はいないけど集合知が抜群で福利厚生も充実している巨大クラン"アルドレットクロウ"に所属するステファニーという、実力あるのに自信に欠けるひと。
 そこに更に、"金色の調べ"では自信も実力もないけれど性格はまじめな熊人の戦士をタンカーにすること、"アルドレットクロウ"では3軍未満で性格にも大なり小なり難のあるリストラ候補パーティとのかかわりが描かれる。

 

 第2章後半は、"神のダンジョン"の神秘(=たとえ死んでも身ぐるみ剥がされ外に出されるだけで済むこと)のはたらかない、神のダンジョン外での大規模戦闘が描かれる。
 小規模パーティのときと異なる、派手な魔法やらが大盤振る舞いで、しかもただ規模が大きくなっただけじゃない大規模戦に特化した活用が紹介され、RPG的な要素をつかった戦争としてはいちばん説得力を感じた。
 展開のなかには、合戦をえがいた非ファンタジー作品を読んでいれば思いつけそうなものもある。たとえば、前線と少し離れた位置で楽団が立って、ステータス上昇効果のある音楽を奏で続けるといった場面がそうだ。
 と書くとナメた言い方になってしまうけど、勘のよいかたならこの時点で、先行作があつかったものをただそのまま引っ張るのでなく、劇中世界に合わせて置き換えた作者の豊かな想像力の一端に感心するのかもしれない。

 

 作者は想像力をさらにはたらかせ、RPG世界の合戦模様をこれでもかと描写している。

 たとえばモンスターを呼び出し自由にあやつれる召喚術師は、石の巨人ゴーレムを召喚術師が制御できないほど無数に召喚するのだが、なぜかといえば戦闘要員として使役するのではなく、即席城壁代わりにするためにそうする
 『小説家になろう』掲載のファンタジーでは、ゲームの「どうぐ」欄「アイテムBOX」が劇中現実に存在する代物としてたびたび登場する。『ライブダンジョン』でも同趣向の代物"魔法の道具袋"が、合戦のひとだんらくしたところでお目見えするが、その使い道は、蛆が沸きはじめた死屍累々を伝染病の媒介物となるまえに片付けること。(生き物以外なら何でも収納できるこの"袋"の特性を利用した、おもしろい使い道である)
 そのほかにも、召喚されたモンスターのうち巨大なものをがれき撤去用の土木機械的に扱うとか、無用の長物となった召喚モンスターを戦後祝勝会の晩餐とするとか、楽しい描写が延々つづく。

 

***

 

 96話からの第3章は、主人公がついに自前のクランを立ち上げ、新キャラたちと階層攻略の冒険に出ることとなる……のだが、階層攻略の前にクランメンバーの長所短所の把握があり、パーティの歯車としての教育があり、難有りキャラの鼻をくじいて反省して成長するまでがあり……と、丁寧に踏んでいく。

 第2章の二つのクランをふくめ、調整・育成の舞台となるのは、攻略最前線の六十台でなく五十台、それどころか一桁台からスタートする。 第1章で倒した火竜は夢のまた夢、という感じ。
 大規模戦闘についても、主人公ツトムが育成にかかわったメンバーこそ再登場・参戦するものの、そうして伸びた能力やら判断力やらでもって貢献するような展開はない。
 その辺も相まって、「丁寧だ」という以上に「足踏みしている」ような感が否めないのだった。

 

08/19

 TVアニメ版『灰と幻想のグリムガル』6話まで

 を観た。いきつけの床屋さんにオススメされたアニメである。(2023/02/14追記;この床屋さんの母体もその後covid-19を受け業務縮小。オタ話をした床屋さんはどこかへ行ってしまわれた)

 一言で雑に言えば、異世界転移ファンタジー中学生日記という感じのお話だ。
 ティーンエイジャーがとつぜん異世界転移してしまい、訳もわからぬままに戦士やら盗賊やら魔法使いやら神官やらへ弟子入りして1週間だかでそれぞれ必殺技やら呪文やら回復魔法やらをつかえるようになって、義勇兵見習いとして周囲を冒険する。
 「俺TUEE」できうる有能そうな人々はさっさと徒党を組んで旅立ち正規の義勇兵となっているけれど、『グリムガル』の主役はそこからあぶれたりのこったりした余り者たち。
 ゴブリンを倒すのにも四苦八苦、それどころかゴブリンと出くわすのにさえ一大事で、主人公パーティは何日も森を右往左往することになる。

 パーティの暗黒騎士で、邪気眼系悪友キャラ・ランタを演じる吉野裕行さんの、第一話・寝起きの第一声が空気多めの生っぽい質感でよかった。(ただし以降は、劇的なキャラに合った演技になる)
 細谷佳正さん演じる主人公も、落ち着いた声色ですき。

 劇中、後付けの(劇中人物が聞いているわけではない)歌曲を乗せたシーンがけっこう多い。
 16年1~3月放送ということで、この半年後くらいに『君の名は。』が公開されることとなる。
 MV的という批判もあった『君の名は。』だけど、今作を見たことで「あれって現行のアニメシーンの範疇だったということではないか?」とも思った。
 もちろん『君の名は。』のあのMV的演出について、ここまでの新海監督作でみられてきた/培われてきた延長線上の演出として捉えることは妥当だろう。鑑賞当時のぼくだってそう思ったし、いまでもその見解を下げるつもりもない。

 

08/25

 TOHOシネマズ上野で『劇場版のんのんびよりばけーしょん』を高校時代の友人A氏とT氏と共に観た。16時JR御徒町駅で待ち合わせに先立って、国立西洋美術館に行き、ミケランジェロ展をひとりで観る。
 グダグダやっていて昼頃に家を出ることとなり、美術館内のレストラン『すいれん』でご飯を食べ終わったら、14時30分だった。

「まあ90分あれば巡り終わってるでしょ……」
 その考えはあまかった。待ち合わせまであと15分切ったところで、ミケランジェロはまだミの字も見えてなかったのだ。
 そうなってしまった一因は展示の構成上の必然でもある。
 『ミケランジェロ展』の作品の並べかたは時系列順にちかいもので、紀元前くらいのギリシャ彫刻からはじまって徐々に時代をくだっていき、ミケランジェロと関わりのあった同時代の周辺事物の作を見たりしたあと、ついに本命のミケランジェロの彫像にたどり着く……というものだった。

 

 『劇場版のんのんびより ばけーしょん』を観にTOHO上野へ

 TOHOシネマズ上野のはいったビル前にあるパンダ広場なる広場で、お祭りかアイドルのライブか何かがやっていた。
 広場はパンダ型のバスやら出店やらがあって、イベントスペースとそれ以外を区切るような設営がなされていたようだったが、大人気で人が多く、近寄りがたかった。
 イベントの喧騒を避けるかたちでビルの玄関を探したところ、ビル壁際にぽつねんと置かれた離れ小島的な出店、裏の業者用搬入口とだんだん寂しくなっていって、けっきょく1周してパンダ広場まで戻ってきてしまった。じつはこのビルはTOHOの入ってるビルではなく、立体駐車場的なところだった。
 いくつかの階から連絡通路が伸びていて、そこからTOHOシネマズに行けるらしかった。よかったよかった。

 

 『のんのんびより ばけーしょん』上映前後のこと

 TOHOシネマズに来てみると、チェックのシャツに黒髪のひとびと。実家のような安心感があった。
 『君の名は。』を観に行ったときはあかるく年若い客層の幅に驚き「アニメって市民権こんなに得ているのか」と思ったものだし、中高生の姿をそんな見かけず年齢層的には同窓会の雰囲気さえあった実写映画版『BLEACH』でさえ、小綺麗な陽の空気があり着飾った女性がはつらつと談笑していたりなどしてそういう印象があったけど。
 『のんのん』は格がちがった。

 T氏が「映画館のは毎度たかいな」と言いながら自分とA氏用にビールを買い込み、ぼくにメロンソーダをおごってくれた。
 T氏がグラブルの周回をし、前の席のひとも同様だったので「せっかくだから話しかけたら」とすすめるも謹んで拒まれた。
 席についてみると右隣はカップルで、「黒光りしたひとばかりだと思っていたけど、それなりにいろいろなひとが観に来ているなあ」と思った。左隣のT氏のさらに隣のA氏の見解はおそらく違い、かれのさらに左から何やら刺激的な臭いがただよっていたそうで、ちょっとご機嫌ナナメだった。A氏は剣道部という臭気につよくなる武道を長年やっていた人で、そのかれが苦言を呈すほどのにおいとは。


 鳥貴族

 観た後は飲食店に行った。沖縄旅行の映画だったので、沖縄感のあるお店があったので門戸をたたいてみたところ、満席だった。
 ああでもないこうでもないとさまよったのち『鳥貴族』に行った。

 タッチパネルのメニューはそれぞれの料理に「i(nfomation)」ボタンがついていて、そこを押すことでポップアップされる料理説明を読んだわたしが、「確認」だかってボタンを押して説明ウィンドウをとじたところ、注文リストにその料理が加わってしまった。
「さすが貴族と名乗ることだけある、いたいけで無知な民草を搾取するシステムだわ」
 と一同感心した。
 これは心も懐もまずしいわたしの(もちろん)偏見で、注文メニューで料理の品数調整ボタンを押せば取り下げられました。名君ではないか。
 注文履歴を確認するボタンだけ「りれき」とひらがな表記で、そこもいたいけで無知な民草にやさしい名君ぶりだと思った。

 メニューについて、飲み物のなかで矢印ボタンを押さずにみられる大区分メニュー「ノンアルコール」を開くと2種類の飲み物が選択肢としてでてきて、その一方が『おとなのジンジャエール』という。苦さと異様な甘さで、非常にまずかった。
「なにこの駄菓子感」と思った。ここは貴族らしさを感じなかったが、ここに訪れた貴族は『ローマの休日』的な下々との交流をするのかもしれない。

 

 アニメ版『メイドインアビス

 T氏の家に行き寝床を提供してもらうことに。
 Amazonprime会員であるT氏に、『メイドインアビス』をみせてもらうことに。
 『ハクレイとミコチ』とごっちゃになっていて、ほのぼのした感じの作品だと思っていたら、おどろおどろしくてふるえてしまった。
 主人公の女の子の、相棒である男の子ロボにたいする扱いが、完全に自分とは異なるものへの対応で、ギャグだしかわいらしく処理されているけれど、『第9地区』を連想した。『第9地区』のヴィカスとちがって女の子はカスでなく、冒頭で同級生の男の子が危険なモンスターに食われそうなところを反射的に助け出そうとして注意をじぶんに集めさせた、心優しく勇気ある姿が描かれていて。そうした優しい性格のまま、笑顔でほのぼのと男の子ロボにたいする実験結果を述べていくさまがこわい。

 

  (ここから『鑑賞メーター』投稿コメント)

 ・主人公の女の子リコのキャラがすごい。

 "(受け手である自分にとってそのキャラについて好感が持てたり、そのキャラ視点で劇中世界やドラマを眺めたり、いわゆる「感情移入」したりするような。あるいは、年下キャラである)主人公格のキャラが、常識として(受け手である自分にとって飲み込みがたい)劇中世界のルールを語る・見せる"展開にぼくは弱い。

 リコが平常心でほのぼのとした表情・声色で、旅の相棒となる男子ロボにたいする実験結果・観察結果を述べる1話がよかった。

{こうした趣味を満たす作品として、ほかに『乙嫁語り』の3巻がそれにあたる。

【以下、『乙嫁語り』3巻までのネタバレ】

1~2巻の主人公で、聡明だが幼さゆえにやきもきする遊牧民のカルルク(そして年上の嫁アミルとの年の差恋愛においては、読者である自分とそうギャップを感じさせない)。彼が、外国人とはいえ異国をひとりで旅できるような自立した30代くらいだろう大人の西洋人スミスに、異国(カルルクにとっては母国)のとある理不尽に悩まされたスミスの力となるべく真摯に親身に話を聞いたうえで「いやそりゃ無理ですわ、スミスさんの意向どおりに話すすめたら理屈が通りませんわ……」て感じに理不尽をはたらいた側に立ってスミスさんを逆に諭す場面。

(理不尽をはたらいた側が、いかにも悪者然とした見た目だったりして、ポイントが高い)}

【以上、『乙嫁語り』3巻までのネタバレ終わり】

 

  ▼さまざまな質感の映像

 雰囲気がとてもよい作品で、背景美術や小物などによる劇中世界を見ているだけで面白い。

 探窟家の格をしめす"笛"やネームドキャラにかんする設定説明的なパートを、ネームドキャラからの届け物に沸くお祭りの席で行われた劇中劇(それも、ネームドキャラのレプリカ笛を売りたい商人による宣伝要素を多分にもった劇)というかたちで処理していて、とにかく見ていて面白い。

 劇中劇の映像演出も手が込んでいて、デフォルメされたキャラの描かれた木板をうごかす(アニメの作業的には、CG貼り込み素材を動かしているのだろうか)人形劇に、劇のため動員された舞台裏の子供たちによる花吹雪が(作画で)のせられ、クライマックスでは影絵芝居にもなる。

 さまざまな質感が組み合わされた映像で、とても面白い。

 

 そのほか、劇中世界にある本からの引用というていや、手書きの手紙というていや、メモ帳というていなどで、劇中世界のお宝やモンスターが紹介されたりなんだりする。  

 人物のバックグラウンドや因縁があらわになって、人間ドラマ的な部分がおもしろくなる物語の後半(BOX下巻)については、いまここの描き方と変わらない筆致というオーソドックスなかたちで回想やらモンスター紹介やらが登場して、異なる質感を組み合わた映像は少なくなっていきはするけれど、この世界ならではの演出が登場し、こちらはこちらで面白かった。

 

08/26

 ひきつづきT氏宅。

 『メイドインアビス』の続きを観る。7話から

 だったかな。
 人を人と思わないようなエグい展開と人と人とのつながり強いエモい展開とが代わる代わるたたきつけられ、高低差に頭がおかしくなりそうだった。これが上昇負荷ちゃんですか。
 ナナチ登場。彼女の存在を知ったのは、2次創作イラストで「んなぁ~」とか言いながら顔を赤らめやらしいポーズを取る姿なので、癒し系のほのぼのしたキャラだと思ったら、どちらかというとクールなかしこい皮肉屋さんでしかも悲しく熱い過去もあったりして、「こんなキャラだったのか……」とギャップにびっくりした。

   ▼展開や人物の対比関係とか

 前半は世界設定と作画の良さに惹かれたけど、意外とあれこれ文脈だてられていることがわかって、しっかりしてるなあと思った。
 わかりやすい例としては、1話で危険モンスターと立ち向かった結果として描かれた「腕が折れ……てない!」の逆として、10話で危険モンスターと遭遇した結果として腕を折る展開。1話では前段階として石をめくって遺物を拾い出したり丸いおにぎりを食べたりしたけど、10話ではレグがリコの(骨を折る)ために小さな石を用意したりする。

 人物の対比関係としては。

 (スラムの)親なし子が拾われてアビスに挑むという大枠をつうじて、運よく優しい保護者に拾われたリコら(おいしいものを食べ料理する方法を学び探窟家としての知識と経験を学校・1層から徐々に培っていく)と、運悪く人でなしのボンドルド卿に拾われたナナチら(いきなり5層に連れていかれて味のない食べ物を食べさせられ、よくわからない実験材料にされる)とが対比されている。

 

 タマウガチの毛針を被弾したリコをレグが助け出し逃げたところ、傷ついた彼女に羽虫がたかるのでレグが追い払う場面がある。

 その後、ナナチがミーティを助け出し彼女をかかえて逃げる場面でも、同様に、傷ついたミーティに羽虫がたかっている。

 リコはレグにとって、ミーティはナナチにとって同じ「宝物」という言葉で言い表され、ふたりは魂の領域(?)で通じ合う。

 

 その一方で、ナナチとリコはさまざまなおどろおどろしいものがある自室で誰か(ミーティ、レグ)を起こそうと頑張る者として立ち位置を同じくしている。

 13話の別れの場面で「ミーティはあったかいなあ」とナナチは言ったが、レグに抱き着いたリコも、レグが温かい旨をどこかの話で言ってたような覚えがある。

 リコ・レグ・ナナチの三者の関係で見ると、リコは9話で、ナナチは13話でそれぞれ火葬砲をはなって気絶したレグを運び出した経験の持ち主だ。

 

 1話でリコと同級生がふたりでレグを引っ張り押して坂道を登り運ぶ構図は、ライザとその旧友オーゼンがふたりで幼いリコを引っ張り押して坂道を登り運んだ構図と重なる。

 吉成鋼さんが作画から彩色撮影までやってるだろう異様なモンスター描写は、3層での特訓回(8話)を最後になくなって、キャラへの危険度がいちばん高い4層のボスモンスター"タマウガチ"についてなどは、吉成鋼作画としてはノータッチなんじゃないだろうか。「こういう配分もあるのだなあ」と感心した。

  (以下は『鑑賞メーター』に投稿したコメント)

・エグい場面とエモい場面とが交互に出てきて高低差がすごく、頭がぐらぐらした。「これが上昇負荷ちゃんですか」とか言いながら観た。

吉成鋼氏の使い所に感心した。

化物がキャラへ直接的で後に引くような被害を与え"ない"、なんてことない場面にこそ、最も異様で生々しい書き味のリソースを割り振る。……目から鱗の発想だった。

 

   ▼吉成鋼さん担当カットについて。異様な作画をどこにあてるか、配分の話題

 モンスターデザインを担当された吉成鋼さんが原画(だけでなく動画彩色撮影までやってるんだろう多分)を手掛けたカットのモンスターは、一目に異様。

 外形線がBLの実線でなく一部(あるいは全部)色付きや色トレス線で描かれたりし、ナマズ的なクリーチャー"ベニクチナワ"やカバ~サイ的なクリーチャー"オットバス"に顕著な「鋼さんと言えばこれ」なCGと見紛う精緻なフォルムかつセル画的でない明暗の階調ゆたかなものから、鳥形クリーチャーの毛羽に顕著な大平晋也的な弾けるようなタッチのものまで、さまざまな筆致で描かれている。

 1話のベニクチナワを除けば、吉成作画カットでメインキャラと接触するカットは少なく、そのベニクチナワの例でも往年の宮崎駿冒険活劇アニメみたくキャラは傷も痛みも負わない。いっぽう、モンスターとの絡みが苛烈になる9話以降では、一目に「吉成鋼だ!」とわかるカットがなくなる

(アニメ版で掘り下げられた9話では、リコらは3層のモンスターに食べられ消化液のなかに沈んだり、1話からでてきた1話から因縁のベニクチナワを母の遺品で倒したりする。「物語の色が変わる」と原作者つくし先生も言う10話では、4層の強敵タマウガチの毛針の毒でリコは左手を切断検討するほど冒され、骨折と神経断裂という結果となる)

 

 9話以降のモンスターについての映像だって見ごたえがあり、実力あるアニメーターが手掛けその後の仕上げも丁寧だとは思う。

 とくに10話ははじけるリュックに穿たれ放られた傘に目をみはったし、苦痛にあえぐキャラの表情にしぜんと目を細めてしまった。

 ただ、それはそれとして、吉成鋼担当パートに感じる異様さはない

 これまでぼくは「物語的にすごいシーンをすごい映像で見たい」と素朴に思っていた。この配分がどういう意図でこうなってるかは知らないけど、今作で「いやこの配分は、なるほどすごいことだなあ」と思った。

 

 どんなシーンに力をいれれば、

「モンスターとキャラとが同じ地平にたしかに立っている」

 と感じられるだろうか? モンスターとキャラとが(化物から重傷を負わされるなど)物語的に直接的にからんだ特別なシーンは、実はそこまで特別がんばってなくてもいい。水準(以上)であれば、物語の力が補ってくれる。

 ……むしろ特別がんばらなければいけないのは、(キャラが無傷で済んだり、化物と接触することなく逃げ切ったりする)物語的になんてことないシーンのほうなのだ。

 物語的なブーストが得られない以上、そのシーンから生々しさや実在感を感じるためには、映像面(などの物語以外のところ)が頑張ってもらうしかない……今作を観て気づいた。

 また、この配分は、"(常に)死・危険と隣り合わせの冒険模様"だと感じることにも、重要そうに思える。

 物語的に特別なシーンが、なんてことないいつも通りの演出(作画)で描かれ。そして物語的になんてことないシーンが、特別な異様な筆致で描かれること……

 ……そうされたことで、「(いままで)無事でいられたことこそが特例の異常事態で、(終盤の)傷つき倒れ伏せていたことこそが一般的なできごとなのだ」というような風に見える。

 

   ▼演出について

 木版にかかれた絵による人形劇からの影絵とか、さまざまな書物・図像をつかったお宝・モンスター紹介などがあった前半にくらべて、後半はことなる質感を組み合わせた映像がすくなくなった印象をいだいた。

 8話のオーゼンの回想とか13話ナナチの回想とか13話冒頭のナレーションがボイスオーバーした"これまでの振り返り映像"などは、奇をてらったところのない、オーソドックスな回想・振り返り映像という感じがある。

 

 他方で、この世界(設定)だからこそ(自然に)できた演出もいろいろ拝めて、面白かった。

 10話のタマウガチから無理やり離れて一難去ったと思ったらアビスの呪いの恐ろしさがいよいよ真に迫った危険として描かれるシーンについて、空気が転調するところでネガ反転したようなショットがでてくるけど、これは劇中現実でもそう見えているという風に処理されている。

(ネガ反転ショットは3層にちかい4層の上層でおこった上昇負荷に冒されたリコの主観ショットで、3層の上昇負荷は幻覚をともなうものとして前段で描かれている)

 13話の最後らへんでアビスの深いところにいる主人公ら"伝報船"(便りを収めた気球のようなしろもの)を飛ばして、穴の上の主人公の故郷の町へとたどり着いて拾われるシーンは、それまでに遭遇したモンスターや人が再登場して、この世界ならではの振り返り的映像だと思うし、上昇負荷がかかるので下へ下へとくだっていく動きがオーソドックスとなる今作のなかで映えに映える上昇運動だった。


   ▼二期(?)について

 漫画で続きを読んだ感じ、ボンドルドは芯の通った良いキャラで、彼が活躍する5層以降から、『メイドインアビス』はポリフォニー的にさらに面白くなっている。二期(?)も楽しみ。

 

09/02

 『小説の神様 君に読む物語 上』

 を読んだ。

 劇中に登場する作家業何年~十数年のプロたちが、現実のツイッターでわれわれ素人が訳知り顔で言うような、"最近の若(い読)者""最近の創作"批判をする。しかも今作ではその射程が"ふだん本を読まない人"にまで拡大されていて、自分はこれについていまいちピンとこない(というかむしろ、大きく否定的に疑問視している)側の素人だから、読み進めるのが大変だった。

 こういう話を見聞きしてなぜピンと来ないのかというと、「ベストセラー、そんなに楽しい話ばっかりか?」という疑問があるからで。

 いやなにも、全米が泣いたり日本中が感動の渦にのみこまれたりするお話を指すわけではない。

 現代の売れっ子作家といえば東野圭吾だと思うけど、彼が原作の『ガリレオ(映画興収49億円33億円)も、『麒麟の翼』(16億円)も、素朴につらい話ですよね。
 『告白』が250万部以上を売り上げ映画版は興行収入38.5億円となり、その後つぎつぎに映画化ドラマ化されていった湊かなえ作品もまた、素朴につらい話だと思う。

 『桐島、部活やめるってよ』が評価された朝井リョウ原作の2つ目の映画『何者。』、映画興収10億円のヒット作でしたが、前者は高校生が悩むお話だし、後者は就活の大学生が悩むお話ですよね。

 

***


 『あなたに読む物語 上』でえがかれるのは、創作が作り手や受け手にとっていかに無意味かということだ。
 創作物や創作者の立場として"作品が売れる/売れない"というふたつの立場が紹介され、それは"大多数の読者に読み流される/少数の読者に意を汲んでもらえる"ものとして掘り下げられる。
 読み手の立場として、"劇中人物と自分を重ねない、読み物として快いかをいちばんに気にする/劇中人物を自分と重ね合わせて、劇中の悩みや試行錯誤を自分のことのように考える"が提示される。
 自分のことのように考える読者の立場として、"本で得たものを現実にフィードバックできる人/できない人"という立場が紹介され、今作では後者の立場である人が語り手のひとりとなっている。
 
***


 第12回小学館ライトノベル大賞・ガガガ賞受賞作品で今年2018年5月刊行の『《このラブコメがすごい!!》堂々の三位!』、今作……と、こういう"最近の若(い読)者"批判"最近のライトノベル"批判が劇中に登場する作品、けっこう多そう。

 

09/04

 関西圏への台風到来にともない、関東圏もわりと雨風がつよく出ていた。
 振り休で映画割引デーだったが、出かけず一日家にいた。
 快晴だったとしても、はたして出かけていただろうか? あやしいところだ。寝坊したから、だいぶやる気がそがれていた。

 夜更かしの原因は

 『グランブルーファンタジー

 だ。
 先日会った高校時代の友人T氏がやっているのを見て、気になって、いまさらながらやってみた。
 T氏宅でおれが『メイドインアビス』を観ているあいだ、T氏は高校時代から変わらない面倒見のよさを存分に発揮してくれて、『アビス』のOPEDや前回からの振り返り映像を飛ばしてくれたのだが、スキップが終わると、「コセンジョーコセンジョー」と謎の鳴き声とともに周回する動物と化していた。

 ストーリーがとくべつ面白いかというと、そうでもないし。伏線回収がすごいとか、そういうこともなさそう。戦闘システムにしたってそんな感じだ。
{新規さん用のキャッチアップのおかげか、サクサク進んで編成やらに悩むことがないというのはありそうだ。すでに何年も運営されているゲームで、あれこれ制限が解除されている。アイテムの所持数制限が緩和されていたり、期間限定イベントのいくつかが恒久化し限定キャラやアイテムの取得も容易。
 他プレイヤーは何年もプレイしてRANK(いわゆるレベル的なもの)100以上がゴロゴロしているなかでの新規参入だから、サポートも優秀だし。
 そして新規用のお得な課金パックに課金したから、強いアイテムとキャラが最初からいる}

 ザクザクとアイテムがポップして、それをゴトゴトと強化素材として溶かし、レベルをあげレベル上限を除けて新技を覚え……とする。

 

09/05

 『グランブルーファンタジー』をやりながら、DWU×委員長のコラボ動画を見て、委員長の「わたくせのかんがえた最強のギャルゲー」配信を見た。
 敵がだんだん強くなってきて、難しい塩梅だと思った。


09/07

 なにをやったか覚えていない。『グランブルーファンタジー』をやったのはたしかだろう。『REALITY』で委員長×すーぱーそに子ちゃんのみとらじ3D版を観た気がする。


09/08

 これを書いてる0911時点で、なにをやったかすでに覚えていない。『グランブルーファンタジー』をやっていたのはたしかだろう。
 甥っ子とミニスーファミをやった気もするが、それは0909の話だったかもしれない。


09/09

 昼間に家を出、床屋さん、コンビニ、本屋、電気屋、最寄り駅から別の駅へ、図書館、献血ルーム、本屋、別の駅から最寄り駅へ、本屋、食品売り場、コンビニに行った。
 本屋に何度も行ったのは、『グランブルー・ファンタジー』のゲーム特典付きマンガが欲しかったからだが、見つからなかった。
 コンビニと電気屋は、電子通貨を買いに。ネットフリックスとPSプラスカード。

 もともとは横浜に行こうと思っていた。いくつかの映画館の上映スケジュールをながめ、『MEG』IMAX版→『寝ても覚めても』→『ボルグ/マッケンロー』を観る算段を立てていた。朝から夕方まで一日がかりの計画だった。
 昼すこしまえに起床し予定は瓦解し、面倒くさくなってやめてしまった。

 

 成分献血(初)

 成分献血をはじめてやってみた。

 中田永一作品でおおきくあつかわれていて、一度はやってみたい欲が高まっていたのでちょうどよかった。全血献血成分献血のちがいについて言われがちなことは2点くらいあると思う。実際やってみたら、別の点が気になった。
「400ml献血とちがって献血が終わるまで40分~1時間余かかる」
「血を抜き取らず、必要成分をもどすから身体への負担がすくない」
 そのへんのことを言われがちだが、ぼくが気になったのは、血圧計的な腕輪をはめることだ。
 血を抜いたり返したりするプロセスにあわせて、この腕輪は腕を圧迫したり緩めたりする。

 これがわりと不愉快だった。

 

***

 

 帰ってきたら『グランブルーファンタジー』のイベントが『俺たちのレンジャーサイン』に変わっていて、「あと数回マルチバトルをこなせばSR武器がもうひとつ手に入ったのに」とか思った覚えがある。
 所属する騎空団のステータスボーナス時間が20時~22時で、それを待ってからこなそうと思っていたら、イベントは待ってくれなかった。かなしい。


09/10

 ぼんやりとしていた。『グランブルーファンタジー』をやったこと以外覚えていない。
 『鶴瓶の家族に乾杯ハマの番長三浦さんが横浜をまわる回を観た。


09/11夜

 やってみたいゲーム・都市防衛型AC①

 都市防衛アクションみたいなのをやりたい。
 生活空間でやるアーマードコア
 ビルを盾にしたり武器にしたりできるが、やると名声が下がったり損害賠償を求められたりする。
 敵ロボやら怪獣やらからヘイトを集めて、空き地や裏山や採石場へと誘導したりして、群衆がシェルターに逃げ隠れるのを助けたりする。
 ロボにするか、超人にするか、はたまたライダーや戦隊ヒーローか? その辺はよくわからない。

 ゲーム・都市防衛型AC②

 シムシティ要素があると面白いのではないかとも思う。

 そうなると、怪獣映画からの変奏となりそうだ。小さな町から初めて、大都市になる。都市が背を伸ばしていくとともに、怪獣も大きくなる。地底や海底が発掘され、怪獣が眠りから起こされて、宇宙からの使者がやってくる。

 類人猿のもとに訪れた謎の黒板/マレビトからはじめるのか、紀元初期のマレビトではじめ、錬金術師やら信仰祈祷やらが補強していき次第に科学・現実のテクノロジー化/魔術・ファンタジー化していく形になるのか、19世紀アメリカから掘り起こされた巨人くらいのところで始めるのか。よくわからない。

 牧場の柵が壊れて、なかの牛馬が逃げ出す。歩くさきに牛馬がいたら、踏みつぶしてしまう。(そのままにしたら、敵の足止めに)……みたいな。

 

09/11夜

 コンビニ受取商品を引き取りに(ついでに家族から頼まれていたバナナを購入しに)行くついでに、本屋に寄った。
 文具を探したけど、目当てのものがなく、ビデオも探したけど、気になるものがなかった。
 先日さんざん探して見つからなかった『グランブルーファンタジー』のコミカライズをここで探せばよかったのだが、そちらは頭からすっかり抜けてしまっていた。

 『ウルフRPGエディタ』製のフリーゲームによる競作企画『ウディコン』の評価作をあれこれダウンロードした。
 ここまで10回ほど開催されていて、いくつかリンク切れのものもあるようだった。

 

09/11夜

 『The Dragon Throne』

 たぶん全クリした。
 とはいえ、負けイベントを一周目でクリアとかはまだしていないので、そこらへんなにかあるかもしれない。
 自称されたジャンルは「RTS」とのことだが、香車ジャンケンという感じだった。
 1直線に進むキャラを配置して、これまた1直線に進む敵を倒したり足止めしたりしつつ、敵陣地(画面端)まで進むゲーム。
 キャラは6種の兵科があって、戦士→斧手→槍兵(→戦士)という3すくみの関係を主軸として、そのほか弓兵・騎士(戦士の上位互換?)・狂戦士(斧手の上位互換?)がいる。

 

***

 

 絵がかわいらしく、音楽が心地よく、キャラがサクサクパワーアップしていくので、面白かった。


09/11夜

 『箱庭フロンティア』ひとつめのマップをクリア

 した。
 『窓の杜』16年度大賞受賞作でもあるようだ。
 自動生成のマップによるすごろく+RPG。
 サイコロを振った位置から歩いただけ換算し出目に達したマスのイベントが起こる。
 一歩引き返せば残り歩数は+1される。(たとえば出目が2でも、隣のマスを踏んだあと反復横跳びみたいに最初のマスをまた踏んだところで残り歩数は0にならない。2のままだ)
 いっぽう引き返さなければ同じマスを踏んでも残り歩数は減る。(たとえば2×2マスの正方形型につながったマップでサイコロを振れば、出目が2でも6でも同じマスに止まれる)

 ……ということで、出目を指定するアイテムがなくたって多少の融通が利くシステムだけど、止まりたいマスに止まれるかは難しい。
 強いモンスターと出くわしても大丈夫なよう、欲ばって宝箱を取ろうとしたら、ターン限度まで簡単に到達してしまってゲームオーバーとなった。


  ▼戦闘システム

 シンプルで異様にユーザーフレンドリーで、優秀だと思った。
 『FF』のATBのうち『FF10』タイプ。キャラの素早さステータスと選択した行動に応じてゲージがたまる。
 敵味方の行動順や体力ゲージが見えていて、その行動をとったときの予想ダメージが示(敵体力がどれだけ減るかさえも図示!)され、次回行動順も図示される。

 

 ステータスは戦闘(や"経験値ローン屋さん")によりたまった経験値を、各ステータスに割り振ることで上げることができる。経験値の割り振りを行えるタイミングは限られていて、マップを1層降りるときに行える。
 極端に強くなれるわけではないからジャイアントキリングはのぞめない? いやいやそんなこともない。
 "スキル宝箱マス"などから入手できるスキル。これが窮地をきりぬけるお助け的存在で、"スキル宝箱マス"の中身次第では、通常攻撃でモンスター1体に8ダメージとかちまちまやってる時分であっても、モンスター全体に80ダメージとか与えたりできる。
 スキルは回数制限制で(いわゆるMPなどステータス依存でないから)、「強力なスキルをもらったはいいけどステータス不足で使えない」という事態もおこらない。


09/12

 宿直日だった。

 

09/15

 11時ごろ高校時代の友人S氏から電話がかかってきて、S氏はいつも通りパッキリと用件を整理したうえで連絡をくれたようなのだけど、いつも通りぼくが脱線していき、あれこれ長話につきあわせてしまった。通話時間はけっきょく、1時間以上になったような。
 おなじ高校時代の友人の話(先日『のんのんびより』を観に行ったさいの感想戦的な)とかはともかく、『未来のミライ』の話とかはまじでどうでもよかったと思う。聞かされたS氏かわいそう。

 前日{14(金)}夕ご飯食べた後に21時になるかならないか位の時分にすぐ寝てしまって、翌4時だか5時ごろ起きて6時過ぎに寝て、起きて昼飯食べて、寝て、起きて夕飯食べて、12時をまわってから寝る、みたいな感じで、


09/16

 高校時代のS氏との約束について、日程の確認をして「大丈夫だよ!」と言った数時間後に「ごめんなさい無理でした」と連絡を入れることに。(仕事は休みだったんだけど、ほかに予定が入っているのをわすれていた)
 上げて落とす非常にわるい行ないをしてしまった。


09/17

 1時ごろ寝て4時ごろ起きて6時ごろ寝て、11時ごろ起こされてまた寝て、12時ごろ起きて昼飯を作って(麺を茹でレトルトソースを温めて)食べて、甥と遊んで、14時すぎに寝て、16時ごろ起きて、義姉の誕生日会として有名焼き肉店に行った。

 

 『箱庭フロンティア』10階ぶんの地図を解放

 したものの地図が出てないので「?」となり、騎士職を解放しひとりクリアし、武闘家も解放しまたクリアし、"探索"というメニュー欄をみつけて10階地図用のバトルに挑み、地図を手に入れ、ひとり踏破した。
 ということで新たに計3人くらいの踏破者がうまれた。(5階が2人10階が1人)

  ▼踏破者データの誤算

 前回の感想の通り、ダンジョンを踏破するためには、特技をバンバン使って難所を乗り越えていけばよいと思っていた。そのようにして、10階層を踏破し、強力なスキルを身につけた、なかなか強い冒険者を育成した……とホクホク顔だった。
 そうして20階層地図を解放し、余裕顔で20層版の"探索"に挑んだところ、技の使用回数がギリギリだ。……踏破者のデータは、ステータスはもちろん、特技の残り使用回数も記録されるらしかった。

 1発はつよいけど、使用回数がすくない冒険者ひとりがいるくらいでは20層版探索はクリアできず、探索に費やした経験値が無駄になってしまった。
 かなしい。

 

  ▼10層地図踏破までの感想

 "すごろく"による育成と"探索"によるバトルという二本立ての構成が良いと思った。
 ステータス表示が数字とともにABC~のランクが併記されたタイプのもので、「パワプロっぽい」と思ったけど、この二本立ては『パワプロ』のサクセス・ペナントモード……というか、『パワプロ』サクセスにおける練習パート(育成)と、大会パート(試合)との二本立てに近いのかもと思った。
 でも、もう少しちゃんと考えてみると、ぜんぜん似ていなかった。
 むしろもっと面白い構成だと思う。

 プレイヤーは、とりあえずの急場をしのぐために、あるいはステータス上昇(経験値獲得)のために、強力なスキルを使い捨てることもできる。そうすると、せっかく立てるようになった実戦(探索パート)では、スキル不足で役に立たないかもしれない。
 逆に、実戦で活躍できる強力なスキルを温存すれば、ステータス的に心もとなかったり(あまりに貧弱だと、せっかくのスキルも使い切る前にHPがゼロになるかもしれない)、そもそも実戦の舞台に立つための育成(すごろくパート)を乗り切れないかもしれない。

 ……こういうトレードオフの構成は、『パワプロ』でもないわけではないのだが、そこまで強くはないと思う。『パワプロサクセスモードでプレイヤーが好きな時に好きなだけ行える経験値割り振り・ステータス上昇は、基本的に目当ての数値に達したらステータス(や特殊技能取得)に反映する都度更新で、そんなタイミングを気にするようなものではないように思う。
 もちろん、時限イベントである試合イベント(そこではプレイヤースキルと)にむけて、即座に効果が発揮される(けれど、とても有能かというとあやしい。しかもわざわざここで経験値を費やさずとも、実戦での活躍やランダムイベント次第では習得する可能性だってある)特殊技能をとるか、長期的に見えばそちらをとったほうがよい(ただし即座に効果のほどがわかるものではなく、1上がった程度ではあまり違いが見えてこない)ステータスの上昇を取るかという構成がなくもない。

 しかしそれが、明確にトレードオフかというと、そうでもないように思える。

 

  ▼そのほかトレードオフ

 ターン数(ダンジョンクリアできる可能性)⇔体力回復(戦闘≒体力消耗=経験値獲得=ステータスアップ。初回感想でゲームオーバーとなった要素)が、トレードオフの関係だ。

 他作で、もっとわかりやすい例だと、『ランス』『闘神都市』方式の経験値システムがあるか。
 レベルアップのタイミングをじぶんで選ぶことができ、弱いレベルで強い敵に戦闘をいどんで経験値をより多くかせぐことができる。
(と言っても、あまりに強い敵は勝てないわけで、階段を1段飛ばしで進む程度のことなんだろうと思う。 ダンジョン1を進める強さでダンジョン2を挑み、ちょろっとレベルアップして、ダンジョン2を進める強さでダンジョン3を挑み……と、段階的に抑制と発散をしていくという具合)
 『箱庭フロンティア』でも似たような選択がないわけではないけれど、むずかしいところがある。
 そうしたトレードオフとしては、2つくらいのパターンがありそう。
 ある層ではターンを節約して、他の深い層で節約したターン分ウロウロする。
 層を降りるときに経験値割り振りというシステム上、「思った以上に敵が強くなってしまって勝てない。詰んだ」ということになりかねない。
 これが単にプレイヤー(である自分)が勘所を読めてないだけなのか、システム的にそうした努力が難しいのか、いまいちわからないけど、後者なのではないかと思う。

 もう一つ、そんなぼくでも「稼ぐ楽しみ」を見いだせるシチュエーションは、"経験の杖"を手に入れたときだけど、すこしランダム要素がつよい気がする。
 "経験の杖"は、使用した戦闘で取得できる経験値に色をつける(1.3倍)アイテムで、宝箱マスや町マスのお店(たぶん。まだ訪れたことないのでわからない。)で入手できる。
 このアイテムを手に入れたあとは、序盤の戦闘で使って、道中の消耗を少なくするか? それとも後半の戦闘で使って、実戦(探索)戦闘員としての飛躍をのぞむか? という二者択一をせまられることとなる。
 また、このアイテム自体をお店で手に入れるときにも二者択一があるだろう。
 このゲーム世界は経験値=貨幣だから、短期的なリターン(現時点でのステータス強化/お店に行かず宿屋に寄って体力の回復)を取るか? ⇔後の長期的なリターンを見込んで初期投資をするか? という二者択一だ。
 ……ただし、町マスも宝箱マスも、そのマスが備わったマップが生成されるかどうかは運がかかわるし、宝箱マスで手に入れられるかどうかもランダムだ。
 そうした二者択一を考えるだけの余裕ある階層で手に入れられるかどうか……そう考えていくと、プレイヤーがどうこうする余地は、そこまで多くない気がする。
{ぼくが"経験の杖"を手に入れたのは、いまのところ、10人くらいすごろくしたうちで(だいたい60階くらい?)1回しかない。(うまい人ならもっと階層を踏めるだろうから、"杖"を手に入れられる回数も増えるだろうけど)}

 

09/19

 午前中ぐだぐだして、昼に上司からの叱られが発生し、午後に職場に戻って書類を整理して、夕方は甥っ子たちと遊んだ。
 海に見立てた床に、クッションや座布団を置いて、島や船ということにして、障害物レースみたいな具合。

 

0920夜

 『小説の神様』を読み、グラビア写真集を買って肉欲におぼれ、vtuberコラボ配信

 『みとぽん生放送』

 を楽しんだ。
 "みとぽん"というのはvtuber二人の愛称を組み合わせたもので、おなじみ『にじさんじvtuber月ノ美兎委員長(みと)と、株式会社ウェザーニューズの番組に長年登場してきたアニメ風キャラクター・ウェザーロイドAIRIさん(ぽん)とのコラボ配信ということとなる。
(「どこにポンが?」というと、AIRIさんはそのぽんこつぶりからポン子の異名を持っているのだ)

 

 『箱庭フロンティア』

 スキルをねばった結果、使用回数をけっこう残したキャラができあがった。20層用の地図を手に入れた。リセット&ロードをたくさんやるものではない。疲れた。

 つよいキャラの育成法がいまいちわかってない停滞期で、リターン(20層の地図ゲット)よりもプレイの面倒が勝っている。

 

 09/24夜

 『(ウディタ製魔女アクション&工房ゲー)』の続き

(2023/02/14追記;初プレイ記がないっぽい)

 第3章に入ったところで、仲間3人をアンロックし、たぶん最後手前のマップまで行けるようになっている。
 調合製作したアイテムは商品棚にならべてお金にすることもできるし、戦闘に役立つ回復アイテムや武器防具(ステータスアップ)として装備することもできる。
 ダメージ5%増強から始まって、30%アップなどが手に入っていくわけだけど、そこまで強くなった感(=爽快感)にはつながってこない。
 武器はいくつか種類があって、ダメージ増強プラスHPアップなどのバランスのよい剣、一回あたりダメージをおおきく増強するがMP(弾数)を少なくする斧、ダメージとMPを増強する鞭、ダメージと防御力を上げる弓……など、トレードオフ的なのがアレコレ出てくるのだけど、極端に攻撃力の高いやつとか必中的攻撃をしかけてくるやつとかが(いまのところ?)いないから、ダメージを重視しがちだ。
斧は、プラスとマイナスがかちあって、時間当たりダメージが増えてるのか減ってるのかよくわからない。

 パーティが増えることについてもそうで、4人パーティになったけど、劇的に強くなった感じはしない。

 作業感はいなめないし、その点でいえば『箱庭フロンティア』のほうがおもしろい。
 アンロック要素は、"夜更かし""早起き"といった、活動時間が増やすことができるものがあるのだけど、アイテムドロップ率・数とか採集率・数に変化を与えるスキルはなく、作業時間増量、という感じだ。
 『クッキークリッカー』で快感なのは、新たなリソースが解放されるごとに取得クッキー数がどんどん桁違いに大きくなっていくからで、ステップアップ要素がうすいのは気持ちよくないなあと思った。

 だけどプレイ時間を重ねられるのはこちらのほうではないかと思う。
 ぼくは考えて試行錯誤することも嫌いだし、徒労感にたえられない人間なんだなあと自覚した。
 だらっと考えなしにプレイして素材をただただ集めるだけでも、なにかしらプラスの結果を生んでくれる。
 試行錯誤については、しなくても楽しいし、すればもっと楽しい……くらいの塩梅が、もっとも理想なのではないか。すくなくとも、ぼくのようなタイプのぬるい輩にとっては一番よいと思う。
 プレイヤーの側がうまいことやってようやく面白くなる……というのは、よほど自信がないと難しい。

 

09/25夜

 ①月ノ委員長お誕生日翌日動画を見つつ、②魔女アクション+調合ゲームの続きをやった。

 月ノ委員長お誕生日翌日動画

 初心に帰り(?)、『みとぽん』に引き続き(?)、ヨーロッパ企画ゲーム実況プレイ配信。
 全6ステージのスマホ向けゲームで、第1ステージは無料だけど他ステージは有料。
 ゲーム自体の面白さ・出来がよいようで、委員長もプレイアビリティに感慨を上げていた。

 

 『魔女アクション+調合ゲー』最終面アンロック

 した。モンスターはどちらも遠距離攻撃で、ボス(大きなドラゴン)も遠距離攻撃。移動速度と攻撃頻度が、2面(3面? 初アンロック面)の岩巨人的なボスよりも早く、ダメージが大きい。

 ボスドラゴン戦は、これまでとちがって複雑なプレイングが必要となってくる。これまでは敵をただ攻撃すればよかったが、操作キャラや味方NPCの位置を考慮しながら、足を止めた味方NPCにボスドラゴンが近づいてきたらパーティ呼び出しボタンを押して位置を変えたり、パーティとは逆方で攻撃してヘイトを稼ぎ味方にボスドラゴンの攻撃がいかないようにしたりする。
 ……とまとめると楽しそうなんだけど、意外と面白くない。
 なぜか?
 たぶん、味方AIのピーキーさと、パーティ集合ボタンのそっけなさがその印象を抱かせるのではないか。
 味方AIはすぐ足を止めて延々攻撃をしてしまうので、モンスターの攻撃の餌食になってしまう。
 それを防ぐ、パーティ集合ボタンは、押したそばからキャラが瞬間移動する。
 その辺が合わさった結果、パーティに指示をして戦っているというよりも、固定砲台を再配置しているような操作感をおぼえた。

 

09/27

 電子書籍の半額~8割引きセール品について支払いをすませるため、コンビニに行った。

 土門拳『古寺を訪ねて』『土門拳 腕白小僧がいた』kindle

 が対象商品で、購入した。

  ▼装丁の微妙さ

 写真として美的にどうということが微妙に考えられてない装丁の本だなあと思う。
 もとの紙の本が手元にないのでよくわからないが、たぶん電子化のさいの調整不足なんじゃないかなあ。
 セールで買ったからよいけれど、定価で買ったらガックリきそうだ。

 スキャンの画素数は高いと思うんだけどそれだけという感じで、いろいろと妙なところがある。
 大きく気になった2点ほど取り上げてみる。

 まず、ノド(本の、綴じて隠れがちな部分)の処理がが微妙で、見開き2ページで掲載された写真は余白なく画面いっぱいにひろがりこそするものの、だいたい中央(ページの切れ間)が妙なことになっている。
 中央部分がカットされていて、中央に人のおさめられた写真なら顔が一部欠けていたり隻腕になったりしてしまう。
 顔なら脳内補完もある程度できるけど、馴染みのうすい建物を被写体にした写真では、どう補っていいものかよくわからない。

 もう一点は、色合いがバラバラなたところ。黒が強く出たりぼんやりしていたりする。
 1ページ単位での色調は統一されているから、1ページ内に収まった写真の判別はできない(から気にならない)けれど、見開き2ページのもののなかには、右半分と左半分とで露骨に色がかわるものもあったりして、これはさすがに気になってしまう。

  ▼写真の一回性について(土門氏による、名俳人の"情景"批判)

 それでも買ったのは、文章に興味がひかれたからだ。
 現代の作品について、「現代の簡単に大量に複製できちゃうものは、昔の一品モノと違ってありがたみがない。DVDより生の握手会やよ」みたいな話を聞く。

(こういうことをおっしゃるかたがたはじっさいのところ「複製技術時代」やら「ベンヤミン」やら「アウラ」やらという固有名詞と一緒にムツカシイお話をされるのだが、無知なぼくはその辺の含蓄がよくわからないから、上のような雑な理解になる)

 これについてぼくは、わかるようなわからないような、ちょっと釈然としない気持ちをかかえてもいたのだけど、写真家{ネガや現像指示書等々さえあれば同じものが複製しうる。(……雑なとらえかただけど)}の土門さんが面白いことを言っていた。
 一見すると「一回性の塊」みたくおもえる俳句をこそ土門さんはdisっているのだ。自分の撮ったお寺について筆をとった土門さんは、後世においても評価の高い有名な句を取り上げ、「すごいよね、情景が浮かぶ」とほめ、「でも、」とつづける。

「実はこれ、その場その時に詠んだんじゃなくて、あとで練りなおしたもの」

 という旨のことを明かす。そしてさらに、有名な俳人リアルタイムで詠んだ本当の一句をとりあげ「こっちはたいして良くないよね」という話をする。
 で、俳人が訪れ詠んだ地域の同一モチーフで撮ったじしんの写真を並べるのだ。

 俳人が見れなかったり考え得なかったりするだろうシチュエーションで撮られた自分の写真や、それを撮るために現地へ足しげくかよった自分の態度こそがリアリズムではないか……というような話につなげていく。

 

09/29

 高校の同級生S氏が入っている写真クラブの展示

 を見てきた。
 各人それぞれテーマをもった展示をしていて、おもしろかった。
 自分の通う絵画教室の雑然としたそれとはその辺で満足度が違った。
 その違いがなぜ生まれたのか?
 一人当たりの展示数もあるけれど、たとえ絵画を多く並べられたとしても雑味が増えただけだろう。
 テーマを決めたりまとめられたりするほどの引き出しがないのだ。
 これについて、1枚仕上げるのにかかる時間が、写真よりも絵のほうががかかる……というのをまず先に思ったけれど、これはぼくの写真に対する無知がそう思わせるだけで、いちばん違うのは、なによりやる気の多寡なのだろうと思った。
 クラブに入って1年目のS氏がこの展示のために用意した四枚の写真は、赤いモチーフがあるという点でまとめつつも、さまざまな時と場所で撮られたもので、その時点ですでに結構な労力なのだが、1枚について完成までのプロセスを簡単に説明してもらったところ、一度撮ったものを現像し講評をもらって、後日再訪しダメ出しされた点をふまえて撮り直して、現像も最初とは別の方法で行なって……と、されたものなのだという。
 簡単な説明だけで、めちゃくちゃ面倒くさい。

 

***

 

 そこから駅前まで歩いて個人経営の喫茶店でペペロンチーノを食べ、パフェをおごってもらう。駅の逆口に行き、最近経営母体のかわったデパートにできたカラオケ屋に行き、1階食品売り場で食材を買い、S氏の家に行って鍋をつついたりゲームをしたりした。

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 時期はちがうけど、この家である。

 

***

 

 鍋をつつきながら、S氏が保管していた、

 高校1年の時のクラス誌

 を見た。
 一人一人について「この人といえば?」という声をまとめたものがあり、なかなか面白かった。
 当時たしかに見たはずのもの、いま読んで「そういえば」と思い出したもの、当時から視界に入らなかったもの……1年おなじクラスで過ごしてきた人々のさまざまなディテールがあった。
 土日の前後の平日を休むことが多かった男子生徒にたいして「連休」という表記があったりするのは、それなりに納得がいくけれど、当時の髪型が玉置浩二風だった人に対して「安全地帯」という表記があったりするのは、説明がないとたどり着けない。
 弁当に関する話題がちらほら目にされ、学校「生活」だったなあと思った。

 

***

 

 S氏はたまたまつけたTVに映っていたバレーの新エース黒後愛さんのことをしきりに『バキ』風だと言っていて、なるほどおれと友達付き合いが続くわけだなあと感慨ぶかかった。

 

09/30

 『追放されたS級鑑定士は最強のギルドを創る』

 連載中。さらっと読めるしサクサク進んでいるのだけど、分量こそいま現在121,031字(だいたい本1巻ぶん)がたまっているのに、食い足りない気持ちになる。
 からだが『小説家になろう!』になじんできたような感慨がある。
 連載ペースは最初の6月は9回翌月7回以降8月9月は2回ずつあり、4ヶ月で一冊分の分量が書ければ商業ライトノベルの一線級ペースだと思うのだけど、寄せられた感想では「ペースが遅い」という評価。

 「良いところ」を挙げる感想さえ、その詳細を読むと「エタったかなと心配してたけど更新されたこと」なんて当てつけみたいなものであったりする。(いやもしかしたら感想書いた人はシンプルにうれしがっていて、そう捉えるおれの性格が歪んでいるだけかもしれない)
 なかなか大変だと思った。

{2023/02/14追記;たしかこの作品はその後、主人公以外のsageがなんかどんどん目立つようになっていって、そのうえ主人公らの動きも不可解におもえてきて、続きは読めてません。

(作品感想欄もぼくが脱落した当時は、いまで言うジャンププラスの『僕の武器は攻撃力1の針しかない』『道産子ギャルはなまらめんこい』コメント欄を検閲しなかったバージョンみたいな感じになっていた)

 「他人の能力を見抜く天才である主人公の知見が冒険者パーティの成長につながる」みたいな感じのエピソードがアレコレあって……別作者の『ライブダンジョン!』だと輝いていたくだりですが……今作においてはなんか、「主人公すごい!」というよりも、「世界ゆるい」と劇中世界設定やらなにやらへの不信感へつながってしまって、

「こういうエピソードは色々むずかしいな……」

 と思った記憶がある}

 

10/01

 『迷宮道先案内人(ダンジョン・シェルパ)』

 を途中まで読んだ。文章もお話もしっかりしていて、素朴におもしろかった。
 連載中で、現在254,878文字(2巻ぶんくらい)の容量がある。自分が読んだのは王都編の2くらいまでだから、20万字行くかどうかくらいなんだろうか。

 導入的な序盤で、ダンジョン・シェルパという職種や主人公のガメツさを描いて、主人公はなぜそんなガメツいのか(この謎自体はすぐに理由が明かされ、「妹想いのええあんちゃんだ」という面と、冒頭で示されたようなクールな面という二つの魅力が提示されるかたちとなる)、主人公の冒険者時代の二つ名の由来はなにか、外様で新進気鋭のパーティから主人公は信頼を勝ち取れるのか、パーティになじんでダンジョン踏破が見えたところでダンジョン街の政治は"妹想いのええあんちゃん"を絡めとってしまうのか……色々な要素で引っ張っていく。

 盛りだくさんの内容だけど、設定的には広い世界の一端を垣間見られた程度で、かなりの長期連載になりそうだなあと思った。

 

10/11

 『誰もが嘘をついている』『性欲の科学』

 をちょくちょく読み進めている。タイトルではよく分からないけど、どちらもビッグデータ・マイニングや統計分析にかんする本だ。
 『誰もが嘘をついている』ビッグデータ・マイニングや統計分析が現代社会でどのように扱われていて、これからどんなことに活かせそうかを述べた本。
 現代競馬界で連戦連勝をおさめた名馬アメリカン・ファラオ、かれは従来のサラブレットの基準――血統を重視した基準から大きく外れていた。それでもかれを獲得するために国を超えた団体が競り合った。その基準とはなにか?

(2023/02/14追記;たしか渡辺零さんが話題にされていて買った。渡辺氏はのちに競馬マンガの原作者となった。すごいことだ)

 『性欲の科学』は、インターネットの検索ワード10億個や出会い系サイトのコメントやポルノ小説やファンフィクションサイトの小説で使われる言葉を分析して、男女(やゲイ)の性欲の違いについて書いた本。

 日本に関するネタがあれこれ出てきるのだけど、だいぶ偏りがあるように思う。
 訳者のかたが後書きで驚かれているように、英語圏はもちろん、日本のジャーゴンや特定アニメの登場人物の名前がさまざま出てくる。そこはえらいなあと思う。
 ただし、もっと大まかなところで語弊があるように思えてならない
 お茶の間に流れるアニメと18禁ポルノアニメとが一緒くたに語られていて。しかも書き手は、それぞれを別々のモノとして考えてないように読めるのだ。

 「絶対領域」「貧乳」が日本の一部男性に好まれる要素である……というのはまあ良いとしましょう。「貧乳」好きに「リナ・インバース」「泉こなた」が好まれている、というのも、まあ否定はできないんじゃないかと思う。
 でも、それと一緒に「アニメ」のキャラクターの様子として「目が大きくて声は高く、学校の制服を着ていて、にもかかわらずそこから想定される年齢の女性の体型とは著しく違う、セクシーな体型をしている」「腕よりも長く太い男性器がある」と書かれてしまうと、
「えっ! 話が雑!」としか思えない。

 

 書き手は、

「男性は視覚的情報を重視し、女性は感情や関係性を重視する。なので、男性はポルノ(ポルノ小説)を見ることで、女性はロマンス小説(やスラッシュ小説などファンフィクション)を読むことで性欲を満たす」

 ……という見立てのもと、ポルノとロマンス小説とを(違いを際立たせるかたちで)述べていく。
 こうした見立て自体は今著にかぎったことではない。マット・リドレー著『赤の女王 性とヒトの進化』でも見られる、それなりに歴史のある説だ。
 『赤の女王』などを読んだ時点からぼくにとって疑問で今作によってさらに強まったのが、

「そもそも、この見立ては正しいものなのか?」
 というものだ。

 今作『性欲の科学』は、雑多な情報をまとめた結果、より精緻なモデルを作り上げた研究というよりは、昔からあるストーリーに沿って情報を取捨選択した部分もかなりあるのではないかと思えてならない。

 ロマンス小説の独自要素として、『性欲の科学』はどんなものを取り上げているだろうか?
 ロマンス小説のヒーローについて、女性は往々にして「ココナッツ」を求めると云うのだが、その定義を聞いていくと、オタク男性にとっても非常に馴染み深い要素であることがわかってくる……

女性は支配的なアルファ・ヒーローが好きだが、今のロマンス小説には、ヒーローが超えてはいけない一線が存在するように思う。女性に暴力を振るったり、女性を心理的に虐待するようなヒーローは書けないのだ。しかし、1970~80年代のロマンス小説には、残酷なヒーローが登場するものも多い。道を踏み外したヒーローもいる。『炎と花』のヒーローは、冒頭のシーンで処女のヒロインを事実上、レイプする。そしてのちに、彼女を娼婦だと思っていたと弁解する。1982年にキャサリン・コールターが書いた『悪魔の抱擁(Devil'sEmbrace)』では、18歳のヒロイン、キャシー・ブロウガムがステキな青年と結婚式を挙げる直前に、34歳の貴族クレアがヒロインを誘拐し、縛り上げたうえで、荒々しくレイプする。そしてのちに、彼女はクレアのとりこになる。

(略)

 しかしロマンス小説の読者は、レイプ犯や人殺しのヒーローを望んではいないだろう。ストーリーの最初のほうで、ヒーローにちょっとした女性蔑視の言動があったり、ヒーローがまぬけだったりしても、彼らがヒロインに出会ってから変わることになるから、喜んで我慢するのだ(*29)。実際には、ヒーローが最初からアルファとして登場する小説は、全体の半分程度しかない。

   阪急コミュニケーションズ刊、オギ・オーガス&サイ・ガダム著『性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し女は「男同士」に萌えるのか』kindle版35%(位置No.7009中 2361、2389)第5章より(*29は「Knight(2009)」とあり、『Passionate Ink: A Guide to Writing Erotic Romance』などを書いたロマンス作家アンジェラ・ナイト氏の論考を参考にしたものと思われる)(太字強調は引用者による)

女性たちは、自分のロマンスのヒーローには、ココナツのようであってほしいと思っている。つまり、外側はハードで手強いが、中身はソフトで甘いということだ。だれもが甘い中身を味わえるというのではダメで、ヒロインだけが彼の殻を破れるというのがいいのだ。ヒーローがヒロインに優しさと思いやりを示してくれるのなら、ほかのみんなに対しては、どんなにこわもての支配者であってもかまわないというわけだ。

   オギ・オーガス&サイ・ガダム著『性欲の科学』kindle版35%(位置No.7009中 2407)第5章より(太字強調は引用者による)

女性が男に犯されることを夢想するのはよくあることで(*15)、女性の学者たちも一般の女性たちも、こうした夢想に理解を示しながらも、戸惑い、不安を感じている(*16)。しかし、想像の世界で興奮するからといって、現実の世界にそれを望んでいるわけではないようだ。心理学者のメレディス・シバーズは「興奮するのと、認めるのは別ものだ」と主張する(*17)。実際には、多くの女性が、想像上のレイプはかなりのレベルの合意にもとづいていることを強調している。

   オギ・オーガス&サイ・ガダム著『性欲の科学』kindle版40%(位置No.7009中 2736)第6章より

16 Meana(2010).https://www.nytimes.com/2009/01/25/magazine/25desire-t.html?pagewanted=all

LeitenbergandHenning(1995).「女性の30%が『男のすべての要求に従わなければならない奴隷になった自分』を想像したことがあると答え、22%が『自分が男にひどい目にあわされた後に官能を覚えるセックス』を想像したことがあると答えた」

   オギ・オーガス&サイ・ガダム著『性欲の科学』kindle版92%(位置No.7009中 6403)第6章脚注16より

 ……「ツンデレ」じゃんねこれ。
 ツンデレはこの本が執筆されていた当初だって広く知られた要素だ。
 『らき☆すた』の登場人物「泉こなた」だって、「貧乳はステータスだ」と胸を張った一方で(すでに述べた通り、「貧乳」も「泉こなた」も『性欲の科学』で取り上げられている)、昨今のツンデレ解釈について嘆いている。

 ツンデレ自体は発端こそ18禁ゲーマーだけど、非18禁オタクコンテンツやオタクのあいだでは常識となっていた。
{オタクすら関係ないマスへまでも普及し、女性誌に「ツンデレがモテる」という旨の特集まで組まれたそうだが、この辺の空気感については、非社交的なキモオタにはよくわからない。(オタクくん一本釣りのウケ狙いのネタのように思えてならないが……)}

 オーガスらや先駆者たちにとって、(萌え)アニメや抜けない18禁美少女ゲームの流行は、どういった位置づけなんだろう?
 また、これらを観たりプレイする視聴者・ゲーマーの男性の欲求は、どういった区分に入れられるものなんだろう?

 

 

10/13

 高校からの友人A氏からLINEが来て、あれこれ話をした。
 「『イサック』1巻買って面白かったけど、続刊もひきつづき面白いのか?」「『CODBO』出たからやろう」など。
 『イサック』は、まえにセールになったとき買って、積んだ作品。「読んでみますわ」と返事した。「1巻目から攻城戦だよ」とコメントをいただいた。おれが攻城戦フェチであることについて共通理解をとれている友人との会話だなあと思った。

 『CODBO』は、vtuberさんが最近やってるなあという感じだった。

 


10/15

 コンビニで電子通貨をチャージし、Kindle注文品の払込を済ませ、一冊が保留状態になり待っているうちに夜が更けた。
 買った本を読むでもなくグダグダした。

 『剣持刀也3D配信』

 vtuberにじさんじ所属ライバー剣持刀也さんが3Dの肉体を得て配信するようすに、配信終了間際に間に合って、にへらにへらとした。ちょうどそこへ、にじさんじ二期生の鈴鹿詩子おねえさんが「えっちですね、、」とだけコメント残していて、ぶんぶん頷いた。
 配信はすぐアーカイブ化されたので、最初から見てみたところ、準備中で剣持くんの声さえ聞こえない時分でも、ほかのにじさんじライバーさんがコメント欄に登場したりなんだりと、場つなぎをしてくれていたみたいだし、配信中は剣持配信だとおなじみの光景・にじさんじライバー一期生静凛先輩のスパチャ芸もあったり等々、いろいろとニヨニヨポイントがあった。

 

10/16

 地元のカレー屋さんについて

 夜、地元のバングラデシュカレー屋さんでカレーを食べた。チキンパラック(中辛)+ガーリック・ナン。野菜カレー(中辛)+チーズ・ナン。
 おいしくて何十回と足を運んでいるお店だけど、まったく別ジャンルの飲食店に行ったり、新しくできたインドカレー屋さんを試したりしたために、久々の利用となった。
 ガーリック・ナンからこぼれたにんしくをスプーンに集めて、野菜カレーのルーにふりかけた。チーズ・ナンはだいぶ偏っていた。

 味は変わらないけれど、お店は省エネが進んでいる。しばらく前からTVが真っ黒なままだなあと思っていたが、今回行ってみたら、来店するまで客側の照明が落とされていた。
 駐車場に、売り物の中古車が置かれているのはだいぶ前からだったのだけど、店内の現地の香辛料やら商品やらを置いていた棚には、このカレー屋さんの屋号をつかった車屋の看板がのっていた。
 いろいろと心配になった。

 

 帰ってきてからは何をするでもなかった。
 DMMにおけるウィルプラスのゲーム半額セール最終日。東出祐一郎氏が脚本をてがけた初期3作セット、『この大空に●●●』本編+演出強化パッチ+FDを買った。

 東出氏セットは『あやかしびと』(プレイ済)のほか、『バレット・バトラー』と前述2作のクロスオーバー『クロノ・ベルト』の3作。
 『あやかしびと』は発売当時プレイして面白かった記憶がある。「何某が実は~」みたいな後半明かされる人物関係や、おおまかなあらすじは覚えているけど、細部はわすれているから、今やっても楽しめるんじゃないだろうか。

 『この大空に~』について、半額とはいえ結構に痛い出費になってしまった。本編とFDの間を埋めるような2枚目のFDも出ているのだけど、そちらを買うポイントがなくなってしまった。
 懐だけでなく心情的にも痛くて、じつは物質商品としてであれば、この3枚+演出強化パッチがセットになったものが販売されていて、なんとこれが今回DL商品で買った2枚+パッチより安価なのだ。
 DL商品を注文してから気づいた。買い物下手すぎる……。

 

11/17

 『星の欠片の物語 ひとかけら版』

 自転車創業の新作。これのためにPSVRを買ったといっても過言ではない。さまざま積んでいる本やゲームの山から、年をまたぐことなくプレイ・クリアまで行った。

 面白かったが、不満も大いにある。
 ファンだから許せる部分もあれば、ファンだからこそ許せない部分もある。
 『ひとかけら版』がはじめて触れた自転車創業作品で、「なんだそりゃ」となったかたへは、ファンとしてあれこれ弁明したい気持ちがある。
「いや、製作コストがもっと軽かっただろう2Dノベル時代は、お手頃価格でボリュームたっぷりの作品を手掛けてたんですよ。
 『ロストカラーズ』『あの素晴らしい、 をもう一度』『そう、あたしたちはこんなにも理不尽な世界に生きているのだらよ』などがおすすめです」

 過去作をだいたいプレイしている自分としても、「なんだそりゃ」と言いたい気持ちがある。
 こういう向きのあるゲームを、自転車創業は過去に手掛けていないわけではない。
 『だらよ』もまた、続編製作へのほのめかしがあった作品で、じっさい『だらよ』はのちに続編となる『だらよ3』(『2』はありません)が製作・販売された。
 『だらよ』が『ひとかけら版』と違うのは、『だらよ』は続編がなくたって、一つの作品として充分なボリュームがあり、「これはこれで完結しているなあ」と思わせるだけのストーリーがあったということだ。

 物語が動き出した!……と思ったそばから終わってしまった。
 

 自転車創業らしい謎解きゲーム。
 VRゲームだからできること・できないことを割り出して、作品のルールに活かしている。
 最初のほうでプレイヤーに首をふらせて、劇中のプレイヤーキャラクターとそれをプレイする自分とを同期させて、会話相手のヒロインと"たしかに対話している"感をかもすところなんて、定石かもしれないけど良いですね……。

 システム自体はANOSを用いた一連の作品から後退したような印象も受けて、一度見たワープの演出を毎回スキップせずに見せられたり、ヒロインが行き来するのを何度も見ることになるので、作業感もあるんだけど、同じ時空間をともに過ごしている感が大きくなるのも、たしかなのだった。
 往来するヒロインに付き合い続けたプレイヤーは、ヒロインが大なり小なり好きだし(耐えられない人はゲームを投げている)、"プレイヤーがある部分を見つめ→それに対してヒロインが反応する"という行ないを何度も何度も繰り返してきたからこそ、ゲームの最後でヒロインがプレイヤーから去って視界外に消えてしまう姿に、つよく心を動かされるのだろう。

 最後にたどりつく状況としては、視点の高低など複数の状況が考えられるから、どうにかならないか試してみたけど、どうにもならなそうだと落胆をつよめた。

 


11/18

 お絵描き教室は野外スケッチ。某山公園でアレコレ撮り、スケッチ場所を決めて何十分か(~1時間くらい?)描いた。

 『MS ERA(普及版)』

 電子書籍版を購入。
 高校時代からの友人A氏から存在をおしえてもらい、パラ見。
 『機動戦士ガンダム0080ポケットの中の戦争』のEDで使われた絵をふくらませて、一年戦争についての歴史写真集という体裁をとって並べた偽書で、オリジナル版は全編英語だったらしい。
 現実に起こったことやあった(ありそうな)舞台や撮影法に近いものをモチーフにして、そこへ連邦やジオン軍の制服・モビルスーツを埋め込んだ絵には、かなり興奮する。
 ロバート・キャパの戦争写真のような、ちょっとピンぼけの絵などがある。
 『ガンダム』のキャラだけが並んだ絵は、写真という体裁をとっていても、リアリティラインが下がるように思った。

 

 18禁の話題『みにくいモジカの子』

 帰ってきて、『みにくいモジカの子』をプレイした。
 底辺の子ヤクザの子メカに強い子ご神体(bad)研究所(bad)巫女、そして……という順番でクリアしていった。(badの順番は自信がない)

 やらしいことが主目的でない成年ゲームは久しぶりで、
「ノベルゲーム面白いわ……」
 と素朴に感心した。
 ゲーム開発自体が発展したのか、それともぼくの見方が変わったのか、よくわからない。でも一昔まえの『吉里吉里2』とか『Yu-Ris』とはだいぶ違うし、おなじニトロプラス社でも『沙耶の唄』とはやはり違うと思う。
{それとも、ノベルゲームといってもフリーゲームをやることが圧倒的に多かったせいで、当時からアレコレ凝っていた高価格帯のゲームについての知識がぼくになかっただけなのか……。
 キモいおっさんにも、キモくて金がないおっさんもいれば、キモいけど金はあるおっさんもいて、ゆえに情報格差があるという、かなしい話だったりするんだろうか}

 独特のゲームデザインが、プレイする上での没入感を強めたり、人物像を補強したり、物語演出として劇的な効果を上げていたりした。
(ちょっとネタバレになるけれど、佐藤亜紀さんが『小説のストラテジー』で開陳されていた、M・ナイト・シャマラン監督『サイン』の画面演出。『モジカ』のゲームデザインは、そうしたものに近いように思う)

 物語のアクセルふみっぱなしのドライブ感がよい。
 読心能力のあるいじめられっ子がその能力を活かして、いじめっ子に復讐しようとする……というストーリーなのだが、いじめられっ子はほんとうに復讐しか目がなくて、善良なプレイヤーがついていけない速度と物量の怨念をぶつけてくる。
 復讐相手のいじめっ子はいじめっ子で、かれらも優秀なので、主人公らが動いたときにはすでに2歩も3歩も先行していて、尻尾をなかなか掴ませない。逆にむしろ、主人公の尻尾をつかんでぶんぶん振り回している。
 
 このドライブ感は、敵味方がそれぞれのタイミングで殴りこんで相手の呼吸を乱していく共通ルートだととても面白い
 一方で、ED歌が流れるグランドルート以外の各ヒロインの個別ルート的なものは、いささか性急さを感じた。ホップステップジャンプのうちステップが外されているような感じ。

 

 ニトロプラスの最新作である『モジカ』について、こちらがあらかじめ仕入れていた前情報は2点。
 ブサイクな主人公が、顔を合わせた他人の考えが文字として見えてしまう特異体質であるという点(タイポグラフィ的というか何というか)。
 もう2点目が、要所要所で主人公が顔を上げるか否かの選択するシーンがあるという点。

 

  ▼絵作りがすごい

 じっさいプレイしてみると、ふつうのドラマパート(心を読んでないシーン)の画面も、イベントCGも、かなり独特なのだった。

news.denfaminicogamer.jp

──醜い顔の主人公がいじめられている、という設定ですね。

下倉氏:
 そう。“他人の心が読めるけれども、自分の顔がすごく醜い”という主人公は、顔を上げると「うわー、きっもー」みたいなヒロインの顔と心がわかってしまう。だから、ずっとうつむいて過ごしている。
 「心が読める」ことを武器として使えば、本当はいろいろなことができるはずなのに、「気持ち悪い」と思われるのがイヤで、ずっとうつむいているという……そういう導入です。

 心を読むために他人の顔を見ることは、主人公(の顔)も他人から見られるということだ。
 主人公が顔を上げて他人の秘密を覗こうとすれば、"自分がどれだけブサイクだと思われているか、どれだけ嫌われているか"といった心情も視界に入れざるを得なくなってしまう。
 あまりにも叩かれたせいで、主人公は顔を上げて他人を見ることがトラウマになって、日々をうつむいて過ごしている。
 なので『モジカ』ではそんな主人公の視界を再現するかたちで、背景美術はPCモニタの下から上まで地面がちだし、主人公とやり取りをするキャラの画像も、足元だけになりがちだ。
 一般的な美少女ゲームの映像としては、画面中央あたりにアイレベルの設定された背景舞台絵のうえに、登場人物画像としてバストアップを表示したりすることがおおい。それからすると、だいぶ異様だ。

 異様なのはイベントの一枚絵も同様であることだ。
 美少女ゲームのイベントCGと言えば、かわいいヒロインの特段かわいらしい姿とか、白熱のバトルシーンとか、立ち絵とちがう"見せ場"の絵という印象がつよい。光源もドラマチックな位置取りと光量にしていたりとか。
 映画の世界における、クローズアップショットとかスローモーションとかそういうものに近いかもしれない。必ずしもそのように写す物語上の理屈はないのだけど、そうすると受け手の感情がつよく動かされるので、そのようなやり方をする。

 『みにくいモジカの子』は、イベント一枚絵は、ふつうの"立ち絵+背景絵"スタイルの延長線上にある。
 それ自体が劇的な何かを伝えるというのではなくて、作劇上必要だからしているという感じ。
 たとえばキャラが(普段とちがって主人公の正面に立たず)並びあって座ってるシーンが出てきたときに、普段の表示形式であらわそうとすれば無理が出るから、絵をあらたに用意している……そういう感じにイベントCGが登場する。

 下倉氏が、電撃文庫のえらい人三木氏(下倉氏はニトロプラス入社前の、ライトノベル投稿時代に三木氏が担当となってやり取りをしたらしい。)で語ったところによれば、

イベントCG(1枚絵)をどこに入れるかくらいまでは、シナリオライターが決めています。恐らくライトノベルでいえば「イラストレーターを誰にするか」、「挿絵をどこに入れるか」ということもシナリオライターに権限があるようなイメージです

 とのことで、ぼくが感心した要素は、下倉氏によるところもそれなりに大きいのだろうと思った。
(もちろん、制作チーム全体で共通理解があるのだろう。必ずしもかわいいかったりカッコよかったりするわけではない絵・演出に予算がおりてコストを割くことができるというのは、そういうことでしょう)

 

  ▼画面の真ん中で一行だけ表示するテキスト方式がすごい(新時代の「意識の流れ」)

(2023/02/22追記;語り忘れてたので全編追記)

 

 また、『モジカ』はテキスト表示形式がすさまじく気持ちいい

 ノベルゲームだというのに、「いま・ここ」でドラマが展開されていく臨場感があって、とくに主人公の心の声がつらなるモノローグは強い。「"意識の流れ"ってこういうことか!?」と驚きがあった。

 

 

***


 5人いるヒロインのうち、PVやOPで異彩をはなつ花椿ちゃんは、出入りが恐怖映画の幽霊のようで、とても面白かった。ロッカーの格子穴越しだったり、脳への負荷がおおきく視界がゆらぐ、集団のモジカ使用時に、ぼうっと現れるさまだったり。

 

1120

 仕事では色々と失敗をして疲れた。


1121

 仕事では色々と失敗をして疲れた。
 PSVRの『デラシネ』をやりたいのだが、モーションコントローラが二本必要とのことで、値段を見てみたら1万円超だった。VRゲームは出費がすごいと思う。

(2023/02/16追記;PSVR2でまた出費がふえるぞ! 3DBD対応はけっきょくどうなるんだ本当に……)

 DLゲームについて、本体だけでなく合体前の分割データが混在して容量を逼迫していたから整理した。
 整理の途中で『モジカの子』がセーブデータだけで1GBあるのに気づいた。一杯セーブする自分がいけないんだけど(kindleでもマーカーを引きまくってぐちゃぐちゃだ)、ちょっとでかすぎではないかと思う。

 kindleも紙の書籍もいっぱい買うのだが、(2023/02/16追記;日記はここで途切れている)


11/22

 漫画が無料なり有料なりで読める合法サイト『スキマ』をはじめて覗いてみた。
 『将太の寿司』が11/30までの期間限定で全巻無料配信中ということで、しばらく前から話題となっていたサイトだ。
 インターネットに繋がりさえすれば他の手間なく読めるのが素晴らしかった。会員登録も不要だし、アプリインストール不要、こんな手軽だと知っていればもっと早くに覗いておくべきだった。

 『スキマ』をのぞいてみたところ、それとは別の『ウロボロス』という作品に興味を惹かれた。
 こちらは全巻無料ではなく、十何巻からは「待てば無料」(24時間ごとに1話無料で読める)、最後数巻分が有料となっていた。
 Kindleで半額セール中のバンチコミックスの一作で、試しにちょっと読んでみて面白かったら有料の数巻分を買おうとしたところ、第一部完となる8巻までサラサラっと読んでしまった。

 『将太の寿司』ははたして読み終わるのか。

 

11/23

 登山、ライトアップ

 朝は本棚が届くのを眺め、昼からは高校からの友人S氏に誘われ地元の山を登った。クタクタになった。
 帰ってすぐに寝ればよかったのだが、グダグダと『将太の寿司』に手を出したり、S氏からのラインに返事をしたりしているうちに、23時だか24時だかになった。

 『将太の寿司

 は1~2巻収録分は『マガジンSpecial』で連載したもので、3巻からは『週刊少年マガジン』に移って設定も仕切り直したものが載っている。
 事情を知らなかったので、一瞬「?」となった。
 1~2巻の『マガジンSpecial』版は、一話完結的なエピソードの連なりで、将太のつとめる寿司屋にやってくるゲストを通じて、将太が人情と寿司技術を深めていく。
 ゲストは、第一回が同級生の女の子で、つぎが取引先別事業所(わさび農家)の女性。
 恋愛面については両者ともそれぞれの理由から将太以外に相手がいて、『男はつらいよ』の寅さん感がある。

 ほかに、将太と同年代同性の寿司職人が道場破りをする回や、締めくくりとなる寿司職人コンテスト(兄弟子の大政が、妻子のため独立すべく寿司職人コンテストに挑むのを、将太が助手として補佐する)の回などがあり、3巻以降『週刊少年マガジン』連載版の"料理バトル"の顔もちらついている。


11/24

 朝は昨日とどいた台所戸棚を、同じ職場の(元大工の)先輩に組み立ててもらおうということで待ち(職場まで行かなかったせいか、先輩はやってこなかった)、夕方からは宿直業務をこなした。


11/25

 宿直明けから頭が痛く、昼間も寝て過ごし、夕方になっても頭痛はやまず、バファリンを飲み、頭痛がやわらいできたので

 『将太の寿司

 を読み進めた。
 3巻以降『週刊少年マガジン』連載版では、将太は北海道にある個人経営の寿司屋"巴寿司"のせがれと改められ、同級生に一大チェーン"笹寿司"の一人息子が設定されている。
 "巴寿司"は、この北海道一帯に看板を林立させ漁港を牛耳る一大チェーン"笹寿司"のフランチャイズをこばんだことで、良い食材が仕入れられなくなり、衰退し、将太の母は困窮から病死し、店主である将太の父は酒浸りの生活を送るようになっていて、学校では同じクラスの"笹寿司"の一人息子に馬鹿にされている。
 そんな父が将太の献身によって再起し、北海道の寿司職人コンテストに挑むのが初期のエピソード。
 "笹寿司"の悪どい妨害工作に"巴寿司"は機転と人間同士の縁とで立ち向かうが、将太父は倒れ、将太が代わりに奮起する。
 ここで出てくる"笹寿司"の妨害と将太側の対策は、その後の寿司職人コンテストにも通じる展開で、そのなかには「"笹寿司"のほうがひどかった」と思うものもある。
 最初から出し惜しみなくアクセル全開。
「週刊誌で連載をつづけていくということは、こういうことなのだ」
 と思わされる。

 

  ▼達人助っ人と挑むチュートリアル

 あらすじだけ見れば、寿司を握り始めたばかりの素人が、北海道でも有数の寿司職人とトップ争いできてしまった……ということで、少年漫画らしい主人公ageが見られなくもない。
 『将太の寿司』がうまいのは、将太父&将太vs笹寿司親子の父子タッグ対決というかたちを打ち出したこと。

 将太はこの北海道コンテストをつうじて、寝る間も惜しんで寿司を握って、お茶の間で見かける寿司らしい寿司を握れるようになる。
 コンテストに出す寿司が魅力的になるように、機転を働かせもする。
 読者が感情移入するキャラクター(将太)の活躍がしっかり描かれていて、ステップアップし努力が結果を結ぶ姿は読んでいて気持ち良い。

 将太の活躍は、寿司が完成するまでにこなさねばならない膨大なプロセスのなかの一角でしかなくて、そのほか専門的な知識を必要とするプロセスは――食材の品定めや買い付け、料理道具の準備や炊飯など下ごしらえ。のちに将太が修行先の寿司屋で、あるいはひとりの寿司職人として料理コンテストに挑むさい、試行錯誤するさまざまなことは――、この北海道コンテストに限っては、寿司職人ン十年の達人・将太父が行なっている。

 どのプロセスも、おいしい寿司づくりには欠かせないものだろう。けれど、一度に説明されたりフォーカスを当てられたりしたら、紙幅がいくらあっても足りないし、読む側の頭もパンクしてしまう。
 だからといって物語の中でだれも触れないというのもそれはそれでおかしいし、劇中人物のだれもそうしたプロセスを行なったフシさえ見えないのも、読者のなかで寿司について知識のある人から「何も考えてないのではないか?」と思われてしまいそうだ。

 『将太の寿司』では、視点人物である将太の領分(=知識や、実作業能力)を絞り、複雑な仕事を視点人物でない第三者(将太父、師匠キャラ)へと仕事を分担させることで、うまいこと調整しているように思う。

 

  ▼チュートリアルの巧拙

 これは『将太の寿司』に限ったことでなく、ある種の定石なのだろうと思う。
 2010年代に入ってから始まった『週刊少年ジャンプ』誌の『ワールドトリガー』でも、劇中有数の強力なアイテムもそれを扱う技術もゆうした実力者(S級戦士)が、彼ほどではないにせよ優秀な実力者(A級戦士)多数を相手どって活躍する場面が(主人公の相棒ユウマ、主人公の憧れの人・迅とキャラをかえて複数)えがかれていく。
 
 主人公オサムは、彼らよりはるかに劣るアイテムや技術の持ち主(実戦に出られない、見習い扱いのC級戦士)で、コミックス18巻(近日19巻がでる予定)まで連載を重ねた現在は、B級戦士となった主人公らがA級をめざしてB級戦士同士で戦っている。

 『将太の寿司』と比べると、主人公の活躍というかそもそもの出番が少ない。
 もともと、オサムとユウマのW主人公的なところがある作品だからというのもあるけれど、これはこれでなかなかすごい匙加減だと思う。
 ユウマvsA級戦士は、オサムを気に入ったユウマがオサムのために戦うというかたちを取り、迅vsA級戦士はユウマのために迅が戦うというもので、将太とちがってオサムが機転をきかせたりなんだりするわけではない。
 読者のうち、オサムの活躍を期待するひとは、それなりにやきもきしたのではなかろうか。

 

  ▼『ライブダンジョン!』の場合

 『ライブダンジョン!』も近いものがある。最初に実力者たちの活躍⇒つぎに新人たちと成長……という流れだ。
 『小説家になろう!』で連載されている作品で、商業出版としては3巻までがカドカワBOOKSレーベルで発刊されている。
 お話としては、とあるRPGに習熟したゲームプレイヤーである主人公が、そのゲームそっくりの異世界に転移(だか転生だか)して、何十階と伸びるダンジョンの最深部を目指すという内容。
 転移して早々に主人公は、ダンジョン探検を仕切るコミュニティのはからいによって、かつてダンジョン新階踏破を競っていた元トップランナー3人とダンジョン探検パーティを組むこととなり、主人公のゲームでの知識や経験を活かして元トップランナー達は現役をしりぞいた原因である"伸び悩み"を解決し、現在のトップランナー達でも討伐のむずかしいモンスターを倒す。
 この時点でかなり面白くって、分量としても単行本2冊計500ページほどとかなりの量がある。

 その後主人公は、元トップランナー達と別れて、彼らよりも実力的にも経験的にも人格的にも頼りない新人たちと出会い、じぶんのパーティをつくってまたダンジョン攻略に挑む。
 ……のだが、ちょっと疲れてしまった。
 前パーティで単行本2巻かけて踏破した階層・倒したボスに、新パーティでまた挑むことになる。

 チュートリアル⇒本編で、舞台を移し、敵対者も変え、コンテスト自体を違うものにした『将太の寿司』は、既視感が少なくて、その点、読んでいて飽きがこないなあと思った。

 

 『ノベルゲームの枠組みを変えるノベルゲーム。』

 自転車創業作品で未プレイだったから購入し、プレイした。
 頭痛をかかえながら1~2時間ほどやったところで、耐えきれなくなってゲームを終了し、寝た。
 2時間いくかいかないかまでプレイした感想としては、フラグ管理が『星の欠片の物語、ひとかけら版』ばりに納得いかないところがあった。

 

 たとえば、自転車創業でおなじみの仕掛けが今作『ノベルゲームの枠組みを~』にもあるのだけど、それさえなぜそうなったのか納得がいかない。

 キャラがおらず背景美術しか表示されてない閑散とした場で、クリックせず(=メッセージを進めず)に待っていると、画面外からキャラ(屋台引き)がやってきてイベントが進む……これは、『LOST COLORS』など自転車創業ではおなじみの展開で、今作でそうした状況に出くわしたとき僕はまっさきに一度待ってみたものの、だれも出てこなかった。
「さすがにまったく同じような仕掛けは出さないか……」
 そう思ったぼくは他のマップに行って、画面のさまざまなところへ磁気反応アイテムを近づけてここも無反応あすこも無反応と徒労を重ね、また屋台の人がいるマップにもどってああでもこうでもないとしていたら、屋台をもとめて新キャラが出てきた。

 なにでフラグが立ったんだろう。"選択肢として提示された様々な場所で何も起こせないことを確認した"ことがフラグだったら、なんだかなあと思う。
 ……選択肢として出てくるけど、どんなことでもできるわけではない。そうした展開もまた、自転車創業の十八番ではある。この辺の展開も、何かしら意味を持ってくれると嬉しいが、他にもよくわからない点がある。

 

 お次のダンジョンで新キャラが出てくるくだりもそうだけど、自分の行動と新たなイベントとがどう繋がっているのか、よくわからない
 "わからないまま闇雲にいろいろ動いたことで、なんか知らないけど状況が進む"。そういうことが、作劇的に意味をもっていくなら、それはそれで面白いんだけど。

 磁気が活用されるダンジョン内のしかけも含めて、パズルが粗いような気がする。
 たとえば、最初のダンジョンでは、主人公を殺すべく暴力をはたらいたところ主人公が機転をはたらかせ地下に逃げたので、結果的にダンジョンに閉じ込めた人(その人は、何だか知らないけど強い磁気をはなっている)が、一度はダンジョンの出入り口のある広場から離れたものの、またふたたび現れたので、地面越しに磁気をもらい、その磁力を助けにして(人力ではびくともしない)鉄柱を動かす……という仕掛けがある。
 強い人が再び広場に現れた理由がない。
 右往左往しているうちに現れた新キャラとダンジョン深層の杭をいっしょに動かそうとするもそれでもダメで、プレイヤーとしても「人力では無理だ」となったとところで、フラッと強い人が何をするでもなく現れるので、「杭を動かすのに、この人(この人の特性)がなにか関係するのだな」となる。
 この展開だと、前述の強い人は、なにか意思をもって独立して動くキャラというよりも、謎解きパズルのために現場に現れたり去ったりする都合の良い舞台装置という風に感じられてしまう。

 

 そうでなくて、強い人が、主人公を殺すために再訪したというなら、物語の理屈の上でもわかるし、ゲームとしても面白くなる気がする。
 たとえばこんな展開はどうだろう?

 強い人がしらみつぶしに地下を攻撃するので、プレイヤーは磁気反応アイテムで場所を察知しつつ主人公を動かす。
 ……上のぼくの妄想展開だと、ある場面では生存のため(強い人の攻撃をよけるため)の手段だった磁気反応(アイテムの磁気吸収)が、ダンジョン深層の杭を動かすためのアイテムになる……という別種のかたちで活用されることになり、発想の転換も必要とされる。

 

***

 

 「セーブはオートじゃ」「ちがうぞ、メニューでセーブができる」みたいな会話がなされているのは読んだけど、メニューの出し方がわからないままゲームを終えたところ、オートセーブなんて機能はなく、はじめからになった。


11/26

 日中はボイラーが止まったり、そことつながるパイプのドレンやらポンプやらから水が垂れるから、業者に電話したり、来ない業者を待ったりした。
 帰り際、電球がついたりつかなかったりでごちゃごちゃやった。


 『将太の寿司

 なんだか疲れて読み進められなかった。無料配信期間中に『将太の寿司』は何とかいけるかもしれないが、他は厳しいかもしれない。


 DL販売中のPCゲームを眺めた。

 ぼくが中高生のころ、体験版だけやって本商品には手が出せなかった1万円前後のソフトが、十分の一とかで売られているので、すごいなと思う。


11/23

 祝日を登山に費やした。
 運動不足がたたって女坂でも足がガクガクだった。山を舐めて防寒があまく、全身がガクガクだった。
 道中シカを複数回見かけ、得した気分になった。
 2匹と1匹。
 後者はケーブルカーの線路近くで見かけ、車が来てもぜんぜん動じないことに驚いた。慣れているなあと思った。

 

12/02

 午前中。お絵描き教室の外スケッチ2(3)回目(1回目は雨でつぶれた)。
 前回も曇りがちだったが、今回は完全なドン曇りで、だいぶ光源がかわっていたように思う。
 ああでもないこうでもないと描いていって、現在3.5~4時間。
 色や影を考えない線画的なものなら、意外とそんなに
 左から書き進めればよいのだが、右にあるものばかり描いてしまって、手が汚れた。紙もこすれてしまったことだろう。
 左については書くのがダルそうなものがあれこれあって、どうしてよいかよくわからない。

 午後もがんばればよいのだが、疲れてしまった。
 このペースだと完成まで8時間は絶対かかる。3倍の12時間で終わればかなり早いほうで、そこから明暗などを調整するとしてなんだかんだ20時間くらいは最低必要なのではないか?

 Aさんに送ってもらって本厚木へ。五右衛門の冬メニューを食べ、成分献血をし、帰宅した。

 セール中だった志村貴子氏の未読作、売野機子氏の未読作、ヤマシタトモコ氏の未読作を購入した。
 べつにセールではないけれど中田永一氏の『ダンデライオン』も購入した。

 

 『ビューティフル・エブリデイ』1巻

 『娘の家出』ほど1話完結形式でないオムニバス。面白かった。
 再婚により突然同居するティーンエイジャーの連れ子、夜に部屋に誘われたり、朝おなじ電車で登校して女の子が潰れないようギュウ詰めの壁になったり(でもからだ同士が不可抗力的に触れ合ったり)……というおれのようなキモオタが大好きなドギマギのあれこれが、こちらの妄想を砕くような感じで描かれていて、たいへん身につまされる。
 『ビューティフル~』の義兄妹は、志村氏の過去作『放浪息子』でいえば主人公・二鳥くんが11巻にしてようやく同級生・土居くんへ放てた位の爆発を、第一話にして早々とおこなっている。
 とはいえ爆発の原因は『放浪息子』だと怒った側のどちらかというと特殊な趣味趣向についてだったところを、『ビューティフル~』の爆発は、怒られた側のもっと一般的な男の女性蔑視から来るものなので、だいぶ溝が深いと思った。
(……ただ、義兄の性癖を一般的と言っていいものかどうか、あやしいところがある。キモオタでもハンカチ借りパクしておかずにしないし、勃起した股間をどさくさに押し付けないよ!)

 義兄にイケメンだけど性欲ギトギトの濁った目でキモい接近をされたヒロイン的な女の子は、彼をはっきりと拒絶し怒りの声を上げるのだが、べつに性的に潔癖というわけでなく、一方で、高校生ながら同級生の男の子と恋愛関係になり、彼とお泊りデートすべく義妹と密約を交わして義兄も協力させ、偽装家族旅行を企てる。
 この辺がなおさら義兄のアプローチのまずさ具合を際立たせている。

 ドロドロしてもおかしくないんだけど、その辺についてヤッたヤらなかった・惚れた腫れたがさらっとしていて、何でもないこととして描かれていて、この辺ほんとすごいなあと思う。


 『売野機子のハート・ビート』

 面白かった。
 世界や人物に重なりがあるわけでないけれど、どの作品にも音楽・空・家あたりがモチーフとして登場するオムニバス。
 『ゆみのたましい』は、じぶんの心のやらかい場所がむずむずしました。賢しい少年が視点人物でナレーションも多めなお話ということで、さいきん読んだ大島弓子さんの『夏の夜の獏』でもあじわったムズムズである。
 ただしお話自体はまったくちがっていて、『ゆみのたましい』の少年は自分が子供であることを受け入れてるし、同年代の友達もおり、自分の無力さ・思い上がりを自覚させられるようなイタい出来事を親に話すことだってできる。

 売野先生に大島先生の味を見出すひとは少なからずいるようで、検索をかけると二人を並べて語る感想があれこれ引っかかる。
 でもこれはちょっとググった感じだと、作家本人がインタビューで影響元としてどう、と言ったわけではなさそうだ。(トップ2、3の記事しか見ていないから、きちんと漁ったらそういう話もあるかもしれない)

 もっと大島作品を読んでいけば、似ていると思える作品・演出がもっとでてくるかもしれない。
 けれど、並べてどうこう言えるほど似てないのではないか、という気もする。
 なぜ似ているというお話が多いのだろうか?

 こうした味を出すビッグネームが大島先生だということなのか?
 はたまた、こうした味を出せた作家が大島先生を除くと売野先生くらいしかいない、ということなのか?

 

 『ガラスの靴は割れてもはける』1巻

 セール品。値段分は楽しんだ。推し俳優が結婚したのを機に、婚活等をする女性4人だかのお話で、次巻で完結とのこと。

 

 『TIEMPO』を最新話まで

 読み終わる。
 主人公が俺様な先輩やオレ理論を追求したい研究者肌な先輩から、理不尽だったりそれなりに理由があったりするうえで叩かれる展開が続いていて、読んでいてなかなかつらい。
 ただ、そこでめそめそウジウジせずにどんどん行動していくし、その辺の進み具合について第三者の茶化し視点が入ったりして、暗さや閉塞感はない。これはうまいなあと思った。


 VtuberポケモンLet'sGO』エキシビショントーナメント

 を録画で飛ばし飛ばし観た。
 撮れ高アリアリで、門外漢にも面白かった。
 大会直前まで厳選に厳選を重ねたプレイヤーが、命中率30%の一撃必殺技を3回連続で決められて3タテ完敗してしまう阿鼻叫喚があったり。
 他ゲー含め何度もコラボをこなし気心の知れたvtuber同士が、モンスターを入れ替え入れ替え刻んでいくバッチバチに熱い"サイクル戦"があったり、なかなか面白かった。
 対戦者はそれぞれ自分のチャンネルでバトルの操作や実況をしており、司会進行のチャンネルでは、対戦者ふたりの操作画面と実況音声、司会進行による実況解説がながれる。
 とりあえず司会進行さんによる動画を見たが、コンテスト視聴者は、司会進行のvtuberの実況解説にくわえて、対戦者が自分がどう考えているかや相手についてどんな推理をしているかを彼ら自身の実況によって観戦できる。
 ちょっとしたバトル漫画っぽい語り口になる。
 これは相手に聞かれる心配がある対面でのバトル(中継)ではできない、面白い企画だなあと思った。

 前述のとおり、それに加えて対戦に出ていない他参加者の観戦実況も観られるので、なおさらバトル漫画っぽい。

 ある実況者が相手の行動を完璧に読んだ場面で「おお~っ」となることもあれば。
 一方が読み切って浮かれているけれど、実はそれさえ相手の策で相手ニヤニヤだったりとして、笑いと戦慄が走る場面があったり、いろいろとすごかった。

 

12/04

 ……つもりだったのだが、グダグダやって何もしなかった。
 『カメラを止めるな!フラゲ日だったらしいのだが、近場のコンビニとビデオ兼本屋では、何もなかった。
 車で行きたかったがカギが見つからず、バスで移動した。

 

 『ワールドトリガー』最新話となる、『ジャンプS.Q.』移籍・センターカラー+二話の一挙掲載エピソード

 を読む。

 試合前のエピソードで読者にヒュースの初バトル・初見殺しの策・玉狛第二との初連携を印象づけたうえで、バトルが始まってみると実際えがかれるのは――もちろん、玉狛第二の活躍もすごいんだけど、その活躍にある程度対応してみせる――、対戦者・影浦というキャラの人の感情が読める特殊能力がいかにすごいかだったり、特殊能力持ちでない影浦隊隊員・北添の対応力だったりした。
 影浦隊と玉狛第二とは2回目のバトルで、影浦の特殊能力は1回目で開示済みだしその際バチバチの戦闘もしているし(今回以上の乱戦!)、2回のバトルの間にあった敵星との防衛戦でも影浦の能力は活躍しているものの、ここまでフォーカスをあてられてなかった。
 第一戦は玉狛第二は戦闘結果も戦闘内容もボロボロの惨敗だったから、今回のバトルで影浦の特殊能力が目立たざるをえないことが、ヒュース入隊後の玉狛第二がいかに強いかを伝えている。

 勝負を扱った作品だからもちろん勝敗こそついてしまうけど、でも『ワールドトリガー』の敗者については、必ずしも「弱者だ」という印象にはならない。敗者につちえ格が下がるどころか上がりさえするような、強者同士の戦いだったと思える内容であることが多々あって、非常にうまいなあと思う。

 

 セールで買った

 『狩猟生活』

 を読み始める。
 オリジナルの紙の本は半年に一冊ずつ計4号まで出ている。構成としては、本の半分程度がカラーで猟師同行ルポ記事、もう半分がモノクロで雑学コラム(図解的なコーナーもあれば、猟師以外の所への)といった具合。

 

 同行ルポは、猟師の目線や思考を可能な限り写真や文章として出力してくれていて、かなり勉強になる。ただもちろん、同行取材というイベントの性質上、時間的にも素材的にも制限はある。
 この辺の細部の書き込みなどは、フィクションに分がありそうだ。
 たとえば銃星やスコープを覗いた猟師の主観ショットなんかは、もちろん赤の他人である同行記者には映しようがないし、まるきりすべて文章化するのも難しいだろう。
 そうしたものでなくても、現物で用いる難しさはある。
 『狩猟生活』1号では……
 はじめ実像を見たシカ2頭を追いかけていた猟師が、道中で別のシカの足跡とフンに出くわし、それが子連れの群だった=つまり移動速度は遅い=ので、獲物をそちらへ変更した……
 ……という旨の狩猟同行ルポがある。その記事に載せられた写真は、足跡があることこそわかるけど、はたしてそれが大小親子のものかまでは、よくわからない。フィクションであれば「そのものズバリ」な光景を提示できるだろう。

 ただもちろん、ここでの思考回路をフィクションへ参考にしようとすると、もっと生態系自体をきちんと考えねばならないのだろう。
{たとえば上述した獲物変更エピソードをファンタジー世界に持って行ったって、シカという文字列をただドラゴンに代えるだけではダメだろう。

(ドラゴンは子育てする社会動物なのか? ドラゴンに似た恐竜や鳥、爬虫類などから、それらしいものをエミュレートする必要がある)}

 

12/5

 宿直日。


12/6

 宿直明け日。特になにかしたということはない。
 NHK出版のセール品について、先日あれこれ買ったが、そこからさらに、円城塔先生が読書メーターなどでコメントを残していたものを買い、物欲が刺激されて他にもいろいろ買ってしまった。
 ケヴィン・ケリー著『〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則』は、「このへんはSFというより現実」とコメントしたものだ。
 この言葉にデジャヴを覚える円城ファンもいるだろう。

2023/10/02追記;『これはペンです』について、芥川賞選考者である村上龍さんがどのあたりについてリアリティを失していると評価をくだされたか、作者の円城氏が推測したさいに、

「リアリティがないと選者から思われた部分は、研究者に査読をたのんでも(じっさい円城氏は研究者に査読をたのんだ)スルーされるくらい、単なる現実である」

 というような話をされた。

togetter.com

 

12/08

 記憶どおり高校時代の友人(知人?)H氏の結婚祝い飲み会が18時頃から行われた。
 会は大盛況で、終電となる3次会まで続き、電車の関係で二手に別れてからも、それぞれお泊りがあったり、4次会があったりしたようだ。

 7時ごろに幹事のS氏から連絡があり、飲み会まえに国立新美術館で開催中の「東京大学生産技術研究所70周年記念企画展 もしかする未来」展に行こうと誘われた。
 ……のだが、見てすぐ二度寝してしまい、次に起きた時には「出よう」と言っていた時間だった。
 けっきょく14時とかにひとりで見に行った。

 

 『もしかする未来』展

 は、門外漢にとってみても面白かったけど、たぶん識者ならさらに楽しめる展覧会だったのではないだろうか。
 各ゼミ生(?)が各スペースにいて、来場者からの質問へ盛んに答えていた。
 研究所の一角を再現したスペースがあり、壁一面にメモが張られ、卓上のノートパソコンではゼミ生が3Dモデリングの真っ最中。
 机にはパソコンのほか、本や大学銘入りのノート、落書きなどなどが乱雑に置かれている。
 そのなかにはゼミ生の手による、神話ベースだったり(パヴァリアの怪物)、空想ベースだったりする(サイボーグ化されたラクダ。腹についたタイヤに、マスキングテープの輪っかがぴったり収まる。)、非現実の生物を題材にした3Dプリントの形成物が、何体も転がっている。
 なんてことないように置かれているけど、なかなかの代物なのではないかと思う。
「どのくらいで作ったんですか?」
 と聞いてみると、2時間~4時間くらいでモデリングできてしまうらしい。(プリンタで成形が4~6時間)


 会は3次会まで及んだ

 1次会が焼き鳥屋、2次会が焼き肉屋(?)、3次会がタイ料理屋だった。
 そもそものくくりは2年生時のクラスメイトで、そこにH氏と1年時にクラスメイトのぼくが挟まっているという構成だ。
 ぼく自身は主賓のH氏とは5年ぶりくらい、S氏(母堂がぼくと同じ職場で働いている)とK氏は高校以来という久々のメンツだったが、13年クラスメイトで先日も一緒に登山へ行ったばかりのS氏はもちろん、A氏T氏は3年時クラスメイトで年数度会う仲だ。
 1年時クラスメイトとの集まりはまた別に用意されているようなのだが、そちらでなくこちらに入れてもらったのはそうしたはからいがあってのことだった。
 はじめこそ人見知りが発生したけど、ぎこちなさはすぐにとれた。

 H氏の異様に長い苗字イジリがあり、A氏S氏のバチバチのやり取りがあり(2年の時はたびたび見られた光景だったそうな)、K氏の常時笑顔があり、非常になごんだ。
 高校時代そのままという感じなのは3年クラスメイトで集まるときもそうなんだけど、こちらの駄サイクルは、3年クラスメイトで集まるときの馴れ合い過ぎて刺々しいどうしようもなさから、一歩二歩ひいた節度ある状況で、とてもよかった。

 

■1209『ニンテンドースイッチ
 はじめにTV画面じゃなくて、コントローラのモニタ(タッチパネル式)で起動させるところの意識誘導がすごいと思った。
 ハードを新しくするというのは、演算能力の上昇することではない。
 ルールを一新することだ……というようなところが任天堂ハードにはあって、そこが面白く思う。
(「いや、最初の立ち位置はいっしょでよいじゃん。大事なのはそんな見せかけの部分でなくて、実際ソフトでどれだけのことができるかでは?」という向きの気持ちもわかるけど……)


12/09

 『スマブラSPECIAL』

 お、おれこんなに動かせなかったっけ?
 というのが正直な感想だ。
 思い出の中のおれは、もうすこしいろいろできた気がするのだが、大人になったぼくは目が肥えて、読み合いなんてあったモノじゃない脳筋スマッシュ振り回しマンである自分の実像がよく見えるようになったのだろう。
 スマッシュ攻撃しなければ、射程のひろいB技でチクチク加算。こちらは昔からそんな感じにやっていた自覚がある。
 こんなスタイルとも言えないスタイルは、序盤のコンピュータにさえ通用しないのであった。

 アドベンチャーモードも、初戦から驚くほど被弾して、100パーセント以上を溜められてしまった。
 アドベンチャーモードで3キャラくらいを復活させるうちに何度か敗北してしまう。
 ガチャモードに移ってドカドカ出てきた(アドモードから通算して)計5体目くらいの乱入者に対しては、素朴に負けてしまった。

 

  ▼「アドベンチャーモード」

 PVの激アツぶりに反して、あっさりしている。PVの時点ではあれだけ昂った冒頭のムービーパートさえ画面下にト書きの文章がついたりして、淡々としている。
 すごろく的なマップに点々と立つキャラと延々バトルするだけの内容で、「これクリアするのは結構苦行じゃないかな?」と思う。
 他社製品含めたさまざまなキャラと対決できるのだが、一枚絵こそあるものの、ほとんどはスマブラプレイアブルキャラとステージをそれらしく選んだだけで、そのキャラ自身と戦えるわけではないし、バトル前後でセリフがあるわけでもない。
 たとえば『ロックマン』シリーズのアイスマンが敵として戦う場合は、アイスマンっぽいカラーリングのアイスクライマー(『アイスクライマー』の主人公。任天堂製)というキャラを対戦相手として、戦場として氷ステージ、戦闘ルールをHP方式(攻撃が入ると数値がダウンしゼロになると勝ち負けが決まる。一般的な『スマブラ』のルールは、パーセンテージ方式で、攻撃が入ると数値がゼロから加算されていき、攻撃が当たったときにキャラが吹っ飛びやすくなる)がセッティングされる。
 プレイヤーがキャラを知っていれば、ニヤリとできるようなセッティングがなされているようで、じっさい知ってるキャラをモチーフにしたバトルがたまに出てくるとニヤリとするのだが、わからない作品(キャラ)も多いぼくからすると、特殊ルールで延々戦うだけのモードでしかない。
 小学校の漢字ドリルや計算問題の宿題を延々やってる感覚だ。たまにクラスメイトの名前に使われてる漢字が出てくると、ニヤリとするあたりも、その印象を強める。
 この辺については、『実況パワフルプロ野球』の『シナリオ』モードのような形がよかったのではないかと思った。
 このモードは、過去に現実世界で起こった奇跡の名勝負を、プレイヤーが自分の手で再現するという特殊ルールの対戦で、「最終回ツーアウトの場面でホームランを打て!」とか、「ノーアウト満塁の場面で、守り手として0点に抑えろ!」とか、難題をこなしていく。
 『パワプロ』の『シナリオ』モードのよいところは、プレイヤーが試合に入る前に、各シナリオについて「そうした特殊ルールがどうして設定されたのか? そしてそれをクリアした側はどうなったのか?」前後の歴史的経緯を説明してくれるところだ。
 こういった経緯説明があるために、ぼくのような『パワプロ』は漫画的なキャラがさまざま出て漫画のような特殊変化球を覚えたり恋愛関係になったりする野球版育成SLG『サクセス』モードは好きだけど、現実の野球には興味がない人でも、『シナリオ』モードを楽しむことができる。

「いや、『ニンテンドー64』の『スマブラからして一人プレイモードはそんなもんじゃん」
「格ゲーの一人プレイモードってそういうもんじゃん」
 という声もあるだろうけど、『スマブラ64』はストーリーがないかわりにプレイ時間も短かった。『ストリートファイター』のストーリーモードだってそう長くないし、しかもあちらは導入やエンディングが各キャラにそれぞれ別のものが付されている。
 『スマブラSpecial』はクリアまでに20時間前後かかる。それだけ延々戦い続けるのはつかれてしまうじゃないだろうか……。

 昨今のブームを見てみよう。
 世界中で大ヒットしている『アベンジャーズ』にせよ日本でヒットしている『FGO』や古豪『スーパーロボット大戦』にせよ、様々な時空間でそれぞれ別個の活躍をした偉人や有名創作キャラが一堂に会し、その思想や個性をぶつけあったり、原典だけでは思いもよらない角度から魅力を照射されたりするのは、クロスオーバー作品の醍醐味だ。

 他社もまじえた70体以上のキャラが登場して、やることがバトルするだけ……というのは、ちょっとさびしい。
(70体以上のキャラがからむシナリオを考えるのは大変だし、他タイトルのキャラ同士がちょっと会話するだけでも、各社のチェックが入ったりして、手間のわりにリターンがあまりにも少ないのかもしれないけど……)

 

12/11

 ボイラーの点検・修理にきてもらった。前回と同じ修理内容で、「大丈夫かなあ?」となる。

 『スマブラSpecial

 スピリット戦は、こういうものだと思ったらそんな気にならなくなってきて、キャラに合わせた特殊ルールに「ふふっ」となることも増えたけど、知らないキャラについてはやっぱり作業感が出てしまう。
 『スピリット名鑑』というのがあって、覗き方がわからなくて中身は見てないけど、各バトルの設定がなぜそのように組まれたのかが窺えるようなキャラ説明もあるのかもしれない。でもそうした解説は、バトル前に欲しい気持ちも変わらない。
 

 『終極エンゲージ』(完結まで)

 を読む。
 きれいにまとまっているけれど、もっと続いてほしかった感は少しある。
 「打ち切りでは?」という声も聞くが、よくわからない。
 ほかのジャンプ+連載作を見てみても、『彼方のアストラ』にしても5巻だし『ファイアパンチ』にしても8巻だ、そのくらいの中編を扱う媒体という感じもする。
 作品自体としても、序盤で出た劇中独自用語が、後半で重要な位置づけのものだったと分ったりして、頭から尻まできっちり考えたうえで構成していたようにも思う。しっかり締めくくられた感はあって、物足りなさはない。
 ただ、4巻から駆け足気味なのはたしかで、主人公の幼馴染で母の親戚である戦闘民族の子、主人公の父と淡い恋をした星の生まれの子は、個別のエピソードはなく、もっと巻数が多ければそれぞれ主人公コンビと関係を深めたり、何か葛藤と成長したりするさまが描かれたのではないか? とも思う。
 王とは何か?
 よい社会とは何か?
 という点においては、現状でも結論が出てはいるけれど、もっと巻数が多ければ、さまざまな星を回ってさまざまな社会を見て、もっとじっくりと結論を出したかもしれない。

(初代女王の星のエピソードで、1巻の途中から3巻までかけたみたいに、そのくらいのペースで)

 初代女王と側近をめぐるエピソードは、かなり面白かった。
 ひとの物わかりの悪さが描かれていて、それでいて露悪的でない。

 星の長と側近とが意見対立し、初代女王が側近による呪いで獣になり、呪いをかけた者がだれか判明し、呪いをかけた側近の亡き夫のかけた解呪も古き良き時代の彼らならではの記憶にもとづく内容とわかり、初代女王は無事解呪され、呪いをかけた者も「私たちも女王も歩み寄りが必要だった」と反省する。
 ……そんな風に、「どうとく」の授業で扱われそうな「よい話」としていい感じに収まりそうなところで、呪いが解け人間に戻った初代女王が戻ったがゆえにそれまでの意に添わぬ獣生活で舐めた苦汁がどれだけ苦汁だったか理解できるようになり、獣時代より増して怒り狂ってしまう展開となる。

 

12/12-13

 12日から13日に日付が変わったころ、

 『空挺ドラゴンズ』1巻

 を読んだ。
 面白かった。
 1話の途中まで読んで無料配信だか半額セールだかされていた1巻を手に入れ、評判もいいし続刊も購入して積んでいた作品。

 たぶん百万回言われてることだと思うけど、設定もビジュアルも宮崎駿漫画を見やすく現代的にリファインした感じで、『ラピュタ』の"龍の巣"をはっきりオマージュした回もある。
 19世紀末~20世紀初頭くらいの装いの、しかし謎動力の飛空船が空を何機も飛んでいる世界で、たぶんその動力の基だろう龍を捕らえ解体して売ったり食べたりして生活する(捕鯨ならぬ)捕龍船乗組員の物語。

 宮崎さんのモノクロ漫画(『ナウシカ』)は、本業のアニメ仕事の合間にゴリゴリ仕上げたという印象で、トーンを使わずベタも少なく、者と物とが同じ描線でえがかれて、正直ちょっと見づらいなァなんて思う場面がある。
(同じ早描き調でも、絵コンテは、黒鉛筆に加え影つけなどで色鉛筆を用いられているし、後年の作品などは絵の具で彩られてもいるから、見づらさはない)
 『空挺ドラゴン』は、宮崎駿的なタッチを入れつつもしっかり清書された漫画という感じで、見やすい。

 

  ▼お話について

 年齢も性別も担当部署もさまざまな人が、同じ船で暮らす空上生活を描いていて、龍を解体したりなんだりするようすも具体的で面白かった。

 

  ▼ワナビ大好物セット

 「鯨を龍に、海を空に、船を飛行船に……」といった発想について、ぼくも、そのものズバリでないにせよ、ドラゴンが実在する世界を舞台にしたファンタジーを漠然と考えていくうえで、鯨の本を漁っていたりしていた。
 また、「やりたいよね」「ねー」と話すものの俺が何もしないから一向に進まない旧友A氏との同人活動として考えていたのが、「飛行船乗りの話とかも考えてみたいよね」「ヘリとか輸送機とか」という話だった。


 「全国のワナビが"おれだって考えてた!"と悔しがり、"そりゃまあ、ここまでしっかり形にできないけどさ……"という反省を棚上げしたことだろうなあ」と思った。
 『good! アフタヌーン 2016年 07月号』(6月発売)ということで、ロン・ハワード監督『白鯨との闘い』公開が同年1月(米国本国では15年12月)で、『空挺ドラゴンズ』のほうが後発となるけれど、連載前の準備などを考えるとそれよりはるか以前から動いていただろう。とにかく立派だ。

 

12/13

 『空挺ドラゴンズ』4巻まで

 人物ドラマに描写が注がれ、龍についてバックグラウンドが省かれがち2巻までは、怪獣プロレス的な印象がつよかった。
 大きなバトルとなる2頭目の龍(2巻掲載)が、原理的にはよくわからない熱線を放つ器官をもっていて、それが初見殺し的であるとか。
(虫眼鏡で光を集める要領っぽいけど、それにしたって必殺技だ)
 劇中の科学技術史がわからないなかで登場する、捕龍船の武器・電気矢なども同様の印象をいだかせた。(著者インタビューでも、TVゲーム特に『モンスター・ハンター』との関連性を聞かれた著者が答えている通り、ボムランスも捕鯨船で実際につかわれている用語・道具だが、こうしたなかにあるとたしかに「『モンスター・ハンター』かな?」と思わなくもない)

 3巻から龍の生態系や人間者明人の関係が補足されていって、ぼくにとって好ましい具合になってきた。
 3巻は中型の群体(+それを狙う大型。火山噴火の上昇気流によって高度を得ようとたまに現れるのだろうと劇中人物により推測される)、4巻は発情期の大型(人の航路と被り、同種が殺されて寄る辺ない)と、いろんな龍がでてきてくれる。


 龍と人間との関係の広がりについて言えば、3巻については、龍の営みが山奥で行われるから直近の住人でも気づかず、古くからの伝説としてまことしやかにささやかれるだけなのだという。
 4巻は、前述のとおり人が活動圏を広げ龍の生態圏へ知らずに侵入したたのでそうなったのだが(ここで一帯を仕切る商人筋の貴族から、ウンタラ許可証という懸賞金告知が出される)、1巻の手乗り龍とそれを求める貴族の延長線上となる(写真が飾られ、劇中人物も「これって…」という旨の反応をする。)龍愛護家の貴族が出てくる。

 捕鯨を描いた作品に描かれる描写やジャーゴンが小出しにされていって、3巻くらいになってくると、総体として結構に充実してきたように思う。
 1巻の『ラピュタ』"龍の巣"オマージュ回にさらりと描かれた、船が帯電発光するようす。これはたぶん、"セントエルモの火"だ。メルヴィル著『白鯨』において、エイハブ船長が狂気とカリスマを発揮する嵐のシーンで、その模様が描かれた。
 2巻の脳油汲みは、捕鯨捕鯨を描いた作品ではおなじみの描写で、『空挺ドラゴンズ』の描写は『白鯨』の語り手で新人捕鯨船員だったイシュメイルが体験したような甘美なものでなく、グロいしクサい現実の脳油汲み的な立ち位置で描かれている。
 3巻では、刺した銛を引っ張る際に、摩擦熱で綱や手が焼けたり切れたりするので、それを防ぐために水をかけたり。(これまた捕鯨モノで見られるアクションだ)
 肉に施される独特の切り方について(等間隔に刃を入れていくのだが、バラバラにせず端を残して全部がつながるようにして切る)、"本にする"と言い表したりする。これも捕鯨まわりの言い回しである。

 

 『聖血の海獣』1巻

 買ったけど読んでなかったので。
 こちらでも脳油汲みが描かれていた。
 会話劇がけっこうあり、船上仕事はたいして多くない。1巻の後半は砂漠の街に行くから、船上生活というわけでもない。
 謎が謎を呼ぶ展開で、1巻だけではなんだかよくわからない。

 

12/17

 clementiaさんが面白がってた

 『科学的に存在しうるクリーチャー娘の観察日誌』

 をセールだったのでポチる。
 こんなに性にほんぽうな話だったとは……。
 面食らって1話以降を読めていない。

 『アオアシ』の未読分

 を読み終わる。"強者からコツ伝授"が今回、いろんな人間関係がからまった結果として生まれていて、なかなかギスギスしていた。

 

12/19

 早朝から出かけてスケッチや映画館に行くつもりが、寝坊したことで、目当ての映画の上映時間に間に合わなくなり(字幕版は朝レイトの二回しかない映画。)"家から出たくないスイッチ"が入ってしまった。
 この予定どおり動けないと何もしたくなくなる心性、年々ひどくなっている。どうにかしないといけない。

 

12/22

 新居に荷物を運び込むための荷造りをした。雨が降ってきたので、下の階に運ぶだけ。

 ニンテンドーswitch『ARMS』

 『ARMS』は、通好みのSFボクシングで、難易度"ふつう"でもCPUがとても強い。
 こちらが安易に攻撃を振れば的確にかわしてカウンターされるし、ジャンプしようものなら着地際の隙をたたいてくる。
 本編の全10回戦のトーナメントモードを難易度ふつうでプレイして、5回戦に進むまでにリトライ数は二桁になった。

 キャラはいろいろといるけれどストーリーモードはないようで、そこもストイックだ。
 前述のトーナメントモードなら、興行格闘技の体裁で、試合前後にいわゆるリングアナウンサーによる簡素きわまるキャラ特性(「このキャラは多段ジャンプできる」とか、「あのキャラは重量級パンチャーだ」とか)紹介があるだけ。
 試合前後の意気込みとか勝利者インタビューとかもない。
 各キャラがなぜこの競技に参加してるのかとか、トーナメント優勝を目指すモチベは何かとかはほとんど語られないし、どういう性格のキャラなのかさえよくわからない。

 好きなひとはたまらないんだろうけど、関心がどこまでつづくか心配である。

 

12/23

 新居に荷物を運び込んだ。まだまだいっぱいあるのだが、段ボールがなくなってしまったので。
 一輪車で3(? 4往復?)してダンボールを運び終える。
 昼、カレーの残りを食べ、『ARMS』を少しプレイして、難易度ふつうのトーナメントも8回戦だかまで進め、眠くなったので寝て、16時30分ごろ起きてわちゃわちゃ準備をし、宿直へ。

 

12/24

 宿直が明け、家に帰って新居のインターネット契約をし(連絡が遅くなったので、敷設は最速でも年明け1月後半になるそうな)、ヨークマートへ行き段ボールを手に入れ、ノジマで『マリオカート8』とメモリカードを買い、マックでてりやきマックバーガー、ベーコンレタスバーガー、ナゲット15個(バーベキューソース、限定ステーキソース、限定えびマヨソース)を買った。
 昼ご飯後、荷物を新居に持ち運び、二輪車に甥っ子を載せて遊んでヒヤリハット。危うく頭を打ったり歯を折ったりしかねない。
 ロフトを代替片づけた(まだ引っ越し用巨大ダンボールが数点あるけど……)ので、きょうはおしまいとゲーム。

 甥っ子がだいぶ人間になってきたなあ

 と思った。義姉家の叔父(義理姉3姉弟の末っ子長男)とスイッチをプレイ済みなので、色々と教えてくれる。
 謎の見栄も張る(新発売の『スマブラ』を見て「ぼくそのキャラ使ったことある」とか言う)

 

12/29

 床屋に行った。(1230だったかも?)
 ネットマネーを充填しセール品の支払いをしようとしたら、タッチの差で半分くらいが支払期限を過ぎてキャンセルされてしまった。
 興味あるものから順にポチって、後半に行くにつれ「あれも買ったんだからこれも……」という"ついで"だったから、散財した印象をより強く持った。
 買えたなかだと

 『地球のハローワーク

 気になっていたやつだけど、仕事につき写真一枚、仕事内容について文字情報はほぼ無いというもので、食い足りなかった。

 

12/31

 側溝掃除をした。紅白歌合戦を途中まで見て(甥っ子が見たいとがんばって起きていたキング&プリンスくらいまで)、バーチャル年越し生を流しながら『ブレス・オブ・ザ・ワイルド』をやった。

 

■2019■

 

01/01

 12時ごろ起きた。お雑煮とおせちを食べ、『ブレス・オブ・ザ・ワイルド』。17時からは宿直業務へ。

 連休中、あまりにも『ブレス・オブ・ザ・ワイルド』をやったせいで、どの日にどれをやったのか、記憶があいまいだ。

 

01/09

 (悪夢)仕事場が火事になる夢

 を見る。年末年始で火事のニュースを見たことと、3月にホニャホニャホニャが影響しているんだろうか。後者は9日日中の話だった気もしていて、それなら無関係だけど。
 夢にでた現場は仕事場なのだが、間取りはそれなりに違っている。機械のエラー表示がよくわからないし、寒い外へ避難誘導するか否かを悩んで指示をきちんと出せないうちに火の手が回り、どうしようもない惨状になってしまうという夢だった。

 

 

01/10

 (悪夢)友人に当日だか前日ドタキャンの連絡をうけて、かれに当たり散らす夢

 を見た。

 前日にとある美術館のインスタレーション(恋人と別れるまえの日々から、別れたあとの日々を再現した展示)をやっていると聞き、さいきん恋人と別れたという友人の話と繋がったからだろうか。
 夢にでた友人からは、現実におこったこととして以前、連絡なしに予定をブッチされたことがあるけれど、ぼくが彼にした不義理のほうがよっぽどひどい。
 ぼく自身は自分の悪行を棚上げして、ひとのそんなところを気に入ってなかったのか? と自己嫌悪に陥った。

 

01/12

 引っ越しがすすんだ

 パソコンを運び、TVとTV台、ベッドをバラして運び組み立て、机をはこぶ段で戸口から出られないとわかってそちらは甥に使ってもらうこととなり、兄のオシャレなL字型デスクをもらった。かなりしっかりした作りで、ネジがたくさんあった。
 物をどかすということは、空間がひろくなる爽快なできごとだと認識していたけど、物臭の部屋にとってみれば、これまで物を動かさなかったことで溜まりに溜まった異様な汚れが日の目をみるできごとなのだということがわかった。
 ベッドのマットの下の木板の下に、なぜかべとついた油汚れじみた埃が溜まっていて、濡れ雑巾が必要とされた。

 

01/13

 引っ越しがすすんだ

 インターネットの回線工事がおこなわれた。開始は8時30分か9時のあいだということだったが、「忘れ物をした」ということで9時30分ごろ到着した。
 工事中、甥っ子がきて『マリオカート』を1時間やった。その間ぼくは寝た。

 食べたあと寝て、甥っ子たちに邪魔されるので新居に行って寝た。
 夕方は、ロイヤルホーム(新居用のゴミ箱と隙間埋めテープ購入のため)を経由し、甥っ子たちとすしを食べに行った。ホームセンターで15分待ち、寿司屋でも8組ほど並んでいて、甥っ子たちは退屈そうだった。

 

01/14

 引っ越しがすすんだ。
 昼は、祖母が昨日つくったお好み焼きを食べた。

 

~0114

 『暴食妃の剣』

 おもしろかった。連載中。
 無能な主人公がある日異能を手に入れて……という話だけど、異能は、主人公自身(にあたえられた特殊な職業や能力といった無人格)の力ではなくて、別人のすごい異能の魂から借りるかたちとなっている。
 すごい異能の魂は、武器として具現化されるものの、無能な主人公が手に入れられる武器用素材が限られるため、現世で発揮できる能力にも制限がかけられていて、主人公は徐々にステップアップしていくサクセスストーリーとなる。
 主人公の手に入れたレアな魔剣をめぐって、魔道具強盗やらがさっそく現れたり、魔道具集めが趣味の巨大組織が出てきたりして、トピックにまとまりがあって、足踏みがない。
(無能時代の主人公をコキつかっていた"下の上"冒険者との因縁だって、魔道具のための素材集め関係だ)

 

 『無双航路』書籍版1巻

 が100円だったのでそちらを読んだ。おもしろかった。
 1巻(Web版における1章)時点でかなりの分量があり、テキパキと結構いろいろ動いていた(。主人公の出自の謎も1巻内で解明される)。
 描写の目配りが好みだし(壁がめくれてパイプだか骨材だかが見えた宇宙船内を、皮膚がめくれて内部組織が見える肉体にたとえたり)、作戦の細部も面白い{。たとえば初戦第二戦の機転である"死んだフリ"作戦では、暖気しなければ生身の船員が死んでしまうけれど艦内の暖房を入れたなら敵の熱感知レーダーに引っかかってしまう……という状況で、砲弾に使われる放射性物質が被弾したことで傷んで崩壊熱を発しだしたから暖房がわりにしたりする(。大ヒット作ウィアー『火星の人』でも放射性物質を暖房代わりにする展開があり、「もしかしたら着想はここかな?」と思うけど、『無双航路』独自の創意がある)}。
 Amazonカスタマーレビューやなろう小説読者のSNSでは、パクり{既存作との設定の類似(Amazonレビュー)だとか、戦術など展開の類似(スコップ速報)だとか}を指摘する声があり、その評で色眼鏡をかけてしまったけど、
「じっさい比べてみたら大分ちがうのではないか?」
 という気がする。
 展開が類似しているという声で、具体的にどうという話はまだ聞いたことがないし。
 設定の類似についても、Amaレビューで挙げられてる点は、大まかな初期設定という感じだし(。しかもこの指摘自体よくわからない所がある。「主人公が長期スリープで目覚めたら」て、べつにかれ長期スリープしてなくない?)。
 しかし、それだけでtwitterで「私としては耐え難いレベルで彷徨える艦隊と同じ内容だったのでもう読むことは無いなって。レジェンドノベルスの倫理観はどうなっているのかちょっと気になりますね。」とまで言われるか? という疑問もあり、実際読んでみないことにはわからない。

 作者がtwitterをやっていて、そちらを見てみたら元々別名で商業デビューをはたしていたそうだ。(石川あまね氏。既刊2冊?)
 地力がある気がする。
 続きも読みたい。

 

01/15

 新居からはじめて出勤する日となる。

 昨晩から今朝にかけての、新居でのドタバタ

 夜更かししてただでさえ遅い入浴だったのに、ガスの電源(?)を入れてないせいで湯が沸かず風呂に入れないだとか、垢スリが見つからないだとか。
 所在を確かめたはずの歯ブラシはどこだとかヒゲ剃リはどこだとか。
 買った電気ケトルの仕様をいまいち分かってなくて、夜スイッチを入れ、
「これで朝すぐお茶が飲めるぞ」
 とかしこいムーブをしたつもりになっていたら、ケトルは沸騰が終わったら暖気が切れる仕様で、朝のカップにインスタント茶粒を水面へと浮かしてしまっただとか、そんなことばかりしていた。
(夜、改めてケトルの湯を飲んだら鉄くさくて、「ケトルか蛇口か知らないけど、一回あらったりある程度流しておくべきだったのでは?」となったりした)

 

01/20

 0119深夜25時(0120午前1時)に

 『エースコンバット7』をVRモードで

 プレイした。
 フライトシミュレータの匂いが濃くて、ゲームに必要な数値表示も、プレイヤーの視点に追従するゲーム内HUDによるデジタル記号と、そうではないゲーム内機体据付のアナログ計器とがあった。

 1ステージ目で頭がくらくらしてしまって、まだそれ以上やってない。

 酔い具合の印象としては、
『リグス』>>『エースコンバット』≧『ファーポイント』>>>『イーグルフライト』
 という印象。
 視点はVRゴーグルの傾き、移動はコントローラによる。
 進行方向は一定して画面奥に進み続けるので(たぶん。ヨーとか分からずに操縦していたから、それとか使ったら横滑りもあるのかな?)、プレイヤーの視点とキャラの移動にねじれがないし、高低への移動も画面奥に進む動きになるから、その点では『ファーポイント』より酔わない。
(『ファーポイント』は、FPSに必須なしゃがみ⇔立ちといった基本動作を反復するだけで気持ち悪くなった)
 ただし『エースコンバット』は背面飛行などができてしまうし、視点を360度グリグリ動かしていくから、そこは酔う。

 VRゲーのシステムとゲーム操作を絡めた部分の面白さは、そんなになさそう。
 ターゲッティングはざっくり自動で、べつにプレイヤーの視界の真ん中に収まってなければロックオンされないということもない。
(『リグス』のVRゴーグルの視点=照準といった思いきりはなされていない)

 


01/25

 「到着済みになっているヤツ、届いてないんだが? おかしいな」と思っていた宅配物が、すでに届いていて、自分で受け取り自室に運んでいたらしかった。自分の記憶力・認識能力がだいぶおかしい。心配になった。

 0125午前(0124深夜)からの笹木咲さんによる『キングダムハーツ3』実況プレイを1時過ぎまで観た。
 様々なマップを縦横無尽に駆け回って、合間合間にイベントシーンが挿入されるという感じで、印象としては(『フォーオナー』などと同じく)現代版ベルトスクロールアクションという感じ。
 PVで取り上げられていた、ド派手な謎アトラクションの必殺技が、まさかバトルしていくと雰囲気でばんばん脈絡なく投入されていくものだとは思わなかった。てっきりなんか必殺技取得イベントとかあるんだと思っていたよ。


01/26

 けっこうワチャワチャしていた。色んな人が別件で出勤してくれている日で助かったが、ワチャワチャしていたので内線連絡し忘れなどがあり、叱られも発生した。
 

01/27

 宿直明け。
 ここのところ睡眠時間が短かったからか、昼ご飯を食べ忘れたからか、113時~16時~18時までお昼寝してしまった。(16時に母の訪問で一瞬起きて、布団から出ずに二度寝した)

 にじさんじトリガーコラボ配信(ペチャリブレ大会)、ガクかざ配信、詩子妹子配信

 などを観た。
 ペチャリブレ大会はルール説明を聞いた結果、ほか二人に比べて弁が立たないだろうガク君を心配してしまったけれど、それはガク君のポテンシャルを見誤ったぼくの要らぬ心配で、ガク君は論理的な討論でなくて感情を煽る物語を語りだすパワームーブに出て、論理派を後手後手に回させていた。
 ガク君のストーリーは、自キャラどころか他キャラも動かすし、なんなら自キャラvs他キャラと考えがちなところを(その初期条件なら当然いるだろうが、指定されていない)第三者もバンバン出す。
 論理派は、論理はゆえにそうしてガク君が広げに広げた風呂敷を畳んだり、律儀に反論したりするので、そちらにリソースが持っていかれて、自論を(2023/02/14追記;日記はここで途切れている)


01/28

 (夢)現実同様に一人暮らしを始める夢を

 見た。夢の中のぼくは、現実に暮らしている元大叔母宅でなく、周囲を螺旋式の道路に囲まれた二階建ての家(旅館? この辺曖昧で、道路の先に家の上にあるのがホテルで自宅は民家だった気がするけど、いま振り返ると普通の家にしては窓が多くないかと、民家でなかったような気もする。)に住んでいて、壁が窓多めで、周囲の目が気になる……というような感じだった。
 こちらの家に越してきてから、いろいろと違いを感じることはあった。
 道路に面した家だから、バスの音などがはっきりくっきりと聞こえるようになり車の通った風で雨戸がガタガタ震えたりして「へぇ~」と思ったり。
 周囲の空き地やら何やらから響いてくるとおぼしき謎の物音にびっくりしたり。
 ……そうしたものが、こういうかたちで具現化されているのかなあと思う。

 

01/29

 自他ともにグダグダした日だった。
 敷地内で接触事故があった。

 朝は、そんな時間ないのに連載漫画の積読分を消化した。
 A氏から2/3(日)についてキャンセル連絡が来て、そこからグダグダして誘いそびれていた来たる2/9(土)の遊びにS氏を誘う。
 22時過ぎ、23時前には寝床に入った。
 ぐだぐだすることに時間が割かれて、積読ビデオゲームはまったく崩せず。『エルピス』6巻のつづきさえ読み進めなかった。


01/30

 (夢)病気療養中のM氏が復帰し、業務が戻っていく(いった)夢

 を見た。
 もしかして昨日の事故に少しかかわったからと「最近は事故がつづく」という話をしたからだろうか。
 自己中きわまるのが、夢に見る光景が復帰するその時の祝祭的なところじゃなくて、その後だってところ。

 寒さで5時だか6時に目が覚めたけど、二度寝してしまった。

 

02/08

 2/9の遊びにむけて、高校時代のA氏S氏とそれぞれLineやLine通話で雪が心配だという話をした。


02/09

 雪の日に、高校時代からの友人A氏、S氏T氏と遊ぶ

 雪を心配しながら新宿に行き、AIJアニメシアター新宿(旧角川シネマ)で『幼女戦記』のチケットを2枚購入し、コラボカフェで一杯し、新宿→荻窪西荻窪のササユリカフェで一杯し、新宿に戻ってコラボカフェで一杯し、『幼女戦記』を鑑賞、磯丸水産でT氏S氏と合流し一食した。

 脳の萎縮を感じた。ふだん人とコミュニケーションを取っていないので、気の知れた彼らとの席でさえもまったくしゃべれなくなっていた。
 とはいえ毎度そう思うから、過去を美化し自分を高く見積もっているだけで、これが平常値なんだろうということに今更気づいた。


 『幼女戦記』劇場版

 TVシリーズの終わりで砂漠に派遣された幼女は、陽動に釣られつつも敵本部の単独撃破というかたちで逆転勝利すると、社会主義に染まった北方の国の偵察任務をまかされる。
 魔法使いという異端を排したはずの北方の国に、魔法使いの姿があった。各国から志願兵から成る多国籍軍も打倒帝国に燃えて派遣されたのだ。TVシリーズで大活躍した復讐おじさんの娘メアリ・スーもまたその一員であった……。
 というお話。

 神やそれに類する存在を信じない主人公(幼女)と、それを信じさせようと手ぐすねをひく神という構図は劇場版にもあるが、後景に退いていて(TVシリーズのように、超常時空間で直接的な対話をするシーンはない)、その一方で、神の加護をうけた敵と戦うなかで教会を壊したり副次的に天使像をを破壊するようなシーンもある。
 演出・展開がスケールアップする一方で、トピックとしては、TVシリーズからそう大きな動きがないと思う。
 劇場版のなかで、とくに主人公の思想的に信心深くなったということもなければ、不信心なできごともしていない。
 倫理的生理的にむずかしい行動はむしろTVシリーズ版で描かれたことのほうが大きそうだ、と思った。

 

02/11

 宿直明け。午後2時ごろご飯を食べて寝て夕飯30分前あたりで起きる。
(ちなみに朝はカップラーメン、昼飯は冷凍食のお好み焼きをチンしただけ。夕飯はカレーライス。デブの理想郷みたいな感じだ。)
 そんなだから映画館にも行かなかったし、スーパーさえ行かなかった。
 なので朝ごはんのパンを買い足さないまま明日からの平日をむかえることとなった。

 昼寝中、自分の名前を呼ばれて玄関のほうでドタバタ音がしたので、
「母が先々週だかとおなじようにやってきたのだろう」
 と起きて出迎えに行った。すぐに布団から出ることができて、寝起きの良さ・明晰さにふふんと思ったのもつかの間、玄関はしーんと静まり返っていた。
 かんぜんに幻聴だった。
 こわい。

 

 『にじさんじMix UP!』振り返り回

 カレーを食べ終わって家でだらだらと『にじさんじMix up!』を観た。
 出演者の行動を抑制するようなルールはあまりよろしくないんじゃないかと思った。
(今回は、クイズで得点を争うコーナーで緑仙くんが笑うと減点されるというもの。緑仙くんのようなゲラ気質の、場を明るくするひとをそうするのはなんだかなあと思った。
 『一期生鍋パーティ』回のでろーん敬語縛りも、いつものどつき漫才が話す内容そのままに口調だけ冷たい敬語になって、逆にトーンが刺々しくなっていた。
 敬語でしゃべる約束自体は、それ以前のコラボで配信者間のコミュニケーションから結ばれたことで、たしかにその時はぼくも「面白そうだ」と思った。
 予想と現実とではだいぶ違いが出るものだなあと思った)

 

 『ナショナルジオグラフィック プロの撮り方 構図を極める』

 半額セールだったので購入した『ナショジオ プロの撮り方』シリーズと、『ナショジョオ 一生に一度だけの旅』シリーズのうち、『プロの撮り方 構図を極める』にとりかかる。
(『一生に一度だけの旅』シリーズも少し読んだけど。コンパクト版ということで100ページも違うそう。 うーん……)

 冒頭の文章からして、何が言いたいのかよくわからなくて、嫌になってしまった。
 なされるのは、デジタル撮影による編集批判と、現物撮影賛歌……といったところなのだが、賛否の基準がよくわからない。
 げんざいのデジタルカメラとパソコン・画像編集ソフトを十二分に駆使するひとのなかには、現場まで行って撮るのはあくまで素材で、家に帰ってパソコンの前まで来てようやくああでもないこうでもないと構図を考えトリミングをし別の写真を取捨選択・コラージュしたりするひとがいるそうだ。「これはちがう」と筆者は異を唱える。

 ここまでは、分からなくもないお話である。
 これはたとえば、その一瞬の時空間を切り取るカメラの特性を活かそう、写真のドキュメント性を活かそうという話としてとらえることができそうだ。
 たとえば写真家・土門拳『古寺を訪ねて』で、松尾芭蕉の名句が実はその現地で詠んだわけではなく旅から帰ってから練ったものであり、しかもその練り方にしても現地に一回(ないしごく少数)訪れただけだからベストなシチュエーションではない……といった旨の批判をし、写真の利点を称揚している。
 このへんの理屈はわかる。
 あるいは、あとでいくらでも融通が利くからと手や気のぬけた撮影批判ともとれる。
 これもわかる。
 

 ただ、そこからが問題で、2,3ページ読み進めただけで論旨をまったくつかめなくなってしまう。
「これって正直、技術発展についていけなくなったロートルの愚痴、自画自賛じゃない?」
 そんなみみっちいお話に思えてしまう。

 PC画面をにらんでのコラージュを批判した彼は、おなじ口で、現場にある事物の意図的な操作をオススメする
「なにも被写体が思い通りの位置にくるまで待ったり通いつめたりなんだりする必要はない。自分の好きな位置に動かし、組み合わせよう。」
 そういった旨のことを『構図を極める』著者は語る。

 そうして、舗道に落ちたゴミの位置を変えた写真を撮ったり。ゴミ捨て場のひび割れた窓ガラスのゴミを拾って、ゴミ捨て場の別のところにあったピンナップのゴミに重ねた写真を撮ったりする。
 こうした行為の正統性について、著者は下記のような旨の説明をする。
こうした行為は"やらせ"っぽく思えるかもしれないけど、でも伝統的に行われているテクニックだ。
 たとえば名画と知られる『パリ市庁舎前のキス』という写真だって、『LIFE』誌の依頼をうけた写真家ドアノーが、パリでさえそう見かけない"街頭でキス"をするよう、モデルを雇って指示することで生まれたものだ」

 ……????

 ……いや、それが有りならデジタル写真でコラージュ等によって絵をつくるのだって有りなのでは?
 ぼくはそのように思った。


02/12

 HMVの35%還元セールで爆買いした。
 もう今年1年はモノを買わない。


 委員長の『アマガミ』実況配信第1回目

を見た。面白かった。
 「劇中の学級委員と対決」と銘打たれた配信だけあって、学級委員Vtuberである月ノさんの実況もただ主人公のセリフを読むだけでなくって、たびたび分離して、劇中学級委員綾辻さんをライバル視した実況を挿し込んでいた。月ノさんの最終目標は、綾辻さんを自分に惚れさせ骨抜きにすることで、学級委員の座を奪還すること、とのこと。
 実況配信で、プレイヤーが(自分のバックグラウンドをからめた)別のストーリーを走らせるというのはすごい発明なんじゃないかと思った。
(いや、ぼくが実況生主界隈にうといから知らないだけで、すでに先例が山ほどある王道配信形式だったりするんだろうか……?)


02/12

 『僕のオリオン』1巻

を読む。『夜空を駆けるよだか』の作者さんによる最新作。
 空っぽなイケメンと、クラスの片隅にいるけど心の豊かな女子とによる交流が描かれていく……と思ったら、なんだか粘着質な第三者の存在が明かされて「つづく!」だった。

 『さよならミニスカート』と同様、一時期のハリウッド映画(アーネ・グリムシャー監督ショーン・コネリー主演『理由』とかロン・ハワード監督『バックドラフト』とか)や昼ドラみたいな盛りかただなあと思う。


02/12

 『ど根性ガエルの娘』最新5巻まで

 一気読みする。3巻までは既読。
 実話にこう言うのはなんともはやだけど、作中のお医者さんにも認知のゆがみを指摘されているとおり、すごい不安定な地盤に立っている人を主人公とした漫画として、とても面白い。
 高校時代の食堂でのお話は、この漫画の世界観の要約みたいに思える。
 ラウンドテーブルに座る主人公やその同級生は、傍目にはひとつの円に等間隔に並んでみえるに見えるんだけど、別の角度から見るとそれは螺旋で、ぜんぜん等間隔ではないという。
 巷で話題となった1~2巻と、連載場を雑誌どころか出版社から変えた3巻とにあるギャップももちろんすごい。
 出版社のおなじそれ以降も、4巻5巻と巻をまたぐ毎に、読者はじぶんの脳内にえがいた人物像や関係図を改訂しながら読んでいくことになる。
 改訂はかなり大がかりで、ちょっと取り消し線や書き足しをすればよいという些細なものではなく、消しゴムをかけて書き直しをするくらいのものだ。

 

02/13

 『竜のかわいい七つの子』(収録の「魚禁漁区」「わたしのかみさま」「狼は嘘をつかない」「金なし白祿」)

 を読む。「狼は嘘をつかない』を読もうと、九井諒子先生短編集をひらいたら、けっきょく他のエピソードも読んでしまった。
 作品ごとにそれぞれ異なる前衛的な演出が取り入れられているのだが、お話があまりに面白くそうした演出がなぜなされるのか劇中の理屈もよく考えられているので、演出が気にならない。
 それでいてそういう構造だから、その演出なしでは作品が成り立たない。

 「狼は~」現代日本を舞台にした2部構成の短編で、人狼病の息子をもつママによる育児エッセイ漫画と、大学生になった息子を主人公にした頭身のたかい現実的なシーンとで構成されている。
 「金なし白祿」は、昔の日本を舞台にした作品で、目を書き完成させると絵に命を吹きこめてしまう天才絵師を主人公として、リアルめな世界と、筆味のでた水墨画調の絵とが同じコマに並立する。
(命を得た絵は、天才絵師の達筆な絵もあれば、贋作者の下手な絵もある)

 初読時も面白く読んだけど、今回もよかった。も、というか、より一層というか。

 「狼は嘘をつかない」について。
 初読時にサラっと流してしまったところとして、息子の遅刻。ここの面白さについて今回気づいた。
 息子が遅刻したのは、通学時間の長さも関係しているけど、彼ら家族がなぜそんな田舎に住んでいるかは、母のエッセイパートによりさらっと2,3コマで描かれている。
 人狼病によるご近所トラブルをふせぐため田舎へ引っ越したのだ。

 読者である自分の注意は、リアルさを増した絵柄と描写・当事者視点ゆえの実感によりえがかれる人狼病の詳細に気がむかってしまったし、セリフとして上ることもなかったので両パートの縦糸に気づかなかった。
 もしこの作品をぼくが描いたらどうなっていただろう。描きたい気持ちだけたまに湧いてろくすっぽ実作のないワナビとしては、せっかく考えた設定だし引いた縦糸だし、僕のような粗忽な読者からの誤読による批判を浴びたくもないだろうし、しっかりセリフでも引っ張り上げて「伏線回収!」とピンと張り切りたくなりそうなものだ。
(息子が母に不満をぶつけるシーンもあるしね)

 でもそれは浅知恵で、そのような言及が劇中人物(息子)から出うるかもう少し考えてみれば、「それはどうだろうあやしいんじゃないか?」。
 息子にとってしてみれば、じぶんが田舎に暮らしていることは物心ついたときから普通の状況だ。
 そりゃあ不便は不便だろうけど、それは「うちは街から遠いなあ」という不満くらいでとどまって、「なぜ便利な都心から田舎へ引っ越したんじゃ!」というような不服・反発にはならないんじゃないか?
 両パートをつなぐ縦糸を引っ張りすぎないことは、視野も思考も限りがある個々人の描写として、とても納得いく選択だ。

 商業作品として読者が素朴に面白いと思える「お話」をえがきつつ、劇中人物が個々人の価値観をもって動いているのだと読者が思える部分もえがく。

 さて「狼は嘘をつかない」は先述のとおり2部構成なんだけど、劇中で描かれるイメージはもう少しある。母のエッセイ漫画、息子に寄った第三者視点。そして息子の回想、母の回想。母の回想はモンスター映画的なスプラッタだ。そうしたあまたの世界観を経て、5番目(最後)のイメージが最終ページに現れる。この最終ページがまたすばらしい。
 それは、息子の同級生が回想する、母のエッセイ漫画パートにも似たやわらかい絵柄の、しかしそれは現実にたしかに起こった――みっともなくて居たたまれないイメージだ。

 息子がいだいている狼男症候群にかんする将来の不安を解消するものではないのだけど、なんとなく救われた気分になる。

 ここぞという見せ場でくだけた絵を持ってこれること。
 デフォルメも写実もえがける器用な作家はほかにもいるだろうけど、久井諒子さんの強さは、ここにあるのではないかと思った。
 そうした腕力は、「金なし白祿」の幕引きでも拝むことができる

(ただまあ、「〆を落ち着いたトーンにする作品って大多数じゃないの? 感情が爆発して終わる作品ってむしろ少数派じゃない?」と言えばそうだなあと思う。

 

02/14

 『メジャーリーグの数理科学』打率の信頼区間

まで読み進める。

 サイコロの各目が出る確率は1/6だけど、6回投げて6回とも別の目が出るかどうかというと……というような話の打率版。
 ある打率(の選手)が年間とおして戦った場合の分布をだしてみることで、同じ打率でもこれだけバラつきがあって、そのなかでも出やすい範囲を"信頼区間"と言うよ。そして信頼区間においてもまだそれなりにバラつきがあるんだよ、というような話。
 3割という打率が出たとしても、その人の実力は2.8割くらいかもしれないし、3.2割くらいかもしれない、それは不調好調というよりは単にツキの問題だ……みたいなやつ。

 

 「子がかわいいと竜は鳴く」(『竜のかわいい七つの子』収録)

を読んだ。
 階級や種族をたがえた親子のお話。お話のツイストもあり、『ダンジョン飯』へとつながるような生態推理・(階級差・種族差のつよくでた)思考様式・生態描写もあり、面白いなと感心する。
 竜と人とのちがいにばかり目が行ったけど、『ダンジョン飯』が6巻まで進んだいま読み直してみると、人間同士の思考様式のへだたりがかなりすごいと思った。
 現実が往々にしてそうであるように、個々はわかりあえないし譲らない。エゴとエゴとがぶつかりあって、そのまま別々の道を歩いていく。
 すごいのはそうしたエゴが、巡り巡って大多数がしあわせになるような軟着陸をうみだすことだ。

 強い意志をもった別階級のメインキャラふたりはそれぞれ別の道に進みつつも、途中退場した部下や、ふっと沸いたように出場した幼竜と合流することで、ちょっとした明るい展望を読者にいだかせて終わるけど、そのどちらもが簡素なデザインのキャラ(部下は、メインキャラにいいようにやられる使い捨てモブ然としているし。幼竜はその幼さゆえに、成竜とちがって落書きのような、かわいらしい見た目である。)で、〆にふさわしいキマった顔の持ち主ではない。
 これもまた、昨日言っていた九井先生の強さにつうじる展開だと思う。

 

02/15

 『デモンエクスマキナ』体験版

をプレイする。体験版だから何とも言えない部分が大きいけど、なかなか面白かった。
 もしかしたら初めてクリアできる『アーマードコア』系統のゲームになるかもしれない。

 ストーリーはフルボイスで、ミッション前中後に顔絵有のキャラとのやり取りがある。
 チュートリアル含めて3つ目のミッションでは、『われはロボット』とか『戦闘妖精・雪風』とかが好きな人にはたまらない、未来世界の冷徹なロジックが出てくる。

 ゲームバランスは、とりあえず地道に鹵獲していれば活路が開けそうな程度にうまく調整されている。(とはいえ、体験版段階でも一回死んだり、ほぼ死にかけたりした)
 序盤だけかもしれないけど、味方NPCもいるし(ダウンしたら機体近くでボタン長押しすると再起する)、アクションゲーム下手な人用の救済措置があれこれある。

 『アーマードコア』シリーズは、『2アナザーエイジ』をやって序盤で投げたのだが、これなら中盤くらいまでは進められそう。

 

 『メジャーリーグの数理科学』の、よく言われる事柄が事実か迷信かどうかデータを精査してみようという章

まで読む。

 たんなる迷信(=個人の資質に関係ない、確率問題)でしかないとわかったのは、"球場来場者数の多寡""芝生か人工芝か"といったこと。
 観客数が影響しないというのは、大勢の前に立つとアップアップする人間としては、じぶんの印象とズレていて、とてもじゃないけど信じられない。
(その辺の雑音で上下する人は淘汰されて、プロのステージに立てないということなら信じられる。
 全員が"舞台に立つ"という段階で大なり小なり緊張し、多寡は関係ないということでも、いくらか分かる)

 

 

03/09

 寝たり起きたりした。
 『モータル・エンジン』からの映画ハシゴを考えていたが、起きてグダグダやっていたら過ぎてしまった。
 夜になってまた

 右耳がシャリシャリプツプツ雑音聞こえるようになった

(。大きい音、高音だと強くなる印象)。
 心因性のものだという話だけど、実際にそう聞こえてるようにしか感じない。不思議だ。
 まえも自分の名前を呼ばれたと思ったら全然違ったということがあったし、きびしい。
 寝不足も原因っぽいので、寝るに限るが、夜更かししてしまう。

 コンビニに通販商品を受け取りに行った。毎度のごとく最寄りのコンビニでいくつもコードを入力していたら「受け取り店が違います」と。
 いくつかの商品について、別の場所のコンビニを指定してしまっていた。最寄りの住所さえ覚えてないのはさすがにどうなんだ?
 「違います」と言われたコードを入力して受け取って、未発送のものについて調べてみると場所が変更できたので変更した。

 

03/10

 寝たり起きたりした。

 耳のシャリシャリつづく……というか本格化

 する。昨日よりも明瞭に聞こえる。
 『モータル・エンジン』からの映画ハシゴを考えていたが、起きたときには過ぎていた。

 昨日のコンビニ受け取り商品について、変え忘れたのか取り忘れたのか、一件は遠いコンビニのままになっていて、そのまま到着してしまった。

*1:タバコ吸いまくりなのに空気がクリアな『ハンナ・アーレント』をみたばかりだったから、「これだよこれ」と好ましかった