すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

二重丸をその手に口に;『カイジ』第三部まで感想

 kindleセールだったので『賭博黙示録カイジ』『賭博破戒録カイジ』(つまり第三部まで)を購読しました。以下感想。60009000字くらい。引用元の注はおいおいつける予定ですが、感想文自体はこれ以上いじらないかな。(そもそも初稿から主となる論旨は変わってなくて、見落とした細部の拾いなおしが大体の追記点です)

※『賭博黙示録カイジ』『賭博破戒録カイジ』のネタバレした感想がつづきます。ご注意ください※

 

 

 約言

感想;上質なミステリでした。ゲームのルールはシンプルだし、解法も明快。解くまでの過程もきちんとパン屑がまかれエレガントで、それでいて盲点をつくダイナミズムもある。しっかり「やられた!」と思えたコンゲームでした。

 そして傑出した物語でもあります。賭け事を題材にしたジャンル物としての面白さ・充実した細部が、そのまま賭場をまたいで対比変奏される物語的なライトモチーフとなり大きな文脈をなしていきます。

 第一部=プレイヤー同士のバトルロイヤルで、ゲームは創発的に優劣が推移していく。ゲーム単体でいえば第一部はピカ一の面白さ。

 第二部=プレイヤー同士の対決⇒ゲームの胴元vsプレイヤーという構図に移行する。ゲームの推移は、一方がゲームを用意した胴元優位の謎を解く・それを自分に利する穴として転用する……と直線的なもの(というかターンバトル方式)になる。地味に第一部との対比がすごい。

 第三部=ゲームの胴元vsプレイヤーという構図。胴元でなくゲーム機自体が恐ろしい悪魔として描かれ、運命との対決という趣き。第二部~第三部前半を、第三部後半のゲームでなぞるような趣向で、物語る術としてのゲームという感がある。結末も第一部結末と対比されたり、お話のまとめかたがきれい。

 ここ好き;ジャンルとしての強さ、そこにまぶせた物語。絵のデフォルメと写実の使い分け。

 

 本文

 (脱線)コンゲームへの苦手意識

 ぼくはコンゲーム・賭け事をあつかった作品に苦手意識があります。物語の中の天才たちが知略の限りをつくし抜け目なく穴を突きあう完璧なゲーム・化かし合いをしようとも、受け手であるぼくはザルなので、それをそのままするっと呑み込み楽しめるだけの上等な頭を有していないためです。

 物語のなかの主役らの企てに対して「そうか、ああしたのはこういう理由があってのこと……なんてすごい知略! 天才!」と驚嘆する端役の姿を見て、「なんてすごい解説……天才じゃん……おれなんてこの解説役の解説を経てもなおいまだにピンときてないんだが……」と驚嘆する読書スタイル。

 まず苦手だと感じたのは『ライアーゲーム』でした。中高生のぼくがヤングジャンプ誌を購読していたころ連載していた作品で、ゲーム部分は複雑すぎて雰囲気で読み流していました。おなじYJ誌『嘘喰い』も苦手でした。後年、齢30近くになってからコミックスでまとめ読みしてだいぶ印象かわったものの、でも帝国タワーでのバトルとかいまだに雰囲気で読み流しています。

 『カイジ』はそんなコンゲーム・特殊ルール賭け事モノの雄で、これと比べてあれはどう、みたいな話はかならず出る作品。「『嘘喰い』のエア・ポーカー編と比べて『カイジ』のワン・ポーカーはさらに複雑で……」みたいな。(ちなみにエア・ポーカー編もぼくは雰囲気で読みました)

 おれが読んでも絶対わからんぞ……という確信がありました。が、それは大きな誤解でした。

 

 『カイジ』の明快な知恵比べ

 『カイジ』が取り上げるゲームのルールはシンプルだし、劇中人物による解決だって複雑すぎない明快さ。解くまでの過程にいくつもパン屑が置かれてエレガントで、それでいて盲点をつくようなダイナミズムがある。

「その手があったか! おれももっと読み込んでれば~~!!」

 と悔しがれるようなコンゲームでした。(じっさい考え込んだところでぼくには解けないんですが、そう思わせるだけのフェアさがあるといいますか……)

 

 第一部『希望の船』について

 第一部の大部を占める"限定ジャンケン"は、(手持ちのジャンケンカードで戦うという)シンプルなルールのゲームをさまざまな考えで解こうとするいくつかの集団によって、優劣が創発的に変化していくところが面白かったです。

 ある人々が解法αを思いついたら、最初に思いつけなかった(出遅れた)別の人々が負けというわけでなくそれを受けαをメタる解法βを思いつき、解法αの陣営は劣勢に立たされ、この陣営がひと段落する裏では、αβの解法を無効化するような別解γを考えているひとがいて……といった具合に。

 出す手はグーチョキパーの三択・三すくみだけど、どうアガるか考える人々の企みは多様で、企み自体にもじゃんけんのような有利不利がある。

 企みの幅は本当に広くて、なかには有利不利どころか、遊んでるゲーム自体が変わってしまったかのような視点変更がなされたりもします。一対一のじゃんけんらしい視点(限られた手持ちのなかから自他が何を出すか察する、ミクロな読み合い)から、株取引にたとえられる別次元の視点(全体の流れを予想し操る、マクロな読み合い)にシフトしたところは、頭がゆさぶられました。

 ゲームやその推移自体の面白さという点では、第一部の限定ジャンケン編がいちばんかな。

 

  第二部『絶望の城』について

 第二部は、鉄骨渡り(人間競馬)、鉄骨渡り(必死)、Eカード、くじ引き……と、盛りだくさんの内容でしたね。

 人間競馬はルールが徐々に見えてきて人々の解も徐々に幅が出ていく、第一部のような面白さがあります。

 必死版の鉄骨渡りからは、ゲームを仕切る胴元vsプレイさせられる債務者という構図がつよくなります。

 Eカードは皇帝>市民>奴隷(>皇帝)のカードをもちいた特殊ルールのじゃんけんで、のちに判明するとおり圧倒的な準備済みの相手と戦う点で、第一部からの総決算の感も。(リピーターの船井と重なる)

 闇社会の頂点のような利根川vs奴隷のようなカイジが、上述のカードで戦うこの辺りから、ゲームは物語性を帯びてきて、コンゲームの変数(相手の思惑を読む・自分の思惑にハメるための手管)に、胴元の性格や自分との関係性がつよく打ち出されることになります。

  Eカード編であれば、利根川の上に立つ者ゆえの性格(有能であるという自負、底辺のカイジに足元すくわれる訳がないという自覚)や、利根川の上司・兵藤会長の上に立つ者ゆえの性格(利根川をどのタイミングで叱咤するか)を突かれるわけですけど。

 次の兵藤会長とのクジ引きもまた、勝敗を分けたのは両者の性格ゆえということで、この格の出し方はすごいなあと思いました。

 

 初読時はさらっと流してしまったんですが、第三部まで読んだあとになって振り返ってみれば、第一部との対比のおそろしさに気づきます。

 第二部くじ引きでカイジがつくる当たりくじの図像が丸なのは、これはおそらく第一部終盤の個室からの掬い出しでカイジを助けるのがダイヤの指輪2つであることの変奏です。そしてここからはあやしくなりますが、第一部で遠藤に詰問されたカイジが後ずさり本棚からベンツのシンボル5つを落とすくだりも、第二部終盤で兵藤会長によってカイジが指4本失うくだりと対比をなしているのではないでしょうか。

 第一部では最後まであきらめず考え続けた結果「今 考えりゃあ」「生還への鍵は」「誰の目にも明らかだったんだ・・・・・・・・・・・・・・」*1とダイヤの指輪2つを手に入れることで五体満足で夜を明かし船からおりたカイジは、第二部では兵藤会長の「誰にでもできるトリック」*2に思い当たらず、丸のえがかれた当たりくじどちらを見つけることもできず、指4本を落として帰路につく……

 と、そういった対比なのではないでしょうか。

 下の文章でも触れるように、ベンツのシンボルを落とすくだりも指を切り落としてしまうくだりも、「ひっ・・・・!」「うわっ・・・・・・!」という中黒の数までまったく一緒の悲鳴が出てくるんですよね。

 

 第三部『欲望の沼』について

 第三部はチンチロと、高レートパチンコ台"沼"とのふたつのゲームが描かれます。沼に至ってはゲーム機自体が悪魔として描かれ、製作者である人(胴元)との戦いというよりも、もっと抽象的なもの――運命との戦いみたく思えてきます。

 イカサマのあるゲームを単一のプレイヤーが解く直線的な構図が第二部にも増して強く出ている気もしましたけど、第三部の謎(イカサマ)はプレイ前に準備されて以後変えることのできない「あとは解かれるだけ」の代物ばかりではありません。胴元のイカサマαとプレイヤーのイカサマβが合わさった結果として両者の思いもよらないイカサマγが出来てしまう……というような、一風変わった創発性が描かれています。

 なにより面白いのは、ゲーム構成が物語る術として明示的に機能されていたことで、読んでいてなかなか感情を揺さぶられました。

 

 第三部後半はパチンコ台"沼"のしかけという謎(イカサマ)に、偶然知り合った警備員のおっちゃん坂崎指揮カイジ協力コンビ、そしてカイジ指揮おっちゃん坂崎ら協力チームがいどむというかたちをとります。

 "沼"のルーレットにはいくつも細工がしてあって、そのひとつは当たり目周辺の盤が平坦じゃなくて微妙な起伏による壁となっているというもの(。挑戦者の目には、奥まった配置と照明の関係で、イカサマが見えない)。これは第三部前半のチンチロの細工と似ています(。出目が細工してあり、反対の面が見られればイカサマが簡単に露見してしまう大胆なものだけど、ドヤ部屋の暗い照明と円陣の配置の関係で、イカサマが見えない)。

 三部前半チンチロのさい、胴元側によるイカサマを受けてカイジは、出目を操作したイカサマサイコロを彼自身も用意することで対抗しました。第三部後半の”沼”でカイジが行なう企みの一つもまた、出目を操作するイカサマサイコロを用意することでした。具体的には、賭場に重しをすることでパチンコの傾斜を無効にするような方角へ賭場を建物ごと傾けます。重しに選ばれたのは水を入れる容器で、そのかたちは立方体。カイジはそれを「サイコロ」と称します。

 

 上の例が明示的ですが、"沼"は、第一部から現在にいたるまでのさまざまなシチュエーションが思い起こされるような構成になっています。

 

 上述の"沼"のイカサマ傾斜に気づき見抜けたのは、カイジが先人であるおっちゃん坂崎の失敗に立ち合いその後ひとりでじっくり眺めたからですけど、これは第二部鉄骨渡りを思い起こさせます。鉄骨渡りでもカイジは先人の失敗により立ち止まり、引いた位置から再考することで文字どおり活路を見出しました。

 第二部で賭けに負けたケジメとして親指以外の指を失なったカイジ(第三部では縫合が成功し、指輪じみた手術痕を残しただけとなっている)、第三部後半では指という指の爪にドリルをねじ込まれます。

 "沼"の胴元側による最後のイカサマ"風のバリア"――当たり目の円周から風が噴出してバリアを張ることーーによって球がはばまれる展開も、第二部鉄骨渡りのゴールを開けたら気圧差で風が吹きすさび挑戦者がはじき落される展開を思わせます。

 当たり目にたった一球を通すために何度も何度もあきらめず再挑戦する姿は、たった二枚の当たり札を引こうとするも目論見はずれるや否や簡単に投げ出してしまった第二部のあきらめのよさとは正反対の姿です。(第三部前半で班長が見せる、自身の目論見がはずれたあと細工なしのサイコロで出せうる何百分の一の確率にめげて勝負を投げ出してしまう姿は、カイジが歩んだかもしれない姿の一つなのかもしれません)

 たとえ自分の手持ちの種銭が尽きようとも、よそから借り続け、挑みつづける。他人のふんどしで相撲を取った印象がまったくないのは、それがカイジのーー多重債務者の人生だからでしょう。

 カイジカイジらしい性格を貫き通した結果として現れる(穴に落ちるはずの)銀玉の逆流は、そうなった理屈自体はしっかり説明できるようなできごとですが、それ以上の感動を呼びます。

 

 カイジたち帝愛グループ債権者の歩んできた道は、一歩まちがえれば真っ暗闇に転落する危険なものでした。いや感想を書くわたしのレトリックでなく、劇中の具象(ないし比喩)的な展開として、文字どおり人々が闇に消え・落ちる構図が、そしてそんな落伍者の姿をガラス壁一枚へだてられた向こうから勝者が見下す構図が、『カイジ』では何度も描かれているのです。

 カイジの転落人生は、帝愛グループの一員遠藤から言質をとられ詰問されたさいに「ひっ・・・・!」*3と後ろへみじろぎしたところ本棚にぶつかり、「うわっ・・・・・・!」*4とそこへ隠していたベンツのシンボル5つが文字通り落ちた*5ことから始まります。第一部で遠藤に連れられ乗った闇遊戯場エスポワールは、照明を落とし闇と同化した黒い船*6で、その締めくくりは、ガラス壁越しにアガリの者の目が向けられる暗い個室の闇です。

(部屋自体は照明がそこまで落とされていないようですが、書き手の演出としては真っ黒い闇として描かれがちです。「残るは暗黒だけ・・・・・・・」とナレーション*7されたあと「・・・・・・・それでも・・・・・・人間かっ・・・・!?」とカイジが1ページ丸々つかった大ゴマで嘆く*8背景は黒ベタです)

 第二部で描かれたゲームの一つは、文字どおり一歩踏み外しただけで摩天楼のしたの暗い闇に落ちてしまう鉄骨渡りでした。ガラス壁越しに上流階級の嘲笑が向けられる世界で、カイジが第一部で救い出したはずの中年男性は、第二部のこの鉄骨渡りで音もなく闇に消えます。兵頭会長とのゲームの決着は、切り落とされた4指の大ゴマ*9で締めくくられます。周囲のひとびとが「ひっ・・・・!」*10だとか「うわっ・・・・・・!」*11だとか思わず悲鳴を上げる痛々しさ。

 第三部でカイジが連れ去られるのは、帝愛グループ会長発案による冷戦時代のパラノイアじみた地下シェルター計画の作業場、灯火管制のなされた地下労働者の世界でした。そこから脱出した地上の世界では、"沼"にいどまんとするおっちゃん坂崎の借り住まいに差す真っ暗闇の夜の時間がえがかれ、"沼"に挑むおっちゃんの姿からカイジはおっちゃんがボロボロの吊り橋を渡るイメージを重ねます。"沼"のデザインは(大半のパチンコ台がそうであるように)ガラス壁をはさんだ向こうの盤面に絵が描かれていて、その図像はいくつもの目が組み合わさった異形です。

エスポワールにしても"沼"にしても、『カイジ』のメインキャラに見られる独特の画風(「画力がない」などとネタにされがちなデフォルメ*12)と違って、劇画的な写実性・ノワール映画的な強い明暗でもって描かれていて、愛嬌のあるキャラ同士のやりとりに慣れたところでポンと写実的なそれだけが大写しにされたコマに出くわすと、誇張なしにギョッとする薄ら寒さがあります}

 カイジはその危うい道を、周囲に手をさしのべつつもがきながら進んできました。第一部ではじぶんを借金生活に落とした後輩と手を取り、見ず知らずの中年男性を助けます。第二部では富豪たちの「落とせ」のコールに乗らず人情を説き、前後の競争相手とともに金を得ずとも命を得ます。第三部ではじぶんを信じてくれた地下労働者のために戦います。もがきが良い結果を生むとはかぎりません。後輩はじぶんを見捨て、中年男性は第二部で亡くなり、弔い合戦に挑んだ結果おとさなくてよい自分の指を失います。

 "沼"でおっちゃん坂崎と共闘したのも、部屋のゴキブリをかれが殺さなかった姿にシンパシーを感じたからなのかもしれません。

 第三部後半のパチンコ"沼"のクライマックスである、外れ穴の闇に落ちたはずの球が排出路を逆流し外へと駆け上がるさまは、ここに至るまで描かれてきた落下運動・闇に消える運動を反転させた展開であり、カイジらのこれまでのあがきを思い起こさせます。

 これまで人々を足蹴にできず手を差し伸べてきたカイジの甘さ優しさや、強者から切り捨てられ文字通り蹴落とされてきた落伍者たちの無念がむくわれた瞬間だ……そんな風についつい思ってしまいます。

 

 "沼"の一件のあと、地下シェルターでの強制労働をまぬかれたカイジとその仲間たちは、焼き肉屋で宴をひらきます。ここも地味にすごい。

 第三部の幕は、カイジが円柱のジョッキビールを2度飲み干す姿によって閉じられます。カイジのおいしそうな呑みっぷりだけ見ても読んでて楽しくなりますし、少しさかのぼって第三部後半の兵頭会長らがなんかめちゃくちゃまずそうに黒い酒を呑んでいたことやら、さらにさかのぼってビールに思う存分ありつけなかった第三部前半の地下ドヤ小屋での暮らしぶりやらと比べることで一層の多幸感につつまれますが、再読したぼくはわざわざ2回繰り返すところに注目してみました。そうしたところ「これもまた、それまでの締めくくりの変奏なのではないか?」と思え、しみじみした感慨がわきあがりました。

 つまり、ダイヤの指輪2つを吐き捨てた第一部、黒丸の当たりくじ2つを手に入れられなかった第二部とおなじく、第三部もまたカイジと2つの円でしめくくられているのではないかと。それまでの二部とちがうのは、キンキンに冷え側面にかいた汗が輝かしい円をその口内にしっかりと受け止められた……ってことなのではないかと。

 

 第四部は連載中と聞くし、お金がないしで買いませんでした。兵藤会長へのリベンジも第三部時点ではまだなされてないし、やることはまだまだ残っているでしょう。続くのはわかります。

 それはそれとして、ここで終わってもよいくらいの感慨深い幕引きでした。

 

 

  物語くささを消す;くさい部分を説明しない

 第三部の銀玉の逆転現象やらは、作り手も読者が感慨にふけることを織り込み済みで漫画を描いているんだろうとも思うんですが、それがいやらしくない塩梅におさまってるのもまたすごいですね。

 ぼくがご都合の匂いをかぎとれなかった理由はいくつかありそうです。

 まず短く話せるほうの理由から挙げましょう。そうした変奏や対比関係についてナレーションなどで自己言及しないところがクサく感じない一因でしょう。

 『カイジ』をじっさい読んでみてビックリしたのが、あの有名なナレーションがぜんぜんクドくないということです。

 一般のお笑い番組でモノマネされるほど印象的なナレーションは、たしかに雄弁ではありますが、饒舌ではないんですね。かなりコントロールの利いた語り口で、あれだけ煽りながらも、読者が連載を追ってさえいれば脳内で関連性をかんたんに導ける部分は、ヒントさえ文字にせず、読者にゆだねてくれています。語るに落ちる興ざめ解説がぜんぜんありませんでした。*13

 なぞらえているだろう過去の展開について、変奏先の場面で回想的にほわわんと再提示するようなこともしていません。

 

 物語臭さを消す;ジャンルとしての強さ

 さて説明すると長くなる理由のほうですが……上にあげたような変奏的な展開が、『カイジ』ではそれぞれのゲームやシチュエーションのなかでそれ単体できちんと成立していて、物語るための添え物には見えない(し実際添え物ではない)ところもまた、ドラマ的・意味的な要素が悪目立ちしない一因でしょう。

 チンチロの暗さは胴元のイカサマを成功させる一要素でしたし、"沼"の逆転現象も胴元の操作とプレイヤーの操作・協力者の支援{支援と書きましたが、それぞれの協力は両者の性格をそのまま貫いただけのものです。おっちゃん坂崎は自分が指揮したときとおなじく勤務先からお金を盗んだだけだし、金貸しは金貸しらしくより大きな回収のために自分が有利な契約を結ぼうとしただけ。}などなどが噛み合わさった創発的な副次的現象でした。

 結果的には運命じみていたり比喩表現・ドラマじみて見えたりするかもしれないけれど、それらの展開はあくまでそれ単体で合理的な活用がなされうるものであったり、回りくどくともそうなった理屈がきちんとあったりする。

 

 両場面とも円形のモチーフ2つをカイジが得るか否かでそろえた第一部の敗者復活のくだりと第二部のくじ引きのくだり(そして第三部の宴)の対比関係なんて、ぼくは特にひっかかることなくスル~っと読んでしまいました。

 

 面白かったり細部が充実したりする優れたジャンル作品も、なにげない展開やさりげない細部が対比変奏されていき大きな文脈を形成する優れた物語も、探せばいくらだってある気がしますしそこには名作中の名作だって含まれますけど、でもそれを同時に実装できている作品というのはちょっとやそっとお目にかかれるものじゃないですよね。

 

   (脱線)巧みだけど冷めてしまう作品について

 作り物・作り話のなりゆきについて、ふと「けっきょく作者の匙加減じゃん?」なんて冷めてしまうことって、多かれ少なかれあると思います。そうした瞬間は、どんなカードを引くかとかプレイヤーのうち双方の目論見についてどこまで読めてどこまで読めないかとかを扱わざるを得ないコンゲームというジャンルならなおのことあるでしょう。

 あるいはこういう冷めかたもあるでしょう。 ウェルメイドとエポックメイクのちがいというんでしょうか、ある物語についてとても良くできていて巧みで面白く見られるんだけど、その味わいかたというのが、いくつかある用例のなかから「この場面はこのような解釈をして」「あの描写はあのように解釈をして」……と、すでに完成像が透けて見える断片をあらかじめ知ってる法則にもとづき並べていく、まるで観光名所のお土産屋さんで売られているジグソーパズルを解いてるような気分になってしまうこと。(鏡像とか影とかっていまだに王道を行くモチーフですが、踏み固められたありきたりなものと言えなくもない)

 パズルにならないために、過去の知識を参考にできないまったく未知の素材をあつかえばそれでよいかというと、そうとも言いがたく、 劇中独自要素が結論を導くための強引で都合のよい存在に思えてならず、「けっきょく作者の匙加減じゃん?」となる作品もあります。

 

   『カイジ』の凄味、「作者の匙加減じゃん」と冷まさない雑味

 コンゲームというジャンルで、しかも物語的な組織化されるモチーフが劇中独自存在(現実に存在しない特殊なルールのゲーム)で……先述の難題をふたつもかかえた『カイジ』が、にもかかわらず、そんな引いた位置から眺めさせることなく素朴に情動をゆさぶってくるのは、劇中ゲームとその展開が、しかも一個人の頭で扱いきれるほど単純でもなければ曖昧でもなく具体的であることによる賜物なんでしょうし、そこへさらに、隠喩やらをふくませ韻を踏めるような物語として整えられるだけの余地があるなんて到底思えない複雑さで進行することによる恩恵なんだろうなと思います。

 奇跡が作者の匙加減でなく本当の奇跡だと思えるために、読者が見たこともない未踏の地まで踏み入れて食べられるか否かもわからない未知の素材をぶっこんで、自分が作者だったら匙を投げてるだろう闇鍋じみたカオスをぐつぐつと煮る。そんな味わいの作品でした。

 

*1:賭博黙示録カイジ』第五巻p98第二・三コマ、第53話「回生」より

*2:賭博黙示録カイジ』第一三巻p240第四コマ、第158話「明日」

*3:賭博黙示録カイジ』第一巻p.17第六コマ、第1話「希望」より

*4:賭博黙示録カイジ』第一巻p.17第九コマ、第1話「希望」より

*5:賭博黙示録カイジ』第一巻p.18第一コマ、第1話「希望」より

*6:賭博黙示録カイジ』第一巻p.64第一コマ、第3話「漆黒」より

*7:賭博黙示録カイジ』第五巻p.77、第51話「腐蝕

*8:賭博黙示録カイジ』第五巻p.78、第51話「腐蝕

*9:賭博黙示録カイジ』第一三巻p.216~7、第156話「残光」

*10:賭博黙示録カイジ』第一三巻p.215第二コマ、第156話「残光」

*11:賭博黙示録カイジ』第一三巻p.215第二コマ、第156話「残光」

*12:いや実際読んでみたら『カイジ』って表情にとてつもなく幅があって、めちゃウマなんですが……

*13:もちろん、ゆだねない語り口だからといってダメというわけではありません。たとえば『カイジ』の親元ヤングマガジン誌で連載されている『喧嘩稼業』シリーズは、『カイジ』と同じかそれ以上に、ジャンル的な面白さ・充実したその細部(くだんの作品においては、格闘の一挙一投足)が劇中でさまざまな意味をもってシーンをまたいで転がされたり響きあわせられたりなど異様に入り組んだ作品である一方、そうした文脈をそれなりにナレーションなどで明示してくれもする作品ですが、『喧嘩稼業』はむしろ語られてこそテンションがブチ上がる名ナレーションで、この語りのおかげでよりいっそう作品世界に浸れています