すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

 『空手バカ一代』のヘミングウェイ引用とされる文は出典がみあたらず、梶原氏の創作とされる……が、本当にそうなのか? 『河を渡って木立の中へ』に、本を書かないか訊ねられて「わしは書くほうの才能がないし、それに、あまりに事實を知りすぎている。その場に居合わせた人間よりも、どんな噓つきが書いたものでも、そのほうが人を納得させるものだよ」と固辞する大佐がいるらしいことを知ったという日記。

 

 というのが流れてきたんで、「そんな、漱石夫』みたいな語り口なんだ……」と思って気になってちょっとググりました。

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したがって十分に発展して来て因果の予期を満足させる事柄よりも、この赤毛布流に、頭も尻も秘密の中に流れ込んでただ途中だけが眼の前に浮んでくる一夜半日の画の方が面白い。小説になりそうで、まるで小説にならないところが、世間臭くなくって好い心持だ。ただに赤毛布ばかりじゃない。小僧もそうである。長蔵さんもそうである。松原の茶店の神さんもそうである。もっと大きく云えばこの一篇の「坑夫」そのものがやはりそうである。纏まりのつかない事実を事実のままに記すだけである。小説のように拵えたものじゃないから、小説のように面白くはない。その代り小説よりも神秘的である。すべて運命が脚色した自然の事実は、人間の構想で作り上げた小説よりも無法則である。だから神秘である。と自分は常に思っている。

 

 例によって国立国会図書館デジタルコレクションで単語検索かけてたんだけど、「事実を事実のまま」で出てくるなかでそれらしいものは見当たりませんでした。

「事実」作家ヘミングウェイで検索かけてみたらどうか?

dl.ndl.go.jp

「あなたは本をお書きになるべきよ」と娘は言つた。「本當に、あたしそう思うのよ。こういうことについて、世間の人に知らせてやるといいんだわ」

「それはちがうよ」と大佐は反對した。「わしは書くほうの才能がないし、それに、あまりに事實を知りすぎている。その場に居合わせた人間よりも、どんな噓つきが書いたものでも、そのほうが人を納得させるものだよ」

(略)

「それでも、そういうお話を書こうとはお思いにならないの? あたしをよろこばせるためにでも、書こうとはお思いにならない?」

「思わないね」と大佐は言つた。「敏感で、ピリピリして、はじめて戦さをした日の强烈な第一印象を――それが三日間なり四日間なりつづくとしてだ――すつかり頭の中に殘しているような兵隊󠄁が本を書くのだよ。そういうものはいい本になるが、その場にいた人間には面白くないこともある。それからまた他の連中は、自分の參加しもしなかった戰爭で儲けようと思つて本をかく。大いそぎで引返󠄁してニュースを觸れまわる連中だ。そんなニュースは、たいてい正確ではない。それでも奴らは機敏にやらかすのだ。仕事が忙しくて、實戰に行けなかつた本職の文󠄁士は、わかりもせぬ戰鬪の有樣を、まるで自分がそこにいたように書く。そういうのが、どんな種類の罪惡に屬するか、わしは知らんがね。

「それからまた海軍では、ナイロンみたいにつるつるした艦長なんかが、單檣帆船󠄁(キャットボート)一隻だつて自分では指揮できなかつたくせに、大海戰の裏面史󠄁なんてものを書いている。誰でもみんな遲かれ早かれ自分の本を書くことになるのさ。わしたちだつて、面白い繪くらい、かけるかも知れん。だが、わしは書かんよ、孃や」

   三笠書房刊(1952年7月15日刊行)、ヘミングウェイ(大久保康雄訳)『河を渡つて木立の中へ』p.122~124(略・太字強調は引用者による)

 を渡って木立の中へ』の一シーンとして、本を書かないか訊ねられて上に引用したような経緯で固辞する大佐がいるようで、なんか元ネタまじでちゃんとあるのでは? という気がしてきました。

 ただしうえのシーンは、(戦場の)事実をそのまま記憶することの心理的/書くことの倫理的困難についてであって、焦点がちがいそうですけど……じっさいどうなんだろう。