カルチャーセンターのお絵描き教室の発表会に参加しました。
以下感想と絵。3000字ちょい⇒(5/30)5000字ちかく*1。
カルチャーセンターについて
カルチャーセンターの生徒は、月に2度ほど地方都市の駅前デパートの一角をたずね、べつの部屋から漏れてくるハワイアンやらポップなソーラン節やらの音楽を聞きながら2時間ほどイーゼルを立てて絵を描きます。一青窈氏ではないどなたかによる『ハナミズキ』もよく聞いたな。
ぼくの通うお絵かき教室は、とくになにか「こう描きましょう」「こう見ればデッサン崩れが少なくなりますよ」というような、描きかたの型を提示するような授業はありません。好きなものを好きなように描きましょうという感じ。
漠然と絵が好きだしうまくもなりたいけど、美大を目指したり美大出身者がいるような本格的なところの門戸をたたくには腰が引け、だからといって家では何もしないという、ぼくのような人にとってはとても合ってる教室です。
ある程度描いたところで先生から、いろいろアドバイスをもらいます。「実際として丸いはずのモノが、絵のうえではそのように見えてこないからこういう描線を入れたらいいのでは」とか、「前景物のうしろにあるモノについて、たとえ実物が死角のところで大きな変化があったとしても、それをそのまま描いてしまうと絵としては繋がって見えないので、とくに何か意図がないのであれば繋がっているていにしたほうがよいのでは*2」とか、「実物が傾いた状態で立てているのはわかるけど、絵としてはデッサンがくずれているみたいに見えてしまうので、決して直立にする……のは大変なので、モチーフを増やしてもたれてることにするとか、なんか手立てを考えましょう*3」「明暗が微妙だからここはもっと落としましょう*4」「これは逆に濃淡をはっきりさせすぎて、密着しているはずのモノ同士が乖離して見えて、どうにもほぼおなじフォルムのおなじ明暗のなかにあるもののようには見えないので、もっとなじませたらいいかと*5」とかいう話をいただく。
先生はかなり口下手なので、上記はこちらが「たぶんこういう理屈をおっしゃっているのだろう」と補完につぐ補完をした結果ですが、それはそれで自分が考えるよい契機になってます。
(ぼくは去年1年とおして参加率が悪すぎて、今回は途中途中でのアドバイスをあまりもらえないなか描いた)
描くための技術を身につけるカリキュラムはありませんが、なにを描くかおおまかな年間スケジュールはあって、大きさゆえ場所をとる石膏像とかモデルさんを招いてのデッサン、野外スケッチなどについては「この時期にあそこへ行ってそれをやりましょう」と予定は立てられています。
そして年に1度みなで絵を持ち寄って、公民館あるいは私企業が撤退して半公共施設と化した築ウン十年のビルの一角に並べます。
そのさい一日何百~何千円とか週何万円とかって賃料のために、お金も持ち寄ります。(生徒数で割ればそんなかかりませんし、カルチャースクールの月謝から引かれるので、展示会で特別な出費があるということもありません)
展示会にむけて、作品を仕上げたり、設営や受付にあたっての工程表や覚書を書いたり、 美術館や博物館にいくと大体おいてある展示品をひとまとめにした紙を用意したり、看板用のイラストを用意したりします。いやぼくがやるんではありません(新人だしずぼらなため)、定年を迎えてもなお活動的な別の生徒さんらが取りしきって、着々と準備をすすめてくれます。ありがたい。
何日間かの会期のなかで、何時間かの受付を担当します。
展示会について
ひとなんてそう来ません。観覧にお金はかかりませんが、時間は有限です。下階のブックオフに行けばプロの素晴らしい漫画や小説がいくらでも立ち読めるのに、わざわざ来ないエレベーターを待って移動してまで誰が見に来るというのでしょう?
エレベーターの到着をつげる電子音や、同じ階の別部屋でおこなわれているピラティス講座や外国人技能実習生むけ日本語教室の受講生による賑わいを小耳に、うつらうつらして過ごします。
部屋の外の会話は聞こえますが聞こえません。ぼくらが借りたこの部屋は多くの人にとって目的地でない通りすぎるだけの場所だから断片的だし、立ち止まって会話してくれたと思ったら中国語かなにかだったりするからです。外国語の会話のなかに時折こちらも分かる日本語が出てきたりするとやけに印象に残ります。今回の場合は「無料ダヨ、マッサージダヨ」としゃべって爆笑していたのが印象的です。それ、当人たちにはギャグになるのか。
生徒や先生の知人や家族、物好きな第三者が展覧会にいらしてくれると、まず謝罪します。
「今回の展示の目録です。ただ、展示順ではありませんが、よろしければ……」
そんな感じで声をかけます。
アマチュア展示の細部
休憩がてら、近隣の展示スペースで同様にうつらうつらしている人々の作品をながめにいったりして、感心したりなんだりします。
アマチュアの展示には、大きな美術館でおこなわれる有名作家の企画展とはちがう味があって、それはそれで面白いです。
いや、たとえば『イングランド炭鉱町の画家たち』みたいな感じを期待されると拍子抜けするでしょう。画力が足りてるとはいいがたいけど、それゆえモチーフも様式もクラシカルな伝統にしばられない、その土地の時代の人ならではの生活やら価値観がのぞける……みたいな、そういう絵は案外すくない。ミケランジェロとかを見て「おれもこんな風にうまい絵が描けたら……」とか思ってお絵描き教室の門戸をたたくので、ルネサンス期の石膏像のデッサンとかをしちゃうわけです。
その人ならではの個性・視点みたいなものをうかがい知るのは案外むずかしい。見たこと感じたことを形にするのって、やっぱり技術が必要です。展覧会ではむしろ五十歩百歩の幅せまさを見ていくことになります。
作品について、モチーフやスケッチ場所など似たような絵が並びがちですね。お絵描き教室は上述のようなスケジュールで動いているというのもあるし、そうでない同好の士の集まりにしたって「高価なモデル代もみんなで持ち寄れば呼べるぞ」というような動きがあります。
そうした縛りからはずれたところで絵の題材として選ばれるモノも、意外と書き手の生活は出てきません。旅行先で見た風光明媚な景色(という、けっきょく自分の生活から離れた世界)であったり、プライベートが出てもせいぜいペットのかわいくとれた姿であったりして、旅雑誌や動物雑誌のフォトジェニックな表紙をアマチュアの画力でたどるような形になる。
描いている場所やモノが似たり寄ったりの絵について、うまいこと散らすか、同じモチーフを並べてしまうか……各展示それぞれ悩みどころなんだろうなという感じがします。
絵のバリエーションやバランスの問題からすると、同じ描き手で並べるか否かというのもあります。
今回の展示では、なんか散らしたほうが良いのかもわからんな、いやでも違うほうがいいのか……? となりました。観覧者の大半が縁者なので、ひとによっては知人の絵だけ見てささっと帰ったりもする。
書き手の絵を会場じゅうに散らせばそういう人でも目当ての絵以外も視界に入ることになる……と思ったりもしました。けれど、そもそも目当ては絵じゃなくて人だというかたにとって、それは面倒くさい、フラストレーションのたまる導線ですね。わざわざ来てくれただけでありがたいのに、城攻めにきた敵みたいな扱いをしてどうするんでしょう……。
ほかのところで、紙とか机とかもわりと同じようで違いが出ます。
展示作品の目録が入り口まえにだいたいどの展示スペースでも置いてあるんですけど、意外にバリエーションがあります。ここは展示順にリストが載ってある、とか。展示リストの最後に「ご覧いただきありがとうございました」の一文が書いてある、とか。
リストはなかなか興味深く、じぶんなんかは、お絵描き教室のひとがそういった紙を用意してくれたのを見て「美術館にあるようなリストが置いてある! 展覧会じゃん!」と感動したんですが、ほかの展示の趣向を見て、
「こういうマイナーな有志による展示は、べつのもてなしかた・戦いかたがあるんだな……」
とへぇ~っとなったりしました。
ほかにも、スペースの使い方とか展示の仕方とか、照明の当て方とか、いろいろあるんだろうなあとなる。
展示会場の広さによって映える画そうでない画がありました。
前回は会場のちいささに対して出展者・出展数が過多で、画がぎうぎうでした。それをうけて今回は広いスペースを借りた結果、画と画とに間隔をあけることができ、鑑賞者も離れた位置から画と向き合うことができるようになりました。そうした結果、ぼくの絵はちょっとさびしかった。(紙に顔を近づけて、小さくこまごまとした部分の書き込みにばかり注力してしまい、明暗・濃淡が微妙な画でした。のっぺり加減は、遠くから見るとより目立って見えました)
設置場所も個数も限られている照明にたいして、どのように絵を配置するかなども考え所でしょう。
額にしたって、アクリル透明板を入れるか入れないかでだいぶ印象がちがってくる。ぼくの絵はもともとぼんやりしているのに、アクリル板の反射でさらにぼんやりしてしまった。額装もみな先生におまかせしたので、今後じぶんでやる機会があれば気をつけたいところです。
ぼくの展示作品について
発表会に出品したのは以下の鉛筆画3枚。アップした画像はパソコンで明暗を弄りました、実物はもっとくすんでぼんやりしています。
去年は木彫りの熊2体をかいたデッサン1枚だけだったんですが、今年も石膏デッサン1枚だけになりそうでした。なんとかほか2枚も仕上がったので、個人的には達成感があります。
プラモデルにはまっていたオタクにありがちなことで、台座や石膏像のこすれて割れてるところとかひっかき傷とかにばかり注力した。前景の側にそういうウェザリングを描いて、後ろにあるものは控えめにしました。
紙の表面がまっ平らでなく、浮彫みたいなかんじに升目がついた紙で、これ幸いにと石膏を測りつつデッサン狂いを少なくしていったんですが、升目にとらわれすぎて上下左右をめちゃくちゃ余らせてしまった。
石膏の白さを生かした濃淡にしようということで、もともとあわめにしましたが、他2枚がそんなに黒くできなかったから結果として、描き手の技量不足なのか意図したものなのか不明なかんじに……。
当初は酒瓶と花だけを机において描こうとしましたが(前回の発表会で1枚しか展示できなかったので、あまりモチーフを増やすと大変だと思った)、だいぶ紙を余らせてしまった。
前述した先生の指導から酒の隣にまっすぐ立つコップを書き、それでもスペースが余ったのと暗い色のやつをもっと置いときたいなということでリンゴを書き、まだまだ紙面に余裕がありますということと、歪んだ面によって歪んだ投影像・鏡像フェチなのとが重なってバナナを足しました。
花や果物はみなイミテーションです。茎あたりにそれらしさが出てると思います。
某駅まで電車に揺られ、駅から十分くらい歩いたさきの公園でのスケッチ。冬に向かう秋ごろ行きました。
隔週で二度行き計4時間は現地で描いて、あとは家で写真を参考に。少なくとも10時間は確実にかかっている。下手すると20時間の上かかってるかもしれない。
二度目のスケッチは寒さに負けて、お昼を迎える前に帰った。どちらの回もスケッチブックをもつ手がしびれ、なるだけ視点を変えないよう=動かないよう立つから膝が固まった。
線画のとき(下載1枚目)はめっちゃいい感じだったんですが、それは自分の技術力をかいかぶった都合のいい青写真をえがいていただけの錯覚でした。家に帰ってからの作業で不安になった。色塗ってみて現地で描いたディテールがつぶれて描いてる当人も現場の記憶が遠のいてつぶしたディテールがどんなものだったか思い出せず「だいじょうぶか……?」となり、さらに塗って「だいじょうぶじゃない……茂みが描ける気しない……」となるも(下載2枚目)、それでも描いていったら「だいじょうぶじゃなくもないかも……?」となりました(下載3枚目)。
4Bの鉛筆でグリグリと、筆圧で紙も指もへこませて何度も何度も往復させるんですが、それでも真っ黒にならない。書いてるときは黒くできたと思うんだけど、他のひとの作品と並べてみてようやくそんなことなかったと気づくんでした。こうしてパソコンのペイントソフトならカラースライダをいじれば一瞬で出せてしまう色を、紙の上にだそうとして何時間も費やすんでした。たぶん一生だせないのに。