すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

『サイン』は駄作か傑作か?;『SAVE THE CATの法則』が説く「お話」の良し悪しと、『小説のストラテジー』が見聞する言外の表現

 

記事の趣旨

『SAVE THE CATの法則』は神器あつかいされて久しいし、おおむね良い本ですが、この本収録の『サイン』disは的外れな非難でしょう。

 そこへ注釈がいれられることなく、手放しに絶賛されつづけている状況が良いものだとは思えません。

 ・著者は別々のシーンを混同したりセリフや言外に描写される情報を無視したりしており、結果各シーン時に鑑賞者がいだいている感情のトレースも微妙で、まっとうな批判ではありません。

 ・著者は「《ありえない事象は作中一つだけにする》という鉄則を『サイン』は破り、神とエイリアンふたつも出している。エイリアンが来てる時点で主人公の神に対する不信なんて成り立たない。奇跡が信じられないなら窓の外のUFOを見ろ主人公」との旨でdisるけど、この二者は『サイン』劇中で同列処理されている事象であり、主人公が窓の外のUFOを見ても奇跡と思えないと告白するそのものズバリなセリフを無視しています。

 ・著者が良いと唱える演出(セリフでじゃなくて映像で表現しろ)を『サイン』がやっていても無視しています。

  ・『サイン』には映像で言外に表現する演出のほか、「セリフ上でだけ表すことにより設定を空転させつづけた果てに、ターニングポイントを契機にしてそれまでセリフの中だけの存在だった代物をついに画面内に収め、それをつかったアクションを畳みかけて具体化する」という、もう一枚上手な展開も登場する……けれど、前者に触れない著者が後者に触れるワケが当然ないのでした。

(・映画や映像について表記したタイムスタンプは、再生ビューアの挙動が微妙で、ぜんぜん時間ちがうかもしれません……)

 

 

本文

 「だから何なの?」不自然が二つもある前提に、あきれた結末;『SAVE THE CATの法則』が説く『サイン』のメチャクチャ

〔練習問題〕

 これまで見た映画のなかで、好かれそうもない主人公の例を挙げてみよう。この問題を解決するためにどんな工夫がされているだろう? そんな主人公でも観客が共感できるようにするには、《SAVE THE CAT》のどんなテクニックを使えばいいのか?

(略)

4 M・ナイト・シャマラン監督の『サイン』が大好きな諸君。『サイン』なんて信じられない!!と思っている諸君。チャプター1の終わりに書いたアドレス宛てにメールを送ってくれたまえ。そしてシャマラン監督の『アンブレイカブル(00)――あまりにも不自然でぎこちなく、『サイン』が『戦艦ポチョムキン(25)のように思えるほどだ――について説明してほしい。でもひと言いっておこう。私は『アンブレイカブル』には相当不満なんだ。今でもチケット代一〇ドルを返せ!って思うよ!

   フィルムアート社刊、ブレイク・スナイダー著『SAVE THE CATの法則』kindle版67%(位置No.3723中 2475)、「Chapter6 脚本を動かす黄金のルール」章末より(略は引用者による)

 現代ハリウッド脚本術の教科書的な立ち位置となっているうえに、外国・他分野でもたとえば日本一ソフトウェアの菅沼元氏がァミ通』「ゲームクリエイター 心の三種の神器」特集で「本筋であるシナリオの教科書としても読みやすく、丁寧な解説や分析がなされ」た本として初心者へオススメされたり*1、最近でも創作指南本語りのなかで第14回東京創元SF短編賞受賞者 阿部登龍さんが「執筆に役に立つだけでなく、映画を観る楽しさも増してくれ」る本だと取り上げたりなど輝かしい指南書SAVE THE CATの法則』

 この本のなかで、著者スナイダー氏はM・ナイト・シャマラン監督イン』をはげしく非難します。

 魔法は一回だけ

 これも気に入っている法則の一つだ。しかも絶対に破ってはいけない法則である。なのに現実にはしょっちゅう破られているのだ! 理由はどうあれ、とりあえず忠告しておこう。一本の映画で使える《魔法は一回だけ》。鉄則である。UFOに乗って地球にやってきたエイリアンが、吸血鬼にかまれて<不死身のエイリアン>になった、なんていうのはナシってこと。

(略)

 この他にも、《魔法は一回だけ》に違反している大ヒット作がある。しかもこれは原作がコミックじゃないので、さっきみたいな言い分は成り立たない。M・ナイト・シャマラン監督の『サイン』(02)である。まず初めに、観客はエイリアンが地球にやってきたことを信じなきゃいけない。さらにはメル・ギブソンの神に対する信仰心の危機も描く映画なので、神の存在をも信じなきゃいけない。しかも、最後には高度な知能を持つエイリアンが、野球のバットの一撃でやられてしまう(「メリル、打て!」どうしようもなくアホなこのセリフ、ある意味私のお気に入りだけど)という、あきれた結末までついている。

 ちょっと待ってよ!

 宇宙の果てから高度な知能を持つエイリアンがやって来たっていう時点で、神様の存在なんて成り立たなくなるんじゃないの? それなのに、シャマラン監督はその両方を信じろって言う。そりゃ、あまりにもメチャメチャだよ。

 たぶんこういうことなのだろう。シャマラン監督が最初に考えていたのは、一つの魔法だけだった――エイリアンとか、ミステリーサークルとか。でもこの手の作品はいくらでもあると気づき、同じエイリアン物でも、他とは少し違った意味のあるものにしようとした。それはいい。でもやり方がまずかったね。エイリアンが地球にやってきた時点で、神に対する信仰心の危機なんていうテーマは成り立たなくなってしまうのだから。奇跡を見たいっていうんだったら、窓の外を見たらいい。宇宙がやってきたぜ、メル!!!

   フィルムアート社刊、ブレイク・スナイダー著『SAVE THE CATの法則』kindle版67%(位置No.3723中 2475)、「Chapter6 脚本を動かす黄金のルール」魔法は一回だけ より(略は引用者による)

 やはりスピルバーグは私たち――シャマラン監督も含めてね――とは一線を隠す偉大な存在だ。ドリームワークスの作品が《マスコミは立ち入り禁止!》のルールを破ったことはないし、これからもないだろう。一方、M・ナイト・シャマラン監督の『サイン』は(またこの映画かよ!)明らかに破っている。だからまずいのだ。あくまでも私の意見にすぎないが。

 ペンシルバニアの農場で暮らすメル・ギブソンの一家は、エイリアンに襲われる。まずはミステリーサークルができ、やがてエイリアンがやってきて、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(90)さながらにメルの家に押し入ろうとする(そのあと何がしたいのかは不明だが)。観客のほうはハラハラドキドキしているのだが、肝心の家族のほうは悠長にアルミホイルのバカみたいな帽子をかぶってテレビなんか見ている(まったくなんて映画なんだ!)。すると画面に、CNNのニュースが映る。世界中にエイリアンが襲来したらしい。南米では子供の誕生パーティにエイリアンが侵入したという、不気味な映像まで流れる。

 

 たしかに面白いのだが、だから何なの?って感じだ。自分の家を襲ってきたエイリアンから家族を守ろうとしているメルと、このニュースは別に関係がないし、そもそもこんなニュースが流れたら、彼らの状況に緊迫感がなくなってしまうじゃないか。エイリアンに直面しているのはメルだけじゃなくなるのだから。『E.T.』の例でもわかるように、マスコミが入ると<私たちだけの秘密>はもう秘密じゃなくなってしまう。そうなると観客は、もはや自分がストーリーの一部だと感じられなくなってしまうのだ。

   フィルムアート社刊、ブレイク・スナイダー著『SAVE THE CATの法則』kindle版67%(位置No.3723中 2688)、「Chapter6 脚本を動かす黄金のルール」マスコミは立ち入り禁止! より(略は引用者による。また「隠す」は原文ママ

 ぼく自身くだんの作品について、素朴に感動しつつも、謎やら伏線やらを強調した前評判を聞いたうえで*2直面したこの物語に、釈然としない思いを正直かかえました。

 スナイダー氏のおっしゃる「窓の外を見たらいい」は観ている最中にまったく頭に浮かびませんでしたが、そう言われるとなんだかごもっともな気がしてきますね。ほかにもよくネットの賢明なかたが(たとえば古川土竜『映画無段』さんの「ポンコツ映画愛護協会」だとかが)言われる「そんなところをどうして侵略対象に選んだんだ?」というツッコミも、たしかにそうかもとうなづくことしきりです。

 『サイン』とおなじくぼくの思春期にとって重要な存在である、殺器官』『ーモニー』などを手がけたSF作家の伊藤計劃さんも、バットなどなどの「ネタ」っぷりにびびり散らかされています。

「B級映画のネタをやたら端正に撮る」これはネタなのかこのインド人のおっさんの天然さなのか。それを判別することはぼくにはできないけれど(後者の方が状況としては面白いのだけど)、そのスタイルの不釣り合いさがマックスに炸裂してしまったあげく、心ある映画ファンの至極真っ当な怒りを買い、もう二度と映画が撮れないんじゃないだろかこのオッサン、いやそうでなくてもこれが冗談だとわかったらキリスト教原理主義者に殺されるぞ、というほどグロテスクに不釣り合いになっってしまったのが「サイン」だった。これはほんとにびびった。オチではなく、物語でもなく、この物語がこんなふうに語られていいものだろうか、という作り手のあまりの面の皮の厚さにビビったのだった。だって、バットだぜ。バットホアキンまじ飛び退きだぜ。ホアキン矢追映像観てまじ恐慌だぜ。そんなどうしようもなくネタ臭い状況をカメラはあくまで端正に、通常の物語が進行しているかごとく、平然ととらえているんだぜ。

   はてなダイアリー伊藤計劃:第弐位相』「ヴィレッジ」

 

 しかし、「メチャクチャ」なのに「端正」とは、いったいどういうことなのか?

 映画『サイン』本編を改めて観てみましょう。

 今作は、スナイダー氏の言から想像されるほど粗雑な作品じゃ決してありません。伊藤氏の言うとおり端正な作品です。

 

  ▼スナイダー評のどこがおかしい?
   ▽スナイダー氏が取り上げない、『サイン』の言外の表現

セリフでプロットを語っていないか?

 出来の悪い脚本にありがちなもう一つの問題点は、<セリフでプロットを語ってしまう>ことだ。これをやると、ド素人の脚本家ってことがバレバレになる。例を挙げてみよう。「僕の姉気なんだから、もちろんわかるだろ!」とか、「あの頃とはもう違うんだ。俺がニューヨーク・ジャイアンツフルバックのスターだった頃。あの事故が起きるまでは……」なんていう登場人物のセリフ。こんなセリフは……(はい、みんな一緒に)アウトだ!

 たとえばツイッターで1万いいねを獲得した『SAVE THE CATの法則』のこの指摘。

 スナイダー氏はつづけて <語るな。見せろ> と付け加え、以下のように具体化します。

たとえば、夫婦が散歩しているときに二人の仲がうまくいっていないことを表したいとする。それにはカウンセリングに通っている話を二人がダラダラ語るより、若い女の子に見とれている夫の姿を見せた方がわかりやすい。映画は映像で語るストーリーなのだ。映像で表現できるのに、なぜわざわざ言葉で説明しなきゃいけない?(略)主人公が元ニューヨーク・ヤンキースの選手だったという過去を知らせたいんだったら、アパートの壁に昔撮ったチームの写真を飾っておけばいい。それから少し片足を引きずらせる(こうすれば事故で選手生命が絶たれたことはわかるだろう?)。さりげなく表現するのだ。(略)

 セリフではなく映像で表現すれば、登場人物の一番いい状態――彼らが行動を起こしている姿――を見せることもできる。登場人物が脚本家の目的のためでなく、自分の目的のためにシーンに現れたことが明確になるのだ。

   フィルムアート社刊、ブレイク・スナイダー著『SAVE THE CATの法則』kindle版76%(位置No.3723中 2819)、「Chapter7 この映画のどこがまずいのか?」セリフでプロットを語っていないか? より(略は引用者による)

 本と映画それぞれを目にした読者は、ここで「?」が浮かぶことでしょう。

 『サイン』冒頭で暗に示されるメル・ギブゾン演じる元牧師グラハム・ヘスのバックグラウンドは、まさしく氏が挙げた <語るな。見せろ> の実例と応用例なんですよ。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/z/zzz_zzzz/20211115/20211115020933_original.jpg

  始まりは象徴的なショットだ。中庭を見下ろした風景、できれば画面上方にコーン畑。
  幸せそうな家庭を予感させる。

   ブエナビスタホームエンターテイメント販売、M・ナイト・シャマラン監督『サイン』DVD特典映像「メイキング・オブ『サイン』」0:07:41、ストーリーボード会議にてシャマラン氏の言(句読点は引用者による)

最初と最後の風景はノーマン・ロックウェル風。ブランコの中庭に―その向こうには畑。アメリカの理想だ。

   ブエナビスタホームエンターテイメント販売、M・ナイト・シャマラン監督『サイン』DVD特典映像「メイキング・オブ『サイン』」0:41:20、「撮影」シャマラン氏の言(句読点は引用者による)

 古き良きノーマン・ロックウェル風のアメリカらしい一軒家の庭が、窓ガラスで波打つ第一ショットのつぎ。

 『サイン』メル・ギブソン氏演じる主人公グラハム・ヘスの初顔出しを、過去に撮られた笑顔の家族写真が、鋭い息を吐きながら険しい顔で目覚めた現在のかれの顔の弩アップで覆い隠されるという、新旧を対照的に対比させたショットによって行ないます。(0:02:23~)
 第三ショットで映された寝室にはグラハムひとりしかおらず、しかし彼が寝起きするベッドの左半分(画面からは右半分)ほどが空いています(0:02:31~)
 子ども部屋が静かなのをドア外から確認したグラハムは自室へ戻りますが、そのさい廊下に脱ぎっぱなしにされた白い靴下を拾って自室に戻ります。(0:02:54~)
 戻って歯磨きするのも束の間、グラハムの悪寒が的中したかのように少女の甲高い悲鳴がひびいて、離れのホアキン・フェニックス氏演じる弟メリル・ヘスともども外へ出ると、「パパ! メリル叔父さん!」という少年が自分たちを呼ぶ大声が聞こえます(0:03:31~)……

 ……いささか前時代的な判断をふくんだ解釈ですが、これらのショットで読み取れるのは、「古き良き」ホームドラマに不可欠なはずの「妻」「母」の不在です。

 ひとり床に就く夫の半分空いたベッドからは、夜の営みがないことが。廊下に放置された靴下からは、家をきれいに保つ「古き良きお母さん」の仕事がなされていないことがそれぞれ窺えます。

 そして子供たちの悲鳴を聞いて動くのも、子供たちが助けを求めるさきは――父母ではなく――パパと「叔父さん」。

 シックス・センス』『アンブレイカブルと、距離感のある夫婦関係・親子関係を監督として脚本家として描いてきたM・ナイト・シャマラン。シャマラン氏の手腕が、今作『サイン』でも冴えわたっています。

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 前述の歯磨き中に娘の悲鳴を聞くショット(0:03:05)を見れば、グラハムのかかえる別の不在もセリフ外の情報として描かれていることが見てとれます。

 前景の壁・画面右から1/3の上部には、はずした十字架の跡があります――グラハムが信仰を失った元牧師である言外の表現です。

(『サイン』DVD映像特典「メイキング・オブ『サイン』」を見ると、それが撮影前段階から用意された意図的な細部であることがわかります。

 第二班監督でストーリーボード・アーティストであるブリック・メイソン氏がシャマラン監督との話し合いをもとに記した絵コンテの時点からこの跡は記されており、美術監督ラリー・フルトン氏がさらに詳しく意図を説明します。それについてはまた後段ふれましょう)

 スナイダー氏はこうした表現をなぜ取り上げなかったのでしょうか?

 もしかすると『サイン』ではその後グラハムが元牧師であることはその後なんどもセリフで出てくるので、「せっかくの映像的サブテクストが台無しだ」と思われたのかもしれません。{そうならそうと説明すべきですが(説明されないと、スナイダー氏がただ読めてない力不足かつ調査不足のダメ批評眼の持ち主なのか、読めたうえで浅いと言っているのかわからないので)、まぁ置いときましょう}

 ですがぼくはむしろそうした一見冗長的なセリフがまた今作の味わい深い表現だと思いました。これについては少し置いてから話します。

 

   ▽スナイダー氏が言う「悠長にアルミ帽子をかぶってTVを見る」シーンなんて無い;『サイン』の描く恐怖とは実際にはなにか?

 『SAVE THE CATの法則』による『サイン』レビューは語り落としがあるだけではなく、(翻訳のせいか原文からしてそうなのかは面倒なんで調べてませんが)まちがってさえいます

 そもそもスナイダー氏がツッコむ「アルミホイルハットをかぶりながらTVのニュースを見る」シーンは『サイン』本編のどこにも存在しません。べつべつの時系列の複数のシーンがごっちゃにされています。

{子どもがTVを見つめるシーンもあるし(0:20:32)、子どもがアルミホイルハットをかぶりながら本を読むシーン(0:49:20)もある。でもアルミホイル帽子かぶってTVを見るシーンはない}

 なので氏の要約は、鑑賞中の観客がいだく心情のエミュレートとしても適切ではない。

 ニュースにしたって、それを見ている時点ではまだ主人公の家はエイリアン(と観客にはっきり示された存在)に襲われていません

 エイリアンがいるかどうかを含めてその時点ではまだ確定情報はなく、家では「隣人ライオネルのしわざでは」とうわさされるミステリーサークル妙な人影による家探しがあったのみです。

 TVで報じられるのは画質の悪い劇中フッテージ映像があるのみで、手持ちカメラで撮られたその映像はたしかに恐ろしいっちゃ恐ろしいですけど、伊藤計劃氏が言うとおり矢追映像――胡散くさいUFO・UMA番組の作り物のような質感。「なにか裏があるのでは?」と、はたして劇中現実として信じていいものかどうか迷うものです。

 気晴らしにとすすめられてヘス家族がおとずれた町では、本屋に行った子供たちは店の主人から(何度もおなじCMが流れることを根拠とした)「スポンサー会社のでっちあげに決まってる!」(0:24:09)との息の荒い断言を聞くこととなるし、軍のリクルート施設に行ったメリル伯父は将校から「斥候だろう」(0:26:09)とのしずかに確信をもった声を聞きます。どちらもそれぞれの思想基盤から来るだろう独自見解ですね。

 

 劇中家族がアルミホイルハットをかぶった段階で劇中メディアが把握しているのは、空にUFO的な光が浮かぶ映像のみ

 手持ちカメラによりエイリアンを画面内へおさめたホームビデオ(=伊藤計劃氏のいう所の、ホアキン演じるメリル叔父がマジ飛び退きする矢追映像)が劇中で報道される(0:57:17~)シーンは、メル・ギブソン氏演じるグラハム・ヘスが街の知り合いからの電話を受け、知人の家中が荒らされているのを窓越しに直接見て、そして腹を怪我して真っ赤な血を湿らした家主から"奴ら"に襲われた話を見聞きした一連のシーン(0:52:37~)の後に登場します。

 劇中メディアが報じるような(ちょっと信じがたい)"外のようす"は、主人公であるグラハムの認識の半歩後ろを維持して並び歩びつづけており、一部の作品でかんじる――いわゆる「志村うしろうしろ!」的な――観客の知りえる情報が劇中主人公より多いために生じるヤキモキは、今作では注意ぶかく排除されています。

 スナイダー氏が言った観客の「ハラハラドキドキ」は、たしかに終盤の地下室での一幕のように暴力沙汰の直接的なサバイバル要素により生じるものもあるでしょう。でも、今まさにエイリアンがメルの家に押し入ろうとする」喫緊の恐怖から生じているものばかりじゃありません

M・ナイト・シャマラン

物音や明かりや動く気配で―登場人物たちは部屋に何かがいると気づく。何かが起こりそうな恐怖ナイフの男より怖ろしい。ナイフ男は直接的なこけおどしにすぎない。瞬間的な恐怖で終わってしまう。

 そうではなく、観客を引き込んで―この超自然現象への旅を実感させたいんだ」

   ブエナビスタホームエンターテイメント販売、M・ナイト・シャマラン監督『サイン』DVD特典映像「メイキング・オブ『サイン』」0:04:36~(句読点は引用者が付け加えた)

 なにがなんだかわからない、見通しのわるい不穏な状況にたいして『サイン』観客はハラハラするんです。

 

 奇妙な閉塞と解放;『小説のストラテジー』が説く『サイン』のカタルシス

  ▼窓の外を見たら奇跡と思える「わけがない」;セリフによって明示されるグラハムの価値観、『小説のストラテジー』が読むカタルシス

 『サイン』をあらためて観てみると、

「そもそも、主人公の牧師は、"窓の外を見たらいい"なんて思えるような造形の人物なのか? そんなことなくね?」

 という反語だって湧いてきます。

メリル

「以前のようになってくれよ。励ましの言葉を」

グラハム

「人間は2つのグループに分けられる。幸運に出会うと― それを幸運や偶然以上のものと考え― 神の啓示(サイン)ととらえる人々。

"神が私を見守ってる証拠だ"と解釈するんだ。

 2番目のグループは"ただの幸運"、"運がよかった"と思うだけ。その連中は疑いの目でこのUFOを見ている

"先がどうなるかは五分五分"、"悪い前兆か いい前兆か"

 とにかく―心の底ではこう思ってる。"所詮 この世は自分だけ"。それが彼らの心を恐怖で満たす。そういうグループの人間だ。

 だが多数は最初のグループ空を飛ぶ光を見て―奇跡だと思う

 そして"何が起ころうとも―"助けてくれる誰かがいる"(略)

メリル

「兄貴はどっちのタイプ?」

(略)

グラハム

「コリーンが息を引きとる前に何と言ったか教えよう。こう言った、

 "見て"

 その後目が少し輝いて―それから言った"さあ 打って"と。

 そう言ったわけを? 死を前に脳の神経が働いて―お前の試合を観戦した記憶が断片的に甦ったんだ。

 誰も我々を見守ってはいない。人間は独りで生きてる

   ブエナビスタホームエンターテイメント販売、M・ナイト・シャマラン監督『サイン』0:41:41~ホアキン・フェニックス氏演じるメリル・ヘスと、メル・ギブソン氏演じるグラハム・へスの会話。(色替え太字強調、略は引用者による)

 上に抜き書きしたセリフのとおり、UFOと神の合わせ技もバットも、スナイダー氏のツッコミはそもそも本編でしっかり織り込み済みの、主人公である元牧師の不信をむしろより一層如実に提示するものであったことがハッキリ述べられています。

 

 また、スナイダー氏が述べた別の言「そもそもこんなニュースが流れたら、彼らの状況に緊迫感がなくなってしまう」も意味がわかりません。

「あなたたち本当に辛い経験をした。だからバカげた世間の騒ぎなんかで子供たちを不安にさせてはダメ。ちょっと街に出かけたら? 子供たちもあなたも気晴らしするのよ」

   M・ナイト・シャマラン監督『サイン』0:22:09~(吹替版セリフより)

グラハムの息子「叔父さんラジオ点けて」

(車内のラジオをONにするメリル叔父)

ラジオ音声「これは空から見るための目印なのよ」

(車内のラジオをOFFにするグラハム)

   M・ナイト・シャマラン監督『サイン』0:23:04~(吹替版セリフより)

 『サイン』劇中でニュースなど外界の情報は、「(子供たちを)不安にさせる情報」として位置づけられ、旧知の保安官からの忠告をうけたグラハムも遮断しようと初め努めるものなのです。

 そんなグラハムの努力もむなしく、脅威をつたえる外界からの情報は子供たちの耳目にはいり、それを真に受けた奇妙な行動をとっていく……その塞いでもなお伝染していく恐怖・不安の象徴のひとつがアルミホイルハットなんですね。(ティンホイル・ハットと呼ばれる、パラノイアや陰謀論者が行なう防護策

 

 こと『サイン』の観方において重宝するのは、『SAVE THE CATの法則』よりも、作家の佐藤亜紀さんが著した説のストラテジーでしょう。

 佐藤氏は評の前半で、『サイン』のそうした機序について端的かつ詳しく紐解いたシナリオを検討します――

 

[悲劇とは]同情恐怖を惹き起こすところの経過を介して、この種の一聯の行為における苦難(パトス)の浄化(カタルシスを果たそうとするところのものである。

(今道友信訳、六章、二九頁)

(略)

 ここで問題にしたいのは、おそらく今日でも十分に有効であるところの「苦難(パトス)の浄化(カタルシス)」です。大抵の娯楽的フィクションに接する時、我々が期待する感動の基本形と言っていいでしょう。ところでひとつ確認しておきたいのですが、あなたのその「苦難(パトス)の浄化(カタルシス)」は、本当に物語から来たものですか。

 M・ナイト・シャマランの『サイン』を例にしてみましょう。ご存知の通り、毀誉褒貶の激しい映画です。細君の死後、信仰を失った牧師が二人の子供および実の弟と一緒に暮らしていると、宇宙人が攻めてくる、という、監督は何を考えているのか全く頭が痛い、な映画であるのは事実です。まともな娯楽作品なら、当然、宇宙人の大侵攻があり、宇宙人は設定上も造形上も猛然と恐ろしく、主人公は(大統領とまでは行かなくとも、田舎牧師ではない方が望ましいでしょう)艱難辛苦の末に反撃のイニシアティヴを取り、華々しく勝利しなければならない、と。ところで『サイン』はまるでそういう映画ではありません。主人公は何しろ辞めた牧師だし、自宅と隣近所以外どこにも行かないし、宇宙人を撃退する手立ても思い付かず地下室に籠るだけだし、宇宙人が撤退するのも、人類とは大して関係のない不都合のために過ぎず、何より、この宇宙人の造形たるや、コミックタッチでない分『マーズ・アタック!』よりは怖いとしても、猛烈にしょぼい。つまり、『インデペンデンス・デイ』を見るような期待を持って見始め、監督の繰り出す想定外の手口がまるで理解できないまま追い詰められ、ぼこぼこにされて放り出される観客にとって、これは猛烈な駄作です。(略)

 もう少し細かい筋書きに目を向けても、事態は大幅に改善されるとは言えません。牧師が信仰を失ったのは、死に際の細君が、自分ではなく弟にむけた言葉をのこしたからです(略)。そのことを話しながら、牧師は弟に、ひどく脅迫的な態度で尋ねます。何かが起った時、ある人はそれを偶然だと考える。別な人はそれを何かの徴(サイン)だと考える。お前はどっちだ、と。牧師は妻の今際の一言を、裏切りの徴(サイン)だと考えている。ところで、冒頭から牧師の家で起っていた奇妙な現象の数々は、娘が家中に飲みかけて置き散らした水のコップから問題の妻の一言に至るまで、家に侵入した宇宙人の撃退にしかるべき役割を果たし、毒ガスを吸わされて息絶えたかに見えた息子に至っては、牧師が祈ると同時に息を吹き返します。全ては神の送りたもうた徴(サイン)だった、と解釈した牧師は信仰を取り戻します。これなら、幾らか疑問の余地は残しながらも、「苦難(パトス)の浄化(カタルシス)」は達成されているように見えるでしょう。

   筑摩書房刊(ちくま文庫)、佐藤亜紀『小説のストラテジーkindle版16%(位置No.3169中 495)、「2 フィクションの「運動」 読み手が反応するのは物語ではなく記述である」Ⅱ(略は引用者による)

 ――なるほど「打って」も多義的なことばであったと。子どもの奇行などなどものちのち意味をもつのだと。

 こうして補助線を引かれてみれば、スナイダー氏が問題視した要素のゴチャゴチャ具合も、わりあい前例のある王道なのだと思えてきます。

{たとえば『サイン』が公開される50年前の時点ですでに、地球外から来たヒトにとって神のような上位存在がいわゆる悪魔にそっくりの見た目だったアーサー・C・クラーク年期の終り』が出版されていたわけですしね。おなじく作家の佐藤哲也氏は、『サイン』からフレデリック・ブラウン著星人ゴーホーム』を連想されています。

「90~120分の映画と長編小説では、扱える情報量に差があるのでは?」

 それもそうですが、しかしその観点からしても、{『サイン』劇中でも状況との類似が語られる(1:07:44)}H・G・ウェルズ原作のバイロン・ハスキン監督による映画宙戦争』という、最後の舞台として教会に辿りつき、ちょっと宗教的奇跡がかった一幕をむかえる作品がすでに53年に公開されています。これらの要素が一緒に扱われた作品は、映画においても50年くらい蓄積がありそうな気がします}

 しかし……

ところで、以上の説明を、『インディペンデンス・デイ』になっていないから決定的に駄作だと信じる観客に向って説明したら、納得は得られるでしょうか(略)

 それで?と言われるのは目に見えています。

   筑摩書房刊(ちくま文庫)、佐藤亜紀『小説のストラテジーkindle版16%(位置No.3169中 528)、「2 フィクションの「運動」 読み手が反応するのは物語ではなく記述である」Ⅱ

 ……そんな佐藤氏でさえも、『サイン』のシナリオの「頭の痛さ」は否定できません。

 

  ▼奇妙な筋書き・配役・建物・小道具がもたらす閉塞と解放;『小説のストラテジー』が説く、画と音による芸術としての映画演出

 『サイン』について、ハリウッドのシナリオの御作法が赤点を、多くの観客が駄作だとこき下ろしながらも、それでもなおティーン時代のぼくやこれまた多くの観客がなんだか感動してしまったのはなぜなのか?

チェスを覚えたばかりの小学四年生が、オンライン対戦に挑戦したところ、むこうはディープブルー級のチェスエンジンだった、というところでしょうか。

   筑摩書房刊(ちくま文庫)、佐藤亜紀『小説のストラテジーkindle版16%(位置No.3169中 515)、「2 フィクションの「運動」 読み手が反応するのは物語ではなく記述である」Ⅱ

 ディープブルー級の端正な傑作と評する人は、いったいなにが見えていたのか?

M・ナイト・シャマラン

普通なら映画の冒頭に、6ヵ月前の妻の死を ― 持ってくるのが時間的な流れだ。

 だが映画は ― 主人公が悪い予感に目覚めた場面から始まる。続いて登場人物の紹介。

"子供たちは?"

 007的なオープニングだ。ハラハラする場面から始まる

   ブエナビスタホームエンターテイメント販売、M・ナイト・シャマラン監督『サイン』DVD特典映像「メイキング・オブ『サイン』」0:16:27~(句読点は引用者が付け加えた)

 シャマラン監督は上で紹介したオープニングについてこう言います。

 ふつうの物語のセオリーから外れることで、『サイン』はなにを描こうとしていたのか?

 

 シャマランの映画に特徴的なのは、一見してわかるカメラ、というか画面設計の端正さだ。ハリウッド映画らしくない、というかクラシックなハリウッド映画の匂いすら感じさせる落ち着き払ったレイアウトに尺。これがベストだという構図でズバリ物語を伝えてしまうストイックな的確さ。人物の位置関係の伝達を優先度においてはほとんど最低にしたうえで、複数のアングルを短い尺のカットで激しく切り替えることによって、総体として曖昧に伝える「不経済な」最近のハリウッド映画の潮流とは明らかに別の資質だ。

   はてなダイアリー伊藤計劃:第弐位相』「ヴィレッジ」

 伊藤計劃氏はシャマランの端正さを上のように述べ、佐藤氏は『サイン』評の後半で、『サイン』の画と音の魅力を以下のように語ります。

 『サイン』の場合、始まってすぐに、受け手は非常な狭さと息苦しさを強いられることになります。視界は常に遮られ、狭められ、見えない場所で起っていることの手掛かりは音からしか得られないのですが、この音はほぼ常に威嚇的です。登場人物は最初から不穏な緊張に曝されており、犬や子供の異常行動が、その緊張を高めます。眉間に皺を寄せたメル・ギブスンとホアキン・フェニックスの陰気な顔も、兄が信仰を失った牧師弟が挫折した野球選手という事情も、その二人が異変を即座にろくでもない隣人の仕業と断定し、物音を聞くや大声を出して追い回す視野狭窄ぶりも、更なる心理的な狭さと息苦しさを生むことになります。

 特に決定的なのは視界の限定でしょう。玉蜀黍畑に囲まれた家の外でも、薄暗い家の中でも、視界は限定されているか、何かに遮られていて、彼方まで見通すことはできない。一度だけ、画面のほとんどを空が占めるカットがありますが、それはむしろ空間恐怖的な空、そこから今にも何かが現れようとする空、一刻も早くその無限定から逃れて、狭く遮られた場所に逃げ込まなければならない空です。より広い外界への窓であるテレビも、空からの侵略者の情報に埋め尽くされ、生活空間から締め出すように階段下の物置にしまい込まれます

 空間恐怖に追われるようにして、主人公たちは家の中に閉じ籠り、窓を塞ぎ、さらに地下室へと引き篭もって行きます。(略)空間的にも、心理的にも最も閉塞した瞬間を経過して、まず電灯が点り、ラジオが侵略者の撤退を告げ、一家は地下室の扉を開けて出ようとする。

 この映画で一番重要なのは、地下室への撤退に続く、反転解放の過程です。否応なしに画面は階段の上へ、地下室の外へ、そのむこうの窓へと解放される。もちろん、前の晩に板で打ち付けた窓ですが、その板には太陽と月と星の形が刳り貫かれていて、朝の光が差し込んでいる。

 『サイン』において、もっとも説得力のある「苦難(パトス)の浄化(カタルシス)」が起るのは、この瞬間です。この解放感の中で、無意味に散乱していた様々な現象は、偶然でないとすれば超自然的な符号を示しはじめ、しまいには牧師が祈ると息の止まった息子まで復活してしまう。

   筑摩書房刊(ちくま文庫)、佐藤亜紀『小説のストラテジーkindle版16%(位置No.3169中 537)、「2 フィクションの「運動」 読み手が反応するのは物語ではなく記述である」Ⅱ(略は引用者による)

 視野狭窄」な「閉塞感」に代表される「圧迫」とそこからの「解放の運動」『サイン』の全プロット」を支えている……

M・ナイト・シャマラン

「物音や明かりや動く気配で ― 登場人物たちは部屋に何かがいると気づく。何かが起こりそうな恐怖はナイフの男より怖ろしい。ナイフ男は直接的なこけおどしにすぎない。瞬間的な恐怖で終わってしまう。

 そうではなく、観客を引き込んで ― この超自然現象への旅を実感させたいんだ」

   ブエナビスタホームエンターテイメント販売、M・ナイト・シャマラン監督『サイン』DVD特典映像「メイキング・オブ『サイン』」0:04:36~(句読点は引用者が付け加えた)

M・ナイト・シャマラン

地下室はまるで地獄のようだ。撮影に入ると明かりは懐中電灯だけにした。懐中電灯だけの明かりや完全な暗闇は効果的だ。電気が消えた瞬間、劇場では観客が息をのむ。安心する間を与えない」

   ブエナビスタホームエンターテイメント販売、M・ナイト・シャマラン監督『サイン』DVD特典映像「メイキング・オブ『サイン』」0:32:30~(句読点は引用者が付け加えた)

 ……佐藤氏の見解を補助線にみれば、スナイダー氏目線からは「だから何なの?」なアルミホイルを頭に巻く娘の奇行(=ティンホイル・ハットと呼ばれる、パラノイアや陰謀論者が行なう防護策も、(主人公が「奇跡を見たい」からではなく、奇跡を信じられず「見たくない」からこそ、子供たちを不安から守るべくわざわざ隠すアクションを取りさえする外界のニュース映像も、この映画が傑作足りうるための重要なピースであると感じられます。

 

 「説明ゼリフ」による閉塞と空転、なおも残るもの;佐藤氏の見解をふまえたうえで、スナイダー氏が取り上げなかった、『サイン』のセリフとアクションを再考する

 佐藤氏の見解をふまえたうえで『サイン』を観てみると、「スナイダー氏が"台無しだ"と言いそう」と記事なかほどで推察したグラハムが元牧師であることを示す説明ゼリフ(と取られるだろう展開)も、『サイン』にただよう閉塞感の一変奏なのだと思えてきます。

 そして、最後のカタルシスへ導くための蜘蛛の糸カタルシスをより強く打ち立てるための空虚であるかのように思えます。

 グラハムも弟のメリルも、会う人会う人に現況を訊ねられたり頼られたりします。

 家主(であるグラハム)に声かけもせずいつのまにか室内へ入りこんでいる保安官からは誰か……あなた達に恨みか何かある人間はいない? 教会の信者で……あなたが、辞めたのを快く思わない人だとか」(0:19:39)と訊ねるし、たまたまおとずれた薬局の店員からもグラハムは「牧師様」と声をかけられ、そしてかれは「牧師はやめてくれ」と否定します。「知ってるだろ、半年前にやめたんだ」と。

 同様に弟のメリルは、異変について聴取しにきた保安官から「ガソリンスタンドの仕事はどう?」と世間話をふられるし、初めて会話しただろう軍のリクルートからは「思い出したぞきみは野球選手だったよな? 町の球場の最長距離ホームラン記録の!」と声をかけられ、さらに画面外から「最多三振数の記録保持者でもある」と隣人ライオネルから――ミステリーサークルなどの犯人とヘス兄弟がみなした犬猿の仲の人物です(気づかなかっただけで、実は同室にいたのです)――口出しされます。

 

 立地的にも人間関係的にも狭い田舎町らしい閉塞感を、ぼくはこれらのやり取りからおぼえました。

 牧師であったという情報が重複しているグラハムにたいして、メリルが野球選手であるという話題の絞られ具合は、シャマラン氏の作劇がいかに端正かを物語る一例でしょう。メリルの過去が軍のリクルートでの場面まで待って初出しされているとおり情報提示はタイトだし、そのタイトさがメリルの屈折した背景をうかがわせてナカナカ良い。

 メリルは軍を訪ねる前段で、兄弟で追いかけたものの捕まえられなかった謎の人影が、どれだけ異常な身体能力をもっていたかを保安官へ語ります。そのさい「ぼくは運動に自信があるけど」とじぶんを物差しにしますが、本当に冗長なだけの作品なら「ほら、知ってのとおり野球選手だったから」とかこの時点で言い出してもおかしくない筈なんですよ。でもそうしなかった。

 そう言い出さなかったことについて、グラハムが愛犬の不調に(獣医ではなく)医者を呼ぼうとしたシーンと同じ心理を見出す*3ことは大いに可能でしょう――メリルにとって野球選手であったことは夢破れた苦い経験だから、主体的には口に出せなかったのだと。

 

 街なかでのグラハムの会話劇からは、閉塞感のほかに、捨てても捨てきれないグラハムの背骨の太さを見出しもしました。

 単なるバックグラウンドの説明ゼリフとして見れば、グラハムが行く先々で「牧師様」と訊ねられるくだりは刈込み不足の冗長な不細工な展開でしょう。でも、このくだりを重ねたことでグラハムがそれだけ人望に厚い聖職者だったことが伝わります。

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この映画は宗教的色彩が濃く、主人公は信仰を捨てている。冒頭部には部屋の壁に十字架の跡が映る。信仰を捨てても―彼の周りから信仰が消えることはない。封印されてしまった信仰や宗教のサインが―家のあちこちに見られる。

   ブエナビスタホームエンターテイメント販売、M・ナイト・シャマラン監督『サイン』DVD特典映像「メイキング・オブ『サイン』」0:14:55、「製作準備」美術監督ラリー・フルトン氏の言(句読点は引用者による)

 美術監督ラリー・フルトン氏はグラハムの部屋の十字架の跡を上のように説明します。

 この説明のとおり、グラハムの牧師的な心理は、「やめたんだ」と言ってそう簡単に切り離せるものではない。

 「牧師様」と言われても保安官に対して「子供たちの声が聞こえない」と話題をそらしたグラハムは、「気晴らしにどう?」と提案された町へのお出かけで出くわした薬局店員から請われれば告白を聞こうとしてしまう(SAVE THE SHEEPとでも言いましょうか)、うえで長々引用したとおり「昔みたいに何か言ってよ」と弟メリルからお願いされれば、含蓄のある説教をしようとしてしまう

 映画が進むにつれて観客(であるぼく)は、グラハムの(振り払おうとしても振り払えるものではない)身に沁みついた牧師としての確かな背骨をより如実に目撃していくことになります。

 

  ▼宇宙人と、そして――;グラハムが神を信じた結果 顕現する二つのもの

 前述した地下室の真っ暗闇の「地獄」のなかで、グラハムは憎しみ・恨み節というかたちながらももういちど神を信じます

 そのくだりを経て、ようやくエイリアンの全身が(テレビ越しやドアなど遮蔽物ごしではなく劇中現実の肉眼で登場するわけですが。それと同時に、実はエイリアン以上にセリフだけで処理されて宙ぶらりんにされていたものもまた実体を持ちます――

 ――バットです。

 2階から地階までヘス家の室内シーンをくまなく1時間以上も重ねながらも、『サイン』はメリルの野球選手時代の記念品を飾ったスペースを一度も正面から写してきませんでした

 元ホームランバッターというメリルのプロフィールが、地獄をぬけてグラハムが神を改めて信じるようになった段になってようやく晴れて劇中において意味あるかたちで、そして映画らしいかたちで映される=(スナイダー氏言うところの)「登場人物の一番いい状態――彼らが行動を起こしている姿――を見せる」んです。

 なんとまぁ今作においてとても正しい展開でしょうか!

 神の存在を信じられる/宇宙人等々を徴(サイン)と見れるようになったからこそ、不信の契機であった野球選手としてのメリルの雄姿もまた拝める……まっとうな流れですね。

 この顕現について『サイン』はこれでもかと盛り立ててみせます。メリルは片手でくるりと軽やかにバットを回すと腰を入れてフルスイング、家のコップをエイリアンをパリンバコンと叩く叩く叩く叩く。なめらかなアクション・リアクションの応酬を、快音とインパクトを重ねていきます。

 ミステリーサークルに、犬の絶命、謎の家漁り人、町を出ようとする知人の腹の血のり、最愛の人の事故といまわのきわの呪言……さらには、TVを子供たちから離し物置部屋へしまいこむも、むしろ当のメリル本人がガンギマリ顔でTVに執着し説明する(グラハムが渋い顔で途中で退室した)「ちょっとまえにTVへ映された、見えないバリアに鳥が当たって落ちた」ことにまつわるディスコミュニケーションなども加えてよいでしょう……追いかけたときにはすでに終わってしまって介入しようもないし経緯もわからない断片的な"かつて・そこ"のできごととなっていたそれまでに対して、グラハムが呪言を福音へ再解釈しメリルへ授け、メリルがバットをふるっていく"いま・ここ"の姿の 確かかつ軽やかな手応えといったらもう!

 矢追映像にまじ跳び退きする姿が似合う(『グラディエーター』の皇帝役がそうであったように、ネッチョリ湿度のたかい陰気な雰囲気のただよう)ホアキン・フェニックスという役者から、元野球選手メリルという物語上のバックボーンがここにきて生き生きと浮かび上がっています

 

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 映画はいわゆる「物語」だけから成るものではなく、画や音などさまざまな表現を用いて鑑賞者の情動に訴えかける総合芸術である。

 先日かってに訳して紹介した、「環境ストーリーテリング」の概論であるヘンリー・ジェンキンズ氏のGAME DESIGN AS NARRATIVE ARCHITECTURE』とも重なる点があるとおり、佐藤氏が実例をくわしく検討してみせた観点は、ゲームなどほかの表現形式をあじわうさいにも重要なように思えます。

 しかし、巷で耳に入る「環境ストーリーテリング」がもっぱらゲーム世界内のフレーバーテキスト論に終始しているとおり、あまり顧みられていないんじゃないでしょうか。

 たとえばルダの伝説 ムジュラの仮面』(00年、任天堂)は、刻一刻と時間が流れていくゲームとして知られていますが、「この時分でなければこのイベントは起きない」といった時間指定型のイベントは実はそう多くありません。その前後のシリーズと変わらず、フラグ管理型のレベルデザインゲームです。

 だというのに『ムジュラ』がああも不気味でこわく、いつだって時間に追われて、次へ次へと無駄なく行動していかなきゃならない閉塞感に満たされているのはなぜなのか?

 あるいは『ムジュラ』も参照元として挙げるOuter Wilds』の劇中世界内資料あつめが、終盤ああもワクワクするのはなぜなのか?

 その謎を解き明かすのに必要となるのは、『SAVE THE CATの法則』ではなく『小説のストラテジー『サイン』に対して向けた目や耳や手なのではないでしょうか……

 

 ……といった具合の長い前説から、本題である『Outer Wilds』ならびにそのDLC「Echoes of the Eye」をかたる感想記事を準備し始めて早3年。一向に書き進められないまま多くの月日が過ぎ去ってしまった。

 

 

 

 

*1:

 最初は、シナリオの勉強のために勧められて買った本書ですが、エンターテインメントを生業とする者の心構えを示してくれる本として、たびたび読み返しています。(略)ちなみに、本筋であるシナリオの教科書としても読みやすく、丁寧な解説や分析がなされており、なんと各章末に練習問題もついているので、シナリオを書いてみたいけど、何から手をつければいいのかわからない……という方にもオススメです。

   Gzブレイン発行・KADOKAWA発売(2017年11月16日発売)、週刊ファミ通編集部『週刊ファミ通No.1511 2017年11月30日号』BOOKWALKER版(228中 36)、菅沼元「1+1が100にも1000にもなるようなゲームデザインを目指しています」より(略は引用者による)

*2:当時の公式サイトは残っていないため、あやふやな記憶だけで物を言いますが、めっちゃ「謎」推ししてた覚えがある。

*3:後段、ヘス家と獣医とのあいだに色々あったことがわかり、翻って、その断絶のために呼びたくなかったのだろうことが察せられる。