映画などでたまに観る「動いてるけど動いてない光景」等々、パッと思い出せるやつだけ書いてみる記事。(2025/04/21現在25作くらい)
映画などなどでごくたまに観る、「動いてるけど動いてない光景/動いてないけど動いてる光景/なんかチグハグして見える光景」が好きなんですよ。
映画をぜんぜん観なくなってしまったから作品と出会えてないし、出会った作品も忘れがち。メモっていこうと思います。*1
「動いてるけど動いてない」「動いてないけど動いてる」光景のなにがいいか?
・見た目が面白い。主客のギャップが面白い。
(押井守『Methods』コクピット論。たぶんドゥルーズとかに作例が載ってそうと思いつつ、大著に手を出せずにいる)
・違和感が大事。なので、腰下が映らなかったり動いてる背景の進行方向が見えなかったりする構図だとより驚けてより楽しい。
(たとえば、動く乗物やその乗り手に別の乗物の乗り手が追いつき速度同調するさまを、それぞれの車体が全部おさまる構図で見せられても、面白いは面白いけど「まぁそうだよなぁ」になってしまう)
(でも、「まぁそうだよなぁ」を除外したら大分寂しくなるので、とりあえず拾えるだけ拾いたい)
(「カーチェイスをやってます、チェイス者はこいつとあいつです」という情報が提示されてしまった時点で、いくら面白い光景がその後に映されていても「まぁそうだよなぁ」度は強まってしまう。かといって前フリが全く無かったら、それは単にポッと出の新展開であって、驚嘆はなくなってしまう。
「別れの挨拶が済み、乗物も出発、二人が離れていくさまで〆……イヤやっぱりまだ離れたくない!」みたいな、回答を一旦出したうえでの否定が、zzz_zzzzにとっての萌えどころ)
・世界に抗っている感、世界を付き従わせている感、世界から浮いている異物感など、それならではの味わいが出る。
・無駄足にせよ、「頑張ってるのに結果へと結びつかないもどかしさ」となるにせよ、「何も進んでないんだけど、動いたという充実感だけはある」と落ち着くにせよ、なんらかの情感が乗ってくる。
・被写体などが動くに値する関心事をその瞬間もってないことにはそういう妙な光景は発生しないだろうわけで、それが出てくるという時点でつまり、その作品は何らかのドラマが作り上げられている。
・『少年たち』『マイアミ・バイス』『アブラハム渓谷』辺りに感じた気持ち良さをもっといっぱい味わいたい、彼我を分けるもの・快感の正体を知りたいというリスト。
リスト
分類、分類名は適当。
被写体=カメラが主として追いかけているもの
背景=被写体が乗ってるもの(地面とか車とか)、主役以外の事物
動く=「座標が変わる」ことと、「座標が変わる動作をする」ことと、見かけ上「動いて見える」とが混在してます
☆=初見時に驚いたり興奮したりした
◎=素敵
――まぁそうだよなの壁――
○=まぁでも、善き予定調和ですよ
●=そりゃそうでしょ
――だからってさの壁――
・=だからなんなの
リンク先の動画はなにか権利的にクリアしてるだろうっぽいMovieClip系で済ませたかったけど、それ以外のものも置かざるをえず……。とりあえずUPして数年経とうと消されてない、お目こぼし系で。
被写体・背景が共に動く
背景が動いているけど、その上にいる被写体は逆方へ動く(ので結果的に不動に見える)
●『ラングーンを越えて』(1995、ジョン・ブアマン監督)
●0:40:28~*2。ビルマへ傷心旅行中に情勢不安にまきこまれたアメリカ人の女が、主人公の女が軍事政権の監視網をかいくぐって車で移動し列車に乗るも、協力者である現地人のおじさんが軍に見咎められ捕まってしまう。出入口から車内奥へ詰める人波にも列車自体の進行にも逆らって、女はおじさんのもとへ向かう。
作品自体は凄いし、このシーンも大掛かりなスペクタクルだし、作中に何度も出てくる「窓ごしに外部を眺める女」の変奏・転換点として整っているけれど*3。「動いてるけど動いてない光景」という観点からすると、降車する動き自体に対してはなぜだかあまり驚きはない。
{あんまりお別れ感がなかったり、おじさん側の画が女側と分離し過ぎてたり(窓や人ゴミをナメた主観ショットでなく、駅にカメラを置いたベストポジション過ぎる)、流れに逆らう女の意志や動きが最初から強すぎたり、駅に置いているカメラの位置・振りかたが「女が後々ここに降車する」ことを前提としすぎたりして見える?}
☆『少年たち』(1999、ジャック・ドワイヨン監督)
主人公らストリートキッズが街を歩きながら会話する。やがて一人は手すりに座るが、二人の距離は変わらないまま会話がつづき、背景も変わらないまま。片方の少年が歩いている地面はエスカレーターであり、そしてエスカレーターの流れる方向と逆向きにかれは歩みつづけているのだった。
しばらくして手すりに座っていた子もエスカレーターへと着地し、ふたりでエスカレーターを下りながら会話をつづける。するとそこへ大人たちが直立したまま上昇していき、少年たちとすれ違う。少年たちが弾むようにして降りているそこは、昇り用エスカレーターだったのだ。
2:02:18~*4、船に乗った女と、港にいる男とが見つめ合うシーン。出航する船の上で女は男を見つめつづけ、岸側にいるカメラは女を画面の一定位置に収めようとカメラを振り(パン)し続けるが、段々と船の進行方向へと寄っていく……そんなとき女が航路の逆方を歩き、女と背景とが一瞬fixであるかのような瞬間が訪れる。
○『オデッセイ』(2015、リドリー・スコット監督)
01:36:34~、船外活動中の男を見守るべく、宇宙船の反時計回りに周る居住区へと降りた女が区画を時計回りに歩いて、その立ち位置と角度をすこし維持する。
被写体が動き、背景も同じ速度で動く(ので結果的に不動に見える)
チェイス物にはあれこれありそう。(『アンストッパブル』とかあった気がする。なんにせよ作例が集積されたら嬉しいっちゃ嬉しいけど、一番気になるのは、「そりゃああるだろう」という予想をとびこえる驚き・趣のあるものがどのくらいあるか……)
▼チェイス以外
☆『不戦勝』(1965、イエジー・スコリモフスキ監督)
レストランから街を歩く女に、主人公の男が並んで会話しながら歩くロングテイク。二人が目配せして笑みを浮かべはじめたところで、後景にある引っ越し中の家から宗教画が運び出され、その運搬者の歩みと主役の男女の歩みとがシンクロし、彼らの周囲だけfixみたく見える瞬間が訪れる。
◎『ラングーンを越えて』(1995、ジョン・ブアマン監督)
0:27:46~。ビルマへ傷心旅行中に情勢不安にまきこまれたアメリカ人の女が、もぐりのツアーガイドをやっている現地人のおじさんと出会い、彼が子供時代に習った寺院へ行った帰り、おじさんのおんぼろシボレーが壊れる。
運転席のドアを開けスコールのなか車を押すおじさんの隣で、女は車内助手席に座って任せていたが、自分も同様の行動を取る。
☆『君の名は』(2016、新海誠監督)
電車に乗った女が、別の電車に乗った男と見つめ合う。2台が並走する少しの間だけ、fixみたく見える瞬間が訪れる。
村で駄弁りながらひいこら言いながら紐を幾重にも織り組んだ二人が、東京の幾重にも入り組んだ路線に一瞬だけ居合わせ交錯するアクロバットがあまりに美しい。
▼チェイス
☆『地獄のヒーロー』(1984、ジョセフ・ジトー監督)
本編は観たことありません。(以下のAmazon MGM Studio公式クリップだけ見た)
乗用車が速度を落としてトラックと追走し、乗用車に乗っていたスーツの男がトラックへ飛び乗り、乗用車がトラックから離れていく……そんなさまを、トラック側にカメラを据えて1テイクで、地面もかっちり写しつつ。
スタントが凄い上にカットも的確な長さで凄い。
○『トータル・リコール』(1990、ポール・バーホーベン監督)
動き出した地下鉄に乗り込もうして逃走者が、前者を逮捕・射殺すべく追跡者がそれぞれダッシュする。
カメラは地下鉄ホームの床面をツイーッと移動するんだけど、逃走者は改札との連絡通路である階段を駆け上がってフレームインするのでそれぞれ動きのベクトルがズレてるのが良いし(角度の関係で最初、階段が階段にパッと認識できないのも驚きがある。フォローからトラックバックになるカメラワークも良い)、追跡者が電車に乗り込めず足を止めるところなど"動きが変化する部分"をちゃんと収めてるので楽しい。
○『ナイト&デイ』(2010、ジェームズ・マンゴールド監督)
0:26:35~、女の運転する車の横、ガードレールの向こうの地下から髪をなびかせ片膝を立てた男が、まるでアイドルがステージからせり上がりで現れるみたく現れ、女の車と同速度で隣り合う。女のいる車線へ合流する隣車線を走る車の屋根に男は乗っているのだった。
◎でも良いくらい。
1:25:22~、暴走列車を止めるため自分たちも暴走していくが、しかし、ついに行き詰まる。「もはやこれまで」と現場も管制室のプロも項垂れたところへ……。
頭も手足も動かし切ったことによる"万策尽きた"感を見事に醸成した筋書き・映像のすばらしさに騙されてしまうけど、冷静になって振り返ると、映されているものの動きよりまずTVリポーターのセリフが先立つことと、そして映像としても"動いてないけど動いてる/動いてるけど動いてない"系の捉えかたととによって、意外と「まぁそうっスよねぇ」になりますな。
{意外や意外、『デジャヴ』の素晴らしすぎるチェイスとかフェリー飛び乗りとか、『マイボディガード』『サブウェイ123 激突』ほかも、改めて観るとその映しかた自体は「まぁそうっスよねぇ」なんだよな。
(トニー・スコット監督作の面白さは、まだ終わってない話の「終わってる感」と、そこからどうにかこうにか再始動させちゃう腕力という、脚本的な部分が大きいのかもしれない。
シリーズを別監督・別脚本家がひきついだ『トップガン マーヴェリック』で、zzz_zzzzが「トニー・スコット氏はもういないのだなぁ」と痛感してしまったのは、最後の最後の作戦の山場の、あんまりにもあんまりな予定調和感でした。サプライズはその前段で終わっており、あすこ自体は「よっ待ってました!」て掛け声待ちの偉大なるマンネリズムであるにしたってなあ……)
(トニー・スコット監督作のチェイスシーンのおもしろさは、主役以外の人の運転する車もそこらへぶつけるし*5ぶつけられるし*6、追走しようとするだけでなんか回転クラッシュする暴走っぷり*7にあるのかなあ?)}
○『007 スカイフォール』(2012、サム・メンデス監督)
動き出したロンドン地下鉄に乗ろうと走る007。電車内に置かれたカメラが、車窓の外・ホームで走る007を捉え、007は徐々に距離を離されていくも、がんばって追いつき電車の最後尾に飛びつく。
◎でも良いくらい。スパイを続けていくことによる疲弊・摩耗と、「でも俺は007なんだ……!」という矜持・再起とが描かれる映画で、アクションに物語性がある。
(ただzzz_zzzzとしては、室内ショットで距離を離されて終わりでなくて、007がふんばり増速したところで次カットへ行ってくれたら個人的にはもっと興奮したでしょうね……)
被写体が動き、背景は動かない
被写体が動いているけど、その進路が堂々巡りだった
『オトナ帝国の逆襲』とか、反復的な場所での螺旋運動的なものを含めたらけっこうありそう。
○『黄色い家の記憶』(1989、ジョアン・セーザル・モンテイロ監督)
主人公が走るもようをカメラが追従する。一見きれいな直線運動なのだが、走っている場が円形の建物の中庭なので、出発点に戻ってきただけに終わる。
被写体が動いているけど、ある演者がゴールまで動き切ったらスタート地点にいる別の演者が同一人物を演じる(ので結果的に不動に見える)
☆『あゆみ』(2008、柴幸男)
複数の演者がステージの上でDの字型に周回しており、ステージを照らす光の帯に居るあいだだけ演者が「あゆみ」と云う人物として物語を紡いでいく。一人多役ならぬ多人一役、人力疑似フィルム・人力疑似ゾエトロープ(回転のぞき絵)形式の演劇。
被写体は動かず、背景が動く
複数の電車が停車中である大型駅で、その一台に自分が乗っているさい、車窓から見える別の電車が出発すると、自分の乗っている電車が動き出したのかと勘違いしたり。
東京ディズニーランドのホーンテッドマンションで、エレベーターに乗って地下に行っていると思ったら、部屋が天方向に伸びているだけだったりするアレ。
◎『アウトロー』(2012、クリストファー・マッカリー監督)
1:23:46~、元軍人で現浮浪者の主人公ジャック・リーチャーと、かれを容疑者として負う刑事とが画面の上ではそれぞれ顔を向かい合わせるバストショット。
両者その場から身動きしないけど、立ち位置はちがい、刑事は前景でパトカー車外に立つ一方、主人公は後景のバス車内で他の市民と一緒に座っている。主人公を載せたバスが発車し、両者が顔を背け合ってすれ違う構図へ変わる。
リーチャーは座ったままで体を動かしてはいない。かれの座標が変わっていくのはあくまで彼の乗るバスが動いているからであり、バスは窓外の物騒な陰謀劇を内部へ持ち込むことなく置き去りにする。
妙に動く被写体にカメラが向きを変えず追従する(結果、世界のほうが妙な動きをしているように見える)
傍目に妙なヴィジュアルになるから(=動いている筈のものが動いてないから&妙な動きをしない筈の静物がそう動くから)、違和感じたいは得られやすい。「文法が異なるそれを他とどう組織化するか?」がzzz_zzzzの萌えどころみたい。
▼円運動
◎『アンブレイカブル』(2000、M・ナイト・シャマラン監督)
出不精の少年が母からのプレゼントの包みを開く。包みの中身はコミックブックで、しかし上下がさかさまだった。少年がじぶんの読みやすい方向に本を回すさまを、カメラは本の真上から、回転する本の回転と同じだけしばらく回転しながら捉える。逆さまの本はしばらく逆さまのまま、まるで世界のほうが回転しているような錯覚を覚えるショット。
妙な光景が、落ち着くべきところに落ち着くという、よく考えられた構成美の作品。「意味論的にこれはこう撮る」というヤりに行ってるショットではあるけど、「ここまでやられたら、どうぞ好きなだけやってください」と降参。(☆でも良いけど、同作は他にピカイチなショットがあるのでとりあえず二重丸で)
☆『パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト』(2006、ゴア・ヴァービンスキー監督)
1:54:18~、密林を転がる水車の水輪の内側に掛かったお宝を求めて、海賊・若者・役人3者が内側に入って踏ん張りチャンバラをするさまを、水輪の真横に置いたカメラが水輪の回転と同期しながら追従し、まるで水輪と3者は停止して世界のほうが転がっているかのように捉えたショット。
前後の殺陣もそこにカメラを置く経緯も自然だし、実質前後編の『2』『3』を通して回転(レボリューション)の視覚的物語的エスカレートも見事だし……と、大変アガりにアガる動き。
○『ヒックとドラゴン』(2010、ディーン・デュボア&クリス・サンダース監督)
0:55:27~、背に男女を乗せた竜が、円を描くようにアクロバット飛行するさまをカメラがその軌道に合わせて真横から追従し、まるで竜は直進し世界のほうが回転しているかのように捉えたショット。
竜を害獣として狩る村の若きエースだった女は、竜に対する見方を変える。
▼無軌道
カメラやCGの発達とともに増えてそう。特にGoPro登場でよく見かけるような。
☆『アンブレイカブル』(2000、M・ナイト・シャマラン監督)
うだつの上がらない男がベンチプレスする。カメラは仰向けに寝た男と真上から正対し、男が上下させるバーベルと距離を保つようにクレーンアップダウンする。
バーベルの位置はそのままで、それを動かしている主体であるはずの男やそれ以外の世界のほうがふわふわと揺れ動かされているような浮遊感・非現実感があるショット。
妙な光景が、落ち着くべきところに落ち着くという、よく考えられた構成美の作品で、他にも妙な演出がありこの記事でも触れたけれど、このショットは随一に変。
「意味論的にこれはこう撮る」というヤりに行ってるショットではあるけど、「ここまでやられたら、どうぞ好きなだけやってください」と降参。
{clementia1960氏が過去につぶやいたところによれば、『剣』(1964、三隈研次監督)に類似ショットがあるらしい}
○『ミュンヘン』(2005、スティーブン・スピルバーグ監督)
賑やかすぎる暗殺により犯行が露見し、銃撃戦となりながら市街を逃げる暗殺者チーム。暗殺者チームの運転する車の前方に固定されたカメラが、画面左に暗殺チームの運転者をfix的に・画面右に車外(市街)で戦う敵対者を映す。
カメラを据えた車が現場から遠ざかる当然として、暗殺者チームに撃たれ血を流し倒れる敵対者は遠景へと小さくかすんでいく……という劇中現実内トラックバックショット。
二者の距離の変化を見せてくれる撮り方で、感情を揺すられます。
◎『ゾディアック』(2007、デヴィッド・フィンチャー監督)
0:09:04~、サンフランシスコ・クロニクル社内を進む郵便カートを、カートに据えたカメラから捉えつづけるショット。その一通に連続殺人犯ゾディアックの犯行声明が。
0:24:54~、画面中央にイエローキャブを据えて、キャブの動きへ完全に追従した空撮ショット。真上から捉えられたキャブは画面真上に頭を向けたまま固定され、市街がキャブの動きに合わせて動き、くるくると回る。車内に流れるのはゾディアックについて議論中のラジオ番組。
{この一連のショットのあとは、停車したキャブ内での運転手と乗客とのやり取り。そこでのやり取りも含め、ゾディアックを中心に世界が回っている感じが良い。(このころ辺りからフィンチャー監督が顕著に凝り出すようになる*8、手振れをなくしたカメラワークがこれまた合ってる。無機質やら、人ではどうにもならないものが動き・動かされている不気味さやら……)}
◎『シャーロック・ホームズ シャドウゲーム』(2011、ガイ・リッチー監督)
1:30:11~、名探偵ホームズ一行が、名前のないモブたちに追われ、かれらが弾込め・発射させる大砲"リトル・ハンセル"の猛威にさらされる。
名探偵ホームズの世界の捉え方を奇抜な映像と編集で魅せる作品で、敵方の有象無象の動きがさらに独特の映像で展開される。
劇中現実における撮影兼脚本兼編集兼監督みたいなホームズが、その権限を奪われたような劣勢感があって素敵。
「意味論的にこれはこう撮る」というヤりに行ってるショットではあるけど、作品全体が世界観バトル・物語内物語みたいな作品だからあまり気になりません。
歩いているていだけど、被写体は多分ドリーの上で足踏みしてるだけ
☆『アブラハム渓谷』(1993、マノエル・ド・オリヴェイラ監督)
作品終盤、柑橘類の森を主人公エマが歩くさまを正面から捉え、彼女と距離をたもちながら追従・トラックバックしていくショット。画面近方から遠方へ去る樹木をエマは触るしその体には複雑な木漏れ日が落ちるけど、エマの歩みはなんかゆらゆらヌルヌルしてる。多分カメラを置いたドリーの上で足踏みしていて、それによって妙な浮遊感・幽霊感を生んでいる。
被写体も背景も動かない
スクリーン・プロセス
ヒッチコック作品とか昔の映画とか、黒沢清作品とか、色々ありそうですが……。
○『キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』(2011、ジョー・ジョンストン監督)
超人兵となりコスチュームに身を包んだキャプテン・アメリカが兵士たちとともに森林を進む。胸を張って歩むかれらを正面からとらえたカメラが退いていくと、遠ざかる森林は正方形の枠内にだけ存在していて木枠がそれを支えていることが見えてきて、前景からはマイクやフィルムカメラが現われ、「カット!」の声がかかる。
キャプテン・アメリカたちの行進はベルト式ウォーキングマシンの上でなされた足踏みに近いもので、森はスクリーンに投影された偽物。かれらは戦時国債を売るための戦争プロパガンダ映画を撮影するスタジオに居るのだった。
(「動かない」をする)
上の例とはだいぶ違う。活人画(絵画を現実の人間が現実の時空間で再現する催し)、特殊能力モノの謎能力など。ぷるぷる震えるゆらぎが、謎の情感を呼ぶ。
『パッション』(1982、ジャン=リュック・ゴダール監督)
いろいろな名画を、演者たちが現実に再現する活人画シーンがある。あることは知ってるけど実は映画全編を観たことないので何も言えません……。
カラヴァッジオを主人公にした映画。なんやかんやあった後カラヴァッジオの絵画を、演者たちが現実に再現する活人画シーンがある。「なんやかんや」のドラマを抜きにしても多分、よくわからない感動がある。
☆『X-MEN フューチャー&パスト』(2014、ピーター・シンガー監督)
高速移動能力者にカメラが追従することで、能力者以外の劇中現実にまるでスローモーション等の後加工演出をほどこしたみたいな光景が登場したり。
テレパス能力者が能力を行使したことで多数の人物がその場で身動きをとれなくなり、劇中現実にまるでスローモーション等の後加工演出をほどこしたみたいな光景が登場する。
*1:それとはまた別の光景ですが、劇的なカメラワーク・画面効果を、劇中世界の現実内で達成しているシーンも好き。これも纏めたいですね。
*2:ワーナーホームビデオ販売のDVDにて確認(バーコード;4988135709691)
*3:0:04:25~で女は、サングラス越しに涅槃像から落ちた少年を見る。医者である姉に助けを求めることはできたが、自身はそれ以上近づけず、むしろ距離を置く。
0:08:30~で女は、外の物音を聞いて目を覚まし、ホテルの白い蚊帳を開き、ブラインド窓を開けて、民主化を求めるデモ行進を見る。(0:08:58~、横縞の影のかかった女のバストアップ)(続いて女は、市街のデモ現場でアウン・サン・スーチーの偉業を見る)
0:16:58~で女は、空港の横縞ブラインド窓越しに一足先に帰国する姉と最後の会話を交わす。(0:17:11~、前景に窓をナメての女のアップショット)
0:25:32~で女は、寺院の菱形格子窓越しに読経中の僧侶を見て、「現実を遮断した人生。恋もせず、子供も作らない。傷つくこともない」姿を自身とかさね、大汗をかいて動揺する。(続いて女は、おっさんから「あれは祈りでなく、瞑想です」云々と僧侶の行動に関する説明を受ける)
0:34:48~の夢のシーンで女は、引き戸の横縞格子越しに亡くなった夫子を見る。(夫子が歩き去った丘上に行くと、仏像に花が供えられていて、女はそれを手に取って香りに安らぐ)
この0:40:28~で女は、窓向こうの世界へ踏み越える。
*5:(インテリ文官なヒロインの運転するオープンカーが街路樹に当たりつつ路駐する『トップガン』
*6:ホテルの玄関に一時停車した車内で口論したら、後ろのタクシー運転手がしびれを切らしてぶつけてくる『デイズ・オブ・サンダー』
*7:捜査官とはいえ民間車にぶつかり回転しつつも追跡を続ける『デジャヴ』、現金輸送でクラッシュ・高架下に落下するし、最後のチェイスでも一般人である主人公がガンガンぶつけながら進む『サブウェイ123激突』、最後の大一番でパトカーがなんか回る『アンストッパブル』1:25:50
*8:『ドラゴン・タトゥーの女』(2011)のオーディオコメンタリで、手ブレをなくす後加工のために投影スクリーン以上の解像度・画角で撮っていることを語っていた記憶があります。