9/21にまとめて更新した日記③です。5万字。
前半では『トップガン』感想記事をアップできた・後半ではにじさんじ甲子園の練習配信をいろいろ追いまくった月でした。SFセミナーも去年同様たのしかった。あとは『荒鷲の翼』すさまじかった。
- 0703(日)
- 0704(月)
- 0705(火)
- 0706(水)
- 0707(木)
- 0714(木)
- 0720(水)
- 0721(木)
- 0723(土)
- 0724(日)
- 0727(水)
- 0730(土)
- 0731(日)
0703(日)
■観たもの■
ジョン・フォード監督『荒鷲の翼』鑑賞メモ
ワーナーアーカイブ公式がジョン・フォード監督『荒鷲の翼』冒頭のすさまじい飛行シーンを1080pHD画質でアップロードしていることをいまさら知りました。
実際には飛行シーンももうちょっとだけ長く、さらにドタバタするのですが。
(このクリップのちょっと前には、飛行機操縦ほぼ初心者の主人公をたすけるべく妻が車を走らせたり仲間が救命艇を走らせたりして、とにかく主人公を追いかけることが優先なので同乗しようとした別の仲間たちがちゃんと座るまえに動き始めて事故りそうになるショットがあったりする)
このクリップにも並走する飛行機に向かって車の運転手である妻が両手でアピールして、ノーハンドルになった車の制動が乱れるショットなどは含まれてますから、これでもじゅうぶん喧騒がつたわりますね。
{実力ある作り手による映画の、毎ショット毎ショットなにか起こしてやろう、起きてるショットだけでつないでやろうみたいな異様さ(※)、何なんでしょうね……}
また、低空飛行する飛行機が下方のもののことごとくへ影を落としたりあまつさえ接触してリアクションを起こしている、圧倒的実在感がすごい。影がかかったりかけられたりするものは主演助演の俳優もあれば(この時点ですごいけど)、建物の屋根もあり、稼働中の貨物列車の側面だってあるし、もっとこまかく邸宅の煙突、庭の芝生、機体をぶつける(!)木、不時着水するプール……と、なんでもある。
cut573 アメ横の軍艦ビル前を擦過するヘルハウンド。独特の街の雰囲気を出す為、敢えて改修前の軍艦ビルをそのまま使っています。
接地面のないヘリや飛行機などの"飛びもの"は、比較物との対比が難しいのですが、ヘリのような低速の航空機なら、影を落とすことで(この例の場合なら陸橋の側面を上から下へ)特定する根拠を持つこともできます。但しその場合、作画によっては逆に破綻することもあるので注意が必要です。鉄橋のような複雑怪奇な構造物は可能な限りの資料をあたること。実在する街を舞台とする「P2」のような作品ではなくとも、レイアウトマンは具体的な資料をもとに作業することで、そのカットの中に何かを発見し、その驚きを画面に伝える努力をするべきです。そういった作業の積み重ねによってのみ、世界に存在感を実現し、作品に重量感を与えることが可能となるのですから。
押井守さんが『METHODS 押井守・「パトレイバー2」演出ノート』で、比較物との対比が難しい"飛びもの"がどこにいるのかの根拠として影をおとすことの重要性(と問題点)を説いていましたが、アニメばりに制御された描写力が現実の撮影現場で達成されている異様さ。
日本語字幕つきビデオとしては、ワーナーホームビデオが2021年4月に出していた(?)出していて(? Amazonで検索かけても引っかからん。hmvとかではまだ商品ページがある)、これはなんかTSUTAYA⇒カルチュア・エンタテインメント株式会社がやっている「復刻シネマライブラリー」シリーズから出ていた『荒野の女たち』とちがってマスタリングがきれいなのでオススメです。
(「DVD画質としては」という但し書きがつくけれど……。出元も販売元もワーナーなのだからBlu-Rayも併売してほしかったな……。いやDVDだけでも出たことを喜ばねば……)
それは何ですか;
ホークス監督『無限の青空』の脚本家で原作舞台劇「CEILING ZERO」などを手がけた元海軍飛行機乗りフランク・"スピッグ"・ウィードが主人公の伝記映画です。
観てみた感想;
宮崎駿『紅の豚』の参照元だ~みたいなお話をされているひとを見かける一方で、宮崎駿のアメリカ・アメリカ映画(ディズニー)ぎらい*1/『紅の豚』でのアメリカ人・アメリカカートゥーンの馬鹿にし具合*2からなんとなく敬遠してる人もいるんじゃないかと思うんですが……いや、今となってはジョン・フォードを馬鹿にする人なんていないと思うんですが(でも『捜索者』などをマチズモだ、と批判するひとはいるか?)……ふつうにすさまじい作品ですな。
ぼくは「ジョン・フォードだから傑作に違いないから、いつ見たっていいだろう」と大切にしている/積んでた人で、『トップガン』の感想文書くために飛行機モノの先行作で未見のやつ観とくか~って感じでDVDケースをひらきました。そういうぼくでさえ「いや思っていた以上にすさまじかったわ……」と背筋をただす作品でした。
※※こっからはネタバレなのですが※※
『荒鷲の翼』をみて思うのはフォード氏って物語の話型とか語り口の肌理(きめ)とかにほんとうに自覚的だったかたなんだろうなぁということです。
スクリーンの内外、アメリカ(ハリウッド)的物語と現実といったものへのコミットは、ともすると『紅の豚』よりもはるかにシビアだ。
主人公であるウィード氏の生涯が波乱万丈であり、現実の飛行機に乗る人・かかわる人(WW2戦前・WW2戦中)であると同時に、軍職をはなれて飛行機乗りを主人公にした創作をてがけるライターであるという二面性(三面性)をもちあわせた人であった……というのもあるんだろうけど、ウィードが送った多面的な人生・物語を映像的にがらりとちがう質感でもって描き出していて、ちょっとすごい。
うえの動画で拝めるようすは、戦前(戦間期)の、しかも単独飛行時間11秒という新人パイロットであるウィードによる(陸軍のやなやつとの売り言葉に買い言葉な)"やんちゃ"な冒険飛行なんですよ。
(95年生まれのウィード氏が19年に中尉となったころ――23歳になる年でのお話らしい。演じたジョン・ウェイン氏は07年生まれで『荒鷲の翼』の公開が56年、48歳くらいだろうか)
総天然色の牧歌的な青春といったかんじで、ゆたかな色相と彩度明度による活劇がえがかれ、ダイアログも最小限でちょっとサイレント映画的なにおいさえする。
映画前半でウィードは華々しい軍人生活をおくるけれど、そのキャリアというのは陸軍も海軍も参加したスピードレース大会に参加して勝った(新聞や白黒の報道映画がそれを報じる/それを別居中の妻・子供たち家族が見て「あれがパパよ」「あれがパパなの!?」「シーッ」となったりする)といった、人を殺したり殺されたりする戦争ではなく、スポーティな世界での成績であったりする。
中盤、俗世から距離を置いた生活をおくっていたウィードは、作家へ転身する。
(この俗世から距離を置く日々も、窓ごし、鏡ごし、建物の柵越し……と、文字どおり「隔絶された」時空間が演出されていてすごい)
えらくなった軍人仲間のツテをつうじて、ウィードは海軍を主役にした映画の脚本を執筆、成功をおさめる。
ウィードが前半で演じたような(でもはるかにつつましい)乱痴気さわぎの格闘劇は白黒のスクリーンに映されるものとなり、ウィードはそれを(作り手としてだけど)見る側=スクリーンの外にいる存在になる。
作家としても称賛をうける一方でどこか浮かない顔をしたウィードは、ブロードウェーの世界へ単身とびこむ。『CEILING ZERO』(『荒鷲の翼』劇中では、タイトルが出てくるだけで、どんなものかは描かれない)をヒットさせた帰り道でイエローキャブに乗ったところ、
「おい"スピッグ"」
となつかしい声。映画前半~中盤でいっしょにバカ騒ぎをしていたジャグヘッドがタクシー運転手をしていたことを身をもって知る。(タクシーを側面から/外から撮り、前席と後席を画面の左右に写す/車体をフレーム・イン・フレームとしてふたりの距離が如実な構図があった気がする)
作家として成功して自立でき、別れた家族もそれぞれ大きくなった時分、世界にあらたな転機がおとずれる。
作品後半、ウィードが軍へ復帰して戦略担当としての仕事をする日々がえがかれるのだが、ここがかなりグロテスクで驚いてしまった。
「あのバカは?」
「"スピッグ"だよ」
海上を浮き沈みしてなかなか飛び立てない、日傘をさした妻があきれるほどのよちよち飛行の水上複葉機の乗り手だったというのに、若き日の"スピッグ"・ウィードは、陸軍のいけすかないやつとの売り言葉に買い言葉な経緯で飛行機に乗り込み離水、仲間たちみなが心配してオープンカーで救命艇でと追いかけ陸海空のチェイスをするおおわらわとなるも、ほがらかに低空飛行をつづけ貨物列車の作業員を驚怖させ水面へダイブさせたりする"やんちゃ"をする。
「……」
いっぽう老いたウィードは、艦橋で画面外を眉間にしわ寄せてにらむ。
その視線のさきには、戦中の当然として被弾し失速・海面へ落下することとなった戦闘機の姿がある。
「乗員は無事だ」
大破しているうえに水上機ではない戦闘機だが、乗り手が凄腕を発揮し水面を浮き沈みしつつ不時着、パイロットがコクピットから出て助命のためにダイブする姿を、顔も見えない遠距離で見守りつづける。
若き日のウィードが、燃料切れにより、将校とその家族がパーティをする邸宅の庭へ、翼をもがれつつも無事になしとげた"不時着"。
ウィードはそれと似た状況にまた立ち会うこととなる――当時と違ってそれは戦時下ならふつうに起こりうる一幕であり、自分の立ち位置は、(地上から見守ることしかできない)見物人であるけれど。
そんな状況が、戦時の記録フッテージからの引用によって次々と映されていく。
……そう、あのドタバタと荒々しいけれどほがらかな喧騒は、名も顔も知られぬひとびとが実際に見舞われた笑えない悲惨と同一線上のものなのだ。
繰り返されるのはそれだけではない。
ウィードが眼下にいるジャグヘッドにむけてやった悪ふざけ、男同士のやりとりもまた繰り返される。
在りし日に、カメラに背を向けてウィードのあやつる飛行機を見て、カメラの側へふりかえった若きジャグヘッドは、老いた現在においてもなお、ウィードの(なにげない会話を糸口にひらめいた戦略の執行下という)筆による飛行機を見るためにまたカメラへ背を向け、そしてやっぱりこちらへ振り返る――今度は笑顔でうかべ、サムズアップとともに。
……カオティックで無意味で圧倒的な現実にたいして、なんとか自分のできる限りを尽くし、そして自分の物語をえがこうとする姿/じぶんの物語として描き直そうとする映画は、たのもしくもありいじらしくもあり、そして居たたまれないなどの情感もわく。
なんとも複雑な気分になる、圧倒的な映画なのでした。
(※ワーナーアーカイブがアップロードした動画のなかにはホークス監督『暁の偵察』の空襲シーンのクリップ(こちらは480p)もあり、これまた凄い。
1:47~の爆撃とか、ぬるいアクションに慣れた身からするとすごい倒錯してる描写だと思う。
飛行機の襲来をうけて、室内にいるひともそとにいるひとも皆退避して、カメラから見えない位置にいく。隠れたところでカットを割って、飛行機が爆弾を投下するところが映され。そしてさきほどと同ポのショットに変わって飛行機が飛来して・地面が爆発、砂柱が立つ……
……ここで劇映画にわるい意味で慣れてしまったぼくは、「ああ、無人の安全な場でおこなわれる発破カットへ違和感ないようつなげたんだな」と一瞬思うわけなのですが、砂柱がたつまえに画面右から生身の人がフレームインして爆発がおこる場へ走って近づいて「うわー!」て倒れる。安全さもかけらもない。
「いま・ここで本当に起こってしまった」事象へ立ち会ってしまったみたいな黒沢清さんが言うようなドキュメンタリ性というよりかは、「ほらこんな近くに人がいる場でマジで爆発してんすよ! ね? ね!?」と肩を組んでくるみたいな過剰な演出がなされている)
0704(月)
■読みもの■映画のこと■
画面比、背景美術、CG……表現媒体や製作体制、認識の変化にたいする記録としての映画
「ゼロ年代のアニメ」という枠があるけど、自分はゼロ年代前半のアニメとゼロ年代後半のアニメはけっこう受ける印象違うと思っている。
— highland (@highland_sh) 2022年6月2日
なぜなら画面のアスペクト比がゼロ年代の半ば頃に4:3→16:9に切り替わっていて、横長になってレイアウトの取り方が抜本的に変わっているため
2005年の『フタコイ オルタナティブ』は4:3だけど、同じ年の『ぱにぽにだっしゅ!』は16:9なので、大体2005年くらいが転換点なのかなーという印象だったんだけど、実際はこの前後数年に徐々に切り替わっていった感じみたいですね
— highland (@highland_sh) 2022年6月2日
ちなみに、「ゼロ年代の美少女ゲーム」と「‘10年代の美少女ゲーム」も同じ印象を持っていて、2010年前後に画面比が16:9に切り替わってるのは大きいと思います
— highland (@highland_sh) 2022年6月2日
2011年の『Rewrite』がKeyで初めてワイド画面を採用して、当時色々と言われていました。2010年の『素晴らしき日々』は多分ギリギリで4:3です
アス比問題、めっちゃ重要ですよね…
— フガクラ (@fugakura) 2022年6月3日
昔けいおんが放送中に、アス比の違う映像のクロップ方法が面白いというのが話題になってましたね〜https://t.co/20PQQUUUQn
実写の話ではあるのですが、アス比の歴史や演出意図などをまとめた論考だとこれがめちゃくちゃ面白かったですhttps://t.co/4uWIXqesBM
— フガクラ (@fugakura) 2022年6月3日
ありがとうございます!
— highland (@highland_sh) 2022年6月4日
前にGIGAZINEで画面比遷移についての解説記事を読んだことあったのですが、https://t.co/qd07aWORIu
貼っていただいた動画だと画面比ごとの特性について解説があって良いですね。
4:3は縦が長いから深いレイヤーのショットに向いているといった話はなるほど〜と思いました
ちょうど1ヶ月まえツイッターでこんなやりとりを見かけました。highland氏はその後もいろいろ調査されていて、へえ~面白いなぁと読ませていただいてます。
映像大好き ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序とテレビシリーズの作画比較https://t.co/Y1fNsgPRMg
— highland (@highland_sh) 2022年6月4日
アスペクト比の変化と言えば新劇ヱヴァの序破があった
最近アニメの画面比について調べているなかで、
— highland (@highland_sh) 2022年7月5日
「TVアニメ版『CLANNAD』はセル版DVDだと16:9の画面比だけどレンタル版は4:3で収録されている」
という真偽不明の情報(2008年)を見たので借りてきて確認してみたら、本当に4:3で収録されていてびっくりしてる pic.twitter.com/7J7dkx4TTh
押井 うん。あれ(引用者注;押井さんが「真似」ることで「レイアウトの試行錯誤を始めた」宮崎駿さんの構図)は極論すると、グラフィックデザインであってさ。七郎さん(引用者注;背景美術・美術監督の小林七郎さん)が教えてくれたのは、空間――パースって事。奥行きのある空間を作り出すって事。そのためのレイアウト、そのためのカメラの高さ、動き。強いて言えば、僕はそれにレンズというものを加えただけ。ディストーション(ゆがみ)のある世界ですよ。だから、七郎さんと仕事をして、どんどん変わっていった。コンテに関しては、僕は、今でもトリさんの教えを守ってる。ただ、16:9がスタンダードになった事で、コンテの切り方は変わんなきゃいけない。変わるべきなんです。相も変わらず同じように切ってるとしたら、じゃあ、フレームの意味ってなんなのという事になる。僕はやってみて「ビスタってこんなに楽なの」と思ったよ。
スタイル刊(ANIEMSTYLE ARCHIVE)2008年9月3日第一版、押井守著・アニメスタイル編集部編『スカイ・クロラ The Sky Crawlers 絵コンテ』p.395~6、小黒祐一郎(聞き手)「押井守のアニメスタイル2.0」
さてアニメ映画『スカイ・クロラ』の絵コンテ本を読んでいたところ、巻末に掲載(再録)されたインタビューで押井守さんがこれに関連するような話題をだされていました。
小黒 「カットは飛ぶためにあるんだ」というのも、鳥海さんの考えなんですね。
押井 うん。「見せるんだったら寄れ」ってさ。カットを分けて、ポンと寄ればいいんであってさ。若い演出家は、やっぱりカメラを動かしたいわけだよね。トリさんはさ「演出っていうのは成熟すればするほど、カメラが止まるんだ」と言っていた。僕も最近、カメラはほとんど動かなくなった。
小黒 そうですね。
押井 うん。カメラが動いているっていうのは、実はね、停滞させるだけなんだよね。
小黒 何を停滞させるんです?
押井 時間を。
『スカイ・クロラ The Sky Crawlers 絵コンテ』p.395
タツノコプロ時代の師匠、鳥海永行さんから教わった演出のいろはについてインタビュアーの小黒祐一郎さんへ語っていくなかで、映像の画面比がかわったことにより、じしんの演出がどう変わったのか具体的にのべています。
押井 うん、ドラマの時間を。基本的に演出のやる事っていうのは、ドラマを、いかに圧縮して見せるか、いかに巧く飛ばしてみせるかという事であって、その事でテンポ感を出すわけ。カット割りが早ければ、テンポ感が出るってものじゃないんですよ。それは逆に間延びするだけですよ。カット数は少ない方がいい、だけどテンポは出さなくてはいけない。無駄なカットを省いて、よく考え抜いたレイアウトで、カメラワークを必要としないレイアウトを作りだす。
小黒 カメラワークもない方がいいんですね。
押井 さっきも言ったように、カメラが動かなきゃいけないのは、基本的にレイアウトが甘いからなんです。特に、今の映画は16:9が普通になって、横長のレイアウトが自由にとれるようになったんだから。昔はスタンダード(4:3)だったからさ。かなりこれはタイトなわけ。人間や物を縦に並べる事が、なかなかできなかった。僕もね、ビスタサイズで演出する事で、やっとそれが分かった。スタンダードっていうのは無茶苦茶なフレームだよ。あれは何も表現できない。16:9のよさっていうのは、カメラを振らなくて済む事にあるんです。昔のTVアニメって、やたらカメラ振ってたよね。
小黒 そうですね。
押井 あれはね、カメラを振ってる時間が、間になってるだけなんだ。要らない間になってるだけ。それはね斯波(重治)さんに教わった。「無駄なカメラワークっていうのはね、音楽が入らないんだよ、押井君」ってね。カメラ切り替えされると、音の流れなんて永遠にできないんだよ、ってさ。
小黒 なるほど。
押井 カメラを切り返してばっかりいるとね、音像が作れないんです。音響空間を演出できないんだ。TVと同じようにカットを割られると、映画では困るんだと言われた。戦闘が始まってるのに、アップばっかり並べられても、音の迫力が出せやしないんですよ。当たり前だけど、画は飛ばせるし、サイズも変えられるけど、音響というのは威力をなくすんですよ。
『スカイ・クロラ The Sky Crawlers 絵コンテ』p.395
押井監督は、鳥海師匠がご法度・嫌っていた演出法もおこなうようになったといいます。そのひとつがポン引きポン寄り。これをつかえるようになった経緯も氏はかたっているのですが、上とはちがって画面比は無関係。
カメラ引いておいて、ポンって寄ってさ。それができるようになったのは、背景が上手くなったからだよ。昔はポン寄りしたって、壁がベタになるだけで意味がなかった。
『スカイ・クロラ The Sky Crawlers 絵コンテ』p.395
美術スタッフの技術的なお話で、そういう演出も可能となったと。
アニメ映画『スカイ・クロラ』の評判をのぞいてみると、手書きの作画パートと3DCGのルックのちがいを気にする声もあったのですが……
小黒 キャラクターのぺったりとした質感と、飛行機のコテコテの質感の差は問題ないんですか。
押井 全然問題ない
『スカイ・クロラ The Sky Crawlers 絵コンテ』p.398
……ここでも押井監督は面白いことを言っていました。
押井 そのために光と影を強調したんだもの。絶えず影が動きまわってるんですよ。あちこち映り込みだらけっていうさ。僕は最高のものができたと思ってる。本当に3Dと違和感がなくなったら、2Dでキャラクターを描いている意味がないんだもの。そういう単純な事実があるだけだよ。2Dのキャラクターを載っけて、3Dとまったく違和感がなくなったら、やった意味すらないんであってさ。そこをね、みんな、誤解してるんだよ
小黒 つまり2Dと3Dが、ひとつの映画の中に入ってる事も、見せ物の一部なんですね。
押井 そう。違和感を使わなきゃどうするんだってさ。
『スカイ・クロラ The Sky Crawlers 絵コンテ』p.398
画面比だけでなく、手書きや背景美術や3DCGなどの各素材、映像にかかわるスタッフや製作体制について、押井氏はさまざま語ります。
ナレーション
「アニメーターの仕事のなかに、"カメラを作る"という仕事がある。宮崎さんはいま自分がカメラになっている。
サンを背負ったアシタカを受けてカメラがトラックバックするカット。
今回トラック移動はほとんどがデジタル合成でおこなわれていた」
「デジタル合成やるほどのことはないんだよね。
むしろこのくらいの移動量だったらね、マルチくんができるんだよ。さ、やり直しましょう」
ナレーション
「元の画がどうもしっくりこなかったわけは、背景がワイドレンズでとらえられていたからだ」
「望遠にしなきゃだめなんだな……カメラを作ってくんスよね。だからあの、望遠レンズを使う――使った映像をいっぱい見るようになったでしょ? 今は。ズームが発達してるし。
そういう画面を観客が見慣れるまではね――作り手のほうも見慣れるまでは、そういう画面はなかった。
だからレンズが変わるとアニメーションが変わってくるんすよね。
望遠でほら、車なんかがおなじ大きさで坂道をこのまま降りてくるなんて映像は、望遠が普及するまでは、そんなものアニメーションでやったら"ばかじゃないの"って言われて、"パースが狂ってる"の一言で終わったのに。いま平気なんですね、見慣れちゃった。
実写よりもアニメーションのほうが自由なようだけど、実は、常識的なんです。
観客の一般通念みたいなものをあんまりひっくり返すと"変だ"と違和感が出てきちゃう」
ナレーション
「カメラがトラックバックすれば背景はだんだん広くなる。フレームセルをつかって位置確認。その背景の書き方にこだわる」
「ぼくはあの~……パースにくらってるんですよねこれ。一点透視でこうやってやると手がものすごい窮屈なんですよ。
じぶんたちの見ている映像ってのは頭でつくったものでしょ? 脳細胞が合成して直線をきめたりなんかしてるでしょ。だから集中点を2つにしちゃうんですね。平気でそういうことしますからバーっと。そのほうが人間の感覚にちかいんだって思うんですけど。
透視図法ってのはヨーロッパ人の錯覚ですからね。
んで、コンピュータでつくったパースがぴちんと合った画が見てて面白いかっていうと面白くないんですよね、ぼくらにとっては。
だから歪ませるほうが気持ちいいんです。人間的に歪んでる方が。だからどんどん歪めてけばいい」
(略)
ナレーション
「背景が完成して一段落……と思ったら、つづいて問題点が発覚した。
こんどは照明の問題である」
「安藤さ、大失敗したんだけど。(採光?)の方向が両方に入ってったらまずいかね?」
「……いや、大丈夫です」
ナレーション
「よく影を見ると、顔には左から、体には右から光が当たっている」
『「もののけ姫」はこうして生まれた。』、「カメラを作る 時間 空間の捉え方」(聞き取れなかったところは丸カッコ?とした)
うえのインタビューで押井氏が一種の騙し絵、グラフィックデザインだと評した宮崎駿さんの映像について。
氏が画面サイズにかんする表現についてどうお話されているか寡聞にして知らないですが、『「もののけ姫」はこうして生まれた。』で、こう仰っていたのが印象的でした。
{山下清悟さん(だったかな~? 一時期「web系アニメーター」が話題になったころのその方面のどなたか。)がかつて、宮崎監督『となりのトトロ』のサツキとメイが戸を開けるシーンで、戸の陰にかくれて彼女らが映らないところからカットがはじまって、SEなどによってどこにいるか想像させる、視覚だけでなく聴覚表現もつかった空間表現のゆたかさを自身のウェブサイトで語っておられた気がしますが。
こうしてメイキングを観てみると、『未来少年コナン』のマンガ走りとか『カリオストロの城』のハードル走とか『ラピュタ』のがっしがしマンガ登攀みたいなシーンではない、かなり落ち着いたシーンでも、ノリでいけるところはノリで行ってたんだな……と気づかされます}
作品を観る観客にとってもっともらしいものの追求、ということになるのでしょうか。
透視図法さえ「ヨーロッパ人の錯覚」と否定した宮崎氏の言は、アドリア海の牧歌的な空の海賊vs賞金稼ぎのおっさんたの世界に、町工場では女性設計士という新風が吹き、空の上にはアメリカ野郎があらわれ、母国イタリアはファシスト政権がいよいよ存在感を増し始め……という『紅の豚』で、劇中のアドリア海の飛行機乗りたちが白黒カートゥーン映画を観ながらぶつくさ言っていたシーンなどを思い起こしたりもしますが。
宮崎氏の疑問は、ヨーロッパ人でもなければアメリカ人でもない文化圏の「われわれ自身にとってもっともらしく感じられるもの」とは何なのか、というところへもむかいます。
ナレーション
「絵コンテのなかに"オー日本のアニメ"という言葉があった」
「これは日本の表現主義の(劇画なところ?)とても便利なとこがあんですよそれは。1秒間のあいだをものすごく引き伸ばすことができるでしょ? それに頼ってくとね、空間とか時間とか謙虚じゃなくなるんですよ。
実写の場合でもそういう手法を使ったりするから(できあがり?)ますねぇ。
日本のいま、色んなものが――漫画を見てる人見てない人関わりなしに――世の中マンガ的な発想とかマンガ的な空間とか時間のつかまえかたが出発点になってる気がしてね。ここから抜け出さないと(国際性?)はもてないと思いますよ。ほんとに。
『「もののけ姫」はこうして生まれた。』、「カメラを作る 時間 空間の捉え方」{聞き取れなかったところにかんしては(?)でくくった}
表現媒体や製作体制によって、作品のなかでできること・できないことはいろいろと変わり、そして、作り手によって「できる(し他はやってる)けどやらないこと」もまた、あったりするらしい。
ものごとを見るさいさまざまな尺度をいろいろな尺度でとらえられるようになったら、よりいっそう作品鑑賞がたのしくなるんだろうなぁと思いました。
0705(火)
仕事休み日。
■観たもの■
デュボア&サンダース監督『ヒックとドラゴン』3D版
それは何ですか;
ディーン・デュボア&クリス・サンダース監督による3DCGアニメ映画。
監督コンビはディズニー『リロ&スティッチ』を手がけ、今回の『ヒクドラ』はドリームワークスへ移ってのお仕事。3D上映で観て以降、2DBlu-Rayで楽しんできた今作を3DBlu-Rayで再鑑賞しました。
日本語市場では3D Blu-rayの流通はなく、ドイツ市場?の3DBlu-Rayでの再生となりました。日本リージョンのPS4で拝めてうれしかった。
3D Blu-rayを観ていると、映像を一時停止したりポップアップメニューを表示出せたりすると立体上映が解除された単なる平面になっちゃうビデオが割合あるのですが、これは一時停止しても立体のまま。すごい仕様だ。
立体が見たくて3Dblu-ray買ってるんだから、技術的に可能なんだったらほかのビデオも同じ形式にしてほしい……。
観た感想;
公開当時も思いましたが、3D上映だからこそ映える演出がいろいろとありますね。
アーチ状になった岩石をくぐる途中でヒックが見上げると、白い海鳥がいっしょにアーチをくぐっているのが見える……みたいなショットも、空間的広がりが感じられてより一層の開放感がありました。
とくに、霧と粉塵につつまれた灰色の世界で、主人公ドラゴンは黒にちかい暗灰色、敵のドラゴンは灰色……という同系色の事物がならぶクライマックスは、立体上映のほうがやっぱりはえる。
羽ばたきの大きさや秒間の回数、上下動のタイミングのちがいなどから、2D上映だからといって「見づらくて困る」ということはないんですが、3Dはやっぱり強い。
「画面から飛び出ることで、圧迫感をおぼえさせる」こと(あるいはその逆)によって事物の快不快・迫力の有無につなげる3D上映ありきの語り口がかなり徹底されていて、『ヒックとドラゴン』オープニングで、村のために/自分が一人前だと認められてくて逸るヒックが秘密の発明兵器をかまえるときは遠近に被写体がのびる構図で、そうして投擲されたものは目の前でヒュンヒュンまわって顔をそむけたくなる。
同じように作品後半、おとなたちの遠征シーンでは、そこまでイケイケなノリの映像ではない一方で、ゆったりと準備される破城槌的なものやら何やらがスクリーンから飛び出して圧迫感がある。
遠征での合戦では、ボスドラゴンへ投擲されるもことごとく跳ね返される大人たちの得物が、「飛び出さない」構図によって二重の意味で攻撃が通ってないことをつきつける。
『ヒックとドラゴン』は、数々の名作でカメラをにぎってきた名撮影監督ロジャー・ディーキンス氏がスペシャルアドバイザーをつとめたことによる、明暗や色相の美しい世界がよく宣伝された作品ですが、こうした3D上映を想定した演出について、どこまでディーキンス氏の知見がはいっているのかなぁと疑問に思いました。
もしここにおいても氏の功績が大きいというのであれば、「もっとピュア3D上映作品が増えてくれたら、もう少しちがった映画シーンができあがっていたのかなぁ」と3D上映フェチとしてはどうしても思ってしまいますね。
0706(水)
■ネット徘徊■
「批判の批判じゃなくて肯定意見をまず語るべきでしょ、オタクなら。」と批判の批判の批判をする声を聞いた
だから、肯定派も積極的に愛を語ってほしいよ。本来ならそっちを読みたいんだよ。
批判の批判じゃなくて肯定意見をまず語るべきでしょ、オタクなら。
ぼくは『シン・ウルトラマン』が合わなかった人間だけど、さすがに「肯定派が積極的に愛を語って」ないというのは違くない? と思った。
■観たもの■
自分のさもしさを見るようできびしい;ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督『ジェット・パイロット』鑑賞メモ
それは何ですか;
『モロッコ』のジョセフ・フォン・スタンバーグ監督による航空機映画です。『地獄の天使』をめざしてハワード・ヒューズ氏が手を尽くしたことで知られ、撮影自体も1949年~1953年と長期間におよんだそうなのですが、そこからヒューズ氏がRKO社を売却する1957年まで公開はなされなかったとのこと。
ジェット機時代のチャック・イェーガーの乗ったベルX-1がB-50スーパーフォートレスの腹から離れ、空を飛び、荒野へ着陸することでもある意味有名。
観てみた感想;
飛行シーンは、移動に合わせて見える面がかわっていく雲の厚みがすごい。
夜に離着陸するジェット機がうつくしい。青いバーナーが幽玄だ。
ノンクレジット仕事で『宇宙戦争』などのバイロン・ハスキン氏が第二班監督として参加しているそうで、ミニチュアワークはいろいろあるはずなのだけど、いまいちわからない。(コクピット内の人が不動で怪しいカットは後半あるけど、わざわざミニチュアで撮らなくてもよさそうなカットがそれなので、わからない。)
編隊飛行シーンがすごい。飛行機同士が異様にちかく、一糸乱れぬフォーメーションをする。
近いといえば着陸シーンも異様にちかい。同じタイミングで二機が同じ滑走路といっていい空間へランディングする。
中盤、メインキャラが仲良くなって以降、横並びになった飛行機の一方が、もう一方を回転軸として天地方向へ180度ターンしてもう一方の飛行機と天地さかさで向かい合ったのち逆サイドについてまた横並びになる……という曲芸飛行がたびたびおこなわれてこれまたすごい。そしてそんな上空からおりたさきの地上では、舞踏会がひらかれていて、メインキャラふたりは肩を抱いてダンスをして回ります……
……つまりメインキャラふたりの飛行は舞踏会のダンスと重ねあわされているのです。この詩情はすごい。こうした筆致が前後の物語でも感じられたら、僕はもっと楽しめたと思います。
空戦は真横から見た、迫力皆無の構図でおこなわれ(機銃のエフェクトもなし)。最後のチェイスは雲をやたらとくぐる、奥行方向への直線運動が主となる。なかなか難しいものだな、と思いました。
主演俳優は脚本に悩みました。「ばかばかしい」。ジョン・ウェインはこの映画に出ることがひとつの政治的主張となるだろうとは考えていましたが、しかし間もなく、これが自分の出演する「最悪の映画のひとつ」となるだろうと気づきました。[6]
ウェインは後年こう振り返ります。
「最終的な製作費は約400万ドルだった。あまりにも愚かで言葉がでない」[7]
The lead actors fretted that the screenplay was "silly", with Wayne only taking on the role because he thought it would make a political statement, but soon realized it would become "one of the worst films" he would ever make.[6] Wayne would later recall, "The final budget was something like four million. It was just too stupid for words."[7]
英語版ウィキペディア、『Jet Pilot (film)』より{邦訳は引用者による(英検3級)}
英語版ウィキペディアを覗くと、ひどい楽屋裏ばなしがのっているけれど、これにウケてしまった程度には作品をつかみかねてしまいました。(疲れをとりきれない頭痛気味の状態で見たからかもしれないこちらの問題もあるかもしれない)
前半は領空を超え亡命・不時着したヒロインのアンナ(ジャネット・リー氏が22くらい?)がふりまくエロと愛らしさに、不時着された基地に駐屯するジェットパイロットのエリート将校ジム(ジョン・ウェイン氏が42くらい?)が不遜にふるまったり妙に紳士的にふるまったりドギマギするラブコメ。
キスシーン以上のものは写されない一方で、「直接的なエロはだめだけど、大丈夫な範疇でエロい状況は見せる」みたいなシーンがあれこれ登場する作品でして、鑑賞時あんまりそういう気分ではなかったので、きびしい。
敵国からきたヒロインにたいして、不審な物を所持してないかどうか、主人公ジムが衣服をぬがせたりボディチェックしたりするのだが、イケイケなマチズモの粉をかけつつも思春期の子供のようなどぎまぎもして……という序盤のシーンで、
「エロが見たいひとにとって都合がよすぎるのではないか」
と思ったり、夜のバルコニーで逢瀬・キスするシーンで、
「ヒロインの顔に落ちる影がくっきり葉と枝の形が明確で、ちょっと怖いな」
と感じていると、中盤からそうした疑問にこたえてくれる展開がくる。
後段でこたえてくれはするのですが、中盤まで今作をどのように観ればいいのか態度を決めかねてしまって、集中できませんでした。
なんというか、軍事行動としての身体検査や敵国の軍人へ敵国の軍人が事情聴取をかねた会話のなかで私的なアプローチや不遜な物言いをかける(かけあう)ことを、ラブコメの一シチュエーションとして素朴に見られる世界観を構築することは、至難のわざなのではないか?
(アブグレイブの拷問が問題となり、駐屯先での乱暴がさんざっぱら問題となったあと、改善策として『アシュリーの戦争』で取材されたような、異性からの接触に戒律をもうけた地域で活動するために、女性兵士の部隊が設立されたような現在からすると、なおさら厳しい気がする。当時はそうでもなかったのだろうか?)
空の運行状況をコントロールする管制官のなかに女性管制官がひとりおり、とくにエロいことに巻き込まれるでもなく、淡々と管制仕事をこなすだけの脇役として登場する。
まったくの男社会ではない基地のようすに驚かされる一方で、「女性がいるなら最初のやりとりもおっさんがやる必要はなかったのでは!?」と思ってしまった。
ハニートラップなんてすでに騒がれていた時代、倫理観の問題ではなく危機管理として同性を配して対処へ当たらせることは妥当なように思う。
会って数分数時間である赤の他人のおっさんのまえで微笑みながら脱ぎ、シャワーを浴びるヒロインについて、異文化ネタでおしとおすとかしてくれたらもっとよかった気がする。(「え、裸になることの何に問題が? だれもが隠しごとなく苦楽を分かち合い助け合う、ひとつの共同体なのですから」とかなんとか、なにかしら理屈をこねてもらって……)
後半の対立も、もっと「謎と伏線回収!」みたいな展開になってくれたら面白かったかなぁ。
たとえば、最初は順調だった亡命生活も、じょじょに仲が悪くなってくる。ヒロインがあんなことがあったね、こんなことがあったね、と言っても、「そんなことなかっただろ、誰とまちがえてるんだ!?」といらつかれたりする。
わざわざ持ち込んだ、バカンスで買ってもらったキラキラ衣装を身にまとってアピールするも、「バカみたいな服を着て、そうやってたぶらかしてきたのか!」とか怒鳴られる。
そんな仲たがいのあと、本編のとおり、ヒロインは後任の将校からじしんの配置換えとジムの処刑・拷問の話をされ、人質交換の約束がついたジムの今後について「ここまで拷問するたびに飲ませてきた記憶喪失薬も、つぎは適量をこえて投与し廃人にする。そんな用済みのゴミをアメリカへ送るのだ」と聞かされる。
そこで、ヒロインは仲たがいの原因は拷問と記憶喪失であることに気づき、あとなんか、ジムが自分がひどい目にあってると知りながらも生活をつづけていた愛の深さを知ったりする。
ヒロインはもう一度ジムへの信頼を取り戻し、お国にそむき、そしてソ連の実験機に乗り込んだジムに対して、アメリカ時代にしたあの舞踏みたいな二人の思い出の飛行を披露して秘密裏に合図をとろうとこころみる……みたいな流れなら、ぼくは素朴に楽しめたのではないかと思います。
なんというか、演者じしんが認めるとおり、この作品のドラマは中途半端なのだと思うんですけど、ハリウッド超大作はあるていど需要をみこして作られるだろうと考えると、受け手である自分のさもしい欲望・心根を鏡うつしに見るような気分になって、いたたまれない。
「えろいシーンは見たい。
見たいが、それはそれとしてえろいの目当ての下衆だと糾弾されたくない、紳士として見られたい」
……みたいなぼくのさもしさ。そういう中途半端なじぶんのありようをそのまま作品として反映すると、ちょうどこのような具合になるのではないか。
そんな具合に、お話としてはあんまりおもしろくなかったのですが、ノンバーバルな描写について引き出しのある会話劇だからなんとなしに見られてしまう。(一方は立ちで一方は横たわり、会話を重ねると近づいてそばに座り……みたいな)
0707(木)
■観た配信■
vtuber『日清焼そばU.F.O.で【新しい罪】を創れとのお達し放送!!!』をリアタイ視聴しました
エニーカラー社が運営するバーチャルYoutuber団体にじさんじに所属するバーチャル学級委員長・月ノ美兎さんが日清焼そばU.F.O.との案件コラボ配信をされていたので拝見しました。
”罪”などの創作料理家としても活動している委員長が、ついにあの大企業・日清さんに認められ、リスナーからのアレンジU.F.O.罪をつのっての配信です。
おしゃれな紙に包み千切りキャベツでオーガニックにまとめた実質無罪、「じぶんが軽犯罪にあたるということを自覚してなのか?」ハニートースト擬態型、モダン焼き罪、厳選された罪の数々が紹介されたあと、そして……。
5月末の雑談配信を最後に、Youtubeでの生配信を休止中の委員長でしたが、納得のファンとしては嬉しい七夕となりました。
0714(木)
■書きもの■
『トップガン』感想記事をアップしました
この『『トップガン』はこうして生まれた - ひたすら映画を観まくるブログ』へのはてなブックマークのとおり、セルビデオの映像特典をまとめるだけで、知らないひとにとっては興味ぶかい内容になるし、需要もある。
ということで、そのくらいのノリの記事を増やしていけたらなぁと思って書き始めたのですが、なんかいろいろと太りましたね……。
ググればネットにころがっている範囲内で済ませている+2クリック圏内の情報をまとめたお手軽記事なんですけど、書いてる当人の頭と手が重い!
書くのに要した時間は6/15~のちょうど一ヶ月間。
滞ってるblogの生存報告として記事の一部をちょこちょこ公開してましたが、そこでお出ししてない文章もかなりあるので、ここまでお付き合いいただいたかたにも"読みで"があるとおもいます。
書き始めた当初は革新的なお話をしているような気がしたのですが、いろいろあさったり読み返したりしてみると、「伊藤計劃さんの偉大さを別角度から掘り下げるみたいな感じになってきたな……けっきょく氏の落穂ひろいにすぎないのではないか」という感がなきにしも。
記事でいちばん言いたいことは「○見事な演出のすごい映画だ」ということ。
映画を観直してとくに驚き、たのしんだのは……
①ビーチバレー場面のパブリックイメージ(=ウェイウェイワイワイ)と、本編で実際に映されているもの(=輪から外れて服を着る、主人公の孤独を浮き彫りにする)のギャップが面白い。
②一緒に卓を囲んでおなじ飲食物をシェアして、向かい合うふたりを、なおもそれぞれ別の光源で照らしてるお家デートがすごい。
③空と地(私的な場と公的な場)で一貫してたりズレたりするメロドラマぶりがすごい。
④初見時は「あ~よくある挫折シーンすね?」と流したけど、この実存の不安は凄くね?
……の3点。
そこから書いているうちに/観ているうちに……
1⃣日本の識者による「(『トップガン2』のミッション遂行型とくらべ)無印『トップガン』は物語の目標がよくわからない」は、迷える若者の物語にたいしてひどくないか?(けっこう伊藤計劃『虐殺器官』ぽい実存の不安がえがかれていたり、アクション・場面配置の推移で物語っていたり、見直すとなかなかクる)
2⃣エフード・ヨナイ氏の原案記事と/映画の共同脚本家、映画監督のそれぞれのトップガンズ/『トップガン』をまとめると楽しそう。
3⃣ロジャー・イーバート氏のレビューは酷評だが、2⃣のMTV派への当時の反応例としてよさそうだし、ぼくが書きたい「○そういう演出が物語を豊かにしている」というお話につなげられそう。
⑤飛行シーンも作品により色々あるけど、『トップガン』のそれはまじでロックだな。
4⃣伊藤計劃さんの感想がしょうもない。氏の創作と『トップガン』はけっこう似てるのに……。
5⃣草稿脚本だと『地獄の黙示録』要素がちょっと具体的だな、いやというか完成版本編も『地獄の黙示録』とかなり共通してない?
6⃣伊藤氏の『スパイ・ゲーム』評は、そのまま『トップガン』に当てはまるのでは?
……といったことが浮かびました。
記事構成はさいしょ、2⃣⇒3⃣⇒○(+論旨にあわせて他者評をチョコチョコ……)という流れで書いてたんですが、けっきょく……
【1】他者評の概観(3⃣4⃣6⃣など)
⇓
【2】原案記事やビデオ、本職軍人の回想記からうかがえる制作経緯のまとめ(2⃣⑤など)
⇓
【3】○ぼくの感想(①③②4⃣④5⃣6⃣)
(⇒【4】記事で話題にした他テクストのまとめと、補足情報)
……というかたちになりました。
オーソドックスな流れだと思うけど、ぼくの感想を面白がって読んでくださるかたが目にしても困るタイプの他者評が1万4千字も最初にあるのは、ブラウザバック要因だよなぁと思いました。もっとうまいやり方がないものか。
正解がみつからないなかで、まえに書いて「これはなかなか良いのでは!?」と思うやりかたは今回も踏襲しました。
本題に入るまえ【2】の時点で(他作・他表現を紹介する)図版をもちいたピックアップ感想・紹介文を提示しておく"試食コーナー"の設置ですね。
(グレッグ・イーガン氏のエッセイ訳文+いくつか短編紹介記事でつかって以降、『ゴジラSP』1話感想や2話感想記事とか、ちょっと違うけど『Do Race?』感想記事とかで使った手口)
今回みたいな文字だらけの記事だと息抜きできるパートになると思いますし、本題にはいるまえにzzz_zzzzがどういう価値観・視点の人物なのかお試しできるのは、読んでくれるかたにとって良さそうな気がします。
(ここを面白がってくれるかたはその後もご希望どおりのお話がくるし、そうでないかたにとってはブラウザバックの機会となる)
『劇パト2』/レイアウト本の解説により、"飛びもの"の現実/非現実感について話題にし、『紅の豚』『風立ちぬ』で光のつかいかたについて話題にし、『荒鷲の翼』で物語のトーン(牧歌的な活動漫画調の青春か、過酷で無秩序な老いた現実か)にあわせてガラリと撮り方やふりつけもかわること・フレーム内でおさまったりフレーム外にはみでたりすることによる静・動のコントラストについて話題にします。
最初は『劇パト2』⇒『ファイヤーフォックス』⇒『荒鷲の翼』とやったのですが、前2つ+『トップガン』はMiGつながりでまとめられるとして、『荒鷲の翼』は導線が微妙かもわからん(『トップガン』から自体は、脚本家の「幌馬車に乗ったジョン・ウェインをパイロットにしようと考えたが甘かった」という反省から線がひけるんですけど、『ファイヤーフォックス』からの導線は微妙じゃないか……という)。
また、当該シーンの演出について、作り手の言及を直接ひっぱれる事例のほうがわかりやすいかなと思って現行のかたちに。
ただ、これも逆に失敗しちゃったんじゃないか、という気がしてならない。文量的にも内容的にも、脱線話として脇見する内容ではなくなってしまったような……。
サムズアップをし合う飛行機乗りたちをそれぞれ載せれば、なんかいい感じにまとまりが出るのではないか……というような考えから記事で話題にするシーンをピックしたのと、それぞれがそれぞれについて話題にしているところを引くことで話運びにつながりを持たせたのですが、逆に分量増加をまねいてしまった。
***
作品を観なおし、そして記事のために他作品も振り返ったりあらたに観てみたりしておもったのは、戦闘機の映像という、動かすのも撮るのも他人であり、しかもドラマ業界の役者・スタントマンやカメラマンではないだろう人々である……という、いろいろとコントロールがきかなそうな素材でも、クリエイティビティは出るものだなと感心しました。
『トップガン』の空戦シーンはとにもかくにもハッとする構図や妙になまめかしい動きが色々あります。
咀嚼しきるまえに次のショットへ飛んでしまうスピーディな映像だから流してしまったけど、この光のなんかよくわかんねぇ輝き具合、ギラつき具合、影の躍動はすごい。
なんでも撮れそうなはずの今だからこそ、このような映像でまとめた『トップガン』オリジナルスタッフのセンスのとがり具合がなおさら際立って見えました。
***
『地獄の黙示録』で主人公が直面するカオスは、ベトナムにおけるアメリカ軍のデタラメ加減であり人間(生き物)それ自体が切っても切り離せないプリミティブななにか……みたいな感じだと思う。主人公がツッコむのはおもに軍の規範のメタメタさについてであり。文明・計数化vs野生・わりきれない自然……みたいな対立はおもに、「カーツの王国」で出会う報道カメラマンの熱っぽく与太っぽいセリフの中で処理される。
伊藤計劃の『フォックスの葬送』は、『地獄の黙示録』(や『劇パト2』とおなじく)戦地で問題が強調された政体のグダグダぶり・そんななかにいる自分の頼りなさをとりあつかっているが、そこへ伊藤氏が04年4月29日に読んだ報告をBBSにのこしたP.N.エドワーズ『クローズド・ワールド コンピュータとアメリカの軍事戦略』で紹介されたイグルー・ホワイト作戦を盛り込むことで、文明vs自然の要素がより大きく扱われている。
***
じぶんの考えだけ述べず関連(しそうな)話題や作品についてもふれて記事が肥大化していくのは、zzz_zzzzの話をまとめる力の足りなさと自信のなさゆえのものだと思うのですが。
そうして手を広げた結果として、手に余るトピックをつまむだけつまんで咀嚼しきれないまま出力する、すべてつまみ食いしかできない自分の至らなさ具合が浮き彫りとなり、いろいろとよくない。
***
「ある作品Aとある作品Bをならべて(参照関係を)語るなんてのは、無数にショットがある長尺の映画であればいくらでも類似構図を見つけてチェリーピッキング・箇条書きトリックがつかえるという、ただそれだけの話なのではないか?」
という疑問はついて回るもので、そして、
「これだけの有名作なんだから、参照関係がだれにとってもそうだと言えるレベルで存在するのであれば、とっくのとうにちゃんと定説になってるのでは?」
と足を止めるのが常識的な判断です。
でも、
「"基地の扇風機を見たことでアート映画欲が湧いて、『ハンガー』的な絵作りをしちゃった"ってトニスコ監督は言うけど、『ハンガー』のどこにも扇風機でてこないじゃん!」
とか、
「そうは言ったってさ、どこもかしこも"団結の象徴""享楽"みたいな感じでビーチバレーシーンを語るひとしかいない世界だぞ?」
といった不信がぼくを非常識へとつき進ませてしまった。
いやビーチバレーシーンにかんする世間一般のイメージは、どう考えてもおかしくないですか?
謎本・絵解き・図像学的解釈みたいなおはなしじゃなくて、単純素朴なストーリーとして「前段で秘密の約束をしたマーベリックがそちらを優先、約束の時間に間に合うようバレーを勝手に早抜けする」場面じゃないですか。
***
だれもそのように言っているひとはいないけど、それでも自分はそのように見えてしまった。その"見えてしまった"じぶんの感覚を固持しつづける……
……という記事のスタイルはたぶん、今回の作品を語ることばとしてぴったりなのではないかという、裏の勝算もありました。(でも、普段から客観的な記事を量産しているタイプのひとが書いてこそ一番キくシチュエーションだと思う)
***
参照関係の有無がどうあれ、『トップガン』は作品内で独自の対比変奏によってリズムをつくっていて、その文法のなかで独特の境地にたどりついていると思います。そこについて記事でもお話ししたつもりだけど、「参照している」「参照しているからエラい」という感じに受け取られてしまうような文章になっちゃってる気がする。
「この作品には対比変奏がある(その意味でリズム感がよい)」というお話について。対比変奏フェチなのと、言語化しやすい要素なのでそこに触れがちになりますね。
言語化しやすい一方で、対比変奏にかんする感想文って案外ないので(だからグレッグ・イーガン作品の色彩設計・明暗描写について語る文章がぼくの感想文くらいしかない)、その有無や多寡についてふれるだけでも有意義な気もするんですけど、世の批評家がそれについて話題にしないのは、それが「もりこまれていない作品のほうが珍しい」ってレベルで基本的な手法・構成法だったりするからなのかもしれません。
「あちらとこちらとに反復変奏がありました」で終わらせるのではなく、つまりどういった要素が反復変奏されたことで受け手にどんな印象をあたえているか・作品全体のなかでどのように機能しているか、そこについて注目した(記事の)ほうがより面白いかもしれない。
今回の感想文記事で言ったとおり『トップガン』や『虐殺器官』は(あるいはblogで話題にしたなかだと『Do Race?』とか、『ワイルド・アパッチ』とかもかな?)、閉塞とか倦怠とか漠然とした不安をおぼえるシーンを反復変奏する(とか、劇中舞台の相似させたりとか)作品で、
「反復変奏のつかいどころをこうした部分にまとめる作品は、(最終的にやぶるにせよ、さらなる変奏で〆めるにせよ)物語としてカッチリまとまった味わいを覚えやすいのかもしれないなぁ」
などと思いました。
***
なんか、大それたスローガンやパキッと鮮烈なパワーワード的なものを自分から言うのは避けたいしそもそも書けない凡庸なじぶんと違う声色がほしくて、絵コンテの走り書きやら作品で印象的なフレーズやらをサンプリングするようになってしまった。
『虐殺器官』のあらすじ紹介はかなりお気に入り。
世界中で虐殺が止まらない。紛争の引き金となる武装勢力の親玉など「第一階層(レイヤー・ワン)」を暗殺することで混沌に歯止めをかけ平和をたもとうとするアメリカの特殊部隊員のひとりクラヴィス・シェパードはある日、ぽっかりあいた謎の空虚に気づく。こちらが突入したときにはすでにもぬけの殻だが紛争地にかならず出没する、謎の立役者がどうにも存在するらしい。クラヴィスは謎の同国人ジョン・ポールに近づくべくポールの元恋人へ身分を偽り接触。そうしてクラヴィスは、じぶんが仕事で殺した標的や、自殺した同僚、そしてじぶんが私服のまま「殺した」母、TVのまえでドミノ・ピザとバドワイザーでだらだらすごせるアメリカについて思いを馳せる……
「世界中で虐殺が止まらない」、マンガ版『虐殺器官』でおもしろかったフレーズです。はじめて見たときは、というかマンガの流れで読むと今でも「ふふっ」てなりますが……でも自分じゃ思いつけない、インパクトある良い言葉ですな。
けれどこういう声のとりこみも、逆によくなさそうだ。
これだけ長く、そしてゴチャゴチャといろんなひとのいろんなことばがある記事は、単純問題として飲み込みにくいのではないか。
***
記事内でもちょっと言ったのですが、回転物とか煙とかは、動画としては目立つ存在ですが、静止画としてキャプチャすると埋没してしまう。
湯気が上がる鍋の写真を撮ったのだが、湯気というのは常にその形を変えるがゆえにsalientなものとして知覚することが可能になるのであり、変化のない画像では存在を認識するのが難しいというのを初めて気づいた。
— 庭 (@niwa_yukichi) 2021年12月21日
画像だとあるかないかかなり分かりにくいが、 pic.twitter.com/UE5uwT4JhR
— 庭 (@niwa_yukichi) 2021年12月21日
動画では容易にその存在を見ることができる。 pic.twitter.com/tkvvgIS7PT
— 庭 (@niwa_yukichi) 2021年12月21日
庭氏のこのツイートはもっと極端な例かつ分かりやすいのですね。むずかしい……。
こういう例だけでなく、目線の動きや身振りなどの変化をそれぞれ注目してキャプチャすると、枚数がかさみ記事がタテやヨコに長くなる問題があり、動画をキャプチャしてGIFにするやり方を覚えなきゃならないのかもなぁとなりました。
また、以前の記事にひきつづき……なのですが、一部の作品について、ケータイのカメラで直撮りですみませぬ。Blu-Rayしか持ってない/BDをキャプチャできる機器がないので、こうするしかないんです……。
***
今回の記事で、今年に投稿した日記以外の感想文エントリは計25万字となりました。去年の記事が英訳文ふくめてそのくらいなので、なかなか良いペースです。
今回みたいな「大きい記事」も書きつつ。あんまり背のびも風呂敷もひろげない、5000~1万字程度の記事を投稿していけたらいいなぁ。
(0801追記;とか言ってたらもう7月も終わったよ……はやすぎる……)
■書きもの■読みもの■
「つまらない作品」を語ることがなぜつまらないのか
『トップガン』感想記事を書くにあたって何がいちばんつかれたかというと、くだんの作品を「つまらない」と批判する評を複数読んだこと。
じぶんが面白いと思っているものについて「つまらない」と言っている人の評を見ていくのはムカムカしてくるし、上映から三十余年の長い月日があるというのにネガティブな作品評は公開当時から現在にいたるまで同口同音なので徒労感を覚えるしで、つかれてしまう。
自分が「つまらない」と思っているものについて「面白い」と言っている人の評を見ていくのもまたやっぱり疲れるのですが(笑)、得るものがある楽しい疲労です。
いっぽう「つまらない」と言っている人の評は、それに対して美点をみつけられなかったからそう言っているわけで、「無」にかんする報告となりがちだ。
もちろん世の中には「つまらなかったものへの感想・批判レビューは、そうと思ってないひとからの反論を交わしたり説得したりするための注意を払うから、"全米が泣いた!"的なテンプレ賞賛がつかえず、そのひと自身のオリジナルな感想になる(ので良い)」みたいなお話をされるかたもいますよ?
いますが、でもそんな細心の注意をはらった評ってその人が言うほどには多くない。
識者によるメジャーメディアのレビューでも厳しい、というか、(とくに紙媒体の)商業媒体こそ記事あたりの字数(掲載スペース)が限られた世界だから、論拠が糸口だけ提示されて詳細については「あの識者がああ言っているから」「このメディアが掲載しているから」とブラックボックス化しているものが割合ある。
たとえば「ある作品Aはああいう美点がある。対するこの作品Bはこう悪かった」と具体的に比較して「つまらなさ」を明確にしてくれる評は、そもそもそんな見かけないものです。
そしてそういう優劣による比較論にしたって、結局「ある作品Aに対して、その評者が得たものを語る」ということで――そして「本題であるはずの作品Bの話題は、単評の"無"とちかい」のではないか――zzz_zzzzが面白く読める部分はその「Aに対する発見」部分なんですよ。
もっと見る目をひろげて、作品比較ではないレビューではどうか?
「ある価値観Cはああいうものだ。対するこの作品Bはこう踏み込みが足りていない」
「ある社会Dはああいうものだ。対するこの作品Bはこう書き込みが足りていない」
でもあまり状況は変わらないというか、指摘じたいは重要だと思うし、(作品比較もそうであるように)がっぷり四つに書いてくれれば(より)興味深かったり面白かったりしてくれるんですが、そんな奥深い価値観Cやブ厚い社会Dをいちレビューで十全に語れるか? というと……。
語り切れている場合、「それはもう作品Bを呼び水や話の入口にして、研究・考察の奥深いCや厚いDについて話してくれるほうがいいんじゃない?」みたいなことを思わないでもなかったり。
(ハードコアな「つまらなかった」「n分で退場した」の一言できりすてる類の言及は、知りたがりのzzz_zzzzとしては「理由をおしえてくれ~」とやきもきしてしまうのだが、他方で、"得られたものがない"ことに対してとても誠実だと思う)
■自律神経の乱れ■書きもののこと■
読みづらいのは仕方ないけど、文章の論理関係や論拠が妥当な文章を書きたい/書けてるか不安になる/でも自分が否定されるのはもちろん他人とかかわるのさえ疲れてイヤ
論理的な思考能力とかいうもんが欠けてる人ってたぶんあんまいなくて、理路を表示するのに慣れてないとか、あるいはもっとありふれてるのは単に前提となる情報が共有されてないだけって状況なので、とりあえずそっちから取り組んだほうがええよなってのはある
— murashit (@murashit) 2022年7月21日
じぶんの記事について、こんな選択式アンケートをつけたくなる。
Q.この記事をお読みになってどう思いましたか? 以下の5択からお選びください。
【1】論旨がおかしくて文章が読めない。
{結論にいたる理由が提示されてないとか。(例;「『となりのトトロ』のメイとサツキは実は死んでて、幽霊なのだ」)}
【2】文章は読めるけど論拠がおかしい{ディスクリプション、判断レベルで変なところがある
(例;「『となりのトトロ』の後半でメイとサツキには足がない。なので後半のふたりはじつは死んでて、幽霊なのだ」という文章それ自体は筋がとおっているが、論拠がおかしい。足のない映像はない)}
【3】文章は読めるし論拠も妥当だけど、例外を無視した牽強付会である。
(例;「『となりのトトロ』の後半でメイとサツキは、トトロやねこバスといった怪異以外の他者から認識されず、会話するシーンもない。さらには影の作画もない。なので後半のふたりはじつは死んでて、幽霊なのだ」という文章それ自体は筋がとおっているし、論拠も映像に適している。他方で、影が描かれた作画もあるし、本編以後の時制であろうEDクレジットで他者とふれあうシーンがあるなど、反証が挙げられる)
【4】妥当であるが、ほかにも考えられる。
【5】妥当である。
……なりはするが、設置する知恵がないし、【1】~【3】が並んだときに耐えられないのでやりたくない。
うえの基準でぼくが読むと、小野寺系さんによるレビューは、既存の『トップガン』評が低評である理由については【2】で、青春映画としてのお話は【4~5】で、「抒情的でジョン・フォードに通じる」云々は【2~3】。
宇多丸さんのレビューは【4】……みたいな感じになる。
じゃあ自分の記事の自己評価は? 5のつもりで書いています。
そのつもりで書いていますが、本文以外のところでの事実誤認はふつうに指摘されてるしなぁ。
***
情報を摂取する側としては、おなじ(主旨の)既知の考えを何度も読むのはかったるいし。
情報を発信する側としては、自分が・自分だけが感じ得たものを書きたい、じゃないですか。
そして、ぼくひとりがそう見えてるんじゃなくって事実としてそうなんだけど、世間ではなぜかそのように捉えられてこなかったことを初めて書けたりすると最高だ。
じぶんにとっての最高をめざした結果、今回みたく『トップガン』から『地獄の黙示録』との類似構図を見出すお話をしたり(ぼくはかなり妥当だと思う)、『Artiste』3巻エピソードと『天才シェフ危機一髪』エルブジでのアクシデントなどとに関連性を見出すお話をしたりするわけなのですが(こちらはよそさまの目にも妥当な話ができているらしい)……でも、そういうことをすると精神衛生がよろしくないことになります。
「サツキとメイは実は死んでる!」的なヨタをぶってしまっているのではないか、という不安におそわれてしまう。
素朴な回避方法として「予防線を張る」ことが挙げられるでしょう。
ヨタと前置きしたうえで自論を唱えるとか、あくまで「ぼくにはそう見えた」と主観的な印象批評として言うとかであれば、まぁ心理的ハードルはひくく、そういう不安からは解放されます。
(『ゴジラS.P』放送まえ記事ではじっさいそういう予防線を張りました)
「批評」などと銘打たずあくまで「感想」として記事をぼくがアップしているのもそういう防衛機制なのでしょう。
{まぁそういう予防線張りだけじゃなくって、なんかこう「批評ってのは短絡的なものではなく、作り手やそれを取り巻く社会全体やらを俯瞰さえするようなスゴい行為だ」というイメージがぼくのなかにはあり、「そこ行くとぼくの感想はそうじゃないよな」みたいなあれもある。
表層批評やテマティスム批評なども立派な批評だと思うので(じっさいぼくの見方・感想文はそういう方向のものです)、上のイメージは偏見なのだけど。
図書館で借りた本やあるいは自分じしんの学習ノートの記憶が、後者の行為をアマチュアやマニアのしわざと色付けしているのかもしれない。ラインマーカーがあほほど引かれてしまっているせいで、どこが重要かまるでわからない本たちの記憶が}
書く側としては気持ちがだいぶ楽になるわけですが、読む側としてはどうか?
どこぞの馬の骨とも知れない者が半笑いで言うヨタ話を読みたいか、というと、ノれるだけの元気を最近もてないことが多い。
ヨタじゃなくてマジにそう思っているしあなたにも納得してほしい……そういうガチの話をお出しするべきなのではないか、というのが最近のぼくのテンションです。
「あなたがそう思ってるだけじゃないの?」と言われない程度に、自分がそう信じる根拠を提示したい(/しないとさすがにマズいだろうと思う)し、実際『トップガン』感想記事でも、「これなら他の人もこちらの主張がわかってもらえる(正否を判定できる程度の論旨を提供できている)だろう」と思える文章を提示しました。
したのですが、
「根拠を提示した/論理的なお話をしたと思ってるのは自分だけで、ひとさまにとっては牽強付会な話をしていたり、それどころか支離滅裂な話をしていたりするんじゃないの?」
というような不安がどうしてもぬぐえない。
けっきょくのところ、ふつうに"読め"て"わかる"文章には他者から同意や賛同がつくし、独特だけど良い文章には"怪文書"という形容がつく。その一方、まじで意味不明だったり"書き手の偏りや無能がわかる"タイプだったりする本物の怪文書は、見なかったことにされたり無言で遠ざかったりされるものじゃないですか。
オタクたちに話題の「怪文書」は、なにか特定の事物にかんするやたらな長文、がよくあるパターン。
あるいは『名馬であれば馬のうち』さんのいくつかの記事のような、独特の文体と話題運び・着眼点による並外れた雰囲気の記事もそのように言われることが多い。
ぼくの最近の文章はだいたい長文であり、つまりオタク"怪文書"形容ポイントは稼げているはずの文章なんですよね。と、いうことはつまり……。みたいな。
blogの個別の記事にたいする批判としてはこれまで、いくつかの知識面での事実誤認を指摘してくれた親切な数名のかたを除けば、「長い」「文字装飾が独特で受け付けない」以外のことを言われてないので、「理解可能な文章を書けてはいるだろう」と思ってはいるのですが、まぁ不安は不安だ。
(うまい文章なら長く感じないし、「長いけどすらすら読めた」といったコメントもつくだろうので、ぼくの記事にたいする「長い」のなかには「へたな文章」「読みにくい」も含まれているだろうとは思う……)
0720(水)
■ネット徘徊■参加したイベント■
SFセミナー2022を聞いてました
きょねん参加して面白かったSFファンダムイベント、『SFセミナー2022』に今回も参加させていただきました。
(↑きょねん参加したさいの日記)
▼オクテイヴィア・バトラーが開いた扉
●昼の部●
【コマ開始(小谷真理さん機材トラブルで不在の冒頭10分ほど)、橋本輝幸さんのお話】
バトラーがひらいた話をするまえにまず、どんな扉があったのかのご説明。
創作する人も創作される内容も白人男性・異性愛が中心であった英語圏SFの世界。そこに分け入ったのが、アフリカ系女性作家で異性愛にとらわれない作品をえがいたオクテイヴィア・E・バトラー氏。
ただバトラー氏もなにもとっかかりなしに創作の世界へ飛び込んだわけではありませんでした。
シオドア・スタージョン氏の描いている作品のなかに、サミュエル・R・ディレイニー氏(アフリカ系の作家で、作品内で同性愛もあつかった。バトラー氏が作家になるうえで支えとなったワークショップのひとつで出会った人物でもある)やバトラー氏は「じぶんのような誰か」を見つけた、と語っています。
実はバトラーが扉をひらくまえに、スタージョンが扉をひらいていたのです。
【小谷真理さん登壇】
ダナ・ハラウェイ『サイボーグ・フェミニズム』(1985)は衝撃でした。
世間的にはサイボーグといえば『サイボーグ009』や『エイトマン』、平井『サイボーグ・ブルース』くらいかな~といった時代において、ハラウェイの示したものの斬新さたるや。
ハラウェイ氏の書(『猿と女とサイボーグ』)で、ディレイニーやジョン・ヴァーリイ氏、ジェイムズ・ティプトリーJr氏にまじって大きく論じられていたのがバトラー氏でした。
「著名なSF作家のなか、バトラーだけは名前さえ聞いたことのない作家だ。どんな作品を書いているのだろう?」
というのが小谷氏にとってのバトラーとの出会い。
バトラー氏はその当時ごくごくわずかしかいなかった黒人女性作家だったわけですが、読み手の人口や意識はどうだったのか?
「白人・英語の作品だから、きみにはわからないでしょ?」
アメリカSF業界(交流イベントなど)にコミットしたとき小谷さんは、そのようなことを言われたんだとか{どう言葉を返していいものか窮していたところ、(それが英語に不得手である証拠とか、あるいは"図星を突かれた"ととられて?)「ほら、やっぱり厳しいでしょ?」と勝手に得心されてしまった……といった具合の小谷氏の体験談は、暴力などをともなう大文字の差別でこそないけれど、それゆえにぬるい世の中に生きている自分としてはより一層リアリティをもって感じられるお話でした}。有色人種で非英語圏の人間は肩身がせまかったそう。
当時のメジャーな空気がどんなものだったのか、バトラー作品の表紙を見るだけでもうかがえる部分がある、小谷氏は例示します。
作中の一シーンを描いているだろうはずなのに、登場人物がなんと非黒人化されているのでした。
黒人女性作家の作品ではほかにジュエル・ゴメス『ギルダ物語』などもありました。
『ギルダ物語』はヴァンパイア物として話題になって、日本でもじぶんが評価したけれど、SFの人からは「フェミニズムの人が何か言ってる」フェミニズムの人からは「SFの人が何か言ってる」とどちらからも遠巻きに見られてしまった……と氏は苦笑します。
バトラー氏(おおきな括りとしてはブラック・フェミニズムの範疇に入ることとなりますが)の独特な点は、黒人であり女性であるという二重の差別にさらされたところ。
(※ここからはzzz_zzzzのまとめかたがよくないところ。聞きこぼしや曲解があって、ズレたまとめになってるとのご指摘あり。話半分で聞いてください※)
黒人男性(作家の作品)は、「ホワイトvsブラック」の反主流・反権力へとむかったりするのだけど、その副次的な影響としてかれ自身が身内にたいしてマチズモ的な抑圧をまねいたりすることも無いわけではなかった。(反権力のひとの家庭のほうが、そうでない家庭よりも息苦しかったりする可能性がないわけではない問題)
白人のフェミニストもまた一長一短の問題がある。
{ここはメモるまえに次の話題に移ってしまったので更にうろ覚えだけど、(黒人作家が上述のとおり「白vs黒」をテーマにしたりするみたいに)「男vs女」といった二項対立や、男の問題点にたいして注目するかたちになってしまうことがある……みたいなお話をされていた気がします}
(※以上、zzz_zzzzのまとめかたがよくないところ。話半分で聞いてください※)
それに対してバトラー作品の最大の関心事は、「差別と闘う」ではなく、ホロコーストや強制出生などの巨大な蹂躙があるなか「どうやって生き残っていくか?」というサバイバルとなっている。
今回のあつまりは丸屋九兵衛さんともいっしょにやりたかった。丸屋氏はYoutubeもなさっているかたなので、気になったかたはぜひ検索してみてください。
……というようなお話がなされました。
●夜の部●
昼の部で話題に出された作家・作品について深掘りがなされたり、「では開いたさきは?」とバトラーからの影響を言及している現代の作家・作品の紹介や、SFコンベンションの現在についてお話がなされました。
昼夜2部構成である意味がカッチリよく出た企画となっていて、「おお~!」となりました。
まずは、SFコンの現在について。
セクハラなどさまざまな問題が表に出て、それに対して新旧のコンベンションでさまざまな対応があった。(実力や名もある一方、セクハラなどの問題があった人物について、歴史ある団体がどうするか賛否ゆれるなか、若い世代の新興団体はきっぱり決別を告げるなど)
歴史改変SF漫画『大奥』がジェイムズ・ティプトリー・Jr賞となり、よしながふみ氏に代わって小谷氏が受賞式へおとずれたさい、有色人種のかたがたに「よしなが氏に"すばらしかった"と是非お伝えください」と熱心に話しかけられたそう。
そこで小谷氏は、人権意識にたかい地域のコンベンションであっても参加者が白人に偏っていたことに気づかされた……と云います。(メモってないのでうろ覚え;;)
バトラーへの影響をかたる現代の作家について、橋本氏による紹介。
ポスト・バトラー作品・作家のイチオシとして、ボツワナの作家Tlotlo Tsamaaseの作品紹介。
(社会の"厭さ"をいい感じに突いている。日本の最近の作品だと酉島『るん(笑)』とかお好きなかたであれば刺さりそう)
ほかにもいろいろなかたを紹介してくれたのですが、つづりを調べている間につぎの話題になってしまいました……。
バトラーを敬愛する作家N・K・ジェミシンの話題。
(小谷さん評だったかもわからん)曰く、苛烈な作品を書いているけれど、いっぽう「黒人だから/女性だから、差別について書かなければならない」みたいな規範にしばられない自由な作風でもあると。
ひるがえってバトラー作品などについて。
苛烈すぎる世界でサバイバルするうえでバトラーが持ち出した(血族的でもなければ家父長的でもないひとびとが結びつく)「家族」観は、現在でもなおアクチュアリティがある、というか、より一層受け入れられやすかったりするのではないか。
また、バトラー作品について、つい差別などについて話題にしてしまいがちだけれど、人種や性にとらわれない怪物的な人外性・超人性があってそこも面白い。
お昼で話した『ギルダ物語』(吸血すると吸った相手の人生まで読み取れる設定で、主人公のギルダはそれを小説にして作家として大成したりする。)もそうなのだが、「歴史性をもたない人たちがどう歴史をもつか?」といった点で読んでも興味ぶかい。
……というような感じのお話でした。
●聴講した感想●
上述のような具合に、登壇されたかたの実体験・実感などもまじえながら、バトラー作品のいろいろな可能性を示してくれた企画でした。
橋本氏のトーク自体は『未来の文学』完結記念イベントなどなど、いくつか拝見させていただいたのとかわらず「さすが」の一言だったのですが、小谷氏のトークは寡聞にして初聴講で、なんとも興味深かったです。
小説の内容だけでなく、表紙イラストについても話題にでてきて、視点がひろく、興味ぶかかったです。
さてSF雑誌の女性像について……
女性は、その限られた役割の中で、作家のために実用的な機能を果たした。物語の中で、作家が登場人物のだれかの口をかりて、ある装置のしくみや、一つの科学的原理を、無知な少女や婦人にむかって――ひいてはその延長としての読者にむかって――説明するという手である。女性はまた、なんらかの英雄的行為の報償としての役も果たしたし、危機から救い出される対象でもあったし、ときにはヒーローがうち負かさなくてはならない危険な(あるいは狡猾な)敵にもなったし、雑誌の表紙の飾りにもなった。そこには、露出度の多い、非実用的な衣服をまとった美女が描かれるのがつねだった。
……このような概観がなされたのは70年代のことでしたが、男女像だけでなく、「そういった部分についても問題があったのだなぁ」と今回のイベントで知れました。
また、zzz_zzzzはこういう極々少数のかただけが読んでくれるblogであってもつい見栄を張りたくなる人間なので、もしぼくが小谷氏(や橋本氏)のように日本で知られていない作家・思想の紹介者であれば肩で風きって歩いて胸をはってしまうだろうわけなのですが。
小谷氏のお話は、語り口だけでなくそういう語る態勢自体がとてもフランクなうえに腰が低く、それゆえ当時の空気なども「たしかにそうなんだろうなぁ」と真実味をもってかんじられました。
▼ゲンロンSF新人賞の世界へようこそ!
●昼の部●
大森望さん(&聞き手・鈴木力さん)による企画発足~運用のおはなし。
講習の大枠はほかのゲンロンスクールを参考にした。(受講生の実習課題はネットに全公開し、採点なども可視化)
平日19時開始の(つまり時間をめいっぱい取っても23時までの4時間程度で〆めなくてはならないだろう)講座のなかで、どういう構成ができるか考えた結果が、講師の講義1時間+受講生に事前に書いてもらった梗概(あらすじ)の輪読・講評3時間だった。
さいしょはゲンロンSF新人賞を、TVのオーディション番組『スター誕生!』の作家版にしたかった。
(投稿作をさまざまな文芸出版社の編集者に読んでもらって、札を上げてもらう。「うちは入選!」「うちは雑誌掲載デビューさせる!」みたいなやり取りも可視化されたら面白いのではないかと)
構想のようなかたちにはならなかったが、文芸出版社の編集者などを毎回ゲスト講師に呼ぶことで、メジャー誌とのパイプ作りは図った。
……このへんのお話は、ゲンロンの他講座(ゲンロンアートスクール)について、「スローガンは立派だが、けっきょくどうやってその道でご飯を食べていくんだ?(無くね?)」という批判がなされていた(※)のだけど、その点ゲンロンSF講座はそこについて導線が(いちおう)用意されていたのだなぁと興味ぶかかったです。
{※
}
●夜の部●
ほかのコマ参加のため聞けず。
▼小田雅久仁インタビュー
●昼の部●
長編『本にだって雄と雌があります』や『残月記』、アンソロジー『日本SFの臨界点[恋愛篇]』収録の「人生、信号待ち」などを発表している小田雅久仁さんにたいするロングインタビュー企画です。インタビュアーは香月祥宏さん。
ディスコードのお部屋では、香月氏がまえもって、ネット上でアクセスできる小田氏の過去インタビュー記事を網羅しリンク。かゆいところに手が届く、ありがたい下ごしらえをなさっていました。
肝心のインタビュー内容は、独創的(だとぼくが思う)作風のなかにも、読者ウケする結末やら紙幅の都合など出版社側からの要請などさまざまな要素がからまった共同作業・商業活動としての創作という面がうかがえて興味ぶかかったです。
ネタバレになるし、別作業と並行して聞いたのでメモもしなかったから詳細は頭から飛びました。
●夜の部●
ほかのコマ参加のため聞けず。
0721(木)
■ネット徘徊■書きもの■
「稗粟でも食ってるのか」の上品言葉
ワンパンマン、「物語の最初から戦闘力成長しない=最強キャラが主人公」とかそんな感じの物語の縛りを破るのよりにもよってガロウ編を改変してやることなんだなぁ、という感じで、絵は上手いんだけどなぁ、この展開楽しめる人は羨ましいなぁ、の気持ちがある。
— ニニム (@aiaisfosarustar) 2022年7月20日
六個?ついたリプのうち三つがオタクニチャついてそうみたいなリプなのどっかで流行ってるのかたまたまなのかは正直私も気になるよ。(悪口のセンスにしてももうちょっとなんかあるだろ……ともなるけど)
— ニニム (@aiaisfosarustar) 2022年7月20日
商業出版版『ワンパンマン』にたいするこのツイートがRT・いいね数のわりに不穏なリプを複数もらっていて、「なんだかなぁ」というツイートが流れてきました。
「不穏なリプがつくのはなんでだろう?」
とちょっと考えたんですけど……
……これってようするに、『シン・ゴジラ』について「いやまぁ普通に美味しかったけどさ みんな稗とか粟しか食ったことないの?」とのレポ漫画を投稿して炎上したのの延長線上にあるものなんではないか? という結論に至りました。
どちらの話題も(「作品⇆評者」という関係でのお話をとびこえた)「ある作品=Aと評価するじぶんvsある作品=Bと評価する他者」という関係でのお話となっていて、つまり「この作品をこう低評価するじぶんにたいして、ああ高評価する受け手は何らかの点で劣っている」と(『シン・ゴジラ』稗粟観客言及の場合は直接的に、今回のワンパンマンツイートにかんしては婉曲的に)自分と異なる評者へのビーフになってる。
そこでイラつかれるかたが出たのかなぁと。
▼ひるがえってじぶんの記事は?
ひるがえって自分はどうか?
このblogの感想記事では、気力と体力がある場合ググれば出てくる範囲の評を読んで紹介しつつ、その是非についても一言ふれたりふれなかったりしてきたわけですが……確実にそういう部分に足をつっこんでいるでしょうね。
{むかしであれば「その評をzzz_zzzzが正否どちらでとらえたか?」についてのお話は、省略していたと思います。
「こういう記事の書き手がああいう論考をどう読むかはまぁ言わんでもわかってもらえるだろう」
とか、
「本題じゃないことをごにゃごにゃ書いてもなぁ」
とかいった理由からぼやかしてたんですが。最近ちょっと、
「自分がどう思っているかも言わずただ紹介するだけして、判断を第三者にゆだねるのは、それはそれで無責任なのではないか?」
「ぜんぶがぜんぶ賛同のリツイート・復唱拡散としてとらえられる恐れに耐えられない」
「意図どおりにとらえてもらったとして、それはそれでよくないのではないか。晒し目的の無言リツイートとどう違うのか?」
などと思うようになり、ある程度書くことにしました(←というお話は、いま取り繕った「建前」かも)}
そもそも他者のお仕事について良し悪しを評価することは、それが評価として妥当だろうとそうでなかろうと「そもそもなにか評価すること自体が暴力的な要素をふくんだ行為である」「無礼だ」というお話はありそう。
出会い頭にハリセン、と私は呼ぶ。おっさん編集者に多い。未熟者ですので色々ご指導下さいと言えば喜ぶ。 https://t.co/7m1qgOxCwz
— tamanoir (@jenaiassez) 2022年7月20日
人間というのは、ただ「俺の方が偉い」と言いたいが為だけに他人の仕事を踏み躙るくらい平気の平左である生き物だ。
— tamanoir (@jenaiassez) 2022年7月20日
読者、批評家、編集者、いずれも同じであって、一々言うことに耳を傾けていたら作品は滅茶苦茶にされる。ああまた威張りに来たなと思っておけば十分だ。
べつの界隈のべつの分野にかんするこんなツイートもありました。
紹介&一言評価するスタイルは、上でこそ利点を考えてみましたが、けっきょく一長一短なようにも思います。
たとえば上で罵倒された他者のように、評についてよく読んだうえで"評の評"をしないと、見当違いの方向の攻撃/マウンティングになりかねませんし。
"評の評"単位では妥当な言及をかさねたとしても、たとえば気力体力がなくなったためにヌケが生じたりすると――言及できなかったりすると――、「悪いと思ったものには"悪い"と批判する評者が、この記事についてはそうしてないということは、この記事は良い記事だってことかな」という誤解をよんだりするでしょう。
『トップガン』の記事については、「ネガティブな評をよみすぎて気が立ってしまったのではないか?」って疑問もうかんできました。
とにもかくにも、誠実にいきたいものです。
0723(土)
■観た配信■
vtuber『【#にじさんじ甲子園】王立ヘルエスタ高校2022、勝負の秋!【にじさんじ/リゼ・ヘルエスタ】』
前回配信で夏の大会をおえたヘルエスタ高校。今回の配信では、監督就任1年目・秋の地区大会初戦から、冬の合宿・練習を経て、3年生卒業と進学・就職先をみつめ、そして春のセンバツ甲子園可否をのぞみます。
●前回までのヘル高●
監督就任1年目の新入部員(にじさんじ甲子園本大会で3年生となる選手)として、中日ドラゴンズの増井浩俊投手の転生部員をわれらがバーチャル学級委員長・月ノ美兎(リゼ監督とはふたりでコラボして以降、静岡の人気ハンバーグ屋さん「さわやか」でお食事したり、気球に乗ったりした。委員長とは個人vtuber名取さな氏や774.inc周防パトラさんなどと一緒にコラボ配信をされたり。)としてお迎えしたヘル高。
ヘル高'22月ノは、優秀なステータスながら、ストライクゾーンから外れた「ボール」を3つ取ってしまうと制球力にデバフがかかって4つ目のボール(=フォアボール。四球を得た打者は1塁へ出塁となる。)が出やすくなるマイナス特殊能力「四球」や、テンションの高低にたいする能力バフデバフが大きく出る特殊能力「調子極端」持ち。
1年生ながら弱小校の守備でも、中堅校(高校のつよさは、弱小<そこそこ<中堅<強豪<名門という順)の攻撃陣を0点~少数失点で抑えるという活躍をみせたもののそれはテンションが絶好調のときのおはなしで、テンションが溶けた状態で「中堅」と練習試合をしたときは大敗した……ということで、リゼ監督は試合時に月ノのテンションを保てるよう施策します。
練習実戦問わず5勝するごとに学校へおとずれる勝利ポイントショップ。
経験値をおおく稼げる練習機材や、能力をアップできる野球道具などを購入できる勝利ポイントの使い道は、機材1つと、テンションを好転させる「お褒めの言葉」を2枚が選択されました。
また、1年生キャッチャーの静凛(にじさんじ1期生。月ノ委員長とは「JK組」として一緒にコラボ配信したり歌をうたったりしている。)が特訓マスによって特殊能力「キャッチャーB」を取得。ピッチャーの制球力やスタミナへバフをかける特殊能力で、これによって月ノの「四球」グセや(1年生や弱小校ゆえの)スタミナ不足がいくらか改善されました。
委員長が溶けてもリリーフの1年生投手・卯月コウ(にじさんじ3期生相当のSEEDs出身。リゼ監督とはEverGreenNerdというバンドを組んだり、たまにバチバチのオタクバトルをしたり。)が、打者のミート・パワーに大きなデバフをかける「威圧感」持ちであるという強みがあるんですけど、強い高校相手にはまだまだ地力不足でむずかしい部分がある模様。
もし地区大会突破したさきの県大会で全勝すれば春の甲子園センバツ確定/1勝でも40%の確率でセンバツに選出される大事な秋期大会へ、いまできる最高の準備でもってのぞみます。
●今回のヘル高●
にじさんじ甲子園22年出場校のなかでは3校目となる就任1学年目での「中堅」到達/甲子園出場校となりました。
甲子園出場記念のOBからの本は「キャッチャー○の本」! ヘル高'22静凛はこれで「キャッチャーA」となりました。守備面での強化がうれしいうえ、育成面ではキャッチャー能力向上のために合宿・特訓マスを充てる苦労が2学年目から無くなるのもうれしいところです。
ヘル高'22しずりんは特訓で「アベレージヒッター」も取得していて1年目からスタメンです。転生OBではないコモン選手が、ステータスと特殊能力でこれだけ優秀に育っているのはすさまじい。
(コモンのキャラがどんどん盛りに盛られていくのは、ただの乱数の結果なわけですが。
vtuberブームに乗っかった有象無象のひとつ、社員ひとケタ名の学生ベンチャーのアプリ普及要員であったのが、いろんな面でバズりタレント事務所として舵取りし直すこととなった「にじさんじ」/にじさんじ一期生のドラマ性を見出してしまいますな……)
内気な選手が試合でたまに起こす「球場の魔物」の躍進によって1年目・夏の甲子園出場校がいたり、練習試合などを引きまくって「中堅」校にあがるリアルラックがすごい高校があったり……という状況だったので、「ヘル高だって上振れてるけど、"内気"がいなくて大番狂わせが狙いにくいから、どうだろう……」と心配だったのですが、こちらもこちらで上振れがすごい!
にじさんじ甲子園Aリーグはかなりの激戦区となりそう。
0724(日)
■観た配信■
【#にじさんじ甲子園 】# 3 まめねこ高校 2年目夏まで特訓だ!!【レオス・ヴィンセント 】
●前回までのまめねこ高●
ドラゴンズ現役プロ森博人投手の転生部員を壱百満天原サロメ氏としてお迎えしたまめねこ高校。
試合中のエラーを爆増させ大番狂わせをおこす(栄冠ナインモード専用の)スキル「球場の魔物」を発動できる可能性がある"内気"な性格の選手を初年度1年生にも上級生にも多数配した"上振れ"が狙える学校なのですが、「魔物」は不発・発動してもチャンスにつながらず、逆に味方側のエラーばかりが目立ち、投手の優秀さからすると信じがたい失点がふえて公式戦敗退。
栄冠ナインモード開始時の「弱小」校では、日々ストックできる練習カードの枚数も、新入生のステータスも入部人数も少ないので、「そこそこ」以上への昇格をめざしたいところですが、試合に勝たないと学校評価は変動しない。
公式戦で勝ち上がれなかったぶん、ランダムに発生する練習試合(での勝利)に期待がかかりますが、そもそも勝つ負ける以前に練習試合じたいがなかなか舞い込んでこない……という苦難の日々。
●今回のまめねこ高●
ほんとうに1打席1打席、一挙手一投足、いろいろ考えながら/思考を説明しながらのプレイングで、「これだけがんばってるのに……!」と悔しくなりながらの視聴が「報われてくれ……!」と祈る視聴にかわり、「ちょっとくらいは報われたっていいじゃないか……!」と天へ愚痴る視聴にかわりました。(乱数のいたずらを返報でとらえたくなってしまう認識のズレが生じるくらいには下ブレつづきでした)
"弱小"校のままではどうしようもないので格上と試合して負けを重ねて{べつに1年目最後こそ2つ格上の"中堅"が対戦相手だったものの、そこに至るまでは1つ格上なだけの"そこそこ"校との試合にも挑んでました(が、勝てなかった……)}、でも救済的な特殊イベントが発生する3連敗になろうかどうかという節目の試合では引き分けとなってそれすら発動しない。
(引き分けだからといって敗北よりも多大な経験値を稼げるか? というとそうでもないそうで、「最悪」の短文チャットも複数みられて、「お~アツアツの夏だな~!」ってなりました)
去年のV西(天才肌ふたり、プロ転生選手ひとりを新入生にむかえ、内気な性格の先輩もいたけど、「魔物」で打点をかせげず、初年度を「弱小」でおえた。)を応援していた日々もそんな心境になったのですが、「あれで沈んでいたのは贅沢な悩みだった……」と反省する曇天ですよ。日々の練習でさえ、洗濯で衣服がビリビリやぶけてテンションが下がっていって、「どうして……」となります。
レオスさんについて「笹木らやSMC組などなどどんな人ともたのしくプロレスやっているひと」というイメージだったのですが、今回はじめて本配信を長時間観てみてガラリと印象がかわりました。
下振れつづけてゲーム的にも配信チャット欄的にもキツい局面であろうと、けっしてネガティブなことを言わず、ネタとして昇華しようと上を向きつづけるエンターテイナーなんですね。すごい配信者さんですわ。
月初めにおこなえる「練習指示」を自由なタイミングでおこなえる「練習指示」カード。それが年度末に手札の一枚として加わったさい、さくっと消化したところなど「おっ!」となりました。
チャット欄では「4月の新入生への指示まで温存しておくのがいいのでは?」といった声が複数飛び交っていたのですが、配布カードのすくない弱小校で永らく温存することは、それまでのあいだ手札を一枚圧迫された状態でジリ貧生活を送っていかなければならない、ということでもあります。そちらと天秤をかけた結果の即切りでした。
「セオリー」とみなされるものにただ従うのではなく、現状をかんがえたうえで、より最善はないかを模索する……そういうプレイングがうかがえる配信で、とにかく応援したくなる配信でした。
0727(水)
■ネット徘徊■へぇ~!■
配給会社によるコピーコントロールCD化を防ぐ、現場アーティストの苦肉の策
CCCDを回避するのにこういう方法があったのか。当時は結構有名な話だったんでしょうか(remix 141号) pic.twitter.com/nHOHJvfFp5
— Kotetsu Shoichiro (@y0kotetsu) 2022年7月26日
このバズツイについて、このようなつぶやきをされているかたがおりました。
この回避のために隠しトラックの無音部を長くしてるのがあった気がするんだけど、軽く調べても見つからない。妄想かも。
— ふな (@funa1g) 2022年7月27日
実際これは正しいらしく、へぇ~! ってなりました。
東芝EMIでPhatのアルバムをプロデュースしてた時、A&Rから次のアルバムはCCCDになります、と告げられた。社の方針なので、逃げられない。しかし、アンチCCCDを公言してきたオレが、CCCDを作る訳にも行かない。
— kentarotakahashi (@kentarotakahash) 2021年4月17日
どうしよう?となった苦肉の策が収録時間を74分以上にするということだった。CCCDの規格は74分以上のデータに対応していなかったのだ。そこで最後のボーナス・トラック的な曲の手前に長い無音部分を入れた。
— kentarotakahashi (@kentarotakahash) 2021年4月17日
で、最後の曲が9分13秒になり、アルバム・トータルは74分30秒になった。このマスターを渡しても、CCCDは原理的に作れない。晴れて、通常CDでのリリースに。 pic.twitter.com/jlJIfgee2y
— kentarotakahashi (@kentarotakahash) 2021年4月17日
■読みもの■ネット徘徊■
円城塔『世界創作の技法』(2013)読書メモ
情報処理学会誌掲載の円城塔さんのエッセイの存在を知り、ネットで公開されてたので初めて読みました。
2013年に書かれただいぶ昔のエッセイということになりますが、だいぶ平易な内容で、円城氏の書いてきた(いる?)ことについて一部、少し腑に落ちもしました。
現代の創作(作品・作法)について、検索エンジンや機械支援が当たり前の時代になった現代ならではのやりかた(地域も言語もことなる舞台でも、「らしい」ものが書けてしまうアンソニー・ドーア氏など。円城氏もここに入る。)がある……
{※1 円城氏による『メモリー・ウォール』評としては、『波』2011年11月号書評「記憶の種子」(一時期は新潮社のサイトに併載されてたがリンク切れしてしまった……)や、『本の雑誌2013年7月「シラス丼たじろぎ号」』書評「非SF作家のSF」がある。
後者はドーアのほか、「地上の都市から異星の町、架空の都市まで手広い」ミエヴィルや「架空の北米やアジアが得意な」バチガルピ、「対ゾンビ全世界大戦を描き切る」『WorldWarZ』マックス・ブルックスという自身と同年代/広範な土地を創作の舞台にした作家を並べた「昔とは使える資料の量がちがう」創作論的な話がチラリ}
{※2 円城氏による『すべての見えない光』評としては、朝日新聞『好書好日』書評「重なり響き合う少年少女の時間」、『本の雑誌2017年9月「豆ダヌキ乱読号」』書評「ドーアの言語兵器」などがある。
後者は、そもそも我々の読んでる「小説」なるものの時代性・特異性を語ったうえで――つまり、天や王様に捧げるのでもなければ税収の記録といったものでもない「あたかも個人に向けるような」小説は、「文章で人が感動できるようになった」時代の技法だよと――、「情報技術が猛烈な発達を遂げ、もう間もなく膨大な計算パワーがその枷を解かれそうになっている昨今」の小説、つまりドーアの件の作品について語った評}
弊blog、2022年3月24日投稿「日記;2022/03/08~03/14」、田辺青蛙&円城塔『ぐだぐだ夫婦・読書話Part2』アーカイブ視聴しました より
……というのがまず前提としてあって、
「じゃあその先は?」
というようなお話なのでしょう。
未来①複雑化がすすんでビッグデータ化する。
「小説はビッグデータになれるか?」というお話は、「人類は解析機関になれるか?」という読む側への問をふくむようだ。
小説がビッグデータになれるとして、じゃあ人類はそれを「小説」として「楽しく」読めるだろうか?
今回のエッセイで話題にされているのはここまで。
未来②データ化され(てい)ない何かを描く。
お話は実は入り組んでいる。現代のアメリカ小説は、「自分のルーツ」について書かれた「長大な」小説に特化されつつある気配がするわけだが、ここで「ルーツ」は人目を引く突飛なものであればあるほど価値が上がる。これはアメリカ人にとっては何とも奇妙なひねりであって、アメリカ人として書こうとすると非アメリカ人を書かねばならず、しかし自分はアメリカ人以外の何者でもない。
ということで最近わりと、身の回りのことにもようやく興味が出てきました。
ひまわり、麦わら帽子、白いワンピース、夏休み、みたいな単語のセットを利用すると、誰でもすぐに、自動的に小説みたいなものは作れるような気がします。
これは、冬休み、ダルマストーブ、校庭の雪だるま、みたいなものでも同じわけですが、全く同じわけでもない。アイテムが自分と深く結びついているならば、ただのアイテムではない力を発揮して、お話に固有の力を与えうるのではないか、ということです。
幻冬舎刊(幻冬舎単行本)、円城塔&田辺青蛙著『読書で離婚を考えた。』kindle版56%(位置No.333中 186~187)紙の印字でp.180~181、「雪の記憶」より
ここから時を経て書かれた別のエッセイ「物から読み解く政治思想」では、それをリバースエンジニアリングしたかのような思索ものぞけます。
本質的にみんなが違う意見を持つ世の中を、一つの視点しか持たない作者が描くことはできるのか、というのは謎だ。
謎ではあるが、すでにそこに複雑な履歴をもって存在している物とは、一個の人間の考えを軽く飛び越えているところがあって、こういうとなんだかワビサビみたいなところがあるが、なるほどそうした細部から、様々な人間の姿が自然と浮かび上がることがある。
円城塔著『書籍化まで□光年』、「物から読み解く政治思想」(本の雑誌社刊、『本の雑誌』2018年2月号「雪あかりイカ巻号」p.118、最下段1~11行目)
固有の物にまつわる固有の経験を有した個人がそれについて語るものに何らかの力が宿るとして、様々な来歴をへた事物にはそれにまつわる固有の経験を有した幾人かの面影がそれぞれにじんだりするのではないか?
私小説的な――あるいは最近のアメリカ文学的な、個人のルーツをめぐる?――「その人にしか書けないもの」を書く創作があるのではないか? というのが『読書で離婚を考えた。』の「雪の記憶」などで語られたことなのかなぁと思う。
記録にのこらないものを書き留める、というのも、こちらに入ってくるのかもしれない。{たとえば田辺青蛙&円城塔『ぐだぐだ夫婦・読書話Part2』(リンク先、弊blogの視聴日記)で、田辺氏が「90年代~ゼロ年代のインターネット生活、アングラサイトの機微を書きたい」と言っていたことに対する肯定などが挙げられる}
それはもしかしたらカルトや秘儀的な領域へ踏み込んでいくことになるのかもしれないし、あるいは「はたして個人の"感じ"みたいなものも、そのうち分解解析できるのではないか?」という反論もありそうです。
また円城氏は一時期エモーショナルカーブについて話題にされていましたが、たとえば名だたるレビューが論難した一方でマスに絶大な人気を得た『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』の使用単語でマイニングすると、きれいな山あり谷ありの展開となっているのだと云う。
オギ・オーガス&サイ・ガダム氏の『性欲の科学』が紹介した知見によれば、たとえば男性の嗜好についてはPornhubなどの検索ワード分布をマイニングしたり、女性の嗜好であればハーレクイン小説のタイトルをマイニングすることで……
ロマンス小説のヒーローにいないのがはっきりわかるのは、ブルーカラーの肉体労働者(掃除夫や溶接工はいない)とお役人(保険査定員や副販売部長はいない)、それと、以前は女性の職業だった職種の男だ(美容師や秘書、幼稚園の先生はいない(*19))。トップ10の職業は、どれも「ステータス」、「信頼」、「能力」と関連性がある。
オギ・オーガス&サイ・ガダム『性欲の科学』{kindle版34%(位置No.7009 中2302)、「第5章 強くて支配的な大金持ちとちょいワルが好き」ブルーカラーとお役人はお断り
……それぞれの嗜好についてある程度の見取り図がえがけたりするらしい。
(ただ、かれらのまとめは少し乱暴で、Anthony Cox&Maryanne Fisher氏の2009年の研究をググってみると、「ハーレクインの恋人役には、1位の医師に代表される"金持ち"タイプと2位のカウボーイに代表される"運動神経万能"タイプの二パターンがいて、後者は保安官や兵士など"守護者"タイプも含むかも。カウボーイは現実でもフィクションでも貧乏だと考えられているけど、アメリカン・スピリットの体現者でもあり、自由人な冒険家で、自分自身やときに困っている女性を助ける美徳をもった誠実な男で、富や名声のため危険を冒す無謀な一面もある……英国ロマン主義文学のダークヒーローと似通った存在なのだ」というようなことを言ってるっぽい)
未来③組織化されてないものを組織化する/読者を書き換える作品を書く
デビュー当時から言っていることのように思う。
■観た配信■
【#にじさんじ甲子園】王立ヘルエスタ高校2022、初めての春甲子園!【にじさんじ/リゼ・ヘルエスタ】
前回配信で秋の大会をおえ冬を越し、春のセンバツ試合開始直前まですすめたヘルエスタ高校。今回の配信では、監督就任1年目・春のセンバツ甲子園から4月入学式で新入部員をむかえるところまで監督します。
●前回までのヘル高●
にじさんじ甲子園22年出場校のなかでは3校目となる、就任1学年目での学校の評判「中堅」到達/甲子園出場校となったヘル高。
甲子園出場記念のOBからの本は「キャッチャー○の本」! ヘル高'22静凛はこれで「キャッチャーA」となりました。
センバツで負ければ学校の評価もさがる。1試合目で負ければ”そこそこ”校へ逆戻りしてしまうのではないか? 大敗すれば選手にネガティブな赤特殊能力が生じてしまうのではないか?
さまざまな不安をさらにふくらませる対戦相手は、前評判Aの強豪校!
プロピッチャーの転生部員とはいえ★200で「調子極端」「四球」グセある月ノ投手との1年生バッテリーと、★100台後半のコモン部員たちの打線で、前評判A評価の強豪校にどれくらい太刀打ちできるものなのか……。
さてどうなるヘルエスタ! 負けるなヘルエスタ! がんばれヘルエスタ!
●今回のヘル高●
いや~すごかった!
監督は見守るしかできないAIオート操作中に自動失点からの自動得点。操作中に失点してからの得点!
0730(土)
■見た配信■
vtuberなど『Google Play ゲーム愛♡配信祭』
GooglePlayの企画に、去年にひきつづきにじさんじの面々が参加!
われらがバーチャル学級委員長月ノ美兎さんは『アイドルマスター シャイニーカラーズ』の紹介で登場。
企画内容とかはふつうにライバーにかなり裁量まかせてくれてる感じがあって良かったです。
SSRゴー☆ジャスとか、委員長の画力の高さがうかがえるネタも用意されて非常に良かった。
でも配信じたいはけっこう事故ってたし。
たとえ事故ってなかったとしてもそもそもの配信構成の良くなさ・フタ画面の説明不足による混乱は避けられなかったんじゃないか……とは思っちゃいました。
(今回の配信の構成は、①個人chで個人配信 ⇒ ②本配信MC中に「準備中」フタ画面でやりすごす ⇒ ③個人チャンネルでミラー配信……という流れだったのですが。
②のときに途中入場したリスナーのなかには、「なに? どうしたの?」って普通に困惑しちゃってた人も少なからず見受けられました。
「おそらく公式配信への誘導的なことだったのだろう」と邪推するけど、逆効果だった気がしなくもない)
去年のGooglePlay企画である『VTuber最強運動会』は、本大会本配信まえに事前練習配信とかありーの・本番では誘導スタッフありーので、今回みたいなストレスは特に感じませんでした。
というのも去年の企画について個人chの配信では(大会運営上、不参加種目での休憩時間みたいなものは生じつつも、種目不参加者同士で雑談タイムとして動き続けて、)今回みたいな"説明不足のフタ画面だけが表示される、いつ終わるかわからない待機時間"はなかったんですよね。
ここ数年の取り組みでまだまだ試行錯誤中なんでしょうし、あともしかしたらコロナ禍のリモートとかでうまく段取りできなかったとかあるのかもしれないとか思ったりもしますが、
「企画内容自体は、ライバーが自由に行えているだろう部分が大きそうな良いもので。
前回今回とスタッフの愛を感じるだけに、よりいっそう歯がゆいなぁ」
と感じましたわ。
■ネット徘徊■
京アニのスタッフ旧ブログ、いまはもう見れないのか/保存してるファンがいるんだ
『リズと青い鳥』の興行収入をググると「6000万円」と出てくる一方(ツイッターでバズっていたので知りました。そうだったの……)、「3億3000万円」というお話もある(ツイッターでバズっていたリプについていたので知りました。どっちなの……?)。
「前者は初動、後者は最終興収」というお話を聞く一方で、じゃあ「リズ 最終興収」とかでググってもそれらしいソースがなかなか見当たらない。
「後者のソースって何なんだろう?」
と気になっていたんですけど、どうやら京都アニメーション公式サイトにかつて掲載されていた『京都アニメーションスタッフブログ THE☆アニメバカ一代』にて三好一郎さん(木上 益治さん)が発信した情報らしい。
#リズと青い鳥 の興行収入については三好一郎さんが2019年3月6日のスタッフブログにて「3億3千万ほどあげた」と書いてます。 pic.twitter.com/hZYv4XQ1I3
— tsun (@tsuntsuku2) 2022年7月28日
スタッフブログは2020年9月にリニューアルされ、それより過去に掲載されたぶんは現在観れなくなっているのですが(『インターネットアーカイブ』に拓はある。当該記事も確認できる)、「きっちりログを保存して/さくっとリファレンスできるファンがいらっしゃるのだなぁ」としみじみしました。
きっと正解であろう『リズと青い鳥』興収3.3億円説。
上のブログが消えている関係もあってか、こちらでググって出てくるのは、興行収入やビデオ売り上げ枚数で一喜一憂しマウントを取り合ういわゆる「売りスレ」界隈の声が大体で……
……自分もそういうゴシップに一喜一憂し楽しんでしまう人間であるため、そして(デマなど)その煽りがやりすぎな領域に踏み込んでいるのを見たことがあるため、この辺の界隈には近寄らないようにしているのですが(めちゃくちゃ心が乱高下するし、自分にとって都合がいい煽りなら軽率に釣られてしまう……)、
「その界隈もまたその界隈なりの理路をもった世界なんだろうな」
「こういう界隈だからこそ、こういう領域の情報は確度がたかかったりしたりもするんだろうな」
と、ちょっとじぶんの見識のせまさに反省する次第でした。
(あと、「これだけTLで話題ならこのくらいの動員はあるだろう」という肌感覚は意外と正しそうな一方で、それもまた狭いアンテナでの肌感覚でしかなく、「じゃあぼくのTLでは『ごちうさ』が『リズ』と同程度に観られている作品だということが感じられるか? 『艦これ』や『劣等生』『ノゲノラ』がそれ以上や倍くらい観られている作品だということが感じられるか?」といったら難しいな、
「アニメ漫画ラノベなどを楽しむひとをぼくはみんな"オタク"でくくってしまうけど、作品を楽しむひとびとの幅って多様だな」
……みたいなことも思ったり)
「非モテ」「キモオタ」「萌え豚」みたいな自称をやっぱり続けていくべきなのではないか
「ぼくがティーンのころによく見かけた"非モテ""萌え豚"自虐は、じぶんじしんがナチュラルにそういう性根の持ち主だ、というのはもちろんあるんだけど。
会話のあいまを埋める照れ隠しとか、空気を重くしすぎないようにするネタという面が少なからずあったよな。
ぼくら世代は、上の世代のひとがおこなうスキンシップや下ネタに"なんだかなぁ"と思ったわけだけど、思い返せばあれもぼくら(世代)がおこなった自虐芸みたいな、"毛づくろい"としての話芸だったのではないか?
あれと同じようなイタさや気持ち悪さを他者へ与えてしまっていると考えれば、"非モテ""萌え豚"仕草はたしかによくないな……」
と先日は思ったわけですが。
昨日、東大駒場キャンパスで掲示された「弱者男性をエンパワメントする」立て看板(通称:「チー牛」立て看)が設置されたことを受け、学生有志で公開抗議文を作成いたしました。不必要に分断を招き、また差別を助長する言説を、私たちは断固糾弾します。 pic.twitter.com/roLYZTAOAU
— UTokyo Diversity Network - 多様性を目指す東大有志のネットワーク (@UTDiversityNet) 2022年7月29日
これについて話題はいろいろあって。
なかでも(連ツイを全部貼るのは長すぎるし、すでに不穏なリプライがついているから、話者の具体名をあげて燃料を投下するみたいになったら困りもするので多少はぶくけど)、
「主語があいまいなうえ、"弱者男性"にせよ"自由"が云々にせよ、とにかく大きい上にいろいろな文脈を背負った言葉だから、主張がわかるようでわかりにくいけど。
という感じのお話をみて、ある意味でああいうのが自称としてカジュアルに使える空気というのはよかったかもわからんなぁと思ったり。
0731(日)
■そこつもの■見逃した配信■
円城&藤井オクテイヴィア・バトラー本トークイベントを見逃した
円城氏がツイッター上でたびたび宣伝していたオクテイヴィア・バトラー作品にかんするトークイベントについて、せっかくオンライン配信があったのに視聴チケットを買い忘れて見逃してしまいました。
仕事帰りでちょっと眠ってしまって、気づいたら14時02分! アディショナルタイムがないものかとチケット販売ページを開いてみましたが、カッチリ14時に閉じられてたんでしょうね、無理でした。
■見た配信■
#にじさんじ甲子園】王立ヘルエスタ高校2022、挑戦の夏!【にじさんじ/リゼ・ヘルエスタ】
4月の入学式でむかえた部員がくわわったヘルエスタ高校の春の練習、夏の大会、合宿、秋大会まえまでが配信されました。
●前回までのヘル高●
初年度の甲子園春のセンバツでベスト4となる大金星を得て4月の入学式を「中堅」校でむかえたヘル高は、8人の新入部員をむかえた新体制となった。
新入部員は、監督が舐めてた飴をプレゼントしたらスカウト成功したDarkness EaterあらためCandy Eater鈴木勝、ライオンズのコーチである佐藤選手の転生プロである鷹宮リオンなど即戦力となる有望な選手もいる一方、ピッチャー伏見ガク(にじさんじ二期生)とミスタ(にじさんじEN)はふたりとも「寸前×」もちで、2年生となった卯月コウもあわせて「寸前×」三銃士となった。
●今回のヘル高●
センバツベスト4で2年生エース月ノも★300、「威圧感」もちのリリーフ卯月コウも変化球の球種と変化量をのばし、「夏の地区大会は準決以上がどうなるかな~^^」と思っていたのですが、いやはや……試合はどう転ぶかわかりませんね。
1回戦の評判「E」の高校へも妙な失点をかさねた委員長は、2回戦は0点でおさえたものの、3回戦ではまた4失点。打線はヒットを重ねたものの、得点になかなかむすびつかず惜敗。
「もうちょっと抑えてくれてよさそうなのに~」
と時の運を悔しく思いました。
チャット欄がざわざわしていて印象的だったのは以下の4点くらいでしょうかね。どれもけっきょくすべて「諸説ゲーミング」、結果論/プレイスタイルの好みの問題の範疇におさまるところじゃないか? と思うんですけど……
①いちばん打撃系のステータスが高く3年で信頼値もたかい田村さんをベンチ外にする意味は?
②最大にちかい高ステータス(/だけど不調)の相手を敬遠する意味は?
{次の相手は低ステータス(/だけど絶好調)}
③代打をいつ切るか? 誰を出すか?
(ステータスが高い3年の都築センパイか? 得能が期待できるベルさんか?)
④セカンドを守備Sの選手がまもるチームへの攻撃として、「センター返し」や「転がせ」指示は有効なのか?
……といったところ。リゼ監督から意図の説明があったのは②③かな。すくなくともzzz_zzzzはその説明で納得いきました。
①はリアタイ視聴時は正直、「あと1点」が取れなかったりそもそも1点さえ取れない試合が前回も今回も目立ったので、「ライバーをなるだけ外したくない方針何だろうと思うけど、ちょっともったいない(なかった)気がする」と思いました。
でも、過去の大会なら花畑選手の妙な不発とか(笑)、今回のヘル高であれば、
「じゃあミートCパワーC走力CでチャンスA・信頼度もたかい3年高田先輩は活躍できてましたか?」
って言ったらそんなこと全くなかった事例のとおり、短期決戦すぎて(試行回数がすくなすぎて)数値に見込まれる結果へ確率が収束しない企画です。勝てる確率はあがっただろうけど、どの程度あがっただろうかはわからないし、「ライバーの好みの問題でしかないって言われればその程度じゃないかなぁ」という感じです。
また、視聴後に振り返ってみて、ほかの理由からも「まぁそう行くのはわからんでもないなぁ」と納得しました。
ベンチ外へ送られたフィナーナと田村先輩のステータスをふりかえってみると、どちらも「併殺」の赤得もちなんですよね。ここまでの試合で併殺された局面はあったので、それを重くとらえた采配と考えるのは妥当なのではないでしょうか。
もしこの見立てが正しいとしたら、それを否定されるのは「おなじゲーム」を楽しむゲーマーとして、あんまりにも可哀想な意見だと思う。
極端な例として「なにを選んでもヒットされる・一定値まで得点されてしまう"連打モード"が実はあるのではないか」という麻雀の「流れ」論みたいなものを信じるかたもいますが、そこまでいかずとも、プレイしていくうちに「こうしたら良い結果が出た」から「もう一回しよう」と個人的なジンクスを生み出したりそれをもとに経験論として育んでみたりするのは、育成ゲームの楽しみ・醍醐味のひとつではないですか。
それに対して「勝手な思い込みでオカルト誤選択をしてる(からダメだ)」みたいな批判は可能かもしれませんが、「ミスなく最適解をえらびつづける名将采配をお望みであれば、ここは場違いなのではないか? e-sportsとかRTAを見たほうがいいのでは?」と思わなくもない……。
また、「勝てる確率を狭めてライバーを取った」みたいな選択だったとしても、それはそれで責められるものではないとzzz_zzzzは思いました。
「自分と関わりがあったり無くてもこれから関わるかもしれないうえ、それぞれの人生を生きる個人の、そして様々なファンをもつライバーをお借りする。
そういう企画である関係上、なるべくベンチ内に籍を置かせるようにする/本番で出番をつくる(信条をもったり、精神衛生上そういう風にしたりする)」
って人がいてもおかしくないですよ。
じっさい「お借りしたからにはなるだけ全員試合に出させてあげたい」って方針をとったり、「このライバーにはこの能力だろ!」て声にメンタルいかれそうになったりしたと言ったりする配信者もいらっしゃるわけですしね。
自分の推してるライバーが(高ステータスの選手として不採用だったりスタメンでなかったりしても)ないがしろにされないことをありがたく思ったり、それまでの活動を非公式wikiで勉強してキャラ育成に汲んでくれようとしたりするのをうれしく感じたりするひとはとりあえずここに一人います。
勝利に重きを置くことはこういう企画の一枠だから大事なんですが、それはそれとして、たとえば「このライバーが(あのライバーと一緒の)野球部にはいったらどんなドラマをつくってくれるだろう」って(お人形遊び的な)ところに重きを置くひとがいても、それはそれでゲーム・この企画に対する真剣な向き合いかたのひとつだろう……とぼくは思うわけなのでした。
*1:『風の帰る場所』掲載のインタビューで宮崎氏はチャップリンの出口の高さをほめたあと、ディズニー作品についてこう批判します。
「あの、ディズニーの作品で一番嫌なのは、僕は入口と出口が同じだと思うんですよね。なんか『ああ、楽しかったな』って出てくるんですよ。入口と同じように出口も敷居が低くて、同じように間口が広いんですよ」
――(笑)。
「ディズニーのヒューマニズムの、あの偽物加減とかね。ああいうもんの作りものくささみたいなのがね。
文藝春秋刊(2013年12月20日発行)、宮崎駿『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』kindle版10%(位置No.4044中 359)、「風が吹き始めた場所 一九九〇年十一月」娯楽 より
あるいは手塚治虫の話題から派生して、ディズニー『白雪姫』をこう話す。
「どうして彼があんなにアニメーションにこだわるのかってときにね、やっぱり彼の漫画が日本の漫画から出発してるんじゃないことなんですよね。ディズニーのアニメーションから出発してるところなんですよ。それで、とうとうあの人はやっぱり……あるところではものすごく優れてるのに、その自分の親父さんをどっかで殺し損ねてるんですよね」
――そうですね、うん。
「ディズニーを否定しきれなかったんですよ。やっぱり少年の日のまぼろしなんですよ、もう理屈を超えてるような気がするのね。だから『白雪姫』を三十六回観たとかさあ、なんか言うでしょう。あれを今観てみなさい。真面目な視点を持って、これがちゃんと生身の人間だなっていうふうに移し替えて、あの『白雪姫』を。アホ娘ですよ、もう」
――ははははは。アホ娘(笑)。
「王子も。だから、そういう見方をしなくて済む時代に成り立った作品なんだよね。それはディズニーが振りまいたヨーロッパ教養主義みたいなものの幻影をアメリカ人に与えてね。しかもアメリカだけが先進国だったっていうことが――だからいまだに、むしろアメリカではディズニーは聖域になっちゃったでしょう?」
『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』kindle版23%(位置No.4044中 886)、「風が吹き始めた場所 一九九〇年十一月」ディズニー より
こうした観点は、アメリカ人一般へもおよびます。
だからこの前、僕がこれはすげえやと思ったのは、あのテロ以降、アメリカ人の旅行者に対しては危険地帯に行くときにはアメリカ人の格好するなって注意をうながしてるっていうことで。これはすごいことですよねえ。『ディスカバリーチャンネル』の旅行番組なんか観てるとわかりますけど、今まではアメリカ人って、どこまで行っても野球帽被って同じ格好して、それが世界に通用する言葉や態度だと思ってやってきたわけでしょ? 傲慢の極みですよね。チャールトン・ヘストン主演の映画『北京の55日』観てるようなもんでね。僕はあれを観たとき、こんな嫌な野郎は絶対殺してやると思いましたからね。俺は中国人だったらこいつを殺すって(笑)。だけど今は、その横柄なアメリカ人を、アメリカ自身がこれやめなきゃヤバイって言いだしたわけですから。これは開闢以来でしょ?」
『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』kindle版92%(位置No.4044中 3703)、「風の谷から湯屋まで 二〇〇一年十一月」冷戦の終結とバブルの崩壊 より
*2:といっても、『紅の豚』が転がったさきとして描いているは、そういうアメリカ映画的なタイマン決闘にけっきょく転じてしまう人類普遍のしょうもなさ、だと思うのですが……