すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

 どれも日記か個別の感想記事か何かでもっと加筆したり詰めたりするつもりですが……。

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レディ・ガガ氏公式チャンネルの主題歌、日本語含む各国語字幕が用意されてるの凄いな……)

 

「"わからないからこそ好きなんだよ"、"わからないまま戦ってくれるから良いんだよ"」というお話が長々解説されたり、その解説を読んで「なるほど腑に落ちました!」との声が出たりするのを聞くとぼくは、

「なるほどつまり"分かるからこそ良い""良さは伝わってこそ"ってことだな?」と多分さいしょに訴えた人が伝えたいことと真逆の合点を得てしまうのだが、それでよろしいのか?

・『シン・ウルトラマン』本編冒頭映像を観て、面白さを再確認しつつもリズムの妙な外しかたに気づく。

 

・5/28は午前0時にィジランテ 僕のヒーローアカデミア:ILLEGALS』最終回、昼間にップガン:マーヴェリック』を観て、年間の基準値を大幅に超えるアメリカ活劇成分を摂取してしまった一日となり申した。

 まだ今年の半分も終わっちゃいませんが、『TG:M』はぼくにとって2022年ベスト映画になるんじゃないだろうか。というか魂の一作になるかもしれない。

 

ゥせぇるすまん』124話一挙配信(6/5までアーカイブ残るらしい)をふとクリックしてみたら普通に映像として魅力的なのでびっくりしてしまった。

{画像さいしょの2つが5話『47階からの眺め』で、つぎの2つが6話『勇気は損気』。明暗のつよさや具象抽象、粗密のデフォルメの利かせ方、スケッチ的な抜きかた。これがご覧のとおり「うまいひと」によるうまい塩梅で、素朴に見応えがある。(ぼくの先日の「らくがき」もこんな感じに描ければよかったんだろうな、と思わされた)

 ウィキペディアによれば美術監督は宮野隆氏とのことだが、話題にしたエピソードのスタッフはだれかは存じません}

 

 

※以下、件の作品や話題にした作品の結末までネタバレした文章が続きます。ご注意ください※

『シン・ウルトラマン』の話題

 本編は5/15に鑑賞し、日記に第一印象はのこしました。パンフとデザインワークスは買ったけど読んでない。

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  ひとさまの『シン・ウルトラマン』感想をあさっていく

 なるほどなぁというレビューでしたが、こういうツイートがバズっている時点でエンタメとして、というか、こういうツイートがされている時点でそれがどれだけ困難な主張かがよくわかりますね。

 マシーナリーとも子氏のレビューはなるほど胸打たれますが、

「"わからないからこそ好きなんだよ"、"わからないまま戦ってくれるから良いんだよ"、というお話を、複数回観に行ったりそれについて熟考したりして練ったうえで、そして他者にとってわからないままにさせず(上のマシーナリー氏のふせったーなら、氏の想定以上の文字数を費やして)わかるように説明している時点で、その価値観は受け入れづらいものだ……

 ……ということを主張者である当人が証明しているし、このふせったーに対して"なるほど腑に落ちました!"というような"わかった"ことに対する喜びの声が多数寄せられていることが、それをエンタメとして題材にすることの困難さを証明しているなぁ」

 と思いました。

 

 本当にむずかしいし、眉間にしわを寄せて聞いてしまう内容でした。

 いや、インタビューやドキュメンタリーにたいして熱心に応え(いやこれは販促や宣伝を請け負う、矢面に立つひとの責任のとりかたという面もあるんだと思うんですが)、『デザインワークス』なる版権元が作ってるのとはちがう冊子も用意したり毎度毎度『全記録全集』をつくって長々語ってくれたりする作り手庵野氏ほどじぶんの考えをだれでもアクセスできるかたちで発信しているクリエイターは日本にはいないし、世界でも有数だと思う)が言うことですか? と。

 そしてそうした作り手が作品とは別途に用意した"自己解説"をありがたがって読むファンが「わからないから良いんだよ~!」と言うことに対して、

「え、そりゃ~あんまりじゃないっすか?」

 と、どうしてもぼくは反発してしまう。

 「わからないから良いんだよ」、なるほどなるほど。じゃあどうしてあなたはインターネットをひらいているのですか?

 

 マシーナリーとも子氏のレビューから派生して、『シン・エヴァ』をふりかえるまぐれもの氏のツイートもまた「なるほどなるほど」と読みましたが……

 ……そうして補助線をひかれると、ぼくの『シン・ウルトラマン』への不満もくっきりしてきました。

 いやエヴァ』って、べつに「なんかマリのことよくわからないけど好きなんでエヴァに乗りました、頑張りました」ってはなしではないですよね?

 「碇くんは分かろうとしたの?」という問いを振り返って「うまく行ったかどうかはともかくとして、いろいろがんばってたよな」と思えるだけの展開が『ヱヴァ』にはありました。とくに『シン・エヴァ』では、長い長い対話が――ゲンドウは、告白の傾聴みたいな感じでしたが――ありました。

 そういうところがあまりに無かったよなぁ……というところにじぶんの不満があると思います。

 

 この辺、『シン・エヴァトリックス レザレクションズ』(観に行ったって書いたっけ? 観ました)でも感じたモヤモヤを思い起こしたりもする。

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(『シン・エヴァ』の第一印象は3/15の日記に書いた)

 一世を風靡した作品・シリーズが、当時それらが有していたカリスマ性(毀誉褒貶・賛否両論まきおこしてカルトを生んだ)の材である、尖った映像的・物語的表現。作品外のムーブメントも含めて反省・総括したいのかなんなのか(それとも老成か?)、「あなたが崇め奉っているような神では全然ないんスよ」とそうした尖った部分にみずから茶々を入れ相対化し、マイルドなセルフパロディに堕としてしまう。

 『シン・ウルトラマン』も、なんかすごい難しい題材に挑戦した結果、ぼくみたいな「わかりやすいものを求めるライトな観客」にとってなんともつかみどころがない作品になってしまったのではないか? というような風に思えてきました。

 ウルトラマンという神じゃないし、かといって人じゃないし、でも神だし、なんだかんだ人だし……みたいなみょうちくりんな存在が、神永(人)を好きになった物語(を原作にのっとってしなきゃならない)

 そんな物語についてクリエイターが色々と考えに考え、映像にしていった結果、宗教画のように美化することもしなければ、かといって過度に卑近というわけでもない、どっちつかずなウルトラマン・神永が登場して。そして{ぼくみたいなわかりやすい観客が(笑)}「簡単に好感が持ててエモがれるわかりやすいアクションや物語のある対象」として描くわけにはいかない、なんとも微妙な人類が登場したんじゃないかな……? みたいに思えてしまう。

 直近の『シン・エヴァ』を観ればあきらかなとおり、脚本の庵野氏が現在の筆力でも素朴なひとの姿・感動話を書けないわけがなく、群としての人の「うごき」だって『ヱヴァQ』冒頭の回収作業や、ヴィレの人々の発艦シークエンス、『シン・エヴァ』の村パートみたいに描ける。

 印象的な「人」のショットだってとらえられる。

 『シン・ゴジラ』0:14:08のがれき津波から逃げるホワイトシャツの青年の全力疾走のあの姿。背広を片手に逃げる彼の姿を見ると、どうして毎度動揺してしまうのか。

 『シン・ゴジラ』0:26:40の線路をわたる介助者とせおわれた人の姿が、どうしてああも納得感と感慨を覚えてしまうのか。

 だから『シン・ウルトラマン』のあの、発端となるはずの子供の救助劇が(そもそもこの筋書き自体がなんともだけども)、とてつもなく印象に残らない「物語的ご都合をこなしているだけ」に見えてしまうのかツイッターでバズったヤマト宅急便員の補助のほうがよっぽど胸を打つ)も、きっと何か意図があってのことなのだろうと思う。

{ヤマト宅急便員は「やるべき職務」と「やりたい私事」とのコンフリクトがあるだろう。時間との闘いである自分の職務を中断してまで、しかも来た道を引き返してまで行なうことなのか?

 また、画面内にうつされたものとの対比もあるだろう。対向車線でまたたく間に過ぎ去っていく車、画面右の畑で彼らを見やる(がその場から動かない)ひとの姿が、かれの「善行」を活き活きとさせる対比もある。

 いっぽう『シン・ウルトラマン』神永の行ないは、そもそもカトクタイ員がどれだけのことをやる人々なのかわからないうえに、子供が取り残されている場所がどれくらいの怪獣と近くて危険なのかもわからない。ふんわりした設定無理解と状況でおこなう点で、なんだかぼんやりしたものになっている。

 先日の日記でちらっと言ったとおり、まったくカメラに写さないマクガフィンや理念のようなものとして据えていたらこんな困惑はおこらなかっただろうけど、でもそうすると過度な美化・理想化し得る「しょうもないもの」ではないものになってしまう余地を残してしまうから、ダメだったのだろう}

 

 わかんないけど/から好き、は非常にむずかしい。

 こわくないですか? これって、

「なんで怒ってるか分かる?」

 とどう違うんだろう? ぼくは「なんかわかんないけど/から嫌い」と害してくる存在が来たりウルトラマンが変じたりしても、「そこがいいんだよ」とは言えないっすよ。

 

 実際にはただたんに、既存の「善きもの」「善いとしている価値観」に依っているだけなんではないだろうか。

 そしてそれは「わかんないけど/から好き」ではないんじゃないでしょうか。

 

 ふつうに良いものだったら、ふつうによいかたちで映せばよくね?

 

***

 

 さめぱ氏が『シン・ウルトラマン』の〆めかたについて庵野氏の過去作との相似性を指摘されていて……

 さめぱ氏が取り上げた結末のショットを軸にふりかえってみれば、画面にちいさくちいさく一人の顔が映るようなここまでのカット⇒さいごに一画面上に一堂に会す集合ショット、というコントラストがあったのかな? と思えてきます。

 序盤でアサミの着任のもようや神永不在のカトクタイの職場でおこなわれるガチャガチャぶりに目が疲れたり。あるいや2度目のウルトラマン格闘後に、笑みをたたえた神永がひょいっとカトクタイの面々のもとに戻って「なんだこいつ……?」みたいになったり。もしくは中盤、異星のテクノロジーにより巨大化していたカトクタイ員アサミが元のサイズにもどされたときブルーシートが画面いっぱいに埋め尽くすなかぽつんと一人置かれたり……

 ……いろいろな帰還のもようとそれにまつわる微妙な空気を見てきたぼくたちが、このラストショットに安心を覚えたのはそういうことでしょう。

〔いやでも、防護服で横並びになったりヘリに乗る前に横並びになったりヘリの中で4人勢ぞろいしたり、空を4人で見上げるショットがあったりした気が……

{そうやって振り返ってみて、あれだけ物をナメまくってきた構図の中で、ヘリでのくだりについては特撮パート(で回収したもの/回収する空間)と実写パート(カトクタイらがいる場)とが同一空間上であるって担保するものがヘリ機内というロケ地のみで、「え、ここでは前景でネットをナメないんだ!?」と空間的な断絶/チープさを感じたのを思い出した。網などをナメたらフレームインフレームでウルトラマンと一緒に独立愚連の共同仕事をしている)カトクタイ員が視覚的にばらばらになってしまうだろう……という判断なんだろうか?}〕

 

 ……でもここでなにか感慨を得るのは、神(作り手)のカメラセッティング・編集権にあまりに拠ってはいないか? とも思いました。

 これまでぼくはそういう"やりにいってる"演出(ショット構成・コンテワーク)の作品を楽しんできていて(たとえばアカデミー撮影賞複数受賞の名カメラマン・コンラッド・ホール氏に「いやこのまま撮ればよくね?」と言わしめたというくらい、きっちりかっちり絵コンテを用意した『アメリカン・ビューティ』サム・メンデス監督作など)そういうのを評価しない蓮實タイプのシネフィルの批判をみても「いやぁけっきょく作り手の匙加減って点では変わりないじゃないですか?」と思っていたんですが……

 ……「あぁなるほど、こういうことか」とちょっと方向転換しました。

 

 上でもちょこっと言いましたが、『ヱヴァQ』の冒頭の宇宙回収シーン(と回収後のディスコミュニケーションとかあれやこれややら。

 あるいは上にリンク貼った第一印象でふれたシン・ゴジラ(序盤で進言しても鼻で笑われたり咎められたり、大衆がはけたところで仲が深い先輩から居残りでヒソヒソ話でいさめられたりしていた疎外をえがいたうえでの)1:36:34のカヨコ&アメリカ要人の握手⇒1:36:48~のカヨコ&矢口ふたりが並んで指令場を歩く長いトラックショットで登場する握手(1:37:02)⇒1:37:15~つくば市SBPCPC関東化学工場で缶が画面遠方から近方へ運ばれるショット→1:37:18~ケータイ片手に画面遠方から近方へ並んで歩く巨災対メンバー①と作業員ふたりのショット⇒1:37:28木更津港でケータイ片手に歩く巨災対メンバー②⇒1:37:35~の矢口らが立川駐屯地で歩く長いトラックショットで登場する握手(1:38:14)(⇒演説する矢口とそれを聞く自衛隊員)⇒1:39:33前方指揮所へ歩く矢口の背中のトラックショット⇒1:40:25線路を画面遠方から近方へ2輌ならんで走る新幹線→1:40:27東京駅へ向かう新幹線の背中側からのトラックショット……という握手の連鎖/歩き・走りの連鎖のほうが、はるかに心動かされるわけですよ。

 

 ようやく分かってきましたよ、つまりぼくは、アメリカ軍との関係がかんばしくなかった序盤の対比として、あるいは、しょーもない日本人でもみょうちくりんなバイザー(PSVR)と非日本語をあやつる外星人的な異形に変容できることをえがいた"虚構のがんばり"との対比・相似として、往年のSF・特撮的様相なのにそれが最適解であるという"現実の異様ながんばり"がうんだ一般アメリカ企業の異形スペースXを借り受けて落下するウルトラマンをカトクタイやらその他の人類が一丸となってがんばって回収するくだりが観たかったんですわ。

 回収するにあたってね、ふるくなって要らなくなった人工衛星とか、要らなくないけど「我々にとっていちばん重要な脅威を偵察する!」とか言って東西両方ともが現役でつかっている偵察衛星とかの軌道を変えて、ゼットンの攻撃にたいするデコイとしながら救出するんすよ。

 そういうのが観られていたなら、おそらく『シン・ウルトラマン』にここまでもやもや釈然とせずに映画館を後にしなかったんだろうと思うんですよ。

 

 本編冒頭映像の面白さとリズムの妙な外しかた

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 やはり面白いな~!と思いつつも、この「動画」自体が(ぼくのような鑑賞済みのひとが観返して反芻するためのような)非常に内向きなものに思えてしまって、なんだかどんよりします。

 そもそものこの冒頭映像がどういう文脈のもので提示されたものなのか、あのタイトル表示は必要な気がしますし、そしてこの抜粋の〆も「駆除に成功」……で終わっちゃって、次に続いていかない。

 『ヱヴァンゲリオン新劇場版:Q』や『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の冒頭公開は、「つづきが気になる! 劇場へ行きたい!」と思わせるもので、実際ぼくは足を運んだ。

 はたしてぼくは、未見の状態でこれを観て「この先どうなるんだ~!!?」となったかというとそんなことはないのではないか。そう思えてならないのでした。

 

 観返して、映像の気持ちよさと微妙に音ハメをはずした気持ちよくなさが気になり始めました。

 0:52~「♪ダダッダダダダ、ダ~ン!」の、「ダ~ン!」から始まる「政府、防災庁を設立」の流れがとくにわかりやすいですね。0:54~「♪デロデロデロデロデローン、デドン/ぴ~ろ~ぴ~ろ~ぴ~、ふよよよよ~ん」の、「ぴ~ろ~ぴ~ろ~ぴ~」でカトクタイのロゴアニメーションがくるくる回って、「カシャ、カシャ、カシャ」の「カシャ」とともに回転が止まってSSSPのロゴと青と赤の色がつくところまでは画と音とが非常に気持ちよい。

 そこから0:59~「カシャ、カシャ、カシャ、カシャ」の4音がひびくなか、室長の宗像班長田村、作戦立案担当の神永、汎用生物学者船縁、非粒子物理学者の滝5人のカトクタイ員の写真が一枚ずつ写されていくところは、4音5音と数がそろってないとおり、音ハメできない構成になっててきもちわるい。神永が出たあと~船縁が出るちょいまえ、で鳴らすことになっている。

 

  本編からの独立してる? してない?

 投入される情報量の多さによって気持ちよくなるのは絶対あるのですが、そんなカオティックななかにも組織化された文脈が見えたりして、そこも嬉しいところでした。

 多くのかたがお話されているとおり、ここで『シン・ゴジラ』でやったことのおさらいとしての諸要素がまずありますよね。

 また、『シン・ウルトラマン』本編につながる要素としても、前半でもカトクタイが推理したり後半で話題にされたりする禍威獣の概観で「なるほど!」となる要素が、(本編でもセリフで言及される)パゴスのほかにも、ステルス要素をゆうするラルゲユウス、ドリルを追加されたカイゲルにもあったりして中々うまい。

 

 ただ、それ以上つながってきそうでこなさそうなのがアレかもしれないなぁとも思いました。

 灰色の山のような巨大施設を荒らすゴメスの姿は、ガボラに襲われそうな灰色の山のような施設を守ったウルトラマンと対比できて楽しい一方で。

 夜の街の灯りを反射しながら大通りをすすむカイゲルのショットは、夜のウルトラマンの低空飛行と連想できそうですが、カイゲルの歩みについてその被害甚大ぶりはまったく描かれていないのでとくにつながりません。

 

 

トップガン:マーヴェリック』が凄まじい

・午前0時にィジランテ 僕のヒーローアカデミア:ILLEGALS』最終回、昼間にップガン:マーヴェリック』を観て、年間の基準値を大幅に超えるアメリカ活劇成分を摂取してしまった一日となり申した。

 まだ今年の半分も終わっちゃいませんが、『TG:M』はぼくにとって2022年ベスト映画になるんじゃないだろうか。というか魂の一作になるかもしれない。

 

 COVID-19下なるべく外を出歩きたくないので(※)、映画もほんとうに観たいものしか観に行かない/再観賞は避ける……という自分ルールを定めていたのですが、正直もう一回くらいは映画館で観てみたいな。

{※20年6月ごろの話だったり21年7月ごろの話だったりと何度か書いてるとおり、陽性者どころか濃厚接触者が一人出るだけでクッソめんどくさいことになるのでなるだけ人と関わりたくない。

(最近のぼくが暮らす地方共同体におけるクラスター対策はもっとぼんやりしたものになっている一方で、そ隔離期間にかんしては据え置きなので)}

 

 そもそもぼくがトム様好きなので加点されてる部分は結構あるでしょう

 美点はいろいろある。

 マーヴェリックの所業を批判する将校に(だけ)かかったブラインドの縞模様の影の美しさ、若きパイロットたちのまえで登壇したさいの星条旗の赤と白の縞模様のットン大戦車軍団』のスピーチで掲げられた星条旗ばりの高圧さ、マーヴェリックの若き日のトラウマであるパラシュート(傘がひらいたときの橙色の鮮やかさ)で不時着した海の(蛍光緑の着色剤で染まった)毒々しさ・静的な構図にたいして、プライベートデートで滑走するヨットの疾走感と広げた青い帆の美しさ、最後に展開される縞模様のか細くもたしかな包容力が良かったなぁとか。

 

 「う~ん」と思う部分も色々ある。

 必要とはいえ設定や人物関係の説明が説明説明しすぎてないか、とか。

{原典からの再演構図も「けっこう強引に持ってっていないか?」と思ったし(あの演奏までのくだりとか)、そこへさらに原典映像のフラッシュバックが挟まれる素朴な演出に、「TVスペシャルみたいだなぁ」と思いもした。

回想するにしてもなんかよい感じにグラフィカルに収める方法ってあるじゃないですか。トニー・スコット監督のキャリア後半の作品とか、クリストファー・マッカリー監督『ミッション・インポッシブル:フォールアウト』のパリのくだりとか。クリント・イーストウッド監督『父親たちの星条旗』みたいに、気が利いてるとか。

 そもそもコシンスキー監督&トム・クルーズ主演で初めて組んだ『オブリビオンからして、いい具合に仕上げてたじゃないですか?)}

 

 展開が足踏み的だったり妙にバタバタしているな、とか。

{前述したとおり、原典からの再演構図のうちのいくつかはけっこう強引に重ねてきた印象があるし。それ以外にもたとえば、ある家庭を訪れて、家のひとと出会い頭に笑顔でハグしたと思ったら数ショット後にもう一度ハグするシーンがあったような記憶が……(アイスマンともあの人とも二度ハグしてたし、それがこの作品のリズムなのかもしれない。その場合はバタバタというよりも、モタモタしていると言うほうがただしいんだろうか)}

 

 コシンスキー監督作の会話劇は、演出力という面においてたしかに面白くないかもしれないなぁとか。

{ただ会話を撮ってるだけ感・セリフだけ聞いててもよさそう感というか。

 画面でノンバーバルなアクションが盛り込まれても、同時進行でおこらないというか、極端な言い方だけど"セリフ言いました⇒身振りしました⇒セリフ言いました"みたいな感じで、なんか一つ一つこなしていく段取り感をおぼえてしまうというか……。

 ただし、ビリヤードしながらの会話劇で、後ろへ立って親しげに話しかけてくる不愉快な男に対して、キューを引く動作でそのまま突く(というか、親愛表現としての小突きか。不穏な会話をしたハングマンから渡されたキューを受け取り遊びつつも、接触はなく。そのキューをもちつつさらなる遊び・コンタクトにつかう、という。)……とか、良い部分もいろいろ見られました}

 

 もちろん、ぼくがトム様好きなので、加点されてる部分は結構あると思います。

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トム・クルーズ氏が出ていない作品で、トム・クルーズ出演作品の話を(複数の画像を用意して)長々するくらいには、かれとかれの作品が好きだし。

 そして上の記事で語った、「運動エネルギーの塊でありながらも、その車内にいるひとはシートにすわってアクセル踏んでハンドル握ってるだけで身体的な動きのほぼほぼ無いという安全性の塊でもある車などの乗り物は、静止画でははたして進んでいるのか止まっているのか見当がつかない、不思議な代物」において、その運動エネルギーを可視化させるアイデアも、やっぱり無数に盛り込まれていました。

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 完璧に音ハメしたきもちよいクレジット表記と、なんかごちゃごちゃ暗転の多い展開

 上のような動画を観たからでしょうか、OPクレジットで感動してしまった。

 『トップガン』のアンセムから『DangerZone』へつなげて空母の発着艦模様をうつした原典のオープニングを踏襲しつつも、クレジットの出が鐘の音へ完璧に合わせる形となっていたんですよ。

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 「♪耳を聾するエンジンのひびき」懐かしの名曲とともにおこなわれた発着艦のようすが(原典の人の労働やスモークからコシンスキー監督らしいメカの挙動への接写と音拾いを多くした微妙なちがいがありつつも)軽やかで気持ちよい……と思っていると海へと傾いている太陽を背にした空母を俯瞰する空撮ショットは(原典ではそのまま、そうして飛び立った戦闘機に乗った主役たちが敵国とにらみ合う海上シーンに移行したところを)なんか暗転で場面転換される。

 そうして主人公マーヴェリックの海と無縁の現在の暮らしと仕事が描かれると、また別場へ舞台を移して『トップガン』のアンセムを響かせて、原典オマージュのバイク&戦闘機の並走が映されて……と進展していきます。(仕事でのアレコレから、叱責をともなう将校と密室での会話、トップガンの訓練地へ、という流れは原典どおりと言えばそうなのだが……)

 

 そんな具合に映画は結構ザックザクしています。(いや上で「タルい部分がある」って感じのことを言った手前この記事をお読みの方はよくわからないと思いますが、全体的な印象としてはなんかバタバタ・ザクザクしてるんですよ)

 いや、お話の運びとしてそこまで変だとは思いません。{とりあえず好きに撮った素材をどうにかこうにか並べたみたいな、ゴロッと感はない。(その意味では監督脚本のクリストファー・マッカリー氏自身が製作の苦労に言及していて実際本編を観てみると「予告でつかわれたド派手アクションがなくなってる!?」とか「え、予告で大々的に喧伝されたこのアクション、こんな序盤のよくわからないタイミングで行なわれるものだったの!?」とか驚く『ミッション・インポッシブル:ローグ・ネイション』『ミッション・インポッシブル:フォールアウト』のほうがよっぽどゴロッとしている)}

 思いませんが、でもけっこう暗転が多い

 『トップガン』で、前作の相棒グースの息子が出てきて、しかもジョセフ・コシンスキー監督で……という前情報から想像すると、かなり手堅い作品なんだろうなと思うじゃないですか。

 だってコシンスキー監督作が『TG:M』主演をつとめるトム・クルーズ氏と最初のタッグを組んだブリビオン』は、主演作で複数のヒット作品をもつ、大衆のあこがれであり同業者からも一目置かれる映画スターである一方で、カルト宗教認定も受けるサイエントロジーに救われて以後幹部として熱心な活動もする広告塔であり、家庭を何度も持とうとするもうまく行かないトム・クルーズ氏じしんの人生を重ねて観たくなってしまうような傑作SF映画で。

 そしてコシンスキー氏の直近の監督作で『TG:M』で助演と言えるグースの息子を演じるマイルズ・テラー氏と初めてタッグを組んだンリー・ザ・ブレイブ』は、不良の若者(演;マイルズ・テラー氏)が新人消防隊員を経て農務省の山火事消防隊員(ホットショット)となる成長と継承をえがく、これまた素敵な(「実話をもとにした」)実録映画だったわけですからね。

 ナレーションが多量な『オブリビオン』も、『オンリー・ザ・ブレイブ』も、けっこうになめらかな物語展開の作品だったので、それがこんなにザクザクした作品となるとは思いませんでした。

 

 同じブラッカイマーP作品『デジャヴ』のえらさを思い出した

 ジェリー・ブラッカイマー御年78歳(79になる年)、有終の美を飾るようなプロデュース作品になるんじゃないでしょうか。

 もっともぼくとしては、ブラッカイマー&トム・クルーズ両名がまた組んで、そしてゴア・ヴァービンスキー氏にもう一度ビッグバジェット映画のメガホンを取らせてあげてほしい欲がありますが。というか今作を観てそんな欲望がうまれてしまいました。

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 ブラッカイマー製作/トニー・スコット監督ジャヴ』のえらさのひとつは、序・中盤の設定説明の実地的な具体性にあると思います。国家が秘密裏に開発・運用している"時の窓"は、こちら側から見ることこそできるが、向こう側へ干渉することはできない……

 ……その劇中設定を『デジャヴ』は、映画中盤0:50:10でレーザーポインターを当てたことで機械がエラーを起こしてシャットダウンするさま*1、セリフによる理論的説明(向こう側に生き物を送ろうとすれば「ハムスターもハエも死んだ」54:27。「無線信号は?」「壊れる」。「メモは送れないか?」「ノー」『薄い紙を』54:35)、さらに58:38でメモひとつ送ろうとして機械が故障/都市全体が停電してしまう実地の現象を映すことで、「それ以上のことは出来ないのだ」と観客に了解させる

 

  わりあい一緒に話題にされるけど『インターステラー』ってその点がさ、

 時間SF映画として『デジャヴ』とクリストファー・ノーラン監督ンターステラー』を一緒におすすめする人ってインターネットを観ていると割合いらっしゃるんですが、両者の違いって上述のことで、『インターステラー』の「できない」ことってそれまでセリフの上でしか言われないんですよね。

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 ンターステラー』クリストファー・ノーラン監督・ノーラン兄弟脚本)はミニシアター系映画に分類されないでしょうけど、しかし商業的なプレッシャーから運命づけられた破滅と直面しているようには見えず、ミニシアター系のように独り立ちした作品のように思えます。ノーランはすくなくとも野心的な映画を提供することにおいて相当な権力を掌握しており、制作会社のエグゼクティブがかれの曇りなきヴィジョンを不細工にねじまげるとは信じがたい。

 つまり、もし『インターステラー』が理にかなっていないとすれば、それはノーラン自身が理にかなわない物語を気にしなかったからなわけです。

 Christopher Nolan’s Interstellar (co-written with his brother Jonathan) doesn’t fall into the art-house category, but nor on the face of it does it seem to have been predestined for ruin by commercial pressures alone. Nolan wields considerable clout, and given that he was able to make such a potentially ambitious film at all, it’s hard to believe that studio executives took his pristine vision and bent it out of shape. In the end, if it doesn’t make sense that can only be because Nolan himself didn’t care that it doesn’t make sense.

 今作の科学的妥当性について、たしかに映画の科学アドバイザーをつとめたキップ・ソーンへ高い期待をいだいていました。キップ・ソーンの一般相対性理論(general relativity)の知識にくらべれば、わたしの脳全部なんてかれの爪の垢みたいなものです*2

 嗚呼、『インターステラー』のプロットの一般相対論に起因する面は多くがとっちらかっており、映画の関連書籍はスクリーンに映されたクラックについて膨大な脚注をつける必要があります。

 劇中のすべての物理現象を前向きに受け入れられる観客でさえ、ほとんどの展開は信じられないものでしょう。

 On matters of scientific plausibility, I certainly held high hopes for a movie whose science adviser, Kip Thorne, has more knowledge of general relativity in his toe-nail clippings than I have in my entire brain. Alas, many of the GR-driven aspects of Interstellar’s plot are a mess, requiring numerous footnotes relegated to a companion book to paper over the cracks in what’s shown on-screen. But even for viewers willing to take all the physics on trust, very little that remains is believable.

 人類を絶滅から救うミッションにおいて、インターステラーの登場人物は限りない(boundlessly)無能でかえって人間的な欠陥がありません。時間の重圧が映画のプロットに一定量の端折りを正当化し、われわれ観客がドタバタ喜劇(スラップスティックレベルのへまを見せられているあいだも、現実世界のNASAやそれに類する機関は、細かすぎるくらい綿密な計画を立て徹底的なトレーニングに従事しています。

 われらが主人公は宇宙飛行士で、ワームホールを通り抜けることが仕事のひとですけど、ワームホールの口が(円盤ではなくむしろ)球体であるということを、仮死状態からめざめて実物と文字通り向き合ってはじめて学びます*3

 宇宙飛行士たちは巨大に波打つ惑星へ降り立ち、巨大に波打つことへただただ驚きます。なぜなら(なぜだか)彼らは惑星に関して充分なモデリングをしておらず、さもなければ遠隔監視もしてなくて、そんなことが起こるなんてまったく予期していなかったので。

 On a mission to rescue humanity from extinction, Interstellar’s characters are not so much humanly flawed as boundlessly incompetent. In the real world, NASA and similar agencies engage in meticulous planning and exhaustive training, and while time pressures in the movie’s plot could justify a certain amount of corner-cutting, what we see is slapstick-level bumbling. Our pilot hero, whose job is to fly through a wormhole, learns for the first time that the mouths of wormholes are spherical (rather than disks) only when he wakes from suspended animation and is on the verge of confronting the thing itself. People land on a planet with giant tides, only to be surprised by the giant tides, because (somehow) they were unable to do enough modelling, or remote observation, to know exactly what to expect.

 こういった具合に後退する知性が一般的である(general ineptitude)劇中背景にあらがって、ある科学者は「愛は時間にも空間にも制限されない(unbounded)」との突拍子もない確信を宣言*4し、のちの荒唐無稽で奇妙な展開を合法化する予示をしてみせ。また別の科学者は都合がよいことに気が狂って、そして、様々なばかばかしいやらかしをして脚本家の選んだ軌道に沿ってプロットを促進させます。

 Against this background of general ineptitude, one scientist declares her unlikely conviction that love is unbounded by space and time, in order to foreshadow and legitimise a later preposterous conceit, while another goes conveniently insane and does various ridiculous things to propel the plot along the writers’ chosen trajectory.

   グレッグ・イーガン『No Intelligence Required Her, Ex Machina and Interstellar(知性は不要――「her/世界でひとつの彼女」、「エクス・マキナ」そして「インターステラー」にとって)』{邦訳・脚注は引用者による(英検3級)}

 弊ブログでも勝手に訳して紹介したNo Intelligence Required Her, Ex Machina and Interstellar(知性は不要――「her/世界でひとつの彼女」、「エクス・マキナ」そして「インターステラー」にとって)』でSF作家グレッグ・イーガン氏はこんな具合に論難していたわけなのですが、同じ方向性のお話ですね。

 まぁ現実でもそうなんですけどけっきょく作り手の匙加減であるフィクション、しかもまさしく匙加減である劇中独自設定をほうりこむSF・ファンタジーだとなおさらそうだと思うんですけど、「できない」と登場人物が口で言ったりバカなこと言ってると鼻で笑われたりするものって一番信用ならないじゃないですか。

 劇中現実としてじっさいにダメであることが提示されない限り、すくなくともヘソ曲がりのぼくのようなやからみたいな観客は「そうは言ってもさ」とか「あ、今後の展開の布石ですか?」って思っちゃう。

 

  ひるがえって『TG:M』

 ップガン:マーヴェリック』は、そこんところの線引きを実地で提示してくれて、そのうえで破る映画なんですよね。OPクレジット明けのテストパイロットとしての"マッハ9"デイの一幕からとにもかくにも一貫している。

 そして異様な速度で回収していく。

藤本:いやぁーすごく嬉しいです!!僕、ずっと韓国映画みたいな漫画を描きたいと思っていて。『チェイサー』っていう映画があるんですが、主人公が悪役を追う映画なんですね。開始30分くらいでもう悪役が主人公に捕まるんです。話しのオチであろう展開がすぐ起こっちゃって、「どうなるんだ、どうなるんだ」の繰り返しなんですね。韓国映画って、監督が何を思ってるか分からないとか言われがちなんですけど、最後まで観れば、「これだ」っていうのが分かるんです。そういう風に作りたいなって思っています。

   少年ジャンプ公式サイト、『藤本タツキ沙村広明奇跡の対談』

 それは世界的なエンタメの潮流なのかもしれないですが、とにかくこちらの「あ、今後の展開の布石ですか?」という予想を上回る速度で物語が展開されて、各シークエンスでそれ単体で独立して喜怒哀楽なんらかの情感を得たり得られなかったりする。

 

 たとえば上で話題にした冒頭のエピソード「マッハ9」デイの一幕なんてそれが分かりやすい。

 カレンダーに手書きされた「マッハ9」のとおり、年かさをかさねたマーヴェリックがいつものノーヘルでカワサキを駆って職場に行くと、最新鋭ダークスターのまえで若者~中年の知的階級のひとびとが浮かない顔をしている。「あ、古臭い肉体資本の主人公と、現代の対比?」と思うと、違うことがすぐわかる。

 「きょうのマッハ9のテストは中止だ」と同僚たちから告げられる。「というか、ゆくゆくはマッハ10の超高速機をつくり運用するというこの計画自体がおしまいになった。時代は無人機開発なんだ。将校がじきじきにきて、それを告げるそうだ」

 そんなお話がされます。

 ここでぼくは、

「あ~なるほどここでお役御免になったマーヴェリックが、トップガン時代の同期で現在はめっちゃえらくなったアイスマンのはからいでトップガン教官になるわけか」

「そしてダークスターは廃棄はされず、何かクライマックスとかで乗る専用機になるわけだな」

 とか思うのですが、それは半分正解で半分まちがっていました。年嵩をかさねるもいまだ大佐で現場主義のマーヴェリックはそんなタルい男じゃない

 将校がくるまえに今日のテストを終わらせてしまう――それも計画の最終目標であるマッハ10到達を

 そういう風に、マーヴェリックはどんどんと進んでいく。

「あ~なるほどここでマーヴェリックが失敗しちゃうわけなのか。『カーズ3』路線だ?

 とか思うのですが、マーヴェリックはふつうにマッハ10にタッチして計画を成功に導いてしまう

 大成功、拍手喝采の管制室(マーヴェリックと共にがんばってきた、知的階級のひとびとがまた良いんだよな。すごく好感が持てる夢追い人って感じの、かわいらしい人々で)を尻目に、マーヴェリックはさらに増速しつづける。

 そういう風に、マーヴェリックはどこまでも突き進んでいく。

 

***

 

 さすがにモニタリング中の機体がクラッシュしたからって、管制室のモニタが全部落ちることなんてあるわけないのだが、『デジャヴ』の管制室がダウンしたように、『トップガン:マーヴェリック』の管制室のモニタも真っ暗になる。

 世界の限界をどこまでも具体的に実地に描きだしていく。

 

***

 

 そんなわけで、図らずも今作は、上で引用したイーガン氏が言うような「細かすぎるくらい綿密な計画を立て徹底的なトレーニングに従事」するNASAの宇宙飛行士みたいな傑物によるお仕事映画じみた作品になっています。

 どことも知れない「ならず者国家」でひそかに進行している、監視した情報から得た世界の危機。それに対してわれらがアメリカ海軍が複数の奇跡を起こさなければならない最強(だが困難きわまりない)作戦を考案し、トップガンを招集して完璧な地形情報をもとに何度も何度も訓練を重ねて複数の奇跡を起こせるように鍛え上げていく。

 さまざまな技術的問題やしがらみを乗り越えたような乗り越えてないような末での本番は、訓練で予期していた問題はすべて起こるし、原典で起こったような悲劇も繰り返される。

 さらには古式な英雄映画や軍事映画には付き物のいわゆる「アクト・オブ・ヴァラー」だって登場する――だって現実の英雄たちが起こしたいるわけだし……なんて「もっともらしさ」との接点を見いだすよりも、

「生きて帰らせることをとにかく第一に掲げてたひとだもんな……」

 という物語的必然/今作のマーヴェリックならそうするよなぁという納得がまず大きく浮かびますし、そしてさらには、

「だってラスト・サムライ』の、『オブリビオン』の、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』のわれらがヒーロー、トム・クルーズ主演映画だもんな」

 という感慨もまた湧いてくる展開です。

 そもそも、現実のNASAの宇宙飛行士だってすべてを完璧にこなしてミッションを成功させられてきたわけでなく、問題をかかえてないわけだってないから、まぁ上で言う「宇宙飛行士」というのはアイコン/(そもそもわれわれがつい「牧歌的」と言い表したくなってしまう時代の時点で信じられていたとは到底思えない、どこにあるとも知れない)共同幻想としての「ヒーロー」のことで、つまりトップガン:マーヴェリック』は映写機が投影する夢が信じさせてくれる超人の異様な活劇を現代においてなおも再現しようという作品、と言うほうがただしい。

 マーヴェリックが達成させようとする困難きわまりない作戦について、ジョン・ハム氏演じる(ふつうに年嵩とキャリアをかさねたふつうのトップガン出身)将校"サイクロン"が論難するシーンで、「impossible」って単語は聞こえなかった気もするけれど「不可能な」作戦って字幕をつけた戸田奈津子氏はきわめて正しい。どうせなら「ミッション・インポッシブル」と言い切るべきだったとさえぼくは思う。

 

***

 

 作戦遂行のためというよりもスピード狂的に速さをもとめた結果、(かれほど操縦がうまくないために)僚機をモニタのなかだけの空想の地形に追突してクラッシュさせてしまった若いトップガン"ハングマン"(『ドリーム』で宇宙飛行士ジョン・グレンを演じたグレン・パウエル氏が、オールドクラシックなアメリカのハンサムを、そしてマーヴェリックともアイスマンとも重なる熱とプライドとプライドから来る他者へのナメを持ち合わせた青年を見事に演じている)らに何度も何度も言い聞かせる。

「それで遺族は納得してくれるのか?」

 

 前作が前作なので、そしてそんな前作のあれを引き継いだ結果や、役者の現状などを反映して、今作は死にかんする話題が多い。

 今作では画面端に黒くなる古典的なアイリスアウトで表される、高速機動にともなう過重力(インジケータに表示される9G、10Gによる意識消失(ブラックアウト)におちいってしまった別のトップガン(の戦闘機)を、指導教官で実地訓練・戦闘機を操縦中のマーヴェリックが追いかけつづけ、起こそうとしつづける。

(生身と違って頬を叩いたりするわけにはいかない別々の戦闘機にそれぞれ乗った不可能状況下で、戦闘機らしいやり方でコミュニケーションをとるこのシーンのアイデアは、複座機の前席・後席で動きが連動する操縦桿を目いっぱいうごかすことで、別席にいる恋人の内腿を撫でた『ーク・ブルー』のように人機一体となった熟練パイロットの肉感的な身振りですばらしい)

 

 今作の暗転の多さは、観ていくうちに(撮りたいものが先行したりなんだりでライブ感覚でどんどん脚本を撮影中に改稿していく近年のトム・クルーズ作品におなじみの)物語展開の困難さというよりも、ブラックアウトが付き物であり配置転換だって少なからずあり、永遠の眠りだって訪れうる、断絶を多くはさむ戦闘機パイロットの人生の当然のようにも思えてくる。

 

***

 

「話したいことがあるんです」

「作戦から帰って来たら聞こう」

 安全操縦で作戦遂行時間を大幅に遅刻しがちなトップガン"ルースター"とマーヴェリック、疑似父子になれない疑似父子(「父親代わりになろうとしたんだ。でも……」)が交わしたそんな約束から予想される展開を――アンセムも『Danger Zone』もその他の劇伴音楽もきこえなくなった、放たれるミサイルとばらまかれるデコイそして交錯する無線だけが耳をつんざく*5戦場のリアリスティックな混沌のなかで――われらがマーヴェリックが挿し込んでしてみせたとき、その物語的帰結に納得してしまいました。

 この納得は、クリント・イーストウッド氏がラン・トリノのなかで見せた姿に抱くそれとも重なる感慨です。

 ただ、顔に灰をかぶって呆然と逃げ惑うしかなかったり、身を小さく小さく丸めて震えて泣くしかなかったりする"夢の終焉"を見事に体現してみせたはずの宙戦争』を経てもなお(『バリー・シール』などを演じつつもなお)、今作でもマッハ10突破時に見せたエゴの結果として灰をかぶって55歳とは思えない老人じみた深い皺を如実にさせてもなお、「ならず者国家」と複数回たたかったり(『ミッション・インポッシブル:ローグ・ネイション』)核兵器をめぐって地球の平和を守ったりするために20年近く前線で走り続けるトム・クルーズ氏の姿としては、どこか釈然としなかったりもする。

ローン・レンジャーの誕生を扱いながら人物の配置とプロットはセルジオ・レオーネ『ウエスタン』に粘着し、ハンス・ジマーの音楽もウィリアム・テル序曲をシャッフルしながらいつの間にかモリコーネしていて、見終わったときには頭がすっかりレオーネ/モリコーネ変換されている。ただヴァービンスキーによる処理はきわめてモダンで、見た目はレオーネに粘着していてもレオーネの背後からダリオ・アルジェントを引っ張り出しているような気配があり、そしてモニュメントバレーがおそらくはなにかしらのメタファーで満たされているという点で『ランゴ』をそのまま引き継いでいるし、クライマックスの連続活劇から抜け出してきたような壮絶な列車アクションは『ランゴ』の幌馬車対プレーリードッグの延長線上にあるように見え、あのワルキューレはつまりこのウィリアム・テル序曲の前奏だったのか、とつい考えたくなってしまうが、ともあれものすごい傑作なのは間違いない。ディズニー/ブラッカイマーというメジャーなプロダクションからここまで作家性に富んだ、というか、好き放題に作り込まれた、というか、多分に病的な作品が生まれてくる、というのがいささか信じがたい。

(略)

追記:『ウエスタン』に粘着している、と書いたけれど、たぶん違う。この映画のすごさはたぶん構造的な正確さにある。背景世界は我々が考えている西部ではなく、それをベースにした人工的な構築物であり(これはつまり見たまんま)、そこに埋め込まれたレオーネ的な要素は構造を補完しているだけで、おそらく重要なものではない。そして人工的な構築物はおもに抑圧的な機能を備え、クライマックスの多幸症的な狂騒に対置されている。

   佐藤哲也氏によるゴア・ヴァービンスキー監督『ローン・レンジャー』(個人サイト『くまのあな』より)(ただし略は引用者による)

 「古き良きアメリカ映画」を再現することはできない、亡霊の立場をとればかろうじてできるかもしれないが、それでもなお様々なお膳立てや予防線張り、皮肉や諦観なしにはむずかしい。ラスト十数分の活劇のために、そうしたもっともらしい歴史的なお膳立てを百科全書的に丁寧に段取って149分の超大作となった、ブラッカイマー製作&ヴァービンスキー監督ーン・レンジャー』など現代の「古き良きアメリカ映画」を観ると、とくにクリント・イーストウッド監督(兼主演)作品を観ると、そんな夢の終わりや残骸となった夢に想いをはせてしまうものですが、その釈然としなさが、それらと今作/トム・クルーズ作品とを分かつ点なのでしょう。

 

 トム・クルーズアメリカ映画の夢を見てる。古き良きものとしてではなく、現在進行形で。

 

 『トップガン:マーヴェリック』後半、マーヴェリックと浅からぬ仲の酒場の主ペニー(演;ジェニファー・コネリーが情事をかわしたあと、不意のペニーの娘の帰還に「"初めてのデートで寝た"と娘に思われたくないの」というペニーの夢をかなえるため、ドタバタコメディ的に窓からの緊急脱出を試みることになるくだりが好きです。

 窓から降りたさきでは、ぶざまに裏庭へ不時着するマーヴェリックを娘が仏頂面で見つめるオチがつくわけですが、ここで「今度はママを傷つけないでね」というようなことを彼女が言って、マーヴェリックとペニーのふたりが見せようとした夢物語を一緒につくる側に立つくだりは示唆的であります。

 トム・クルーズアメリカ映画の夢を見てる。古き良きものとしてではなく、現在進行形で。そんなかれを観るわれわれもまた、どうしてもその死や不在を信じられないのと同じように。

 駆けるかれをぼくたちは追いつづけてしまう。窓ガラスの外の裏庭を。風防アクリルの外の森を。

 

 

 

*1:(このアクション自体もうまい。主人公がポインターを照射するのは、序盤で"時の窓"の向こうの世界について初顔合わせの謎組織から「監視カメラ映像などを組み合わせて過去をエミュレーションするVR空間だ」という感じに説明されたけれど、どうにもAIだと思えない疑問を晴らすための行動。この段になってワームホール型モニタだということが分かり、ワームホールの干渉限界の話になる)

*2:キップ・ソーンの一般相対性理論の知識=イーガン氏は自作ィアスポラ』('97)の参考文献のひとつに、ソーン氏の著書ラックホールと時空の歪み――アインシュタインのとんでもない遺産』を挙げています。また他にも、ブラックホールにダイブせんとする研究者チームのもとへ《アテネ》ポリスの父娘プロスペローとコーデリアが訪ねてくる大傑作短編ランク・ダイヴ』('98)でも、自身のサイトに掲載した劇中の科学解説にてチャールズ・マイスナー&ソーン&ジョン・ホイーラーの共著『Gravitation』を参考文献に挙げています。

*3:ワームホールの口が球体であると現場ではじめて学ぶ=

ロミリー「あれ! あぁあれだワームホールThre, that's it! That's the wormhole!0:58:03

クーパー「分かってる。ツバ飛ばすな……球体だ。Say it, don't spray it, Rom. It's a sphere.0:58:05

ロミリー「ああ、もちろんそうだ。黒い穴だと思ってたか? Of course it is. What, you--? You thought it would just be a hole?0:58:08

クーパー「いや、でも……おれが今までに見たイラストなんかとは違う。No, it's just that all the illustrations I've ever seen, they--0:58:13

   クリストファー・ノーラン監督『インターステラー』0:58:03~{Amazonプライム版で確認されるかたは最初の著作権に関する警告表示ぶん7秒くらいをプラスして下さい}、アンゼたかし氏翻訳による吹替えセリフより 

*4:「愛は時間にも空間にも制限されない(unbounded)」との突拍子もない確信を宣言=

アメリア・ブランド「自分の正直な気持ちに従いたいの。わたしたちはあまりにも理論や学説に縛られ過ぎてきた。And that makes me want to follow my heart. But maybe we've spent too long trying to figure all this out with theory.1:27:30

クーパー「君は科学者だろ、アメリア You're a scientist, Brand.1:27:34

ブランド「話を聞いて。私はこう思うの… 愛は人間の発明したものじゃない。愛は……観察可能な力よ。なにか特別な意味がある。 So listen to me...when I say that love isn't something we invented. It's...observale, powerful. It has to mean something.1:27:35

クーパー「愛の意味か? あぁ、社会の安定と、子孫の繁栄に貢献している。 Love has meaning, yes. Social utility, social bonding, child rearing.1:28:01

ブランド「死んだ人でも愛してる。それも社会的な貢献? We love people who have died. Where's the social utility in that?1:28:03

クーパー「いいや。None.1:28:06

ブランド「もっと何か意味があるの。わたしたちが理解、できない、なにかが。たとえばそう……なにかの証拠かもしれない。わたしたちには感知することができない高い次元のなにかとか。だって十年も会ってない人に宇宙を越えて会いたいだなんて、しかもその人はおそらく死んでる。愛ならわたしたちにも感知できる。そして愛は時間も空間も越えることができる。だからたとえ理解できなくても、愛を信じていいと思う。 Maybe it means something more, something we can't...yet understand. Maybe it's some evidence, some...artifact of a higher dimension that we can't consciously perceive. I'm drawn across the universe to someone I haven't seen in decade...who I know is probably dead. Love is the one thing we're capable of perceiving...that transcends dimensions of time and space. Maybe we should trust that, even if we can't understand it yet. 1:28:07~

   クリストファー・ノーラン監督『インターステラー』1:27:30~{Amazonプライム版で確認されるかたは最初の著作権に関する警告表示ぶん7秒くらいをプラスして下さい}、アンゼたかし氏翻訳による吹替えセリフより 

*5:アウトロー』以降顕著だけど、トム・クルーズ主演製作作品ではこういう劇中で鳴っている音の力を前面にしたシーンを盛り込んでくれて、映画館で観ると「おおお……」となる。