日記です。9600字くらい。『僕ヤバ』68話を楽しみ、『ゴジラSP』2話感想記事を書いた週。
※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※
0406(火)
■読みもの■
桜井のりお著『僕の心のヤバイやつ』karte.68「僕は誘われた」読書メモ
『僕の心のヤバイやつ』の第68回を読みました。 興奮のあまり(おなじく『僕ヤバ』読者である)高校時代からの友人T氏へLINEしてしまった。
68話のあらすじ;
陰キャの市川京太郎は、陽キャの山田杏奈とひょんなことから仲良くなり、一緒に初詣したり市川家族と面識をもったりするようになった。
学校の休み時間、数日後に迫るバレンタインデーについて山田が友達と盛り上がっていると、ひとりじぶんの席にすわっていた市川にもなぜか話題がふられ、そしてこれまたなぜだか休日いっしょにチョコづくりをすることに。
山田からのLINEをたよりに市川が現地に行ってみると、山田の友達のひとり小林が声をかける。
「市川くん奇遇だね、こんなところでどうしたの?」
「エッ」……というお話です。
感想;
68回もふくめて、ここまでのお話で一番おおきな山場としてはkarte.42「僕は利用された」~43「僕は山田が嫌い」でしょう。図書室でふたりがナンパイに出くわしてしまい、市川が陰キャ体質をぐつぐつ煮えたぎらせてしまう一連のアレコレであったと思います。
一話完結的な向きのつよい『僕ヤバ』で、陰鬱としたクリフハンガーをする42話がアップされた当時はネットの各所からうめき声があがり、続きが読みたくて仕方ない読者が43話更新時に殺到したことで『僕ヤバ』掲載サイトのマンガクロスがサーバーダウンするほど皆がモヤモヤしたものでした。
今回のエピソードは、そこほど大きなヤマではなさそうですが、個人的にはそれ以上につづきが気になっています。
思うにこれが恋愛モノが人気である一因なのかなぁと思いました。
前述の42話(のヒキ)では、面白いし続きも気になりかくいうぼく自身もマンガクロス崩落の一因となりましたが、それはそれとして出来がよく倫理的にも正しそうな作品ゆえに楽観視できる部分もありました。
成長譚の谷だろうみたいな、大団円へジャンプするためのタメ・屈伸運動として受け入れられたといいますか。
「だいぶ陰鬱としているけれど、市川は勘違いしているし、勘違いに気づけるくらい市川は良い子だし、なんとかなるだろう」
みたいな。
ここにピクサー映画なども有するジレンマを見てしまいますね。
主人公がどれだけ大失敗しても/その読者・観客がどれだけ打ちのめされても、どこかで「主人公がじぶんの間違いや欠点に気づき、反省、克服するその後の展開のための布石であろう」と希望をいだいてもしまう。
今回の展開みたいに、これといって誰かが悪いわけでもなく、それぞれがそれぞれのことを想って動いた結果、いたたまれない緊張関係が生まれてしまった場合は、
「なんとかなるんだろうけど……でも、どうやって?」
と先が見えなくてワクワクしますね。
(関根さんの場を取り繕うためについた優しいウソをほぐしたら、「じゃあ市川なんなん?」という話になるし、市川がそのへんを明かしたら、「じゃあ山田と市川なんなん?」という話になるし、そうなると山田母がいるなかでせっかく場を取り繕った関根さんのやさしさを無碍にすることとなり……)
0407(水)
■書けなかったもの■
2話感想がオワランカッタ
『ゴジSP』の2話感想記事をアップしようとがんばって、けっきょくこの日にはアップできませんでした。
0408(木)
■観たもの■
高橋敦史監督『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』3話鑑賞メモ
空想科学活劇だ……。知恵と根性でどうにかこうにかする、すばらしき空想科学活劇だ。
1話では見えないものを知恵と知識で探す探検譚、2話は怪獣vs人型メカ&人間+車の実力伯仲ガチンコ対決(勝因;車)、3話は怪獣の群れvs人間の群れ(ただし前回のラッキーアイテム・車は喪失している)という非対称戦で、またバリエーションを増やしてきてくれたうえに、「前回のようにはいかないぞ」という緊張感あるセッティングで、とにかく観ていて楽しい。
もし前回今回の展開がそういう風な観点でセッティングされたとすれば今後どこかで、ユングやペロ2の手助けを借りれない展開はやっぱり外さず来るのではないか?
そしてやっぱり(※)劇中の音と劇伴音楽のからませかたがうますぎる。そこに住まう個人の「どうにかしたい」という気持ちが逆に事態を悪化させ口をつぐむ絶体絶命のピンチから、別部隊がその個人の気持ちを起点とするかのような(知恵と知識と計算による)解をだして、劇中世界にかろやかな快音をひびかせる。そうしてついに、知恵とがんばりの凱歌/劇伴音楽が奏でられていく。あまりのキマりかた。2話につづいて目頭がまたあつくなってしまった。
(※1話アバンタイトルのメロディの美しさに、何度かリピート再生したりしている)
(↓4/8朝追記)
『WorldWarZ』の素晴らしかった点だけど映画版では(たぶん上映時間の尺的に/スター俳優が座組する興行的にどうやっても)えがくことのできなかったまたたきを――未曾有の災害による「共同体規模・国家規模・地球規模の悲劇」のなかで、犠牲者たちが「犠牲者たち」「死傷者n名」という群ではなくてほんのひとときだけ個々の顔を取り戻す(そしてそこにはその土地の履歴もまたにじむ)……そういうわずかなまたたきを――個性的なルックスの主役がいて長期的に出張るタイプのエンタメのなかでどうやったら出せるだろうか? もしかするとこういう形になるのかもしれない。
駅前はそれなりだがその周辺では家がぽつぽつとならぶ程度の、どこにでもあるようなくたびれた町。そこへ怪獣があらわれて、だれもがつかう車やバスもまたその被害に遭う。くたびれた町の当然として車にはそれなりの乗員がおり、顔ぶれには学生などそれなりのバラエティがある。肩を寄せ合いふるえる生存者たちのなかで、ひとりが「私が」と声をだす。
「私が弓で注意をそらします」
なんてことはない一言に、年一で広場にかざられる(けれど誰も見向きもしない)一地方でだけ有名な古い絵がにじんでくる――弓を持って天狗とたたかう者の姿が描かれているその絵の履歴がにじんでくる。
(↑4/8朝追記オワリ)
4:11、ビルの上空をラドンの群れが飛ぶ、そのさまを人々が見上げるティルトアップショット。
窓に反射した空にもきちんとラドンの鏡像が写りこんでいて、さらには前景にラドンが飛ぶと壁面にその影がまたたいていた。おさえてくれたら嬉しいところキッチリおさえてくれる空間表現。
4:19、ベランダで見物するひとびとをとらえたショット。赤い空に白いパラボラアンテナがくっきり目立つスカイラインが機能的。
後景にいる見物人(親子)が、室内にはいるさい娘を大人が抱きかかえて入っていて、そこへ心理を目に見える形で描こうとする作り手の姿勢を見てしまう。遠景の鉄塔の電線がスパークするのもまた素敵だ。
「スピルバーグはこう言った
"車で音楽を聴いてたらバックミラーが揺れた ミラーが揺れ水が揺れる映像を撮りたい"と」
『「ジュラシック・パーク」3部作の軌跡:先史時代を作る』3:50~(『ジュラシック・パーク』映像特典)スペシャル・ダイナソー・エフェクツ担当マイケル・ランティエリの言より
2話のちゃんとした感想が書けてないうちから3話が出てきてしまって(やっぱりそれなりに変なことを言わないよう真面目に物を言おうとすると1週間ではアップできませんわ……確認がぜんぜん追いつかん)、後知恵みたいで恥ずかしくなってしまいますが……
……終盤のヒキで登場した乗り物の内容物を見るにつけ、「やはりバックミラーに飾り物をぶら下げるひとは信頼できる!」と確信に至った。運動エネルギーの塊であると同時に、安全性・実用性の塊でもある乗り物をどう躍動感ある存在として描くか? そこを意識しているひとはやっぱりそういう雑味を取り入れるんですね~。うんうん。
前回のリー博士/シヴァにかんするプロファイルにも記載があったけど、UAEはやっぱり出るんだなぁ。
主な舞台は逃尾市になりそうだという感じがしてならないけど、読了スタンプが2冊程度でも舞台になるなら、大阪(やマージナルな人々の料理など)もやっぱり出てくるんじゃないだろうか? どうやって舞台を移すのか/さまざまな地を怪獣が襲うことになるのか、まったく想像がつかないけれど……。
4/8朝追記
一晩あけてジワジワすごさに気づいてきた。
発表時の報「理数系の博士号持ちの作家(べつにアクション面で名声を得たわけではない。)を脚本・SF考証にむかえての怪獣映画」という座組から想像の範疇にあったのは、むしろ3話のような形式のはずなのだが、想像通りの展開のはずのこれへ素朴に驚き感動してしまっている。
なぜか?
あの(一見"やれやれ"系のダウナー天才に見える)ユンが懐かし漫画やカートゥーンさながらドタバタジタバタ腕を足を振り回してアホな操縦をして見せる第2話をはさんだからこそ3話のこの高揚がうまれているのではないか。
たぶん1話⇒3話という展開だったらこれほどまでに興奮してないのではないか?
いや1話{現象(電気明滅や異音など)の解読と仮説(電波をだして交流する生き物がいる)}⇒3話{仮説の実地での証明・応用(生き物の鳴き声をマネた音声を作成して誘導する)}というかたちで展開しても楽しかったのは楽しかっただろうけど、それだと単に、想像どおりのものがお出しされただけの「納得」で終わっていたのではないだろうか。
そして第2話のスマートさがようやく分かってきた。
ぼくのようなぼんくらがニチャニチャ笑ってしまうような根性と腕力が物を言うバトル展開だったけど、ジェットジャガー周りの多様な操作法などを抜かしてもスマートだ。
逆説的だが、劇中世界においては狂人である大滝のトラック特攻が、この作品じたいの知性を一手に引き受けている。
だいたいの劇中独自設定・小道具で戦うたぐいの特殊なバトル創作に対して、鑑賞者の脳裏になんらかの形でどこかのタイミングでどうしてもよぎってしまう「結局おままごとなのでは?」感、たとえば「剣とかを得物にするのはいいけど、銃とか現行兵器でたたかわない理由は?」みたいな部外者/冷やかしの目線。
「人型ロボで殴るってそんなに衝撃でないでしょ、そこらの車でアクセル全開つっこんだほうが強くね?」
(『アンデッドアンラック』などジャンプで現在連載中の作品を見てもわかるとおり、気の利いた創作ではこういう視点ってふつうに考慮される点ではあるんだけど)そういう疑問をこの『ゴジラS.P』劇中で文字どおりぶつけてくれるのが、人型ロボの製作者・大滝のトラック特攻なのだということにようやく気づいた。
豪快・強引・身もふたもないけど、合理的・論理的・客観的で頭がいい。そういう粗野と知性を両立させるアイデアはなかなか難しいように思う。
***
赤い海赤い空の不気味さ(青い海や青い空の下に赤いラドンがびっしりいるとか。あるいは緑の木々の上をラドンが飛んで、赤い飛行機雲によって画面を緑から赤へ塗り替えていくとかいう異常事態)を描いたうえで、怪獣災害がさったあと、雨天で灰色めいた空気のなか淡い彩度だけどいろいろな色相の屋根に白い重石(?土嚢袋?)をのせた黒味と彩度が強いブルーシートがテカテカしている住宅街をとらえた空撮ショット*1で、一段あげた異様/現実的な惨状を描く展開は地味にすさまじいと思う。
{⇒そこから、ヒビわれたアスファルトの道路とめちゃくちゃになった車(=2D側の作画)、そして白い土嚢袋で四隅をとめたブルーシート(めちゃくちゃ鮮やかではないけれど水色の範疇。ウィキペディアの基準でいうところのアクアグリーン#88bfbfくらいの色あい。シートにはさらにシワにあわせて水色の水溜りもできていて、中央はこんもりとした何かで膨らんでいる)を俯瞰するショット(⇒さらにブルーシートとラドンの死体の俯瞰ショット)へとつづいていく。(あっちが天災の被災地風景からの参照とすれば、こっちはおなじ天災でも死傷者をふくんだ現場や事故・事件現場的なアレの参照なんでしょうか)}
***
ここまでの怪獣への対応はとても楽しいけれど、1~3話かかったことを見るに、「……あと10話しかないの!?」という気持ちはどうしても出てくる。色々えがいて3話なので、怪獣対策場面だけならかなり圧縮できる気はするものの……。
0409(金)
■身の回りのもの■
『ゴジラS.P』の評判がいっぱいで嬉しい
よく『ゴジラS.P』にかんする呟きをパブサして回っているのですが、賛が多いなか否も拝め、「いろんなひとが観ておるな……すごいな……」となっています。
完成披露記者会見と1話ライブ配信、ぼくの記憶がただしければ(1話がはじまる直前の数字で)同時接続者数2000とかでしたからね……2万じゃないよ……。
(さすがにもうちっと伸びたんじゃないかと思うけど、配信中は画面に集中していたから視聴者数まで頭が回りませんでした)
0410(土)
食べたり寝たりしてました。
0411(日)
■買いもの■
配信ビデオ比較(appleは特典が充実してるがiTunesだとスクショ取りにくい)
書きもののために色々な映像作品をAmazonビデオやNetflix、iTunesで観直しました。どれもすでにBlu-Rayディスクを所有している映画なのですが、ビデオがどこにあるのか探す手間が非常に面倒くさいのと、BDの画面をきれいにスクショする機器がないのでそうするしかない。
apple配信ビデオは、BDとおなじ特典がついているものも結構あってありがたい。
そうした確認・引用のための再生メディアとしてはNetflixがいちばん楽。
Netflixは0.5倍速~1.5倍速の可変速度再生機能、10秒送り戻し、シークバーのサムネイルの即時反映などを有しています。チャプター機能はなく、EDクレジットを勝手に縮小・飛ばす機能はある。
Amazonビデオもまた10秒送り戻し機能アリ・シークバーのサムネイルが反映されやすいけれど可変速度再生機能はない。
appleビデオは、特典が充実していたり、チャプターセレクト機能がある。しかし、とりあえずWindows版iTunesで再生するかぎりにおいては、10秒送り戻しもなければ可変速度再生機能もなく、シークバーのサムネイルの反映はかなり遅い。
さらには時間表示バーと本編画面はかさなってしまう(そしてそれはカーソルを外に出しても、一定時間操作を放置しても消えない)タイプのメディアでもある。
映像作品はフィクションもドキュメンタリーも可能なかぎり作り手ののぞむ形式で観たいタイプですが、ただしメイキング・映像特典の数分の映像素材など主に情報をもとめて接するタイプの映像(それも、一度は見たはずのもの。オーディオコメンタリは、最初は等速で観たいけど、二度目以降は早回しでもよいかなぁという気分。)は別にその限りではない人間です。
正直「倍速再生つかえたらなぁ」と思ってしまいました。
■書きもの■
『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』第2話感想をアップしました
高橋敦史監督『ゴジラS.P』第2話「まなつおにまつり」の感想をアップしました。
1話感想記事はお話の面白さについて、2話感想記事は映像の面白さについてが話題です。はからずもバランスよい記事群になりました。記事もここで終わると区切りがよさそう(笑)
SF小説を読むタイプのオタクらしく、「シリーズ構成・(SF考証・)脚本、円城塔」に釣られて観た今作ですが、ふつうに映像が良いぞ!? 良いっすよねコレ!? という。
そもそも1~2話見た感じでは、「逃げる群衆」がそういうていではなく本当に「群衆」が「逃げている」映像として描かれているリッチで素晴らしい作品です。
それに対してこういうことを言ってしまうのはアレなんですけど、マンパワーやら製作期間やらリソースと綱引きしなきゃならない面は多分にあるだろう日本のTVアニメで、「ここを動かすぞ」と決めた細部がぼくの好みドンピシャだったという。
……ようするに「○○が描かれている! 5千兆点!!」みたいなお話ですね。
オタクがカタルシスを強く求めるようになってきたな〜とは前から思ってたけど、行きすぎてカタルシスですらない唐突なエモ要素の記号だけ出してもオーケーになりがちな傾向も感じる、巨乳をみてデッッッカというのと同じ扱いっぽい
— 人間が大好き (@hito_horobe) 2021年4月3日
こちらのかたが仰る観点にも通じるような話題な気がしますが(いやむしろ円城塔さんが『ゲンロンSF講座』「ハメ手を持つこと」で話されていたような話題とか、
例1)2人の登場人物が、時空的に離れた場所で、それぞれモノローグする
・なんかわからんが泣けるscrapbox、enjotoh「ハメ手を持つこと」
あるいは『ベストセラー・コード』などで話されているような話題に近いんじゃないかなと思いもするんですが)、
「これって一言で済ませず"どうしてぼくがそこに執着しているの?"と掘り下げをしたらそれなりに面白いんじゃないかなぁ」
みたいな気持ちで書きました。
(ぼくがこれまでグヘグヘ観てきたものから、記憶に残っているものを棚卸ししただけではありますが)WW2戦前の映画から現代のものまでいちおう並べつつ、必要とあらばメイキングから作り手の言をひっぱってきたりしたので、それなりの"読みで"はある気がします。
ただまぁ自分の趣味100パー・しかも趣味の分野でもすっごく偏りある適当史観を語っている記事なので、そのへんのキビしさはある……。{その点で多分ほかのお話では見られない、独自性ある話題になってる気がするわけだけど……(それでいいのか? その末路は勝手放言・雑語りの世界だぞ?)}
書いてるぼくですら「これでいいのか……?」と正気にもどる瞬間が何度もあったので、ひとさまが読んだらどうなんでしょう? たいそうイタい話なんじゃないかなぁ? そういう気も同時にしています。
{話題のシーンを確認し、引用のためのスクショ/画像作成をしていく内にどんどん時間が流れていったこと。これが客観視をくもらせまくっている。
自分のHPMPのすり減り具合は、べつに「他者にとって"読みで"がある文章であるか」と関連しない。しないのだが、「書くための疲労が、書いたものの出来へと反映・昇華されていてほしい」欲とはメチャクチャ関連する脆弱性がある(弱いオタク~!!)}
書いた本人としても「日本のTVアニメの話をしているのに、"TVアニメの他の描写と比べてどうか?"とか、"巨人型ロボアニメと比べてどうか?"とか、そういう話を全くしないのはダメじゃないか?」みたいな部分はある。
そもそも『ゴジラSP』のどのへんにリソースの綱引きを感じたのかを書きそびれていたせいで、他作とくらべて「相対的にどう」というお話が不足しているどころか(←これはどうしようもない)、「作品単体で見てどう」というお話がそもそも出来ていないということになっている(たとえば1話の屋上広告塔が倒れ落下するシーン、2話のトラックのバックミラーにぶらさげられたアクセサリは、"寄り"や一部ショットだと、広告塔の影がこまかくレンダリングされていたり、アクセサリが揺れるアニメーションがつけられているんだけど、"引き"の画や別のショットだと影が省略されたり、揺れずに不動だったりする)⇒のでここについては記事内に組み込みました。
日記に載せる「鑑賞メモ」としてではない個別の感想文エントリとしては、2話目からしてご覧のとおり作品自体のお話はそこそこに、ごくごく個人的なお話へ終始したので。3話以降もわざわざ別個に記事を立てるかは、ちょっと悩ましいところ。
第一話感想文をかいたころに描いていた青写真は――つまり各話の感想をかきつつ、各エピソードで出てきた事物とそれに関係しそうな円城氏の読了本のお話もする構成は――読むスピードが全く追いつかず(笑)、そして文章書くだけ見ても1週間では無理でした(笑)……へへへ……。
毎度のことながら行き当たりばったりで書きましたが、それなりにまとまってくれた気がします。
ごちゃごちゃ書いたお話については、ごちゃごちゃしているなりに短くまとめようという意識を持ちました。とにかくトム様のお話を軸にしているので、トム様未出演の作品についてとか話題のなかでトム様がかすりようのないお話を記事本文からカットします。いやカットするのは忍びないので、脚注に押し込みます。乱暴な手口に出ましたが、雑だろうと話題の取捨選択を全然してこれてなかったのがこのblogなので成長です。
さらに今回は「〇〇はよい、それにひきかえ××は……」という文章を削ったりなどもしまして、そこもエラかった。
良し悪しの基準を提示するのは必要なことだと思うんですが、今回カットした文章は、ひとさまがおもしろがってもらえるような批判文ではないことに気づけました。(与太話記事に記した映画版『屍者の帝国』批判がおもしろいかってーと、かなりあやしいですけど、あちらは「つまんないからカット」ができなかったので。これまた成長です)
(自戒)だれも気にも留めないけど、現にしっかり動いているものを
現実(の豊かさ)としてとらえることで、「よしオチがついたな!」と前述記事をまとめたのですが、この〆めかたもまた知的怠惰なのではないか……?
前回は前回でこんな自戒をしましたが、うーん……。
(自戒)難解なもの、複雑なもの、よくわからないものを
現実のアナロジーとして捉えることで、「よしオチがついたな!」と前述記事をまとめたのですが、この〆めかたはふつうに知的怠惰なのではないか……?
0412(月)
■省みたもの■
脱線のしかた/話のふくらませかたにも巧拙があるよな
脳内委員長
「"ゴジラのアニメの感想だ"とクリックしたひとが、トム・クルーズの話を延々きかされる記事をひらいて、どう思いますか? そこをzzz_zzzzくんはちゃんと考えましたか?」
脳内ぼく
「アッハイ、イエ……」
■考えもの■
感想文に評価軸をいろいろ設けているものの……
このblogの感想文には、作品に対する評価として、面白いか・良いか・凄いか・興味深いか・好きかの5つの評価軸をもうけています。
これによって「つまんないし不出来だけど偏愛してる」とか、「良いし面白いけど割合定番の題材だし、凄くもない。ウェルメイド」とかが表せられるんじゃないかと。「ふつうのフィクションとしては整ってはいないけど、扱っている題材が独特で、ぜんぜん知らない分野の知見が得られる」とか、そういうものも捉えられるなという感じだったのですが、そもそもぼく、そんな細かく観れる人間ではなかった。
ので持て余してしまいました。困りましたね。
なんでblogはじめて年単位でその問題点に気づかなかったかといえば、そもそも持て余すほど感想文を書けていないからですね。それに比べれば上の困りごとは問題のうちに入りませんね。きょうもまたひとつ問題を解決してしまったぞ。順調ですね。
*1:最初黒い瓦屋根にあざやかなブルーシートとメモったんだけど、観直したらぜんぜん違くて苦笑い。その後のショットと自分の中の「ブルーシート」像に引っ張られて記憶が捏造されていた……こわい……。