更新さぼっててすみませぬ……。
日記です。1万1千字くらい。だいぶ色々読んだんですが、元気がなくてメモを残せていません。樋口2ndLIVE『AIM』3年ってあっという間だけど色々あったね、トニスコ『ドミノ』Amaビデオのセル版が3/7現在500円だからポチっておくとよいという感じです。
※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※
0216(火)
なんかしてました。
0217(水)
■世の回りのもの■
クラブハウス非体験談
クラブハウスで夜な夜な楽しい/興味深い集まりが行なわれているそうですね~!
「有名人が利用しているらしい」「招待制らしい」というところでどうしても狭き門のハイソな世界という気がしてきますよね。
世界中のコミュ障たちが「ウ゛ッ、わたしはmixiに入れなかった人間」「ウ゛ッ、おれはフェイスブックに入れなかった人間」と古傷がうずいてむず痒くなってしまっているのではないかとも愚考しますが、じつはそんなこともないんだとか。
ある分野について詳しかったり鋭かったりする有力な識者がざっと集まり対話をする(興味深そうだし、楽しそう)という点に惹かれるし、かつて文豪や知識人がサロンに集まったのもそういう理由だったのではないかと思われますが、サロンは狭く、お金がかかった。そして対面での談笑の場に、まじで誰も知らん一見さんが居座るのはむずかしい。
いっぽうクラブハウスはアプリ登録者であれば(部屋の入場人数制限にひっかからなければ)だれでもどこでも聴取可能なのだそうです。間口ははるかに広い!
サロン全盛期でも全公開の文字媒体は生きていたように、クラブハウスが栄えても全公開の文字媒体は生きていくでしょうし、クラブハウスでも話せないアナログスペースでの有料対談企画だって別種で存在していくでしょうし、サロンでもクラブハウスでも話せない・まじに選ばれし者たちのクローズドな集まりもまた生き続けていくことでしょう。
でも個々の情報の生態はだいぶちがってくるでしょう。別媒体へ翻訳流通させるのは面倒くさいもので、媒体をまたげず消えていくものもいっぱいあるはずだ。
メモや録音、聞いたことの外部への出力を規約的に禁止しているクラブハウスなら尚更そうなんじゃないでしょうか。
クラブハウスはいってみたいですね。
「zzz_zzzzくんもクラブハウスやろうよ!」
ありがたいことに高校時代からの友人S氏に誘われました。
「でもなんかアイフォンがないとできないらしいんだけどね(笑)」
「アンドロイドです」
~完~
(じっさいにはアイフォンがなくても大丈夫らしいんですけど、「実は大丈夫らしいので招待してくれ!」とやるのも面倒くさいのでやめました)
一人でやる能力もやっていけるように変える向上心も複数人でやる社交性もないおれはお前はどうするか
学術のラボでも芸術のアトリエでもはたまた著名人が集まるクラブハウスでも趣味人たちがオタク談義するサークルBOXでも何でもかまわないのですが。
"わかる"人たちが"わかる"人同士で集まり、高めあっていくという時空間に憧れがあります。
……ありますが、ぼくのような人格的にもきびしいひと(引っ込み事案で無言になったり、途中で発言をやめたり、ぎゃくに空気が読めなくて長話をしたり話の腰を折ったりして、場をしらけさせてしまうひと)や、これまたぼくのような人間的に問題があるひと(狭い了見と硬直した頭の回転のせいで、じぶんの考えに固着し、押し通そうとしたり。あるいは誤解や勝手な妄想で、人を傷つけたりするひと)には難しい世界だとも思ったりもします。
同人の世界で商業レベルの活動をされているかたがたを見るにつけ――たとえば、海外作家と交渉をしクリーンな契約したうえで翻訳小説・翻訳記事を自家本として出版するなどの活動を見るにつけ――、
「こうしてアウトプットされるのは氷山の一角で、水面下で選定やらなにやら無数にあったんだろう。こんなかんじで世の中には、文化資本的にも趣味人の意欲的にもぼくが立ち入ることのできない世界があれこれあって、やいのやいのと知見をさらに高め、ぼくにはナンダカわからないような深い味について楽しく話し合ったりするんだろうな」
と暗い気持ちになってしまう。
ストロス氏のblogを読んだときでも、ミエヴィル氏のblogを読んだときでも、イーガン氏のエッセイを読んだときでも、何でもかまわずそういう気持ちにとらわれてしまうんですが。それら外国語の文章をグーグル翻訳とDeepL翻訳にたよってヒーコラして読むじぶんと対比することで、上に加えてもう一段べつの暗色がくわわってしまいもします。
「とても面白い小説や世に知らしめるべき大論考なら、たぶん、不況下の日本でも――商業か熱意ある有志による同人出版かどちらにせよ――翻訳出力の機会があるだろう。主流本流の代物は、これからの日本でもある程度あじわえそうだ。
けど、興味深いものの商業ベースに乗せるには採算がとれなさそうな代物とか、楽しいものの"絶対訳すべき歴史的価値があるというわけではない"みたいな代物はどうだろうか? 市場にも同人スペースにも出てこないんではないか?
ゴリゴリ邦訳できる程度にすぐれた外国語習熟者は、邦訳がなくてもじぶんたちで読んで楽しむことができるだろう。
小学校からの英語の授業組み込みなど、日本はよりいっそう英語教育に力を入れていると聞くし、機械翻訳もどんどん発達している。もしかすると下の世代もまた、邦訳がなくても困らないかもしれない。
……では、現在の落ちこぼれは?」
みたいな思いがあります。
センター試験の英語問題はぜんぶで4000語超だと云います。
32歳のぼくが文明の利器にたよりにたよりまくって1週間とかヘタすりゃ月単位で時間を費やし、なんとかどうにか文意はつかめただろうというレベルで読める英文たち。これらは、高校までふつうに授業をうけていたひとであれば、1時間ちょっとや数時間あれば読めてしまう程度のものでしかない……。
ぼくは1年間に英語を1万語読めるかどうかの気力体力しかなくて、これはつまり30年間たゆまずこのペースを維持しつづけてようやく1冊の長編小説が読めるかどうかということになります。きびしい。
でもたぶん、そういうきびしい同志は、結構いらっしゃるんじゃないかと思います。
イーガン氏と『君の名は。』が話題になったときの反響や、さらに前、(このblogに勝手に訳文記事をのっけてある)ミエヴィル氏のピクチャレスク(やその悪凝り「ピクチャースキュー」)についてのエッセイが「絵について語ったエッセイ」と紹介されて誰もツッコミいれてないらしい現状を鑑みるに、絶対にいるっしょ。
語学力がきびしいだけなら問題はない。この辺は愛嬌でのりきれる類のことがらです。たとえばぼくがblogに載せたイーガン氏のエッセイ群は、すでに熱心かつ力のあるかたが私的に邦訳していて、ファンダムではその私家版邦訳本が出回っているらしい。
コミュニケーション能力に問題のないかたはファンダムに入ればそうした厚意に浴す機会もすぐあることでしょう。(どうしても気難しい人の気難しい行動が外野からは目立ってしまうけど、どこのファンダムだって大半はふつうに気のよいひとばかりなので)
そうじゃないひとはどうすればよいかという話で。
最近のMMORPGは、昔のイメージとは裏腹に、その場その時かぎりの即席パーティがあいさつもなしに組まれてクエストが終われば解散するような、そんな気軽なシステムが組まれているらしい。そんな状況が来てほしいとぼくは思っています。(MMOPRGとちがって、権利的にかなり問題があるんじゃないかと思うから、そういう状況は一生こないんだろうけど……)
"わかる"人の崑崙山には登る気力体力もない。やさしいひとのいるファンダムにもまたなじめない。そんなキモくて金がないどころかさまざまなものがないひとが、世の中にはぼく含めてあれこれいる。
そんなひとを救い上げてくれるひとなどどこにも誰もいない。じゃあ自助するには能力がたりない。共助できるくらいの対人能力があるのであれば、そもそもファンダムでやさしいひとのやさしさに満たされており、こんなルサンチマンはかかえていない。
そういったことができないからこそ、キモくて金がないどころかさまざまなものがないわけです。
そういうひとでも今より良い暮らしができる道として、「誰の手もいらないほど圧倒的成長を遂げよう」というのでもなければ「一緒に手と手をつないでがんばろう」というのでもなく、各自のざっくりしたがんばりを各自でばっさり放流して、気になったひとがググればだれでも参照できるような状況が来てほしいとぼくは思っています。
0218(木)
なんかしてました。
0219(金)
■観たもの■
vtuber『樋口楓Live 2021 AIM』をオンライン視聴しました。
いちから社の運営するバーチャルYoutuber団体にじさんじ、その一員でランティス所属の音楽アーティストでもある樋口楓さん(愛称でろーん)のソロライブ『AIM』が開催/オンライン中継がなされたので視聴しました。
ランティスとの出会いは、樋口楓1stソロライブ『KANA-DERO』(このblogでも観劇した感想をのこしたやつです。)だったといいます。
『KANA-DERO』でキーボードを務めた"いそっち"もライブスタッフをしていてくれたようで、いろいろな縁がつながり・続いてのセカンドライブだったなぁと思います。
「『KANA-DERO』の感動をもう一度!」と『響鳴』がうたわれると、そこからは怒涛のゲスト登場となります。
最大同時接続者数19万人越えの大型企画、コナミからの協賛を得ての『esportsパワフルプロ野球2020』自作チーム対決大会『にじさんじ甲子園』。
その参加校のひとつであるバーチャル関西圏立高校の樋口楓監督からのビデオメッセージが会場に流されます。
そしてそこから生まれた『Victory West!』の歌唱へ。
実況プレイ中に発したでろーんの声がサンプリングされてのスペシャルバージョンで、ひどい罵倒やスタンド裏のオッサンかと思うやからの汚い歓声が、たのしかった青春の一ページとして郷愁をさそいます。
こうした演出を経て初めて気づいたんですが、
♪悔しさの数だけが僕を強くするなんて
そんな馬鹿げた言葉 すがってみるかい?
樋口楓作詞『Victory West!』
『Victory West!』の一節ってコレもしかして、
♪「死にたいなんて言うなよ。」
「諦めないで生きろよ。」
そんな歌が正しいなんて馬鹿げてるよな。
カンザキオリ作詞『命に嫌われている。』
『命に嫌われている。』の本歌取りなんでしょうか? 『KANA-DERO』ででろーんと同期の月ノ美兎委員長がこの曲を歌ったとき、間奏をふたりが配信で話した死生観トークで埋める……という演出が(でろーん考案で)なされていました。
つづいて、三倉ゴゴ氏考案の二次創作『カエデとミト』のカエデが登場、『たこ焼きロック』がほがらかに歌われると、vtuberにならなかった未来の5年後の樋口楓さんが。アルバムAIMのリード曲『アンサーソング』がうたわれます。
『KANA-DERO』のときも、ふざけたりふざけあったり、まじめに考え込んだり……生配信主体のvtuberとしてそこまでに積み重ねてきた人生を、歌というかたちで凝縮したようなところがありました。
『KANA-DERO』のそれは、ゲスト参加した他vtuberさんとの関係性の物語でもあったのだけど、『AIM』は、樋口楓という一個のひとの様々な顔が入れ代わり立ち代わり現れるような具合になっていて、本当に3年ってあっという間だったけど、樋口楓その一個人だけを見てもこうして一個のライブにできるくらいいろんなことがあったなぁ、としみじみにしていしまいました。
あと、ぼんやりした記憶で書いているので、ちょっと曲名と演出がちがうかもしれませんが……
今回のライブステージは大道具てきなかたが入っての、しっかりプラティカルなセットが組まれたライブだったのですが、逆にスクリーンの真っ黒なスクリーン感が強調されているような感じもあり、ふたつあるスクリーンのうち後方のそれをつかった曲は、プラティカルなセットの足場にでろーんが立っている、自然な感じに見えたんですけど。
主に使われる前方のスクリーンは、「画面!」感が強く感じられてしまった。
フェードインアウトも虚像感がつよくて〔プラティカルなステージの照明と関係なしに、スクリーンのでろーんがいたりいなかったり{ステージは真っ暗だけどスクリーンの中のでろーんは明るい時と変わらないライティングで居るとか。かと思ったらステージが明るい中フェードインアウトで消えたりする。(したような覚えがあるけど、きちんとメモしてないから実はそんなことなかったかもしれない……)}〕、この辺の演出にモヤモヤしてたんですけど、最後のほうの曲で黒板への描きもの的な画調のバックステージ映像がながれたときは、樋口楓が立つ空間のいかにもスクリーン然とした枠が――真っ黒い長方形であるというメディウムが――意味のあるかたちで昇華されて、
「こういう違和感も込み込みでなされた演出だったのかな?」
と感心してしまった。
"永遠"語るより
"この瞬間"を暴発的な笑顔で飾ろう
黒板の落書きみたいに消えてしまう存在かもしれないけど、だからこそできることがあるのではないか。
バーチャル関西圏立高校で野球部に罵声などなどを浴びせる樋口監督も、あいらしいマスコットキャラ然とした姿でぽんやりした願望をうたうカエデも、vtuberにならなかったif世界の未来の樋口楓も。即興でうまれた落書きみたいに、いろいろなものを重ね書きでき、それをなぜだかひとつらなりのものだと認識できる。
生の歌声が聞きたい、生の動きが見たい、一緒の空間でおなじ空気を共有し盛り上がりたい……
……そういうものがライブに求めていたものなんですけど(だから毎度オンライン鑑賞になってしまう自分としては「いつかは現場に……」と思いもする)、2ndソロライブ『AIM』は、逆にバーチャルであることの強味を見た/イベント以外のケの日々の配信をこれからも見ていきたいと改めて思えるような、そんなスクリーンでライブでした。
自分のなかでまとまらないまま、タイムシフト視聴可能期間がすぎてしまったので、ライブビデオを楽しみに待ちたいと思います。
0220(土)
■観たもの■
vtuber『美少女同士がひたすら罵り合うデスゲーム【幻想牢獄のカレイドスコープ/にじさんじ/月ノ美兎】』をリアタイ視聴し、ゲームを買う
いちから社の運営するバーチャルYoutuber団体にじさんじに所属するバーチャル学級委員長・月ノ美兎さんがゲーム実況をされていたのでリアタイ視聴し、ぶじ購入しました。
『パワプロ』、『シャニマス』(なんだかんだ数万円課金しておるな……)、『くっころでいず』、『One Shot』、『NinNinDays』と、そして今回の『ゲロカス』と、委員長経由でポチったゲームがまた一つ加わりました。
不勉強で竜騎士07氏というビッグネーム脚本によるこういったノベルゲームが出ていたこと自体を知らなかったのですが、知っていても「デスゲームかぁ……」と食わず嫌いをはたらかせていただろうタイトル。
実況で中身を見せてもらったことで、「こういうゲームだったのか!」と蒙を啓かれ、善き出会いができました。
■読みもの■
鈴木ジュリエッタ著『忍恋』5巻まで(完)読書メモ
序盤のあらすじ;
文明社会と隔絶された忍びの里では、老若男女がすごい忍となることを目指して日夜鍛錬をくりひろげている。現代社会においても一目も百目も置かれるほど優秀だが、そのような人材を育てるために里は極端な秘密主義と家父長制を敷いていていて、そこへ閉塞感を感じる若者もいた。
鍛錬によりすごい忍になることを、里から抜けだす一手段ととらえるひともいるほどだ。
ある日、右腕役の忍びをもとめて都会の有力者がやってきた。有力者と志願者の力比べがくりひろげられる脇で、有力者の家来のなかにいた若者と主人公は仲良くなり、体調をくずしたかれを助けることを優先して、力比べに参加すること諦める。
じつはその若者が、都会の有力者そのひとで……というお話です。
読んでみた感想;
かわいらしいお話でよろしかったです。
主人公とその相手役である都会の有力者は好き合っているものの、いろいろとあって恋人関係には至っていない。その「いろいろ」のひとつが、相手役一族はみな志半ばにして病に伏せたり事故に逢ったりして死んでしまうという呪いじみた短命に起因するもので、相手役はあとさき短い人生で恋仲になっても……と、諦観してしまうわけなのでした。
それがかわる最終巻。
ライバルからの謀殺にあうも間一髪まぬがれた相手役は、さらなる追撃を避けるべく死を偽装して一旦雲隠れします。声どころか視線すらよこされない監視カメラごしにじぶんの死を悼むひとびとを見やることとなるのですが、このシーンがよかった。
悼むひとびとは「相手役の友達」である以上に、主人公の純真な性格を介して相手役とつながった「主人公の友達」でありました。相手役は、主人公とかれらが親愛をもってコミュニケーションをとる姿をカメラ越しに見て=じぶんの死後に待つ世界を前借して見ることで、そのわびしさを実感します。
『ダンジョン飯』10巻を読んだ時も興奮しましたが、ぼくは体験し得ないものを(疑似的であれ何であれ)体験するシーンにヨワいらしい。
32年生きてきて、じぶんの趣味なんてわかりつくしていると思っていましたが、今になって気づかされるフェチってあるんだなぁ。
0221(日)
■困りもの■
独学でも知に触れられない
ありがたいことに数駅はなれた近所の私大は、周辺に住む市の住民にも賃借の権利が年利用料数千円程度の安価でひらかれているんですよ。マジでありがたい。
でもここのところの感染症対策で一般利用ができなくなっています。
ここ最近は、大学図書館に所蔵されているような事柄の調べ物をする機会がなかったので別によかったのですが、たま~に調べたいことが出来た時にやっぱり困ってしまいますね……。
■買いたいもの■
トニスコ『ドミノ』が新規特典付きBD出るらしい
トニー・スコット監督『ドミノ』のBDがついに出るらしい。HD画質のものは、配信ではAmazonでもアップルでも流通しているのですが(3/7現在、配信版は500円でした。買っておくとよろしいです)、なんと新規特典があるらしい。
★スクリプト・ストーリー開発会議音声(監督トニー・スコット、製作総指揮ザック・シフ・エイブラムス、脚本家リチャード・ケリー、俳優(音楽家)トム・ウェイツ) ※
脚本開発会議! 気になりますね……。
■読みもの■考えもの■
街と野をいく動物/畜車の所在を報せる機構の有無について
※とくに答えは出てません。「なんだろうね~?」というメモです。また、下にあれこれ書きましたが、肝心かなめの馬車・牛車というモノ自体を扱った本を読めてません。はやく世の中がよくなって、図書館が自由に使えるようになってほしいっすねぇ。
・車の所在が分かるような仕掛け
ゾウはあれだけ大きいのに音も立てないし、暗がりに紛れやすいので、よく道路で車が後ろから衝突して大事故になる。そこで、最近、バンコクのゾウは尻尾に小さいランプ(といっても、車のライトを浴びると反射する自転車用のもの)をつけている。
これがほんとの「テールランプ」だ。
集英社刊(集英社文庫)、高野秀行著『怪しいシンドバッド』kindle版26%(位置No.3313中 831)、「第三章 就職先はカオスの亜熱帯【タイ・ビルマ編】」あなたがもしゾウに踏まれたら
おととしの夏、お台場まで『マンモス展-その生命は蘇るのかー』を見に行き、マンモス肉(やそれに近いだろうゾウ肉)は美味いのかしらべていたさい、「面白いな」と思ってメモしたのが上述の街なかにおける巨大動物の交通問題でした。
さて、1103~1126年・北宋の首都汴京(現在の河南省開封市)を暮らした孟元老氏による回想録『東京夢華録 宋代の都市と生活』を読んでいたら、当時の家畜車である太平車に配された……
夜間には鉄の鈴を一つ掛けておき、進むと鈴が鳴って、向うから来る車をよけさせる。
平凡社刊(東洋文庫)、孟元老著(入谷義高&梅原郁訳注)『東京夢華録 宋代の都市と生活』p.128~130、「幽蘭居士東京夢華録 巻三」種々の運搬車より
また蘇軾の著という『艾子雑説』に、大車の下と駱駝の首にたいてい鈴をつけるか、それは何故か、という問いに答えて、車と駱駝は図体が大きい上に、たいてい夜間に道を行く。もし狭い道でこれに出くわしたら避けようがない。だから鈴を鳴らして、あらかじめ避けてもらうわけだと説明しており、
平凡社刊(東洋文庫)、孟元老著(入谷義高&梅原郁訳注)『東京夢華録 宋代の都市と生活』p.132、「幽蘭居士東京夢華録 巻三」種々の運搬車 訳注(1)より
……現在で言うクラクション的な機構が紹介されていました。人口も交通量もはるかに少なく運動エネルギーだって小さかったろう共同体においても、こうしたものが存在していたんですねぇ。{訳注(1)では、太平車というネーミングの由来も記されていて、こちらもとても興味深かった}
ブラジル映画『乾いた人生』(1963年、ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督)の牛車の立てるキィキィという音が耳にこびりついて離れない(アレ生の音なのかなぁ? それとも後付けのSEなのか?)zzz_zzzzとしては、「『乾いた人生』は特例かもしれないけど、動物と車がうごけばそれだけでそれなりの騒音だろうし、鳴り物なんて無くても大丈夫なんじゃないか?」という気もしますが、やっぱり必要なんだなぁ。
馬は速いから鳴らさなきゃ危ないだろう、というのはありますよね。
16世紀半ばのイギリスの郵政を見てみれば、専用の駅逓路線がある郵便屋さんでも警笛(ホルン)の着用・使用が義務付けられていたらしい。
さらに、一般の旅行者にも命令を出して、何びともポスト・ボーイによる案内なしに駅逓の路線の上を通行してはならないと定めた。他方、道筋案内人であるポスト・ボーイにも乗馬をするときには警笛(ホルン)をもつように義務付けて、人や馬と対面し通行するとき、町や村を通過するとき、それに一マイルごとにも警笛を吹いて、駅逓便の通行をまわりに知らせ、その通行をさまたげないようにさせた。このポスト・ボーイが吹くのどかな警笛(ホルン)の響きはヒースのおい茂る丘にもこだまし、人びとに「駅逓さまのおとおりだよ」と聞こえたともいわれている。
みすず書房刊、星名定雄著『郵便の文化史 イギリスを中心として』p.21、「第二章 駅逓制度の誕生」二 駅逓頭の任命より
・仕掛けはそこまで必要なのか? 上が珍例におもえなくもない
ただ一方で、人間には口があるのだから声を出せばいいじゃないか、みたいな考えもあると思うんですよね。
じっさい19世紀前後の街や人々の暮らしの本をざっと読んでも、鳴り物をつけて動いたとか、クラクションを鳴らしたとかいう記述はあんまり見かけた覚えがありません。
オットー・L・ベットマン著『目で見る金ぴか時代の民衆生活』は、p.34から「交通」と章立てて、19世紀前後のアメリカの都市交通のひどさを記してくれていて。
そこではたとえば1874年のホーム・アンド・ハース誌の「ブロードウェーをいかに渡るかというのがニューヨーク生活の問題の一つである」との記事であるとか、あるいは今にも子供を轢かんとする馬車の図版であるとかを引き合いに、都市交通のひどさを描いています。
けれど、特にクラクション的な機構については記されていませんし見当たりません(p.38~39)。
『ヴィクトリアン・パンチ』の邦訳版大判本の1~3巻を見ると、馬車同士の接触事故や立ち往生をえがいた記事(風刺画)って案外なくはないんですけど、人同士が罵りあっていて、なにか鈴の類を鳴らしているふうな書き込みはない。
『日本その日その日』でモース氏が記したところによれば、19世紀末日本の道路事情はこんな感じらしい。
東京のような大きな都会に、歩道が無いことは奇妙である。往来の地盤は固くて平であるが、群衆がその真中を歩いているのは不思議に思われる。人力車が出来てから間がないので、年とった人々はそれを避けねばならぬことを、容易に了解しない。車夫は全速力で走って来て、間一髪で通行人を轢き倒しそうになるが、通行人はそれをよけることの必要を、知らぬらしく思われる。乗合馬車も出来たばかりである。これは屋根がある四方あけ放しの馬車で、馬丁がしょっ中先方を走っては人々にそれが来たことを知らせる。反射運動というようなものは見られず、我々が即座に飛びのくような場合にも、彼等はぼんやりした形でのろのろと横に寄る。
平凡社刊(東洋文庫0171)、エドワード・シルベスター・モース著『日本その日その日 1』kindle版53%{位置No.290中 152(紙の印字でp.122)}、「第四章 再び東京へ」より(ちなみにここは講談社学術文庫版にも収録されている部分でした)
素朴に読むと、馬よりも人のほうが速く走れてしまってよいのか、という疑問が浮かばないでもないですが、じっさいどうだったんだろう?
・畜車の事故で見かけた記述は、横転・移乗失敗とか
鹿島茂さんの『馬車が買いたい!』では、馬車の横転事故がとりあげられています。(室内の上客はともかく、屋外席にすわった人々がひどいことになった……とつづきまして、鹿島氏はここに社会階級格差を見ているみたい)
天野元さんらの『オレゴン・トレイル物語』では、横転のほか、牛車・馬車に乗り移る際に落車したことで轢かれてしまったインシデントが紹介されています。
・野を行くさいは鳴り物は必要か?
さて『東京夢華録』訳注文中では「夜間には」とありますが、さて、街と街のあいだの野を行くさいはどうだったんでしょうね?
太平車はちょっと信じられないくらいデカく、「前には騾馬か驢馬を二十頭余り、前後に二列並べるが、時には六、七頭の牛に曳かせることもある」p.128とのことで、街なかだけではなく、広い場所でもカーブするまでけっこう大変なのではないか? そう思えてなりません。ただし灯りはもったいない気がします。移動中に差し替えも面倒くさそうだし。
大きな音がしていると野生動物はちかよってこない……みたいな話も聞きます。その点ではうれしそうだ。
(個人的な実感とは合わないですけど。全国各地の農作物の獣害はなんなのか、という話でもあるし、おらが田舎の駐車場ではふつうにイノシシが佇んでいたりサルがじっとこっち見てたりしてコワい思いをします)
一方で、「音を鳴らして野を進むのは、野盗にとって格好の的なのではないか?」みたいな疑問もわきます。
郵便配達員はイギリスはもちろん日本でさえも追いはぎ対策として銃の携帯が許されていたわけですし。
うーんどうなんだろうなぁ。
結論が出ぬままこの日記はこれでおしまいです。ぼくと同じくモヤモヤしたまま眠りましょう。
0222(月)
宿直日。
■読みもの■
つるまいかだ著『メダリスト』2巻読書メモ
オリンピック代表フィギュアスケーターを目指す小学生と、彼女を拾い上げた/彼女に拾い上げられた新人コーチの二人三脚をえがくスポーツ漫画の第2巻です。
1巻で、有力選手が5歳とか幼き日から英才教育を積むなかで、10歳だかになってから本格的にスケートをはじめることとなった選手。スケートに通い始めて4ヶ月目にして早くもスケートの級位をもらった彼女は、「中学進学まで」との母の認識をくつがえすべく初級クラスの公式大会優勝をめざす。
初級とあなどるなかれ、実力的にはもっと上級にあがれるけど箔をつけるため昇級していない選手などもおり、ライバルの仕上がりを見て、選手は2択をせまられる。
目玉となる2回転ジャンプを覚えてから基礎を伸ばすか、基礎を固めてから2回転ジャンプに手をだすか。後者をえらんだ彼女だったが、2回転ジャンプ習得は大会開催に間に合いそうがない。点数的にはライバルに一歩とどかなそうだ。
……バクチでも2回転ジャンプを覚えてからにするべきだったか? いやでも……
悩むコーチのもとに野良犬が! 光明をつかんだ主人公コンビ。さあ大会本番はどうなる!?
……というのが1巻で、2巻は白熱の大会模様、そしてつぎなる戦いへつながる布石がえがかれます。
夢を追う子供とそれをみる大人の関係性がおもしろい作品で、各選手の性格と成長プランニング、各コーチのコーチングの楽しさが2巻ぶんでしっかり味わえました。月刊誌なので心配でしたが、案外サクサクお話を進めてくれるかもしれない。
オキシタケヒコ著『筐底のエルピス』7巻読書メモ
面白かったです。
序盤の会議シーンについては、「世界滅亡をめぐるタイムリミットサスペンスと、色恋沙汰は難しい問題だなぁ」と思った。これは新海誠監督『君の名は。』を鑑賞したかたがたがそうした論難をしていたのも記憶にあたらしい問題ですね。
『君の名は。』を観ていても感じなかったことを、今作でようやくぼくも感じられました。
対応する事態について登場人物がプロであるかどうか? そして事態対処に向かわず別のことをやる動きについて「これは登場人物にとって事態対処以上に気になることだよね」と受け手として思えるかどうか? みたいなところで評価がわかれるみたい。
後半まで読んでいくと、(『君の名は。』もそうだといえますが)こういう多様な寄り道こそがじつは万事において大事なのだ……というような感じになっていくので、「なるほどなぁ」と思いました。