日記です。1万字くらい。周囲で体調不良がチラホラ増えてきて不安になったり、委員長『スカイリム』配信の見せ方が面白かったりした週。
※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※
0105(火)
■観たもの■ネット徘徊■
わたくしが歩かなきゃ;vtuber『色褪せた世紀末を散歩しながら雑談する【Skyrim/にじさんじ/月ノ美兎】』を観ました。
いちから社の運営するバーチャルYoutuber団体にじさんじに所属する月ノ美兎委員長が『スカイリム』の実況プレイをしていたので観ました。
配信準備画面ではいつもとは異なり勇ましい音楽が鳴り響き(ゲームアワード2017のオープニング特別メドレー音楽でも取り入れられたあの音楽♪『ドラゴンボーン(ドヴァーキン)』!)、人の声が聞こえたかと思ったら、
「無敵のタロス! 的確なタロス! 難攻不落のタロス!」と老いた男の人の独特の呼びかけが響きます。
準備画面がとじられ『スカイリム』ゲーム本編を画面いっぱいに映した本配信がはじまると、見慣れた月ノ美兎委員長の姿が(ただしLive2Dでの配信が主な委員長には珍しいにじ3Dの姿で)あらわれます。さきほどの老夫の言葉はまだつづいていて、もし彼女の配信をはじめてここから見るのであれば、もしかしたらこの老夫の声がそのアップにされた少女の声なのかと一瞬思うかもしれない。
「いえ~~い!」という委員長の声とともに『スカイリム』のゲーム内カメラが動かされ、彼女の顔に隠れていた老夫の姿が見え、老夫の語りが「あなたを称賛する!」と一区切りついたのを耳にした彼女はコクコクと頷き、「いえ~いタロス神のまえで失礼しま~す! こんばんは~」と配信の挨拶をはじめますが{ここでいま配信に映されている画面は、『スカイリム』世界の集落ホワイトランの広場にあるタロス神の像のまえで、委員長がセルフィーをしながらしゃべっている(ていの)ものなのだということがわかる)、老夫は「なぜなら! 我々は一つだからだ! タロスが昇華し、八大神が九大神になるまえ~」となおも喋りつづけています。
それに対して委員長は「ちょと後ろうるさい後ろ」と独り言のように呟き、つづいて老父のいる右背面を向いて「うるさいよ?」と何度か告げます。
それでも老夫の語りはやまず、委員長はカメラに背をむけ、いかつい武装をした両手を挙げて(『スカイリム』ゲーム内プレイヤーキャラクターの腕)、左手に魔法の炎を渦巻かせて、
「……怒らせちゃったねぇ? わたくしの配信中にうるさくした罪、わからせてやるからねぇ?」
「おらよぉ!」と老父へ放ち、「モラル・バグのメイス!」とモラグ・バルのメイスを右手に持って叩きつけて追い打ちをしかけます。
集落内の暴力沙汰を察知した市民が駆けつけ、委員長へと剣を矢を向けるなか、彼女は応戦しつつ逃走、ホワイトランの城門をくぐります。安全が確保された委員長は、
「……ということでね、皆さま! こんばんは~! 月ノ美兎です~よろしくお願いします~。今回はね」
とカメラのほうへまた振り向いて、リスナーに語りかけます。
実況プレイって一部の例外をのぞいては(※)、配信者と配信画面がそれぞれ分離しているものなのですが。今回の委員長の『スカイリム』配信では、もとは一人称視点のゲームに月ノ美兎委員長の3DCGモデルの頭をうまく配置することで、リスナーが彼女の真正面ないし真後ろを追従する三人称視点の配信のように見える工夫がなされていて、いっしょにお散歩感があり、とても興味深かったです。
(※たとえば『【3Dお披露目】音ゲーマーの手捌き、全部見せます。【#やしきず3D/社築】』では、VtuberだけでなくKONAMI『ビートマニア』のゲーム機も3DCGを用意したうえで実機プレイがキャプチャ・描画されました(ボタンの裏側からプレイヤーを仰ぎ見る……なんていうバーチャルらしいカメラ位置からのショットもあり、興味ぶかかった。
上の配信ではvtuberがふれるゲーム筐体の3DCGモデルの画面と実際のゲーム画面との同期はなされていなかったようだけど、『【3Dお披露目配信】聖なる夜の奇跡 powered by SEGA【 #三枝明那3D 】』では、ゲーム筐体3DCGモデルの画面に実際のゲーム画面が表示されていて、より一層没入感がつよくなった)
配信はじまって20分とたたず、委員長の顔を半透明にするという「エロマンガの竿役」方式がリスナーから提案され、実行されることとなるわけですが、個人的にはゲーム内プレイヤーキャラクターの肩幅からはみでない範囲内で顔をズラす(片手はvtuberの顔に隠れてしまうのは仕方ないこととしてあきらめる)くらいの塩梅でも良かったと思いますね。
配信本編は、配信タイトルにも「散歩しながら雑談する」とあるとおり、オープンワールドゲームの長い道中に、リスナーから届いたおたよりに答える……という実況プレイ+雑談配信だったのですが、この質疑応答にも『スカイリム』世界に生きる委員長の信条を説明するような受け答えもあったりして、脳みそがぐんにゃりする異世界観があってよかった。
「リプライも読みつつ~、みんなから来たコメントとかも読んでいきたいと思います。(略)こちらっ! ハイッ!
"九大神であるタロスの信仰の禁止について、ミトーキンの意見を聞きたい"と。
ミトーキンというのはドヴァーキンである私(わたくし)の呼称だと思うんですけれども……。
マそうやってタロスを信仰すること自体が、サルモールの手のひらのうえってことがなんで気づかないのかなぁ!? っていう風に、まぁわたくしは思うわけですね~。
マなので、ストームクロークとかいうね、差別主義者(レイシスト)たちの言うことは、わたくしは気にせずに、帝国軍万歳していこうかなとわたくしは思いますね~ハイ。
ということでお次なんですけども~」0:14:10~
身の回りの身辺雑記を話すいつもの雑談配信の調子で、いつもの「ご存じないかたのために説明しますと」形式で話をしてくれている。
ふだんであればわりと俯瞰的・両論併記的に対象とある程度の距離をとって物を論じられる語り手が、このときばかりは、「説明の説明」が必要になるラインまでゲーム世界に入り込み、ゲーム世界の(多分に一面的な)設定を話されることからくる異化効果……
……vtuberのげんげんくんが初回配信から2回目以降の配信で見せてくれた面白さにちかいでしょうか。場合によってはげんげん配信よりもぐんにょりしたかもしれない。
委員長が生配信系に主軸を置いてきたからこその頭のぐんにょらせ具合で、むしろ、白地の紙面に挿絵と文章が載せられた"動く絵本"という体裁をかっちり整えたうえで後半、"(映画の画面内にうつされた)地の文"が乱丁したりするスティーブン・アンダーソン&ドン・ホール監督『くまのプーさん』('11)を観たときの印象にちかいかも。(ちょっとググったけど、よい公式のクリップが見当たらなかった)
0106(水)
■身の回りのこと■
めんどくさい日々がいよいよ本格的にはじまった
2次の隔たりくらいのところ(職員さんB、の別居別地方で家庭をもつお子さんb、の配偶者βさん)で陽性反応が出た。正月あつまってたそうなのでみんな濃厚接触者ですね。……職員さんだけでも陰性だといいな~。
以前の日記にも愚痴ったとおり5、6月の時点でクッソめんどくさいし疲れて疲れて仕方ないと分かっていた日々がまた始まりますわ……へへへ……。
0107(木)
■社会のこと■
オリンピックを開催したい強い意志がわからない
野村萬斎さんらが降板したという報から、撤収路線なんだろうと思ってたんですが……。
何度も何度も誘致していたころから疑問だったのが、「いやそんなオリンピックしたいものなの?」ということで。疑問はいっそう深まるばかり……。
0108(金)
■身の回りのこと■
職員さんは陰性だった
0106の、家族に陽性が出たかたはとりあえずPCR陰性でした。ただし2週間は様子見なので、その部署の業務はガタつきますね~。
■ネット徘徊■杞憂民■
ゲームの尺水増しのための作業パートがまた増えそうなゴシップが……
ソロプレイのゲームでは一般的なラインに収まる程度の"時間経過にともなうプレイ人口減"が、(ゴシップのはなばなしい)話題のゲームを叩くネタとしてつかわれてしまった……という考察記事でした。
まじでこの叩きかたは嫌なことで、ぼくが遊んだSFC~PS2のゲームってまぁそうプレイ時間100時間とか矢鱈と掛かったわけですけど、それって単に経験値稼ぎの作業的な戦闘のくりかえしとかお使いシナリオとかで時間を吸われてただけなわけです。(その観点でふりかえれば『ゼルダの伝説BotW』は、装備を最大まで強化しようと思うと素材集めがめっちゃくちゃダルいけど、でもラスボス討伐するにはそこまで鍛える必要はない……という良い塩梅だった)
こういうしょうもない風聞をだされない対策としてゲーム側が、またそういうところでプレイ時間を調整するようになったらやだなぁ。
0109(土)
■野次馬■読みもの■
小谷野敦氏による"佐藤亜紀『小説のストラテジー』のムネモシュネ言及"への批判は難癖に思える
要約;
プラーツ『ムネモシュネ』に掲載されたボッティチェリの作品とその解釈をめぐる議論は、直接的には「頽唐(デカデンティ)の見たボッティチェリは半世紀後にわれわれの見るボッティチェリではないし、日本の有名な美術批評家、矢代幸雄の見たボッティチェリでもない。」*1といった文章くらいしかない。
しかしこれは『「作品創造者の感受性と解釈者のそれ、二つの感受性の出会いであろう。われわれが「解釈(interpretazione)」と呼び慣わしている営みは、言い換えるなら誰か他の人間が表現したものを此方の個性を通してする濾過」*2で、その解釈者の趣味がもっとも顕著にでる一例が「贋作者の贋作」だ』という旨の論考のなかで出てきた文章であり、最初に引用した前半は、論考の前段ででてきた「イチリオ・フェデリコ・ヨーニの偽作になる何枚かの「古代」シエナ派、フィレンツェ派の絵なるものにも、われわれはただちに物憂いアール・ヌーヴォーの匂いを嗅ぎあててしまう」*3の言い換えとして読めます。
つまりそれは、佐藤亜紀氏が『小説のストラテジー』でまとめた「十九世紀末にボティチェルリの贋作としてプロの目にさえ通用した作品が、今日では素人目にもまるでボティチェルリに見えない」*4と相似する文章としてぼくには受け取れました。
詳細;
佐藤亜紀さんの名著『小説のストラテジー』について検索をかけたら、こんなツイートが引っ掛かりました。
佐藤亜紀の「小説のストラテジー」に「今日では素人目にもそれとわかるボッティチェルリの贋作」のことがマリオ・プラーツの「ムネモシュネ」に書いてあるとあったのでプラーツの本を見たが載っていなかったし、今では素人目にもそれとわかるとは書いてなかった。
— 小谷野敦とちおとめのババ・バロネッタ (@tonton1965) 2020年1月2日
小谷野敦さんがツイートで取り上げてる『小説のストラテジー』のお話は以下のあたりのことを指しているのだと思われます。
実を言えば、印象派を「印象派」と腐した批評家や、フォーヴの連中の絵を「野獣が咆哮している」と腐した批評家に、私は密かな敬意を払っています。現代批評理論のスコラ哲学めいた操作に長けただけの批評家たちには毛ほども抱いていない敬意です。(略)私が敬意を払うのは、彼らが「見る」「解釈する」という基本的な行為を誠実に完遂したことに対してであり、その結果、ヨーロッパ絵画五百年の達成を否定する作品群の出現を感知したことに対してであり、まさにその五百年が作り出し、自分を内側から規定する歴史的・社会的文脈を賭けて、否定的評価を下した、という事に対してなのです。
審美的判断は必然的に分裂します。というより、審美的な判断が同時代的に、或いは歴史的に分裂しないような作品には、何か間違いがあるのです――個々の享受者の視差に揺れ動かない作品は、作られた時点ですでに死んだ作品であるか、或いは、作品をめぐる制度(個人の思考に暴力的な強制を行う政治制度から、無意識的に享受者を拘束する曖昧な制度に至る全てを含みます)によって無理矢理固定された状態にあると考えてほぼ間違いないでしょう。(略)審美的判断とは、最終的には多様な視差を孕んだ視線に曝されてなお快楽の装置として機能するか否か、の判断でもあります。
具体的な例を挙げましょう。マリオ・プラーツが「ムネモシュネ 文学と視覚芸術との平行現象』で挙げている例です。十九世紀末にボティチェルリの贋作としてプロの目にさえ通用した作品が、今日では素人目にもまるでボティチェルリに見えないのは何故か。贋作者が、自分の目に見えるボティチェルリを再現したからです。そこからは、実はボティチェルリをボティチェルリたらしめている多くの要素が欠落しています。同時代の大多数の鑑賞者の視点がこの贋作者の視点と一致している限りにおいては真作として通用するでしょう。ただし、一旦その視点がずれたら――つまりボティチェルリを見る視点が時代とともに動いて行ったら、もはや誰の目も騙せません。それでもボティチェルリの真作は快楽の装置として機能し続ける。つまり真作は、時代の変遷によって生まれる視差を呑み込んで機能し続けるくらい強靭な装置だったが、贋作はそうではなかった、ということになります。贋作だけではありません。「作られた時点ですでに死んでいた作品」と呼ぶしかない多くの真作も、おそらくは同じ運命を辿ることになるでしょう。(略)異なる社会的背景を持つ享受者の視差に曝されただけでその脆弱さを曝す作品もあります。
筑摩書房刊(ちくま文庫)、佐藤亜紀著『小説のストラテジー』kindle版11%(位置No.3169中 310)、「1 快楽の装置 創作と享受における一般的な前提」Ⅱ(略、文字色変え、太字強調は引用者による)
マリオ・プラーツ著『ムネモシュネ――文学と視覚芸術との間の平行現象』を巻末索引に頼ってひらいてみれば、たしかに小谷野氏が言うとおり、「ボッティチェリの贋作」も「ボッティチェリの贋作が今では素人目にもそれとわかる」とは書かれてません。
直接的な言及は「頽唐(デカデンティ)の見たボッティチェリは半世紀後にわれわれの見るボッティチェリではないし、日本の有名な美術批評家、矢代幸雄の見たボッティチェリでもない。」*5というもの。
ただし前後を読んでみると、佐藤亜紀氏のまとめ通りに受け取れます。
ある時代に固有の「書跡(ドゥクトゥス)」ないし筆跡があるらしいということの根拠はもうひとつ、意外なところにある。美術品の贋作(アート・フェイク)の世界がそれである。レオ・ラルギエールがすべての美術ファンに愛読されることを目指して書いた、他の点では申し分なく面白い本、『古都パルミューラの財宝』中の言葉、「今日誰の目にもそれと明らかな贋作に時がいかにもという古色を与えるものだから、それらも永の年月が経てばアメリカやチェコスロヴァキアあたりのどこかの町の美術館の金看板になっていることだろう」というのは残念ながらまちがいである。むしろ、どこよりもこの贋作の世界ほど、「時が真理のヴェールをはがす(Time unveils truth)」という言い古された諺がぴったりな世界は無いのである。(略)
およそいかなる美的な評価も、つまりは作品創造者の感受性と解釈者のそれ、二つの感受性の出会いであろう。われわれが「解釈(interpretazione)」と呼び慣わしている営みは、言い換えるなら誰か他の人間が表現したものを此方の個性を通してする濾過というにほかならない。(略)同じ時代に属していると大体がこの重ねられた要素には気づかない。それが時代の普通の感じ方だし、時代の空気だからで、健康な人が自分の体の生理的機能を意識することがないのと同じで、見事に気づかないのである。ところが数年も経てば(長い間が経つ必要はない)、いつのまにか、しかし必ずや視点も変わり、歴史学や言語学の研究がある問題のデータを変え、かつてははっきり見えなかった芸術家個性のある面が見えてきたりして、われわれは父親たちとは別の、というより昨日のわれわれとさえも別の感じ方を始めていることになる。
こうしてみると、芸術作品の模作者は実は彼自身が仕事をしている当の時代の解釈と趣味を結晶化(クリスタライズ)しているのである。(略)マックス・J・フリートレンダーはなかなか鋭いところを衝き、「ドナテッロの一九三〇年における見え方は一八七〇年における見え方とはちがう。何が真似するに値するかについての考えは世代によって異なるだろう。したがって、一八七〇年にドナテッロの模作で成功した者も一九三〇年には専門家の眼をもはやごまかせない。われわれはわれわれの父親たちの誤りを嗤うが、そのわれわれもわれわれの子供たちに嗤われるのである」今日、アルチェオ・ドッセーナの彫刻を見て、どうしてこんなもので名だたる鑑定家たちがころりと騙されてしまったのか、不思議に思わぬ人はいまい。
今日ジェイムズ・マクファーソンが伝説的英雄オシアン(Ossian)の詩を英訳したと称して当時たいへんな物議を醸したもどき作(パスティーシュ)や、[架空の]修道士トマス・ローリーの作を謳いながら実はトマス・チャタートンが書いた多くの詩(略)をそれと見破るのに、大した鑑識眼はいらない。(略)イチリオ・フェデリコ・ヨーニの偽作になる何枚かの「古代」シエナ派、フィレンツェ派の絵なるものにも、われわれはただちに物憂いアール・ヌーヴォーの匂いを嗅ぎあててしまう[図6]。ヨーニ自身、自らの贋作について『回想録』に、「イリュージョンは時代にあって完璧だった」、「イリュージョンは、よしんば完璧でなかったにしろ、時代にはそれで足りた」と記している。(略)
古いあの絵、この絵からディテールをとって搔き集めたのでなく、自分ではどっぷりと昔の画家の精神に則って再創造したつもりで仕上げたのだとしてみよう。そうしたことすべてをそのとおりと認めたとして、なおひとつの要素が不断に贋作者を裏切るのである。それがすなわち彼その人の美の観念、彼自身の趣味であって、それは必ずや贋作者自身の時代の刻印を帯びることで致命傷となるのである。
頽唐(デカデンティ)の見たボッティチェリは半世紀後にわれわれの見るボッティチェリではないし、日本の有名な美術批評家、矢代幸雄の見たボッティチェリでもない。矢代の『サンドロ・ボッティチェルリ』(一九二五)はこのフィレンツェの画家の雅びかつ倒錯的なまでに珍しい作のディテールの写真で飾られていて、ほとんど日本の絵ではないかと見えてきてしまう。(略)「畢竟、諸君らが過去の時代の精神と呼んでいるものとは」とゲーテが言っている、「そこにそれらの時代が反映されているところの諸君ら自身の精神の謂(いい)にほかならないのである」と。
ありな書房刊、マリオ・プラーツ著(高山宏訳)『ムネモシュネ――文学と視覚芸術との間の平行現象』p.39~47、「第二章 時が真理のヴェールをはがす」(略、文字色変え、太字強調は引用者による)
『ムネモシュネ』でその前後に記されているのはフィレンツェ派にかんする贋作家ヨーニの偽作を現物の挿絵つきで掲載したうえでの議論と、"贋作が贋作であることは別の時代・社会の人間から見れば「今日誰の目にもそれと明らか」で「それと見破るのに、大した鑑識眼はいらない」のだ"ということ、"くだんのフィレンツェ派を模した偽作についても(ほかの贋作と同様)「われわれはただちに物憂いアール・ヌーヴォーの匂いを嗅ぎあててしまう」程度のものだ"ということです。
さて引用した文章の「見た」とはその前段で、
『作品創造者の感受性と解釈者のそれ、二つの感受性の出会いであろう。われわれが「解釈(interpretazione)」と呼び慣わしている営みは、言い換えるなら誰か他の人間が表現したものを此方の個性を通してする濾過というにほかならない』
などと言うプラーツ氏が、"その受け手の解釈がより濃く表れるもの"として贋作者の贋作やフォロワーの模倣作が例示された文脈における「見た」であって、つまり批評や贋作・模倣のことなのです。
さらにくわしく読んでいきましょう。
『ムネモシュネ』論考内でもはっきり「このフィレンツェの画家」と明示されているボッティチェリは、ルネサンス美術を主導した同地を中心に活躍した画派フィレンツェ派の画家のひとり。
頽唐(デカデンティ=デカダン派)もアール・ヌーヴォーも、19世紀末~20世紀末のヨーロッパで流行った終末芸術のひとつ。デカダンが退廃的なのは言わずもがなですが、後者も論考でも「物憂い」と補足されているとおり看板こそ「新しい芸術」という意味ながら「世紀末の退廃的なデザインだとして美術史上もほとんど顧みられなくなった」表現と言われたりもします。
……「頽唐(デカデンティ)の見たボッティチェリ」はつまり、前段で出た「われわれはただちに物憂いアール・ヌーヴォーの臭いを嗅ぎあててしまう」「フィレンツェ派」を模したヨーニの贋作を言い換えた表現だと読めるんですわ。
これってようするに佐藤氏が言う「十九世紀末にボティチェルリの贋作としてプロの目にさえ通用した作品が、今日では素人目にもまるでボティチェルリに見えない」ということですね。
ちなみに『ムネモシュネ』に掲載された(19世紀末~20世紀初頭に活躍した贋作家)イチリオ・フェデリコ・ヨーニ氏(1866~1946)『泉のナルキッソス』は上のような作品。
たしかにシンボル化された背景の描きかたやパースペクティブこそフィレンツェ派や『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』などを思わせますが。
「明らかにボッティチェリではない」のは素人目にもわかるし、「フィレンツェ派の絵ともシエナ派の絵とも違うんじゃないか」というのも思えます。
プラーツ氏の言を読んだうえで見てみれば、なるほど画調や画面左のエコーの衣服のすそのひだひだの装飾的な意匠や、ナルキッソスの頭の花輪(?)やなよっと座った自然さ柔らかさ(=図像的な表現ではないこと)など……素人目にも「違うよなぁ」と思えてきます。
{ナルキッソス やナルキッソス&エコーを題材にした絵をググって見てみましたが、カラヴァッジオの『ナルキッソス』(1599)とも、ラファエル前派のジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの『エコーとナルキッソス』(1903)とも雰囲気がことなる。
ひだひだなど、雰囲気としてはミュシャの『ランスの香水(Lance Parfum Rodo)』などが近いのかもしれません}
{余談。『ムネモシュネ』には載せられていませんが、ヨーニ氏の別作はあきらかなボッティチェリの贋作です。
『ヴィーナスの誕生』のヴィーナスと背景に、『ザクロの聖母』の衣服、『プリマヴェーラ』の右手のかんじと赤子のすけすけ衣服。
言われなければぼくなんかは流してしまう気がしますけど、眉に唾をつけて見れば、半透明の胸襟が加えられ頭のヴェールのひだのひらひら具合、腕の袖や赤子の側面の衣服がボタンでところどころ留められ∞字に装飾的なところなどなかなかに華美で、「……ちがうんじゃないか?」と思わせますね。
世間的に"ボッティチェリの贋作"として有名なのはヨーニ氏の弟子のUmberto Giuntiによるもの。
『The Madonna of the Veil』は1930年代の登場当初からケネス・クラークから「無声映画のスターみたいだ」と真贋を疑問視されていて、WW2後には紺青(プルシアンブルー)の顔料が当時としてはありえない細かさで粉砕されていることが判明・贋作の匂いはますますつよくなり、94年のエネルギー分散型X線分析でついに100%贋作と判明されたそう。
こちらもひだひだのヴェールにオシャレな衣服の留めかたがなされ、聖母がカメラ目線をくれるところは他のボッティチェリ作品らしくない目線のくれかただなと思いますが、ボッティチェリですと言われて出されたら「ボッティチェリってこういう萌える絵も描いてるんだ」とそのまま受け入れちゃいますけどね。}
0110(日)
お仕事日で宿直日。
話題のあれで、どんどん周囲からいやな連絡が入ってくるなぁ。陽性が出なくてもまぁお仕事回らんくなるだろうなコレ。
0111(月)
宿直明け日。
一日寝てしまった……。
*1:ありな書房刊、マリオ・プラーツ著(高山宏訳)『ムネモシュネ――文学と視覚芸術との間の平行現象』p.47・5~6行目、「第二章 時が真理のヴェールをはがす」
*2:ありな書房刊、マリオ・プラーツ著(高山宏訳)『ムネモシュネ――文学と視覚芸術との間の平行現象』p.44・5~7行目、「第二章 時が真理のヴェールをはがす」
*3:ありな書房刊、マリオ・プラーツ著(高山宏訳)『ムネモシュネ――文学と視覚芸術との間の平行現象』p.46・13~15行目、「第二章 時が真理のヴェールをはがす」
*4:筑摩書房刊(ちくま文庫)、佐藤亜紀著『小説のストラテジー』kindle版11%(位置No.3169中 329)、「1 快楽の装置 創作と享受における一般的な前提」Ⅱ
*5:ありな書房刊、マリオ・プラーツ著(高山宏訳)『ムネモシュネ――文学と視覚芸術との間の平行現象』p.47・5~6行目、「第二章 時が真理のヴェールをはがす」