すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

日記;2020/12/08~12/14

 日記です。8000字くらい。年末で更新ぐだぐだになってしもうてスミマセヌ……。12/6に投稿した日記で言っていた記事をアップするはずの「再来週」もあと残すところ2日ですね……見通しが甘かった。

 ※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※

 

1208(火)

 書いたり読んだりしました。

 『クリスタルの夜』めちゃくちゃ美しいなと思い直す。再読だというのに終盤にポカンとしてしまった。

 この邦訳が載った『SFマガジン2010年1月号』は創刊50周年記念特大号で、ぼくもこのときばかりはSFマガジンをきちんと買ったのでした。このころにはもう『小説のストラテジー』とか読んでたはずで、「あの頃から全く進歩がないなぁ」なんて思ってたんですが、自覚がなかっただけであの頃は全然よめてなかったんだなと再読して気づきました。よいことです。

 

 

1209(水)

 書いたり読んだりしました。 

 『七色覚』はやはり綺麗だなぁとニヨニヨする。

 

 

1210(木)

 書いたり読んだりしました。

 『貸金庫』めちゃくちゃ美しいな!? といまさら気づく。

 

 

 ■書きもの■読みもの■

  グレッグ・イーガン色彩設計について

 考えを整理するため完全ネタバレで書いていきます。

 

 グレッグ・イーガンの短編集は日本で独自に6冊あまれており、『プランク・ダイヴ』を除いた5冊が電子書籍化され、kindleではそれら試読本をダウンロードすることで冒頭に収録された5作の短編を頭から尻まで無料で読むことができる。

 

 イーガンのキャリア初期の短編金庫』('90)の語り手は、貸金庫で書き溜めるままにしていた雑多な入れ替わりの記録を、統計的な編集(=それまで自分が「しよう」「しよう」と思いながらもすすめられずにいたことだ)と作図をすることによって自己のアイデンティティを確立する。

 その手つきは、直接的には女医との会話ででてきたPETスキャン画像のカラーリングに着想を得たものだが。しかし、"地図にポイントする"という作業は、子供時代にやってみたけれど何の成果を得られなかった行為の変奏であって、また、青を低頻度~赤を高頻度とし青色が"重要なごくごく少数のなにか"を指し示すのは、かれが"モノマネ役者"仕事中に{入れ替わり元の人物が本来おくるはずだった日々を(じぶんが原因でクビにされない程度に)きちんと送るため}その機能を統計的に推理した、入院食の食札の色分けと相似する。

 3色あるうち1枚しかなかった父親にマッドな改造をされたらしい患者の食札の色も、かれが入院する病院が含まれる入れ替わり低頻度地域も、どちらもく染められているのだ。

 統計的知識とその計算は、冒頭のプロファイルではじぶんの寄る辺なさについて諦観をつよめるだけだった学習であり、読者にとって中盤においては(食札推理という)名前のある人々であれば無意識のうちにこなせるような単純なこと程度にしか使えないという世知辛さを感じさせるものだった。

 また、入れ替わり元の人物が行なうはずだった仕事が"何かをだれかに届けに行く"というもので、それをこなしたさきで自分の輪郭がはっきりする情報を得られる……というのは、実は、誕生日プレゼントを届けに行った子供時代をリフレインしたものでもある。

 雑然と並んでいたように思えるさまざまな要素が、一転、理路だった組織化がなされ、語り手はなにか実のありそうな形をつかむ。

 その形がじっさい正しいかどうかはわからないし、正否はどちらであってもかまわない。流されるがままだった語り手がなにかを形作ろうとし、それらしきものが成型できたことが気持ちよい。

 

 『貸金庫』について、モチーフ展開の巧みさを称賛する声は寡聞にして知らない。

 作図シーンとそう離れていない位置に食札のシーンがあり、尺の関係上、これらのモチーフの結びつきは、わかりやすいものだと思う。

 『貸金庫』について、モチーフ展開があからさまだと批判する声もまた寡聞にして知らない。

 

 『貸金庫』の前年に発表された・口笛テスト』('89)は、主人公の思索(感情)にあわせてライティングが巧みに調整された作品だ。

 冒頭、新技術にかんするセールスを退屈しつつ聞く主人公は、「十ドル札に広告用反射ホログラムのスペースを作ってそれを売り出すこと以来の」*1発明だと思っているのだろうかと疑問をうかべる。

 べつに再登場するわけではないこの設定は、劇中世界のトリビアルな書き込みというよりはむしろ、読者を明暗の世界にいざなう一手に思える。

 まばゆい陽光を浴びながら、網目状に芝生が生い茂るベントリー・テクノロジー・パークを歩いているうちに、アンダーウッドは自分がさっきの曲を口笛で吹いているのに気づき、

   河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版3%(位置No.4960中 103)、「新・口笛テスト」より。(太字強調は引用者による)

 適当に理由をつけてセールスを帰し外へ出たアンダーウッドが、売り込みされたあの新技術AMM(応用神経マッピング)により作成された歌を無意識のうちにリフレインしたのは、まばゆい陽光の下でのことだった。アンダーウッドはあの新曲を自分が口笛をふいていることに気づいて苛立ちやめるが、交通騒音もオフィスに流れるクズ音楽もなぜか気にならず、リラックスした状態で午後を送れた。

 午後の残りとになってからの大部分は、<ハイパーソフト>のCM用の音楽をえらぶことでつぶれた。

   河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版3%(位置No.4960中 116)、「新・口笛テスト」より。(太字強調は引用者による)

 候補曲を四つ見つけだしたときには十時をまわっていた。キーをぽんと押して、提案事項をリストにしたメモを<ハイパーソフト>の広告活動の関係者全員に送ると、アンダーウッドは疲れのにじむため息をついてコンソールのスイッチを切り、わが家をめざした。

   河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版3%(位置No.4960中 122)、「新・口笛テスト」より(太字強調は引用者による)

 日課の仕事をこなした当然として夜を迎えた時分、アンダーウッドは疲弊している。

 レンジ付き冷凍庫から料理をだし、妻との会話をし(夫婦の会話に割り込むレンチンの音)、ベッドのなかでお気に入りの音楽を聴く。

 ディス・モータル・コイルの「警告の歌」が水銀のように頭に流れこんできて、部屋を消し去り、体を消し去り、今日一日の嫌な思いのすべてを消し去った。肉体を離れて、振動する闇の中に浮かんでいる気分になり、魂が曲の一音一音と共鳴し、たまらなく甘美な歌手の声が、冷たく、半透明な、浄化の炎にアンダーウッドをのみこむ。

   河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版3%(位置No.4960中 139)、「新・口笛テスト」より。(太字強調は引用者による)

 冷たく半透明な浄化のにのまれて振動する闇の中で浮かんでいる気分になる……『新・口笛テスト』のアンダーウッドがそんな心地でいられるのも、歌が流れているあいだだけのことだ。赤外線ヘッドフォンをはずすとディス・モータル・コイル女性ヴォーカルの美声は妻のゆっくりした寝息にかわる。

 歌が終わり、闇の中で横になって、マグダのゆっくりした呼吸を聞きながら、アンダーウッドは考えた。トイレットペーパーのCMにバッハ、保険にベートーヴェン、アイスクリームにモーツァルト――それは非道であり、そうでないふりをしても無意味だ。

   河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版4%(位置No.4960中 146)、「新・口笛テスト」より。(太字強調は引用者による)

 ベッドのなかでアンダーウッドは現代の広告汚染を考えをこねくりまわしているうちにAMM製の曲を全国で流すことを決める。

 おらたちがお日さまのもと

 育て作った飲みもの、それは

 ミルワース&ホッブズ

(略)

 日の光に

 きらっと輝く

   河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版5%(位置No.4960中 206)、「新・口笛テスト」より。(太字強調は引用者による)

 AMMのメロディがはじめて用いられたCMの歌詞は、アンダーウッドが無意識のうちに口笛をふいていたときと同じく、日の光輝きがある。

 AMM曲を起用したCMは劇中世界に大きな波乱をおこす。AMM曲は、アンダーウッドが仕事を終え帰宅した夜のニュース番組が紹介する事故のフッテージ映像のなかで女性パイロットが口ずさんだものというかたちで、もう一曲登場される。

朝日を浴びて黄金の色に染まる畑だとか

   河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版6%(位置No.4960中 289)、「新・口笛テスト」より。(太字強調は引用者による)

 テレビ画面で渦を巻くは、何かの技術的問題のせいで奇妙な、自然にはありえない色あいに変わっていた。非常用脱出口から、服と髪に火のついた男が飛びおりて――アンダーウッドには、映画のスタントマンそっくりに思えた――テープの遅まわしで加工したようなバリトンの絶叫が聞こえた。

 ありえない色合いの。そして、(現実には不自然だが、衝撃映像をスローモーションで注目するTVのニュース番組の文法としてはもっともらしすぎて余りある)フッテージの人の遅回し≒ゆっくりした音声。

 TV画面がまばゆく騒がしく映る自宅で、AMM曲をはじめてきいたあとの夜を反復変奏するようなこので、アンダーウッドはじぶんの行ないをふりかえり苦悩する。

{アンダーウッドが毎夜の儀式として聞く歌について。

www.youtube.com

 ディス・モータル・コイルの『警告の歌』=Song to the Sirenは、ティム・バックリーとラリー・ベケットによるフォークソングのカバー。

 全訳をのせられている『Music for Cloudbusters』さんの記事を参考に歌詞を読んでみれば、船もなしに長く海にただよう「わたし」が、美しい歌をうたう美女セイレーンにいざなわれるという歌です。だからそれを聞いたアンダーウッドが水銀やら冷たさを連想するわけなのです。

 『警告の歌』は、じぶんの性質による犠牲者をこれ以上だしたくないセイレーンに対して、海に漂う「わたし」は迷ったすえに自分からも呼び込みの返歌をして〆られる……という甘美な自己破壊・心中みたいな歌なんですけど、アンダーウッドがそれを毎夜の儀式としていたというところに、単純素朴な「簡単にいじくれてしまう身体のモノ性コワい!」「科学の進歩コワい!」「広告による洗脳コワい!」にとどまらない部分があるなぁと思いました。

(ある価値観を抱えつつも、ちょっとしたことですっきりリフレッシュできていたひとが、脳のリソースをちょっと食われたことでちょっとした歯止めをうしなって、まだ元気な明晰に頭が回転する部分の<わたし>は、変な方向に舵を切ってしまった思考を修正するのではなく、むしろアレでナニな思考を正当化・理論武装するためにエンジンがかかってしまった……ととらえると、システム1とシステム2みたいな感じですが、この辺の知見は89年当時どうだったんでしょうか)

 

 『新・口笛テスト』発表から四半世紀が過ぎた、イーガンの短編色覚』('14)は、『貸金庫』とおなじくピンポイントに置かれた色が印象にのこる作品だ。

 『七色覚』第1部において、視覚インプラントの改造プログラムを導入するも、超色覚が見せるそれまでとあまりにもかけ離れた光景に気持ち悪さを感じていた語り手ジェイク少年が、以前の視界とのつながりを見出し安心をとりもどすのは、砂丘に植わっていた草木の緑による。

{この感覚はもっともらしいもので、たとえば『七色覚』が発表される前年2013年、原題Seventh Sightと似た響きのセカンドサイト社が開発した世界初の市販用人工網膜アーガスⅡの着用者もまったく同様のことをテクノロジーに願っている。(ただし下に引用したカーラ・プラトーニ著『バイオハッキング』は15年12月出版)

 微妙な色調や濃淡をもつすべての色を見る能力は取り戻せないかもしれない。それはわかっている。しかし彼にはもっと単純な願いがある。「緑の木を見て、緑だと感じたい」

   白揚社刊、カーラ・プラトーニ著(田沢恭子訳)『バイオハッキング―テクノロジーで知覚を拡張する』kindle版30%(位置No.7516中 2237)、「第1部 五感」内「3 視覚」より(太字強調)

 ジェイク少年はそのすぐあと、七色覚だからこそとらえられる海のの豊饒さに感動し、七色覚であることを特別視し・常人たちを<三錐体>とバカにする一派に惹かれていくようになる。

 第2部で青年となったジェイクは、自身らが内密に効能を享受する改造プログラムが依然として自分たちのコミュニティが独占する秘密のままであるにも関わらず、いつのまにか世間で同等の――それどころか凌駕する――テクノロジーが普及していることに気づく。

 29歳に至るまで、常人<三錐体>たちには同じ柄にしか見えないカードの裏面のちがい(おそらく印刷ムラや凹凸)を超色覚によって見出し、それによって確実にプラスを出すギャンブラーとして社会的に生計を立てていた主人公ジェイク。

 かれが仕事を畳むに至ったその気づきは、これまでバカにしていた<三錐体>の一部の人が特殊なメガネをかけることによって、自分にはわからない世界を見ていたことから得られる。

 一見なんの変哲もないカードにむかって特殊なメガネをかけてみて、語り手はようやくカードに特殊な緑のインクで印がつけられていたことを知るのだ。

 

 『七色覚』で3度ほど登場する緑は、最初は元の世界との接点かつ超色覚使用を継続する根拠として用いられ、その直後の2回目に超色覚使用を推す圧倒的根拠としてあらわれ。第二部では元の世界から置いて行かれ、超色覚ではやっていけないと思う根拠として用いられる。

 緑をワンポイントにして築かれたこの全く対照的な光景は、興味をひくさまざまなガジェットやシーンにはさまれて、その対比関係についてサッと気づけるものではないかもしれない。

 超色覚者だけが読み取れる謎のストリートペイントの正体の追求や、そこで出会った超色覚者だけが楽しめる秘密の遊びや、そこで出会ったティーンエイジャーの瑞々しい交流や、第二部に入り劇中年月が経って、実社会で秘密裏に役立てられた超色覚の使い道とその限界や、夫婦となり子を持つも前述の限界から岐路に立つ男女の精神的行き詰まり……などなどの、興味深いシーンが盛りだくさんだ。

 しかし、たしかに築かれた文脈は、明示的に気づけなかった読者にとってもなにかしらの影響をおよぼすはずだ。

 『新・口笛テスト』が光源により行なっていたような雰囲気づくりと同じ丁寧さと言えるけど、主に昼夜という自然物でおこなっていた『新・口笛テスト』とちがって、『七色覚』では劇中ガジェットと混ぜるかたちで行なわれている。

 

 3作の色彩設計をつづけて確認することで、数十年にわたって執筆活動をしてきた作家のストーリーテリングの洗練を見、感慨ぶかかった。

 

 さまざまな作家は大なり小なり色彩や明暗、遠近、高所低所、開所閉所といった要素を、作品のなかで巧みに操作しているものだ。

 ことイーガンは、論理的で・だというのに思いもよらない方向へ展開されていく想像力によって名高い作家だ。各作で揺れ動く思考の仔細や、太い幹についた枝葉で語り手がのぞかせるイデオロギーみたいなものがどんなものかは、海老原豊氏がグレッグ・イーガンとスパイラル・ダンスを』で気を吐いている。

 ただし、この日記で書いているみたいな、物語の演出材としてモチーフがどのように扱われているのか取り沙汰される機会はあまり無いように思える。(紙幅の限られた『ハヤカワ文庫SF総解説2000』ではもちろん、それなりに文量がある巻末解説でもぼくは知らない)

 そこを「誰も見てないのだから」と腐らずたゆまず研鑽をつづけていくのは、並大抵のものではない。

 イーガンのエッセイはたぶん、厄介なひとの厄介な難癖と映ると思う。

 ファンである自分の贔屓目から見ても、頑固で狭量な部分は否めない。

 イーガンの作品たちは、そんな頑固で狭量な作家が、じしんの眼鏡にかなうものを妥協せず追求しつづけた賜物のように、ぼくには思える。

 

  ↑このくらいの長さのほうが

 読みやすい量だし、論旨もわかりやすい気がするんですけど。

 でも、ひとさまに紹介するスタンスで、美味しいところはボカしつつ書く方法がよくわからないし。また、ひとさまの目に触れることを見越した文章を書こうとすると、「あれも」「これも」と見栄をはり、贅肉をつけてとっちらかってしまう。

 

 

1211(金)

 ■そこつもの■

  本が見つからなくて疲弊する

 文章を書きすすめていくうちに「確認しとくべきだろう」と思う点がでてきたので、所有本を探したものの、どこにあるのかわからなくて1,2時間浪費しました。

 

 

1212(土)

 勤務日。

 

 

1213(日)

 宿直日。

 ■そこつもの■

  避けられない空白期間のあいだにモチベーションがダダ下がる

  書いているうちに「確認しておくべきだろう」という先行情報がアレコレ見つかったので、あれこれ注文する。

 大体そういうものは新品の流通は終了していて、中古品を買うことになるのだが、お店によって在庫確認~発送に1週間以上かかるときもあり。また新刊にしたってメーカーに在庫確認する必要ある品ならやっぱり数週間かかる。

 そうして、待ったり、支払い依頼メールを受け取ったり、コンビニで支払い依頼メールに記載の支払い通知番号を打ち込んだり、銀行のATMで振り込み口座をポチポチしたり、到着メールを待ったり、コンビニで到着メールに記載の商品番号を打ち込んだり、家に届いた不在通知から電話をかけたり、数字を数回押すだけのことに自動音声を長々きいたり、発送メールがない商店に質問したり、発送キャンセルされた商品をべつのお店で再注文したり……としているうちに、どんどんと精神が擦り減ってしまう。

 

 

 ■読みものについて■

  世の文章はたいてい、文章外の信頼を担保にしてるよなと思う

 本になった批評・論考・レビューを読んでいると、好評であれ悪評であれ、論拠がブラックボックス化してしまっているものが結構あるように思います。なにをどう、なぜそう評価したのかが、その文章だけではわからないんですね。

 

 裏事情は知らないけれど好意的に見れば、たぶん「製本するのはコストがかかり、ページ数/文量が増えるとさらにかかる」ので、憶測に憶測をかさねますが「削れるところとして出典とか論拠とかが削られる」ということになるんじゃないかなと思うんですが(※)、その結果として、門外漢のあまのじゃくにとってはなんか釈然としない文章を読むことになってしまうんですよね。

{※こうした憶測の根拠は、原文に注や参考文献が記載されている海外の書籍が、紙で邦訳出版されるにあたって割愛され、訳者あとがきなどで「その部分に関しては出版社の公式サイトにてpdfで配布しますので、そちらをご参照ください」と示されるものがあるためです(『ペンタゴンの頭脳』などがそのタイプ)

 結局その論考が信じられるか否かの基準は、「こういう作品をつくっているひとがこう言っているのだから実際そうなのだろう」とか、「この学歴のひとがこう言ってるのだから大なり小なりエビデンスがあって言ってくれているのだろう」とか、「名の知れた出版社が売り物としてわざわざ刷って出してるのだから、裏取りしてくれているのだろう」とか、文章以外のところに頼らざるを得なくなってしまう。

 

 ただウェブメディアであっても状況はかわらず、「そもそも雰囲気以上のものを求めていないのではないか?」みたいな悪意に満ちた斜に構えた見方がもたげてくる。

 個人であってもスタンスはまちまちで、場合によってはさらに秘儀めいた部分も強まったりだってしたりもする。

 たとえばツイッターはてなブックマークで「雑なことを言うな」と言うひとのツイートなりコメントなりがきちんと筋立てソースを張られている保証はあまりなく。かれらのプロフィールに飛んで、自サイトなりblogなり読書メーターなりその他SNSをさらに踏んでみると、

「非公開に設定されています」

「404」

 となることもままあって、つながったかと思ったら数年前から放置され、最近の活動はこちらが調べないとわからない。

 商業誌で執筆があるライターさんがたでも活動歴や活動域を総まくりできるポートフォリオ的なページを設けているひとはそうそういなくて、ツイートよりももっとカッチリしている考えが読めるnoteなりcakesなり何なりシミルボンなり何なりの活動は、ツイッターを1クールフォローしていてようやく見えてくる……そんな断片的で不透明な状況がある。

 

 説明がふんわりしたりさまざまな情報が断片化して来歴がたどれにくくなったりするのは、なにか悪意があってそうなるわけではなく。

 ただ単に、キッチリするのは大変だからだったり。情報を置く場として万人に見られるネットをえらんでいるとしても、当人は自分と既知・旧知の仲に向けて何かを発信していて、不特定多数に対してなにかを言っているわけではないからだったりする。

 

 その結果として、なんか知らんけどすごそうなひとの、なんも分からんけどすごそうな140字がネットには満ち満ちていて、ぼくはたまに、喫煙所や映画館の待合スペース、居酒屋、床屋、電車、あるいは季節の節目の知らん親戚との集まりなどと何が違うのかよく分からなくなりへとへとになる。(この日記のこの項は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください)

 

 

1214(月)

 宿直明け日。

 ■愚痴■

  紙の本と電子書籍を一緒のタイミングで出してくれ、せめてアナウンスしてくれ

2ヶ月後

 紙の本を買っちゃったよ!

 作者にも出版社にも文句を言うことではなく、人気や要望を受けて対応してくれた結果だと思うけど、もうちょっとどうにかならんものかなぁ……。

 本棚買う金がないから、本を買ったら広間へ適当に放し飼いしてる積読人間としては、紙の本というのは自室から離れたら最後、どこに何がいるのかわからなくなってしまう存在。なので新刊はできるかぎり電子書籍を手に入れるようにしてるんですが。

 みんなどうしてるんだろうなぁ。

*1:河出書房新社刊(河出文庫)、グレッグ・イーガン著(山岸真訳・編)『TAP』kindle版1%(位置No.4960中 26)、「新・口笛テスト」1より。