すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

日記;2020/07/06~07/12

 日記です。1万4千1万9千字くらい。いつも以上に書く余力がのこされてない週でした。シェリーでない19世紀の女性作家の予知夢SFと、女性作家の1910年代発表の改変歴史SFの存在を知った週。

 ※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※

 

0706(火)

 『スタートボタンを押してください』再読してました。

 

 

0707(火)

 『スタートボタンを押してください』再読してました。

 

 

0708(水)

 宿直日。

 

 

0709(木)

 宿直明け日。

 ■書きもの■

  『2010~』に何作かの紹介文を書き足す。

 先日の記事に『スタートボタンを押してください』収録作ンダのゲーム』ャラクター選択』の王権』を中心とした紹介を試みました。(アンソロ全体の感想も近いうちに単体でアップします。……しますが……ほかの延び延びになってる感想をしっかり書いてからになると思います……)

  だからといってあんまりこういつもの感想文と違いがないですけど……。

 後々まで変奏されるものの発端だけ取り上げるみたいな感じにするとまとまりがよいかもしれないなぁと『猫の王権』について書いて思いました。

{『猫の王権』については、序盤のはちみつ入り紅茶が、⇒後半の舞台の冷凍食品&ミルクのにおいがする部屋へと変わる……というコントラストが設けられているように思います。単体でみるとクリシェっぽくもありそうなそれぞれの場面が、意外なほど強く響くのは、端的かつ丁寧な文脈づくりが効いてるからというのが大きいと思うんですよね。

 なので、「寒暖・嗅覚表現について触れておいたほうがいいな~」「でもそれだけだとアレだから、序盤⇒中盤で明確な変化がみられるシェアリーと座椅子の変奏をとりあげて、"こんな感じでゴリゴリ反復変奏がキマってる作品なんですよ~"というのも具体的に提示したほうがよいな」とか、その辺を意識して書いたのがリンク先の文章}

 

 

0710(金)

 へとへとになってました。

 

 

0711(土)

 出勤日。

 ■書きもの■

  『2010~(略)』の、数えてないリストに平凡社チェコSF短編集』、筑摩から復刊された筒井編『60年代日本SFベスト集成『70年代日本SFベスト集成1~5』を足しました(他社アンソロ数が31に)

 先日かいた記事のなかで、集計で取り上げなかった早川・東京創元以外のSFアンソロジーのなかにいくつか漏れがあったので追記しました。

 漏れていたのは、平凡社ライブラリーェコSF短編小説集』。そしてこちらは復刊本ですが、筑摩書房から出し直された『60年代日本SFベスト集成』、『70年代日本SFベスト集成1』『』『』『』『』も抜けていました。

 ということで、2010~2020年に出たSFアンソロジーはすくなくとも91冊はある(早川東京創元で60冊、河出で15冊、そのほか21冊くらい)らしいことがわかりました。

「作家個人まではとてもじゃないけど追いきれてなくて、アンソロだけは一応……」というひと、ぬるオタじゃなくてガチオタじゃん! となりました。ジャンプ連載漫画よりも刊行ペースはやいんすよ! やばいですね。

 傑作選(=駄作を読むわけではない)とはいえ毎月0.75冊1年で9.1冊を、10年コツコツ読みつづけられるひとはふつうにすごいひとですよ。

 

 

 ■読みもの■

  パミラ・サージェント著『女性とSF』から『ゼロ年代の臨界点』への雑念;女性作家と時間SF;1873年のレファニュの姪による予知夢SF、改変歴史SFネタの初出は1910年代発表の女性作家?

 それは何ですか;

 パミラ・サージェント氏による評論です。SFマガジン』75年11月号掲載。

 伴名練氏の『全てのアイドルが老いない世界』が面白かったので、山岸真&下村思游氏によって明かされた、劇中アイドルの歌曲タイトルの元ネタとなった女性作家のSFを集めはじめました。(ビバ翻訳作品集成さま! ビバアマゾン!)

 そのうちの一作・鈴木いづみ著『 魔女見習い』の初出である号に併載された論考が性とSF』なのでした。

 読んでみた感想;

 かなり興味ぶかい内容で勉強になりました。

 4部構成で、①19世紀~1970年代までの女性SF作家(作品)史、②男性作家によるSFの女性キャラ史、③女性優位モノの作品史、④現在の社会とやっていきの提言。というかんじ。

 第一部。1970年代当時のSF読者層の概観をざっとしたサージェント氏は、女性SF作家(作品)史をふりかえります。

 SFの祖として名高いランケンシュタイン』(1818、1831改訂)を描いたメアリ・シェリー(1797~1851)から、おなじ19世紀の作家ローダ・ブロートン(1840~1920)フランシス・スティーヴンス(本名ガートルード・バロウズ・ベネット、1884~1948)C・L・ムーア氏(1911~1987)の1920~30年代の活躍、(『リオ・ブラボー』などハワード・ホークス監督作の脚本もてがけた)リイ・ブラケット氏が1940年代からみせた"「男まさりの作品を書く」というあの奇妙な賛辞を実証したともいえる"*1活躍、40年代末ジュディス・メリルの登場*2とその仕事ぶりと、50年代の女性作家のSFの紹介とよくあるその特徴(「家庭の主婦をヒロインにした多くの作品が、しばしば、女性の手によって、書かれた」*3「たいてい消極的か、でなければのろまな性格で、間のぬけた行動によって、あるいは社会の中で自分にふりあてられた役割を果たしているうちに、なんとなく問題を解決してしまう」*4、そこから脱した作家の紹介(キャサリン・マクリーン、マーガレット・セント・クレア、ゼナ・ヘンダースンアンドレノートン

 50年代後半~60年代前半の作家を紹介し、その作品に流れるニュー・ワールズ誌の潮流を紹介する。代表作として、パミラ・ゾリーン『宇宙の熱死{1967。(主婦が主人公だけどそのキャラは語り口は全然ちがうという主旨)}、ジョゼフィン・サクストンの『大饗宴Group Feast』(1971)、アン・マキャフリィ、ケイト・ウィルヘルム、ジョアンナ・ラスなどが挙げられています。

 なかでも大きく取り扱われるのは、アーシェラ・K・ル・グィン。『闇の左手』(1969)について本文1ページ原注2ページ計3ページ(スタニスワフ・レム氏の批評とグィン氏からの応答)というかなりの紙幅が割かれています。

 

 第二部。70年代の女性作家を列挙して第一部を終えたサージェント氏は、つぎに、男性のSF作家が小説のなかで女性をどんな風に扱ってきたかを振り返っていきます。

 その概観はわりとこう、いまでも聞くような内容であったりもします。

 女性は、その限られた役割の中で、作家のために実用的な機能を果たした。物語の中で、作家が登場人物のだれかの口をかりて、ある装置のしくみや、一つの科学的原理を、無知な少女や婦人にむかって――ひいてはその延長としての読者にむかって――説明するという手である。女性はまた、なんらかの英雄的行為の報償としての役も果たしたし、危機から救い出される対象でもあったし、ときにはヒーローがうち負かさなくてはならない危険な(あるいは狡猾な)敵にもなったし、雑誌の表紙の飾りにもなった。そこには、露出度の多い、非実用的な衣服をまとった美女が描かれるのがつねだった。

    早川書房刊、『SFマガジン 1975年11月号』p.51上段7~16行目、パミラ・サージェント著『女性とSF』2より

{聞くような内容ではあるけれど、「ことばの上では似ているけど、実際どうよ?」というのはもちろん大事なものです。度合いとしてはだいぶ変わっているものってあるんじゃないかとぼくは思います。

 Fマガジン2020年6月号』の中身英語圏受賞作特集について――前景で背をむけた異形の人物は露出度多そうですが、煽情的ではない表紙ですね――、識者からこんなつぶやきも覗けました。

  作り手・掲載作の男女比って(ぼくのような、あんまりそういう話題についてアンテナ感度がひくいやからの耳にさえ)ちょい前からよく聞く話題ですが、「男女比どーん! 今回すごい良いっしょ、イェイイェイ!」て言えるようなお仕事って、作り手側から言えないから気づけないだけで実はすでにあったりするものでもあるみたい、とさといかたのつぶやきをみて思いました。(いやもちろんこれも、「毎度毎度そうなの?」という、比率のお話ではあるかと思いますが……何にしても、気をつけてるひと&媒体ほど、自分からはドヤれない問題な気がしますよね……)}

  ヒューゴー・ガーンズバックの以前、SFの父ヴェルヌもウェルズも女性キャラに関心を払わなかったし、そういう意味ではSFの祖のひとりで女性作家のメアリ・シェリーもまた(『フランケンシュタイン』はゴシック小説ではおなじみの犠牲者となる女性をこそ出さなかった新機軸を打ち出したものの、「女性の主要人物を省く」というかたちで達成されたそれは)、女性キャラの軽視に「いくぶんか手を貸したといえる」……と、作家の性差関係なしにメスを入れていきます。

 おもしろいのは、サージェント氏が小説の中の女性キャラの立ち位置と、作家の思想的スタンスとをしっかり分けて別々の評価をしていることです。

「もし、ウエルズがもっと女性の扱いに重きをおいていたら、この分野がどう変化していたか、それを想像してみるのもおもしろいかもしれない」*5と論じられるH・G・ウェルズも、「社会問題に深くかかわりあっていたウエルズは、なかんずく女性の権利に大きな関心を持っていた。」*6と評価されてもいます。(そうした人間ウェルズの問題意識が、作家ウェルズの創作にまで及んでくれたらよかったなぁという論調)

 当時からいろいろ言われていたしこの論考でも大部を割いて作品の女性キャラの役割を批判される(槍玉にあげられるのはたとえば『ポディの宇宙旅行』は女性が若いうちに子を産み新生児はコールドスリープされ、夫婦が職業上の地位を固め時間的余裕を持ったあとで赤子が解凍され夫婦に育てられる……という世界の話だが、依然として女性が育児をうけもっていることとか。『月は無慈悲な夜の女王』は女性が男よりも多い社会のお話で、ハインラインはここでの結婚制度についてあれこれ考察しているが、家事をうけもっているのは女性であることとか)ロバート・ハインラインでさえ実はその作品外の発言を評価されてもいます。

 これは個人的な意見だが……女性が宇宙計画に参加しなかったのは、規則を作った連中が偏見を持っていたためだ。だれか資格のある女性が、一九六四年の公民権法をよりどころにNASAを叩いてほしかったと思う。女性も宇宙へ行く権利がある。税金の半分を払っているんだからね。あの計画は男性だけでなく、女性のものでもあるんだ。いったいどうしてNASAが、人類の半分は女性であることに気づかなかったのか、わたしにはさっぱりわからん。

   早川書房刊、『SFマガジン 1975年11月号』p.53上段9行目~、パミラ・サージェント著『女性とSF』2にて引かれた、ハインラインの最近のインタビュー

 こういった発言をハインライン氏はしていたと引用されていました。(まぁ「女性が~叩いてほしかった」辺りは、「"本当に嫌なら黒人奴隷はこの鞭打ちを避けるしプランテーションから逃走したり反抗したりしているはずだ"論みたいな風にも聞こえかねない」「声をあげるのは女だけなんですか? 男であるあなただって叩いたってよくないですか?」みたいな話もありそうですが、サージェント氏はそういう皮肉を言いたくて引用しているわけではありません)

 

 第三部では、無視ないし未来社会でも家事や出産など旧来の役割をさせられがちだった女性キャラが、例外的におおきくクローズアップされたSFの一ジャンル女性優位モノ(=女性が完全に男性から独立し、あるいは男性を支配した世界)について。

 これもエクストラポレーション的な思考実験というよりは、作者の恐怖や願望のたんなる反映に近いものがあって、大半はただ役割が逆転するだけ(男が家事をし女が権力をもつ)とか、男の現実でふるまうよりも過酷にしたもの(男子は殺され、少数の男だけが生殖のために飼われたり監禁されたりする)とかになりがちだとサージェント氏は論じます。

 リットンの『来たるべき種族』メアリ・E・レーン『ミゾラ』などの昔から、ウィンダム『アマゾンの時代』ライトナー『雄バチの時代』に見られるアリやハチを模した女性優位社会作品群を紹介したサージェント氏は、

「女性がすでにある意味で優位を占めながら、その支配を従属の仮面で隠している」

 というバリエーションを見ていきます。この種の傑作としてフリッツ・ライバー『妻は魔女』(と書いてあるけど、邦題は『妻という名の魔女たち』かな?)、ジェームズ・ガン『女嫌い』が挙げられていました。

 そこからは女性優位社会モノに話はもどったかんじで、アンダースン『処女惑星』がサクッと紹介されたのち、「コノテーマのもっとシリアスな考察」としてフィリップ・ワイリー『消失The Disappearance』に紙幅を割きます。そして最後に、1972年の女性優位モノの傑作としてジョアンナ・ラスによるネビュラ賞受賞作『変革のとき』を紹介してこの部を閉じます。

 

 第四部では、ノーマン・メイラーの小説『性の囚人』や、カール・セーガン現代社会考察を引きつつ、テクノロジーも社会もいろいろな変わり目を迎えた現代において、われわれもまた変わっていこうというようなお話がなされます。

 女性のなかにはテクノロジーを男性優位の道具のひとつとみなし、科学研究をほかの有効な使い道ある資金の強奪者とみなすひともいるかもしれない。あるいは、科学的思考や知的な分野に弱いと思い込んでいるひともいるかもしれない(それは慣習的に培われた先入観だったりするのだが)。

 でも、だれもが科学的な探索に参加できるし、参加すべきだ。つまるところ科学の第一歩は、疑問の提出と学習する意欲――知的能力に恵まれたひとや教育のあるひとにかぎらず、すべての人々に共通する性質だ。もし女性が、男性だけに未来をまかせておけないと思うなら、自分でこれらの問題を検討しなくてはいけない。SFはそのための道具の一つである……

 ……そんなつよい提言などがなされます。

 

 

 SFの女流作家は、メアリ・シェリーの時代から少数派だった。十九世紀での例外の一人は、幻想作家シェリダン・レ・ファニュの姪にあたる、ローダ・ブロートンである。予知現象を扱ったブロートンの短篇『見よそれは夢』"Behold It Was a Dream"は、一八七三年に発表された。ダイナ・ベレアーズという娘が友人たちを訪れ、そして友人たちの無惨な死を正確に予告した夢を見る、という物語である。そのあとは、二十世紀のはじめまで、この分野で名をなした女性はいなかった。

   早川書房刊、『SFマガジン 1975年11月号』p.42、パミラ・サージェント著『女性とSF』 

 この論考から思いだされたのが、伴名氏による別作『ゼロ年代の臨界点』についてです。

 ぼくは、短編集『なめ、敵』感想記事のなかで収録作『ゼロ臨』の感想文をかきました。

 そのなかで大きなトピックとして尺をさいたのが、

「『ゼロ臨』劇中(女性)作家のSFは、実在した明治(~大正)(男性作家による)SFやオカルト思想になぞらえているところが結構あるっぽくない?」

 というお話です。(伴名氏がひとこと言及されているのが確認された)長山氏『日本SF精神史』と先行する横田順彌(名前だけは触れられてるけど、別文脈だから、読んでるかはわからない)の研究をおもな種本として、相違点をアレコレならべてみました。

 伴名氏が意図してかせざるかは知りませんが、『ゼロ臨』の記述と現実の明治大正SF史とでそれなりの符牒を示せたと思いますし(なのでぼくは「意図してないってことはないだろう」と思っている)、たとえぼくの論点がおかしくても横田長山氏の面白明治SF紹介を紹介できるから読む人も楽しいだろうし有益だろうとも考えています。

 

 そんな『ゼロ臨』の感想ですが、じつは、あれだけいろいろ書いているというのに文字数制限にひっかかったために省いたこともいくらかあったりするんですよ。

 省いたことのなかには、文字数制限があろうとなかろうとカットしただろうただのオタク話にしかならない余談/展開のネタバレっぽくてアレだなと思ったことはもちろん(地道をつみかさねていった最後の飛躍は広瀬正氏の某作を彷彿としますよね! とか)、書きたかったけどカットした虚実の異同についてもあるのですが*7、そうした制約とは関係なく、消化不良と知識不足とで書けなかった部分というのがあります。

 

 劇中明治のSFは、カリスマ的女性SF作家富江によるタイムスリップSFで花開きます。作品の内容について、『リップ・ヴァン・ウィンクル』から大部を模倣されていると劇中評論家の筆によって明示的にのべられている作品で、時間SFにかんする話題のおおい『ゼロ臨』で大きな存在感をもっています。

 他作家によるほかの劇中作も、海外作品からの影響を劇中批評家からたびたび指摘されるのですが、そこには、劇中批評家が『ゼロ臨』劇中世界で生きているから触れようがない、こちらの世界の明治の作家の作品とシンクロするような部分があるんですね。

 

 そうした部分についてぼくは、『日本SF精神史』などを読み、両世界が響きあうような点を見つけるたび、現実世界の豊かさに感動したり。

 あるいは、そもそもなんも知らなかった(し、論じる人もあまり見かけない)自分(たち)の無関心さ&歴史の忘却にこわくなったり*8

 そして、それをこうしたかたちで掬うことで再び光を当てている(のかもしれない)『ゼロ臨』の(初見では気づけなかった別の)魅力のひとつに気づかされたりしたわけです。

 ……ただ一方で、下記のような疑問が全くよぎらなかったと言ったらうそになる。べつのかたの意見を引っぱってきましょう。

 虚実の共鳴だァなんだと言っても、『ゼロ臨』が作りものである以上、それは作り手が意図的につくりだした(共鳴して当然の)共鳴である。そして作りものの発端が作り手の側にしか存在しないとなれば、だいぶ虚しいことになりゃしないか……?

 そういう思いはぼくも抱いていて、富江のこの作品にもなにか元ネタがあるのではないか? 明治の、女性作家の作品で……と資料をあさってみました。

 しかし、どうにも見当たらなかった。

 

 見当たらないなりに、いくつか楽しみかたを見出せもしました。

 一つはぼくが『ゼロ臨』感想で書いたような、今作の歴史(作品の類似)や人物像(言文どころかその行ないまで一致した作家の生きざま)を「けっきょく現実の借りものだ」ととらえれば、「となると、最後の現実にはありえない飛躍もまた現実だ」ととらえなければならなくなる、事態の妙ちくりんなおもしろさを味わうというもの。

 もうひとつは、伴名氏が発想元のひとつとして語る、メアリ・シェリーの存在とその延長線上の存在として劇中人物をとらえられないか? ……という見方。ぼくの感想文では、劇中言及作と現実のオカルト史をひもとく、ということで、その線をひっぱってみました。

 あるいは、現実の歴史を性別を変えてなぞっただけ(と言うにはあまりに微にいる脚色・独自文脈をなす創作がなされているとぼくは思うわけですが、それはさておき、そのように捉えるひともいるにはいるだろうと。)だったとしても、「そういう歴史があったんだなぁ」と受け止められるくらい、女性の可能性をえがいているとか。

 ……でもどれにしたって、なんだか、詭弁っぽさはどうしてもぬぐいきれない。

 

 フランシス・スティーヴンス(本名ガートルード・バロウズ)は、一八八四年に生まれた。彼女の処女作『悪夢』"The Nightmare"が世に出たのは一九一七年。夫を失い、母親と子供をかかえた彼女は、小説――おもにファンタジイ――を書いて、生計のたしにした。SF長篇『ケルベロスの頭』"The Heads of Cerberus"は、一九一九年に、ストリート・アンド・スミス社の<ザ・スリル・ブック>誌に連載された。のち、一九五三年には、ポラリス・ブレスから限定版として単行本になってもいる。

ケルベロスの頭』は、平行時間のアイデアを使った最初のSFかもしれない。つまり、選択や、環境や、歴史の展開のちがいから、われわれ自身の世界とは異なる発達をとげた平行世界が、いくつも存在するという仮定である。

   早川書房刊、『SFマガジン 1975年11月号』p.42、パミラ・サージェント著『女性とSF』 

 『女性とSF』では、1800年代後半と1910年代という最初期の女性作家によるタイムトラベル要素をふくんだSFふたつを紹介しています。

 

 『ゼロ年代の臨界点』の劇中女性作家のあの時間SF推しは、もしかするとこういうところから芽吹いたものだったのかもしれません。

 

 サージェント氏は『ケルベロスの頭』(引用文では「平行時間」モノと言われてますが、脚注でアイデアをおなじくする後発作としてP・K・ディック著『高い城の男』などが紹介されています。)を書いたフランス・スティーヴンスの晩年をこう記します。

 フランシス・スティーヴンスの人生の終わりは、彼女の小説に劣らず謎にみちている。カリフォルニアへ引越したあと、忽然と姿を消してしまったのだ。一九三九年に叶の娘が書き送った手紙は変奏され、行方をつきとめようとする努力は、どれも失敗に帰した。彼女のその後の消息は、今日もなお不明のままだ。

   早川書房刊、『SFマガジン 1975年11月号』p.42、パミラ・サージェント著『女性とSF』 

 『ゼロ年代の臨界点』劇中作家に劣らず謎にみちている。ぼくはそう思いました。

(まあたんにゆるい偶然ですね。

 『ゼロ臨』がおもに時間SFをあつかっていたことが、もし伴名氏が『女性とSF』を読んでそのへんマジで汲もうとした結果だったとしたら、オマージュ元がわかるかたちで盛り込んだでしょう)

 

 

0712(日)

 雷雨の影響でいっしゅんだけ停電が起きて、午前0時ごろまで家と外とを行ったり来たり、ごにゃごにゃすることになりました。ちかれた。

 アクセス数は平均に戻った。

 

 ■ネット徘徊■

  伴名練著『四年間の幸福』からネットで難点込みの話をする難しさをおもう

www.univcoop.or.jp

 読書すること、本について話し合うことの楽しさが語られていて、ウオォォおれも誰かと何かを語り合いてぇ!! となりました。

 

 なりましたが……。

 じぶんが実際なにかをだれかと語ろうとして失敗した記憶が思い出されもし、まぁ上で抱いたようなイメージとは違うものが味わえるんだろうなぁ……という、いやな予想が立ちました。

 

 たとえば頷けない解釈Aについて、「(反論B)ここがこれこれの理由で頷けない」やら「反論Bについてそこはそれそれだと解釈したから、この解釈Aを推している」やらというヤヤコシイ内容を、口頭会話が成立するレベルのレスポンスでし合わねばならないとか。

 一息で説明できないものを、それでも相手/自分が呑みこめるよう、その場で脳内できちんと組み立てて長々聞かせる/覚える必要がある(そんなん言ってらんないし聞いてらんない)とか。

 話がどうつながっているのか分からなかったので、意を決して「もう少しくわしい説明もらっていい?」と聞いてみたら、じぶんがぜんぜん気にしてないところの説明をされだしてしまったときの「う~ん、なんだか……おれの聞きかたも悪かった気がするし……向こうも色々こっちのあれに対して応えようとしてくれてる"気持ち"はたしかっぽいから、さらに言うのは……」というモンニョリ感だとか。

 話が噛み合わないと「こいつはばかなんじゃないだろうか?」と思ってしまうし、周回遅れで相手の意見の妥当性に気づいたが、その時にはすでにもうべつのトピックの話題としていて、かつ自論を強弁したあとでもあって、今さら後戻りするのもできない。

「おれはばかだし、絶対"こいつはばかだからこれ以上言ってもしかたない"と思われたにちがいない」

 という後悔だけがのこったりだとか。

 双方がともに同じ道を歩めた万々歳、という道が、「ここよくわからんよね」「わからんね」「お、おれらではこれ以上わからんよね……」「ねー……」という、意見交換する必要ないひとりだろうが複数だろうが答えが分からないだけという道だったりだとか……

 ……いろんな面倒くささがよみがえりますね……。

 

(7/14 タイトルにした「ネットで難点込みの話をする難しさ」について書き忘れてたことに気づきました。

 7/21 ということで続きです。)

  ……と、ネガティブな人間なんで、もうダメな点ばっかりが頭にうかぶんですが(笑)、まじでなんも実りがないということもなくて、めんどくさいながらも楽しい・充実感があるし、自分では気にしなかったり考えつかなかったことだって確実に得られもします。

 ぼくレベルだって手ごたえがあるので、知識や知恵や意欲にあふれたかたがたならより有意義な時間となるでしょう。

 

 ただ、こういうのって、クローズドな空間で、一緒に話し合うひとの趣味やそれまでどんなことを考えてきたかやら知ったうえでやったりすればこそだ……という感じがなきにしもあらず。

 

 自分とはちがう意見を聞いても、相手のひととなりを知っているのであれば「ふむふむ?」と拝聴する姿勢がとれるけど(あるいはぼくのように視野狭窄で突っ走るひとがなんか言ったら「おっソース無しの※要出典妄想になったな、聞き流しとこ」ってなったりもできたりするでしょうけど)、オープンで勝手知らない不特定多数がのぞける空間でおこなうと「あ゛??」と思いもよらないノイズがはいってしまう可能性が高くなりそう泣きがします。

 「ハイハイワロス」で一笑に付されたり鑑賞メーターで主語の大きい感想(※ぼく基準)を見て、肩ぶつけに行った約10年まえのぼく……(ぶつけにいったさきが礼儀正しいかただったので燃えずに済みました……)}、逆によくわからん角度の激詰めマジレス長文をよこされたりする可能性が高くなりそうな気がしますツイッターで見かけた主語の大きい呟き(※ぼく基準)を見て、長文をしたためた今月初頭のぼく……(ぶつけにいったさきが礼儀正しいかただったので燃えずに済みました……)}

(「マジなのはわかりました。わかりましたが、しかし、そもそもわたしが問題としているのはそこではないのです……」

 と思うものへ対応しなければならない際にあじわう徒労感と言ったらもう……)

 

 ほかにも不特定多数がみられている場だからこそ生じてしまう面倒くささはあると思います。

 たとえば(ある程度の飛躍や、過激な踏み込みもまじえた)ブレインストーミング的に・あるいは事実検証的に、一問一答でザックザク行きたい場面

 そういった場面でも不特定多数がみられるネットだと、燃えないよう内容を見直したり語調に配慮したり……というどうでもいい部分にリソースを割かざるをえなかったりする/妙に時間がかかったりするのではないか?

 あと単純に、ざっくりした応答でいいのに、文字がのこるせいで「しっかりしなきゃ」という思いもはたらいてしまうし。(うろ覚えのタイトルを調べなおしたりとか)

 

 あるいは、"個人的にはネガティブな評価を抱いていたが、他者からの反論を受けてじぶんの見当違いや知識不足からくる誤解だったとわかった"……みたいな体験。こういうのって他者と意見交換する醍醐味の一つですよね。

 しかし、これが不特定多数のやりとりになると、気づきを得られるメリット以上に、「こんなんもわかんねぇのw?」的なsageによるダメージが多く大きく出てしまいそうだなという気がします。

 

 サークル活動のメリットとして、同好の士があつまる場である。というのは、もちろん絶対あると思うんですけど。

 むしろ(同好というくくりの)異なるひとがあつまる場である。もっと言えば、頷けない――というか「あ゛??」というレベルで反感を持ったりする――他者の声を、とりあえず聞いてみようという態度になれる場である。というのも、大きな魅力であったりするんじゃないかなぁ……なんて思いました。

 

 

 ■読みもの■

  無料公開期間を利用し、『バトゥーキ』7巻収録以降分を読みました

tonarinoyj.jp

 WEB連載移行&7/17の8巻発売にあわせて、期間限定で全話無料公開中

 前述のとおり8巻が発売間近だったので我慢してたんですが、けっきょく7巻収録以降のぶんも読んでしまいました。

 4巻まで読んだ時の読書メモはいぜん書きましたね。5巻以降はかなりしっかりバトル漫画やってくれてる印象ですけど(ただし駆け引きする陣営が多い多い。錯綜模様が半端でない)、良い意味でへんな漫画だなぁと思います。

 バトルが相手がなんの格闘技経験者かバックグラウンドを探り合い、手を読み合い、ぶつけ合い、相手への理解となっていく。そうして現れた8巻ラスト相当(であろう)エピソードは、作者の前作『噓喰い』の終盤を見ているような凄まじい美しさがある。

 迫先生作品を布教するためのおためしセットとして『バトゥーキ』1~8巻はサイズ感といい(4000円ちょい)、味といい、密度といい、かなり良い気がします。

 ヤングジャンプ本誌からネット隔週連載へ移行してしまったことで、

「このさき駆け足になったりしないだろうか……悪軍編完結で"おれたちの戦いはまだまだこれからだ"になってもおかしくなくない?」

 という不安がないわけではありませんが、『ワンパンマン』だって二十数巻でて絶賛連載中なわけですし、迫先生が思う存分納得いくまで書き進めていただいて、行きつくところまで行きついていただきたいところです。

 

 

  『ヴィジランテ』80~81話を読む

shonenjumpplus.com

 

shonenjumpplus.com

 80話はヴィランの暗躍と一般ヒーローのコンパスキッドが光る回でしたね。

 79話で大技を打ち止めたエンデヴァーにたいするサイドキッカーズの冷却仕事が最初のページでえがかれていて、ここもよかった。

 『ヒロアカ』原典の描写からするとそういう段取りってありそうだよなと思っていた描写だし、『ヴィジランテ』内としても、高速で動けるがコース取りによっては小回りに難がでるターボヒーローのコースアウトを安全に終わらせるマット部隊などが描かれてきたので、「掘下げてくれるだろうなぁ」とは思っていたんですけど、しっかり描いてきてくれました。

 コウイチの接近は、4巻19話の不良トリオが蜂から逃げたときの手つきが変奏され(スプレー缶)、ここも「『ヴィジランテ』なら拾ってくるだろうな」と思っていた点ですね。

 

 81話p.8~9の見開きコマがめっちゃグッときましたね。ビルの壁を足場にしてコウイチとポップが向かい合う構図。

 単純に映えるコマだというのももちろんあります。

 一番グッとくるのはこの向かい合いの構図は、コウイチの"個性"である、地面を自由にすべれてバック走も思いのままだという能力と、そしてポップの宙を舞う能力とが地味にキッチリカッチリ活かされたからこそ生まれた構図だということです。

 コウイチ⇔ポップのふたりの視線がこれまでどんな具合にえがかれてきたのかを確かめてみたくなりました。

 

 ティーンエイジャーの真羽ちゃんが、双子アイドルの勝気なほうの子っぽい髪型をしているのがとても良いですね……。

 81話くらいまで10巻に収録されるとして、物語自体ももちろんクライマックスなんですが、10巻相当エピソードは、師匠による、コウイチとの過去のきっかけと、ヒーローにとって大事な不変性について語ることばが長々・具体的にあきらかにされたシーンがあり。

 さらにはポップによる、コウイチへ変わらず想いを寄せ続け未来について思い描きながらも、それを選びつづけられなかった(というか、何度も言おうとしたけどそのたびに尻込みしてしまう……というポップの変わりがたさを象徴するかのような)ことばが長々・具体的にあきらかにされたシーンがあり……。

 ……原作(脚本とネーム?)を担当する古橋秀之という、ことばをつづりつづけてきた職業小説家の個性が活きるシーンを、ここにきて畳みかけてきた。

 山中貞雄監督は「クローズ・アップショットは一本の映画に1,3個だけあるからこそ効果がある」との旨をおっしゃっていたらしいですけど、長期連載シリーズでの長ゼリフについて古橋氏へたずねても似たようなことが聞けそうだとおもいました。

 

 

 

0713(月)

 ■書きもの■ネット徘徊■

  書いてから読み、パクリっぽくなってしまったと凹んだもの

 先日の記事で追記したことイラストレーターさんの略歴・代表作紹介&『キャラクター選択』の夫のウザさ)が、冬木糸一氏の『スタートボタンを押してください』評ですでに話されていたことだったので結構びっくりしました。

 冬木氏の記事を読んだうえでじぶんが書いたことを振り返ると、現場の人らが自分⇔本という1対1の関係でいろんなポイントに気づいてアレコレ言ってわいわい楽しんでいたのに、周回遅れでぼくのような門外漢がやって来てやいのやいのと床屋政談の肴にする……という、世のなかの悪さがギュッと詰まったようなアレさがあり、たいへんアレですね。

 ぼくのは(そもそも初稿では触れてなかったことを追記で書いたという意味で文字通りとってつけた話であることに加え)「こういう話題だからこう話をしているんだな、disったからageを入れてるんだな」という二重三重のとってつけた感が・浅はかさが透けて見えてしまってよくないですね……。

 

 ■読みもの■

  大野ツトム著『テツヲベルッタ』1巻読書メモ(ぴんとこんかった)

 高校時代からの友人T氏が読んだのに釣られて1巻を読みました。

magazine.jp.square-enix.com

 序盤のあらすじ;

「おばちゃん! 恵姉ちゃん! 俺ハンツマンになる! 絶対!!!」

 犬頭の獣人と、そのパートナーである人間"ハンツマン"が街の平和を守ったりなんだりしている世界で、TV中継報道されたビッグワン黒鉄の活躍をまえにして主人公・徹が目を輝かせていたのが12年前のこと。

「は? そんなもん なれるわけないじゃんっスか」

 いまの徹は現実を見てラーメン屋の出前としてはたらき、古巣の孤児院へ給料を匿名で寄付する日々を送っています。そんなある日、ネコが車に轢かれそうになっている現場に遭遇します。このままでは轢かれてしまう、でも助けられるか!?

「速度は落とさない! そのまま右足を踏み込んで跳ぶ!」

 どこからともなく響いてきた声にしたがったことで間一髪ネコを助けた徹。

 今の声は何だったのか……これが、徹のあたらしい人生の第一歩だったのです……というお話です。

 

 読んでみた感想;

獣の顔が獣らしくてすてき!

 獣人のデザイン(顔)が獣らしい獣ですごかったです。

 マズルの長い獣女分も補充できました。

 ただ個人的な趣味としては、性格やふるまい自体に本物のケモノ(やケモノにわれわれが抱くイメージ)を反映させた作品※の方が好きではある。

(7/14追記 ※犬飼い経験のあるかたからすれば、『テツヲ~』の犬たちはふるまいレベルで「あるある~」「だよね~」というケモノ感・飼い犬感があるとのこと)
〔有名どころで言えば大正義『ズートピア』やディズニー映画『ボルト』みたいな。{オオカミ・ドーベルマンタイプの警邏が、どこからともなく聞こえた遠吠えに反射的に反応して自分も叫びだし、それを聞いたべつの警邏が反射的に反応して自分も叫びだし……と連鎖したり(『ズートピア』)

 正義感の塊のような犬ボルトは、バカがつくくらいバカ正直でまじめな性格で、世間を知っている家猫から見下されてオモチャにされたり、自由気ままな野良猫とそりが合わず口論をしたりするが、その最中でもたとえば猫から音の出るおもちゃを放られるとソッチへ反射的に反応してしまうバカ正直なところがあり。グルルルとうなって警戒中に、じぶんの尻尾が目に入ってしまえばそれが何か外敵だと思って追いかけてクルクル回ったりしてしまう。

 動物ホームビデオであつかわれるような動物らしいふるまいが、ボルトというキャラクターのバカ正直な性格をかたちづくる一要素として取り込まれている}
 マイナーメジャーで言えば久正人『ジャバウォッキー』みたいな。
{人類が繁栄するその陰で、恐竜が直立二足歩行種として進化していたヴィクトリア朝を舞台にした改変歴史マンガ。
 最新学説を汲んだ恐竜人の造形が魅力で、ヒト側についた寡黙なやさしい恐竜人の龍種をオヴィラプトルに設定する――発見当時の化石の状態から「卵泥棒」という不名誉な学名をつけられた小型獣脚類で、その後の研究でおそらく自分の卵を世話していただけだったらしいとわかった不運な恐竜です――など、芸コマな演出が光った}

 

 まだ1巻だから、巻を重ねると"らしさ"がより深掘りされたりするのかもしれず、印象がかわる可能性は大いにあります。

 また、この読書メモの③で言ったことは(③文中ではぼくにとって引っ掛かりを感じる表現として取り上げましたが、別角度から見れば)、主人公の"子供らしさ"が出たふるまいとも言えるもので、そういう意味ではふるまいレベルでの"らしさ"が現時点で描かれている作品と言えるでしょう。

 

②背景のかきこみがいちいち素晴らしい

 とにかく絵が魅力的だし、背景の書き込みを見ているだけでとてもたのしい作品です。

 冒頭カラーページのビッグワンガムのパッケージもすてきですが。

「白い歯って悪くない デンターホワイティ」

 という標語・社名と一緒に、白い歯を見せサムズアップして笑うハンツマン(=犬型獣人をパートナーにもつ人のこと。ヒーロー的存在)が写された看板がある*9とか。ほかにも……

 ハンツマン

 ご相談ください!

 人探し、用心棒、ボディーガード

 害虫・害獣駆除、運び屋、

 引っ越しのお手伝い、

 庭のお掃除 etc.

 ご依頼はお近くのハンツマン窓口  ハンツマンギルド

 又はハンツマンギルドまで      0120-XXX-XXXX

   スクウェア・エニックス刊(ヤングガンガンコミックス)、大野ツトム著『テツヲベルッタ』kindle版29%{位置No.204中 60(紙の印字でp.57)}第1コマ、町の看板の内容

 ……といった、いま・ここの街中で探偵事務所やら法律相談やらの広告で見かけるような文言をもりこんだハンツマンの看板が劇中の町に立っていたりとかして(ビッグワンガムと違って、フォントが事務的なのもよい……)、劇中独自存在であるハンツマンがどんな存在で、どれだけ世界に馴染んでいるか具体的なディテールが描かれていて楽しい。

 

③物語の展開にいちいち引っかかってしまった(Not for me)

 ただ、お話は、ぼくがどうでもいいところで突っかかってしまって、なかなか読み進められませんでした。
 最初、ツヲベルッタ』の主人公である徹を「夢をあきらめ、現実的な仕事についた」キャラに含まれるものとしてぼくは認識しました。

 こういうキャラは、まえにもあとにもいろいろなお話が描いてきた人物だと思いますが――以前オススメされ先日の日記で読書メモをのこした書館の大魔術師』もそうですし。さいきん話題の獣8号』とか、これまた以前の日記で読書メモをのこしたDo Race?』とかもそうですね――、今作の主人公・徹は、上述キャラたちとはちがって、いま就いた現実的な仕事をまじめにこなすような健気な性格ではないところが、良くも悪くも印象的でした。

shonenjumpplus.com

「子供時代はハンツマンになって孤児院を建て直す夢を持っていた」が、「いまは"現実的に金を稼ぐ事を"こころざしラーメン屋で出前をしている」
 ……と、ここまではフムフムという感じです。
「おい徹 自転車使えっての!」*10

 とのラーメン屋の大将からの忠告を「あー大丈夫っス」と遠慮する徹の姿をみてぼくは「ん?」となるも、直後の展開で徹が、ョジョの奇妙な冒険 第7部ティールボールラン』で馬相手にデッドヒートを繰り広げるネイディブアメリカンの走者サンドマンもかくやという感じにパルクールで道なき道を疾走してくれることで、「これはたしかに自転車よりも速そう!」と納得します。

 納得したと同時に、
「そりゃチャーハンは冷めない速さかもしれませんが、岡持すんごい方向向いてるよ!? 中身ぐっちゃぐちゃにならないですか!!?
 という別の問題が頭にうかぶ。

 しかも「ヒョー!!!」*11とか楽しんでるし。

 そんな出前も楽しいばかりではなく、道中、パッパ~!!!とクラクションを鳴らしながら1話の悪役である金持ちの車が後ろから追い抜かしてくるので「危なっ…」*12と徹はビックリすることになったりします。しかし、同じページの上のコマではギュオオオオオオと雑踏を縫うというよりもギョッとさせて足止めさせて爆走する徹のすがたが描かれており、

「ひとのフリみて我がフリ直せ! 金持ちの車は事前にクラクション鳴らしたけどきみは"通ります!"の一言もなく無言でトバしてるからもっと悪いよ!?

 となったりします。

 

 さて昼間のシーンで主人公・徹の人となりが描かれたあと、中盤の夕方~夜のシーンでは、悪役が孤児院を更地にしてハンツマン記念館を建てるべく法外な賃借料をふっかけ立ち退かせるくだりが描かれることとなります。

「待って下さい! 立ち退けといってもみんな行くあてなんて無いんです!」

 と訴えるグラマラスな院長の娘さんへ、悪役の金持ちは、

「ガキ共の世話なら貴方が体で稼いだらどうです? 私が紹介してあげてもいいですよ」

 と冷たく現実をつけつけた……かと思ったら、その院長の娘さんから吐き捨てるように「帰れっつってんだよこのブタの金玉野郎」とファックサインをされると、ゾクゾクと紅潮し「ブヒヒ!」と笑い、「その目たまらないですね!!! いいでしょう」と譲歩します。

「明日までに私から土地の権利証を奪えたらチャラにしちゃおっかな~~♡」

 ど、どういう理屈なんだ……? 暗にSMプレイのお誘いでもしているのか……?  後の展開を見るとべつに、そんなこともないらしい。

(院長さんや院長の娘さんサイドのその後の行動としては、「もう一度…明日 財前さんが来た時に頼んでみるしかないかね…」という院長の言葉をだまって聞いて家の中に戻るというかんじ。

 べつに、院長の娘さんが夜ひとりで金持ちのところに行ったりするわけでもなければ、ここでは子供たちを安心させて、彼らが寝静まったころ夜通しどこか別の孤児院へ子供たちの受け入れ先を探したりする……といったことが行なわれるわけでもないみたい

 

 主人公・徹は単身あの金持ちの店に殴り込みをしかけるんですけど、べつに権利証を奪おうとしたわけではなく、憂さ晴らしで一発殴りたかっただけだという真意があかされます。(ということで、このエピソードにおいて、ふらっと訪れ解決策をもってきたドーベルマン氏以外は、だれひとりとして金持ちが出した救済条件をなんとかクリアして「孤児院の窮地を救おう」と頑張った人物がいなかったということになる……)

 この行動自体はたぶんハンツマンらしい行動なのだろうということが読み取れます。

 なにせ前段で神頼みならぬハンツマン頼みをする孤児院の小さい子へ、院長の娘さんがさとした「ハンツマンはな 人から物を奪ったりしないんだよ」という教条どおりの行動とも言えますから。

 読み取れはしますが、それはそれで「たしかに奪ったりはしなかったけど、そもそも殴るのはオッケーなのか……?」という別のモヤモヤが生まれもしました。

 

 ……そんな感じで、自分にとっての引っかかりポイントに毎度毎度ぶちあたってしまい、お話にじゅうぶん集中できませんでした。

 ハンツマンはべつにヒーローというわけではないし{=だから、ひとから物を盗りはしないとしても、嫌いなやつをぶちのめしたっていいし*13。主人公だって、現実を粛々と受け入れるけなげなひとではなく、夢をあきらめたようでいてその実ほかのことができるのであればしてみたい……という感じの子供です(=だから、仕事は鼻歌まじりでこなしたっていい)

 提示された情報からすれば、なんらおかしいことはなく、モヤモヤをかかえているぼくがおかしい。

 

 今回の読書でかんじたモヤモヤというのは、ぼくが劇中設定・描写について、容れる箱を間違えたために生じた部分がかなり大きいと思います。 

 どうしてそんな誤読がおきてしまうのか?

 さっするにぼくにとって今作のストーリーは、情報量が多すぎるんだと思います。

 きっと背景の書き込みとおなじく、大野先生の頭の中には、ハンツマンとはなんぞやというのはもちろんのこと、それぞれのキャラにそれぞれのバックグラウンドがキッチリガッツリあるんじゃないでしょうか。

 きっと、そのキャラであればそう感じそう思いそう考えそう動く……という確固たるキャラ像にもとづいて大野先生は各場面を描かれているんだと思うんです。思うんですけど……いっぽう、読んでいるぼくの頭の中に「このキャラはこういうキャラ」「ハンツマンとはこういう存在」という劇中存在にたいする確固たる認識が出来上がっているかというと、そうではなかった

 わからないなりに「こういうキャラなのかな?」「ああいうキャラっぽいな」と思いながら読むわけですが、そうしてアタリをつけたところで、ざっくり見当をつけた性格類型にはおさまらない別の一面(に見えるもの)があれこれ出てくることになる。

 こうした作り手側と(読者である=)ぼくとの認識ギャップに出会ったときに「そういう一面もあるのね」とこれまでの認識を更新するんでなく、「ど、どういうことなの……?」と置いてけぼり感を味わってしまったのが、ぼくにとっての『テツヲ~』の読書体験でした。

 

 美点もアレコレあったわけですが、合う合わないというのはどうしても出ちゃうものですね……。

 正直言ってあんまりピンとくる作品ではなかったんですが(笑)、ただ、そもそも(たいへん失礼なことながら)存在さえ知らなかった作品に手をのばしてみたり、1話切りせずもう少し長く追ってみて自分の感性を拡張しようとしてみたりはできた……という点で、楽しい読書でした。

 じぶんが楽しんでいる作品を、ほかの人がそうでもなかったりすると素朴に萎えるもので、勧めた作品となればいっそうツラくなるもんですが、T氏はこれに懲りずほかにもどんどんオススメしてほしい(悪玉の金持ちより主人公よりもっと悪い発言)

 

 

 

 

*1:早川書房刊、『SFマガジン 1975年11月号』p.44上段1行目、パミラ・サージェント著『女性とSF』 

*2:早川書房刊、『SFマガジン 1975年11月号』p.45上段14行目、パミラ・サージェント著『女性とSF』 

*3:早川書房刊、『SFマガジン 1975年11月号』p.44上段22~23行目、パミラ・サージェント著『女性とSF』 

*4:早川書房刊、『SFマガジン 1975年11月号』p.44上段23~26行目、パミラ・サージェント著『女性とSF』 

*5:早川書房刊、『SFマガジン 1975年11月号』p.51下段最終行~p.52上段2行目、パミラ・サージェント著『女性とSF』2より

*6:早川書房刊、『SFマガジン 1975年11月号』p.51下段17行目~、パミラ・サージェント著『女性とSF』2より

*7:〔現実の明治でおきたSFに対する論争と、劇中の明治でおきたSF内での論争とか。

 ツイッターのひとが言っていた、「作中作の電線切り太郎、あれってじつは電線敷設にかんする当時の明治人の迷信を汲んだものでは?」という話の異同とか。

{ざっと2、3冊当たった感じ、べつに電線が血を吸うと思われてたわけではないっぽい。

(ちゃんとメモってないのでうろ覚えだけど、絶縁のための黒い皮膜塗り、その材料が血と思われていて、「"血税"として接収されるのでは?」みたいな危惧があったらしい)

 そもそも、電線からなにかが飛ぶという考えは、電信敷設初期のひとびとの頭の中にはないのかも、とも思いました。

(電線を通って郵便が出てくるというイメージをするひとはいても、電線から何か出ててそれによって周囲のひとが何か影響されて~みたいな空想にかられたひとのお話は、いくつかの本のなかには出てこなかった)、}〕

*8:(おそらく歴史のガチの研究者なんだろうなと思われるかたでさえ、「なにが滅茶苦茶かって歴史的事実を除くとほとんどモデルすらいない。列挙される人名、実際にはこんな人間はいないんですよ。」と、"じぶんの知識との照らし合わせ"で「モデルすらいない」と言ってのけられたりした)

*9:スクウェア・エニックス刊(ヤングガンガンコミックス)、大野ツトム著『テツヲベルッタ』kindle版8%{位置No.204中 14(紙の印字でp.11)}第2コマ

*10:スクウェア・エニックス刊(ヤングガンガンコミックス)、大野ツトム著『テツヲベルッタ』kindle版8%{位置No.204中 16(紙の印字でp.13)}第6コマ

*11:スクウェア・エニックス刊(ヤングガンガンコミックス)、大野ツトム著『テツヲベルッタ』kindle版8%{位置No.204中 17(紙の印字でp.14)}第4コマ

*12:スクウェア・エニックス刊(ヤングガンガンコミックス)、大野ツトム著『テツヲベルッタ』kindle版9%{位置No.204中 18(紙の印字でp.15)}第6コマ

*13:(1話でドーベルマンは轍に「力 栄光 正義 責任」がハンツマンになると得られると言うけど、犬・ハンツマンによって倫理観などはマチマチのようだ。のちのエピソードでは、出店の料理を同時注文して、子供に譲らず自分の食事にしようとしたので、ケンカで決着つける……というそこらのやから極まりないハンツマンが登場する)