こんにちは~日記です。1万6千字⇒2万字らい。『ZETMAN』を再読・最後まで読みクソデカ石柱に魅了され、ミエヴィル氏紹介のピクチャースキュー(悪凝り現代ピクチャレスク)映画を定価500円でゲットした週。{←を伝えたくて、火~日までの6日間の記事にしてしまいました(いつまでセール?中かわからんので)}
※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※
0616(火)
宿直明け日。
夕ご飯食べたら即寝てしまい、12時に起きて風呂入って、最新刊のために最初から読み直そうとして開いたまんまになっていたAmazonマンガ本棚版『ほしとんで』(1巻1話)を閉じようとして「でもちょっとだけ……」とクリックしたらけっきょく最新3巻まで全部とおしで読んでしまって2時過ぎに寝ました。
夕飯後~12時までの就寝について。じぶんが頭うごいてないとなるとこうなる、という見本として付記しておくことにします。
そもそも最近は、布団カバーを結んで綴じるのが億劫となって、
毛布
布団
布団カバー
自分
……という風に積むだけの日もままあったんですけど、厚くなってきて毛布がなくなった結果(と言ってもベッド脇にのけただけで押し入れにしまってません。ずぼらだから)、寝相に"ただのっけただけの布団&布団カバー"が耐えられなくなってきてしまいました。
また、日中の足のムレも気になるようになってきました。通気性をよくしたい。
そこでぼくは前述のずぼら就寝を改良しました。
カバーの長辺の両端をむすんで輪っかにして、そこへ横にした布団を挿し込むんです。こうすれば自分とふとんは触れ合わないし、ふとんカバーがどこかへ出奔することもありません。(この時点でだいぶ頭が回ってない)
宿直前の日に思いついたこのセッティングでそのまま寝ようとするも、その日はまくらカバーを洗濯にだして、まくらも剥き身だったことに気づく。自宅に帰ってきて2,3時間着ただけの上着をまくらに乗せてまくらカバーの代わりにすることとしました。
冷房の寒さで目が覚めたけど、体が就寝モードから戻らずどうにもできない状況の完成です。バカの就寝! 風邪ひかなくてよかったですね……。
■読みもの■
本田著『ほしとんで』3巻まで読書メモ
『ほしとんで』は、芸大の俳句ゼミを舞台にした作品で、俳句創作の四苦八苦も興味ぶかいし楽しいし、俳句自体の面白さも伝わるし、創作に対する姿勢もすごい(スポ根熱血・マッチョイズムがうまく回避されている。文化系でも無縁じゃないそうした匂いがここまでしないのはすごいことだ)。
なによりダイアログですよ。
登場人物がわいわいやってる会話を読んでいくだけでとてっつもなく楽しいんですよね。
中学生時代にじぶんの文章がなにか評価されたが、そのときの賑わいが黒歴史化している文学青年を主人公として……
趣味系漫画オタクで狭いコミュニティを築いてる男オタク。
小説投稿サイトに自作を投稿してる孤高の女オタク。
日本生まれ日本育ちだが、外見ゆえにやたらと「日本語を話せること」をほめられ、はたしてじぶんの文章が評価されているのかじぶんが文章を書いたことが評価されているのか分からなくなってしまったハーフの女学生。*1
芸術にとくに興味ないけど、近所でたまたま見学に来たことで、"老若男女、子連れでも心地よくすごせる"校内の雰囲気に惹かれて"生涯学習"として大学の門戸をたたいた社会人経験アリの子連れ主婦学生(ただし、お客さんとして訪れたときのようには"老若男女だれもにひらかれた"空気はなくて、突然グズったりする幼児と一緒に講義を受けることを由としない講師もいる)。
昔かたぎの俳句ガチ勢の先輩、俳句のプロである非常勤講師などなど……が、それぞれの"らしい"バックグラウンドや思考回路・語彙で、やいのやいのと集団で会話する。それ自体がとても面白い。
句(題材、語彙の選択、句の組み立てかた)も、上述したようなキャラのそれぞれ"らしさ"が窺えるもので、劇中の句作パートの外の部分が、句作パートをより面白くしていて、その正の循環がまたきもちよい。
句作も、先生の評価がすべてではない多義的・複数の観点が拾われてとても良い。
句作パートのながれは、だいたい……
講師からの出題(例①;定められた5・7・5のうち空白にした一語をじぶんで埋めてみましょう。 例②;お寺にみんなで行って、5・7・5全部じぶんで考えてみましょう)⇒ゼミ生の句を生み出すまでの散策⇒ゼミ生の句発表⇒句会参加者による感想⇒プロ俳人である講師の講評・推敲……みたいな感じです。
こういう流れなので、物語・作劇の舵取りによっては、ダメなものが良くなっていくという、下から上へ上昇するだけの構造が生まれそうなものです。
じっさいゼミ生の詠む句は、(劇中で講師が講評するとおり)俳句らしい型としてはけっして美しいものばかりではない(季語や切れ字が複数あるとか)。その後につく推敲例は、「なるほど~」と頷けるものではある……。
でも『ほしとんで』の良いところは、推敲まえの句だって、各キャラが俳句の世界とはちがう畑から持ち寄ったというだけで、それはそれでしっかりと良い素材・おいしい料理となっているところです。それ単体でしっかり面白いんですよね。
きれいな俳句では取りこぼされそうな語彙が拝めたりして、それもまた捨てがたい魅力があったりする。
先日発売された3巻では、作例がふえたことで、ゼミ生たちの俳句・俳句活動にも経糸がみえてきて、バックグラウンドにもとづく一貫性と変化が如実でなおのこと楽しくなってきました。
4巻5巻10巻とエピソードを重ねていって、どこまで飛んでいくのか見ていきたいものです。
■書きもの■
先週の日記をアレコレ書き足す
先週の日記をあれこれ追記しました。
『好きな子がめがねを忘れた』『図書館の大魔術師』読書メモは――さすがに、同じ記事内の『ヴィジランテ』79話のような力の入れ方はしてないものの――、ほかの読書メモと同じ程度のものを書いたつもりでした。(いつもどおりに気力体力をついやしました)
ただ、投稿ボタンを押してから改めて読みかえしてみると、
「え゛っ」
と動揺する内容だったんですよね。
作品自体への言及は全然なくて、ブログを読んでるひとにとっては誰だかまったく知らないzzz_zzzzの個人的な友人との話題が主になってしまって、だからといって身辺雑記として読んでもべつに面白いわけではなく。オチというオチがない。
(しかも別にzzz_zzzzのブログをそのひとが読んでるわけでもないから、身内だけに通じる内輪話とかでもないわけです。通じてないから……)
「うわぁコレってぼくが『食べログ』で"勝手に読んでるのはこちらなのに身勝手な感想で申し訳ないんですけど、ぼくが知りたいのは料理やお店のことで、レビューしているあなたのことじゃないんですよね……" とNO THANK YOU顔をうかべたり。
ひどいときは、"自我が肥大化したレビュアーだ!!" なんてばかにしてきたやつじゃん!
じぶんで書いてるときには気づかないもんだな~同族嫌悪だったんだな! 伏線回収! いやいや食べロガーはひとさまを馬鹿にしてないから、こんなんといっしょにされたくないだろうよ……ゴメンなさい……」
と、うなだれ、恥ずかしくなったので、あれこれ作品について書き足しました。
この日記の上の項では、頭や体に余裕がないとどれだけ寝床をすぼらにするのか、じぶんの下限があきらかとなりましたが。そんな状態のにんげんの書くものが、ずぼらでないわけがない。
「先週の日記のあの虚無。あれがぼくの下限というか、アベレージなんだなぁ」
と(何度目かの)追記で思いました。
日記を投稿しつづければblogの廃墟化はとりあえず避けられるけど、しかし、そうするとキャパオーバーをむかえ出涸らしとなった人間の虚無が出力されることとなり、こんどはサイト内部の空虚化という別の問題があらわれる。貧すれば鈍す。
追記しているうちに、作品の話もそれなりになったし、身辺雑記としてもいちおうオチらしいオチが用意できて棚ボタでした。寝かせることって大事だわぁ。
(でも表に出さず書いていても、今の形になっていたかというと、それはそれで「?」なのですが)
そもそも話がうまくなくて(論理的な組み立てができない・オチをつけられない)、トピックとして取り上げるものの入出力だって速くもなければ深くもない人間が、日記をつづけるとどうなるか。書くものがないのに書きつづけると何が出てくるのか。
その(わるい)サンプルとして、なかなかよい代物だったと思います。初期アップの文章を別個にコピーしておけばよかったな。
……さてそんなこんなで書き足された両作の読書メモですが。
これ、blog開設当初であれば単体の感想記事として上げていただろうものじゃないでしょうか?
よっし感想記事のテンプレ文章を足して整えて、単体記事にしちゃいましょう。これがけがの功名ってやつですね~
{日記以外の記事を投稿したいけど、日記しか書けてない状態のつづいたひとがどう転ぶか、その(わるい)サンプルってやつでは!?}
0617(水)
■身の回りのもの■
ソシャゲに語彙が適応されてきた②
ことしの7月に刊行されるという、伴名練氏が編者となった日本SFアンソロジー第二弾2冊。それについて「伴名練厳選」というツイートを見かけました。
シャニマスをやるようになったおかげで、
小説ベストアンソロジー=ピックアップ復刻限定ガチャ
という等号がむすばれてしまいました。(識者から増村ガチャ、岩波ガチャなどという言を聞いてきたので、その連想もかなりつよい)
283プロのシャニマス新規イベント告知動画/ガチャ引き画面のパロディで、870(はんなれん)プロによる日本SFピックアップ復刻限定ガチャ『日本SFの臨界点』とか{出てくる札(作品)がことごとくSSRのやつ}、だれか作ってくれないかな。
その関連(?)だと、バベルうお(aeuuo)でたべるんご(aeuno)のうたとか歌えそうですよね。
{界隈の人が語尾(文頭?)にうおうお言ってるからその連想だと思う(ンゴー)}
ほしいのはわたしじゃない
ある事物への言及をネットサーフィンしているとき、ぼくが一番にもとめるのは、それが一体どういう事物なのかを記した確度の高い概観です。
言及者の読み(の独自性)はあったら嬉しいけれど、その事物に関係ない言及者の身辺雑記は(この日記の上のほうで書いた『食べログ』レビューの一部に感じるみたく)ひどいときはノイズのように思えてしまう。
たぶんある事物名でググってこちら(の記事)にやってくるひともまた、上のような優先順位で情報をもとめているでしょう。
・そこまでわかっているのに、なぜ事物と無関係な話をしてしまうのか?
⇒簡単だから。
(事物との整合性を考えずに好き勝手はなせるから。じぶんが感じ思い考えたことだから/あらたに何か感じ思い考えた部分が少ないから)
→事物と無関係の身辺雑記ならなおさら簡単。(さらに頭を動かさずに済むから)
⇒勘違いから。
(あまりに強すぎて共感を誘いさえするインターネットの"強い"パーソンの"濃い"論考にあてられて、
「おっアレやコレっておれが密かに楽しんでたり思ってたことじゃん! じつはこんなに冴えたソレだったのか! おれの面白人生やつよつよ感性を形にのこしたい~~!!」
となっただけだから。
この勘違いアクションが起きてしまう原因は、たぶん以下なのではないだろうか。
強いパーソンの強いことば・思考を100とするなら、ぼくと重なる部分は1とかそこらなのだが、その1がぼくにとっての100%なので、「ぜんぶ自分が考えたこと! 一緒!!!」となってしまい、そういう悲劇がうまれてしまう)
⇒縮小再生産/要約への抵抗感・引け目から
{文字主体の本からインプット受けた者が、文字主体のブログ(感想文)へのアウトプットすると起きやすい。あと、単純にセンスがないけど臆病なひとにとっても頻繁におこる。
受けとったものについて誤読がないよう正確に/取りこぼしがないよう詳しく書こうとすればするほど、その感想文は要約となり、しまいには引用の域をこえた抜き書きとなり、
「感想というよりもリアクション元の筆者の成果をじぶんは横取りしているのではないか?」
「横取りというか横流ししているのではないか、リアクション元への営業妨害となっているのではないか?」
という危惧(や気づき)が生まれてしまう。
こうしたアクションが、インプット元に誠実である結果かどうかはよくわからない。
インプット元をよく咀嚼したし分析もしたし優れた表現力さえ持っているひとは、どこを取捨選択すればインプット元の味をより強く伝えられるかもわかっている。そんなひとからアウトプットされたそれについての文章は、もととは一見異なる様相なれども、もとのものを濃縮したようなものとさえ成り得る。
だから、上のような「俺の感想ただオリジナルから数文抜いてコピペしただけじゃない?」みたいな不安は生まれないし、たいていの受け手よりもはるかに誠実である}
・記録としては?
⇒じぶんの感じ思い考えたこともたぶん残しておいたほうがよい。
→忘れるので(忘れてしまうくらいに、とるにたらないことだから)。
→じぶんのことなので(ほかのひとは書きようがないから*2)。
→その日の体力気力のバロメータになるかも。
■読みもの■
伴名練著『秘密の本』読書メモ
伴名練はいつかぼくに陰毛を渡してくれるかもしれない。
好きな物語と出会えるサイト『tree』による連載企画『Day to Day』に掲載された伴名氏による掌編『秘密の本』の読みました。
詳細はそのうち書きますが、いやいや創作・オタク界隈で聞くパンツ脱ぐ脱がない論じゃなくて、先日の日記で記したような文脈です。(日記のリンクがなんかうまく飛べないな……『ビューティフル・エブリデイ』2巻の感想でふれた話題)
0618(木)
■インターネット徘徊■
アクセス解析から見るグーグル先生のお疲れ具合
はてなblogのアクセス解析によれば、直近1000件のうち80件くらいが『少女終末旅行トリビュート』の感想記事へ跳んできてくれたかたで、「おお~人気なんだな~」と素朴に思っていたんですけど、これはどうやら「少女終末旅行 感想」でググると上から5番目に出てくるためみたいですね。
グーグル先生も昨今のあれでお疲れなのか……?
0619(金)
■社会のこと■
ふりだしにもどる
……社員から熱が出れば、その会社はふつうの会社であれば当然もちあわせてるふつうの倫理感から、所属する自治体の保健所に連絡し、指示をあおぐ。
保健所はふつうの保健所であれば当然もちあわせてるふつうの返答としてその社員にPCR検査をうながし、会社にたいしては安全措置のため結果が出るまで、くだんの社員と接触あった部署とそうでない部署とを隔離するように指示を出す。
会社はさまざまな対策をする。ほかの社員とは別経路から出退勤をしてもらう(職員用玄関やロッカールームをべつべつに用意する)・共同の食堂もいかず食器も使い捨て可能な紙にあらため、ゴミも共同集積場へ置かずにしばらく部署内倉庫で保管する……などなどと、(保健所がもとめる?)最低限の対応でもやることは(ふつうの業務をこなしているなかでさらにおこなうには)多い。
また、くだんの部署に出入りしていた第三者に対しては、「これこれこういう経緯でPCR検査をうけた者がいるので……」と事情説明をする。ふつうの会社の当然の対応だ。
隔離された部署の社員は「もしかして……?」という不安だけでもたまらないのに、そんな特別業務をしていると肉体的にも精神的にもすり減っていく。
「べつの出退勤ルートを取ってもらう」と一言にいっても、会社はそんな導線が確保できるようなファジーなつくりをしていない。だから、災害時の避難経路として用意された非常用外階段などをあてられることとなる。エレベータをつかっていた高さをじぶんの足で昇り降りする。日陰で、あまり掃除のいきとどいていない階段は雨でよくすべる。
肉体的身体的にすり減れば体調をくずす。体調不良のサインは下痢・血尿・嘔吐さまざまあるが、そのなかでも頭痛や発熱はいちばんよくある例だろう。
だれかが発熱する。そのひとが会社員であれば仕事を休む旨を連絡する……
ふりだしに戻れるのはいつまでだろう。
(と書きましたが、日によっては「"まで"? 変な言い方だ、"戻れるのはいつになるやら"でしょう?」と考えるときもあり、ぼく個人のなかでもふりだしをどこに置いているのかあやふやです。
この日記を書いたときは、この日記の文脈における「ふりだし」地点が念頭にあって、「余裕のない人員配置によるサイクルはそのうち破綻がくるのでは」と思って「まで」と書いたけど。
「いつになるやら」と首をかしげた時分では、日記の内容と無関係な大文字の「戻れる」「ふりだし」ばかりが念頭にあって、それを「流行り病がはやるまえ/終息」だと思っている)
0620(土)
仕事休み。
段ボールから本を漁り、kindleの積み本をくずしました。昼ごはんののち昼寝して、夕ご飯の時間に起きてそこから1時すぎまで起きてました。
■そこつもの■
サイン本を誤って売ってしまった
いい機会だからと古橋秀之作品の読み直しをしようと思ったものの、買ったはずのいくつかの本が見当たらなりませんでした。引っ越し時の持ち物整理の段ボールにまぎれこんでしまったんでしょう。古橋作品はなにひとつ売るつもりがなかったので、ずぼらさに驚いています。とくに『蟲忍』は文学フリマで購入したサイン本だったんですけど……。
2月のさがしたけど見つからなくて「売る本にまぎれこんでしまった」とガックリするも再度探してみたら見つかった本みたいに、そのうちひょっこり出てくるかもしれません。
でもいつ出てくるかな。とりあえず買ってしまうか……?(夕方追記)買いました。
■読んだもの■
桂正和著『ZETMAN』12巻まで読書メモ
未読の古橋秀之作品(スピンオフ小説『ALPHAS ZETMAN ANOTHER STORY』)を読むためにその原典である今作を消化中です。
とにもかくにも書き込みのすごさですよね。
たとえばこの13話「小葉」〔『ZETMAN』2巻kindle版5%{位置No.272中 13(紙の印字でp.10)}5コマ目〕の、同級生の女子が「一歩通りをまちがえるとヤバイ連中がいる」と前段で言った区域に踏み入れた場面。
背景のウェザリングがとにかくこまかい。
タイルの端が割れ欠けていたり、コンクリにヒビが入っていたり、くすみ汚れている……なんてのはもちろんのこと。
隅には空き瓶などがポイ捨てされており、シャッターにはストリート・グラフィティ的な落書きが複数の筆致でなされ、階段の蹴込にはステッカーが貼られ(ここがすごい!)、しかもそのなかには(剥がされたのか)もはや角しか残ってないステッカー痕もある。
桂先生&スタッフの圧倒的作画力でもって、一歩通りをまちがえたらどれだけヤバいかを分からせてくる作劇。たまらないですねぇ……。
▼「何よコレー!!迫って来るよ!!」廊下を満たすクソデカ石柱;チャチな設定を神作画で悪夢にかえるエクストリーム競技としての『ZETMAN』
作画陣の実力があまりにすごいので、あらすじだけだとギャグ漫画か『風雲たけし城』にしかならない状況が、本編ではちゃんとシリアスなシーンとして成立してしまっているからおそろしい。
その最たる例が、『ZETMAN』4巻第45話。劇中有数の会社アマギの御曹司でイケメンでヒーロー願望のある青年・高雅に対し、アマギへの復讐に燃えるマッドサイエンティストがかれの正義感をテスト・訓練するくだりでの一幕です。
45話のあるページ〔kindle版35%{位置No.246 中86(紙の印字でp.83)}〕でえがかれるのは、高雅の名前にホイホイ釣られて拉致されてデスゲームに参加させられた女性たちのもとへ、石でできたクソデカい角柱が、床がしまわれ奈落となったホールの一室からせり上がり、さらには戸の向こうの廊下へと押し出されることによって、人々へと迫り潰さんとする~なんて、上述シーンの記憶が抜け落ちた状態で第三者から先述したあらすじ聞かされたら、
「おまえ『ZETMAN』は”「正義」とは何か?「悪」とは何か?そして、「ヒーロー」とは何なのか? 桂正和がデビュー作『ウィングマン』から追求するテーマを、よりソリッドに描くSF大河”(ヤングジャンプ公式サイトの紹介文)だぞ?
"真の正義とは− 巨匠・桂正和が10年の時をかけて贈るニュー・ヒーローSFアクションの金字塔!"(TVアニメ版公式サイトの紹介文)だぞ?
ばかにするのもたいがいにしろよ! ラッキーマンじゃないんだぞ!?」
と反発すること間違いナシな状況なんですが。じっさいマンガを読んでみると……
……1コマ目、画面右のメカニカルな機構によって押し出されたクソデカ石柱が、画面上のシャンデリアにぶつかり、電灯を揺らしあるいは割って、割れた灯の破片を一部は進行方向に飛び散らせ、一部は雪のように下方へ降らせ、画面左では角柱の影がホールの壁の凹凸にそって落ちている。
4コマ目では女性たちは身体をのけ反らせたりこわばらせたり、両手を反射的にまえへ突き出したりとさまざまな拒否反応をしめす。
コマに描きこまれたディテールによって、ふしぎと緊張があるんですよ。
(こんなことを書くとおり、桂先生を筆頭とした神作画陣をもってしても、初期設定のアホらしさを全て拭い取れるわけではありません。ないんですが)むしろこの状況のアホっぽさが、マッドサイエンティストがいかに誇大妄想狂か示す一描写となり、エピソード全体のたちの悪い夢じみた異様な雰囲気を盛り立てている。
いかにチャチな大筋や事物を、画力・演出力によってどこまでもっともらしく見せられるか? 『ZETMAN』は、なんかそういうエクストリーム競技をしているようなシーンがところどころあって、なんとも不思議な作品だなぁと思います。
〔作家の実力不足によってチャチくなっているのではなくて。
『ZETMAN』は、シミュレーションリアリティによる偽映像であるとか、のちに仲間に拍子抜けされるマネキンをもちいた詐術{だけどそれなりにリアルな。すくなくとも特別にマネキンらしい意匠がほどこされているわけではない}であるとか、作り手が意図的にチープなものを劇中のモチーフとして選択しているようなフシがある。
それも、容易に「高尚」な物語意味に還元できないチープなものを。
チープにもさまざまあって、なかには、チャチさで鼻白むまえに"異質なもの・悪夢らしさ"が先立つモチーフというのもあります。――たとえば遊園地のマペットや、縁日のお面、録音された笑い声を延々ループするサンタといったクリスマス装飾、前時代の出来のわるい剥製、CMのインパクト優先の歌や楽しげなことだけが伝わる子供向け商売のCM歌などみたいな{ティム・バートン『バットマン リターンズ』の劇中企業のマスコットのモニュメントやら。『ヤングジャンプ』作品で言えば『GANTZ』の田中星人の人形っぽさ、『ジャンプ』作品で言えば『チェンソーマン』のハロウィン連呼とかサンタクロースに操られた人々の人形っぽさみたいな}、物語のなかで"実はこわいもの"として出がちなモチーフ。
そういうものは『ZETMAN』にはほとんど出てきません。
{そしてそれは――桂先生の意図とかは全く知らないけど――ぼくにとって正しき悪夢で、リアリティがある。
皆さんはご自身で悪夢を見たとき、市松人形がズラっとならんだりすることってありますか? ぼくはないです。
過去に起こったできごとの再現のようで、よくよく振り返るとどこかネジが外れていたり繋ぎが雑で、目が覚めてから思い返すと、「なぜそれを夢だと気づけなかったのか」と不思議で仕方ない。しかし寝ている最中はどれだけ「いやだ」と思っても抜け出せない。抜け出そうとも思わない。だってその時のぼくにとってはそれが紛れもない現実だから、そもそも抜け出せるものだなんて夢にも思わない(文字どおり)……そういうものがぼくにとっての夢です}〕
『TOUGH』の猿渡哲也先生とか『D-LIVE!!』の皆川亮二先生もそうだけど、画力を持て余した神々たちの遊びなんでしょうかアレは。天才はようわからんところへ行きよる。
▼謎多い作劇・デスゲーム系の作劇で、謎(を占有する側)やゲームマスターに"固有の顔"があるとヤキモキする? ;ヤキモキ感について考える①
さてここからはちょっとめんどくさくて厄介なことをグチグチ言います。
ただ、これだけゴチャゴチャ言っても、値段ぶん楽しんでいるというのはお伝えしておきたいです。
1巻を読んでみて楽しめたかたは続きに手を出してみてよいかと思います。ジンのエピソードがおわると、第一話プレタイトルでジンに銃をつきつけたもう一人の主人公・高雅のエピソードがはじまります。
高雅は、ジンとだいぶ違う性格・境遇の持ち主で、かれのエピソードがひと段落ついた5巻あたりまで読んでなおも面白かったひとであれば、20巻まで楽しめるんではないかと思います。
『ZETMAN』は、掲載誌である『週刊ヤングジャンプ』をぼくが毎週買っていた中高生時代に連載されていた作品で、そのころは、
「休載期間がそれなりにあったりするし、載っててもダブル主人公みたいな感じであっちをやったりこっちをやったり週刊ペースだと話があまり進まないんだよな。コミックスを買ってまとめ読みしよう」
と途中まで買っていました(ものの、ズボラがわざわいして、はたして自分がどこまで買ったかわかんなくて中断してました)。
再読すると、記憶していた以上にゴニャゴニャしていて、お話のさきはビックリするほど見えないし各エピソードはアンチ・ヒーロー/アンチ爽快感という具合があって辛勝・犠牲はつきものだし、正直「よく連載20巻まで続けられたなぁ」と思いました。
たとえば8~10巻のDQNな虫型改造人間(劇中の用語でプレイヤーとかエボルとかと云います)とのたたかいは、改造人間側ヒーローとヒト側ヒーローというふたりの主人公が共闘し・ついにふたりとも素性を明かし合った……という所がストーリーの大きな動きです。
それだけなら良い話なんだけど、骨格や肉付けがだいぶ面倒くさいものになっている。
バトルの起点は、人類に反逆する改造人間(プレイヤー/エボル)の知的なタカ派が、すごい改造人間(ゼット)である異形側ヒーローである主人公のすごさの秘密を解き明かすべくバトルを第三者のDQNな改造人間にけしかける……というものです。
で、主人公がすごさを発揮できなかった結果としてDQNにヒロインが襲われる(心停止したり/レイプされそうになったり)/主人公は瀕死になるも、すんでのところで知的なタカ派が介入してヒロインはレイプをまぬかれ、主人公は知的なタカ派の差し金によってすごい改造人間としてのパワーに覚醒し、駆けつけたヒト側ヒーローとの共闘によりDQNを倒す……というようなことになっています。
なんというか、黒幕である知的なタカ派改造人間のサジ加減でどうにでもなる茶番を見せられている気分になってしまう。
……こういう、第三者の陰謀(フレーム・アップ)に対して主人公が乗ったり乗らなかったりするというのが、何度か出てくるんですけど、『ZETMAN』はけっして「大勝利! 100%相手の企みに乗りませんでした!」という展開にならないし、なんなら「結果的には相手の思うどおりに動くことにしました……」ってな成り行きを迎えることもままある。
まとめ読みしてるからいいけど、(2巻ぶんが刊行される時間を1年として)1年間ストーリーを追いつづけてこれというのはだいぶ疲労感がたまるんじゃないだろうか。それも毎度のことだし。
11巻~12巻の"赤い石"強奪までの過程(129話~138話)も徒労感がすごい。
①秘密のアジトにて、じぃちゃんの形見であるペンダントが、改造人間にとって大事なものだと知らされる
⇒②ペンダントをなくし、ヒロインが拾ったらしいことまではおぼろげに記憶がある主人公は、改造人間の"目"がある可能性を理由にはぐらかす
(この時点で、さまざまいる改造人間のうち、じぶんの身体を分離させドローンのようにできるタイプが複数いることがわかっている)
⇒③a主人公の味方となった(改造人間の創造主で自分たちの檻から抜け出し人類に仇なすかれらを軽蔑しているが、主人公にじぃちゃんとおなじく愛着をもっている)金持ちが、主人公の気持ちを汲み小休止をはさむ…
⇒③b…と見せかけて睡眠薬をのませ、記憶を精細に映像化するハイテクスキャナーにかける
(主人公が②のようなふるまいをした真意を推察することもしなければ、だいじな情報をあらためるまえに秘密のアジトの改めての精査などはしない)
⇒④主人公らの話・記憶スキャナーの覗いたそこには改造人間の"目"があり情報がつつぬけとなり、ヒロインがいる豪邸が改造人間におそわれる
そんな流れ。
金持ちは、「正義をなすには権力を持て!」みたいなことを平気で言えるタイプで、ホームレスへのボランティアをした義娘を杖で殴打するような階級意識の持ち主だから、(依然として)そういう行動をとるのはキャラとして正しい。
秘密のアジトへやってきた新キャラたちも、中年男性の研究者は、改造人間にひどい扱いを受けたせいでちょっとしたことでわめく疑心暗鬼になっており。もう一方の女性研究者も、彼女は彼女で、婚約者が数巻まえの主人公のすごい改造人間たる秘密をめぐるエボル/プレイヤーとのたたかいに巻き込まれて行方不明になっているから、主人公への当たりがつよい。
なかなか自分の考えを変えられない人たちが一堂に会したみたいな場面として、エピソードとして統一された空気があり、顛末には妥当性があります。
赤い石が敵の手に渡ったあとの12巻143話、金持ちのSP的立ち位置である黒服の反応もすごい。
ヒト側ヒーローである金持ちの孫が、改造人間側ヒーローの主人公と爆破された豪邸にいたのを最後に行方不明になっていたヒロインとのふたりを町で見かけ、金持ちの側近的な黒服たちに引きあわせ、「何が起こっているのか状況を知りたい」とたずねる。すると黒服が、
「予測も出来ない事が起こり過ぎている今 もう何者も信用できない」
と追い出す。
そのあいだにはもう一人の黒服の「オイ」というツッコミや、改造人間側ヒーローの「高雅(ヒト側ヒーロー)は会長(金持ち)からエボルの事もオレ達の事も聞いてんだ 今更 秘密もねーだろ」とか「まるでこれまでは予定通りみてェな口ぶりだ エボルの動きが読めた事なんかあったのかよ」といった正論オブ正論がなされるのですが、けっきょく黒服はヒト側ヒーローを追い出す。……密室からヒト側ヒーローが改造人間側ヒーローの仲間から追い出されましたというただそれだけのことに、12ページあるエピソードの半分がついやされる。この慎重さを赤い石のありかを確かめるまえに見せてくれよ(笑)!
(0621追記;これについては後の展開からすると、早計な評価だったかも)
『ZETMAN』は、悪い意味での糞リアリズムが発揮されている印象がある。
状況が改善されようというきざしの見えた場面でばかり味方キャラの頭が(ある意味)回るようになり発揮され、ぎゃくに状況が悪化する場面では味方キャラの頭が(いつも以上に)ガバガバになって悪玉の企みがすんなり進む。いつまでたっても状況が進展しない……そんな印象をいだいてしまう。
{同時期に連載されていた『GANTZ』って、当時の2ちゃんでは楽しんだり考察したりするひとが大半のなかで一部のひとから「展開遅い」「大ゴマつかわず話をすすめろ」「休載すんなー」って文句タラタラ言われていて、ぼくは「あれだけリアルな間・発話を大切にする作品なんだから仕方なくない?」と思っていたんですが、いま思うと「めっちゃテンポよかったんだな」ってビックリしてしまいますね。
12巻って言ったら、『GANTZ』なら主人公が今後どうするか強い動機づけがなされた仏像編(8巻)もちび星人編(10巻)もおわって、坂田師匠&桜井くんのサイキックコンビや八極拳の使い手も登場、謎の転校生・和泉が新宿でやらかしてガンツ部屋にカムバックしてるところくらいっぽい}
この"悪玉の企みが見えている"というのも遅滞感をつよめていて、 同時期に連載された『GANTZ』も一部から「展開遅い」「大コマつかわず話をすすめろ」などと言われた作品だったわけですし、あちらはもう完全に謎の球体に呼び出されてデスゲームをさせられるという「企みの上に乗せられてる」ことが明示的な作品だったわけなんですが、『ZETMAN』でおぼえるヤキモキ感は不思議とわかない。『GANTZ』は球体の意図が読めなさすぎるために、「誰かの差し金でキャラ(主人公ら)が動かされている」感がない。
(※ここから下の『GANTZ』話は、12巻くらいまでの話です)
あまりに状況が不透明で混沌としているし、(ゲームの攻略情報的な部分についての他プレイヤーからの秘匿はあれども、そのさらにおおもとの巨大な謎である)「球体は何なのか?」とか「戦わされる星人ってなんなのか?」ということについては誰も知らないし、そもそも劇中でなにか明らかになるものなのかも読者は分からない。
だから『ZETMAN』を読んでいてヤキモキする「主人公の出生の秘密やら改造人間誕生の経緯などを、固有の顔をもった悪玉が情報を占有し秘匿しつづけていて、知らぬは主人公だけ」……みたいな雰囲気がない。
『GANTZ』(のとりあえず12巻あたりまで)では、主人公が解き明かしたりする謎はだいたいにおいてゲームのコツ程度のものでしかないんだけど(支給された謎装備の使い方とか、実は搭載されていた別モードの仕様把握とか、玄人プレイヤーの装備の謎とか)、劇中世界をかたちづくる混沌の一部であることにはかわりなく、そこから秩序を掬いだした確かな成果でもある。
すべてが謎、ゴールの見えない世界であるがために=進捗率が見えないために、主人公による謎の解明は相対化しようがなくて、主人公の感動がそのまま受け手の感動となる。
『ZETMAN』は身近な問題(うえで話題したもので言えば、12巻の改造人間にヒロインが殺されそう/レイプされそうだ~とか。変身がなぜかできない~)が解決されたとしても、「あれこれ指図してる四天王的改造人間はなんなんだよ」とか、「さらに上にいる親玉的改造人間がまだいるんだろ。そいつはなんなんだよ」、とか、「そいつらをどうにかしないといけないのに現状どうにもしようがないじゃないか」といった暗雲がずっと立ち込めているから、煮え切らない思いがのこる。
ふたりがトロフィを手に入れた――ある者は真っ暗闇のなかで、もう一方は明るいなかで。
トロフィの輝きも獲得者の喜びもかわらないのだが、後者の周囲ではおなじトロフィが5万とあったり、もっと巨大なトロフィを持っている者がいたり、ゴミ捨て場から漁った物をメッキ加工してそこらの5万人に贈呈して・プレゼントされた者が素朴に喜ぶすがたを肴に純金のトロフィに酒を注いで呑み楽しんでる者がいたりするのが見えているとする。
12巻あたりまでの比較で言えば、前者が『GANTZ』で後者が『ZETMAN』みたいな印象です。
▼はじまりの町と魔王城が地続きなのに迂回されるとヤキモキする?;ヤキモキ感について考える②
あるいは『ZETMAN』にかんじるヤキモキ感というのは、言うなれば、はじまりの町と魔王城とが地続きにあるみたいなデザインから生じるものなのかもしれません。
親玉的存在はすぐ近くにいるのに事態がぜんぜん動かない不思議。
物語のはじめに大目標をコンテンツの受け手へ提示することはたぶん重要なのだけど、それとおなじくらい大事なのが、現時点で大目標と主人公とがすぐ結べない断絶を提示することなのではないだろうか。
はじまりの町と魔王城が目と鼻のさきの距離にあったとしても、その間に海と険しい雪山々があるとかすれば、「歩くことしかできない自分がそこへたどり着くのは不可能だな」「強敵がはじまりの町に出現しないのも地理的な問題なのだな」となる。
〔あるいは、さきの大戦で魔王軍は大きな深手を負ったりあるいはさきの英雄が巨大な封印魔法をほどこし敵味方ともに立ち入りできないエリアとなったなどして、かりそめの平穏がうまれた時代……とか理由はなんでもよいですが。
{それだとしかる場所で必要なフラグを立てる(立てなきゃ進めない)お仕着せのイベント感が出てしまうので、魔王城自体はいつでも行けるし魔王にもいつでも挑戦できることとして、実力的な問題で立ち入ることがむずかしいということにしよう。深く広いお濠があるとか、周辺の魔物がつよいとか、まだ通電していて魔王配下にある(けど魔王の側近でも動かせない)オーバーテクノロジーのドローンなどがいるとか……としたら『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』のマップ・ゲームデザインですねこれ}〕
『ZETMAN』はそのへん彼我の距離感がちかすぎるし、悪玉が何でもできるように見えすぎる気がする。
▼ご都合主義はブラウザバックしない牽引力として有効なのかも?;ヤキモキ感について考える③
いつも以上に考えがまとまらないんですが、『ZETMAN』に感じるモヤモヤって、かつて『学園騎士のレベルアップ!』読書メモでふれた『ズートピア』リテイク理由(「お話の主人公をいやな世界で虐げられている人と設定して、更にお話の内容をいやな世界がいかにいやらしいか描くことへ焦点を合わせると、それを見た受け手はその世界がいやンなるんじゃない? 主人公がその世界に留まってほしくないと思うんじゃない?」)で示唆されたものと似ている部分もある気がする。
『ZETMAN』はまじめにヒーローとか改造人間に取り組んだ結果、白黒つかない展開ばかりとなっていて、まじめな作劇なのでお色気なども『I's』などと比べると驚くほどわずかしか扱いません。安易に好感をもてるようなキャラだって出てこない。
河川敷のホームレス暮らしであるとか、個人情報がバレバレの狭い舞台での競り合いである当然として、金持ち企業の親玉というヒト側悪玉からも改造人間からも狙われ放題忍び込まれ放題で、主人公らはしょっちゅう大事な人を傷つけられたり人質に取られたりして、そのヒーロー的なパワーを十二分に発揮できない。
主人公の養母となるおばさんがストリップ劇場ではたらくのは、別に彼女に露出趣味があって好き好んでやってる~なんてことは全くなく。金持ち優等生の主人公②(高雅)をとりまくハーレム的状況は、『風雲たけし城』的試練でかれをおとしめるネガティブキャンペーンとして捏造される。
桂先生らしい顔つきのヒロイン①にたいして、主人公は彼女を窮地から救い出す王子様みたいな活躍をなかなかできないし、べつに恋仲となるわけではない。
中盤から出てきて主人公と恋仲になるヒロイン②は、口を開くと歯の矯正具をのぞかせる。透明感ある桂先生の美女像からすると異物感があるモチーフです。
さきの読書メモでも言ったように、『なろう』小説でもツラく暗い展開が10万字単位でつづく作品というのはわりあいあります。それでも読み進められるのは、適度なタイミングで視点人物にたいするageシーンがあるからなのではないか。
いわゆる「ざまぁ」と言われる、主人公をバカにしたり旅のパーティから追放したりしたひとを、見返したり・{直接的に・あるいは間接的に(視点人物が抜けたことでそれまで簡単に勝てていたモンスターにまるで歯が立たなくなるなどの形で、主人公の凄さ・元パーティの目の節穴ぶりを証明するなど)}復讐したりする要素であったり。
あるいは、ハーレム要素(主人公へ性的に大胆に迫るレベルで恋するヒロインが複数あらわれたり)であったり。
……作り手がそれらを盛り込んだ意図はどうあれ、つらく暗いストレスフルな物語を読み進めていくたびに得られる報酬(リターン)として、そういった要素が結果的に機能している面というのは、すくなからずあるんじゃなかろうか? なんてことを考えながら読みました。
0621(日)
仕事休み。
9時ぐらいに起きてkindleで続きを読み、半年ぶりくらいにマクドナルドのハンバーガーをテイクアウトして食べました。包装おしゃれになってたんですねぇ。
その後やっぱり昼寝をして、夕ご飯で起きました。
■買ったもの■
ミエヴィル紹介の現代ピクチャレスク/ピクチャースキュー映画『バーバリアン怪奇映画特殊音響効果製作所』(500円)
ピーター・ストリックランドが2012年に撮った異常なメタ恐怖映画『バーバリアン怪奇映画特殊音響効果製作所』のもっとも不穏な瞬間は、牧歌的なイングランドらしさが彼らや我らの凝視によって奇怪きわまっていく、観光客がおとずれたとある英国の低い丘(English downs)に関する空想上のドキュメンタリーの断片だ。
The most disturbing moments of Peter Strickland’s extraordinary 2012 meta-horror, Berberian Sound Studio, are snippets from an imagined documentary about the English downs, visited by tourists, bucolic Englishness made uncanny by their and our gaze.
(訳中;挿絵『バーバリアン怪奇映画特殊音響効果製作所』から窪地の草原のショット)
額入れされた光景(framed scene)を斜にくゆらせた(skewing)ことによるこの悪しきピクチャレスクの作品群は、ような(エスク)を強調した美術(ピクチュア)だ。ピクチャレスクという語の誤発音をそのままこれの名にしよう。
This bad picturesque works by skewing the framed scene, the picture of which the -esque is expression. It mispronounces the terms of the picturesque, so let mispronounciation give it a name.
この美術はくゆらす(pictureskew)ものだ。
This is the pictureskew.
rejectamentalist manifesto掲載、チャイナ・ミエヴィル著『Skewing the Picture』より{日本語訳は引用者(英検3級)による}
去年ぼくのつたない英語力(なにせ英検3級だからな……)で紹介しましたエッセイ『Skewing the Picure』。
作家チャイナ・ミエヴィル氏による今昔ピクチャレスク/ピクチャースキュー〔=ピクチャレスクを悪凝りしたものを指す『StP』内の造語。{ピクチャースキューpicture-skew自体は、ピクチャレスクの誤発音として辞書に載ってるくらいの正しい語(間違ってるのに正しい語というのはなんだか楽しい)}〕を総括したこのエッセイでふれられていた様々なコンテンツのなかの一作である、映画『バーバリアン怪奇映画特殊音響効果製作所』のHD版がAmazonビデオで500円にてセールされていたので買いました。
たのしみたのしみ。
▼余談
チャイナ・ミエヴィルが絵について語ったエッセイ「Skewing the Picture」の全文が公式サイトにアップされた。2016年にBalham Literary Festivalの企画ために書かれ、その後《Guardian》に抜粋掲載されたもの。https://t.co/DUpaRQba4w
— 糸田屯 (@camelletgo) 2018年5月8日
ちなみにこのエッセイについては、ミエヴィル氏の公式サイトにアップされてからすぐ識者が紹介していて、すごいアンテナのひとがいるもんだと周回おくれで感心しました。
紹介記事かいたときに「!」と思ったんですけど、ツイート検索ですぐ見つかるときと見つからないときがあるから、こちらにメモ。
■読んだもの■
(第一部完)桂正和著『ZETMAN』20巻まで読書メモ
未読の古橋秀之作品(今作のスピンオフ小説)を読むために手を出したんですが、『ZETMAN』自体が素朴にどんな結末をむかえるのか気になって、一気に読みつづけちゃいましたね。
昨日の印象からあまり変わることなく、面白いけど面倒くさい話だなぁとなったまま終わりました。
(この下にダラダラ文字が連なっているとおり、しっかり楽しみました。なぜならぼくもまた面倒くさいやからだからです)
20巻最終話(あくまで第一部完だそうですけど)の〆は、1巻1~2話の対比として、家庭をきずいているサラリーマンが異形化し、主人公に倒される(前者では身体がどろどろとメルトダウンする/後者では身体は「昇天」という感じで光の粒と化す)/そのさい消えゆく指にはめた指輪がクローズアップされるというもので、なかなかきれいでした。
{通しで読んだから、「たぶん1話のサラリーマンとちがって、異形化がすすんで狂暴化するまえに片を付けた……という展開なのかな?」と好意的にとらえたものの、ぼくが12年間『ヤンジャン』本誌だけで読んでるようなひとだったら「え、平穏な家庭をきずいていた改造人間を勝手に異形化させて殺したってこと? ジンどうした?」と困惑していたと思う(ただまぁぼくの解釈だと、「狂暴化がまだで、じぶんが将来そうなる自覚をもてていないだろうはずのサラリーマンが、あまりにも聞き分けよすぎる」という別の問題が生まれてしまうのですが……)}
桂先生がどこまで当初から構想されていたのかよく分からないものの{1巻アバンタイトルであるカラーページが終わったあとの1話本編のエピソードが、"改造人間の能力に悩み自責の念から自殺を試みるひとと、それを救う主人公(=改造人間側ヒーロー)”という20巻のバトル後~エピローグまでの流れで変奏されるものだから、大部も予定どおりなのではないかと思うけど}、ついにえがかれた第1話幕開けのシーンとその後の展開は、連載中(10巻が発売されたのと同月に)に公開された『ダークナイト』終盤の選択から意思決定者をふやして事態のままならなさをアップさせたうえで/決定の不健康さを目立たせたような形でした。ストーリー的には妥当だし、20巻・12年間もの連載で、(重ね重ね言いますが、あくまで第一部完だそうですけど)最後の最後までこの路線を維持したのはすごいことだと思いましたが、それを差し引いてもスッキリしない。
そこで思ったのが、
「主人公が濡れ衣をきたり泥をかぶるような、分のわるい選択をするエンディングについて。このとき、泥の原因が無秩序・混沌である場合、案外つらい気持ちにならないのではないか」
ということです。
▼秩序vs混沌は案外あかるい? 『ダークナイト』に対する『ZETMAN』の泥被りの暗さについて
『ダークナイト』でひかれた構図は、秩序(ヒーローの意志)vs(ヴィランが無目的につくりだした)混沌という構図で。
ヒーローが対面するのは、怨恨とか特定の思想とかそういうのではなくただ世界が燃えるのを見たいだけというような混沌です。混沌とかかわってしまったがゆえに主人公はむちゃくちゃな二択をおしつけられ、想い人を亡くし、救ったはずの親友(=公的な秩序の申し子みたいなひと)は狂って加害者へ転じてしまい、さらなる混沌をひきおこす。
主人公はヴィランのいたずらから波及した騒ぎへの後始末として、ヴィラン化した親友の悪行をじぶんの罪としてかぶり、功績は親友にささげ、悪名を轟かせることになります。
ヴィランの勝ちだろうか? いや、主人公が理解したうえでそのような行ないをした/ある面では主人公の意図どおりになった……という点において、(ヴィランによってうまれた)混沌は主人公(のつくりだす秩序)に負けています。
後半で「おまえそれどうよ?」とヒーロー活動をバックアップしてくれた片腕に言われる、市民無差別盗聴システムによる千里眼。これは、(2007年から運営された現実のNSAによる監視プログラムPRISMなどとからめて)バットマンのいきすぎた強権やら何やらヴィジランティズムの暴走への警鐘云々と言われるけど、バットマン自身の正義がどうあれ・そして行ないが正しいか否かはどうあれ、"誰かしらの意図が(くまなく)行き届いている"という点においては無秩序をくだくアドバンテージになる。
『ZETMAN』がひく構図は、意志vs悪意(ある意志を否定するべつの意志)という具合で。
なんらかの意思をもつひとが、べつの誰かによってその思考を否定されたり、意に沿わぬ行動を強要されたり、しまいには思考自体を塗り替えられたりすることと戦うというものです。
主人公と対するのは、改造人間の親玉であるとか、ヒト側大企業の思惑であるとか、改造人間に恨みをかかえたヒトであるとか様々だけど、「主人公を手のひらで転がし思い通りに操りたい」という点においてはだいたい共通している。
主人公はヴィランの悪意がひきおこした騒ぎへの後始末として、悪玉にいいように操られた親友の悪行をじぶんの罪としてかぶり、功績は親友にささげ、悪名を轟かせることになります。
ただ『ダークナイト』とちがいこちらの親友は命があるので、そのうち良心の呵責にさいなまれて自殺を招いてしまいかねない。
そんなわけで、主人公はかれへハイテクメカによる記憶消去をおこなうのですが……それはたしかに親友を良心の呵責や自殺から救う方法ではあったものの、消去した部分に悪玉が偽の真実を植えつける余地をあたえる諸刃の剣でもあり、さらには親友を(じぶんが正義のヒーローのつもりでその実)悪玉の手先としてかれらに都合のよい正義をなし、街(ひいては国)づくりをさせるのを許すことと同義でもありました。
『ZETMAN』の幕引きは、親友が正義の味方として街の巨大ディスプレイに・全国ネットのTV番組に広報として立ち、世にまぎれた「改造人間」を特殊なカメラであばき監視・駆除をおこなう国の顔となっている――監視装置は悪玉(為政者)のサジ加減で白へも黒へも自由に変えられる色メガネであって、ヒト・改造人間問わず悪玉に都合の悪い存在が排除されている(そのお題目として監視装置を機能させている)という、ディストピアを形成する一員となっている。そんな国の片隅の街の暗がりで主人公は人知れず改造人間と戦っている……というような具合です。
見通しは暗いけど、希望の光が……みたいな話のようでいて、よくなる展望がナカナカ思い描けないところが『ダークナイト』と異なる点。
ヴィラン側が国をしきるレベルで巨大な悪意を行使しているのにたいして、主人公側は個人個人単位でチョロチョロしているだけ……というような関係なので、『ZETMAN』は世の中が良くなる展望が見えない。
(『ダークナイト』はその辺をバットマンがトゥーフェイスに勝つことで済ませてしまった……ということかもしれない)
▼インターネットの整った現代を舞台にすることのむずかしさ
どんより具合に拍車をかけるのが、キャラの動きと舞台の書き込みとのギャップです。
ヒト側ヒーローが、20巻前半までの騒動を終えて自分をとりもどしたとき、洗脳中のじぶんのやらかしや自身の血族が興したすごい企業の悪行について自責します。
そして彼は記者会見をひらいて、上述の自身の悪行であるとか改造人間がうまれた経緯やらそれがこんな騒動を起こすに至った経緯やらをすべて洗いざらいぶちまけたうえで自害しようと試みます。しかしそれは、けっきょくかれの親友である人造人間側ヒーローによって口をひらくまえから阻まれ、ヒト側ヒーローは(自責・自殺をかんがえるもとを断つため)記憶改ざん装置にかけられることとなります。
……この展開でぼくが感じたのは、ヒト側ヒーローの覚悟のきまらなさ加減でした。
インターネットの整った現代を舞台にした作品でこの成り行きは、キャラの行ない・考えのにぶさばかりが強調されてしまってよろしくない。
「ほんとうにぶちまけるつもりがあるのなら、記者会見なんて開かずに黙々と事をすすめて(せめてレッドヘリングにして会見日前に)さっさとネットにでもアップすりゃあいい話なんでは?」
……という、劇中の描写を無視して人間の行動力を高く見積もった、ぼくのなかの事後諸葛亮がさわいでしまう。
{1980年代を舞台にした『ウォッチメン』('86~87連載)の時点で、じぶんの口がふさがれようとも手記を第三者のもとへ送るヴィジランテの姿やら、ヒーローへじぶんの計画を話し終えたときにはすでにヒーローが阻止しようのない所まで計画がすすんでしまっていて単なる勝利宣言にすぎないというヴィランの企みやらを書いていたわけで、そこからするとだいぶ後退して感じられる。
そういった観点からすると、(シリーズ第一作とちがって)ぼくにとってノれたと言いがたかったシャマラン監督『ミスター・ガラス』は、ただしく現代を舞台にした「誰が見張りを見張るのか」映画・ヒーロー映画だったんだなぁと思ったりもしました}
▼第二部以降への期待
さて昨日の日記で「悪い意味での糞リアリズム」とくさした12巻の足踏みの多い作劇については、じつは今ではちょっと勇み足な評価だったと反省しています。20巻だか19巻だかで「実はこのキャラはこういう存在でした」という展開が出てきて、「じつはそのための伏線だったのかも……」という好意的にとらえることができるようになってきました。
上述した20巻の、ぼくが煮え切らない思いをかかえた記者会見の顛末。これもじつは、第二部以降で具体的な検討がなされるような含みをもたせた展開なのかもしれません。
悪玉は倒すと決めたとして、ではいったい誰をどこまでどんな基準で手にかければよいのか? 最終戦まえからヒト側ヒーロー高雅が抱いたそんな疑問も、とくに結論という結論がだせたわけでもないでしょう。
またここについては、人造人間側のヒーローであるジンの行動にもモヤモヤします。
記憶消去によって高雅はたしかに自責も自殺もしませんでしたが、しかし序盤の火災現場とその後のシリアス風雲たけし城のとおり、自責こそが未熟なかれをヒーローたらしめていたのではなかったか?
ここ以外にも、ジンと恋仲になったヒロイン②と家族との関係、高雅とヒロインとの関係、20巻の事情を知らないままに見目好いヒーロー・アルフォスをたたえる一方で異形の退治をうったえ支援した衆愚描写などなど……とにかく情報の不透明さ・ディスコミュニケーションというのは悪いことしかもたらしていません。
ここについても、第二部以降で具体的な検討がなされるような含みをもたせた展開なのかもしれません。
『ZETMAN』が12年におよぶ連載のすえに第一部完結したのは2014年のこと。桂先生は今年で58歳をむかえるそうで、体力気力の消耗も制作現場の維持もクソデカい週刊連載を今後もつづけるのはむずかしいかもしれませんけど、第二部をなにかしらのかたちで拝みたいところです。