雨はともかく、確実に暑くなってきましたね、日記です。1万2千字くらい。Th・ドライサー翻訳ニキネキ生きてたんか! 『ビューティフル・エブリデイ』の感想のはずが、ポルトガルの風呂水啜り陰毛コレクター親父映画3部作の話を延々してしまった週。
※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※
0602(火)
日中仕事して、帰宅後は寝たり起きたりしました。
0603(水)
宿直日。きのう友人から電話をもらっていたことに翌日(0603)再度電話もらって気づく。出られないので重ね重ね申し訳なくなりました。
0604(木)
宿直明け日。
■インターネット徘徊■
機械認識の面白さ
目利きとして信頼しているかた(以下①氏とする)のツイッターをのぞこうとして(先週の日記で取り上げた『ヴィジランテ』の最近の隆盛も、①氏らが話題にしたので気づくことができました)、①氏のidでツイッター内検索をかけると引っかかる、①氏のidと同じスクリーンネームの別人(?)のアカウント(以下②氏とする)の存在が気になっておりまして。
次第に、"①氏のid"という文字列で検索をかけることは、①氏のつぶやきを覗くためというよりも、その別アカウント②氏へ跳ぶための呪文の言葉になりつつある。
どんなツイートをしているの?
おそらく映画からのピックアップだろう画像を、東西古今問わず延々アップなさっているアカウントで、「おそらく」と書いたとおり、出典元はなにも記されていないのがこの②氏の特徴です。
②氏が取り上げるのは審美的に美しいショットであったり、面白い被写体であったり、面白い動作であったり、面白い後加工の演出であったりさまざまですが、どれもに共通しているのが、それは見ていて楽しい画だということです。
(「フェードインアウトなどで別々の画像が重ね合わせ状態になったショットって、たしかにこうして取り上げられてみるとヘンテコだな」
とか②氏のツイートではじめて気づきました)
— sakanaga (@fish_detekita) 2020年5月25日
この辺の面白被写体群に「オッ」と思うと、
— sakanaga (@fish_detekita) 2020年5月25日
直近のツイートを見て「これも一緒の映像作品か? 本編みてみたいぞ」となりました。
それらとは別だろうけど、
— sakanaga (@fish_detekita) 2020年5月27日
これも気になる。
画像検索をかければごくまれに大元がわかることもありますが、大体においてはそうではない。
(たとえばこのツイートなら、
— sakanaga (@fish_detekita) 2020年5月29日
1961年の『底抜けもててもてて』の1シーンだとわかります)
それで面白いなと思ったのが、画像検索したさい自動的に添えられるワードの妙です。
GoogleのAIが画像データからそれらしい語句を入れてるものと思いますし、9割は毒にも薬にもならないものですが、まれに「なるほど!」と唸るトンチ回答がでてきます。
— sakanaga (@fish_detekita) 2020年5月31日
これで画像検索をかけると……。(クリック次第で、「テレビ受信機」みたいにもなるけど、それはまぁ普通の誤認)
☑白太めで黒細めの縞模様
☑その上に黒がどかっとある
☑人間の手
=ピアニストだ!(ではない)
違う~ンだけどよくよく振り返ると~ま~たしかに間違えた理由はわかる~~~という、良い塩梅。
ほかにも茶色い木に抱き着いたひと=スパニエル犬の判定となったり、それなりに楽しい誤認はあります。でも上の検索結果のように、群を抜いて面白いやつは見つかりませんでした。
こういうふわふわした認識のAI一人称による小説とか、それ+じっさいの視覚表象との2段組構成とか見てみたいですね。もうすでにあれこれありそうな気がする。
(楽しめるかたちでやろうとしたら、アシモフのロボット物みたいになるのでは? たしかに……)
あと、機械が編集した映画とかも面白そうだなと思いました。人間の固定観念にしばられないモンタージュをばしばしキメてすごいものができるんではないか。
(脚本や撮影舞台のセッティングなどは事前に準備する必要があるわけで、現段階では機械にオモシロ参照事典みたいなのを作ってもらって、人間がそこからつまんで整えるみたいな感じになるだろうけど)
うろ覚えもうろ覚えなんですが、はたしてソダーバーグ氏だったかそれともトリアー氏だったか、カメラワークをAIに任せた映画を撮っているだかなんだかいう記事をむかし見た気がするものの、ちょっと数分ググった程度では見当たりませんでした。なんだっけなぁ。
アカデミー賞6部門受賞/ランダムハウス「20世紀のベスト小説100」16位作家のメイン舞台は『小説家になろう』
『アメリカの悲劇』あるいは『陽のあたる場所』をご存じですか?
複数回にわたって映画化され、アカデミー賞6部門受賞したりもした原作小説を書いたセオドア・ドライサー氏は、文学界でも「1998年にランダム・ハウス、モダン・ライブラリー編集部が選出した「英語で書かれた20世紀のベスト小説100」では16位に選ばれる」(ウィキペディアから孫引き)など、華々しい名声の持ち主ですが、その商業邦訳はとだえて久しい。
さて、上でリンクを張ったウィキペディアだと英字原題そのままになっている作品のいくつかが、実はウェブで(素性の知れない私家版ながら)日本語の翻訳文章を読むことができるというのは、ご存じでしょうか?
以前もちらっと触れたとおり、このドライサー氏の作品を訳して『小説家になろう』へ黙々とアップされている謎の好事家がいらっしゃって、2017年までに『資本家』『巨人』『ストイック』と長編3作計130万字ほどを翻訳投稿されて以来しばらく音沙汰がなかったんですけど、2年半の沈黙をやぶって新訳をひっさげてカムバックされてました。
Theodore Dreiserが1915年に発表したThe "Genius" の第一部です。 第三部までありますが、そのうちの第一部です。 第二部以降は後日です。
『小説家になろう』掲載、ドライサーの小説の翻訳です投稿『「天才」 第一部 青春』紹介ページより
第一部とはいえ19万字あります(おそらく第三部まで完訳されておるんでしょうね……)。仕事量からすれば当然のことながら作者名も「ドライサーの小説の翻訳です」と強い。なんなのこのストイックさは、とふるえてます。
(どこかのアカデミアの研究者さんなんでしょうかね? それにしたって凄い)
0605(金)
急きょ宿直日に。
0606(土)
宿直明け日。にっちゅう死んでました。
宿直と言っても、(緊急事態がなにもおきなければ)夜21時と翌朝6時に見回りをするだけ(30分~1時間くらいで回りきる)なので、寝ようと思えば8時間以上は睡眠できる業務なのでツラくもありません。
……つらくないハズなんですけど、さすがに不意の舞い込み+日(~月)・水(~木)・金(~土)と週3入ると、あんまり休まった気がしないですね。。。
■これから読むもの■インターネット徘徊■
商業作家の未邦訳作品の、権利クリアしたうえでのインディー邦訳をいろいろ回る
商業作家の未邦訳作品の、インディー(個人・同人)ながらも権利関係をきちんとクリアしたうえでの翻訳出版って色々あるんですね。
これまでは、(セミ商業的な)長く太い活動をされているシリーズとして、なるこん・はるこんでの邦訳本というのが有名でした。
あるいは『なめ、敵』収録作にも影響をあたえた『労働者階級の手にあるインターネット』の日本での初出は同人誌で、rlmdi.というサークルの西塔玲司氏により行われたようです。(未入手だし権利関係不明だけど、でも商業出版アンソロジー『時間は待ってくれない』もおなじく西塔氏が翻訳をてがけています)
最近ではそのほかにも、ケン・バーンサイド著『熱い方程式』という「2015年ヒューゴー賞関連作品部門の最終候補作」である宇宙戦闘と熱についてのエッセイ本の邦訳が個人のかた(スタジオ100光年さん)からなされ、boothで流通していたり。
至近未来では、東大京大SF研出身者を中心とした週末翻訳サークル"バベルうお"さんによる翻訳小説同人誌『BABELZINE』 Vol.1もついに取扱い開始。
来月、6月中旬ごろに、バベルうおは翻訳同人誌を創刊します。翻訳全11篇+評論で、総計200ページの大ボリュームでお届け。明日より、毎日一篇ずつ収録作の紹介を行います。お楽しみに🐡 pic.twitter.com/vtXN7Cnn0F
— 週末翻訳クラブ・バベルうお (@Babel_Uo) 2020年5月25日
上のツイートの自己リプライツリーで各作の紹介がなされています。
どれも面白そう、財布がどんどんかるくなりますねぇ。
0607(日)
■食べもの■
塩分タブレットがまた美味しく感じてきた
カバヤ食品『塩分チャージタブレッツ 塩レモン味』がまた店頭に並びはじめる時期となりました。10月に食べたときから一転、めちゃくちゃ美味しい。ちょっと睡眠時間とかを増やしていったほうが良いかもしれませんね……。
■読んでいるもの■
電子版のがんばりと難しさ;J・S・フォア著『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』読書メモ
それは何ですか;ジョナサン・サフラン・フォア氏による小説です。
映画化もされた作品で、映画版では登場人物やそのひとの語りに合わせて白黒になったり、16mmアナログフィルム風となったり、手鏡のフレーム・イン・フレームが用いられたり、パラパラ漫画になったり……と、ちょっとヘンテコな語りのディテールも魅力的でした。
この独特の語り口は、そもそも原作小説から採られた部分も多いのだそうです。
ヴィジュアル・ライティングと称して描かれた『ものすごく~』には、タイポグラフィがふんだんに盛り込まれ、写真や図版もさまざま挿入され、小説もまた視覚情報の表現物であることを意識させてくれる作品です。
ニューヨークタイムズの記事に含まれる誤字など間違いをさがして、赤丸をつける……そんな奇癖をゆうしていた主人公の父。かれの持ち物を主人公があさる場面を、『ものすごくうるさくて~』はどう描いているか?
ちょっと余白の多い字組で、既存の文献(かもしれないもの)を引用し(ここについては既存の本でも見られる、引用といえばこれというスタイルです)、そこへ更に、父がつけただろう赤丸を本当に赤い丸で印刷しています。
こういう装飾がものすごくあるのが『ものすごく~』です。
読む人への注意;
電子書籍版(Kindle)は(可能な限りリフロー可能なかたちで、読み手の側がリーダーをどんな設定にしていても書き手が想定した演出が味わえるよう)かなり頑張っているんですけど、それでもやっぱり「紙の書籍ならもっと演出がなめらかだったんだろうな……」という部分が見えます。
紙の本版と比べるべきなんですが、比べずに「たぶんそうなのでは?」と書いてしまった雑語りです! もしかしたら紙の本と違いないかもしれません。
なんで読んだの?;
『紙魚はまだ死なない リフロー型電子書籍化不可能小説合同誌』読書へむけて、先行するリフロー不可型小説・へんてこフィクションを味わっていく試み第2弾。
読んでいる感想;
「電子書籍なのに装丁が凝っている!」と感動しました。
図版は挿入されているわ、前述のとおり(画像ではない)文字データに赤丸がついているわ、すごいことをやっています。
手に取った理由が理由なので(映画版は鑑賞済みだし)、ストーリーを一から順に追うまえに、ヴィジアル・ライティングがどれだけ電子書籍版に反映されているのか気になって、すごそうなところを先にペラペラしてしまいました。
たとえば主人公の祖父の無口な性格造形と、そのヴィジュアル・ライティング的装飾について。『ものすごく~』では主人公の祖父のものすごい無口ぶりを、一ページに一言だけ置くことで、表現しています。Kindle版でも(おそらく、それまでとそこからとで強制的にページ区切りする命令をいれてくれているのでしょう)しっかり再現されています。
そのほか、語りがどんどん切羽詰まってきて文字が重なって次第にほぼ真っ黒になっていく場面はどうでしょう。かなり再現されていますが、しかしちょっと厳しさが見えました。
この①②までがおそらく文字データとして処理していて、重ね書きされた文字列も範囲指定することができ、リーダー内辞書と照らし合わせたり、Googleで文字列検索をしたりすることもできます。
この③④は、おそらく画像データとして処理された情報で、②からつづけて(=切れ間がない)という形にはどうにもなっていません。②の左側の空白のように、②⇒③のあいだにはどうしてもページ区切りをはさまねばならない。そしてそれは、③⇒④へ行く際にもおなじことです。
「これは意図された改行・ページ区切りなのか?」
という疑問がうまれました。
憶測でしかありませんけど、最初の文字の重なりかたを鑑みるに、もしかして紙の書籍版では①~④までのグラデーションはスペースや改行やページ区切りによる大きな余白をはさむことなく、なめらかに移行していくものなのではないでしょうか?
また、それとは別の問題として、①②と③④のデータの取り扱いのちがいから、読む側の設定(たとえばビューアのウィンドウサイズ)によっては、⑤⑥みたいに、それぞれの表示領域がそれぞれ別のルールが働いてしまうがために、①~②と③④とでサイズが著しく変わってしまい、妙なギャップが生まれてしまってもいます。
(設定いかんによっては、①~④にほどこされた"徐々に文字が重ね書きされて真っ黒に近くなっていく"という演出が、いまいちはたらくなる)
作り手が見せたかったものは電子書籍版でもわかるようになっています。
ですが――電子書籍版スタッフのがんばりに水を差すようなことを言うのは心苦しいんですけど――それが(見せたかったものを察するまでもなく)ダイレクトに伝わるつくりには、なっていないように思えます。めっちゃ惜しい感じ。
■読めなかったもの■
目がすべって何も読めない期に入りました
長い文章を見ると脳が拒否するモードに入ったので、読書はすすみませんでした。
この現象はwebサイト(noteとかはてなとか)/kindle書籍では起こりがちで、さらに改行がない・適当なタイミングで行開けが無い記事/本になるとそうなる可能性が高いんですけど。
(自分の文章でさえ読んでられなくなる。先週の日記も扱うトピックが変わっても章立てもせずにごちゃごちゃ続くから読んでられません)
でも、そんな時期でさえ、あんがい紙の本は(まだ)大丈夫だったりするんですよね。なんでなんだろう?
中高生時代からウェブ小説読みなので、webで読むのは慣れてるんですが……。
■技術・映像■
ドローン撮影の発展すさまじい
ツイッターで話題になってたもの。ドローン撮影の進歩がすさまじいなとなりました。
伊藤計劃氏はかつて、ピーター・ジャクソン監督『LotR』と、ピーター・ウィアー監督『マスター・アンド・コマンダー』や『KoH』リドリー・スコット監督作を比較して、後者の映像の自然さを"CGによるショットであろうと、現実の撮影現場を想定したうえで撮れるショットしか映さない"ことにあるという旨のこと言ってました。(伊藤計劃第弐位相「六点鐘」「今年観た映画の記憶」)
その点において、『パシフィック・リム』(や『ゴジラKoM』など)は、CGをふんだんに使った迫力のカメラワークで、観客であるぼくはたいへん興奮させられつつも、それよりはるかに低予算である日本の特撮映画・TV番組の(意図してかせずか分からないけど)美点というものにも気づかされもしました。
「面白いけど、これはどういう想定で撮られたショットなんだろうか? この速度と自由度で動けるカメラとは一体?」
『パシリム』やら何やらを観ていると、そんな疑問がふとよぎってしまうんでした。
「ビルから顔をだすくらいに背の高い巨大ロボと怪獣とに、そして時にはサイズのまったく異なる矮小な人間の動向もからめて、ベストなタイミングで寄ったり引いたり様々な角度からグルングルンなめまわせるこのカメラはなんだ?」
と。
日本の特撮・TV番組はハリウッド超大作と比べれば落ち着いたカメラワーク(※1)で――予算的な問題による制約もあると思うんですけど、個人的にはそれは作り手の怪獣観のちがいも結構にあるのではないかと思います(※2)――それゆえに、上のような疑問は湧きません。
上にあげたドローン動画のような自由自在のカメラワークを見てしまうと、いつの日か、P・ウィアーやR・スコット氏の映画群のほうこそが嘘っぽく感じられてしまう時代も来るのかな……なんて思ってしまいました。
戦場とか危険地帯で/あるいは重要指定文化財へクソでかい足場を組みクレーンなどを持ち込み・人間がカメラをふるうということこそ不自然で、ドローンを投入するほうが安全・安心……という逆転は、遠くない将来どこかで来ますよね。
〔上とはちがうけど、たぶん根はおなじだろう問題として。
敵と交戦し発砲し合う兵士の正面顔を映していいものか問題みたいな。
{兵士より前に出て、あまつさえ敵(銃弾)に背を向けてカメラを回しているコイツはなんなんだ? という}
これは富野監督の言だったか……サスペンスやホラーで、未知の闇の領域に踏み込む人物を映した場面で、その人の正面顔を映していいものか問題みたいな。
{未知の領域に先入りしたうえで、あまつさえその領域にあるかもしれない(し、ないかもしれない。どちらにしても恐怖的・脅威的だろう)何かへではなく、既知の人の顔とかいうものへ注目してるコイツはなんなんだ? という}〕
{※1
もちろんシーンの動静は演出意図にもよるでしょう。作り手が"劇的であること"を志向しただろう場面は、ハリウッドさえかすむレベルで、ものっそい劇的な光景が拝めたりもします。
たとえば『ガメラ3 邪神覚醒』の終盤にある、飛行からそのままの勢いで市街地に着陸しガメラが火球を放つ場面。慣性の法則で猛スピードで地をすべりつつ火球を放つガメラを、カメラが追走してフレームに収め続けたショットは、現実の舞台で撮影しようとなると大変なことになると思う。
(ただまぁ、「大変だろうけど、不可能ではなさそうだ」……と観客であるぼくが思える辺りが、架空の撮影現場を意識しているかということなのかもしれません。
『ガメラ3』当該ショットは、カメラワーク自体は直線的なフォローショット。90年代後半~00年代初頭あたりのゲームムービーで散見された、ぐにゃんぐにゃんカメラが動くようなものではない)}
{※2 怪獣をどういう存在ととらえるかという違い。
地震や疫病などのような天災的なものとして捉えている作り手にとっては、怪獣の動きをとらえるカメラは個々の人も建物など米粒程度で気にも留めないし、両者ともに個体認識ができるようなショットが撮れるなどとは想定していないでしょう。怪獣は家々を踏みつぶし進む存在であり、ランドマークを破壊し、都市一帯を壊滅させる。
邦画特撮怪獣映画は、結構そういう色があるように思います。
ハリウッドだとG・エドワーズ監督『GODZILLA』前半~中盤で、夜のハワイの建物の屋上にてゴジラと兵隊が接する場面。あそこで登場した、ゴジラを(われわれが子供向け図鑑で・フィギュアで・TVゲームで見下ろしてきた/見慣れてきた)生物的なフォルムとして認識させず、ただただ黒い凸凹した壁が動いているとだけ写したあのショット。あれが天災的怪獣像のひとつの極点でしょう。
一方。
怪獣を、おおきな猛獣・モンスターとして捉えている作り手にとっては、怪獣のうごきによって個々の顔を識別できるしキャラとして個が確立している人々がどう喜怒哀楽するかが重要でしょう。
怪獣の一挙一動に、名の知れた俳優の顔がアップで挿入されたり。あるいは、無名のモブであっても立ち上がったりどこかへ逃げ伏せ隠れる動作がアップ~フルで捉えたあと、カメラを引いて怪獣を被写体にした構図へとカットをわらず一連のショットとして映される……などなど。怪獣と、人の個々のリアクションが照らし合わせるような作劇となる。
……みたいな印象(と断言せず、にごすことで予防線を張っときます)}
0608(月)
ぼ~っとしてました。いや、ぼ~っとしてない日なんて無いんですが……。
■読みもの■
志村貴子著『ビューティフル・エブリデイ』2巻まで読書メモ
それは何ですか;志村貴子氏によるFEEL YOUNGにて不定期連載中の漫画です。ネットではpixivコミックにて1話を読むことができます。
読んでみた感想;
個人的な関心事をえがいた作品で、その意味でも非常に興味ぶかかったです。
どんな問題?
『ニュー・シネマ・パラダイス』、〆の贈り物が(スカトロとかスナッフフィルムとか。ナチスなど偏った政権のプロパガンダとか。カルト宗教の宣伝とか)大多数に諸手を挙げて賛成してもらえないものでも感動できるのか問題です。
〔誰かが言っていたのを読んで「たしかに!」となり、以後じぶんのなかで引っ掛かりつづけてる問題。{objectOさんが仰ってた気がしたんですけど、ツイート検索しても見つかりませんでした。(そしてdigったことで、『安寿土牢』さんがはてなグループ終了にともない廃墟となったことを知りました……)}〕
最近の映画だと(でももうこれも2年も前の映画なのか……)『シェイプ・オブ・ウォーター』でも感じた疑問なんですが、
「ぼくが感動しているこのシーンは、単に、感動的なものが感動的であるとか、キレイなものがキレイであるとかいう、当たり前のことを言っているだけなんじゃないか?
はたしてこれがマジに汚いものでもぼくは同じように感動できるだろうか?」
という。
たとえば『シェイプ・オブ・ウォーター』で言えば、そもそも見た目からしてかっこよかったあの半魚人*1が、もし最低ラインとして『第9地区』のエイリアンくらいに不潔で不快で頭が悪かったら、はたしてぼくは同じように感動できたでしょうか?
かつ、ジャケットにも使われた、水中で抱擁しあうラブシーン。
あの夢想的ですてきなラブシーンで、もし半魚人が生理的嫌悪をよぶ異質な生殖器をヒト*2のヒロインに伸ばすとか、あるいは一般に肺呼吸かつ常温動物である人間*3が、水中にそれなりの時間いることで生じる不都合を書いたりとか、もしくは部屋を水浸しにしたことによる後始末の面倒をきっちり描いたりしたら、はたしてぼくは同じように夢見心地になれたでしょうか?
……できる、できるのだ。
その問題に真っ向からぶつかってみせたのが18禁漫画クジラックス著『ろりともだち』で、ロリペドレイプを通じてキモオタ強姦者ふたりがブロマンスを育んでいくさまが話題となりました。
監督をつとめたジョアン・セーザル・モンテイロ氏みずからが主人公のジョアン・ド・デウス(同名の詩人から採られてるらしいのですが、門外漢からすると「監督のファーストネーム+神」! というイメージがつよい。)を演じる映画シリーズで、第一作のジョアンがどんな人物かといえば、清掃員をしている年配の母に小遣いをせびって生計を立て(立て……?)、オフの日は、アパートの共同浴室に美女が入るのを待ち、覗きをし、美女が去れば代わりに入室し、残り湯をすすり、口にからんだ陰毛をだいじにだいじにビンへ入れて保管する限界独身中年男性です。
第2作では出世して、アイスクリーム屋の店長をしています。仕事の合間にアルバムを取り出し、お客や店員の陰毛をその人別に集めてまとめたコレクションを眺めてうっとりしている限界独身老年男性となっています。
第3作では無一文で立小便をしていましたが、神の使いだか天使だかというひとに大金をもらったことで、国王よりもえらい存在になって{ということでいいのか? オペラ劇場の客席からジョアンが見下していた、小人たちによる転落劇が現実(映画ない現実で行われた本当のオペラ)なのか比喩なのか、寝ぼけながら観たぼくにはよくわかってない。}やりたい放題。美女とズッコンバッコン大騒ぎです。
とんでもないクズ男の所業をえがいた映画シリーズです。
しかし作劇はおごそかで、古典絵画のように構図はうつくしく、その気品に圧倒されてぼくは途中寝落ちしてしまったりしたほどです。観たのがもう10年近くまえなので、寝てない作品についてもストーリーをもう大分忘れてしまっています。
……ですが、目がさめるような光景が次々と出てきて、とくに第3作の幕引きはいまだに忘れられないインパクトです。
{第2作『神の喜劇』のOPクレジットと本編との絡みもすごい!
この映画のOPクレジットは、渦巻く金色の銀河が半時計回りにうずまくというもので。
この回転は……つづく本編第1ショットの店の正面で回る換気扇や、主人公の右往左往で極端に振れる体重計の針など……劇中のさまざまな回転物と結びつきそうなのですが、いちばんつよく関係するのはおそらく、本編の終盤のとある場面。
ジョアンは意中の美女と仲良くなって、自室のお風呂へ入れさせることに成功したあと、日をあらためた昼間、浴槽の湯を特製のポンプで吸い吐き出して特性タンクへ保管する(※第一作同様、ジョアンは残り湯を愛飲しているので。)過程で濾して陰毛を回収します。
逆光で陰るジョアンの左手に持たれた虫眼鏡の向こうにある、右手でつままれた注視の対象物は――そんな特殊な方法でまとめられたことで渦を巻いた栗色の陰毛は――、陽光に照らし出され金色に輝き、さらに変態親父らしい念入りな手つきでもって――時計回りに十数度かたむけられながら――観察されたことで、あたかも銀河のように見えてくるんです。……書けば書くほど「そんな映画あるの?」と思われそうですが、本当にあるんですよこんな映画が}
第3作『神の結婚』終盤、すべてを失い牢屋に入ったジョアンのもとに、序盤からちょこっと出てきた女性が唐突に面会へきて、ジョバンが唐突に「陰毛をくれませんか?」とたずねる。女性はとまどいながらも柵越しに陰毛をわたす。映画館の大スクリーンでも映せているのかいないのかわからないその代物を(すくなくとも、ぼくの目にはその存在が確認できませんでした)、ジョアンがそうっと大事そうに受け取るあのシーン。
(カメラは前段でジョアンに乞われておっぱいをぽろんとさせたさいと同様に、柵を挟んだバストアップショットから構図を変えることはなく、大きな身じろぎもしません。そのため観客には、はたして女性が本当に下に身に着けていたものをどうにかして陰毛を摘んだのか、サッパリわかりません)
あのジョアンの投げかけとその手つきは、この下なく下品であると同時にこの上なく厳かで、「神とか信仰とかというものを、あるかどうかもわからないし在ったとしても映せるかどうかもわからないものを、どうすればフィルムへ焼き付けうるのか?」そのひとつの回答だとぼくは考えてます。
『ビューティフル・エブリデイ』に話をもどしましょう。今作は、第1巻第1話で光一が満員電車にかこつけて意中の異性へ身体をおしつける(勃起中。もしかしたら避けようとがんばっているのかもしれないが、しかし逆にそれが何度も押し付けてるみたいで余計キモい)という、とんでもなくヒドいし気持ち悪い所業をしでかします。
それどころか2話では、同級生の女の子のハンカチを奪って自宅で公開オナニーしていた過去が明かされ、そして1話後の現在時制では1話の失敗をうけ離婚別居した母へ相談へ行くマザコンぶりが描かれ、その後にはカップルのデート先を小耳に挟んでついていくストーカー……と、ダメなところをこれでもかと積み重ねていきました。
1巻ではそんな具合でしたが、新刊をひらいてみるとどうでしょう、
「まだダメなところあったのか! まるで疑惑の総合商社!」
と2巻でさらなるダメなところが開示されていきました。『僕の心のヤバイやつ』『スナックバス江』など陰キャをメインキャラにした作品では、陰キャ読者がわが身を振り返ったりなんだりして、あるいは陰キャから一歩踏み出したみたいな劇的な行動に感動したりするわけです。
市川*4や森田*5が襟にスニーカー+靴紐みたいな編み編みのほどこされたシャツを着る姿に「あるある」と思ったり、「そういうとこだぞ森田」と自戒を込めた苛立ちが沸いたり、
「いやワイはこうはできひんかった……人間ができてるな市川……」
とがんばりに感動したりするわけです。
『ビューティフル~』の光一は、顔があまりに良すぎるためにスクールカースト上位者*6らしい高校生であるという隔たりをのりこえて、陰気で性欲の強いワイらの共感を誘うやらかしをします。前述したようなやらかしぶりなので、「顔がええ以外はワイらみたいやな~わかるで光一クン、がっはっは!」というしきいをかる~くまたいで、
「おれたちでさえそこまで落ちぶれちゃいないよ光一……」
と思わせるダントツ最下層の住人です。
ことほどさようにダメなところばかり見ているんですが、なぜだか好感度が上がっていく、不思議なキャラ・筆致になっています。
志村先生すごい……。
どんどん人間関係がかわっていくのが志村作品なので、くっついたと思ったら次の巻には離れたりなんだりしていく可能性も大きそうですけど、光一くんが元気に過ごしてくれたらいいな~なんて思います。
*1:{もちろんここについては色々あります。くだんの映画で映し出されたものは(はたして全部なのか部分だけなのか、虚実の度合いは不明ながらも)劇中人物の視点・語りを通したものであることが明示されており、半魚人はその人の視点でのみ美化されていただけで、実態はちがうかもしれない……というエクスキューズはもちろんある。}
*2:(もちろんここについては色々ありますが、ヒトということにして話をさせていただきます)
*3:(もちろんここについては色々ありますが、ヒトということにして話をさせていただきます)
*4:(市川=『僕ヤバ』の主人公である中学生陰キャ。顔がいい。)
*5:(森田=『バス江』に登場するアラサー辺りの陰キャ。歯がない。)
*6:電車で一緒の便になったアイドルオタクがうっとりするくらいに顔がよい