日記です。10000 16000字くらい。
※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※
1001(火)
■ネット散歩■
vtuber竜胆尊さん(以下、尊さま)の3Dお披露目配信をリアタイ視聴しました。
竜胆尊さんはにじさんじ所属のvtuberさんです。数千年の時を生きる鬼の女王という設定で、実際の配信を見てみてもそのロールをくずさずたおやかな喋りと、本人の持前もあるんでしょうか、器の大きなやわらかい応対が魅力的なかたですね。
ぼくが尊さまを初めて知ったのは、同じにじさんじvtuberの月ノ美兎さんの雑談配信からでした。なんでも、尊さまから委員長への誕生日プレゼントとしてバッタチョコが贈られたんだとか。(とまとめるとアレですが、委員長は小学生時代に通学路の雑草を食べていた過去があり、vtuberとなった現在はクリオネを食べたりしていたあとでのこと)
委員長はその後も配信外で尊さまと交流を持っているそうで(ストリップバーへ一緒に見に行ったり)、委員長を経由した尊さま像が強めです。
鈴鹿詩子おねえさんとのダブル司会による【おとなのじかん】格付けしあう女たち【課外授業編】も、バチバチに煽り合うことが予想される企画をふんわりやわらかくまとめてくれていて、とても良かったですね。
3Dモデルでの配信は、キャラにあったちょっとゆったりめの動きで、実在感が増しましたね。
「わらわ、かわいすぎるんじゃが!!?」とコメントを打ちまくった。(※「わらわ」は尊さまの一人称)
背景の3Dセットがしっかりモデリングされていたもので、「はぇ~」となりました。にじさんじスタジオだいぶ拡充してきたな……。
しっとりとした歌配信で〆られ、まさかのEDロール付きで余韻に浸っていると、ガヤとして参加した他配信者のクレジットでわらけてしまいました。名前だけで笑わせてくるのはずるい。やったぜ。
この辺のいたずらが過ぎる感じが、尊さまの魅力なんでしょうね。
ヒト要素のつよいウミウシの小学生vtuber宇志海いちごちゃんの3Dお披露目配信でも、いちごちゃんがあまりに動き回るので「まじで小学生じゃん!」となりましたが、3D配信は見えてなかった部分が見えることによる質感がすごいですね。
vtuber鈴木勝さん(以下、勝くん)のASMR配信をリアタイ視聴しました。
最高のASMRで、勝くんの良さが最高に出た配信だとも思います。
勝くんはにじさんじ所属のvtuberさんで邪気眼な男子中学二年生、同期の卯月コウさんや出雲霞さんと3人で"おなえどし組"として一緒にコラボしていたりするかたです。
設定が形骸化しがちなにじさんじのvtuberさんのなかでも勝くんはロールプレイ強め、かつ配信も凝ってる勢のひとりですね。
洗髪(頭洗い)のていでバイノーラルマイクをわしゃわしゃする配信だったのですが、コレヨカッタッスネ……。
単純にゾワゾワ度が高くって最高だったというのもあるんですけど(。最近vtuberさんのコラボのなかで、ASMR指南配信みたいなものがいくつか見てきて、それによって「ASMR初心者のかたと、玄人とで、こんなにも違うのか!」と驚いていたので、「ふつうに上手い」ASMRへこれまで以上に感動しているところもあるんですけど)、ASMRの手つきがキャラに合ってたのがすごいところです。
マイクをいじる手つきがけっこう力の入った・強めの手の動かしかたで、これがなんともまさしく男子中学生っぽい。「こういうところでもキャラクター性って出せるのか!」と目からウロコでした。
意図してのものか否かはわかりません。でも「勝くんならやる」と納得の手つきなのでした。ヨカッタデスネ……。
vtuber夕陽リリさん(以下、リリちゃん)の『Dead by Daylight』実況プレイ配信をリアタイ視聴しました。
リリちゃんはにじさんじ所属のvtuberさんで、未来人という設定です。活動してしばらくは海外から配信していたようで、それゆえの苦労なども界隈では話題になった印象。同期で剣持刀也さんと未邦訳ゲームの同時通訳実況プレイ動画を配信されたりと、英語つよつよ勢の強みを見せてくれたりもしているすごいライバーさんです。
ゲーム内のポイントであるBPが2倍もらえる3日限りのキャンペーン期間ということで集中的にプレイされていた『DbD』配信ですが、今回はキャンペーン期間最終日。
日をまたいでまでの配信となり、リリちゃんはBP2倍キャンペーン終了を惜しみつつも「これからもプレイしたい」と話されてもいてあったかい気持ちになっていたところで、コメント欄から「BP2倍アップ期間は終わったけど、今度は消費税2%アップ期間って別のキャンペーン始まったから」という話に。
という(キャンペーン期間にひっかけた)未来人の切り返しがあざやかでしたね。
1001(火)
vtuberさんの配信をだらだらずっと見てました。
■ネット散歩■
【雪山人狼】精神衰弱雪山 悪魔視点【にじさんじ/でびでび・でびる】をリアタイ視聴しました。
配信に飛んだときにはああなっていてクッソ笑ってしまいました。あわれだねえ。
でびでび・でびるさんの安定感たるや! ……と思いつつも、これまでの配信を振り返ってみると、その辺のリカバーもただ個人の才能だけが左右するものではなくて、経験や技術によって育まれていく部分もあるのかなと思いました。
多分でびでび・でびるさんの発案だろう『でびっち凸待ち配信』は――自分が女ニコ生主であるていでおこなわれた、にじさんじメンバーや他社グループのvtuberさんが多数参加したコラボ企画ーー、構想も座組も面白いししっかりしていた(ので、切り抜きもめっちゃ面白かった)けど、本編丸まる観ると結構音量バランスの調整とかで手間取った部分があって(いくらかは"配信に不慣れな新人生主"というロールプレイの部分があったのかもしれないけど、その範疇にない手間取り具合だった)、リアルタイムでもつらいし、何度も観返したりするには正直酷な部分がありました。
それに比べるとこちらのリカバーはあざやかですね。
配信が事故ったときのリカバーをまとめたモノとか面白そうだなと思いました。vtuber珍プレー好プレー集みたいな感じで。
■見たTV番組■
『踊る! さんま御殿』をひっさびさに観ました。
アイキャッチで新田真剣佑さんの美しい姿が拝見できて、「そういえばこの人がドラマ外でしゃべってるようすってまったく知らんな……」となったため。
おばかタレントとして知られるかたのほか、青森ご当地タレント?の王林(りんごの品種を芸名にしているそう)さん、m-floのLISAさんなどがいらして、ことばづかいや音が面白かった。
とくにLISAさんの喋りはリズミカルで和英混交でかっこよすぎてびっくりしてしまった。ずっと聞いていたい。
前者ふたりのタレントさんは、主語述語を意図的に抜かしたり耳慣れない言葉で言い表すことによって独特のトークをするひとで、たぶんそこの妙がウリのかた(がた)なんだろうと思います。
ただ、文意が取れることであっても十把一絡げに、いちいち「なんや?」と眉間にしわを寄せてトークを止めて、ほかのゲストと一緒に解読タイムに入るのは、どうかと思った。
{その「解読」も、僕にはどうにも違って思えてならず、それも反感をつよめました。
「『君の名は。』の(おそらく最初期の)予告だけを見て、"男女入れ替わりモノ"だと思って観てみたら、それは作品の最初のツカミでしかなくて、(伏字→)時間軸いじくりや謎理屈のタイムトラベル要素(←伏字オワリ)などもあって混乱した」……という話だと思ったんだけど、隣の芸人さんから「どっちの体にどっちの人格が入っているのか観ていてよくわからなくなった」という風に「解読」されていて、ぼくが思ったのとまったくちがう。実際その「解読」について王林さんの反応もかんばしくなかった}
1002(水)
■読み物■
『科学捜査ケースファイル:難事件はいかにして解決されたか』読書メモ
kindleあったので読み始めました。
初期の科学捜査の例のひとつに、病理学と、いまで言う文書鑑定を組み合わせたものがある。一七九四年、エドワード・カルショウという男性が拳銃で頭部を撃たれて殺害された。当時の拳銃は、銃口から弾をこめる前装式で、丸めた紙の塊を押しこんで、弾丸と火薬を銃の奥に詰めなければならなかった。
外科医がエドワードの死体を調べると、頭部の傷にその紙の塊が見つかった。医師がそれを開いてみると、ある流行歌の楽譜の切れ端だった。被告人のジョン・トムズの所持品を調べたところ、ポケットにその曲の楽譜があり、破れたページの隅がその拳銃の詰め物とぴったり一致した。
化学同人刊、ヴァル・マクダーミド著『科学捜査ケースファイル:難事件はいかにして解決されたか』Kindle換算位置No.5844中 51~「まえがき」より
「初期からこんな活劇的で面白い事例が!」と思うと同時に、現代人からするとそのように思えるだけで、実は当時の人(警察的立場の人)からしたら当然の手つきだったりするのかな? という疑問もうかびました。
銃の装填・詰め紙などはその時代においては一般的なプロセス・細部で、逆に指紋とか遺伝子とかは無い時代なわけで、何かを辿ろうとしたひとがそこに目をつけるのは当然のプロセスだったりするのかもしれない。
(犯人がアシがつかないよう隠蔽・細工をすることに思い当たらない程度には、当時の人にとっても珍奇なプロセスでもあったのだろう……という推測は立てられる)
弾丸から犯人を~という探偵仕事は、21世紀の(でももうすでに10年以上前発表なんですね。時代の流れはやすぎる……)アメコミヒーロー映画『脚注に伏せておくと*1』でも行われていましたが、こうした先行事例を知ってもなお、別個の味・独自の面白さがあったなあと思います。(。一応脚注に伏せておくと、*2)。
源流は同じでも、それぞれの時代やコミュニティ・人間関係・個人の性格で要請される細部の違いによって、独自の色がいくらでもつけられて、物事にかかわる人物(やフィクションであれば、それを楽しむ鑑賞者)の想像を超えられ得る。これ一つの肝っぽいですね。
1003(木)
宿直日。
高校からの友人S氏からLINE電話がきました(お茶の間ラグビー観戦の誘い)。が、先日の日記に書いた通りスマホ版アプリの使用はすでにできません。LINEアプリへの怒りが再燃し、あわれS氏は不満のはけ口となってしまった。LINEめ……なんてことを……。
■書き物■
うまくニュアンスを表現できないので、(笑)とかwとかを頼ってしまう……。笑がふるいのはわかっているんですが、wてどうなんでしょう? いっそ「←」とか「核爆」とかまで使ったら、ネタ感が出てリアルな加齢臭は軽減されたりしないでしょうか?
■読み物■
『ダンゲロス1969』漫画版1巻読書メモ
これ日本版『ウォッチメン』なの!?
異能力者バトル物らしい、なんかエログロ方向に特化しているらしい……というのは聞いてましたが、オルタナティブヒストリー色のある作品だとは知りませんでした。
ちらっと出てくる劇中背景として、戦前の日本は異能上位主義的国家で、WW2は山本五十穴はじめ凄い異能力者がブイブイいわしていたけれど、敗戦・GHQ統治によって異能sageが始まった(=戦前の教科書に記されていた魔人ageの文章が黒塗りで潰されたり)……という流れが語られています。
で、1960年代後半。それを不満に思った異能力者の学生たちはさまざまな主義主張を掲げて徒党を組み運動をしていて、安田講堂をーーという内容。
無知なので、史実とのからみがいかほどのものなのか、ちょっとぼくにはわかりませんが※、学生も公安も生臭さが全開で面白いですね。
{※現実の革マルに対して革マジ(革命的魔人主義同盟)というのがいるんだな~というのがぼんやりピンときたくらいで、団体でさえモデルがようわからんくらいの無知です。
個々人の性格とか逸話とかが異能も関係あるんでしょうか? 『ダンゲロス1969』には清水一物という、名前だけなら革命的共産主義者同盟全国委員会(=いわゆる中核派。⇒そしてここから革マルが独立した)のえらいひと(清水丈夫)みたいなキャラが出てきますが、そのひとは彼らと対立する公安の一警部のお名前なのでした。現革マジと距離を置いている革マジの最初の書記長は、アトランティス鈴木というキャラが担っています。
だれか差分事典とか書いてくれてないかしらん}
続刊の読書メモは後日。
『呪術廻戦』最新話まで読書メモ
モダンだなあと思いました。
1巻から(というか、ジャンプ本誌で連載まえのパイロット的立ち位置の短期連載『呪術高専』からのボスである)の悪役である夏油(やその同級生である現・呪術高専教師)の過去編・高専生時代のエピソードが連載中で、今回でついに夏油が悪役へ転向しました。
この転向エピソードについて、作者が冨樫先生への敬愛を表明していることから、またキャラの立ち位置の似通いから、『幽遊白書』の悪役・仙水とならべる声がちらほら聞こえています。
夏油は、主人公らが現在所属する団体・呪術高専にかつて在籍し世のため人のために仕事をしていたけれど、たもとをわかち悪役となった存在。たいする『幽遊白書』の仙水は、主人公が現在つとめる霊界探偵をかつて任され世のため人のために仕事をしていたけれど、たもとをわかち悪役となった存在。
敵が主人公の鏡像や影、主人公がそうなるかもしれない一つの将来像であることは、古今東西さまざまな作品でみられる王道展開ですが、大枠だけ見れば、似ているといえば似ている。
そしてネットの感想をあさってみると、仙水が転向した"黒の章"に並ぶようなインパクトあるトラウマ展開が夏油になかったことへ、不満をもらす呟きも見かけなくもない。
たしかにあれを期待したらちょっと違う。でもそれは『呪術』芥見先生と『幽白』冨樫先生の技量のちがいとかではなくて、夏油と仙水というキャラの方向性の違いからくるものだと思いました。
ぼくはこの狂いかたもとても良いなあと思いました。
円城塔氏の『ポスドクからポストポスドクへ』が思い浮かぶような、人が静かに狂っていく現代の闇という感じです。
1004(金)
宿直明け日。
■読み物■
博に向けて積んでた恐竜本を消化せねばとなっています。
アンソニー・J. マーティン著『恐竜探偵 足跡を追う 糞、嘔吐物、巣穴、卵の化石から』冒頭読書メモ
冒頭からして面白い。
古生物が化石じゃなかった頃をマーティン氏が想像力を働かせて再現した場面からはじまるんですが、もちろんまったくの空想じゃなくて――この辺は、なにもアカデミアでなくたって、まじめなライターさんやフィクション作家さんであればそうだと思いますが、今作がうれしいのは――、各描写がどういった研究(論文)を反映したものなのか、典拠をわりあい細かくつけてくれているところです。
ティラノサウルスとトリケラトプスの格闘。肉食恐竜から群れをなして逃げ走る小型竜。あるいは、竜の糞をフンコロガシが転がす『モンスター・ハンター ワールド』の生態系……恐竜やドラゴンなどの登場するフィクションで見てきたかれらの姿が、じつはリサーチにもとづいていたり、現実から根拠を見いだせたりするものだったんだなアと感動しました。
1005(土)
先日友人S氏から誘われた、T氏宅でラグビー観戦しながらご飯を食べる最高の余暇は、下記諸事情によってドタキャンしてしまいました。そういうこともある。
■建物■
ボイラーの配管がまた亀裂で水漏れ。7時ごろ事態に気づき、12時まであれこれし、業者さんが17時30分にきて、19時になるまえまで作業をしてもらった。
メモとして。1230か1300辺りで9.5cmくらい。1730でも9.7くらい。
■ネット徘徊■書き物■
さきのさきまで読みつづけたくなる文章と、そうでない文章
というのはあるよなあとなりました。
▼ネガティブな感情をあおって読ませる
で、ブラウザバックさせない牽引力として、ネガティブな感情――怒りや反発心(相手の落ち度をなにがなんでも見つけてやろうという執着)、下世話な話見たさの野次馬根性――というのは、強い要因となりうるよなあ……と、『アストラ』Amaカスレビューやら『ブンゲイファイトクラブ』場外戦やら昨今のゴタゴタを全部野次馬したぼくはしみじみ思います。品性が下劣なのでゴタゴタは大体おっかけてしまう……。
{正の野次馬というのもあって、正直ぼくが序盤で脱落した『彼方のアストラ』やら『ケムリクサ』について連載追っかけているひとが異様な盛り上がりを見せたことで、中断した後も後追いしてみて、それらを終盤だけとはいえリアタイ読書・鑑賞できたのは自分にとってよかったなあと思います。
(
野尻さん、ああいう乱暴な語り口で欠点だけ責めまくるレビューを擁護しておきながら、自分だけアストラ誉めて被弾回避しないでくださいよ。あと「SFなら」という主語で揉まれるのを当然扱いしないでください。私やあなたは揉まれてよくても、もうそういう人ばっかりじゃない。 https://t.co/VMy7BHKo4e
— 小川一水 (@ogawaissui) 2019年9月19日
ああいう態度のレビューを肯定しておいて、観客が居続けてくれるだろうと考えるのは、甘すぎると思います。
— 小川一水 (@ogawaissui) 2019年9月19日
小川一水氏の『アストラ』摂取経緯は、個人的にはそのどちらともちょっと違って見えます。自分の所属するコミュニティが厄介をしたことに対するカウンター・尻ぬぐいみたいな感じに見える。罪悪感・責任感に訴えかける類いの牽引力というのもあるんでしょうね。……国際的福祉募金に途上国の少年少女の悲しい顔を載せるみたいな。借金の連帯保証人みたいな? 先行投資を回収したいがゆえに引き際を誤るゴールドラッシュの金堀人になると全然ちがう話になっちゃうかな?)}
▼負の牽引力を技芸として昇華した例
こうした負の感情による関心惹起力を認めたうえで、創作のなかに自覚的に・そしてスマートに取り込んだ技芸が、伊坂幸太郎著『アヒルと鴨とコインロッカー』のエピグラフなのでしょう。作家の佐藤哲也氏は自身のブログで、その魅力をこう取り上げています。
まず目を惹くのが扉の次のページで待ち構えている一行である。太い文字で「この映画の製作において、動物に危害は加えられていません」という意味の英文があり、下に小さく和訳が添えられている。アメリカ映画のエンディング・クレジットでよく見かける但し書きで、これが現われると見ているこちらはどの場面のことだかわからなくても、なんとなくほっとすることになる。かわいい動物たちが一度も危険な目にあわなかったことがそれでわかるからである。
ここではその但し書きがわざわざ物語の開始に先立って引用されることにより、本編中において動物が危険な目にあわされることが逆説的に明かされることになる。blog『くまのあな』、佐藤哲也氏による伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』評より
▼正の牽引力を技芸として昇華した例
正の野次馬的感情・ポジティブな好奇心を自覚的に刺激して、本文を読ませる技芸としたのが、これまた昨今話題となったblog『元週刊少年ジャンプ編集者が漫画家から学んだことを書いていく』さんの、『第1回 『こち亀』のスゴさは「一致」の技術にあった!1秒で漫画が読みやすくなる方法』なのでしょう。
ネットの膨大な情報量にちょっと埋もれてしまって正確な引用ができませんが、この記事のすごさ(『こち亀』のスゴさではなく)をあるかたが注目していて、これについても素朴に「なるほど~」と思いました。
文章を書いたりブログを作ったりするとやりがちなのが、まず自己紹介から入ることです(……当ブログもそのようなところから始めています)。
上の記事では自己紹介を後回しにして、まず視覚的情報という目を惹く要素(/だけど、毎週さらっと読み流してしまうコミックストリップの一ページ)を貼ったうえで、そこへ、
「このページがあるテクニックが見事に駆使されています。 なにがどうスゴいか…わかりますか?」
と魅力的な謎を提示する(そしてもちろん本文で謎を解き明かしていく)構造をとっています。
つまらないもののつまらなさを公言する難しさについて
誠実さが生んだ難問だなんて思います。
なにって『ブンゲイファイトクラブ』場外戦のことです。
『ブンゲイファイトクラブ』という、非メジャーの文学コミュニティ主催の小説コンテスト。それにまつわる羊谷知嘉さんの批評について(「冒頭から読めた部分までしか読みません、時間は有限なので。」とクールなもの。これだけだと蓮實重彦氏みたいですが、「上映n分で退場する」みたく切り捨てて終わりではないです)、主催者が「激怒していることをお伝えします」と反発したり、『ブンゲイファイトクラブ』公認ジャッジをつとめるプロの作家がレスバトルをしたりして、にぎやかな事態になっていました。
ぼくとしては「どっちの気持ちもわかるなあ」という感じで、でもどちらかというと羊谷さん(『ブンゲイファイトクラブ』参加作を批評したかた)にたいして同情しています。
同時に、ぼくはネットの感想に(作り手でもなければ関係者でもまったくないのに)勝手に腹を立ててレスバトルしたことのあるイタい人間なので、主催者側のかたにシンパシーを感じもしますし。
そうした個人的な感情を超えたところで、企画を運営している主催者のかたが否定的意見にたいしてディフェンスしてくれるのはありがたいことなのではとも思います。
もちろんそうしたディフェンスは外野からすれば「内輪だ」「閉鎖的だ」という印象を抱かせもしますが、でも応募されたものを全掲載するのではなく取捨選択し発表した主催者側が「そっすよねーダメですよねー」と同調されたら、それはそれで無責任でグロテスクなふるまいではないでしょうか。
{ただ、まぁ、それはそれとして。
ありがたいだろうけど、ありがた迷惑な部分ない? ……とも。
はたして主催者のひとは、あの批評に対して「激怒してます」と伝えるほど強く反発する必要はあったのか疑問ですし。ディフェンスの方向性についても、ぼくにはよくわかりませんでした……。(「羊谷さんの批評は粗がある」というのなら、別口から審査員の樋口さんが当初なさったとおり、その粗を指摘して具体的に反論すればよくない? あるいは羊谷さんに批判された実作者のひとりである北野勇作さんが自作について、1行単位でその狙いの一部を詳しく書き・反論したように。)}
で、話題の批評です。
これを読んでちょっと考えてしまいました。
羊谷さんの批評が、批評元の作品について妥当であるか否かについては、ここでは触れません。触れられません。ぼくにそれを判じられるだけのすごい批評眼はありません。
そこはさておき、羊谷さんの記事の、一番最初にのせられた作品評のなかで触れられている問題意識って「なるほど確かに!」とうなづくことなんですよね。
小説が好きで好きでしょうがない、質は問わないから空気のように吸っていたいという読者であればこの先も読め進められるだろうが、僕はそうではないし、今は娯楽コンテンツの量にも種類にも困ることは決してない時代だ。
GOODLIFE、羊谷知嘉著『ブンゲイファイトクラブ1回戦全作品批評・ABグループ編』、"「読書と人生の微分法」大滝瓶太"評より
まじその通りっすよね。
でもこれって、批評さきの小説に限ったことなんでしょうか?
この批評自体もその俎上に載せられる問題ではないんでしょうか?
というのがぼくにとって難問なのでした。それ考え始めると泥沼なんですけど、シビアな視点に立てば当然そこへ行きつきますよね……。「乱入者はいないってだれが決めた?」と批評を切り出した羊谷さんは、そういった問題意識を十中八九持っているかたでしょう。
(いや「乱入」と聞いて、羊谷さんがしたような"作品を評価する一人として立つ"ことをイメージするのではなく、"同じレギュレーションに則った小説を投入する"ことを思い浮かべるぼくがおかしいのかもしれませんけど……。
でもたとえば『バキ』やら『喧嘩稼業』やらの最強の闘士を決める格闘技大会に「乱入する」と言ったキャラが、格闘家たちと戦うんじゃなくて、観客席からKOか否かを判定し始めたらビックリしませんか? ぼくはします)
そんな羊谷さんの記事でさえも、そこについてうまい解決が見いだせないところに、「ぼくでどうにかなるものなのか?」とどんよりしてしまうのでした。
すくなくとも僕は、作品冒頭というすべての鑑賞者が観たり聴いたりする部分を「説明」というもっとも退屈なもので埋める作家を芸術的には評価しない。
GOODLIFE、羊谷知嘉著『ブンゲイファイトクラブ1回戦全作品批評・ABグループ編』、"「読書と人生の微分法」大滝瓶太"評より
記事執筆者の評価軸についての「説明」というもっとも退屈なもので、記事冒頭というすべての読者が読む部分を埋めるこの記事を、"僕"について何も知らなければ興味もないぼくが、どうしてこの先も読み進めると思えるのか? (この記事が冒頭で読み捨てられないだけの「面白いコンテンツ」たりえているのか?)
……とちょっと悩んでしまいました。
{もちろん、羊谷さんとレスポンスを交わした樋口さんが触れたとおり、あるいはこの日記の前項で取り上げたとおり、「説明自体が面白い読み物」というものは存在していて。
羊谷さんの批評も、ぼくの不見識ゆえにその面白さがわからなかっただけで、そうした「面白い読み物」としての工夫があれやこれやとなされているのかもしれません。
それでも正直な気持ちを言わせてもらえば、ぼくがこの批評を最後まで読み進められたのは野次馬根性のなせるわざによるもので、そしてそれはあくまでぼくの業であって、この文自体の技ではないという認識です。
羊谷さんはあの批評を燃やすべくして書いたのではなく――『彼方のアストラ』Amazonカスタマーレビュアー氏と同じく――素朴に自身の正直に思ったことを述べて、意図せず燃えたように思えました。
ぼくが負の好奇心をふくらませたのは、羊谷さんの評の外部にある情報によるものであって――つまりブンゲイファイトクラブ主催側の猛反発によるものであって――、たとえば前々項で取り上げた『アヒルと鴨とコインロッカー』エピグラフみたく文中の技芸によって刺激されたわけではない……というのが本音です。
(追記された火力の高い文章もその挿入位置も、羊谷さんが素朴に自身の価値観を述べているだけだということへの証左に思えます。
「陰キャか!というツッコミが舌先まででかかっているが、」と範囲を広げた強い口撃を羊谷さんは書き足されているんですけど、「でかかっているが」とネットでこう読める形で公言しつつも濁していて、これまた意図的に燃やそうとしているわけではない文章だってことが察せられます。
そして、これが追記されたのは、おそらく一番アクセス数が多いだろう『ブンゲイファイトクラブ1回戦全作品批評・ABグループ編』ではなく『ブンゲイファイトクラブ1回戦全作品批評・Cグループ編』で、しかも、最低の「×」をつけた作品についての評を950字ほど費やした後という、ぼくにはよくわからない位置に書かれているのでした。
少なくとも、負の好奇心を煽る呼び水にする目的ではなさそうです。もしそうなら、「陰キャか!」と言い切ったうえで冒頭に置いて、「どんな痛烈な批判が本文でなされているのか!?」と読者の関心を誘ったことでしょう)}
「いやいや単に『ブンゲイファイトクラブ』で紹介された順に批評したことによる偶然の結果だ」
と言えばそれまでですけど。それどころかぼくはもっとポジティブに「読む順に私情をはさまない、評者が誠実な結果だ」と言いたい。
そこがなおさら難しいなあと思うところです。
つまらないと感じ思った作品について、自分の感性理性に正直に向き合った結果として、そのつまらなさをつまびらかにした文章を書く。
……それは読み手として誠実な行ないだと思います。
ただそれは、書き手としてどうなのか? ちょっと疑問に思ってしまいました。
そうした誠実の結果としてこの評の読み手はまず、羊谷さんが△だと思ってる作品がいかに△かについての文章に、3作ぶん2000字ちょい付き合わされるわけですから。索引もついてないから順に読んでいくしかなくて、「△や×は飛ばして、☆だけ読もう」ということはできません。
誰かが読み通せるかどうかなんて気にしない、自分が読めればそれで満足する類のものなら、もちろんそれでよいでしょう。備忘録とか。
でもそうじゃない場合はどうすればよいのかなあ。
批評と言うにはおこがましいけど、ネットで感想投稿系ブログを始めた初心者として、そして、
「文章を他者に読んでもらうことも意識してなければ、読んでもらったことでどう反応してほしいかなども特に展望なんてなく、ただ書きたいものを書くだけだけど。それはそれとして、来訪者数が増えたりすると素朴にうれしいし、来てくれたからにはお客さんが何かおみやげを持ち帰ってほしい」
と願う俗人物として、ぼくにとって切実な問題です。
地道に根を詰めた文章であれば、それはそれで面白い読み物となるでしょう。
ゼーバルト著『空襲と文学』に載せられたアンデルシュ批判は、羊谷さんの比でないくらいの酷評で、人格攻撃さえありますが――なにせ、作品を褒められるとそれまで嫌っていた人物に熱烈な感謝を告げたりする俗物ぶりをプライベートな手紙などをひもとき暴いてみたりします――、その創作に関する批判は、微に入り細に入り非常に読みごたえがあります。
アンデルシュは反ナチでドイツ戦後文学の代表格とみられているがはたしてそれは正しいだろうか?
そう疑問を呈したうえで、「アンデルシュはWW2の悲惨から目をそらし自己正当化している」と指弾するゼーバルトの批評は、その非難の苛烈さよりも、批評の細かさ詳らかさが印象につよく残ります。アンデルシュの描く(反ナチ的な)劇中主人公についてそのバックグラウンドから出るはずない語彙を取り上げ、ドイツ国防軍として戦地に赴いたりしたアンデルシュ自身のバックグラウンドと照らし合わせて自己同一化を指摘してみたり……と、単語レベルにまでおよぶ詳細な検討をゼーバルトは行なっています。
もっとアクセスがしやすいところだと、駄作として知られる実写映画『デビルマン』がなぜああなったのか、脚本を取り寄せ完成版と比較し監督の過去作から趣味を見出し意図を読み解く研究は、聞いていて素朴に楽しいミステリーです。
ただ、毎度毎度そう量的にも質的にも十分な検討材料が残っているとは限りません。受け手のぼくが気づけたり探せたりする保証もない。
あるいは、針小棒大に誇張する極端な文章はどうでしょうか。
罵倒芸なんてのが一般化してるくらいですから、「面白い読み物」のひとつのかたちかもしれません。でも、誠実かどうかはあやしそう。
もしくは、この日記の前々項や前項で取り上げた『アヒルと鴨とコインロッカー』エピグラフの技芸や、『第1回 『こち亀』のスゴさは「一致」の技術にあった!1秒で漫画が読みやすくなる方法』書き出しの技芸は?
そもそも引っ張りたくなる部分を見出せなかった作品に対しては、有効ではなさそうだ。
それでなければ、山形浩生さんが恩田陸著『図書室の海』解説でとったような方法は?
耳に聞こえよい言葉を連ねてはいるけど別に褒めているわけではない……というようなお話は、よほどのテクニシャンでないと成しえない至難のわざでしょう。
いっそのこと、『美味しんぼ』山岡はん方式。
「明日もう一度ここに来てください。本物の○○というものをお見せしますよ」と、自分がつまらないと思った作品を論じるかわりに要素だけ同じにして内容については自分が面白いと思うかたちに改変した本歌取りをしてしまうという方向性もあるかもしれません。
これはこれでとんでもないセンスが必要ですね……。
(実例としては、発行部数200万部以上の『もしドラ』をうみだした作家さんの小説『宇宙戦艦アキハバラ』(web archive保管版)を換骨奪胎した安寿土牢のObject-Oさん著『跳訳・宇宙空母ニホンバシ』なんてものがありましたね)
なんかうまいことやれる方法がないもんすかね……。
1006(日)
宿直日。
■読み物■
漫画『ダンゲロス1969』4巻まで読書メモ
異様なまでのガチ異能戦で、とても良いですね……。
モノを操る能力(ex.幼女のおしっこを自在に操る能力)にしても、モノを召喚する能力(ex.男性のおちんこを自在に召喚する能力)にしても、敵の呼吸器官を塞ぐよう操作したり、敵の体内に召喚させたり……なんて、とにかく文字どおり息の根を止める/急所を突く殺傷能力の高い使い方をしている。
めっちゃ面白いんですが、オルタナティブヒストリー物として楽しむ方向ではないのかもしれませんね。いやわからん……。
テレビの特撮番組を見てひらめいた異能とか、都市伝説になった異能とか、書き込みは土着的で楽しいものが多く。そうした時代の色がなくても(?)、個人が属するコミュニティやエスニックを大なり小なり反映したものになっています。
{変化の異能者が忍者の里で生まれたとか、小学生の女の子の尿を自由に操れる異能力者が海に沈んだアトランティス人だとか。
(突拍子もない設定ですし、「アトランティスだとか忍者だとかのブームはいつなんだろう? 60年代後半にあったんだろうか?」と現実のカルチャーとの絡みもよく分かってないんですが、彼らや彼らの異能はとってももっともらしくて実在感があります。
卑近な細部によってリアリティをかもす術がうまい。寝小便で地図を書いたりする人がいるのは水を操るアトランティス人の血を引いている証拠だ~とか。忍者であるがゆえどこにでもいつのまにか現れる陰毛にあこがれを抱くだとか)}
いっぽうの異能のネーミングとかは1969年前後どころか21世紀のカルチャーから採られているような。ミリオンダラーベイビーとか、エターナルフォースブリザードとか。オナホールを召喚する異能の名前が"天上TENGA"とか(小説版で明かされているらしい。典雅設立は05年)。
1891年帝政ロシアで集落一帯が氷漬けにされる事件が起こった――こうした軍事的にすごい異能力は、それが核兵器と並んで劇中世界の歴史を変えたそう。軍事的にすごい異能力について、史上はじめて確認されたポチョムキンのすごい異能力の呼び名をとってEFBと呼んで、国を挙げて求めるようになったそう。EFBというのはエターナルフォースブリザードの略なのかなと思うけど、そうするとロシアなのに英語? というお話になる。
英語がつよい世界みたいなので、その影響かもしれません。よくわからない。
{名前だけでなく小物などにも時代的な疑問があって、たとえばオナホール人形が、空気人形ではなくてプルプルのゼリー状人形だったり。
地面を砂に変えてしまう異能に目覚めた経緯を説明する過去回想パートでは、50年代後半~60年代前半だろう時代の小学校の"マラソン"大会に出る小学生が、ちょうちんブルマでも密着型ブルマでもなく短かいズボンを履いていたり(ヤングマガジンコミックス『ダンゲロス1969』3巻kindle換算位置No.27)するのは、どうしてなんだろう? とは思います。
ただ、漫画では触れられていないですが、いわゆる南極1号――ベンテンさんのメディア登場時期とか、小学校の体育における指導要綱の持久走にかんする変化とかをかんがみるに、時代とからめた異能のようにも思えるんですよね。原作ではその辺の周辺説明があったりするんだろうか? あるとよりぼくの好みの作品だなあと思うし、次項でふれたシリーズ第一作『戦闘破壊学園ダンゲロス』の現代学園異能の「現代学園異能」性に淫する手つきを思うと、そうした視野や書き込みを有していても全く不思議ではないとも思います。
(たとえば、マラソン大会終盤でおなかを壊してしまったあのエピソードが、指導要綱の見直しによって持久走大会が開催されたり、衣服についてもこれまで劇中学校では配されてこなかった密着型ブルマを時代の変化によって配備されるようになったため、その環境変化が腹の冷えや妙な緊張をもたらして……といった展開であったなら、ぼくはより一層納得したり、好きになったりしたと思います)
漫画では小説よりもページ当りの情報量に限りがありますから、そういった書き込みがあったとしてもテンポを悪くしてしまったことでしょう。難しいところです}
興味惹かれたのは1巻ヒキ~2巻前半で描かれる清水一物vsアトランティス鈴木。
このバトル自体が面白いんですけど、他作品と並べてみたときになおさら面白かった。清水一物は明らかなヒールとして描かれていて、その所業のひとつが鈴木の彼女(とのちに分かる。アクション当初は鈴木に無理やり拉致された人物か、協力者は不明)を異能で息絶え絶えにしたところで、鈴木が「降参するので異能を解いてくれ!」と清水一物への異能攻撃を解いて懇願されても、彼女の異能を解かないところ。
敵対者を倒せるかもしれないけれど、その行動を取ると仲間を失うかもしれない……そんなダブルバインドに相手を置いて、後者を優先させる・そして敵はそんな人情を失策と取る。
そうしたガチの戦況を最近読んだぞとなりました。天下の『週刊少年ジャンプ』で読んだぞと。(いや『ダンゲロス1969』のほうが発表順としては早そうですけど……)
(別作品のネタバレ注意です)
『タイトルは脚注に伏せます*3』の(人物名も脚注に伏せます)*4の残虐バトルがそれで、そのひとについてジャンプ読者も「善玉と悪玉が逆じゃん」と恐れつつカッコイイ……と好感度マシマシになっていました。先述したとおり『ダンゲロス1969』のほうがシチュエーションとしては先でしょうけど、善玉がとった選択としているところがキレてますね……。
かたや(読者であるぼくも暗い気分になる)キナくさい時代の横暴で、 かたや読者が「一生ついてきます!」となる強くてかっこいい頼れる姿。大枠は似た部分があるのにこうも違うなんて……とたいへん面白かったです。
漫画『戦闘破壊学園ダンゲロス』読書メモ
『ダンゲロス1969』4巻まで読んでたまらずシリーズ初期作を追いました。面白~。
ときは2000年代後半、人工島につくられた学園は異能の集まる特区で、先代番長軍団を倒して学内の平和をとりもどしたのはいいけれど極端な学生自治をもとめる生徒会と⇔好き勝手生きたい番長軍団とが対立して、大規模バトルが起きつつあるというところへ、異能を嫌う一般人の教師が「学園内の異能の全員抹殺」を求めて呼んだ"転校生"が第三勢力として両陣営に大ダメージをあたえたり、異能を公言していない一般入学の生徒たちがそこへ巻き込まれたりするお話です。
参戦者にことごとく死亡の×印が記されていくところ、そして締めくくりの総括的モノローグを見るに、「『甲賀忍法帖』オマージュなのかな? その現代学園異能版で、異能発現の設定構築も含めてしっかり独自性が出ているナ」と思いましたが、菊池秀行著『魔人学園』やそれを原作とする『魔界学園』の影響もあれこれあるそうな。
白状すると菊池先生は未履修で、『魔人学園』については存在さえ知りませんでした(無知でスミマセン……)。概要読むに、アリスソフトの『大番長』とかも菊池先生のこういった作品の流れから生まれ出たものだったのか? と今更知りました。こちらも読んでみたいですね……。
『甲賀忍法帖』との比較で言うと、あちらは片一方の陣営が全滅するまでのサドンデスでしたが、『戦闘破壊学園』のほうは、それぞれの思惑が違うので、どういう落としどころになるのか読めないところがあります。
また対立軸が2陣営だけではないことで、『甲賀忍法帖』の「えっこの重役・ビッグネームがこんな序盤であっさり退場しちゃうの!?」みたいな驚きが、『戦闘破壊学園』においては陣営・戦線レベルにまで拡大していて、混戦ぶりが楽しい。
『ダンゲロス1969』の異能が土地やコミュニティといった環境を汲んだものだったのに対し、『戦闘破壊学園』の異能は、個人の関心事の具現化という感じでした。最序盤のエピソードからして、輪姦された女生徒が男だけを殺す異能に目覚めるというものですし。お次は、修学旅行中に立ち寄った土産屋で刀剣を手に取ったことで異能に目覚めるというもので、シリアルキリングな妄念にかられたサイコなひとが、その願望を叶えられるような異能に目覚めます。
劇中設定について読者にどんな風に捉えさせるかが整理されているなあと思います。
伏せられたカードがめくられていく楽しみという点や(「伏線回収がうまい」と言われる作品もフタを開けてみると張り方開き方さまざまありますが、今作はめくられてみて「あっ今まで見てたカードは表でなく裏面だったの!?」と気づくタイプの伏線があれこれある作品でした)、異能に対してどう対処するかの機転が前段で別の形で触れられたものであったりするフェアプレイ精神という点においては、『ダンゲロス1969』よりも面白いんですが、これは「発刊巻数が2倍(『戦闘破壊学園』全8巻、『1969』現在4巻)かつ完結済みの作品とくらべてしまえばそりゃそっちに軍配が上がるだろう」というだけかもしれません。
終盤は「劇中異能の仕組み・起源とは?」みたいな話に比重がかたむきますが、この辺については、原作小説のほうが「オッ!!」となりそうですね。
もともとは、「それぞれのプレイヤーが異能などを考えたオリジナルキャラでバトルロイヤルする、自作TRPGのリプレイ小説です」とはじめに作り手が宣言し、語り口もその体裁に則った文章だったそうで、異能にかんする設定も、それを加味するとなおさら説得力がでそう。
1007(月)
宿直明け日。
■見たTV番組■
『鶴瓶の家族に乾杯』ゲストの松岡茉優さんの遠慮と踏込みが最高でした。
「鶴瓶さんじゃなくてゴメンナサイ」と一言目に謝罪からはいる赤の他人への配慮と、そこからの「さっき冷蔵庫で見たんですけど……」と赤の他人の冷蔵庫をチェックする抜け目なさと地元銘酒をゲットする踏み込み。すっげぇ。
更新履歴
10/07 アップ(10000字)
10/08 1005の日記「さきのさきまで読みつづけたくなる文章と、そうでない文章」について書き足し(もとは『アヒルと鴨とコインロッカー』エピグラフについてだけ具体的に書いていたのを、『元週刊少年ジャンプ編集者が漫画家から学んだことを書いていく』を新たに書き、ちょっと触れるにとどめていた羊谷さん評からの悩みを詳述する)、章分けを細かくする(14000字)
10/10 1005の日記「さきのさきまで読みつづけたくなる文章と、そうでない文章」について書き足す。北野さんの自作解説へのリンクを張ったりとか。(16000字)