日記です。
きょうは、ちょっと前に感想を書いた『伊藤計劃トリビュート』、その現取り扱い元であるパブーの閉店日です。気になったかたは買っておくとよいと思います。コンビニで売ってるVプリカがつかえるサイトです。(1003追記 別運営会社に移管され、サービス自体は継続されているみたいです! デマ言ってすみませんでした)
作者や編者の方々は元気に活動されているので、また何か別サイトで再販などなされるかもしれませんが……伴名練氏による『美亜羽へ贈る拳銃』以外の作品も面白いので、手元に置いておいて損ない作品集だと思いますね。
8500字くらい。
※言及したトピックについてネタバレした文章がつづきます。ご注意ください※
0924(火)
月曜日中寝ていたせいで生活サイクルがずれてしまった。
きゅうきょ宿直日に変更となりました。
■書き物■
『バビロンまでは何光年?』の感想を書きました。「5000字以下になるんじゃない?」と思ったけれど、結局倍以上になってしまった。作品読み解き的な部分は全く増えてなくて、周辺情報で少し、レトリックでやたらと伸びてしまった。贅肉が多い。
もっと寝かせて・読み込んでからでもよかったかなあという気持ちがあります。
道満作品をウェブで読めるリンクをまとめた部分は有用なんではないかと思うけど、レトリックはうざいだけだよなあ。
作品Aがそれを参照しているだろう糸口もなければ、作者がそれに触れた形跡さえない情報Bを、作品Aについての話題で引っ張ってくると、途端に自分本位でうざったい文章になってしまう。再考が必要でしょうか。
■今日見た夢■
はじめて見るタイプの夢でした。
ぼくは山の中のアスファルトの舗装道路をのぼったさきにある学校(そこまで大きくない。どころどころカラフルで、保育園とか幼稚園とかみたいな感じ)の生徒で、学校の校門だけなんか壁になってて(周囲は金網フェンスか何かだった気がする)、その門になぜか和な人形(黒髪人形とかではない)などがあってこわい。
なんかほかに張り紙だか注意書きだかがあって、その文面が面白かった気がするんだけど、なんだったかなあ。
登下校のメンバーが、周りの雰囲気に流されてそのまま疎遠になったーーぼくにとって後ろめたいーー中学の同級生だったのも、妙だった。
夢のなかでは学校の成り立ちみたいなものが明かされたような気もするんだけど、二度寝の忘却にさらわれてしまった。
0925(水)
宿直明け日。
■書き物について■ネット学級会■
というのも、ネット書評界では名の知れたブロガー氏の、とある創作物についての書評をはじめて読んで、思うところがあったからです。
書評自体は興味深かったですし、書評内の作品への評価自体は、ぼく個人としてはさほど頷けない(し、すでに同様の意見を聞いてる)ものだったんですが〔……というのもそこで挙げられた評価や難色自体{セカイ系だとか、視点が戦時平時関係なくフラットすぎるとか、食材もレシピも丸わかりだとか}は、この書評がアップされた3.5年まえの発行当初から言われていたもので、この書評後にでた作家の特集本においても、著名なべつの作家から同じような批判がなされています。 ですが、これについて作者から反論やべつの識者から肯定的な評価もなされており{書いた当人としてはいわば「逆セカイ系」と自認していて、語り手がそのような価値観なのはそう持たざるを得ない劇中世界の仕組みがあるから。(そうやって読むと、「丸わかりだ」と言われている料理も、そのための細かな改変がある) これについては、"固有の顔を得る"物語観ーー個人が成長し立身出世する素朴な人間観がゆらいだWW2以後・日常もーー先進国でさえーー簡単に戦地に転がりうるボスニア紛争以後、人が従来の人としての顔が得られない"顔のない・剥奪された"世界観の作品ーーたとえば小説『アメリカン・サイコ』が描いたようなーーこそが現代的ではないか?” といった識者の批評も補助線となるでしょう}、その反論のほうが説得力があるように僕には思えるので。〕、まあそこは個人の価値観もあるからさておきまして。
現実のなにがしかを大なり小なり取り入れた創作物について、「元ネタはこれまんまやね、元ネタはあれまんまやね」「食材もレシピも丸わかりでした」といった旨の評価をするのは、モヤモヤを招きかねないなと思いました。
評者個人の感想的な部分は別に何とでも仰ってくださいという感じなんですよ、その人が感じ考えたことなんですから。その感想を読んだ第三者が、頷くのも横に振るのも自由なように。ぼくだってひとから的外れだと言われようが、自分が感じ考えたことについては(それでも自分のなかで妥当性があると思えるのであれば)自分の好きなようにするでしょう。
ただ、その創作物が出版されたあとに(邦訳が)出版された研究書が挙げられているのは、なんか違うんではないか、とも思いました。(もともとは新人賞投稿作で、その締切で言えば原書の刊行日にさえ先行しています) まあ食材自体は一冊の書籍としてまとめられていなかっただけで、『WIRED』などで小さな記事として報じられてはいたことではありました。でも文中で挙げられた本が、その創作物よりも後に(和訳が)出てきた本であることには変わりありません。
また――これはちょっと個人の判断部分にまで踏み込んだ、学級会と題したトピックらしい微妙な話題ですけど――、「(創作物劇中の)ウンタラというところなんて、カンタラ(という本で書かれた知見)だね」とふれた本は、そのかたの書評年月日が読書日近辺だとすると、創作者が新人賞へ投稿した日(≒新人賞の締切日)の2ヶ月くらい後みたいなんですよね。さらに言えば、新人賞の締切日は参照作品が大手新聞書評欄で講評されたのよりも早い。
たられば話になりますが、もしこの評者さんが新人賞の下読選考者だったら、このような評価ははたして出ただろうか? とちょっと思ってしまいました。
何にしても、研究書(の和訳)発行から1年後に創作物へそれが反映されているというのは、とんでもなく早いフィードバックだと思うんですけど、そうであってもまあ、読む側からしたら(それでも)遅く感じられることは、確かにある。
その辺を加味して評価することに対して「そこまで作者の肩を持たなくてもよいでしょう」という気持ちもある。間違っても、他人に「そこまで加味すべき」と押し付けてはいけない観点だとも思います。したい人がすればよい。
他方で、書き方の面もあるのかなとも思いました。
くだんのブロガー氏も、じつは創作物(作者)のアンテナの良さを褒めたつもりでお書きになったのかもしれません。「食材もレシピも丸わかりでした」の前には、「美味しくいただいたのですが、」という言葉がつけられてもいます。でも、ぼくからするとそうと読めなかった。
といった二つの観点から自分の書いたものを振り返ると、『イン・マイ・カントリー』の一部文章も褒めたつもりなのに逆に取られかねないと思えました。
ので、出版・発表年月の時系列を記した文を追加したりなんだりと、ほんのちょっと書き直した次第です。ぼくにとって『イン・マイ・カントリー』は、そこまで肩を持ちたい作品なのでした。
0926(木)
■体調■
ここ1週間くらいから、念じる日々が始まりました。
というのも右耳からシャリシャリと音がし始めました。
シャリシャリ音は、外部の音と連動し(たりしなかったり。おおむね連動し)て、わずかに聞こえる程度の……説明がむずかしいですが、金物っぽいノイズというか、スピーカーの端子を抜き差しした音というか、耳抜き音の小さいものというか……そんな感じの音で、ここ数年からたまに聞こえます。
会話が聞こえなくなるほどの問題ではないけれど、映画を見たりするにはわずらわしい。ASMR聞くにはめちゃめちゃノイズではかどらない……という、微妙なラインをついてくる問題。
去年だかおととしだかに、耳鼻科に行ってもいて、
(理由1)仕事するにもうざったくなるくらいの大きさ・頻度になったのと、
(理由2)それとは別件で自分の耳が大丈夫か日ごろからあやしんでいたので(電車でふつうの音量でしゃべると友人から「うるさい」と言われ、逆に電車内で友人がふつうにしゃべる話し声が、ぼくにはなんも聞き取れない小ささ。電話で人名を何度聞いても聞き間違えたりする)、
⇒(結果)耳鼻科に行って検査もしてもらったんですけど、
「検査した範囲では聴力などは正常値で、とくに問題がつきとめられませんでした」
「そういうタイプの音が聞こえるというのも、症例として聞きません」
「原因を突き止めたいなら、脳や、あるいは心療内科にかかってみるのも……?」
とのこと。お医者さんが言う通り、たしかにメンタルとか体調の問題っぽくて、じっさい気のせいだ気のせいだと念じたり、睡眠時間が増えたりすると聞こえなくなったりもする。
ので、念じる日々ですね……。
0927(金)
あれこれ公的文書を提出しました。仕事した感ある。
■ネット散歩■
vtuber伏見ガクさんの『水の雑談』の最初のほうをリアタイ視聴する。
ガクくんはニコニコ町会議のときのリスナー覚えっぷりがすごかったですけど、いつもの配信も、まじめな相談コメントから本当にしょうもないコメントまで幅広く・分け隔てなくいろいろと拾ってくれて「本当にええあんちゃんよなあ……」と思いながら観てました。
(別に無理してる感じじゃなくて、結果としてそうなってる感がまた良い。クラスに一人はいたじゃないですかなんかこういうめっちゃくちゃ感じの良いひと)
切り抜き動画ができてましたね。丁寧な編集だ。
虹推し兄貴や伏見DAMをすこった姉貴の皆さまがた、いっしょに咎を背負っていきましょうね……。
「オレぜったい虹にしちゃうんだねぇ!!」で笑ってしまうんですが、まあ振り返ってみると、これも「"全部虹にしない?" ちょっ(笑)、おま(笑)、さっきから"虹にしない?"てコメントやめてくんないかぁ?(笑)」とあくまでリスナーのコメントへのリアクションなんですよね。
それまでの虹色も、
「"虹色にしょ"? 虹色いいねぇ!虹色にしようぜ!虹色が最強だもんなぁ!」
と、じつはどれもリスナー発信なんですよね。その後のガクくんの食い気味にもほどがある異様な全肯定ムーブの影にかくれてしまってますが(笑)
ガクくんの配信が見ていて気持ちいいしメチャクチャ居心地がよいのって、誰か(リスナーやらコラボ相手やら)のアクションをこの自分のことのように喜んでノってくれるところにある気がしますね。
0928(土)
いつ博に行けるんだろうか。寝て起きたらナカナカ良い時間でした。
寝床でぐだぐだしていたところを電話で起こされ、母から「いい加減荷物を片付けなさい」ということで、現住処に本やビデオやゲームをまた運搬しました。
なんだかんだ段ボール10箱分くらいでしょうか。
小一時間うごいて、疲れてしまって何もする気がなくなってしまった。
昼はレトルトのミートソーススパゲッティを食べ、夜は肉と野菜の醤油スパを食べました。おいしかった。
■ネット散歩■
vtuber瀬戸美夜子さんの『ゲリラ Papers,Please しながらお話したいな♡』を途中からリアタイ視聴しました。
気になってたゲームですが、実際のプレイがどんな感じなのかまで知りませんでした。
まじでこうしっかりと検問お仕事というか、お役所仕事感満載のゲームなんですね。ルーチンワーク的で疲れそうなところまで含めた面白デザインだ。
せとみやさんは『被虐のノエル』実況プレイ配信とか近年のアクションゲー的装いの音ゲー『Muse Dash』実況プレイ配信とか、ちょっとまえは『俺の屍を越えてゆけ』実況プレイ配信やらもさなさってましたが、ぼくが存在自体を知らなかったり、気になってはいたけど実態を知らなかったりするゲームをやってくれる印象がある。{この辺、出雲霞さんあたりにも感じます。(『セブンスドラゴン2020』実況プレイ配信とか)}
ほかのライバーさんの配信もそりゃあ面白いですし興味深いですよ。たとえば、あきらかバイタリティ・好奇心の塊である月ノ美兎委員長の、ダッチワイフレンタル体験談やストリップバー訪問体験談だとか、暗闇バイクエクササイズ体験談やアイソレーションタンク体験談、珍味実食談。あるいは剣持刀也&夕陽リリの英語つよつよ勢による非邦訳ゲーの同時通訳実況プレイ……並べてみるとなおさらすごいな。
これらはぼくにとっては、知らない世界を垣間見せてくれるすっごく興味深い配信ではあるし、(委員長や剣持さんなんかは顕著ですけど)そのうえきちんとオチがつけられていてエピソードトークとしてシッカリ面白かったりする。ただ、ぼくにとってそもそも手を出そうと思わない離れた領域の話でもあります。
その点、せとみやさん(やイカスミさんなど、あれやこれやの配信)が扱うのは、僕にとって波長が合っていて、かつ、手を出そうか出すまいか「どうしよっかなー」と、あと1~3歩あたり踏み出せない……そんな領域のトピックで、個人的にはより深く刺さったりする。
こういうところなのか? と思ったりします。
地下アイドルやらに人々がハマる理由って、こういうところなのか?
こういうことを言ったことで、エゴサでひっかかって、「発掘せねば!」みたいに変なプレッシャーかけてしまったらイヤですね……。大前提として、配信者のかたが自発的に楽しんでくれてる(と観ていて思える)ことが大事です。
で、各々方がそれぞれの趣味にかなった楽しみをしていて、それが無数にいるから、知らない分野をのぞくこともできる……そういう状況が良いなあと思います。
とは言っても、せとみやさんの友人話とか聞くと、やっぱり異次元の世界のひとだ……となったりするわけですが。
そこも含めて、せとみやさんやらイカスミちゃんやらの配信を見る行為は、だから僕にとって精神的に健康でないと難しい、たいへんなことだったりするのかなあと思う。
うずくような痛みをかかえながらの視聴なんです。
なんというか、異性のクラスメイトについて、同じ教室で一緒に過ごしていて話し声が聞こえたりするために、自分と趣味が合う部分がありそうだというのもわかるし、もしかしたら一緒にオタトークができたりするかもしれない~みたいな浅はかな皮算用だって働くんだけれど、でも話しかけもできなかったし、話しかけられても挙動不審に打ち切ってしまった……陰気なオタクの中高時代のカサブタをカリカリと爪立てるような、そんな気持ちで配信にのぞんでしまう。
……なんて思っているとスクリーンセーバーが起動して黒背景に自分が写ったりして、「おれはギリ平成生まれでだいぶ彼ら彼女らよりも歳がいってるんだよなあ……」というところに立ち帰って、一層暗い気持ちになったりするんですよね。
きっついすわ。
■今日みた夢■
べつに誰もが目を見開く斬新ななにかではないけれど、ちょっと計算とか資料あさりとかめんどくさそうなことを書いたんですが、二度寝したら忘れてしまいました。
0929(日)
宿直日。
早めに寝ましたが、けっきょく遅起きになりました。昨日、恐竜博の期日を調べた結果、まだ慌てるような時間じゃないと思い始めてしまったからです。
昼はレトルトのミートソーススパゲッティを食べました。
■読み物■
電ファミニコゲーマー編集部『ゲームの企画書』既刊3巻を買いました。とりあえず(3)の「第2章 『パワプロ』『みんゴル』スポーツゲームの本質(谷渕弘×豊原浩司×小林康秀×村守将志)」を読む。
電ファミニコゲーマー編集部『ゲームの企画書(3)』第2章読書メモ
企画書というタイトルなんですけど、会談の採録集のようでした。ただ、第2章を読んだ感じだと、その名にふさわしい内容。
2章は『実況パワフルプロ野球』シリーズと『みんなのゴルフ』シリーズを手掛けたスタッフさんがたの座談会です。ゲームの仕様の構築やそこまでの試行錯誤についてに話題が集中していて、この充実ぶりはすごい。
どちらもやったことのあるゲームの話題なのでぼくにとって「ああ、あのシステムな~!」と情景が思い浮かべやすく、ゲームファンとして楽しかったですし。プレイヤーの快感をどのようにして刺激するか(あるいは刺激できなかったか)・その技芸について存分に語ってくれているので、一生に一度は漫画とか小説とか書いて世に出したいワナビとしても活かせそうな感じの話題でした。ほかの記事もこのクオリティなのかな? 良い買い物をしました。
『パワプロ』で実況を担当しているのは、TV中継の実況ではなく、ラジオ中継の実況者さんなのだそう。文法も語彙も、声だけで情景を可能なかぎり伝えなければならないラジオ実況さんの仕事なので、言語化される情報量が多い(≒『ユーザー・イリュージョン』で最初に定義・説明されるような意味における情報量も多い)。声の抑揚も豊か。
実況される事柄は、ラジオのリスナーとちがって『パワプロ』プレイヤーにはスタジアム現地のようすは視覚情報として当然あたえられているので、「見えてるからわかるよそりゃ」という部分もあるんですが、重複もいとわず実況さんによって言語化される。
その実況こそがプレイヤーが長くゲームをするための牽引要素となりうるようなのでした。
ラジオ由来の口数おおい実況によって、たとえばホームランは「大きい、大きい……入ったー! ホームラン!」とより一層盛り上げられ、プレイヤーの気持ちもより高まる。これはまあそうさなあという感じですね。
実況ボイスが効果を発揮するのは、グレーゾーンの領域のようなのでした。なるほどなとなりました。
たとえば野球において、一言にファールボールと括られるものもさまざまで、大外れの打ち損じといった明らかな"はずれ"もあれば、あとちょっとでホームランという"惜しい"球もあるわけですよね。けれど、野球というおおもとのスポーツ的には、どれも得点につながらない/ストライクカウントが一つ増えるだけの失敗となってしまう。その機微については、従来のゲームであればプレイヤーが(くやしがるにせよ、あとちょっとだったなと前向きに"よかった探し”するにせよ)自主的に・自分のなかで評価するしかない。(個人的に"よかった探し"は、結局モチベーションが続かないのでやりたくないですね……)
しかしそれが『パワプロ』だと、「大きい、大きい……逸れた~ファウルボール」といった具合に、実況アナという第三者がプレイヤーの操作を評価してくれる。おおもとのゲームの白黒にとらわれない、グレーソーンの評価をプレイヤーに示す存在として機能している(させている)ようなのです。
これはプレイするモチベーション維持につながりますね。また、数ある失敗のなかでもどれが"惜しい"ものでどれがそうでないかが示されることで、プレイヤーを正解行動へと導きやすくするガイドラインにもなりそう。
別媒体で活かすには、またあれこれいろいろな試行錯誤が必要だろうけど、何かしら参考になりそうなお話です。
{たとえば、『パワプロ』のプレイングと実況との関係は、前者は視聴覚情報で後者は言語表現というそれぞれ別のレイヤ上の情報だから、するっと呑み込めるけど。
これを文字媒体の小説でそのまま置き換えようとすると、対戦者視点の動作も、それを受けての実況も、どちらも同じレイヤー上で(文字・文章として)表現されるわけで、カエルの合唱みたいにうざったいだけなのではないか? という気がしなくもない}
じゃあ『みんゴル』のほうはどうか?
『みんゴル』は実況アナウンスはないし{キャディさんはいるしゲームプレイした記憶をたどると「ナイスショット!」とか「バーディチャンス!」とかあれこれ言ってくれた印象があるけれど、今会談では触れられていませんでした。対人戦の「はやく~」連打はうざかったな(笑)}、ゴルフという競技自体も静かなスポーツでビデオゲームにおける先行作(リアルな投身のゴルフシミュ色つよいもの)でもあまりSEらしいSEがなかったそう。
そこで『みんゴル』は、漫画的な投身のキャラが出てくるゲームらしく、各展開に応じてBGMを変えるといったドラマティックな演出を試みてみたのだそう。
そう言われて『みんゴル』を振り返ってみると、たしかに、
「パットするさいのBGMは、静かながらもごくりと唾をのむ緊張感たっぷりの音楽だったなあ」
なんてプレステで遊んだ記憶がよみがえります。
思い返してみると、「BGMの使い方ひとつとってもいろいろ技芸ってあるな!」と目からウロコでした。
自分がプレイしているなかでも『マリオカート』では最終ラップだけBGMが急かしたような曲調に変わるとか、『マリオテニス64』ではもっと細かくセットポイント付近になるとアツいBGMに変わるとか……ゲームBGMにかんするアレコレ工夫が思い浮かびますが、でも普段は気にしていない。じゃあ気にしていないからといってこの演出がなかったら? そうなってしまったら前述のゲームってかなり味気なさそうだ……とも思える。
プレイヤーであるぼくの意識にのぼらず、しかしプレイ意欲へ確実に影響を与えている感情操作の演出があれこれ語られていて、すごく興味深かったです。
{たとえば『パワプロ』のホームランでいえば、真芯で絶妙なタイミングでボールをとらえたとき特有の、カキーンという小気味いい打撃音といった聴覚的演出も特別に用意されているし。球がグウゥーンと伸びていく放物線(「ミートカーソルの真ん中で球を打ったことを、普通に物理演算したら水平方向に飛ぶライナーになるはずだけど、それでは気持ちよくないのでホームラン性の軌道にしている」といった旨が、会談のなかでお話しされている)といった視覚的表現も凝らされていることなど。(あとこれは、べつに会談のなかで具体例として挙げられたわけではないですが、ほかにもたとえば中村ノリさんがバットを放るといったホームラン確定モーションなどもあるでしょう)}
正しさ(現実に即しているかとか・ゲームルール的に道理があるか)ともっともらしさ(プレイヤーが納得できるか)のお話も面白かった。
上でもちょっと触れましたが、上下左右に動くミートカーソルという枠内に、敵投手が投げてくる球を合わせて、打ち頃まで球が近づいたタイミングでバットを振るというシステムを採った『パワプロ』では*1、バットの芯の下で打つと球が天へ向かうフライ性の打球になり、上で打つと球が地面に向かい転がるようなゴロ性の打球になる……ではバットの真ん中でボールを打ったら?
理屈としては、フライでもゴロでもない、地面と平行に飛ぶのが正しいわけですが。
でもプレイヤーとしては、真芯で捉えられたのならそれは"当たり"になったほうが(=大きく弧を描く、ホームラン性の打球になってくれたほうが)納得がいく。ので、そのように飛ぶようなシステムにしているそうです。
『みんゴル』でも、打球のノビを工夫していると言っていました。物理演算的に正しい軌道よりも、カッ飛ばせたプレイヤーが生理的に気持ち良い軌道となるよう調整する。
で、飛んだボールの画面上の表示位置にも、一工夫ふた工夫あるそう。ナイスショットのボールは、画面のド真ん中に写したりしないそう。
これは心理的にも当然の演出で、そもそもナイスショットは、そうそう出るものではない、想像以上の実力が発揮された結果であるわけです。ということはつまり、カメラマンにとっても「こんなすごいショットをこいつ打てたのか!?」と驚き慌て対応できないような球でなければおかしい。よって、並の球と同じように画面の中央に悠々と写し通すカメラワークではなく、ナイスショットのボールは歴戦のカメラマンでさえ数テンポ遅れて球を追従せざるをえない……そんなカメラワークが採用される、というわけなのです。
(とはいえ、ふつうのボールも画面中央にとらえているわけではないそうで、背景が一面空だけになってしまうと速度や距離感が分かりにくいので、ボールと地上とが収まる位置にカメラを調整したりなどの工夫もされている……そうな)
なるほどなあという感じです。
ほかのゲームだと、ぱっと思いつくことだと、『モンスターファーム』や『ドラクエモンスターズ』の石板再生・合体先やはいごう先が「???」になる演出だとか、バトル漫画のいわゆる解説役があまりにすごい技やたくらみなので見てすぐ説明できない・あるいは解説できない展開だとかになるんでしょうか。
0930(月)
宿直明け日。
*1:このシステム誕生の経緯も面白く、『パワプロ』開発当時は、野茂英雄が剛速球と落差の大きいフォークボールで勇名をはせていたころで、彼の凄味をゲームで再現しようにも、従来のタイミングを合わせてボタンを押すだけのゲーム性では味わえない。では、どうすればああいった味を再現できるか……? というところから工夫されたシステムだったそう。この辺『メジャーリーグの数理科学』序盤でふれられた、野球ボードゲームの発展(最初は単純にヒット~ホームラン~凡打・ゲッツーみたいな円形ルーレットを回すだけーーつまりバッター目線のマスーーだったのが。登板投手と打席に立つバッターとでマスの大きさがかわる複合的な変数になって……)なども絡めて、現実を人間がどのようにモデル化していったかその変遷史としてまとめられたらおもしろそう。