すやすや眠るみたくすらすら書けたら

だらだらなのが悲しい現実。(更新目標;毎月曜)

日記;2019/07/23~07/29

 敗北は言い飽きたので、日記をアップしていくことにします。

 今回は7/23(火)~7/29(月)までの一週間。(7000字くらい)

 

 

0723

 Amazonプライムデー2割引きセールでまとめ買いした『ハイキュー!!kindle版(既刊38巻)を読み始めました。30巻くらいまで紙の本をもっていた&連載を追っていたので、そこから先が未知の領域。某話題作のサントラをBGMにしながら読んでいると、たまに曲調やらが漫画の内容にぴったり合うことがあって、テンションがぶち上がります。

 

 『ハイキュー!!』1話冒頭読書メモ

※『ハイキュー!!』1話ネタバレ※

 冒頭からしてすごいなあとなりました。

 第一話では主人公の日向が中学3年時に初めてのぞんだバレーボール公式戦のもようが描かれます。会場の体育館に踏み入れた彼が顔出し・名前テロップ表示のコマで感動するのは、体育館にこもった「エアサロンパスのにおい……!!」。

 初読時も「好きなひとは好きだし、嫌いなひとは嫌いな匂いだよね。細部の拾いかたがいいなあ」と思いましたが、それはこの凄さがまだまだわかってない感想でしたわ……。

 日向は新入生3人が入ってくるまでたったひとりのバレー同好会員(部になるには人がいない)で、チームメイトの1/3は彼が試合に出るため他部から助っ人として来てもらった友達でしかありません。

 ふだんは彼らで練習なんてほぼしてなくて、日向自身でさえもが練習場所にこまる始末。休み時間の学校の渡り廊下で友達とアンダーレシーブをしあったりする程度で、体育館を使わせてもらえたとしてもトスを上げてくれる人はいません。ダイブしてトスを拾うとか強いスパイクやサーブをレシーブするなんて本格的な局面に出くわしたことがないわけです。

 だからエアサロンパスの出番なんてなく、ましてやそれを必要とするひとが多数存在するなんてありえないことだったでしょう。

 じぶんと同じかそれ以上にバレーが好きで、そして熱心に取り組んでいる人々がたくさんいるーーそんな空間に初めて踏み入れた者の実感として、「エアサロンパスのにおい」はこれ以外ないという素晴らしい描写だと、再読して思いました。

※『ハイキュー!!』1話ネタバレ終わり※

 

0724

 母屋で父母ならびに兄家族らとご飯を食べました。甥っ子(次男)はお泊りで、食卓はすこし静かでした。ぼくはその夜は頭痛をかかえていて、遊ぶにはかったるかったので幸いでした。

 『ハイキュー!!』すこし読みすすめました。

 

0725

 起きたら昨日よりもつよく頭痛が。だいたい起床時は脱水みたいな感じになるんですが、きょうはひどかった。振ってなかったフリ休を取らせてもらって、家で寝て起きて寝る。

 夜の研修のために夕方起きたら元気になったので、帰宅後『ハイキュー!!』既刊分を読み終えました。『ハイキュー!!』は大一番がおわって次の試合にちょっと入ったところで、わりと区切りがよかったかもしれません。

 

 『ハイキュー!!』読書メモ

※『ハイキュー!!』38巻までネタバレ※

 『ハイキュー!!』の良いところは、チーム毎に個性が差別化されているところだと思いました。(いや今作に限ったことではないんだろうとも思いますが)

 守備主体のチームでも、ある高校は高身長と高精度のブロッカーでかためたチームがあったり、別の高校は拾って拾って相手を思い通りに動かして削って削って粘り勝つネコのようなチームがあったり。絶対的エースによる攻撃主体のチームでも、個々がすさまじい才人なのでいいレシーブができいいトスができ唯我独尊をゆくエースがさらによいスパイクが打てるチームもあれば、気分屋のエースをチームメイトが乗せてアゲて勝つチームもあれば、チームメイトが小粒だけどエースが悪球だろうとなんだろうと得点に変えることで引っ張るチームもある。

  主人公の烏野高校は、これまで戦ったチームの技術を取り入れるようなところがありますけど、彼らもあるていど戦略が定まっている。(主人公・日向の機動力と影山の正確無比のトスをいかした速攻で撹乱して、3年エースがどすんと中央から切り込み、2年が鋭角に狙う)

 そもそも「良いところをいただく」気質にしたって、カラス=ゴミ漁りの雑食チームというコンセプトの柱のひとつで、コーチも物語がはじまってきてから引っ張ってきた新人だし、主人公がおこなう練習もまたゴミ漁り的だし(呼ばれてない地方選抜合宿に自分から飛び入りし、合宿中はボール拾いや洗濯など雑用しかできなかったものの、それが功を奏してうまい人のうまさや下手な人の下手さなどを鳥瞰し客観視することで、自分の糧にする)……と、とても個性がある。

※以上『ハイキュー!!』38巻までネタバレ※

0726

 床屋さんで髪を切り、ファミリーレストランでご飯を食べました。

 台風にそなえて庭の鉢や椅子を中に入れたり側溝掃除したりしました。側溝にはたくさんの土がたまっていた。山に近い建物なので、流れた雨水は土を運んでしまうんです。1年ぶりの掃除ということにしたい。半年でこれだけ貯まってしまうとしたらやりきれない。バケツ20杯くらいは土を運んだ気がします

 ファミレスにはスパゲッティやハンバーグなどメインメニューに色をつけただけでピザ食べ放題できるコースがあって、これはすごいと頼みました。複数種から選んで食べられるという宣伝でしたが、自由に取れる台に置かれたピザは多くて2枚程度で、種類によって大きく味がかわるわけではない。みながモチモチとわりあい甘いパンで、チーズも臭みのないもので一部ヨーグルトに近い。

 スパゲッティを具にしてピザを食べるとちょうどよいくらい。

 おなかはふくれるけど、お通しみたいに出されるフォッカッチャみたいな感じだなあなんて思いました。

 深夜、豪雨がきて「これはやばいぞ」と思うも、すぐ音がやんで「そんなやばくないかも」と思った。

0727

 起きたらとても晴れていてびっくりしました。東京へ行こうかどうかちょっと悩んで、めんどくさくなってやめにする。

 これまたAmazonプライムデー2割引きセールだった『あさひなぐ』を既刊30巻まで読む。『とめはねっ! 鈴里高校書道部』の連載を追って『スピリッツ』を購読していたころに少し読んでましたが、改めてまとめて読んで、こんなに面白かったんだとびっくりしました。『金色のガッシュ!!』(完全版)も読み始める。

 

  『あさひなぐ』読書メモ

※『あさひなぐ』ネタバレ※

 『あさひなぐ』は共学高校に入学した少女・旭(あさひ)のなぎなた部生活をえがく漫画。

 なぎなたのバトル描写が充実の面白さでした。バレー部出身の子、剣道部出身のスポーツ万能者、美術部出身の背の低いあさひの3人が門をたたくのですが、それによって高身長の長所短所、低身長の長所短所、剣道となぎなたという面胴小手などを打突したり道着に鎧を着たりするなど傍目に似ている武道のちがいなどが描かれていくこととなります。

 テクニックも闘志も熟れてない初心者ゆえに通用する戦法があったり。低身長でもできることとあこがれの先輩から教えられたこと一本だけそれなりに習得してそれ一本を頼りにして自分から勝負をかけなくなったり。剣道に習熟しているがゆえに、なぎなたにおける判定ウケする打突のしかたになかなかできないなど、それぞれの四苦八苦があります。

 上の学年のバトルとなると、隙のおおい構えをあえて取って勝負に出たり、試合でほとんど使われない構えをとる人と戦って翻弄されたり、試合中に手ぬぐいを巻き直しを願い出て仕切り直ししたりなどの場外戦術を駆使したりと、さまざまな手管が描かれている。

 構えはもちろん試合運びには当人の性格が出ていて、さらには一生の武道なのかその場その時の一本を取られるか取られないかの競技スポーツなのかといったなぎなたとの向き合いかたのちがいが出る。

 恋愛描写は30巻あるうちで1巻分もないのではないだろうか、三角関係になったりなんだり面倒なアレはない。

 視線の交錯がないわけではない。他校のライバルや部内の仲間、師弟・先輩後輩といった人々の視線の交錯が描かれていく。

 

 なかなかテンポがよくて、5人チームの団体戦競技で30巻という物語のなかで、1年の入りたて(引退ちかい3年の雄姿が拝める)夏インハイ、3年がぬけ2年が部長となっての秋~、進級し後輩ができる2年春、次期部長やら引き継ぎなども考えてくる2年夏(イマココ)などが描かれている。

 

 語りの取捨選択はすさまじいものがあって、たとえば、ただの脳筋能天気プレイヤーだと思われたとある脇役の戦法。彼女がそのようなプレイヤーだとぼくが思えてしまったのは、先代の似たような姿かたちのひとがそのような戦法を取っていたからなのですが、でも、じつはそうじゃなくって、彼女がいろいろ熟考した結果そのようにふるまっているんですね。

 そうだとわかる彼女の裏の顔についてのエピソードが出てくるのは、彼女が初登場してから数十と巻をかさねたあと、彼女の高校選手生活が終わるかどうかの瀬戸際になったところの時分であったりします。

 多面的な内面・バックグラウンドを設定しただろうキャラを実際にあれこれ動かすとなると、軽率な作家であれば「実はですね~」と早々に漏らしてしまうでしょうし、ぎゃくに慎重な作家であっても(まさにそのように複雑に設定しているがゆえに)、作劇上はサラっと一面的に平板に見せた方がよいところでもつい含みを持たせたくなってしまうものだと思うんですよね。

 また、終わり所がどこになるか作家の側では制御できない部分がある雑誌連載の人気商売となれば、不発弾は困るという問題もあると思います。

 どこまで連載できるかわからないのに、とにかく仕込み続けて、そして明かすにふさわしいタイミングまでこらえたのか……すげえ……とふるえました。

※『あさひなぐ』ネタバレ終わり※

 

0728

 Amazonプライムデー2割引きセールはまだ続く。『金色のガッシュ!!』完全版(16巻完結まで)、ここからはセール無関係ですが『金のひつじ』完結巻3巻(1巻から読み直し)、『尾かしら付き。』既刊2巻まで読む。それぞれネタバレを含んだ感想がつづきます。ご注意ください。

 

 『尾かしら付き。』読書メモ

 佐原ミズ氏の過去作『鉄楽レトラ』『私と私』などのように、生きづらさを感じるティーンエイジャーが主人公の学園モノとして読めます。主役の少年の身体的特徴はちょっと突飛だけど、それについて起こった過去のもんちゃくが「伝染る」などと陰口たたかれハブられたというもので「いかにも小学生がやりそうなことだ」とうなづき、主役の少女の悩みは外でトレーニングする運動部なんだけど日焼けしづらい体質のためにまじめにやってない・インドア派として見られがちという身近なものだ……と思ったら、大人の近隣家族たちや教師陣もおなじく「伝染らないか」などと話し始めて「これはどうか? いやでもイジメ問題のニュースなんかは被害者側が叱責されるパターンも……」と思って2巻末。いやこれどうなるんだろうか?

 『金のひつじ』読書メモ

 『神様がうそをつく。』が面白かった尾崎かおり氏の最新長編。最初はけっこうきついお話がつづきますけど、そこからはあんまり劇的になりすぎない範疇で、ふんわりと浮いてふんわりと沈んで、ふんわりと終わった。季節の節目の思い出みたいな作品でした。

 

 『金色のガッシュ!!』読書メモ

 3大少年誌をきちんと購読していたころ追っていて、コミックスも途中まで楽しみにしていた。作者の雷句氏の近作『BECTOR BALL』がすごかったので読み返してみようと思った。シリーズのわりと序盤から追えてなかったことがわかった。

※『金色のガッシュ!!』ネタバレ※

 魔界から100人の子供が100冊の本とともに人間界へ召還されて、本を読める人間とタッグを組んで戦うバトルロイヤル。最後の一人が魔界を統べる王となるので、大体の子供たちがそれを目指して頑張る。

 連載をリアルタイムで追っていたころは「人数が減りに減った終盤は、昨日の友は今日の敵という展開が出てくるのだろう」と暗い気持ちになったのだが、じっさい読んでみるとそんなこともなかった。

 主人公ら善玉が悪玉の野望をくじく対決の趣がつよく、"石板編""ファウード編"などなど中盤後半と展開がすすむにつれ、それぞれ徒党を組んで、善玉チームvs悪玉チームと規模を大きくしていく。

 主人公やその仲間たちの思想は(目指す王の理想像は)ある程度統一され、仲間同士で反目したりつぶしあったりはほぼない。

(ファウード編ではすこし、"功利主義的幸せvs利己というか、その恩恵から外れた少数の幸せ"みたいな話と、"功罪ひっくるめた功利主義、というか実現可能性の高い幸せ"vs"誰一人かけることない理想論的な幸せ"みたいな話が出てくる。けれどこれは、前者なんか特にそうだけど、悪玉の策略によって選ばされている二択で、対立自体がまちがいみたいな構造になっていた)

 

 クライマックスはとてもアツい展開で、『うしおととら』終盤を見るようだった。雷句氏の独特のノリは今作だとキャラを一発で印象づけるための味付けにもなっていて、間をおいた再登場だろうと「あっこいつは!」とすぐ察しがつく。ヨポポイリプライズはエモい。

 とにもかくにも、エンジンのかかりかたギアチェンジのすさまじさが印象に残りました。エモい話がぼこぼこと出てくるわけですが毎回涙腺を誘われてしまう。瞬時に最高速になる風圧から身を守ろうと目を湿らせようとする脊髄反射がおきているみたく。このパワーはなんなんだろうと思いながら読み続けました。

 

 魔物はヒト型から巨人、半獣人、獣(馬? やドラゴン)までさまざまあり、パートナーも日本人だけでなくさまざまな国のひとが出てきますが、だからといってどうという書き込みはそうそうないかもしれません。

 『金色のガッシュ!!』が週刊少年サンデー誌に連載されたのは2008年初頭までで、2009年半ばからは大高忍氏による『マギ』という、これまた「王」をめざす物語が始まるわけですね。こちらでは、登場人物とその行動指針にはそれぞれの陣営のお国柄が出ていて民主主義的な正義や共産主義的な正義がぶつかったりするようになる。

 影響関係などについて作り手側の言及を読んだわけではないからアレですが、なんにせよ連載作それぞれを相補するような掲載構成で、「ゼロ年代から購読し続けたサンデー読者は、追っていてこれは面白かったろうなあ」と思いました。

 雑誌掲載作品というのは、その内容はその時々の掲載紙の状況によってある程度変わるわけですよね。(シリアスなドラマが何本、バトル物が何本、ギャグが何本、恋愛が何本……みたいに)

 『金色のガッシュ!!』はすごい作品でしたが、こうしてコミックスで作品単位で読んでしまうと失われる味というのもあるのだろうなあなんて思いました。

※以上『金色のガッシュ!!』ネタバレ終わり※

 

0729

 宿直日。毎度のごとく長文感想は仕上がらない。先日の記事で殊勝なことを言ったのに、さっそくひるがえして、短文感想が主な日記でお茶を濁していくことにする。

 朔ユキ蔵氏『神様の横顔』最終3巻が出ていたので読みました。

 『神様の横顔』読書メモ

 朔ユキ蔵氏『神様の横顔』のネタバレです。ご注意ください※

 とても面白かったです。ただ、1巻発売直後に打ち切りが通知され4巻の尺が病気療養による長期休止のためか3巻に短縮、という憂き目にあったそうで、たしかに今作は速足の印象があり、「せめて4巻構成だったら……」と思う気持ちがないわけではない。

 

 すっごい雑なくくりですが、宝塚の性別逆転版みたいな、女人禁制の演劇学校~演劇団で暮らす生徒たちの物語です。

 劇中の演劇では異性装もなく、したがって宝塚ではかなり重要な、"女役""男役"みたいな役割順守も無いようです。みんながみんな主役という一つの椅子に座るべく頑張り、天才の天才ぶりに自身の影が色濃く出て、鬱屈を抱えたりします。

 フィクションにおいて名俳優名演技をあつかうと、その役者(キャラ)の想像力がどれだけすごいかーー名アドリブどころか名脚本名演出をあつかった作品のようになってくると思います。それなりに作品を味わってきた者として、どんな斬新な演出が創造されるのかと身構えているのに、今作はそれでも「そんな手があったか!」と驚くことしきりの好演ばかりだったなあと思います。

{というか、役者モノに限らず、どんな作品でも扱うものは同じなのかも? バトルにしたって何にしたって、キャラのひらめきによる一発逆転みたいな要素って大なり小なり華ですしね。

 それが役者モノだと、作品の楽しむとはどういうことかメタ的な顧みをしてしまうというか、劇中に提示された目標と受け手がその作品を味わったことによる到達点とが一致してしまうことで、構図が浮き彫りになるのでより強くそう思うのかもしれません。(劇中で「見るものをハッと驚かせ惹きつける演技をしろ」と監督なり何なりから課題が出され、⇒登場人物がすごい解釈でハッと驚かせ見るものを惹きつける演技を披露する。⇒それらのやりとりを見る視聴者もハッと驚かされ惹きつけられる・作品を面白いと思う……という構図)

(バトル物だと、あくまで「敵を倒して勝利する」という目標を達成する手段として⇒敵の意表をつくすごい技が味方から放たれる⇒結果として読者も驚かされることとなる・作品を面白いと思う……と、劇中で提示された目標と受け手がその作品を味わったことによる到達点とが異なってくる)}

 『ジュリアス・シーザー』やら何やら、演じられる劇とのからみも面白い。

 

 3巻で描かれる劇団の行く末については、開戦のにおい漂う時代の劇団、広島からの出身者、亡き人の想いを叶えんとする様々な人々、太陽のようなライバルと月を好む秀才の主人公……と、並べていけばまあ、「そうなってしまうのではないか」と薄々見えていたようなところへ向かうのですが、ぼくは寄り道せずにエレガントに突き進んでくれたととらえました。ただ、最後の舞台の無言のライバルについては、どうなんだろう。そうしたシチュエーション自体は、ライバルがのどをつぶした『ジュリアス・シーザー』での一幕の変奏ということなのでしょう。それはわかる。

 3巻終盤の演劇で、主人公の芝居を見た同級生や教師はこんな会話をする。

 あれ? おかしいな 麦蒔の影が見えるような……………

    朔ユキ蔵『神様の横顔』3巻、p199第1コマ

 役者には目盛りがある

 目盛りが細かいほど すぐれた理想の演技に近づく

 あいつは自分の体の目盛りだけでなく 麦蒔の動き 呼吸 体温 全て記憶して 自分のものにしている

 だから我々は麦蒔の気配を感じることが出来る

    朔ユキ蔵『神様の横顔』3巻、p199第1コマ

 このようなかたちで説明される主人公の演技について、漫画のコマにはじっさいライバルの姿が描かれ、そして「暴かねばならん」とこの教師がかつて言っていた「奥に隠れているお前さん」がようやく現れたかのような主人公の本音がついに発せられたりするので、素朴に感動してしまうのですが……よくよく振り返ると、ライバル麦蒔のイメージが幻視される理屈は、わかるようで、わからない。

 そもそも、読んでいるぼくが思い描くライバルの姿と、この主人公の演技によって現れた想像のライバルのたたずまい――無言でほほえむ姿――とにはギャップがあって、ふたりが等号で結べないのです。ぼくが印象に残っているのは、主人公とライバルとのかかわりのなかでの、はじめての二人の共有体験/共作です。日中の授業で、ライバルが経験のなさゆえ地方出身ゆえに、つたない本読みや訛まりを揶揄されたあとのこと。夜、寮の二人部屋に戻っての台本読み/本読みのやり方指南の光景。

 それは主人公がライバルの立ち振る舞いを記憶し始めたできごとでもありました。

 「持つ者」の声に立ち向かうには

 緻密に組み上げた声を出す ゆらぎも機微も細かくとらえて実現させる

   朔ユキ蔵『神様の横顔』1巻、p130第2~3コマ

 ほんのすこしだけ尺に余裕があれば、そうした部分も取り入れられたのだろうか、なんて考えてしまいました。

(1017追記)

 ……と思ったんですが、『かげきしょうじょ!』(リンク先自ブログ読書メモ)を読み、『天使の横顔』終盤で現れる(/演じられる)麦蒔像についてちょっと考えを改めました。あちらの作品での展開が補助線にできるかもしれません。

 あの舞台で現前させられた麦蒔はみんなが思い描くイデアというか、天才・圧倒的スターとしての麦蒔であって、べつに、主人公だけが見た人間・麦蒔をそっくりそのまま降霊させたいわけではなかった……ということなんでしょうかね。

 ぼく個人は、理想像よりも人間の麦蒔にこそ魅力を感じたので、後者の麦蒔と再会したかったしそれによって解釈をゆがめてしまっただけで……作品としては、べつに、尺不足とかそういうことは全くないのかもしれません。

 天才・麦蒔の姿は、麦蒔にとっても自分自身ではなくて、初めて・そして長期間演じた仕事でもありました。

 初読時だと最後の舞台は、悲劇など人生をも糧にした役者業の業みたいな舞台/個人的願望と個人的才能とが実を結んだある意味幸福な瞬間を描いたものだと思ってましたが……。

 人間・麦蒔と再会したいという、個人的願望を優先させるのではなく。麦蒔という天才役者の仕事を、かれを知らない人へも伝えたい・後世へも残したい……そういう職業的な公共心のはたらいた結果が(/主人公が役者として成長した結果が?)、主人公のあの演技、ということなのかもしれません。

 ※以上『神様の横顔』ネタバレ終わり※